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2013年6月30日 (日)

ツガミ8って知ってるかい

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16mm幅のフィルムを往復撮影する、いわゆるスタンダード8は欧州にはまだ熱烈なファンが居るので、まだ入手が可能である。

しかし、今のあたしのダブル8への考えは「素振り」である。コンデジに入っているムービーで充分なのであるが、あれは「素材感」に乏しい。

映画機材というのは、金属感覚のある重いメカニカルなマシンで撮影するものであるという認識があたしにはあるので、軽いカメラはなにか安心が出来ない。

それで実用は軽いiPhoneで撮影していいのだけど、撮影機気分を満足させる為に、金属製の撮影機の素振りが必須である。

ずっしり重い、8ミリカメラなどは恰好である。

ツアイスイコンの作った、ムビコン8は普通の映画カメラは上から下にフィルムを通すのに対して、ひねりを入れて左右にフィルムを通過させる機械であるので、左右の幅があるので、ライカとかコンタックスのように、カメラのホールドがしやすい。

しかしこのタイプは人気にはならずに、本家のツアイスとそのコピーのこのツガミ8のみであった。

ツガミとはあのツガミ製作所のツガミである。すごいなと思う。

それが真面目に作りすぎてしまったせいか、やたらに重いのである。だからカメラの重心は低いからカメラぶれは怒らない。

もともとこのカメラは希少品であって、あたしも半世紀も中古カメラの市場を見ているが、出会ったには数回以下である。

こういう珍品は値段はすごく高いか、その反対か、いずれかである。この前、神田のカメラ屋さんに行ったら、その反対の方の値札がついていた。

★カメラはXZ-10

2013年6月29日 (土)

火事と喧嘩は江戸の華

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この前の月曜に、CITIBANKとRINGCUBEとABCMARTに用があった。
まだ時差のただ中である。

RING CUBEでエスプレッソ飲んで交差点に出たら、消防車が第二出場なみの込み方であっちこっちから数寄屋橋方面に集まっている。
あたしはやじうま体質であるから、走っていった。塚本素山ビルに消防が集中していて、ぼやであったらしいが、消防の人が白い服の人に事情を効いている。

その時は知らなかったが、すきやばし次郎がぼやであってかつおのたたきを作る藁の火がぼやになったそうである。
三つ星レストランのグランシエフには、素山ビルのトイレで遭遇したことがある。

並木通りに消防車が山のように停車しているので、それに気とられているうちにABCMART
の位置をロストしてしまった。
銀座慣れしていない証拠である。

ファイヤ^エンジンの色だが、あたしはマンハッタンなどで見る、あの眼の醒めるようにな緑とイエローの混じった色彩が好きだ。
あれは「覚醒色」である。

★カメラはXZ-10

2013年6月28日 (金)

わすれもの考

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世界中のホテルに泊まって、世界中のホテルの引き出しに沢山のモノを忘れてきた。その総数はどの位になるのか、想像も付かないが、この何十年も旅をして分かった事実は「忘れものをしないことは不可能」であるという、厳粛な一事である。

あたしはホテルにチエックインすると、まずストレージにカバンの中のモノを全部、分類して入れるのは普通のツーリストと同じだが、デスクの引き出しの中につかいかけの品物とか食いかけのパンとか、ソムリエナイフとか鋏とか入れる癖がある。

テーブルの上にJALの布を敷けばそのまま食卓になり、マックを乗せればそのまま書斎になるのは多目的で便利であるが、いざチエックアウトをする時に、気がゆるんでいて、通常は旅立つ前の夜に、引き出しの中になにか入っている箱はちょっと開けておくのである。

今回はそれを忘れたので、かったばかりのソムリエナイフとか、20年以上使い慣れたハサミとか、まだ半分残っている「クネッケブロート」などを忘れてきた。

この防止策は飛行機みたいに「チエックアリスト」を作成する以外あるまい。

★カメラはOM-D

2013年6月27日 (木)

リングキューブのコストパフォーマンス

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銀座の三愛ビルの最上階のリングキューブに行った。

時差ぼけのまま、ÇITIBANKとABCに用事があったのである。その途中で銀座四丁目で、ああ、上がギャラリーだなと思って丸いビルの9階に上がった。

ここで展覧会を開催したこともある。最近ではリニューアルして、銀座の高級クラブの感じになった。しかもエスプレッソマシンがあるので、セルフでうまいコーヒーが飲める。

入場料は500円というのはフェアであると思うが、あたしは年間パスポートを3000円で持っている。これなら入場は無制限で、大変なコストフォーマンスだ。

銀座のクラブなら「座っただけで数万円」であろうが、ここは一年で3000円である。

ゆったりしたソファでコーヒーを楽しんで、良い感じの写真作品を見て、時差ぼけが解消した。

★カメラはXZ-10

2013年6月26日 (水)

フォトシュコダのオリンパスタッチアンドトライ

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今回のプラハでは撮影の途中、昼頃にかならず旧市街の真ん中にある、フォトシュコダに行った。
中古カメラを見るのも目的であるが、コーヒーを飲んで、メールチエックの為でもある。
場所はムステクのメトロの側だから、まず銀座四丁目という界隈である。これはありがたい。

お店の一階が中古コーナーなのは、もともとプラハのカメラ屋さんは「中古カメラ販売所」せあったという歴史を大事にしている関係であろう。

今回は撮影中のメモリがなくなりそうになると、二階のデジカメコーナーに行って、一枚だけカードを買う。これを繰り返した。

ある日、カードを買いに行ったら、オリンパスの製品のデモをやっていた。東京で見ることが出来なかったペペンペンペンペンもここで「タッチアンドトライ」できた。なかなかいいけど、あたしにはペンは1型から3型まであるから、まず充分である。それにOM-Dもある。

オリンパスコーナーはかなりの人が来ていた。(これはプラハでは、という意味)それであたしの持参したOM-Dの偽貫禄仕上げが話題になった。
面白いのは、すでにデジタル一眼レフ(例の黒いでっかいの)を持っているカメラ人類がマイクロ4/3への買い換えを真剣に検討していることだ。

オリンパスのプラハの会社は、空港から市内に行く幹線道路の左側のモダンビルで巨大なOM-Dのブラックとクロームの画像が飾ってある。

会場のブースでプラハのカメラ人類から、「日本のメーカーなのに、なぜ、オリンパスなんですか?」と聞かれた。
そこで高千穂光学の故事、歴史をお話した。


2013年6月25日 (火)

奉祝!富士山

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あたしの嫌いなモノは沢山あるが、そのトップは「富士山の絵」である。

家人の実家の親戚の古い家にそういう「下手な油絵」の富士山がかかげてあった。
それを見るたびに憂鬱になった。
以来、その家を「富士山の家」と呼んで四十年以上になる。

草野心平の富士山の詩はすばらしいのに、なぜ絵画は陳腐になってしまうのか。

富士山の絵の名作はただ、富岳三十六景あるのみだ。
あれは富士山のメタフィジカル化だから不愉快ではない。

2 劇場の緞帳に人間国宝の富士山の絵が刺繍されているのも、あたしは駄目である。

プラハから飛行機でドバイで乗り換え、極東に戻る時に、マウントエベレスト見えた、やはりエベレストも富士山も生がいいなと思った。3

羽田に着陸した翌日に、メデイアが世界遺産登録というので、騒いでいた。

他に歴史的なメルトダウンの原子炉があるのだら、すこしでもプラスポイントに座標を移動させるのは必要であろう。
その点ではこれは「不幸中の幸い」というような事象であると思う。

これは佃煮ヒルズの「富士山オブジエ」である。
20年近く前に月島のコーヒー豆屋が改装した時に、鏡をもらってきた。赤富士は家人の故郷、新潟の日和山海水浴場で拾った、鉄材なのである。

これを鏡の前に立てて、赤富士のつもりである。
富士山が噴火しないように、おまじないとして、山頂にテイッシュペーパーで白煙を作ってある。

しかし、今回はおめでたいので、その白煙は撤去した。

★カメラはXZ-1

下は噴火除けのおまじないバージョン。

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2013年6月24日 (月)

プラハでLeeの三十倍を喰うイベント

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あたしにとって欧州は第二の故郷みたいなものだから、向こうの食いものの方が口にあう。
唯一の例外は「典型的な日本食」である、激辛カレーを食いたくなることだ。

JALのマイレージの失効しそうになった75000マイルを使って、オールドデリーにカレー武者修行に行ったことがあった。本場のカレーはそれほど辛くない。
野々宮の話でも、仕事仲間のインド人が「日本のカレーはからい」と吃驚してたそうだ。

まず2週間なら、Leeの30倍のやつを1箱だけ持参する。これがあたしには「懐かしい日本の味」なのである。
巨匠アンドレケルテスは、マンハッタンで故郷の味ハンガリーグーラッシューを愛したそうだが、人間年齢を重ねるとそういう味覚が復活するのであろう。

巨匠植田正治もアルルの写真祭りで、日本食が恋しくなり、そこに「北欧百景」で有名な写真家糸数さんがおにぎりと味噌汁のケータリングをして、植田先生感涙という故事もあったな。

さてあたしの場合には米の飯に対する執着はないので、現地で手に入るパンがあれば良い。カレーのパックは常温でも構わないが、そうなると「沙漠の嵐作戦」みたいになってしまうので、これはパックは暖めた方が良い。

問題は普通のちゃんとしたホテルでは部屋に電気ポットがない。アテネに行った時はちゃんとしたホテルのペントハウスに泊まったが、電気ポットはないので、バスルームのお湯で湯煎にしてみたけど、お湯がぬるいので駄目だった。

こうなると、アテネの撮影では4x5での仕事は大成功であったが、いかんせん、カレーがぬるかったのが唯一の心残りという記憶になってしまう。
食いものの恨みは怖い。

プラハの二週間のちょうど中日に精進潔斎して、電気ポットでカレーのパックを暖めてクネッケブロートで食べたら旨かった。

これはあたしの滞在の重要セレモニーなのである。

★カメラはOM-D 40-150

2013年6月23日 (日)

ナイトホークス

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プラハのP(拙著 屋根裏プラハに登場のプラハの有名写真家)と、五百年前からあるカフェで麦酒を呑みながら、帰りのエミレーツは羽田に深夜の0時に着くのだけど、家までの足がないので、タクシーを使うつもりだ、と行ったら、彼は真顔になって「それは酷い国だな。放射能汚染よりテリブルだ」と言った。

たしかにその通りであって京急もリムジンも0時前に終わってしまう。羽田に到着したアラブの金持ちは差し回しのクルマがあるであろが、われわれ平民はそこから先の足がない。こういうことが見逃されていいのか。

エミレーツ312便は深夜到着なので、サテライトのボーデイングブリッジのスタッフも家に帰ってしまったらしく「バスでのサービス」になった。
ドバイ空港で国賓並の豪華なラウンジに居たあたしにとっては、なにか1970年代のモスクワ空港という感じがした。まあそれはそれで懐かしかった。
しかし日本が初めてのお客さんにとって、深夜に到着してバスで運ばれる気分はかなりのマイナスであろう。
最貧国の仲間入りだ。

その点、プラハには深夜でも30分に一本の深夜便がある。しかもそれは正確無比であって、教会の鐘が正時を打つとそれとシンクロして、プラハヒルズの部屋の前に市電が停まるのである。
尊敬してしまう。

カメラは眼よりも良く見る。毎日、市電のチケットを買っている、このキオスクの名前は布哇であることが今回分かった。

★カメラはOM-D 40-150

2013年6月22日 (土)

エミレーツのプラハ行きで、protexのキャリアが欠損

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エミレーツ航空でドバイ経由でプラハに行ったのである。

ドバイでは到着が遅れて、乗り継ぎが出来ず、ドバイに一泊した。急ぐ旅ではないのでこれはこれで良かった。

翌日の朝の便でドバイからプラハに着いたら、PROTEXのキャリアのうち、2個が欠損している。これには驚いた。

すでに十年も地球のあっちこっちを行ったり来たりしているケースだが、車輪がなくなるのは想定外であった。

しかしまだ2個残っていたので、キャリアバッグのように引っ張ることは出来たけど、もともとそういう構造ではないので、手首が痛くなった。

HANOI の深夜便などでチエックインの前は、このコンテナをバー代わりにして一杯やるのであるが、水平にならないからそれが出来ないのである。行きつけのバーが閉店した感じがして寂しかった。

さっそく、プラハからエミレーツに日本語で文句を至ったら、すぐに日本語の返事がきた。

そういうのは「免責事項」であるという。

それは分かっているが、なにか通常ではないハンドリングをされたようである。それが問題だ。

多分、ドバイの荷物のハンドリングエリアにはゴリラのスタッフがいて、ケースを投げたり、踏んづけたり車輪に噛みついたりしているのであろう。

まあ、モスクワ空港で、ケース内のハッセルブラッドが抜かれた事件に比較すれば、何のこともない。

初エミレーツはなかなか良い体験であったのに、車輪欠損が残念。

★カメラはXZ-10

2013年6月21日 (金)

朝食のマナー

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★本日は羽田に深夜到着(予定)

プラハ滞在の最後に数日泊まった、町外れのホテルは安い値段なのに、リネンとタイルは二階級上なので気に入った。ここをプラハヒルズパート2と命名しよう。

欧州では普通の安宿には朝食の客のちらかしを防ぐ為にご覧のような、大きめのコップというか、小さめのバケツが卓上にある。

いつだったか、ミラノはモンテナポレオーネの裏のホテルに宿泊した時、ブレックファストの席で隣の欧州人が、この容器になみなみとオレンジジュースを注いで、うまそうに飲んでいるのでかなり吃驚した。
それが彼の故郷のしきたりだと言えば、それで通用するのである。

この男性が国賓待遇でどっかの国に、行ったとしたら、パワーブレックファストでは、招待側の政府高官は彼にならって、卓上ごみバケツにオレンジジュースを注いで飲むことであろう。
なにか、最近流行のゴミ箱にも似ている。

一国の総理が、ヨーロッパに行って、鮨を食うのは外交上ナンセンスである。
天皇陛下が倫敦で時差の時に、日本庭園を見せられたのと同じことだ。
思うにその筋の官僚の想像力の限界だな。

★カメラはiPhone

2013年6月20日 (木)

トラムストップ

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★本日移動日 ドバイ^^羽田

プラハヒルズの部屋は電停に面しているので、騒音はあるが、もともとあたしの好みは騒音のある町であるから、それは問題なし。

下の電停には9番と26番の市電が通っている。9番はプラハの銀座四丁目に、26番はアトリエに直結しているので便利である。

市電というのは、待っているとなかなか来ないが、窓から見ていると、毎分にやってくる感じがするのはなぜであろうか。

窓際にOM-Dに40-150のレンズを付けたの常備しておく。

これはなかなかのアイデアと思う。

目下、プラハではマリリン展が開催中であるが、マリリンが「外人さん」に見えないのもなにか不思議だ。

★カメラはOM-D 40-150mm

ドバイ空港で九時間半のトランジットなので、ロシアンスタンダーNOW ドバイで新潮矢野編集長のエアメールに接する。 曰く ブログに載った、持参された キヤノンPの妖しい光沢に魅了されました。 とある。こういうのは旅先で一番嬉しい。

2013年6月19日 (水)

LIFE

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★本日移動日。プラハードバイ。

昨年、予告されていた、アトリエの床の張り替えというのが。タイミング悪く、あるいはタイミング良くというのであろうか、今回のプラハ滞在の後半と重なってしまったので、ツーリスト気分でホテルを梯子しているわけだ。

この1月にも似たような画像を掲載したけど、ようするに人間が生活するのに必要な道具というのは上の画像に尽きるようである。

この場合、最新のデジタル機材などを混ぜると、「時事ねた」がすぐに陳腐になるのと同じなので、それはトレーの上のに置かないようにした。

今回、入手したのは、右上のソムリエナイフだ。世界中のホテルに忘れてきたので、プラハの百貨店で買った。

こちらがワインに関して、生活に密着しているなあと感心するのは、ワイン屋に行っても、ワイン抜きとかソムリエナイフを置いているところが、あたしの経験ではないということだ。これは不思議なことというより、ワインの開栓などはあまりにも日常なので、置いていない可能性がある。

一時流行の電子機器などは3年経過すると陳腐になる。

こういう「スチルライフ」が落ち着いて見られるのは、やはりアナログな道具の存在感のせいであろう。

★カメラはアイパッド

2013年6月18日 (火)

ハーフサイズのペンでプラハ撮影

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二週間の撮影で、カメラ(デジタル)が主流なことは言うまでもないが、サブにフィルムカメラを持参するのは楽しみなものだ。
ハーフサイズのペンFTは、全部縦位置で撮影する。これを現像に出すと、縦位置が横に二枚ならんだカットで提供される。
ぞれらは時間差で人物の動きが見えたり、あるいは全く異なるカットが相互にコントラストを生んで、そこに写真の文脈が生まれたりする。

写真は時間軸の縦割り作業であるけど、その時間軸にそって撮影した数枚のショットを並べると、そこに時間経過の残像が生まれるという仕組みだ。

これは映画とはちょっと異なる技法であって、世界的にこれを最初に特集したのは、スイスカメラの1970年の特集「シークエンス」であった。

フィルムカメラはもっぱら「素振り」の目的に使われているようだが、それではもったいない。

フィルムカメラの魅力は「撮影した現場では画像が確認できないこと」にある。
フィルムカメラだけを持って、海外ロケにいったあたしなども、実に強靱な心臓であった、それでも心配なので現地でテスト現像をしたものだ。

★カメラのスタイリングはアイパッドミニ

2013年6月17日 (月)

プラハのキヤノンP

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カメラは(デジカメのこと、以下、同じ)は最高性能で軽量で、あたしのように還暦をとっくに超えているカメラ人類には実にありがたい時代になった。

あたしの父もそれなりのアマチュア写真家であったが、還暦を超えたあたりから、ハーフサイズ(オリンパスペンワイド)などを使いだした。
ペンワイドは後年、森山大道さんが使ったので、中古市場がブレークしたのであるが、父の場合には単い軽い小さいカメラが年相応に楽であったからだ。
父はその後、さらに軽いフィルムカメラを求めて、ミノックスに手を出した。当時のミノックスは非常に高価だったから、父はあたしを伴って、銀座のスキヤカメラで中古のB型を買ったのである。店の前に銀座の柳が揺れて、都電が走っていた、東京オリンピックの前のような気がする。

父は戦後、ようやく生活にゆとりが出てきて、高級カメラが欲しくなったようで、上のキヤノンPのカタログが書斎に置いているのをあたしは目にした、F1,8の標準と、35MMと100MMのカタログの部分に鉛筆でマークがつけてあった。
時代は1957年か、その翌年だ。
キヤノンPとは、ポピュレールの意味で、それまでの10万円路線のキヤノンのレンジファインダーラインからするとかなり手にいれやすいカメラになった。

しかし結局、父はアサヒペンタックスAP型を買うことになる。その値段は今でも良く記憶している。49500円であった。当時の月収の数倍の値段であった筈で、当時のカメラは素敵に高価であった。

父が結局、手にいれなかったキヤノンPをプラハに持参して、ほちぼち撮影していると、なにか父の軌跡をあたしが引き継いでいるような幸せな気分になってくる。

キヤノンPのPは、プラハのPの意味でもあろう。

★撮影カメラはXZ-10

2013年6月16日 (日)

ラデイッシュの赤

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赤カブというのであろうか、ウイーン時代にはこのラデイッシェンの存在は忘れられない。

ラデイッシェンの存在感にはなにか食品を超越したよう なところがある。

大抵は薄切りになっていて、サラダの上などで「脇役面」をしている。あたしには何十年来の重要な写真のテーマである。

こうかくと、また勘違いが起こって、タレントさんのインタビューなどの決まり文句、つまり「ラデイッシェンの良さを少しでも多くの方に理解していただこうと思って」ということになるのであろうが、あたしは何もラデイッシェンの良さなどは表現したくはない。

写真集「ウイーン、ニューヨーク、新潟」のウイーンのセクションで確か、ラデイッシェンが写っている縦位置の作品がある。ウイーンのフライユングという名前の古典的な門のファサードに、粗末な木箱があって、中にはラデイッシェンがならんでいる。値札は黒板でそこに判読しがたい数字がチョークで書かれている。

ようするに、四十年前の八百屋の店先に並んだ赤かぶのモノクロスナップなのであるが。それは野菜の写真ではなく、都会写真であるというのが、あたしの目指す方向なのだ。

そういう都会写真をもう半世紀もやっていて、一向に退屈しないのであるから、そこが面白い。あたしは常に独り旅であって、諸先輩のように「友人知人」とか「先輩後輩」などと旅はしたくないのは、眼前に起こっている状況に興味があって、友情とか人情はおろそかになってしまうからだ。

それで単独行。

撮影しつつ、常に自分と対話しているわけで、自分との内なる対話が面白い。

プラハの写真は沢山発表したが、他に映像ではなく「日本語」で抽出されてくる部分はエッセイになってくる。

赤かぶの存在はあたしの中で重要なのだけど、ラデイッシェンの良いのは麦酒のいいつまみにもなることだ。

ザルツブルグの古いビアホールでつまみはラデイッシェンだけというのがあったな。岩塩を振りかけて食べるのだから、これはよいつまみだ。

今回は食塩を忘れてきた。向かいのグロッサリーでも食塩くらい売っているが、味をつけないで赤ワインのつまみにもなかなかいける。

その赤がいい。そういえばあたしの来ている5年度おちのTシャツ(ていしゃつ)もREDである。これはプロ用デジタルムービーカメラの名前だ。

★カメラはOM-D

40-150mm

2013年6月15日 (土)

何時か見た屋根裏パリと屋根の上の怪人

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プラハに持参したアイパッドの画像を見ていたら、こういうのがあった。たしか三年前のパリである。
北駅の安ホテルのスイーツルームに泊まって、ペンとペンペンを持って(まだペペンペンは出ていなかったな)あっちこっち歩き廻った。

ペンペンに望遠をつけて、エッフェル塔を狙っていたら、いきなり屋根の上を歩行する怪人が居たので反射的にシャッターを押した。
多分、屋根を修理する人だと思う。
今の時期、プラハでも屋根の修理が盛んである。

上の画像はそのパリの屋根裏部屋のデスクトップだ。今と同じパワーブックだし、ペンの白いのはなにか最近ではプレミアムがついて、中古市場に出るとすぐに売れてしまうらしい。

iPhoneは五型に変わって、タイメックスは健在だけど、NATOベルトの金具が飛んでなくなってしまった。
林檎は食べてしまった。

★カメラはペンペン(多分)

2013年6月14日 (金)

プラハヒルズについて

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「プラハヒルズ」はプラハのジシコフにある実在のホテルである。
時々、アトリエ暮らしに飽きると使っている。

以前にもこのことは書いたけど、数年前にvenereでプラハの全ホテルのファサードを調査した。多分、400程のホテルだったと思うが、このファサードが一番気に入った。とにかくキッチュなのである。

それでよく晴れた晩秋の午前にホテルのファサードを見にいった。
このあたりは19世紀末当時に新興の工場地帯が出来て、それぞれに町の施設が完成された。当時はプラハの東の郊外である。

この建物は1890年当時の建設である。プラハの建物としては「新しい」方であろうが、前世紀の建物など、東京などでは望むべくもない。マンハッタンだって、キャストアイアンより上のクラスという認定で歴史的建築物に指定されるだろう。

その青空色があたしにはサンクトペテルブルグのエカチエリーナ宮殿のように見える。あそこにはJTBの取材で行って、一室の撮影料が5000ドルであった。全部ではない。一室である。五室撮影したから大変な金額だ。
なにも琥珀の間に宿泊したいとは思わないが、この「偽エカチエリーナ」は気に入っている。

ネオバロックのファサードも時代が経てば、本物に見えてくる。シンデレラ城とは比較にならないのは言うまでもなし。

★カメラGR

2013年6月13日 (木)

アサヒカメラの連載で神明町車庫前を探す

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★プラハ

アサヒカメラの連載「TODAY 東京」がスタートした。
おかげで好評だ。
あたしの同年齢が昔を思いだして懐かしいというのも、嬉しいけどそれよりも嬉しのは、六十年代を知らない世代が興味を持ってくれることだ。

開催中の東京都写真美術館の「写真の1968」とシンクロしていてタイムリーですねと言ってくれる人も居る。そういう援護射撃は実に嬉しい。連載のパワーになる。

この連載は構想数年と言うと大げさだけど、アサヒカメラの担当の池谷さんとかなりの時間をかけて、構成をしている。これがなかなかの視覚的冒険である。
六頁構成のラストに1968に撮影した、都電の20系統の「神明町車庫前」を使おうということになった。こういう電車の車庫の光景はリスボンでもプラハには今でも存在する、ゾンターク言う所のメランコリーオブジエなのだ。
池谷さんの前にあるプリントがその二十番の系統の車庫神明町車庫である。

プラハに今、居るので締め切り前倒しで先週金曜に東京で撮影にいった。都電はすでに半世紀前に撤去されたので、今はない。昔の資料をコピーしたが、それをiPhoneで撮影して携帯した方が仕事が楽であることに気がついた。

先週の末にその界隈を撮影して、今、プラハに居るわけである。

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プラハの路面電車7系統に乗っていて、かの神明町車庫前と同じ光景にであった。まあ、西洋から到来したエレクトリコであるから、その車庫の形態は同じわけである。あたしの東京の都電ノスタルジーがまた解消された。

★カメラは XZ-10 下はGR

2013年6月12日 (水)

ベストアングル

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今居る、プラハヒルズは1890年に建設の建物だ。
プラハのアトリエは第三帝国が出来た当時の建物であるから、その歴史は比較にならない。

窓からはちょうど眼前のトラムの停留所が見える。電車はそこで停止するから、乗客を撮影するにはぴったりである。

電車は24時間サービスであるが、プラハヒルズの窓は防音であるから閉めてしまえば静かなものである。

感心するのは深夜は30分に一本ほどだけど、例えば隣の教会の鐘が三時を鳴らすと同時に市電が停車する。その正確さは素晴らしい。

路面電車に乗っている人間の姿は極東の乗客よりスマートである。例の「撮り鉄」なる者がこの界隈には居ないのも有り難い。

電車の乗客を脇から撮影した名作に、ロバートフランクのニューオリンズを撮影したのがある、あたしのトラムはそれより数メーターハイアングルだ。

プラハヒルズはそのまま路面電車の乗客を撮影するにはベストアングルである。

★カメラはOM-D 40-150mm

2013年6月11日 (火)

カレル橋の閉鎖に驚く

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あたしのエッセイ集、屋根裏プラハ(新潮社)にも書いたけど、あたしは「偽プラハ市民」のつもりだから、カレル橋は渡ったことがない。

プラハ市民でここを渡る人間はいない。世界からの観光客に占領されているし、橋の上からの眺めも良くない。
カレル橋は遠くから眺めてその優美を鑑賞する橋である。橋の上に来てはその橋が見えない。
ちょうど、ワルシャワの文化宮殿と逆のロジックがそこに働いているわけだ。

しかし今回は仕事の撮影だから、作例としては分かり易いカレル橋を撮影するつもりで来て吃驚した。
洪水の関係で橋が閉鎖されてる。2002年の数百年ぶりの大洪水の時もそうだった。

ポリスの車があるだけで、橋の上に人影なし。ビロード革命の時も、いや三十年戦争の時も橋は閉鎖されていなかったから、これは貴重な眺めである。

★カメラはGR

2013年6月10日 (月)

今回のプラハアウトフィット

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二十年前は、35ミリ一眼レフのフルセットにライカのフルセット。さらにハッセルのフルセットにリンホフのフルセットを持って、フィルムは135が300本、120が200本、4x5が500枚は持参した。
若かったからあれだけの機材を持ち歩けたもにだと思う。

今の機材は上ですべてだ。実際には右の3つのデジカメで仕事ができる。ひだりの3つのフィルムカメラは「酒の肴」用に持参した。
この前も某社の偉い人とムックの為の対談をしたとき、「現在のカメラはそれを持って世界の果てに行くには心配はないけど、問題点は酒の肴にならない」という内容であった。

ようするに小型軽量で良く写り、道具としては問題はないのであるが、夜に部屋で一杯やったり、カメラの素振りをするには向いていないのである。

言い換えれば、今後のカメラの開発の方向は「それが酒の肴になるか」という点につきる。

2013年6月 9日 (日)

エミレーツ航空 羽田 カラオケ

Karaoke

★プラハ

六月四日からエミレーツが、成田、関空に続いて、羽田からデイリーで運航。
初日は1時間遅れで、二日目は半時間早く運航。

あたしが搭乗したのは三日目である。結局、三十分遅れでドバイに到着したけど、荷物の積み替えが間に合わずにドバイに一泊するはめになった。

初ドバイである。東京スカイツリーみたいのが発っている。エミレーツのクリューは日本人のCAさんが7名という豪華ぶりだ。日本からのお客の増加に力を入れているのが分かる。
しかし、ドバイベースで日本滞在は24時間なのでなかなかきつい勤務だな。
お話したCAさんは昨日はオフでスカイツリーに行ったそうだ。
ドバイにも似たようなタワーがあるから、いまさらと思うが、この人は関西出身なので、やはり通天閣よりスカイツリーなのであろう。
あたしは通天閣の方が好きだが。

ドバイでホテルで食べたアラビア料理はなかなか良かった。野菜料理に見るべきものあり。それとラムもうまい。
それに酒のつまみになりそうな料理が沢山ある。

四半世紀前のイタリアのワールドカップのファイナルでは、フーリガンを警戒して全国でアルコール禁止令が出た。たまたまミラノの友人(スカラ座のデイレクターさんのお嬢さん)と食事したが、高級レストランでもアルコールはない。
その時はミネラル水で酔っぱらったが、今回のドバイは実に四半世紀ぶりのアルコールなしの晩餐だった。
これはなかなか良かった。

翌日のドバイプラハ便で、ドバイ羽田便の広告がこれである。

昔は日本と言えば、芸者フジヤマであったのが、秋葉カラオケになったのかと感心した。
ちなみにあたしはカラオケには行かないから「非国民」なわけだ。


2013年6月 8日 (土)

ハービーズBARに着くまで

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★プラハ

先週の水曜日。世に有名なハービーズバーに招待された。

これは大変な名誉である。ハービー山口さんと、大西みつぐさんとあたしが大阪芸大の客員になったので、それを記念してのトークイベントである。

もともと、中目黒には縁がないので、これを機会とばかり1時間前から周囲を散策した。夜の中目黒はかなり異国であった。

綺麗な女子が「世間を諦観」したような表情で薄暮の町を歩行しているのが、不思議だった。彼女達は中目黒の明るい繁華街の先に広がる、広大な闇に支配される住宅地に去って行く。

ハービー邸に向かうつもりで山手通りを駒沢通りの交差点を目指して10分ほど北上したら、東一丁目のバスストップにきた。向かいは鈍器である。ハービーさんの指示では、優雅なこじゃれデザインショップがあるというので、これは様子がおかしい。あたしは携帯は使わない主義であるが、その掟を破ってハービーさんに電話した。
どうやら南北を取り違えて、反対に来てしまったらしい。
中目黒駅にハービーさんが迎えに来てくれた。感謝。

ハービー邸でご馳走になっているうちに「放送開始」の午後九時になった。
そのままグラスを手にしてハービーさんの絶妙な司会で一時間半。

あたしはお二人に会話は任せてもっぱら飲み役に廻っていたつもりであったが、後で聞くと、結構饒舌に会話していたらしい。アルコールの力は凄い。

放送終了後にカメラマン役とスイッチング役をしてくれた、ハービージュニアさんが、「今までで最高の視聴率」でした、と言った。

★カメラはXZ-10  と GR

2013年6月 7日 (金)

お茶の水女子大界隈

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★今日からプラハ

ではなく、エミレーツが遅れてドバイに一泊NOW

小石川界隈(今の文京区)は南北に丘と谷が規則正しく並んでいる。
山と谷である。昔から、山は裕福層で谷は労働者街であって、これは百年来、堅固な小説のテーマにもなっている。

よく、音羽に住んでます、と言うと「いいアドレスですね」と言われるがこれは鳩山邸の誤解がある。あそこは入り口は音羽であるが、お屋敷は坂の上である。
あたしは坂の下生まれである。

永井荷風が幼年時代に仲の良かった友達が音羽で、大工さんの息子だった。その友人が転居してしまって寂しかったことを荷風は「狐」の中で書いている。荷風は安藤坂生まれで、その友達は文中から調べるとどうもあたしの生家あたりであった。

荷風は外交官の息子としての海外住まい時代の堀口大学と親交があったが、後年に大学の住んだのが音羽通りの鷺坂の側であった。家人は大学の遠縁にあたるのでなんとなく近親感はある。
その反対側には佐藤春男が住んでいたし、そこから江戸川橋を越えて、横寺町に行けば稲垣足穂のアパートがあった。

少年時代の記憶で、こういう制服の小学生はかっこいいなと思った。こっちは区立の小学校、中学であるから「並の制服」なのである。

プラハの最初の朝にこういう東京のスナップショットを見るのは、異国情緒満点だ。

ドバイのホテルでこれを読み返していると、まさに九千キロ東、東洋の神秘だ。

★カメラはGR

2013年6月 6日 (木)

日本人の年齢判断に苦労する

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本日移動日。

羽田  ドバイ プラハ

東京デイズニーランド(以下、鼠園)が、開園30周年というのは、当時、マンハッタンにいてテレビみてたらアメリカのキャスターが「なんでも真似する日本に今度はこういうのが出来ました」とのイントロで鼠園を紹介していたのを今でもはっきり記憶している。

あたしは宗教上の理由で鼠園には行かないし、これからも行く予定はない。なにも鼠嫌いなのではない。東京の裏町の荒物屋に「ねずみ取り」を見かけてそれとなく旅情を感じるような人間だから、実は鼠派なのである。

ウイーンから東京に7年半ぶりに戻って来たとき、日本人の年齢が判断できないおでかなり困った。これが三十余年前だ。
それまで欧州で人間を沢山見てたから、そっちの方の年齢判断はつくのであるが、あちらに比べると我が国では、人間はその実年齢よりもずっと若く見える。
家人がウイーンの音大に留学したのは20代後半であるが、フォルクスシューレの高学年とよく間違えられた。

この鼠園の広告であるが、あたしの目から見ると、大人の四人の年齢はほとんど分からない。
日本にすでに四半世紀も居るのに、これでは社会に順応できないなと思う。

あたしのようにルート66歳にもなると、もう若く見れらたいという気持ちはない。その代わり「何時までもお元気で」と言われると腹がたつ。

しかし一般には男女とも若く見られるのは嬉しいでろうから、20歳近く年下のモデルの起用は広告戦略上有効なのであろう。

ウイーン時代にモデルのクリステインが「あたし今度、40代の女性を演じるのよ」と半ば怒っていたけど、彼女は29歳であった。

時代は変わったから、今はアラフォーがメーンなのである。面白いな。

この鼠園の偽火山はヒルズの49階からも良く見えた。筑豊のぼた山にも劣る貧弱だった。

フィレンツエでポンテベッキオを見て鼠園の偽ポンテの写真を見たら、偽の方が本物よりも本物っぽく見えていたのがショックだった。

2013年6月 5日 (水)

遠足の写真とクラス会の写真

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この間、東京都立志村高校の同窓会があった。
幹事の板橋区清水町の理髪業の中西君のおかげでこうして高校から半世紀経過したクラスメートと再会できるのはありがたい。

場所は三田線の蓮根駅の「千年の宴」である。スタンドアローンの飲み屋専門のあたしなどので、こういう巨大チエーン店に行くことはないのでなにか自分が、おとなになった気分だ。

クラスメートが示したのが、高校の自主遠足である。あたしがニコンFのセルフタイマーで撮影した。ペーパーはシーガルである。
今で言えば、ゼラチンシルバープリントだな。世界中に散在するあたしのオリジナルプリントの中で「最古」のものであることは間違いない。
まだ変色していなかった。

この震生湖というのは何処か分からなかった。幹事の中西君によればこの遠足の目的地はあたしが決定したのだという。その本人が忘れているのだから、大過去である。

下が散会した時の記念写真である。
半世紀という時間はまだ人間存在が「残って」いる。これは偉大なことだ。
これが1世紀となると、人間存在など綺麗に「払拭」されている。
これはもっと偉大なことであろう。

★カメラはXZ-10

2013年6月 4日 (火)

ライカM3と周辺機器

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この間、有名なハービーずバーにご招待を受けた。大西みつぐさんと行ったのである。
そこでハービーさんはライカM3のカナダ製の切り番を見せてくれた。すごく綺麗なライカである。あたしが翻訳した「ライカ本」の番号リストをハービーさんは示した。それは珍しい切り番、たしか末尾が000なのである。

ストリーミングで1時間15分ほどの番組であった。あたしは左手にグラスを持ったままで会話した。トークは大西さんとハービーさんに任せて、もっぱら呑み役のつもりであったが、あとでその番組を見た人から「一番饒舌に話てました」と指摘を受けた。自分が第三者かえらどう見えるのか、そのギャップが面白かった。

もとはと言えば、大阪芸大で客員教授を拝命した「三人組」というわけなのである。

ハービーさんはライカM3党だ。あたしは最初に持ったのがM2まのでM2党のつもりでいるが、M3も使う。
このところはこういう組み合わせが多い。
これはレンズとアクセサリーということになるのであろうが、今風に言えば、周辺機器ということになるのであろう。
M3は二階巻き上げで犬の耳のストラップアイレットに限る。

というのはM2の場合、そういうバージョンがないからである。
レンズはフェド28ミリでこの話は今度出る(といっても二年半前からそういってるが、今度は本当に出る)あたしの作品集「ライカ マイ ライフ」でも書いたが戦前のソ連製のレンズが「個性的」なので気に入っている。
その個性というのは現代のカメラメーカーとかレンズメーカーとかは商品戦略では絶対に踏み込めない領域だ。
すなわちこの28mmは開放値はf4,5であるが開放だと周辺に光が来ないので真っ暗になってしまう。こういうレンズが製品化されたソ連は凄い国だ。

ファインダーはソ連製のターレットファインダーを5本のレンズを外して、28mm用だけ残したホームメードで四十年前にウイーンのがらくたカメラ店で買った。

ストラップはあたしが高校生の時に、つまりライカをまだ手に入れる前に鎌倉河岸のシュミット商会で買ったもおである。

ハンドグリップは最近手にいれたものだが、入手経路は失念。
これはフィルムカメラとしては、かなりのハンドリングの良さなので気に入っている。

★カメラのスタイリングはXZ-1

2013年6月 3日 (月)

昔、イスタンブールのカフェをE-1で撮った

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オリンパスのE-1を使い出したのはあれは何時であったか、十年近く前だよな。

当時、あたしはトルコ航空を「通勤路線」に使っていた。
イスタンブールはハブ空港であるから、東京からイスタンブールを経由して、欧州への連絡は良かった、
1970年代の欧州にはトルコからのガストアルバイターが多かった、それでイスタンブールからとくにウイーンとかベルリンへのコネクションが良かった。

ビシネスクラスの往復チケットを4枚セットで買うのである。実際にはそういうチケットは存在しないが、業者さんから4往復だとかなりの割引になるのでそれを利用していた。

もっとも当時は夕刻に東京からの便が到着すると、ウイーン行きは出た後であるから、イスタンブールに一泊するのである。これは良い休息になった。

町が面白いので、そのうち行きに二泊、戻りに3泊するようになって、欧州に仕事に行くのかイスタンブールに遊びに行くのか分からなくなった。

イスタンブールを歩行していて「とんでいすたんぶーる」という歌があったのを思いだした。ただしあたしはその歌が流行した時期に日本に不在1973-60だったのでその歌は知らない。

イスタンブールの定宿はホテルアルザーというブルーモスクとオベリスクが目の前に見える好立地のクラシックホテルである。眼前の広場に観光バスが何台も到着するような場所であった。
そこからあたしは歩いて、グランバザールの中を通って、労働者街のこのカフェに毎日ゆくようになった。

店の中は男達でいっぱいである。ようするに立派な男性が午前中からこういう場所で暇つぶしをしていることを極東日本などでは恥ずかしいことと思うらしいが、ここでは違う。
立派なオスマントルコ精神だ。
器量が最初から異なるのである。

カウンターのキャップをかぶった親父のことを懐かしく思いだした。

★カメラはE-1 レンズは失念。多分ズーム

2013年6月 2日 (日)

UR LORD

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LORDは岡谷光学製の35mmフィルムカメラである。
こういう表現が今ではプロパーなのではと思う。

現行の写真機は電子カメラではなく、カメラである。
それでクラシックカメラはフィルムカメラ。

まだカメラが市場に出始めた20年近く前、マンハッタンのカメラ屋でメモリのことを「デジタルフィルム」と呼んでいた。これはいかにも「物事を透視するアメリカンな言い方」であると思った。

だから現代にフィルムカメラを使うなら、これは「アナログメモリ」とか「ケミカルメモリ」と呼ぶべきであろう。
「コダックのケミカルメモリのフルサイズのモノトーンの感度400のが値上がりした」というような使い方をする。

フィルムカメラでは戦後の最初のオリンパス35というのが好きなデザインであった。機械感覚が溢れているので以来使っている。デザインもそうだけど、レンズがズイコー40ミリでこれが使い易い。この最初のロードもコンセプトは同じだ。シンプルで戦闘的だ。

トヨタのスタジオで初代のトヨタパブリカの800などを撮影していたのは、1971年だが、スタジオからスタジオでの移動の足はクルマの工場なのに皮肉にも自転車であった。なにか稲垣足穂が勤労動員でいすゞの横浜工場に動員されたとき、生産管理課とは手押し車でモノを運ぶ仕事であったのと似たようなパラドックスである。しかし自動車工場内を自転車で走行するのは楽しかった。

走りながらシンプルなオリンパス35で撮影した。それをカメラアートという英文カメラ雑誌に連載して居た時に、その時の作品を掲載して、ポートフォリオをスナップ写真の巨匠リーフリードランダーさんに見せたら、しばらく考えてから「このフォトグラファーはこの後、どうなったのか_」と聞かれた。
疾走する自転車のハンドルと流れ去る路面が実に転倒寸前の危機感を持ってそこに写っていたからだ。

オリンパス35は沢山持っているが、同系列のカメラにロード1がある。最初のロードであって、距離計はついていない。もともとロードの製品は全部が40mmレンズ付きなので距離計は要らないのである。

その意味からすると最初のモデル、ロード1型、すなわち「UR LORD」は小型フィルムカメラの本質に忠実である。

以下の書き込みあり。やっぱりなあ、、、 田村 彰英 ブログに書いてあったロード渡辺兼人先生少年学生のころ愛用

★カメラのスタイリングはOM-D

2013年6月 1日 (土)

酒亭「江戸一」の掟」

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東都の酒亭「江戸一」に最初に行ったのは何時からであったのか、はっきり記憶にはないが、入谷の鍵屋には19歳の時から行ってるから、その間、ウイーンなどに行ってお休みしていた時期はあるにせよ、すでに半世紀に近い。

藍染川の「根津の甚八」は、これは1984年頃、神楽坂の「伊勢藤」も同じ頃であろう。「江戸一」もその前後であると思う。

正しく午後五時にコの字のカウンターが開くのである。あたしは何時も猟場が真正面に見える位置からちょっとずれた、つまりコの字の角に座る。
酒は常に「白鷹」。

ほぼ一年ぶりにのれん潜って、定位置にすわる。それで思いだしたのは、この店がお銚子や皿小小鉢をさげないのは、後で勘定を計算する為であったということだ。

百鬼園は銀座尾張町の地蔵横丁の「みます」という酒亭で酒の手をあげたようだが、やはり計算の為にお銚子は片付けなかったと書かれている。

ずらりと並んだお銚子を見ていると、自分が大変な酔っぱらいであることを周囲に公言しているようでもあり、それが誇らしいような気持ちにもなる。
酒飲みの心理とは不思議なものだ。
ここには三十年故来ているわけだが、三十大統領にはここに10本のお銚子を並べると気分が良かった。

もっともこれは7しゃくであるから、10本ならべてもせいぜいが7合に満たないから大したことはない。
健一先生や百鬼園先生の時代には正一合であったから、これはなかなかであったと思う。

ここの刺身のつまは、あたしは全部食べる。それは「大女将」に指導されてきた結果であって、なにか母親に文句をいわれているような気分だ。
こういうのはいい。

この時には鰹がなかなかなので、行儀は悪いが二度注文してしまった。

★カメラはiPhone5

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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