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2013年7月31日 (水)

イタリアフィレンツエ製のライカ

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もう十五年以上前に手にいれたのが、伊太利亜製のライカである。伊太利亜のカメラと言えば、ミラノのガリレオとローマのガンマが有名である。

ところがこれはフィレンツエのカメラなのである。

その名をエレットラという。これはその最初のモデルであって、1947年に登場した。同じ敗戦国の日本がニコン1型をだしたのと同じだが、ニコンは12月だからエレットラの方が戦後の最初のカメラかも知れない。

黒い結晶仕上げでずっしり重い。レンズは50mmだが明るさ(というより暗さか)がf8である。最近の同じ明るさのレンズはスナップショットズイコーがある。その前にはホロゴンがあり、戦前にはテッサー28もある。

日中に撮影するにはこの暗いレンズで充分である。

エレットラで最初にテストした時には何も写っていなかった。シャッターが壊れているのかとおもったがそうではなかった。

ライカのシャッターボタンの位置に巻き戻し切り替えのボタンがある。だから間違えてそれを押してしまう。自然にそこに指が行くのであるが、本物のシャッターボタンはその先の指の届かない所にある。

この間違いに気がつくまで数ヶ月かかった。

七月初めの札幌行で、ホテルの窓から中島公園を撮影した。いい空気感が出ていた。

その週末に偽ライカ愛好会の撮影会で錦糸町に行ったら、夕立に降られた。その束前のショットがこれである。ちゃんと写っている。

★カメラはエレットラ(1947フィレンツエ) 一番上はXZ-10

2013年7月30日 (火)

伊太利亜の巨匠マリオジャコメッリの中判カメラ

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ウイーンに長い間棲んで、それからプラハに長いこと居るので、あたしの場合はその位置額的な視点が歪んでいるからアルプスの南の写真家はほとんど知らない。

さらにまずいことに、七十年代に伊太利亜で会った写真家がフランコフォンタナであったので、さらに印象がネテイブになった。これはあたしの思い込みなのだが、そういう思い込みが案外と真実に肉薄している場合もある。

日本でも有名な上の写真家はあたしの「伊太利亜偏見」を完全に打ち砕いてくれた。

前から使っているカメラはライカではなくミドルサイズであろうと思っていたのだが、たまたま顔本上で出会った巨匠の風王もさることながら、あたしは彼の持っている中判カメラに興味がいった。

ライカをそのままブローアップした知らないカメラは、ホームメードだそうだ。ホームメードのカメラと言えば、ゴーランドフレックスがある。著名肖像写真家が自分で作ったカメラであるが、これは市販もされている。

子細に上のカメラを観察した。ライカタイプというのは、この巨匠がそういう方向の仕事をしているからである。ヘリコイドあたりがなかなかグラマラスなのがいい。

しかもちゃんと小型三脚に載せているのが、手堅い印象を受ける。

くだんの巨匠の真似をしてみようと、大ガラスの部屋を物色したら、似たようなカメラが出てきた。こっちはレンズ交換式であるから、さらに進化している。

フジカは現役時代には「写真屋さんのカメラ」と言われていたが、記念写真だけではない。手持ちでスナップができるんで、開放直後のモスクワをこれで取材した。

地下鉄の駅構内の巨大なレーニンn像を小型三脚で撮影した。そしたらポリスがはってきた。文句を言われるかと思ったら、通行人の交通整理をしてくれた。

2013年7月29日 (月)

レンズはズイコー 1950年代のカメラ雑誌広告に見る

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四谷のアローカメラ我楽多屋で、昨年、入手した50年代のカメラ雑誌がある。段ボール箱いっぱいある。それが昨日のカメラジャングル捜索で「出土」した。
誰かがカメ雑誌の広告を合本したのが面白い。

上はオリンパスの広告で新年のあいさつである。内容はズイコーレンズに関するステートメントだ。
残念ながら合本なので年代は不明だが、1954年頃ではないかと思われる。戦後には優秀なレンズが不足していたので、オリンパスは他社にもズイコーレンズを提供していた。ここらがツアイスと似ている。当時のライツは自社のライカ用レンズに精一杯であったから、そこらへんはゆとりと見ることもできる。

驚いたことに上の文面にあるズイコーレンズを装着したカメラは全部所有しているのでわれながら吃驚した・
マミヤフレックスなどは、まだ自社製のセコールがない時代に、ズイコーレンズが付いていた。セコールとは世田谷の地名から来ている。あたしなどは当時の大根畑と雑木林の世田谷を思い出す。

こういう広告は今見るとなかなか良い。有名女優さんを起用した今の広告は絶大な効果はあるであろうが、カメラ雑誌の二分の一頁の文面には誠実さが滲んでいる。

当時の最高傑作レンズFズイコーは明るさがf2,8でこれは自社のオリンパスフレックスについていると断っているのもいい。このカメラは1950年に53,000円もしたのである。

★カメラはXZ-10

2013年7月28日 (日)

いきなりロシアの秋

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五年ほど前にJTBの仕事でサンクトペテルブルクからモスクワを取材した。仕事はデジカメで撮影したのは当然である。

趣味のカメラとして、レニングラードを持参した。これはソ連製のスプリング巻き上げのレンジファインダーカメラである。

出版の撮影というのはなかなかトリッキーであって、撮影は九月の末の紅葉の綺麗な時期であったが、雑誌が出るのは翌年の五月号である。

だから季節感は秋ではなく、春でなければならない。これにはかなり苦労した。

撮影が終わって、モスクワ空港に向かうリムジンの中ではじめて、趣味のカメラを取り出して撮影した数ショットがこれである。

トロリーバスは旧東欧圏のノスタルジーであって、好きな物件である。

★カメラはレニングラード

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2013年7月27日 (土)

17mm f1,8 だけど、OM-Dに付けるか、ペン5か?

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最初にペンの1型と出会ったのは四年前である。17mmのf2,8が付いていて、これは優秀レンズである。
こっちは、同じ焦点距離で明るさはf1,8である。一段だけ明るいのは手持ち撮影ができるぎりぎりの暗さをクリアする。しかも手ブレ防止がついているから、まずどこに行っても三脚は不用だ。

この明るいレンズをペン5に付けるかそれともOM−Dに付けるか?
それはカメラとの組み合わせでその印象ががらりと変わるからだ。
そこらは個人の趣味の段階の話だ。

あたしはOM-Dに付けた方がスタイル的には好きだ。

プライムレンズは明るさはf2があれば充分とは昔、ライフ写真講座でも書いてあった。それ以上は本体が大きくなるので、携帯に向かない。ブレッソンの沈胴のズミクロン50ミリばかり使っている。

最近、f0,95のレンズがもてはやされている。これはムービーには必須であるが、スチルには要らない。スチルはシャッターがいくらでもゆっくり切れるから不用であある。
あたしも以前はアンジエニューのf0,95を二本持っていたが、一本は売り、もう一本は坂崎さんに進呈してしまった。

デジカメ用のレンズはあたしの場合、例のパンケーキレンズキャップの15mmf8で充分であるが、それでは「変人写真家」に思われるから、まずf2,8
それと本当に暗い場所でこのf1,8があれば完璧だ。

サードパーテイ製の0,95レンズはあれはそういうお買い物が好きな人のマーケットのものである。精神的に暗闇を克服したい人の為のマーケット戦略だけど、「空振り」が多い。

顔本上でそういう明るいレンズの作例を見かけるが、例外なく飲み屋やバーでの撮影で前後がぼけてなんだか分からない絵だ。キヤノン0,95のカメラ雑誌の作例が暗いバーでのマッチ一本のポートレートであった。この方面の作例は半世紀進化なしだ。

あたしも以前はノクチルックスf1を使っていた。ただしそれは欧州での撮影に限るのである。日本だと町の照明は蛍光灯であるから、250以上のシャッター速度でライカで撮影すると、かならずフリッカーを拾う。それで使用を中止した。

17ミリf1,8レンズを手にすると亡くなったエドバンデル エルスケンを思い出す。最後に会ったのは、神田の裏の喫茶店だった、クロームのズミクロン35mmをライカに付けていた。彼の代表作Sweet Lifeはこのレンズ一本で撮影されている。エルスケンの撮影から60年経過してレンズは0,2だけ明るくなったと認識すれば、納得がゆく。

★カメラはXZ-10

2013年7月26日 (金)

プラハの文学カフェ

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プラハのベツレヘム礼拝堂のすぐそばに「文学カフェ」がある。
これはチエコ語の直訳だけど、変な名前だ。
地名を冠してプラス文学カフェとすれば問題ないが、あまりにこれではストレートである。

この店はそんなに古くはなく、せいぜいが10年くらいであろう。
あたしのエッセイ「屋根裏プラハ」で、このカフェが出てくる。
東京から到着したばかりの春の雨の夜に、ここのカフェで食事して持参のMacBookでメールチエックしようとして、店主の親父にパスワード聞いたら、「うちはwifiないんだよ。時代遅れですみませんねえ」と答えがあった。
となりの別の店の電波であったのだ。

凄くあつい日の午後にここに行った。店主はガーデンが開いているというので、いつもの席に座った。ここに座って一昔なのである。狭いガーデンに座って空を視ていると、そこがすでに何処であったのか忘れてしまった、伊太利亜の古都の小さなレストランの似たような景色を思いだした。

大ジョッキを一杯のんで、食事を済ませると、もう午後もかなりの時間である。これがプラハ人の時間の使い方だと思うとそれもよかろうが、仕事の能率は非常に落ちる。
店主が実は昨日が誕生日でお祝いに日本の包丁をもらったんだけど、品定めしてくれと、ナプキンに包んで持って来た。立派な出刃である。
そこに刻まれた漢字を逐語訳で伝えたら、彼は紙ナプキンにそのセンテンスをチエコ語で書き留めた。

毎週金曜日には地元名士の「美食の会」がここである。昨年、ここで食事していたら、立派な紳士「たなかさん、あたしをお忘れですか」と声をかけてきた。20年前のプラハ市長であった。今は出版社をやっているという。
あたしは通行中のプラハ人は皆同じに見えてしまうので、失礼した。

このカフェでもWIFIが使えるようになった。カレル大学のゼミの連中が来たりするので、やはり必須なのである。

★カメラはペン5


2013年7月25日 (木)

カサブランカな午後

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雨雲レーダーでウオッチしていて、佃の大ガラスの部屋から稲光と白雨を観察するのは好きだ。

これは外出している人にはたまったものではないが、安全な場所にいて、にわか雨に逃げ惑う人を観察するくだりは古典落語にもあるし、欧州のポンチ絵にもある。

だから白雨は日本だけのことかと思っていたが、プラハのアトリエでもそういう激しい雨と落雷に何度も出会ったことがある。

夕立接近すると、あたりの光が非日常になるのも面白い。中央大橋とか白い建築などはその白さが際立ってくる。

これをあたしは「カサブランカ状態」と命名している。他にも「イスラエルの神の国」というのがある。これは主に秋冬に視られる。雲間から一条の光が地上に降り注ぐ。

ペペンペンペンペンで稲妻を撮影しようとして、数十枚撮って失敗した。タイミングが合わないのだ。

昔、新聞社には「雷撮影用カメラ」があったそうだ。中判カメラであって、ピンホールなみの小さいレンズがついている。これで長時間露光をすると、エクレールがつかまえられるのである。

最近は天変地異に放射能とか見えない危険が多すぎだから、雷カメラはオクラ入りであろう。

昨夜の東京の落雷の写真が朝刊の1面に大きく紹介される。

思えば、平和な時代であった。

★カメラはペン5 14-47MM

2013年7月24日 (水)

檜画廊での展示をピンアップにした理由

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神保町の檜画廊で東川賞受賞作家、中藤さんをコアにした有志の神田をテーマにした写真展が開催されている。土曜の午後4時半まで。

あたしは年の功で一番正面の壁をいただいた。

最初は展覧会の初日の神保町をインスタントカメラで撮影して、それをピンアップしようと考えていた。しかしなにか「パリ青年ビエンナーレ」の中平さんの真似みたいである。

結局、1968というタイトルにて60年代後半の都心三区を撮影した8x10のプリントを20点ほどピンアップした。
これはアサヒカメラで年四回連載中の「TODAY 東京:」の二千枚からある印刷原稿をそのまま使った。

もっとも写真を編集部で選ぶ時は、そのプリントをゼロックスコピーしたのを編集用に使うのである。

ピンアップに冠しては、ロバートフランクの写真集で室内に張られたピンアップの写真があり、80年代初頭の横寺町のアラーキーさんの「痴部屋」の記憶もある。

あの狭い四畳半でアラーキーさんに「カメラ毎日」の為にインタビューしてグラビアの掲載作品を所望したら、アラーキーは少しも慌てずに、そこらにピン留めしてあるプリントを数点外してあたしに渡してくれた。だから掲載した作品にはピンの穴がそのまま映っている、
あの頃のアラーキーが一番、艶があった。

今では大道さんもアラーキーさんも「偉くなりすぎ」で「人間国宝」になってしまったのが寂しい。

恵比寿の写真美術館で1968展のあたしの展示を見て、そのプリントが額入りオーバーマットなので写真の反射が見れないのが残念であった。それでプリントはそのままピンアップした。ただし虫ピンは危険なので、両面テープ貼りである。

写真はもともと額縁にいれずに手に持って鑑賞するものである。
それが最近ではアマチュアさんが自動的に出来た「お作品」をマットして飾るのが世の習いになっている。

そういう場所に行って、お互い褒め合っているのだから、平和である。

「写真展は作者を見に行くのではない。写真を見に行くのである」(アインシュタイン)
これではフレーム屋さんを儲けさせるだけで能がない。

写真を視ることは、映像と自己との「決闘写真論」なのである。写真を社交の道具にしては可愛そうだ。

2013年7月23日 (火)

結局、、、フォトジエニックって何だ?

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フォトジエニックって何だ?
時代が変わるとそこに映っているモチーフの価値感が変わるのは当然のことだ。

稲垣足穂が大阪で最初にお目見えした「へこきくるま」(ガソリンのエクゾースト臭う排気ガスの最初期のオートモビル)のことを書いている。

地下足袋の少年が赤旗を持って、走行する車の前を走って安全の為の「露払い」をしたという。そういう写真が残っているとして、それを当時の人が見たら「危険なへこき車を安全に運行させるための写真」と思うだろうし、それを現代に視たら「フェリーチエベアトー撮影の大名屋敷のような大過去」に見えるであろう。

なにがフォトジエニックっであるのかは、その映像の撮影された時間軸とそれを観察する時間軸との「誤差」が生み出す錯覚というべきであろう。写真の時間軸の視神経のパララックスがフォトジエニック効果を生成すると言い換えてもいい。

だからフォトジエニックなどは最初から存在しないのである。

それに写真評論家とかミュージアムのキュレーターの言うことを信用しないこと。これが重要である。

上の画像はプラハでも流行のセグウエイである。10年ほど前にこれがプラハに登場した当時の代理店はプラハの北のナショナルギャラリーの向かいの小さい店だった。今は中心部のモルダウの右岸と、左岸のアメリカ大使館の側にある。

しかしリスボンやプラハのような丘のある町に流行のこの「立ち上がった車いす」はあたしは好きではない。 急なプラハの坂の途中で音もなく背後から追い抜いて行くのは不愉快である。

セグウエイがもっとも似合った人は、マンハッタンのポリスであった。これは騎馬警官と対になるような、マンハッタンのアトラクションなのである。

オールドタイマーもどきの偽クラシックカーに乗る観光客の気が知れない。もともと社会主義国の時代のプラハはレアなクラシックカー、たとえばオリジナルのブガッテイなどが存在してそれらは当時の西側の国に「密輸」されたのであった。

もともとシュコダ自動車工場は神話的存在のイスパノスイザを生産していたようなお国柄なのである。

★カメラはキヤノンP Fed 28mm

2013年7月22日 (月)

ペン5にリストストラップを付ける

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ライカやペンに長いストラップをつけて、斜めがけというのが、あたしの撮影スタイルである。

最近、そこに新風が吹きはじめた。

大昔から持っているペンFについている赤と黒のリストストラップをペペンペンペンペンにつけてみたらこれは非常に具合がいい。
リストストラップはもともと、アイレットのついていないカメラを携帯するためのアクセサリーである。

まだネックストラップアイレットのない時代の戦前のライカのカタログにも載っている。これは珍品で今では馬鹿値がついている。

ペペンペンペンペンにリストストラップというのは具合がいい。カメラをしっかりホールドできる。
カメラとリストストラップをかけた左手首に対して、ペペンペンペンペンの本体の右側をその反対のベクトル方向に引っ張ると撮影は非常に安定度が増す。

携帯時にはトートバックに入れて置くので、いざ撮影という時間とそうでない時間とのけじめがちゃんとつくのが良い。

ペンに最初からついてくるネックストラップは作りが悪いのと、長さが中途半端なのと、肩から滑り落ちるので元箱から出すことはない。

カスタムのネックストラップは高いけどあれはいい。カメラの生産コストの中ではネックストラップは「しわ寄せの部分」であろうから、高品質が期待できないのであろうが、ペン5が高性能なのに、それに見合ったストラップが付いてこない。それなら最初からストラップはオプションにした方がいい。

でも、マイクロ43にはリストストラップという新しい選択肢がある。

ただしあたしの撮影術では、XZ-10やGRのようなコンパクトデジカメは今まで通り、ストラップレスアナーキスト同盟であるという、政治的な立場に変わりはない。

2013年7月21日 (日)

さらにフォトジエニックって何だ?

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プラハでチエルニーモストというのは、三本あるプラハのメトロのうち、黄色い線の東の終点の名前である。

この駅が好きなのでよく出かける。そこには巨大な団地がある。その団地内を徘徊して道に迷うのが好きと言えば、変な趣味におもわれるかも知れないが、この界隈はあたしには実にフォトジエニックなのだ。

「屋根裏プラハ」(新潮社)でもこの界隈のサーカス団の生活の一部を描写した一節がある。

フォトジエニックって何だ?と自問する時にはこのメトロの終点に来て、そこらを歩き廻って、撮影した画像を後で現像してみて、ああ。これがあたしが求めているフォトジエニックなるものであったのかと気がつくのだ。こういう思索的な場合にはすぐに結果が分かるデジカメより、現像しないと結果が分からないフィルムカメラがいい。

上のショットでは団地のはずれで道が左右に分かれている。こういう場合、どっち行くのがよりフォトジエニックであるのかというのは人生の最大の疑問である。われわれの人生は常に分かれ道の選択の連続だ。

問題なのはその二股の地点に立って、それぞれの方向を見渡してもその先は見えないことだ。それでこういう場合、あたしは十円玉の(おっとプラハだから10コルナ玉)の助けを借りる。

えいやっとコインを空中に放り上げて、数字が出たら右で、絵柄が出たら左とやるのだ。ここでは絵柄が出たので、左の道をとった。

そうしたら、二番目の画像の場所に出た。こういう光景はプラハの郊外にはごく普通に視られるのである。唯一異なるのは、遠方に見える白いラインである。ここには今、乗ってきたメトロが走っている。

そこは地上の線路なのであるが、全部がカバーされているのは、雪害の防止であろうか。

これはフォトジエニックなショットだ。

タルコフスキーの映画のショットに出てきそうだ。

★カメラはキヤノンP フェド28MM

2013年7月20日 (土)

続 フォトジエニックって何だ?

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プラハみたいな古都を撮影していて、一番困ることは、歴史の切り口の断面がそのままに見えてしまうことだ。普通はそれを古都の魅力と言ったりするが、あたしにはそれが迷惑に感じることがある。

どこでも切ればそこに同じ顔が出てくる「金太郎飴」のような町がプラハなのである。

数年前に神田明神の脇のギャラリーバウハウスでのプラハ展で、エデイションが5なのですぐに完売になった、「プラハカレル橋遠景横位置手前白鳥の写真」などは、その場所は三十年戦争当時にもすでに版画になっているから風景は伝統のステレオタイプである。

そこで時代的ドラマを撮影することも現代に可能である。映画アマデウスはウイーンがテーマだけど、ロケ地はビロード革命前のプラハだ。

これはかなり不思議なことである。江戸時代のドラマを眼下に広がる隅田川で撮影しようにも、あまりの風景の激変にて撮影のしようがない。

風景のステレオタイプとしての古都プラハは人気があるのだ。そこに数千万のツーリストが押し寄せてこの国は外貨獲得のビジネスをしているのである。

今回の洪水騒ぎでのあたしの収穫は、いつも見に行くモルダウ川沿いの風景が、水位が上昇して危険なので、そこまで行けなかったことである。

上の画像のもっと先まで行くと「泰西名画」めいた一般向けの風景があるのだけど、そこはポリスラインで遮られている。

その為に視点がはるかに後方に固定されているのであるが、このポイントがあたしには非常に新鮮であった。その理由は普段なら、川の側まで急いで行ってしまうから、ここらの風景は見ていないのである。

普段、視ている光景のちょっと手前がフォトジエニックであることを発見した。これはプラハの警察のお陰なのである。これはなにか皮肉だけど真実である。グレーのポリスラインの横断する縦位置の画像はあたしの三十数年来のプラハ写真の中でなかなかの出来だと思っている。

カメラはキヤノンP FED28MM

2013年7月19日 (金)

二十歳のあたしと六十六歳のあたし

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Chotoku Tanaka <chotoku.tanaka@gmail.com>
15:52 (21分前)
To 自分
十九歳の夏に東京を撮影していた気持ちと
六十六歳の夏に東京を撮影している気持ちとの間に
さしたる違いのないことにびっくりしている

ただし年相応に駅の階段とか、都バスの乗り降りの足元は気をつけている
あたしの母がたの祖父は西武線江古田駅の階段から転落して横死しているし 母も真夏に路上で死んでいる

あたしの路上徘徊癖のその先にカメラを手にした横死があれば理想的である

二十日に発売のアサヒカメラに掲載されている
「Today 東京」はそのサブタイトルを、東京逍遥五十年というのである
重層化する夏の死をこれは回向することになるのだろうか

iPadから送信 Chotoku Tanaka

以上は、顔本へのメモである。驚いたことに百三十以上の「いいね!」をもらった。あたしのお友達は1200人程度だからこれは高率である。
7/22から27まで、神保町の檜画廊で五人のグループ展を開催する。

他の出品者さんはファインフォトだから立派な額にオーバーマットであろうが、あたしは1970年代に大泉の家で壁にピンアップしていた写真の感じを再現しようと思った。

これはロバートフランクの写真集に視た「展示の真似」なのであるが、先週末まで展覧されていた、東京都写真美術館でのあたしの展示物が立派なフレームにナングレア硝子であったのに、ちょっと辟易しているのもその理由である。
というのはミュージアム収蔵のあたしの写真の印画紙の表面を視ようとしたが、見えなかった。あたしは印画紙の表面とか裏の書き込みに興味があるのはMoMAでの癖がついているのだ。

ナングレア硝子は印画紙の表面のテクスチャを見せないのである。

それで今回の檜画廊での展示は単に壁にプリントを無作為にピンアップすることにした。これは80年代に訪問したアラーキーさんの「痴部屋」の影響もある。外題はペラの原稿用紙にペンで手書きで、それに高木松寿が40年前に撮ってくれた、あたしの当時の肖像を貼る。

その展示写真を選んでいる時の印象を顔本にアップしたのが上の一文である。

 

2013年7月18日 (木)

フォトジエニックって何だ?

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普段、何気なく、フォトジエニックって言葉を使っているが、これは何であるのか、考えてみると分からない。

こういう場合、実際の例を挙げて考えてみるのが良い。正岡子規は俳句に関する質問で「実際の句作を挙げて討論しなければ意味がない」と警告している。
子規は「写生」の人であるからぞの意味で写真の人に近い。

実際に子規は立体写真とか、組写真について彼の著作で述べている、その意見は現代でも通用するのである。

さて、この2点の画像はキヤノンPにソ連製のfed 28mm多分1935年頃に製造されたレンズで撮影した。フィルムはそこらで買ってきた期限切れのカラーネガだ。

露光はあてずっぽうであって、それをゴーゴーステーションでCDに焼いたやつだ。上の画像はプラハの旧市街の庭園を囲む高い塀である。ヨセフ・スデクも撮影したし、プリチカも撮影している。ようするに「手垢にまみれた定番風景」である。

ただしその風景はこういう天気の良い日だとまるでキリコの絵のようだ。多分、キリコもこういう強烈な遠近感は実在の風景から学んでいたのであろう。

しかしこういうステレオタイプの風景はそこにあるので、仕方なく撮影したという印象が強い。まず手前にマリリンの肖像絵を配したくらいが手柄というわけだ。
だから初心者さんは喜んでくれるであろうが、つまらない写真である。

下の方は同じレンズで撮影した。これは旧市街からプラハの定宿に向かう途中の市電の中からの「瞬視」である。こちらには何も意図した所がない。
さらにプラハに来る観光客が喜ぶ風景でもない。

あたしが数十年来、標的にしているのはこういう都会と都会でない所の境界線上に意図せずに放置されてそのままになっている風景なのだ。
そこに写真の面白さがある。

★カメラはキヤノンP fed 28mm

2013年7月17日 (水)

二十四軒という名前の駅

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札幌の東西線で、 二十四軒という駅名に出会ってびっくりした。あたしの生まれた文京区でも、東五軒町はあったし、ドイツなどでも七軒家などという地名はあるから、それに驚いたわけではない。 ではなぜ二十四軒が、あたしを感動させたのか? 分析するに、これはどうも二十四軒町でなく、ただの二十四軒であることに由来しているようである。要するにそれを受ける目的格が欠如しているから、言葉が空中に浮遊静止しているのである。 それに驚いて思わず下車してしまった。 札幌のメトロの駅のすごいのはこの二十四軒にかぎらないが、改札を出たその先の地下通路が無限に続くかと思えるほどの退屈な長さなのである。 この無限な地下通路の長さがあたしにはたえられない。 きっと札幌市民はこの退屈な長い長い蛍光灯に照明された地下道を退屈せずに歩行出来る染色体を持っているのだ。 二十四軒という地名には惹かれたが、例の長い長い地下道でいい加減退屈して、地上に同名のバスターミナルを見て、すぐにメトロの駅に戻った。 プラットホームに到着するまでの長い長い通路がまた退屈だった。

2013年7月16日 (火)

ペン5で室内を撮影

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ペン5を手にして、窓の外を撮影した次のショットは室内である。

前に出した本「ぼくのカメラたち」というのは1000頁の写真集であるが、これは住んでいるマンションの一室だけをテーマにした本であった。

37階の窓から見える景色を撮影し、室内を撮影し持っているカメラやレンズやガラクタを登場させる。

企画ではあたしの持っている全部のカメラを紹介ということであったが、それは無理なので300余点のカメラを紹介した。

カメラもさることながら、室内にあるガラクタが面白い。かのマンレイの住まいとアトリエの写真集も面白かった。そこにあるモノがガラクタなのだけど、それが突き抜けてアートになっている。ただしかれの住まいのカメラは本物のガラクタであった。 一方で東京の南にある、三島邸は西欧を意識し過ぎて、二流の西洋骨董業者の住まいみたいになってしまったのは残念である。

東北新社でアルバイトしていた、日大の学生時代、カメラはアリフレックス35にレンズはズーマーのマクロキラーの40mmと90mmであった。これでコカコーラの瓶などを撮影したのである。

このブログ物品を撮影したのは、40-150のズームだから、その短いレンジはちょうどマクロキラーのレンズと附合する。

部屋のあるガラクタに接近すると、がらくた自身が語り出す。

★カメラはペン5 40-150mm

2013年7月15日 (月)

札幌メトロを乗り尽くす

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札幌には3つのメトロがある。

東西線、南北線、東豊線である。たしかデリーのメトロも路線が3本であったような記憶がある。それもデリーの東西線はブルーで、丸の内線に相当するのが赤でもう一本は黄色だった。

乗り換えの駅には警察官がいて、荷物のチエックをしたのは反体制勢力警戒の為でである。日本のメトロでは時々、ポリスが立っているがあれは目的が異なる。

札幌のメトロに乗っていて、ふいに全部の路線の終点まで行こうと思った、

その理由はプラハのメトロがやはり三本なのでなにか近親感を持ったのだ。実際に7時間ほどかかったから、これは命がけというか、一日がかりの仕事である。

南北線で南の真駒内に行った。となりの自衛隊前というのはどうも当たり前すぎる駅名である。自衛隊入り口とかならないのか。

一挙に南北線で北の周辺、麻生まで行った。麻布ではないのだ。しかしこの駅の周辺のスナックにはAZABUとあった。

東西線の北西の終点は宮の沢である。東の終点は新札幌だ。野々宮は良く札幌出張があるが、冬にしんさっぽろから先の鉄道が雪で途絶して、そこからタクシーを飛ばしたという。豪勢。あたしも数年前の冬にここに来て、雪かきで出来た雪の山の下を車が走っているので感心したことがあった。

東豊線の北の終点は栄町で、南の終点が福住である。こういう名前は本土の入植者が命名したのであろう。その一つ前の月寒中央などは、先住民の地名を日本語化したのであろうか。

あたしの終点好きは昔からのことである。メトロの終点などはそれなりに情緒があっていい。東豊線の南の終点の福住などは、改札がやたら沢山ある。そこに球場があるのだ。

上の画像はそれぞれの駅のそれぞれの終点の周辺を撮影。

南北線の麻生の駅前ロータリーの「崩れたベルリンの影」は立体作品としてなかなか良くできている。

 

2013年7月14日 (日)

日本写真の1968に展示のあたしの作品を見に行く

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東京都写真美術館で開催中の「写真の1968」を会期が終わりぎりぎりで見てきた。

もともと、恵比寿ガーデンプレースが出来た当時、ここに住もうと思って、物件を見に行ったのだが、駅からある「動く歩道」が気にくわないので、辞めにした背景がある。

その後、六本木ヒルズには10年通勤したが、これも昨年で打ち止めにした。六本木と佃島の往復運動が何か危険なものに思われたからだ。

恵比寿方面にはなかなか腰があがらない。しかし1968の写真展であたしは確認しておきたいことがあった。

東京都写真美術館には相当な数のあたしの作品が収蔵されてるが、これは45年前に音羽のお座敷暗室で須田一政さんからゆずってもらった、フォコマート1cで伸ばして、音羽の風呂場で洗ったプリントなのである。

半世紀経過しているから、変色していないわけがない。展覧会のレセプションには行けなかったので、田村彰英さんに見てきてもらったら、「きれいじゃん」との返事であった。

しかし、やはりこの眼で見て確認しようと思って会期終了の前に見にいった。

果たして変色してなかっかので一安心である。

この印画紙はフジのテレビ用ブロマイド紙というのであって、1967年に高梨豊さんに教えてもらった。

当時はまだ白黒テレビの時代である。電子テロップなどないから、文字は印画紙にプリントしてそれをテレビカメラで撮影する。

その場合、反射があってはならないので、これは無光沢の紙なのだ。サイズは四つ切りのみだった。

今の感覚で見てもなかなかトーンの豊富な印画紙である。

★カメラはペン5とiPhone

2013年7月13日 (土)

ペン5でセルフアンドアザーズ

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新しいペン5(ぺぺんぺんぺんぺん、と発音する)を持って、梅雨明けの酷暑の東京を連日歩行した。
上野の路地裏で金属板があったので、そこにペンを向けた。これは鏡ではない。磨かれたメタルなのである。

そこにはパナマかぶった高齢者が立っているのが反射している。それは自明のことだ。
あたしの興味は彼の手にしているカメラの方に行く。常時携帯するカメラのサイズはこのサイズが理想的であるということだ。

米谷名人が自分で使うカメラのサイズを決めたという故事が納得できる。

顔本(ふぇ^すぶっくと詠む)で、カメラを持ったセルフポートレートを掲載しているカメラ人類は多いが、あたしの感心しないのは、フルサイズのデジカメに巨大なレンズをつけている人である。

自慢のカメラであろうが、写真家というよりカメラオペレーターに見えてしまう。写真家もカメラオペも同義語と言えばそうだが、前者の方が後者より「創造の意志がある」というの社会一般の認識である。

映画関係に詳しい、マンハッタンの怪人、長生さんが以前、指摘していたが、向こうの映画関係のスタンドフォトのスタンダードがフルサイズの某一眼レフであって、それが業界基準であるそうな。
カメラオペレーターに間違えられるのは嬉しい向きもあるかもしれないが、やはりカメラは自分の意志で好きなものを撮影するのが「創造の楽しみ」である。

その話は置いておくが、都会写真、つまり終日、カメラを携えて歩行を継続するには、小型軽量の方がいいのは分かっている。

フィルム映画産業時代には、代表的なフランスのエクレール16NPR撮影機がメジャーであった。これがかなり重いカメラなので、新たにエクレールACLというカメラが出た。これはロープロファイルで実に小型であって、紛争地とか遠隔地での撮影に絶好であった。
プロの世界では、プロっぽく見られることなどは、はじめから期待していないから、そういう小型軽量なカメラが愛用されるのである。むしろアマチュアに見られた方が便利だ。

時代が変わって、ペペンペンペンになると、ハイビジョンのクリップは撮れるし、静止画像は撮れるし、まず理想のカメラである。

フルサイズのデジ一眼レフだと、国によっては警戒されるが、ペン5の外見はアマチュア向けであるのがいい。

以前、イスタンブールのガラタタワーに登った。あたしはコンパクトカメラなので自由に撮影できた。
同時にアメリカのビデオクリーがでっかいカメラにサウンドマンを連れて、タワー内に入ろうとして、セキュリテイに阻止されていた。事前に予約のないメデイアは駄目というのである。

そういう意味でもペンサイズのカメラは遊撃手である。

★カメラはぺぺんぺんぺんぺん。

2013年7月12日 (金)

「夢乃家」三十年

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州崎の夢乃家にかよって、すでに三十年は経過している。

東陽町の中川政昭がまだこの世にいた時分に中川が連れていってくれた当時、あたしは三十代の半ばでマンハッタンから戻ったばかりであった。

そのネイバーフッズバーぶりが気に入った。それで知らぬ間に10年が三回重なった。

だから三十年前は周囲は怖そうなじじいばっかりであったのが、だんだんと席次が変わって、気がつくとこの前も周囲の客を眺めていて、あたしが一番長老格のように見える。あたしが怖いじじいに進化したのである。

これにはかなり驚いた。もっとも下谷坂本の鍵屋で生きている百鬼園を見たり、銀座のソフィアで愉快そうな吉田健一を見たりしているのだから、これは年の神様の巡り合わせというのであろう。

酒はそういう意味でいい。

北鎌倉で渋澤龍彦の家に酔いつぶれて一晩、泊めてもらったことがあったのを今、思いだした。

★カメラはXZ-10

2013年7月11日 (木)

元日本工房のビルで森岡書店の一日かぎりの展示会

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一日だけの展示会であった。

一日だけの個展とか、一日だけの展覧会っていうのはいい。それは真剣勝負である。ライブパフォーマンスである。

個人が開催する写真展などは、数日から数ヶ月の期間があるから、そこに行くことがなんとなく、訪問者のスケジュール優先になってしまう。

さらに、デジタルカメラで撮影して、優秀なプリンターで出力された「作品」をその撮影者の全人格的な創造物であるかのように錯覚する。これは不気味だな。

当然である。これは写真の社交なのであるから「アーチスト気取りの本人の前」で、カメラがいいから良く写りますね。という馬鹿はいない。写真の垣根を低くして誰でも「写真家」と名刺に刷り込める時代だ。

デジカメの優秀さが「撮影者のお人柄」と誤認されて、変な称賛が独り歩きを始める。

一日だけの展示、しかもその展示物はこの世界の映像のイリュージョンではないその実体そのもの。ここには証拠品公開の事実の重さがある。

森岡書店が戦前に日本工房があった銀座一丁目の地下一階のスペースを使って、一日限りの日本工房関係とその周辺の時間帯の出版物を展示した。

それも正午から午後10時まで。

見に行く人は自分のスケジュールなど犠牲にして、その梅雨のうっとうしい月曜のお昼を目指すのである。そこには訪問者の強靱な意志がある。

だからこれは社交などではない。そこには真剣勝負の火花が散っている。知りあいにフィレンツエの死体検査官がいるが、床の上に並んだ書物はそのま屍体検案書に書き込まれる存在感がある。

鈴木ビルというのは、何時もそのワンブロックとなりが名代の蕎麦屋YZKM屋なので、飲みに行く夕刻に時間があまったりした時に、鈴木ビルの前で足を止めていた。

テラコッタとスクラッチタイルの茶色のファサードの凝った戦前建築である。今回、一日だけの展示会は地下一階であるというので、あたしは階段を踏みしめて地下に降りる気分の準備をしていたら、それがうれしい意味で裏切られた。

地下には建物の左脇の結構きついスロープをくだるのである。下に居りると右の広い空間に書籍が床にずらりと並んでいる。

一瞬、あたしにはその建物の構造が理解できた。サウスモラビアの古都TELCでそこに五百年前からある建物の地下が、この鈴木ビルと同じ構造でスロープの先は荷揚げ場でその先は水路に面していた。

ここはもともとは築地川に面して、物資を積みおろししていたのである。だからここに陸揚げされた日本工房の書物は一夜だけ築地川から来て、その晩にまた川に帰って行くのである。

森岡さんは名取がこの川にネガを投げ込んだ話をした。 あたしは断腸亭が永代橋から原稿の風呂敷包を大川に投入した話をした。

★カメラはGR

2013年7月10日 (水)

今井館長巨大ニッコール二本持ち

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先週は水曜から金曜までの二泊三日の札幌弾丸ツアーだった。

伝説のレフレックスニッコール2000mmが今井コレクションに加わったというので、それを拝観に行ったのである。

1200-1700mmはすでに今井コレクションに収蔵されているから、そうなると次は2メーターである。

なんでもこのレンズを買いに今井館長は東京に出向いたそうで、しかもキャリーオンにして機内持ち込みで札幌まで飛んだそうである。サムライだな。

小田キュレーターがくだんのレンズをウインドウから出して、二本のビックバーサを並べて撮影した。(本来のビックバーサはズーマー社の2000mmのこと)

今井館長には展示の先の方に立っていただいて撮影した。小田さんが試しに2台のレンズを持ってみた。日本の神社などでは「力石」なるものが奉納されている。昔の農家の青年の力比べの名残である。

思いつきでその2本をあたしはぶらさげてみた。40年前にはトヨタの撮影で、20キロの砂袋を二個持ってスタジオ内を走り廻った。これを入れて車体をしゃこたんに見せるのである。

しかしこれは重い。年寄りの冷や水ならぬ、年寄りにベビーニッコールだ。

今井館長も興が乗られてと見えて、いきなり2本のレンズを軽々と持ち上げた。

今井さんは写真は一枚もご自身では撮影なさらないが、こうして見るとなんとなく植田正治先生を彷彿とする。まあ、植田先生はこれほどの長いレンズは使わなかったけど。

★カメラはXZ-10

2013年7月 9日 (火)

ぺぺんぺんぺんぺんでファーストショット

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札幌から梅雨明け前夜の綺麗な関東平野を見ながら深夜に着陸して、土曜に梅雨明宣言があった、

あたしのように長年写真をやっていても、やはり夏の声を聞くと「写真欲」が膨張する。
その記憶は1960年代後半にライカを持って真夏の東京を徘徊した記憶である。
それから半世紀が経過しようとしているが、街歩きの興味は退色するどころか、ますます魅力的に見えている。

到着したぺぺんぺんぺんぺん(pen 5のこと)をセットアップして、撮影を開始した。wifiもセットしたのだが、電波が飛ばないようである。それは先の課題してまず「実写」(この言い方は、ライカファンなどが新しいカメラを手にいれて素振りに飽きてから使う専門用語)である。

プラハで活躍した40-150ミリをOM-Dからぺぺんぺんぺんぺんに付けて、ファーストショットは何を撮影しようと思ったら、ちょうど隅田川を「子供の操縦する水上スクーター」が通過したので、それを撮った。

橋の上を通過する自転車と通行人のバランスを考えて複数ショット撮影したベストの一枚である。(なにかカメラ雑誌の選評風)

★カメラはペン5  40-150mm

2013年7月 8日 (月)

札幌から羽田に着陸したらペン5が届いていた

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金曜の夜遅くに札幌から羽田に飛行した。

梅雨前線の影響で悪天候で飛行はかなりの揺れが予想とは、機長のアナウンスであったが、仙台あたりから空は晴れて、素晴らしい夜景の中を着陸した。

札幌が午後九時離陸で、午前零時には佃煮ヒルズでシャワーを浴びつつ、飛行機は速いな、ボーイング、ボーイングという映画が昔あって、あれはプレーボーイがアメリカを707で飛び回って、当時のプロペラ機では不可能な「浮気」をする噺であったなとと回想し、さらに大昔は航空運賃にジエット料金なるサーチャージがあったことなど思いだした。

大ガラスの部屋に行ったら机上に箱が置いてあった。

待望のEP-5(ぺぺんぺんぺんぺんと発音する)の到着である。

思えば、ちょうど4年前の今頃にライカインコが昇天してペットロスになっていた当時、デジタルカメラマガジンの上田さんが声をかけてくれて、白いペンの最初のモデルを使うようになった。
それから四年間、この地球上を行ったり来たりしている間に、ペンがペンペンになり、ぺぺんぺんになり、今回、ペペンペンペンペンになった。

まことにめでたい。四年前と言えば、部屋の大ガラスから見える、スカイツリーはまだ完成していなかった。
その間にペンはここまで大きくなった。(サイズは小さいけど)

ペン関係のムックも二冊出している。

すぐに箱を開封するのがもったいないので、しばらくこのままで鑑賞したわけである。

★カメラはXZ-10

2013年7月 7日 (日)

檜画廊のVS 神田写真展7;22^^^ 7;27

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あたしはグループ展というのが嫌いである。それでいままでそういう場所には自分の意志では出品していなかった。(東京都写真美術館の企画の展覧会とかBAUHAUSなどはあたしの管轄外)

昨年の夏に神保町の檜画廊で中藤さんの展覧会で東欧の写真で盛り上がった時に、彼の「きったねえブラックコンタックスG2」を見せてもらった。それがご縁で今回、出品させてもらうことになった。

札幌から戻ったら、机上にそのはがきがある。そのデザインがいい。東都聖橋のイメージは小林清親を超える人はいないであろうと思っていたので、実に意外であった、

皆さんはオーバーマットでファインフォトグラフィを出品なさるのであろうから、あたしは目下、アサヒカメラに連載の「ToDAY 東京」の印刷原稿を出そうと思っている。

中藤さんからの梱包に入っていたのが、彼の「手書き文字」であるのも新鮮であった。あたしは悪筆なので電子メールしかやりとりしないが、へえ、中藤はこういう文字を書くのかと感心した。

詳しくはhttp://hinokigarou.jp/web/tenrankai.html

2013年7月 6日 (土)

プラハ城

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プラハに暮らして三十五年になるが、プラハ市民と同じで、あたしなどは一番、行かない場所はカレル橋と、プラハ城である。

とくに衛兵の交代は一大アトラクションであるから、このような状態になる。
かつて、一度だけ観光目的ではなく、プラハ城に人に会いにいったことがある。
ビロード革命の直後に大統領報道官だった、ミハエルジャントフスキーにインタビューをしにいったのだ。
ロイター通信の記者だったミハエルは、執務室で安たばこのスパルタを吸っていた。日本で言えば「しんせい」のようなタバコである。
あたしはタバコは吸わないが、それがなにか「庶民的」で良い感じであった。

プラハで衛兵の交代を見て、天文時計を見て、カレル橋を渡って、安物のクリスタルグラスを買って、大衆レストランで麦酒にくねどりーきでは、それはあまりに安易なプラハである。
そこの所の先に行けば、プラハは俄然面白くなるのであるが、まず2泊3日のツアーでは無理である。

★カメラはGR

2013年7月 5日 (金)

坂の途中の「電気タバコ」店

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プラハの郊外への冒険で好きなのは、このプラハの北東の郊外の丘陵地帯である。
路面電車が速度を保ったまま、どんどん坂を登って行く。

日本語で「もつみこみ」としか聞こえないトラムストップを超えて、電車はさらに高い丘に登る。
左側にまばらに建物が建っていて、その先にはプラハの中心部がみえる。
ノーファインダーで何枚も撮影する。

あとで、その画像ファイルを見て、「電気たばこ」とはいったいなにであろうかと考えた。最初は電気製品とタバコやが一緒にあるのかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。
しかも、このクラシックな建物のファサードが実に魅力的である。

アサヒカメラで連載している,TODAY-東京シリーズには東京の60年代の都電から撮影したショットが多い。都電のあの高さがちょうど撮影に向いているのである。
その都電が東京からなくなったので、こうしてプラハでその真似をしていることになる。

70年代のウイーンにハイパーリアリズムの都市風景を描く、ピーターポングラッツというアーチストがいた。彼は消えゆくウイーンの風景を描いていた。
プラハも同じ文化圏だが、昔の風景がこっちの方がまだ残っている。
それを見て歩くには市電が一番だ。

2013年7月 4日 (木)

町外れが好き

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本日サッポロ。

それが人生の目的というのでもないが、プラハの周辺ばっかり、すでに三十年も歩いているわけだ。
プラハの周辺の魅力はそこから先が「カンツリー」であることだ。カントリーではない。かんつりー、なのである。

19世紀の産業発達時の都市と田園の境界はプラハではまだはっきりとしている。それが素敵である。

コビリシというのは、プラハの丘陵地帯で市内から東北東の方向にある。ここからの眺めは良い。
プラハ旧市街が遠望できる。
もともと路面電車の終点であったが、その先にメトロが伸びるようになったので、本当の町の限界はずっと先になった。
その限界地帯は新興の団地群だから、若い人が多い。以前の町外れにはくすんだ建物があって、そこに「いぶし銀」の生活がある。
それがいい、

本当に古い建物は田舎のこういう、平屋建ての家である。これも古そうだ。
市電の曲がり角には、田舎のお菓子屋がある。このアイスクリームのキャラなど、ここで生まれ育ったプラーガーの幼年時の記憶にはっきり残っているお店であることは間違いない。

★カメラはXZ-10

2013年7月 3日 (水)

泰成光学タムロン55-90 F4

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★本日移動日 羽田 札幌

タムロンの昔の名前は泰成光学であった。あたしが写真高校生で最初に使ったのがタムロン200-400f6,3であって、これで撮影した作品がカメラ雑誌に掲載されたので、今の道を歩むようになった。
その意味で泰成光学はあたしのマイルストーンでもある。

タムロンで存じ上げているのは、千代田さんと前田さんだ、千代田さんにはブロニカ関係で御世話になった、まだ、あたしのボス、マンハッタンのケプラーさんがお元気だった頃に、取材で飯田橋の坂の途中にあるタムロンのオフィスを訪問した。あれはどこであったのか。すでに30年前の話だ。

タムロンの前田さんは「レンズ博士」であって、時々、東京の路上で遭遇して、レンズの噺を拝聴する。
すでにタムロンのレンズ発達史そのものという風格の前田さんと会話していて、タムロンの55-90ミリはカタログでは見たけど、実物は見たことがないという。
これは1964年頃の国産最初の常用ズームのひとつである。
あたしもカタログでしか見たことがなかった。

その実物がこれだ。
非常に仕上げの良いレンズである。プリセット絞りのエクザクタマウントだ。
この1月にプラハのシュコダで手に入れた。

ライカのレンズは誰でも欲しがるが、こういう「玄人筋」のレンズを欲しがる人は居ない。それで映りは優秀。

これからは高倍率ズームではなく「低倍率ズーム」だな。なにしろズーム比1,63倍だ。

マウントアダプターで、ペンペンとかOM-Dにもつけて遊んでいる。

★カメラはXZ-10

2013年7月 2日 (火)

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プラハ中央駅はアールヌーボー様式であって、社会主義時時代にはウイーンから列車でここに到着した。

冷たい暗い、社会社会主義の空気の中で、このアールヌーボーの駅は「悪夢」のように見えた。
プラハが西側世界になってもうすぐ四半世紀である。
それでようやく、20世紀初頭の建築の華をその額面通りに鑑賞できるようになった。

プラハの撮影に飽きると、中央駅に行くのである。プラハ市民の普通の生活が観察できるのがいい。
それに極東の変な国は、肖像権とかなんとかでカメラマンにくってかかるような「奇習」があるが、プラハではそんなことはない。
それはプラハ市民が、自分の生活に自信を持っているからだ。

半世紀来、常にライカを持った観察者(最近はコンパクトデジカメだけど)であるあたしが、駅頭のこういうショットを撮って「やはり家族っていいな」などと思ったりする。
それだけプラハでリラックスできるわけである。

★カメラはGR

2013年7月 1日 (月)

梅雨行(ばいうこう)

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プラハの二週間にあたしが東京に行って、最初にしたいことは、梅雨の足立区関原商店街あたりを雨に濡れつつ歩いてみたいということだった。

その「夢」はようやくに叶って、関原界隈を徘徊した。王子駅から都バスで西新井に出て、駅前から方向を定めずに歩行するのである。

温帯モンスーンの理想的気候である。

実際には歩行を定めずに歩くというのは「詭弁」であって、そういうことは出来ない。ただしこの日が良かったには、梅雨であるから当然曇りであって、方向をロストできるのである。

関原商店街に行く前に、京成線の線路脇の駐車場が数ヶ月こないうちに、セブンイレブンになっていた。心つもりでは関原商店街の焼き鳥屋でつまみをかって、例の「マジックガーデン」で一杯やるつもりだった。
その前に「鹿カップ売り場」(ひかかっふ、とよむ)で120円でひかかっぷを1個だけ買う。ここの自販機のは120円。一方の篠崎駅徒歩18分の方のは110円である。

関原商店街の四つ角で酒のつまみを買って、通りを南下して、「ごんた君広場」(ゴン太くんはこの商店街の怪獣キャラ)まで行ったが、雨が強すぎてベンチに座りようがない。それで立食パーテイになった。なかなかいけた。

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利休は2畳の茶室で「夜噺」をしている。南方録のこれは真似っこのつもりなのである。

一息入れて、通りから路地に入る。ここからは正念場であって、一種の「アースダイブ」ならぬ「関原ダイブ」。

あじさいがちょうど良いカラーチャートに化けている。
民家の庭が「滝ノ間」になっている。

東洋の不思議な街を満喫した。

★カメラはXZ-10

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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