フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »

2012年6月30日 (土)

看板建築を楽しむ

1_3

思いつきという行動は普通は「思慮分別がない」と批判されるのであるが、これあ「東京大周遊」の場合には当てはまらない。

ターミナル駅で降りて眼前の最初のバス停の最初に来たバスに飛び乗るというのは、世界の不可思議さをそこに展開してくれる。

別の言い方をすれば、自分の生まれた場所と時間は自分では決められないのいこれは似ている。

赤羽の東口でバスに乗ろうと思った。まだ行き先は決めていない。そこで駅の西口にもバス停のあるのを思いだした。

ガードを潜って目の前のバス停から常盤台駅行きのバスに乗ろうとしたらそれが混んでいた。学校帰りの学童が多い。あたしはは猫と性格の似ている所があるんで、ガキは嫌いである。それで隣のバス停の国際興業のバスの行き先を見たら、蓮沼経由で日大病院行とある。
それに飛び乗った。
板橋の南部はあたしにとってまだ「暗黒大陸」と呼んでもいいくらいの興味津々の土地である。

バスはすれ違いがめいっぱいのような迷宮を高速で疾走する。ふと見ると眼前にほとんど退色した看板建築の灰色の家が二軒、視野を流れ去った。
これは撮影しようと思って、終点の日大病院から徒歩でそのポイントに戻った。

子細に観察すると、看板の風化した二軒の左手のは、自転車屋さんで、右のは看板屋さんであった。詩人の鮎川信夫に私淑していた、看板屋さんが居たが彼のお店はこういう感じであったのではと思われた。

二軒の境界の印象がなにやら曖昧で屋根のあたりもオーバーハングしているのが粋である。しかも看板屋の二階に蛍光灯が点灯しているのが生々しい。

しばらく観察してから、さらに歩行して中板橋から北池袋で下車して、夕暮れの「すて石」を見に行くつもりであったが、それも面倒なので大塚に廻った。

見慣れた戦前の駅舎の様式をまだ残していた大塚駅は大改修の最中だった。ほぼ二年ぶりに「江戸一」に小酌して戻る。鮎川信夫を想起したのは、どうも時間は前後するが、江戸一で田村隆一を連想したせいであろう。

2_3

3

★カメラはOM-Dに12mm

ブラックロードという存在

2_2

岡谷光学という会社だったと思う。ロードという存在は昭和30年代に思春期であったあたしにかなり強烈な印象を与えた。

このカメラはアマチュア用のレンズシャッター式のレンジファインダーカメラである。このカメラの現役時代に、実物を見たことはないのだが、当時のカメラ雑誌にその広告を見た。あの当時のカメラ雑誌の何が優れていたかと言えば、それはカラーの広告頁が皆無であったという点につきる。

メジャーな広告はモノクロの1頁ものでそれはグラビア印刷であった。グラビア印刷がかなり前に姿を消してしまい、今はオフセット全盛の時代に、グラビア印刷がどういう印象であったのかを、ここで知らない人に伝えるのは非常にむずかしい。

それは一頁もののブラックロードに広告であった。ブラックライカとかブラックニコンという言い方は当時は存在した。それはクロームの仕上げが普通であった時代にそういう通常のカメラに対する「アンチテーゼ」としてのブラックペイントのカメラの存在があった。

長年、カメラ雑誌の広告を見てきたあたしとしては、1968年当時にシュミット照会が「見知らぬ人のブラックライカ」という広告を出している。これはHCBがシュミットに来て、ブラックライカのオーバーホールを依頼したという「実話」なのであるが、スイス訛りの英語の紳士という設定が眉唾だし、べたべた貼られたブラックテープをサービスマンが剥がしたら、その下からブレッソンという刻印が見えたなどとあるから、すでに「神話の領域」に属する。

ブラックロードの広告はそれより数年古いのではないかと思う。アマチュア用のカメラをブラック仕上げにして販売するという、なかなか先進的なことをやっていた岡谷光学というのはどういう会社であったのだろうか。

このカメラには面白い所が幾つかある。まず、エキザクタと同じようにフィルムカッターが内蔵されている点だ。エキザクタはダブルマガジン方式であったから、途中でフィルムを切断する必要が生じることもあったであろうが、ロードの場合は最初から巻き上げ軸は固定されていて、そこにはマガジンは入らない。

もうひとつは2,5メーターの位置がクリックストップになっている点だ。これはスナップモードである。さらにこのクリップストップはオフにすることも出来るのあいかにも「達人のカメラ」という感じだ。

1970年当時、ブラックではない普通のロード4-Bを持っていた。それを持参して大阪万博を撮影して、翌1971年のニコンサロンの三回目の写真展「視圏」で展示した中にはこのロードで撮影した写真もあった。

ブラックロードはレアであると聞いていたが、この1年間に二台も手に入れることが出来たのは嬉しい。ブラックライカよりブラックロードだな。

1_2

2012年6月29日 (金)

パンカールーブルと十字屋カメラ店

002

001

007

ちょうど四年前の今頃に、千頁の「チョートク海をゆく」が出た。

これは氷川丸の生誕75周年の記念の出版物なのである。以来、横浜にはなかなか行く機会がなかった。昼図から中目黒で元町中華街行きの電車に乗ればすぐなのであるが、昼図からの戻りに佃方面と反対に行く電車に乗るのは気が向かない。

それでもこの水曜の午後は打ち合わせのおわった時点で、ジョルダンで時間を調べて、下りの電車に乗った。乗ってしまえば横花などすぐである。

実は氷川丸への入場料は65歳以上のシニアになると、半額になるのである。1万円半額になるなら経済効果はかなりのものだが、200円半額になるのはこれはこれで良いかも知れない。

それで甲板を上下して、操舵室に行ったり、秩父宮さまが乗っていた「特別室」を見たりした。

写真集の撮影で船内は良く知っているつもりだ。廊下にある「パンカールーブル」のインストラクションは英語だから、これは外国から輸入されたものであろう。

パンカールーブルは、今の空調とは異なり、短に風が入るだけの「通風管」である。これでも当時の船客は喜んだのだという。

しかし、やはり南洋の荒波と酷暑をこれで過ごすのはかなりの困難であったと、当時の旅行記にみえる。

氷川丸を出て、その足で、眼前のニューグランドに入って、旧館のエレベータ、これは戦前のオーチス製であたしの好きな機械だ。京都の東華飯店のエレベータと並ぶ、現役のクラシックオーチスである。もうなくなったけど、日本橋の百軒店にあった、昔のライカ代理店、シュミットのクラシックなエレベータもよかった。真鍮製のじゃばらを「じゃら、じゃら」と開けるやつである。

徒歩、海員閣に行ったら、開店は午後五時だという。それで関帝廟のあたりを歩むともなく歩んでいたら、この真っ白なお店のファサードが眼にはいった。

稚拙なロゴで「カメラ」とある。ドイツの国旗がみえる。

店内をうかがっていたら、中から出てきたM7を持参の紳士が「チョートクブログ、いつも読んでます」と握手を求めてきた。

お店の代表も登場して名刺交換をした。お名前が十時勉さんと言うのである。それで十時屋さんだ。これは忘れない。

午後5時になったので、開店したばかりの海員閣に入って小酌。

夕焼けの綺麗な京急の車窓を楽しんで佃にもどる。

★カメラはGRD-4

2012年6月28日 (木)

東京ゲートブリッジを目指す

2_3

1_4

東京の暴れ歩きの、最たるものは水辺であろう。「ここに地おわり海はじまる」の本家のリスボンには行ったことがあるが、東京の湾岸部だって、同じように「海始まる」ことに変わりはない。

しかもポルトガルは大西洋なのに対して、こちらは文明尽きる、北太平洋である。

梅雨のはっかりしない6/25日に単独行にて、新木場から中央防波堤を目指した。これは都バス系統では「波1」なのである。

終点の中央防波堤というから、その先に東京ゲートブリッジが霞んでみえているおにと臣ったら、方向をロストした。

周囲はゴミの焼却場ばかりである。検討をつけて歩道を歩行していたら、ギンヤンマが路上で休んでいる。

ヤンマを見たのは実に半世紀ぶりである。しかも東京のここは大田区なにだ、なにか凄いな。

結局、カフカの「城」めいた体験があったのみで、東京ゲートブリッジには接近することも出来なかった。

帰りは門仲に出て立ち飲みの「太陽」で一の蔵を二杯。

家に戻って調べたら、行き先を勘違いしていた。中央防波堤ではなく、新木場から若洲キャンプ場行きに乗るのである。

それで6/26は快晴の欧州みたいな天気なので、9時前に、あたしは作りもののような東京ゲートブリッジの前に立っていた。

★カメラは高千穂タフデジカメTG1

2012年6月27日 (水)

OM-Dの偽貫禄仕上げは、ほぼ貫禄状態である

1

2

5

思いつきで始まった、偽貫禄同盟は日本カメラの最新号にも紹介されて、そのサブタイトルには「ブレーク寸前?」とある。
こんなものがブレークされては、迷惑な話であるが自然発火的なのは、今、話題でマスコミでは無視されている、毎週金曜の「野田退治」と同じと言えないこともない。あの「あじさい革命」ってのは名前の付け方がスマートだ。
電通ではそういう意気なネーミングはできないな。

8月に出る「OM-Dワークショップ」の原稿をようやく片付けたわけであるが、OM-Dの豪華型録をめくって(これはかなりお金をかけている型録でいい感じ)
いたら。その製品写真は当然ながら、新品ピカピカであるのが不満であった。

それでアローカメラが主催のシドニーのカメラ寄席(あたしが倫敦のグリーンパークめかして麦酒箱の上で演説をするエンタメ)の時に、偽貫禄同盟会長をわずらわせて、あたしのOM-Dに偽貫禄の特殊メークをやってもらった。

こうして型録の上に載せてみると、なかなかの貫禄で「世界の果てを周遊したOM-D」の感じが良く出ている。

こういう特殊バージョンのOM-Dをなにかの記念限定バージョンで出したら、いいと思うのだが、高千穂の紳士連はスクエアでからまず無理であろう。
ジーンズのストーンウオッシュめいて、実に雰囲気が出ている。
でも、その前に、大昔のフィルムカメラは真鍮で出来ていたという、初等教育が必要だ。さもないと「なんでカメラの角が黄色いの?」と質問を受けることになる。

★偽貫禄仕上げのOM-Dはオリンパスタフデジカメで撮影。
あたしが講談してる脇で、偽貫禄同盟会長(人間国宝)が、偽貫禄加工をしている画像はアローカメラ二代目の提供による。

★下の参考画像はブレッソンのブラックM3。まるで金ピカライカだが、同じ番号帯の1966製のあたしのM2ブラックも塗装が悪いので、すぐに金ピカになった。

Hcb

2012年6月26日 (火)

相似形 ネカと自動車

Photo

東十条の北本通りから来合わせたバスに飛び乗ったら、それの終点は「北営業所」であるという。嫌な予感がしたら、果たして乗車したバスストップから2つめが終点であった。

しゃくなので、北本通りを赤羽方面に北上して、立派なミナレット(北区がモスレムの街なのかと思うほど、このミナレットはいい感じだ)を撮影したりしているいるうちに土地勘が戻って、道を荒川にとって、岩淵水門を十数年ぶり訪問した。

この荒川放水路(断腸亭の名作「放水路」がいい)の歴史を伝える資料館があってそこで休憩した。この前に来た時にはこの立派な建物はなかったな。

マンハッタンから戻って高島平界隈に短い時期住んでいた。三十代であった。自転車で荒川の河川敷を延々と下って、河口にまで行った。だから河川敷はおなじみなのである。

帰りは碑文谷まで周回して当時の日本の写真界に影響を与えた、ギャラリーMIN(この名前ももう誰も知るまい)のレセプションに顔を出して、環八を延々と北上して家に戻った。

「環八の黒い流星」と異名をとったものだった。一日百キロ走行しないと落ちついて眠れないのである。

当時、自転車日記を書いていたが、キャノワードに書きためたFDはすでに読めなくなっている。その一部は大昔のカメラアートに一部がかろじて読み出せたので同誌に掲載したこともあった。

漱石の幻の原稿が発見されて、文学上の話題になっているが、これから書かれる名作はすべてデータだからなにかつまらない感あり。

赤羽岩淵の小山酒造が一部マンションになって久しい。その北側、つまり荒川方面の道路を隔ててた所に三角形の狭い木造家屋があって、今、思うと夢のような話であるがこれが鄙びた旗亭であった。

写真集「東京散歩カメラ」の撮影で工藤ゆきをここに伴ったことがある。もっとも工藤は下戸だからウーロン茶であった。その跡地は今はパーキングになっている。

白黒のネカ(猫を意味する佃言葉)と自動車がそこにあって、見たらその格好が相似形であることに気がついた。

どっちが元祖なのか考えるまでもない。パーキングのクルマは犬よりも、ネカに似ていることも気がついた。

★カメラはOM-Dに12MM

2012年6月25日 (月)

五十五年ぶりに前野町訪問

1

2

  • 3

4

5

以下は「顔本」のあたしの書き込みである。

>>>ほぼ五十五年振りに、ペンタックスリコーの前野町オフィスに行く

。小学校低学年の時に社会見学でアサヒフレックスを見に行った経験あり。
周囲の風景よし。
東京の原風景だな。
ペンタックスリコーの紳士連と大原の浜出屋に小酌する。
談論諧謔百出。>>>

前野町の旭光学に小学校の社会科見学で行ったのは、あれは小学校の中学年の時であった。木造の工場だったような気がするがそこを延々と歩いて、当時の最新型、未来のカメラである、アサヒフレックスを見せてもらった。
あたしの父はカメラ人類であったから、ようするに息子をだしにして母から予算要求をするというだんどりであったのだろう。

ただしその直後にアサヒペンタックスが登場して、アサヒフレックスは入手しなかった。アサヒペンタックスは当時、よんまんきゅうせんごひゃくえん、もしたのである。
あの当時の流行歌に「いちまんさんぜんはっぴゃくえん」というのがあった。その歌詞の内容は「ぜいたくしなけりゃくえるじゃないか」というのである。その4倍近い価格がアサヒペンタックスだからかなりの高級機だった。

その時、以来、実に五十五年ぶりにペンタックスリコーに行ったことになる。諸学生のがきがアサヒフレックスを見て、その次に行ったら、全部デジカメになっていたというのは、浦島太郎伝説になるな。助けたカメラに連れられて、前野町に来てみれば、書けない美しさ、、、なわけだ。

このラストのセンテンスは本当なのである。都立志村高校で1960年代にこの界わいを経て、志村高校に通学していたあたしはこの界わいに土地勘がある。そしてこの「東京の原風景」とも言える街並みが好きである。

あたしの仕事場のあるヒルズあたりが嫌いなのは「風景がすかして」いるからだ。ゆえに佃からヒルズへの通勤路ではなるべく周囲は見ないようにしている。しかし前野町界隈は視線が全開になって、周囲を見回している。

ペンタックスリコーの受付で来意を告げたら、ガードマンのユニフォームのおばさんが「お迷いになりましたか?」と言うので「とんでもありません。あたしゃ志村高校なんです。ここら辺は庭みたいなものです」と答えた。隣に座っていたガードマンのおじさんも我が意を得たりとばかりにっこりした。お二方とも地元の方なのであろう。

真ん中の銀色の屏風の前に咲き乱れる夏草の風情のあるショットが好きだ。ここは高速道路の脇の家の壁なのであるが、15年ほど前に発見して「野趣があるな」と気に入っていたポイントなのである。それがまだ健在なのが嬉しかった。

★カメラはCX-2

 

2012年6月24日 (日)

OM-D+12MM で「わうじ あかばね」徘徊

1

3

5

6

7

9

東京都写真美術館の海外展で60-70年代の東京の企画展にあたしも出品することになった。

すっかり忘れていたが、東京都写真美術館にあたしの作品がかなりの数、収蔵されているのだ。ミュージアムの出来た時の収蔵だからもう30年前だ。

その影響で60年代の東京を見直してやろうというので、最近は特に足立、葛飾、板橋、江戸川方面を暴れ歩きしている。

60年代にはライカに広角レンズであったが、2012年にはOM-Dで12mmという機材である。まず20代に比較して体力が低下しているのだから、カメラはコンパクトデジカメでもいいが、それでは「作品を撮影している気分」に欠けるので、ちゃんとしたカメラの格好をしたカメラが良い。

王子野戦病院闘争というのがあったのは、あれが1967頃であったか。キャンプ王子にベトナムで負傷した将兵が担ぎ込まれた。米兵の死体洗いのバイトが一日八千円だと噂された。ただしどこに行けばそのバイトがあるのか誰も知らなかった。

週刊アルバイトニュースもガテンもなかった時代の話だ。

かつてのキャンプ王子の界わいは一変したが、あたしが王子で脳裏の残っているのは王子の表記のことだ。戦後まもなくの時代、王子は武蔵野のまっただ中の感じがした。駅名が「わうじ」と旧かなで書かれていたのが、戦後教育のがきであったあたしなどは不思議だった。

ほかに、街中に「もみれうじ」とあるのがわからなかった。これはマッサージのことなのである。蝶々は、てふてふである。

有名な「わうじの名主の滝」に実にしばらくぶりに行った。斜面を登ったら息がはあはあした。20代はそんなことはなかった。ようするにじじいになったのである。

名物の名主の滝は水が出ていなかったが、じいさんばあさんが周囲で何かを待っている。それでしばらくあたしも待機していたら、係りの人が栓をひねったらしく、水が出てきた。

その不思議な作りもの感覚がなにか「鼠園」の隣の「鼠海」の偽火山を思いだした。この偽火山はあたしのヒルズの仕事場からも、その姿を双眼鏡で観察できる。なんかぼた山のようでもある。

★カメラはOM-Dに12mm

 

2012年6月23日 (土)

信号機の清掃はエンタメだ!

Rimg6149

Rimg6154

Rimg6156

この間、池上線の御嶽山駅から馬込方面に歩行した。
通常のルートだと、西馬込あたりから新幹線に沿って、御嶽山まで歩くのであるが、この日は意表をついてその逆コースをとったわけである。
この界わいはすぐ側に田園調布などもあるが、実は地名としては、御嶽山より田園調布の方がずっと新顔である。

断腸亭は日録で、親戚の告別式でこの界わいに来た時、電鉄会社の新開地とかなり批判的である。

普段は披露して馬込から御嶽山に到着するのが、御嶽山から歩行する時が元気というのはなにかフィルムを逆に廻した映画のようで面白い。

その途中の話は割愛するけど、新幹線ぞいに東京方面に歩行すると、いきなり道が途絶える。そこが環七との交差点。馬込である。

大田区の馬込出張所という所のエントランスには座りやすいベンチがあるので、そこに座ったら、これは偶然の女神の采配というのであろうか、交差点で信号の清掃が始まった。

それを見るともなく見ていたら、実にシステマチックなので感心した。トラックを停車させて、あれは何というのか、タイヤを固定する、心張り棒のようなのが出て、ゴンドラに2名の作業員が乗って、ゴンドラが上がって信号を清掃して、下がって、次の場所(交差点には4か所の作業点がある)に作業車は移動する。これが一箇所で3分ほどなのだ。

人員は作業員が2名。ドライバー。整理員が二名。作業者は定員三名だから整理員のガードマンさんはどのように次の場所まで移動するのか、と興味津々で見ていたら、ちゃんと自転車を持っていた、
これを見ていると、なにかF1のピットインを見ているようなチームワークの爽快さがある。

2012年6月22日 (金)

プラハの朝 

1

Photo

四月の半ばにプラハから戻ってきて、すぐに向こうに「帰る」つもりであったのが出版の事情などでなかなか果たせない。

大体、プラハに行くこと自体が、あたしの場合は一種の思いつきであって、自分の枕のある位置を試しに10000キロほどずらしてみようかという程度のことである。

それを繰り返していたらあっと言う間に30年が経過したわけだ。

最近はアトリエも飽きたので、滞在の三分の一は労働者街の安ホテルに宿泊している。これは今年の1月に宿泊した、ホテルゴールデンシテイという安宿だ。

安宿は、バブルの最盛期の当時に、五つ星ホテルなどを取材した身にしてみれば、安ホテルはシンプルな暗しができるから大歓迎である。

これをライカに例えるのなら、標準レンズ付きのライカスタンダードであって、距離計もなにもついていないのが、シンプルな安ホテルである。これが五つ星ともなると、レンズにはのくちるっくすが附いたり、モータードライブがついたり、えるめすの革張りになったり、およそ、写真とは無関係なラグじゃリーな要素が増加するわけだ。

このホテルで気に入っているのは、間の前にトラムの停留所があること。そこからトラムで中心街まで四つよどのストップで行けることだ。

しかも朝など、窓から観察していると、この界わいのジシコフの注視部にhメトロのラインがないので、路面電車が収容な交通機関であるから、なかなか出勤の人々の動きが面白い。

さらに路面電車の屋根の上の複雑な仕組みが分かって興味深い。

★カメラはCX-5

2012年6月21日 (木)

エクザクタノタダシイカマエカタ

1

東ドイツ製のエキザクタ、、と書くのは間違いであって、正しくは、ドレスデン製のと書くべきであろう。

戦前のドイツと戦後の東ドイツのドレスデンで生産された、一眼レフの元祖が時代によってどのように変化して行ったのか、それを追っかけるのも面白い。

ところで時代の変遷による、このユニークな一眼レフの進化に関しては、他のブログに詳しく触れてあるからここでは解説しないが、あたしの見方からすれば、戦後のモデルの最終進化型のVX1000だが、このカメラが戦前のそれと大きく変化しているのは、そのネームプレートが時代が経過すると、接着剤が劣化して簡単に剥離してしまう所にその個性があるのではと思う。

戦前のモデルだと、ネームプレートはプレスで文字が形成されてしかもフロントのプレートと一体化しているから、理論的に剥がれるのは不可能である。
戦後モデルになって、後から銘板を貼り付ける所から、戦後モデルの「個性」が始まるようになったという天の邪鬼な見方である。

これはVX1000である。プラハで買った時にどうも銘板の接着がゆるいと思っていたらすぐに剥がれた。同時代の他の名前による製品にはELBAFLEXというのがある。要するに銘板だけ簡単に交換できるのである。

このカメラは応急処置として、銘板はセロテープで固定した。
さらにセロテープだけではなく、このカメラの本体には、マジックテープを張り巡らした。
愛用している、OM-Dが手のひらへのグリップがいまいちであったので、試験的にマジックテープを貼ったら使いやすくなった。
このテープは数年前に突撃隊長こと、サクライバカヤローズ(実名)からお中元にもらったのを紛失し、それが再発見されたのだ。

ところが実際に貼ってみると、OM-Dの場合にはかなり手のひらへの密着感が増加していい感じであったのが、エクザクタにマジックテープを貼っても、手のひらへの摩擦係数は別段、増加しないことが分かった。

その理由は不明であるが、考えるにOM-Dの場合には手の積極面積はかなり僅かであるから、そこに摩擦係数の高いマジックテープを貼るとグリップ感覚が劇的に増加するのに対して、手のひらとの接触面積の広い、エクザクタの場合にはそれほどでもないらしい。

しかしそれはそれとして、こういう白いカバーを付けると、何か特殊カメラの趣きの出てくるのは痛快である。

初期のアルパレフレックスの中に、デイラー用の取り扱い説明書があった。これはカメラを白い厚紙の箱に入れて、そのそれぞれの場所に取り扱いの仕方が印刷してあるという、一種の「立体説明書」である。

その珍品のことをちょっと思いだした。

2012年6月20日 (水)

OM-Dで足立区役所の展望レストランに潜入

1

2

3

4

7

先週のことだが、亀有駅に生まれて初めて降り立った。

そこの名物は「乱れた制服の警察官」がサンダルばきで立っている銅像で、沢山の人がそれを撮影していた。
なんでも漫画のきゃらくたーらしいのだが、警視庁もそういう風紀の乱れたポリスはちゃんと取り締まる必要がある。だからポリスの猥褻行為などで上の偉い人がいつも陳謝しているのではないか。

それはさておき、亀有駅北口に足立区役所行の都バスの看板を見つけた。ところがこれが1日に10本もない便でしかも高齢者が利用する時間帯の12時から午後3時はバスの便は皆無である。

むらむらと足立区役所に行きたくなった。日を改めて北千住からバスで出かけた。北千住の西口の降りた所にバス亭がある。

15分ほどで区役所についた。立派な建物である。ホールではあたしと同世代の皆さんが憩っている。
巨大なおばけ煙突の写真パネルもある。おばけ煙突の手前が水田でそこで借り入れ、じゃなかった、刈り入れをしている写真などは、これがかつての現実の風景であったとは、にわかには信じられない。

思えば、あたしの母校、都立志村高校だってあたしの在学中は学校の北側は秋にもなると、黄金色の一面の原であった。

子規は漱石の都会人であることを「揶揄」して、早稲田を子規が漱石と散歩している時に、そこに穂を垂れているたんぼの稲が、都会人の漱石は米の元であることを知らなかったと書いている。

大文豪がそこまで世間知らずである筈はないから、これは子規の補充性によるのかも知れないが、それよりあたしの驚くのは今なら都心の早稲田とか鶴巻町が明治にはまだ水田であったその事実の方だ。

「OM-Dワークショップ」(えい出版社から8/9発売)の原稿書きが佳境になって、この本は「競合他社のムック本」がおそらく「型録ムック」であろうから、それに対抗して、あたしの視線で書いた「偏屈ムック」にしようと計画しているのであるが、その為に「実機で実写」(この言い方はいかにもカメラおたくさん風で大嫌いなので、わざと使ってみる)しようと、OM-Dを持って、都バスの暴れ乗りを最近はやたらしているわけである。

足立区役所の最上階に展望レストランがあるというのは全く知らなかった、受けつけの人に聞いたら新庁舎は平成八年の竣工という。
割と最近の建物なのに、展望レストランはなにかバブル全盛期のような、やたら真っ黒なパネルとを使ったそれっぽい室内である。この感じは何かに似ているなと思ったら1970年代のワルシャワのレストランにも似ているのだ。昔のポーランド人の知識階層は黒いシャツに赤いネクタイで背広である。もっとも最近はどうか知らない。ワルシャワにはもう30年以上も行ってない。プラハは1月と4月に行ったけど。

話を戻すが、展望食堂の圧巻は、入り口の蝋細工である。まるでマダムタッソーの館だな。神田の交通博物館にやはり「こだま」という名前のレストランがあって、そこの食堂サンプルが渋いので、それを見る目的で交通博物館に行ったことがあったのを急に思いだした。
しかもここには昔懐かし「お子様ランチ」もある。小学生までと年齢制限があるが、学校給食を食べさせるのだから、ここは還暦以上にはお子様ランチは販売してもらいたい。あるいは「子を貸し屋」のように小学生をどっかから借りてくる手がある。

オジイチャンもお子様ランチは食べたいぞ。

お子さまランチの方はいくら、自分は小学生であると言い張っても(コンビニのお酒の年齢確認の逆で、あたたは小学生ですか?という問いに、はい、と答えれば問題なしと思われるが)も無理なようなので、戦術を変換して頼んだ、1050円のビーフシチューは、これは往年の帝国ホテルで食べたのと同じ味がしてまことに結構であった。

ヒルズのクラブでうだうだしていないで、これからは足立区役所の展望レストラン、ピガールにゆこうと思う。お酒も飲める。百鬼園の話のように、閉店の九時になると「蛍の光」が流れそうだ。

ただしその文字の綴りはPIGAREではなく、非常に難しい書き方をする。

★撮影はOM~Dに12mmの広角レンズ。このレンズがシリーズの中では一番好き。そのOM-Dを撮影したのは、オリンパスTG-1こと、タフデジカメである。

2012年6月19日 (火)

コンタレックスの実際の大きさ

Rimg6205

あるモノの実際のサイズが分からないので勘違いを起こすことが良くある。

その有名な話では、ルーブルのモナリザの前に立った、アメリカ人ツーリストが「これはあまりにも小さい」と感嘆する台詞がある。世界的な絵画だから、ルーベンスのように巨大であろうと勘違いしたのであろう。

同様の勘違はフェルメールの上にも起こる。あたしはウイーンの美術館で真冬の夕刻などすでに人気のない博物館でフェルメールを独占することが良くあるが、あれも小品と言えるサイズだ。

高校時代にすでにニコンFを使っていたカメラ高校生のあたしだったが、唯一気になったのは、カメラ雑誌の広告に掲載されていた、コンタレックスのイラストだった。素晴らしい「舶来」カメラだと思った。当時はそういう古語がまだ活きていた。

その精密感溢れる写真を丹念にスケッチしてそれを自室の壁に貼って満足したりしていたのだ。その時の勘違いが実物の大きさを知らなかったという点である。あたしの想像ではまだ見ぬコンタレックスは格好小ぶりなカメラと思っていた。そう、それは思い込みなのである。

本物のコンタレックスを実際に見たのはその何十年後であったのかそれは忘れたけど、かなり想像より大きかった。

このサイズの勘違いはこの画像でもわかるけど、イラストの大きさを当時のツアイスは、どうも意図的にやったのではと思われるふしがある。このカタログでもわざとイラストの周囲の空間を空けているのではないか。

これはカメラを小型に思い込ませる心理的なテクニックなのであろうか。

2012年6月18日 (月)

哲学的写真の為に

Rimg6208
Rimg6207
Rimg6206

八月七日に出る、「OM-Dワークショップ」(えい出版社)はあたしの一連の「ワワークショップ」シリーズの最新刊である。目下、佃の角部屋に籠もって執筆中だ。散歩に出ることもない。散歩はうちには三方ベランダという住居の三方向を取り巻いている長いバルコニーがあるのでそこで済ませている。

ワークショップという言葉が日本に到来した1970年代当時、新宿あたりで「ワークショップ」という名前の写真のワークショップが登場して、当時、ウイーンに居て、ザルツブルグカレッジインターナショナルフォトワークショップで、シンデシャーマンや、ラルフギブソンに伍して、ストリートスナップの講座を持っていたあたしは日本から届いたカメラ雑誌のニュースを見て、かなり吃驚した。ワークショップだけでは、意味不明なのである。

なにか福田和也さんが部長代理の「写真部」に似ている。あたしは他の写真部と区別がつかないのでこれは「あの写真部」と命名した。

1983年マンハッタンから東京に戻った時、今、書いても誰も信用しないのであるが、これは事実である。当時も今とまったく同じように東京の暴れ歩きをしていたのだが、世田谷とか杉並の周辺の街角で「喫茶店エイズ」というのがあって、眼を疑った。

ようするに輸入した外国言語をわけを知らずにそのまま使用してしまうのである。スペースインベーダー屋が隆盛の時代だ。

この逆の文化の勘違い例が、プラハなどでも良く見かける、いれゆるスポーツバーの名前である。
NAGANO 1989などはいいとして、TSUNAMIというのはいただけない。そのスポーツバーのエントランスのイラストには普通のサーファーの好む「ビッグウエーブ」が描かれていた。

上のオリンパスワイドスーパーは1966年に使用を開始してからかなりの数を使い潰している。最後にオリンパスのプロサロンで整備してもらったのはすでに30年の昔であって、当然ながら今ではサービスはできない。
背部の露光計算板がいい。これを欧州人に見せたら首をひねっている。降伏した日本兵が両手を上げているようなイラストがある。これは運動会と説明しても通じない。もともと欧州には運動会はない。日本人学校が欧州で運動会をしていると、日本人が不穏な集会をしているというので人だかりができたものだった。

オリンパスワイドはとても売れたカメラなのでヤフオクなどで安価に出回っているのがありがたい。

Hズイコーという8枚玉が付いている。アサヒカメラのニューフェース診断室のかなり初期(これが第一回だったかな)に木村伊兵衛さんが都会の夜の盆踊りをこれで撮影している。

まだ駆け出しのカメラマンであった二十歳のあたしがどっかのカメラ雑誌の座談会でこの玉をズミクロン35mmに似ている描写などと生意気を言った事実も今ではほほえましいけど、思えば逆光に弱いあたりが、本家の当時のライツの広角レンズと似ているかも知れない。

それでもオリンパスワイドスーパーはすでに半世紀は愛用しているのである。デジタル化されてもこういうコアな部分の機材というのは変わらない。

10年近く前に写真家のオザワエイイチがあたしの誕生日に贈ってくれたのが、この元箱入りのカメラである。

本体には独逸語で「哲学的写真の為に」という意味のロゴが彫り込まれている。

あたしの大事にしている高千穂写真機のひとつである。

2012年6月17日 (日)

昨年の春、マンハッタンで

Nyc1

Nyc2

Nyc3

佃の大ガラスの部屋の型遅れのPowerBookの中に昨年の春のマンハッタンの二週間のライカで撮影したモノクロネガのスキャン画像が入っている。

全部で10本あまりだから400枚には欠ける画像だから数としては少ない。

それらはあたしの懐かしい80年代のマンハッタンの記憶の追憶だと思っていて、今、その画像をランダムに見たら、それらは80年代のメモリーなどではなく、正しく昨年の東日本大震災の時の同じ時間軸のマンハッタンであった。

奇しくも、地震発生直後にマンハッタンからスカイプで家人と電話で話をしたり、欧州の友人連が心配してくれたので、これもスカイプで会話した。

それでマンハッタンの深夜はホテルで日本の状況をウオッチしていて、朝になるとライカで撮影に行ったのであるから60代としてはかなりのタフさ加減であった。

しかしその睡眠不足は午後にホテルの部屋で帳尻を合わせていたようで、午後にランチにありついてちょっと横になって眼がさめたら、もう眼前のエンパイヤステートビルに照明がされていることもあった。

マンハッタンの春はセントパトリックスデイを挟んで、晴の日と雨の日が交互にやってきて、典型的な気の滅入る春である。

ただしマンハッタンではあたしは常に通過者であるから、逆に生活の苦労はそこには持ち込まない。どうも撮影の為にはその方が良いような気がしている。

思えば昨年は3月がマンハッタンで東日本大震災を「体験」し、七月にはベルリンで「ベルリンの壁半世紀」を体験した。それらがライカでモノクロで撮影されたkとの意味はまだ分からないけど、それらの映像群はあたしのモノクロの仕事の時間軸の延長に存在することは確かなのだ。

★ライカM3 スーパーアングロン21/4 ツアイスイエナ ビオゴン35/2,8

2012年6月16日 (土)

「夢の赤十字病院」 オリンパスTG-1で葛飾区横断

Rimg6204

3

東京を不規則にめったやたら歩行しているのは、ウイーンに住んでいた時代、すなわち1973-80とマンハッタンに住んでいた時代1982-83を除外して、まあプラハと往復している最近の時代はこれには算入しないけど、ともかく普通の東京人よりも圧倒的に路上での時間を過ごしていることになる。まあ、路上生活者だな。

その無数の視神経の記憶の堆積の中で、毎夜、眠りにつく前に脳裏に浮かぶのは、茶色の病院であってその右上に大きな赤十字のマークがついてるシーンである。

何時、それを実際に見たのかわからないのだけど、確実にあたしの視神経の記憶野の上部にそれは蓄えられていて、はて、あの赤十字病院はどこの街角であったのかと思いだそうとしているうちに眠ってしまう。

こういう場合、寝返りをうつと就寝前の視神経の記憶がゆさぶられてその撮影ポイントが思い出されることがあるので、何度か試行したが、無駄であった。

その代わりに、あたしの視神経のメモリに呼び出されたのは、赤十字ではなく、赤新月なのである。言うまでもないが、キリストベースの世界が赤十字社であるのに対してアラブ世界では赤新月社だ。

トルコ航空でイスタンブールに向かっている時に、指の爪の角が割れてそれが拡大しそうなのでCAさんから爪切りを借りたことがある。その時に救急箱から出てきた爪切りであるが、その前に救急箱に赤い三日月がマークされていることをあたしは非常に珍しく思った。というのはあたしの数多い飛行機の搭乗で、唯一のイスラム国の飛行機であったからだ。

夢の赤十字病院は十年来、その位置が不明であった。
しかしあれは夢であったなどとは言わない。その赤十字のブラウンの病院を見た時にあたしは感激してライカで撮影していたのである。

2012/6/14の東京はまるでイタリアの六月のような快適な気候であった。当初の飛行計画のように、両国駅から都バスで小岩駅に向かって、久しぶりに小岩のフラワーロードなどを散策してから奥戸街道を東に向かって、新中川と中川を超えて、奥戸の屈曲部を徘徊してから、新奥戸橋を越えて立石に向かった。

その前日にはあまりにバスに乗りすぎたので、階段を下ると膝が痛くなった。一種の血液の不順であるが、エコノミークラス症候群に対してこれは都バス暴れ乗り症候群とでも命名しよう。

それでその13日の都バス暴れ乗りの翌日は「小岩立石 死の行軍」にしたのである。もうご老体だし、急ぐ旅でもないので、そこここの中川の屈曲部の公園のベンチで休みながらゆるゆる行った。

通行人の傍目にはベンチで余生を送っているじじいに見えるであろうが、まさか立石まで歩く密命を帯びているじじいには見えないであろう。もっとも公園のこの時間帯には同年代のじじいばばあも家でシエスタをしているらしく、公園は無人だ。

もっぱら、生まれたばかりの子チュンが樹木の側の2個ある砂風呂で砂浴びをしているくらいだ。その二つの砂風呂の「湯船」を見ると、北の方のが人気があって、入浴順でもめたりしている。われわれ人間の温泉の評価のように雀にも、砂風呂の優劣があるらしい。

奥戸橋から立石に到着して、立石様に詣でて、駅に行くのもつまらないので、そこから飛行計画にない、葛飾区役所を目指すことにした。さらに東に行くわけだ。この前の月曜に亀有駅から足立区役所にバスを探して一日に10本もないので断念した。あたしの評価としては、これはエベレストの頂上を目指して悪天候で登頂を断念した勇気ある撤退だと思う。

その手の話、つまり東京大周遊で目的地を目前にして撤退した勇気ある物語をしばらく前に石川直樹さんにしたら、紳士の石川さんだから変な顔こそしなかったが、黙っていたのでこれはやはり変だと思ったに違いない。

三年前の真夏に、石川さんとかつてのあたしの撮影ルートである、新宿、勝ちどき間を雑誌の取材で一緒に歩行したら石川さんは麹町で断念したのである。世界最高峰の酸素の薄いところは石川さんは得意かも知れないが、どうも都市部には弱いようである。

そんな故事を思いだしつつ葛飾シンフォニーホールを経て、地味な葛飾区役所の前まで来た。区役所は地味なのが区民としては評価が高いと思う。昔の墨田区役所は実に良い建物だったが、今ではあまり信用できない会社のようなグラスウオールになってしまったし、文京区役所も後楽園ホールの別館という感じだ。一方で豊島区役所などはクラシックなぼろぼろで信用ができる。

葛飾区役所の区議会というのが古くて、高床式の正倉院御物みたいな感じなのも良かった。しかもフランクロイドライト風なのである。

その先に夢の赤十字病院が見えた時には思わず歓声をあげた。夢に視たようなキュビズムの画に出てきそうな素敵な建物だ。
あとで住居案内で見たらそのブラウンの席十尾ビルは産院なのだそうだけど、それは問題ではない。

★カメラはオリンパスTG-1 快晴の日だからスコールの深海もないし、タフデシカメの実力はまだ発揮されていない。ストラップの警戒色の赤がいい。飛行機の脚についているワーニングのテープみたいだ。マーシャラーが出発直前の飛行機に向かって示す車止めの赤いリボンと同じ存在感だ。

2012年6月15日 (金)

2008年12月雑司ヶ谷 Contax1 x Nikkor 25mm f4

1_2
2
3_2
4_3

東京の豊島区の雑司ヶ谷はあたしにとっての「迷宮」のひとつであって、実はつい最近までその全容が分からなかった。

これはかなり不思議なことなのだが、たとえていえば自分の手のひらの様子は知っているけど、自分の背中の様子はよく分かっていないのに近い。

高校の三年間と大学の四年間は、池袋方面には通学はしていたのだが、この都合七年というもの、それは単なる音羽のあたしの生家から池袋への単純な往復運動であって、その運動範囲の外に出ることはなかった。
考えてみれば当然の話で、当時は高校生、大学生であったから、それは単に通学であったからである。

雑司ヶ谷の界隈がだんだん意識上にのb登ってきたのは、1980年代の半ばに、雑司ヶ谷のちょっと北側、鬼子母神への参道に近い所で、ビデオカメラを買ったことにある。
当時はそういうちょっとあり得ないような知らない街の裏手に、そういう安売り店があったものだった。今にして思えばまるで夢のような気がする。

その店の名前は忘れたが、やはり似たような環境、この場合は東西線の行徳駅から徒歩20分という「奥地」にSTEPという量販店があって、そこはアウトレットの走りというべきか、段ボールのコンピューターが沢山積んである倉庫のようなところで最初のあたしのマックを買ったことがあった。

ようするに、雑司ヶ谷の場合も似た状態であって、東京の知られざる領域、それもクラシックな地帯の存在を教えてくれたのは、そこでビデオカメラ(それはハイアマチュア用の高級機)を買ったというのは、なにか不思議な消息をあたしに感じさせた。最新のテクノロジーを扱うお店が、あたしに隠された珠玉の街を教えてくれたからだ。

これが1985年当時だからすでに四半世紀の昔である。以来、この界隈にはよく足を踏み入れるようになったが、さらに面白く思ったのは、それぞれに雑司ヶ谷のそれぞれに記憶している断片の地域の位置関係がまったく分からなくて、それがようやく自分のものになったのは、たかだかこの10年来のことなのである。

この数枚の画像はようやく自分の手のひらのようになった、雑司ヶ谷を撮影した時の、さらに最近の4年前の撮影だ。
一度、この界隈に伴ったアメリカの写真家が、彼はアンコールワットから戻った直後にこのあたりに伴ったら、その不思議さに興奮していたことも思い出す。

★カメラはコンタックス1型にニッコール35MM

2012年6月14日 (木)

オリンパス タフデジTG-1で都バスを暴れ乗り

Rimg6203

0

1

2

3

オリンパスの防水カメラは本来は夏の商品という位置づけであろうが、あたしの場合にはズボンの尻のポケットに入れて過激な運動をしても、液晶が割れないいうのが一番ありがたい。

数年前のこと、ハッセルブラッドの生誕100年のプレスツアーでハッセルのデジタルカメラの開発手者さんと対談した。そのLEDがあまりはっきり見えないので問題提起したら、開発者さんはこれはカメラからの最小限のデータを表示するのが目的だから、液晶の見えはあまり重視していないという答えで、それにあたしは満足せずに激論になったのは、スエーデンのハッセル本社でのことだ。

当時はあたしも若かったので、激高して激しく椅子に座ったら、尻ポケットのコンパクトデジカメのLEDが割れたことがあった。
今度のオリンパスの防水カメラ、タフデジはそういう事故は起きないであろうからこれが一番ありがたい。

昨日、13日水曜はそのTG-1こと、タフデジをポケットに入れて東京のバス画汚染を暴れ乗りしてきた。
月島から日暮里に行き、荒川三丁目からまた日暮里に戻って、錦糸町に出て亀戸に廻った。
久しぶりに坂崎さんのご実家の武藏屋商店の前にも行った。ただしあたしは面がわれているので、遠くからお店を見たという意味である。
その立ち位置に墨田区のコミュバスのバスストップがあった。これは墨田区のだから、すみまるとか言うのである。

日本円100円を投じてそれに飛び乗って知らない所を徘徊していたら、いきなり空筒が視界に現れたのには吃驚した。東京の下町の面白さはいきなり空筒が思いもかけぬゲリラ襲撃をかけてきて、とんでもない方向に登場することだ。これは5

ドルも払って空気の薄い章空から東京を観覧するより遙かに面白い。坂崎さんの実家から乗り換えなしで、いきなり今話題の空筒の側までゆけるのだ。これはステータスだな。

せっかくなのでバスを降りて、「空筒ミナレット」に詣でる、善男善女を撮影した。無音のデジタル猫の巣(TG-1のこと)は、こういうスナップには無敵だな。

雨が降ってきたら、なるべくこのカメラを雨に濡らそうと思っていたのであるが、世の中はそううまく行くものでもない。

空筒から都バスの暴れ乗りを継続して、錦糸町に出てさらにそこから葛西駅に向かった。そこも暴れ乗りの終点ではなくて、コーシャハイム葛西とか言う行き先の都バスに暴れ乗りしたら、どこか地の果てめいた(脚注*これは褒め言葉の意味)場所に出た。・
その森の小道を歩むともなく歩んでいると、眼前にウイーンの大観覧車が出現したのである。どうもあたしの生存する時空がゆがんでいるらしい。
あわててタフデシのGPS位置確認をしたのであった。

2012年6月13日 (水)

レニングラードでSTペータースブルクとモスクワを撮る

6
5
4
3
1

Rimg6202

もう五年ほど前になるが、取材でサンクトペテルブルクに行った。

フィンランド湾に面した非常に人工的な感じのする大都会である。仕事なので、もっぱら宮殿とか美術館を撮影した。実は路地裏の方が好きなのだけど、そいいう贅沢は許されない。

その時にはこれは仕事だからフルサイズのデジタル一眼で撮影した。そういうのはDUTYであって、HOBYではないのだからただただ仕事を確実にこなすだけであって、カメラを持ち歩いて楽しい筈もない。

それが仕事の本質である。
世の中のアマチュアの皆さんがフルサイズのデジタル一眼を持ってこれが楽しいのなら、趣味としてはまことに結構であるが。あたしなどは業務用のカメラの認識があるから、あまり楽しくはない。

それで2週間の撮影の間に、夜、ホテルで遊ぶ為のカメラを一台だけ持参した。それがこのレニングラードである。かつて欧州への行き帰りにレニングラード上空を飛行しつつ、いつかはレニングラードに着陸して、カメラのレニングラードで街のレニングラードを撮影したいものだと考えていた。街の名前は変わってしまったけど、まずその長年の夢が実現したわけだ。

もっとも仕事だから昼間はレニングラードを持参などしない。ホテルの部屋で仕事の終わった後と、早朝に窓から撮影をして楽しんだ。

それと撮影が終了してモスクワの空港に向かう時に、プライベートで撮影した全部で1本だけのフィルムの成果がこれである。

撮影中に2週間お世話になったロシア人の通訳さんの趣味は写真であるという。それで仕事の間にレニングラードの中古カメラ店に案内してもらった。各種のソ連製カメラは並んでいたが、レニングラードはなかった。

これは1957年のブリュッセルのエキスポでグランプリを獲得したカメラで、当時のモスクワの国内向けのカメラではその価格が一番効果だった。たしか当時800ルーブルはした筈である。

 

2012年6月12日 (火)

あいだろ!あいっ!!

Rimg6201

偽ライカ愛好会の六月の行軍でカメラはなににしようかと考えた。確か昨年の同じ時期には鎌倉の北部の山中であやうく遭難しそうになったが、あの時にはコーワ製の変わったレンジファインダーカメラを持参した。

偽ライカ愛好会は撮影はさることながら、カメラ自慢の会である。我が928会長などは昨年の5月の横浜大撮影会ではカメラを持参しすぎて腰痛になってそれがまだ完治していないのである。

あたしなどはまともにカメラ選びをすると、メンバーの高額所得者さんのライカモノクロームに負けそうなので、一策を案じた。
それが猫の巣(ニコノス)である。
このカメラはもともとはフランスのアクアラングメーカー、スピロテクニーク社のカリプソというのを日本光学が権利を買って製造開始したのが60年代初頭だった。当時は水中撮影だけではなく、報道関係などでラフな環境での全天候カメラをして愛用された。

問題は初期型はスプロケットでのフィルム送りではないので、コマ間隔がばらばらになる。その改良モデルがこの3型である。
この前の土用には梅雨の豪雨であったので、しめしめという感じでこの猫の巣を用意したのだが、偽愛好会六月の火器大演習の当日はぬぐったようなつゆの中休みとなった。

しかし今更機材を変更するのもしゃくなので快晴の猫の巣ということになった。もっとも砂漠地帯のような過酷な環境にも向いている。この日は三軒茶屋から下北沢とういう東京オアシスの二点間の東京砂漠を横断するのだがら、かなり過酷な環境である。
その環境に合わせて、猫の巣を二台用意した。今までは一台しか使ったことはない。それでライカMモノクロームに対抗して一台はカラー、もう一台は白黒のフィルムを詰めた。

問題は老人力のせいでどっちがどっちか忘れることである。それでカメラを区別することにした。
普通はAカメラ、Bカメラのシールであるが、日本なので「あ」と「い」にした。

連続して読めば「あい」である。愛だろ!愛っつ!

2012年6月11日 (月)

世界で一番入りにくいお店 すて石

1
2

十年ほど前に出した写真集「とうきょう散歩カメラ」では東京の無名なしかし、ランドマークとしては見過ごしがたい物件が満載してある。

その中の最右翼とも言えるのは、この豊島区北池袋4丁目のお店「すて石」であった。世界中旅して、一見さんとして知らない飲食店に入るのは何ともないのだけど、このお店の名前があまりにも強烈なのである。それで腰が引けてしまうのだ。

十年来そのことを忘れていて、この間、西新井駅から都バスに揺られている時に北池袋でこの店のことを突然に思いだして、慌てて下車した。
十年という時間はこのような物件の存在する風景を変えてしまうのに十分な時間の長さである。

ところがすて石は健在であった。

すて石とは正反対の存在を思い出すンい、この近所の雑司ヶ谷宣教師感の隣に普通の民家で黒田さんというのがあってそこはレストランなのである。

レストランと言っても、造りは普通の民家だから、なにか遠い親戚の家に遊びに来たような感じである。やはり十年近く前、浅田恵里子とこの界隈を散策して、酒屋の軒先のトタン屋根の上で、猫が笑っているのなどを見て。その黒田さんの家を訪問して、カレーライスとコーヒーを頼んだ。
そこにこの春再訪したらすでに更地になっていた。

一方のすて石はちゃんと存在している。向かいの公園ではサラリーマンが昼休みでぶらんこの上でうたた寝している。そのちょっとした高台から観察したら、くだんのすて石は、三軒長屋なのだった。

すて石のようなエキセントリックなお店の反対の存在としては、東京のあちこちにそういう普通の家だけど。主婦が趣味でやってる喫茶店というようなお店があって、これは東京を広範囲に北おしていると発見できるのである。
そういう「親戚の家」に行くのが好きだったが、最近ではそういう野趣のある小店も少なくなったようだ。

すて石は観察するに、お店はやっていない。10年前もやはり営業していなかった。すて石は入るお店ではなく、見るお店だ。このアングルからだとなにアジエの撮影したパリの昔の光景みたいに見える。

★カメラはペペンペンにコンパクトズーム。

2012年6月10日 (日)

六十年モデルと70-210粍レンズ

Photo

フェイスブックで、友達がアラーキーに路上で遭遇して、ツーショットという写真がある。
もともとアラーキーさんとは彼がまだ「無名」の当時に新宿のカフェで、「なぜウオーカーエバンスの写真はあんなに良いのか」というテーマで長時間話をした。

それが「天才アラーキー」になってからは、周囲が実体とはやや異なる商業的アラーキー像を造り出して、ご本人もそれを真似するようになるので、なにか猥褻老写真家という認識があるのははなはだ遺憾である。

アラーキーさんはシャイな江戸っ子だから、例えば30年前に小田急線の車内で出会って、隣の箱にいたアラーキーさんに声をかけようとしたら、彼は逃げるのである。これは実話である。

それであたしも意地が悪いので追いついて、「こんにちは!どこ行くんですか?」と質問したらアラーキーさんはちょっと口ごもって「あ、あ、あ、ちょっとな、、、」と言った。

30年前、あたしも若気の至りで、森山さんをアメ横で尾行してペンタックスSVでに撮影が一段楽したので、彼はハイライトに火をつけようとした瞬間に声をかけたので、森山さんはあわててフィルターの方に着火しようとした。この話は「銘機礼讃」に出ている。

思うに有名写真家の撮影中は、これは野生動物の行動のようなものだから、周囲がむやみに声をかけてはいけない。しかしアラーキーは超有名タレントだから、市井の人から声がかかると、気楽に記念撮影に応じてはくれる。

以前、ハリウッドでブラピが奥さんと歩行している時(しかもブラピは骨折して松葉杖)それに声をかけて記念写真をものした日本の人が居た。そのショットは脇に居た、ブラッドピットのお母さんに撮ってもらったという。有名人とのツーショットはすべからくこのくらいの気合いが入っていないといけない。

話が戻って、天才アラーキーとのツーショットのカメラのシャッターをだれが押したのかは知る所ではないが、あたしがフェイスブックで気になったのは、彼の持っているペンタックス六十周年記念(実際には旭光学創業六十周年)モデルのLXであった。

いきなり同じカメラが使いたくなるわけである。ヤフオクで安価に落札したのには、50 /1,4と70-210 F4と健康のテレプラスがついてそれがさらに立派なギャジットバックに入っていた。豪華高級アマチュアカメラマンセットという感じでこれは写真の初歩的な楽しみを鼓舞してくれる。

思いつきで、その70-210粍を使ってみた。なにが非常に懐かしい感じがそこにきざしたのは、この四半世紀は70-210というズームレンズはついぞ使ったことがなかったのである。

ペペンペンのズームでも手元に40-120とか言うのがある。ようするに中望遠から望遠範囲のズームレンズは通常では広角か標準しか使わないあたしには縁がないのだ。それがなぜに懐かしい気分になったのかと言うと、四半世紀前にいわゆるエクゼクテイブマガジンのブームがあって、あたしも年間の200日以上を海外ロケという異常ぶりであったが、当時のニコンF3に付けて使う一番登場するレンズが70-210粍であった。

単純な理由で雑誌の必要とする「自然な画角の画像」というのはこれ1本でまず何でも撮影ができる。

そのいにしえを思いだして、数本のフィルムをこのレンズで撮影してみた。このズームに関しては知識はあまりないのだけど、マクロ機構でかなりの接写ができる。雑誌の撮影だとこのマクロ機構は必須である。これが半世紀前の唯一のプロ用望遠ズームであった、オートニッコール85ー250粍などでは、最短撮影巨津が2メーターほどなので、かならずレンズの前に付ける、ブロクサーを持参(それも2枚)持参したものだった。

ミラーレスのデジタルカメラの時代になると、フィルムの一眼レフを使うことが、クラシックな楽しみになる。

こういう価値感の変化は以前は想像もできない次第だった。

2012年6月 9日 (土)

菖蒲撮る人

Photo_2
2_4

堀切菖蒲園には数年前に、福田和也一味と行ったことがあった。まだ菖蒲祭りには早かったが、ちょっと咲いていた。

先週、堀切菖蒲園の青木書店に行き、金子酒店に行った。ここには20年近く前から来ているが、今まで一度も麦酒の箱の椅子に座ったことはない。
そこは常連の長老さんの席なのだ。

しかしその日は何故か、お客さんは2名だけであったので、「あたしも65歳になったので、、」と女将さんの許可を得て椅子に座ってみた。座るとこの居酒屋はかなり広く感じる。
ここは実は下町の「生の暗しの声」を聞くことが出来るので貴重な場所である。断腸亭などはわざわざ下町に行くのに、ぼろすぼんとよれよれのTシャツで「変装」したようだが、あたしはもともとが下級労働者(フリーカメラマンと読む)だからそのままで行ける。
この前も拘置所前の差し入れ店で買い物した時もそうだった。

いい加減に酔ってかえろうとしたら、常連さんに菖蒲祭りを見にゆけと言われたので、出かけた。最初はもう疲れたから駅から踊るなどと言い訳をしていたのだが、その日は駒込から日暮里。さらに綾瀬から小菅経由で堀切菖蒲園まで徒歩で来たのだから、問題はない。

菖蒲園は入場無料で今が盛りであった。あたしは音楽は黙って鑑賞するし、絵画も同様だ。それの伝で行けば、薔薇も菖蒲もただ観賞するだけでよいと思うのだが、ここに押し寄せるのはそういう人ではなく、菖蒲を写真に撮影するのが本来に目的の人が多い。
こういう人を「菖蒲師」というのであろう。

菖蒲師さんも上達してくるとその本末転倒がさらに本格化する。スペインのガイデイの教会を撮影するのはいいが、それでなお為すとそれがライフワークになって、あの教会は俺に帰属するのだから、他に奴には撮らせないなどと言い出すと始末が悪い。
蘭の花とか、薔薇の花もそうだが、菖蒲にもそういう「魔性」がありそうだ。

あたしは菖蒲園の周囲が建て売り建築で包囲されているのと、高速道路が迫っているここの環境の方が面白く思ったが「菖蒲師」さんはそういうことには頓着しない。

2012年6月 8日 (金)

小菅界隈の「文物」

1_3
Photo

小菅の最大のランドマークは拘置所であるが、民間レベルの「民地」(このおかみの言い方が間抜けで好きだ)に建っている建築物にも見るものが多い。

しかしこの場合、プラハあたりなら、ゴシック、バロック、表現派、キュビスムという風に建築の歴史にそって建物を鑑賞することが可能なのに対して、極東の小菅は、ただその建物が個人的に気に入っているというだけである。

しかし翻ってみれば、そういう「名も無き幽かな建物」にこそ、建築の神は宿り給うのかも知れない。
拘置所の南門から南下して、突き当たって左、つまり東にあるくとそこは界わいでは唯一と言って良い「繁華街」である。
その中で断然と他を圧しているのは、この米店である。そのファサードの看板を忘れることが出来ないのは、その看板の形が資格ではなく、資格の上にさらに短い矩形を継ぎ足した形をしているのが、なにやらいかめしくも豪華である。

これがなぜ、そのように見えるのか、長年分からなかったのだが、先週、この米やの前に立ってその台形をした看板を見て、思い当たった。
これは戦国時代の合戦地図の陣地の形に似ているのだ。

一方でこの米屋のファサードは、ウーオーカー エバンス撮影の農業保全局の仕事、たとえば「ALABAMA1938」などと命名しても一向におかしくはないような、モダンなファサードなのである。
さらにそこに極東の「錆び王」としての、侘び寂びが加えられているから、このランドマークは時代も国籍も不明な、しかし通行人の心を魅了して止まない不思議なオブジエとなるわけだ。

ちょうど半年前、2002年の暮れにこの界わいを通過した時、この米屋は営業していた。幼年時代からあたしが好きだたのは、室内は伽藍めいていて二階からあれな何と言うのか巨大な四角な漏斗状の物体がぶらさがっていて、それに玄米が所蔵されていて、それが下の精米器に流れる仕組みらしいのだが、その米屋の仕事場の全体がなにか日常を超越した「聖なる空間」に見えて仕方なかった。
米屋ばかりではない。
リスボンの旧市街の旧い白と青のタイルの内装のパン屋なども、やはりその伽藍めいた室内は、どっかの教会の祭壇めいて見えたものであった。

★カメラはペペンペンにコンパクトズーム。

2012年6月 7日 (木)

芸術写真かね? アハハハハ!

1_2

2_3

東京大周遊をしていると、だんだんに固定ルートが出来てくる。

小菅界隈に行くようになったのは20年ほど前だと思うが、拘置所から南下してまた綾瀬川を東に渡って、高速道路が蜘蛛の巣になっている下をくぐって、さらに南下するのだ。

NYCでもそういう場所が好きだ。工場の無人地帯である。ただしそういう場所は危険なので、行く時には交通弱者のあたしは、フルストレッチのリムジンを頼んだりする。徒歩の単独歩行は危険極まりないからだ。

ブルックリンの無人の工場街をライカを持って歩くと、その100フィート後をあたしのリムジンがゆるゆると附いてくる。自分のリモだから問題ないけど、これがそういう場所で知らないクルマが後をつけてくるとしたらこれは恐怖であろう。

東京の場合にはこういうノーマンランドは安全だからぶらぶら歩きができる。

堀切四丁目は荒川を東に渡った京成電車が速度を落として、侵入してくる地点だ。その界わいの高架線のガードと周囲の建物の建て込み状態が好きなのだが、これを言葉に翻訳するのはなかなか困難である。

実際にそこに行ってもらうしかない。このガードを潜って真っ直ぐに行くと平和張り通りに交差する。その左手が堀切菖蒲園駅だ。

15年ほど前、この画像に写っているポイントでライカを構えていたら、向かいから来た、おばちゃんに「ああ、芸術写真かね、ははははは!」と言われたのは忘れならない。

こういう一言は撮影の気分を鼓舞してくれるのだ。なぜここのポイントを記憶しているかと言うと、ガードを出て、眼前に電気屋の看板があって、ゆるやかに道が左にカーブしていること。

★カメラはペペンペンにコンパクトズーム。

2012年6月 6日 (水)

都電の20番で東京電業社の前を過ぎる

1
2

6年ほど前に、「とうきょう今昔」というタイトルの写真集を出した。60年代の東京と2006年の東京とを見開きで展開したものである。

東京についての対談を片岡義男さん、坂崎幸之助さん、なぎら健壱さんにおねがいした。当初は編集部の意向で全員におあつまりいただいての鼎談にしようと考えたが、それぞれにあまりに個性的な対談相手なので、個別にお話をさせていただいたその方が結果としては良かった。

というのは、それぞれの個性の面々のそれぞれの東京の記憶は他の人と相容れないからだ。

OM-Dはえい出版に出張しているので、目下、ぺぺんぺんで東京大周遊をしている。高千穂にしてみればこのブログもOM-Dが登場した方が良いのであろうが、ライカであろうが、デジカメであろうが、手にしていじくっている時にはカメラは対立関係にあるが、いったん撮影モードに入ってしまえば、それはあたしの身体と視神経の側に存在する。その意味でカメラは肉体の延長なのである。

この厳粛な事実を世の中のカメラライターさん、作例写真家さんが取り上げないで、もっぱら性能の礼讃に終始しているのは実に不思議だ。

柔道であれ、レスリングであれ、ボクシングであれ、クラス別に競争しているのに、メカライターさんはクラスなしで優劣をつけようとする。もっともペペンペンに関して言えば、一昨年のオリンパスの写真展会場でペンペンのJPG画像を最大にプリントしたのを偵察に来た「RAW信奉者」が「さすがRAWは画質が違いますね「」と勘違い発言をした。急遽、現小川社長の指示で「これらの画像は全部JPGで撮影しました」と説明を入れたのも懐かしい。

ペペンペンと、10年前の東京ニコン日記を持って、40年前にあたしが都電に20番に乗って撮影したショットの現場検証をした。

このショットはその中でももっとも好きなもので、ライカに21mmのニッコールだったと思う。都電は不忍通りの真ん中を走行してしかも高さがかなりあるので移移動式のイントレの感がある。

その場所は東京電業社と行って、隣りが金物屋でその前にソフト帽の紳士が快晴の真上からの光を受けて交差するところを撮影した。

その同じ場所を今回特定できたのは嬉しかった。
なにが場所検知の決め手になるのかと問われても答えようがない。

第六感というやつだ。

上は1968? 写真集 東京ニコン日記から

下は2012年6/3撮影。

★カメラはペペンペンにコンパクトズーム。

2012年6月 5日 (火)

2008 晩秋 両国から押上

Photo
Photo_2
Photo_3
4_4

ヒルズに置いてあるMacBookAIRには外付けのスーパードライブがあるが、数年前にロッカーから取り出した時に床に落下させた。

精密機械であるからすぐにこわれた。それ以来、CDを読むのは佃地方のクラシックなPowerBookでやっていたが不便なのでこの間、同じスーパードライブを買った。三年経過したらこの前買った時より、ちょっとだけ安くなっていた。円高還元というやつか。

ヒルズのロッカーには4年ほど前に撮影したカラーネガをCD化したデータが山になっているが、ようやくそれらが読めるようになった。

4年前の秋に雑誌en-Taxiで「東京大周遊」という連載をしていて、ゲストと福田和也さんと東京のあっちこっちを歩行した。

その時撮影した雑誌用のショットはデジカメですでに用が足りているので、ライカで撮影した画像がそのまま4年近くヒルズのロッカーに眠っていたことになる。

その時のコースを記憶に頼って一巡して視ると、まず安田庭園から震災記念堂、本所界隈を歩いてそこから、東京スカイツリーの建設地に向かったものと見える。

スカイツリーのショットがそこにまだないのは、基礎部分だけが出来ていて、上の方はまだ影も形もなかったことによる。それで福田さんと建設地に立って表示されたCGの巨大イラストを眺めたが、あたしの個人的感想は「ほんとにこんなへんてこなタワーがここに出来るのであろうか」という実に素朴な疑問であった。

あれからあしかけ4年が経過して、ホンモノの空塔は隅田川の先に見えるようになった。
ただあたしは飽きやすい性格なので、最初の点灯式の夜の悪天候の日の空筒は気になったが、二週間経過した最近ではその空筒も風景に溶け込んでしまってまったく気にならなくなった。

あたしの「環境に慣れやすい性格」というのは欠点なのか長所なのかは分からないが、10年ほど前、ギリシャに行った時もそうだった。
その時のホテルはパルテノン神殿の真下にあったのが不思議なロケーションであったが、最初の晩はなにか巨大な岩山がホテルを圧迫する感じがして息苦しかったのだが、二三日でそれがとれて、歴史的なモニュメントがすぐ眼の前にあることを忘れてしまった。それよりあたしの気になったのは同じ斜め向かいのアパートの最上階のバルコニーに毎朝、おばあさんがインコの篭を出して、日光浴をさせる、その方に興味がいった。

この4年前の歩行ではラストに建設予定の敷地の周囲を見回ったのである。敷地のすぐ側に古ぼけたガラス屋さんがあった。ラストの画像がそれである。

その時、この界隈も再開発で景気が良くなるのであとうと期待した。

ところが先月、アサヒカメラの連載の仕事でこの界隈を歩行して吃驚したのは、このガラス屋さんがぼろぼろのままでそこに忘れられたように存在していたことだった。この2008年の画像でも看板の文字は落剥しているが、この前見た時には最後の一文字が残っていただけだった。

どうもそらまち、(この名前は、たにまち、を連想させて嫌い)というのは敷地内の商業施設だけをもうけさせるような仕組みになっていて、その周囲は「経済の砂漠状態」にしておくためのものらしい。

★カメラはライカM5に広角レンズ

2012年6月 4日 (月)

路面電車とチョコレート

4
3
2
1_2

プラハに戻りたいと思うのはもうすぐ「来日」して六十日になるので、ホームシックにかかっているらしい。

プラハに戻って何がしたいのかと問われても、相変わらずの撮影と原稿書きであるから、これは極東にいる時と生活の内容は変わらないのである。

しかしプラハの魅力のエッセンスを突き詰めて考えて見ると、これはどうも「路面電車」に乗りたいということにあるらしい。

誤解されると困るのは、あたしは何も「鉄」なわけではない。

「屋根裏プラハ」(新潮社刊)の中の1章に「路面電車とチョコレートというのがあって、これは二十年ほど前にあたしも少額出資していたプラハで最初の「商業写真ギャラリー」のこと(ここは当時、オリンパスが最大の出資者であった)で、そこのギャラリーの看板娘と路面電車でデートして、チョコレートを分け合って食べたという、かわいない恋愛エッセイなのである。

すでに30余年もプラハの市電に乗っていて、車内でチョコレートを口にしたのは前後、あの時ただ一度だけであったが、その理由を今になって思い出すに、当時はまだ西側のチヨコに比べて、東欧の市場を引きずっていたプラハのチヨコはあまり甘くはなかったという背景がそこにあった。
それで電車デートで食べたチョコはあたしがウイーンかフランクフルト空港の免税店で買ったものに違いない。

そのギャラリー勤務の女子とはその数年後にやはり路面電車の中で遭遇したのだけど、あたしは乗り込む所で、彼女は降りるところで、当時はインターネットもないからそのままになってしまった。
その女子の名前がマグダレーナと言ったのもなにか耶蘇っぽくて、地元の若者の間で話題になるほどの美女と不似合いであったが不思議だった。その彼女も今は40代半ばになっている筈だ。

この四月のこと、アトリエの前の停留所から路面電車で旧市街に向かう時に、OM-Dで連続して撮影していたりすると、いきなりそういう過去の記憶の断片がフラッシュバックするのは何故であろうか。

これはプラハの市電というのはいきなり角を曲がったりするので、旧い記憶がその時に半ば眠っているあたしの大脳の記憶視野が揺り起こされるからなのであろう。

★カメラはOM-D 防滴の12x4ズイコーズームレンズ

2012年6月 3日 (日)

三ノ輪伝説

1

2_2

三ノ輪界隈は、この数十年で変貌したと言えばその通りであるとも思えるし、いや、大昔のままだと言われればそのような気がする。

この界隈のランドマークはまず、アラーキー実家の下駄屋があってファサードには仁王さまの下駄が掲げられていたが、それが消滅したのももう三十年ではきかない昔であろう。天才アラーキーの父上は息子さんより天才ではなかったか。仁王さまの下駄をファサードに掲げる行為は、写真行為などよりレベルが上であるのは間違いのない所だ。

三ノ輪交差点には「観音堂」という名前のマッチ箱のようにひしゃげた仏壇仏具屋もあって、これも忘れられないランドマークで、その向かいにはクラシックな銭湯もあったような気がする。

この界わいで飲んだ記憶なら、山谷の方に歩行した右手に「亀島酒場」があって、文学少女のようなおばあちゃんが一人で店を切り盛りしていた。たしか泡盛の六十浪だかはお一人様三杯までで、ここのはかなり効くのである。

規定の三杯を飲んで夜の通りにでたら、いきなり地面が持ち上がってきたので。大事をとって円タクで佃に戻ったこともある。

都電の三ノ輪場の停留所には梅沢写真館のファサードを潜って行くのは粋である。なにかプラハのルツエルナパレスみたいだ。

その通り抜けの角に小さい新聞販売の窪みがあるのも半世紀変わらない。そこのおばあちゃんは理論的に言えば代が変わっているのであろうが、同じ人が永遠にそこに座って新聞を売っているような気がしてならない。三ノ輪伝説だな。

思うに、以前は新聞はこういう洗いざらしの木製の台の上で売っていたモノである。それで新聞の見出しが「大東亜戦争勃発」のことなのではと錯覚してしまう。まあ蛍光灯というのは時代考証には外れているが。

都電停留所の先の原っぱの奧にあるのが「極楽荘」であって、この物件はちょっと棲んでみたいト以前から思っているのだが、いまだに実行していない。

その原っぱの手前にお稲荷さんの社があって、そこにワーニングのボードがあるのもいい感じだ。
「これを壊した者は、眼が見えなくなる。耳が聞こえなくなる。口がきけなくなる」とある。

★カメラはOM-D 13-42コンパクトズーム。

2012年6月 2日 (土)

文京区千駄木4-21先

2_3
1_2

都電の20番というのは大昔に廃止になったが、これは江戸川橋から音羽を登って北上して、護国寺を右折して富士見坂を登って、それから不忍通りを延々と上野広小路まで走る路線だった。

先日、駒込のさつき通りなどを歩行してそこからだんだんに歩行が東方向にそれているなと思ってそのまま足に任せて歩いていたら、駒込神明町に出た。
都電の車掌さんというのは、夏なら開襟シャツに切符と改札の鋏のはいった黒革のかばんの斜めかけで当時の職業の中では、一番モダンに思えた。
今の職業で言えば、まず飛行機のチーフパーサーというところだ。
少年時代にはかなりのおやじに見えたけど、今、思えばああいう人も三十代だったような気がする。
そういう花形職業の都電の車掌さんが「次は神明町車庫前!:と連呼するのは今でもはっきり記憶している。
その神明町は今ではなんとか言う、それを聞いてもすぐに忘れてしまう没個性的な新町名にかわってからすでに数十年が経過しているが、町内会の掲示板だけは「神明会」となっていて、昔のよすがを留めている。

この界わいは、不忍通りの一本北側の小路の北側は北区田端で南は千駄木という「国境地帯」なのである。
その大通りを歩行して、旧い工場のようながらんとした、建物を通過する時に少年の自転車が追い抜いて行った。

その瞬間にあたしにはピンと来たのである。
それは40数年前のデシャブ感覚で青年の時に、この鉄工所か何かの前をニコンFをミラーアップして、21mmを付けたのでノーファインダーで横切って撮影した記憶が唐突に蘇った。
それは700頁余の写真集「東京ニコン日記」に収録されている一枚なのである。

現場の状況を確認する為に、急いで不忍通りを横断して建物の全体を確認したら、それはやはりかつてあたしの撮影した工場であった。
1968年当時の撮影であるから、すでに44年と言うのだから半世紀と言い直し宇ても良い。
このスクラップアンドビルドの大東京であたしの20代の記憶がそのまま構築物として保存されているのは実に奇跡と言う他はない。

★カメラはペペンペンにコンパクトズーム14-42mm

2012年6月 1日 (金)

寂しいライオンとスカイフォーク

Photo

2

5/31は誕生日であったが、せっかくの高齢者記念日なので、なにしろ中央区から無料銭湯入浴券とか介護保険証書とかが届いたので、これは自分の人生の忘れられないマイルストーンにしようと思って、特別な東京大周遊を企画した。

実はその数日前に、ロケハンをかねて西新井大師から梅島方面を徘徊したら、例の大気の不安定な午後であったので、十年近く前にこの界隈で興奮したオブジエを再確認することなく、驟雨に追われて途中で撤退を余儀なくされた。

スーザンゾンタクのペーパーバックの「オンフォトグラフィ」読んだのは70年代のウイーンであったが、あそこで言われている「メランコリーオブジエ」という一語が数十年ぶりに浮上した。あたしの20代後半の写真のキーワードであったのが、久しぶりに記憶の上部に浮上したのは、この足立区関原界隈の「さびしいライオン像」のおかげである。

ようするにここまで来て、雨にやられたので数日後にそこに帰還して、中断した大周遊の足跡をそこからつなげたわけである。犯罪者は犯行現場に立ち戻るってやつか。このライオンはなんとも懐かしい顔をしている。こういう小公園の動物の像は60年代にはあった。

メランコリーオブジエの再確認と言えば、もうひとつ「スカイフォーク」がある。これも60年代の米ソの宇宙開発競争時代を象徴するような「無重力」な存在であった。これはスプーン曲げがテレビの話題になるまだ前の話だ。喫茶店のウインドウにこういう無重力のフォークを視ると、中平卓馬さんを思い出す。彼の撮影大周遊ではこういうスパゲテイナポリタンは撮影のエネルギーになっているようなのだ。

それゆえにスカイツリーはもう駄目である。
われわれは寂しいライオンとスカイフォークに帰順しなければならないという「箴言」がありそうなことにも気がついた。

それとこの界隈では空筒は南に見えるのも良い。その方向感覚はいい。これは旧西ベルリンのWEDING界隈から、旧東ベルリンのテレビ塔を視た感覚に近い。その真理はここで書くのは面倒なので省略。
しかもいきなり思いもかけぬ方向に空筒が見えるのである。

★撮影はペペンペンに小形の常用ズームレンズ。手元のOM-Dはカメラマガジンの編集部に貸し出しているのでまだ手元にない。

Rimg6190

« 2012年5月 | トップページ | 2012年7月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31