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2012年8月31日 (金)

ハードボイルドなXZ-1

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XZ-1が最初に披露されたのは、前回のフォトキナであったかな。
外人さんが多数押し寄せた真ん中にクリスタルの箱があって、それがヴェールオフされると、カメラマンがいっせいにフラッシュをたくという感じの画像を見た記憶がある。

あたしが実際にXZ-1を使いだしたのは、一昨年の暮れであったか、それとも昨年の正月であったか、記憶がはっきりしないが、最初のかめらの印象は鮮烈であった。レンズが明るいのとシャッター音がかなり静寂なので、スナップショットの為に造られたカメラであることがすぐに分かった。

それで愛用して、昨年の3月のマンハッタンではこのカメラがメーンであった。春先の悪天候の中、ストラップをつけたXZ-1を裏返しに(レンズは胸の方を向くように)ぶら下げて、ローワーイーストサイド、つまり30年まえにマンハッタンに住んだ当時にはもっとも「剣呑」であった界わいを撮影した。
今のマンハッタンは安全になったけど、当時はカメラを持参することが「そのまま犯罪を誘発する」ような場所であった。
マンハッタンの怪人のチョーセイさんに最近のLESの事情を色々教えてもらった。

今年の春頃に、ヒルズの49階から空を撮影したら、天空にモスラのような怪獣が居る。これは撮像面に付着したごみなのである。レンズ交換式のペンなら、吹き飛ばしことも出来るが、レンズの外れないカメラはそれが出来ない。
修理に出つもりで、佃の大ガラスの部屋にぶら下げておいた。そのうちにOM-Dワークショップの撮影で多忙になってそのまま忘れていた。

OM-Dワークショップ(えい出版)が世の中に出て、XZ-1を手にとってファインダーを見たら、モスラばりのごみは落下したようでクリアになっている。これがその画像だ。それでまた使用を開始した。P7262471

このカメラの存在はかなりハードボイルドなので、これを見た人は吃驚して「まるでペンチでレンズをねじ曲げたようですね」とか「それでちゃんと写るんですか?」と扱かれるが、写りにはまったく問題がない。それだけバレルの設計と工作が優れているのであろう。

この傷がどこで出来たか、記憶にない。思うに撮影中にはそれなりにカメラには気をつけているので、これは輸送中に出来た傷だと思われる。

9月のフォトキナではこれは予想であるが、まずOM-Dの改良モデルは出ないであろと予測する。世代交代からすれば、XZ-1あたりがモデルチエンジしそうだ、あたしの希望は立ち上がりの速度がもう少し高速になると嬉しい。

XZ-1はこれ以上の小型化は限界だからしないであろう。あたしはストラップで首から提げて撮影している。ただしこれはGパン着用時の話で、カーゴパンツだと、ストラップを外して、尻ポケットに入れる。これも快適な撮影スタイルだ。

2012年8月30日 (木)

東京電灯下谷変電所

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この前、福田和也さんと日曜の朝から飲み出した時、上野の昭和通りから二本西に入った小路を北上していて、なにかふっと空間の感じが落になったと思ったらそこに風変わりな東京モダンの建て物があった。

その隣の飲み屋に入って、辛口の日本酒などを飲んでいるうちに、その「緩い空間」のことは酔いの彼方に忘れてしまった。

これは東京電灯下谷変電所なのである。
百鬼園の随筆の中で、電気暖炉(電気ストーブの当時の言い方)を買おうとして、東京電灯の尾張町の店に見に行くというくだりがあった。当時は電気の最大の使用目的は電灯である。ランプをエレキが駆逐したのだ。

その時代を考えてみると、変電所というのはもっとも進んだランドマークであったのだ。しかも何かを商うというのではないから、人間の出入りはないわけで、そこが「建築に彫刻の魅力」がプラスされるわけであろう。

この建物がゆるい空間のゆとりを感じさせるのは、敷地が狭い日本の路地の両側に展開していることだ。結果として建物はセットバックして建てられているから、そこに空間のゆとりが生まれる。

このショットは建物の西側からの撮影だ。つまり裏側である。反対の正面はエントランスがあるので、せこましくて、列柱の魅力が入り口によってカットされている。

2012年8月29日 (水)

フェルメールと大型液晶自販機

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上の画像は昨年の一月にウイーンのミュージアムでの、フェルメール(コピーではなくオリジナル)である。

下の画像は最近、登場した大型液晶画面の飲み物の自販機である。これは東京近郊の素朴な駅のそれであるが、子供に人気である。

液晶に商品が見えるのは、なにか本物の空き缶が並んでいるより、ビビッドに見えるのは不思議だ。

本物と複製芸術に関しては、かのベンヤミンが論じたのは大昔のことであって、オリジナルと複製の混乱の整理はそのうち、ちゃんと論じられる時が来るのであろう。

フェルメールの「オリジナル」が来日して、大阪に飛行機で駆けつけたら、人間の頭しか見えなかったと言った編集者さんがいて、思えばこれは十年ではきかない大昔の話だが、フェルメールを興行として見るのならこれは大成功なのであろう。

しかし画の前で立ち止まらないでくださいという警告があったりすると、これは事情が変わってくる。ウイーンのフェルメールなどは、「人気がない」ので、誰も前に立っていない。それゆえフェルメールと独占するにはウイーンは格好なのである。

液晶の自販機を最初に見たのは、両国駅構内であった。次に視たのは「鼠園」のある駅で、大勢の中国の観光客さんが、この周囲で一緒に記念写真を撮影していた。

自販機の商品の映像がリアル感と感じつのと同様に、フェルメールもその複製で十分である。無論、上の画像もフェルメールの複製である。

デジタルカメラの感度は高いのでこれは綺麗に見えているが、実物はもっと暗いのである。

2012年8月28日 (火)

安くて高い自販機

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呑川さんと言うのは仮名であって、彼が生まれた蒲田地方に流れる川の名前である。その呑川のブログで「安くて高い自販機」の話がでていた。
アパートの土台が路面から1メーターほど高い場所に設置された、自販機なので上の方の商品はバスケットボールの選手でもなければ買えないという「優れもの」である。こういうのは勘違いが起こって「世界で一番高い自販機」などといってギネスに登録申請されるかも知れない。
今の日本の危険度だとそういうことも起こり得る。

この前の四谷アローカメラのシドニーの時に、呑川さんが久しぶりに遊びに来たので、その「安くて高い自販機」の存在場所を教えてもらった。

東京大周遊で、飲料水は死活を分ける重要な物資である。この日は午前に佃を出て、この自販機から水を買うまでは、一切買わないことにした。

死の行軍というやつだ。
十数年前に、呑川さんとかBMW野々宮らと、モノレールの平和島から天空橋まで炎暑の中を歩行した。吃驚したのはそのルートに飲料水の自販機は一台もなかったことである。

この日に現場検証した自販機は確かに最上段の商品は買えない。あたしが常用の仏通の水は4台のマシンの一番右のやつで買えたが、他の三台では一番上なので無理である。

向かいに作業所があって、そこから男性が出てきた。どうするかと思っていたら、やはり「手の届く範囲の飲み物」を普通に買っている。この人は人生の達人だと思った。

手にしたペットボトルを持って手を伸ばすと、後の三台のマシンの最上段の水も替えることが判明した。

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2012年8月27日 (月)

クラブエダムの記念写真

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この前、クラブエダムでなにかの集まりがあった時の記念写真である。

撮影者は日大四年生のガスマン堀野である。その場所に居たので、別にガスマン哱野の撮影具合を評価するつもりはないが、見てしまったのは仕方ない。

動作が遅いのは、東京のような場所なら安全であるから、問題はないが、1983-83にマンハッタンで8x10であたしが撮影していた時は、なにしろ空前の治安の悪い時期であったから、三脚を据えたら、すべてを1分以内に完了させる必要があった。

八番街と42丁目の角はかなり剣呑な場所であるが、地下鉄の構内も三脚を立てるのは違法だから、セキュリテイに見つかる前に、8x10の撮影を終了させる必要があった。普段は首からさげたウエストンのメーターで露光を測るが、地下鉄の構内ではそんなゆとりもないので、シャッターを開くと同時に、手持ちのオリンパスXAのシャッターを押す。絞りは両方ともf16にセットしてある。

それでXAのシャッターが綴じたら、8x10のシャッターも綴じる。これで完全に自動露光で撮影ができた。

そういう時代を思い出すと、ガス万堀野ののんびりした撮影は、逆にゆとり教育の成果ととも思えて、それは良い感じであった。

しかし、モデルの方から「写真やさん、まだ終わらないの?」の声がかかったのは事実だ。

この前、エダムに行ったら、ママが立派なゼラチンシルバープリントを見せてくれた。これがガス万堀野の仕事なのである。

撮影したプリントを届けるなどは、なかなか紳士であるなと感心した。

2012年8月26日 (日)

鉄管堀界隈

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この数年、毎月のようにプラハに行っていたので、佃月島の徘徊はおろそかになってしまった。

二十年以上前に佃に住むようになって、最初にこの界隈を歩行するようになったのは、月島図書館で木村伊兵衛、とあたしの展覧会を企画した時のことだ。

かなりのスペースのあるギャラリーなので、もう一人欲しいということになって、吉村朗を指名した。

伊兵衛さんの作品は中央区がコレクションしているのである。あたしの作品と吉村君の作品も買い上げてもらった記憶がある。

その時に佃から月島を歩いて撮影したのが、今のあたしのこの界隈の「土地勘」になっているのである。

勝ちどきの交差点の北に東西を隅田川と朝潮運河を結ぶ流れがあった、そこは船たまりになっている。その南東の角は釣り人の良いスポットらしい。

十年以上前のあたしは、なにかにつけてこの角まで来て前に広がる水面を見ながら思索というのは大げさだが、とりとめのないことを考えたりした。気に入ったベンチがあって、夏は風が来るし、冬は風よけになる格好のコーナーなのだ。

そこに地元の篤志家の書いた、高さ1メーター、長さは10メーターはありそうな、界隈の歴史の案内が白看板に黒ペンキで描かれていた。

「東京市最東端たり」とあったから昭和の初期にはここから東に房総の山々を見晴らせたとある。

「鉄管堀はウナギの養殖で有名なり」ともあった。もともとの通称の鉄管堀というのが、いかにも近代日本の感じである。

月島シャーリングという工場があったこととか、有名人の別邸が高潮で被害をうけたなどの表記もあった。吉本さんの実家のボート屋はどこにあったのであろうかと想像した。

この前の日曜の夕刻に実に久しぶりに、鉄管堀を再訪したら、良い光であった。

撮影は「銀色のベレッタ」(訳注CX-2)

2012年8月25日 (土)

カネボウ界隈

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鐘淵駅とその北側の掘切駅はなかなか味わいがあるが、堀切駅は隅田川と荒川のはざまにあるので、街歩きには向いていない。

その点では鐘ヶ淵駅の方が良い。駅からまっすぐに東に抜ける一本道があって、そこを初めて歩行した時に興味を引いたのは、交差する小道はすべて直角ではなく、鋭角の角度で交わっている点だった。

もともとあった生活道路に「改正道路」(これは古名である)を開通させると、そういうことは良く起こる。東京の周辺部では広い道路と交わる斜めの小道は珍しくもないが、鐘ヶ淵界隈はそれが徹底しているのが負い。

通常は鐘ヶ淵の一本道を行くが、この日は鐘ヶ淵ラビリンスの方に道をとった。
道に迷う快感を楽しんでいると、例の一本道にでるのであるが、その時の歩行の身体感覚は「お!なにか斜めに交差している広い道があるな」という印象であって。これが哲学的な「自者と他者の比喩の模型化」のように感じラれるのも、妙である。

鐘ヶ淵は鐘ヶ淵紡績で有名であった。カネボウである。20年ほど前はその広大な工場跡地が見晴らせたものであった。

駅からまっすぐな一本道をしばらく歩くと、この前紹介した「町会帽」のお店が右手に見えてくる。その先が更正橋の交差点だ。

カメラはXZ-1である。昨年の春のマンハッタンの撮影では大活躍した。今年の春だったか、素子に大きなゴミがついていて、サービスに出そうとしてそのままに部屋にぶらさげていた。

その存在に気がついてテストしてみたら、数ヶ月の間にどのゴミは落ちたようでまた使えるようになった。

2012年8月24日 (金)

コンドルという名前の永久カレンダー時計

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一時期、ebayで戦前のソ連製ウオッチを「大人買い」そしたことがあった。お目当ては1925年当時の「モスクワ第一時計工廠」のものである。
そのうちに、ソ連製ウオッチの専門家と勘違いされて、某雑誌の特集を依頼された。これが8年ほど前で、仕方ないのでロシアからあらゆるウオッチを買った。もっとも200個程度である。

200と言うと吃驚されるが、スイスの高級機械時計が200なら大資本が必要だが、ソ連の時計は精度はクロノメーターなみの品物もあるが、価格は10ドルほどであるから心配はない。

これは70年代に独逸の港町の安売り店でよく居られていた「オリエントのカレンダー時計のロシア製のコピー」である。

スイス製のパーペチュアルカレンダーのモノは工芸品だが、こちらは安価なスーベニアである。しかし精度は実用では問題なし。そういうウオッチは面白い。

そういうウオッチが満載の箱が発掘されたのであるが、これが機械式であるから、ねじを巻けばそのまま動くというのがスマートだと思う。
デジカメもそうだけど、どうも電気がないとお手上げというのは、やはり緊急時には信用できない。

ところで、この永久カレンダーを見たら、開始が1992年で最後は2012年である。1992年には世紀末はまだであるし、21世紀など遠い未来と思ったいたのが、支給の公転はつつがなく遂行されて、このカレンダーの最終年度になった。

そういう風に時間は経過して行く。
高度成長期にサラリーマンのお父さんは、機械式の腕時計のベルトに薄いアルミ板のカレンダーを巻いていたものだった。
あれが会社員の共通項みたいな時代があった。その安物ぺらぺらのアルミのカレンダーは一ヶ月ごとに付け替えるのだ。

あれは銀行などの、ギブウエイであったのだろうか。懐かしい。

2012年8月23日 (木)

OM-Dに野口るっくす非球面でテスト撮影

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アサヒカメラの60年代の新製品海外短信で、手磨きで世界一明るい、ライツのレンズという囲み記事を読んだ記憶がある。

ドイツのマイスターが天才と勘とで、レンズを磨いている姿を想像した。それと前後してニッコール10mmf,5,6のOPフィッシュアイというのも、手磨きの非球面であると知らされた。これは大井町の老練な日本人の職人さんが非球面レンズを磨いているシーンが目に浮かんだ。

当時の非球面工作は手磨きであったから高価だった。最近のアルフェリカルは今川焼きのような金型でぽんぽんと出来てくるらしい。それで有り難みが減少した。

先週から撮影したノクチルックスアフフェリカルのテストであるが、まだモノクロが現像から上がってこないので、果たして「写ってるのか、駄目なのか」まったく分からない。

これがフィルムカメラの三昧境というやつだ。

しかし現代人はせっかちなので、眼前に並んだ、OM-Dに12mmがついたのと、ライカMPにノクチルックスが付いたのとを並べて見ていたら、机の脇のがらくたの中にMをマイクロ4/3に変換するアダプターがあったのでこういう実験をした。

意外だったのはf1のノクチよりも、モノの形がアウトフォーカスでもちゃんと描写されていることだった。

撮影はすべてF1,2である。

2012年8月22日 (水)

氷あずきを観察する

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西新井近辺のランドマークと言えば、「錆び王」(寂び王)であったが、そこはすでに更地になってしまったという感慨もつかのまで、この間、見学に行ったらマンションの新築中で「入居者募集」の看板が見えた。

西新井界隈の「メランコリックオブジエ」には、駅の南方向から駅舎にショートカットする時に、非常に好きな風景があった。それは「砂利道」なのである。

最近では東京には砂利道はもう絶えてないと思うが、その最後の残りの部分がこの短い通路であって、周囲には青ペンキのスレート瓦の平屋が数軒あって、そこだけが「片岡義男言う所の映画のセット」になっているのである。

その思い出の小道がマンションになってすでに数年は経過している。

駅の南、環七のすぐ裏にある「かどや」の存在は以前から知っているが、こういう鄙びた店舗が御大師様の参道の気分を盛り上げている。

ただし客になったことはない。というのも、駅から、あるいは荒川土手からここに到着して、さあ、これから撮影だという時には、こういう店に入れる気分ではない。

先日は舎人ライナーの西新井大師西(このトリッキーな名前がいいねえ)で、大師方面に歩行を開始したら、白雨になった。あたしは外人なみに傘をささない主義であるが、あまりの驟雨なのでコンビニで傘を買った。

西新井大師西から御大師様への行き方は多くの善男善女は道に迷うことがあるらしく、そういう巡礼の為にサンチャゴデコンポステラ並の道標がある。

ところがこれが非常に分かりにくいので、東京原住民のあたしでも難儀をした。そそれで今回は自分の脳内コンパスを頼りにして歩行したら、御大師様のちょうど裏手に出た。

境内を抜けて、かどやの前まで来て「今が時期だな」と思った。これを逃すともう人生で角谷に入ることは皆無と思ったのである。

この決断は大したものだと思う。還暦を5年も経過すると、それまで「男一匹甘い物を商う店にはいれるかってんだ、べらぼうめ」という見栄があったのだが、そういう気の迷いが一気に消去されたのである。

雨が降っているのだから、客はあたしだけでデコラの剥げたがたびしテーブルの前で所在なく、雨の路地の向かいの青トタンの寂びたのを見て居るうちに、件の氷小豆が運ばれてきた。

まず半世紀ぶりかとも思われるが、一見してその「地理学的な景色」に痺れた。

同時に回顧されたのは少年時代には、こういう飲食店に「氷あずき」などの商品サンプルというものがあって、それはガラス容器の上に綿を載せていたという記憶である。

それから、古い記憶がずらずらと怨嗟して、1970年頃、愛知県のトヨタで撮影をしていた当時、近所の閉店したような雑貨店に、戦前と思われるような、こぶりな氷用の硝子器が沢山安価出ていて、それを買いに行ったことも思いだした。

2012年8月21日 (火)

白山上の「映画館」

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都営三田線の白山駅のすぐ北側のやたら傾斜のある小路に占領された一帯に「映画館」というジャズスポットがある。

いや、その名前は後で知ったのであって、20年ほど前は、坂を下るポイントの右側に映写機のがらくたが看板代わりに展示してある場所という認識があった。

しかもその風化した映写機は「北辰」というモデルであったこともあたしは知っているのはちょっと病的なのであるが、数多い16MM映写機の中で唯一、北辰というメーカーのは通常の映写機が「左勝手」に対してこれだけ「右勝手」なのである。映写機を操作するときに、投影レンズがどっち向きかの、これはマニアックな話なのである。

ちょうとすきやばし次郎の本店と昼図の支店とでは、カウンターの方向が逆なのに似ている。

この白山上の映写機の遺跡の展示をあたしは好ましいものと思っていた。あたしは映画ファンではないが、撮影機ファンであってその意味では例の足穂が「映写機のフィルムの巻き取りリールに恋する」のと同族なのである。

そのポイントに数年ぶりに行ったら、うれしいことに撤去された北辰の映写機から今度は、パナフレックス風のに機種が変わっていた。良く見るとそれぞれのパーツはホンモノの映画撮影機のものではなく、良く似た金属パーツでそれらしく制作してあるのだけど、ちょうど見た感じはホンモノの映画撮影機よりホンモノに見えるのである。パナフレックスに1000尺のマガジンを付けた所に似ている。

詳しく観察すると、この手のモダンな撮影機はアイピースが大きいというのがその特徴であるのだけど、このモデルカメラではアイピースは何処かで見たことがあると臣ったら、それはアサヒペンタックスの最初のモデルのスポットメーターなのであった。
感心である。

さらに良く観察して吃驚したのはそのレンズである。こういうPROPやモックアップの場合、撮影レンズはただのプラスチックの筒で代用していたりするものだが、なんとホンモノのフジノン100MMのF2という超珍品レンズが惜しげもなく使用しされていた。そこだけがホンモノなのがさらに本物っぽい。これを製作したのは「ただ者」ではないのが分かる。

下の図を参照のこと。

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2012年8月20日 (月)

OM−Dには薄くて小さいレンズが良く似合う

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OM-Dワークショップは、おかげさまで好調な売れ行きである。感謝。

このムックはあたしの自由に書いたものだから、いわゆる「クライアントチエック」は一切入っていない。それだけ自由に思う所を書いている。

クライアント関係は票四の高千穂の広告だけだ。この女優さんが最初に「田中長徳ペンの本」〔インプレス刊)の票四に登場した時、あたしには日本人の年齢を読む能力がないので、どっかの高校生が登場したのだと思った。

今回は有名な女優さんであることは知っているのであるが、そのお名前をど忘れした。オリンパスの創業何十周年だからの社内の雑誌に、あたしと並んで言葉を寄せているのであるが、このど忘れはこまったものである。

OM-Dとレンズの組み合わせは実用上だけではなく、趣味の上でもかなり遊べるのであるが、このムックには純正のレンズの紹介の他(あたしが常用の)に、持っているレンズの森の中から「厳選」した非ズイコーレンズの組み合わせの楽しさを紹介する1章がある。これが実は一番面白い。

その中でのソ連製のうすっぺらで実に小さいFED28mmf4,5を紹介してあって、これは清水編集長も「絶妙な組み合わせ」と絶賛していたせいもあって、その章の扉にもなっている。

昨日、東京大周遊でホロゴン15mmf8をライカMP(本もの)に付けて、東京の周辺部を7本撮影した。その後、ねっとさーしんをしていたら、どこかの「うわさ記事」で高千穂が15mmでf8の薄くて小さいレンズを出すという「うわさ」があって、その画像というのも出ていた。

これが奇っ怪な形でしかも、仕上げが真っ黒で、さらに不思議なのは、どうも裏側から撮影したようなのである。どうもマニュアルフォーカスらしい。

こういう「うわさ映像」は、はなから信じることはできない。

昨年の四月馬鹿の時に、ドイツの会社がフルサイズの画面の、従来のフィルムカメラのアパチュアに差し込む、素子を発売という記事が出て、あたしなどはそれにひかかった口だし、さらに数年前には、エプソンR-D2という新型のフルサイズ機という「騙し記事」に、これは業界の皆さんがやはりやられたことがある。

しかし今回の明るさがf8という薄いレンズは実現したらいいと思う。実際にこのように薄いレンズをOM-Dにつけて、その携帯性と操作性と、スタイルの優秀さの恩恵を受けているからである。

そこで思いついたのだけど目下、偽ライカ愛好会の928怪鳥から貸し出し中の、くだんの幌ゴン15mm f8であるが、これは果たしてOM-Dに装着可能であろうか。

さっそく実験してみたい。

★後に記す。実験したらクリアランスがなかった。ホロゴンはOM-Dには使用できません。

2012年8月19日 (日)

異国としての蒲田

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パパブッシュの当時、テキサスをずっと取材して、その大きさに吃驚したものだった。

南部のサンアンニオに行って、アラモの砦なども取材した。ここは「聖地」になっているので、撮影は禁止であったが、あたしはパパラッチなので、隠しカメラでちゃんと撮影をした。

アメリカもデープサウスに行くと「この先はメキシコだな」という情緒が増長してきて、その感覚はなかなかに好きなのである。

一報で、メキシコシテイなどを歩行していると、この北にはUSがあるなとうう感じはあたしの場合にはまったく感じないのは何故であろうか。

メキシコの裏町を歩行していて、うらぶれレストランでランチを食ったらそれが豚肉を焼いて、チョコレートで味をつけたもので、へえ!と思ったことがあった。辺別に甘くないが珍しかった。

蒲田というにはあたしには異界であって、東京のデープサウスなのである。別にこの南はメキシコだとは思わない、ちゃんと川崎であることは知っているのだけど、そこはかとない異国情緒が漂う。

京急蒲田で降りて、JR蒲田駅に徒歩で向かった。「京浜倶楽部」というようなすがれた貸席があって、それがかつての海岸を感じさせるかと思えば、一方でまるでイタリアのギャレリアめいたアーケードがあるのも面白い。

あたしはあらんことか、その途上で道に迷ったのである、たかだか徒歩数分の距離で道に迷ったので、これはしめた1と思った。

しかしその時はJR蒲田駅に用意があったおで、飲み屋街で掃除をしているおばちゃに「ちょっと道をおたずねしますが」と言ったら、おばちゃんは大きく手を横に振って「だめだめ、あたしはここの者じゃないから」という。

「いえ、そんな難しことじゃないんです。蒲田駅はどこでしょうか」と聞いたら、相手はあたしの顔をしげしげと見て「鎌手駅ならこのパチンコ屋の裏手だけど」と言った。

恐らく徘徊老人と感違いしたのであろう。「カメラを持った徘徊老人」はあたしである。

★カメラはフランス製のフォカに50mmのオプラレックス(黒田慶樹さんと同名の愛好会を結成中)

2012年8月18日 (土)

永代橋上の御神輿をOM-Dに800MMで撮る

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四年ぶりの住吉さまの大祭が終わる日には、富岡さまの大祭が永代橋を渡るのである。あたしの記憶違いで永代橋は毎年、御神輿が渡るのかと思ったのは勘違いであった。
この日終日、佃地方の大ガラスの部屋に居た。

機材はトキナー800mmのf8である。小型なレンズだ。アストロベルリンの800mmf5というのも持っているが、これは重さが10キロはあるので、手持ち撮影は無理である。

トキナーの800mmは映画のドキュメンタリーに良く使われたレンズで、二つに部活できる。フランスの映画チームがこれをAATONにつけて撮影しているのを見たことがある。シンプルなレンズのクレードルで撮影出来るから、最低2名のクリューで仕事が可能だ。

あたしの場合にはワンマンクリューである。タムロンのモノポッドに付けて、これをNFアダプターでOM-Dに付けた。
最初はバルコニーから撮影していたが、暑いので部屋の中の冷房のきいている場所から撮影した。これだけ遠距離になると、硝子一枚加わっただけでは、シャープネスには関係がないようだ。

一面の青い水の中の永代橋と御神輿とそれを船から眺める連中というのは、このまま「浮世絵」に描けそうだ。
いや、平成というのは勘違いで実は今が江戸時代なのであろう。

★OM=D TOKINAR 800MM F8

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2012年8月17日 (金)

ライカMPとホロゴンで駒込を撮す

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この前の土曜に、OM-Dわーくしょっぷの、シークレットサイン会の時、偽ライカ愛好会の928会長がなにやら思い詰めた表情であたしの脇に来て、「先生、これを使ってください」とカメラバッグの中のモノクロフィルム10数本を見せたので、あたしはこれは期限きれのフィルムをくれるのかと、「あ、ありがとうございます」と受けたら、使ってくれというのは、フィルムだけではなかった。一緒にライカMPとホロゴン15mmf8と、ノクチルックスt1,2が入っていた。

最近ではMPはライカ社が出した、MPと刻印してあるライカと混同するので、1957年に登場のMPなどと説明を付けなければならないのが実に面倒である。

それでカメラバッグごと、アウトフィットを拝借してきて、さて、撮影を開始するとなると、これはやはり928会長(怪鳥)の地元の駒込が良いと思った。

それで、最高気温34度が予想されている朝に、駒込駅から撮影を開始した。

持参のフィルムが7本で内訳はクロアチア製の感度25のフィルムを5本、それにイルフィードの感度100のフィルムが2本だ。要するに一日の撮影のノルマを7本と決めたのである。

ホロゴンの画角はすでに長年頭に入っているので、ほとんどノーファインダーで撮影した。ライカMPはライカビットよりもトップカバーの二回巻き上げの方が迅速に撮影できることも再確認した。ノブでゆっくり撮影済みのフィルムを巻き戻すのも楽しみなものだ。

酷暑の街角で日陰を選んで、フィルム交換をするのも緊張感があっていい。こうして、駒込から西が原を経て、滝野川から西新井から北千住方面を6時間歩行して、7本撮影した。ノルマ達成は嬉しいが、その結果はデジカメではなので、まだ分からない。
そこがまた楽しみなわけだ。

2012年8月16日 (木)

足立区関原の「寂び王跡地」とその周辺

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★ブラウザーにより、画像が90度傾いている場合があります。首を曲げてご覧ください。

カメラ仲間の間で、西新井大師駅から南に抜ける関原界隈が凄いというのは昔からのエルドラド伝説である。

この界隈には「錆王」と呼ばれる、トタン貼りでその建物全体がすでに錆で被われている商店があって、そのユニークさは、空筒などとは比較にもならない。

この初夏にこの場所を再訪したら、すでに更地になっていて、吃驚した。こういう永遠にそこに存在するかに思える物件というのは予告なしに消滅する。

この日は、戦後すぐに作られた、コダックレチナにエクター47MM付きを持参した。フィルムは普通のコダックのカラーネガなのに、なにか柔らかなトーンで良い感じだった。

あたしは例のズミクロン35MMの八枚玉への信仰はないが、このエクター47MMに関しては「レンズの神様」というのは存在するのではないかと思っている。

なめらかな自然な描写になる。カラーネガを品川区双葉にある、普通のラボで処理して、それをスキャンした画像がどうして、心にこのように染みいるのか、それが謎なわけだ。

ラストの画像。古い印刷所と、イチジクのコントラストというのも、人間の浅はかなモチーフの組み合わせの想像力の限界をすでに超越している。

現実の風景ってやつは、我々、写真家の貧困な想像力をうち砕く。

そこらが、東京大周遊を真剣に挙行する理由にもなっているわけだ。

★下の画像がかつての「錆王」

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★これが錆び王跡地に建設中の「入居者募集」

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2012年8月15日 (水)

ポルシエが捨ててあるぞ

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あたしは若い当時はトヨタの車の撮影などをしていた。

単純労働で、真夏の二ヶ月を愛知のトヨタで合宿して、いたので体重が一気に58キロから60キロ台になった。これがあたしのデブキャラの始まりである。

この3年間は日本のモータリゼーションの初期の体験を出来たことで、仕事は過酷であったが、豊富な体験になった。

まだ発表前の新車をトヨタのスタジオで撮影したのは、仕事はリンホフであったが、片手間に「洗車セット」の中に入っていた、オリンパスワイドSで撮影した。それを平凡社の世界写真年鑑に見開きで掲載した。無論、新車発表の後であるが、こういう自由さは今の管理社会では考えられない。

お隣の見開き頁は木村伊兵衛さんの深川の高速道路下を撮影した作品だった。若干20歳過ぎの小僧だったから、天下の伊兵衛さんとお隣同志になったと自慢であった。1971年頃の話。

あたしは26歳の時に免許をウイーンに居る間に失効させた。それで残りの人生は徒歩と飛行機とバスと電車で行こうと決心した。これは若造にとってはなかなかの人生設計であったなと自負している。

しかし唯一の人生の夢で乗りたかったのは、ナローポルシエであった。しかしポルシエに乗るために免許を取るのも気の効かない話でそのままになった。

この前、二日連続して等々力渓谷に東京駅南口からバスで行った時、等々力駅からの経路はほぼ同じなのであるが、目黒通りの路傍に初日には気がつかなかったが、二日目に気がついたものがあった。

路傍に1ダース以上のポルシエが捨てられていたのだ。ウイーン時代には911系より其の前の356あたりのクラシックモデルに乗りたかった。70年代のウイーンというのはそういう街であった。

後年、仕事でシュツッツトガルトの北の郊外のツーフェンハウゼンにあるポル死画ミュージアムに取材に行った。場所はなかなか分からなくて、そこらに停車している911の中の独逸人に効いたら「ああ、たしかここにあるとは聞いていたけど、どこにあるか分からない」との返事だった。当然である。ライカM9を持っている人にその工場の場所を聞くようなものだ。

ようやく発見しポルシエの会社は小さな町工場然としていた。取材許可のパスをもらって、ミュージアムを構内で探したが、なかなか分からない。どこか無人の開発部門のような所に迷いこんでしまった。

 70年代のCGなど読んでいたら、最初期に日本に輸入されたPORCHEは日本人は発音がわからず、「ポルシチ」と言ったそうだ。どっかのロシア料理店のメニュー0である。

40歳の時、ミシガン州を4x5カメラを持って旅したことがある。緑豊かな森林を抜けて、小高い丘の上であたしは「車の墓場」に出会った。眼下、一面の廃車の山であった。それが美しいと感じて手持ちのスピードグラフィックで撮影した。

このポルシエはあのツーファンハウゼンの「町工場」から確実にここまで「陸送」されてきたのである。それで殺風景なあの界隈のことを思いだした。

2012年8月14日 (火)

等々力渓谷

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思うところあって、ちょっと大きなサイズの展覧会の腹案あり。

東京を撮り始めたのが1964の東京オリンピックンの時だ。最初はニコンで撮りはじめ、それがライカになった。1969-71の三年間に三回、ニコンサロンで東京をテーマにした写真展を開催した。これは東京都写真美術館が設立された時にそこのコレクションになっている。今、韓国で開催されている東京の60-70年代をテーマにした写真展はそのコレクションから出品している。これはモノクロのゼラチンシルバープリントである。

その後、マンハッタンから戻って、1984年に朝日ジャーナルで「東京キーワード図感」という連載を鈴木清さん、山崎博さんと1年やった。これは8x10のカラーでえある。

1980年代にやはり東京を膨大な数を6x6で撮影している。これもモノクロ。

この数年来、東京大周遊と称して、東京の周辺部を撮影している。どのような展開になるのかまだあたし自身も不明だが、カメラはデジタルを使っている。これは時間経過の結果そうなったという意味である。

東京大周遊にはバスを使うことが多い。メトロは風景が見えないのでつまらない。

東京駅の南口から、等々力行きのバスがある。系統図で見ると、東急の領域のもっとも深い所にまで路線が延びている。

これに思いつきで乗ってみた。アエロフロートで一番遠い路線が西班牙のマラガであることが分かって、わざわざそのに乗りに行ったのは三年前であるが、あれと似た気分だ。

老女三人組が日比谷から乗車して「これ、等々力渓谷に行きますか」とドライバーさんに聞いた。ああ。そうであったかと思いだした。

1984年の朝日ジャーナルの東京の連載はほとんどが8x10カメラでの撮影であったが、一件だけハッセルブラッド(いや、ソ連製のサリュートであったか)の標準レンズで、等々力渓谷のゴルフ橋を谷の下の方から、12枚に分割撮影して見開きで掲載したことを思いだした。

東京駅から等々力までは1時間以上かかるが、あたしは最前席でかしまし三姉妹は最後部なのであるが、ばあさんの声は良く通るので、話が面白い。銀座のマキシ行った話とか、都電の新宿四丁目から発した路線が魚らん坂を経由して、品川に通じていた話など。

三十年ぶりの等々力渓谷は木々がうっそうとしていた。三十年の時間が経過しているのだから、当然であろう。この前に来た時には、例のゴルフ橋だけを撮影して下流の谷の方は見なかったことも思いだした。渓谷をくだってみると、そこに不動尊があって瀧場があって、掛け茶屋があってなかなかのものである。

東京駅南口バス乗り場からの一番遠い南西のポイントがこの等々力渓谷で、一方で東京駅北口バス乗りがからの一番遠い北のポイントが、荒川土手であるというのはいささかできすぎている気がしないでもない。

2012年8月13日 (月)

OM-Dワークショップの「シークレットサイン会」

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これは週末に挙行された、偽ライカ愛好会火器夏期大演習(ただし実弾射撃なし)の様子である。
偽ライカ愛好会がほぼ毎月、撮影会を挙行している。この前は7月に「東京ゲートブリッジ無酸素登頂」に成功した。

その下山した後のベースキャンプの佃地方の尾崎畳屋焼き鳥屋での次回の計画で、さすがに八月は暑いから休会にしようという話であったが、有志が「カメラの話をしよう会」ならびにあたしのOM-Dワークショップのミニサイン会を企画したのである。

会場は武蔵小山駅下車徒歩三分にある某所で、このような陣容になった。出席者は撮影者のあたしの還暦又五歳を筆頭に、あたしが日大の一年に入学した当時に出生した連中が中心の、若い(とは言え、これは年齢の距離感の錯覚だからかなり高齢化)世代である。

実は我が、偽ライカ愛好会もその会員の高齢化問題に直面していて、この中の最年少は「クラカメ高校生」であるが、他の会員が圧倒的高齢者なので高校生一名ではなかなか平均年齢の数値が低下しなかった。

そこに朗報(この言い方がださいのでわざと使ってみる)である。
なんと生後2か月の新会員(写真右の赤たん。最右翼は偽ライカ愛好会928怪鳥)が誕生した。
これで我が愛好会の平均年齢はかなり低くなったが、まだ十分ではない気がっするので、名誉会長代行(画面右側のワン)と名誉会長代行補佐(その左のワン)も算入して計算した。なにか安全保安院お得意の「数字のマジック」であるが、ここらは国民の健康には関係ないのでまず問題はなし。

もともと、出版記念のサイン会は昔は銀座の松屋とか、新宿の伊勢丹でカメラショーの企画でよくやった。

歯医者さんが患者さんの口中で人間を特定できるように、あたしはサインを求めるお客さんの顔も名前も分からないが、持っているカメラとレンズとストラップと小物の組み合わせでほとんどその人間の個体を特定できる。

この2月に六本木青山ブックセンターで開催した「屋根裏プラハ」では10ダースの立ち見のお客さんが集まって、サインの本は4ダースほど売れたが、あの時は皆さん、カメラを持参していないので、その印象が気迫なのは残念であった。

2012年8月12日 (日)

オリンパスWSで西新井本町の混乱の地平線を撮る

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★ブラウザーによっては、縦位置の画面がただしく表示されない場合があります。首を90度傾けてご覧ください。

3年前にペンデジタル1とパンケーキレンズが登場した時、最初のペンデジタルを手にして思ったのは「これはデジタル化されたオリンパスW」であるなという点であった。

昭和30年代後半に35mmレンズシャッターカメラに35mmの広角レンズを付けたスナップカメラのブームがあった。プロからアマまで多くの写真家に愛用された。

しかし2012年の現在にこれを使っているのは、恐らくあたしだけではなかろうか。

東京の「周辺部への愛情」が増加しているので、最近は足立区の西新井あたりを徘徊している。西新井本町から南下していたら、左手に伯林の壁めいたフェンスが登場した。伯林の壁はあたしのノスタルジーであるが、すでに伯林には壁はないので(観光用のそれは相手にしていない)最近では、小菅の綾瀬川ぞいを歩行して、壁気分になっていたのが昨年、小菅に行ったらモダンになって壁はなくなっていた。

それで最近のあたしは、町中の塀とか壁と崖に出会うと、そぞろ前世紀の伯林を思い出すのである。

西新井本町の歩行中に偽伯林の壁が登場したので、懐かしさにまずオリンパスワイドで1枚。

しばらく歩行したら、前方に遠近感を混乱させる集合住宅が登場したので、嬉しくなってまた一枚。

東京の南部の新幹線の線路で「消失点が二個ある風景」は以前に紹介したけど、これは「切り取られた地平線の距離感」とでも命名しよう。

そういう遠近感の混乱を楽しみつつ歩行していると、偽伯林の壁の脇に「名もなき花」が咲いていて、それがまだ若い花でなにか模型めいていると、さらに嬉しくなる。

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2012年8月11日 (土)

オリンパスOM-!で「都バス劇場」

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最新刊の「OM-Dワークショップ」はおかげさまで好調なスタートだ。

本書ではフィルムを使うOMシリーズと、SDメモリと使うOM-Dとは、シームレスな表現の道具であるというコンセプトでこれは「競合他誌」にはない企画と自負している。

もっとも最初のあたしのアイデアは「オリンパスとあたし」というのであって、最初に手にした。オリンパス6(蛇腹のカメラ)から、オリンパスフレックスの二眼レフ。さらにオリンパスワイドを経て、ペンにペンFに、XAからOM-1からOM-4に至るあたしの高千穂神話を本にしようと思った。

しかし160頁とういうムックの制約があるので、清水編集長と相談してこのような形、つまり「OM-!とOM-Dはシームレスな進化である」というコンセプトを全面に出した。これは清水さんの技である。

最近のあたしはデジカメとフィルムカメラの二台持ちで、東京を大周遊していることがおおい。近々、東京をテーマにした(1964年から撮影している)ちょっと大きな写真展を計画しているので、その為の撮影なのである。

バスからのショットで記憶に残るのはロバートフランクが50年代後半にモノクロで撮影したマンハッタンのバスのショットである。これは50mmのライカで撮影された。

バスからの風景が「きわめて劇場めいた視覚の印象」を与えるのはその視点の高さにあることは間違いない。この高さは往年の報道写真家が脚立で撮影したのと同じ効果がある。

この数枚は都バスで千住から淺草まで抜けた時の1本のフィルムから時系列で選んだものである。こうして連続して眺めると、どうも東京の路上の風景ってやつは、50年代のマンハッタンよりもわくわくする。

こんな不可思議な世界に2012年の我々は住んでいるのだ。

★カメラはOM-1 ズイコー50mm f1,4

2012年8月10日 (金)

変なロボットに変なレンズ

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ロボットは西独逸ジュッセルドルフ市オットーべーニング社の製品である、とは大昔に持っていた「やさか通商」の保証書に書かれた文面である。
「正規の関税、物品税を納付したものであることを証明する」とも書かれていた。

為替管理が厳重であった時代の方が、こういう精密機器には有り難みがある。

ロボットスター50はこのようにスプリングの高さがあって、一度の巻き上げでたしか、50枚の正方形の画面が撮れた。それも秒に数コマの撮影で、動体撮影にはうってつけのカメラで、ロボットは大成功したわけである。

ところが、我々のような「変なカメラ好き人類」となると、その中の特殊モデルを評価するようになる。
このロボットは巻き上げ音をギアで減速して、ほとんど音が出ないようにしてある。ようするにアタッシュケースなどに密閉して、外部から電気的にソレノイドを動かして撮影する「スパイ目的」のカメラである。

だから速写には向かない。駅伝などで1枚撮影したらその次のショットは5秒も後である。

レンズの方もかなり変わっている。もともとアタッシュケースなどに入れたカメラに付けるレンズは、外部から見破られることのないように、明るさを犠牲にしても小さい口径の薄いレンズが用意されている。これはスパイ御用達のレンズだ。

このレンズは珍しいテレクセナーで、焦点距離は5cmで明るさはf5,5だ。これは戦前のレンズのようだが、5cmなのにその薄さは異常なほどである。
ちなみにこのレンズにアダプターを付けて、ライカで撮影してみたら、周辺はけられたけど、ちゃんと実用にはなった。

2012年8月 9日 (木)

ひんやり夏向き白いペン

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十年近く前、坂崎幸之助さんと松屋の中古カメラ市で遭遇して、階段の踊り場でお互いのカメラのみせっこをした。

その時、坂崎さんのライカがグッタペルカを全部剥がしてその金属部分を磨き挙げたもので、盛夏であったから室にひんやりして涼しそうであった。

そのライカを愛でていたら、場違いのカメラ人類さんが来て「あ、革がはがれちゃったんですか。こんど、LVンの革をはってあげますよ」と言うのは親切はありがたいが何か興ざめだった。

ペンデジタル1は3年前のデザインなのに、古く見えないところがいい。最近ではあまりEVFも使わないからファインダーはこれでいい。

デザインが時間を超えている感じがある。あたしはその白いモデルが好きで、OM=Dワークショップが校了したので、久しぶりに使ってみた。玉は例のクックの銀色のバレルの三分の一インチのやつである。

夏向きすっきりして良い感じだ。

ところで、夏向きの着物のことだが、断腸亭の日記で困るのは、かなり細かい女性の和服の記載があることだ。戦前の紳士はそういう女性の服装へのたしなみがあったのだ。しかし21世紀のじじいはそれが分からないのでちんぷんかんぷん。

理解可能なのはせいぜいが「罏」(これ、第四水準くらいな)くらいなものだ。夏の和服が分からないので最近の夏のカメラ女子が白いカメラを持つとすずしげに見えるというのが、あたしの「限界」だ。

2012年8月 8日 (水)

キモチもちゃんとつながる、、、

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あたらしいもの好きなので、飛行機に電話が設置された時にはすぐに家人に電話した。何も内容はない。「現在ウラル山脈の東を西に向けて高度四万で時速千キロで飛行中」という程度である。

フラインバイボーイングというインターネットサービスが開始された時には、やはりわざわざ、そのサービスが使用できる飛行機に乗った。
当時はLH(ルグトハンザ)ではフランクフルト行きのジャンボにはまだ設備がなくミュンヘン行きの A340にはあったので、わざわざミュンヘン行に乗ったこともある。

しかしフレクエントフライヤーの商社員さんなどに聞くと、せめて飛行機の中くらいなこの世界と断絶していたいにに迷惑な話だと聞いた。
あたしのような暇人と考えがかなり異なるには仕方ない。

そのフライバイボーイングも早々にサービスを止めたのだが、確か最後の一月は通信料金が無料であった。それでなにか得した気分だった。

佃から昼図に行く時、メトロの乗り換え通路で、この広告が目に入る。それは階段を登って角を曲がる所なので、歩行速度が遅くなるのだ。こういう位置の広告料は高いに違いない。

JALのJFK行きにインターネットが装備されたという広告である。
便利かも知れないが、仕事の出来るビジネスマンには逆に迷惑なことではあろう。

6年ほど前に、パリから日本のセントレア空港に飛んだ時、隣は当時の愛知県知事さんだった。なにか小牧基地で自衛隊機が事故を起こしたので、その一報がコックピットに入ったのである。大事なニュースはこれで充分であろう。

セントレアに到着した知事さんが、報道陣にインタビューされて「あれ!?知らないけど何があったの」では問題である。

2012年8月 7日 (火)

田村さんの都写美のトークショー

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田村彰英さんの東京都写真美術館の「夢の光」展に関連して、写真評論家上野修さん、日本カメラの前田編集長とのお三方のトークが8/4の土曜日にあった。

日本カメラの連載でそのトークの内容を入れようと思って2800Wだけ書いて、残りの700Wだけは会場で書いて差し込むつもりでいたら、前田編集長から4日が校了なのでそれでは間に合わないという。それで一号遅らせて、その差し替え原稿を急遽書いて入稿した。

新潮であしかけ三年というもの、連載「屋根裏プラハ」をやったので、内容はともかく筆力はついた。なんやかんやで1日に20枚から30枚ほどなら、書くことが出来る。これはありがたい。

田村さんのトークの内容はここでは触れないが、あたしが一番興味のあるのは、あたしなどは田村さんがデビューして以来、四十年来お付き合いだけど、もっと若い世代、言い換えればいや、そんなに若いというわけでもない、彼がデビューした当時に生まれた世代は田村世界をどのように見ているのか、それに興味があった。

あたしの周囲でも社会の中核たる、皆さん、たとえば新潮の矢野編集長も、えい出版の清水編集長もいずれも田村さんがデビューした当時に生まれているのである。

これは注意が必要なことだ。というのはあたしなどは田村さんのスタート時点から時間軸を併走しているわけだが、田村さんの歴史を知らない人がメーンになる、とういう時代になってきたのである。

元に、トークでの前田編集長も上野さんも、この日のメーンテーマであった、いわゆる「コンポラ写真」が現在進行形であった時代を知らないのである。しかしそのような同時代性の欠落というのは、これからはごく普通のことになっって行く。

誰も、フェルメールの生した時代を知らなくても、フェルメールの鑑賞には一向に問題がないのと同じことだ。

ところでここで問題にしたいのは、作家の同時代性の話ではない。

トークの会場にあわてて到着して持参したペンデジタル1を取り出したら、そこにはSDメモリが入っていなかった。メモリはカメラバッグの小さいポケットに何時も入っているのだが、そのバッグはヒルズに置いてきたのである。

こういう場合、ペンデジタルに予備のメモリ領域のないのは問題である。

ポケットを探って、iPhone G3を取り出して祈るような気持ちで、電源をオンにした。これも説明が必要だが、あたしのiPhoneは気まぐれであって、機嫌が悪いとカメラを起動してくれない。その時もご機嫌斜めでカメラが立ち上がらないのであったが、思いあまって角を強く叩いたら、カメラが起動した。

かなりアナログ的な反応であるが、年寄りの機材はそういうものである。

それでなんとか撮影したのがこの会場の様子である。

2012年8月 6日 (月)

隅田川にぷかりと御神輿

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良い気持ちで寝ていたら、家人から「船がきますよ」の声で慌ててバルコニーに出て角まで走った。これが実に四年ぶりの行動なのである。

住吉さまの本祭りは3年に一度だけど、昨年がその大祭にあたっていたのが、東日本大震災の件で一年順延になっていた。

その四年前のブログを見たら、台船がぷかりと隅田川に浮いて、装束の人がお人形のように乗っている。これがそのままひとつの星のように見える。

四年ぶりなので今回は柳田民俗学的にクローズアップしてやろうと思ったわけではない。

たまたまOM-Dにソ連製のタイル300mmが付いていただけだ。フルサイズ換算だと600mmの超望遠レンズだ。通常のズームレンズの望遠がわだと、あまりクローズアップできないので海上保安庁提供の難民船の画像みたいになってしまう。

「夢の光」の田村さんが基地を撮影したのは、ノボフレックス640mmだからそれと同様な望遠効果である。

うちの前の隅田川の水面で台船はぐるりと方向変換をする。これはダイナミックである。なにか商品の撮影台の上で品物を回転させたような、視神経の快楽がそこにある。

ゆえに上の2つの画像は同じ、バルコニーの角からの撮影だ。

そのまま佃囃子の船を伴って台船がしずしずと渡御に巡航した。小一時間ほどかけて御神輿はマンハッタンめいた月島をぐるりと一周するのである。まあ、マンハッタンのサークルラインのようでもある。

★OM-D  TAIR 300mm f4,5

★下の画像は四年前の御輿巡行。今回とは反対で時計回りに佃島、月島を回ったことがわかる。

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2012年8月 5日 (日)

パナマ帽子

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三年前の五月にスペインのマラガでパナマを買った。

値段はたしか40ユーロであった。新品のパナマを買うとき、帽子店のおやじはあたしのでか頭を視神経でスキャンしていたようである。

それで渡されたのはぴったりのサイズであった。百鬼園は巨頭であったようで、帽子の買い物に苦労していることが繰り返し書かれているが、パナマ先進国のスペインなら問題なし。

これがないと「ソル」でぶっ倒れる。

そのパナマの生産地はパナマではなく、ホンジュラスであることもラベルで知った。

三年前の7/3に朝、昼図への出かけにエレベーターの中でいかにもという感じの「バタ臭い女性」(これは褒め言葉)に、頭上のパナマを褒められた。同じような品物は日本では3万円半ばはします、、などと言われたので業者さんかも知れない。

その午後、2時20分頃に腕に巻いていた古い銀時計がとまった。直後に家人からメールでライカインコの病が重篤であることが知らされた。

その日の夕刻にライカインコは昇天したのであるが、その代わりにあたしは隅田川の川上に伸びはじめた空筒に救われたりしたのである。

それで主なき後のライカインコのケージの上にパナマを置いて慰霊した。それがそのままに、今ではパナマの置き場になっている。

パナマは涼しい。しかも軽い。それで汗がすべて風通しの良いので乾いて冷却効果は万全である。

一方で、風の強い日には常に吹き飛ばされないように、注意を払う必要がある。よくあたしと同年代の紳士が、帽子とポロのシャツをクリップでつなげているが、あれはいただけないにゃあ。

2012年8月 4日 (土)

ブラックロードで花菱商事を撮る

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最近、昭和30年代の岡谷光学のロードに凝って、各種のバリエーションを集めている。レアなカメラではないから、すぐに集まるし、値段は安価だから財布が寒くなることもない。

その中にブラックペイントのロードがある。これが40mmのレンズがついてなかなか良い感じだ。もっともロードというカメラは全機種が40mm広角レンズがついていたという、なかなか写真の分かる人が企画していたカメラだ。

OM-Dワークショップが手を離れて、いよいよ8/9に発行されることになったので、今までデジカメメーンだっがのがちょっと一息いれて、こういうクラシックカメラで街歩きをしている。え、東京大周遊です。

板橋駅の東口の小公園があって、そこに児童プールがある。この前に来たのは春先のことで、円形プールにまだ空っ風が吹いていた。

それから数ヶ月経過して同じ場所に来てみたら、もう水が入っていて、午後二時すぐになるとお母さん連が子供をともなってやってくる。

ただしここであたしが撮影したいのは、子供ではなく、駅前の花菱商事という不動産屋の看板なのである。東京大周遊をしているということは、その実。、無数の広告看板を見ていることであり、その看板の字体に注意が行くことでもある。

花菱商事の看板はなにか、昭和三十年代の日本映画のセットめいているのが良い。

そういう映画の冒頭はこのように児童プールで子供が遊んでいて、そこからトラックに乗ったミッチエルが接近して、花菱商事のお店のファサードの前でいったン停止してそれから緩やかに中に入って行く。

こういう移動ショットの長回しで、実際にロケ現場で体験したのは、フォルカーシュレンドルフの@「とどめの一発」のラストシーンであった。

当時の欧州の映画界ではまだ、ステデイカムがなかったので、複雑なドーリーショットで何度もNGが出た。

今ならこの公園前のプールからキャメラが接近して、花菱商事の中にインするなどは簡単なキャメラワークである。

2012年8月 3日 (金)

たていしさま

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たていし様は原始的な信仰の名残が今に残る意味では、神道とか仏教などよりずっと民俗学的なにおいがあるのが好きだ。

ときどき立石参りに行くのであるが、この立石駅からの道順というのがなかなかに複雑である。いったん京成の線路を越えて、古い豆腐屋の先の「風雪ガレージ」の先を道路をこして、そに先がいつも記憶から脱落している。

この前は、立石駅前からではなく、小岩駅からの長征であった。中川の手前にあるバスの営業所があたしのメランコリーオブジエである。その脇の奥戸橋も遙かに空筒が見えるようになり、界隈の光景は一変した。

橋を越えて、土手ぞいの小道に出たのはよかったが、やはり、たていし様への道はなかなか発見できなかった。その場合、こカラー煙突が目標になる。思えば、立石さまは地上に数センチ突起した、石なのである。それに比べれば、カラー煙突の方がずっと立派であるけれど、そこにはやはり「信仰対象の序列」というものが存在するのである。

2012年8月 2日 (木)

日暮里の洋食屋が開くまで

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亀戸から日暮里行きのバスに延々と乗車して、終点の日暮里駅に到着の直前に、右手につたに完全に被われた建物がある。

古い話だが、1970年のカメラ毎日の1月号に「二十代の眼」という特集があってあたしはまだ当時は23歳であったのでそれに登場した。その中の作品につたに完全に被われた建物を横位置で「コンポラ風」にとったのがあった。

以来、つたに被われた建物はあたしの「メランコリーオブジエ」なのである。
ある日の夕刻のそれも遅い時間にバスに乗って、例のつたの家の前を通過したら、中から明かりがみえてよく観察するとそれが渋い洋食屋であることが判明した。あたしは酷い乱視でしかも近眼の老眼なので日常生活には不便はないが、実際には「この世界がそうありたい」と思うものをイマジネーションで見ているだけに過ぎない。平易な言葉に翻訳すれば、「老人の思い込み」でこの世界を見ているのだ。
しかし写真家にはこの「思い込み」こそが重要な思考と視神経を結びつけるきずな(ってあたしの雑文ではじめてこういう変な言葉をつかっちゃった)なのである。

それで日暮里の調査に行った。くだんの洋食店の店頭には営業時間もなにも書かれていなので、まず11時すぐには開店を予測して、それまで周囲を撮影して歩いた。カメラはフォカッチャに28mmがついている。
もっともこの28mmでの撮影ではファインダーは付けて撮らない。この画像は参考用であって、実際にはほとんどノーファインダーなのである。

街を一周して感じたのは「これは映画の巨大なセットではないのか」という一事である。かつて片岡義男さんと東京大周遊をした当時、北区滝野川の裏で「これは映画のセットですよ、、、:」と、片岡先生は一人、つぶやいおられた。

それが想起されたのであるが、その理由というのはすぐに分かった。
ここらの道路は恐らく戦時中に爆撃されて、戦後は新らしい道路になったのであろう。道路は広く、整然としている。
それゆえ、そういう整然としたオープンスペースは映画のオープンセットを連想させるのであって、そこに建てられた建物が非常にセットめいた非現実感を出すようである。

2012年8月 1日 (水)

フォカっちゃで撮る「寂しい東京」

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これは数週間前の東京大周遊の時の1本のフィルムからのセレクトである。その順序は時系列になっっている。

曇りの暗い日というのは、案外に街の杖委に向いている。コミュバスで坂崎さんのご実家の酒屋さんから、墨田区をぐるぐると回って、スカイツリーの下に出た。そこからすぐに発車する都バスに飛び乗った。これが足立車庫とかいう場所が終点でそこから先には連絡はない。

それで別の系統に乗り換える。この東京をバスで移動している間に、車庫から先に行けないというのはなかなかの情緒で好きである。

そこからまたバスを乗り継いで亀有駅前にでた。さらにそこから先に行こうとしたら、足立区役所行きがあるが、これが日々に数本しかない。それでバスで行くのはあきらめて、徒歩出となりの駅の綾瀬に向かった。

この数カットの前の部分はバスの中からの撮影である。後半の目線の低いのは人間の歩行によってもたらされた視点である。

カメラはフランス製のフォカに28mmの広角レンズを付けてある。絞りはf5,6 にしたままでずっと変えなかった。シャッターも1/500にしただけで不変であった。

それで自動的にあたしのまえに運ばれてくる光景が実に不思議なのである。

我々を斯くも取りまいているこの現実とはなんぞや_?と言うほどではないが、視線は形而上学方面に向けているつもりになっている。

フランス製の広角レンズは外見はさえないレンズだけど、かなり良く写る。像面がフラットなのである。12年前、酷暑の日の夕刻に母の死が知らされた時、あたしはタワーの37階から落日と彩雲を撮影した。それは日本カメラの連載頁にカラーで掲載したのだけど、あの時のことが忘れられない。

フォカっちゃで撮る「寂しい東京」はいいな、、、

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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