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ロック ユー

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2013年4月30日 (火)

天下茶屋

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快晴のウイークデーの午前中、稲荷にある「なにわヒルズ」から南にずっと歩行して、天下茶屋界隈を徘徊した。
今まで、てんかちゃや、だと思っていたら、これが、てんがじゃやであることを住居表示で初めて知った。

路地の込み入ったその奧を歩行していると、やはり立て看板とか、ポスターが目にはいる。ローカルなポスターというのは、その地域のメッセージである。

まだ東西ドイツが統合されるずっと以前に、東ベルリンを徘徊していて、当時の東ドイツで最初の宇宙飛行士がソ連のソユーズ計画に参加して、その人が国家的な英雄であった。

そこらじゅうにその英雄のポスターが貼られていたが、それがすでに風と日光にさらされて、カラーが退色して、青と黄色だけの色彩になっているのである。
それを見ていいな、と思った。

西成警察と小学校の看板などは、脇にあるぼたんと呼応してなんともいい感じになっている、

禁酒禁煙のポスターもなまなかしい所がアートである。
文化会館の案内看板は最初は額面通りの、たとえば「東京文化会館」的な印象をもったけど、ちょっとかんがえて、あたしの好きな「文化アパート」のその文化の用法を思いだした。

高速道路の闇の中をくぐって、百番の脇を通って、飛田新地のメーンストリートを抜けて行くと「おにいさん」の声がかかった。おじいさんのあたしに声をかけているようなのである。

★カメラはXZ-10

2013年4月29日 (月)

2/10 Tower (つうてんかく、と読む)

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ずっとポケットXZ-10が入っていた。滞在の後期になって、GRが東方から送られてきた。

それで街撮影のカメラは小型の方がいいという事実に今更ながら気がついた。

二十八ぶりに大阪に長滞在して週末に「帰国」した。帰国というのは実感であって、十年ほど前にオーストリア航空でよくプラハやウイーンにいったことがあって(ビジネスクラスが成田発より安かった)帰りは関空に着くのであるが、これが午前6時の到着である。

ANAの乗り継ぎは午後までないので、南海電車?でなんばに行った。この時の印象は不思議なものであった。

旅路の果ての「世界のもっとも遠い都市」なのである。心斎橋のカメラ屋に行ったら、店がしまっている。どうしたのかと思って、零細に考えるにまだローカルタイムの8時前である。

ようするに、時差ぼけである。

なんばに戻って、2/10 (つうてん)閣界隈を歩行して東洋情緒にひたった。それはデリーやハノイや、北京や、平壌よりずっと東の絶海の孤島の魔都という印象なのである。

通天閣が見える範囲を歩行していれば、街中で道に迷うことはなかった。これはちょうどウイーンの街で、シュッテフェル(シュテファン大聖堂の尖塔)を目印にしていれば道に迷うことがないのと同じである。通天閣は羅針盤であった。

通天閣はその意味でなにわの「杭」のようなものだった。マンハッタンではかつて、ツインタワーが同じ役割を果たしてた。あたしはマンハッタンの街歩きでその杭を見て歩行する方向を見定めていたのである。

それにしても新世界とジャンジャン横町が「怖くない街」に変身してしまったのは残念である。ちょうどマンハッタンのバワリーが安全な街になってしまったのと似通った感覚である。

★カメラはXZ-10

2013年4月28日 (日)

天王寺の「エダム」

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大阪にゆくのは大阪芸大で写真を教えるのが目的であるが、それ以上の裏の目的は、天王寺の裏の立ち飲みやにゆく目的がある。 昨年の秋に都ホテルの近辺をぶらぶらしていたら三軒長屋の一軒が渋い立ち飲みであった。 今回は大阪芸大の出講の間に一週間ほど、なにわに滞在したので、撮影の行き帰りに、この店に寄った。 焼酎にソーダと何時もの内容であるが、焼酎はダイヤ焼酎であって、そのブランドが何と無く奥ゆかしいので、こういう老舗の立ち飲みには似合うようである。 酒の、「あて」は、ちくわであるが、あたしが数多く喰ったちくわの中で一番うまい。 しかも飲み屋にくるなにわの紳士連中の会話が抜群に面白い。本物のエンターテイメントに思えるのは、彼らが作りごとではない、本物のノンフィクションストーリーを語っているからだ。 このお店を、「なにわの倶楽部エダム」と命名した。 ★カメラはiPad

2013年4月27日 (土)

かれーうろん

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カレーうどんが大好きというわけではない。カレーうどんというものは家でカレーを作った際のラストの段階でうどんとかき混ぜて食べると言うのが私の存在学的なカレーうどんである。 東京大周遊をしているときに、カレーを食べるということがよくある。それは行きつけの店が決まっているのである。 駿河台にあるお店で70倍という辛さのカレーがある。これなどはよく出かける。 しかし撮影をしているときにカレーうどんが食べたくなるというのは何か不真面目な思想であるような気がする。 ようするに撮影の途中で焼酎を1杯飲むと言うのは普通の行動であるが、カレーうどんを食べるというのは撮影の邪魔になるような気がするのである。その理由が何故なのか(⌒▽⌒)これは今後深く考察する必要がある。 大阪には大昔から来ているので今更ごちそう食べたいとは思わない。 大阪の鶴橋に行くとこのブログで書いたら、読者の方から焼肉は通りいっぺんだから、カレーうどんがいいのではないかと言うサジェスチョンをいただいた。 あたしの10年間の六本木ヒルズ時代に、近くに有名なカレーうどん屋があったのだが全くいただけなかった。値段が1,000円以上するのである。カレーうどんに1,000円以上払うというのは、現実離れしている。 紹介してもらったこの店はなかなかよかった。あとで調べてみたらこのカレーうどん屋さんはチェーン店なのだそうだ。私のような年寄りにはチェーン店というのは信用できないところがある、ちょっとした発見であった。

2013年4月26日 (金)

GR

Gr

なにわに10日ほど居るののだが、その初日に東京でGRの発表会があった。
森山大道さんがステートメントを述べるというので、行きたかったのだけど、残念であった。

思えば、森山さんはコニカビッグミニを使われていて、たしかなにか森山さんにお目にかかった時に、あたしの持っていたフィルム時代のGR-1をお渡しした。
あれが1995年ころであったか。

森山さんのGR使いは有名である。
今度のカタログは繰上さんが撮影しているのであるが、そのマンハッタンのショットが素晴らしい。
あたしはパナソニックのLC5の当時(2001)にカタログを担当したのであるが、カメラの作例写真というのは、それを欲しくなるというような「綺麗綺麗写真」であることが必須である。

繰上さんの写真はまず真冬のマンハッタンだから、作例としては「失敗」だが「作品」としては大成功している。
ようするに今までのカメラのカタログの常識をひっくり返したのだ。

なにわ撮影時に毎日、XZ-10をポケットに入れていたのを、GRに持ち替えて撮影してみた。GRD4に比較するとかなりレスポンスが早くなったのはいい。

デジタルの意味のDが付いていないのもいい。
ライカMと同じ方面のネーミングである。これからはその意味でOM-Dに対して、フィルムを使う方のOMとか、ペンもフィルムを使うペンというような、電子写真機を意識しないような故障になって行くのであろう。

ライカMとGRとの最大の違いは前者が「お道具」であるのに対して、後者は「道具「であることだ。レンズ交換して「深遠なクラシックレンズの味わいを楽しむ」というような、道楽はここには存在しない。そこがいいと思う。

★カメラのスタイリングはiPhone5で撮影。

2013年4月25日 (木)

西成のマロニエ

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古い写真屋さんの看板というのは、スーザンゾンタクも オンフォトグラフィで触れているが、それはメランコリーオブジエなのである。

東京にも何カ所かそういう閉鎖された古い写真屋さんがあって、時々、その旧跡を見に行っている間にその場所は再開発でなくなってしまう。

通天閣からジャンジャン横町を南下して、西成のまっただ中でこのファサードを発見した時にはおもわず、呼吸が停止しそうになった。

東京大周遊でもこういう「色あせた広告看板」というのが撮影すべきテーマであるが、この写真屋さんの看板はその「すがれかた」が実に良い。

こういうのを映画のセットで作るとなるとなかなか値段が高くつくのである。時代をつけるというのはそういうことで、映画のセットの貫禄は「偽貫禄」である。

こっちは西成の雨と風と太陽にさらされた本館録である。そこを尊敬する。

昭和40年代の日本カメラショーでニコンの当時の関係者の話題になっていた、カメラショーの客に「恐怖の角帽」と「西成の古物商」という「有名人」が居た。

前者は省略するとして、後者はありとあらゆるニコン製品をしょって来るんである。その中には超望遠の800mmもあった。これが西成の古物商のニックネームの由来である。

ニコンFのカタログ撮影をした当時の、銀座八丁目の東宝スタジオでニコンの宣伝の人から聞いた話しだ。

★カメラはXZ-10

2013年4月24日 (水)

なにわヒルズの通信システム

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インターネットが始まった頃は、ネットサーフィンなどという言葉もあった。
当時のインターネットはなかなか変わらない画面をじっと見つめるという、一種の精神修養のような所があった。

今はその速度は比較にもならない。

プラハのアトリエは相変わらずのケーブル接続である。考えてみれば常時接続というのは、原稿書きの邪魔になるので、本当はテキストを送る時だけインターネットができれば良いのである。
今のような「ネットサーフィン」の時代になってしまうと、雑文書きの間に、ちょっとオンラインのカメラ店を覗いたりして、効率が悪い。

柔らか銀行(ソフトバンクと読む)が、テザリングを開始したのですぐにiPhone5を使うようになった。

プラハのアトリエでは、ケーブル接続なのでアダプターで差し込みが3つエキストラにつくのを使っている。
今回のなにわヒルズではそのアダプターを忘れてきた。

なにわヒルズホテルには、WIFIがないのでひとつしかないUSBに接続すると、メモリカードが読めない。

ああ、テザリングでWIFI接続すれば良いのだと気がついて、iPhoneにMacBookAIRと、ipad miniをぶら下げて快適な環境である。

平カズオさんは、インターネットの先駆者であった。
世界のどこに居ても、仕事が出来るというのが彼の意見であった、これは音響カプラーで送信する時代の話だ。

フォトキナの取材で平さんはホテルの電話機をばらして、音響カプラーお接続して通信していた。

当時のドイツでは高級ホテルほど通信が不便で、モジュラージャックなどはなあったのも今昔の感がある。

★カメラはXZ-10

2013年4月23日 (火)

四十三年前、鶴橋は二十歳のあたしにはどう見えたのか?

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四十三年前と言えば、半世紀に近い昔だ。

アサヒカメラの連載で今月から「TODAY- 東京」東京逍遙50年というのを開始した。60年代の東京と現在の東京とをぶつけて見る企画である。

その掲載号は佃煮ヒルズには送られてきたが、なにわヒルズにはないので、書店に探しに行った。

その書店が鶴橋の駅構内の書店である。これは場所が悪い。

1970年当時と言えば、日本デザインセンターで広告の仕事をしていた。大阪の軍艦橋という所に大阪発動機という大会社があって、そこにフェローマックスという軽自動車の撮影に行った。

長い滞在なので、よくスタッフで鶴橋の国際市場に焼き肉を食いにいった、なにか騒然とした環境を焼き肉の煙とにおいが強烈な異国情緒に感じた。

それから実に43年ぶりに鶴橋に行って驚いたのは、あたしの最初の体験とあまりにも今の鶴橋が異なる点であった。

思えば、最初の鶴橋コリアン体験は、まだ外国を知らない二十歳のあたしの目に映じたコリアンタウンであった。

一昨年の春に滞在したマンハッタンでもコリアンタウンのすぐ近くのホテルに住んでいた。
その意味で、あたしはコリアンタウンに慣れ親しんでしまったので、鶴橋のコリアンタウン度合いがどうも希釈されているようなのである。

まあそれはそれで良い。
マンハッタンのリトルイタリーが本物のイタリアではないのと同じ構図である。

それともうひとつ、これはあたしの視神経に映じたまったく変な視点であるが、上の鶴橋駅のガード下が、実は東西ベルリン時代のフリードリッヒストラーセ駅にそっくりなのである。この階段を登った所に、国境の検問があった。

これが今回のなにわ大周遊の思いもかけなかった収穫である。

★カメラはXZ-10

2013年4月22日 (月)

いまさらだけどやはり凄い

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XZ-10をトートバッグにいれて、なにわの街をどこまでも歩行しているわけである。
28年前は8x10での撮影だったので、凸版印刷の(当時)の木村君を煩わせて、真っ赤なゴルフに機材を積んで、なにわの近代建築を撮影した。

あれから30年近くが経過して、今回はまとまった時間がとれたので、なにわ大周遊をしているわけだ。

今でも8x10をかついで徘徊も可能であろうが、マンハッタン時代の8x10の撮影ではまず、ロシア製のハッセルであるサリュートを持参して街角を撮影し、その撮影をチエックしてから8x10で本番を撮影した。

今はXZ-10をポケットにいれて、そのまま発見と撮影が同時になっているのは楽である。

なにわの店舗の名称のユニークさは今更であるが、実際に目にするとやはり、ストレート過ぎて叶わないと思う。

本来、そういうローカルネタというか、現地の人間の言語でしか笑えないというネタは撮影しないのが、あたしの世界を回っている場合の基準なのだけど、今回はその基準を超えてしまおう。

今更だけど、やはり凄いと思う。

★カメラはXZ-10

2013年4月21日 (日)

デスクトップ上のプラハ

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★なにわヒルズ5日目

持参したMacBookAirのデスクトップ上に上の画像を発見した。
タイトルは「隠された庭園」となっている。

これはプラハの王宮のモルダウ河に面した東側の庭園で、その名前はたしか、イインスキーガーデンと言ったと思う。その庭園の境は高い塀になっていて、石畳の通りの反対側には財務省のいかめしい建物がある。

まず、あまり美的とは言えない環境であるが、その細い殺風景な通りには路面電車の軌道がしかれていて、ここを頻繁にプラハの市電が往来する。

バロックの建物の中がくりぬかれていて、そのトンネルは1車線しかないのに、市電は正面衝突もしないでどんどん交通しているのは、なにか特別なからくりがあるのであろう。

バロック庭園には一箇所だけ、ドアがある。開園日に限ってそのドアは開く。それがなにか楽園への扉のように思われる。

あたしはアトリエから市電に乗って、旧市街に行く時にこの庭園の前を高速で通過する。その時には、デジカメを連写するのであるが、なかなか背景と人物のバランスの良い構図はとれたためしがない。そういうことを昔はライカで、今はデジカメで行って十年がみっつも重なってしまった。

この1枚はベストとは言えないがまずまずのできだ。
人物の服装からすると、昨年の今頃のプラハで撮影されたものだ。
ほぼ理想のスナップショットというように、こっち側の人物とあちら側の人物が呼応している。

プラハを30年も撮っていて、これはなかなか撮影しがたいショットだと思う。

★カメラはOM-D 12-50mmなにこれは

2013年4月20日 (土)

北千住今昔

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★なにわ滞在四日目

東都の北辺の北千住は河内(ハノイと読む)に似ている。

そこに極東という共通項があるのは当然であるから、欧米人が河内と北千住とを歴訪したら、その数年後には印象がごっちゃになって、単なる極東の不思議な大都という国になるのであろう。それこそ望むところである。

まあ、北千住がアメリカ帝国主義の植民地にシフトした街の景観であるのに比較すれば、河内はフランス植民地主義の残滓が残っている。情緒としては後者の方がツーリスト向けかも知れない。

あたしの北千住も「東洋の北辺の不思議な街」という切断面を持っている。

回想するに、三十年前の北千住は今とはかなり異なり、もっとすすけて荒々しい街だった。それが好きで、北千住通いが昂じて、ついに朝日カルチャーセンターで北千住ツアーを実施したこともあった。

朝日新聞の旗を持ったあたしが戦闘でそれに続く「隊員」は二十余名で、謎めく裏通りを闊歩したのである。

1960年代の半ばの浅草の仲見世で外人観光客の団体さんを引率する日本人ツアコンが持っていた小旗には「オリエンタルアドベンチャー」とあった。

その状況は今も少しも変わらないで、かえって「命がけの冒険」なのである。状況は半世紀前とは比較にならないほど悪化している。

今の北千住は乗り換え駅として通勤者には記憶にも残らない。

しかし、北千住から千住桜木を経由して荒川を渡って、断腸亭がかつて杖を曳いた「六阿弥陀」方面に行くのは興が深い。

本日発売のアサヒカメラの5月号の口絵から「TODAY-東京」東京逍遙50年、の連載を開始した。あたしの半世紀前と現在の東京がクロスオーバーするのである。

半世紀前も今もTODAYー東京なのだ。これは1969のあたしの大学四年時の銀座ニコンサロンでの個展のタイトルでもある。

★カメラはXZ-1

2013年4月19日 (金)

横浜の地球儀

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★なにわヒルズ滞在3日目

ライカとオリンパスワイドを肩にして東京を撮影し始めた1960年代に、お気に入りの撮影場所は丸善の地球儀売り場だった。

その気分を今にして分析するに、あれは通常、地球儀が使われている地理学上のあるいは民族学の教材としてではなく、あたしの興味はそれが東京のカッパ橋の食品サンプルと同じ意味を持っていたようである。

すなわち、クリームソーダのサンプルはキッシュであるが、そのキッチュさを「最大限」にしたのが地球儀である。

さらに地球儀の売り場にはその「巨大サンプルである、我らが郷愁の地球」がこのように複数個並んでいる。

これは最大のキッチュな事件であると言わねばならない。

先週、横浜に 行きニューグランドから氷川眞理を徘徊したあけくに、西口というあたしにはあまり馴染みのない界隈に入り込んだ。

行くあてもないので、とりあえず入ったのが東急ハンズで、ここも久しぶりなのだけど、最上階からゆっくり下ってきたら、地球儀の団体さんに出会ったわけである。

カメラ毎日という、今はもうないカメラ雑誌で1970年1月号に「二十代の眼」とというタイトルでデビューした時、須田一政さんや、鈴木清さんがまだ二十代だったのも信じられないが、あたしは23歳であった。

そのポートフォリオの一枚に丸善で撮影した地球儀のワンショットがあった。

あたしの好みとしては、梶井さんには京都の丸善の地球儀売り場に「檸檬」を放置してもらいたかった。当時の丸善にも地球儀はあった筈。

★カメラはXZ-10

2013年4月18日 (木)

パテイオを通り抜ける

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★なにわ滞在2日目。

あたしは横浜のニューグランドを新館の建つ前から知っている。クラシックなホテルはその脇にタワーが建つというのは世の中の法則である。

四半世紀前にラッフルズのこういう観じの中庭でランチしていたら、シンガポールスリングスをサーブ中にざんぶりと肩にかけられた。これは真夏の最高のシャワーであった。

5年前に氷川丸の1000頁本の撮影で、桟橋に行き帰りの途中なのでこのホテルはよく利用した。しかしあたしの利用したのは旧館のバーだけである。

ここに立派なパテイオがあるのは、大階段の裏手に回ればすぐに分かるわけであるが、そこから出て、庭を突っ切り元町に行くという考えが今までのあたしにはなかった。

今回、初めてそこを歩行して元町に行った。これが良かった、ニューグランドからいきなり元町というのはなにか「手品」のようであった。

普通、こういう場所は「お客様以外の通り抜けはご遠慮」というような立て札があったりして、それがホテルの格式を落としたりしているのであるが、ニューグランドは偉いと思った。これがサービスの格というものだ。

JALのHNDのFのラウンジで紅茶のテイバックの箱の脇に「お持ち帰りはご遠慮ください」とあるのと、これは正反対のサービスである。

氷川丸の撮影時期は半年ほどあったから、旧館のマッカーサールームなどに宿泊する機会もあったのに、それを逃してしまった。

なかなか仕事以外でホテルに宿泊するのは面倒なものだ。

★カメラはXZ-10

2013年4月17日 (水)

町屋の花の木交差点

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★本日移動日。HND ITM

東京の北部に延びている、東武とか京成のラインがどうなっているのか、あたしのような東京大周遊を「職業」としている人間にもなかなか分からない。

つげ義春さんの古い漫画で若かったつげさんが年上の恋人と青砥駅で一緒にいるシーンがある。そこが青砥であることが、当時のあたしには遙かな「異国感覚」を観じさせた。

異国情緒は何もパリ倫敦に行く必要はない。あたしには東京の北辺の方が効くのである。

その漫画の出典は、たしか「つげ義春選集」の青いハードカバーの本で、これを買ったのは、青林堂が神保町の木造長屋の真っ暗な二階にあった当時の話で、あたしはそれを南伸坊さんから買ったのだから、すでに歴史的な事実だ。

町屋から日暮里方面に高架線が伸びているそのガードに下には小さな工場とか商店がのきを並べていたものだった。その界隈が20代のあたしにはキリコのような未来的遠近感に感じたのである。

だから東京の周辺部を歩行しているという感じはなくて、未来都市をそこに観じたのである。

町屋駅からちょっと南下した、たしか「花の木交差点」と言ったと思うが、そのX状に高架線と路面が交差するその角度にはモダン都会を感じる。

さらに快晴の真昼だと高架線の下に太陽の光が点々と漏れるのである。こういう光景を以前に見たなと、考えたらそれはベレニス アボットの30年代のマンハッタンを撮影した写真集の中にあった、八番街の高架線から下に漏れる太陽光と同じ光であった。

★カメラはXZ-1

2013年4月16日 (火)

羅馬の古い大理石の泉みたいなガンマ社のペルラ

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イタリア製のライカマウントレンズのガンマ2を撮影に使おうとしたら、裏蓋が開かない。それで代打として、同じ会社の普及機であるガンマペルラというカメラを落札した。

横浜の元町に趣味の良いカメラ紳士がおられて、昨年にはその方からスーパーネッテル2をゲットしている。今回は同時にイタリアはミラノ製のコンドル1型も同じ方から落札した。ガンマペルラは羅馬製だから、それに対抗するミラノ製というわけだ。

ペルラを手にして最初に思ったのは「羅馬の古い大理石の泉のようだ」というおよそカメラの印象とはかけ離れた感想である。羅馬にはそういう数世紀を経た泉があって、その表面は時間によって、すべすべに磨き上げられている。
このカメラもその感覚がある。

普及機なのに、作りは超高級とう印象がある。今のカメラにはこういう真似はできません。

普及機だから、シャッターはプロンターがついている。プロンターシャッターは最近のハッセルにも搭載されていて(シンクロコンパーはもう生産されていない)あの甲高い音が嫌いなのであるが、これが普及機だから我慢できる。

レンズは銘玉シュナーダークロイツナッハのクスナーF3,5である。テストしてみたら恐ろしいほどに良く写る。
レンズは安価なもの、暗いもの、地味なものが優秀であることがまたも確認できた。

これは佃煮ヒルズの周辺で撮影した。フィルムはこの前、アローカメラ我楽多屋で50円でかったもの。

デジカメとフィルムカメラの二台持ちという方法はなかなか楽しめる。

★ガンマペルラ クスナー50MM F3,5  カメラの姿写真はXZ-10

2013年4月15日 (月)

XZ-10とコンドルで街をゆく

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イタリアはミラノのガリレオ社が1950年代の初期に出した、シンプルな35MMレンジファインダーカメラの「コンドル1」は好きなカメラだ。

これにはこの1型とその改良モデルの2型とがある。1型はシンプルなカメラであってセルフコンキングですらない。自分でシャッターをセットするのである。
これは面倒ではなく、逆に「自分は今、写真を撮っているのだぞ」という実感がわいてきて良い感じだ。

コンドルの2型はレバー巻き上げになり、セルフコンキングになり、レンズはf35から明るいf2になった。同時に重くなった。

カメラの改良というのは、普通には真面目な開発者がより高性能を目指すので、大抵の結果は大きく重くなるのである。

ライカが1型が最高であるのと同じに、コンドルも1型がいい。こういうカメラの良い点はレンズ交換ができない点にある。

レンズ交換ができると、蘊蓄ばっかりのカメラ素振り人類(これ新造語ね)は、すぐに高いレンズが欲しくなって、やれf0,95がどうの、アポナントカがこうの、となる。それで明るいレンズで「作例」で撮影するのは、もっぱら暗い飲み屋の中のピンぼけ写真ばっかりだ。

レンズの明るさはf4あれば充分だ。フィレンツエ製のライカコピーカメラで50mmf8というのがあった。さすが文化の度合いがイタリアは違うのである。

クラシックなコンドルを持って、それはトートバッグにいれて、もう一台はモダンなXZ-10を持つ。
車輪の両側のような感じで、東京の西方の知らない街を撮影に往くのは、現代に許されたお金のかからない、しかしかなりの視神経の冒険の一種だ。

この日は。高円寺から北に歩行して、新井薬師前まで歩行した。ここらは実に無人地帯で誰ともすれ違わないのである。ウイークデイの午前11時である。東京の魔の時間帯だな。

核戦争か、放射線もれの大災害で、無人の街を行く感覚があった。4

★カメラのスタイリングはXZ-10 スナップショットは、コンドル1で撮影。
レンズはガリレオ社製の50MM F35 で撮影。

2013年4月14日 (日)

Cafe Momo Garten

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木曜の午後、荻窪から桃園川をたどって、延々と歩行して、中野に入って堀越学園の北側に珍しい木造家屋を発見した。

あたしのガキの時代には合ったり前であった木造建築が今は珍しいという、その変貌に驚いて、中を見るとなにかカフェのようになっている。
エントランスには街灯がつけぱなしなのが「昼行灯」めいて不思議さを増加させる。

茶色の小さなプレートにCafe Momo Gartenと読めた。
感心したのは、ガーデンではなく、ガルテンである点だ。これはドイツ語なのであろう。
しかし、すでに閉店したのか、これから開店するのかそれが分からない。

その次の週の火曜に、やはり荻窪から桃園川にそって東に歩行した。中野を過ぎてくだんのCafe Momo Gartenの前に来たら、今度はフライヤーがぶらさがっている。それでこの建物はあたしと同年代の築65年の二軒長屋でこれから新生して、カフェになるということが判明した。

街灯は相変わらず点灯している。くだんの看板は強風の為に下に落下していたので、あたしはボランテイアでそれを柱にかけなおした。

荻窪から桃園綠道を通って、神田川までのあれは何キロあるのか知らないが、緑道沿いにあるのは高円寺の「こもれび」だけである。
それでそこからかなり東にいった、ちょうどいい位置にカフェが出来るのはありがたい。

開店したら様子を見にゆくつもり。

★カメラはXZ-10

2013年4月13日 (土)

お知らせ 「田中長徳 ロバート・フランクとビオゴンを語る」 ギャラリーバウハウストーク

Photo Robert Frank  Valencia Spain 1951

五月十日 金曜日、午後七時から
ギャラリーバウハウスで開催中のロバート フランク展で
あたしのギャラリー・トークがあります。
演題は

   「田中長徳 ロバート・フランクとビオゴンを語る」

初期のフランクの名作の多くは、旧式のライカとカールツアイスイエナ製の、ビオゴン35mmで撮影されました。

フランクの視神経の哲学、それをサポートしたレンズの形而上学に肉薄する夕べです。

アナログ画像とデジタル画像の位相関係のジャングルにも踏み込みます。

「アンダーパーフォレーションエフェクツ」に関しては「世界で最初」にそのことが語られる夕べになります。

詳しくは
http://www.gallery-bauhaus.com/top.html

ガンマの蓋が開かない

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イタリアはローマでつくれられたガンマが好きである。

ガンマはハンガリー製のデユフレックスの会社名でもあるので、よく混乱が起きるがこれはイタリアのガンマの話。

まずデザインがいい。これは金属製の固いシャッター幕(というかシャッターパネル)がアパチュアの前を走るシャッター機構で、他には例がない。

ゴム引きのフォーカルシャッターのように、軸に巻けないからその両側に格納スペースをつくる必要でボデイの左右が膨らんでいる。

ここがいい。デザイナーの遊びではないのがいい。フィアットアバルトのキャブレーターのもっこりと同じ存在感がいい。

ガンマはダブルマガジン方式であるから、巻き戻しノブもない。フィルムは一向通行であって、内蔵のフィルムカッターでカットして、撮影済みの空になったマガジンを巻き取りサイドに移動させる。

数年ぶりに使いたくなって取り出したら、シャッターとか光学系は完璧なのに、裏蓋が外れない。

途中までは外れるのであるが、なにかにひっかかっているのである。

素人療法は禁物なので、サービスに出すことにした。それでフィルムは入れないで、もっぱら「素振り」で羅馬感覚を堪能している。

★カメラはXZ-10

2013年4月12日 (金)

根津の葚八前の樹

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藍染川の裏通りにある、根津の葚八に最初に行ったのはマンハッタンから戻った直後だから、1984年頃だと思う。自転車で東京を一日100キロも走り廻っていた時期で、お店を発見した。

それで後日、行ってみた。こういう店の価格は分からないので一応現金を五万円用意した。
その最初に行ったのは秋であって、なかなか良かった。コースはファイロファックスに記録してある。非常に廉価だった。

それ以来、店主の高野純一さんと懇意になった。高野さんはちょっと断腸亭に似た風貌でお客のない夜分だと、早めに店をしめてあたしを伴って「円タク」にて、千住に飲みに行くような人だった。
それも夏などは麻のスーツなのである。

同名の俳優さんとか、四谷シモンさんなども来た。右手の壁にたしかここを紹介したタイムスの記事が額に入っていた。
山海塾のメンバーの人が来て、高野さんはどっかの学習塾の先生と思っていたのも
懐かしい。

高野さんがなくなって数年後に前を通りかかったら、店を改修していた。これはいいなと思っていて、新規開店の初日にいったら、お店の名前は前のままであったのがうれしかった。
しかし、新規の経営者さんは以前の高野さんを知らないのである。

平カズオさんを偲んで、福田和也さんらとここで酒席をもうけたのもすでに数年前の話だ。

この前、お店の前を通過して驚いた。30年前には小さかった樹木が屋根を越える大きさになっていた。

マンハッタンのウースター通りにフルクサスのジョージマチューナスの植えた樹木が巨大になったのと同じことだ。

それだけ年月は速やかに経過しているのである。

★カメラはXZ-1

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2013年4月11日 (木)

天沼から桃園川綠道を延々と歩行

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天沼というのは、もともと弁天様がまつってあって、そこが水源になっていたそうだ。そういうことはWIKIで調べれば分かるから書かない。

その流れを桃園川という。桃園は中野駅南一帯の地名であるが、もとことはもっと上流の地名であったらしい。

東京大周遊をしていると、そういう小さい流れが暗渠になっていて、上が遊歩道になっている。
歩行中に「川ですかね」などと独り言を言っているじじいがあたしである。

桃園綠道を始点から終点まで歩行した。あっちこっちで軌道を修正するので、4時間ほどかかった。

歩行してしばらくたって、ある種の快適さを感じたのは、車のことを気にせずともいいことである。江戸の昔。東海道の旅人はこうでもあろうかと思った。

道は広くなり細くなり、中杉通りでついにロストしてしまった。
いきなり背後から「ちょーとくさん!」と声がかかったのである。
最初は誰だか分からず、じかしあたしの知り合いは編集関係か、カメラ関係だからその脳内リストをさぐった。

3 中野にある出版社のあたしの担当編集さんかとおもって、「十年ぶりですね」と言ったらあいては黙っている。
こちらは相手がだれであれ、桃園綠道をロストしてしまったので、道案内を頼んだら、その紳士は「ここに住んでいるけど知りません」という。

あたりまえの話で、堅気の人は電車で通勤するから、そういう獣道(けものみち)は知らないのが当然だ。

考えてみたら、あたしの知り合いの中野の編集者には15年会っていないから、歳があわない。それで脳内ファイルを検索したら、なんのことはない、「屋根裏プラハ
を昨年担当してくれた、新潮社の編集のSさんであった。

それでSさんと駅まで歩行した。彼は最近引っ越した駅前のアーケードの「くろんぼ:という名前のキッチンを示した。
あたしはSさんが昨年訪問した、プラハの竹下通り(モノの例え)のホテルの泊まり心地はどうでしたか、などと会話した。

それからまたソロになって、見失った、桃園綠道を捜索した。

★カメラはGRD4

2013年4月10日 (水)

ロバートフランク展のいわゆる「アンダーパーフォレーション」

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ロバートフランク展が神田明神のとなりの、ギャラリーバウハウスで二部にわかれて開催中だ。

http://www.gallery-bauhaus.com/top.html

初日は四月二日であった。ちょうど上野方面に居たので、そのまま歩いてギャラリーバウハウスに行こうと思ったのが、我が、スペースシャトルの軌道修正に手間取って、明神の坂の下の人気の鯛焼き屋で鯛焼きを買って、そのまま戻ってきた。
その理由は不明であるが、どうも「楽しいことはわざと先送り」という心理があったのは間違いない。

フランクの作品は30年前にMoMAで一年間かけて見たので、今更であるが、あたしの持っているフランクへのノスタルジー(これはそのまま二十世紀への哀愁と言い換えてもいい)は、作品もさることながら、彼の「アンダーパーフォレーション」の作品を見ることにある。

上の画像の左側に写っている、フィルムの穴の点々がそれである。この穴にあたしが興味を持つのは、無論、映画フィルムの転用だからそれはライカの中のフィルムを一齣だけ進める為なのであるが、それよりもあたしにはフランクがこのショットを撮影した時の「真実の闇の存在」に打ち震えるのである。

しかもこのパーフォレーションをここに具現化しているのは、他ならぬフランクのライカの巻き上げノブを回したそのパワーの結果なのである。
そこが面白い。

最近ではデジカメのソフトでそういうパーフォレーションもどきの穴を後から加える向きもあるようだが、そういう偽物と同一に論じることは出来ない。

あたしの周囲のライカ雀はすぐにどういうライカを使ったのかということになる。
この闇の生まれる原因は、ライカのアパシュアに充分にフィルムを差し込んでいないことにある。だからフィルムの穴がちょっとだけ見える。一種の楽屋落ちの魅力である。

ライツ社はそれは問題というので、ライカ3fの後期モデルから、ベースプレートに小さなしゃもじのような金属片をつけて、フィルムをそのパーツで中に押し込むようにした。これはそれ以前のライカにはついていないので、この名作は旧型のライカ(実際にはライカ3c)で撮影された。

フランクは現代の日本カメラ人類のような「レンズグルメ」ではないから、レンズはカールツアイスイエナのビオゴン35mmに違いない。

そうするとこういう状態になる。20年ほど前に銀座で開催したあたしの個展で、同じようなプリントを展示した。
このアンダーパーフォレーションを英語で何というのか知りたくて、写真展会場ニにきたネーテイブスピーカーに聞いたら、彼はちょっと考えこんで「そういう言葉は存在しないけど、強いて言えば、アンダーパーフォレーションエフェクツだな」と教えてくれた。

2013年4月 9日 (火)

四十三年目の「辞令」

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仕事はオンラインでやっている。

アサヒカメラの新連載「TODAY- 東京」(東京逍遙50年)は今月からスタートであるが、もっぱらPDFのやりとりですむ。
しかし単行本の場合には、紙に印刷されたゲラをやりとりをする。

大阪芸大から大きい封筒が来たので、何かのゲラかと思って、開けてみたら「辞令」であったので吃驚した。

思えば1970年に日本デザインセンターに入社した時、それと1983年に文化庁からMoMAに派遣された時にはたしか「辞令」があった。
いや、文化庁派遣芸術家の時には他の名前で辞令ではなかったような気もする。そうなると、辞令を受けるのは実に四十三年ぶりだ。
すごいなあ。

アメリカのモダンフォトグラフィのコレスポンデントをした時には、マストヘッド(雑誌のトップに掲載されるスタッフ名)にはChotoku Tanakaとあったが、辞令はなかった。

家人はウイーンの音楽大学を卒業したが、別に卒業証書はない。必要な時に大学から証明書をもらうだけである。

以前、日本写真協会の年度賞をもらった時の、あれは賞状であったが、こういう日本語で書かれた厚紙の書式はもらいなれていないので、なにか「やる気」になる。

それで4月は半ばから大阪である。

★カメラはXZ-10

2013年4月 8日 (月)

Zで始まる二種類のレンズのブランド

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アメリカの中古カメラ店の有名なキャッチコピーに「アルパからツアイス」までというのがあった。これはブランドの品揃えを誇っているのである。

たしかにカメラやレンズブランドは星の数の数ほどあるけど、アルファベットで表記すればそれは26種類に分類できる。

Zはラストの文字であって、究極を象徴化した文字である。

レンズブランドで一番有名なのは、ツアイスであるが、これはドイツの普通の固有名詞であって、フランクフルトにはツアイスという名前のソーセージ屋がある。ツアイス好きのカメラ人類の為に、それをお土産にしたのは、その袋にちゃんとツアイスの名前が入っているからだ。まあ、ホンダみたいなものだ。

しかし、ツアイスの光学レンズにはその後に固有名詞がつく、プラナーとか、ゾナーがそれである。

レンズブランドにはライツのエルマー、ツアイスののテッサーという具合に「二段構えになっているのと、ズイコーやキヤノンのようにそのまんまのレンズブランドとがある。

アルファベットのラストのZのレンズを手持ちのもので調べたら、ZUIKOとZUNOWが発見された。

ズノーは伝説のレンズであって、1950年代の大口径レンズブームで有名になった。今でも熱心なファンがいるのであるが、彼らが偉いのはズノーレンズを素晴らしい描写のレンズとしてではなく「癖玉」として評価している点である。
当時のズノーは中古市場では偉い値段である。

ズイコーもクラシックなレンズブランドであるが、その興りは戦前であるから、っズノーよりずっと古い。

レンズブランドとしては、その歴史はずっと長く、今では国際ブランドとして、有名である。こうして二種類のZで始まるレンズを並べてみると、レンズのブランドイメージは重要であることが分かる。
ブランドイメージというのはメーカーがいくら広告をうっても買えない「不可思議な部分」でもある。

★カメラはGRD-4

2013年4月 7日 (日)

鉄工所の美学

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下町の小さな鉄工所が好きだ。

少年の頃は、そういう場所でアセチレン溶接などを見学した。それはまさに魔法に思えた。

昨年の12月のハノイヒルズでも部屋から小路の奥で、アセチレン溶接の青い光を眺めて、いいなあ、、、と思った。

取材でベルリンのシーメンスの大工場などを撮影したこともあるが、あたしは町工場の方に「人間の知恵と工夫と技の不思議」を感じる。

これは北千住から千住桜木の方に行った、ちょっと複雑な小路の奥にある鉄工所である。

そこをもう20年ほど観察しているのだが、仕事場の代わりに使っている「千住柳町公園」のベンチでタブレットでゲラを見ている時などに、いきなりこの鉄工所に行きたくなる。ただしそこまでの経路をはっきり記憶していないので、三回に一回ほどは道をロストしてしまう。

この前は、まぐれあたりでちゃんと到達できた。

思うにあたしのしていることは肉体の労働を伴わない「虚業」であるのに対して、鉄工所は重いモノを切ったり曲げたりつないだりという「実業」であるから、そこに惹かれるのであろう。

この鉄工所にはいかにも町工場のおやじさん(というよりもうおじいさん)という人がいて、静かに工作をしている。

それは何に似ているかと考えて、なにか茶道の静寂にも通じているのである。

広くもない、作業場の土間は乱雑に取り散らかされているように見えるけど、その実、「お道具の並べ方のルール」がちゃんとあるのではなかろうか。

つまりそこに茶道の「カネ割」のルールがあるのではと想像してしまう。

★カメラはXZ-1

2013年4月 6日 (土)

金網屋という職業

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東京大周遊はカメラを持って、大東京を果てしなく歩き廻ることである。

そういう行為をもう半世紀やっている。この間、東京都写真美術館のパンフを見せられたら、5月から「1968」とか言うタイトルで、文字通り東京の60年代後半の企画展の紹介があって、著名写真家の中に並んであたしの名前を発見して吃驚した。

そういう風に世界中の都会を歩行してきた。それらはウイーン、プラハ、北京、ハノイ、ニューデリー、パリ、マンハッタン、リスボン、メキシコシテイ、マラガ、カイロ、ヘルシンキなど十指に余るのである。

東京を撮影していて、よく誤解されるのは、あたしが「下町情緒」とか「ノスタルジー」で撮影しているのかと思われることだ。これは誤解の最大なものであって、東京はあたしの場合「極東のユーラシア大陸のさらに海を隔てた絶海の不思議の国」という認識である。

そこにたまたま、あたしは日本語を解するので、さらにこの極東の神秘の不思議な街の意味合いがよりよく理解できるということなのだ。

金網屋というのは、あたしの東京大周遊の一大テーマである。金網屋というのは、東西ベルリンの壁の補強材から身近な所では、佃名物ボケコッコーさまのお社も金網造りである。

金網は「結界」を生成する不思議な物質である。

金網屋の看板はこのように、白地に個性的な黒文字で描かれたのが最上級とする。

★カメラはOM-D スナップショットズイコー15mm

2013年4月 5日 (金)

柳田産業

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木村名人の撮影した、昭和三十年代の月島の作品を見ていると、まだ高い建物はほとんど建っておらず、砂利道であったことが分かる。しかもあの当時の東京は、今よりも遥かに埃っぽかった。

砂利道とか、コークス殻を敷いた道というのは、その下が関東ローム層の赤土であったわけで、雨がちょっとでも降ると、泥濘が下駄を没するという、いわゆる「ぬかるみ」というのは、明治の終わりに正岡子規が根岸の状況を書いているけど、最近の都会生活者はその「泥濘」に出会えない不幸がある。

すでに砂利道ではなかっけれそ、月島通りはあたしがここに住むようになった二十数年前には、まだこのようなクラシックな商店が沢山軒を連ねていた。

佃煮ヒルズから午後に市場に買い物に行く時に、見る商店のこういうファサードはなかなか良い。清澄通りでこういう「古き良きファサード」が残っているのは、この柳田商事と、下の名称不明のお店、それともう少し通りを下ったところにある、枝村酒店だけになってしまった。

以前は、清澄通りをずっと北上したところに、唐辛子屋と、やはりクラシックな酒屋があったのだが、あれは今でも健在であろうか。

★カメラはXZ-1

2013年4月 4日 (木)

XZ-10とあたし

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XZ-1を使用開始して二週間ほど。

この前、書いたが、ラバーのケースはなかなかのすぐれモノでなにか覆面レスラーっぽいのがいい。このまま、地方議会の議場に入れない雰囲気が危なくていい。

そのラバーのカバーをつけたら、XZ-10のステルス性が一挙に高まって、目の前に置いてあるのに見えなかった。

これは本物だと思った。それで思いだしたのはあたしが夏に来ている、シテイカモのコンバットスモックのことだ。
そのジャケットは最新のカモフラパターンであって、見えにくい。

数年前、なにかのパーテイで眼前に会いたくない奴がいたので、黙っていたらそいつはあたしに気づかずに眼の前を通過した。
これはカモフラパターンのおかげかと思っている。

このラバーカバーもこうして良く見ると、唐草模様のアールデコデザインで、うすくオリンパスのロゴが入っているあたりなどは、デザインが優れている。
それで同時に街に溶け込むのがいい。

まだ報道関係がパワーを持っていた当時は、報道写真家は今のニュースキャスターなみの有名人であり、自分が社会を変革しようという意志があった。
今にして思えば、そういうのは滑稽なのかも知れないが、写真家は政治的であるという誤解があった。

だからユージンスミスなどは、ブラック仕上げのキヤノン6Tを構えて、六番街で仁王立ちになっている写真がある。当時はそれで良かった。今の「写真のスタンス」というのは、もっとしめやかな静かに街に潜行するものであろう。

それでXZ-10の見えない存在は評価できる。

今は政治がこういう滑稽なことになっているので、ちゃんとした写真家は政治方面から「裸足で逃げ出して」いる。

XZ-10のラバーカバーはその意味でステルス的存在であり、それは「GRストラップレスアナーキスト同盟」と共通している。

GRとXZは共同戦線がはれるな。

火曜の午後、上野方面を徘徊していて、初日のギャラリーバウハウスにロバートフランク展を見に行くつもりが、母船のエンジンの軌道修正に誤差が生じて、神田明神の下から丘の上に上がることが出来ずに、角の鯛焼き屋で鯛焼き君を買い、昌平橋を見て佃煮ヒルズに戻った。

この橋から見た東京は、東京大周遊を開始した1960年代からほどんど変わっていない。

あたしの記憶に間違いがなければ、この看板「明日もお元気で」は半世紀もここにあると思う。
そのフレーズが高度成長期には額面通りに受け取れたのが、最近見ると、これはかなりのブラックユーモアに見える。

カメラはXZ-10

2013年4月 3日 (水)

アカカンバン

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十年以上前、まだDVDではなくビデオ時代のこと、ライカのビデオを制作した。二巻にわかれていて、一巻はライカMの話で、代官山に高層マンションが建った当時だから大昔である。二巻目はバルナックライカでこれは立石とかあの界隈で撮影した。

面白かったのは、バルナックライカのロケであった。立石駅前のミステリアスな飲み屋街は今では、テレビの下町さんぽの定番らしいが、当時はまだ知られざる東京の辺境であった。

そこの小路の入り口にこういう「赤看板」があった。安売り衣料の臣の看板が退色して実に良い感じである。

同様な退色した赤い看板がプラハのカレル橋の東詰めのちょうど建物のトンネルから市電が出てくるところにある。こっちはワインか何かの看板だが、その色相が実に似ているので、どちらがどっちなのかわからないほどだ。

この広い世界にはそういう似た場所がペアになって一万キロを隔てて存在しているのは痛快だ。

飲み屋の奧にはご覧の「ミエ」というバーがある。撮影していたらそのバーのミエさんご本人が登場した。その縁で数回、このバーに行ったことがある。

この赤いハートも赤看板の一種であるが、立石駅の改札にある巨大な看板も凄い。まるでこの駅名が「人工透析」であるかのようだ。

★カメラはOM-D スナップショットズイコー15mm

2013年4月 2日 (火)

あたしの「東京三大さくら」

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あたしなりの東京の桜のランキングというものがある。

その要素はまず「一本立ち」であることだ。大衆の好む「桜の皆さん」ではなく、個人の桜が大事である。特定の桜に会いに行くのが必須である。

それで考えるに、まず、佃の「木村伊兵衛」桜だ。

それは三角形の小公園にあって、1971に木村名人がここで、飴細工屋をスナップした名作がある。すでに40年の昔であるが、当時は桜はまだ小さかった。あたしが佃を撮影に行きだしたのは1966年であったが、当時の佃は本当に江戸の下町であった。

次は高円寺の脇にある、踊りの師匠の木造の古家の前の桜だ。

これを分かりやすく「高円寺桜」と勝手に呼ぶ。
まだ冬のただ中にこの木造家屋のユニークさに気がついて、それを撮影した時に、その前にあるのが桜の古木であることに気がついた。

桜の満開の時にはまた見に来ようと思った。
桜の古木には霊が宿っているから、その約束を果たしにきたのである。

この日は、ブラックロード4bという、フィルムカメラを持参して、東京を徘徊した。フィルムカメラがメーンだから、デジタルカメラは持参しない。
ゆえにこれはメモとしてiPhoneで撮影したのである。

三番目の一本立ちの桜は東十条にある、

巨木である。これもしばらく前に「発見」して、桜の季節に見に来たのだけど、商店街から外れて、お稲荷さんの社とその脇の烏瓜はちゃんと記憶しているのに、この桜の巨木の位置を勘違いして、道に迷った。

小路の先に桜の花びらの巨大な吹きだまりがあるのに気がついて、歩行したら、果たして「十条桜」はそこにあった。

天をつくような巨木であった。

もう存在しない桜で忘れられないのは、新川にある「隅田川鍵型桜」だ。写真集「とうきょうさんぽカメラ」でこの曲がった桜を撮影したのは15年は昔だ。今はマンションになってしまった。

新川の通りを歩く度にそこが「鍵型桜の墓所」であると思っている。

★カメラはiPhone5

2013年4月 1日 (月)

転倒石

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飛行機には乱気流がある。
大周遊には置き石がある。

置き石が危険なのは、鉄道だけではない。

マンハッタンとかハノイを歩行している時には、絶対に転倒しない。
理由は簡単である。
道が凸凹なので、つねに路上を見ているのである。

日本の都会はバリアフリーなので、逆に危険である。こういう置き石があると転倒する。それと盲人用ブロックは転倒はしまいけど、車いすの人にはあれが問題らしい。それはキャリーバッグを引っ張っていてわかる。

3月のなかばに悪罵を歩行していて、左の白い石を踏んづけた。その時は転倒はしなかったけど、記念に石を持ち帰った。
この春の千住での「ひなまつり転倒」時は、転んだ原因の石が神社の敷石なので、持ち帰ることが出来なかったのは残念であった。

右のグレーの石は白い石を確保した三週間後に、荻窪から江戸川橋まで、桃園緑道を経由して大周遊した時に、江戸川公園でこれを踏んづけて見度とに転倒した。
夕暮れなのと、足下を見ていなかったのが原因である。

それからずっと、路上に果たしてどれだけの頻度で置き石があるのかを調査した。
東京をトータルで200キロ、大阪を100キロ以上歩行する間にずっと、路上に粋石があるかどうか、そして置き石があったらそれを記念に回収するつもりで、撮影よりもそのことに集中Sて歩行したのだけど、置き石はゼロであった。
バリアフリー世界の置き石はそれだけレアなので、逆に危険である。

ハノイとかマンハッタンだと置き石の間のスペースを発見して、そこを歩行するようなものだから、一向に危険などない。

この東京、大阪置き石調査では、たとえば鉄道の軌道敷地ないから、こぼれた砂利がそこらに悲惨しているのではないかと、線路沿いも調査した。
しかし日本のよき習慣はそういう、砂利が普通にある地域でも路上には一個の石は落ちていなかった。

東京大周遊の時には「置き石収集」も同時に行っているのである。

★カメラはXZ-10

ステルスなXZ-10のこと

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数日来、XZ-10が見えなくなった。

三日前に撮影につかって、昨日はフィルムカメラを使った日なので、持参しなかった。最後に撮影したのは、月島の裏通りであることも記憶にあるし、何を撮影したかの細かいカットもちゃんと記憶している。

しかし肝心のカメラがない。
歳を取るとそういうことは普通に起こるようだ。

老人力というやつだ。長嶋監督はこれを「老人のパワー」と勘違いしていることを、赤瀬川家元が書いているのはおかしい。

XZ-1がないと不便なので大ガラスの部屋から寝室のベッドの下まで探したのがない。それで改めて、大机の上の灯りを明るい方に切り替えたら、眼前のSPAMの缶の前に後向きになってちゃんと存在した。

やれやれである。

なにが気になったかと言えば、なにもカメラを無くしたことではなく、それまで撮影した画像が心配ということだ。

10数年前、プラハからアムステルダムで乗り換えて、リスボンに到着したらやはりデジカメを紛失していた。取られたのか置き忘れたのかも不明だ。

その時も「ああ、大事な画像が失われた」と思った。

それはプラハで出発の前にプラハのPと家族と一緒に近所のレストランで会食をした記念写真である。その大事な画像が失われたのだ。

あらんことか、その数年後にプラハのPは何度目かの離婚をしたので、さらにその画像が失われたのは残念であった。

ところでカメラは小型で見えない方がいいと、言ったのはかのHCBである。しかし写真家自身が撮影に出かける前に、自分のカメラを探すのも問題だ。

XZ-10と並んでいる、iPhone5もブラックなので「ステルス性」が高い。それでよく「iPhoneを探す」の御世話になって、あたしはiPhoneのベルを鳴らしているのである。
XZ-10にはその機能が付いていないのは、残念である。

XZ-10にはラバー製の覆面レスラーみたいなカバーをつけた。これは指かかりが良いので非常に撮影がしやすい。

一方でGパンの尻のポケットから取り出す時には、摩擦係数が高すぎて手間取る。

なかなか難しいものだ。

★カメラはXZ-1

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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