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2012年11月30日 (金)

ドリアンはお好きですか?

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ハノイの中央市場の周囲はおそるべきカオスであって、バイクと三輪車と人と鶏がまぜこぜになっている。

そういうカオスの中を終日さまよっていた。

ハノイの後半はそれまで使っていた、スナップショットスイコーはお休みにして、ズームで撮影した。12-50MMのズームはOM-Dの標準レンズである。本体につけるとカメラが小さいのでレンズは大柄に見えるが、レンズ本体だけ観察すればこれはこれで小形なレンズである。

初心者向けのスナップショットの講座のようなことを言うけれど、雑踏の中でいきなり、ドリアン売りのおばさんに出くわした。慌てて12MMの広角サイドでかろうしてワンカットだけ撮影ができた。

あとは後ろ姿しか撮影できない。木村伊衛兵さんは、けっしてスナップでは後を振り返ることはなかったという伝説があるが、我々どたばた写真家はそんなことは言っていられないから、あわてて後ろ姿を撮影する。

こういう場合、ズームだと追いすがる必要がないのは便利である。土門ケンの場合には被写体に追いすがってとことん撮影せよとリアリズム写真の全盛期には叱咤激励したそうだが、いかに現在が社主義体制のハノイとはいえ、それはやり過ぎであると思う。

ドリアン売りのおばさんの菅笠と天秤棒の後ろ姿になにか懐かしさを感じた。10日ほど経過して。あれは映画「裸の島」の乙羽信子であったのだと思いだした。

★カメラはOM-D 12-50MM

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2012年11月29日 (木)

ハノイ ガード下のドラマをOM-Dで撮る

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ハノイにはスナップショット瑞光や、OMアナログカメラ用の55mm f1,2だけではなく、ちゃんと現行レンズも持参した。

OM-Dの標準レンズの12-50mmである。このパワーズームは素晴らしいのだけど、それはムービーを撮影する時の道具としては最高なのだが、スチル写真には向かない。瞬時にレンズの長さを変換できないのである。

ハノイの駅の手前。あたしのホテルからは南に鉄道の高架線がある。秋葉原とは異なり、高架線と言っても下に商店があるのではなく、それは単なる土手である。

しかし一カ所だけトンネルになっていて、南にある巨大な市場との連絡をしている。狭い穴に一度に膨大な量の「豆」が通るようなものだから、このガード下は異常に混雑する。

荷物を持った人、天秤棒のおばさん、自転車、バイク、軽四輪が一気に通過するのであるが、そこには暗黙のルールがあって事故など起きない。

これはずっと眺めていてもあきない「都会の秩序」なのである。

こういうショットはやはりズームレンズが便利だ。レンズ交換などしている時間はない。

★カメラはOM-D 12-50MM

 

2012年11月28日 (水)

ダンカンさんのM3,あたしのM3

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ライカショップのペーターがやってる、ウエストリヒトオークションで、DDダンカンさんのライカM3D-2が邦貨1,5億で落札された。

同時に出ていた、キャパがまだ新米の時に持っていたライカD2は歴史的なカメラだからこっちの方が眼上がりするかと思ったら、あたしの予想は外れた。

ダンカンさんとは1971年の冬に新宿ニコンサロンで開催された「英雄なき戦争」の時に最初に会った。その時には出たばかりの写真集をレセプションの参加者にくばったのである。マジックでサインがしてあった。
当時はダンカンさんが「外人」に見えたのは、あたしはまだ欧米に出かける前であったせいだ。

二度目に会ったのは1980年代初頭で銀座の銀一で三木淳さんと一緒だった。三木さんがあたしを指して「こいつは長い間、ウイーンに棲んでたんだよ」というと、ダンカンさんはなかなかの発音で「グーテンターク!」と言った。
そして「おれはフランスに二十年住んでるけどまだボンジュールしか言えないんだぜ」と笑った。
この時のスナップショットは「東京ニコン日記」に掲載されている。

最後にダンカンさんを見たのは三木淳さんの葬儀が千日谷であった時だ。あれは何時のことだったかな。

ところでダンカンさんのM3-Dは四台ある。今回、カメラのオークションとしてはレコードハイになったくだんのM3-Dは四台のうちの2番目だ。これはブラックである。他のモデルで「英雄なき戦争」で彼がケサンの塹壕の中にいる写真で見ると、これはクロームのM3-Dである。他にはワイドラックスとクロームのニコンFで、それにはニッコール200mmがついていた。

有名写真家の使ったカメラが高嶺で落札は嬉しい反面、なにか複雑な気分だ。モノに値段がついてしまうことへの失望感というのであろうか。その分だけ「夢がしぼむ」のである。

このオークションには2点のダンカンさんのオリジナルプリントがついている。この画像は有名なものだが、撮影はニッコールの28mmである。

総額一億五千万の内訳を考える。予想価格の10倍のハンマープライスであった。ファインプリントの価値と考えれば、2点のプリントが1億で五千万が来ライカ代と考えたいが、サインを見ると撮影が1968でプリントは2009と読める。とてもそれほどの価値はない。
誰が買ったのかは詮索するところではないが、笑いのとまらないのはペーターである。数年前にライカ0モデルが1億で売れて、たしかNHKのニューズにもなった。

ペーターとのお付き合いは古い。10年以上前、ウイーンはウエストバーン通りの彼の住まいでしたたかに飲んでいた時、ペーターはぽつりと「実はおれ、写真家になりたかったんだよ」と漏らした一言を思い出す。
彼は世界の中古カメラのトップランナーになった。それはそれで素晴らしいことだ。

ペーターが「無名」時代の、ライカショップが今の場所でなく、西駅近くにあった当時に、彼から買ったライカとレンズがこれである。
この前、ハノイにも持参して沢山撮影をした。

しかし使い手が違うのと、その時間軸がずれると、ライカの価値もこれだけ異なるのは凄い。
あたしのはレンズともで、予想価格せいぜいが1000弗であろう。
具象工房のライカビット風アクセサリーは5弗というところだ。

2012年11月27日 (火)

充電器の諸問題

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国内の数日間の旅行なら、デジカメのバッテリーチャージャーは持参しない。

これは「経験則」なのであるが、まず旅先のホテルでバッテリーを充電した記憶 ない。不必要なモノは持参しない主義である。

もうひとつの理由は、あたしはデジカメのスイッチをこまめに消すほうだ。数年前はまだデジカメの省エネ化が進んでいなかったようで、サンクトペテルブルクに取材に行った時、同行のライターさんは数時間でコンパクトデジカメのバッテリーhがなくなるのである。
見ていると、常に電源をオンにしている。それでこまめに使わない時にはスイッチを切るようにご指導したが、なかなか習慣というものは、改めるのは難しいようでやはりすぐにバッテリーがきれてしまう。
それで持参の当時のモダンなコンパクトデジカメをお貸しした。彼の使っていたのはその前の前の世代のやつだったから「電池喰い」なのだ。

まだオリンパスのデジカメの黎明期で、単三バッテリーを使っていた当時(型番はすでに忘れてしまった)デジタルカメラマガジンの撮影で、メキシコのテイオテイワカンに行った。
当時のデジカメはすぐにバッテリーがなくなる。あたしの不注意でホテルからスペアのバッテリーを持参するのを忘れた。当時のデジカメは電池喰いであるからすぐに動かなくなった。

巨大な遺跡の中で、お土産売りの少年から単三電池を買った。かなり割高なのであるが、背に腹は替えられない。その後に気がついたのだが、その少年はなんとなく遺跡を撮影する、あたしの後をついてくるようなのである。
タイミング悪く(というか、良く)またバッテリーがきれたので、その少年から買った。

当時の電気喰いのデジカメから比較すると、今のデジカメは実によく電池が持つ。まるで電気で動いていないのではないかと思うほどだ。

この前のハノイ行では、XZ-1を持参した。これはバッテリーが他のデジカメ(例えばリコーRXシリーズ)と互換性がある。いつも整理が悪いので、出発間際にバッテリーチャージャーがどこかに行ってしまい、大慌てになる。それで最初に発見した、リコーのチャージャーを持参した。まあ、充電は一度もしなかったが。

OM-Dの方はメーンカメラであるから、チャージャーを持参したが、やはり節電の習慣がついているので、一回もチャージはしなかった。
三年半前に初代のペンを持ってリスボンに撮影に行った当時は、午前の撮影ですでにバッテリーが空になった。
実際にはどうなのか分からないが、最近のデジカメはかなり省エネになっているようだ。

問題なのは、ペペンペンとOM-Dとはバッテリーの互換性がない。というか、チャージャーには互換性がない。OM-Dのバッテリーの端子は5つある。ペペンペンの方は四つである。
だから間違って、ペン用のチャージャーを持参しないように注意した。

ひとつのマルチプルなチャージャーを一気持参すれば、手持ちのデジカメのバッテリーは全部それで使えるという便利な機器はないものであろうか。

2012年11月26日 (月)

URiPhoneを愛でる

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三年半の型落ちのiPhoneのOSをios 601にした。購入以来、ずっと古いいまま使っていたのである。
最新型のiPhone5を周囲に持っている人間がいて、新しいOSが遅いとかなんとか文句を言っているが、あたしは満足である。
ライカで言えば、1925年製のライカ1型みたいな存在が最初のiPhoneである。いや、UR Laicaのようだと言っても良い。

亡くなったジョブスファンのあたしとしては、彼の語録の中の最大の影響のフレーズは「iPhone4はクラシックライカのように美しい」という有名なフレーズであった。
iPhone5の場合には、その長さが伸びたので、なにかライカM5のように見える。あのライカは画期的ではあったが、それまでのライカファンはその全長が長くなったの不満であった。それと同じように現状では、iPhone5の長いのはどうもいただけない。

あたしの初代のiPhoneはその意味で、UR iPhoneと命名しよう。

佃のカメラジャングルから、そのUR iPhoneの箱が出土した。手に入れた時にはその箱にしびれたのである。だいたい、アップルの製品はコスト削減の為に(というか最近の電子機器はみなそうだけど)パッケージは最低限しかコストをかけない。それが初代のiPhone(最近のiPhone5のパッケージは知らないが)は、箱そのものがアートしているのが良い。

左が箱のイラストで、右が本物である。

★カメラはXZ-1

2012年11月25日 (日)

ハノイの靴

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何時も歩行している靴は重要であり、東京大周遊の要である。北海道の札幌でいつもの靴をABCマートで買って、それまで履いていたのを捨ててもらう。

同じ靴は数足もっているので、今回のハノイではそういうことをやろうと思って出掛けたら、見方が甘かった。

大きな市場でもあたしの探しているのはない。外国製品を扱っている、ギャレリアというモダンなお店にもいったが、半分近くが閉店している。

カフェで休んでいると、靴磨きの青年がきて「その靴を磨かせてくれ」というのである。あたしはもう捨てるつもりの靴だが、周囲のお客の靴と比較するに、新品とは言えないけど、まだかなり履けるような気持ちになった。

路上の靴屋さんは、こんなに真っ二つのをナイロンの糸でかがろうとしている。

モノを大事にする国なのだ。

★カメラはOM-D  12-50mm

2012年11月24日 (土)

渡部さとる写真集「da.gasita」

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渡部さとる写真集「da.gasita」がいい。

佃の住まいには写真集は置かないきまりなので、フランクもクラインもスデクも、エスルケンも写真集は別の所に置いてある。しかもすぐに取り出せない場所なのであるが、その方が都合が良い。

その理由について考えるに、若い時代にはそういう先達の仕事を見るのは有効であったかも知れないが、最近では自分の「表現」に手一杯であって、今更という感じがする。

これとはちょっと意味が異なるが、大・谷崎がかなり年齢が行ってから「自分はもうこれ以上の人間関係は拡げたくはない」という意味のことを書いているのを面白いと思った。

思うに老人は残り時間がないのだから、やはり一番自分の内部に入って行きたいということなのであろう。

恋愛は他者の中に潜り込むものだが、芸術は自分の中に潜り込むものだ、とフランスの偉い人も言ってたな。

渡部さとる写真集「da.gasita」はあたしの中の例外であって、寝室のベッドの脇の床に積まれたアリフレックスのアルミトランクケースの上に置いてある。

いつまでここに置かれているか、それは分からないが、すでに60日以上そこに置かれている。それでハノイ帰りに真っ赤なベトナムの国旗みたいな写真集を開く。

一通り見てから真っ赤なカバーを外してみると、本体の表紙は白である。「da.gasita」のタイトルが型押しエンボスの銀文字であったら、もっと良かったのにと思う。

あたしの「Wien Monochrome 70s」が実は銀文字のエンボスなのだ。

見開きの片面だけの写真というも良い。昔のApertureみたいだな。

画像はちょっと大きいのが残念だ。マージンが少ないのである。もう1インチくらい小さければ、もっと写真に集中できたのではと思う。

現代の写真集の印刷技術の最高の水準である。この前、冬青に行った時、たまたま高橋国博さんがおられたので、話題はもっぱら写真集の印刷機、凸版のクラシックな印刷機の話になった。
あたしはハイデルベルクスピードマスターファンなのでその方面とか、伝説の「凸版平2」(凸版印刷平版第二部)の話題にもなった。

高橋社長は「da.gasita」を開いて、そのオリジナルの版下となった作品の前に展示して見せた。高橋社長の言われるように、どうも階調はオリジナルより印刷物の方が「ややトーンが伸びているよう」なのである。

うしろでさとる師匠が、「それ、、やばいなあ、、」という意味のことを言っていたが、この数年のデジタルプリントの質の向上だって「ゼラチンシルバープリント」を超えている。

しかしここが大事なのであるが、あたしはそれだから逆に銀塩のプリントが良いと思うようになった。
この前後の複雑な消息は日本カメラのあたしの連載で書いたし「ギャラリーバウハウス」でのユージンスミスのゼラチンシルバープリント展示の時にもその件で小瀧さんと突っ込んだ話になった。

一昨日のアサヒカメラの来年の連載打ち合わせでも、担当編集の人とその話で盛り上がった。

これは誤解をうける話なので、おいそれとブログで書くことは控えておこう。

ともあれ「da,gasita」は手元に置きたい一冊の写真集である。

http://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4887731353

2012年11月23日 (金)

OM-Dに戦前のFED28mmでこんなに写る

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この前、ハノイに行った時には戦前のFEDの28mmを持参した。このレンズは1935年頃の玉で、残存している数はきわめて少ない。

しかし人気のない玉なので、中古価格は高くなかった。それがこの数年の間に、このレンズの「産地」である。ロシアではその価値に気がついたのかいきなり高価になった。

昨年の10月にプラハでモノクローム(フィルムはADOX)を、ライカM5に装填して10数本の撮影をした。その作品はこの2月に京橋のアイランドギャラリーで個展をしたのである。

撮影はすべてFED28mmだったが、数枚だけ田中光学のTANNAR 50mmf1,5で撮影した。このレンズも数が少ない。

実はFED28mmは3本持っている。その中でまともに写るのは、一番最近に手にいれた一本である。他の二本は中が曇っている。

そのうちの最初の1本は13年ほど前に、これはもう今はない、荻窪環8沿いのソ連製カメラ専門店「プリズム」で買った。安価なのは曇っているのがその理由でそれを承知で買ったのである。

二本目はやはり同じ時期に、ebayで買った。これはなかなか歴史的なレンズであって、FEDのカメラとレンズのセットであったが、カメラ本体の底蓋に、綺麗な露西亜語が刻印してある。露西亜語の分かる人に訳してもらったら、そのカメラのセットは1940年代にロシアの将校から、アメリカ連合軍の将校に贈られたカメラであった。

面白いのは、そのカメラのケースの中に、そのアメリカの将校が自分で紙片に、万年筆で書いた文字には、本人の名前とGHQ Tokyoの文字と電話番号が読めた。

GHQと言えば、マッカーサしか知らないが、これでもうひとり、知り合いが出来たわけである。

くだんのレンズも曇っていたので、そのまま保管していた。

それが最近になって、階本友達の某氏の書き込みで、最近、高価であったそのFED28mmを手に、安価に手に入れたが、曇っていたので分解掃除しようとしたが、レンズのブロックが外れないというのがあった。

どうなるかと、注目していたら、某氏のカメラ分解の専門家のアドバイスによって、「アセトン」で溶解してレンズのバレルが外せたという。

それでその某氏にあつかましく御願いして、あたしの二本目の「歴史的レンズ」を分解していただいた。

ハノイから戻ったら、レンズが戻っていた。

さっそくOM-Dにつけてテストしたら、写りはご覧の通りである。

もううれしくてたまらない。これは真面目に「顔本」で「FEDレンズ愛好会」を結成せねばなるまい。

★カメラはOM-D  レンズはFED28mm f4,5

以下の作例は三本あるレンズの中の一番最近に手にいれたので撮影。

カメラはライカM5 ADOX フィルム

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2012年11月22日 (木)

ご案内12/8 土曜日「旅とカメラ」トークショー

12/8 土曜午後3時から、東京京橋のTIPでトークをやります。
テーマは「旅とカメラ」。
ペンペンチョートクカメラ日記11,111,111頁ビュー記念でもあります。
お申し込みはこちらから。
http://tip.or.jp/phototalk17.html

★おかげさまで満席となりました。どうもありがとうございます!
 

瑞光55mm f1,2をSDメモリの受け皿にする「贅沢」

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ハノイに持参した「隠し玉」のズイコー55mmf1,2は大活躍した。
これは市販された、ズイコーブランドの撮影レンズの中で「最速」の鏡玉である。

このレンズをOM-Dに付けた時の感激というのは、かなりなものだ。それはミラー式のデジタル一眼レフで、投宿したハノイのホテルの窓からカメラを覗くなら、真っ暗でファインダーにはなにも見えないけど、ミラーレスカメラなら、闇の中を行く、バイクの人がちゃんと見えるからだ。

すでにミラーが往復する形式のデジタルカメラは過去の存在になったことを実感したのは、今回の「ハノイの闇」の経験であった。

ところで持参のメモリはこのようなクラシックタイプなのであるが、ホテルの部屋で仕事中に、大事なメモリが紛失してこまった。
ちゃんとしたロケ先などでは、その場で2台のPowerBookに分散させて記録することにしている。
今回は仕事というわけではないが。画像の重要さには変わりがない。

持参の荷物からポケットまで全部三回も調べて、SDメモリが発見できないのであきらめた最後の瞬間に眼前の電気スタンドをなにげに持ち上げたら、そこに紛失したメモリがあった。

それで作業中に紛失しないように、ズイコー55mmf1,2の上に必ず置くことにした。これは象徴的な意味合いもある。

2012年11月21日 (水)

OM-Dにフェドレンズ

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OM−Dワークショップ(えい出版)の中には、各種レンズをアダプターで使うという一章がある。

サードパーテイのレンズを使う為には、バックフォーカスが短い必要があるので、マイクロ4/3は恰好である。

ただし勘違いしては困るのは、レンズアダプターで他社のレンズを使うとは「方便」であることだ。やはり純正レンズを使うのが「王道」なのである。

その基本理念を理解した上で、各種の「サードパーテイレンズ」で遊ぶわけだ。

OM-Dワークショップの中の人気投票で高位だったのは、戦前のソ連製のFED28mmによる作例だった。「戦前のレンズがこんなに写るのか!」というわけである。
これには画像補整という、フィルム時代には不可能であった裏技があることは言うまでもない。ようするにかなりコントラストに低いレンズでも補正して、モダンな描写になる。

しかし、戦前のレンズで遊ぶというのは、どうもそういう描写よりも、OM-Dとレンズのコンビネーションがいかにかっこよく見えるかという点にあるようだ。

こうして、FEDのレンズを三本並べてみると、今のモダンレンズにはない、不思議な感覚というか空気がそこに漂う。

この3本はいずれもちゃんと写るレンズだ。

★撮影はXZ-1

2012年11月20日 (火)

偽ライカ愛好会の大撮影会で「未知の目黒」を歩く

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ハノイから戻った翌日の日曜が、偽ライカ愛好会の大撮影会であった。

集合ポイントは、学芸大学の改札である。

浅田恵理子の学大時代には、この界わいで良く飲んだ。駅の南の角を入った右側がペットショップでその先の小路の左右はずっと、焼き鳥屋なのである。目黒区界隈でこれだけ焼き鶏屋が集合している場所はちょっと例がないと思う。

普段なら、さんぽーカメラに行くのが定番であるが、この日は監事の浪速のおっさんことビクトリーさんが計画してくれたので、東京で最古の木造の寺院(名前を失念)とか、有名人が結婚式をあげた、目黒教会などを案内してもらった。

面白かった。ハノイの観光はすでに何度もしているが、この目黒はあたしには未知の領域なのである。

その目黒教会というのは、ファサードはこの前、南河内のどっかの小さい駅の駅前に見た、フランスケーキ屋みたいなシンプルさなのであるが、内部は立派なステンドグラスがあって、ちょっとやそっとの教会内部には驚かないあたしをして、吃驚させるレベルの高さなので、これが大発見だった。

それから夕日のだらだら坂を登って「すすめのお宿公園」とか言うのに行った。古民家があってそれが午後3時半に閉館で、ちょうどその時間だったのであまりゆっくり見ることが出来なかったけど、孟宗竹の生い茂った閑静な環境であった。

それを「飲み屋のチエーン店」みたいなへんてこな名前にしてしまったのは勿体ない。

それから一行は目黒通りは都立大前近くの「なにわのおっさんの店」に行った。ここは屋号が田中というのも変だけど、「ソース二度付け禁止罰金千円」の店である。

まあ、そういうルールは東えびす向きであって、じゃんじゃん横丁では、ソース二度付けしている、おっさんのおるわけもない。

二度付け禁止っていうのは「串カツや」の呼び込み看板みたいなものだ。

この店が不思議なのは、幼児を連れて行くと「たこ焼き」をオーダーできる特権があることだ。これは実に不思議な商業ルールである。

それで幹事役のなにわのおっさんのジュニアが、「幼児役」で特別出演となった。

あたしはハノイ帰りなので、偽ライカ愛好会の旗が、ベトナムの旗に似ているのでそれを隊旗として、乳母車の脇に付けた。

黒塗りのリムジンに大使館の旗という存在感だ。

ついでに突撃隊長が、赤いマフラーをジュニアの首に巻いたので、さらに「思想が正しい一行」となった。

あたしはフィルムカメラは持参したが、出がけにOM-Dを忘れたので、これは会員のマリアンさんの撮影による。

2012年11月19日 (月)

古いTIMEXは老河内に似合う

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ハノイには、瑞西製の機械式のクロノメーターを持参したが、その他にデイパックのハンドルにタイメックスを巻いて行くのは何時ものことだ。

現代の生活で、恐らく一番必要のないのは腕時計であろう。ジュネーブサロンとバーゼルのメッセに行って痛感したのは、「人間は実用的ではないモノを消費の対象にしたがる」という事実だった。

これは真実と言い直しても良い。

四十年前に機械式時計から市場がクオルツになって、スイスの時計産業は激変したが、その後にまた機械式時計は「消費の対象」として見事に復活してきた。

現在のデジカメの時代に、またフィルムカメラが同じような復活をするとは思えない。むしろフィルムカメラは一部の人間の高等な趣味として継続して欲しい。

機械式時計は好きであるが、異なる時差の中を終始移動する旅には、シンプルなクオルツノ腕時計がいい。

これは十年近く使っている、タイメックスだ。今年始めにプラハでバッテリーがいれた。それで旧市街の小さな時計店でバッテリー交換をした。これでまたずっと使えると思うとなにか嬉しくなる。

時間を知るには、iPhoneで充分過ぎるのであるが、タイメックスでホテルの深夜にリューズを押して、ほのかな電光で時間を知るのは楽しい。

2012年11月18日 (日)

ハノイ ギヤラクシーホテル

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12年前、広州からベトナム航空で到着したハノイで、最初に投宿したのが、ハノイヒルトンオペラだった。

ハノイオペラ座の脇にある、へんてこに曲がった高級ホテルである。

そこの最上階のエクデクテイブフロアとかいう、客が専用のキーカードを差し込まないとあがれないフロアに泊まって不便であった。

そこに数日居て、そこから中古のハイエースで、千キロの南のHueを目指したわけだが、五つ★ホテルはどうも、世の中が見えないので面白くない。

まあ、高級ホテルは「世の中を見ない」為に泊まるのであろう。

その前後、サイゴンでは、開高さんの宿泊したホテルに泊まりたかったが「手違い」にて、クリントン大統領の宿泊したホテルになってしまった。

ハノイの北の交通激しい広場に経つ、ギャラクシーホテルは、取材の時に何度もその前を通った。この三つ星ホテルはなかなか良さそうに見えた。

それでその次回のハノイでは、そこを予約した。現地でアテンドをしてくれたハノイの新人類のソンさんがチエックアウトの時に、ドンの札束を持参したのでかなり吃驚した。これは10年前のことで当時は高額紙幣がまだ無かったのだ。

ホテルの四階の真ん中の部屋にはバルコニーがついている。407号室だ。あたしは「窓からの眺め」には五月蠅いほうである。
ここは実際にバイクが一日に百万台は通過するから「名実ともに」あたしの嗜好に合っている。

以前は北西の角部屋の広いのに宿泊していたが、それが無意味だと気がついて、今回は普通の狭い部屋にした。これで一泊が40ドルくらい。

もっとも下町のホステルだと2ドルくらいのドミトリーがあるが、そういう場所は還暦すぎのじじいが泊まるとこではない。

ギャラクシーホテルは今年で一世紀である。昔の建物は基本はしっかりしているし、天井も高い。

2012年11月17日 (土)

ハノイ ホテルの北

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東京着。

土曜日だな。雨だな。

ハノイは毎日、曇りか雨だったので、ハノイっぽいのが好きな天気だ。

さて、OM-Dで10年ぶりのハノイ撮影であったが、スナップにはもっぱら、スナップショット瑞光15mmf8を使用。

ライカM3と二台を首から提げると、なにか六十年代のベトナム戦争の従軍カメラマンである。

ただしこれは南ベトナム軍の従軍カメラマンであって、北の報道写真家はエキザクタとかエクサのような、東欧のカメラを使用していたのは、言うまでもない。

ホテルの北側にもハノイでもっとも古い街区が広がっている。

散策していて、いいなと思うのは、植物と建物が協調関係にあることだ。さらにコロニアルスタイルの建物が古びているのも良い。

1985年であったか、ウイーンから東京にシンガポール経由で戻った時に、星州で一泊した。その時、このコロニアル様式の美に気がついた。

その翌年だったか、当時まだ駆け出しで暇で仕方なかった、写真評論家になる前の、飯沢耕太郎を同行して取材に行った。

コロニアル様式の美学は「それが本物ではない」という点にある。
本物を真似ていてその手前で止めているので、変な本物指向がそこに増強されるのである。

スナップショット瑞光は、朝の暗い時間帯には明るさ(というより暗さ)がf8なのえ手ブレの心配がある。その一点をのぞけば優秀なスナップレンズだ。

大体、リスボンもそうであるが、「犬が横倒し」になっている町は、閑静なのである。たしかにハノイの幹線道路はバイクのラッシュだけど、こういう湖畔は実に静かだ。

★カメラはOM-D レンズはスナップショット瑞光15mm

2012年11月16日 (金)

ハノイスタイル

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★本日異動日 ハノイ 東京

あたしの「ハノイノスタルジー」は、ハノイの男性が例のグリーンのヘルメットに、緑色(その色彩はなんとも表現しがたい)の軍服のシャツ姿で、理想的にはこういうすでに色も不明な自転車に乗っている姿である。

これを仮にあたしの「ハノイスタイル」と呼んでおこう。

このハノイスタイルは10年前にはここで良く見られたものだったが、最近ではその数は激減している。このグリーンのヘルメットも幹線通りで売っていた。最近では中心部のツーリスト向けのショップに数個並んでいるだけなのは寂しい。

あたしのホテルの部屋はハノイでもっとも交通量の多い交差点に面しているのである。そこで毎日、数時間観察してようたく理想のハノイスタイルの男性を発見した。

このノスタルジーの根源をたどってもると、あたしの幼少時に父が戦時下に強制されて着ていた「国民服」とも重なってくる。これは軍服めいたカーキ色の上着なであった。

ただし「ハノイスタイル」が祖国戦争の北ベトナムの兵士であったことは時代スケールが合わなくなっている。

12年前にあたしを載せて、ハノイからテト攻勢の激戦地の古都ユエまで古いハイエースで1000キロを走行してくれた、ドライバーのソンさんは元北ベトナム砲兵隊の少年兵であったが、今ならもうすぐ還暦の筈だ。

思うに軍服っぽい服装を日常に着ることは、あたしのスタイルでもあって、若い当時はアメリカ軍の明細服だったし、シテイカモのジャケットは今でも来ている。

今回、ハノイに持参した10年前の写真集「ベトナムデジタル紀行」には10年前の「著者近影」が掲載されているが、それを見たら、まったく同じスタイルをしていた。

ただ中身が十歳古くなったのみである。

2012年11月15日 (木)

北爆の橋を渡って左岸に行く

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フォン河を渡って、左岸に行こうと思った。

パリでもあたしはもっぱら左岸贔屓である。ハノイはこの大河の右岸にあるのだ。

12年前に取材の時は、車でこの橋よりひとつ川下の橋を何度も往復した。これは新しく出来た橋で車とバイク専用だ。人間は歩けない。

あたしのような徒歩の人間は、従来からの橋を渡る必要がある。橋は列車とイクと自転車専用だ。それも二車線しかない。人間さまは橋のはしっこの一段高い所のコンクリの板がずっと並んでいる所を歩行する。

間から下の水面が見えるのが、スリルがある。

こっちからあっちまで、まず距離は2キロ弱というところだ。橋のなかほどが、広くなっていて、そこで物売りのおばさんが野菜やトウモロコシの焼いたのをいっている。

対岸についた。そこは町ではなく、村(この場合、そん、と読む)である。田舎道は建物が建っているのは「一並び」のみでその北側は田園である。

偽ライカ開放戦線が村を一時的に「制圧」した格好になった。村人は皆さん「思想が正しい」のでこれはあたしがここを占拠するまでもないと思って、また対岸に戻った。

北爆の時にはこの橋は酷い攻撃をうけた。その残骸が河のなかほどに残っている。そのことを知っている若者も今は三十半ばというわけだ。

橋を往復したが、歩行者はあたし一人だった。行き帰りにベトナム国鉄のデーゼル車が轟音を響かせながら通過した。

★カメラはGRD4

2012年11月14日 (水)

ハノイのライカM3に瑞光55/1.2は目測で撮影する

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ハノイは大観光地であるから、そこらここらでツーリストに出くわす。そのほとんどは欧米人であるから、なにか「ハノイヒルトン」(ハノイの捕虜収容所のニックネーム)から釈放された人みたいに見える。

彼らがガイドブックを手に道にまよっているのはなかなかほほえましい。

その彼らが使っているのは100㌫デジカメであることは言うまでもない。その中であたしはハノイでただ一人、フィルムライカを使っている「時代錯誤者」である。

無論、時代に遅れてはいけないので、ライカM3には往年のキャパや一ノ瀬の真似をしてトライX(実際にはキャパは映画用のダブルX)で、撮影し、デジカメはその日のローテーションに応じて、OM−D、XZ-1そして、GRD-4をシフト制で持ち出している。小型軽量なのが有り難い。

フルサイズのデジカメだと重くなる。そのかわりあたしは「フルサイズのアナログ」で武装しているわけだ。

カメラは GRD二周年記念時の、プロモーション用の黒いトートバッグに入れる。これに撮影済みフィルムから、市場で買った、ウオッカから新鮮な鶏の肉から、トマトまで何でも放り込む。その話は20日に発売のえい出版のデジカメ雑誌[f5.6]に登場します。

高千穂社でもOM-Dかペンペンブランドのトートバッグを造ってくれないかな。

OM-Dにアダプターを付けて、高速レンズとして使っているが、変換アダプターがOMマウントライカマウントなので、そのままライカM3にも使えることを「発見」した。いえ、別に発見というわけでもないが。

日本のレンズグルメは高価な代価を払って、すぐにこういうレンズを距離計連動に改造したがるものであるが、あれは危険であって、距離計連動に改造されると「さあ、準備はととのった!後は撮るだけだ、、、」というのであるが、結局は1本のフィルムを「試写」(この言葉が大嫌い)してあとはオクラ入りになってしまうケースが多い。

50粍の標準レンズはブレッソンも木村名人でもそうだけど、あれは目測で撮影するのが正しい方法論だ。無限と10メーター、そして2,5メーターの目測などは誰でも可能なはずだ。

それが出来ないカメラ人類は「距離測定能力」が劣っているのだから、訓練した方が良い。

★カメラはXZ-1

2012年11月13日 (火)

ハノイのカフェ

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外国に行く時には、折り畳み傘を持って行かない。それで現地に行って、雨が降って苦労する。

昨年の春のマンハッタンでもチョーセイさんと、ユニオンスクエアで待ち合わせた午前11時に雨が降り出した。
マンハッタンは雨が降り出すと、どっかから「傘売り」が登場する。チョーセイさんはマンハッタン在住何十年の古強者だからいつも傘迂路の登場する場所をちゃんと知って居る。

30年前には1ドルで買えたのが、今は3ドルから5ドルするのは仕方ない。

ハノイで急な雨に降られてはこまるので日本から折り畳み傘を持参した。
しかし皮肉なもので、用意していると降らない。たまたま傘を持っていない時に降るのがハノイの雨の流儀である。

短いスコールであるが、濡れるのは嫌なので、そこらのカフェに飛び込む。雨宿りで客がいっぱいだ。

一番奥の壁際に高さが20センチほどの、バスルームの洗い場で使うような椅子に座る。この高さ、というよりこの低さは世界のカフェの中で、ギネスブックだな。

カフェにはWIFIがあるので、ウエイトレスさんにパスを聞いて、日本のニューズなど見ているうちに、雨は小降りになる。

周囲の若い連中はスマートフォンを使っている。
スタバがハノイにないのが有り難いが、ここは「ハノイノマド」が集まる、スタバ的なお洒落カフェ(と、勝手な解釈)なのか。

男の子が、そのカフェにバイクで女の子を迎えに来る。こういうシーンは古いパリの映画にあったのを思いだした。

こっちの座り位置が低いのと、ミニスカートの女の子のプロポーションの良いのとが相乗効果で、非常な美人に見えた。
ピンクのレインコートを着て、出発寸前のショットがこれ。実はメーンのカットはライカM3でしっかり撮影してある。これはその後のショットだ。

カフェで通りの人間を観察するのは、もっぱらパリと変わらない。
もともと、宗主国がフランスであったからまず当然だな。

12年前にハノイ取材の手伝いをしてくれた、ハノイ人のソンさんは1976年、つまりベトナムのベビーブーマーだけど、彼もすでに三十台後半だ。言うまでもなく、このカフェでホーチミンみたいな髭を生やしているじじいは、あたしだけで最年長間違いなし。
しかしこの国は年長者を敬う美風があるそうだから、こういうカフェでも安心していられる。

★カメラはGRD4

2012年11月12日 (月)

HONDAの運べる荷物のサイズ

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10年前のハノイでは、ノーヘルメットで家族の3人のり、はたまた四人乗り、さらに五人乗りの軽業を見て、感心した。

10年前の写真集「ベトナムデジタル紀行」は当時の最新型のデジカメ(理光RR30」で撮った本だが、タイトルに「デジタル紀行」とふっているのも懐かしい。

当時の今から比較すれば、遅いデジカメでよくこれだけ撮影できたと思う。その中で、今回と同じホテルの前に頑張って、バイクに乗る人々を膨大に撮影した。(下の画像参照)

このホテルの位置は、ハノイ旧市街からフォン川を越える橋の東側にあるので、それはそれは交通が激しい。

ホテルからすぐ東に行くと、巨大な市場がある。ここでホンダのカブに積載量を遙かに超えた荷物を積んだ男性があやつるバイクは、なかなかのアトラクションである。

ちゃんと「車幅」を確認して走っている、プロ中のプロである。

バイクがハノイの動力の原点だ。

★カメラはXZ-1

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2012年11月11日 (日)

ハノイ 干しエビを買う

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1976年にウイーンから一時帰国した時は、まだ羽田空港であった。海老取り川のそばがまだ空港の時代だ。

機内からタラップを降りたら、乾物のにおいがした。ああ、極東だなあと思った。音羽の家の近くに関根商店という、古い乾物屋があった。その前を毎日往復したので海産物の干物のにおいには慣れている。

香港島の乾物屋街で、あれは「ハムイー」と言ったか、かなりのにおいのきつい干し魚がある。あれも嫌いではない。あそこの干物屋街では、牡蠣の燻製を串刺しにしたのもよく買った。ホテルでの酒のつまみにいい。

香港島の北を撮影に行って、感心したのは、海岸がすべて牡蠣の貝殻で出来ている海岸線である。人間の食欲の構築した海岸だ。

向こうには「中共」が青く霞んでみえた。

ハノイではホテルのとなりに大きな市場があって、そこで干しエビとかするめを売っている。それで酒の肴には苦労しない。

二分の一キロの小エビの干物は膨大な量である。とても滞在中には食い尽くせない。

★カメラはXZ-1

2012年11月10日 (土)

河内 ホテルのご近所

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十年ぶりのハノイであるが、10年前と同じにホアキム湖からずっと北に行った、旧市街の一番北の、ギャラクシーホテルに泊まっている。

一泊が40ドルほどだからハノイの人の週給ほどであろうが、我々、西側帝国主義者にとっては、東京に居るよりも安上がりである。

ここは12年前、ハノイ大取材をした時、撮影車で周回(当時は自称を知らずにオペラの脇にある五つ星ホテルのエクザクテイブフロアに宿泊)している時に、このフレンチコロニアル様式のホテルを「発見」した。

ホテルは北向きであったから、これなら北からの散光が入って、室米も光線が綺麗であろうと思ったのである。

それで2002年と2012年にはここに宿泊している。フロントの女性は10年ぶりに来訪したあたしを記憶してくれていたのも嬉しい。もっともあたしはそういう「容貌魁偉」なのだからこれは両親に感謝せねばならない。

ともかくこの界わいはハノイ千年の歴史がそのままにあるかどうかは知らないが、ハノイの一番古い街区ではあるようで、散策にはことかかない。

10年ぶりでも、土地勘はあるからこのあたりを徘徊してスナップをするのは、長生きの楽しみである。

★カメラはXZ-1

2012年11月 9日 (金)

ハノイの「隠し球」瑞光55mm/f1,2

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ハノイに来る前には、レンズはスナップショット瑞光15mmだけにするつもりが、持参するスーツケースを開けたら、中からOMマウントを4/3に変換するアダプターが出てきた。

このスーツケースは昨年の暮れに金町のリサイクルショップで千円で買って常磐線で戻る時に新潮の佐々木さんから、沢木耕太郎さんが連絡したがっているとのメールを受けてびっくりした、忘れられないスーツケースだ。

というのも沢木さんに初めてお目にかかったのが、12年前のクリスマスの前々日のホーチミンの空港のラウンジなのである。
ここらがベトナムつながりである。

えい出版から出した、「OM-Dワークショップ」では、手元にある各種のレンズをOMDにアダプターで付ける話が出てくる。

考えて見れば、アダプターで付ける各種のレンズの中で、ファーストクラスの鏡玉が、瑞光であることは疑う余地がない。それも当時の最高級レンズであった、55mmf1,2だ。
明るさf1,2のレンズと言えば、数か月前に偽ライカ愛好会の会長から拝借したノクチルックス50mmf1,2がある。あれもアダプターでOMーDに付けて画像を観察したけど、まず互角の戦いである。

コストからすれば、いくら中古市場で高価な瑞光とは言え、ノクチの比ではない。
あ、世の中では「高いレンズが優秀」という間違った考えがあるが、これは一孝を要する。

こうして、レンズの顔を見ていると、なにか奧に引き込まれるような感じがする。
木村伊兵衛名人は、ノクチルックス50mmを表して「古井戸の奧を覗きこむような感じ」と表したのは明言であるが、木村さんの時代にはまだ古井戸は存在したのであろう。

ハノイでこのレンズで撮影して、なにか適当な形容詞を探そうと思っている。

2012年11月 8日 (木)

河内 北ベトナム軍の緑のヘルメット

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昔、リスボンに8年ぶりに行って、非常に心配したのが、これは些細なことかも知れないが、あたしには気になることがあった。

それはリスボンの黄色い市電はもうないのでは。という心配であった。
最初にリスボンに行ったのは1980年であって、その次は1989年だった。そこには10年近い時間が経過しているのである。
幸い、黄色い老犬はいまだに元気に坂を上り下りしていた。

今回のハノイでの似たような心配が、この「緑のヘルメット」であった。
無敵の北ベトナム軍の兵士は、鉄兜をかぶらないでこのプラスチックの弾丸など突き抜けるハードキャップで、勝利していたのである。

それは当時の日本電波ニュースなどによる「共産側のプロパガンダ写真」で、つとに明らかであった。

12年前、あたしもこの緑のヘルメットを買ったくちである。

プラハにはかつて大量のベトナム人がいた。社会主義時代には友好関係があったので、別に不思議なない。プラハ人の若いツーリストで、女性はこの「菅笠」を必ず買って帰るが、このヘルメットを青年がおみやげに買っている例をプラハの空港では見たことはない。

その答えは簡単である。プラハ人もかつては有り難迷惑な共産主義者のもとに「放牧」されていた。今更、何の好きこのんで「現在も無敵の共産主義の国のヘルメット」を買う必要があろう。

あたしは70年代に「社会主義スタイル」にかすかな近親感を持っていたか弱い人間だから、そこら辺の背景がことなる。

ともあれ、10年ぶりに到着したハノイでこのヘルメットが見られたのは良かった。これはあたしの青年時代のメランコリーオブジエであるからだ。

ただ、広いハノイの旧市街を歩いて、確認できたのはこの二例だけだ。

後半のラウドスピーカーを持って、市場で市民に指示している老河内人は、なにか先週に極東は足立区で見た「関原商店街広報班にその存在が似ている。

★カメラはXZ-1

2012年11月 7日 (水)

「月」と「おこげ」

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ハノイ。雨。気温28度。

河内である。

10年前のホテルと同じホテルに滞在。ブレックファーストはPHOO

ここ、越南では、動物は昇天して月に行きそうである。うちでは1988年のクリスマスイブに、ハリネズミが昇天し、以来、三羽のインコがやはり月に行ったのである。

家人が八月から三ヶ月ぶりに新潟の「別荘」に行った。家人の父の命日なので、前の会社の「女重役さん」が焼香に見えたのである。
そこでいろんな話があった後で、「ねこがお好きなようなので」といって、七宝焼きの、猫が三日月で眠っているブローチをいただいた。

家人はその不思議に吃驚したという。
理由はこうだ。

十年来、のらねこで、家人や家人の弟くんが新潟に行くと、それをセンサーで感知したかのように登場する、小柄な茶色の猫がいる。

家人の弟くんがそれに「おこげ」と命名したのはなかなかのセンスである。
あたしは新潟に行った時には、朝のごみの捨て方が分からないので、大抵、JALのホテル暮らしだが、昨年の夏だかに、家人の兄弟が新潟でお盆の集まりがあった時に、長兄が「別荘の二階の家人の音楽室の窓」を閉め忘れた。

お隣の広川教授から連絡があった。当然、兄弟喧嘩になったので、あたしはそのまま、佃からタクシーで東京駅で、グリーン車に飛び乗って、駅前からタクシーで、「別荘」に行って、二階の窓を閉めた。

そのまま東京に戻るのはもったいないので、「別荘」に二泊した。
新潟の家にいると「おこげ」がご機嫌伺いにくるので、買い置きの猫缶をあげたりした。

そういう十年が流れて、今回は到着と津時に登場する「おこげ」が来ないので、心配していたら、どうも「おこげ」はその居所を変えたらしく、そのことを伝える「絵はがき」を、「女重役さん」に託したものと見える。
これが、「月でリラックスしている、おこげ」なのである。

この筋書きはなにか、今昔物語か日本霊異記にありそうだ。

ところで最近の「おこげ」は、「かい君」という白猫でハンサムがボーイフレンドで、このかい君は、飼い猫で鈴がついている。

家人の「別荘「は新築した時に、父親が敷地いっぱい建物を建ててたは、裏の家に日照の件でご迷惑がかかる、というので裏にはスペースがある。
それがケットストリートになっているらしい。

かい君は鈴があるので、歩くとしゃんしゃんと音がする。それで「あ!、今、かい君が表から裏に抜けた」とか分かるのそうなのであるが。家人が二泊する間に、かい君の鈴の音が一度も聞こえなかったという。

だから軽率な判断はいけないのであって、おこげとかい君はどっかの温泉に泊まりがけで遊びに行っている可能性も高い。

人間は勝手だから、数ヶ月に一回来て、二泊だけして、知り合いの猫がいなというので、一喜一憂するような「輩」なのである。

2012年11月 6日 (火)

本日移動日 東京−−−河内

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本日移動日。
これが今回、河内(はのい、と読む)に持参の機材。
シンプル主義小型軽量主義に徹する。
何時か開催する「夢の個展」の為にフルサイズでRAWで撮るというような「時間の無駄」はあたしにはない。

人生は短し。
芸術は永し。

OM-Dはペペンペンとか、ペンライトに比較して、ややシャッター音が小さい。
それは無論、スナップショットでは問題にならない程度の差なのであるが、撮影というのは極めて神経質な行為であるから、その差が案外に、撮影の意気込みに関係する。
よく三流のモデル撮影では一眼レフとモータードライブの音とか、ハッセルブラッドの音が撮影のリズムを作り出すとか言われているが、そういう方面お「のり」はこれはそういう方面のぎょーかい人に任せておけば良い。
それであたしは「スナップ静音主義」なのである。

OM-Dには、スナップショット瑞光を付ける。このレンズを付ける理由は査定画像が「なにかフィルムカメラで撮影したような感じ」に写る点にある。数日前の関原商店街のラストの「ひかかっぷ」の画像のようすがそれを端的に語っている。

二番目は、XZ-1である。新製品のXZ-2の発表会に寄せてもらったのだけど、どこが改良点なのか良く分からなかった。今回の河内に持参したかったが、まあ、少し後にしよう。あたしにはこの一年半前にマンハッタンを撮影した、XZ-1が気に入っている。
これは「本館録」のカメラである。
一台のカメラの履歴がマンハッタンと河内というのは、あまりないであろう。

それにGR-D4をお守りみたいに持つ。

フィルムカメラはライカM3だが、これは「偽ライカM3-D仕様」なのである。M3-DはライツがDDダンカンに提供した、ライカMPの試作機であるが、彼はベトナム戦線でこのライカにニッコール28MMと同じ50MMF1,4で傑作をものして、それを「英雄なき戦争」という写真集にしている。その時にダンカンさんからサイン入りの写真集を手渡されたのが、当時、若干23歳の若造のあたしであった。

雨期の激戦の塹壕でスコールに濡れつつ、ダンカンさんがライカを抱いてうずくまってる画像が残っている。

2012年11月 5日 (月)

足立区関原商店街広報班が行く!!

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今年の五月の下旬か六月上旬のくもり空の湿気の高い日に、足立区関原商店街の安売り八百屋の前でそのお店の前で値段の高低を争う善男善女の撮影をしていたらいきなりどこかから、音楽に乗せてアナウンスが聞こえてきた。それは商店街のお知らせの広告放送なのである。

さて、どこから聞こえるのかと考えているうちにその「音源」がどんどん接近してきた。あたしの前を低速度で通過したキャブに「二本差し」されて、ラウドスピーカーがその音源と分かった。
フラッシュバックしたのは民間放送開局当時の、人気番組「月光仮面」である。文京区の茗荷谷の地下鉄界隈で、コンクリートのガードが沢山あって、未来的な風景の場所はあったが、そこが月光仮面のロケ現場だった。白装束の男がキャブで走り廻るというのは、今からみればかなりローカルな風景だが、これを真似たのは府中で起きた三億円偽白バイの事件であろう。

そういうキャブにまつわるあたしの記憶が背景になって、この関原商店街広報版は実にかっこいい人に見えた。

バイクにスピーカー二本差しは12年前にハノイで見たこともある。それはベトナム共産党の宣伝カーであった。ミニマムな込むにケーションの手段としては、かなり良い線を行っている。

最初に出会ったときには、感心していてカメラを用意する暇もない。あっという間に「商店街の正義の味方」は路地の影に消えていた。

それから関原商店街に10回は行ったであろうが、あたしのもくろみはあのラウドスピーカー二本差し広報班に再会することだった。しかしなかなかそチャンスがなかった。

お盆が過ぎて、あたしは「聞き込み」を開始した。警察手帳はないので、角の焼き鳥屋で三百円ほど焼き鳥を買って「この前をキャブにラウドスピーカーを二本指した正義の味方が通るのを見たことはありませんか?」と聞いたのだが、記憶にないという。

考えて見れば、毎日その広報版が通過するかも知れないお店で商売をしていると、逆に気がつかないものなのかも知れない。お店の人はこの先の御茶屋さんが、商店街の歴史に詳しいからそこで聞いてみたらと教えてくれた。

それはそのままになって、昨日、11/3という文化の日にこの界隈の団地を撮影していたら、いきなり記憶のある音楽とナレーションが聞こえた。

こういう時の反応は実に反射神経的なものだ。ペンデジタルライト2を連射モードのまま射撃したら、カブにラウドスピーカー二本差しで、型遅れの赤いヘルメットの正義の味方が眼前を通過した。

感激の半年ぶりの再会である。あまりにめでたいので、そばの鹿カップ自販機(ひかかっふと読む)で一本買って、例のリスボン風の小公園で祝杯を挙げたのであった。

あの広報班のバイクライダーは元・月光仮面にきまっている。

★カメラはペンライト2  レンズはスナップショットズイコー。

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2012年11月 4日 (日)

ペンライト2で滝野川のランビリンスを歩く

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昨年の春にマンハッタンで使用して、それからあまり使っていない、ペンのライトの2が出てきたのでこの数日、それを使っている。

本体はペンペンよりちょっと高さがあって、なにか「もっさり」しているのであるが、それは実際に使っている時の印象ではなく、カメラを手にとっての感想であった、そういうのは実際に使ってしまうとほとんど気にならないものである。

スナップショット瑞光をつけて、10年前に片岡義男さんと徘徊した、北区の滝野川を撮影した。
これがなかなか調子が良い。

当時、片岡さんと毎週、東京の北辺に撮影に行ったものだった。いろいろな写真集の競作の企画をたてて、それを大手出版社に売り込んだが、皮肉にも一冊も実現しなかった。

片岡義男という、ビッグネームでも、いざ写真集となると、出版社は二の足を踏むという事実を重く受け止めた。

それはさておき、片岡さんと歩行した、東京の周辺部の撮影の記憶だけは鮮明であって、これは10年経過した今でも、貴重な財産になっている。

今日、その滝野川を徘徊している時に、かつて片岡さんと立ち止まって感心した、大衆食堂の看板のシンプルで、しかも実に不思議な存在感がある、その歴史的な看板に再会してうれしかった。

素朴な筆致のイラストと説明のバランスがいい。本来はとんかつやさんらしいのだが、この「共食い系」のぶたさんのシンプルさが気に入った。

ハノイに向かってパッキングを開始したが、カメラとレンズはこれだけで良いのではとおもうようになった。これは危険思想だと思う。

★EPL-2 スナップショット瑞光15mmf8

2012年11月 3日 (土)

松江に「はがき」をだす

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小池徹さんは、ハンドル名は「呑川」さんという。ずっと東京の南部で暮らしてきたが、こんどゆえあって、島根に転居した。11/1から新しい仕事場で活躍するという。

なんでも1月ほどインターネットの開通がかかるとかで、はがきをくれたのである。これは良い感じだ。あたしの周囲ではがきをくれるのはすでに、赤瀬川原平さんくらいになってしまった。

紙の媒体は残るから、古今東西の文豪の手紙、はがきなどは文化財としての価値があるのであろうが、今野時代、そのほとんど全部がオンラインのデータだけになってしまったのは、なにか味気ないことである。

とことで、定常的にあたしに紙の手紙をくれるのは、鵠沼のブレッソン氏であって彼は不動産管理業のかたわら、「田中長徳研究家」でもあるが、自分の意志でインターネットは使わないで鳩居堂の用箋にモンブランの万年筆で封書をよこす。

12年前に鵠沼のブレッソン氏にあたしのサイン会で初めて会った。その直後に彼にあてて出した、あたしからのはがきはこれを珍重して、ついにそのレプリカまで制作したという人だ。

あたしは足穗フェチなので、彼の出した昭和二十五年に「東京から京都に逃亡した時代のはがき」は数点持っている。まとまった印税のはいった時に記念にかったものだ。こういうのは嬉しい。

それで長年の友、呑川さんが島根に移動したのであたしも彼にはがきを出した。

それがこのはがきである。

はがきを投函した後に、なにかこのはがきに登場する、神田のモダン建築が見たくなって、さっき、金曜の午後に斜光の中のこの建築を見に行った。すでに解体の塀が組まれていて建物には接近できなかった。

2012年11月 2日 (金)

理想の記念写真

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10月27日という日に、GRDの登場7周年というイベントが湘南は江ノ島であったので参加した。当日は別の案件もあったのだが、あたしはGR-1以来のユーザーなので「いざ!江ノ島!」なのである。ペンタックスリコーの赤羽社長も駆けつけたのだから、力が入っているオフ会であった。

時間に遅れてはいけないので、桜木突撃隊長に朝の七時過ぎにピックアップしてもらった。それで渋滞するかと思ったら、1時間ちょっとで江ノ島ヨットハーバーに着いてしまった。

午前と午後の撮影会で無慮百余名の参加があった。皆さん、GRDとかGXRのコンパクトなので、歩行していてもなにか「品が良い」のである。フルサイズのデジタル一眼レフも結構だが、あれは「傑作をとってやる!」と肩にリキが入っているように見えるのがやはり損である。ペンペンもOM-Dもそうだけど、そこらへんの力の抜けた柔軟さは良い感じだ。

先週の金曜にあたしを取材に来た、ベテランカメラマンさんが、持参したのはフルサイズのキヤノンとOM-Dにスナップショット瑞光であった。仕事で、マイクロ4/3を使いたいのだが、やはりクライアントに気兼ねと言っていた。

撮影会がお開きになった後に、ペンタックスリコーのスタッフの皆さんにまぜてもらって、江ノ島の木造二階建ての角部屋で会合があった。
最後にペンタックスリコーの設計のIさんが、記念撮影をした。最初に登場したのは半世紀前に宮崎の信仰旅行などで良く使われた、「パチパチ十段三脚」である。それにカメラを固定して撮影。
どうせ、大した画像ではあるまいと思っていたら、ちゃんと撮れている。
かなり吃驚した。ある意味でこの画像は「理想の記念写真」なのである。

下のは「いざ!江ノ島!」のオフ会に駆けつけた、ゴスペラーズの酒井さん。

これももう一つの「理想の記念写真」である。なんでも酒井さん、江ノ島は初めて来たという。トンボ帰りで、そのまま午後1時からの都内での仕事に戻った。左は「ライカの父」(仮名)。撮影は突撃隊長ヒカカップ(実名)。

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2012年11月 1日 (木)

一千百万頁ビュー御礼!

いつもご愛読ありがとうございます。
ペンペンチョートクカメラ日記はおかげさまで、一千百万頁ビューを越えました。
今後ともよろしくお願いいたします。

去年の春、LESで ライカM3にビオゴン35MM

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今度出す、写真集「ライカ マイ ライフ」(えい出版社)は、あたしの過去40年のライカ作品をまとめた集大成(ちょっと大げさに言えば)である。

この本は内容は作品重視になるので、中に入る文章量は少ないのだが、それゆえなかなか書きにくい。ライカと言えば、60年代から70年代のマグナムを始めまだグラフジャーナリズムが確かなパワーを持っていた時代の輝きであった。

そこらの話となると、ベトナムで偉大な仕事をした、キャパとか、ダンカンとか、澤田とか、岡村昭彦らにことに想いを致すわけだ。それで今回は2二週間ほど時間をかけて、ハノイに行って、そこらのライカエッセイを書いてくる予定だ。

やはりライカはM3であって、このライカM3は昨年の3/11の東日本大震災の時にマンハッタンで撮影をしたカメラである。ようするに、夜から深夜、そして朝にかけて、ホテルで日本の地震のニュースを見て、そのまま朝になって、マンハッタンを撮影していたのだ。

よく身体が持ったものと思う。この時の撮影本数はたったの11本であった。それから二セットのポートフォリオを制作した。

今回の写真集「ライカ マイ ライフ」では、沢木耕太郎さんとの対談も収録する。御本人から快諾をいただいた。

沢木さんと最初に会ったのは、12年前のタンソニュット空港なのである。レニ リーフェンシュタールの話をした。ライカの話もした。あたしのライカ本を沢木さんは「資料」として読まれているというので感激した。「あたしのライカエッセイはいい加減だから資料にはなりませんよ」と申し上げた。

あれから12年が経って今年の二月のあたしの新潮社のエッセイ「屋根裏プラハ」の書評を沢木さんは「波」に書いてくださったのである。これも実に有り難い。

そういう意味で越南は、あたしにとって、キャパ、ダンカン、澤田、岡村、一ノ瀬そして沢木耕太郎ラインでつながるわけである。この中で実際にあった人は、ダンカン、一ノ瀬、そして沢木ラインになる。

★画像はいずれもマンハッタンのLESで2011年の春にライカM3にカールツアイスイエナビオゴン35mmで撮影。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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