フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月30日 (日)

いつか見た風景

Photo_6

2_5

最近、凝っている東京大周遊ルートに、東西線の妙典駅から江戸川水門を経て、篠崎の大きな酒店の自販機で「鹿カップ」を買ってゆるゆると歩行するというのがある。

ここは一之江から小岩への乗り合い自動車(こう書くと、断腸亭だな)があるので、いざとなれば車に乗れると思うと、安心して全行程を歩行してしまうのだ。

そのバスの通りを横断して、江戸川堤に昇ろうとして、はて、これは何であろうかと、考えた。

なにか自分がウインドウズマシンのデスクトップ上のファイルになってしまったような気分だ。

あのデスクトップにはなにか芝生の風景が描かれていた。あれは心理的にはかなり

不安を表象した構図だと思う。あの風景の前にムンクの人物を立たせてもさまになる。芝生なのに、変にうねっていて、その先が見通せないのが不安材料だ。

これに比較すれば、ブリューゲルにしてもボッシュにしても、実に未来を展覧した分かり易い構図である。

あたしがウインドウズを使いたくない理由が分かった気がした。

★カメラはハードボイルドなXZ-1。

2012年9月29日 (土)

立石バーガーに行ったらお休みだった

1

2

3

立石バーガーに行ってきた。

ツイッター友達のTedさんは、先週からフロリダのセントペーターズバーグに移住したようだが、そのTedさんと以前、やりとりした時に「立石に100円バーガーで自販機で売るのがあるらしいですよ」と聞いた。

先週、新小岩から綾瀬行きのバスに乗っていて、堀切菖蒲園が接近して、バスが左折したら車窓の目の前に左から右に流れて行く風景の中に「立石バーガー」の派手な看板が見えた。

稲垣足穂が大正半ばに羽田の自動車学校に通っていた当時、休日の夜に上野広小路を通った時に、バスがハンドルを切るのに連れて、未来派ばりの夜景の燈火が左から右に豪華に移動を開始したというくだりがある。

バスの視界の移動というのは、壮大なのもので、小型車とはその格が異なる。

なにかラスベガスのシーザーズパレス前のような感じがした。

それで翌日にさっそく見学に行った。新小岩から、奥戸を経由して、新奥戸橋を超えて、立石から宝町を経てくだんの立石バーガーに来た。

お休みであった。

大体、隅田川の東側は水曜が休みのお店が多い。

子細に建物の周囲を学術調査した。この建物はファサードより背面が面白い。しかも千住元町の喫茶店MOCAと同様に複雑な多角形をしている。

建物右側のクーラー室外機の脇に鄙びた縁台があるで、そこで時間調整した。クーラー脇の白いボードでふさいでる窓が、例の無形文化財の「食パンが転がり出る穴」であった。

正面に廻って、100円バーガーの「自動販売機?」を鑑賞する。休日は間違ってコインを投げ入れないように、投入穴が塞いであるのかと思ったら、ちゃんと穴は開いている。百円を入れてみた。ペットボトルに百円玉が落ちる音がした。

気分がいいので。もう一個、百円を投入。

三十年ほど前、東京の都心で「偽の夜間金庫」があって、夜間にあずけ金を騙しとられた事件があった。その「偽夜間金庫」と、この「自販機?」はその材質が似ている。ようするに学芸会的材質なのである。

そこがいいと思った。

★カメラはGRD-4

2012年9月28日 (金)

ペンにプライムレンズ

Photo

どうも、中古市場で人気なのは、ペン1のしかも白いモデルであるという。市場に出るとすぐに売れてしまうそうだ。

ペンは一貫したペンスタイルだから、最初期のモデルは古く見えない。しかもデザインに連続性がある。これは大事なポイントである。

中古市長ですぐに売れてしまうのなら、いっそのこと、中古価格を三倍ほどにして値札を付ければ良いのではないかと言ったら、それは素人考えであって、市場の原理というルールから逸脱してしまうのだから駄目だと、言われた。なるほど、、そんなもんか。

ペンにはプライムレンズが似合う。こうしてペン1とペペンペンとを並べて、ペペンペンには昨年の夏にベルリンで活躍した12mm付けて、三年前の白い人気ペンの方には、借り物の75mを付けてみたら、なにか存在が斬新でなのある。

この斬新さは一体何かと分析してみると、「デジカメの視神経が行動的かつ知的になっているような気」がするのだ。いや、錯覚ですよ、錯覚。

それなら、ズームレンズを付けたペンは「衆愚的」であるのか。それは別の問題だからここでは言及したくない。

思うに昔の映画監督はちゃんとプライムレンズを使っていた。フォルカーシュレンドルフ監督は、ツアイスのスーパーSPEEDの最初のモデルの50mプラナー(最近の若いのに人気の日本製じゃない、独逸製のレンズね)だけしか使わなかった。

プライムレンズを使っている人はなにか「思考が深い」ように思うにのは勝手な思い込みである。クンフー映画はレンタル料の安いアリフレックス2cに、アンジエニューの25-250ズームであったかも知れないけど、それは知的じゃない映画というのは詭弁であろう。

2012年9月27日 (木)

なすび

Photo_4

日本的な風景が続く東西線の妙典界隈だが、江戸川水門に向かう時の風景は、寺町t通りと呼ばれているそうで、実に日本を歩行している感じがある。

まだ残暑厳しい頃、やはり江戸川水門を目指して歩行していた時に、道の筋を一本変えてみた。

突然にアメリカ的な風景が出現したのは、単に真っ白な漆喰のしかも、真四角な建物に出くわしたせいであるが、なにかエドワードウエストンの写真を視たような印象であった。

脇に置かれた、コカコーラもマシンとドアの赤が共通しているのも、いいなと思って歩行していったら、お店の名称が「なすび」なので。また吃驚した。

これはカラオケなのであろうか。

大塚坂下町の裏手に「なすび荘」というアパートがあって、大周遊に行くたびにその前に行くのが楽しみである。

同じ「なすび仲間」であるので、こっちのなすびも楽しみだ。

★カメラはハードボイルドなXZ-1

2012年9月26日 (水)

マジックガーデンはそこらじゅうにあるぞ

1_2

2_2

マジックガーデン(秘密の花園、と読む)は、我々の日常生活のすぐ脇に存在する。

ただしわれわれは日常の多忙に押し流されて、それが見えないだけだ。

先月のお盆時期に猛暑の東京を歩行していたら、足立区関原の商店街に忘れていた、あたしの「マジックガーデン」を見いだした。

ここには欧州に出掛ける前に、この手前のベンチに座って、いろいろ考える格好の場所であった。

あたしの東京大周遊は広範囲に及ぶので、時としてそういう好きな場所を忘れているのである。

ここの何が良いのかと聞かれてもちょっと返答に困るのであるが、周囲から隔絶された空間になっているのが良いのであろう。

バロック時代の庭園(ウイーン、プラハなど)では、そこにはかならず迷宮めいた植え込みがある。貴族の暇な連中がそういうラビリンスで逢い引きしたらしい。

★カメラはハードボイルドなXZ-1。XZ-2早くテストしたいが、どうなんであろうか?

2012年9月25日 (火)

大口径の七十五粍で歩く

Photo_3

4

2_3

3_2

高千穂の広報のTヰさんが、「大口径の75MMF1,8を使ってみませんか」というお誘いで渡りに船と思い、二週間ほど拝借している。

三年前に「田中長徳ペンの本」で長崎に行った時、各種の交換レンズの中に、ライツのレンズ、ズマレックス85MM F15があった。レアな超高速レンズだ。

マイクロ4/3であるから、望遠効果は抜群でフルサイズ相当で170MMでしかも大口径である。これで夕方の長崎の街を連射して、胸のすく思いをした。あたしの老化した視神経よりペンの方が超越している。これは増幅された身体性だ。

ズイコー75MMF1,8はこの系統のレンズだ。

時代背景が異なるのは、ズマレックス時代には、フィルムが低い感度であったから、そういう明るいレンズが必須だった。

今はデジカメの感度は無限に高いので、実はこんなに明るくなくても写るのである。しかしマニアがかつて、普段は使わないような大排気量のエンジンを手に入れたり、オーデイオマニアが聞こえない高音とか低温の為に装置にお金をかけるのとここらは似ている。

ようするにその存在がゴージャスなのである。

ライブのような暗い場所での撮影ではこういう明るいレンズは効果を発揮するのであろうが、残念ながらあたしは、ライブに行かなければインドアスポーツも撮影しない。

それでテスト撮影は、残暑激しい荒川の左岸を歩行することになったが、このレンズの面白さ一端はそれでも分かった。

その次第は何回かに分けて記述しようと思う。

画像は例の「空白の五マイル」と呼ばれる、荒川の町屋の下流、南千住界隈に連続する「空白の三マイル地帯」だ。

空筒(スカイツリー)が南側に見えて、ちょうど東西伯林時代に西側のベルナウアー通りから南に東伯林のTV塔を視たような、これはノスタルジーなのである。

★カメラはOM-D  Zuiko 75mm f1,8

2012年9月24日 (月)

普通のラーメンが好き

Photo_2

野々宮BMWはラーメン好きと見えて、あたしの知らないラーメン屋の名前がぽんぽん飛び出してくる。
坂崎さんと東儀さんとなぎらさんが偽ライカ同盟で話をしている時には、知らないギターの名前がぽんぽん飛び出してくるのと同じである。

しかし知らないギターの名前を知ったかぶりすることは出来ないし、ラーメンのブランドを探求するのも面倒である。

もう20年ほど前に、東京商船大学の脇に屋台のラーメン店があって、そこに深夜に野々宮と良く行った。その店は繁盛して今は固定したお店になっているが、あたしは屋台時代の「野点」の感じが好きだ。

根津の甚八がまだ、高野さんの時代であった、1980年当時、夕刻から路地裏で一杯やっていて、午後10時を廻ると、屋台を引いてくるラーメン屋さんがあった。路地の外にでて、呼び止めて喰った。
それからあたしは自転車で高島平まで替えるのである。当時は一日に百キロ走行しないと寝られないような、中毒であった。

東京駅の地下のラーメン屋が蝟集している店舗群で、それぞれの店主が腕ぐみして怖い顔でカメラを睨んでいるポスターを見ると、ラーメンの世界は怖いなあと思う。

あたしの好きなのは、街中を歩行していて、何の予備知識もなく、通りすがりの和店に入ることである。
これが楽しい。そういうことを1981年からやってている。この三十年間で、失敗したことは2度しかない。一度目は板橋の某所で店に入ったら、おやじがあたしが入った時点でお湯を沸かしはじめて、やたら時間がかかったこと。
二度目の失敗は15年ほど前に、マンハッタンのグリーンストリートでラーメンを頼んだら、依頼主の名前を聞かれたこと。
この時にはラーメン好きの野々宮も一緒だった。そのラーメンも不味かった、

昨年の3月にその場所を再訪したら、お店はなかった。

2012年9月23日 (日)

レチナ 初めてエベレストに登頂したカメラ

Photo

レチナハウスというのは、今はもうない個性的なカメラ屋さんで、主にレチナのスペシャルショップだった。

望月さんという人がオーナーでなんでも、本人から聞いた話では、入院生活中の無聊にあたしのカメラ本を読んで、それで中古カメラ店を開店することを決意したどうである。
そういう人も世の中におられるのか、と感心した。

レチナハウスでの人気商品はモデル3cの大窓というのであって、これは最高級機である。しかも、交換レンズの綺麗なのを揃えると「客単価」はかなり高くなる。
レチナハウスが閉店して、もう10年かな。

当時、経済誌の表紙を担当していて、丸紅のトップを撮影に行くことになった。
広報部に場所を聞いたら、レチナハウスの反対側であった。
相手は天下の丸紅の所在地を知らない、もぐりカメラマンだなと思ったらしいが、あたしのカメラ地図に付帯する位置情報では、あくまでレチナハウスの向かいが丸紅商会なのである。

この表紙の連載は当時の日本のトップ企業のトップの顔写真を撮影したので、なかなか面白かった。もう亡くなった方もおられる。ソニーの大賀会長さんとライカ談義をしたのも忘れられない。

この画像のレチナは高級なレチナではなく、シンプルな戦前のレチナ一型である。これが軽くて実に良く写る。

レチナ一型はヒラリー卿のエベレストアタックに携行されて、同行のテンジンが頂上に立つヒラリーさんを撮影している。歴史的な意味では、月面の記念写真より凄いと思う。

当時の記録写真で見ると、ヒラリー卿はベースキャンプでは、コンタックス2型を使っている。やはり頂上のアタックにはコンタックスでは重かったのであろう。お友達の石川直樹さんも、アタックには「写るんです」を使ったと言ってた。

そのアタックの写真を撮影したテンジンさんだけど、厚いミトンの手袋で、いちいちシャッターをセットしたのは実に大変であったと思う。
コンパーのシャッターのセットは下界の常温でも慣れないと難しい。

案外、テンジンさんは、この歴史的な撮影は「一枚切り」であったのかとも考える。これは人生の大勝負だ。

当時の登頂の記録写真は実に重要であったから、一枚だけの撮影も考えにくいのだが、そのあまり操作性は良くない、レチナ一型のシャッターのセットを佃の大ガラスの部屋でやりながら、レチナ一型の冒険について考えている。

2012年9月22日 (土)

リョン!

Photo_9

リョン、という言葉は感嘆符なのか、動詞なのか、その背景は不明である。あたしの部屋にはテレビがないので(電気は来ている)あるいはそういう方面の言葉なのかも分からない。

リョンという言葉の存在について最初に接したのは顔本のお友達のIさんが、日常の顔本書き込みで「家に戻った。リョン」などとやっていて、これは言葉としての守備範囲が非常に広いなと感心した。

しかもIさんの顔本は顔写真は綺麗な猫であるので、いかにも「リョン」と言っているのがその猫さんであるかのように思われた。猫がモノいうことは「我が輩」以外にはないから、これはあたしの錯覚である。

しかしこのリョンを使うようになって、日本語の幅は広くなったような気がする。

ドイツ語のザインは日本語に訳すると「存在」という哲学用語になってしまうが、日常会話では「フィール カスタニアン ザイン」(マロニエが沢山あるね」などと軽く日常会話で使う。なにもマロニエに哲学的存在論を語っているのではない。

リョンも同じである。みんみんゼミが多く折りますなあ、という意味のことを言いたければ「ミンミンリョン」で済むので実に迅速快適だ。

人づてに聞いたら、四谷アローカメラの代目さんが「うちの近所にもリョンという店があります」との情報あり。

これがその店の看板であるが、これは「リョン」ではなく「Lyon:である。永井荷風が若い頃に滞在したフランスの古都の名前だリョン。

2012年9月21日 (金)

胃のセルフポートレート

Photo_3

2_3

世の中一般は、胃のバリウム検査が苦手という人が多いようだが、あたしは結構あれが好きだ。

前の晩から何も飲食していないので、飲み物なら麦酒でも水でもバリウムでも、その飲み下す快感がなんとも言えない。

しかしレントゲン装置でバリウムが食道を下って行く、そのリアルタイムな映像を丸いモノクロモニターで見れるのが好きだ。

しかも最近、写真界では入手が困難な、大判フィルムを惜しげもなく使って、体内を連写するのがダイナミックである。

寝台の上に寝て、もうすこし身体を上にとか言われるのも、緊張感があっていい。ちょうど広告写真の商品撮影で、ぶつをもうすこし時計回りに廻すというのと、似た感覚がそこには感じられる。

共同ビルクリニックの桜井先生には二昔前から御世話になっている。診察の他にオリンパスとかライカのカメラの話もちょっとするのが楽しい。

それで無理を御願いして、あたしのレントゲン写真を複写を許可していただいた。他人の胃ではなく、あたしの胃なのであるから、これは究極のセルフポートレートというわけだ。

10年以上前に、どこかでの本の内視鏡カメラをいただいたことがある。

加工してデジカメを付けて、ライカインコのケージに差し込んだら、迷惑そうな鳥の顔が撮影できた。

2012年9月20日 (木)

鹿カップ

Photo_7

Photo_8

先週の月曜に茅場町で用事が終わって、ヒルズに行こうとして、電車を乗り間違えた。無論、意識的に間違えたのである。

東西線の妙典(この駅は以前はなかったな)まで行って北に歩行して、あたしの「マジックガーデン」を見てやろうと思った。

この前は確か、2月の頃であったので、半年ぶりに様子を見てやろうと思ったのである。

マジックガーデンを鑑賞して、江戸川水門から北に歩行した。ここが「海から3,5キロ地点」なのである。

普段は1キロ北上して、土手から降りて篠崎に向かうのが常である。つまり東西線と都営新宿線の「綱渡り」である。

この日はむらむらと「邪な考え」が起こって、江戸川の右岸をどんどん北上したくなった。それで準備の為に土手に上がる手前の大きな酒屋の前の自販機で、コップ酒を買った。

その名前が「鹿カップ」という。白鹿のカップだから「しかかっぷ」は良いとして、気温が30度越えなら発音がしやすいけど、気温がマイナスだと、口元が凍って「ひかかっふ」になるであろう。

マンハッタンの80年代の真冬にMoMAのトートバッグに8x10の機材を入れて闇雲にマイナス20度の街を撮影した。どの程度の寒さか、自分で確認する為に歩行中に「MoMA Bag」と口にした。これが「もまばっぐ」ではなく「もなはっく」と発音されるようになれば、気温なマイナス10度より下なのである。

今は、気温30度越えの東京は江戸川堤だから「しかかっぷ」である。

鹿カップをどこか日陰で呑もうと思ったが、呑み場所がない。ベンチがないし、日陰もない。7キロほど北上して国土交通省が設置した、看板があったのでこれに後列な日射しをさけて、日陰に座り込んで(土台がやや高いので格好の腰掛けになる)そこで鹿カップを呑んだ。つまみは妙典駅前のコンビニの「焼きタラコのおにぎり」である。なかなかいけた。

月曜はそれで金町までは歩行しないで、おとなしく「京成江戸川駅」まで歩行して帰宅した。

二日後の木曜日に今度は別の東京大周遊で、駒込から滝野川、西新井と歩行した時に、またむらむらっと「劣情」を催して、江戸川が見たくなった。

足立区のコミュバスの「はるかぜ」で足立区役所経由であ綾瀬を過ぎて、亀有まで。そこから京成バスを延々と乗車して、JRの小岩駅を過ぎて「江戸川堤」という所で下車。

今度は北側から南に向かって歩行した。京成線の鉄橋の下に日射しを避けて、上を通過する電車を見た。急行と鈍行ではその通過速度が明らかに異なるのは当然ながら、思いだしたのは、あたしが仰向けになっている時にライカインコが顔の上を歩行した体験である。要するに鳥の足の裏が見えたのである。京成線の車輪を真上に見るというのは、かなり近似値的な視覚体験だった。

それから延々と篠崎街道を右に見て南下した。篠崎街道には小岩から南下して一之江まで結んでいる京成バスがある。疲れたらそれに乗れば良いと思うち気楽なものだ。

ほどなく、2日前に「鹿カップ」を呑んだポイントまで着た。要するに小岩駅から篠崎駅の間の江戸川堤でこの看板が唯一の「日陰」なのである。

そこに二日ぶりに座ってあたりを見たら、月曜に鹿カップを呑む特に捨てた金属の蓋が同じ位置にそのまま落ちている。証拠復権なので回収した。まさに実況検分だ。

ようように篠崎駅に続く度下を下って、例の鹿カップの自販機まで来たので「記念」に鹿カップを4本買った。@110円であった。

2012年9月19日 (水)

フォトキナの新星ライカMとアルパプリズマレフが似てる理由

Leicam
62
数年前、ライカM9の世界同時発表はあれも秋であった。

マンハッタンの現地時間の朝10時にストリーミングで開始されるのが15分遅れたのがまた話題になった。ライカだからそういうゴシップが話題になる。

ダニエルさんのメーンのマイクがワウったり、壇上の裏から取り出すライカS2を取り落としそうになって、こっちがはらはらした。

今ではストリーミングなど驚かないが、当時はそのライブ映像にわくわくした。

マンハッタンの怪人チョーちゃんがTWITTERで同時通訳してくれたのも懐かしい。

時間の前後関係は忘れたけど、やはり数年前、当時のライカ社のプレジデントがあたしのヒルズの仕事場を「表敬訪問」してくれた時に、「次回のPMAでビッグサプライズがありますよ」と言った。その(最初の亜細亜系のライカ社のトップだった)プレジデントはPMAの前に退任してしまった方が、むしろビッグサプライズだった。

「今やライカが売れるものはブランドしかない」と彼は言うので、正直な人だなと思った。「でも日本のメーカーでブランドで売れる会社はありませんよ。ライカはそこが凄いです」と答えたのを良く記憶している。

「M8の色が正しく表示されないトラブルで自分は4000通のメールにサインしました」とも言っていた。信用できる人だなと思った。

前から噂されていた新型のM10が出たと思ったら、数字がなくてMのみであった。

知り合いの駆け出しライカ人類から、第一報が届いた。以下、引用。

>>>>顔本のデジカメWatchに画像がでます。

アルファベットのMだけになりました。見てりょん>

m10ですか?ーまだ見てません>>>>>

引用おわり。

これはかなりのビッグサプライズである。もっともサブタイトルとしてM-240とも言う(2400万画素)らしい。
そうなれば、一気にM10の24倍に加速されたことになるが、これでは神田のエチオピアの七十倍カレーみたいでどうも精密機器とは相容れない。

最初に画像を見た時に、これはビゾフレックス付きのライカM3みたいだなと思った。次に脳裏に浮かんだのは、1940年代後半のアルパプリズマレフである。

天才、ジャック・ボルスキーがそれまでのレンジファインダーカメラに同時に一眼レフを組み込んだのが、アルパレフレックスで、それにプリズムを載せたのが、アルパプリズマレフレックスであった。

これは戦後にレンジファインダー全盛時代から一眼レフに移行した時代の最初の「決別」であった。新型のライカMを見ると、なにか時代が一巡じたようなデザインであるが、皮肉にもライカはM9の次のモデルで、カウンターをリセットしたということか。

その性能は言うまでもなくて、世の中一般は「ライカがついにやりました。世界初のフルサイズのミラーレスです。日本が一眼レフ競争に明け暮れている間に、ライカの勝利万歳」みたいなことを書いている。

最近のライカ人類で最初のライカが「赤いライカのマークのついたコンデジ」だったという階級が大人になったわけだから、そういう方面はそれで良いと思う。

しかし、プレスレリースの写真のバリオエルマー付きのMに電子式のビューファインダー付けた画像はあたしに戦慄を催した。
レンジファインダーのライカの時代は終焉を迎えたというライカの意志表示だ。

無論のこと、優秀無比なライカのアイデアマンの市場調査から、次のモデルは「リアルビューファインダーで、フルサイズのHDムービーも撮れて、従来のRレンズ資産も使えて、、、」とメモを書いて行くとこういうライカになるのは分かっている。
なにか日本のどっかのメーカーと同じような「便利なカメラ」になってしまったのが痛恨だ。ただし非常に高価であるという一線を画しているからまだ許せるかな。

それであたしのライカへの欲望であるが、いきなり、ライカM9が欲しくなった。デジカメは値崩れが激しいから、これからがM9の購入のチャンスかも知れない。

思えば20数年前に、M6が出て、その前のモデルのM5が値崩れして、嬉しがったあたしは何台もM5を中古で買った「故事」を思いだした。

2012年9月18日 (火)

PENとGR-D クラシックデジタルカメラという存在

Gr

フォトキナが始まる。
思えば最後にフォトキナを取材したのは、前世紀の終わりであった。まだデジタルカメラが本命になる前のことである。

当時はインターネットがなかったので、(あったかも知れないがあたしレベルではまだ使えなかった)フォトキナでは膨大な印刷物を収集してこれを航空便で編集部に送るのである。

ゆえにカメラ雑誌では速報が11月のカメラ雑誌で特集は12月号というのが普通であった。今からは信じられないゆっくり時間であった。

フィルム時代のカメラの進化というのは、今のような速度ではないから、ゆっくりしたものであった。ライカなどは数年に一度の新製品で良かった。

一方でデジタルカメラの進化はあまりに迅速なので3年前の新型がずっと過去のモデルに見えるのが常である。フォトキナには1976年から20年ほどかけて、人類の使うカメラの進化を視てきたが、悠悠たる「カメラ時間の流れ」に思えた。

デジカメのデザイン進化は一本時間軸が通っているのが「正しい流れ」だと思う。画像を記録する機能はスマートフォンと競合しているのであるが、唯一の我が陣営のプラスポイントはデジタルカメラは「画像の記録という単機能に特化」しているという点にある。一方でスマートフォンは「装備が過多なスイスアーミーナイフ」である。

その単機能のデバイスは人間の道具として愛される形状であるのが好ましい。
1925年製のライカA型は今でもちゃんと実用になるが、そのデザインは美しいと思う。
進化を止めないデジタルカメラで「デザインの伝統」をそこに求めるのはなかなか難問であるが、あたしの周辺の長年使っている(このデジタルカメラの長年という時間スケールはちょっと甘いけどほぼ3年と暫定しておく)カメラを視るなら、ペンデジタルとGR-Dあたりがそれに該当するのである。

あたしなどはデジタルカメラには進化も大事だけど、その背後に流れる「伝統の存在」を評価する者だ。

ライカと同じように、デジカメも性能ではなく、デザインで選ぶ時代になるのではないか。

2012年9月17日 (月)

XZ-1から発見した20ヶ月前のマンハッタン

Photo

2

ハードボイルドなXZ-1にはサブのメモリーが入っている。これは便利である。高級機のOM-Dにはメモリが内蔵されていないのは、理不尽であると思う。

ただし、いざという所にその内蔵メモリが生かされることよりも、何かの拍子にカードを入れていなかったデジカメでオートマチックに内蔵メモリが活躍してその場のシーンが記録される場合が多い。

この二枚のマンハッタンの安ホテルの画像がそうであって、たまたま持ち歩いているハードボイルドなXZ-1にメモリが入っていなかった時に記録した画像があることが分かった。
データは201103 20となっているので、驚天動地の大震災が起こって九日後であってようやくマンハッタンの時差にも慣れてきて、ローカルタイムの朝焼けを鑑賞できるような心のゆとりが出来た頃である。

海外では「安ホテル主義」であるのは、30年前に仕事で高級ホテルばかり取材したその反動なわけであるが、昨今の経済状態で取材費をカットできる関係者さんが「仕事ができる人」みたいな変な世の中になったので、あたしの懐にも優しいのは結構なことだ。

こういうバジエットホテルの良さは道路に気軽に折りららルことである。あたしは気が弱いので、ウイルドルフアルトリアタワーの上層階からエレベータでパークアベニューにでて、そこらのグロッサリーで麦酒買って、ドアマンの前を通過して自室に戻る勇気はないが、こういう安ホテルなら気兼ねがない。

しかし注意すべきは、この手のホテルは絨緞がナイロンなので、エレベーターのコールボタンを押した時に、静電気の火花が散って、数万ボルトの電撃が走るのは一大問題である。

それでその防止策として何時もカギを最初にドアの金属部分にタッチして、放電させてから通過するようにしている。

★カメラはハードボイルドなXZ-1

2012年9月16日 (日)

あたしのマジックガーデン

Photo_5

2_4

本物の「マジックガーデン」とは、ヨセフスデクの撮影した、一連のシリーズで、これはプラハの6区の林間にあって、建築家アドルフロースの真四角な白い家に付属する庭園である。

そこはある彫刻家の私邸なのだが、1985年にその由緒ある庭を撮影したことあった。

あたしの庭の好みは、廃園趣味というのではないが、どこか寂れたのが好きである。以前は佃のスエード伍高酷建築事務所の先を堤防まで行った、その裏手に地元の人の造った寂れた庭があって、そこで考えことをするのが好きであったのが、つい最近、中央区の造園課が無味乾燥なつまらない公園にしてしまった。

それで最近はこの東西線沿線上のこの場所にゆく。ここは江戸川と旧江戸川の分岐点なのである。

この冬に行った時には、季節風吹き慌て、モノトーンの風景であったのが、今は夏も過ぎて、カンナがあたし好みの「やれかた」になっている。

ここは良い場所だ。

★カメラはハードボイルドなXZ-1

2012年9月15日 (土)

偽セントラルパーク

Photo

2

今回の札幌行きで最大の収穫はセントラルパークめいた、中島公園の眺めであった、もともとノボテルに対してはあたしはポジテイブなイメージを持っていなかったのが、一挙に良い印象を持ったのである。

セントラルパークに比較すれば中島公園のサイズはずっと小さいのであるが、そのホテルの窓からの印象はまさにセントラルパークである。

もっともセントラルパークウエストから見たセントラルパークの光景は実際にはあたしは見たことはない。あたしが見たのはセントラルパークサウスからのセントラルパークである。

札幌は新開地のイメージがあるから道路は碁盤の目でそこに立っている建物は不趣味であると思っていた。ところが中島公園を中心に据えて見た都市風景は、その雑然感をカギ括弧で中島公園がくくったという案配になっていて、そこに大都会のリズムが生まれたのである。これは想像外の展開だった。

今回は夕方の五時にはホテルで「おうちバー」を開いて、暮れなずむ偽セントラルバークを肴にして毎晩楽しめた。

★カメラは「ハードボイルドなXZ-1」

2012年9月14日 (金)

バロック時代のオリンパスフレックス

Photo_2

ウイーンの街を歩行していた、1970年代にあたしがライカを肩にして、歩行の調子に合わせて口の中で唱えていた呪文は「ゴシックの影、バロックの闇」という短いフレーズであった。

その口癖は今に伝承されて、このプラハの30年の時間の間にも街歩きをする時に、やはり同じフレーズが浮かんでくる。

ゴシック建築は垂直に天に伸びるので、その尖塔の影の下を歩くので「ゴシックの影」であり、バロック教会はその拝殿の前に立つと、チャーチバロックの金泥の像の背後の闇が濃いから「バロックの闇」なのである。

自分なりの分かり易い理解の仕方である。

このオリンパスフレックスは昭和20年代半ばのカメラであって、この前出した「OM-Dワークショップ」に登場した。

1981年にウイーンから日本に戻った時に数台の二眼レフで東京を膨大に撮影した。それはモノクローム作品なのである。当時は「東京の今」を撮影していたつもりが、今にしてそのプリントを見ると、そこには「東京の1980年代」が写っている。これが写真の秘密である。

数多くの二眼レフの中で、オリンパスフレックスはなにか「バロック時代に制作されたカメラ」という錯覚をもたらすのは何故であろうか。

戦後の初期に生産された写真機はその造りが「精巧」である。量産体制のコストなどは考えずに、真面目な手作りの感じがそう思わせるのであろう。

そんな理由で大ガラスの部屋のバロック時代の十字架の前にフレックスを置くとなかなか良い感じだ。

当時の勤労者の月給が7千円であった時に、価格五万円のフレックスの仕上げの悪い筈はない。高級レンズFズイコーは75mmで明るさはf2,8であった。

2012年9月13日 (木)

柏山邸の九十年

  • 1
  • 2_2

今は移転した萬世橋の交通博物館に父に連れられて行ったのは、あたしが8歳頃であったろう。弁慶号とかいうクラシックな蒸気機関車を見に行ったのである。

交通博物館のエントランスの向かいに木造三階建ての銅板でカバーされたユニークな商家建築があった筈であるが、それは当時の少年の記二十歳時代に、あたしの今の東京の地図が脳裏に構築されたのである。そこではこの三階建ては重要なランドマークであった。

これが1966年当時の話だ。須田さんの影響を受けてライカM2のブラックを手にした。それからオリンパスワイドを手にした。オリンパスワイドをブラック仕上げにしてくれるカメラ修理屋があるというので、昌平橋の近くの店に依頼したら、それは焼き付け塗装ではなく、ただクロームの上に黒ペンキを塗っただけなので憤慨したこともあった。

1960年代にはこういう三階建てで青い銅板でカバーされた商家はすでに少なくなっていた。この建物は真正面から撮ると上がすぼまってしまうので、交通博物館の2階だか3階だかの階段の踊り場から撮ると、良い感じに撮影できる。

こういう記憶の中の建物はそのまま永遠に存続すると思われたが、今日、2012年9月13日を一期としてその90年に渡る役割を終える。

ファサードはその様式を考えるに、欧州には存在しないスタイルである。長く欧州の建物に親しんだあたしの目から見ると、極めて日本的な建築物に感じられる。

普段は見ることの出来ない、二階と三階も見学させてもらった。パブリックな1階からプライベートな二階に上がる階段は実に急であるのに、驚いた。

その階段急な加減はベルギーの鐘撞き堂のカリオンの急な階段に似ている。この急階段を90年間昇降した、ここに住んだ人の記憶を追憶してみた。階段の上下が生活の主要な部分になるのは、案外に素敵なことだと思った。

2012年9月12日 (水)

機長は田中さん

1

3

飛行機には航空会社のクルーほどではないが、普通の人としては多く搭乗している方だと思う。

不思議なのは、飛行機が離陸する前に、機長の名前と客室担当の名前が告げられるが、今までの経験ではJALの場合、その苗字が普段は聞いたことのないような、珍しい名前であることが多いことだ。

要するにあたしの邪推では、田中、佐藤、鈴木のような沢山ある苗字ではなく、あまり聞かないような「両家の子女」がそういう方面の仕事をしているのだと思っていたのである。

先週の札幌から東京のフライトだが、勘違いしてサテライトに3時間半も早く入ってしまった。欧州と勘違いしたのである。

東京から到着した777がスポットに到着すると、ちょうど機首と正対することになる。手持ちの小型双眼鏡で機長と副操縦士を観察した。まず機長は50代で副操縦士は30代というのは普通だが、久々に日本人の機長を見ての第一印象は「お!若いな!」であった。

最近はパイロット不足で還暦のキャプテンも採用の動きもあるようだが、50代の男性を若く見るというのは、そういうスペシャリストのせいであろう。

関係者に聞くと、国内線は南から北にあるいはその逆に何カ所かの着陸点をスキップしてそれが一日のシフトになっているそうだ。

そう言えば、岡山から東京のJALで、機内に忘れられた沖縄タイムスを手にして、そこに日本列島の連続性を感じたこともあった。

あたしの搭乗機はクルーはそのまま機内に留まってトンボ帰りのようである。機長を観察していたら、紙コップの珈琲を手にする様子など、なかなかダンデイで格好良かった。男は仕事中が一番さまになるのである。

搭乗してからの機内アナウンスで「この便の機長は田中、客室を担当いたしますのはXX」と聞いて、嬉しくなった。
あたしの国内線の搭乗経験で、田中キャプテンというのは初めてである。

それで別に身内というわけでもないが、羽田のラウウエイへのアプローチなどもいつもよりもっと楽しめた。

2012年9月11日 (火)

SUMOU

Sumou

Sumou2

札幌の今井コレクションのあるビルの1階が今月の16日からカフェバーになる。場所は札幌駅から南に歩行して、時計台のワンブロック手前に西側である。

店の名前は「再来」。

今井さんの話では、このカフェの中にはわざとカメラ関係は展示しなかったそうだ。もっとも今井コレクションも現在では一般公開はされていない。

しかし、このニューオープンのカフェの展示品の中に、一点だけ巨大写真集がある。「SUMOU」は、10年ほど前であったか、ヘルムート ニュートンの写真集で、重さは20キロはあったろうか。新聞紙のサイズよりもずっと大きい。

数年前に、ベルリンの古書店のウインドウにこの巨大写真集があって、買うべきか買わざるべきかを迷ったことを思いだした。

値段の5000ユーロは払えるにしても、これを佃の大ガラスの部屋に置く、そのスペースの確保の自信がなかった。

カフェ「再来」に相撲ブックを見たので、あたしの人生の気苦労はここでまた一つ解消したわけである。

頁を繰って行くと、写真家が鏡に写っている肖像が出てくる。トレンチコートの肩をすぼめて、テレローライを構えている。

135MM付きのテレローライは本来、このような画像を撮影する為のものであったことを思いだした。

もう四十年近く前、ウイーンのGFだったクリステインが若気の至りで、マンハッタンのニュートンに会いに行ったことがあった。ウイーンに戻ってニュートン先生の様子を訪ねたら「まったくいやんなっちゃう、あの変態じじい」と散々であったが、これはモデルあがりの20代後半のウイーン娘の意見である。

そういう「変態」こそが相撲ブック製作のエネルギーになっているのだ。

例えば「レオナルドは静的には不自由な生活を送った」と言う奴は馬鹿である。「その方面のエネルギーは創作の方に振り向けられた」が正しい、と我が足穂も指摘している通りである。

この春、モスクワからの飛行機で最前列の席に座っていた、ちょうど反対側の席に小山のようなロシア人男性が座っていた。

飛行機が成田に到着してその巨大人が降りる時に彼のTシャツの背中に「SUMOU」とあった。

2012年9月10日 (月)

高千穂瑞光200mmF4,5

3

2

1

札幌の今井コレクション勉強会から戻って、最初に考えたのは「今井コレクションにないレンズやカメラは何か?」であった。

今回はシンプル機材でデジカメは「ハードボイルドなXZ-1」と、「銀色のベレッタ」(訳注リコーCX2)であった。

最新型のデジカメに「憂き身をやつす関係者」さんは数年前のコンパクトデジカメなどは歯牙にも掛けないであろうが、実用からすれば数年前のが一番使い易い。

数年前のデジカメには、エプソンRD-1とかライカM8とかもそうだが、実に安定して使い易い。クラシックデジカメという分野はようやく認定されるかも知れない。

カメラメーカーには「どんどん新品を売り込む」というのは鉄則であるが、カメラユーザーの方も賢くなっている。数字だけで予約に飛びつくのは、一部のスペックおたくさんだけである。

これからのデジカメはライカのように「孫子の代」までというのは、経営を圧迫するから問題であろうが、せめて五年先まではちゃんと古くならないで、使えるのが良い。

ペンデジタル1などはあと2年で5年の満期になるが、さらに使えそうである。

好評発売中の「OM-Dワークショップ」の中でも紹介したが、これがクラシックな高千穂のズイコー鏡玉である。数年前に入手した当時に、嬉しくて紹介したけど、今回はプロパーな組み合わせにしてみた。

つまり、1950年代後半に国産35MM一眼レフの黎明時代に、戦前の航空写真機のレンズを改造したのがこれである。当時は今、こういうことを書くと誰も信用しないであろうが、35MM一眼レフ用の望遠レンズというのは市場になかった。

国産最初の一眼レフ用の望遠レンズは、オリオン光機(ミランダ)の、シュプリーム105mmf2,8であった。それ一種だけという時代があったのだ。

これはその倍の焦点距離を持つ「本格望遠レンズ」である。当時は望遠レンズが存在ないので、当時のプロ写真家などは専門工房に自分のニコンS用のニッコール105mm持ち込んでこれを「ぶった切って」それをミランダ用に改造したのである。そういう苦労があったのだ。

ミランダは国産最初のペンタプリズム付き一眼レフであった。その直後にアサホペンタックスとニコンFが登場したのだった。

その意味で、このミランダマウントの200mmの瑞光は実に戦後の黎明期の様子を如実に物語っている。製造番号が3005というのは多分、5本めの個体であろう。

これをマウントアダプターでOMーDに装着しようと、ミランダライカアダプタを捜索したが、発見できなかった。

代わりに、レンズをミランダTに付けて、眼の下の隅田川を覗いた。ファインダーで見てもクリアな像であって、これが戦前の玉とは思えない。

ワールドブランドのズイコーのルーツであろう。

2012年9月 9日 (日)

こんな顔です

Photo

札幌のすすき野という所は世界的に有名な大歓楽街らしいが、あたしは「女性が居るバー」というのが苦手である。

その理由は簡単で、世の中の常識を知らないからだ。畏友福田和也さんなどは、テレビのコメンテーターとして、国際情勢から芸能界までの歩く辞書である。ああいうのはよほどの頭脳なのであろう。

普段は時計台か、札幌駅の構内のJALのホテルに投宿するが、今回はそこがとれなかったので、中島公園の北西の角のNOVOTELに宿泊した。

NOVOTELはあたしにはネガテイブである。理由はモスクワ空港で飛行機を乗り損ねて空港内のNOVOTELに飛行機待ちのビザなしで監禁状態になったり、あるいはプラハの夕暮れに外国人に町外れにある、NOVOTELへの行き方を聞かれたり(このくだりはあたしのエッセイ、屋根裏プラハに書いた)して、どうもやりきれないからだ。

今回の札幌ステイは今までのNOVOTELのネガテイブな印象を一気にポシテイブに逆転したことで意味がある。

さてNOVOTELの北、すすき野の南に、こいいう石の顔があった。まずカラオケかなにかのお店であろうが、使用法が分かると興ざめなのでわざと調べてはいない。

中学時代の夏休みの宿題にナサニエル ホーソンの「BIG STONE FACE:とか言う短編の清書をやらされたことがあった。その内容は中学生のあたしにも、なにか不可解、不満であった。

それでこういうグロテスクなファサードをみると、どうも感心しないのである。

2012年9月 8日 (土)

HND SPK

777

7771

国内線に乗ることがほとんどないので、今回の札幌行がうれしくて仕方ない。

なにが嬉しいかといえば、パスポートを持たないで良いという気楽さがある。あたしは旅券は盗まれたことはないが、海外の旅先で旅券を盗まれた人の再発行の手伝いをしたことがある。

バルセロナの日本領事館に行った。再発行には身元保証のような人間が必要で、あたしがその役を引き受けたのだった。もっともバルセロナ五輪の前の年の大昔のことだから今は仕組みが変わったかも知れない。

それで旅券は持たずに保険証だけ持って気楽な札幌。

例の今井コレクションの拝見と、同じビルに新しくカフェが出来るというのでそれを見学に行ったのだが、その話は別に書く。

羽田離陸後にこのような公園というか人口なぎさが見えるのだが、2年前だったか、野々宮とここに、アリフレックス35BLを持ってカメラテストに行った。

下から見る777は空を切り開く迫力であった。その777から見た光景は、地上がどんどん縮小してゆくリアリズムである。

今回の右手の窓際で、フクシマ原発のタワーを見ようと思ったが、生憎と雲の中であった。

しかし、飛行機が北海道の海岸線に差し掛かったら綺麗な天気となった。

この777の巨大エンジンに最初に驚いたのは、たしかバルセロナからフランクフルトに飛行した時が777であった。

その前は800哩規定とか言うのがあって、公海上で800哩を越える飛行は双発機は禁止されていたのである。

エンジンの信頼性が不安というのがその理由であった。

今はそういうことはなくなったが、この巨大エンジンを見るのが好きなのだ。座席は確か8Kであったが、ここだとベストアングルだ。

★カメラは銀色のベレッタ(CX-2)

2012年9月 7日 (金)

ライカにフィルムを装填するのはスポーツかも知れない

A

2

若い人にライカAをゆずった。
工業製品の最初期のモデルにはその精神がやどっている。

1925年製のライカAは実に良く写る。ライカを一通り極めたライカ人類がレンズの交換できないA型を手にしてその描写に驚いて、ライカにさらに深入りするのは昔からのことだ。

ライカ人類の中には岡山のトランプさんのように、A型しか使わない人間もいるらしい。それならというので、クラシックのライカの復刻版を造ったりする向きもあったようだが、これは腕時計の復刻と同じでどうもあたしは感心しない。
やはりクラシックはその時代に生産されたからこそ、クラシックなのである。

ところであたしのA型を入手したライカ人類さんから以下のようなメールがきた。
以下、引用。

お疲れ様です。

本日、クラッシックライカ用にフィルム(FujiFilm Neopan SS 100 36枚撮)を購入しましたが、

装填の方法が幾つか示されているのと、フィルム装填の際、注意をしないと故障の原因になると有り、田中長徳様はどうされているのか伺いたく、メール致しました。
よろしくお願い致します。

引用終わり。

このライカ人類さんは水戸の人である。あたしの「顔本友達」でもあるのだが、彼の撮影している水戸の夕景の空はなかなか良い。写真のバルビゾン派というところだ。
しかしどの程度のライカ人類さんか分からない。それで初心者さん向けに以下の返信をした。

以下、引用。

おはようございます。

クラシックライカで、裏蓋の開かないタイプのフィルム装填は
習うより慣れろ!
です。
ご覧のように、市販のフィルムの先端をハサミで切ります。
装填時には無理な力を入れないようにするのが大事です。

初心者が失敗するのは、
スプールに十分にフィルムが差し込まれていないので
空回りの事故です。
かならず、巻き上げ時に巻き戻しノブの回転してうることを確認してください

ライカの写り(特にA型)の写りはすばらしいものがあります。

引用終わり。

そうであった。フィルムカメラの最大の醍醐味は、これはあたしなどは何十年も同じことをしているので、無意識にフィルム装填をしているが、その楽しみはここにあるようである。

デジカメが普通の人類には、あの軟片(フィルム)を装填することが、最初のライカへの突破口なのである。

あたしがライカで撮影開始した当時には、クラシックなバルナックライカにそのまま装填できるように、フィルムの「べろ」が長かった。その次には、今のような短いフィルムエンドになったが、鋏で切る目安として、その位置にピンホールが開けてあった。

ライカの初期は暗室装填で長巻きのフィルムから切り出すので、その為の定規もあった。これはフィルムのエンドを金属の定規で挟んで、その上をナイフでなぞると正しい形に切れるのである。

そういう前段階は実は、写真を撮影するための気分を高揚させる為の重要な準備運動であった。
どうも今のSDメモリなどはお手軽すぎるきらいもある。

ゆえに、ライカへのフィルム装填は、これはスポーツの一種だと思う。




2012年9月 6日 (木)

ジャケットを新調する

Photo_2

ジャケットを新調した。思えば、この前にジャケットを買ったのは1983年の夏に、マンハッタンはキャナルストリートの蚤の市で買ったのである。グリーンのワンボタンのジャケットで気に入っている。

値段は古着なので20ドルであった。20ドルと言っても1983年当時の20ドルはレートが280円ほどしたから5000円の買い物である。マンハッタンの中古カメラ店のウインドウを覗いて、せめて円が250円レベルになれば良いのにとため息をついた。それが今ではこういうレートである。

そのグリーンのジャケットはあたしのただ一着の「フォーマルウエア」であった。家人のリサイタルとか、なにかの授賞式の時にもこれを着ていた。

そのうち、15年ほど経過したら、裏地がぼろぼろになった。知り合いの洋服屋さんに裏を替えてもらった。その時にジャケットの裏のラベルがブルックリンのどっかのテーラーのクラシックなものであったので、後で思いだして電話したら(今は電話は廃しているが当時は普通に電話を使っていた)洋服屋さんの答えは「あれ、捨てましたけど要るんですか?」であった。
それでまた着ている。

六本木ヒルズクラブのメンバーになって10年目であるが、ドレスコードはカジュアルなので、用があると何時もそのグリーンのジャケットを着てクラブに行った。スタッフは「いつも同じ上着をきてくるじいさん」という認識であろうが、それはそれで有り難い。

しかし30年前にマンハッタンで買ったグリーンのが最近ではそこここに小穴が開いたようなので、そろそろ次のジャケットを欲しいと思った。

これは還暦を過ぎてのおめでたい赤なのである。ちゃんちゃんこは着なかったから、ちょうど良い色合いだ。イタリア製なので「がたいのある」あたしでも肩のあたりはきつくない。しかも麻なので快適である。

しかし薄いこのジャケットを着ていても、この夏はかなり暑い。東京大周遊をしていたら、家人からメールで「タモリさんが同じような色のジャケットを着ていた」とのワーニングが入ったけど、別に真似をしたわけではありません。

★カメラはハードボイルドなXZ-1。

2012年9月 5日 (水)

三周年の白いペン

Photo

3年前の夏にペンデジタルが登場した。

当時と現在を比較すると、ミラーレス一眼レフは将来受け入れられるか、などというメデイアの論調も今にして思うと今昔の感がある。

あたしのデジタルカメラへの決定的な刺激を与えて、しかも仕事と表現のターニングポイントになった機種を時系列に書き出せば、GR-D、Rd-1そしてペンデジタルということになる。

広告の仕事などだと、営業さんが「小さいカメラだとちゃんとした請求書を起こせない」という理由で、あたしにフルサイズのデジタル一眼レフを使わせようとする営業方針があったようだが、最近ではそういうこともなくなった。
これは広告の営業さんのお得意様の企業の担当者さんが「カメラが分かっている人」であると「フルサイズ以外な駄目」というような意見を言わないものである。

この3年の間にマイクロフォーサーズと、ペン(と、OM-D)がもたらしたものは非常に大きい。簡単に言ってしまえば「地球上を移動する人類の視神経の記録装置のサポート」ということである。

もっともマイクロフォーサーズが、趣味にも仕事にもそのシャープネスは充分であるということがすでに「定説」になっているが、当初はペンデジタルを製作したオリンパスの当事者さんですら、その事実を知らなくてRAWではなくJPGでのあたしの写真展の大伸ばしのプリントを見て、それに吃驚したいきさつもある。
その逸話は発売中の[OM-Dワークショップ]にも触れた。

あたしの好きなのは、初代のペンの白である。このカメラは目立つので、海外でもこれを携帯しているカメラ人類は非常にお洒落に見える。なにも声をかけるすじあいのものではないので、黙ってみて通過するだけであるが、工場デザインのオリジナルモデルはその個性が際立っているのは、ライカA型を引用するまでもない。

初代の白いペンを最近また使い出した。確かに最新のOM-Dに比較すると、動作はスローであるかも知れないが、実際に撮影してみると、そのことはあまり気にならない。おしらく、手触りとかデザインというものが、操作感覚より上のステージにあるカメラと人間のコミュニケーションなのであろう。

白いペンの手触りが好きだ。

2012年9月 4日 (火)

スターリン建築みたいな、、、

2

Photo

この間の蒲田呑み川代周遊だが、面白いのは自分の意志でコースを決めたのではなく、同行の呑み川さんの少年時代の記憶とランドマークを追憶して案内してくれたことにある。

小雨とゲリラ豪雨と早い雲の流れが一緒になった3時間は、さながらここが生まれ故郷の呑み川さんの半世紀の人生をタイムラプスで視るようであった。

呑み川に関しては、呑み川さんの影響で10年ほど前に、この上流、つまり武蔵小山界隈の流れを散策したことがあった。

しかし今回の発見は呑み川は、蒲田駅で大きく屈曲していることを教えられたことだ。少年時代の読み川さんは「冒険」に行く時も川沿いに歩行すれば迷わないと知っていたのは、偉い。
まるでラテン諸国のコンキスタドールの探検である。

蒲田駅の北側の広い敷地にまるでスターリン建築ばりのビルがあるのには、吃驚した。その左右対称がその建築スタイルを連想させるのである。

呑み川さんの奥様は「エプロンカメラマン」であるが、ライカで35mmレンズではこのビルの全景が撮れないので、駅ビルの例の観覧車のある所の屋上に上がったら、ここは撮影できないとzセキュリテイに制止されたという。

戦前の横須賀よりも窮屈な恐ろしい時代になったものだ。

★カメラはハードボイルドなXZ-1

2012年9月 3日 (月)

呑川さんと呑川界隈を歩行する

Photo

2

3

4

9月2日の日曜の朝に、目覚めて寝室で仰向けになったいたら、いきなり例の大森中3/8にある、低いけど高い自販機がまた視たくなった。
こういうランドマークは一週間に一度は健康の為に視た方がそうさそうである。

それで呑川さんにメールして、ご都合よろしければ蒲田あたりでランチでもいかがでしょうかと連絡した。
すぐに返事があって、どこで合いましょうかというので、それなら11時にランドマークの前で会いましょうとなった。あたしにすれがここは銀座四丁目の和光前での待ち合わせより格はは上なのである。

佃から1時間かけて、ランドマークに到着したら、呑み川さんはすでに現場に居て、缶コーヒーを飲んでいた。無論、このバスケットボールの選手でないと最上段から買いものができないという、ギネスクラスの自販機だから、ちゃんと手の届く範囲の商品を買ったのである。
身の程の飲み物を買うという意味で、この自販機はグレートテイチャーである。

徒歩、観測気球の工場とか、飛行機のタイヤ工場を視て廻った。ここは羽田空港の側なので、アビエーションに関する工場が多いのも良い感じだ。

産業道路に金網屋を発見したのは、嬉しかった。あたしは金網店フェチなのである。こんど開店している時に来てみよう。

その先の地元の呑み川さんでも、いつも閉まっていてなかなか入店できないという、氷屋さんの福田屋が開店していたので、氷あずきりょん。

この界隈はかつては海苔産業があって、その海苔を乾燥する作業の人たちが炎天下から涼を求めるというので、こういうお店があるという、呑み川さんの説明には説得力がある。

海苔の乾燥をしていた空き地は後には町工場になったのでしょう、と呑み川さんは言った。これも説得力ある地元市民のコメントだと思った。

カメラはハードボイルドなXZ-1

2012年9月 2日 (日)

大阪芸大での展示用にプリントを用意する

Oosaka

この十月から大阪芸術大学写真学科に、出講することになった。その関係で学内展で展示の企画があり、先週末にそのプリントを大学に送った。

20点ほどの、シルバーゼラチンプリントである。このシリーズ「プラハ」は1985年に撮影した。プラウベルマキナプロシフトにスーパーアングロン47mmで確か300本ほどのモノクロフィルムを撮影した。

当時の仕事のやりかたを今回想するに、まずカメラのサイズと使うフィルムの量を最初に決めるのである。これはかなりアナログ的な思惑なのだけど、ちょうど紙の本の計画と似ている。最初にフォーマットと頁数を決めるわけだ。

当時はプラハは社会主義であったから、街の中心部の大手デパートに行って、チエコ製のFOMA PANを一度に300本だか購入した。社会主義体制というのは物価はどこでも同じだからこういう買いものが可能だった。

1985年だからすでに三十年にちょっと足りない大昔のことであるが、この革命前のモノクロプリントを今視ても古くさいという感じはまったくないのが、不思議な事実なのである。

どうも写真の本質があらわになっているプリントというのは、風俗としての時間経過の枠からはすでに独立した自由な存在の位置に立っているということらしい。

大阪芸大ではそこら辺の事情をより深く思考してみたい。

ところでこのプリントのサイズは11x14インチである。これが昔からのあたしのスタンダードサイズなのだ。人間の視神経を吃驚させるような巨大プリントは、ちょうどあたしがMoMAに「留学」していた1983年に「Big Pictures」という巨大プリントの展覧会があったのだが、あたしはそれは興味をしめさなかった。

あたしがMoMAで研究していた作品は、もっぱらウエストンであれ、アジエであれ、エバンスであり、いずれも8x10サイズとか11x14サイズの作品であったからだ。

思うに巨大プリントは看板屋さんのお仕事の領域であり、額装屋さんを儲けさせる為の方便なのではなかろうか。

ゆえにゼラチンシルバープリントはあたしは11x14以上のサイズは制作しない。

20年ほど前にある企画展で一度だけ、12x20インチのプリントを制作したことがあった。ただしこれは引き延ばしではない。そういう大きさのカメラで密着プリントを制作したのだ。

ちなみにこの20点のゼラチンシルバープリントはあたしの所有ではない。個人蔵であって収集家から拝借して展示するのである。

2012年9月 1日 (土)

東京の水

Rimg0104

Rimg0136

東京大周遊の重要物資は、カメラもスニーカーも大事だが、今の季節にはやはり飲料水である。東京には幸い、自販機が沢山あるから問題ない。欧州だとかならずミネラルウオーターのボトルを持参する。

日本に沢山あって、欧州にあまり見ないものはミネラルウオーターのボトルだ。向こうでもあるけど、欧州ではかならず人間から手渡しで買うことが圧倒的だ。

日本は機械が売ってくれる。大周遊をしていると定期的に水を買っていたのだが、最近ではその行動パターンが変化してきた。大周遊と言っても、満六十五歳が歩行しているのであるから、定期的に公演で休憩する。休憩というのは語感が悪いので、これを「時間調整」という。

公園にはかならず水飲み場がある。それで空になったペットボトルに、水を満タンにする。最初は近所に自販機を発見するのが面倒なので、この行動をしていたが、最近では東京の各地の水道の水を味わうのが楽しみになった。普段は佃ではペットボトルの水だし、ヒルズではエビアンである。地元の水を飲むのは、大周遊の時しかチャンスがない。

毎日、3回水を汲むとして、毎日、大周遊に出るのではないけれど、月に三千円からの節約だ。なかなか馬鹿にならない。こういう事を書くと「ミネラルウオーター会社の敵」となりそうだ。

そう思うと、大周遊中に東京の水を飲むのも、楽しみのうちになる。ただしこれは夏場だけの話である。

上の公園は足立区江北2丁目界わい。そこで画面中央に見える、水飲み場から収集した水がこのペットボトルの水だ。翌朝、朝食の時に前の日の水の名残を味わうにはなかなか「風流」である。


« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31