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2013年1月31日 (木)

向島長命寺の桜もちの正しい食べ方

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一月のはじめ、プラハに行く直前に思いつきで、西新井方面に行った。ずっと南下して、荒川を渡って千住桜木に出て、そこから向島の言問いだんごと、長命寺の桜もちはすぐのような気がして、南下したらこれがとんでもない遠距離だった。

しかもその日は午後五時からアサヒカメラで打ち合わせがあった。言問だんごで休憩の時間などないので、土産をかってさらに南下して、ようようにスカイツリー駅までたどり着いて、さてメトロに乗ろうとしたら、あたしの到達ポイントはそらまちの西側であるから、さらに400メーターほど東に向かって歩行しなければならない。

ポリスラインみたいな警戒線が張られて、ガードマンが案内をしているので、何事かと思ったら「鳥のふんにご注意ください」だと。
これが例の川鵜騒動の発端であった。

二週間のプラハから戻って、最初に行った東京大周遊は、木村伊衛兵さんの旧宅である。そこから荒川三丁目を経由して、青砥に出て電車で本所吾妻橋まで戻って、長栄寺の桜もちに行った。

客として店に入るのは四十年ぶり、いやもっと経過している、
250円でお茶と桜もちというのは悪くない。

しかしこの建物は大昔の区役所の出張所みたいなコンクリの無粋な建築なのが、どうもという感じだ。掛け茶屋なのだから、無敵の耐震性というのは興ざめなのである。

男性客でおなじみさんのような人がお茶を飲みつつ、葉っぱごと桜もちを食べている、「通」のつもりであろうが、これは札幌でカメラコレクターの今井さんが、「ピリカ:で、ほっけを骨ごと喰うのとはかなり意味が違う。ほっけのまる囓りはそこに蛮勇があるが、桜もちには東下りの雅が必須なので、そこに蛮勇は不必要である。

帰宅して、折り詰めの「しおり」を見たら、ちゃんと「桜のはっぱははがして喰え」とインストラクションがあった。
まあ、煮て喰おうと焼いて喰おうと買った人の勝手だけど。

2013年1月30日 (水)

掘野浩司展をアイアイエーギャラリーに見に行く

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掘野浩司写真展「いつか見た光」を日本橋小伝馬町のアイアイエーギャラリーで見た。火曜が初日で日曜まで。

向島で東京大周遊を切り上げて、会場のギャラリーには初めてなので、迷いそうになった。案内はがきのよくある「自分中心の概念図」では混乱するばかりだ。

iPhoneのナビ機能を利用して、らくらくたどりつくことが出来た。下の図の赤い点がギャラリーで、青い点があたしである。これは最終アプローチのスクリーンショットである。

大西みつぐさんが数日前に、顔本で以下のことに触れているのに同感した。

最近の写真展の様相、とくに若い人のギャラリーでの写真に向かう様子は「オーバーフォトグラフィ」なのではないか」これが大西教授の見方である。

その意味は「写真に対する必要以上の実体のない的外れな尊敬」と翻訳することもできる。

スタイケンの展示を見て「やはり本物は違う。おれはヴィンテージしか認めない」などのコメントは石原悦郎やTAKA石井が言うのならいいけど、駆け出しの若造がそれを言うのは、ちょうどグルメ雑誌の蕎麦屋の特集を見て、翌日、その店に行って「天ぬき」を注文するようなものだ。
つまり、笑止なのである。

大西さんを受けて、あたしはさらに今の時代を批判して「オーバーマットフォトグラフィ」という新語を造った。
なんでもかでもマットかけて、フレームに入れればお作品の完成である。それが二段がけ三段がけにして、会場で「やっぱりRAWは画質が違うよね」などと褒め合っている。これはフレーム屋さんに儲けさせているだけである。

あたしみたいな古参は裸のプリントを評価する者であるが。MoMAの研究室なら、裸のプリントを手に取ることができるが、(無論白手袋で)一般公開されるプリントはそれでは危険なのでオーバーマットしてフレームに入れて展示されているだけのことである。
これはプリントの保護の為だ。

ところが、今の「オーバーフォトグラフィ」時代は本末転倒であって、マットに入れれば「駄写真」が「お作品」になると勘違いしている。

掘野作品もたしかにオーバーマットでフレームは付いていたが、あたしが観察したのは写真そのものである。

その掘野展は、良かった。
会場は狭いけど、そこに20x24の写真が9点展示してある。

内容はばらばらで、はがきになっている「女子に旅行カバンを持たせて波打ち際を歩行させている青い写真」は、どうもいただけない。この写真が案内はがきにあったので、あたしはよほど行くのを止めようかと思っていた。もう一点のカメラ女子が二眼レフを構えているショットの方がずっといい。

他の写真はいいのである。内容は友人連とどっかに撮影に行ったさりげないショットで8x10のフォーマットなのであるが、そこにはまさしく「いつか見た光」の存在がある。

不思議なことだが、狭い会場を数回巡回してあたしの脳裏に浮かんだのは「ヘンリー・エマーソン」であった。

作風からすればエマーソンより、ガスマン掘野の方が「絵がシャープ」なのであるとか、そういうテクニック上のことを云々しているのではない。

もう一件、誤解のないように言っておくと、今回の掘野展は、それが8x10のカメラで撮影したから、あたしの写真評価の琴線に触れたわけではない。ライカだって、ローライだって、同じことである。

会場に掘野が不在だったのは良かった。
最近の写真展は「写真を見るのではなく、軽佻浮薄な社交の場」と化している。これは大問題だ。

シュタイケンの世田谷での展示でまさかスタイケンに会おうとして出かける馬鹿者も居ないであろうが、あたしは掘野の作品を見にいったのであって、掘野本人を見に行ったのではない。

そこで掘野から撮影の苦労話など聞かされては、写真と対峙出来ない。その意味で、物故作家も現存作家も同じことである。真面目に写真を見ている間に脇で蘊蓄とか哲学を話されては視神経が混乱する。

画廊の人とも一言も話さずにそのまま、歩行して佃に戻ってきた。

★掘野浩司展は2/3まで

http://iiagallery.jp/

2013年1月29日 (火)

河内 モノ運ぶ人

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極東に移動したので、先月の河内を撮影した、OM-Dのファイルを見直している。プラハ、というかチエコは1890年代にすでに自動車を生産していた。

それに比較して、我が国のトヨタがロールアウトしたのは、1936年である。その歳にはシュコダは真っ赤なガブリオレでモナコモンテカルロラリーに出場していたのだから、所詮、歴史の点では喧嘩にもならない。

欧州もアメリカも極東日本も車社会だけど、ヴェトナムは「Honda社会」である。

物品の運搬に原動機付き自転車が大活躍している。かなりの大きさのしかも重量物を運びのは、生活の知恵というレベルをすでに超越していて、アートの領域に肉薄している。

物品の移動というのは、最大のパフォーマンスであるからだ。

さらなる重量物の運搬となると、三輪車である。日本も昭和三十年代には、くろがねなどという、勇ましい名前のオート三輪があった。これがモダン化したのが、ダイハツミゼットである。ダイハツとは、大阪発動機の略であるのも勇ましい。

ハノイヒルズに到着したその日に、隣の建物の大改修で、屋根瓦を下ろして、屋根の構築材を解体した。

大変な量の廃材をどのように運ぶのであろうかと他人事ながら、心配していたら、そのオート三輪が来た。

しかも全部の廃材を小さな車体に積載したのでかなり驚いた。

上の画像の左のおっさんは、現場監督でかなり偉そうだった。これが北ベトナム軍の鉄の規律というやつだな。

あたしと同年齢かと思って、撮影に行く時に、このおっさんの様子を近くで見たら、あたしなどより二回りは年下のようであった。

★カメラはOM-D 上は40-150  下は12-50で撮影。

2013年1月28日 (月)

時差ぼけでiPhoneを探す

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時差ぼけでiPhoneを探す

金曜に東京に着陸して土曜が恒例の伝統行事となった、四谷荒木町のアローカメラのシドニー寄席であった。

三階の特設会場で九十分の江戸カメラ小噺。
この画像は参加の高千穂ファンのカメラ人類さんが撮影してくれた。

あたしの手にしているのはオリンパスオートアイ。世界最初のオートマチック露光カメラである。と言うのは会場に見えていた、偽貫禄クラブの盆小原会長に教えていただいた。

時差ぼけ真っ只中の状態でもこうしてカメラを手にしていると、六十五歳翁は楽しそうに見える。

その後に、月島のクラブ絵ダムに移動して、立ち飲みしてつく地方に戻った。

深夜に目覚めて、iPhoneが手元にないのに気がついた。
忘れたとしたら、倶楽部エダムのカウンターの上か、突撃隊長の偽福パトロールの中である。

思いついて、iPhoneを探す、というソフトで見えないiPhoneの位置を捜索した。
この位置情報は先週のプラハヒルズでも作動させて遊んでいたから慣れている。

磁石の針がぶらぶらと左右に触れて、あたしのiPhoneの落ちている場所を示した。

それは倶楽部エダムでもなく、突撃リムジンサービスの厚着配車センターでもなく、何と佃の今いる場所であった。

すでに関係箇所、つまりジャケットの中とか、ベッドの下とか、ライカインコの神棚前とか何度も捜査して発見できなかったのに、失くしたiPhoneの位置は、ここにあるというのである。

アイデアが閃いて、キッチンのドアを開けたら、探していたiPhoneはキッチンの床に落ちていた。

ブラックなので、なにかゴミが落ちているように思えた。

2013年1月27日 (日)

河内 思想正しき人

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プラハから戻って今が東京だと思うとあたしの都市志向は今度はハノイに向かっている。 眼前にトライアングルがぶら下がっていて、その三辺の音程が微妙に異なるので、それを交互に鳴らしているのが、あたしの都市移動伝説だ。 ハノイの裏町のカフェであたしはこういうグリーンのヘルメットのベンダーが通り過ぎるのを待っている。 このグリーンのヘルメットは、もともと北ベトナム軍の兵士の象徴であった。だからサイゴンでこのグリーンのヘルメットを見ることはない。それは敵国のシンボルであったからだ。 ハノイの軍事博物館には、建国の父が使ったグリーンのヘルメットが展示されている。 その擦り込み現象のせいか、こういう姿のベンダーを見ると、やんごとなきお方が、世を忍ぶ仮の姿で果物を売っているのではないかと思ってしまう。 あたしの「落人伝説」である。 ★OM-D. 12-50mm

2013年1月26日 (土)

東京の窓 プラハの窓

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東京の窓 プラハの窓

二週間ぶりに視点が移動して極東の大都会に居る。

あたしの移動感覚では、プラハを離陸後、ウラル山脈を超えると、ああ、もう極東にきたなという感じがする。
成田から都心に移動する時に、最初に見えたスカイツリーの印象が、いつも不吉なのが面白い。

まだ東西ベルリンが存在した当時に見たアレクサンダー広場の東ベルリンのテレビ塔にそっくりなのである。

そのスカイツリーだが、佃の大ガラスの部屋で久しぶりに見ると、別段、変な印象はなくて、それは眼前の隅田川という人工的な風景の庭の先にある「樹木」のように見える。

プラハヒルズの目の前にもプラハのテレビ塔がある。
ところが欧州のちゃんとした都会は、歴史的な大聖堂があるから、テレビ塔などは、最初から風景論の中では相手にされていない。

この極東の大都会で、空筒がこれ程に信仰され、善男善女が参詣に来てているのは、それが「神なきカテドラル」であることに気がついた。それが良いのか悪いのかは問わないとしても、風景の貧困はまぎれもない事実だ。

ところで東京とプラハで、生活に便利な街はどちらかと言えば、やはりプラハなのである。街が小さいというのがこの場合、長所になっているようなのだ。

プラハの市電は深夜サービスもある。これは真夜中の撮影だ。

そのトラムで二つ目が中央駅なのである。
佃の場合には、やたらに本数の少ないバスが中央駅まであるが、使い勝手は悪い。

2013年1月25日 (金)

プラハの日本映画祭でベラ チャスラフスカさんに会った

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プラハの日本映画祭でベラ チャスラフスカさんに会う

プラハの日本映画祭は毎年一月のこの時期にプラハのルツエルナパレスで開かれている。

厳寒期のこの時期にプラハの街でポスターを見かけるのも、数が重なって六回目だ。
その記憶があるのは大抵この時期にあたしはプラハにいるわけだ。

今回の映画祭は今村昌平特集である。初日のレセプションに行ったら、プラハのPに会った。

サーブされたシャンペングラスの日本酒をすすっていたら、ベラ チャスラフスカがいるから紹介するという。

あたしの知っているチャスラフスカはTOKYO五輪の体操の女王である。二十年前に某雑誌の為にインタビューしたことがあるが、その時はご自宅まで行って、いきなり面会はダメというので、近くの公衆電話からコインを沢山に用意して電話でインタビューした。

だからベラさんと話をするのは二十年ぶりで、ご本人を拝見するのはTOKYO五輪のテレビ以来だから実に半世紀ぶりというわけだ。
ブロンドの美貌はいささかも衰えていないのに感心したが、ご本人が想像していたよりずっと小柄なのに驚いた。体操の選手だから当然か。

ベラさんとは英語で話をしたが、彼女ははちょっと日本語も話す。「あ、ちょっと待ってください」と、日本語でハンドバッグからご自分の名刺を出してあたしにくれた。

これはマンハッタンのロフトにあったヨーコ オノオノの名刺と同様にあたしの国宝クラスのモノになるだろう。

二十年前に電話でインタビューしたことがありますと言ったらベラさんはその事を記憶していた。
要するに電話で話をしたTOKYOの変な人という記憶があったのであろう。あの時に、あなたは流暢な日本語で「トウキョウエキ ノ タテモノ アカイ」とおっしゃいました。あれは日本語の教科書のテキストでした。あの時のそのくだりを最近出たあたしのプラハの本に収録してあります、と、申し上げた。

こういう出会いは嬉しい。

亡くなったバーツラフハベル氏の妹さんでルツエルナのオーナーさんにもご挨拶できるかも知れないと、プラハのPは言ってたが、彼女は今、南極にいるそうである。

南極とはゴージャスだな、とPは言う。ああたしの知ってる人で南極にいったのは動物写真家の岩合さんと、あと一人くらいしか知らない。

会場の映画館は欧州で最初のシネコンとでも言う存在で1910年代のアールヌーボー様式だ。今村昌平の連続上映会で、ちゃんとオリジナルの日本語の下にチエコ語の字幕がでる。

歴史的なコリドールには日本語のロゴで映画祭とあるのも毎年のことだ。

★時差ぼけでTOKYO NOW。

2013年1月24日 (木)

プラハ中央駅のノスタルジー

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★本日移動日。プラハ モスクワ TOKYO

プラハ中央駅のノスタルジー

プラハには日本の企業も沢山ある。海運会社がなぜ海のないこの国にあるのかと思ったら実際にはハンブルクあたりで船積みしているのだけど、ここは欧州の中心部なので何かと便利なのだそうだ。
へえ、、そういう事かと思った。

プラハに来るのはいつも飛行機だが、七十年代にウイーンに住んでいた当時のプラハ行きは列車だった。
プラハが社会主義時代の話だ。
国境で長いこと待たされるので五時間くらいはかかった。
なにしろ、鉄のカーテンをくぐるわけだからそれなりの手順が必要だった。

無論、税関検査もしっかりあったし、外国為替管理も厳重だった。そういう環境で、税管の係りの人とライカの話をしたことも忘れられない。いや、あたしのライカに課税する話ではなく、やっぱりライカはいいね〜という話題に国境でなったのだ。
そのくだりは「屋根裏プラハ」」に書いた。

プラハの中央駅はあたしのプラハヒルズパート2からそばなので、数年ぶりに行ってみた。

停まっている列車に乗ってそのままウイーンにゆきたくなるのは、三十数年前の行動パターンがそうであったからそれを繰り返したくなるまでのことである。

プラハ中央駅は欧州の数ある駅の中でもなかなかいい。全体がアールヌーボー様式なのだ。

2013年1月23日 (水)

偽ライカ赤軍プラハ解放

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東京で偽ライカ愛好会の撮影会が日曜にあって、翌日の月曜の雪の朝に成田で飛行機の内部で三時間近く待たされてモスクワ経由で今はプラハにいるわけだ。

長年の慣れで、パッキングは十分もかからないが、その熟練の技も時々ポカをするのである。

数年前にはトランクスとソックスを忘れた。自分が身につけている分しかないので、アトリエの一番近くにある、巨大スーパーに買いに行った。

ところが店内くまなく探してもそういう衣料品は売っていない。どうも日本のコンビニの品揃えとあたしが勘違いしているようなのだ。それでまちの中心部の、ちゃんとしたデパートに買いに行った。

今回はちゃんとトランクスもソックスもパジャマもパックして、気がつくと今、、偽ライカ愛好会から、預かってきた赤旗がある。偽ライカ愛好会は撮影会の差配は輪番制であって、次の月番があたしなのだ。
それで赤旗を預かった。

最近では撮影会よりも飲酒の方がメインになっているようだが、大人の集会なのだからそれはそれで結構だ。

ふと思いついて偽ライカ愛好会の旗をプロテックスのコンテナに入れた。その旗は赤旗で銀色のロゴである。

あたしの「屋根裏プラハ」(新潮社)の中に「社会主義時代のグレーの街並みを背景にした赤旗を思い出す」というくだりがあった。kの赤旗をプラハの街に立てて、偽ライカ赤軍がプラハを開放した様子の偽画像を撮影しようと思った。

実際にやって見たのがこれである。赤軍が赤旗をベルリンのライヒスタークのてっぺんに打ち立てる様子は歴史の教科書にも出ているが、あれはモノクロ写真なので赤旗が黒い旗に見える。こがどうも陰気な感じだ。

それに比較すると偽ライカ愛好の旗は、時代が時代だからちゃんと「総天然色」で写っている。

2013年1月22日 (火)

シンプルライフ

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アトリエにゆくつもりで、せっかくプラハまで来たのに、アトリエのあるメトロの駅まで来て、その先の雪道のことを考えて引っ返した。

階段を最上階まで登って冷え切った部屋を温めて、コーヒーいっぱい飲んでさて仕事と思ったら夕方になりそうである。
なかなか生活というものは手間がかかる。

今回は結局アトリエにはゆかないだろう。
考えてみれば、三十年来、プラハに住み慣れた行く場所があるのにわざとそこにゆかないというのは、かなり変人の行動であろうが、逆に非常な贅沢をしている気分でもある。

プラハのアトリエはすでに何度もブログで紹介しているが、室内はまず1950年代というところだな。バルセロナチエアの本物があるのがちょっと自慢だが、日本人の体格では座りにくいので、座ったことがない。

つい最近までアトリエには鏡がなかった。
しかしそれでは独房と同じだと気がついて、プラハの旧市街の路上で鏡の欠片を拾ってきて、アトリエでは数年来それで鏡の代用をした。

今いる、労働者街の部屋では、まずこんなシンプルな道具で生活している。
さらにフィルムカメラは一台もないばかりか、今回はMacBook Airも持参していない。

もっぱら原稿はiPadの一型で、メモはiPhone5で書いている。それがiCloudでシンクロしているので快適だ。新潮に「屋根裏プラハ」を連載していた時も原稿はiPadで書いていた。

トレーの上のスイスアーミーナイフは数年前にヘルシンキの蚤の市で買ったもので、唐辛子は向かいのベトナム人のグロッサリーで買った。

こういうシンプルな道具とも呼べない物品で人間は結構暮らしてゆけるものだ。

白いトレーのうえにそれらを並べてみたら、何か七十年代のスイスあたりの広告ポスターみたいな感じになったのも妙であった。。

2013年1月21日 (月)

ペンデジタルとOM-D どちらが使いやすい?

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ペンデジタルとOM-D どちらが使いやすい?

今回のプラハの撮影行は、この二台を交互に使っている。

六十年代のカメラマンはライカとニコンFを両方持って撮影していた。当時のベトナム戦争取材の岡村昭彦がそうだ。

ライカと一眼レフではその操作性がかなり異なるのであるが、ライカは広角系、ニコンFは望遠系という割り切った使い方をした。
この前、その愛機のライカM3Dが二億円弱でオークションで取引された、DDダンカンも広角はライカ、望遠はニコンだった。

この二機種の最大の操作性の違いは、まず絞りとフォーカスの方向が全く逆であることだ。

あたしなども二十歳台は同じ機材であったが、カメラへの身体性を訓練するというのであろうか。あまり違和感は感じなかった。
習うより慣れろというのは写真機操作でも重要だ。

そんな大過去のことをここプラハで思い出したのは、ペンとOM-Dの操作感覚はかなり違うことだ。

昔はフォーカスリングの回転の方向などの逆であることが気になったけど、それはオートフォーカスとズームレンズの登場でアウフヘーベンされている。

一方でフィルムのライカニコン時代に存在しなかった別の問題点が起動した。

ペンとOM-Dでは電源スイッチの位置が全く異なるところにある。前者は軍艦部の上であり、後者は本体の背面にある。これが混乱を招く。

さらにワンタッチでムービーを撮れるボタンは便利であるが、OM-Dで間違って、使用を開始した当時、電源スイッチと思って知らない間にムービーが撮影されていたこともあった。

操作性の統一問題点は、今更仕方ないので、最近ではこの二機種を持ち替える時には、今日はどちらのカメラを使っているのかを、指差し確認している。

操作性の全く異なるこの二機種を併用している高千穂ユーザーは多かろう。
まあ、一種の頭の体操だと思えば、これも苦にならない。

OM-Dで撮影した翌日がペペんペンだと、何か新鮮な感じがするのも不思議なことだ。

★おかげさまでPEN PENチョートクカメラ日記は本日1140万ページビューを達成します。 ご愛読ありがとうございます。

2013年1月20日 (日)

プラハプリズン

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プラハヒルズパート2

と、これは、戯言ではあるが、往年のPARCOパート2みたいでクラシックな語感がある。

数年前のこと、プラハのホテルのファサードを数百見てあるいた。無論、実際に見たのではなく、インターネットで見たのである。
その中で、ここは住んで見たいと思った唯一の建物がこれであった。

住所を調べて晴れた日の午前にその建物の前に立ったら、サンクトペテルブルグのエカチエリーナ宮殿にそっくりなブルーの建物だった。

プラハの建物はすでに三十年以上観察しているが、ブルーというのは、それが構成主義の建築だと、息苦しくなるものである。

ところがこの建物はファサードがネオバロックめいているので、不思議に調和している。

一昨年の十月に試験的に宿泊したらなかなか良かった。

その前の年のプラハの大雪で、ニコリテスリーのアトリエにゆくのに積雪三十センチで普段はメトロの終点から徒歩十分なのが、難儀をして三十分かかった。
雪で遭難するというのはこういうことかと、プラハ市内で痛感した。
しかもアトリエのストーブが壊れた。

それで、今回は滞在はここにした。
この労働者街はジシコフという地区で19世紀末に工場街が出来て発展した。いまは寂れた感じだ。

そこがいい。

この三階右手が、ーあたしの収監されている「プラハプリズン」である。

2013年1月19日 (土)

赤いキヤノンと黄色いニコン

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プラハのフォトシュコダというカメラ店は非常に元気がいい。
ビロード革命の前に社長のシュコダさんは、バーツラフ広場の裏手に小さい店を開いた。

そこでのあたしの最初の買い物はツアイスの双眼鏡だった。

そのシュコダさんは次々に店舗を大きくして、10年来、プラハの都心の一等地の歴史的な建築に店舗を構えるようになった。

それと前後してビジネスで来日するようにもなった。シュコダ社長にはプラハではよくお目にかかるが、この前に東京で会ったのは、東京ステーションホテルがまだ改装される以前だから七年ほど前か。

シュコダ社長は東京ステーションホテルに泊まってバーカメリアに通うような東京通だがこれは、彼の友人のベルボン三脚の保母さんのサジエスチョンである。

プラハのお店には面白い中古カメラが沢山ある。
一年ほど前に店内に工事が入ったと思ったら、そこが黄色いニコンと赤いキヤノンのコーナーになった。
それぞれが背中合わせになっているのが皮肉だが、ここはモダンな椅子があってWifiは使えるし、コーヒーも飲めるし、あたしのような、地球規模のノーマッド写真家にはありがたい。

つい最近、赤いカメラと黄色いカメラを追い越して
OM-Dが、無差別級でコンスマー投票でグランプリになった。

ここには青コーナーはないので、赤コーナーと黄色コーナーにあたしは均等に座るようにしている。

2013年1月18日 (金)

暑いプラハと寒い東京

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暑いプラハと寒い東京

日本でも新潟とか北海道のような本当に気候の寒い場所は欧州と同様に冬には始終暖房をいれているが、東京はもともと温帯モンスーンだから、冬は火鉢で手あぶりくらいでいいという暖房に関する間違った認識がある。

東京の大ガラスの部屋は其れなりのモダンタワーであったが、窓は一重だから熱はどんどん逃げる。天井に埋め込み式の空調を普通に稼働させるとびっくりするような請求書が東電から来る。

世界で一番冬が住みにくい。夏も酷暑でしかも放射能など忘れてたようでもあり、東京はかなりタフで鈍い精神でないとなかなか住みこなせないことが分かる。

それは東京は寒さというものが生命の危険には無関係であるからだ。

数年前に、プラハでホームレスの若い人が相次いで凍死して社会問題化した。彼らが寒さを防ぐ為のシエルターに一泊するわずかなお金がないの凍死したのだ。

一方でバーツラフハベルさんが政治犯で収監されていた、プリズンにはこの写真の高千穂電子写真機の下に見えるような放熱器が設備されていた。

寒さは懲罰の一部というような日本的な感覚ではなく、寒さは生命の危険を伴うからそれはそのままに、体制を揺るがすという、そこらへんの気温に関する考え方が最初から異なるのである。

一昨年、マンハッタンで船原長生さんにローワーマンハッタンを案内してもらったのは東日本大震災の直後だった。

低所得者向けのアパートに巨大なトレーラーが横付けされ、巨大なパイプが這っている。
電気代を払えない人の為のエネルギーのウエルフェアサポートと聞いた。

あたしの今いる部屋はハベル大統領の独房よりは広いが暖房はちゃんとしているし、室内では半袖である。

プラハのアトリエは暖房は戦前めくガスストーブでお湯はちょろろしか出ないので、あたしのような高齢者には危険だ。しかも六階までが全部階段。それで今回の寝泊まりはこのホテルだ。しかも宿泊代は山谷の簡易宿泊所よるずっと安価だ。
ここをプラハヒルズパート2と命名しよう。

部屋は暑いので窓をちょっと開けて冷気をいれたりしている。

日本の人はプラハがマイナスと聞いて、顔本で寒くて大変ですねと、同情してくれるが、実は寒さに凍えているのはプラハのあたしではなく、気温五度で空っ風で体感気温をマイナスに感じているあなた方の方なのだ。

2013年1月17日 (木)

雪のプラハ

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「雪のプラハ」

これは昔から有名な絵のテーマでもあった。
絵画ばかりではない。あたしの記憶で鮮明なのはヨセフスデクの撮影した雪のプラハがある。
特に戦後のシリーズでアトリエの近辺を撮影した作品とか、雪のモルダウ河のパノラマ作品が好きだ。

それらの雪の作品シリーズにあたしが惹かれた理由を考えるに、どうもそのシーンは厳しい冬の記録という以上に、当時の社会背景、つまり政治状況と市民への弾圧とが、冬の時代のネガテイブな印象を倍加させていたようなのだ。

あたしの起居している、労働者街の部屋の前から二十六番の市電がそのままアトリエまで直結している。その市電に乗って旧市街を縦断してモルダウ河を渡るときに左手に王宮が見える。

雪のプラハが最も美しく見える場所の一つであるが、残念なことに王宮はちょっと遠すぎる。

遠い王宮はカフカの小説の一説を思い出す瞬間である。

ここは水鳥に餌をやるプラハ市民の格好のポイントでもある。それを狙ってツーリストがカメラを向ける。

数年前、プラハが暖冬でまったく雪の降らない時期があった。通勤にその方が便利だとプラハ市民は喜んでいたけど、降雪が少ないと農作物にその年は影響が出る。

雪のプラハも色々な側面を持っている。
そういう足元の悪いプラハの街を今日はOM-Dを一台だけ首から下げてぶらぶら歩きをした。

2013年1月16日 (水)

十か月ぶりのプラハ。何が変わったのか?

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以前もプラハに来るのに時間が空いたことがあった。
新潮社の「屋根裏プラハ」を二十回連載した当時はほぼ毎月プラハだった。
むしろプラハら東京に通っているという錯覚がもたらされた。

今回は昨年の四月以来のプラハだ。どうもプラハは夏は世界中の観光客が押し寄せるので面白くない。やはりオフシーズンがいい。

気温マイナス9度というと皆さんは驚くが、湿度が高いのと、風がないので寒くはない。室内は暖房が効いているから、Tシャツ(ていしゃつ、と読む)で今も過ごしている。
室内が寒いのは日本だ。

ハッセルブラッドの広報部長にヨーテボリであった時、世界で一番寒いのは日本だと言ってた。

ほぼ一年ぶりでプラハもそう変わらない。プラハは普通の西欧の街になったのだ。

一昨年の暮れにあたしはリスボンにいて、バーツラフハベルの訃報に接した。昨年の一月にはゆかりのルツエルナパレスで一大追悼会が開催された。
それで、昨夜到着したプラハ空港はバーツラフハベル空港と名称が変わっていた。
JFKの真似なのだが、これは良い感じだ。
安倍晋三空港ではバッドジョークにもならない。

2013年1月15日 (火)

プラハNOW

プラハNOW

プラハの労働者街のホテル到着。今回はここからアトリエに通う。実に昨年の四月以来のプラハ。
まだ真っ暗なので窓から外の様子はうかがえない。
寒いが雪なし。ー

今回の大英断はライカを持参しなかった事。二十歳にライカを手にして以来、デジカメだけというのは初めて。
その代わり、六十年代のライツの総合カタログ持参。つまりライカは実態ではなく、信仰に接近したわけだ。

今年はウイーンに住むようになって四十年だと、東京の家人からメールあり。
そういう区切りの良い時期にプラハ滞在というのは嬉しい。あたしの感覚ではウイーンもプラハも同じ文化圏だから同一都市である。

さてー時差マイナス八時間なので寝るとしよう。


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上のは予定稿。
実際には成田の雪で離陸が三時間遅れて、今まだモスクワ空港。
11:45のチエコ航空の最終便でプラハ。

★それで日本時間の午前九時。
こっちの午前一時に本当にプラハ着。

プラハヒルズで最初のビールNOW。

シーーーーーん
という音がする。

2013年1月14日 (月)

プラハ行きのカメラたち

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★本日移動日 東京モスクワプラハ

昨年は東京大周遊が多忙で、その他にハノイに二度行った。プラハは二度しか行っていない。

まあ、普通の感覚ならプラハに二度行けば充分という意見もあるであろう。
しかし「屋根裏プラハ」を執筆の当時はほぼ毎月行っていたのだから、かなり閑散になったわけだ。

それで今日からまたプラハ。30年も同じアトリエに居ると、六階までの階段もさることながら、あそこのシャワーはお湯の出が良くない。それで前回は滞在の前半はホテルに泊まった。

今回は方針を変えて、全滞在はホテルで、仕事をしにアトリエに行くつもりだ。
ホテルは例のプラハの労働者街の安ホテルである。

持参カメラは何時もと変わらないこういう組み合わせである。

今回はペンとOM-Dの使い勝手を比較してくるつもりだ。
最初に出会ったのが、初代ペンなのでダイヤルの操作性など(間違って他のモードに入らないような安全設計が初代のペンにはある)は、初代が一番だと思う。

OM-Dのシャッター音はペンに比較するとかなり小さい。これは利点だな。

今回の画期的な要素は「フィルムカメラで写真は撮らない」ということだ。ライカ写真集の執筆の為に戦前のライカは一台持参するが、フィルムは持参しない。
フィルムを持参すると、どうしても撮影がしたくなる。

旋回のハノイでもブロニカRF645を持参したので、短い滞在中にデジカメの日と、フィルムの日との計画をするのが大変であった。それで今回は全部デジカメの日にした。

★カメラは初代の白いペン

成田空港ラウンジで麦酒一杯目Now

2013年1月13日 (日)

第三帝国の「負の手帳」

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七十年に、ウイーンの16区、それは外周道路からさらに西に行った、ウイーンの庶民的な街なのであるが、そこに古道具屋があった。その店の名前は「マコフスキー」と言った。

この店はなかなかのもので、近在の人間が死ぬと、その遺品が全部この店に運び込まれるのである。

それで地元の人は実用品をここに探しにきて、火曜の朝などは列がお店の前に出来るほどだった。

他にも、プロの骨董ハンターが仕入れに来るのである。ハウハウスの硝子の紅茶セットで、今はMoMAに展示されているような「逸品」が売られている。

あたしはバロック時代の宗教用具(十字架)をここで買った。

これもその古道具屋で買った。

第三帝国がオーストリアを併合した後に発行された「労働者手帳」である。一人の19世紀末に生まれたウイーン人のがそのような職業についていたのかが、記録されている。

ドイツもオーストリアもハーケンクロイツのついたモノを販売することを禁じている。だから蚤の市などではなにかのバッチが裏返しになって売られていると、ああ、あれだな、とそれだけで分かるのであるが、こういう一般の市民の店だとそういうお達しはなかなか徹底していないのであろう。

こういう手書きの文字がちゃんと読めるようにならないと「本物のウイーン人」とは自称できないわけだ。

★カメラは初代の白いペン

2013年1月12日 (土)

チタンの骨とハノイヒルズのドアハンドル

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十年ほど前に出した、あたしの「千頁本」の一冊に「ぼくのカメラたち」といいうのがある。

以前住んでいたタワーマンションの最上階のその室内だけをテーマにしたという変な本である。

最初はあたしの持っているカメラの全部を紹介しようという企画であったが、とうてい千頁にはおさまらない。それでカメラは四百種類以内に抑えて、部屋から撮影した風景とか室内にあるガラクタを紹介した。

巻末には坂崎幸之助さんとの対談も入っている。

こういう変な本なのだが、ありがたいことに重版になったのである。

その本の中に、上の「野々宮のチタンの骨」が収録されていた。

これは野々宮が腰痛のオペをした時に一年ほど腰の骨にねじこんでいチタンのボルトナットなのだ。それが後で身体から取り出されたので、ゆずってもらった。

チタン外装のカメラとか、眼鏡フレームとかあるけど、最上のステータスはやはり腰骨にねじ込んだチタンのボルトナットであると思う。

もうひとつは、ハノイヒルズの古い建物の窓を開け閉めする時のロックである。この建物の由来は良く分からないのだけど、ハノイヒルズでこれをペーパーウエイトにしていた。

がらくたは雑品の中にあると、目立たないけどそれだけ取り出して観察するとなかなか良い形をしていることに気がついた。

★カメラは初代の白いペン

2013年1月11日 (金)

やっぱり河内のプロパガンダ

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先月のハノイでOM-Dで撮影したショットを見ている。

昨年は11月と12月と二度もハノイに行った。その前は10年行かなかったのだからこれは大変に頻度の高い「訪河内」である。

その時期に晴れた日はまったくなくて、毎日がグレーの曇り空であった。曇りは色彩が沈静するが、反面、赤が前面に出てくる。

それで「空のデイエンビエンフー」四十周年記念のプロパガンダポスターが街中にあるのが一掃引き立ってみえた。

しかしながらこの画像のような感じよりも、実際に肉眼で見た感じはもうひとつ地味である。

言い換えれば、デジタルカメラはこのような赤を際立たせるからその意味「プロパガンダ的」なのである。

この看板はハノイの目抜き通りのフォン湖の西が阿にある。この看板のすぐ左にはカメラ店があって、ニコン、キヤノン、ペンタックスの巨大なロゴがお店の正面にある。それはそれで目立つのであるが、それは昨年の11月の話であって、12月にはこのプロパガンダ看板でまったくその存在感が沈静化していた、

ベトナム共産党はやはり凄いなと思った。

★カメラはOM-D 12-50mm

2013年1月10日 (木)

河内の欠片(はのいのかけら、と読む)

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先月、ハノイヒルズの窓から見ていたら、隣の古い家の瓦が撮影から戻ったら、綺麗にはがされていた。

人海戦術とは大げさながら、三人の人のパワーで完全に瓦が下に降りていた。その古い建物は壊されるのかと思ったら、そうではなく、屋根のふきかえであった。

ただしふきかえといっても、屋根の梁まで全部交換したのであるから大修復になる。

以前、アテネに行った時に、ゼウス神殿の前で、ギリシャ時代の陶片を拾ってきたことがあった。その比較ではギリシャほどの古さではないけど、やはりハノイの雨と太陽の直射をうけた瓦にはハノイの時間が染みこんでいる。

翌朝、撮影に出かける前に、堆積した瓦の山の中から一番小さい欠片を拾っておいた。

ハノイ中心部のホーチミンの巨大な肖像がある所は、最も交通の激しい所である。逆光の路上できらりと光るものがあった。手にとるとそれは鏡の欠片である。

これも回収した。

ハノイの瓦の欠片と、鏡の欠片。

そのまま「ハノイの真実」を所有している気分になる。

★カメラは初代のペンの白いの

2013年1月 9日 (水)

フィルムの一眼レフで遊ぶ

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寝室の寝台の脇に、巨大なハリバートンのケースがある。
その上に本を置いていて数年が経過した。

新年なのでなにか変わったことをしてやろうと、本を取りのけてケースを持ち上げたら持ち上がらない。

明けてみたら、忘れたいたカメラやレンズやアクセサリーがざくざくと出てきた。

もともと自分で買ったものであるから自分のものなのだけど、なにかお年玉をもらたようで嬉しい。

それで思いだしたのはニューヨークのセントラルパークの栗鼠ことである。
クルミをあげると、そこらに穴を掘って隠してしまう。あとでそれを発見するのが大変だと思うのであるが、大方、場所を忘れてしまうのではないか。
あたしの発見されたカメラも似たようなもんだ。

その中にコニカオートレックスがあった。当時のネーミングでこれはコンタレックスの向こうを張った名前かも知れない。

このカメラのシリーズの中で、このモデルはPという名前である。このモデルにはメーターが付いていない。
ニコンFでもそうだが、1960年代はまだメーターのない一眼レフが上級者用と考えられていた。それでこのPはプロフェッショナルの意味と考えられる。

この一眼レフの売りは、フルサイズとハーフサイズに瞬時にフォーマットが切り替えできる点にある。
ハーフサイズはオリンパスペンが元祖であるが、風状のフルサイズのカメラをハーフにしようというアイデアはコニカは好きだった。

まだ開発途上の国の日本であったから、なにかそこには「高価なフィルムを少しでも節約しようという意志」みたいなものが感じられる。

しかし、このフルサイズ、ハーフサイズを機械的に切り替えるというのはかなり凝った機構だ。

プロ用の映画撮影機カメフレックススタンダードでは、35MMと16MMのサイズび切り替えが可能なコンパチモデルがある。それと並ぶアイデアであるが、映画撮影機の方は、製作上の目的に応じて、画面サイズを変えるという感じがあるのに対して、コニカの方はなんとなく「倹約精神」が背景に感じられるのも面白い。

★カメラ画像は白いペンで撮影。

2013年1月 8日 (火)

隅田川とセーヌは姉妹河川です

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せっかくの新しいiPhone5なので、万歩計を入れた。

長年、オムロンのやつを使っていて、何度も何度もバッテリーを交換した。

今度のはソフトも無料である。

最初に歩幅を設定しようとしたが、その項目がない。

これはGPSであたしの歩行位置を確認して、それを演算しているのである。

大昔、ジャンボがINSで航法を決定するのに吃驚していたようなあたしである。

その歩行はただ、近所の市場に酒の肴を買いに行っただけなのに、このようにGPSで記録が残るのである。有り難いというか恐ろしい時代になった。

その航跡を見ると、これは人間のプロフィルに見える。以前、似たようなマークがあったなあと考えたら、これはパリの公共交通のマークRATPにそっくりだ。

デイリーポータルの大山さんが中秋に東京に「月を見上げる巨大うさぎ」をGPSで描いているが、あたしの方のは酒の肴を買いにいった航跡が、パリのメトロマークに似ているというのも、不思議である。

思えば、セーヌ河と隅田川は姉妹河川であること、それと中央大橋の上にはシラクが市長だった時に、東京に贈った「ナビゲーター」という彫刻もある。

そういう連鎖反応が起きるとまたパリに行きたくなる。

2013年1月 7日 (月)

佃ヒルズNOW

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仕事始めである。
十年ぶりに佃ヒルズである。

六本木ヒルズの場合には、通勤時間は40分はかかった。ここは部屋から垂直の通勤電車に乗って30秒であるから、非常によろしい。

沢木耕太郎さんが、ご自宅から仕事場まで40分ほど歩いて、その間に色々とアイデアを練るという。

たしかに仕事場と生活の場が同じなのは問題であって、あたしは佃のカメラジャングルに居ると、周囲のカメラを手にとったり、新たなカメラの地層を発掘したりでなかなか仕事がはかどらない。

しかし、エレベータで30秒で移動完了して仕事開始するのは、沢木流の通勤徒歩時間の思索ということは出来ない。

それで考えたのは、いったん佃のタワーを出て、そこらを一周してくれば、沢木流思索術になるのではないかと愚考した。

しかし、今の東京の気温は摂氏二度であって、同じ時間の真夜中のプラハの気温が摂氏八度と聞くとなかなか脳内で歩行しているだけで、実際に出かけることはない。

佃ヒルズには、以前、コレクター野々宮が来て、カウンターの長いスペースで収蔵する写真を選んだりした。
佃ヒルズはなかなかうまく出来た造りだ。

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2013年1月 6日 (日)

草森紳一さん界隈

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この十年の「ヒルズ時代」を回想するに、何が抜けていたかというと、自宅の近所のそれも北側を徘徊する体験が完全に欠落していたと言うことに気がついた、」

別に芭蕉庵を目指したり、碁角の旧跡を訪ねたりするという意味ではない。

四半世紀前から開始した、隅田川デルタ地帯、つまり佃から越中島に抜けて、永代橋から新川方面に渡って、隅田川の右岸を南下して、中央大橋を再度渡って、佃ヒルズに戻るという、図形を歩行する習慣をこの10年はほとんどやらなかった。

それでヒルズ時代10年が終わったので、またその徘徊を再開したわけである。

iPhoneを持って、そのコースをトレッキングしたのがこの画像だ。ブラウザによっては九十度傾いているかも知れないがそれはご容赦。

三枚目の茶色のマンションの隅田川方向に向いている建物に窓がなくて、壁だけなのに注目してもらいたい。

ここに草森紳一さんが仕事場にして亡くなるまでここで執筆しておられた、同じマンションに知り合いの写真家が商業写真のスタジオにしていたこともある。

奇態なのは、せっかくのリバービューが壁で閉ざされていることであるが、このマンションの出来た70年代にはまだ「リバービュー」という認識はなかったようである。

ちょうどベルリンの壁に面した東ベルリン側の家が窓を塗り潰したのとなにか似ている。

草森さんの撮影した写真作品で、仕事場から見た雪の永代橋の名作がある。それは仕事場に窓がないので、非常階段に出て撮影したのである。この画像の上の方にある階段がそれだ。

なにかあたしのマンハッタン時代(1982-83)にマンハッタンはSOHOのロフトの非常階段からまだ存在した、ツインタワーを撮影した故事を思いだしてしまった。

ちなみに、最初のショットはあたしの岩波の写真集「とうきょう今昔」に掲載されたのとほぼ同じアングル。

2013年1月 5日 (土)

DPレビューでOM-Dがグランプリに輝く

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1月2日に佃を徘徊して、鉄管堀でiPhoneを見ていたら、ハルヨコイさんの書き込みで「海外からうれしいニュースがとびこんできました」とある。

ハルヨコイさんはペンデジタルをスタートさせた時の責任者でもあって、あの時、「予想もつかなかった」(本人談)ペンのブレークがあった。

このDPレビューというサイトの背景をあたしは知らないけど、権威あるサイトであろうことは、その読者の人気投票が15000もあったことでも判断できる。

そのランキングは、第三位が赤いマークのフルサイズデジタル一眼レフであって、第二位は黄いマークのフルサイズデジタル一眼レフであった。

それを「僅差」で押さえて、堂々の第一位が我がOM-Dである。これは青いマークのマイクロ4/3と言って良い。

あたしも仕事ではフルサイズのデジタル一眼レフを使うことはあるが、その理由は同行の編集者とかクライアントが「でっかいカメラ」を持っていないと、安心ができない、という、一種の「カメラ迷信」がその理由である。

周囲の歴戦の強者も、フルサイズではなくてもちゃんと満足の行く撮影が出来たと言う意見が多い。

あたしはペンやOM-Dの小型軽量を高く評価しているものだが、周囲のプロの間で言及されるのは「楽だし、映りはいいけど、周囲の目が気になって、やっぱり大きなデジイチ使っちゃう」というものであった。

しかし最近のあたしの東京大周遊もハノイ大周遊も単独行動であるから、他人の目を気にする必要はない。小型軽量が一番。

このニュースを見て、我がペンペン党のメンバーは「フルサイズ派に一矢報いた感あり」と喜んでいた。

まあそれもないことはないが、無差別級でこういう結果は日本ではまず出ないのではなかろうか。日本ならデジタル一眼レフの部と、ミラーレスの部を分けるに違いない。

あたしもOM-Dユーザーのはしくれとして、これは新年早々に嬉しい。

サイトはこちら。 

★iPhoneの画面を撮影したカメラはOM-Dではなく、初代の白いペン。

2013年1月 4日 (金)

三年前のプラハの画像が出てきて「屋根裏プラハ」読んだ

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iPhoneを3Gから5に変えたら、I cloudが「勝手」に、iPhoneの古い画像を新しいiPhoneに移動してくれた。

そのトップ画面では、撮影地がちゃんとピンで表示してある。

やはり撮影地はプラハが圧倒的に多いのは当然である。

その画像をぱらぱら見ていたら、それが三年前の年末の撮影で、アトリエの暖房が不調なので、ホテルに泊まっていたことが記憶の隅から呼び出された。

ホテルの窓辺に積もった雪に、猫の「ミミヲ」と「ライカインコ」の落書きをしたことに気がついて、それに連動したプラハの雪の記憶が連鎖的に蘇った。

画像の記憶というのはかなりなものだ。

それで、その記憶をもっと追憶したくて、この前ダウンロードした「屋根裏プラハ」のKindle版をあいぱっどで開いた。

こういう連鎖的な郷愁の旅は、紙に印刷された本より電子書籍で見た方が、その円続性は保たれるようである。

不思議なお正月の過ごし方だ。

http://www.amazon.co.jp/%E5%B1%8B%E6%A0%B9%E8%A3%8F%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%8F-ebook/dp/B0099FF7VE/ref=kinw_dp_ke

2013年1月 3日 (木)

Nikonのフィルムマガジン

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大晦日の日が、ヒルズの卒業式であったのだが、キーは返したし、私物も持ち帰ったので、行かなかった。

10年という年月は短いものではない。

そこには感慨がないこともないが、この間に30冊は本を出している。

今年は拠点は佃ヒルズ、プラハヒルズ、そしてハノイヒルズとなる。ああ、南河内の大阪芸大もある。

大晦日には経路変更して、がらくたやさんに挨拶にいった。東京でも、いや、世界でもこういうユニークな店はふたつとない。

最初のお付き合いが始まった当時、今の買い取り名人がなかなか「いやみおやじ」であったのだが、当時は二代目はまだお店にはいなかった。

それが今では二代目が先代の「いやみおやじ」を襲名しているような所がある。

無論、良い意味で襲名ということd。政府とと会社とかだとそれに関わる人間は「流れて」行くものである。個人商店とか、あたしもその端くれであるが、ポストを第三者にゆずってやめるということは事実上あり得ない。
まず、これが強みだ。
マニフェストを置き去りにして退場ということも、理論上不可能である。

がらくたやさんで、かなり古いニコンのフィルムマガジンと相当古いニコンのフィルムマガジンを買ってきた。
黒色の結晶仕上げの方は、ニコンFを愛用していた20歳に使っていた。
0M-1が登場するずっと以前の話しだ。

当時は、モノクロフィルムが主体で、永巻きからマガジンに詰めて使った。さらにイージーローデイングという方式で、今の120フィルムのように、フィルムの最初にリーダーの遮光部分がついていて、パトローネのないフィルムがあって、これは安かった。そのフィルムをそのまま、フィルムマガジンに装填して、リーダーペ^パーを引きに抜けばそのまま撮影に使えた。

マガジンを試したみたら、手持ちのニコンSにも、ニコンFにも使えることが分かった。ライツのマガジンだと、バルナックとM型では互換性がない。

そうなると、このマガジンは当然、ニコン1型にも使えるし、手元に持ち合わせがないが、ニコンF2にも使えるわけだ。

こういう互換性は凄いことだと思った。

2013年1月 2日 (水)

白いペンのジルベスター

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★謹賀新年★

ジルベスターとはドイツ語の大晦日ことだ。

ウイーンあたりでは、クリスマスは家族で祝うから実にひっそりしていて、路上はまるで戒厳令のようだ。歩行しているのは外国人観光客のみ。

そのかわり、ジルベスターには大宴会で大騒ぎをする。

東京のジルベスターはウイーンのクリスマスのように、人間はほとんど見えない。

昨年の11月と12月はハノイにいて、毎日が曇りであった。その間の東京は毎日が「印刷したような快晴」であったそうだが、大晦日の東京の朝は雨が降っていた。

それが午後になってだんだん晴れてきた。出かけようと思った。

実は大晦日は我が仕事場、六本木ヒルズの10年間のラストを飾る「卒業式」なのであるが、予定を変更してトウキョウのジルベスターの街歩きをした。

あたしの場合、若い当時から外国のクリスマスとか新年を「外国人として眺める習慣」が出来ているので、この極東のジルベスターもそのようにしか観察できないという癖がついてしまった。

こういう習慣のずれは今更矯正のしようがないからそれはそれで仕方がない。

見慣れた東京のメトロがどこか欧州のそれのように見えたのは、先月のハノイにメトロがなかったせいであろう。

1967年。二十歳のあたしは、ライカM2のブラックにライカビットを付けて、レンズはズマロン28mmでやはり、帝都高速度交通営団のホームの鏡にライカを向けた。

2012年。六十五歳のあたしは、白いペンに14-42のズームを付けてやはり東京メトロの鏡にカメラを向けている。

どちらも本物のあたしである。

メトロはどの線も実にがらがらである。いつものラッシュのあの防弾な日本人は、あれは単なる「日本という映画」を際立たせる為のエキストラであって、彼らはそれぞれにギャラをもらって、家に帰ってしまったようなのである。

築地駅で降りて、本願寺をぶらぶらして、その脇のテイクアウトの寿司屋で折りを飼ったら、店員さんがあたしの白いペンを見て「どうでした。いいの撮れましたか」と聞いた。

「いや、なかなかねえ、、、カメラは立派なんだけどねえ」とあたしは答えた。

大晦日の東京大周遊から戻って、隅田川が暗くなったら、川向こうにまるで、ランウエイのような赤いライトが並んでいる。

その橋の手前で「三流のテレビドラマ」を撮影中のようである。

中央大橋は完成からすでに20年近くになろうとしているが、ドラマの撮影では他に適当な場所がないというのも「風景の貧困」である。

大昔もここでドラマの撮影があって、キムタクが演技で橋から落下したりしていた。あれはスタントマンではなかった。無論、橋の脇には丈夫なネットが張ってあるから河に落ちることはない。

都バスに乗っていた親子の娘さんの方が「お母さん、キムタクだから、あたし降りるからね」と次のバスストップで降りて見学に行った。

凄いなあ、と感心した。

★カメラはペンデジタル14-42mm

2013年1月 1日 (火)

謹賀新年 ハノイ空港の「おうちバー」

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★謹賀新年★

デジタルカメラの普及で、フィルム時代には外国に行く時には巨大なケースにフィルムを300本入れて、空港のカウンターのチエックイン時にやたらハッスルしていた時代が懐かしい。

フィルムがメモリになってから、あまりの小ささに逆に撮影済みの画像をなくさないように気をつけるほうが需要な注意事項となった。

それでこの前、ハノイヒルズに2週間行った時には、行きの荷物が15キロで帰りは20キロであった。HISの団体さんよりずっと軽いであろう。

このトランクはプロテックスというやつで、本来はミュージシャンが機材を運搬する用途であるらしい。

10数年前にアローカメラで買って、その時にはキャスターが付いていなかったので、ひどく安かったけど、そのまま数年はアローカメラの倉庫に眠っていた。

ためしに検索してみたら、専用のキャスターが手に入ることが分かった。こういうのがアメリカのメーカーの偉いところである。

キャスターは一式(ねこ車が四個)で四千円しなかった。これは便利であって、空港のような平坦なフロアだと指一本で移動させることができる。

プラハのアトリエに行く時もこのプロテックスが多いが、アトリエは戦前の建物で階段しかないから、東京からプラハへの行程は楽であるが、大問題なのは最上階のアトリエまで階段をこのケースをひっぱり上げることである。

プラハのアトリエも三十年前にはまだそういう荷物運搬は苦労でもなかったけど、最近は歳のせいである。

プロテックスの良いところは、フラットベースであるから、これはハノイ空港のまだチエックイン以前のショットであるけど、このように「おうちバー」をどこでも開店できることだ。一方のペットボトルにはウオッカが、もうひとつには水が入っている。ウオッカの瓶そのものだと、ちょっとクリミナルだからこうしてある。

チエックインした先には、ラウンジがあるからそこで酒が飲めるのであるが、酒呑みは意地汚いので、こういうわずかな時間にハノイの最後の夜の気分を楽しみというのも悪くはない。

その意味でプロテックスはスーツケースだけではなく、世界を移動するバーのカウンターでもある。

★カメラはXZ-1

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
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