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ロック ユー

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2013年2月28日 (木)

早春の東京をオリンパスワイドで歩く

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欧米では新学期は秋であるが、極東では春である。

1966年の春に憧れの日大写真学科に入学して、当時はライカとニコンは持っていたが、街並みを撮影するもっとフットワークの軽いカメラが欲しかった。

それで入手したのが、オリンパスワイドSである。価格は中古で18000円だった。四年後のあたしの初任給が36000円だったからこれはかなりの買い物であった。

明るい35mmF2のズイコーレンズが付いていた。当時、このカメラは報道関係者の現役カメラであった。あたしもその数年前に関口の東京カテドラルで吉田茂の葬儀にカメラマンとして紛れこんでいた時、あたしはライカM2のブラックだったけど大手新聞社のカメラマンがこのオリンパスWを使っていた。

いいなあと思った。

それで春になると、新しいスニーカーの箱を開けるように、フレッシュなオリンパスWSの箱を開けるのである。

水窪川というのは水源は池袋でそこから雑司ヶ谷、大塚坂下町を経由して、音羽の裏通りから江戸川橋に注ぐ短い農場用水である。すでに江戸時代から存在して、当時の地場産業であった、紙漉をこの用水で行ったとは、あたしの小学校時代に教えられた。

その用水はとっくに暗渠になっているが、音羽の家の裏庭の下を流れているので、少年時代に地面に耳を押し当てた記憶がある。

果たして、水の音がしたか否かは記憶にはない。

日ノ出町の名もなきコロッケ屋さんの主人が「昔はうちの前に、水窪川に小橋がかかっていた」という短いフレーズを聴いて、往年の記憶が戻った。

早春の機持ちの良い、太陽の暖かな午前に、オリンパスワイドを持って、かつての水窪川ぞいに歩行して、音羽通りのあたしの生家の前経由で、江戸川橋の暗渠の出口までをワイドで写した。

断っておくが、その画像はまだ現像していないので、フィルムはオリンパスワイドの中にある。この画像は「イラスト参考用」に同じアングルでiPhoneで撮影したダミーである。

オリンパスワイドで撮影した画像は大事に保管してあるのだ。あたしのような老人は「すぐに見ることの出来ないアナログ画像」など時代遅れに感じるのであるが、最近のカメラ人類に言わせると、デジカメは即時に見れるのが当たり前だからつまらない、逆に「現像しないと分からないフィルム画像はミステリアス」なのだという。

へえ、そんなもんか。

オリンパスワイドと東京の街を歩いて、すでに四十又七年。

2013年2月27日 (水)

メンチカツの「王道」

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サントリーのハイボールか何かの広告で、メンチカツが登場したので、日ノ出町の
名も無きコロッケ屋」(そういう屋号ではないので、これで検索してもヒットしませんよ)のメンチが食いたくなった。

プラハの街を徘徊していて、食べたくなるのがこのメンチである。それで思うに、メンチというのは「典型的な日本料理」なのであろう。寿司屋はプラハにパリにも掃き捨てるほどあるが、メンチ屋はない。

ここの店のメンチが偉いのは、価格がごらんのような値段である店だ。佃煮地方によくテレビにでるお店があるが、そこは米沢牛が使ってあるという理由で240円である。知り合いの小倉さんがそこに取材に来て「お!米沢牛だからうまい」と言ったらしいが、これはレポーターとしては失格だな。

三ドルのメンチは我々の食いものではない。メンチは1ドルでなきゃいけない。四十年前にメンチは50円であったから、ここのはまず物価の優等生である。

この名も無きコロッケ店は、看板がない。関係メーカーのポスターもない。なにか「禅の道場」を思わせるお店だ。このスペースが何かににてると思ったら、1960年代の鎌倉河岸のシュミット商会に似ているのであった。ただしシュミットの場合にはライカM3のポスターがかけてあったから、やはり格はこっちの方が上である。

それでいて、店主は悟っているのではなく、常にこの世の中に向けて「憤慨」しているのである。そういうお店のメンチが不味いわけはない。
メンチカツの「王道」を行ってるわけだ。

2013年2月26日 (火)

月刊「カイラ」

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この前の土曜の午後二時。インフルエンザからの病み上がりの身体を押して、「突撃リムジンサービス」にて、月一の荒木町のシドニーにカメラ寄席をやりに来た。

ふらふらするので、麦酒箱の上から落下するのではないかと心配したが、さすがこの道に経験のある老芸人であるから、いったん開始してしまえば、トークは滑らかに進行して、あっと言う間に90分が経過して、お後と交代になった。

今回はJwaveの話とか、沢木対談とかキャパの話とかで時間が足りなかった。

その中で、あたしはなぜ、中古カメラ市に往かないのかという質問があったのでそこらを開陳した。

まず、カメラは真面目に見たいので、そこに来ているあたし以外のカメラ人類は出来ることなら見たくない。カメラ鑑賞の邪魔になる。

しかしあたしのことを知っていて、挨拶してくる人も居るし、さらに本にサインを求める人なども居るのであるからそういう人を無視するわけには行かない。

そうなると、中古カメラ市に行くことが「社会へのアンガージュマン」になってしまう。これが困ったことなのだ。社会参加など最初からしたくないのだから。

大谷崎が書いていたが、あの年になると、もう人間関係をこれ以上増やすのは面倒であるという。そこらはあたしも同感であって、人生の残り時間のことを勘案すると、新たな人間関係を開拓するようなゆとりはないのである。いかに人生を軟着陸させるかの方が問題なのだ。

それでカメラをじっと見ていたりして、そこに知り合いが来て、礼を失するよりもそこに行かない方がはるかにリスクが少ないことに気がついた。

それで中古カメラ市に行かないことにした。これは数年前。これからも行く予定はない。

荒木町でトークが終わって、階段の所でたむろっていたら、ライカの父がこのような雑誌の合本を示した。

1935のアルス刊行の「月刊カイラ」である。ライカよりもカイラの方がなにか精密感があり、有り難みがある感じなので、関係者でこれからは「カイラ」と呼ぼうということになった。「コークと呼ぼうコカコーラ」である。

なにか聖なる山「カイラス」みたいで神聖な感じがする。

頁をめくってみると、表四のカイラD3のイラストがとてもいい。自社広告というわけだが、シンプルなタイプセッセイングなのに、背景の色彩を毎月変えてあって、これぞグラフィックデザインの王道という感じがする。

カイラのメカニックな良さが良く出ている。こういう雑誌が1935年に存在したのは大したものだ。いや、別の今のカメラ雑誌が駄目というのではない。

ライカの父はこの合本を横浜の古本屋で発見したそうである。

こういう本は「素人の足下」を見る本であるから、あたしが予想価格帯を3千円から3万円の間、と予想したら、それより10円安い2990円であったという。

瞬時に周囲のライカ人類の間に「嫉妬の炎」が炎上した。

2013年2月25日 (月)

オマハビーチの「アンダーパーフォレーション」

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一年ぶりに沢木さんから返却された、ライカと、コンタックスローライフレックスを手にとって見ている。

手元に充分な玩具があるので、今更、松屋の中古カメラ市に往く必要もない。

その前後、検索名人の突撃隊長桜井(仮名)が、顔本にDデイにキャパの撮影した、一連のショットをメンションしていた。

そこには「コンタックス2でもアンダーパーフォレーションが起きるんだ」とあった。

アンダーパーフォレーション(エフェクツ)について説明しておくと、これは35mm映画フィルムがコマ送りをする為の例の穴の影が写真の画面に登場することである。そのパーフォレーションはそのままライカのフィルム巻き上げに利用され、同様にコンタックスでもニコンでもレチナでも、オリンパスワイドでもこのパーフォレーションがフィルムを進行させるための重要な手段になった。

初期のライカでは、フィルム室へのフィルムの押し込みが不十分だと、画面内にパパーフォレーションの角が写ってしまう。そこはもともと「穴」であって、フィルムは存在しないから、「本物の存在学としての真実の闇」が写るわけである。

これはデジタルカメラには出来ない、高度な芸術的な所産、、かどうかは知らないが、クラシックなフィルムカメラの機械学を暗示する要素であって、あたしは好きだ。

そこで問題になるのは、そのパーフォレーションの形である。映画用のフィルムのパーフォレーションはその形状が丸っこい。一方で四角い感じのパーフォレーションはこれは最初から写真機用に生産されたフィルムの形状なのである。これを映画用のパーフォレーションの「ネガ目」に対して「ポジ目」と区別する。

Dデイのこのショットがその「ポジ目」のフィルムで撮影されていたのは意外であった。思うに「崩れ落ちる兵士」で有名になったキャパはもうスター写真家だから、ちゃんとコンタックス用のフィルムを潤沢に買えるようになったのであろうか。

一方の「ネガ目」のフィルムは映画撮影に使われた、映画カメラマンから撮影残りの端尺をわけてもらえばそれがそのままライカに使えたわけである。

あたしがフォルカーシュレンドルフのスタンドフォトグラフであった時には、撮影はアリフレックス35mmBLで(これは当時は1971年のミュンヘン五輪の為の最新鋭カメラ)フィルムはイーストマンのモノクロフィルムだった。それでカメラマンからショートエンドの端尺をもらって、これをダークバッグでライカのカセットに入れて使った。

映画の本編とスチルのフィルムが同じというのも、なにか分かり易い構図であった。

キャパはこのショットではまだ上陸用舟艇に乗っている。それはカメラアングルから判断が可能だ。

先に見えている、戦車防御用の鉄の十字架まで行って、キャパは後世に残る「Dデイ」を撮影している。ただし、戦場の緊迫感はこのロングショットの方により強く出ているように思われる。

★カメラはXZ-1

 

2013年2月24日 (日)

大ガラスからXZ-1で働き者の小舟を撮影

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風邪をひいていると必然的に部屋の中にいるので、窓から隅田川を見るのが自然な視神経の運動になる。

思えばすでに四半世紀近くこの川面観察しているわけである。観察するとは大げさながら実際には目の下を行き交う船を細かく撮影したり双眼鏡で見たりしているのであるから、これは観察と言っていいだろう。

あるいはボランテイア船舶交通監視員と言ってもよい。

好きな船はたくさんあるのだが、この場合観光船は勘定には入れない。あれは通俗的なものだから都市風景にはあまり似合わないのである

好きな船の中にまず第一に小型のオイルタンカーがある。これは隅田川の上流にその手の製油所があるのでそこに油を運んで行き、またそこから戻ってくる定期的な運行である。

早朝に目が覚めると遠くから密かに発動機音が聞こえてきて、それがだんだん自分の枕元に近づき、最大限の音の大きさになりさらに徐々に去っていくというのがリアル感があっていい。
自分も船と共に生きているという感じがする。

それで20年以上住んでいると知り合いのそういう小型タンカーをたくさん持っていることになる。

オリンパスOM-Dに 400ミリの超望遠レンズを付けてその甲板で仕事をしている男たちを撮影したこともあった。彼らの表情を見ると一様にリラックスしていて気楽でいいなぁと他人ながらに思ったのだが、それは他人の無責任な観察であって案外たくさんの苦労話があるのであろう。

小型タンカーの次に気にいっているのはあれはなんというのか、 1種の土砂を運搬する船である。これも毎日午前と午後に定期的に隅田川の上流から小さな船がその後に巨大な土砂を満載した船をいくつかつなげてゆるゆると降りてくるのである。

それゆえ、一艘の船が構成している全体のユニットは非常に長い。アメリカにはワンマイルトレインという非常に長い列車の編成があるが、それと似たような感じが良い。

一番前を牽引している動力船の後につながっている船は単なる「だるま船」あるから舵がついてだけだ。そのそれぞれの船にはそこに1人ずつ水夫がついているのである。
しかし実際に彼らの様子を観察していると別に舵を操作しているわけではなくて多くの場合椅子に座ってタバコふかしたりしてるから、楽な職業に見える。

おそらく私のようなフリーランスの写真家も第三者から見たらこのような暇な人に見えるのであろうかと思うと非常におかしい。

この小さな船もその土砂運搬船と同じカテゴリーに入るのであるが、新顔である。積荷はこの距離でわからないが、やはり何か重量のある体積物を運んでいるようである。しかもそれは川を下るのではなく、遡上するのである。

例の有名な隅田川の歌で、「上り下りの船人も」、というくだりがあるが、やはり流れに任せてくだるよりも、流れに逆らって遡上していく方がドラマチックであり、パワフルである。

この船があたしにとって非常に魅力的に思えるのは、動力船のスタイルが非常に地味であるというところだ。小型の船舶のデザインの善し悪しに関しては、何しろ20年以上ここで「船舶監視所」を開いているからなかなかうるさいのだ。

正岡子規は明治の終わりごろに久しぶりの外出で人力車に乗っている時に、隅田川の厩橋で大川を横断した時、そこで帆掛け船を観察している。

正岡子規はその帆掛け船を見て、低い橋の下を通るために檣が短くなっているというのがとても良い感じだと言った。
当時はまだ動力船ではなくて風力で隅田川を上下していたのである

★カメラはXZ-1

2013年2月23日 (土)

キャパのEYEMOを手にした肖像

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横浜のキャパとゲルダ展のエントランスに、EYEMO(あいも、と読む)を持ったキャパの姿が大きく出て居たので、かなり懐かしい気がした。

この画像は大昔から流布していたものだが、その撮影をしたのがゲルダであるという。

こういう「著者近影」に関しては、まずあたしの意見からすれば、「どこの誰が撮っても同じこと」なのであるが、キャパとゲルダ展でこの「顔写真」にゲルダのクレジットがつけば、恋人に撮影してもらったという意味で「戦争のラブストーリー」は完璧になるわけだ。

かくして、ゲルダは、今回の横浜の写真展でバークホワイト(ライフの創刊号の表紙を撮影した女流写真家で、皇居の血のメーデーも撮っている)と並ぶ有名人となった。

キャパはこのポートレートを撮影したのは、スナップされたのではなく、ポーズをとっているように見える。あるいはキャパはこれを自分の遺影としてゲルダに撮影させたのかも知れないが、実際にはゲルダの方がずっと先に死んでしまう。

運命の皮肉である。

それにしても、スペイン取材のキャパは映画撮影はしなかった。というよりキャパもゲルダもまだ若くて無名だった。

これは同行の映画カメラマンから「寸借」して、いかにも映画をとっているようなポーズを決めたのではないか。

「はったり屋」のキャパならそのくらいの機転は効くであろう。

もうひとつは、スチル写真のキャパ(よく見ると、上の写真ではちゃんとローライフレックスのケースが見えている)より、映画カメラマンの方が「メデイアの格が上」であったから、これは演出だとあたしは見ているのだ。

キャパの手にしているカメラは当時の世界の映像産業を握っていた(ちょっと前のSONYみたいなものだ)シカゴのベルアンドハウエル社が製作した手持ち可能なスタンダード映画機材である。

それ以前の映画カメラはミッチエルもそうだげど、重さは50キロはあるので三脚の上でしか撮影が出来ない。

EYEMOというのである。その意味はmotion pictureのeyeという意味であろうか。その発表時のデモではフォックストロットを踊る男女の集団の中で、カメラマンがeyemoでステップを踏みつつ撮影してそれが無論手持ちであるのに、素晴らしい臨場感のある画像が撮れていた。

それで手持ちのカメラとして大成功したのである。ちょうど、70年にステデイcカムが登場して、それまでの映画制作の方法を変えてしまったのと、これは対を為すランドマークである。

キャパが持っているのは、その初期モデルのシングルレンズポートのやつだ。あたしも持っているが、1974年に手にいれたやつで、それは発掘できずに、出てきたのは最終モデルのターレットモデルである。

映画撮影機としては異常な軽量ではあるが、風邪で病み上がりのあたしが手にとってみるとやはりかなり重い。

EYEMOで遊んでいたら、筋肉痛になった。

★カメラはOM-D 12-50mm

2013年2月22日 (金)

キリ番ゲット!!

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キリ番ゲット!!
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おかげさまで、 、

ペンペンチョートクカメラ日記はご覧のようなアクセスカウンターになった

昨夜深夜をまわって、なにげなく更新されたばかりのブログを見ていて、何気に視線をずらしてアクセスカウンターを見たら、このキリ番まであと10カウントほどだけになっていた。

それで慌ててキーボードを連打してこのキリ番ゲットしたのであった。
視覚的にみると、これはなかなか座りの良い番号であると思う。
しかしそれ以外に私には何かこの番号が特別な意味を持っているということにうすうす気がついていた。

インフルエンザの熱がだんだん冷めてきて一晩熟睡した翌朝に、それが何だったのか突然気がついたのである。

この数字の構成要素というのが、私が日本大学芸術学部写真学科に在籍していた半世紀近く前、当時のあたしの学籍番号と非常によく似ていたのであった。
その番号は11055番なのである。

別段こじつけするわけではないけれど、私の好きな番号は1 と5であるのは確かだ。ライカは旧型のライカ1型が最高だと思っているし、デジタルカメラはOM-Dだが、これが正式名称が何とか五型というのであるが、これも大好きである。

数日前、沢木さんとあたしを撮影してくれたカメラマンが稲垣さんと言って、これも足穂つながりで嬉しいのだが、そのカメラマン稲垣は「仕事写真だってマイクロ4/3で充分ですよね」とOM-Dの話題で盛り上がった。

稲垣さんはあたし達をフィルムを使うハッセルで撮影してくれた。そこでカメラをデジカメに持ち替えたので、期待したのだけど、取り出したのは他者の誰でも使っているような、一眼レフであった。ここがまだまだ「伝道が必要な由来」である。

ところで、このところ本ブログのアクセス解析のレートは徐々に向上に変わっているのは嬉しい次第である。
数年前にこの種のビジネスの関係者に話を聞いてみたら、私のブログの場合はPCの固定からのアクセスカウントだけが表示されているのであって、いわゆる携帯電話やスマートフォンからのアクセスカントは算入されていないとのことであった。それは一般的にはPCのアクセス数の3倍から4倍なのが普通であると言う。

それをなぞって考えてみれば、 ペンペンチョートクカメラ日記の一日のアクセスはPCアクセスが5,000以上であって、携帯そしてスマートフォンからはその3倍と見積もると、大体一日に2万前後のアクセス数ということになると思う。

実にありがたいことである。
これからもよろしくお願いいたします。
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2013年2月21日 (木)

インフルエンザでダイエット?

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インフルエンザでダイエット。

実に数十年ぶりにインフルエンザにかかってここ数日来ずっとベッドの上で生活している。


家人の説明によればこれほど重病なのは私のウイーン時代、つまり1,970年代以来であると言う。ああ、そんなものか。

今日は木曜日であるから、寝付いてから3日目なのだが、月曜日が一番身体的に大変だった。
その月曜日には沢木耕太郎さんと、私が今度出す写真集「ライカ マイ ライフ」の中に収録する対談を予定していたので、これは絶対に外すわけにはいかなかった

その沢木さんとは13年前の12月22日の深夜にベトナムはホーチミン市の空港のロビーで初めてお目にかかったのであった。
月曜日の対談ではその時の話から始まって、ライカの存在学、そしてロバートキャパのライカのこと、そして沢木さんが最近取材でいかれたスペインのコルドバの話などと盛り沢山であった。
要するに沢木さんに会いたいための発熱であって、「これは沢木熱です」と対談では申し上げたら、沢木さんは笑っておられた

駿河台の山の上ホテルで対談が終わって、さてそれから佃に戻ってくるまで、どこをどのように帰ってきたのか、今もあまり記憶に確ではない。

要するに沢木熱発熱状態であって、その間の記憶が曖昧なのである。 ウイーンに住んでいた頃、下町の酒場で大酒飲んで帰ってくるまでの記憶があやふやだったこともあったが、ややそれに近い。

それで、以来ずっと寝込んで今日で三日めになるわけである。こうして寝ていると聴覚の感覚が敏感になって、普段視神経を使っているのとはかなり異なった世界が目の前に開けてくることに気がついた。

思うに1985年の夏だったから、ちょうど日航機が御巣鷹山で墜落した時の事だった。私は例によってウィーンで腰痛のために、1人で広い住戸に寝ていたのだった。寝たままの生活と引き替えに、新しい聴覚の世界が私にもたらされた。

ウイーンのベルベデーレ宮殿の教会の鐘の音が毎時間ごとに私の耳にはっきりと届いてきたのである。
寝たきりの私であったが、病院に通う時はまず電話をしてタクシーを呼んでアパートの下に待たせておき、そこから腰痛を騙しながら階段をゆるゆると降りてアパートメントメントのホールに降りるまでがまず大変な仕事だった。

何しろウイーン工房の巨匠ヨーゼフホフマンも住んでいたアパートなのでウイーン市の指定文化材の看板のある建物である。上りのエレベーターはあるが下りのエレベーターがないという変なつくりであった。
あの時に無精をしていたせいで、今のあたしの顎鬚は実はその時に始めたものなのである。

さて今回の佃煮インフルエンザであるが、何か身体が急に軽くなった気がして体重計に乗ってみたらなんと5kgも体重が減っていた。
つまり30年前のわたしの体重に逆戻りしてしまったのであった。

だからといってインフルエンザはダイエットに効果ありだとというつもりはない。


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2013年2月20日 (水)

ニコライ堂とキャパの十字架

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ニコライ堂とキャパの十字架

沢木耕太郎さんと対談で駿河台の山の上ホテルでお目にかかった。
メトロの出口を間違えたらしく、

眼前にいきなりニコライ堂が現れたのにはびっくりした。

取材でモスクワ近郊の「黄金の輪」と呼ばれるロシア正教の教会にはかなり行ったことがあるが、日本の同様な教会を見るのは始めてである。

その第一印象は、あれ、小さいなあというものであった。
東京を半世紀も徘徊しているのにニコライ堂にはきたこともなければ、近くで見るのも今日が最初なのである。

中に入るとイメージが壊れると思って、そのまます通過して山の上ホテルに着いた。

帳場で聞いたら、とってある部屋は本館の二階と言う。あたしは沢木さんに旧館のロビーで会いましょうと間違った情報を教えていたのだ。

やはり十年ほど前に赤瀬川原平さんと待ち合わせて、会えなかった。原平さんはべつの建物のロビーにおられたのである。

沢木さんは定刻の五時に風のように部屋に入ってきて挨拶もそこそこにいきなりトークになった。
四十年前にウイーンのコンツエルトハウスでオルガン奏者のリヒターがステージに登場していきなり演奏が始まったあの感じに近い。

かっきり午後七時まで対談して沢木さんは風のように去って行った

後に机上に残されたのは、この新刊の「キャパの十字架」。

2013年2月19日 (火)

プラハのP コニカのP

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小西六兵衛商店は、国産の最初の「手提げ写真機」で知られている。
今のカメラはその属性からすれば、いずれも「ポータブル」あるいは「手提げ」である。

コレクターの観点からコニカの一眼レフで欲しいのはメーター連動式で大柄な、コニカFであるがあれは値段もなかなかである。

このカメラはベストセラーになった、オートレックスだ。コニカの一眼レフはこの後のモデルがなにかファミリー的なデザインになったしまったのに対して、このあたりまでのカメラデザインにはある種の「気骨」が感じられて好きだ。

当時はオートマチック露光の主導権を争って、各社がしのぎを削っていた時代だ。
今、見ると、測光はCDSであったりして、いずれも「強者どもが夢の跡」であるが、逆にメーターの入っていないカメラはシンプルなモダンさを失わない。

ニコマートFSなどもそうだ。これはメーターの入っていないオートレックスのモデルPである。

Pとは思うにプロフェッショナルの意味であろう。当時はまだメーターの内蔵されていないカメラでじっくり撮影するのがプロや上級者であって、メータ−内蔵はアマチュアという考えがあった。

最近の都会撮影の若い連中はいずれもメーターのついていない、大昔のシンプルなカメラで「ええと、、今日は曇りの暗い日だから、感度400でF4で1/60かな、、」などとやっている。これはクリテイテイブな態度であって、高く評価できる。

その意味で今の市場にあるデジカメは、全部、「アマチュア用」と言っても良い。

これがコニカのPであるが、Pというイニシアルで連想するのは、「屋根裏プラハ」に登場の老ジャーナリスト、プラハのPである。

社会主義当時のプラハではなかなか危険であったので、プラハのPというイニシアルだけにしたのである。

しかし最近ではプラハのPさんはあたしの読者さんの間では「有名人」であって、顔本などにPの近影を掲載するとなかなか反響があるのが面白い。

下はそのPから来た展覧会の愛内だ。チエコ語が異国情緒だな。

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2013年2月18日 (月)

一脚で東京の街を撮影する

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一脚で東京の街を撮影する。

人間というものは地上を歩いている。

だからその視点は低いところにある。建築を観察する場合は首を上に向けることになる。

建築写真で高い建築物をとる場合などには、レンズの前の部分を上にライズさせるのである。
ただこの場合もカメラの撮影ポイントは、あくまでも地上にあるのだから、その描写は不自然である。

1,970年代に、ウイーンにいた当時、建築物の高い場所にある装飾を撮影する必要があった。その一部は写真集「Wien Newyork 新潟」に収録されている。

あたしのハイアングルの方法は非常に単純であって、長い長い棒の先に35mmカメラを取り付けてセルフタイマーで撮影をした。

今回、アサヒカメラで、東京の50年前の写真と同じ場所の現代の写真を比較して並べると言う作業があるのだが、長い棒の先にカメラをつけて撮影するのがいちばん簡単なのでその手法をとることにした。

自分の周りにある長いモノと言えば最初に考えつくのは写真用の一脚である。しかも収縮するから電車の中でも邪魔にならない。

60年代に東京のスナップショットを撮り始めた当時、私の大事な撮影用機材は東京を走っていた都電であった。都電が機材というのは変な言い方かもしれないが、あれは一種の移動する撮影台なのである。業界用語のイントレという台があるが、あれが自走式になっていると思えば良い。

当時は都電の高さと言うのが、街の風景を撮影するときには非常に重要なキーポイントとなっていた。事情の分からない人に言わせると、今でも都バスがあるではないかといわれるが、それは全く間違っている。

都電の場合は大通りの真ん中を走っているから、建物に対する撮影距離が十分に取れる。都バスの場合は道の端っこを走行しているから撮影距離が十分にとれない

東京の下町の交差点で一脚の先にデジタルカメラをつけてウロウロしているじじいを見かけたらそれは私である。

稲垣足穂は彼の作品の中でこういう奇怪な行動する人間を、「星を集める人」と言っている。これは良いフレーズだ。
私の場合は「過去を採集している人」なわけだ。

 


2013年2月17日 (日)

コルゲンコーワのケロちゃん

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アサヒカメラの新連載の撮影で東京のあっちこっちを徘徊している。あたしはもともと東京オリンピックの当時、高校生で東京の街を撮影しはじめた。

当時の日本はアメリカ軍のユニホームの将兵は街で普通に見かけたが、「私服の外人さん」はまだ珍しかった。
まるで明治維新と変わらない状況なのはかなり変ではあるが、それはそれが半世紀前の事実であるせいだ。

ライカに21ミリのレンズをつけてまだ戦後がそこらここらに、うずくまっているような東京の60年代を撮影した。

あれから半世紀が経過して、東京の2010年代の風景にこの緑の蛙さんがちゃんと溶け込んでいるのは、実に心強い。いいかえれば、東京を半世紀撮影して、この蛙さんが常に脇を歩いて応援してくれていたようなものだ。

1969年にニコンサロンで「TODAY-TOKYO」という写真展を開催し、翌1970に「アルバム」そして1971に「視圏」というタイトルでいずれも東京とテーマにした個展を開いた。

その後、欧州やマンハッタンで東京をテーマにした写真展は開催したけど、東京ではあれ以来、東京をテーマにした展覧会は開催していない。指折り数えればすでに四十二年になる。

それで今回のアサヒカメラでは60年代から70年代の東京のスナップと現代の東京のスナップとを関連ずけてみようと模索しているわけだ。

コルゲンの蛙さんは親しい存在であった。そこに80年代後半に今度はマッキントッショのフロッグデザインという蛙さんが加わった。

しかし幼なじみという点では、十代の当時から東京のオンザロードで良く知っている、ケロちゃんが好きである。

★千駄木にて カメラはGRD-4

2013年2月16日 (土)

明るいレンズはお遊びレンズか?

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ライカのノクチのf0,95とか、デジカメ用のf0,95とか、さらにf0,85とかが市場で話題になっているのはまことに結構な話だ。

半世紀前にはこの手のレンズのコピーは「眼より明るい」であったが、そういう認識は無意味になった。

一方であたしが不思議に思うのは、この手の超高速レンズというのは、フィルムカメラ時代や、ビデオの初期にはフィルムやチューブの感度が低かったから、実際、必須であったけど、今の時代には素子の感度は比較にならないほど進化しているので、あたしなどはまず明るさはf2,8で充分である。例のレンズキャップレンズのf8だって、充分に「明るいレンズ」だと思う。

OM-Dには高度なぶれ防止機構がついているので、まずあたしの腕でも
四分の一秒くらいまでは使える画像がとれる。

現代のデジカメは高速レンズを必要としない所まで来た。

今の市場の0クラスの高速レンズは実のところ、ゴージャスなお遊び用である。それはまことに結構なことではあるが、実用という場所からはかなり遠くに存在しているようだ。

このレンズは60年代、人類がまだ闇を克服しようと戦っていた時代の高速レンズだ。
このレンズを手に入れた時に、レンズについていたレンジファインダーの背面には大手新聞社の名前が白いエナメルで書かれていた。(のが剥離していたがその名前は判読できた)

これはセスナから夜間撮影をする時の専用の機材であったらしい。報道カメラマンは機材もレンズも気にしないから、レンズの表面には傷がついている。実際、写りには影響はないのであるが、この手のレンズを珍重する趣味人は絶対に手を出さないだろう。

同じレンズでライカMマウントに改造したのも使っていたが、どうもM型とのバランスがいまいち悪かった。この高速レンズはキヤノンのオリジナルの本体との相性が一番だ。レンズの全長の短いのが。なかなかセクシーである。

アメリカのカメラ雑誌に、ベトナム戦時に報道カメラマンとして、これと同じ組み合わせをずっと使っていた写真家の実話があった。暗い場所だけではなく、通常のショットもこれで撮影していた。専用の革ケースに入れたそのケースがなめしたようになっていたのが、かっこ良かった。
これは高速レンズの正しい使い方かも知れないが、なかなか体力がいる撮影であってあたしなどは真似もできない。

2013年2月15日 (金)

曇り空のプリミエクリュ

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先月のプラハは毎日、雪か雨か曇りであった。
それも太陽の力が弱いので風景の輪郭が見えない。実は光の乏しい冬のヨーロッパでも、時として明るい曇り日があって、それは実に写真向きなのである。

ちょうど、スタジオの撮影で、大量のスクープライトにトレペをかけたような光の具合であって、これは物事の存在感が写真で浮き立つ。

もともと広告写真でスタジオ経験があるので、自然光を観察していても、それをスタジオの照明のように感じることがある。この世界が巨大な写真スタジオなわけだ。そう考えると風景写真は撮りやすくなる。

だから欧州の冬の光は、メーンライトたる太陽の照明レベルを上げてやれば、散光をさせている厚い雲を通しても、素晴らしい写真が撮れる。

この素晴らしい写真というのは、銀塩のモノクロ写真のことである。
プラハのPとプラハの街の冬を歩いていた時、彼はその日の明るい曇り空を評して「これはワインで言えばプリミエクリュの光だな」と言った。

その形容があたしには面白く思えたのである。

毎日見ている、大ガラスからの夜景を顔本にアップしたら、瞬く間に「いいね」を100も超えるクリックをいただいた。

「まあ!素晴らしい!これを油絵に描きたいです」というコメントもあった。それはそれで有り難いのであるが、あたしは実はこういう曇り空の隅田川が好きなのである。

詩人が言うところの「銀ねず色の空を映す隅田川」である。

★カメラはペンライト2  40-150mm

2013年2月14日 (木)

J wave けやき坂スタジオの楽屋裏

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昨年のクリスマスイブに恒例番組の沢木耕太郎さんの「深夜特急 天涯へ」で、沢木さんと電話で対談させてもらった。思いつきで番組に沢木さんあてのファンレターを送ったらそれが番組構成の今井さんに眼にとまって、この「大抜擢」となった。

その今井さんは沢木ミッドナイトエクスプレスの構成をもう二十年近くやっているそうである。かならずそういう「番組の黒幕」がいるのだ。

その今井さんが「チョートクは生番組でもイケるのではないか」(本人談)というのでJwaveの看板番組にお呼びがかかった。今井さんはあたしの「屋根裏プラハ」の愛読者さんでもあり、あたしの本を新潮社の「波」で高く評価してくださったのが沢木さんだから、これは「プラハ=深夜特急つながり」なのである。

けやき坂スタジオは、あたしの10年間のヒルズ時代にはよく前を通過した。実際に中に入ってみたら、そこからの眺めというのが、ジャンボジエットのコックピットからの眺めにそっくりなので吃驚した。

本番前のマイクテストが盛り上がって、放送禁止用語続出であった。

あたしが生放送が好きなのは、テイク1とかテイク2とか、さらにテイク30などという収録のやり直しがないからだ。フォルカーシュレンドルフ監督の映画の手伝いをした時、実にテイク35くらいまでいって、スタッフがぶうぶう言ってた。時間がとられるのが面倒なのである。

一昨年「笑っていいとも!」にゲスト出演した時も生だから面白かった。

JWAVEのサテライトにはナビゲーターのレーチエルさんと、あたしが座る椅子しかない。そこに台本作家の今井さんが入ってきて本番になった。何と今井さんはドアの前に立っているのである。自分では馬鹿話をしているつもりはないのだが、かなりうけたようであった。

見ると今井さんは声を出さずに笑っている。大笑いして手を打つのであるが、両手は衝突していないから音は出ない。なるほど手練れの業界人はすごいなと思った。

最初がカメラの話であったので、この前のプラハとその前のハノイ、さらにその前のハノイに持参した、OM-DとGRD4、それから最近まで現役のスパイカメラであったミノックスをスタジオに持ち込んで生放送中に撮影した。

レーチエルさんはカメラ女子資格「B級ライセンス保持者」であって、なかなかのカメラの達人である。つい最近、キヤノンのデジカメが使いすぎてこわれたので新しいのを買ったそうだ。

趣味は日本酒の蔵元で試飲したり、仕込みの時期に押しかけて杜氏さんに迷惑をかけることらしい。

スタジオのあたしの座った椅子は角がすり減っている。数多くのアーチストの尻圧力ですり切れているのである。これは文化財だな。ヒルズも10年の歴史を感じるようになった。

生放送が終わって、そのままメトロで佃煮ヒルズに戻って、白かゆに佃煮で遅いランチにした。なんせ、ノロウイ状況なので身体に力が入らない。

★カメラはOM-D  12-50   (最初のサテライト内のはiPhone)

2013年2月13日 (水)

フィルターケースに春がきた

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これは55mmサイズのキヤノンのフィルターケースである。5種類の異なるフィルターが格納できる。その内容はフィルターケースを見ただけで、中身が分かるようになっている、一番右の薄い萌葱色はこれはUVフィルター用であろう。

時代はキヤノンレンジファインダーカメラの当時だから50年代後半ということになろう。当時のキヤノンレンズの一番明るい標準レンズには明るい50mmf1,2というのがあった。人間の眼より明るいと言われた、50mm f0,95が登場する前の話だ。

四谷荒木町の我楽多屋で千円で買ったのである。このフィルターケースには赤、オレンジ、濃い黄色のフィルターが残っていて、そのフィルターにはちゃんとcanon lens 50mm f1,2と刻印されている。いわゆる「純正フィルター」というやつだ。当時のフィルターは非常に高価であった。だからあたしなどもサードパーテイ製のしか買えなかった。

こういう5枚のフィルターのセットを買う人は大変なお金持ちであると同時に、もともと50mm f1,2のキヤノンレンズが非常に高価であったから、お金持ちに「輪を掛けたお金持ち」というわけだ。

しかしここであたしの評価したいのは、この5枚のフィルターを一緒にしたケースのアイデアである。当時のキヤノンにはそういうことを考える人が居たと思うと、これはそれを買った人も立派だけど、それ以前にこれをアイデア化して商品化した人は尊敬してしまう。

モノクロ写真時代にはオレンジとか赤のフィルターは高度なモノクロテクニックに必須であった。しかしそのことよりも、こうしてセットして机の上にあると、なにか春が来たような色彩感覚である。

何時だったか、マイセンの焼き物でアールデコデザインのコーヒーセットか何かで似たような色使いのあった品物を欧州どこかで見たことを思いだした。

★OM-D. 12-50mm

2013年2月12日 (火)

ジュネーブで買った腕時計

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★お知らせ 今日のJ waveに生出演。四十日ぶりにヒルズです。あたしのトークは午後二時から。 14:00-16:30 RENDEZ-VOUS レイチェル・チャン ▼写真家・カメラ評論家田中長徳さん▼米写真界の伝説エドワード・スタイケン▼モーツァルトの愛▼バレンタインウィークにスイートな空間の選曲家たち ▼田中長徳 ---写真家・カメラ評論家

四半世紀前にスイスのジュネーブで買った時計である。

これほどたくさんヨーロッパに行っているのに、なぜその時のことをよく覚えているのかと言えば、あたしの人生で唯一のパッケージツアーでいったのである。
それには理由があってドイツのケルンで開催されていたカメラの見本市、フォトキナの取材で飛行機のチケットが取れなかったのでやむなくパッケージツアーになった。
普通ならばドイツの目的地に行って帰ってくるだけであるが、このツアーは普通の観光旅行だから倫敦ブリッジに登ったり、スイスでマッターホルンに登ったりパリで見物をしたりした。そうそう、日曜のミサでダイアナを見かけて、ワイドローライで撮影したっけ。

何しろ初めての体験なのでパッケージツアーはこんなに楽なものであるかと感心した。それでジュネーブにも寄ったのだけど、あたしは元々ジュネーブが嫌いである。第一、あの何とか言う湖の真ん中にある噴水が見ていられない。
それと、これも観光客さんが必ず連れていかれるところのロレックスの直営高級店に連行された。戦前のパッケージツアーの旅行記を見ると、やはりその店に連れていかれるくだりがある。凄いものだ。

私は早々に脱出してジュネーブの裏通りを歩いていたら、古道具屋にこの時計を発見したのであった。
値段はいくらだったかすでに忘れてしまったがせっかくジュネーブに来たのだからジュネーブという名前の腕時計を買いたいと思ったのだ。
しかし当時の私の時計に対する興味は、いわゆる複雑時計とかクロノグラフの上にあったからこういうシンプルな時計にはあまり興味がなかった。

まず40代初めの話だからそれはそれで良いのである。あれから四半世紀が経過してようやくこういうシンプルな時計の面白さがわかるようになった。

実は非常に珍しいことだが、昨日からノロウイルスっぽい病気にやられてベッドに仰向けになっている。
仰向けになった状態で音声入力で原稿書いているのだが、それではちょっと寂しい。
そこでベッドの脇に山になっているたくさんの古い腕時計の中からこの四半世紀前のジュネーブで買った思い出の古い腕時計を取り出して腕につけてみた。

時間の経過を知りたいだけならiPhone 5で良いのであるが、それ以上の何か別の時間経過の周囲みたいなのを知る目的が古い腕時計にはある。
この古い腕時計は一日に1分間だけ進むのである。まぁそう言う機械式の時計の狂い方が自分の生活には合っているというわけだ。

2013年2月11日 (月)

一昨年の三月のペンライト2

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★御礼
何時もご愛読ありがとうございます。お陰さまで本日、1150万頁ビューになりました。今後もご愛読のほど、よろしくお願いします。

佃のカメラジャングルの真ん中に「すぐに使うカメラコーナー」というのがある。これはライカインコの鳥かごをぶら下げていた、鉄製のアームスタンドであって、まず頑丈なので10個以上のライカをぶら下げても大丈夫だ、

マイクロ4/3なら軽いから20台は行けそうである。
ただしカメラのストラップを引っかけるフックは一個しかないので、そこにぶら下げると新しくぶら下げたカメラはすぐに取ることが出来るけど、以前にぶらさげた分はだんだんと下の「地層」に行ってしまうことになる。

部屋の掃除ついでに、その「ライカインコ遺愛のカメラぶらさげ器」の一番下にあるカメラを発掘したら、ペンライト2が出てきた。

懐かしく思った。というのは一昨年の3月、ちょうど東日本大震災の時にあたしはマンハッタンに居て、このカメラで撮影していたからだ。他にはライカと、GRDとXZ-1も持参した。

ペンライト2はほとんど新品に見えるのは、大事に使ったこともあるかも知れないが、もともといったん撮影モードに入ってしまうと、カメラのことなど気にしないあたしである。
同時に持参したXZ-1の場合、すでにかなりの「本貫禄」が出ているから、やはりペンライト2はあまり使わなかったのであろうか。

思い出すに、あの春のマンハッタンは毎日大雨であった。傘をさしている時、レンズを濡らさないうように、カメラは胸から「後ろ前」にかけるのが常である。こうすれば、レンズ面は胸の方向に向くので濡らすことはない。

しかし大雨の中でカメラの取り回しが面倒なので、必然的にXZ-1を使っていたらしい。
一昨年のデジカメというと新品を売っているカメラメーカーにはありがたくないのかも知れないが、使ってみたら、撮影速度はOM-Dには劣るけど、他の機能はなんら問題がない。
それでOM-D用の12-50のレンズをこっちに付けて撮影を開始した。

まず手始めに佃煮ヒルズの仕事場のインテリアを撮影した。

2013年2月10日 (日)

十年前の今頃はどうしていたのか?

ペンペンチョートクカメラ日記が一千百五十万ページビューになるので十年前を振り返って見た。
まだ銀塩とデジタルの混在であったことが分かる。

西暦二千三年
2月7日 金
快晴。銀座クリエイト。現像ピックアップ。カメラはGR21。昨日までは遊びであったから、各種ライカ(M4とM3など)であったけど、今日はエクタクロームの雑誌広告の仕事(大体、私にコダックからの仕事が来るのが狂っている〉なので、ちゃんと仕事をしようと言うので、GR21にする。この発想は真実なのだけど、一般のカメラファンが聞いたら、それは逆ではないかと言うに違いない。午後2時半、今年最初のモノマガジン。おなじみの受付の村山嬢は去って、新人のおねえさんになる。LIFE GOES ON、時間は移ろって行く。オ=タさんと新企画の打ち合わせ。打ち合わせのデスクはトイレの側なので、土居編集長、基副編集長などに自動的に挨拶ができるので便利。前田ブロニカン(今は活動休止中とのこと)が中野のフジヤにプラウベルプロシフトを買いに(しかもデビッドカードで!)行くというので同行。前田君が前フジヤでブロニカETR645を買う時にも、私は目撃しているのは奇縁か? 帰宅するに片岡義男先生から写真集の企画のファックスあり。例の「北・東京」の撮影日程の件。インフルエンザの影響なのか食欲なし、酒欲もなしでこれはひょっとしたら生活が変わるのではないかと思う。夕刻から夜間、執筆。イーベイにてアトーンLTR用のファインダーアイピースを買う。グリップと一体化している。219ドル。これはバーゲン。バーゲンといえば、予定価格1万円の作者不明の絵がオランダのゴッホ美術館の調査で本物と断定。一挙に予想価格が3千万になったとのこと。なにか話題造りの為にオークションの前の日に打ち上げた花火の感もあり。

2月8日 土
曇り。あわてて、光文社の「悪魔の辞典」の画像を撮影。我ながらカメラジャングルの中のどこにどんなカメラがあるのか分かっているのは怖い。80カットのうち40カットほど撮影して、光文社の光田さんにメールする。午後4時、セスナジャガー108が佃の滑走路にタッチアンドゴー。同乗して目黒のサンポーカメラを目指す。ツアイスイエナの差し替え式の実像ファインダー(50、135と85、180がセットのやつ)を7千円でゲット。環6の大渋滞を経験。平均時速9キロあまり。これではジャガーはセスナに負けるばかりか、自転車にも負けている。ようように、小豆沢の「楠」に着。小宴。久しぶりにクルマに乗ったのでなかなか寝付かれず、早朝に至る。例の「塗り直しのゴッホ」は、どこかのモノ好きさんが6千万円余で落札した由。どうも出来レースっぽい。

2月9日 日
晴れ。執筆。午後、汐止めのシオサイトにビジネスデジカメの作例を撮りに行く。実に貧困な風景で休日の若いカップルが4チャンネルのやらせライブに、観客相応の拍手喝采をしているのが不気味。デンツー、四季、ニッテレの三位一体の殿堂では、救いようもないわけだ。肉のハナマサにてデミグラソースの缶の小さい方を買う。これで380円。安価。銀座のホコテンを歩く。目立つのは、外国アパレルの新規開店店舗の巨大広告ばかりの不気味な光景。スキヤカメラにて目を付けていたコンバーチプルホースマンの47ミリスーパーアングロン付き改造機を買う。6万余円。カメラ王子、オザワさんに遭遇する。インスピレーションが兆して、M7を手にしていた。予言が成就する為である。「イスラエルの子たるセタガヤダイタの荒野の人、シモン・オザワのこうべにライカM7の神宿りたまえり」(出ゾルムス記3-2-9)晩餐はタンシチューに温野菜添え。ワインはチリ産のシャルドネ(1993年モノ)これで、少しは何か食べた気になった。昨日のゴッホの落札者(70台男性)のコメント「ゴッホを外人に買われたくなかった」とんでもない日の丸主義に唖然。

2013年2月 9日 (土)

ライカM5とアイパッドミニのサイズを考える

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モノの大きさというのは、手のひらで感じる感覚だと思う。人間の触感が重要であって、実際の大きさをミリ単位で現すのはあまり意味がない。

この前、東京都写真美術館で北井一夫さんと対談をして、その時にライカM5が話題になった。ライカというのは歴史が長いから、沢木耕太郎さんとはキャパ時代のD3が話題になったりする。
その意味でライカの呼吸というのは実に息がながい。
北井さんから薦められて、あたしもM5を使うようになった。

北井さんの撮影をまだ東ドイツ時代のベルリンで長く観察した。大柄なM5をしっかりホールドしているので、あの時は冬の暗い光であったから、しっかり保持できるM5はぶれにくいライカであった。

光軸に対して、直角に本体が張り出している感じなのでこれはスローシャッターには強いのである。それでも北井さんはワンシーンに一本のフィルムを消費するのも珍しいことではなかった。その中でもぶれているショットはあるから、ベストの一枚を探し出すのである。

プラハから戻って、最新のアイパッドミニを使っているのだけど、思いついてM5をアイパッドミニの上に乗っけてみた。

こういう比較というのは日常生活ではまずしない行為である。
あたしはなんとなく、M5の方がアイパッドミニよりも僅かに大きいのではないかと予想していたのであるが、実際には逆であった。
これはあたしの身体性上の錯覚と命名しても良い。

それで改めてM5を手にしてみると、やはり大きく感じるし、アイパッドミニを手にすると、やはり小さく感じるのである。

思うに、M5はシリーズの中で最大のサイズの本体であり、ミニの方はアイパッドの中で一番小さいからそういう錯覚が起きるわけだ。

2013年2月 8日 (金)

ハノイ 16 対9の画面比

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昨年は11月と12月の都合、二ヶ月連続でハノイに行った。

その前は10年は行っていなかったから、その「遅れ」を取り戻すつもりであった。

最初はライカを持参し、二度目はブロニカRF645を持参した。無論、「カメラの素振り」ではなく膨大な数の銀塩写真を撮影した。

ところでデジタル画像と銀塩画像とを撮影する時の感覚の違いというのは確かに存在するのである。フィルムの場合には持参の本数の中であとどれだけ残っているかが常に気になっている。

それを撮影してしまえば、もはや「写真家」ではなく、ただの老ツーリストである。

一方で、デジカメの方は「メモリの残数を気にする必要」はない。

これはなにか便利であるようにも思うけど、反対に考えてみれば「いつまで撮影しても撮影が終わらない」という強迫観念がある。

思いついて画面比率を16対9にしてみた。こうするとハイビジョンの画面を切り取ったようでそれなりに面白い。

ベトナムの店舗の美学はこのような、果物の展示の仕方にある。これは一種の伝統的な美学というものであろう。

10年前に出した写真集「ベトナムデジタル紀行」(このタイトルがまだデジカメの黎明期を感じさせる)の中に、まるで「移動する仏の国」とでも言える、花売りが写っていた。自転車で蓮の花を売っているおばさんなのであるが、その蓮の花のレイアウトがあまりにも、美麗なので仏陀の国の模式図がそこに現示されている感じがした。

★カメラはOM-D 12-50mm

2013年2月 7日 (木)

プラハの水島さんちの、ローライフレックス

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プラハの水島さんご夫妻は顔本友達なのだが、顔本で拝見する奥様が撮影したプラハのモルダウ河などをテーマにした、真四角な風解はなかなか良いなと思っていた。

というのも、あたしは30年来、プラハを撮影しているのだがアトリエからメトロに乗ってモルダウを撮影するのは時間がかかる。

水島さんが撮影するのは、早朝とか光の綺麗な午後などであって、あたしのようにメトロのA線の終点から行ってはこういうのは撮れない。

それでご夫妻はモルダウの河畔にお住まいであろうと考えた。
この間のプラハ滞在中は寒気と雪でアトリエには行かなかった。この数年、アトリエではストーブが壊れたりでトラブル続出なので今回はホテル住まいだった。

今回、機会があって水島さんのお宅にお邪魔することがあった。というのは顔本で登場の「足袋」(TABIと読む)という白黒のわんちゃんのファンなので実物を拝見したいと思っていたのだ。
モルダウ河畔の広いお宅には立派な硝子ケースがあって、その中に2台のローライと2台のライカと1台のハッセルがあった。

その中の一台のローライがこれである。ツアイスが東西に分断されていた時、西側と東側ではそれぞれに相手の国のブランドを使うことが出来なかった。

言い方を変えれば、西側世界ではカールツアイスイエナはそのツアイスの商標を使えなかったし、反対に東側世界では、カールツアイスは使用不可であった。それでわずかに東欧に輸出されたカメラのレンズにはそれがプラナーなら、
OPTON PL 80mm F2.8と刻印されたのである。

これはツアイスオプトン プラナーの意味である。あたしのようなカメラ人類はそういうレアレンズが欲しくて、わざわざビロード革命直後のプラハに行って、OPTON BI 53mmとかOPTON SO 180mmなどと言う「羊の皮をかぶった狼レンズを探したりした。

水島さんの場合には、そういうレンズの病は持っておられないので、そういうレアなレンズの付いたローライを普通の感覚で使っている。
それは偉いことだと思う。

2013年2月 6日 (水)

時計ベルトの諸問題

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カメラは沢山持っているが、それに付けるストラップの数が不足している。
時計も沢山持っているが、それにつけるベルトの数が不足している。

十数年前に、まだ京セラコンタックスがあった当時、コンタックスの広告の仕事で、欧州に行った。

ドイツで同行のデイレクターが、持参の時計のベルトを買いたいというので、その手の高級時計店に行った。
たしか、バチエロンとか言う名前の時計だった。革製のバンドの価格が、ちょっとした実用時計よりも遙かに高価なのでかなり驚いた。

後年、時計雑誌の取材でジュネーブで同じメーカーの5000万円の時計を見せてもらった時にはすでに時計慣れしていたから、なにも驚かなかったけど、最初の高級時計(のベルト)との遭遇は、たかがバンドがそんなにするものかと驚いた。

まだ東欧時代のブダペストでロバートキャパの痕跡を意識しながら、街歩きして、それでもまだなにかが欲求不満であった。それでデパートで、ソ連製のクロノグラフを買った。それにはボール紙性製の時計バンドがついていた。無論、一日で駄目になった。
これは実用性とはほど遠い、時計ベルトのダダイズムなのである。

このNATO仕様のナイロンベルトはすでに30年近くは愛用している。
この前のプラハ行きでもそのベルトは健在だった。

それが本日、2013・2/5の朝に手につけようとしたら、ベルトの穴に貫通させる、金属の部品が無くなっていた。

十年を三回重ねると、そういうことも起きるのである。

どうしようかと思って、このようにした。
これはなにか日本の風呂敷包みのアイデアである。
これであたしの生きている間は
まず大丈夫だと思うと実に心強い。

2013年2月 5日 (火)

横浜美術館のキャパ ゲルダ展は超満員

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日本カメラの連載の取材で、横浜美術館で開催中の「ロバートキャパ・ゲルダタロー 二人の写真家」を見てきた。’3/24まで)

日本カメラの取材のメーンは2/3に講演会を行った沢木耕太郎さんの「キャパとゲルダのライカとローライ」であるが、こういう展覧会と講演会のシンクロはなかなかあるものではない。

会場に入って一番びっくりしたのは、満員御礼であったことだ。この人口密度の高さは欧米の美術館ではかつて見たことがない。

美術館サイドから見れば、これは大成功であるが、観覧者から見れば「前の人の頭しか見えなかった」というわけだ。しかしいわゆる「フェルメール」のような異常な混雑ではなく、彼らのデビュー当時、まだ若くて無名で貧しかったユダヤ人の写真家二人の展覧会にこれだけの観客の興味が行っているというのは、大したものだ。

展覧会を見てから沢木耕太郎さんの1時間半の講演会があった。その内容は文芸春秋1月号、ならびに2/15に発売の単行本で明らかになるので、ここでは触れない。

感心したのは、沢木さんの講演会の名手としての技である。ステージにキャパとゲルダとその舞台になったコルドバをめいっぱいに拡げて、そこでこれから本論に入るとうので、時間は大丈夫なのであろうかと、他人ことながら心配したのだけど、沢木さんはプラス15分で手際よく、ステージに展開した大道具小道具を風呂敷に包んで退場した。

見えたのは観覧者さんの頭が主であったので、あたしも再度、見学に行こうと思う。

会場を三回ほど周回して、痛感したのは、いわゆるビンテージプリントとモダンプリントのそれぞれに発しているメッセージの違いであった。

言うまでもなく、ビンテージは当時のプリントでモダンの方は主に1980年代の製作である。

最近、ビンテージプリントブームで昨日から写真を始めたような若い人が「俺はスタイケンのプリントはビンテージしか認めない」などと言って、それは笑止千万なのであるが、それはそれで良い。

若い連中にビンテージプリントの存在を知らしめただけで、最近のミュージアムのキュレーターの一大功績とすべきであろう。

それでキャパ展を見て、思ったのはあたしの視神経はモダンプリントよりに存在しているということであった。それには適度なコントラストがある。一方で、ゲルダの展示作品を見て、脳裏に浮かんだのは「ムンカッチのポタージュスープ」のことだった。これは戦前の写真の印刷原稿は、トーンを印刷でちゃんと見せる為に、プリントは「わざとコントラストを低く」焼いてあることを言うのである。

ようするにビンテージプリントはコントラストが低いのだ。それがあたしには面白い発見であった。

それで気がついたのは、80年代のモダンプリントは充分なコントラストがあるので、あの「作品を保護する為の暗めの照明」でもちゃんと鑑賞することが出来るが、ビンテージプリントの方は照明が足りなりない。

ニューヨーク近代美術館の研究室でキャパのビンテージを見ることがあったが、あそこは「普通の蛍光灯の照度」なのである。これがちょっと残念だった。

キャパと言うと、Dデイと、崩れ落ちる兵士ばかりが有名だけど、今回の展覧会でじっくり見ると、キャパの人間への観察は想像以上である。シンボル化されて使い古された記号なってしまった画像としての二つの名作より、それ以外のキャパの膨大な作品群に出会えたこと。それがあたしの大発見であった。

2013年2月 4日 (月)

ハノイの湯豆腐

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河内から戻って数週間になる。
ハノイヒルズで喰っていた、モノを思い出すに、まず熱帯の各種の果物、フォー、ブンチャー、牛肉にハムにかしわに野菜などであるが、今、この極東の北太平洋に面した「寒村」のスペインのリビエラ風(マンハッタンのちょーせいさん評)の佃煮ヒルズで仕事している時に、河内の食品で一番悔いたいものは、他ならぬ豆腐なのである。

たしか大昔の邦楽の文句に「ほととぎす、伝えつたえて聴く里は酒屋に一理、豆腐屋へ二里」というのがあった、’(文句は忘れたけど、たしかそんな文句であった)

ようするに根岸の里の詫び住まいではないが、暇人が生活に不便なこと自慢して言っているのである。

河内には豆腐屋というものは、くまなく捜索したけど、一軒もなかった。
そのかわり、行商の豆腐屋のおばさんが豆腐をそこらここらに予告なしで並べるのである。

街に戦場あり
街に豆腐屋あり

つまりハノイ中の路上はすべて豆腐屋になる可能性を秘めている。
同時多発テロは勘弁であるが、無差別同時多発豆腐屋なら、大歓迎だ。

撮影の途中に買って帰る。値段は1万ドンで二丁か三丁というところだ。
これはそのまま冷奴でもいいが、湯道具にするとうまい。ただし醤油よりにょくまむの方が良い味が出る。
これが河内麦酒との相性が実にいい。

湯豆腐というのは、子供の当時にはその味が分からなくて、還暦過ぎてからようやく発見した味である。

河内の豆腐は、昔の豆腐の味とこくがある。

★カメラはOM-D 12-50mm

2013年2月 3日 (日)

河内 偉大なる行商

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ハノイヒルズは、ハノイの旧市街のほぼ中心、ホアキム湖から西に10分ほど歩行した所にある。

1971年のハノイ大空襲でもあまり爆撃を受けなかった。東京大空襲もそうだったが、亜米利加は労働者街の住宅密集地を狙うという「きたない手」を使う。まあ、戦争だから当然と言えば当然ではあるが。

それでこの界隈はそこからはちょっと離れていると、大使館街なども近いので微妙に標的を外したようである。

ハノイヒルズのある小路はバイクがすれ違うような生活道路であって、ツーリストも入ってこない。

毎日、夕刻に撮影から戻る時にその小路で出会うのが、この「偉大な香港フラワー売り」である。

香港フラワーは安っぽいものの代名詞のようであるが、これだけの大量になると、そこに別の存在感を獲得してしまう。

二週間のハノイ滞在中にこの花売りには何度も遭遇した。それは販売ルートが確立しているので、遭遇の率が高いのである。

あたしはハノイ大周遊で、もっぱらやみくもに歩行するのみであるが、、彼ら、ベンダーのコースはちゃんと決まっているのだ。

★カメラはOMDに12-50

普段は12mmなどを使って撮影するのが普通であるが、路地の向こうにこういうモチーフを発見した時にはまず、望遠サイズで撮影しておいて、それから手元に引きつけてからさらに撮影する。

これはズームレンズの基本の基本の使い方だ。上が50mmで下は12mm.

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2013年2月 2日 (土)

OM-D  死ぬまでに絶対使ってみたいカメラ100

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目下、えい出版から出す「ライカ マイ ライフ」の編集の追い込中である。実は2年前のちょうど今頃にその件で、ウイーンに取材に行ったのだが、まだ本になっていないのは、ちょっと気が長すぎる。

また外国に出かけてしまうと、さらに出版計画が遅れるので、4月までは「外遊」しないという願掛けをした。

最新刊のえい出版のカメラ本が、こういうタイトルである。

あたしなどからすれば「もうすぐ死ぬからそれまでに使ってみたいカメラ」という意味にとる。清水編集長はやるなあと感心していたら、実はこれは本の腰巻き(カバー)であった。だからカバーを外すと下から、エルメスライカが登場する仕組みになっている。こっちは「死んでも使いたくないライカ」である。

一方で「この世の記憶に留めておきたいライカ」と四半世紀前に書いたライカはM2のことだ。この機持ちは今でも変わっていない。

本当の本のタイトルは「極上カメラ100」だ。

このムックの新基軸は、デジタルとアナログカメラを無差別級で取り上げたことにある。これはなかなかやるな。

「デジアナミックス」なのだ。デジタルカメラが歩き出した当時、マンハッタンのカメラ店に行ったら、店員さんはデジカメのメモリを「デジタルフィルム」と呼んでいた。これはいいネーミングだなあと思った。

それから行けば、フィルムの方は、アナログメモリーである。

デジタルフィルムとアナログメモリだ。

この本では5−6種類のカメラについてあたしも書いている。

その中でデジタルカメラはOM-D一機種のみである。もっともこれは編集部からこれこれのカメラについて駈けという指令が来たのであって、自分で選択したわけではない。

そのOM-Dへのコメントはここに書くのはちょっと、憚られる。 プロ関係者の本音の発言なので書店で立ち読みしてもらいたい、いえ、テキストは300ほどなのであるが、重要告知事項だ。

先日、ある国のカメラ投票で、OM-Dがフルサイズデジタル一眼レフ以上の人気になったことと関係がある。

2013年2月 1日 (金)

建物の「地」と「図」の件について

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建物の地と図の関係についてとはかなり哲学的な言い方であるがこれは特に意味はない。 数日前に知り合いの写真展を見に行った。その場所は大伝馬町といってあたしにはあまりなじみのない地域であった。   千代田区のこの界隈は町並み全体が複雑な形に曲がっているのであたしのような東京をいつも歩いている人間でも時として自分の場所をローストしてしまうことがある。 良い写真展を見て視神経の方が興奮していたのであたしは自分の方向感覚を失ってしまった。 それでiPhoneファイブにナビゲーションを頼んで歩き出した。 実に不思議な空間感覚と移動感覚がそこにもたらされた。あたしは車に乗らない人間であるがごくたまに友人の車に同乗することがある。 今では当然のことながらカーナビゲーションで行先をセットするとその目的地にまで到着することができる。 これが実に不思議な体験なのである。移動する時あたしの右手の運転者はここは自分の全く知らない街だと言って、そのことを別に不思議に感じていない模様である。 例えばあたしの場合東京大周遊をしていてもそれぞれの大通りから裏道までは全部自分の記憶にインプットされているのである。 その自分の記憶で構築されたルートを歩行しているのが当然なのであるが、ナビゲーションで移動すると目的地までの順路は全く考えに入れる必要がない。 しかし歩行しているあたしは当然のことながら車にぶつかってはいけないので周囲は注意して道を渡っているわけである。 その時にもたらされたあたしの驚きというのは、つまり全く予期していないような不思議な建築物があたしの目の前に運ばれてくるということであった。 この不思議な建築物はもちろん初めて出会った物件なのである。え臙脂色の巨大なビルの手前に取り残されたように白い看板建築が立っている。 その存在感があまりにも不思議なのであたしは暫く横断歩道を渡ることも忘れてその謎の建築物の前に立ち尽くしていた。 東京内周遊をこの50年近くやっていてあたしは自分の東京の全体像をそれなりに持っているつもりであったがそれは錯覚であったということにも気がついた。 つまり食わず嫌いというか知っている道をそのままにたどっていただけなのである。 ところが東京にはあたしの知らない道などはまだ無限に存在するということ、これに気がついたのである。 東京大周遊の手段をナビゲーションに託すと言うのは何か新しい可能性が出てくるような気がする。

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