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2012年12月31日 (月)

初代白ペンで東京を取る 世界は謎に満ちている

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四半世紀前に、大阪のギャラリーでマンハッタンで撮影した8x10の個展を開催した時、朝日新聞の個展の評で、あたしのマンハッタンの風景は道を隔てた反対が空撮影しているのが、意味があるということが書いてあった。

撮影の生理というのは、なかなかその本人には理解できないものである。

指摘されて、なるほど!と思った。

外国である都会の風解を撮影する時には、かならず一つの通りのこっち側とあっち側を歩行するのは通例になっている。

これは無意識にやっているのである。

一方で目的地に徒歩で向かう時にはそういうことはなくて、道は最短距離を行くから、通りのこっちもあっちも関係がない。

上の巨大な植物のショットなどは、この界わいには十数年かよっているのだから、気がつきそうなものだが、あたしのその時の歩行の心理は単に、飲み屋に行きたいというだけのものであった。

こういう場合には、周囲の観察が散漫になる。しかも道の反対側を歩行して、界わいのファサードを見ようという気はおきない。

この建物を圧する樹木のショットは、あたしの思いつきではなく、偶然に通りを反対側に横断して歩行したので、出会ったのである。

この樹木に囲まれた建物をあたしは十年もその前を歩行していて、ついにそのことに気がつかずじまいであった。

東京大周遊はだから面白い。

★カメラはペンホワイト レンズはパンケーキ

2012年12月30日 (日)

初代白ペンで東京を取る 立石おみくじバーガー

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初代の白いペンで東京の街を徘徊している。

初代の白ペンは中古市場では人気機種で入荷すると、すぐに売れてしまうらしい。あたしの周囲のカメラ人類でも愛用者が多い。

高千穂はデジタルペンの東京x周年というので、白ペンのリメークをしてくれないかな。無論、中身は最新子規のやつである。というより4年前のシステムなどは技術的に組み込みのは不可能だよな。

白いカメラと言えば、GRD4のホワイトも人気だ。

この間、銀座のABCマートに思い切って、何時も穿いている靴を買いに言ったら、声をかけてきたカメラ人類さんがGRD4の白だった。群馬のNさんと言う人だ。

他にはライカM9も持っているそうだ。デジタルライカとペン、デジタルライカとGRDというようなのは実に高度な組み合わせであって、フルサイズのデジタル一眼レフなどよりその「カメラ知性」が高い。(個人的な見解で、個人差があります)

白いペンでの東京大周遊はなかなかお洒落である。これは発売当時に感度の良いカメラ女子が白いペンを斜めかけしているのを、パリやプラハで見たせいもある。

それで65歳も真似してお洒落に白いペンの 斜めがけ。

レンズはパンケーキの薄いやつ。巷では17mmの瑞光の明るいレンズが話題だけど、あれは「自分へのご褒美用」だと思う。値段が半端ではない。それもその通りであって自分へのご褒美が1000円のフェドのレンズではちょっと寂しい。

でもあたしは初代のペンについていた、パンケーキが好きだ。

パンケーキつながりで、立石バーガーに行った。

なんでもフジテレビの朝番組に紹介されて、キャスターがジャンピング食パン、改めのドロッピング食パンを取材に来たそうだ。

ところがマスターに聞いたら、テレビを見ていないので知らないという。

お店の新製品は立石おみくじバーガーである。スタンダードの立石バーガーが100円だが、こっちはおみくしの20円がついて120円。

一個しか残っていなかったのは人気商品である。さっそくおみくじをひいてみたら「大凶」と出た。聞けばおみくじは全部大凶だという。

これはいいね。射幸心を最初から捨てている。大凶を引くならそこからは浮上あるのみだ。南方熊楠が書いているが、古代には子供を勝負に育てる為に、わざと悪い名前をつけた。「悪太郎」という幼名だと子供は健康に育つ。

その民族学的な故事を思いだした。

★カメラは初代の白いペン パンケーキの17mm

2012年12月29日 (土)

最初の白いペン

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三年前の夏に、それまで25年間継続したライカインコ帝国の四代目が昇天して、ライカインコ王朝は消滅したわけであるが、その時のあたしの「ペットロス」を救ってくれたモノが二つあった。

一つはライカインコの昇天に合わせるかのように、佃の大ガラスの部屋の隅田川の上流に建設され始めた東京スカイツリーである。

ライカインコ帝国は独裁主義であったから、これは人民がライカインコの偉業を記念した記念塔だと、勝手に解釈した。

東京スカイツリーは観光名所ではあるが、だれでも亡き人とかロストペットの自分の記念塔だと思うとそれだけで、気が楽になると、あたしは「カメラは詩的な遊びなのだ」(アスキー新書)の後書きにも書いた。

こういう建築物はただ観光地にしておくのはもったいない。その前後の次第は「偽ライカ同盟入門(原書房)の中でも触れている。

もうひとつのビッグイベントはあたしのオリンパスペンデジタルとの出会いである。それまでも30余年にわたってオリンパスのカメラは愛用していたが、最近のオリンパスのデジカメ事情は知らなかった。マイクロ43が何か教えてくれたのは、坂崎幸之助さんであった。

前後してムックの製作をインプレスから依頼されて、最初に触ったテスト機の第一印象は「これは長年愛用したフィルムを使うライカの代替になるかも知れない」というものであった。

それでペンデジタル(要するに最初のモデル)に17mmの広角レンズを付けて、地元の住吉さまの神社の境内に撮影に行ったのである。この印象は良かった。

当時はまだミラーレスという言葉もないし、マイクロ4 3がどのように社会に受け入れられるかもまだ未知数だった。そのペンは社会現象となるほどにヒットした。

今の状況は説明するまでもない。

この三年半でオリンパスのペンもOM-Dも格段の進化をしたわけだが、モノには最初のモデルにその真実の精神が宿っているというのは、この何十年もあたしの通案している所である。

それで2012年の締めくくりに、三年半前の初代のペンを持って、ハノイから戻ったばかりの寒く感じる東京の街を歩いてみた。

首から白いペンを一台だけぶら下げての東京大周遊はなかなか楽しかった。

しかも3年前のデジカメというのは、確かに最新モデルと比較すると遅いにはちがいないが、使えないというほどの遅さではない。むしろ、立ち止まって物事を考えるというような時間のゆとりをそこに感じると言い直しても良い。

やはり、カメラはデザインが重要だと思いつつ街歩きをした。

ペンの最初のモデル。それも白いやつは完成していると思う。

★ペンの物撮影はペペンペンにて

2012年12月28日 (金)

戦艦ポチョムキンみたいなゾルキー4

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今にして不思議に思うのは、あたしがウイーンに住み始めた1973年という年には、ソ連邦はまだまだ健在であっって、こういうソ連製ライカコピー機が現役であったということだ。

ベートーベンは生涯に十数回の引越しをしているが、その後半に住んだのがウイーン九区のアルザー通りでそこのカメラ店はチエーンで全国展開していたのだけど、ゾルキーは当時は新品でカタログに掲載されていた。

そのキャッチコピーは、シュネルレポターカメラ。ーつまり、迅速報道写真機であった。当時の価格は五十ミリの木星玉が付いて。確か一万円ちょっとであったと記憶する。

ただし、人気はなかった。七十年代の初頭は日本製カメラが欧州に第一次の攻撃をかけてきた時であって、普通のコンシュマーは日本のカメラを買うのがごく普通のことだった。

そういう状況下で、ソ連という国はウイーンを占領していた共産圏の国であったからあまり人気がないのはまず当然と言ってよかった。

その中で、当時、ウイーンであたしとか、古屋誠一などはライカを使っていたのだけど、同じウイーンの飲み仲間で山本博さんという絵描きさんが居て、彼は写真撮影に目覚めてこのゾルキーを買ったのである。

もともと、我々ライカ使いにはその根底には一種のカメラの見栄があったのは否定できないが、絵描きの山本さんは、文字通りゾルキーを画家の絵筆のように使ったので、ウイーンの街角を撮影したスナップショットがかなりのレベルなので感心した。

あたしなどはそういう事には弱いので、真似をして早速、ベートーベンの旧家のあったカメラ店で、くだんのゾルキーを買った。

ゾルキー四型というのは、そのトップカバーのレイアウトが何となく、戦艦ポチヨムキンを連想させるのも妙であった。,,

カメラはxz-1

 

2012年12月27日 (木)

四十年ぶりのシーガル二眼レフ

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この前、四谷のがらくた屋さんに中国製の二眼レフシーガルを発見した。

値段は四千円に二百円足りないというバーゲンである。

ちょうど、ハノイから戻ってきたばかりで、あたしは中古カメラに「飢えて」いたのでゲットした。というのはハノイあたりは「社会主義国家」であるのでそこには中古カメラの自由経済の価格設定というのがなくてなにか20年前のクラシックカメラブームの最高値の価格がそのまま保存されているようなのだ。

それで11月と12月にハノイに行ったのだが、カメラはなにも買わなかった。その背景には真面目に撮影をしたという背景もある。

大体が、カメラ店巡りをしている連中には、写真を撮影しないカメラ人類が多い。撮影人類ではなく、カメラ人類なのだからこれでいいわけだ。

知り合いの「ライカの父」(お嬢さんがらいかちゃんというお名前)さんなども、カメラ店の徘徊状態は彼のツイッターなどで分かるのだけど、写真は撮らないようである。

中古カメラ屋さんにしてみれば、こういうお客さんは最高クラスであろう。中古カメラを使うと中古カメラマイナスになってしまうけど、使わないでそのまま保管されていれば、中古の程度は落ちないわけだ。

この前、買ったシーガルには思い出がある。

最初にこのカメラを買ったのは1972年だった。当時、香港に行く人が居たので、噂に聞く中国製の二眼レフを買ってきてもらった。

値段は七千円ほどだった。あたしは当時、日本デザインセンターに勤務していた時の給料は五万円ほどであったから、それでもかなり高い買いものである。

その当時のジャックダニエルズの値段もやはり七千円であった。今なら2千円台でどこでも買える例のお酒である。

シーガルの二眼レフはなかなか良く写る。それで1973年からのウイーンん行きにはこのカメラを持参した。

カラーフィルムを入れて、街角で人物を撮影した。それもスナップではなくて、ちゃんとカメラを見てポーズしてもらうショットである。

数年後に古屋誠一がのみの市をやるので、何か売るものはありませんかというので、当時のウイーンののみの市はまだ旧市街のアムホーフ広場で開催されていたのだが、そこで売った。値段は記憶していない。

これはまだ古屋が駆け出しの写真家時代でウイーンに住んでいた当時の話だ。

あれからシーガルの二眼レフのことは忘れていたのだけど。実に四十年ぶりにその存在が浮上したわけである。

デジタルカメラなど未来の夢にもなっていなかった七十年代のカメラであるが、今でもちゃんと写る。

それでハノイ帰りの底冷えの快晴の東京をこの思想正しき相照机で撮影した。

★カメラはXZ-1

 

2012年12月26日 (水)

沢木耕太郎さんとJ WAVEクリスマス深夜特急でお話した

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毎年のクリスマスイブ深夜にJ wave の三時間番組は沢木耕太郎さんによる、ワンマンショーである。
あたしはこの番組は昨年から聞き始めた新参者である。

クリスマスイブの午後に、沢木さんに読んでもらおうと、

放送局のそのHPにあたしは以下のように書きつけて送信した。

この一年来、ロバートキャパのライカに間して沢木さんにアドバイスしたこともあり、またあたしの新しい写真集で沢木さんと対談を予定しているので、このクリスマスイベントを、そのイントロの第一球にしたいな~という心つもりもあった。

以下はJ waveへのメール。

沢木さん.

こんばんは。お久しぶりです。
写真家の田中長徳です。

一昨日、ハノイから戻りました。
今回、あたしのベトナム滞在中に最初にサイゴンのタンショニュット空港で沢木さんにお目にかかった時のことを懐かしくおもいだしました

あれはちょうど十二年前の今ころのことでした。

沢木さんは「深夜特急の時に訪問できなかったベトナムに今回、はじめて来ました。ここはバイクが多いですね」とたんたんと話されたのを良く覚えています。

あの時の出会いがきっかけで新作「キャパの十字架」の取材で、この夏、あたしの戦前の古いライカを持って沢木さんはコルドバの、あの「崩れ落ちる兵士」の現場に取材にゆかれたのでした。

あたしにとってはまさに奇跡の出会いでした。

旅は人と人との軌跡の交点になります。

あの時、サイゴン空港のラウンジであたしは生意気にも、初ベトナムの沢木さんに「本物のベトナムはハノイです。一号線を北上してください」と申し上げました。

あの晩が十二年前のクリスマスイブの直前でした。

沢木さんのますますの旅を祈念いたします。

あたしは来週からまたホワイトクリスマスのプラハに戻ります。

メリークリスマス!

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夜になって、番組担当デイレクターの今井さんから連絡があって、午前一時半ころから、沢木さんとお話することが決まった。今井さんは、嬉しいことにあたしのエッセイ集「屋根裏プラハ」を読んでくれていて、今年読んだベストの中の数冊というので、周囲にもすすめてくれているそうだ。

深夜に沢木さんとお話する時、沢木さんはヒルズのけやき坂スタジオだから、眼前は東京タワーである。

それに対抗して、あたしは佃の大ガラスの部屋で、スカイツリーを見つつお話しようと思った。

ところがスカイツリーは午後十一時に消灯なのである。

沢木さんとのライブのトーク開始は予定よりちょっと遅れて午前二時過ぎから始まった。

あたしのiPhoneを介しての対話であるが、最近はかなり音質がいいな。

ちょっとした非日常的な会話が実に楽しかった。
沢木さんは実に会話の名手であることを再確認した。
あたしの最大のクリスマスプレゼントだ。

ところでこの番組のHPにはクリスマスイブの午前零時とあるが、これはクリスマスの午前零時のいみではないのかな。

2012年12月25日 (火)

ゼニット4というカメラはソ連製の黄金期だった

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モスクワの赤の広場から赤旗が降りてもう四半世紀になろうしている。
ソ連んが現役時代に西側ではさっぱりその姿を見なくて、最近になって頻繁に登場るるようになったのが、ソ連製の一眼レフの高級機だった、ゼニット4型、さらにこれに続く、5型と6型である。そのくべつは紙面がないので(という言い方はブログ向けではないが)ここでは省略するが、最初のモデルがこの4型であった。

これはフォクトレンダーのコピーであって、なかなか高級は作りである。そのその製造台数もソ連のカメラは普通は何百万台も生産される中で、1万台前後なのである。
通常のソ連製一眼レフに比較して、精密な手触りだし、当時、世界最初のズームレンズであった、ズーマー36-80MMのコピーレンズも交換レンズとして用意されていた。フォクトレンダーのズーマーは当時は日本光学もこのコピーと見られるレンズを試作している。このレンズはウイーンのウエストリヒトのコレクションにあったので、ペーターに頼んで試写さぜてもらって、何かのメデイアに出したことがあったが良いレンズであった。こっちは36-85MMで今で言う常用レンズの走りである。

フォクトレンダーがそのオリジナルを発売した二年後にすでにそのコピーを生産していたのだから、ソ連の技術力はあなどれない。北朝鮮のミサイルという名前の人工衛星の登場で西側が慌てているのと似ている。

しかしこのズームレンズ(RUBIN-1)は本家と同様にかなり巨大で重いので、普段に使うにはやはり50MMF2,8の標準レンズが使いやすい。

外部測光式ながらメーターも付いているし、ファインダーも交換式の高級機である。
こういうカメラは写真機道楽の最後に来るものであるらしく、あたしはその段階なのですでに10年前からゼニット道楽であるが、カメラ人類さんでソ連製のカメラで話題になるのは、せいぜいがレニングラードとまりである。

来るべき、2013年はカメラ人類さんとこのゼニットあたりで盛り上がりたいものだ。

★撮影はXZ-1

2012年12月24日 (月)

ハノイ大聖堂は偽物っぽいのがいい

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ハノイ大聖堂というものがある。

フランスが宗主国になったときにそれまであった仏教寺院を取り交わしてそこにカテドラルを建てた。

12年前にハノイを徘徊している時に、路地を北上して、小さな広場を曲がったらそこにカトリック教会があったので、吃驚した。

2000年に出た「Chotoku @ Work」にもこの教会が掲載されている。

その吃驚したという意味は、本物の教会の存在に驚いた、という意味ではなく、そこになにか微妙な違和感を感じたという意味である。

外見は立派な教会であるのだが、なんとなくそこに「はりぼて的」な印象を感じたのであった。

これはあたしは過去40年来、欧州のカソリック教会をずっと見てきた、その「視線の総量」が何ものかを啓示していたのだと考える他はない。

ハノイ大聖堂に対する、あたしの違和感が今回、その理由が判明したのは、このカテドラルは石造りではなく、煉瓦の上に漆喰を塗ってあるということにあった。

煉瓦造りの教会だって、欧州には沢山あるけど、それはなんとなくあたしにはプロテスタントの教会をイメージしているのである。

それで今回、改めて、ハノイ大聖堂を観察して、その見所は「偽物っぽい存在感」にあることに気がついた。これは宇不思議な魅力と言い直しても良い。フレンチコロニアル様式の街並みにこそ、この「河内漆喰カテドラル」は似合うのである。

言い方を変えれば、本格的な石造建築が出来なかった関係で「煉瓦に漆喰」がそこに別の建築としての美的存在を確立したという印象である。

★カメラはXZ-1

2012年12月23日 (日)

バイクの五人乗り

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十二年前の初ベトナムで 最初に驚いたのだけど、バイクの大勢乗りがかなりのアートパフォーマンスである。

十二年前にサイゴンの空港で沢木耕太郎さんに初めてお目にかかった時も、沢木さんの開口一番は「ここはバイクが凄いですねえ」であった。

今回のハノイは北爆勝利四十周年の記念の赤い横断幕が目抜き通りというよりも、ハノイの全市街に張り巡らされているのだが、その下を駆け抜けるバイクは、まさに生活の為の交通手段という感じがして好きだ。

こういう風に家族全員で乗っているのは、あたしの大嫌いな言葉で言えば「絆」というわけであるが、政治結社が使う言葉ではないので、むしろ良い感じである。

家族一丸をなって人生を進撃している感じがある。
そりゃ、北ベトナム軍の無敵の南下で戦車がサイゴンに進撃したのであるから、ある実体行為がそこには感じられる。

行きつけのカフェで毎日、夕刻に眼前を流れ去る バイクの群れを見るのが楽しみだ。

巨大な荷物を載せているのはごく普通である。幅は2メーター、長さが3メーターはありそうな、巨弾なボードをバイクの背面にくくりつけて走っているのをみた。運転者など見える筈もない。

長さが5メーターはあるような長い鉄骨を担いでバイクで走行しているのも、偉いと思う。

さらに長さが10メーターは軽く超えているような建築用材を二台のバイクで前後で持って走っているのは、上海雑伎団も脱帽である。

★カメラはOM-D 12-50mm

2012年12月22日 (土)

風で吹き飛んだあたしのTシャツ

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私事で恐縮だが、という言い方はこの場合、適切ではないかも知れないが、もともと人間の書ける話の内容は「この自分」と関係している事実しか書けないのが本当であろう。

だから「私事」は恐縮でもなんでもない。

さっき、四時間半かけてハノイから移動して今、東京にいる。

箱崎に着いて、周囲を観察すると、黒っぽい衣服の日本人民がおおぜい走っている。革命でも起きたのかと考えるに、これが朝の8時すぎの日本の朝のラッシュであることに気がつくのに数秒かかった。それだけ北河内ぼけが進行しているわけだ。

実は12年前の今日に、ホーチミンの空港のラウンジで沢木耕太郎さんと出会った。やはり朝の成田からリムジンに乗って佃に戻る時に、東京の街には人影なないのが不気味だった。街中に充満する行商人とか路上の肉屋、八百屋、フォー屋の姿がないので東京は「戒厳令」なのかと本気で思った。

今回の最大の興味はハノイ大空襲から40年が経過したことであるが、どうもこういう「地味な話」は、一般受けしないようだ。

この前も突撃隊長と彼の偽覆面パトカーの中で話しをしてたら「自分はベトナム戦争の終わったのは実体験としてはない」と聞かされて面白く思った。

ようするに社会の中核たる、四十代半ばの人と、それからプラス二十歳年長のあたしとは体験の共通項が希薄になりつつある。

当然の話だが、あたしは「ワンピース」を知らないけど、別に生活には不便は感じていない。

まあ、そういうもんだが、気をつける点はあたしが20代の時に近所のじじいが「大東亜戦争」の自慢話をしているのを見て、へんなじいさんと感じたことだ。だからあたしもそこら辺は気をつけようと思う。

さて今回のハノイヒルズでの最大のイベントは、「Tシャツを洗濯で2枚損失した」ことだ。我が軍の損害は軽微と書きたいが、これは報道管制である。
3枚しかTシャツを持っていない状況でその2枚が失われたわけだから、やはり被害甚大というのが正しい。

子細に観察したら、ハノイヒルズの隣の建物との間に1枚、もう一枚はハノイヒルズのクーラーの室外機にひっかかっていた。

これを見て思いだしたのは、両国の震災記念館に展示されている、東京大空襲で熱風で飛ばされたトタン板がそのまま立木にひかかっている、というのを実物で展示した展示物である。あれは良かったな。

あたしが歴史的な有名人物なら今から数百年後に「東京のじじいが忘れたTシャツ」というので、ハノイ文化遺産になるかも知れない。天女の空かける羽衣伝説である。

しかし現代のベトナム航空は天空を駈けるジャケットがなくても、別段問題なく東京に飛来できた。

★カメラはGRD4

2012年12月21日 (金)

OM-Dに40-150を使いこなす

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★本日移動日 河内−東京

今回のハノイでの、交換レンズの発見は40-150がかなり使える玉玉であることが理解できた点にある。

あたしは広角レンズ派なので、前回のハノイでもスナップショット瑞光ばっかりであったけど、今回はハノイヒルズに備え付けた、OM-Dに30-150が大活躍した。

これで眼下のハノイ市民の暮らしを一日中撮影していた。

一般的なこのレンズの売り方のセールスポイントは、「運動会で我が子をクローズアップ」ではあろうが、ここに我が子だけではなく「他人様のお子様のクローズアップ」した作例を示す。

巨匠アンドレケステスは五番街の高層ビルのマンションから、コンタックスSに400粍レンズでマンハッタンの四季とそこに暮らす人々を撮影した。

ライフのユージンスミスは六番街のミッドタウンの中層階から、眼下の行き交う人々のドラマをキヤノンの400MMのレフボックス付きで撮影した。

どちらもフルサイズのフィルムカメラであるから、大きくて重いし三脚は必須である。

マイクロフォーサーズの、ミラーレスの利点はそういう望遠レンズを夜間にしかも手持ちで撮影できることにある。これは凄いことだ。

そんなことは、今更ではあろうが、実際に作例をこうして上げてみると、やはり凄いことだ。世界中で移動を継続するあたしには、OM-Dとペペンペンは大事な道具である。

★カメラはOM-D 40-150MM

2012年12月20日 (木)

ハノイと墜落

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北ベトナム軍がアメリカのクリスマス爆撃に勝利して、15機のB52を撃墜したのを「空のデイエンビエンフー」と呼ぶそうだが、その1972年12月に撃墜された現場が国家の記念物となっているそうなので、見学に行った。

だいたいこういうデンクマールはつまらないものであるが、落下地点はホーチミン廟からわずかに西に1キロのない住宅密集地であるのが興味深かった。

しかもその界わいは荒川区の裏町とかベニスの裏町に似て、袋小路が多い。

ハノイ界隈は湿地帯であるから、そこここに小さな沼や池がある。そのうちの非常に小さい池にB52の残骸が落下していた。

迷彩色の機体も良い具合に時代がついてきて、最初からそこに造られた池の築山という風情である。

周囲には鄙びた茶店があるのみで、まさかH)ISの若い連中がここに来るとも思えない。

例によってその池の角にある記念館らしき建物の前には、極彩色の四十周年の記念ポスターがあって、これが唯一歴史の退色を救ってくれる。

ひなびた茶店でお茶を飲んでいたら、タクシーが止まって、アメリカ人らしい若いカップルが降りたって、つまらなそうにしてすぐに走り去った。

あたしはハノイヒルズから往復徒歩で行った。途中にホーチミン廟かがあったりしてこの界わいの中身は濃い。

★カメラはXZ-1

2012年12月19日 (水)

仕事を探す人

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一番最初の河内訪問は、ちゃんとした街の構造が見れなかった。

それは初河内が、当時、竣工したばかりのオペラの脇の「曲がった豆腐」みたいな格好のソフィテルプラハであったからだ。

その上の方の特別なキーがないと入れないフロアだったので、これがつまらなかった。まず、そのホテルを手配してくれたのが、大手の会社であったからそれは仕方ないにだけど、あたしはエアコンの効いた、窓をあけられないタワーは苦手である。

今、住んでいる「ハノイヒルズ」はちゃんと外気が室内に入る(って当たり前のことを書かねばならないような変な時代)ようになっている。

ハノイに詳しいホーチミンから来た現地のベトナム人の経営者さんに連れられて、その時期が旬である、リーチーの実を買いに言った時に「チョートクさん、この座っている男性連が何をしているのか分かりますか?」と聞かれた。

これらの男性は職探しをしているのだという。手にはその人の職業を示す道具を持っている。クライアントが引き抜きにくるわけだ。

さしずめあたしなら、OM-Dを持ってここに座っていれば良いわけだが、それでは単なる外人の観光老人に過ぎないから駄目かも知れない。

その求職者があれから12年が経過した今でも同じようにここに座っているのが、なにか伝統というものを感じてしまった。

しかも仲間同士で談笑している表情が実にいい。

まだ、東ドイツが社会主義国であった当時、彼らの決まり文句が「この国にジョブレス」がいないであった。

でもこういう風に楽しく過ごせれば、失業もまた楽しいのではないか。

★カメラはXZ-1

2012年12月18日 (火)

ハノイ大空襲勝利四十周年のプロパガンダ広告がいい

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あたしのエッセイ集「屋根裏プラハ」で「プラハのグレーの街並みに赤旗翻る風景が好き」と書いた。

ところが、クレムリンから赤旗が降りたのに呼応して、プラハの赤旗も四半世紀前に下ろされてしまった。プラハもその本家のモスクワもいまでは「安物のアメリカ映画を真似た三流の帝国主義の街」にしかすぎない。

11月のハノイ大周遊で、あたしが来月もハノイを大周遊しにゆこうと考えたのは、12年前のクリスマスに「旗竿の先に無数のサンタ帽子を付けたベンダー」が、ハノイの旧市街をふらふら行くのを記憶していて、それを見たくなったのだった。

ところがその「伝統のサンタ帽子売り」はまったく影をひそめて、主な目抜き通りには、1972年のアメリカの「クリスマス爆撃」に勝利して、今年が40周年というので、それを奉祝するプロパガンダ広告で埋め尽くされている。

これがあたしの目から見ると、実に素晴らしい。すでに過去の体勢になってしまった「共産主語のノスタルジーグラフィック」ではなく、今の今の体勢の政治的なプロパガンダであるからだ。

ベトナムはこのようにして、美国のB52を打ち負かしたが、我が極東はB29にやられて、今のような「平和体勢」になってしまったのは言うまでもない。

このプロパガンダポスターの展示と呼応して、中心部のギャラリーで「空のデイエンビエンフー勝利」の写真展が開催されていた。

★カメラはXZ-1

2012年12月17日 (月)

12mmf2か?15mmf8か?

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昨年の八月のベルリンの撮影では、12mmf2が大活躍した。

もっとも毎日が快晴であったから、明るさf2という高速レンズの実力を確認できなかった。昼間の撮影ばかりで、夜は麦酒飲んで寝ていたからだ。

先月の「ハノイヒルズ」では、もっぱら15mm f8レンズが活躍した。ただし暗い曇りのハノイであったから、裏町などでの撮影ではぶれていた。これは明るさ、というより暗いレンズの宿命であるが、そういう時には明るいレンズに交換すれば良いのである。

特筆すべきは、f8のトリプレットは想像以上の優れた描写であったということだ。
明るいf2の方のレンズは高級レンズであるから、良く写って当然という認識がある。東大が郵趣な人材を育てるとか、松下政経が云々というのと、似た所がある。

この数ヶ月諸方面から、トリプレットの映りはどうですか?と聞かれたが「なかなか良く写ります」というのがあたしの「想定問答集」であった。

しかし言葉では言及できない所もあるので、ハノイヒルズから撮影した2本のレンズの比較がこれである。

もとより、500KB以下のデータでは比較のしようもないと言う向きおあろうが、我々はライカM9の画質すら、ウエブ上でああだこうだと言っているのだから、問題はなかろう。

以下に「作例」を示す。価値判断は諸氏の視神経とデバイス次第だ。

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2012年12月16日 (日)

ハノイに持参の瑞光レンズの陣容

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先月の「ハノイヒルズ」では、OM-Dに、トリプレットの三枚球だけでほとんど撮影したのであったが、考えて見れば、もともと小型軽量なのだからレンズは沢山持参しても、一向に行動には影響がないのだという事に気がついた。

それで今回の「ハノイヒルズ」ではこういう陣容になった。
短いレンズは12MMF2と28MM F8で、これがメーンレンズ。
十万円のレンズと5千円のレンズの映りの違いが気になる向きもあると思うので、それは明日の本ブログで紹介の予定。

本来、そういう比較テストは好きではないのだけど、「真実を明示」する義務がある。

ズームレンズは常用の12-50がメーンだ。それに望遠系として40-150MMズームである。このレンズが登場した時、記者会見にいたのであるが、オリンパスの偉い人が「このレンズは運動会で子供のクローズアップに最適」ということを言ってた。
たしかにそういう目的で買う、世の中のお父さんが多いかも知れないが、こういう玉は立派なドキュメンタリーレンズである。

まずこの四本でハノイヒルズの撮影には、何ら不足は感じていない。
一言付言すれば、撮影に出かける時に持参するレンズは「常に一本」であるということだ。

ズームレンズもできることなら、あまり画角を変えたくない。

レンズを選ぶということは「自分の視点を世界に向けて選択」することであるからだ。

★カメラはXZ-1

2012年12月15日 (土)

ハノイヒルズ

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ハノイヒルズとは、無論、六本木ヒルズの「もじり」である。

ハノイの街は完全にフラットであって、起伏というものがない。六本木ヒルズから徒歩で佃に戻る時など、それぞれの丘と谷をアップダウンして、そこに大都会の呼吸を感じたりしていた。

ここにはそれがない。ただし起伏がないからと言って、都市が呼吸をしていないということにはならない。

ここはハノイの旧市街のホアキム湖からちょっと西に言ったところの、下町のど真ん中である。

ここを「ハノイヒルズ」と命名した。

ワンルームの寝室ながら天井はかなり高いのがありがたい。しかも東京の佃はカメラがちらかっていて、室内を行く時にはカメラをまたいで行かねばならないが、ここは床がちゃんと見えている。カメラはデジカメが3台、フィルムカメラは1台しかないのは快適だ。

その部屋の角にデスクがあって、そこで仕事をしている。
この建物は天井が高いのと、織り上げ天井なので、最初はかなり古い建築ではないかと思ったが、冷静に観察するに普通の八階建ての建物で、いわゆる日本で言うところの「羊羹ビル」である。ワンフロアには2つのアパートになっている。

無論、フランス植民地時代のものと思われるが、70年代初頭のハノイ大空襲でよくやられなかったものと思う。

ベッドはかなり位置が高いので、そこだけなにかフランスはパリの五つ星ホテルのような錯覚を与える。

窓は西側と南側にあるだけでこのデスクのある方が、南側である。

一番大きな西側の窓は、クラシックなヒンジで上に上げるタイプのやつだ。日本橋人形町にあった戦前の中華料理店がやはりこの方式であった。フランスではあまり見ない窓の開け方だが、これもコロニアル様式なのであろうか。

ここ、ハノイヒルズから午前中に撮影に行き、ランチの後にちょっとシエスタして、午後にまた撮影に行く。撮影に行ったついでに自炊の材料を買ってくる。ここらは「断腸亭ごっこ」なのである。

それで夜に原稿書きをすれば良いのであるが、晩酌してそのまま寝てしまう。

まあそれもそれでいい。

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★カメラはXZ-1

2012年12月14日 (金)

ハノイで出会ったライカM9使い

M91

M9

ライカ人類は、ライカの持ち方と構え方で、黒帯か白帯か瞬時に分かるものである。

午前9時過ぎに、アパートメントから撮影に出かけて、ハノイ駅の近くの金物屋のずらりと並んだ鍋釜を撮影していたら、その手前に「外人さん」が居て、ライカでブテイックのマネキンを撮影している。

その人を見てから、ずっと先の金物屋を撮影して、もとのポイントに戻ったら、その外人さんはまだ、ライカでピントを合わせてマネキンに向かっている。

ああ、これは「初心者ライカさん」だなと思って、声をかけた。

これでカメラはM6だったりすると、サルガド風なので良い感じなのであるが、見せてもらったライカはこういうライカであった。

どっから来たの?と聞いたら、瑞西だというので、そこからドイツ語に切り替えて話をした。

今日がハノイの初日なんだけど、ここは空気が酷いねえ。という

それは欧州の瑞西の澄んだ空気の国から来たら、第一印象がこれではかなわない。

それでもここは街が活気あるし、これから経済的に発展しそうだし、、とあたしの話題はなんとなく、ベトナム贔屓になってしまうのも面白い。

瑞西ライカ人類さんは「これはズミルックス35mmなんだけど、かなり古いレンズなんだぜ」と言うのであるが、あたしからみた「古いズミスックス」というのは例の最初期の角付きもやつである。

ライカの世代間ギャップというやつか。

まあ、それはともかく、「ライカには人と人を結びつける不思議な力がある」ことを再認識したのであった。

★カメラはXZ-1

★追記
12/14は討ち入りの日であるが、うちの41回目の結婚記念日でもある。1971年のこの日に、東京は関口の東京カテドラルで結婚式。田村彰英さんとか、稲越功一さんが来てくれた。

2012年12月13日 (木)

北河内のジョブス

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先月、11月の北河内(ハノイと読む)で、中心街に我がジョブスも巨大な画像が掲示されていて、それがホーチミンと並ぶ迫力であったので、ライカのモノクロームで沢山撮影した。

さて、一ヶ月後に北河内に来てみたら、大通りには時節柄赤い横断幕が貼られていたので、ジョブスの肖像を背景にして、前景にこのように赤い横断幕を配すると、なにかそこに非常にプロパガンダ色が強烈に感じられるようになった。

先月の北河内の取材メモで「ジョブスはホーチミンとならぶ、いやそれを超える、現代のデイクテーターではないのか」とアイパッドに走り書きしたのであるが、なにかあたしのイメージしていた方向に12月の北河内は変身しているのが嬉しい。

ところで、今回、北河内に来た最大の「犯行の動機」は、12年前に見た「赤いサンタの帽子を旗竿の先に沢山つけて売り歩くベンダー」に再会することにある。

わがステーブには再会を果たしたが、サンタの某氏売りさんにはまだ再会を果たしていない。

★カメラはXZ-1

2012年12月12日 (水)

パワーサプライが命の綱

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北河内にて。

世界中どこでもネット環境で仕事をするのは問題がないのだが、一番怖いのは、ネットが「電気」で動いて居いるという一事である。

もう四半世紀前になるが、NASAのスペースシャトル内で使われる、カミソリがゼンマイ式でネジを巻くのがなかなかいいと思った。

それと同じように、デジカメのネジをまくと電力が蓄えられるのはアイデアと思ったけど、そういうのはまだ実現していない。

外国の電気の環境は以前だと、変圧器を持参したり、実に面蔵な次第であったが、最近では110Vと220Vは共用なので実に便利になった、

しかし世界中の異なる形状のコンセントからACを取るのはやはり面倒である。

先週、南河内に行った時に、これは要らないというので、外国で使うコンセントアダプターは他の場所に移動しておいた。

ところがその事実を忘れてしまったので、そのアダプターが発見できず、北河内に出かける直前にあわてて、アダプターを買いに走った。

結局、見失った筈のアダプターはちゃんと、袋にまとめて保管してあったのであるが、老人力を発揮してその事実を忘れてしまうのである。

これは困ったことだ。

それでも、今、到着したばかりの、北河内でこうしてアダプターの御世話になって、マックに電源を入れてこうしてブログを書いているわけである。

2012年12月11日 (火)

時のわすれもの、に到着するまで

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★本日異動日。成田ーーー河内(ハノイと読む)

土曜日の夜、メカス展のあった、ギャラリー「時のわすれもの」に着くまでの体験が面白かった。

もともとあたしは青山六本木は生活には無縁であって、この30年はもっぱらプラハが親しい。さらに最近、10年ぶりにハノイに興味を持って、これから河内に馴染もうという人間である。

10年来、ヒルズの49Fの仕事場に通ってきたが、メトロの駅からヒルズへのエントランスしか知らない。だから界わいにどのような店があるのかも分からない。

夜のこの界わいは真っ暗であることが、あたらしい発見であった。外苑西通りというのは、大昔からああいう感じで、都電がまだ東京を走っていた当時には、高樹町界わいは今の外苑西界わいの寂しさと似ていた。
ようするになにもない街並みで、古びた街区であった。

夜のこの界わいを歩行して吃驚したのは、イルミネーションのとんでもなく、不似合いな建物が路地の奧にあったりすることだ。

それがグランパレのイミテーションであったり、偽モンマルトルだったりで、一種の「テーマパーク」になっている。

しかしそれが愉快かと言うと逆であって、それぞれの建物の自己主張が強すぎて、バランスのとれていないこと、はなはだしい。

そういうイルミネーションを過ぎると、また「真の江戸の闇」になる。思うにこの界わいは荷風が江戸切り絵図で階回した当時とあまり変わっていない。

時のわすれもの、のある立体のビルが事前にGOOGLE ストリートビューで発見できなかったのは、そこが車が入れないような「奥の細道」であるからだ。

これが気に入ったが、ギャラリーへのアプローチが真っ暗である。足下を見るとなにか枕木が敷いてある。
足下に注意して歩いた。

★カメラはXZ-1

2012年12月10日 (月)

ベーム メカス ヨシマス

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南青山の「時のわすれもの」に行くつもりで、事前にGoogle street viewで何度見返しても、くだんのCUBEめく建物が発見できなかった。

その場所はGoogle carが入ってこれない路地の奧にあるのだ、
それがなにかハノイと共通点を感じた。路地裏とか小路の奥に真実は宿る。

メカス ヨシマスラインというのは、以前からあたしの気に掛かっていた点である。ヨシマスがアメリカのどっかのギャラリーで黙々と製作をしていると、メカスのカメラが接近して、ヨシマスに声をかける。詩人は答えない。

そこでメカスは「ああ、コンセントレートしてるのか、、、」とつぶやく。
たしかそんなショットであった。

詩人ヨシマスは佃に住んでおられる。

10年前の正月の2日に大雨があって、東の空に季節はずれの巨大な虹が出た。それを詩人はポラロイドSX70で撮影している。

あたしはすぐとなりのタワーに住んでいるので、詩人のカメラを構えた窓の位置まで分かった。
HC ブレッソンの、パリのリボリのマンションの位置を確かめたのと同じ手法であって、光景から位置を割り出した。

会場では主催者の方があたしを知っていて、詩人の前の席に案内してくださったが、現代日本を代表する詩人の眼前50センチはあまりにも恐れ多い。

御願いして、最後列に席をかえてもらった。

あたしのメカス熱は1973年に発病した。
当時住んでいたウイーンで、オーストリアフィルムミュージアムが10周年でメカス特集であった。映画の中で、会場のアルベルテイナ宮殿の階段の前のショットが揺れながら映って、会場に拍手が起こった。

映画のラストでそのそばのナッシュ市場の火事が登場する。メカスは「ウイーンが燃えている。ウイーンがもえている」とつぶやく。

「パリは萌えているか」、より切迫しているのだ。

もともと、ウイーンに留学を志望したメカスがああいう次第でマンハッタンに流れたのは実にラッキーなことであったと、今にして思う。

第三帝国のなごりのウイーンは欧州の周辺部の人間に冷たいのは、カールクラウスですらあの通りなのだから言うまでもない。

あたしの神様である、かの映画作家に会いたい、会いたいと10年来、念じていて、1983年の11月初めの金曜の夕方にマンハッタンはグリーンストリート路上で遭遇したのは奇跡だった。
ようするにあたしのメカスへの「十年の恋」が実ったわけだ。

「時のわすれもの」でのトークで、詩人ヨシマスが最初に映画作メカスに会ったのは、カーネギーホールの映画祭でのことで、その時、メカスの握手がやわらかでなにか相手に引き込まれるような感触であったと言及した。

その詩人の一言で、あたしは三十年以上前の映画作家と握手した時の感触を思いだし、さらに連鎖的に70年代のザルツブルグ音楽祭で、マエストロ ベームと握手した感覚も思い出した。

握手というのはあたしも自著のサイン会などで求められることがたまにあるが、人間の信頼関係の重要なベースになるであろう。
その正反対は選挙の白手袋の握手、あれはいやだな。

詩人ヨシマスのお姿は、佃リバーシテイ21郵便局などでその後姿を拝見していたし、写真集「めしいた黄金の庭」でも佃界隈のショットが登場する。さらに詩人のあの写真集の中には、プラハの中心部を横断する、路面電車22番が映っている。

今回のメカス展の最大の成果は最新のメカスの著書「ノート、対話。、映画」(せりか書房)の刊行である。最初の50部には、メカスのオートグラフがつくので、それを買いに行った。

ギャラリーを辞する時に詩人と握手した。
やはりメカスと同種類の「ソフトで奧に引かれる」ような握手感覚であった。

70年代にマエストロとザルツブルツでの握手
80年代に映画作家とマンハッタンでの握手
10年代に「時のわすれもの」で詩人と握手

これがあたしの人生での三大握手なのであろう。

★カメラはXZ-1

2012年12月 9日 (日)

大阪 京橋 南青山

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昨日の土曜は午前5時に天王寺で起きて、伊丹から羽田。佃に荷物を置いて、京橋のTIPで「旅とカメラ」のタイトルで一時間半のトーク。
満員御礼であった。

先月にハノイに持参のライカM3と、OM-Dそれに、GRD-4を持参して、撮影の実際とか、撮影と旅と移動し続けることの「哲学的な意味」を開設した。

真面目な話のつもりで、そこら、ここでらで、あたしの話を聞いて「爆笑」している皆さんがいるのであるが、あたしはお笑いをしているのではない。

カメラの話と谷の哲学的な講話のどこがおもしろいのかさっぱり分からない。

ともあれ、トークは大爆笑のうちに終了した。なかなか手応えがあり。ギャラも取っ払いではらってくれた。
またやろうと思う。

しかし繰り返すがあたしは「カメラ漫談」をしているつもりはない。おそらく参加者の皆さんがあたしの退屈な旅とカメラの話を、それぞれの皆さんの「高度なお笑いフィルター」で、それで笑いのエッセンスに変換しているのであろう。

大メーカーさんの新製品のプレスコンファレンスでもそうだが、機械モノの説明は退屈なものである。しかもパワーポイントで室内が暗くなると、みんな眠気を催すのがつねだ。

★カメラは突撃隊長のiPhoneで撮影。

2012年12月 8日 (土)

天王寺の花野商店

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三十年前は天王寺の動物園の界わいとか、ジャンジャン横町に「風情」を感じていたあたしである。

大阪芸大出講でなにが嬉しいかと言えば、天王寺界隈が「あたしの街」になったことだ。

もっとも1970年代の初頭にも広告の仕事(ダイハツの軽自動車の撮影)で、大阪には来たけど、天王寺はまるで「カスバ」のような「異境」に思えた。まず極東の「ダーバン」という感じがした。

それが齢還暦過ぎて、天王寺が「等身大」になったのが嬉しい。

裏天王寺の駄菓子屋のキャラバンサライの迷路を行った先に、花野商店はある。いや、屋号は今回、この金看板ではじめて知ったのである。

おかあさんと「若」が切り盛りしている立ち飲みであって、まずここでの肴は常連さんの会話である。あたしは吉本とかいうののいは興味がないが、ここの「エンタメ」にはリアルな会話の「シズル感覚」がある。

焼酎は「半分」というオーダーの仕方のあるのが懐かしかった。この注文のしかたは山谷の世界長酒場(今はコンビニになっている泪橋の角)でも、前世紀には言われていたが、(この史実にはなぎらさんと対談した時、彼も言っていた)もともと古典落語の「もう半分」に由来するのである。

こういうオーダーが出来るのは、都市文化のレベルが高等な証拠である。

それで短い、大阪滞在中に近鉄阿倍野駅に大阪芸大から戻ると、ホテルには行かずに天王寺駅の地下道(このパサージュが戦前のワルシャワである)を潜って、花野商店に行くわけである。

★カメラはGRD4

2012年12月 7日 (金)

251時間43分9秒5の河内滞在

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先月は十年ぶりにハノイに行ってきた。

滞在時間は上の通りであるが、これがやや不正確なのは、成田を離陸した直後にiPhoneのストップウオッチをオンにして、10日後に佃に帰還して、やれやれというので休憩した後にストップウオッチで計測していた事を思いだしたので、そこでプッシュしたのである。

しかしこの多忙な東京で250時間をなにかの為にあてるということはなかなか貴重なことなので、幸せな11月を過ごしたと言える。

帰国し翌日にすぐにまたハノイに行きたくなって、飛行機とアパートメントを手配した。世界に数多くの魅力的な都市はあるが、その中で10年ぶりに思いだしたのが「河内「(ハノイと読む)である。しかも人口六百万人。

せっかく河内に再訪するのであるから、これは「屋根裏プラハ」で、御世話になっている「新潮」でなにかエッセイを書けるのではという発想が出た。矢野編集長を校了明けの一番疲れておられる時にヒルズに来ていただいて、2時間弱の打ち合わせをさせてもらった。

それであまり短くないエッセイを書かせてもらえることになったけど、矢野さんに「ボツ」もありますよ、と警告された。だからボツにならないようにパワーいれて書くつもりである。

矢野編集長のお話では「屋根裏プラハ」に関しては「作家でもない人にエッセイを20回連載させたのは、異例」とのことであったが、こういうラッキーチャンスはあたしの人生の幸せである。でもそれで大きな仕事をやりとげた感触があると矢野編集長の感想であった。合格点かどうか知らないが、及第点をもらえたのは嬉しい。

それで大阪芸大から戻って週明けからまたまたハノイである。

まずOM~Dにスナップショット瑞光でまたハノイの「オンザロード」を撮影するとしよう。それと新潮のエッセイだな。

2012年12月 6日 (木)

Dズイコーという名前の超ブランド

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オリンパスのDズイコーは、日本の超有名ブランドレンズだった。カールツアイスのテッサーと並び証されたのはその実力の優れていた理由もあるが、戦後のまだ貧しかった日本では「価格と実力のバランスがとれていたこともある。

戦後には、各種のカメラに Dズイコーが採用された。その意味はオリンパスのカメラだけではなく、他のメーカーのカメラに使用されたという意味だ。

マミヤフレックスオートマットは、国産の最初の自動装填の二眼レフである。それまで赤窓式とか、スタートマーク式の二眼レフが主流であった中で、最初にフィルムをセットすれば、あとは巻き上げるだけで自動的に最初の一枚目がセットされるのである。

当時、ローライフレックスオートマットはこの機構を持っていたが、そのパテントに触れないような新基軸でなかなかのアイデであった。

これはマミヤがセコールレンズを出す前の話なのである。ちなみにセコールというのは「世田谷光機」に由来する。

このDズイコーはアイレスフレックスオートマットに装着されているレンズだ。クランク式の二眼レフであるが、普通には自社ブランドのコーラルというレンズが付いていた。

Dズイコー付きのアイレスフレックスはこれより高級なブランドだった。

他のメーカーのカメラに自社のレンズを付けるというのは、欧州のツアイスや、シュナイダー、さらにアメリカのエクターなど、ごく普通のことであるが、日本ではあまり多くはない。ただブロニカにニッコールを付けたり、マーシャルプレスにニッコールを付けたりという例もある。

アイレスフレックスオートマットには、ズイコー付きの他に、ニッコール付きもある。

2012年12月 5日 (水)

東池袋の名もなきコロッケ屋のメンチかつ

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かつて、東池袋の都電の荒川線の走るレールに平行している商店街があった。

あった、と書いたのは30年以前の話で、当時、この日ノ出町商店街は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
東京電力のテレビ広告で、その商店街の電柱を擬人化したテレビCMがあったのは大昔の話。「ぼくは三丁目の電柱です」というのである。

今は商店街は住居に建て替えられて、元気がない。商店街というのはこっちからあっちまでずっと商店だから活気があるのであって、一部が住居だと町の雰囲気はまた変わったものになってしまう。

その商店街の中程に「名もなきコロッケ店」はある。店に屋号がないという商店はよほど経営に自信を持っているのであろう。あたしの知る限りでは類似の店に「リスボンの見えないカメラ店」というのがある限りだ。

この「名もなきコロッケ屋」で最初に買いものをしたのは何時だったか失念しているが、あたしが日本に戻って1980年以降であることは間違いがない。それはあたしの歳になると、つい最近のことだが一般的に考えればすでに三十年以上前の話だ。

新川に自殺してしまった「画廊男」経営の「牛ラリー ノット イコール ギャラリー」があった頃だから五年以上前であるが、そこの常連のアーチストで「コロッケ評論家」を自他共に許すというような男が、ここのコロッケを画廊に持参した時に、一口喰って絶賛したのである。

しかも値段が五拾円。

これは何年も据え置きの五拾円だ。
リスボンの裏町で鱈の身の入ったコロッケを肴に、麦酒を飲んでいる時などに、突園に1万キロ東のコロッケを思い出すことがあるう。これはそういう種類のコロッケノスタルジーなのである。

他には一個八拾円のメンチカツがあって、これもあたしの知る昔からずっと八拾円である。
これを買って来て、堀切菖蒲園の立石バーガー製の「ごちそう食パン」のトーストで挟んだのが、このメンチカツサンドだ。

なかなか良い。

稲垣足穗は「酒の話は書いても食い物の話は書かない作家」で有名であったが、彼の膨大な著作の中でまだ馬込の衣巻のもとに居候していた当時、なにかの集まりで犀星に駅前のカフェでご馳走に鳴ったときに、「ハンバーグサンドイッチはうまかった」というただのワンフレーズがある。

サンドイッチというのにはそういう表現の用法があるのだなと気がついた。

そう言えば、この間の東京大周遊で都内某所のクラシックないわゆる「純喫茶」のモーニングサービスに、キューカンバーサンドイッチが出て、これも良かった。
英国人の発明した食い物の中ではかなりのものだと思う。

それでこのメンチカツサンドとキュウリサンドイッチの食い合わせは良さそうである。

★カメラはXZ-1

2012年12月 4日 (火)

OM~Dを持たない日

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今年の春、以来、ずーーーっとOM-D、あるいは昨年以来、ペペンペンを持ち歩いているわけであるが、デジカメにも時には休息が必要だ。

それで、佃の部屋で休息してもらって、手ぶらで出かけたのは、ハノイから戻った翌日、すなわち11月の末である。

向島を歩行していて、前から気になっていた「屋台」みたいなラーメン屋に入った。あたしは「アポなしら」でラーメン屋にはいって、ラーメンのYクラス(酢単ダート)を食べるという趣味がある。

この日はデジカメは持参しないという強い意志を持って、東京を徘徊していたが、このラーメン店は以前、知り合いのカメラ人類と話題になったので「現地レポート」をした。

ただ持参のiPhoneで撮影して画像を送ってだけのことなのだが、あたしのiPhoneはくせ者であって、気分が向かないとカメラを起動しないのである。
この日はたまたま機嫌がよかったので、写真を写すことができた。
すでに三年半愛用している、我がG3Sだけど、世間のスマートフォンも携帯も何時でもカメラが使えるようになっているらしい。

しかしそれはなにかつまらない。あたしはギャンブルはしない。ギャンブルというのは、生活に「ゆとり」のある人が戯れに行う「遊び」であって、あたしのような人間は生活がすでにギャンブル(フリーカメラマン四十三年目と読む)であるから人生で遊んでいるのである。

ところでデジカメの危険なライバルは言うまでもなく、スマートフォンだ。カメラメーカーさんは「競業他社」さんのライバルデジカメを競争相手にしているような所があるけど、これは「映像戦線の全景」を見ていないから危険な所業である。

スマートフォンに比べて、デジカメは通信ができないのが「一大長所」なのである。この「作例」もその意味では安易な「興味本位」の映像であって「ほらほら、この前、話題になってた、ラーメン屋さんだけど、こんな感じ」の域を
脱してないのである。

★カメラはiPhone G3

一部ブラウザで画像が転倒している場合があります。すみません。

2012年12月 3日 (月)

汐留カレッタのイタリア公園

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十年近く前に、汐留カレッタのマンションを見にきた。当時はすでに十年以上佃に住んで居た時点で「環境を変えてやろう」というももくろみがあった。
この画像の先に見えているタワーを検討したのだが、できたばかりで買いものをする場所もないという、家人の反対もあって見合わせた。

あたしの場合、タワーの南にある「イタリア庭園風の変な公園」がどうも趣味に合わないのが中止の原因だった。
車を持っていないから、出掛けるには北の侵害エリアか、南の浜松町に徒歩で行く必要があるのだが、最初、この公園を見て「イタリアの庭のパロデイ」なのかと感心していたら、どうもそうではなく「本物のイタリア庭園」として設計されたらしいので肝をつぶした。

本物を批判するパリデイには本物を批判する可能性があるが、本物のつもりで出来たものが偽物であった場合には悲劇である。

欧米にある「日本庭園」などが、これと同族なのであって、昨年だったか天皇陛下が英国を訪問された時にも、短い訪問スケジュールで「日本庭園」をご訪問というのがあって、お気の毒に思った。恐れ多いことながら、日本国の象徴に異国の日本ン庭園の「ダッシュ」をお見せするのは、これは陛下のご意志とも思われない。

汐留カレッタの「イタリア庭園」にイタリア人を伴ったことがないので、分からないが感想を聞きたいものだ。案外「これは日本の庭園なのか」と言うかも知れない。

この十年、佃からヒルズに通ったわけであるが、時間があるとヒルズから徒歩で佃まで戻った。いわば東京大周遊の基本である。
ただしコースが幾つかあって、この前のコースは麻布十番から、赤羽橋、芝パークホテルから大門、浜松町からカレッタ経由で銀座から築地というものだった。
この二時間弱の歩行で一番「クリミナル」な地域が浜松町から新幹線脇を通って、カレッタの中を南から北に通るコースだ。

コンラッド東京などもある、東京の「一等地」の筈が通行人は無人なのである。
なにかブルックリンの倉庫街を歩いている錯覚がもたらされた。

イタリア庭園とは趣が異なるが、新幹線が庭の前を通過する不思議な光景は、これは「典型的な日本庭園」なのであろう。

2012年12月 2日 (日)

ライカ原板の保存はどうすればよいか?

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「ライカ原板の保存はどうすればよいか?」
これは1039年のシュミット商会にパンフレットである。

冒頭に「標準型活動写真フィルムを用いてその二駒を一枚の絵とする世界最初のライカ判カメラ「ライカ」が生まれてから今日まですでに十幾年の最月が経過しました」とある。
六駒ずつに切ったネガを収納する、今のネガカバーと同じ方法がすでに採用されていたのも興味深い。

当時の価格は四二本用として定価六園八十銭で送料は二十銭であった。エルマー尽きのD2は当時五百園ほどであったから、ネガカバーの70本分がライカ一台というのはかなり高価であったに違いない。

当時のライツのカタログはすべてドイツで印刷されて輸入されたのであるが、このシュミットのカタログは国内で印刷されたものである。ドイツの印刷物は印刷年代と刷り部数が小さい文字で記されているが、これにはその印刷がない。

しかし、ペン字で下の方に39 Mayとある。これは四半世紀前に四国のお医者様からいただいたものである。あたしが持っているより、長徳さんがお持ちになった方が役にたつからというので、他のライカのカタログと一括していただいた。
まことにありがたいことだ。

思うにあたしの過去のライカのネガもこれと同一の規格だし、ランダムにアクセしたネガの内容が何であるか、すぐに肉眼で判断できる。それに比べるト、メモリは何が写っているのか沸かないのは不便だ。
しかもメモリはあまりにも小さいので、紛失のおそれがある。

どうもライカのフィルムシステムというはなかなかの大発明であると思う。

2012年12月 1日 (土)

新しい東京ステーションホテルのバーカメリアに行く

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改装なった東京ステーションホテルのバーカメリアに実に六年ぶりに行ってみた。

前回は大改装の行われる直前に二泊して、皇居方面の風景を部屋から眺めていたが、それも面白くないのでカメリアに行った。

ホテルの客ととしてバーで飲んでいて楽しいのは、中央線の終電に駆け込む乗客が酒の肴になることだ。

新装なったカメリアはバーの向きが中央郵便局を向いていた。ポストオフィスビューである。

駅のプラットホームと比較すると、どうも見劣りする。向かいの白い建物の壁を見ながら、割り切れない気持ちで麦酒を飲んだ。

ホテルにはオークというもうひとつのバーがあって、それぞれにお休みの日があった。ただし日にちはずらしてあるので、宿泊客が酒が飲めないという不便はないのだけど、ホテルのバーに休日があるという習慣が非常に不思議なので、欧州で外人さんと話をする時、特にそれがホテルのバーであったりする時には、この話題はうけた。

そのバーのお休みの日はなくなったと聞いて、逆にちょっと寂しい気分になった。

昔のカメリアはすぐ隣に寿司屋があって、注文すると「出前」をしてくれたもので、それが実に粋なサービスに思えた。カウンターで仕上げに食べる鮨はなかなかよいものであった。

でもそれで終わりになったわけではなくて、ホテルの部屋に戻ってまた呑んだ。

カメリアのカウンターの向かいのイケメンバーテンダーさんに「つかぬこと伺いますが、隣の寿司屋からの出前はいまでもやってるの」と聞いてみたら「そういうサービスはいたしておりません」とのことだった。

あたしにはプラハのアトリエとハノイのホテルがある。まず東京駅ホテルに宿泊することはあるまい。

★カメラは理光CX-2

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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