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2012年7月31日 (火)

檜画廊の中藤展に、きったねえG2を見に行く

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二週間前に、銀座の檸檬で中藤さんから、個展の案内をもらった。

「あ、中藤です。きたないG2の、、」とご本人は言ってけど、老人力のあたしでも天下の中藤さんのことはよく知っている。数年前にそのきったねえG2を見せてもらってその「本館録」を尊敬している。

中藤さんの写真集ももっている。あたしは中藤ファンなのだ。彼の「芸風」の良いところは「人間国宝森山大道風」の散歩手前で踏みとどまっている点だ。

檜画廊はもう40年来の老舗であるそうだが、あたしは知らなかった。界隈だと岩波書店に打ち合わせにゆくばかりだし、古書店を除けばこの界隈なら兵六くらいしか知らない。

この画廊は小さいのでそこがいい。ルイスバルツがまだデビューする前に、マンハッタンの57丁目の南側の20階だかにあった小さなギャラリーで、アポイントをとって見に行った。それがバルツの「サンクエンテインポイント」であった。

同様な印象を中藤展に持ったのは邂逅である。あたしのような年代になると、まず展覧会には行かない。時間の配分ができないし、見知らぬ人を会って、さらに人間関係を広げようという希望などもない。あたしの人間関係はすでに満杯状態である。

会場でオーナーの女史と岩波書店の労組の壁新聞の話などしていたら、そこに酷暑の中から中藤さんが戻ってきた。G2を茶器の名物拝見の気分で見る。まるで現在の「南方録」である。

聞けば、中藤さんは小石川のお生まれで少年時代は礫川公園あたりで悪さをしていたらしい。あたしは音羽だからお隣同志である。

こういう小ぎゃっリーの見所はそのファサードに反射する、町並みと作品のコラボである。

昨年の春にマンハッタンの撮影で、やはりSOHOの小ギャラリーのレセプションを撮影した時に、ギャラリーの外から中を見たら、展示の絵画とそれを見る人間と反射するマンハッタンの日常の光景が良い具合にミックスされていた。

これはM3にコンタックスマウントのツアイスイエナで撮影したのであるが、非常に気に入っている作品なので、この秋に出る写真集「ライカ、マイライフ」のカバーに使おうかと思案中だ。

中藤プロの凄いのは、G2にバリオゾナー35-70が付いている。これでモスクワとレニングラードをなで切りにしたのだから、かのプーチンもなすすべなしであろう。

★カメラは銀色のベレッタ(訳注シルバーのCX-2]

2012年7月30日 (月)

京橋で「カメラの話をしよう」

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東京の京橋で「カメラの話をしよう」というトークがあるので、二月まえに初めて参加した。木戸銭は二千両なり。
異なるメーカーさんの責任者が国境の垣根を越えてトークするので面白い。

前回はオー社のOさんが(なにか芸者言葉みたいだが)出演なので期待して行ったのだがお休みだった。それで座長のTさんもこれから名古屋出張というので、途中からあたしがTさんとタッチしてリングに上がった。
一眼レフの話というので、ニコンFのカタログ撮影の話などしたら、会場がしらけている。聞けば、最近では一眼レフというのはデジタル一眼レフのことだそうだ。

それで二回目参加の前回には話題におくれないように、OM-Dを持参した。レンズはトーマスクックの三分の二インチの広角レンズである。イメージサークルのないのが気に入った。画面が丸く収まっている。
最初のTHE KODAKは100枚撮りであって、画面が円形なのである。かのバッファロービルを撮影したのがその最初のコダックであった。

その故事にならって、偽もんのTHE KODAK気分で撮影した。紳士連は左からN社のGさん、O社のOさん,元R社のYさんである。
まるで少年のようなお顔なのがいいな。

そのお話しの内容はここに書くと危険なので触れないが、ともかく面白かった。
カメラメーカーの垣根を取り払っての自由なトークというのは、誰が考え出したのか居らないが、関係者にはかなり頭の良い人がいるらしい。
次回はT社のCさんをゲストに迎えてのトークだという。
次回も行ってみよう。

ところでこのレンズの組み合わせは8/9に発売の「OM=Dワークショップ」(えい出版)の中には収録されていない。1960年代の英国のレンズの造りはすばらしい。

ただし、こういう上質なレンズを現代に生産せよと言っても無理な話だから、そういうレンズはクラシックレンズの中から探し出してきてマウントアダプターで使えば良いのである。

2012年7月29日 (日)

空筒と索麵

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空筒の上に上がるつもりがないが、空筒を周囲から眺めるにおは好きだ。

しかも慣れ親しんだ東京の北辺の街角を曲がると、いきなり眼前に出現する空筒には驚かされる。

代表的な光景は三ノ輪駅の三叉路から見た、アラーキーさんの下駄屋跡地の先に見える空筒である。

向島百花園の長い塀ぞいに入り口をたどっていた時にスカイラインに警告なしに都異常した空筒も良かった。

三ノ輪三丁目でまるで江戸の夜のような暗い小路を歩行して、まるで江戸のような三日月を見た時にも感心した。今ではその三日月の脇にミナレットめいた空筒が登場するので、光景は一挙に回路の下町の素地裏に変身する。

四谷のアローカメラからお中元に来た、そうめんの一束を茹でようとして、それが大ガラスから見える、空筒がそうめんと「相似形」であることに気がついた。

2012年7月28日 (土)

小石川後楽園の田端

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後楽園は岡山の後楽園とくべつするので、こちらは小石川後楽園と言うことを知った。しかしあたしにして見れば、生家の音羽の家の側であるから、こっちが後楽園であっちがおきゃーま後楽園だ。

後楽園遊園地の出来た直後に父に連れられてきたのが最初であれは昭和20年代であろうが、オートバイの曲乗りを見た。ルナパークは悲しいものだということに気がついたのはませた幼児であったわけだ。

爾来、ルナパークには行かない。鼠園も同様である。

後楽園球場の方はこれがビッグエッグに建て替えという時に古い球場の外野席に入ったことがある。つまらないので5分も座っていなくてすぐに帰った。

後楽園がらみはそれからかなり時間が経過して、後楽園の会社(会社名失念)の社長さんを雑誌財界の表紙で撮影した。そのときにはこれから、ホテルが出来るという話であった。

その次の記憶はその後楽園ホテルはすでにできあがっていて、そこでパナソニックのデジカメの新製品の発表会があった。パナソニックのデジカメLC5の立ち上げ時のお手伝いとしたので、そこに居たわけである。

そのカタログを撮影に行ったのが、2001年の夏であったからすでに十年の昔だ。

それで本家の後楽園には行ってないのである。水戸の偕楽園には昨年の大震災のちょうど前の週にロケハンで行った。立派な茶室などを見学した。これは水戸を撮影するプロジエクトの筈であったが、なんとなく立ち消えになった。まあ東日本大震災だからそれどころではなかろう。

この前、飯田橋に居て、10年前に近くの神社でリコーの昔のデジカメの本体の前に貼ってある「画素数何百万」とか、当時のデジカメはやたら本体に性能を誇示するステッカーが貼ってあったものだが、そのシールを境内で剥がしてベンチの裏にはったのである。これが10年近く前で、そのシールをそのベンチに探り当てようというのが東京大周遊の目的であった。

ところがその神社が発見出来ずにそこかしこがモダンなビルになっている。そのいう、後楽園賓館というのがあった、その裏手の土塀が後楽園であるらしい。

むらむらっと後楽園に入りたくなった。ところが塀に沿って行くと、正門は閉ざされている。その先に行ったら、そこはビッグエッグの従業員エントランスなのである。

すぐそこにお庭が見えて居るのに、そこに行き着けないのは、なにかカフカのプラハみたいで気に入った。

ようやく下々のエントランスを発見して「高齢者一枚!」と言ってチケットを買った。健康保険のカードを同時に見せる。これの入場料が150円。いや、水戸光圀ゆかりのお庭だから、百五十万両ね。

園内はなかなか見所がある。

興味深かったのが、たんぼのあることだ。都立志村高校の1960年代には蓮根から先はたんぼであった。

三十年前に朝日ジャーナルで「東京キーワード図鑑」という8X10カメラによる東京の連載をしていて、天皇陛下のお手植えの田んぼを撮るという話が編集部でおこって、お恐れながらと宮内庁にお願いしたら、駄目になったことあり。

こっちは大政奉還以前のたんぼであるから、こっちが本家か。

その看板に「田端」とあるのが不思議だった。田端は東京の文士が住むところだと思っていた。なぜ田端というのか、細かい高札を見ようとしたが、酷暑なのでそういう細かい文字はなかなか読めない。

その田端の前の水面に、あめんぼが居たのである。これは感激だった。あめんぼもそれこそ半世紀ぶりに見たのである。

それにしても都心のこういう場所で稲田を見る不思議はなんということであろう。あ、ヒルズにもたんぼはあるのだが、これは周囲が良くはない。やはり周囲の環境が一面の緑でないと、たんぼも引き立たない。

2012年7月27日 (金)

去年の夏、、、伯林で

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写真はメランコリックなオブジエである。

あたしはアジエのオリジナルプリントとか持っている。これはLED上の像ではなく、プリントされた「実像」である。

時々そのプリントを出して観察する。パリの19世紀末のレストランを正面から撮影したショットである。その意匠を見ることも大事だが、あたしはむしろ、レストランのドアのガラスに反射している、午前の光に照明された、パリの石畳のデテイルを見ているのであり、その脇に半分だけ三脚と一緒に写り込む写真家の姿を見ているのだ。

この画像は昨年の今頃に撮影した、伯林の光景だ。ライカM3にスーパーアングロン21mm撮した。その画像が11x14インチのゼラチンシルバープリントにしてある。

上のシーンは旧東伯林の一番、西伯林の国境に近い場所にある公園である。東伯林時代にはこんな所に来るベルリナーは居なかった。その丘の傾斜具合があたしには「メランコリーオブジエ」なのである。

下の画像は、伯林の壁が出来て半世紀の国家イベントの為に制作された、バルナウアー通りの様子を示すパネルである。

1970年代。あたしは西伯林側の伯林の壁に沿って壁の北側を東にどんどん歩行した。その壁の限界の地点に「お立ち台」があって、そこに立つと「ライブの東伯の午後」が壁の先に見えた。

今ではベルナウアー通りは壁がないから、散歩していると知らない間にかつての国境を越えてしまう。つまらない時代になったものだ。

★ゼラチンシルバープリント[CHOTOKU TANAKA / BERLIN 2011]  個人蔵

2012年7月26日 (木)

ホットケーキと入道雲

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昨日のOM-Dに沈胴エルマーをつけて板橋南部に撮影に行く話をつづき。

なんのこともない。ホットケーキ喰いに行ったのである。これはあたしには新基軸である。思うにホットケーキをこの前に食べたのは、10歳の頃ではなかったか。この場合、アメリカなどに行ってブレックファーストに出てくる、パンケーキは除外する。

三越の食堂で食べたホットケーキ以来、半世紀余りが経過したという意味である。その前の日に顔本を見ていたら、だれかが板橋の南部にある「ピノキオ」という喫茶店のホットケーキのことを紹介していた。

それでその実物が見たくなった。その気分は確かにミラノの教会に「最後の晩餐」を見に行った時の気分である。もっとも最後の晩餐は信仰心から見にいったのではない。興味本位からである。その点からすると「最後の晩餐」と「ホットケーキ」にはなにか共通点がありそうだ。

東京を自由に歩行している自信があるので、下板橋から検討をつけて歩行を開始したのだけど、位置をロストしてしまった。それで誰かに道を聞こうとしたが、外国の傭兵みたいは格好の日本郵便は、赤いスクーターで走っているのでとりつくしまもない。

警察官もガードマンも歩行していない。もっとも彼らは道を知らないことをあたしは知っている。

そこに地獄で仏ではないが、緑のおじさんが通りかかった。小学校の児童を安全に歩行させる正義の味方である。

あたしは外国で人に道を聞くのは得意なのだが、日本でそれをやるのは苦手である。それで性格をいったん切り替えて、緑のおじさんに「すみません、このあたりにピノキオって喫茶店はありますか?」と聞いたら親切におしえてくれた。

その角を曲がったお地蔵さまの先ですよ、と教えてくれた。まるで日本昔話だな。

くだんのお店は完全なローカルカフェである。そこで450円のホットケーキをしみじみ味わった。

なにか少年時代に戻って気分である。

良い気分になって中板橋への道をたどっていたら、夏休みの開始に見た、素晴らしい入道雲が見えた。ホットケーキと入道雲が同じ属性であることに気がついてのもその瞬間であった。

★カメラはOM-Dに沈胴エルマー90MM

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2012年7月25日 (水)

謎の一本道

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最新刊の「OM-Dワークショップ」は8/9に発売である。その中にクラシックなレンズをアダプターで活用する1章がある。

そのプロモーションとして、8/7に出る「f5.6」(エイ出版のムック)でライカの沈胴エルマー90mmで撮影した作品を出すのだが、締め切りを過ぎて、もうぎりぎりという時点になって、手元にあるこの春に撮影した同レンズの作例は止めにして、新規に撮影しようという思いつきを起こした。

こういう思いつきは実に危険なのであって、編集部ばかりか諸方面に迷惑がかかるのであるが、そうなるとさらに撮り下ろしの画像を掲載したくなるのが、人間の悪い所である。

それでOM−Dにアダプターで沈胴エルマーを1本だけ付けて、この前の月曜の暑い朝にいきなり板橋区の南部の歩行を開始した。

実は板橋の南部というのは、あたしにはほとんど未知の領域、つまり「空白の五哩」状態なのである。

そこで発見したのはあたしの東京大周遊用語で言うところの「目黒の一本道」であった。これは目黒本町あたりを徘徊していると、道がまっすぐでその定規で引いたような遠近感の先に消失点があるというものである。

これはあたしの行動範囲では目黒が本場なのである。
目黒が本場なのはなにも「さんま」だけではない。
一本道も本場なのだ。

思うに、この「目黒の一本道」と似た豊島区と板橋区の区界の一本道なのであるが、そういう複雑な形容は話がさらに面倒になるので、この場合、目的地は「板橋区大山金井町16-8」にあるので、そこに通じる「目黒の一本道」というのがこの場合は正しい日本語の使い方であろう。

さて、その目黒の一本道が、個人的におまえは好きなのかと問われるのなら、実はその逆であって、視線の尽きる果てまでの道は退屈であるから、嫌いなのだ。

にもかかわらず、その一本道の先には、あたしの好きな「ワインデイングロード」があると思えば、退屈な一本道もなんとか我慢できる。一本道というのはなにか人生の寓話みたいだ。

これが一本道を行く時のあたしの心理なのであるが、それは歩行が退屈なのであるから、一本道が嫌いなだけであって、この画像のような90MMのレンズ、この場合にはマイクロ4/3であるから、その倍の180MMの遠近を圧縮した望遠効果で町がダイナミックに見えるという、その事実は好きなのである。

ここに身体線と運動性の分離がある。言い換えれば、歩くのは退屈であるが、そこに見える光景は好きという複雑な心理がそこに働いている。

さて、それで一本道の右に異常にシンプルなクルマが下半身だけ見せていて、そのクルマの色と似たシャツの人物が背中を見せつつ、消失点に去って行くというのは実に不思議な光景である。

日常生活にこんな不思議なあって良いものであろうか。

あたしは180MM相当の長さの望遠レンズは普段は使わないのだけど、マイクロ4/3だとレンズは小型なので持参しても腕が痛くならない。

過去半世紀以上、広角レンズを愛用してきたあたしであるが、ここらでちょっと視点を変えて見るのもいいかも知れない。

ところで冒頭に書いたように、板橋区大山金井町に向かっている、その犯行の動機は何か?

それは明日のブログで。

★OM-D 沈胴エルマー90MM

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2012年7月24日 (火)

ミノルタスーパーAで素振り

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ミノルタスーパーAは、あたしの持っている各種のレンズ交換式のリーフシャッターカメラの中では一番出番が多い。あ、撮影にはあまり使わなくなったけど、「素振り」(訳注*フィルムを入れないカメラを弄んでの撮影の代償行為で、偽ライカ同名の野々宮長久が数年前に提唱した。多忙な現代人の為のカメラセラピーである)

シャッターはセイコーラピッドの1/400までのやつだから、カメラは昭和30年代初頭のものだと思う。まだ日本のカメラ工業の生産物に質量があった時代だ。オリンパスならやはりセイコーラピッドの1/400が付いた、フレックスのズイコー付きのB2あたりである。

あの頃の日本のカメラはずっしりと重い。その重さが真面目さにつながる。当時は写真機は耐久消費財で、息子から孫にと伝承されるものであったことは、このデジカメ消費時代にちゃんと記録しておく必要がある。

ミノルタスーパーAも頑丈なカメラである。このカメラのデザインの美点はそのブライトフレームの採光窓が本体の右端についていること。このアンバランス感覚が、デザインの魅力だ。ライカM3などまっとうなカメラに見えてくる。

交換レンズは35,50,135を持っている。85mmはまだ持っていない。連動のメーターは本体の上部の荒い歯車状のシャッターダイヤルとメーターがかみ合うのであるう。このアナログ感覚が痺れる。

スーパーロッコール50mmの良さもある。そのスタイルを見ると、なにか沈胴状態のズミクロン50mmに似ているのも「べっぴん」である。

もっともこのカメラを「素振り」ではなく、「実写」に使う時には、35mmの広角レンズで撮影することが圧倒的に多い。同じレンズはライカマウントでも発売になった。これも昭和三十年代の話だ。

2012年7月23日 (月)

田村会長の写真展

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田村会長の「夢の光」が東京都写真美術館で始まった。9月まで開催。
三年前にあたしはタワーの角部屋の同じ間取りの3階下に移転した。東京都写真美術館の案内が届かないなと思っていたら、あたしは転居不明者として処理されていたようだ。
それがこの前、所用で都写美に行った時に新住所を三年遅れで伝達したので、また案内が届くようになった。

田村さんとは19歳の時からのお付き合いだから、もう何年経過したのか数えられないほどの昔である。
今回と同名の写真展「夢の光」を見たのは1969年だったか。これを見た時の田村さんはちょっと病的というか、視神経が露出している感じがあって、それが好きであった。
写真家というのはそういう「過敏な視神経」と「タフな対社会性」を兼ね備えていないと名前が残らないものである。田村さんの場合にはうまくその軌道に乗った。
友人のひとりとして嬉しいことだ。

会場の作品の印象は「紙媒体」に書くのでここでは控える。

立原の特注のカメラに超広角レンズを付けた作品はあたしも所蔵している。こういうのを見ると、デジタルカメラなどは弐拾壱世紀のかすかな夢にしか思えない。
それが「夢の光」の所以でもある。

2012年7月22日 (日)

すて石劇場

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10年前の写真集「とうきょう散歩カメラ」に登場した豊島区北池袋の「すて石」を思いだして10年ぶりにいったら健在であったので嬉しかった。

頭狂(とうきょうと、読む)の変貌は池之端の菊竹さんの名作ホテルコシマに宿泊しようと思っているうちにある日、高層のタワーが消えてなくなったり、雑司ヶ谷宣教師館の隣の黒田さん宅の「奥様カフェ」でコーヒーとカレーライスのつもりで来たら、すでに更地になっていたりで、油断できない。

何時までもあると思うランドマークは消失し、風前ではないかと思われる建物が生存しているのはまさに人の消息に等しい。

実はすて石の前の小路はお店とT字路になっていて、その小路の左側が小高い位置にあり、そこが名もなき小公園である。綺麗に掃き清めされていて、細長い公園で遊具は昭和40年代感覚なのも好ましい。

先週、思いつきで浮間船渡で下車して、駅前から常盤台駅行きのバスに乗った。工藤ゆきゆかりの、天祖神社とか閉店した渋谷カメラを見て、シャーロックホームズのあった場所も訪問した。

東上線で北池袋まで来て、くだんのすて石がここで下車であることを思いだして、ふらりと降りた。ここから東に200メーターほどですて石である。西側からアプローチするにはその細長い小公園の北側に付属の路地を東に行く。その路地の入り口の左手にある、古い疑混土(コンクリートと読む)の古ビルは「東京宝石」とか言うのである。これもすがれたここらの環境に似つかわしくないので、なにか江戸川乱歩の世界だ。

小路の中程に小公園に上がる大谷石の階段がある。その前で老女が立ったまま、おむすびを食べている。この人もエキストラの通行人だか、通行人がものを食べて画立っているというのは新演出だ。ここらはつげ義春の漫画の世界だ。

小公園に2つしかない、古いベンチのひとつに腰掛けたら、眼前がすて石である。しかもことらの方が数メーター高い位置にあるので、なにか屋外劇場の感じがする。もう一つのベンチでは妙に大人びた綺麗な女子高生がパックのいちごミルクをストローで飲んでいる。ああ、これも実は前衛劇の俳優のひとりだなと思った。

真夏の太陽が時々雲に隠れるとその瞬間だけすらりと冷涼になる。これも前衛劇団の照明装置である。

頭にタオルを江戸時代の瓦版売りみたいにたたんで載せたじいさんが花道から登場。ゴミ箱のまえで七三で見栄をきる。ゴミ箱尾をを鍵で開けて、数個のごみ袋に仕分けしている。

ややあって、上手からばあさんが登場。

「この間の、年金のことだけど、あれ、税金の関係があるからああなってるんだけけど、、、分かった?」

じいさん返事せず。

「ちゃんと水飲んでる?」

「ああ、今日はもう4本飲んだよ」

ばあさんがそのまま下手に退場しようとしたら、

「もう京都にはいかない。ここに3日居ないだけで、他のやつが分別したんで、やり方が違うんだ。また全部やりなおしだ」

ばあさんを追いかけるように「貴船の床で一杯やろうとしたんだが、満員。それでつまらない高い店につれていかれちゃった」

「あたしは3年前に京都に行ったよ」とばあさん。

これでごみの分別をしている町内のじいさんの属性が明らかになった。

こういう会話はまったく、三流の台本書きを超越している。

町行く人。町に居る人はそれぞれに、とんでもない秘密を内包して生きているのだ。

この小公園を「すて石劇場」と命名した。

2012年7月21日 (土)

心を静めてゼラチンシルバープリントにサインする

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ベルリンのゼラチンシルバープリント(サイズは11x14インチ)に昼図の大テーブルの上で心を静めてサインをする。全20点。

1970年代にはあたしはリーフリードランダー氏にぞっこんであった。機会があって、撮影してからそれをプリントするまでどのくらいの時間がかなりますか?との質問に「一番短くても半年、普通は二三年経過してからプリントする」との答えであった。

リーさんは当時はまだデジタルプリントがなかったから、こういう答えであったのだけど、この時間軸はやはり今でも同じであろう。

これは昨年の今頃にベルリンで撮影したのをゼラチンシルバープリントしたものだ。当時の撮影画像はそこらにアップしてあるが、それらはライカで撮影したネガからのスキャン画像なのである。

ゼラチンシルバープリントは1970年来やっているが、ずっと@三万で売っていたのが数年前からようやく@6万円になった。ようするに10年毎に1万円のベースアップであるが、それはそれで良い。

こういう風にプリントの左手角にサインして、右手角にはエデイションを入れる。これは5部限定の三番目のプリントという意味だ。

なにかマイクロ4/3みたいだ。

オートグラフというのは、今の人は知らないであろうが、30年前にはクレジットカードにはちゃんとサインして、そのセールススリップはまとめられて、送られてきたものだった。
だからそれがそのまま旅の思い出になるばかりか、なにか世界の果てでサインした紙切れが自分の所に配送されることそれ自体に、モダンアート感覚があった。

最近では自分でサインするのは、自著のサイン会とかオリジナルプリントのサイン入れくらいである。

2012年7月20日 (金)

電話する人

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時代の経過によって、ある行為の意味付けが愕然と変貌するのは、面白い。

例えば、飛行機のタラップである。30余年前にKLMで南廻りでアムスまで行った時に、ドバイかどこかで深夜に燃料補給で降りたのはタラップからであった。これが良かった。
アラブの熱気がおそってくるのである。

最近はサテライトであるから、この「自分の飛行機の影に追いついたと最初の目的地の空気に触れる」という貴重な体験はなくなった。
タラップを降りることが出来るのは、国賓だけになるという「本末転倒」では四文字熟語の意味が異なるけど、ともかくタラップを降りることはそういう一部の貴賓の特権になってしまった。

もっとも、モスクワ空港などで、到着時間が遅れると、サテライトがいっぱいなので、タラップを使うことがある。これも「国賓待遇」である。

奈良原一高さんの「消滅した時間」であったか、アメリカのハイウエイで公衆電話から通信する男性の後姿があって、その右手の遙か彼方に雷光が閃いている。
当時は別段、そういうハイウエイから電話する男性という認識しかなかった。

ところが、これが今の時代、つまり携帯に束縛されている時代のただ中でその作品を思い出すに、そこには「意志を持って通信する人類」という、当時は想像もしなかった背景が見えてきた。

東京大周遊であたしが好きなのは、どっかの付属小学校の男子生徒がグレーの制服のはんずぼんで、白い帽子で大きなランドセルで、彼の身体には不似合いに大きな電話機から通信している姿である。
これなどはきわめて未来的な構図の印象がある。

昼図への通勤路では、最近は有楽町線から日比谷線に乗り換える時に、お昼のサンドイッチを買うのだが、列の前に美女が買い物をしていて、その人が乗り換え口の公衆電話で通信をしているのを瞬視して、これは気が効いてるなと感心した。

人類が固定電話からの通話は「人格」がそこに感じられるし、凜とした意志の伝達のパワーが感じられるので、好ましい。

一方で、あなたやあやしのように、ケータイにつながれている現代人はあはれである。

2012年7月19日 (木)

OM-Dにショナスメカス愛用のスイター50mm を付けて

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ウイーン時代にリトアニア生まれの映画作家ショナスメカスの作品を見たのは1974年だった。もともとメカスはウイーンで勉強するつもりがマンハッタンに50年代初頭に「間違って」行ってしまった。

だから彼にはウイーンへの思い入れがあって、作品「日記 ノート スケッチ」ではラストにウイーンの市場の火事のシーンが出てくる。

1980年代にマンハッタンでメカスに会いたいと念じていたら、あれは1983年の11月6日の夕暮れで金曜だった。ウエストブロードウエイとグリーンストリートの角でショッピングバッグを提げたメカスに遭遇した。

その年の12月に原美術館での回顧展のレセプションで数百人の参列者の中で巨匠は最初にあたしの前につかつと来て、握手してくれたのである。感激で三日は右手を洗うことがなかった。

ショナスメカスの映画の道具はクラシックなボレックスH16である。その会場で聞いたら、まず映画の中で登場する故郷セミニシュケイの母上は亡くなったことを最初に告げられた。彼の人生で買った映画機材はたった三台のボレックスであった。

この意味ではショナスメカスは親友のアンデイウオーホールより「モノに固執」しないのである。

最初のボレックスはマンハッタンに到着後に借金してかった。値段は250ドルだった。今なら1000ドル以上の買いものだな、、と巨匠は70年代に述懐している。

そのボレックスには3本のレンズが付いていた。そのうちの一本がスイター50mmである。スイス製のレンズなのでスイターとは分かり易い。ニッコールとかニッポールのネーミングに通じる所がある。

OM-Dにそのレンズをマウントアダプターで付けた。風景を撮影しようとして、最初は駒込の六義園に行った。結構な茶店で冷えた抹茶と練り切りで、願線は立派な日本庭園であるが、なにかしっくりしない。

神保町のエチオピアで七十倍カレーを食べて、本郷通りを歩いていたら小石川植物園があることを思いだした。数十年ぶりである。

果たして、この公開はメカスの「ウオールデン」である。

ショナスメカスの場合には、故郷のリトアニアへの郷愁であるが、都会人間のあたしには懐かしい故郷がない。これは夏休みの開始に小学校のクラスメートが田舎に行くのを楽しみにしていたのに、あたしには音羽の家しか帰る場所がなかったとですでに証明されている。

せめて第二の故郷のウイーン(1973-80までウイーンに住んだ)を持ってその代案としよう。そうすればショナスメカスとの交点も出来るわけだ。

言い忘れたがこのレンズの凝っているのは、絞りを設定すると、焦点深度が細かい穴の中に赤色に表示されることだ。こういう手の込んだ造りは今のレンズメーカーには無理である。

2012年7月18日 (水)

スーパーネッテルで向島詣で

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スーパーネッテルで向島詣でというのも変なタイトルであるが、この1936年製のドイツ製のカメラはその写りにまったく予測の出来ないところがある。

ついているレンズはカールツアイスイエナの銘玉テッサー5CMであって、往年のドイツの光が写るわけであるが、かなり以前、コンタックス1型に付いていた、同じレンズでその良さに痺れて、今回もその描写を期待して撮影したら、面白いことになった。

スーパーネッテルは蛇腹カメラである。撮影の度に蛇腹を開閉する。それでどうもその固定位置が微妙に異なるのである。大昔に持っていたスーパーイコンタもそうであったが、ピントが毎回微妙に異なる。しかも時にはレンズとフィルムが完全に平面ではないので、アオリの効果が出て、手前かあ奧までピントが合ったりするのである。

普通ならば、そういう写真機は使い物にならないのであるが、それはフィルムカメラしかこの世の中に存在しなかった時の話である。
カバンの中には高性能なコンパクトカメラも持っているから、ちゃんとした撮影ではそれを使い、遊びの撮影では戦前のスーパーネッテルを使うのは何の問題もない。

上の作例で勘案するに、撮影距離が1メーターの場合にはちゃんとピントが来ているようだが、遠景になるとかなり怪しくなる。
にもかかわらず、時にはシャープに撮れているから、これは「ツアイステッサールーレット」とでも呼べる新たな視神経の遊びになるわけだ。

これが国産の安カメラでは「単にピントのずれているカメラ」になるのだけど、なにしろ、こういう感じで本体もレンズもセクシーなわけで、性格の難しい美女という例えがこの場合にぴったりかも知れない。
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2012年7月17日 (火)

四年目の胃フォン

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2009年7月3日の午後にライカインコ四世が亡くなって、その記念の意味でiPhoneを買った。当時は最新の3Gモデルだった。
同時に我が家では「ライカインコメモリアルタワー」と呼んでいる、東京スカイツリーが隅田川上流の地平船に姿を現した。
そのライカインコメモリアルタワーはすでにこの5月に完成して、おすな押すなの人出であるらしい。

三年という歳月はそういうものだ。3年前にデジタルペンの1型が出て、その本の制作で2009年の夏の8月にプラハに行った。3年前のカメラだけど、これはちゃんとあたしの頭脳に刻まれている。
一方でコンパクトデジカメの攻防と入れ替わりは激しいので、とても記憶は出来ない。ペンデジタルはその意味で、デザインは成功している。OM-Dの方はこれからどのようなデザインの評価になるのか、これは3年経過しないと分からない。

2010年の夏であったか、ジョブスが「新しいG4のデザインはクラシックライカのように美しい」とG4の発表で宣言したのがセンセーションであった。
しかし、今ではG4のような「角が四角いiPhone」が普通になってしまった。

まる三年が経過したが、あたしはG4に乗りかえる気がしないのは、やはりG3のデザインに惚れているせいである。

2010年の暮れに高千穂の諏訪工場に見学に行った時に、スーパーあずさにG3を忘れてきた。松本駅に連絡したらG3は沢山届いているので、特徴はないかと聞かれた。それで「朝日新聞社のシール」が貼ってあると伝えたら、確認がとれたのであった。そのシールも今では剥がれて白いスペースがあるばかりだ。

ただしあたしiPhoneは電話機としては使っていない、
唯一の例外は2011年3月11日にマンハッタンで東日本大震災の第一報を知って、スカイプで家人に電話して安否確認した時だけだ。

2012年7月16日 (月)

OM-Dに300mmのグレーなレンズ

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8/9に発売の「OM-Dワークショップ」(えい出版)の目玉のひとつに各種のレンズをアダプターで変換した一章がある。

頁数が限られているので、レンズの選択は清水編集長に任せたが、彼はサムソナイトの最大のスーツケースに30キロ越のレンズをスタジオに持ち帰った。

本ブログではその中の登場に至らなかったレンズと作例を紹介したい。いわば、これは「OM-Dワークショップ」(えい出版)のオンライン付録のようなものである。

このラウフグレーのレンズはもともとは、ソ連の国境警備隊がレンジファインダーカメラFEDにミラーボックスで使っていた、軍用カメラFS-1の後継機だ。

そのFS-1を当時のフルシチョフ第一書記がモスクワ郊外のクラスノゴルスクの工場に修理に持って行ったら、すでに生産中止になっていたので、命令でモダンな同様のモデルの生産を開始したと、ソ連カメラの本にはある。どこまで真実かは別として、フルシチョフ第一書記はカメラ人類であっことは確かだ。ソチかどこかの保養地をソ連製のハッセルブラッドである、サリュートを持って散策しているフルシチョフ第一書記の写真も残っている。

その軍用偵察カメラの後継機はフォトスナイパーと呼ばれて有名であるが、その前期モデルはこのようなグレーの塗色でなかなかかっこいい。

しかもその塗りが剥離しているとさらに妙である。2001年以前に仕事で飛行機のコックピットに立ち入りが出来た当時、エンジンの出力を調整するレバーのパネルがこれと同じ色で、しかもはげているのが印象的だった。

つまりこのグレーの塗色とはげ具合はあたしにとって、前世紀の夢の欠片であるわけだ。

このレンズは回転式のフォーカシングレバー(コンタレックスと同じダイヤル式のがついていて、しかも半自動絞りなのである。ソ連製のレンズでこれが最初のスプリング式の自動絞りのレンズだ。

作例はバルコニーから連射した一枚。これは軍事用の偵察写真だから、これだけでもかなりの戦略情報が内包されている。実際にはフルサイズだと600MM相当の望遠効果がある。しかも手持ちでじゃんじゃん撮れるのが素晴らしい。

2012年7月15日 (日)

DPF

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あたしの小学生から高校生までの時代に、街中で見る写真屋さんの「DPE」の看板は実に心躍るサイン、つまり心のろうそくに灯がともるようなわくわくする看板であった。

その関係で、東京のあちこちに点在するDPEの看板で見るべきものはちゃんとあたしの脳内地図にプロットされていたのである。

その中で一番、忘れられないのは、小岩駅の地蔵通りにある「DPE」看板であった。これは間口が半間ほどの小店で、看板だけが大きい。Dが赤でPは黄色でEは緑であったかな。その看板はすでに過去の存在となって久しいが、この前、尾久商店街を散歩していたら、この表示に接したのである。

これは自体のEの下の部分が欠損してFに変化しているのが、見所である。

尾久商店街は今では舎人ライナーが出来て、赤土小学校前で降りればすぐに到達できるが、あたしはトラッドなアプローチが好きなので、わざと都バスで行くことが多い。

商店街には福田和也さんが小学校の時に「つけ」で本を買うことが出来た伝説の書店(ご本人談)などもあって、見所が多い。

2012年7月14日 (土)

町会帽とは何か?

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カメラ人類の突撃隊長こと桜木(仮名)は、最近、松戸に「しっこし」(本人談)たそうで、どうも水戸街道沿いに「倉持帽子店」の黄色い巨大な短冊を見た。それをついったーに紹介していたので、むらむらっとその帽子屋に行きたくなった。

八広からちょっと歩行した街道沿いから西にちょっと入った所にある。

こうみえても原稿などで多忙なのであるが、そういう気になる物件があると、仕事を放擲して見に行くのがあたしの流儀である。

気になったのはただひとつ。看板のお品書きの「町会帽」ってやつである。これが何か分からないので聞きに行った。

午前11時にアポなしの客はちん入者だから店主は迷惑であったことであろう。すててことだぼシャツでくつろいていたのを、ちゃんとずぼんとカッターシャツを着て迎えてくださった。ここらは勤住一致の強みだ。

店内には工業ミシンが三台。サンプルが壁にかかっている。くだんの黄色い紙に書いたお品書きが店内の床に散らばっているのは、模様替えか。

突撃隊長のアップした写真では問題の町会部帽は最左翼であったが、あたしの訪問した木曜には左から三枚目に移動して、突撃撮影時には最右翼であった、ハンチングは最左翼に移動している。やはりお品書きは向こうのレストランでもそうだけど、「Todays Catch」の札は移動するのが正統であろう。

店主とお話していたら、ご本人は半世紀近い歴史をこの店で持っていて、しかも創業者という。同時にへらぶな釣りの名人でもあって、それ関係の雑誌に執筆した文鳥を沢山見せてくれた。

ウイーンフィルのバイオリン奏者が同時に腕の良い歯科医だったりするのとこれは共通点がある。この界わい、東向島はその意味で文化程度の高いことが分かる。

問題の町会帽は、水防団とか消防団とか暴力団の事務所を捜索する時に警官のかぶる「略帽」のことであることが判明した。ビルマの竪琴で「水島一緒に日本に帰ろう」の水島上等兵のかぶっていたのもこのタイプではなかったか。

それはそれで問題解決。

ところでこのお店の手前にしもた屋の「かずさや」というのは、この前、坂崎さんのご実家の前から墨田区のコミュバスで、スカイツリーに行く時に、進行方向の左手に確かに見ているのである。しかし倉持帽子店は記憶にはない。

思うにあたしは進行右側に座って、視界に入ってきたスカイツリーの撮影に夢中になっていたのがその原因であろう。

★カメラは銀色のベレッタ(訳注:CX-2)

2012年7月13日 (金)

SDメモリは駒込で買います

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エプソンRD-1は世界最初のレンジファインダーのレンズ交換式のデジタルカメラである。もう10年近い歴史があるが、今でもちゃんと実用になる。

ただし、あのカメラはSDメモリしか使えない。ライカM8も初期モデルは同じだったと思う。

あたしの常用しているのは、それで2GBのSDである。もともとRAWで大量に撮影するようなことはないから、2GBでも700カットも撮影できるから充分だ。

普段は上海問屋というような所から10枚づつ2GBを買っている。この前、午前中から駒込方面に撮影に言ったら、フジカメラという昔からありそうな、カメラ屋さんがあって、そこのご主人と眼があったら、「あ、古川庭園に行くんですか?」と聞かれた。

このお店の前を通過する善男善女は皆さん、古川庭園ぶ行くとみえる。あたしはへそ曲がりなのでそういう名所旧跡には行かない。それでご主人と立話をしつつ、店内を見渡すと、SDメモリが安価なので数枚買った。

それを取り尽くして、先週にまた買いに行った。ご主人はあたしの顔を記憶していたのでお愛想に「いい写真をとってください」と言われたのである。

これを額面通りに受け取れが、嬉しいわけだが、あたしは過去にMOMAなどでアメリカの現代写真を研究したという「前科」がある。

だからそこの背景までを自分で考えて、この激励のエールを聞くと、身の引き締まる思いである。

それでSDメモリは当分は駒込のフジカメラで買う買うことにした。

2012年7月12日 (木)

ハッセルブラッド持ってプラハ王宮

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東京は巨大都市であるが、欧州の都市のサイズなどはたかが知れている。

プラハなどは、かつては旧世界の中心であった時代もあったものであるが、そのサイズは際寝て小さい。

第一、三十年戦争の時に、今のカレル橋を戦場にして戦ったのだから、そのスケールは局地戦というにもサイズが極小である。

ベルギーのワーテルローの古戦場を撮影に行った時、ライオンの居る、築山に登ってそのサイズの小さいのに吃驚したこともあったが、プラハなどはさらにさらに小さい。

プラハ王宮は絶壁の上にあるので、政変とか戦争ではその上から投げ落とされて命を落とす支配者がいた。

知り合いのロイター通信の記者が、ビロード革命で大統領補佐官になったとき、彼の王宮の執務室を見学に行った。その時思ったのは、なるほどこの高い窓から落とされたらひとたまりもないな、という印象だった。

それだけの高度差があるので、プラハの王宮に行くにはかなりの急な坂を登る必要がある。ただしプラハの達人は路面電車で王宮の裏手にまで行ってそこから逆に王宮を目指す。

これなら下り坂で楽である。

これはこの春のプラハでハッセルブラッド500Cにプラナー80MMでぶらぶらした時の撮影だ。

あたしはプラハ在住30年余であるから、無論、津通のツーリストさんみたいにモルダウ川の方から階段を登るようなことはしない。

王宮の裏手まで市電で行って、涼しい顔で下ってきたのだ。

2012年7月11日 (水)

スーパーネッテル2は夏向きカメラか?

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ツアイスイコンのカメラのことだが、やはり戦後のにっぽん製のカメラでそこにコンタックスとかスタンプされているのは、ツアイスではなく「ツアイスブランド」ではないかと愚考する。

いわしの頭も信心から(ってのは適当な例えではないが、他に適当な形容が見つからない)であるから、やはり戦前のドレスデン製が良いと思う。
思うにあたしはツアイス原理主義者かもしれなくて、西ドイツ製のシュトッツガルト製もどうも、、と思うことがある。

それで戦前のツアイスイコンのカメラは売るほど持っているのだけど、なぜか縁がなくて持っていないカメラがあった。
それがスーパーネッテルである。
1936年製のツアイスイコンの総合型録を1973年にウイーンで買ったのであるが、その中の「作例写真」にドイツの何処かの小都市で雪が降っていて、人通りのない街路を路面電車が行く小さな写真があるのだが、それが大好きである。

その時の撮影のイメージというのは、雪の街角で撮影者は手早く、スーパーネッテルの蛇腹をパチンと開けて、電車を素早く撮影してまたスーパーネッテルの蓋を閉めて、その電車がやってきた方向の角にある、カフェに一杯やりに入るという段取りであって欲しかった。

しかし実際にはスーパーネッテルをあたしは持っていなかったのだ。

それがつい最近、横浜山下町の十時屋カメラに行っておもしろがっていたのが、いわゆるカメラのご縁というものであろうか。
同じ町内のカメラ紳士からスーパーネッテルを譲り受けたのだ。これは一型がブラック仕上げなのに対して、2型なのでクローム仕上げである。

スーパーネッテルの場合にはブラックが普通で二型のクローム仕上げの方はレアということになっている。
一型の方はたしか1934年に登場しているから、これはコンタックス2型の登場の二年前というのが、コンタックスの時間軸で考えると、なにか逆になっているような感じがするのも愉快である。

スーパーネッテル2型はその田触りがひんやりしている。それが夏向きなのか、それともあたしの原体験のツアイスイコンの総合型録の作例が「雪の路面電車」のせいなのか、そこらへんは不明だが、あたしは勝手に「スーパーネッテル2型は夏向きカメラ」と決め手いるのである。

★カメラの撮影は理光CX-2 これも涼しそうなクローム仕上げ。

★以下はスーパーネッテル2の作例。
偽ライカ愛好会の無酸素登頂東京ゲートブリッジ撮影会にて カールツアイスイエナ テッサー5cmf2,8  コダックカラーネガ

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2012年7月10日 (火)

ライカモーターの「本貫禄」

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大昔、朝日新聞の写真部であったと思うが、レンジファインダーのニコンS2からニコンFに切り替える時期に、なにかの理由でその古いカメラとレンズが銀座のカメラ店に出て、当時、学生だったあたしはそれをおもしろ半分に購入した。
学生のおこずかいで買えるような値段であったのだうが、そのクロームのS2もS用の135mmも激しく使い込まれていて、どのような暴力がそのカメラを通過したのだろうかと不思議に思えるほどだった。

同時にそういう使い込んだ写真機に美学を感じたのである。

世の中の一般のカメラの中古の流通では、未使用に近い綺麗な品物が高価というルールになっているので、あたしのような「きったねえカメラやレンズに美学を感じるカメラ人類はありがたい。それらは大抵、安価であるからだ。

このライカモーターはかなり昔からうちにあるのだけど、見事にクロームがすり切れている。クローム仕上げはブラックペイントに比較して、摩耗しにくいのだから、こういうすり切れ方が可能な状況というのは、ただひとつしかない。
それは戦争で使われたのである。

HCBのライカの広告か何かに登場している、愛用の沈胴のズミクロン50mmというも凄い。これはレンズの前の方のバレルのクロームが完全に剥離して、真鍮が露出している。ビロードの手はかなり強い酸性の汗が出て、クロームを腐食するのであろうか。

★きったねーライカモーターはタフデジカメTG-1で撮影。

2012年7月 9日 (月)

竹の塚モダン

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アサヒカメラの連載の「ゆるゆる庵」の八月号では、東京の最南西の東京ゲートブリッジから最北端の見沼代親水公園まで都バスで行った話を書いた。

しかしその先には続きがある。親水公園から先にどう行こうかと考えた。あたしの東京の移動の時には、500円の都バス一日乗車券を買う。これで東京の点と点を線で結んで、その線で結んだ面を感実のが、東京大周遊なわけだ。

ゆえに都バスのネットワークの外には出ないのが原則である。なにも憲法第九条で決まっているわけではないのだが、そういうきまりを付けないと、たんなる老人の東京放浪になってしまう。これがきまりというものだ。

しかし、この日はその禁を破って、竹の塚行きの東武バスに乗った。

竹の塚に降り立ったのは、まだ東西ベルリンの統合前の時代(変な時間軸上の比較だけど)だから四半世紀前になる。東口の駅前にいわゆる「団地萌え系」の集合住宅が真っ白に輝いているのを見て、それがベルリンのアレクサンダー広場のように見えたのは、東独では「市民の生活が第一」であったから、駅前にいきなりアパートメントがある。それもウイーンのカールマルクスホーフのような、電車の終点ではなく、都心にいきなりあるのだ。

竹の塚の団地のできた当時はここは電車の終点に近い土地感覚であったかも知れないが、今は都心である。

なかなか良い感じである。

思えば、この手のエレベータのない階段だけの五階建てというのは、憧れの文化生活であった。小学校の帰り道にそういう建設中の団地を道草して見学した。

戦後の建設の槌音というのは、その実はリベット撃ちの大音響であったわけだが、当時はそういう騒音を気にする人もいなかった。

真っ赤に焼けたリベットを下から金ハサミで挟んでそれを上に投げると、上のお兄さんは、鉄でできたキャッチャーミットみたいので、それをカランとキャッチするのである。

今にして思えば、大変な技術だ。

★カメラはタフデジカメ。TG-1

 

2012年7月 8日 (日)

浦安市猫実4丁目十五番地に着くまで

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アンリカルチエブレッソンの世界巡回展の最後が竹橋の近代美術館であったのは、5年前の今頃だが、そこでブレッソンとライカについての講演会をした。あれは湿気の多い日だった。

講演は例によって満員であった。主催者さんは「お客さんがぱらぱらだったらどうしよう」と最初は弱気であったが、キャパが200名ほどの席がいっぱいになって、入場っできない人が続出した。

その中に、田中長徳研究家である、「鵠沼のブレッソン」氏(仮名)とその連れの写真家さんをあたしは発見した。それで主催者さんに「知りあいで義理のあるお客さんが見えてるのでなんとかあと二名入れませんか」と聞いた。

民間ならそれで大丈夫な筈だが、答えは「駄目です。満員です」
だと。まるほどねえ、、、

話題はそのことではなかった。
その講演会が終了してから、何を思ったか桃木日本路地裏学会会長と、浦安の猫実に行ったのであっや。蒸し暑い日になんでそんな思いつきをしたのか、それが分からない。

たまたま、竹橋と同じ路線であったせいであろう。

1982年頃、小流れの風化したような小さなラーメン屋で女子美の学生であったNと雨の中、一緒に居た記憶がある。この界隈は演歌風な表現で言えば「恋の浦安猫実あたり」というわけでそれがあたしのメランコリーになっているようである。

三十年前の浦安訪問が面白かったのは、猫実地区に小さい流れがあって、そこに小橋がかかっていて、界隈は映画のセットのようであったことだ。5年前もモダンになってはいたけど、やはり時代から逸脱しているような町だった。

そのノスタルジーに浸ろうと、先週の月曜、その小流れを再訪したが、その映画のセットめいた一角はついに発見できなかった。

それではというので、翌日の火曜の朝にリベンジでまた出掛けた。仕事の最大に多忙の時によくそういう時間のやりくりが出来るものだと我ながら感心するのだが、時間と金銭のやりくりは得意なので、
「きゅうりょうも ぼなすもなくて しじゅうねん」
なのである。

その二度目のチャレンジだが、桃木会長と浦安の迷路を巡って、最後に出た、浦安駅入り口の町並みの記憶が残っていたのである。

これは犬の記憶とでも呼ぶべきだ。

そこから記憶を逆回転させたら、なんなく、猫実四丁目十五番地に到着できた。

下の地図のまん中の斜めに小橋のかかっている場所である。
場所は異なるけど、ブリュージュの運河の裏にやはり似た空間があったことを思いだした。

その前の日は上の地図の四丁目とある神社から、東にまっすぐな道、フラワー商店街を東進したのは良かったが、角の薬局を左折するタイミングを逸したので、見失ってしまったのだ。

それで遙か東の「段差道路」の方まで行ってしまった。

 

2012年7月 7日 (土)

OM--Dとズーマースポーツレフレクター

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8/9にえい出版から出る「OM-Dワークショップ」の編集がおおずめである。
メーンの作品ギャラリーはプラハで撮影したシリーズですでに入稿したが、マウントアダプターであたしの持っている膨大な交換ンレンズのすべて(と、言ってよい)がそのままOM-Dに装着できるという頁の作例を撮影中だ。

10年前に出した「チョートク ぼくのカメラたち」は1000頁の本だが、これが37階のマンションの一室だけがテーマになっていて、そこのあるカメラと部屋の小物とがらくた、さらバルコニーから撮影した、風景(これは8x10で撮影)が題材になっていた。
坂崎幸之助さんとの対談も収録したが、せっかく、自分の住戸だけをテーマにしてそこだけで取材した1000頁本なので、インタービューも坂崎さんに拙宅においで願った。
今、その本をぺらぺらめくっていたら、坂崎さんとの間のテーブルに香典袋が見える。それでこれは母が亡くなった直後の対談であることが分かる。

それで作例の撮影であるが、お手軽なのは大ガラスの部屋の小物とか、バルコニーからの風景を撮影すれば簡単なのだけど、もともと真面目なので、各種交換レンズにアダプターをつけて、東京を徘徊している。
ただ、このOM--Dとズーマースポーツレフレクターだけは、バルコニーから空筒の夜景を撮影するつもりだ。

最初に言ってしまうと、あたしもそれが好きなのだけど、OM-Dで最良の撮影は純粋の交換レンズを使うに限る。なにも社長の小川さんに気を付けっているのではなく、小形軽量がOM-Dの長所だからわざわざ他社のそれも大昔のレンズで相互乗り入れするまでもないのだ、という意味だ。

だからレンズマウントアダプター遊びはこれは「レンズ交換の淫行」なのである。あまりこれに深入りしては危険である。

ところでミュンヘンのハインツキルフィットは、50年代のマクロと、望遠レンズ、それにズームレンズの老舗であって、後年、そのブランドはアメリカ資本のズーマーになったが、かのアインシュタインもキルフィットとは親交があった。
アインシュタインの依頼で政策された、赤外線スペクトログラフの青写真がうちにも残っているが、これが反射式の超望遠レンズであって、カメラはなんとオメガ120であった。

ズーマースポーツレフレクターは文字通り、スポーツ撮影用の明るい反射レンズであってアリフレックスによく組んで使われた。
これはアリフレックスマウントを純正のライツ製アダプターで変換して、さらにOM-Dのマウントアダプターを付けてある。

フルサイズなら、1000mmf5,6相当のレンズだから、これがフルサイズなら到底手持ちは無理だ。しかしこのコンフィギュレーションなら手持ち撮影は可能だ。

2012年7月 6日 (金)

滝野川の堅焼き蕎麦

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チョートク@workというのは、確か2001年に出した写真集で歴代のカメラとそれに使用したカメラ機材の紹介の本である。

これは名著Walker Evance at WorkをMomaですり切れるほど見ていたので、その影響で真似をして作った本だ。担当編集者さんがパワーを入れすぎたので、あまり売れずに今日では稀覯本というほどではないが、古本屋で1万はする。数年前、これをブックオフで千円で掘り出してきたあたしの読者さんが大喜びしていた。

その各種のカメラの最後の方に、滝野川をブロニカ645RFで撮影したのがあった。当時のタムロンは滝野川7丁目にあって、打ち合わせの戻りに滝野川の迷宮に踏み込んで、なんと面白い所であろうかというので、撮影を開始したのが発端だ。

滝野川は、マイブームではこれを「たきせがわ」と発音する。

滝野川5丁目に蟻塚のような感じを与える中華屋さんがあって、その店舗が蟻塚のような感じがするのは、あたしの店舗のファサード評価では最高点になるのであるが、それはそこ、北池袋のお店「すて石」のように十数年来の休業ではとりすくしまもない。

しかしこっちのお店「堅焼きそばの入っているウインドウにいつも白い布がかけてあるお店」と記憶していたのだが、今回、はじめて全景を見たらちゃんと立派な名前があった。

午前11時に前を通過したら、すでに店内はアメリカの田舎町にあるような「ねーバーフッズバー」状態であった。さらに町内を一周して三十分ほど後にお店に入ったら、すでに酒盛りのまっさかりだった。こういう真面目なお店には福田和也一味をお連れせねばならない。

もっとも5年ほど前に、この界わいを雑誌En-Taxiの連載の取材で福田さんたちと歩行した時にもこのお店の前は通過している。その時には反省会としては本蓮沼の浜出屋に行ったのであったな。

さて、堅焼き蕎麦のお店に入ったら、常連さんの言うのには、おかみさんが間違ってお客のついだ焼酎をごくりと飲んでしまった(おかみさんは下戸)ので奧でふせっているという。

それで常連さんが水をあたしに出したりしてくれた。やがて女将さんが赤い顔をしてキッチンであたしのオーダーした堅焼き蕎麦を作ってくれたのが、この画像のやつである。

酔っぱらってもその味つけは確かであった。これがプロフェッショナルというものだな。

長年、見てきたウインドウの中の堅焼き蕎麦というのは、注文すると女将さんがちゃんと店先から1個だけ取り出して調理するのである。なぜ、堅焼き蕎麦がそこに保管されているのかは不明だ。

今度、常連になったら聞いてみよう。

そこから環七を西新井行きのバスに乗った。

2012年7月 5日 (木)

堀切菖蒲園のアパートメント

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掘切菖蒲園に行くのは、菖蒲園に行くのが目的ではない。
駅前にある、青木書店であたしの以前に出した本を探しに行ったり、その先の金子酒店で地元の人と飲んだり、さらにその手前の「さいとう」でお総菜を買って帰ったりする。その並びの中華屋の4品で1000円という料理の持ち帰りもいい。

この前に掘切菖蒲園に行ったのは、5年前に福田和也さんとそのカンパニーと出掛けた。この前、金子酒店に行ったら、常連さんに菖蒲園の菖蒲が見頃だから見に行けと言われた。
こっちは宝カップで後酩酊だし、お店を出て右に行けば菖蒲園だが、左に行けば駅っであるから、せっかくの地元民の行為を無に出来ないという気持ちもあって、菖蒲園に行った。

果たして、面白くなかったが、その戻りに出会ったのが、このクラシックなアパートメントハウスである。2012年の視線から見ると、どうも古いのが魅力ということなのだけど、荷風散人の時代にはこれはもっとも個人主義の暮らしの典型であって、断腸亭も偏奇館を処分してこういう貸間に移動したいという意志を書き付けている。
もっとも断腸亭の偏奇館は東京大空襲で焼けてしまったわけで、それから本格的な貸間の流浪生活に入るわけである。

こういうアパートに数ヶ月なら住んでみたいと思う。ファサードがモダンである。これを掘切モダンというのだな。

2012年7月 4日 (水)

今年も枇杷が来た

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毎年、この時期になると房総から枇杷が贈られてくる。

家人のお弟子さんが毎年贈ってくれるのだが、枇杷が来るともうその季節になったのかという感を強く感じる。

しかしあたしは枇杷は食べる習慣がないので、家人が全部食べるのである。箱いっぱいの枇杷をよく全部たいらげることができるものと感心するが、枇杷がなくなってしまえば、そのことは忘却してしまう。

そしてまた次の年の半ばになって枇杷がくる。その枇杷をあと何回受け取れるかということを考えるのは得策ではない。そういう時間が生活そのものの滋味であるのだから、残りの回数をカウントしては、生活の前後が成り立たなくなってしまう。

ところで同じ、人からもう少し時間が経つと、今度はあわびやささえが贈られてくる。こっちの方は楽しみでお酒がうまくなる。

いえ、この場を借りて、その人に枇杷のお礼と今年のあわびをお願いしているわけではない。しかしこのブログはその人も読んでいるのであるから、これはあわびの請求と受け取ってもらっても一向に構わない。

★カメラはTG-1

2012年7月 3日 (火)

偽ブリスベン

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若洲キャンプ場から東京ゲートブリッジに向かって、海岸線にそって東方向に歩むと、そこはサイクリングロードになっている。

休日の混雑は知らないけど、平日の午前などは約4キロほどの行程で数人の人にすれ違っただけであった。

まことに東京都江東区とは思えない。

その光の感じで思いだしたのは、ブリスベンのことだ。なにもこういう遊歩道がブリスベンにあったというのではなく、海が東に開けて天空から直角に太陽が指している感じが似ているというまでのことだ。

対岸には鼠園と鼠海が小さく見えるがこの程度なら気にならない。プラハから成田に到着して、リムジンに乗っての最初のカルチャーショックはあたしの場合、打ち捨てられた工場街とみえたのが、盛業中の鼠園であることだ。

遊歩道を歩行していたら、そこかしこになにか標識がある。良く見たら東海道の版画の複製なので興ざめした。非日本的と見える環境にこういうものを設置するのもかなり日本的な感覚だ。地域の行政を信用しかくなくなるのはそんな瞬間である。

複製の風景画の前を通過したのは、二の宮、大磯、平塚の図であった。

あたしは京都から出発したので、ああ、これでもうすぐ日本橋であるなということは分かったが、なにかしっくりしなかった。

★カメラはTG-1

 

2012年7月 2日 (月)

バルコン自慢

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住んでいるのは、築20余年の古マンションだが、自慢できる点がひとつだけある。バルコニーが居室の三方向を取り巻いている点だ。

最近のマンションは居住部分を稼ぐ為に、バルコニーは切り捨て政策だ。部屋の中に「マイナス空間の押し入れ」みたいのが出っ張っていて、それが畳一畳分のバルコニーである。

この古タワーはバブル時期に出来てので、その分だけバルコニーは気前が良い。以前は大手会社の偉いさんの社宅にもなっていたが、最近ではおおむねそれらの会社は撤退したらしい。

居室は北側に面しているが、そこの北面居住区画は二家族分しかない。北面の武士ならぬ、北面の素浪人だな。
一方でタワーの南側は人気があるので、四家族くらいが場所をとりあっている。

日本の常識からすると、南は日当たりが良いということであろうが、カメラが焼けたり、本が焼けたり、夏は暑いから極東で住むには実際的ではない。

さらに今までは東京タワーが見えるのが人気であったのが、この数年来はタワーの北側から空筒が見えるというので、形勢逆転の様相である。

だから大ガラスの部屋もカメラだらけで居住性は良くないのだが、広いバルコニーがあるので、そこに一時避難すると居室の狭さは気にならない。

何時であったか、福田和也さんとそのカンパニーをお招きして、河面を見ながら「乞食の宴会」をしたこともある。大体、福田さんは青山墓地でゴミ箱をバーにしてそこで宴会を開始できるような強者なのである。

ヒルズの仕事場は快適ではあるのだが、いかんせん空調のみで自然の風は入らない。ここだと今の季節ならまだ良い風が入ってくる。それで仕事もはかどる。

★カメラはタフデジカメTG-1

2012年7月 1日 (日)

プラハでハッセル

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NASAのジエミニ計画であったか、アポロ計画であったか、ヒューストンのカメラ店で買った普通のハッセルブラッド500cの貼り革を剥がして、ファインダーはつぶして、これを飛行士に持たせて、彼は素人であるからハッセルブラッドの裏側に露出の計算板をつけて、ノーファインダーで撮影させたのがハッセルのスペースカメラの最初のデビューだった。

もともと、航空カメラとして生まれたハッセルブラッドが(その基本は第二次大戦で捕獲した独逸製の航空カメラのデザインがもとになっているし、民生用の1600fは若い頃、ドレスデンに留学経験のあるビクターハッセルブラッド氏は、プリマフレックスを参考にしたと言っている)民生用のカメラとして登場したのが一眼レフであったわけだが、それがまたスペースカメラでは一眼レフを捨てたことになる。

ペンペンとか、OM-Dとか目下、主流になったミラーレスであるが、歴史から見ればハッセルブラッドのミラー外しモデルが元祖のミラーレスであろうか。

ただしこっちは本当になにも見えない。

この間のプラハの撮影では、OM-Dのムックの為に各種の交換レンズを持参したがそれだけでは寂しいので、500cにプラナー80mm付きを持参して、カラーで20本ほど撮影した。フィルムがきれたのでプラハのふぉとシュコダでフォマの400のモノクロを10本だけ買った。

仕事してると、120のフィルムをワンセッションの撮影で20本使うというのが、若い当時の常識だった。思うにこれは脇にいるデザイナーと称する、口出しが専門の人種の口封じの為に山のようにフィルムを浪費したことがその原因のようである。

今は脇に朽ちだしする人間が居ないから好きな本数を撮ればよろしい。

結局追加した10本は7本だけ撮影して後は余ったのである。それを偽ライカ同好会の撮影会の時にガスマン堀野に渡した。

現像があがってきて、ガスマン堀野の言うには、なかなか良いモノクロフィルムですね、だと。いわゆる木村伊兵さん時代のモノクロネガの評価の「ネガシャン」というやつなのであろう。

そのネガシャンのネガを品川双葉のフラッシュに出してスキャンしたのがこの画像である。

プラハの王宮の脇の小道を歩行した時の、12枚撮りの最後の3枚を時間順に掲示してある。

ラストの急な階段を下りると、左手にヨセフ スデクの二番目のアトリエが坂の左側にある。バロック様式のピンクに塗られたキッチュな家がそれだ。

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