フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

ロック ユー

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月31日 (金)

ライツニューヨークの折り畳みフード

1

木村伊兵衛先生のご命日。

あたしの誕生日。

樹齢六十又六。 6x6判 Route 66

レンズフードというのは、ライカ趣味の「我が儘の行きずまり」の感がある。
昔のレンズは実際、ハレが酷かったから、レンズフードなしでは撮影が出来なかった。
スミタールというレンズはそういうクラシック系列のレンズであるから、やはりレンズフードを必要とした。

しかもこれは良く出来た折り畳み式なのである。ところが世の中では、このクラシックなズミタールは人気のないレンズなので、その付属品であるレンズフードも安い。同じフードですズミクロンにつくのはなかなか高価である。

どっかのカメラ屋さんに行って、何も買うモノがない場合など、あたしはご挨拶かわりにこのフードを買う。手元にその手のフードの山が出来た。
しかしそのフードは全部がブラック仕上げである。それらはドイツのウエッラー製なのだ。

ライツのアメリカの総代理店であった、ライツニューヨークは戦争中には、ドイツは敵国であったから、ライツのカメラとかレンズとか各種のアクセサリーは輸入が出来なくなった。それで自国内で調達できるレンズとかアクセサリーを製作したのだ。
カメラは大したものは作っていないけど、仕掛け部品を組み合わせた、ライカスタンダードなどは、ドイツのそれと大幅にスペックが異なるので、これはコレクターズプライスになっている。

このフードは本家のそれはワンタッチでレンズに装着できるのに対して、ネジの締め付け式である。しかもクローム仕上げ。数が少ないらしくほとんど見たことがないが、もともとこういう変わったアクセサリーに興味を示すライカ人類は数が少ないから、これを持っていても誰も褒めてはくれない。
その孤高感覚がまた良いわけだ。

★カメラはOM-D

2013年5月30日 (木)

月の裏側のような古いウオッチ

Photo

昔、ロシア製時計の特集を某誌でやった時、山のようにソ連製の腕時計を買った。
はっきり記憶していないけど、この腕時計もその中に混じっていたらしい。

ロレックスもオメガもIWCも「卒業」した気になっているあたしは、素性のはっきりしない時計に近親感を感じる。ちょうど観光地の有名な場所よりも、匿名の路地裏が好きなのと同じ心理だ。

そういう時計の美的な評価のひとつに「月の裏側」というのがある。

ヘベリウスの月面図はいかにも天文学の格式がそこに感じられるが、あれは観察した月のこっち側の地図である。

小学校の帰りに、何時も道草を食う魚屋の店先に新聞の号外が貼ってあった、それはソ連の探査船が初めて撮影した、月の裏側の画像であった。

ただしアナログの微弱な信号は、月の裏側の歴史的な写真をほとんど「白色ノイズ」で満たされていた。

小学生のあたしはそれに感動したわけであった。

この時計の美学というのはそこら辺にある。それにこの時計はかなり正確なのも面白い。

★カメラはXZ-10

2013年5月29日 (水)

モスクワ「第一時計工場」のリストウオッチ

1

日本でのパネライの人気はもう20年ほど前からであろうが、十年前に フレンツエに行った時、ドウモの前にパネライの店があった。当時、あたしはモノマガジンの連載をしていたので、飛び込みで取材を申し込んだら、まずミラノに電話した。

変な東洋人が来たのだが、取材させて良いかというのであろう。
その取材はうまく行って、雑誌に掲載された。その後、日本のパネライの代理店の広報さんからお礼のメールがきた。

パネライは、あれは何というのか、左利きの為のパネライを持っていた。それをつけて、アテネに行った時、路上で数珠を売っている老人がいて、その代価5ユーロを払おうとしたら、彼は手真似でその時計とこの数珠を交換してやる、というのである。
高価なパネライもあたしが付けると、安時計に見えるのだ。

これはモスクワ第一時計工場が1927年だかに作ったポケットウオッチをリストウオッチに改造したモデルである。

10年前に某雑誌でロシア時計の特集をした時に入手した。
ベルトに穴を開けて使うつもりが、そのままカバンの底にしまい忘れていて、昨晩、発見したのである。

10年前のデジカメだと使うに使えないけど、1920年代のウオッチだと使う気になるのは何故であるうか?

★カメラはOM-D 14-42mm

2013年5月28日 (火)

カロワイド持って、雨の赤羽

2

Photo
東京の六十年代の優れたスナップシューターである、春日さんはカロワイドの使い手だった。彼の「世界写真年鑑」(平凡社刊行)のスナップの特集などにあたしは憧れたものであった。

オリンパスワイドが大ヒットして、それにあやかろうと1950年代には各社からワイドカメラが続々出た。その二番手がカロワイド、言うまでもなくコルゲンコーワのあのへそのない蛙のコーワが作ったカメラだ。

元祖のオリンパスワイドは目測カメラだったが、カロワイドには連動距離計がついていた。当時の写真界のスーパースターは木村伊兵衛と土門拳の両巨頭であって、スナップ写真がアマチュアの間で大流行した。
思えば、自由な時代であって、今のような「路上でスナップしてると、私服が文句を言いに来る」ような恐ろしい時代ではない。

土門先生などは、カメラ雑誌のスナップのコンテストの講評で、街中の女性の後姿をスナップした投稿者の写真を評論して「後だけではなく、前から撮れ。逃げられたら追いすがって撮れ」と言っている。
この真面目なしつこさは谷川俊太郎さんも土門拳氏にポートレートを撮影された経験としてこの前、森岡書店のトークの時に言っておられた。

スナップカメラである、カロワイドを持って、懐かしの赤羽に来た。
雨である。そのショットは数日前の本ブログでびじょびしょの公園のベンチにXZ-10-とカロワイドのツーショットがある。

赤羽の魅力はそのラビリンス性にあるが、新幹線の高架下に「そこだけ羅馬のような光景」があるのを発見して撮影したのがこれである。
右の偽欧州風プレハブ建築のドアの形と路上のオレンジっぽい色彩と崖の上の濃い緑が羅馬を直感させたのだ。

以前、あたしがなにかに書いた一節で「羅馬を表現するにはダークグリーンの松と、オレンジ色の土と崖があれば充分である」というフレーズがまさか極東の赤羽で意識の深部から浮上するとは不思議だった。

赤羽と羅馬とはあたしの脳内で「姉妹都市」になった。

ガードを潜って左を見たら、フェンスに囲まれた古い石があったので、ああ、ここは「ファロロマーノ」だなと再確認するに至った。

こういうカメラによる「見立て」というのは楽しい。

★作例写真はカロワーイド、プロミナー35mm カメラのスタイリングはGRで撮影。

2013年5月27日 (月)

FEDを持っているピカソの宣伝効果

154

ピカソがソ連製のフェドを首からぶらさげている画像が漂着した。
これはウルトラに凄い、宣伝効果である。

まさか、当時のソ連邦がピカソを起用したとは思えないが、そうなると実際にピカソがフェドを使っていたということになる。
広告でないとなると、これはもっと凄いことだ。

昔、東京に到着したばかりの欧州人と街を歩行していて、カメラ店の前のポスターを見たがいじんが「この東洋人は誰か?」と聞いた。キムタクがデジカメを手にしている広告なのである。有名人で売れるのはある種の限界がそこに存在する。
キムタクとピカソ。有名人度にあってはこれは比較にならない。

あたしは影響を受けやすいので、すでに何台もフェドは持っているのに、この広告効果でまた一台買ってしまった。

ウクライナから到着のフェドがシャッターがいい加減なので、光線漏れするなどはそれはそれで別の問題だ。

ところで、このピカソのフェドキャンペーンだが、現代の視点で見ると、彼がシガレットを手にしているのはマイナスポイントである。絵筆とフェドなら創造的芸術家であるが、シガレットが「動くアクセサリー」とは昔の話だ。

数年前、チエコのハベル大統領のハードカバーの写真集が出た。その表紙の大統領の肖像はなかなか良い感じに写っているんであるが、手にシガレットを持っている。
これは今の価値感ではちょっと、、、ということになる。

2013年5月26日 (日)

フィルムのペンFを使う

Photo_2

ペン5(あたし流に言えば、ぺぺんぺんぺんぺん)でフィルム時代のペンのようなクラシックなロゴが復活したのは良い感じだ。
子細に観察すると、フィルムのペンはオリンパスとペンの間に「ハイフン」が入っている。デジタルのペンにはそれはない。

ツイッターで友人がかのユージンスミスがペンFを手にしている画像を上げていた。ブラックのペンを縦に構えているから、これは横位置での撮影である。

そういうのを見ると、影響を受けやすいあたしはむらむらっときて、トートバッグに装填したペンを入れたりする。これはクロームである。
スミスのペンはブラックである。
当時は「社会正義のフォトジャーナリストはブラックカメラで街にひそむ」というような風潮 があったけど、今の時代はクロームだな。

こうしてペンFを手にすると上質なクローム仕上げだ。
ペンFは当時は大流行で、あたしの修学旅行などでも、父親のペンFを勝手に持ち出してきたクラスメートがいた。
当時は、フィルムが倍撮影できるのが人気であったが、これは今でも通用する論理だ。
55ステーションなどでもちゃんとハーフでも通常の料金である。

ペンの今風な持ち歩きはやはネックストラップではなく、リストストラップではないかと思う。

トートバッグにフィルムのペンと、ZX-10と、アイパッドミニが入っていれば、どこに行っても退屈はしないであろう。

★カメラはXZ-10

2013年5月25日 (土)

Fのトートバッグ

153

思うに、あたしは日本人でかなり初期にトートバッグを使った人間ではないかと思う。

それは三十年前のマンハッタンであって、8x10の機材を運搬するのに、MoMAで大きめのトートバッグを買ったのである。

これにホルダーを6枚いれて、デイアドルフを入れて、中型のジッツオを持ってどこまでも出かけていった。一年でそのMoMAのトートバッグはすり切れた。

これを「もまばっぐ」と呼んでいた。この年は百年来の寒波で実に寒かった。撮影中に首からぶら下げている、セコニックのメーターがばらばらになって路上に散乱した。

撮影中に、モマバッグと口の中で唱えてみる。零下十度以下になると口が凍えて、モナハックとしか言えない。あ、これはかなり寒いなと確認するのである。

トートバッグはリコーGRDのブラックのを長くつかっているので、最近、穴があいてきた。

手持ちのトートバッグの調査をしたら、こういうのが出てきた。

Fというロゴがついている。専門家に鑑定してもらったら、ブランド品らしい。

これは数年前に日本路地裏学会の桃木会長からいただいたものである。

たしか誕生日のプレゼントであった記憶がある。同じ時にあたしみたいな体型のちょびひげの豚が飛行機に乗っているイラストのついたシャツもいただいた。

最近はこのトートバッグを使っている。

偽ライカ同盟公式のトートバッグもあるが、どうも「ランドリーバッグ」の感じがするのである。もういいじじいなのだから、せめてトートバッグくらいはお洒落にしようと思う。

この間、曙橋のカレー屋でバーゲンにて、レトルトカレーを八個買った。それをそのままこのバッグにいれて、東上線の終点の小川町まで往復したが、その携帯性はかなりのものである。

2013年5月24日 (金)

大雨の赤羽の翌日は快晴だった

152

2

1_2

1973-80年のウイーン滞在時代、家人とケルントナー通りなどを徘徊している時に、「ここは赤羽ではないな」という言葉遊びがあった。

これは日本の雑多な風景を揶揄しているのではなく、そういう日本のカオスへの憧憬なのである。

マンハッタンから戻ってあたしは東京の西北にしばらく住んでいた。

自転車で、志村坂下から赤羽に出て、岩淵の小山酒造で立ち飲みをやるのである。

帰路などはアルコールで加速されているから、実に速かった。こういう危険運転をやめたのは、四半世紀前、佃に移ってから飲酒自転車で転倒したのがきっかけである。

マンションの敷地内の道路に朝、出かける時にはなかった中央分離帯が夜には完成していた。こっちは何時ものようにその道路を斜めに走行するから、分離帯にぶちあたった。

身体が飛んだので、自転車に巻き込まれて骨折という事故にはならなかったが、それから10日は動けなかった。

それで今は自転車を廃している。しかし赤羽の裏側にあたる位置に赤羽岩淵駅が出来たので便利になった。

1980年代、小山酒造のそばの小山の上に寺院の跡があって、その周囲が墓地だった。天気の良い日にはこの小山に登って「国見」をしたものであった。小山酒造の立ち飲みは20年以上も前になくなった。

その「お墓の小山」のことを久しぶりに思いだしたのである。

大雨の中、午前にアローカメラに行ったら、二代目が傘を貸してくれた。その傘で雨に濡れつつ、赤羽台の上からかつて愛した「お墓の小山」を探した。

目標はすぐに発見できた。高台から見るとその小山の部分だけ、灌木が高く茂っているのである。しかしあまりの悪天候なので「遭難の恐れ」がある。

赤羽台の公園のベンチなどびじょぬれで、座ることもできない(画像参照)

「カメラ徘徊老人、赤羽の墓山で行方不明」

のニュースネタになってはみっもない。

その翌日は快晴の夏日であったので、また赤羽台の上からかの「墓山」を確認してから現地にいった。

以前は自由に登れたのが新たに柵と門ができて「檀家、関係者以外は入場禁止」とあった。あたしは檀家ではないが、関係者であるからそのまま登山した。

三十年ぶりに見る、山頂からの風景は変貌していた。

まあ十年を三階繰り返したのだから当然である。

★カメラはXZ-10

2013年5月23日 (木)

タナック持って快晴の桃園緑道を歩いた

93680026

93680027

普段はズイコーやらライツのレンズを使っているが、そのほかに大事なのはソ連製のレンズである。

ウイーン時代にはソ連製のオリオン28ミリを愛用していた。
カメラメーカーやレンズメーカーはお客さんに沢山のレンズを買ってもらいたいから、次々と魅力的なレンズを出してくる。

一方でHCBは沈胴のズミクロン50ミリしか使わないし、木村名人も同様である。ロバートフランクはツアイスイエナのビオゴン35ミリだし、フリードランダーはズミクロン35ミリである。
スーザンゾンタクの指摘のように、優秀な写真家は単純な機材で仕事をするというのは真実だ。

だからと言って「作例写真家」が沢山のレンズを使って視神経の認知症になるのを非難するつもりはない。これこそ、時代を輪転する力なのである。

あたしは時々、シンプルな戦前のソ連レンズに戻る。フェド28ミリというのである。3本持っているが、そのうちの一本はレンズが曇っている。
顔本友達の「ひげのびた」さんにそれを清掃してもらったら、ちゃんと写るようになった。

カメラの本体は田中なので田中光学のタナックというカメラにつけて、最近凝っている、桃園緑道を徘徊した。

これは荻窪から阿佐ヶ谷、高円寺を経由して中野から神田川に注ぐ小さな流れであるが、なかなか興が深い。

中野堀越学園の近くの緑道にこのような巨大なコンクリートの構築物がある。古いアパートの一面に窓がないだけなのだが、こうしてみると現代彫刻に見えるし、なにかウイーンあたりにある、第三帝国時代の防空陣地のようにも見える。

いったん、視点がそのような「みなしモード」に入ってしまうと、その反対側にある住宅はオランダあたりの労働者街の画一的な建物のように見えてくるから面白い。

Photo

★カメラのスタイリングはXZ-10

2013年5月22日 (水)

隅田川のガソリンスタンド

Photo_2

1

2

佃煮ヒルズの隅田川の向かいに、油屋さんがある。
ここで、水上消防署の消防艇も、東京水辺公社の遊覧船もみな、燃料をいれる。

その感じはドライブスルーのハンバーガーショップというか、いや、あたしにはそういうボートが「ああ疲れた、、、」と一杯やりにくる、立ち飲み酒場のように見える。

隅田川リバーサイドバーだな。

昨日のこと、暗くなってからこのドックに小型のタンカーが横付けになった。これは上流の精油所から油を浮きドックに補充にきたのであろうと、双眼鏡で観察していたら、ドックにボートを係留した二名の男達はそのまま、桟橋をわたって、遊歩道の先の歓談を登って帰ってしまった。

恐らく、有楽町線の新富町のメトロに向かったのであろう。
なにかそれぞれの人生の秘密を見たような感じがして面白かった。

翌朝、佃煮ヒルズのバルコニーにこういう道具を揃えて、アイパッドで原稿書きしていたら、午前10時前に、二せき目のタンカーが横付けになった。
それと前後して、遊歩道の階段を下りてくる二名の男性、これは昨日の人であろう。

油屋さんの名前は双眼鏡で観察すると、「大和田石油11」というのである。
接岸した小型タンカーと油屋さんの男性と二名ずつ、計四名で、これはタンカーから浮きドックにホースで石油を注入している様子である。

男達は忙しく動き廻っているのを、双眼鏡で観察した。しばらくするとみんなリラックスしている。これはサボっているのかと思いきや、その時間帯には石油が注入されているのである。

接岸した小型タンカーの喫水がかなり高くなった。これで作業を終わったのかと思ったら、今度は別のホースで浮きドックと連結されて、また最初の喫水のレベルに戻ったので、別の石油をドックからタンカーにいれたようである。

こういうプロの働く男の行動は見ていて爽快である。
全部で1時間あまり。あたしはずっと双眼鏡で観察していた。
小型タンカーはそのまま、するりとドックを離れて、隅田川の河口に向かっていった。

★カメラはOM-D 40-150

2013年5月21日 (火)

「日本写真の1968」の あたしのプリントですが

148

146

147

東京都写真美術館で「写真の1968」という企画展が7月まで開催されていて、ビッグネームの間にまじって、あたしも数点、写真を展示している。

これは都写美が創立された時にコレクションになったプリントであるから、「あたしの所有」ではない。
それでなにしろ、1969年にプリントしたのであるから、変色しているのではないかと気になって、怖いから見に行く気にもなれなかった。

MoMAでアメリカの現代写真を研究していたのは、30年前であるが、世界的に名前の知られた巨匠のプリントの中には変色しているのもあったので、へえ!と思った。それらのデーターは7冊の茶色のメモ用紙に書いてあるが、機密事項だからここで開かすわけには行かない。

都写美に行った人の報告では、あたしのプリントは別に変色もしていなかったそうであって、やれやれと思った。
図録を送ってきたので、見た。

そこで痛感したのは、写真家の視点というのは永く継続するものだなという、一事である。知り合いのドイツの現代美術家で人生で三度大きくその表現スタイルと買えている人がいる。
あたしからすればそれは「人格の破壊」であって、写真家の視線などはストレートなもので、時と時代に合わせて変えられるような「代物」ではない。

写真家の視点とは「視神経の癖」である。日常の行動の癖だって、変えるのは困難であるから、なんで写真家の視点などを変えることができようか。

ここにあるプリントがなぜ今、都写美にあるのかを思いだした。
1969年、大学四年の時に銀座のニコンサロンで開催した「TODAYー東京」という個展では、四つ切りのモノクロ印画(当時はゼラチンシルバープリントなどという小賢しい名前はなかった)を、ドライマウント加工で展示した。
100点ほどであった。
展覧会が終わって、撤収の時にプリントは欲しい人にあげたのである。

理由は簡単で100枚のドライマウント加工した写真は「かさがありすぎ」で保管などできない。
1973年から1980年まウイーンに行っていた。
1980年に帰国した年かその翌年に金子隆一さんから「今度写真美術館を東京都が開設することになった。ついてはプリントを収蔵したい」と電話(当時はメールなどない)があった。

先のドライマウント加工のプリントは一点も残っていないが、写真展の時にセレクトしなかった百点ほどがあったので、それが収蔵されたのである。
LPレコードのB面みたいなものか。

あたしの町を撮影する視点が変わらないというのは、上の図録の写真で空中にドアのあるのなどがそうである。これはまだ原平さんが「トマソン」を発見する以前のことである。
この間、桃園緑道を歩行していて、空中にドアのある建物にでくわして、何か、懐かしさを感じたら、その数日後にこの図録が届いたので、こういうのがメランコリーオブジエなのかと思った。

★複写カメラはiPhone5

2013年5月20日 (月)

時を喫っして、ひまわりの種を数える

Photo

日本では街中の雑踏の中で、ひまわりの種は売っていない。
イスタンブールでもデリーでも、ハノイでもブダペストでも路上で小袋にはいったひまわりの種を売っている。

イスタンブールで対岸のウシュクダラにフェリーを待っている間に、波止場に座り込んでいる物売りから、一袋のひまわりの種とコップ一杯の水を買う。
そこらに座り込んで、種をひとつずつ歯で噛んで、中身を取り出す。
これは美味である。

モノを喰っているというより、時間の経過を噛んでいるという感覚だ。
ようするに時間が「ゆっくり流れている地帯」(この用法は大嫌いで使ったことがないが、今、はじめて使った)には、ひまわりの種が有効なのである。

1983年の夏のマンハッタンは百年来の暑さであった。あたしはマンハッタンはSOHOノースエンドの、ウエストハウストン通りを北に見るロフトで一夏を過ごした。
通りの中央の分離帯にある日、いきなりひまわりが咲き出した。これは殺風景なマンハッタンの風景を緩和してくれた。
立派な花が咲いてしばらく時間が経った、午後に東洋系の数人の男女がきて、ワンブロックの長さに茂った、ひまわりを収穫していった。
ひまわりの種が食用になるのは知っていたけど、その生きた実験を見せられたのはその時は初めてだった。

この間のハノイ滞在中に、日本円をドンに交換にいった。町の中心部の旅行社に行ったら、受付の女性はひまわりの種を剝いて食べていた。
うまそうなので、ちょっとくれないかと言ったら、袋ごとくれた。
日本円1万円を交換するのはそれは上客である。

そのひまわりの種をハノイのカフェをはしごする時に、持ち歩いてミルク入りのコーヒーと一緒にちびちび食べていると、時間は速やかに過ぎ去るのである。
ハノイの若者がカフェで休んで立ち去った後には、ひまわりの種の殻が散乱している。その料で滞在時間が判明するということもその時に知った。

日本でひまわりの種を買ったら、殻が剝いてある。ライカのライカインコにも、文鳥の文ちゃんにも、本来殻付きを与えるのが正しい。殻を剝いている時に小鳥は自分の人生(鳥生)を実感するのである。

こういう殻なしのは食べ易いけど、時間を数えるには向いていない。

★カメラはXZ-10

2013年5月19日 (日)

浅井宏氏の101歳の誕生日

Photo

家人が「今日はおおきいパパの101歳の誕生日」と言った。

ああ、そうかと思った。「おおきいパパ」とは家庭内用語であって、孫におじいちゃんと言われるのがいやだった、義父が自分で命名したのである。
つまり「ちーまま」の反対語であるという認識もできる。

あたしもあたしの母も義父も5月生まれなのである。

このところ、ずっと義父の遺品のロンジンを使っている。ロンジンは沢山持っているが、その中ではこのロンジンが一番新しい。
義父の腕にこのウオッチを見たのは数十年前であって、当時は「なんとも地味な時計だな」と思っていた。

ところがあたしが同じような年代になってみると、その地味さがなかなか良いものだということが分かってきた。

その意味で「じじい」になることの現実は、あたしが若い当時にじじいをみて、退屈そうだと思ったのとは、まったく異なる現実があることが分かった。
これはなかなかの発見であると思う。

しかし冷静に考えると、クラシックなウオッチもクラシックなカメラもそれは誰かの遺品であるという厳粛な事実がある。

この一事に気がつくと、そういう物品に対する真摯な態度が自然に出来るように思える。

デジカメもそういう方向の存在が理想なのかも知れないが、、、

★カメラはiPhone5

2013年5月18日 (土)

働くボートと遊びのボート

Photo_2

高層タワーブームが生まれた当時はあたらしいモノ好きなので、タワーの最上階に住んでいた。
上と下では天気が違うのである。
お天気の怪しい日に、傘を持ってでるかどうかは、高倍率の双眼鏡で下界の通行人が傘を持っているかどうかを確認した。

加えて、前後して出来たばかりの六本木ヒルズの49階で10年間仕事をしていたので、ますます空気の薄い所に住む人間になってしまった

これではいけないというので10年前に住処は下の方に移動した。ここなら双眼鏡なしで橋の上を通る人間の性別、年齢、それに同行の犬の種類までわかる。

楽しみはバルコニーから観察する船の行き来である。
黄金週間の時には、もっぱら観光の為の船が通過していたが、あたしの好きなのはこういう仕事をしている、働く船である。
これだけの巨大な物体を陸上で運搬するのはまず無理であろう。

十年前だったか、アローカメラの企画で買取名人の故郷、小豆島へのツアーがあった。小豆島は雰囲気がシシリー島に似ているというのも面白かったが、それ以上の興味は、大阪城の石垣はここで切り出して、それを水路で運んだということだった。

水運というのは実に大した運搬方法だなと改めて感心することしきりである。

★カメラはXZ-10

2013年5月17日 (金)

荻窪の老舗カフェ「邪宗門」

Photo

2

十数年前、荻窪にはよく通った。

荻の茶屋、ウイスパーズカフェ、オリエンタルグリーンなどがその店名である。それらのお店はすでに全部なくなった。

一日、その最初の2つは店の店舗は他の店になっている。三番目のオリエンタルグリーンというのは、駅から大きなお寺の境内をぬけて北にいった場所の住宅街の二階建ての立派な建物で、年中、クリスマスめいたイルミネーションがついていた。
フレンチなのであるが、ボトルのブランデイなどが原価の値段で、なにかそういうものを呑みつつフレンチを食べていると、香港の小金持ちになった気分であった。

その店の奥にドアがあって、これはいかにもその奧に気のきいた、パテイオがありそうに思えた。これはあたしが欧州で行ったそういうお店の記憶と二重写しになってしまった結果であるが、しばらくこの店に通ったらそのことが事実であるかのように錯覚されて、ドアの向こうには緑したたる羅馬あたりの、中庭であると確信するに至った。

結局、そのオリエンタルグリーンの場所は特定できずに、荻窪駅にもどってくる途中にこの界隈きってのカフェの老舗「邪宗門」が開いていたので吃驚した。

最近、何度もこの前を通過していたのだけど、邪宗門の門は閉じていたのである。

隣のお店がなにかの物産展の会場でそこの女性が「しばらく仕舞っていたけど、またあきましたよ」と教えてくれた。

大昔には一階も席があった記憶があるが、15年前には二階の一番窓よりの席に座った。それで今回もそこに座った。

上の写真の小さい窓からどのように見えるのかと、撮影したのが下の画像である。小型なXZ-10を持ってしても、このアングルが精一杯である。デジタル一眼レフではレンズが大きすぎて撮影は出来ない。

急な階段の二階である。マダムは闊達しして声も若い。もう58年もお店をやっていると聞いた。あたしの物心ついてからですら、邪宗門は常にここにあった。

その間口が一間の小さい店が内部にはいると広大無辺な空間に感じるのも痛快であった。

★カメラはXZ-10


2013年5月16日 (木)

PAXという名前の「らいか」

Photo

国産のライカコピーモデルを、ひらがな表記で「らいか」と書くことは、10年以上前にあたしのカメラ本で勝手に決めたことであるが、今でも顔本などでその用語を使ってくれているカメラ人類さんが居るのはうれしい。

それで確か大和光機と言ったと思うが、そこの「らいか」がこのパックスである。このモデルは1950年代にそこそこに人気があったようで、M2とかM3というような、ライカをなぞったモデルも出ている。

この「らいか」の形式名は知らないけど、巻き上げノブのスタイルからしてバルナックライカがその土台にあるな、と手にとって見ると案外に角張った本体は旧式のキヤノンの4SBにも似ている。それなら「らいか」ではなく「きやのん」でも良いのであるが、やはりそのオリジナルが「舶来品」でないとこの命名は似合わない。

カメラジャングルからオリンパスペンFTが発掘されたとの期を一にして、パックスこと、らいかが出てきた。

二十年ぶりくらいに実物を見て、感心したのはその仕上げの良さであった。あたしが若い当時、ライカ以外にはオリンパスがるのみという時代には、こういう、らいかはなにか「ぱちもん」に見えたのであるが、2013年にこれを冷静に観察するに、金属仕上げの程度の良さなどは完全な精密機器である。

いや、精密機器というよりも、これは耐久消費財である。こと、カメラに関してはこの「耐久消費財」という、属性が完全に失われてしまった。

これが現代のカメラ産業の宿命なのであろう。

ひいおじいさんのらいか、あるいはライカは実在感があるが、おじいさんのデジカメというのはどうも感覚にコミットしないのである。

現代の我々の目指す道は、さしずめ半世紀後に尊敬を受けるような「でじかめ」なのではなかろうか。

★カメラのスタイリングはXZ-10で撮影

2013年5月15日 (水)

オリンパスペンのデザイン

Pen

新型のペン5、あたし流に言えば、ぺぺんぺんぺんぺん(これでペンを五回唱えている)は、実機はまだ手にしていないが、なかなかよさそうである。

カメラ雑誌ならその高性能を列挙するであろうが、それはそれで大したものだが、あたしのような青年時代にペンの洗礼をうけたクラシックペン人類にしてみれば、ペンはずっと継続して「ペンのデザイン」であるのがうれしい。

この場合、ペンとはペンFに始まるハーフサイズのペンの意味である。
ペンの5型というのが、なにかライカM5とか、iPhoneの5を連想させるのであるが、ライカM5の場合にはそれまでのデザインを一挙に変更して、不評を買ったりしたし、iPhone5の場合にはその前のモデルよりちょっと大きくなっただけであったから、デザインの進化(この場合には形状が変化しないことも重要なデザイン上の進化である)の系譜からすれば、ペンの最新モデルはiPhone的なデザインの進化ということになる。

三年前にジョブスが「iPhone4はクラシックライカより美しい」とそのプレゼンで言ったので世界が震撼したのは記憶に新しけど、そのロジックから言えば、ペンの最新型もライカのデザインを超えているということになる、

あたしは現役時代にペンFを知っている「古参党員」であるから、一連のペンのシリーズでなにかがかけているなと思っていて、それが何だか不明のままに数年が経過して、今回、発見したのは、オリンパスペンという文字列が欠けていたという一事であった。

新製品のオリンパスペンが出て、一番喜んでいるのは、オリンパスペンFTである。この二機種には時代を超えた「連帯感」がある。
口さがない連中は「五十年前のペンのデザインを今の修理可能期間がたった10年のペンにそのまま踏襲するのはナンセンス」という声があるが、あたしはそういうステートメントは支持しない。
こういう批判をする向きは最初からオリンパスペンのデザインを認めているカメラ人類であることは言を俟たない。

★カメラのスタイリングはXZ-10

2013年5月14日 (火)

暗いレンズのセットという選び方

143

一部のオリンパスファンには絶大な「人気」のあるレンズが、スナップショットズイコー15mmf8である。これはあたしの個人的な命名であって、本当はレンズキャップレンズというネーミングなのだけど、このレンズの実力を良く言い表していない。

トリプレットはレンズの収差補正の完成モデルだけあって、実によく写る。

この前のハノイ行きと、その後のこの春の東京大周遊では、かなりのショットをこのレンズで撮影していた記憶がある。

同様な小型で良く写る広角レンズをライカとらいか(かたかな表記はレンジファインダーの国産機を意味する)用に手持ちのレンズの山の中から選択してみた。

それがソ連製のフェド28ミリである。ソ連製のオリオンというブランドの28ミリはもう40年間ほど愛用してる。これは戦後の製品でトポゴンタイプだ。

ここに登場のあたしが最近、使っているのはその前の戦前のレンズであって、レンズ枚数は不明ながら、4枚よりは多そうである。レンズが曇っているのを友人にお願いしてクリーンアップしてもらった。

戦後のオリオン28ミリは明るさはf6なのに対して、戦前のはf4,5である。当時のツアイスのテッサー28ミリは明るさはf8だし、ライツのヘクトール28ミリの明るさはf6,3だからソ連の戦前の玉は異例の明るさと言って良い。

シャープネスも充分である。一昨年はこのレンズをライカM5に使っていた。ただしレンズの開放では周辺がかなり落ちるのだけど、それは表現の一端であって、あたしの好むところだ。

昨年の夏に出した、OM-Dワークショップ(えい出版社)では、このフェド28mmをOM-Dにアダプターで装着したのを作例と共に紹介している。

そうなると、常用のレンズ三本が欲しくなるのは、カメラ人類の常である。ここに揃えたのは、やはり戦前のフェド100ミリf6.3と戦後早い時期のフェドの50ミリf3,5である。ソ連レンズ三兄弟ですね。

こういうレンズを使っていると、ロドチエンコとは僭越ながら、戦前の写真家の気分がちょっとは分かるような気がする。

★カメラとレンズの写真はXZ-10で撮影。

2013年5月13日 (月)

神田明神の宵宮にフランクを語る

Photo

神田明神のお隣のギャラリーバウハウスで、昨年と今年とで四部にわけて、ロバートフランク展が開催されている。
その第四番目のセッションに合わせて、フランクに関する「ゴシップねた」を語った。
開場満員御礼。

控え室でまっている時、開場があまりに静寂なのでお客さんが数人しか居ないのではないか、と「臆病口」(これは能楽用語)から思い切って会場に出たら、超満員であった。その静寂さはお客さんがあたしの「出」(で、と読む)を待っている静けさなのである。ありがたいことだ。

展示の内容はHPを見ていただくとして、ギャラリーバウハウスは、写真の照明が明るいのがよい。
デユーラーのオリジナルデッサンならいざしらず、二十世紀の写真芸樹は、本来明るい状態で見るべきものだ。

かのユージンスミスも「自分のプリントはライトバリュー17で見なければ理解できない」と言っている。東京路写真美術館も、横浜美術館も鎌倉近代美術館も展示が暗い。
それは関係者さんが、作品を思ってのことであるのは分かるけど、暗くて、見えないのでは本末転倒だ。

昨年、鎌倉近代で、石元泰博さんの「桂」を見ている時、あまりに暗いのでそのことを連れと小声で話していたら、椅子に座っている女の人に叱られた。
あたしはささやいていた筈であるが、なにしろ広い展示室に3名の観覧者なので、椅子に座っている女性は業務特権であたしを「取り締まり」にきたわけである。

写真ギャラリーでは

「音声の制圧より、もっと光を!」
と声を大にして言いたい。

この間の北井一夫さんの東京都写真美術館の展覧会でも、やはり展示が暗かった。それで家に戻ってから、図録をよく眺めた。これでは本末転倒だ。
その照度というのは、ハノイのホーチミン廟の中の暗さと同じであった。

さて、ギャラリーバウハウスはその意味で、照明は及第点である。
東京カメラ倶楽部の田村代表が来てきれたのも嬉しかった。

会場まで突撃隊長のクルマで行った。そこかしこでは神田明神のお祭りの宵宮である。
その界隈を通過して明神様の高台の隣のギャラリーに行ったその印象は、なにかフランク展そのものが、宵宮のような感じがしたのも妙であった。

フランクはすでに「信仰」であることは確かだ。
しかしあたしはラビであるというわけではない。

★撮影は小瀧館長による

2013年5月12日 (日)

きゃうと

2

Photo

大昔、京都に友人の紹介で、もう永く京都にくらしている婦人に会いに行った。鴨川の東側の瀟洒なお住まいであった。

記念に明治時代の和綴じで木版のガイドブックをもらった。それは今も持っていて、時々見ているのである。

これは上下二巻本で、名所旧跡やら、人力の値段やらが書いてある。
そのタイトルが「きゃうと」なので、あたしは今でも京都は、きょうと、と発音する。

そのきゃうと訪問だが、この前の大阪芸大の講義のオフの日に、なにわの稲荷から北に歩行して、靱公園の中を突っ切ったら、そこは淀屋橋に出たので、むらむらっとなって、お京阪ででかけたのだった。
交通費が四百円というのは安い。大昔にはお京阪には、「テレビカー」というのがあったな。

三条の大橋を見て、外人観光客が吃驚するのは、その欄干が「木製」であることだ。これが古びた町屋のファサードみたいな色合いである。

三条大橋の西詰に「いちげんカメラ」があったのを思いだした。
これは1960年代の話で、間口一間半の店にはなかなかに玄人筋のカメラレンズが並んでいた。
店に入って、値段を聞いたら、おかみさんが「いちげんはんにはうりまへん」と言ったので、きゃうとだなあと感心した。

相手のあたしは目のつりあがった、全共闘みたいなあやしい青年であったから、ていよくあしらわれたのである。

以来、仲間うちでは「きゃうとのいちげんカメラ」はかなり有名だ。

その店は代替わりらしく、釣り道具のルアーなどを扱う店になって四半世紀が経過したが、今回、見たらまた工事が入っている。

久々の京都であって、土地勘が狂った。本当は四条の東華菜館にゆくつもりであった。それでもカメラ散策にはちょうど良いので、先斗町(これを、あたしは、せんとちょう、と読む)の路地を南下した。

★カメラはGR

2013年5月11日 (土)

谷川俊太郎さんはOM-Dユーザーです

Photo

この前の週に佃煮ヒルズの近くの新川の森岡ギャラリーで、谷川俊太郎さんの写真の個展があった。その最終日に飯沢耕太郎さんが聞き手で、大詩人の映像論をうかがったのが面白かった。

希代の詩人のお話をきいて、木戸銭が千円。しかも作品は額付きで、五千円なのである。無名の自称写真家という怪しい連中がとんでもない高価な値段で写真に値段をつけている現代には、「谷川俊太郎を見習え!」である。

谷川さんはなんせ土門拳にポートレートを撮影されているのだ。

谷川さんの写真集「写真」を求めて、お話をききながらぺらぺらめくっていたら、谷川さんのセルフポートレートがあって、鏡の中の大詩人はタンクトップ姿でかっこいいのだが、お持ちのカメラがOM-Dなのである。

こういうのは最大の広告効果だな。

著名タレントを起用した一大広告戦略より、ずっと著名な大詩人が持っているカメラの方がその効果は何万倍である。なぜなら前者は広告であり、後者はメッセージであるからだ。

その講演会で「昨年に、あたらしいデジタルカメラを買いました」というのはこれであったのか。

★写真という名前の写真集を複写したのはXZ-10


2013年5月10日 (金)

奈良時代のカメラ店

2_3

1_3

なにわを徘徊しようと、なんばのホームに立っていたら、奈良行きの電車がきた。
それで奈良のカメラ店で記憶に残っている店を再訪しようと思った。

奈良の記憶の中の渋いカメラ店は二軒あって、ひとつはJR奈良駅前の店だが、これはすでにない。
もうひとつは、近鉄奈良のアーケードから興福寺に行く途中、猿沢の池の手前にある、鹿煎餅などを売っている、修学旅行相手の小店の並びにある。

もう閉店しているかと思ったら、こっちはまだ存在した。まず奈良時代後期のカメラ店と言ってもよさそうだ。

この店のウインドウを撮影してなにかの印刷物に発表したのもすでに四半世紀の昔である。

★カメラはXZ-10

2013年5月 9日 (木)

阪堺電車で南を目指す

4

1_2

2_2

3

40年前の最初のなにわ体験で凄かったのは、阪堺電車である。
天王寺の歩道橋の上から、緑色の単行の電車を見て、いいなと思った。
稲垣足穂の書いている、神戸の大正時代のボギー車で夕暮れの街の坂を急降下する電車というのはこれだなと思った。
足穂は船場の北久宝寺町の生まれだから、当時の大阪の阪堺電車もその記憶の要素に入っていたかも知れない。

四十年ぶりに電車に乗ろうとしたら、乗り方が分からない。電車は通りの真ん中にとまっているのに、そこに行きつくことができない。
これは「なにわのカフカ」なのである。

いったん地下道に降りてそこから階段でホームに上がるしか方法がないことに気がついたのは数分かかった。入り口が分からない点では、これは銚子電鉄の乗り場と一二を争うであろう。

一日券を600円で買って、浜寺公園との間を乗ったり降りたりした。
車窓からの風景はあたしの大学時代、すなわち1960年代と変わらない。
今月のアサヒカメラに掲載した連載TODAY-東京の縦位置の東京の都電の窓からのショットがあるが、あのままなのである。
最近のあたしは、都電のノスタルジーでリスボンなどに行っているけど、大阪芸大に出講したついでに、阪堺電車に乗ればいいわけだ。
この路線も創業100年という。

★カメラはXZ-10

2013年5月 8日 (水)

XZ-10ポケットにハルカスの周辺徘徊

1

2

なにわの二週間はもっぱら天王寺周辺をXZ-10で徘徊した。
あたらしい商業施設でやたら高い、ハルカス(だったっけ!_???)は便利である。

通天閣は高さが100米突だから、ちょっと離れると見えなくなるが、こっちののっぽビルは生駒のトンネルを越えて石切に出たところですでに認識できる。

大阪徘徊には恰好な灯台である。
それでもっぱら、XZ-10をパンツの尻ポケットに突っ込んで(ラストの2日は東京から到着したGRも持って)あっちこっちとさまよい歩いた。

首からぶら下げる、OM-Dとかペペンペン(今度のPEN5は通例に従えば、ペペンペンペンペンになるのか、、、)などは小型軽量でいいのだけど、あいりん地区あたりにカメラぶらぶらってのはあまりお奨めできない。

マンハッタンがもっとも怖かった1980年代の初頭にあたしはタイムススクエアのホテルに住んでいたが、八番街と42丁目の角で、一眼レフをもったツーリストがよくジャンキーにからまれていた。

カメラのTPOというわけで、ポケットにはいるカメラはその意味で存在感がないからいい。

★カメラはXZ-10

2013年5月 7日 (火)

ロードSE 不用な時はメーターを外せます

140

141

142

ロードというカメラは50年代後半から60年代初頭のユニークなカメラだった。

まず、レンズは40ミリという広角なので、スナップショットに向いている。

各種出されたロードはいずれも、レンズは40ミリなのが、筋が通っている。

初期のレンズは明るさがf2,8であったが、後期からはそれが高速のf1,9になった。これはかなり高等なスナップシューターである。

先日、元箱入りのロードSEを手にいれた。取説からテスト撮影でチャートを撮影したネガまで全部揃っているのは珍しい。

当時はカメラは耐久消費財であったから、立派な化粧箱に入って、そのデザインがいい。今のカメラは段ボールであったりするので、面白くない。
ロードSEは数台所持しているが、取説は初めて見た。

それを一読して吃驚したのは「電気露出計は不用な時には取り外すことができます」の一文であった。
メーターは不動であるし、この時代のセレン式メーターでカメラに似合うのは、ローライフレックスくらいなものである。

どのように取り外すのか、それは取説に書いていない。それで半信半疑でメーターを保持しているビスを四個外したら、魔法のように、メーターだけが、スポッとはずれた。

当初カメラの片側がえぐれたようで、変な感じがしたが、そういうデザインだと思うとこれはこれでなかなか精悍な「スナップらいか」になった。

★カメラのスタイリングはアイパッドで撮影

2013年5月 6日 (月)

植田のあんこだまに再会

Photo_5

植田のあんこ玉はあたしの好物である。

日暮里の菓子屋横丁の路地の奧で買っていたものであったが、日暮里が再開発になって、久しく行かなかった。
その間は、水天宮の参道の小店で買っていたのである。
日本カメラに連載をしているのに、人形町には何年も行っていない。それで人形焼きとか、あんこ玉を買う機会が減ってしまった。
そのうちに、水天宮は工事とかで、あのあんこ玉を売っていた門前の小店がどうなったかと案じているのであるが、方向が異なるので、東京大周遊からは漏れてしまっていた。

たしか昨年の2月頃に、あんこ玉を手にいれて、久しぶりに味わった。シンプルな味がなかなか良い。
この春に足立区に行った時に、戻りが日暮里であったので、買いに行ったらお店は休みであった。

それでこの間の東京大周遊は、上中里から北区豊島をぬけて荒川を渡河して、扇大橋に達したのであるが、戻りに菓子屋横丁(といってもタワーの2階)にいった。
あんこ玉を所望したら、売り切れという。
それでもう一軒のタワーの中の1階のお店に行ったら、まだ3箱だけ残っていた。
こういう素朴な品物がテレビなどでブームになると迷惑なことだが、最近の日本人は「あんこ」は嫌いだからまずその心配はなかろう。

帰宅して渋茶で味わったらなかなかの味であった。

★カメラはGR

2013年5月 5日 (日)

標準レンズをインダスターに統一する

Photo_4

キヤノンのクラシックレンジファインダーモデルは、スタイルがいい。それだけに、レンズを選ぶのである。

このカメラには案外に望遠とか広角は似合わない。カメラのスタイルも、カメラがレンズを選ぶようになれば本物である。

たとえば、OM-Dとか、ペペンペンなどは、パンケーキレンズが似合う。それにスナップショットずいこーも似合う。

キヤノンのクラシックカメラに色々なレンズを付けて遊んでいるのであるが、最近の発見はソ連製のFED2などに付いている、インダスター5cmがバランスが良いことに気がついた。

キヤノンのクラシックカメラだとすぐに初心者は沈胴レンズをつけたがるのであるが、あれはなにか「偽ライカの臭いがぷんぷん」してしまって面白くない。

ソ連製のインダスターは後期型だと固定鏡胴なのでなかなかバランスが良くて、このように、ラピッドワインダーをつけても映りがいい。

安価なレンズであるが、もともと銘玉テッサーのコピーだからその性能は言うまでもない。

木星球(ジュピター)の次はこれだな。

★カメラは愛パッドミニ

2013年5月 4日 (土)

XZ-10ポケットになにわ立ち呑み徘徊

Photo_2

Photo_3

3

福田和也慶応大学環境情報学科教授が、偉いと思うのは、なにも高級カメラを沢山所有しているからでも、彼の研究室に中村不折の扁額がかかっているからでもない。

「朝から酒を飲めるのは文化都市の証拠である」という持論を持っていることで、あたしは福田さんを尊敬している。
実施にそうである。
アメリカは正教徒の国であるから、ひとまず置くとして、欧州なら大抵の文化都市は朝から酒が飲める。
この習慣はどうも西はリスボンから始まって、日本の大阪をその東の果てとするようである。
東京では朝から酒を飲むのは社会的な倫理に反するという認識があるようだ。
これがあたしはウイーンから戻ってきた時に、この極東の大都が儒教で固まっているなと感じた第一印象であった。

いえ、あたしだって普通の仕事人だから、朝から酒は飲みません。
この間の大阪出張だって、行きはFで酒の飲み競争をしたけど、帰りは到着したまま、トークがあったので、クラスJでスープを飲んだ。これは森伊蔵より身体があったまる。

動物園駅から南にくだって、西成方面を今回はもっぱら徘徊していたのであるが、その立ち飲みやの屋号がシュールである。
なんとか酒造直売所というのは、酒が不自由であった当時の名残であろう。

セロンという屋号は、トリスタンツアラが命名したのではないかと、いぶかしく覆えるが、このセロンがそのまま漢字変換で世論となってしまうとなにかアナーキーな感じが薄れてつまらない、

一番吃驚したのは、「酔う」である。
ウオーホールの「eat」をこれはすでに超越している。

★カメラはXZ-10

あ、それで思いだしたのだけど、XZ-10で撮影する時に、あたしはまずズームは使わない。常に広角サイドで撮影する。
ごく希に、2−10閣を撮ったり、「酔う」の、のれんの距離が遠いので面倒だから望遠サイドで撮影する程度である。しかし酔っぱらっているから歩いてのれんに接近するのが面倒というわけではない。

立ち飲みに入るのは「酔う」為であるが、それは一軒で充分だ。立ち飲みや徘徊のあたしは常に素面である。

2013年5月 3日 (金)

シャッターチャンス

Photo

なにわ滞在中には西成から天下茶屋方面を徘徊し、天王寺から鶴橋あたりを斜めに歩行していた。

梅田で新しい商業施設が出来たというがそういうのは興味なし。

それで毎日、天王寺の立ち飲み屋にかよっていた。ただし日曜はお店は休みだった。

立ち飲み屋で良い気持ちになって、北に歩行して四天王寺の境内をぬけて、鶴橋方面に歩行中に、電気屋さんのシャッターに出会った。

俗にシャッター街などと言うけれど、こういうのは負の意味ではなく、プラスの意味にとって良いと思う。

見ると、男女の後姿であるが、最初の看板屋さんの意図は、お店を覗き込んでるというデザインであったのであろう。それが、デジカメを持って何かを撮影している男女のように見えるのが、不思議であった、

シャッターチャンスをねらうカメラ女子が二名、カメラ男子が一名である。

その様子を撮影した、カメラ老人のあたしも同じような中腰の姿勢になっていたであろう。

★カメラはXZ-10

2013年5月 2日 (木)

オリンパスペンの将来

Photo

半月ほどなにわに行っていたので、その間にメーカーさんの記者発表などにはゆけなかった。

外国のサイト「カメラルーモア」に新型らしいペンの画像がアップされて、それが顔本上をかけまわっていた。このサイトはうわさではなく、リークであるから、メーカーさんはさぞかし迷惑であろうが、われわれカメラ人類には興味津々である。

思うに4年前にライカインコ4世が昇天した時、デジタルカメラマガジンの上田さんからお声がかかって、ペンの本を2冊出した。その1冊目は初代ペンをフィーチャーしたもので、「田中長徳ペンの本」というのであって、サブタイトルが「チョートク一目惚れ」というのである。

実際にそれまでクラシックライカこそ我が道と思っていたのが、作品作りのメーンにペンを据えるようになったのが、「ウルペンデジタル」であった。
それが2型、3型、そして今回のモデルらしい。

あたしはカメラルーモアの画像しか見ていないのであるが、鮮烈に観じたのは、正面からのカメラのスタイリングがOlympus Penのロゴであったことにある。

今までのペンシリーズのロゴは、オリンパスのみであったから、そこにペンの文字列が加えられたのはうれしい。
これはあたしのような、フィルム時代のペンの現役を知っているじじいだけではなく、若い連中にもアピールするのではないか。

★カメラはXZ-10

2013年5月 1日 (水)

転倒石

Photo_2

飛行機には乱気流がある。
鉄道には置き石がある。
大周遊には乱気流(突風宇)と置き石がある。

つまり路上を歩行することは、あらゆる危険にさらされているわけだ。

放射能だけではないぞ。

3月の半ばに秋葉を歩行していて、左の白い石を踏んだ。
転倒はしなかったけど、綺麗な石なので拾ってきた。

その3週間後に荻窪から桃園緑道を経由して、神楽坂まで歩行した時に、かなり暗くなった江戸川公園で右の石を踏んで見事に転倒した。
無論、怪我なんかしやしない。

日本はバリアフリーの路面なので、希に石があると運良くそれを踏んだりすると、転倒するのである。
これがマンハッタンとかハノイだとどうか?

転倒などしないのでる。そこらに置き石が五万とあるから、ちゃんと視神経はそれを監視している。
それがバリアフリーの路面だとやれらるのだ。

その江戸川公園では一種、路面を見ていなかった。以前、羅馬でカメラアングルを決めようとして、ワンステップ足を右に出したら、そこには地面がなかったので、えらいことになった経験がある。

写真家はモチーフを見る眼と同時に路上を見る第三の眼が欲しいほどだ。

江戸川橋転倒以来、あたしは路上に置き石がどんな頻度であるのか、ずっと調査した。東京を200キロ、それから大阪を100キロ以上歩行して、果たして粋石があるか調べたのである。

驚いたことに、一個の置き石を発見できなかった。

鉄道の敷地からこぼれた小石はあるかと思って、軌道敷地に平行している道路も調査したのだけど、置き石はゼロであった。

★カメラはXZ-1

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31