フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

ロック ユー

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

2013年3月31日 (日)

プラハのブロンデイ

2_2

Photo_2

今年のプラハの春はなかなかやってこない。

すぐ雪が降る。もっとも復活祭の時は「暦の上では春」ではあるが。気温が異常に下がったり、突風が吹いたり、雪がちらついたりする。

これはほとんど毎年の例であって、あたしもリスボンで突風にあったり、パリで凍えていたりした。

プラハの光の乏しい冬には、電車の停留所に集合している人影は皆さんブリューゲルの冬の点景人物みたいにモノトーンである。

それが電車の中でブロンドの女性が居たりすると、そこだけがぱっと明るくなって周囲が春めいている。

この前、プラハで会った、ベラ・チャスラフスカさんは今でチエコのオリンピック協会の名誉会長である。彼女も綺麗なブロンドだ。
★カメラはOM-D 12-50mm

2013年3月30日 (土)

ライカ3f セルフ付き

Photo

ウイーンのハーデイ ブッケルトは元気であろうかと考える。もう地上には居ないのではないかとも思う。

ブッケルトはいわゆるズデーテンドイツ人で、故郷を追放されてウイーンに来たのが戦後間もない時だ。故郷を捨てる時には衣類と歯ブラシは許可するという、お上の命令があったが、自分は少年の頃から愛用しているショットガンは持ってウイーンに来たと言っていた。

最初に会ったのは、ウイーンのアムホーフの広場で、まだグラーツに行く前の、古屋誠一と不要品を蚤の市で売ったのである。

そこでブッケルトに会った。彼はすぐ側のナグラ小路の最上階に住んでいた。それからあたしがウイーンを離れるまでの7年ほどのお付き合いがあった。

小路の奥の最上階の部屋でブッケルト氏とライカのテクニックについて語り会ったのは数百時間に及ぶであろう。

彼はかなりの数のライカを持ったいた。その中で一番好きなのは、3Fのセルフタイマー付きだと言っていた。

しかし実際に撮影をするのではなく、お道具を揃えてそれで満足してしまうのである。

要するに、野々宮の言う所のカメラの素振りの人なのであるが、その元祖になるかも知れない。

カメラがこれだけ便利になってきたので、フィルムカメラはもっぱら「素振り」を楽しむのが今の時代の正しい写真機との付き合い方であるのだろう。

★カメラはXZ-10

2013年3月29日 (金)

SPAM

Photo

2

これは顔本のワンフレーズである。

片岡義男「ラハイナまで来た理由」
以下、引用。
今度片岡さんに聞いてみよう。

「スパム・アンド・エッグスです。卵はふたつ、ワンス・オーヴァー。スティームド・ライスを添えてください」
「エニシング・エルス?」
「トマト・サラダをください。ドレッシングなしで。パイナップル・ジュース。そして大きなマグのコーヒー」

000000000引用おわり

高岡義男さんとは良く撮影に行った。片岡さんはお住まいが多摩川学園なのだがそこから延々と電車を乗り継いで、東京の北辺部に来る。

ご一緒して滝野川とか千住の千草圓などに良く撮影に行った。終了するといつも、新宿の小さな素敵な中華料理見店であたしにご馳走してくれた。

当時は東京大周遊という言葉がなかったが、片岡義男こそがその先駆者である。

片岡義男というと、あたしには航空会社の機内誌の洒落た恋愛小説の認識しかなかった。それで実際に片岡さんと東京を大周遊したら、新たな片岡義男の切り口が見えてきた。これが貴重な体験だった。

上のスパムアンドエッグスの一文を読んで、ああ、この世の中にはスパムという食いものがあったなと思いだした。

それで東京大周遊の帰りに佃のリンコスでそれを1個だけ買ってきた。高いなと思った。これは普通のランチョンミートである。やはりブランド料が加味されているのであろうか。

家人がお彼岸で新潟の別邸に行っている間に、スパムアンドエッグのサニーサイドアップを作った。これは冷えないようにフランパンの上で食べるのがあたし流である。

そしたらプラハの長年繰り返される朝をおもいだして、ついでにこの前、プラハから買ってきたコーヒーの粉にそのまま熱湯を注いだ。それを飲もうとしたら、口の中がコーヒーの粉砕された豆でいっぱいになった。

ようするに、プラハだとトルコ風コーヒーの粉がカップの下に沈殿する時間を待つことが出来るのであるが、東京ではその時間が待てないということなのだ。

スパムはうまくもまずくもない。普通のランチョンミートである。上の作品で片岡さんは親切にも、作り方を書いている。それによると、いったんかりかりになったスパムを取り出してその油で玉子を焼くということになっている。最近のスパムは塩分も油も控えてあるのか、油は浸出しないので、そのままスパムの隣に玉子をいれた。それはそれで良い。

★カメラは OM-D  14-42MM

2013年3月28日 (木)

おにぎりボルシー

Photo

Photo_3

2

35mmカメラで「可愛い」と思うのは、アメリカ製のボルシーである。

もともと、ボレックス撮影機や、一眼レフカメラ、アルパを設計した、ジャックボルスキーは「高級カメラ」のブランドイメージであるが、彼がアメリカに「移籍」して、立ち上げたブランドが、ボルシーだった。

これは大昔、1950年代の話をしているのだ。

小柄で曲線美で、グラマラスなボデイは、ダイカストでそこに、厚いクロームが鍍金してある。この手の工作方法が当時、もっとも安価であったかどうかは知らないけど、今のライカMなどは大昔のボルシーに比較すると「顔色なし」である。

これはなにもライカに責任があるのではなく、時代の変遷によるコスト削減の変移というやつであろう。

ボルシーは一大ヒットになって、アメリカの陸軍でも使われたし、アメリカ空軍でも使われた。後年、KE7Aなどという、ライカファンの将軍が個人的な好みで、高いライカを制式機にしたのとは異なり、自国の安カメラで充分である。その写りはライカに比較して見劣りする筈もない。

この間、根津の裏通りを東京大周遊で徘徊していたら、おにぎりやさんの看板のサインを見て、反射的にかのボルシーのデザインを思いだした。

そのお店は店の前の自販機を始め、クーラーの室外機の脇にも、おにぎりのサインが並んでいる。

それに触発されて、おにぎりが食べたくなったのではなく、あたしはボルシーの「素振り」がしたくなった。

★カメラはXZ-1

2013年3月27日 (水)

なのはな

Photo

この前、菜の花を買って、それをおしたしにして一杯やった。
その束の中に、黄色いつぼみのある一本があったので、それをバカラのグラスにさしておいた。

そのなのはなは数日で黄色を点じて、さらに数日で満開になった。
世の中は桜に浮かれているようだが、一輪のなのはなというのは逆に「一面のなのはな」より見応えがある。
その色合いがライカインコに似ているのもいい。

吉野の一目で千本の桜よりも、スタンドアローンの桜の方があたしは好きなのとこれは同様な次第だ。

数年前のこと、リスボンからパリのオルリに飛んだ時、その航路上はずっと、黄色であった。一面のなのはなというのはそういう高高度から見た方が良くて、眼前のなのはなは一輪の方がいい。
これは群集と個人の視点の違いと似ている。

なのはなを見ると、あたしは欧州のなのはな畑を思い出す。日本の鎮守の森のなのはなではない。 なのはなの黄色を見て八十年代のマンハッタンの古いビルの核シエルターのエントランスのマークを思い出す。

バカラのグラスは、30年前に碑文谷にあった、ギャラリーMINの名残の品物だ。夜通し、モルトを飲んで写真家の山崎博と始発の山手線で帰った。
ああいう馬鹿なことは今はやらなくなったのは、年の功というやつだ。

★カメラはXZ-1

2013年3月26日 (火)

XZ-10とアイパッドミニの大きさを比較する

Photo

先週、ZX-1の使い込んだ汚さを自慢したら、その数日後に新型のXZ-10が佃煮ヒルズに到着した。

さっそく、例の如くアイパッドミニで大きさを比較してみた。こういう証拠写真は大昔は警察関係などでは、ハイライトの箱と並べたものであったが、手元にないので、一番身近にある物体と比較したわけである。

以前、アイパッドミニとライカM5を並べた。その時は「さすが大ライカ!」と感心した。このフレーズはライカM5が登場した1971年のシュミット商会の広告のヘッドコピーである。

「大ライカ万歳」というのであった。
無論、大ライカとは、その機能の偉大さを表現していたのである。
その大きさを言っているのではない。

先週のアローカメラガラクタ屋で、非常に珍しい体験の写真家の方にお目にかかった、その方はシュミット商会の井上さんと同級生(多分小学校か?)で、井上さんのお宅に遊びに行くと、部屋にライカがずらりと並んでいて、その真ん中で、知らないおやじが腹ばいになって、ライカで遊んでいるのを見て、これ、誰だ?と思ったそうだ。
そのおっさんが木村伊兵衛さんであった。

こういう神話は現代の電子カメラではなかなか起こりにくい。

さてそのXZ-10である。

XZ-1はEVFファインダーが付いたが、10には付かない。それは問題なし。レンズは同一のものであるのも問題なし。このXZのレンズは「ズイコー」と命名してあるだけあって、自信満々作であるかどうか知らないが、明るいレンズで暗い場所でちゃんと写る。

内蔵フラッシュはXZ-1でも一回も使ったことがなかったが小型な本体にちゃんと組み込まれている。あたしはアベイラブルライト派だから使わない。
XZ-10でもフラッシュは使うことはないであろう。

使い始め初日には1枚のメモリを二台のカメラで共用したのだが、XZ-10とXZ-1ではスロットのメモリの差し込みの方向が逆である。
それに関連して、バッテリーの差し込み方向も逆である。このバッテリーはもともと、その理由は不明ながらどっち方向にも差し込めるバッテリーなので、問題が多い。沢木耕太郎さんは今、澳門のカジノを取材されているそうだが、バッテリーの入れ方が、バカラみたいなのでこれは楽しめる。

オリンパスの小川さんが、昨年、TIPの「カメラの話をしよう」に見えた時に、あたしはその問題点を指摘したことがある。

メモリの差し込みが逆という意味から分析すると、XZ-10はXZ-1の兄弟ではなく、同じ方向にメモリの差し込みをする、OM-Dと同じ系統のカメラというわけだ。

XZ-10にはなにか新機構が沢山付いているらしいが、あたしも福田和也さんと同じで取説を読まないので、だんだんに研究してゆこうと思う。

★カメラはXZ-1。
XZ-10に入っていた、メモリを取り出して、XZ-1に逆に挿入(というか2年以上使っているので、ラベルがこっち側に見えるのに慣れている)して撮影。

キャプションが分かりにくくてすみません。

2013年3月25日 (月)

ルデコの2bワークショップ展に行く

1

2

渋谷の並木橋のルデコというギャラリービルに最初に行ったのは、季刊クラシックカメラの責任編集長だった当時、実務編集長の阿部さんと一緒に、編集スタッフのヘッドハンテイングに行ったのである。これが15年ほど前。

凄い、ボロビルでまるでマンハッタンのSOHOにいるような気分だった。
その後、漂流者(実名)さんの個展で行ったのが数年前。

あたしは大昔、渋谷の写真学校で教えて、それから東急の文化セミナーで教えて、もともと「筋金入り渋谷嫌い」なので、できることなら行きたくないのが渋谷であった。

それが昨年の秋の渡部さとるさんの主催のワークショップ2Bに行って、その熱気にあてられた「集客力」も凄い。
それで3/23に荒木町のシドニー独演カメラ寄席の高座の後に、並木橋のワークショップ展にも行ってきた。

おそらく、渋谷界隈で一番、混雑したフロアがルデコの2Fと3Fではなかろうか。

面白いのは展示者の皆さん、使ったカメラを名札と共に胸に下げていることだ。ライカから、ニコンFに、ローライフレックスの二眼レフと一眼レフ。さらにデジカメから、ハッセルのデジタルバックまで多彩であったのが面白い。

持参したXZ-10でさとる師匠が、あたしを撮影してくれた。そこに立てとか、ちょっと身体をそっち向きにしろとか、まあ、そういう指示はあたしも人間を撮影する時には言っているのであるが、有名写真家にそれを言われるとちょっと緊張する。

さとる師匠と最初にお目にかかったのは、十年近く前、東京都写真美術館で開催されたあたしの講演会(たしかライカに関するものだった)で、彼が所蔵するあたしのマンハッタンのビンテージプリントにサインを求められたのが最初だった。
その後、ワークショップ2Bでのプリントビューイングにも呼んでもらった。

卒業生の最年少「カメラ高校生」が持参のリンホフテヒニカで三脚にセットしたカメラであたしと件の高校生を撮影することになった。

その様子を見ていると、師匠のテヒニカさばきはなんとなく、心配である。
シャッターが1/2秒なのに、1/60で撮影したりしている。
後で聞いたら、エボニーになれているので、テヒニカはあまり使わないということであった。

そのリンホフを見たら、ちゃんと150MMレンズの距離計連動カムがついている。すなわち、ピントルーペを使ってフォーカシンググラスでピントを合わせないでも、距離計でライカのように迅速にピント合わせが可能なのである。

あたしがリンホフを手にしてそのことを説明したら、周囲の2Bのメンバーにはそれが初体験であったらしく面白がってくれた。

そこら辺が逆にあたしには面白かった。

写真教育も大事だが、それ以上に大事なのは、写真機教育。

★カメラは新人のXZ-10

2013年3月24日 (日)

佃煮島サクラサク モニタリングポスト 花冷え

Sakura1

P3240006

お花見の予定が大幅にくるって、皆さん苦労しているようだ。

日曜の午前11時過ぎの東京の気温は十度だ。

曇り日には桜が薄墨色に見えて、快晴の青バックの空よりも好きである。
おなじみの青シートがすでに、墨堤にしかれているが、人影なし。
今日のお花見は一種の「我慢会」だな。

桜とは関係ないけど、プラハの気温はマイナス9度で体感はマイナス18度というのは異常である。

★カメラは新着のXZ-10

OM-Dとソ連製望遠レンズで「さくら狩り」

3

1

2

佃の大ガラスの部屋の魅力は、居ながらにして「お花見」が出来ることにある。

目の下が、隅田川でしかも桜並木だから、「花」をそのまま地で行くようなものだ。

大ガラスの部屋には、各種の望遠レンズが用意してあるが、手持ち撮影で一番取り回しの良いのは、300mmm見当である。その上には400,500.640,800,1000ミリも用意してあるが、640mmはノボフレックスだから軽量ではあるが、マイクロ43だと1200mm相当になるので、長すぎる。

300mmは600mm相当になるから望遠効果はあるし、手持ちで撮影できるのがいい。これはマイクロ43の恩恵であって、フルサイズの600mmの玉だとなかなか手持ちは困難である。

このグレーのレンズはかのフルシュチョフ第一書記の大号令で作られたという伝説のレンズである。もともとはフェドにミラーボックスをつけて、同じ300mmf4m5のTairというブランドのレンズを付けた「写真銃」であった。
かの赤軍はこれで、軍用偵察写真を撮影していたのだ。

今ではフォトスナイパーという名前でソ連製の一眼レフと組んで売られているが、あたしの好きなのはその初期モデルのこのグレーのレンズである。
キヤノンの白いレンズがブームになるずっと前から生産されていたのが偉い。

このレンズはソユーズの宇宙プログラムでも使われたレンズであって、その実力には定評がある。

そのレンズをOM-Dと組んで、大ガラスの部屋から桜を撮影するのは楽しい。要するに隅田川の河面を背景に撮影できるアングルというのは、ここしかないわけだ。

★作例はOM-DにTAIR 300MM  カメラの姿写真は、PEN3に12-50MM

2013年3月23日 (土)

TIPの湯浅堂でホッピーの箱の上で挨拶

Photo

京橋のTIPには以前、カメラの話をしよう、というトークショーで行った。

そこで話して、あわてて青山の、時のわすれものというギャラリーに行って詩人の吉増さんに会って、その翌日だかにハノイに行ったのは昨年の12月のことだ。

だから同じ亜細亜圏なのであたしの記憶の中ではこの三者が三位一体になっている。

湯浅堂という組織の前歴は知らないけど、湯浅さんはリコーのプレジデント時代にずっと御世話になっているので、新横浜の役員室で面会する時など、それなりに緊張したものである。福田和也さんと湯浅さんとで、広州に取材に行ったのも懐かしい。

今は支持者の100名あまりの若い人に囲まれて、まるで園長先生だ。こういう幸せな人生もあるのかと感心した。

湯浅堂の「カメラの話をしよう」では。オリンパスの小川さんなども登場してなかなかの企画であった。

その湯浅堂からご招待を受けて初めて、飲み会に出かけたら、広いスタジオのエントランスにまるで伊豆の高級温泉ののれんみたいのがかかっていて、ああ、ここがあの有名な日光東照宮と並ぶ文化遺産、湯浅堂なのかと感激した。

のれんは一種の「結界」であるから、これがあるとその先は「異世界」である。

ちょうど隣のギャラリーでワークショップの卒展を開催していたので、湯浅堂に頼まれてその講評めいたことをした。背後に真面目に並んでいるのは、そのワークショップのメンバーさんである。

銀座京橋はあたしにも思い出のポイントであって、ニコンサロンで最年少で大学時代に個展をしたことなどを話した。
つまり、今は「オンラインの写真展」が全盛だが、写真展は実はオフラインでやらないと意味がないということである。

あたしはホッピーの箱の上に載っている。

月一開催のアローカメラ我楽多屋では数年来、ずっと麦酒の中瓶の箱の上に載っているのである。これは倫敦のグリーンパークの箱に乗った演説じじいの真似なのであるが、立ち位置が上になると聴衆が注目するので良い。

会場に来ていた、突撃隊長(桜木某)が機転をきかせて、近くの居酒屋でこの箱を借りてきた。
その時、お店の人に名刺を渡して「怪しいものではありません」と言ったそうだが、その行為は非常に怪しいと思う。

★撮影は桜木某。カメラはiPhone5’

2013年3月22日 (金)

佃煮島サクラサク モニタリングポスト午後1時40分

Sakura_monitor

桜と人生は、いずれも思い通りにならない。

世の中は来月の七日あたりを満開と見積もっていたようだが、昨日から佃島界隈ではいきなり、ほころび初めて、午後1時半過ぎにはもうこんな状況だ。

新入社員のブルーシートの場所取りもまだ皆無は、さくらの奇襲作戦だな。

★カメラはペン3型 12-50mm

以下はNHK news 東京の都心のサクラの満開は、昭和28年に統計を取り始めてから2番目に早く、去年より15日、平年より12早いということです。

三年目にはいったXZ-1

Xz3

Xz1

Xz12

二年前の今頃、マンハッタンに行く直前にXZ-1を使い始めた。

マンハッタンではXZ-1とライカM3で主に撮影した。この場合、どちらがメーンどちらがサブということはない。

ライカにはモノクロフィルムが入っていた。それで限定版のポートフォリオを製作した。

あたしの昔の記憶では、ローワーイーストサイドは剣呑な場所であったから、撮影には小型なカメラがいい。

連日の雨なので、XZ-1を裏返しに首からぶら下げてアベニューDあたりを歩行したけど、この界隈は安全になってちょっと拍子抜けした。

それ以来、XZ-1を世界中に持ち歩いている。

世の中、「カメラのことに素人な経済新聞の記者さん」などが。コンパクトデジカメはスマートフォンに喰われるなどという論調があるが、あれは正しくない。

コンパクトデジカメは表現や報道の最先端で重要な存在である。

酷使したカメラは美しいと思う。まるまる二年も使っていて、レンズのリムが凹んだのはあたしの不行き届きであるが、レンズの沈胴部分の鍍金が剥げてご覧のような状態になっている。

これはあたしのカメラ美学では美しいと思う。

上の画像はカメラが新品で到着した時。使用前使用後の画像だな。

2013年3月21日 (木)

中平卓馬さんとナポリタン

Photo_3

Photo_2

この間、東京都写真美術館に用事で行った時、学芸員さんと四方山の話をしていて、中平卓馬さんの話題になった。

最初に中平さんを見かけたのは、彼がまだ現代の眼の編集部に居た当時で、真夏の東松事務所で紹介されたのである。

その次に会ったのは、あれは銀座松屋で開催された「空間から環境へ展」で、東松さんの出品が「ナンバー24」という何もない白い部屋に足形だけが書き込まれた環境で、東松さんは中平さんをモデルにして撮影をしていた。東松さんミノルタの一眼レフに魚眼レンズを付けていたな。

その時に撮影したあたしの画像は[chotoku @ work](毎日コミュニケーションズ0に掲載されている。

1980年にウイーンから帰国して、すぐにマンハッタンに1年行って帰国した直後だからあれは、1984年であったか.。

自由が丘のギャラリーで吉村朗の個展で、中平さんに会った。もう記憶をなくされた後の話である。

吉村の話では毎日、そのギャラリーに中平さんは訪ねてきて、自己紹介の後、しばらく話をした。近所の喫茶店にナポリタンかなにか食べに行くという話であった。そうしてキヤノンF1に100mm付のレンズで中平さんは町を撮影するのである。

翌日、また中平さんはやってきて、やはり自己紹介から始まって、お昼になると近所の喫茶店のナポリタンを食べに行くのである。これは吉村から後日聞いた話しだ。

あたしが中平さんと出会ったのはその数日目のことであって、中平さんの持参のキヤノンF1を見せてもらった。

ファインダーは腐食していて、ほとんど全視野を見渡すことが出来なかった。これは本物の表現者のカメラのファインダーだと感心した。

あたしは「植物図鑑」の時代よりも「100ミリで縦位置」の中平さんを支持する者である。

中平さんは風のように軽く、午後の自由が丘の光の中に遊泳していった。

最後に中平さんをお見かけしたのは、数年前の真冬で場所は曙橋であった。かなり暗くなってからだったが、赤いウインドウブレーカーに赤いキャップで、キヤノンF1を携えていた。

別に声はかけなかった。

だからあたしがちゃんと中平さんと会話をしたのは、最初にお目にかかった、東松事務所での半時間だけである。写真家は会話して意気投合する必要などないから、それでいいわけだ。

大ガラスの部屋でランチにナポリタンを食べて、中平さんを思いだした。70年代の日本の喫茶店はランチのセットだと、ナポリタンか生姜焼きだったな。

吉村朗がもう地上には居なくて、中平さんが地上に居るのも、なにか感慨がある。

★カメラはOM-D 12-50mm

2013年3月20日 (水)

地下鉄サリン事件って知ってるかい?

地下鉄サリン事件はちょうど十八年前今朝だった。

家人は大学の卒業式にゆくのが、遅刻しそうになりタクシーを使ったので難を逃れた。
あたしは腰痛治療で自転車で六本木のクリニックに向かうところで霞が関は大混乱。
ヒルズができるずっと前のお話。

卒業式会場のホテルではNTTが臨時に電話を増設して、学生が実家に連絡するのをサポート。
当時はまだ携帯が普及してなかったのがわかる。

今日の朝日新聞など、サリン事件には触れず。

若い連中はもう知らないよなあ。

スーパーアングロンニメガネ

1

2

ライツのスーパーアングロンにライツの35MMレンズ用の眼鏡をつけると、その視野が縮小されて、21MM相当の視野になるから、無くしやすいアクセサリーファインダーを使わなくて良い。

これはいかにも欧米のアイデアだ。カナダ人の友人から借りていたのがそのレンズであって、これはMマウントの21MM F3,4を改造して、そこに眼鏡がついている。

そのレンズは写真集「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社刊)の表紙にも登場している。

そのレンズを1年ほど使ったあたしの感想は「やはりレンズは単体で、それにアクセサリーシューを付けた方が使い易い」であった。

しかしライツの製品の美学(現行のライカの美学ではないぞ、ここ赤アンダーライン)からすると、そういうキュリオリテイにもそれなりの楽しさがあるのだから、それを批判することは出来ない。

このように、ライカM5などに付けると、そのグラマラスな感じはなかなか良いのである。

2013年3月19日 (火)

偽ライカ愛好会春期大演習

3

2

1

偽ライカ愛好会の幹事を2月と3月と連続してあたしが仕切ったのである。

撮影ポイントは月島の北から、南の果てにまで及んだが、2月には時間を読み違えて、佃方面で思わぬ時間を費やして、島の南端(あたしの見立てではここがキースエストであって、対岸はハバナということになっている)には時間きれで行けなかった。

今回はその島の南部に重点をおいた。レインボーブリッジが建設中の時には、ここで8x10にニッコール1200mmを付けてまだ両岸から交差していない、橋を撮影したこともあった。あれは80年代の半ばだった。

島の南端は豊海水産埠頭というのである。1960年代にはまさに無国籍地帯という雰囲気の所であった。今はタワーが林立している。

月島の北から南までは相当な距離がある。これをほぼ全域歩行した。途中で西仲通りのもんじゃストリートを抜けて、鉄管堀で小休止した。戦前はここが東京の最東端であるという、地元の有志のぶりきにペンキの案内が、あったがそれも20年前である。今はわずかにその破片が撤去されわすれて残っている。

夕刻、兵員輸送車(都バス)にて、州崎の某亭に到着して春期大宴会となった。

早く到着したので、店の開くまで、店の前でワークショップがあったり、持参のライカのみせっこをした。

こうして見ると、キャパが愛用したライカD2と数十番違いのライカから、最新のライカMEまでずらりと揃って、まさにライカの歴史展示を見ている感があった。

★カメラはXZ-1

2013年3月18日 (月)

ビテッサのプランジャーはライカビットより使い易い

Photo_2

現代のカメラ(デジタルの意味)がデザイン上でつまらないと思えるし、どれもこれも非個性的に思える。

これはカメラに限らず、今のモダンなデザインはどれもこれも同じようなデザインであって、違いを見るにはそのロゴを見ないと分からないようになってしまった。

現行のミラーレス機などは、あたしのようなフィルムのライカとかコンタックスを永く使った目からすると、どれもこれも同じに見える。デジタルカメラ時代に生まれたカメラ人類にはその違いがわかるらしく、デザイン論戦を顔本などで戦わせているようであるが、あたしにはどうも生ぬるい。

フィルムカメラが充分に個性的なのは、やはりフィルムカメラの命はその巻き上げ機構にあるからだと思う。

長年、ライカでやってきたノブ巻き上げが、M3でレバー巻き上げになって一方で各種の巻き上げ方式が登場した。

これはフォクトレンダーのビテッテのプランジャー方式と呼ばれる、突起したバーを押し込むことで巻き上げとシャッタージャージをする。

実際に使ってみると、速写で撮影する時などには、カメラのバランスを崩さないので非常に使い易い。

ライカビットだと巻き上げは左手で、ピント合わせも左手を使うので連続してピントを合わせる撮影には不向きである。このことはライカMPが登場した時に、ライツ社はその欠点をちゃんと明記しているのはさすがである。

ビテッサの場合、フォーカシングは右手でホールドした親指の腹で行う。それで巻き上げは左手の人差し指で行うので、連写のセオリーにかなっている。

★カメラはOM-D 14-42mm

2013年3月17日 (日)

オリンパスワイドで撮影した「歌舞伎座」を思い出す

Photo_3

昭和33年頃に発行された「オリンパスワイドの使い方」という本がある。
当時は土門拳などに指導された「絶対非演出のスナップ」というのが、アマチュアの間で流行していた。

この場合、50mmの標準レンズよりも広い35mmの広角レンズがそのようなスナップには最適と考えられた。

レンズ交換式のライカやニコンやコンタックスの場合、広角レンズは当時はかなり高価であったから、広角レンズよりもさらに安価なレンズシャッター式の広角専用機をオリンパスが出したのであった。
これが爆発的なヒットになった。ちょうど初代のペンデジタルの大ヒットと似た感じであった。

それでオリンパス以外のカメラメーカーの広角レンズ専用機も次々と出た。

ただし、そのワイドカメラブームをあたしは進行形では見ていない。日大写真学科の1年生だったのは昭和41年であったから、ワイドカメラブームはすでに去った時期だった。

しかし、東京のストリートスナップには最適なカメラであるという直感があった。最初に買ったのが(中古で)明るさがF2の高速レンズのついた、ワイドスーパーであったが、撮影していくうちに明るいレンズは必要ないことがわかり、さらにスナップではレンズの撮影距離が5メーターにしておけば、全部がシャープに写ることが分かったので、レンズの明るさがf3,5のワイドを買い足した。街歩きにはライカよりオリンパスWが向いていると思った。

オリンパスワイドには1型と2型、3型がある。1型はシャッターが最高速度が1/300までで、巻き上げがノブ式であった。2型以降は、レバー式の迅速撮影が可能で、シャッター速度も1/500まであった。ストリートスナップはぶれてはこまるのでもっぱら2型以降のモデルを使った。距離計など目測で充分だから最初から不用である。

あたしがワイドを使いはじめた10年近く前にオリンパスワイドブームがあったのは知っていたからすでに古本になっていた「オリンパスワイドの使い方」を買った。親切丁寧なワイドの使い方の本で参考になった。著者は桜井良一さんだったかな。

その中の作例が昭和41年の現代ポイントからみても、非常にクラシックな東京の風景に見えたのがあたしには不思議であった。要するに、昭和30年年代と昭和40年年代ではそれほどに東京の風景が近代から現代に変貌したのである。

その中で昔も今も変わらないのが東銀座の歌舞伎座の正面であった。当時のワイドカメラの典型的な作例として、歌舞伎座の風景がその本には掲載されている。ただしモノクロ写真だ。

それから時代がずっと経過して、今又、同じスタイルの歌舞伎座がリニューアルしたのは実に不思議な感じがある。あたしも真似をして新しい歌舞伎座をこのクラシックワイドで撮ろうと思う。

思うに歌舞伎座に足繁くかよったのは、大学生時代だった。当時は一幕見の立ち見席が50円であった。穴の開いた五十円玉を用意したものである。

★カメラはOM-D 14-42mm

2013年3月16日 (土)

Nikonカメラのインストラクション

1_2

2_2

十数年前のこと、まだ世界のトップではなかった頃の、ウイーンのライカショップで倉庫の在庫を見せてもらっていた時、案内してくれたペーターが、ずらりとならんだニコンのSの棚のニコンの列のおしまいに、おっこちそうになっていた、小さい取説をあたしにくれた。

恐らく極東からの遠来のお客をもてなす気持ちもあったのであろう。

そのことはずっと忘れていて、この前、新年度に備えて大ガラスの部屋の大机の上を「粛正」していたら、それが出土した。

その取説は85mmx130mmほどで、これは当時の取説のスタンダードであった。英文である。かなり初期のS型のものであることが分かるのは、カメラについているニッコール5センチf1,4の製造番号が有名な5000万番代であることだ。

この初期のレンズはニコンM時代のもので、それが取説では使い廻されているのである。

あまり上質とは言えない紙質の紙に印刷してあって、表紙は草色の地にニコンのロゴはオレンジ色である。

裏表紙にNIPPON KOGAKU KK とある、その下にSHINAGAWA TOKYOとあるのが興味深い。もともと品川区大井森前町のカメラであるが、どこにもJAPANの文字は見えない。まだ占領国日本時代に印刷された取説のようである。

★カメラはペペンペンに12-50MM

2013年3月15日 (金)

ブレッソンのキヤノン

Photo

1970年代の愛読書にタイムライフの写真講座(あるいはタイトルは間違えているかも知れない)があって、10冊ほどのシリーズであった。真四角な本で印刷が良かった。

たとえば、カメラの指南だと、ニコンFのクロームの本体に28,50,135ミリのレンズが並んでいる。さらにステップアップコースなら、そこにモータードライブを加えるという具合だ。

眺めているだけで、わくわくする。

その本では、システムカメラを組む時の、6x6はハッセルブラッド500cであって、その豪華さに陶然とした。当時のハッセルはレンズ3本のセットで軽く100万円(1970年代のですよ!)した。あたしの初任給が36000円の時代の百万円である。
それで4x5はスピグラで8x10がデイアドルフであった。
まさ豪華絢爛である。

思うにこの40年前の機材は今でも現役で使える。しかし現今の電子カメラの場合、40年先はおろか、4年先もどうかなという感覚なのは何か恐ろしい。

さて、そのタイムライフのシリーズに世界の有名写真家の一冊があって、巻頭でそれぞれの写真家がそれぞれのカメラを持った、小さいショットが枡目になっている。

その中にブレッソンの姿があるのに注目した。いや、彼の手にしているカメラが旧式のキヤノンのレンジファインダーであることに注目したのである。

ブレッソンと言えば、ライカである。それがキヤノンを持っているのでかなり新鮮に見えた。

思うにハッセルを持ったブレッソンでは洒落にならないけど、キヤノンなら同型のカメラだから何も問題はない。

しかし、キヤノンの旧型を持ったHCBはほとんど話題にならなかった。

あれから40年が経過して、あたしの脳裏のカメラ帝国の図版にはつねに、HCBがキヤノンを構えて、君臨しているのである。

★カメラはOM-D 12-50mm

2013年3月14日 (木)

ハッセルの一枚撮り用の鋏はゾリンゲン製か?

Photo_4

アサヒカメラの三月号だったか、去年の四月に撮影したプラハの作品をカラーで載せた。

カメラは500cでレンズはプラナー80mmである。この撮影にはちょっとした仕掛けがあって、一眼レフのファインダーは覗いていない。

その代わりに、フレームファインダーをつけて、それで撮影した。こうするとスクエアな画面であるから、カメラは縦位置横位置のには無関係ではあるが、フレームファインダーを上にした方が使いやすい。

それで撮影したカットを見ると、画面はちょうどスーパーイコンタで撮影したように、縦ではなくフィルムの上に横にずらずらと続いているのである。

ハッセルブラッドをファインダーなしで使うのは、実は高度なテクニックである。

最初にヒューストンのカメラ店で購入されて、皮革を剥がされて、ミラーを取り外した、最初のNASAの手作りの500cは撮影者は素人さんであったから、背後に露出表がつけられた。それも手書きである。

月面のデータレコードカメラだって、一眼レフではないし、もともと航空カメラの制作からスタートしたハッセルは「ミラーなしが本道」なのである。

ハッセル関係での話題で、過去、数十年にわたって気になっているけど、まだ入手して居ないアクセサリーが上の「ハッセルの鋏」である。

これは一枚撮りのカットフィルムホルダーに規格通りにフィルムをカットするアクセサリーだ。

時々、市場に登場するのであるが、いざとなって探すとないのがこの手のレアものの法則である。

この鋏はやはりゾリンゲン製なのであろうな。

2013年3月13日 (水)

レンズキャップがついてると写真は写らないという作例写真(世界初)

1

2

しばらく立石バーガーにゆかなかったので、立石から北に歩行した。
もともと立石にあったバーガー屋さんが堀切菖蒲園に移転したのであるが、それを堀切と頭につけないで、立石とやったところが、経営者の意志を感じる。

平和橋通りを北上してようように、バーガー店が見えてきて、目を疑ったのは、看板が下ろされていることだった。
これは立石バーガーがマックに買収されたのかと、ついに来るべき日が来たと思った。
それは勘違いであることは数秒後に判明した。看板を外装屋さんがかついで、梯子を登るところが見えたから、その時間軸を瞬時に判断して、新しい看板をかつぎあげる瞬間であることが判明したのだ。

あたしはかなり焦って、ペンのスイッチをオンにしてショットしたら、何も写っていない。しかしシャッターは切れているのである。こういう瞬間は何が起こっているのか分からない。
数ショット撮影しても真っ暗だ。

落ち着いてスナップショットズイコーを見たら、レンズキャップモードになっている。
HCBが粋なのは、ライカについたズミクロン50に常にレンズキャップを付けていることだ。そのレンズキャップは短い紐でレンズとつながっている。この場合、レンズキャップは大きいから撮影前に巨匠は落ち着いてレンズキャップを外してであろうが、スナップショット初心者のあたしは、それを忘れていたのだ。

世の中に作例写真家は★の数ほど居るけれど、レンズキャップをしたままの作例写真はこれが最初であろう。「トリプレット玉の闇のマイスター魂がよく表現されていますね」と書いて変におもうでしょう。これを言葉を換えてみれば「ツアイスのマイスター魂の光と陰が良く写っていますね」になる。
ブランドに騙されてはいけません。

レンズキャップがしてあるのに気がついて、外して撮影したら、このようにちゃんと写っていた。しかし看板を上に持ち上げるショットは撮り逃した。

作業をしている男性を、外装屋さんと思ったのはあたしの勘違いであることも分かった。立石バーガーのご主人であった。この人を観察する時には常に、白い帽子で白い服なので、全身像を私服で見たことは今までなかったのである。

20分ほどの看板交換が住んでお店に入って、立石バーガーを食った、
しばらく来なかった(ハノイとプラハに行ってたので)ら、店内に立石バーガー神社が鎮座ましましている。

若者がお店の自販機でバーガーを買ってから店内に入ってきて、メモ用紙に願い事を書き込んでピンでとめていた。
あたしも真似して、「向上心を捨てられますように」と書いてお願いした。

2013年3月12日 (火)

フルサイズとマイクロ4/3

Photo

「今まで、フルサイズデジタル一眼レフで撮影していたが、思い立って、フルサイズとレンズ数本を処分して、OM-Dを手にいれた。描写はフルサイズと変わらないし、小型軽量なのでフットワークが良くなった」

こういう書き込みをあたしの「顔本」(facebooki)の中に認めた。

あたしの顔本友達は三千人ではきかないので、そのカメラ人類さんのお顔は知らないけど、おもわず「いいね!」をクリックして、さらに書き込みもしてしまった。

OM-Dもペンペンも、コンパクトカメラユーザーから更に上のステップを狙って、持ち替えるというカメラ人類は多い。

それはそれでカメラのステップアップで結構な進化であるのだけど、逆に、今までフルサイズを自慢していた上級カメラ人類がある日「目覚めて」フルサイズからマイクロ4/3に持ち替えるというのは、ありそうでなかなかないことなのである。

あたしが「いいね!」したカメラ人類さんは、それまでフルサイズの一眼レフに数本のレンズで傑作をものしていたようであるが、齢四十半ばになって、さすがに歩行しての撮影では、機材の重さが行動を鈍らせることに気がついて、賢い判断を下したわけである。

六十半ばのあたしから見れば、まだお若いのに二十年早い感じもあるが、それは追求するまい。

どうも雑誌などで「フルサイズ」を今のトレンドとしているのは、広告の出稿量もあるかも知れないけど。あたしにはちょっと理解できないポイントである。

それは周囲のプロカメラマン連中が実際にマイクロ4/3で撮影して、それを巨大なプリントにして、その結果は「フルサイズと変わりない」とコメントしているからだ。

ただし、問題は彼らはクライアントあっての仕事であるので「マイクロ4/3は仕事に使えるけど、クライアントが立ち会うとなるとどうもね、、、」と語尾を濁している。

どうもデジタルカメラの存在論はその実質の性能よりも、対社会的な切り口でそのフォーマットが決められるのは馬鹿馬鹿しい次第だ。

聞けば発注主が「写真の素人さんなのでフルサイズでないと受け取れない」などとのたもうそうだ。まず、そういう方面の固い頭脳を柔軟にするのが時代の急務であろう。

ユージンスミスが雑誌LIFEの指示に反して、4x5ではなく35ミリで撮影して、契約を解除された「往年の馬鹿話」今の我々は笑っていられないわけだ。

★カメラはペペンペンに12-50mm

2013年3月11日 (月)

三十年前のNYCの8X10モノクロネガ発見す

Photo

2

この十年というもの、六本木ヒルズで仕事していたので、佃の大ガラスの巨大デスクの上は乱雑で、ちょうどヨセフ・スデクの仕事場のようになっていた。

この名作はスデク自身が撮影しているが、机上はカオスであってそこに紅茶のカップと黒パンの一切れがおけるスペースが確保してある。

チエコ人の部屋のちらかしようは半端ではない。そういう環境は好きなのであるが、今年から佃煮ヒルズで仕事する関係で、大デスクの上に「平面」を造った。

期せずして、1983年にマンハッタンで撮影した8x10のネガが数十枚出てきた。

マンハッタンのネガそのすべてを10年ほど前に某所にあずけたのであるが、そこが建物の建て替えと、大震災の影響で行方不明である。

それでマンハッタンの8x10のネガはもう失われたと諦めていたのが、そのごく一部だけど、自分の目の前のハトロン紙の封筒に入っていた。表書きをみると「田中長徳写真展」とある。だからこれは1984年の1月にまだ虎ノ門にあったPGIでの展覧会のネガのようである。

理由は忘れたが、あの時はドイテクニカルフォトに協力してもらって、あたしがマンハッタンでプリントすることのできなかったパートをプリントしてもらった。

三十年前のネガは別段劣化もしていない。当時のビンテージは数が少ないので探している人が多いが値段がかなり高価になっているようだ。

それで今回、発見のプリントをモダンプリントとして再度限定のポートフォリオとして制作するつもりだ。

思うにフィルムはこのように三十年経過しても問題はないが、現行のデジタル画像は手元に置いてあるだけでは、劣化とか読み出し不能になりそうである。

そこらが面白い現象である。アナログの方がデジタルようりもその「命」は永いようなのだ。

上の画像はユニオンスクエアから東に行った所にあった劇場「パラデイウム」である。そのモザイクのファサードが素晴らしい。

2年前にマンハッタンの怪人、チョーセイさんと界隈を散策した時に、その話をしたらとっくに投資用のマンションになったという話だった。

すでに30年が経過しているのである。あたしの良く通った現像ラボはフラットアイアンビルの東側にあったが、あたしの滞在中にすでにマンションになってしまった。

アボットさんの言うように「変貌するニューヨーク」なのである。

下のショットは好きである。安ホテルに住んでいたのでタイムスの日曜版の付録の紙の動物園を製作した。ただしこれは家人の仕業である。

それを撮影したのはあたしであるが、時間が経過するとなにか物体として「立ち上がって」くるのが妙である。

顔本にあたしはその感想を以下のように書き付けた。 「発見された1983のNYCの8x10のモノクロネガ見ての感想。 人生短くネガ生永し」(^-^)/

★オリジナルのネガは8x10デイアルドルフで撮影。それを複写したのは

OM-Dに12-50mm

参考までに以下に反転画像を掲載。

1

2

2013年3月10日 (日)

白ペンと黒ペンもって春の練馬板橋「国境」をゆく

Photo

1

3

曙橋のシダークで、ラムカレーを食べてから練馬車庫行きのバスに乗った。

当初の予定では、新宿のJINZに眼鏡を直しにゆくつもりであったが、眼前に都バスが来たので目的地変更である。人生の目的間違いなど、こんなものだ。

バスの中で午前の撮影が終わったので、カメラを白ペンから黒ペンに持ち替えた。

レンズはスナップショットズイコーしか持っていないから、レンズも付け変えた。

大型な一眼レフではないから、本体を2個持っても別に問題はない。

ライカ時代だと、たとえばブラックの本体にはカラーを入れて、白い、というよりもクロームの本体にはモノクロを入れたりした。

当時はそういう使い方が普通であった。

あるいは集中的に撮影する場合には、ライカの本体を二台持った。こはは石元先生とか高梨先生のやり方で、レンズは21ミリだけだったりするので、もう一台のライカにはボデイキャプがついている。

これはなかなか粋な撮影テクニックであったが、当時は真似ができなかった。

二台のライカを持つというのは大変な贅沢であったからだ。

今回はペン1とペン3である。実はペン1の方があたしは撮影が楽だ。というのはモード切替ダイヤルが間違って回転しないような配慮がある。ペン3の場合、そこにはフラッシュが付いているので、どうもロックのないモードダイヤルが回転してしまうのだ。

それで撮影したくもない動画をとってしまったりするのである。

バスは江古田二股を左折する。この二股という地名がなにか猥褻だな。角に材木やが見える。師匠の写真教室2Bもすぐ近くだ。

終点の練馬車庫から桜台、そして羽沢の方に向かった、すぐに板橋にはいった。

無人の住宅街で動く人影は年度末の道路工事の人ばかりである。

もともと板橋区はあまりに広大なので、戦後になってその南を練馬区にしたという話を聞いたことがある。

ようように東上線の線路を越えて常盤台の北側に出た。帝都幼稚園の前を通過したのが午後二時である。幼稚園のお帰りの歌を園児達が歌っている、「先生、さよなら、またまたあした」というのであるが、かなり驚いた。

これはあたしが幼少の時に幼稚園で歌っていた歌である。こういう古の歌がまだ生きているのである。

さらに北上して、宮本町公園で休んだ、大きな、榎の木の梢がゆっくりと春の風に揺れている。それを見て、なにか非常に贅沢なものを見た気分であった。目の前にある、水飲み場の水道の水を飲んだ、東京大周遊では東京の各地の水を賞味したことを思いだした。これから東京大周遊もシーズンである。

★カメラは白ペンとペン3  レンズはスナップショットズイコー15MM

2013年3月 9日 (土)

お雛様フライトとお雛様転倒

1

2

Photo

毎年、暇祭りフライトというのがある。JALがやっているもので、ことしで6回目かな。

キャプテンからCA さん(はまず女性だけど)から地上のスタッフまで全員が女性というサービスだ。おそらく日本航空の偉い人が考えたのであろう。

海外で女性のキャプテンは珍しくはないが、それを「売り物」にするのはなにか、極東的な感じがする。

マンハッタンに居た時、女性のファイヤーファイターが登場した時にはニュースになった。これは消防士というのは危険で死亡率が高いので、それに女性が加わったことへの「称賛」のニュースなのである。

全員がお雛様という見方とはかなり異なるのは言うまでもない。

桃の節供の日の街歩きには、やはり桃色が目につく。

三ノ輪から歩行して千住大橋の手前まで来て、そこにあるあれは神仏混淆というのか、得体の知れないお寺だか、社だからわからない建物の正面の階段に、無数のお雛様が鎮座している。

それを接近して見てから(撮影はしなかった)大橋の方に数歩歩行したら、そこでいきなり、お雛様に足をすくわれた。

あたしは受け身が出来るので、ゆっくりころんと転倒したので、怪我などしやしない。胸に下げた白いペンも無意識のうちに身体でかばっていた。

われながら見事な転倒であった。

それで足をすくわれた段差を記念に撮影した。以前、路地裏学会の桃木会長と歩行していた時、あれは池袋の裏の公園であったか、ローライフレックスを持ったまま転倒して、その時は記念にあたしがつまずいた石ころを持って帰ってきた。

今回は神社の敷石なのでそうはゆかない。

思うに、その前に転倒したのは、一昨年の十二月のリスボンの墓地である。

つまりそこらを遊んでいる精霊が冗談半分にあたしを転倒させるのだ。

★カメラは白ペン スナップショットズイコー

2013年3月 8日 (金)

1980年リスボンの秋 SX70

Photo_4

1980年のフォトキナと言えば、すでに33年前の話だ。

仕事でポラロイドの米国の本社の重役、エリコボルフに依頼されて、あたしはポラロイドカメラと当時の最新のSX70のピクチャーロールを持たされて、パリからリスボンを回った。

エリコとライン河に停泊してある、ポラロイドのボートでデイナーをやった。彼の腕時計は別にポラロイドのマーク入りではなかったが、わざと10分進ませてあった。「これならアポに遅れることはありません」との話を聞いて、そんなものかと思った。
現代で企業のトップで時計を進ませているような人はいないのではなかろうか。

あの時、渡されたポラの箱はゆうに100個はあったと思う。ようするにSX70の行商人みたいな恰好である。
当時はまだデジカメなど存在しない前世紀であったから、そこらここらで撮影した画像をそのまま皆さんに差し上げてきた。東ベルリンで向こうのジャーナリストの家族を撮影したSX70のプリントは一昨年、ベルリンの壁の半世紀の取材で行った時にその男性に再会したのだけど、彼はその画像を大事にアルバムに貼ってあった。別に変色もしていなかった。

その意味であたしは「ポラロイドの伝道師」であったのだ。

撮影した画像はポラロイドが買い上げてくれた。それから四半世紀が経過して、数年前に湯島のバウハウスで個展をした時に、ゼラチンシルバープリントよりもまっさきに完売になったのが、このSX70プリントである。
ようするに、コレクターさんは五枚限定のゼラチンシルバープリントよりも、一点しかない「ユニークプリント」の方に興味が行くのは当然の次第だ。

ところでこのSX70プリントは僅かに手元にあるやつだけど、現場でちゃんと撮影日時をマーカーで記録したのは正解であった。

写真は記録である、などと三流の写真学校の先生のコメントめいたことが言いたいのではない。撮影した日のデータをその時間軸上で書き込んだことで、なにかの重要な表現の部分が完成されたという意味である。

★複写カメラはOM-D 12-50mm

2013年3月 7日 (木)

高円寺じゃないよね

Photo_2

2

3_2

この前の東京大周遊。
赤羽の裏手にある、赤羽なのに「なんとか一番館小石川」とかいう安マンションの表記に頭をひねっていて、赤羽駅まで戻ったら、目の前に関東バスの赤白の塗装が停まっていたので、迷わずに搭乗した。

関東バスは30年前に中野界隈で良く見かけたのでノスタルジーオブジエなのである。日大の1年生の時に、江古田から、中野の日東商事にオリンパスワイドを買いに行ったのも、関東バスでそれも「犬バス」であった。

それで到着したのが高円寺である。

あたしには「中央線の呪い」はかかっていないのだけど、高円寺というのはJRだと中野の次なのでなかなか行きにくい。要するに「遙かな感じ」が欠如しているのだ。赤羽ー高円寺というのは、中央線で営業している関東バスの中では一番の北東に結ぶ路線なのである。これは「沙漠で駱駝で三日感覚」なのである。

十数年前、パリのピガールの安ホテルの前から出ているたしか49番の路線バス(このバスはもう廃止になったようだ)で、オペラを経由して、南のパリの大学都市に向かうのがあって、それに良く乗った。まだフィルムカメラの時代で、ヘキサーRFにヘキサノン50mmf1,2を付けて、バスの窓から流れ去る風景を撮影した。

赤羽と高円寺はあたしには同様な「異国情緒」を感じさせる。いや、パリは国際敵な観光都市であって、それに比べたら、極東の果ての赤羽と高円寺を結ぶ路線の方が「最果て感覚」は遙かに高い。

高円寺は「阿波踊り」くらいしか知らないが、駅の南を徘徊していたら、立派なお寺があった。これが本来の高円寺であることに気がつくのはかなり時間がかかった。門前の交番はなにか時代劇の番所みたいである。

もうひとつの要素は吉田拓郎の歌の文句に「きみはどこに住んでいるのですか?高円寺じゃないよね」というのがあった。赤い丸の内線の時代だ。

高円寺交番のすぐ隣に立派な桜の古木がある。その桜のある家はすでに朽ちている。半年前にやはりこの古家の前で感心した記憶が蘇った。
果たして、今回もそのままに家はあったのが嬉しかったが、観察すると二階の欄干はすでに倒壊しようとしている。
そのアンバランスがなにか「ピサの斜塔」めいていた。

接近して観察するに、これは青柳流の稽古所だったようだ。
桜の満開の時期にここに観察に来るのは気が効いていると思った。

★カメラは白いペン スナップショットズイコー15mm

2013年3月 6日 (水)

ハノイに見る「労働のかたち」

1

Photo

3

ハノイには11月と12月に行ったわけであるが、人間嫌いのあたしとしては、人間観察が面白ろかった。

それは観察というよりも、彼らへの共感である。いや、共感というよりもさらに一歩進んで「労働は正しい」という感情である。

あれだけ、赤旗を振って「労働者は正しい」とやっていたクレムリンから赤旗が降りて、すでに四半世紀が経過して、ごく普通の「帝国主義者」の連邦になってしまったので、あたしは別にベトナムの共産党の支持者ではないけど、ハノイの街を見ていると「人間の労働がちゃんと機能している」という正しい感じを受ける。

日本ではその手の労働をみくびる風潮があるので、それをけしからんと思っていた。ここでは煉瓦を運ぶ人にも練炭を売る人にもちゃんと「人間の顔」が見えているのがいい。

12月の撮影ではXZ-1の画面の比率をこの「ハイビジョン」サイズにして撮影してみた。最初は横長のパノラマ風景を撮影するつもりであったのが、これで人物の撮影をすると、縦位置での収まりがなかなか良いのである。

ラストのカットは北爆が一番酷かった地域の市場の露天の床屋の鏡に写った、極東から出稼ぎにきた写真労働者像である。

重量物を運んでいないと、労働者としてはどうも労働の比率が低くみられるのは仕方ない。

★カメラはXZ-1

4

2013年3月 5日 (火)

天路を歩む

1

2_2

先日、沢木耕太郎さんに四谷荒木町の裏路地の寿司屋で招飲を受けた。
話題作「キャパの十字架」で、微力ながらお手伝いをさせていただいたので、その感謝の一席というので実に恐縮であった。

家人も同道して沢木さんと家人はあたしの知らない「芸道」の話をしていたので、あたしは主に聞き役で、その分、手元の純米酒のピッチがあがった。

沢木さんのご招待は永く忘れないが、この道のスマートさを良く知っている御大であるから、これが沢木さんと二人だったらこっちが緊張してこうは楽しめなかったと思う。

それで3時間45分。寿司屋に長居は駄目なのは知ってるいるが気がついたらそういう時間になっていた。
沢木さんは「これから四谷に用があるのでここで失礼します」ときっちり腰を曲げてお辞儀をして闇の中に消えた。
四谷三丁目から四谷駅まではかなりの距離があるのだけど、沢木さんは倫敦でも30キロは歩行する「旅人」である。

荒木町に行く前に、荒木町のアローカメラで二代目さんから「キャパの十字架」を預かった。もし可能ならサインをお願いします、というのである。
宴たけなわの時にお願いしたら、快く引き受けてくださった。

それがこれである。以前なら「色紙」とか「扇面」に書くような立派な文字列である。

★カメラはXZ-1

2013年3月 4日 (月)

白ペンにレンズキャップレンズで早春なり

Photo_2

2

3

4

一月に寒いプラハを歩行して、二月は寒い東京を徘徊して、三月の声を聞いて、ああたしは東京の街を本格的に歩く。

アサヒカメラの連載(編集部都合で開始は4月20日発売の号から)で、東京の今昔を撮影するので、その昔の部分はすでに撮影してあるが、今の部分を撮影する為のスパークリングを開始したのだ。

40年前の撮影はもっぱらライカであって、今の撮影はデジカメなのは当然であるが、思うに昔はフルサイズのライカにズマロン28MMを付けていた。当時、トライXを使っても明るさがF5,6というのはもう曇ってしまうと撮影できない暗いレンズであった。

今回、東京大周遊には白ペンを持参した。最初に使い始めたのが、この白ペンであるので手になじんでいる。欧州での飛行機の乗り換えで、可愛いカメラ女子がこの白ペンをたすき掛けにしてたのも懐かしい。

その白ペンに革ケースを付けて、鵠沼のブレッソン作の長いストラップで斜めにかけると、非常に案配が良い。バランスが良いので何も持っていない感じがするのである。

それで他には何も持たずに東京の街をどこまでも歩行した。

思いつきで十条に行って、王子野戦病院の跡が完全に公園に変わったのを再確認した。
春の嵐に吹き倒されそうになりつつ、十条から赤羽に行き、裏手の「赤羽霊園」を見に行った。健在であったが、今更撮影をする気にはならない。
マンハッタンであたしは自由の女神は見るだけで撮影をしないのと同じことだ。

しかし界隈にはなかなか渋いファサードがある。これがハノイだとその建物はフレンチコロニアルなので、そこに重さがあって逆につまらないけど、赤羽は軽い、戦後のトタン葺きのバラックが風景の土台にあるから、ぺらぺらであって、その分だけ「舞台の大道具めいて」いるのがいい。

十条の路地裏にいかにも「淫祠」という感じのお稲荷さんの社があって、その前に巨大な銀杏の保存樹があって、そこに「烏瓜」が枯れたまかかかっている。

少年時代に音羽の裏手の「久我山」の枯れ笹の上にある、烏瓜を取りに行ったことを思いだした。
八十年代初頭にNが中野三丁目のマンションの部屋に烏瓜をはわせていたのも思いだしたが、あの手の趣味は「普通の女子美の美術感覚」なのであろうか。
あの当時にはまだ「ギャラリー冬青」も無かったな。

★カメラは白いペン スナップショットズイコー15mm f8

2013年3月 3日 (日)

財布の新旧交代劇

Photo

JALの機内誌のウイーン特集の撮影で、ウイーンに行ったのはあれは1980年代の終わりであったかな。

当時、ANAとJALがこの路線を狙っていて、あたしはその撮影で派遣されたのであるが、当時JALが「実際にそこに飛んでいないのに、その街の特集をする」のは前代未聞であった。それが表紙を含めて、巻頭の30数頁であった。

そのウイーン線は結局、ANAがとって、コードシエアのAUA(オーストリア航空)で開設直後の便で何かの仕事でウイーンに行った。たまたまFクラスにあたししか座っていなかったので、そこでスズキさんというCAさんと知り合いになった。聞けば、彼女の双子の姉上はJALのCAさんで、さらにお互いの会社を受けて「落ちて」いるのである。

後年、業界の人に聞いてもこういうのは珍しいという。

ここらは実に奇縁だ。お二人はお花茶屋の箱入り娘さんであったが、その妹さんの結婚式にもよばれたのである。これがすでに四半世紀の大昔だ。その時、聞いたのが「娘が出来ても絶対にやらせたくないのがCA」だという。これは真実の言葉だ。CAさんはアマゾネスでないとやって行けない。

おっと、話はそのことではなく、ウイーンを取材に行くのに、英国航空であったから倫敦に滞在したのである。同行のライターの女子が「長徳さんも、いい大人なのだから、ちゃんとした財布を持った方がいい」というので、ボンドストリートだかのその手の誰でも知っているお店で黒革の財布を買って自慢だった。

財布はライカと異なり、消費財だからブランド品でも数年で駄目になる。そこで目をつけたのが、ウイーンのカフェなどでウエイターさんの使っている「業務用財布」である。これも20年ほど使った。

3年ほど前に、スイスの鉄道時計の会社に取材に行った時、おみやげに「M」というイニシアルの入った黒革の財布をもらった。それを使っていたら、ある日いきなりばらばらになった。(写真参照、中央のやつ)

それが中国製だから駄目とか(これは最近のマスコミの怖い論調だな)言うのではなく、あたしの思ったのは、財布はお金に関する重要な道具だから、これを時計メーカーが「ギウアウエイ」用にまくのは戦略上損ではないかということだ。

それともこれは鉄道時計メーカーの「時は金なり」という箴言であろうか。

この1月のプラハ行きで財布を買うつもりが、プラハ大周遊に忙しくて、買うことが出来なかった。

昨日、東京は北区の十条界隈を大周遊した。
普段、うちの近くにない、ダイソーという百円ショップを覗いたが、適当なのがない。その商店街の他の百円ショップのなんとかというお店で発見したのが、これである。

それでばらばらになった財布の中身を105円の財布に移動した。
財布の新旧交代儀式である。

この間、福田さんの財布を銀座のバーで垣間見たら、彼はマネークリップを使っていた、これはお洒落である。

その翌日に、沢木耕太郎さんと四谷の寿司屋で3時間45分滞在して、おごっていただいた時に、やはり沢木さんの財布が気になっていたが、沢木さんはお店の奥でこっそりお勘定をされたので、どのような財布なのか分からなかった、
これはさらにお洒落である。

一方であたしは、105円の財布。これは実にあっているな。

★カメラはXZ-1

2013年3月 2日 (土)

アイレスフレックスとDズイコーで春が来る

1 アイレスフレックスとDズイコーで春が来る

今の人は知らないであろうが、昭和30年代の高度成長期には、オリンパスは他のカメラメーカーにレンズを供給していた。

一番、有名なのは四枚構成のDズイコーである。Dズイコーは、銘機オリンパスワイドでも有名であったが、120フィルムカメラ用にも人気があった。

今でこそ、4枚構成などはほとんど顧みられないが、あたしの世代に言わせればやはりテッサータイプがレンズの最高級というか、ワークホースなのである。

アイレスというカメラは実に良く出来たカメラである。残念ながら工場が火災になって倒産したのは昭和30年代の半ばであったろうか。
自社ブランドのコーラルというレンズも優秀であったが、やはりレンズはブランドがモノを言うのである。それで高級ブランドのレンズを二眼レフのアイレスフレックスに付けるというキャンペーンがあったのだ。

当時のブランドレンズは、ニッコールとズイコーであった。無論、自社レンズのコーラルよりは1割以上高価なのであるが、それがブランドのパワーである。
当時の価格を調べると、ズイコー付きよりもニッコール付きの方がわずかに高価であった。高千穂ファンんとしては残念ではあるが、それは仕方ない。

アイレスフレックスには何機種かあるが、このクランク式のアイレスオートマットが最高級器である。

Dズイコーは今でもしっかりした描写をする。三月の声を聞くと、やはり気分を変えて「東京大周遊」をしたくなる。
それで棚からこういう往年の銘機を下ろしてきて、レンズと本体を磨いてやるわけだ。

おっと、磨いているだけではなく、ちゃんとフィルムを装填して撮影に行くのは言うまでもない。

★カメラはOM-D
2

2013年3月 1日 (金)

福田和也さんとあたしの2ショット

Photo 福田和也さんとあたしの2ショット

福田和也さんにお目にかかった最初は5-6年前であった。雑誌en-Taxiの取材で初めて実物を拝見したときの第一印象は「メデイアの福田はこわもて状態」だなということであった。

それまでは並み居る作家連をはしから切って捨てるのでどんな鬼畜かと思っていたのである。
福田さんは実際にはカメラ好きなおっさんであって、なかなかお洒落でもある。あたしの知らないイタリアのなんとか言うブランドで統一しているので、さすがと思った。

さすがというのにはちょっと深い意味があるのであって、福田和也のそのファッションがGQのモデルさんみたいに似合ってしまっては、文芸評論家福田和也は台無しになってしまう。

この場合、残念だけどちょっと似合っていないなあ、というのが極めて需要なポイントである。伊丹十三がなにかのエッセイに書いていたが、フランスのスカーフが本当に似合う女性は駄目であって、ちょっとはずれているのが本当の意味でのお洒落さんであるということを書いていた。
福田さんのファッションセンスもそこにあるのでなかなか渋い存在だ。
福田さんのカメラ趣味に関しては、ここで書くスペースはないが、最近ではハッセルのデジタルバックを手にいれたそうだ。10年近く前に、ヨーテボリでハッセルの人にインタビューした時の話だが、彼らのデジタルバックの仮想敵はフルサイズデジタル一眼レフであるとのことだった。これはなかなかの戦略だ。デジタルバック付きのハッセルを持ったイタリアンファッションの福田和也は絵になるが、フルサイズのデジタル一眼ではどうもね、、、なのである。

過日、R社の取材で福田さんを銀座の蕎麦屋に呼び出された。「暴れると困るから押さえに来てください」と知り合いのNさんからメールが来た。いや、実際にはそういう文面ではないが、裏を読むとそう読めるのである。
なにしろ、週刊新潮で社会をめった切りをしている福田さんだから、Nさんはここは「猛獣使い」が必要と思ったのであろう。これは当然の危機管理である。

福田さんは儒教精神の持ち主であるから、年長者のあたしの言うことは良く聞いてくれるのである。

このショットはNさんが撮影してくれたのであるが、思えば福田和也とのツーショットは手元にない、
しかも蕎麦屋の片隅であって、いかにも「文壇」の感じが出ている。あたしなどは「通俗時代劇作家」という感じだ。

★カメラはGX-R

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30