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ロック ユー

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2012年5月31日 (木)

ぺぺんぺんのドラマチックトーンに吃驚する

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現在、OM-Dワークショップの原稿が佳境に入っているが、あたしのカメラはムックの物撮影の為に、各種マウントアダプターと各種の交換レンズ数十本とともに、出版社に出張中である。

それで、現在ペペンペンを使っているのだが、一眼レフスタイルのOM-Dとペンスタイルのペペンペンはやはり両方手元にあった方が写真生活は楽しいようである。

ただし、あたしはやはりスイッチ関連はEシリーズよりもペンシリーズの方が慣れているから、まずスイッチオンは本体の上の方に触るのである。これがOM-Dだとその位置にはビデオのスタートボタンなあるので、気のつかないうちにビデオがスタートして、しかも撮影中であることが誰も気がつかないというのは理想のドキュメンタリーカメラであるが、OM-Dのファイルをずらっと見ると、そこここに意味不明のビデオのごく短いファイルがある。

これはあたしがOM-Dをペペンペンと勘違いしてビデオスイッチを押してしまったその痕跡なのである。

ペペンペンであるが、やはりダイヤルが知らない間に回転していて、ドラマチックトーンになっていたりするのは、あたしは宝くじは買わないので、あくまで想像であるのだが、なにげにかった籤が上位に一発であたったような、幸福感というのであろうか。ともかく面白い。

この佃地方の大ガラスの部屋の夕刻の空筒の光景などは、ごくごく退屈な風景(最近はあたしは飽きやすいので部屋から見える空筒には飽きて、時に雲で覆われているちほっとするような非国民)なのであるが、これがドラマチックに変貌するのは凄い。

しかしドラマチックトーンが幸福に感じるのは、やはりごくたまにこれを使うのが良いわけで、毎日がドラマチックトーンであったりするとやはり人間は飽きるのいではないかと推察するのである。金環食が毎月の1日と15日にあったら参ってしまうであろう。

この「もう沢山、、勘弁、勘弁」っていう感覚は、それがどのような感じがするのか、これも実例がないので言葉での説明には苦労するが、仮に自分の配偶者が絶世の美女であって、その美女がなにか何時も舞台化粧をしているような感じ。

ドラマチックトーンの理想の使い方は、まず使い過ぎないようにすることに尽きるのではないか。

★カメラはペペンペン(EP-3)レンズは小形軽量な15-42mm ドラマチックトーン

2012年5月30日 (水)

佃小橋下のドラマ

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ヒルズに出勤する時の時間帯には苦労する。

ラッシュのピークにはあたしのような高齢者でかつ、通勤慣れしていない老人はなかなか乗りにくい。

それで時差通勤というのか、時間を早くしたり遅くしたりしている。

佃小橋のわきにご覧のような「羊羹状」の堤防がある。満潮の時には水面下で見えない。これは三年に一度の住吉様の本祭りの時に使う、幟が泥の中に埋設してあるのだ。今年は本祭りだからこれを発掘するのである。

飼い鳥も置いて佃の幟かな  長徳

佃界隈は人間の個体数に比較して水鳥の個体数が極めて少ないので、それぞれの鳥の個体が特定できる。この二羽の鴨(円手姉妹と称する)と、白鷺君と五位鷺君はあたしは顔なじみである。

円手姉妹がお化粧していたら、その先に白鷺君が飛来した。

白鷺「おい、じゃまなんだよ、、、車内で堂々とお化粧してんじゃねーよ」
と肩をいからして円手姉妹の前を通りすぎる。

円手姉妹「まったく失礼しちゃうわね、、なによ!えらそうに。みんなの川じゃん」

手前の水場で餌を探す白鷺君だけど、この場所は一向にお魚おらず。ぼっとして立っている。

そこに五位鷺君が小橋の下の水場に飛来して、餌をあさりだした。

白鷺「おう!五位っこ!そこはおれのシマだぞ!とっと出てけ!」と五位鷺君を追っ払う。

そんでもって小橋の下で餌をあさる白鷺君。

========

という台本ですが、白鷺の威嚇音はなにか鴨の鳴き声に似ていることに初めて気がついた。それとこの場所ではどうも五位鷺の方が白鷺より弱いらしい。

もっとも野鳥観察などしたことがない、素人である。偽ライカ愛好会の黒田慶樹さんの奥様のようにはとても行かないけど、素人考えにてそれぞれの水鳥の台詞を書いてみた。

★リコーCX5で撮影

2012年5月29日 (火)

小菅の夢

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佐藤優さんの「獄中記」の岩波書店版で、獄内の心得がそのまま記載されているのが実に面白い。その房内の紙片を持ち出すことは禁止だけど、書き写すのは問題ないので、佐藤さんがノートに書写したくだりがいい。

地震への対策の「この建物は堅固だから崩壊の心配はありません」というくだりなどは、第一級のブラックユーモアで思わず膝を叩いた。

数年前まで、あたしの決まりの小菅コースというのは、綾瀬駅から拘置所の東側の長い、屏沿いに歩行しつつ綾瀬川の流れを鑑賞して、それから差し入れ店のファサードを観察することだった。

長い屏の側を歩行するという習慣は、かつてのベルリンの散策時に西ベルリンの壁に沿って延々と何キロも歩行するということがあったが、東西独逸統合で二十余年来、それが不可能になってしまったので、その代償行為で小菅の壁の側を歩いていたのである。

ところが、先日、行ってみたら壁は綺麗になくなって、職員宿舎の先に獄舎がある。この数年はプラハにばかり夢中で小菅もうでを忘れていたので、この激変である。なにかその細かい内容はわすれたけど、立ち入りは禁止なれど通り抜けは可能というような不思議に現代詩めいた高度な日本語の理解を要求する立て看板もあった。

南門の側にセブンイレブンが出来て、背景と未来的なコントラストをなしている。その前で子供が元気に走っている。

往年の塀の中というイメージとはかなり変わった、しかしそれを何と命名して良いのかまだ分からないような奇妙な言葉では言い当てられない風景だ。

その街区を南に抜けて綾瀬川を越えてからさらに南下して、平和橋通りに出たらそこの保育園の建物の上にクラシックな未来の宇宙像みたいなのが、かなりプリミテイブな筆致で描かれていた。

ああ、今、小菅で視てきた風景をシンボライズするとこれに一番近いと思った。

★カメラはライカM3にコダックカラーネガ。カールツアイスイエナBiogon35mm

2012年5月28日 (月)

トラビイ

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新潮社のあたしのエッセイ集「屋根裏プラハ」の担当編集の佐々木さんが最新のENGINEを送ってくれた。

旧東独逸の日々の現実がどのようなものであったのか、もうすぐ四半世紀になるのでこの過去の記憶を持つ独逸人もだんだんと数が減って行く。

あたしは1980年代に、上の東独逸はツビッカウで生産された東独逸の国民車に乗っていた数少ない経験者の一人だ。

アサヒグラフの撮影で主に、東ベルリンの工場地帯を撮影していたのだ。その前、北井一夫さんと独逸表現派建築を撮影した時にはちゃんと、しかるべき当局の許可を得ていたのだけど、この工場地帯の撮影はゲリラ撮影である。

東独逸は密告社会だったし、上の赤い腕章の「民衆警察協力者」という剣呑な連中もいたので撮影は隠密な機動性が第一だった。それで友人の ベルリナーリン(女性)の空色のトラバント(愛称とらびい)をチャーターしたのである。
デイレイトは確か50独逸マルクだった。これは当時の250オストマルクだからかなりの使用料金である。
ドライバーのローリーは新品のトラビイは十年待ちなので、中古で買ったと言う。当然、新品よりはるか高いクルマを買ったことになる。

ちょうどこのクーデルカの写真のように、前の席にあたしが大型カメラを持って乗り、リアシートには愛犬のダルマチアンのアンデイが乗って、東ベルリンの煉瓦造りの工場街を走り廻った。

トラビイは思い出のクルマなので、統合後にそのモデルカーを買った。これは中国製でなんと金属製なのである。ホンモノのトラビイはボール紙製などと悪口を言われるけど、実際にはしっかりしたファイバー樹脂で出来ている。
2サイクルのエンジンはかなりかったるいけど、下り坂ではエンジンブレーキーがきかないのでかなりの速度で走った。

そういう撮影の数日目に、郊外を走行中に、彼女は対向車とすれ違う時に、あぶなく運転をあやまりそうになった。
彼女と別居している夫のギュンターのそれは赤いソ連製のLadaであった。

あれから四半世紀が経過して、昨年、ベルリンの壁の出来てから半世紀という時期にあたしはベルリンに居た。
往時を懐かしんで、トラバントを運転してくれたローリーと実に久々に再会した。ローリーは再婚して今はベルリンの東の郊外でジーンズ店を開業して四半世紀になる。

別れた前の旦那は今はベルリンの西、ポツダムに居て子供もあるそうだ。
「年に一度ほど、ギュンターに会って話をするのよ。彼のメアドあげようか」とローリーに言われて「いや、やめとこう」。あたしは断った。

ローリーは今はVWに乗っている。
そう言えば十数年前に、彼女から来た手紙には速度違反の警察の証拠写真と罰金の支払い命令書のコピーが同封されていた。
「遅いトラビイに乗っていた当時はスピード違反の反則切符をきられるのが夢でした。VWになって長年の夢がかないました」と、書類の裏にボールペンの走り書きがあった。

2012年5月27日 (日)

25000V 電線 危険

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新幹線にはあまり乗る機会がない。
あたしの新幹線との関わりは、それに乗るよりもその線路に沿って、歩行することだ。良く見物に行くのは東京駅から13キロ260メーター付近である。

東京駅からの距離がそれぞれに白い表示南で示されている。その表示板は10メートル刻みになっている。中馬込界隈の遠近感の消失点が二か所ある「名所」は以前から知っていて、かれこれ6年前の「東京今昔」(岩波書店)にも出したことがある。ここは東京近辺の新幹線のウオッチポイントとしては、鉄道ファンには良く知られた所らしい。

昨年の夏に、BMW野々宮と雨が今にも降り出しそうな夕方にここに来て、新幹線の往来を鑑賞した。その時は激しい夕立が来て、早々にクルマの中に避難したがまるで潜水艦の中に居るような激しい雨であった。

今回は天気は良い。何時もは都営線の西馬込から新幹線にそって、池上線の御嶽山までトレッキングするのだが、今回は視点を変えて最初に電車で御嶽山まで行ってそこから東京駅方面を目指した。

以前から気になっていた、例の各種の看板を観察しながら歩行した。今回、気に入ったのはこれは恐らく、開業当時のものではないかと思われる、クラシックな「危険」の文字盤である。その字体がなにか中国の古代の出土品であるかのような趣がある。

欧米だとこういう高圧電流のワーニングはサインで示されるのが普通だ。すなわちジグザグの電流マークである。この例は全部が文字で表示されているのに、興味があるが、「危険」の文字はもともと表意文字だから、すでに視覚的に「危うさ」を含んでいる。だからいかにも「危険」な印象がある。

 

2012年5月26日 (土)

日本は

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スターズアンドストライプスはすでに零落して、シンボルの意味もない。これは60年代までは有効だったモダンアートのテーマでもあった。

もっとも星条旗がモダンアートするのは実は偉いことだと思う。これが日章旗になると、モダンアートにすらならない。それに起立しない者は昇進を遅らせたりするという怖い帝国もある。

だいたい、国旗に向かって敬意を払うのは自発的な意志であるから、それに従わない者をいじめるのはスマートではない。

タットーを差別するのなら、石丸元章はどうなる。あ、かれは昇進は狙っていないからいいのか。最新訳本「ヘルズエンジエルス」の分厚い石丸の業績が届いてばかりで嬉しがっているのである。

GDグリーンバーグ著「日本は、」は「、」が付いている本のタイトルなのがまず手柄である。

表紙が退色したモダンアアートだと思ったら、中身はちゃきちゃきな82歳のアメリカ人の「箴言集」なのである。これがひどく痛快なので、胸のすく思いをした。

欧州から戻ったばかりの時差の価値感で、不思議に思うことは多々あるが、それはあたしという個人の生理的な理由であろうと今まで思っていた。

しかしそうではなかったことがこの本で分かった。

あたしはケータイは無線電話としては使わない。メール用にのみ使っている。あたしの仕事場で一番恐怖なのは、例の着メロである。その着メロを選んだ個人の資質が疑われるようなのが多い。今もおっそろしい着メロがオフィスになり出したばかりだ。この世の中は恐ろしい。

そもそも、電話の着信音に音楽を使うことが理解できないのは、あたしの電話嫌いのせいもあるが、そういう「変人」は自分だけではなかった。ちゃんと先輩が居られたことが嬉しい。

もうひとつ、この大活字本は読みやすい。あたしもこれからはカメラ本はこの級数で作ろうと真剣に考えている。

2012年5月25日 (金)

突然背後からライカM3モノクロの一撃

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佃の大ガラスの部屋の型遅れのPowerBookの脇にプラスチックのSDケースがある。上にポストイットが貼ってあり、NYCと読める。

ようするにこの前、マンハッタンで撮影したデジカメの画像であろうと、PowerBookに入れてみたら、それはライカM3にフランク好みのカールツアイスイエナのビオゴン35mm付きのレンズでマンハッタンを撮影した分であった。
それを見ていたら、昨年の大震災の直後の記憶が一気に呼び戻された。映像は記憶を回復する手がかりになることを実感した。

あの当時はホテルのTVで日本の地震とメルトダウンのニュースをマンハッタンの就寝時に視て、実際には寝てなんていられいので、それから朝になっ徹夜のまま、ライカM3をたずさえて33丁目のホテルから五番街を延々と58丁目あたりまで歩行した。この1週間のうちの数日はほとんど寝なかったのに、よく大丈夫であったなと今にして思う。
それで2週間の滞在中に撮影したのは十本数本だけであった。

そのモノクロフィルムを日大写真学科のガスマン堀野に頼んで現像してもらって、品川のフラッシュでスキャンしたのがこれらの画像である。
一部は昨年のアサヒカメラの10月号に掲載された。

マンハッタンではマンハッタンの怪人こと、船原長生さんに案内してもらった。あたしの住んでいた1983年当時にはそこに歩いて行くこと自体が、生命の危険をともなうロシアンルーレットめいていた、LES(ローワーイーストサイド)を歩いて、変に安全な街になってしまって、ちょっとがっかりした。

マンハッタンは2011の大惨事と引き替えに街は安全になってしまったのだ。

二週間のマンハッタンでの撮影ではメーンはペンライト2であった。それとXZ-1を使ったが、ライカM3はさっき言ったビオゴン35mmのコンタックスマウントをライカマウントにアダプターで変換したのを使った。

以前、あたしがこのレンズのことを書いていたら、読者さんが間違って、コシナ製のビオゴン35mm」を買って、うろたえていたので「その方が良く写るからそれを使った方がずっと良いですよ」とアドバイスしたこともある。
ただしモダンなツアイス信州中野の方は写り過ぎて「情緒欠落」の恐れはある。本家のカールツアイスイエナの方はその点、写らないので時代の光は写っているようである。

世界を震撼させた?ライカモノクロームの発表で、業界ではモノクロブームになろうかと言う勢いである。モノクロライカで撮影するのと、M9でモノクロモードにするのとどう違うのであろうか(センサーが違うというような技術的なことではないぞ)。

あたしのM3だってM3モノクロームを命名したい。
いったんアナログデジタルフィルム(現像が必要)を入れたら「正真正銘」のモノクロ画像が撮れるのである。

2012年5月24日 (木)

SDメモリの諸問題

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今時、SDメモリを使っているのはあたしでけであろうか。

世の中の普通の写真の趣味のデジカメユーザーさんは大容量のSDHカードなどを使ってフルサイズでがんがん撮影して、それぞれの皆さんの「絵心」を最大に発揮して華麗美麗豪華でシズル感あふれる作品を制作して、その「創造的なぼくちゃん」に酔いしれているようである。

これは年寄りの僻みとうけとってもらって結構だ。画像の補整などというのはあたしでも広告の時にはRAWで撮影してそれをカリスマレタッチャーさんにお渡しして華麗な画を制作してもらうことはあるけど、普段はJPEGで撮影している。

そのJPGだってサイズは100kbあれば十分だ。(この画像がまさに100kb)

要するに絵心で画像をいじくるよりも、撮影がしたいのである。写真の修整は分業化で他の若い眼の人に任せること。それに趣味の写真をあれこれ、いじくり廻すのは良くない。

15年ほど前のフォトキナのプレスクラブでの展示で、当時はまだ未熟であった筈の写真の修整ソフトのデモで、修正前と修正後の画像を並べた展示があった。

当時のあたしのボスであった、マンハッタナーのHケプラー編集長はあたしの問いに対して、ただ一言でその展示を斬って捨てたのである。

「まあ、どんなに修正しても、元の写真の構図がなってない。だめだな」

おっと、問題はそのことではなかった。

あたしのマックは古いので、旅に使っているAIRの方が最新のSDメモリを認識するけど、佃島にある2台のMACの方は旧型のSDメモリしか認識しない。

それで両方のMACに認識させるためには、SDメモリを使う必要がある。

昨日、カラーネガの現像とCD書き込みを下の55ステーションに頼みに行ったら、バーゲンで4GBのSDがたった500円である。これはもうコストパフォーマンス以前の問題だ。

あたしの36枚撮影のカラーネガの現像と書き込みは1155円である。4GBにどれだけの画像が記録できるか想像もつかないが、画像を記録するメデイアが「ほとんどタダ」になるのは悲しいことだ。

偽ライカ愛好会がほぼ毎月のペースで東京一円の撮影をして、もう三年目になる。よく継続すると感心している。この前はガスマン堀野の指揮にて、東長崎から江古田方面を散策した。その後、焼き肉やで歓談したが、ちょうど向かいに座ったガスマン堀野とO石さんの間でハッセルSWCのトレードが成立した。

聞けば、ガスマン堀野は日大の三好ゼミで卒製を制作するのに、高価な8x10のモノクロフィルムを買うのに、愛蔵のSWCを手放したそうだ。

ガスマン堀野は別に苦学生とは思わないが、創作を前にしてハッセルを手放してフィルムを買うことは、これはすでに創作活動の重要な一部になる行為だと思う。

その意味でもメモリがどんどん安価になっているのは、生活者としては関係であるが、なにか画像を制作する時のなにか重要なエモーションを奪ってしまうのではないか。

2012年5月23日 (水)

アグファの蛇腹カメラの蓋が開かない

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佃の非武装地帯の境界線を壱メートル北に移動したので、各種のカメラが発掘された。
その多くは10年ほど前にでた、千頁の@「ぼくのカメラたち」に掲載されている。このアグファの蛇腹カメラは「世界で最初の自動露光の6x6サイズ」というのである。ハッセルの外付け式の露光コントロールユニットなどよりはずっとこっちの方が古い。

さて、問題はこのカメラの蛇腹の開き方が分からない。日大の一年生の時、澤本れいこ先生の写真基礎技術で、最初に見せられたのが、スピードグラフィックである。その蛇腹をどのように開くかが課題であった。
今なら体が自然に反応してスピードグラフィックの蛇腹を引き出すなどはかんたんな作業だ。

ところが、このアグファの蛇腹の開け方は分からない。なにも突起物はないし、なにの手かりもないのだ。しかし「ぼくのカメラたち」を視ると、ちゃんとレンズは撮影位置に来ているからまさしくカメラは拓いたわけである。

このカメラは確か、シャッターを設定してやるとセレンメーターの針の位置に応じて、カメラ内に小さい風船のようなものがあって、その膨らみ具合が絞り値を決定するのだそうだ。これも20年近く前に淺草の早田名人から教わった。
しかしあたしの世界最初の自動6x6カメラはその「風船」が経年変化で硬くなっていたらしく、撮影したらやたらにオーバーであった。

しかし、マニュアルで撮ればこれはこれで問題はない。
しかしその前の段階で、まずレンズを出さねばならないわけである。
何事も最初が肝心だな。
人生も思ったほどに簡単ではないと思うのはこういう諸問題に遭遇する時だ。

2012年5月22日 (火)

テレジンのアルミ製スプーン

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佃地方かプラハ地方に居る時には、生活の最低限の用品は揃っているが、それ以外のホテルに居る時にはそういう道具は自分で持ち歩くのは当然だ。

長年、地球上をあっとこっちを持ち歩いている、パースの中にこのアルミのスプーンがある。

プラハの北、第三帝国時代のナチスの強制収容所テレジンで手に入れたものだ。
まだ社会主義時代のチエコの記念物である。

タレジンを取材していいかげん暗い気分になってから、近くの粗末なカフェでチエコ式の珈琲を飲んだ。
例の粉をそのまま入れて砂糖を入れて、スプーンでかき回して粉が沈殿したら飲みという、きわめて時間と仲良くなれる珈琲の飲み方だ。

欧州でここだけに、オスマントルコのトラッドな飲み方が残っているのである。

そのスプーンが気に入ったので、お店に20コルナほど払ってもらって来た。以来、世界中の安ホテルでこのスプーンが役に立っている。

当時のプラハのPの奥さんであったベラさんにこのスプーンを見せたら、面白いことを話してくれた。戦後になって、チエコの子供にアルミのスプーンを使わせるようになったら、際だって体格が向上したというのである。

アルミのスプーンを口にいれただけで、そのアルミが溶けてそれが子供の発育を助長するというのは、あたしは信用したいけど、戦後神話としては良い話である。

あたしも以来、身長を伸ばそうとして外国の安ホテルでこのアルミのスプーンで珈琲をかき回したり、パスタをすくったりしているが、一向に効果は現れない。

それよりも日本人なのだから、一円玉を舐めたりした方がいいのかも知れない。

2012年5月21日 (月)

古いSKODAのバン

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長い間、プラハに住んでいると、普通の観光地の地帯には行かないのは当然である。まず旧市街のカレル橋も、天文時計も、火薬庫にも行かない。

これは東京に居る時も同様であって、銀座、新宿、渋谷は行かない。五年以上も渋谷の東急BEでライカ愛好会の講座を持ったが、先天的な「渋谷嫌い」なので、講座は楽しかったが、渋谷に行くことそのものはストレスになった。だから渋谷を経由して世田谷などに戻る人々をあたしはその強靱な神経ゆえに尊敬しているのだ。

プラハも同様な次第であるが、しかし用事はあるのだから、中心部に行かないと生活に差し障りはある。それでプラハの繁華街には用事があると、朝に行くことにしている。これならあまりストレスにはならない。

このバンは旧チエコ時代の国産車Skodaのようである。
そのスタイルには見覚えがある。大昔はこの脇腹にSPOJE(業務)とか書き込んだ泥だらけなバンが午後のプラハの座頭の中でほとんど進行しないのを、あたしなどは重苦しい気分で見ていたものだった。

一方で、この黒字に白いロゴはかなりお洒落でこのクルマのちょっと「間延び」したスタイリングにマッチしている。

旧東ドイツはツビッカウ製のトラバントなどは最近のプラハではそのクラシックな存在を利用して、車体の上に巨大看板をのっけて、ピザ屋の看板になったりしているが、東欧のクラシックカーが看板の支持体になるのをあたしは好まない。

こういう実用車としてプラハの街を動き廻っているのが望ましい。

この近所で金ピカのフォルクスワーゲンを見たのもこの前後の時であった。それは本物のピカピカであって、マットのゴールドのそれではない。通行人が振り返るほどの「品のNASA」なのである。

あたしもミーハーなので、その金ピカワーゲンを持参のハッセルブラッド500cで撮影した。プラハにそういうキンキーなクルマが溢れているのは、これはまだクルマ社会が未熟であるからに他ならない。

マンハッタンなどではとっくに廃れたフルストレッチのLIMOなども、ここボヘミアではまだ棲息している。

2012年5月20日 (日)

OM-Dにレンズの着せ替えごっこはかなり遊べる

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えい出版から夏に出る、「OM-Dワークショップ」は鋭意進行中である。

他の出版社さんからも同様なムックが出るであろうから、あたしの計画しているのは「型録本」にはならないように気をつけている。これはあたしの「ワークショップシリーズ」の定番の考えだ。

清水編集長が佃地方に撮影用の機材をとりに見えた。この冬に金町のリサイクルショップで買った、1000円のサムソナイトの最大のサイズのは以来、プラハに1月と4月に行って活躍しているが、今回はそれにアダプターと交換レンズをいっぱいにしてえい出版のスタジオに機材は出張した。

ただしあたしは本文を書くのに多忙なので立ち会いはしなかった。

ここに沢山あるレンズはOM-Dの純正でない。ただしOM用の(旧一眼レフ用の)のレンズと戦前の昭和15年に高千穂で生産された、ズイコー200mmf4,5はもともと航空写真機に装着したのを、戦後、ミランダのオリオン精機が一眼レフ用に改造したものだ。その戦後レンズの性能には吃驚した。

そのレンズの話はこちら。

http://chotoku.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/200-bbd5.html

さて、打ち合わせをしながら、実際にマウントアダプターでそれぞれのレンズで試写(レンズおたくさんは、これを実写と呼ぶらしい)してみた。

作例写真家なので、その作例を上から順番に説明すると、

ソ連製Tair300mm f4,5
ズイコー50mm F1,4(フィルム一眼のOM用)
ニッコール6,5mm f18
コンタレックスプラナー55mm f1,4 に専用ベローズ
テレアテナー400mm f4,5

で、それぞれに適合するマウントアダプターを1個から3個ほど重ねて使っている。

清水編集長はかなり混乱したようで、それぞれのマウントアダプターにポストイットで名称を付けていた。

あたしはそれらを見ただけで、それがどのマウントであるのか分かるのは、やはり異常と言うべきであろうな。

清水編集長と話題になったのは、カメラぶれ防止機構のおかげで、400mmでも手持ちでシャープな画像が撮影できたこと。このメリットは絶大だ。フルサイズなら800mm相当のレンズである。

カメラはOM-D。

2012年5月19日 (土)

独裁者KGのピンバッチ

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クレメント ゴットワルドはチエコで一番人気のない人物である。最悪のチエコ人投票で堂々第一位だ。
KGは社会主義時代の独裁者だ。皮肉にもスターリンが死んだ直後に亡くなっている。それで記念切手がブラック一色で発行されたりした、その次第は「屋根裏プラハ」の中の「黒い切手と赤い駅」の章で書いた。

プラハの古老であるあたしは、今の旧市街の銀行がまだ「クレメント ゴットワルド博物館」であった時代を知っている。
これは70年代からビロード革命の前までの話で、この独裁者の執務室がそのままに再現されていた。
ここに来る外国人はまさに酔狂でモノ好きな極みであったらしく、何時もお客はあたし一人であった。
それで係りのばあさんから、その独裁者のバッチを行く度に一個ずつ買ったりした。

この上着はオーストリアでは公式な席でも問題ないし、チロルの田舎ではこれを着て農作業をしているし、酒場でも劇場でもどこでも御免の上下のスーツである。
上下を一緒に着ることはないが、便利なので1975年にウイーンの古着屋で買って、ずっと愛用している。もう三十数年の品物だ。

そこに上のミュージアムのピンバッチを付けると、これが時代を超えて、さまになるのは実に皮肉な次第である。

しかし現地のプラハでこのバッチを付けたことは一度もない。あたしは半島の北の親子のバッチも持っているが、これを日本で付けないのと同じ理由である。

ところで、この上着を着て、日本の会合などに行くと、かならずパーテイトークで「おやその金バッチの人は誰ですか」と聞かれる。
「この人ですか?チエコの著名な写真家のヨセフ スデクです。国民的な英雄芸術家」です。と答えることにしている。

先日、BSジャパンの7PMに出演した時も、この上着を着て行ったが、だれもピンの人物についての質問がなかったのは残念だった。

しかしKGBの初代長官の名前を冠したライカコピーであるFEDを持って行ってそれで話題になったのであるからそれはまあいいか。

2012年5月18日 (金)

マジックテープ仕様のOM-Dはシテイカモバーションである

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OM-Dにマジックテープを貼ったら、諸方面から賛否両論をいただいている。

カメラの取り回しに苦労しているカメラ人類さんからは「使い易そう」とのコメントをいただくし「新品のOM-Dを汚してけしからん」というお叱りのメールもいただく。

しかしデジカメは手中でなで回して楽しむものではないのは当然の理であって、よりスナップシューターの理想に近づけるのが理想のデジカメであることは言うまでもない。

それで思いだしたのは、一般のユーザーさんは、レンズキャップを大事にするということも学んだ。ペンペンの講演会の時のアトラクションでなにかオリジナルのレレンズキャップの限定販売があってこれが大人気であったのには驚いた。

あたしはレンズキャップは使わない主義なのである。それでも昨年の夏であったか、ぺぺんぺんを持ってベルリンに撮影に行った時に、チエックポイントちゃー^リーの近くで撮影しようとしてカメラをオンにしたら、何もモニターに見えない。

今まで、数多く、プロトタイプを持参している経験から、あ!またやった!と思ったのだが、考えてみればそれは市販品のペペンペンである。

レンズを見たら、普段は使うことのない、レンズキャップがついていた。これでは写らないわけだ。

このマジックテープ付きのOM-Dも外見はこのように接近してみれば、なにか貼り方も変だし、斜めに貼ってあるので綺麗ではない。

それで二枚目の我装だが、これは市街戦で使っている状態の画像である。いかにもあたしの着用のシテイカモジャケットに溶け込んでいる。

カメラというのは二つの局面があって、手にとって遊んでいる時には、カメラは撮影者と対立する物質である。

しかし一度、これを手にして「市街戦」になれば、デジカメは自分の身体の延長である。そうなるとそれまで気にしていた、カメラの欠点などはまったく気にならなくなる。

ここが肝心なポイントだ。

2012年5月17日 (木)

928邸の928物件について

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我が偽ライカ愛好会の会長はそのお名前を928さんとおっしゃる。本当国谷であるが、語呂合わせだ。なにかポケベル時代の女子高生の通信を思いだして、そぞろに懐かしい。4649とかね。

その会長のお宅に珍品カメラを拝見に行った。ようするに語呂合わせの928が製造番号の中に含まれているのをコレクションしておられるわけだが、これはあたしの宇山のようなガラクタカメラとレンズの中からその数字列を探したのであるが、なかなか発見できない。

この一事からしてもtotoとかlottoのキャリーオーバーを狙っている人種はかなりの楽天家であることがわかる。

さて、その928番のレンズやカメラはただ番号がそれでありというだけではない。それぞれのカメラやレンズが珍品であるのが凄い。

なんでも928さんの奥様がそのコレクションに協力的であるということを承ったが、これは案外に情報を攪乱させるための操作であるかも知れないのでにわかには信じがたい。

928さんはあたしの読者さんでもある。最初にカメラジャーナル誌の揃いのブロックを出してこられた時には感激した。

どうも渋谷の東急BEで最初に拝見した時、ライカMPの本物にニクチルックスのf1,2の方を付けていたりでかなりの人物と思っていたのだが、果たしてその通りであった。

会長は我が偽ライカ同盟の行軍を指揮しておられるのであるが、昨年の初夏の横浜での火器大演習に参加のみぎり、あまりに重い機材を持って行軍したので、目下腰痛になられておる。

それなら軽いデジカメを持参すれば良いのに、やはり重いライカとハッセルを持って行軍するのである。先週の火器大演習でも、MPにライカビット付で、のくちるっくすf1,2であった。

しかし重い珍しいライカを持って歩行するだけでは飽きたらず、最近ではイーゼルとか、フォコマート2型を揃えたりしている。お聞きしたら、フォkマートには製造番号は打刻していないらしい。

なんでも真面目に写真を撮影しようという「意気」じ萌えておられるそうで、これは会長の職務遂行の、実に鏡であると思う。

2012年5月16日 (水)

八年目のイタリア街

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気まぐれでヒルズから佃地方に歩いて戻ってくることがある。

そのルートには幾つかあるが、普通は溜め池まで行って新橋から銀座中央通りを四丁目まで行って勝ち鬨橋を渡って、エダムで一杯やってもどる。

この前はややルートを変えて、芝公園の中、東京タワーをかすめてから汐留カレッタを突っ切った。

ここが再開発されるとき、汐留駅の跡地を延々と文物調査をしていて、その大地との格闘はなかなか良かった。フェンス越しにマミヤワイドにモノクロを入れたので撮影したのはもう20年ではきかない昔であろう。

カレッタが完成してから、黒川さんの中銀カプセルタワーを「銀座八丁庵」としてそこで二年以上も温泉に入ったり、金屏風の影で昼寝したりした。思えばいい時代だった。ここは佃地方とヒルズ地方の直線の真ん中にある。あそこは東側がA塔で西がB塔だった。あたしの部屋はB1006だった。

窓から視ると、まさにスカイスクレーパーであった。真冬などは暖房の蒸気が雲のようにナチ上がるのがまるでミニマンハッタンであった。

その直後に汐留に住もうと思って、家人と物件を探しに行った。ちょうど話題になっていた、ツインタワーを見に行った。そこは高速道路の脇で、部屋のドアを閉めておけば静寂であるが、一端開けるとかなり賑やかである。

家人が反対したのは、近所に食品店がまったくないことだった。家人の観察は冷静だから、タワーマンションに入って行く住人がさげているスーパーの袋に注目したわけである。

思えば、ウイーンでもマンハッタンでもプラハでも食品市場は徒歩5分以内にある。これが交通機関を使って、食品を買いに行くのは毎日の生活だから感心しない。

しかしあたしが汐留に住むのを止めたのはそのタワーの南にあるイタリア公園がその理由だった。というのはイタリアの公園の愉快なパロデイであると感心していたら、実はそうではなく、どうも「本物のイタリア公園」としてこれが制作されているらしいことだった。

以前、赤瀬川さんが路上観察学のNHKの番組に出て、路上観察の話をしたら局のスタッフが笑っていて、それを赤瀬川さんは最初は自分の話が面白いので笑っているのかと思ったら、そうではなく赤瀬川さんの様子が滑稽なので笑っていることが判明してしらけた逸話を書いていた。

その反対方向とでも言える状況がこのイタリア公園だ、あたしは向こうのイタリア公園の退屈さを皮肉ったのかと思ったらどうも「マジ」なのである。

ちょうど最近のライカ社製のライカを「伝統のドイツのマイスター魂の結晶」とかつあいすレンズを「ドイツローマン派の光の芸術」というような人が一部にまだ居るとしたらその滑稽さにこれは酷似している。

久しぶり、実に8年ぶりに汐留界隈を通過して佃に戻ったのであるが、かつてそのタワーマンションを視た時に、その北側に建設中だった黒いビルはすでに出来上がって、その一部が高級ビジネスホテルになっていた。

新しいモノ好きなのでそこにエクゼクテイブルームに一泊した。特に感想はないが、この「偽コンラッド」の朝食の納豆はうまい。

イタリア街というのは、あたしの経験からしても、これは本物のイタリアのどっかの街ではなく、マンハッタンのリトル伊太利を真似したのだと理解すれば良い。この列柱の建物などは、ゆえにマンハッタンのキャストアイアン(これも立派な文化遺産)を真似したもののようである。

2012年5月15日 (火)

フジの「ぺけプロ1」でモノクロ撮影

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2012年5月の「偽ライカ愛好会火器大演習」は、ご存じのように幹事は持ち回りであるが、今回はガスマン堀野の担当。

帝銀事件の現場となった椎名町の駅前から徒歩、常磐荘の聖地を経由してワークショップ2Bを経由して日大芸術学部を通り、江古田駅前のラビリンスに至るなかなか見応えのあるコース。
ラストは2時間飲み放題食べ放題の焼き肉や(その名前が絆ってのがまたすごい。政治団体の絆はどうなったのか?)で大宴会やらハッセルSWCの闇市場などがあって楽しめた。

あたしはこの前、ヒルズに遊びにきた友人がわすれていった、フジのペケプロ1を当分貸してくれるというので、それを持参した。
銀座ではモノクロライカのお披露目がある日なので、それを意識してモノクロに設定した。

モノクロで真剣に撮影すると36枚などはライカではすぐにフィルム交換になってしまうが、デジカメの場合にはフィルム交換がないのはいい。

上の画像は日大芸術学部のエントランスである。数十年ぶりにいったので、あたりの様子が一変してかなり驚いた。

2012年5月14日 (月)

OM-Dをしっかりグリップする

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まだ発表前の新製品のデジカメを見せられることがよくあるけど、その時のあたしの興味が性能ではない。
現今のデジカメは画像エンジンやら画質やらは大変な進化であって、非の打ち所がないと言って良い。

その反面、最近のデジカメはしっかりとこれをホールドできないのが問題である。
この前、新刊の「OM-Dワークショップ」(えい出版から7月に刊行)の打ち合わせで清水編集長と長時間打ち合わせした。話題はやはりホールド感覚になって行く。

この間、黄金週間の間に佃の大ガラスの国境を1メーターほど北側に後退させた。その時にカメラジャングルを捜索したのだが、捜し物は一点も発見できず、探していない小物が沢山出土した。
これはこれでありがたい。
最大の発掘成果は数年前に突撃隊長桜木(仮名)からもらったマジックテープである。桜木はこれを軽四輪の中に張り巡らして、なにかNASAのスペースシャトルめいたインテリアにして遊んでいた。
あたしはそのマジックテープは、異パッドに貼り付けて、値ながら仕事する時に、異パッドが顔の上に落下してこないように、していたがまるまる2年も使うと、そのけばあ寝てしまいのである。

発見したマジックテープを貼ったら、OM-Dは見違えるようなグリップ感覚の良さになった。NASAの機内でもかなりのマジックテープが使われているようだが、もともとマジックテープとかベルクロとかは、無粋なものである。
実用第一主義で問題なしだ。

2012年5月13日 (日)

エプソンRD-1Sはプアマンズモノクロライカか?

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話題沸騰、賛否両論の新製品、ライカモノクロアナクロデジタルは八月まで待てないので、というより古いM3にモノクロフィルムを入れればそれで用が足りるのだがせっかくの機会だから、あたしは自分のエプソンRD-1sを特殊加工して、モノクロ専用機にした。

いや、単に「絶対にカラーには戻さない」という、ゴルゴ13並みの強靱な意志を持てば良い。

時計メーカーがゴルゴ13とコラボしてウオッチを出したそうだが、あれはかなり不気味である。今時、ああいう角刈りでもみ上げのお兄さんはもう地上に存在しない。

40年前にはまだゴルゴを気取って、ああいう格好をしていたお父さんがいたが、これは前世紀の話だ。

さて、最新のエプソンRD-1Monoで撮影した、最初のワンカットがこれだ。

エプソンRD-1の登場当時のカタログは実に良かった。どっかイタリアの田舎町で撮影したような渋い風景と人物であった。

芸風が似ているので、あたしが撮影したのかと勘違いされたこともあった。エプソンでは写真集を製作したのである。一台しかない試作機を持って、復活祭に羅馬に行って到着の翌日に機械がスタックして大騒ぎというのも懐かしい。

あたしがカタログを担当したのは、パナソニックLC5であった。ようするに2001 年以降からデジカメは今の速度に接近して、スナップが普通に出来るカメラになったのである。

エプソンRD-1monoのショットは、家の大ガラスからの日常風景である。

かのスデクも自室の窓からの光景を撮影し続けたからこれで良いわけだ。

レンズはBMW野々宮モノのアリフレックス用、西独オーバーコッヘン製の18mmデイスタゴンである。独逸のマイスター魂の結実した独逸の光と影を撮影するにはこのレンズしかない。(脚注 冗談ですよ)

これで「正真正銘のモノクロ画像」が撮れたこと(ライカMモノクロデジタルの発表テキストの真似)になる。

ソルムスライカは1900万画素で長野エプソンはたしか650万画素でであるが、それは大した違いではない。この画像のデーターは350kbほどだが、オンラインでLEDで視ている限り、100kbで十分なのは、女子下着カタログ撮影の巨匠の突撃末期ーんが、すでに実証している通りである。

思えば前世紀のカメラ人類の夢は白黒写真から「総天然色」への進化そのものだった。それがまた、意識的に単色に戻ろうとしているのである。

2012年5月12日 (土)

OM-Dで早番出勤したらモノクロライカ

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ソルムスからライカMデジタルのモノクロ仕様が出るそうだ。
向こうの価格だと本体は七千ドルか。
あまり感心できない新製品である。モノクロならすべてのデジカメにちゃんと機能がついている。OM-Dにだってちゃんとモノクロモードはある。

しかしこれはソルムスライカに「お金を捨てるのが喜び」というようなお金持ちには受けるかも知れない。

さて、あたしは今朝は早番でヒルズ出勤。早出組の経済アナリスト連中の話題は、もっぱらこのソルムスライカ白黒ライカの話、、、ではなく、ビックがコジマを買収した話題であった。

あたしの通勤というのは、この視点の連続で見ると、どうも空筒から離れることにあるらしい。
早朝の佃の大ガラスの部屋から見た、払暁の空筒に刺激されて今朝は自己管理スケジュールにて、早出になった。

上から指示されて、早番なのではなく、自己決定で早番なのは気が楽である。というより、単にじじいは朝が早いだけか。

この一連の画像をモノクロライカに刺激されて、モノクロに変換しようかと思ったけど、それは「大人げないので」やめた。

6月号の日本カメラに掲載予定の「空筒」の口絵は一昨年の夏、ライカジャパンから借りたM9で撮影した。前田編集長にはあたしは「全部モノクロで縦位置で御願いします」とリクエストしたのだけど、今回、空筒の開業に合わせて出る口絵は、縦位置はリクエストが届いたけど、残念ながら「芸術のモノクロ」ではなく「普通のカラー」になったしまった。

しかし結果としてこれは良かった。M9のカラーで撮影した作品をモノクロ変換では、今度のデジタルモノクロライカの売り上げの足を引っ張ることになる。
半世紀のライカファンとしてこれは避けたい。M9でもモノクロが撮れます、、では台無しになってしまう。実に危ない所であった。

金曜の夕刻にヒルズの近くのタカイシイで森山大道さんの新作「カラー」のレセプションがあった。かの大道さんですら、すでにモノクロからコンデジでのカラーに移行しているのに、ライカソルムスの超豪華価格モノクロライカはその意味では「新基軸」である。

今時、モノクロで撮影する写真家は少ないから、時代がかったマグナムのメンバーを担ぎ出してきたのも偉いと思う。
キャパの時代のモノクロなら正統派であるが、今の時代にモノクロを銀塩でやるのは一種の「アナクロニズム」であるのはあたしも銀塩でモノクロをやっているから良く理解できる。

沢木耕太郎さんは今、キャパの遺跡を訪ねて、コルドバに行っている筈である。彼の持参したのは、ライカD3にヨドバシで買ったTX-400の三本セットである。
ではソルムスライカの「偽銀塩モノクロ」は何と命名すべきか?

これはやはり「アナクロニズム モノクロニズム」とでも言うのであろう。以前、ライカファンの間でビッグジョークになった「一株ライカ」の踏襲にならなければよいが、、、

2012年5月11日 (金)

旧型キヤノンとラピッドワインダー

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大学生の当時、京都に遊びに行くと御所の南側の東西に走る大路をよく散歩した。
京都の地裁のやや西に行った所に古道具屋があって、そこにキヤノンの旧型にラピッドワインダーの付いたカメラがあって、レンズのコーテイングが御所の青空を映していた。
そのレンズはキヤノンではなく、この場合にはセレナーでなければならない。

欲しいなと思ったが、新幹線の切符だけで手一杯の写真学生の身であるから、それ無理である。

当時あたしはすでにブラックペイントのライカM2を持っていて、それにはライカビットMPを付けていたのであるから、そういう当時最高の機材を持っていながら、なぜ、旧型のキヤノンを欲しくなったのか、そのあたりの心理は今では分からないが、どうもライカの両側の丸いスタイルに対して、八角形のキヤノンの本体とその付属品のラピッドワインダーのスタイル、それに付属のグリップに惹かれたようだ。

ライカビットには製造番号は記載されていないが、キヤノンのラピッドワインダーにはちゃんと5桁の製造番号が刻印されていたのも、精密機械としは際だった魅力であった。

後に王子野戦病院のデモを撮影するようになって、北井一夫さんとデモの現場で行き交うようになった。
彼は白ヘルメットであって、あたしは日本読書新聞の腕章であったから、官憲から視れば、いずれも劣らぬ危険思想青年に見えたことであろう。

キヤノンの旧型とか、ニコンS とかには、その存在感が戦後をまだ引きずっているような感じのがある。
そこが好きなわけだ。

2012年5月10日 (木)

藤沢ラビリンス

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江ノ電は昔から嫌いである。
これは江ノ電に罪があるのではない。

大昔に東京カメラクラブとかアルパ研究会の撮影会でなにかにつけて安易に江ノ電をテーマにした撮影会があった。

そういうのにはあたしは行かないけど、あまりに安易なテーマ主義がいやであった。だから江ノ電には責任はないのであるが、最近ではその江ノ電の塗装が「偽オリエントエクスプレス」のようになって、今度は江ノ電にもその責任の一端があるのではないかと思うようになった。

それでもあの風光明媚な界隈は大好きである。
まず長谷から鎌倉高校あたりの複雑な海岸線はなにか南仏という風景をそこに感じるのは悪くない。しかもその植物の種類が欧州とはかなり異なっているので、そこに一種の不思議な異国情緒も感じる。

藤沢と鎌倉。
江ノ島電鉄のふたりのターミナルを比較するに、鎌倉の方は単に、JRに接続してますというだけで面白くもないが、藤沢の方には都市の立体幾何学の美学がそこには感じられる。鄙びた渋谷駅の立体構造であると言い直しても良い。

しかも江ノ電の駅の北側は一種のラビリンスであって、そこに足をとられ、道に迷うのがいい。例のあねはマンションの近所には「青戸街」と呼ばれる、青ペンキに塗装された飲み屋街もまだわずかに残っている。

藤沢の街の空間の不思議さはたとえば、道路が直角に立体交差しているポイントがあってそこが、どちらも自己主張しているのも気になって仕方がない。

駅前ターミナルにはなかなかの中古カメラ店もあるし、藤沢19番地あたりには小高い丘の上の不思議な神社もある。中からカラオケの声が聞こえる。
その神社の側には、このような由来付きの自販機があるのも不思議である。

2012年5月 9日 (水)

1953年の若きプリンスのカメラ

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新聞記事に両陛下の英国へのご旅行が閣議決定されたとある。

まことに恐れ多いことながら、大内山にあらせられては、その日程がたった5日というのはなにかお気の毒であると感じた。

そのことを家人と話していたら、朝日のウエブに若きプリンスの19歳の時のご旅行の写真が掲載されていた。
これが1953年の半年にわたる大旅行であって、船で太平洋を渡ってハワイからアメリカ、そして大西洋を渡って英国欧州に至るという遙かな旅路であった。
このご旅行は今にして思うと素晴らしいの一語である。

そのご旅行のほとんどを朝日の写真記者さんが随行して撮影したそうで、こういう写真は60年が経過してますます精彩をはなってくる。
それらの報道写真を見るにまだモノクロがほどんどでカラーはわずかである。

その中にかなりの数、カメラが写っていた。それで若きプリンスのお持ちのカメラに興味がいった。

というのは当時の別の報道写真で独逸のツアイスを若きプリンスが視察された時のがあって、そこで手になさっていたのは、当時のコンタックス2aであった。

その事が少年時代のあたしの記憶には深く刻まれていたので、以来数十年間「皇太子様はコンタックス2a」という認識があった。
メーターの付いたコンタック3aではなく、メーターのない方のコンタックス2aといううのはいかにも若きプリンスの写真の上手の腕をそこに感じられることであった。

それがこの写真でメーンでお使いのカメラはどうもニコンSであるらしいことがわかった。革ケースからそれが分かる。これはあたしにとっては大発見であり、実に魅力的な銘機礼讃物語でもある。

拝見するに、若きプリンスのカメラのカメラの構えは確かである。しかもスーツ姿で肩からかけられたカメラのご様子が実にスマートである。

これを品格と申し上げるのは不敬かも知れないが、カメラはそれを携える人と有機的に反応してそこに「カメラの情感」が生まれるもののようだ。

ところで若きプリンスを取材した新聞社の写真部の使用カメラを推察するに、1953当時ならば4x5カメラで撮影されているのは間違いがない。
この空気感となめらかなトーンはやはり大型カメラのものである。恐らくアメリカ製のスピードグラフィックあたりであろうか。

この画像も素晴らしい。カメラを大事にされている。このタラップを降りられるシーンではカメラケースはこのように持つのが理想というものだ。まるで映画のワンシーンのようだ。

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2012年5月 8日 (火)

5月6日の夜の空筒

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偽ライカ同名のなぎら健壱さんには最近はあまりお目にかかっていない。
昨年、目黒のカメラ店に行ったら、なぎらさんの事務所の社長の田中さんがあたしに挨拶をされて「今、ここになぎらが来ますよ」といわれた。

「それはありがたいです。最近、なぎらさんにはお目にかかっていないので、是非ご挨拶させてください」と言って、待っていたがなぎらさんはなかなか見えない。

あたしがカメラ屋のトイレを借りて用を足してドアを開けたら、そこになぎらさんが立っていた。東京人というのはこういう場合にはかなり、シャイである。

あたしもシャイだし、銀座生まれのなぎらさんはさらにシャイである。いきなり唐突にフドアの向こうからあたしが登場したのだから、突然のことではありかなり吃驚されたと思う。

それで思い出すのは小泉首相のことだ。

当時の官邸は今のとは違うか、あるいは部屋の構造が異なるのか、そこら辺が明らかではないが、外国からの賓客が首相官邸かどこかに見えて、そこに小泉首相の登場するその登場のしかたがあまりにも唐突なので、テレビニュースを見ていたあたしは肝をつぶした。

人間が人を待ち構える視線というか、空間の認識の方法はまず待っている相手は部屋の反対側のドアから入っているのが礼儀というものだ。

ところが小泉某は外国の賓客が座っている椅子の同じ側の4フィートも離れていないドアからいきなり登場するのである。
これは一種のだまし討ちであり、刺客の登場の仕方ではないか。この登場の仕方は常のことであったので、あたしは毎度異なる外国のお客さんの不意を突かれたその反応をニュースで見るのが楽しみだった。

あたしがなぎらさんを吃驚させたのは、この「小泉パターン」に近い。

お互いに「あ、お久しぶり!今度、是非のみにゆきましょう」などと言った。

そのなぎらさんが土曜日の東京大周遊のTVに出ていると、隣室の家人が教えてくれた。あたしもおなじみの、都電荒川線のあちこちを取材したテレビである。

なぎらさんが首から提げている一眼レフに見覚えがあるのだが、それが何であるのか分からない。ただしワンショットでネックトラップが見えた。

そこにはOLYMPUSと読めたのである。この番組は別におりんぱすの提供ではなかったと思うが、逆にこの宣伝効果は絶大である。

この前の日曜は「東京ホタル」とか言うイベントにて、隅田川に10万個のLEDを浮かべるのだと言う話をその昼間にBMW野々宮から聞いた。

その夜には開業間近の空筒(スカイツリーと、読む)も夜の七時半から点灯した。その空筒の周囲をヘリが飛び回って、なにやら「バグダッド空爆」のような有様になった。

それを撮影しない手はないので、手元の40-150mmのズームで撮影したのがこの画像である。

正確には、OM-DのLEDに写った「かりそめの空筒」というわけだ。

そのLEDは佃地方にも流れてくるのかと期待していたが、何の沙汰もない。

後でBMW野々宮からのメールで知ったが、くだんの電子ホタルは、ちょうどホタルイカ漁のように、全部淺草で捕獲されたそうである。

2012年5月 7日 (月)

TIMEX

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もう七年ほど使っている、TIMEXである。

デイパックのハンドルのところにくっつけて、あたしと一緒に世界じゅうを巡回している。

他にはちょっと凝った機械式時計を腕につけている。

それがこの前、プラハに行く時に成田でA330-300の離陸時間を計ろうと思って腕時計を見たら秒針がない。

秒針は外れてしまったのだ。しかしまだ長針と短針があるので時間は分かると、たかをくくっていたら、今度はプラハ滞在中にその長針の方が外れてしまった。

この機械式時計は10年ほど前にプラハで修理したのであるが、また修理が必要になった。

それではというので、おもむろにデイパックに付けてあるYIMEXを外してみたらこれが、バッテリーがなくなっている。

たしかこのTIMEXを買った時に、電池交換はタダという派手なタグが付いていたのを思いだした。

しかし七年先とうのは、あたしには不確定な遠い未来のように思われていやのが、それが現実になったわけである。

その無料の電池交換の権利は放棄して、プラハの旧市街の構成主義建築の通り抜け道のまん中にある、かつては劇場のチケット売り場であった、ブースが今は時計屋になっているので、そこに持ち込んで電池交換をしてもらった。

時間は3分で値段は100コルナであった。

2012年5月 6日 (日)

キエフ10というカメラのポスターはいいな

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数年ぶりに佃の大ガラスの部屋を整理した。
理由は単純であって、知り合いのフィレンツエ人が近々に佃にやってくる。

それで本来、大ガラスの部屋は軍事協定により、停戦委員会で境界線が決められていたのだが、我が、カメラ民主主義人民共和国の方が越境をして、国連軍の監視委員会にたびたび警告を受けていた。

それで国境線を1メータ−ほど北に移動させたのであるが、これは64歳には重労働だった。

ついでに、数年来行方不明のライカとかレンズを捜索したのであるが、それらはまだ発見できなくてその代わりに思ってもいなかった物件が多数出土している。

これは「世界で最初にオートマチックの露光システムで宇宙空間を飛行した、一眼レフ、キエフ10型のポスターである。

子細に見ると、ポスターの右下にそれを印刷した年度が1966と読める。1966はあたしが日大写真学科の一年であった年で、使っていたのはニコンFであったが、ソ連ではもうこういう優れたデザインのカメラが制作されていたのだ。

キエフ10はそのデザインもいいが、その機構も独特であって、扇形の金属シャッターが使われている。しかもその色が「銅色」なのである。

本体のデザインは世の中に「キュビズムデザインのカメラ」が存在したら、まさにこれがそれであろうという印象を持っている。
レンズは20ミリから135ミリまであって、それらがシャッター優先のオートで撮影できる。

このポスターはウクライナの名もなき町のカメラ屋さんの引き出しの置くに丸めてそのままわすれられていたものだ。
それを発掘して今、ここにある。

旧ソ連製のカメラの取説とか、ポスターには渋いものが多い。これらはまだコレクターズアイテムにはなっていないが、そのうち、波が来そうだ。
印刷が悪く、紙質が悪いというのが、この場合には魅力になっている。

2012年5月 5日 (土)

彦いちファインダー

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この間のBSジャパンの金曜の7PMで林家彦いちさんとライカがらみの話をした。ライカ人類は初対面でも、ライカのレンズのブランドとかアクセサリーの澱略記号ですぐに親しくなれる。

今度も打ち合わせの後の「御歓談の時間」で彦いちさんがいきなり、インダスターのジャブを出してきたので、それで三十年来の友人になった。

インダスターとは、ノクチルックスなどよりずっと難易度の高い、ソ連製のらいか(これがひらがな表示の時はコピーライカを指す)についている、テッサーのコピーであって、知る人ぞ知るレンズなのである。だいたい、ノクチルックスとかズミルックスを信心している「値がさライカ連中」はここら辺のソ連の安レンズをバカにするので、逆にライカ平民連合のわれわれは彼らを哀れんだりするのである。

彦いちさんが見せてくれたのは、GRDに付けられた、特製の真鍮製のフレームファインダーであった。これはニュートン式のさらにクラシックな形態のやつで、前のフレームしかない。

だから撮影者は目の位置を自分で調整するわけだが、このクラスのファインダーは類似のものが、ライカ0モデルについていた。かなり上級者向けのファインダーなのである。

話をしてみて、作品を見せてもらって、感じたのは彦いちさんは、かなりのライスナップ人類であることだ。
ライカを持って「光と影の芸術を創造する連中」はあたりは嫌いだ。彼は前に前にと出てスナップするタイプだから、まず世界的な写真家になぞらえて言えばウイリアムクラインとか、エルスケンタイプなのである。

なにかライカ戦線で戦友に出会ったという感じがあった。

落ち着いた紳士なのであたしよりちょっと下の世代かと思って、ぐぐったら、なんと1969のお生まれだった。これはあたしが最初に個展を開いた年である。それでまた感心した。

2012年5月 4日 (金)

OM-Dのタッチパネル式シャッターレリーズについて

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「なんとかのなになにについて、、、」
と書くと、これは官公庁のお達しのようで退屈さが身にしみるのがいい。

さらに加えて、「なになににおける、なんとかのかんとかについて、」
とやると、これは大学の退屈な研究論文になる。

だからこれを大学論文風にするなら
「OM-Dのタッチパネルの誤操作における、無意識領域の撮影映像の芸術性についての考察試論」
とすべきであろう。

福田和也さんもそうなのだけど、あたしもそうであって、カメラ付属の説明書を読まない。にもかかわらずボーイングの取説な持っていて熟読しているから、着陸復興の手順に関しては知っているのである。なにか変だな。

10年近く前、新宿の工学院大学で日本のすべてのマニュアルを製作する団体が結成している、その名前はすでにわすれたシンポジウムで、カメラの取説について講演したことがある。

もともと取説不要論を標榜するあたしをそういう講演会に呼んでもらったのはありがたいことであるが、その時に話したことで記憶しているのは、日本語の取説はわかりにくい、それよりややましなのは英文の取説であって、一番分かり易いのは独逸語のそれであるという話をした。

参考に戦前のライカのカタログとかボーイング747のフライトマニュアルなどを持参した。
この団体の関係者さんから聞いたのだが、当時のカメラの取説の経費というのは、開発費には計上されていなくて、すべては製品の製造コストの中のやりくりの話だから、経費はかなり厳しくて良いものが出来ないということだった。
これがその団体の言い訳なのか、それとも事実なのかは分からない。

その団体のその会合のポスターをもらって、吃驚仰天したのは、その会合の場所と日時がポスターのどこにも書いてないことだった。

その理由を聞いたら、「あ、わすれました」とのことで、それでその団体のおおらかさからその団体を信用するようになった。きっとその日時と場所が書いてないのは講演者を笑わせるジョークであったのだろう。

昨日だが、ヒルズの仕事場で友人にOM-Dで撮影したプラハの写真を見せていた。画面を指でタッチして画像を先に送っている間に、電源の保持の為に1分でスイッチがオフになる。

再度、カメラをオンにして、再生画面をタッチしようとすると、それは再生画面ではなく、スタンバイ画面だから、タッチパネルのシャッター機構が反応して面白くもないオフィスのデスクトップの写真が一枚撮れた。

これが繰り返されて10枚近くのオフィスのデスクトップの画像が撮れたわけである。これを無意識の領域の撮影の成果でこれを現代写真と認識するのなら、これは写真映像論では、いくらでもでっち上げが可能だけど、正直面白くはない。

しかしあたしは「生活習慣病」で取説は読みたくないので、そのことを顔本に書いておいたら、最近のアローカメラ我楽多屋さんのお客さんで、あたしがオリンパスのデジカメの操作で困っている時に教授してくれる紳士から書き込みがあって、その触ると落ちる、液晶パネルのシャッターは出荷時にはオンになっているので、画面の左にあるなんとかアイコンをオフにすれば外せるという指示があった。

かなり詳しいので、高千穂の方ですか?とお伺いしたらそうではなく、普通の熱心な高千穂ユーザーであった。

やはり取説は熟読するのが重要なようである。

2012年5月 3日 (木)

汐留の煙民コーナー

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あたしはシガレットは吸わないが、吸う人は隔離、差別されているようなことろがあって可愛そうである。
もう10年ほど前だが、ドイツの航空会社とお付き合いがあった。
日本より喫煙エリアがしっかりしているせいか、芝にあった会社はドイツ人の社長とドイツ人の副社長のお二人がビルの外でタバコを吸っていて、なにか気の毒な感じがしたものであった。

もし、これがタバコでなくお酒であったとしたら、あたしなどは「アルコール摂取許可エリア」で焼酎をすすっているのはなにか疎外されている感じがするであろう。

数年前に福田和也さんとリコーの中国工場に見学に行った時もそうであって、巨大な工場の施設の入り口の近くにたしか「煙民室」というような漢字の看板があってそこでは喫煙する工場労働者がなにかばつが悪そうな感じでタバコを吸っていた。
工場側があきらかに「見せしめ」の為にそういう目立つ場所を設定しているのか、それとも偶然なのか分からないけど、なにか文化大革命の時代のつるしあげを思いだしたのはあたしがそういう昔の世代であったせいであろう。

これが汐留カレッタの喫煙コーナーである。これもなにか階段の下の、目につきにくいような場所でこそこそと吸っているのが気の毒だ。

ロシアはモスクワ空港のターミナルDなどは実に立派な喫煙隔離コーナーがある。これは世界的なタバコメーカーがスポンサーになっているのであるが、向こうでタバコを吸っている人は日本ほど卑屈な感じのしないのはいい。

2012年5月 2日 (水)

ダイアンアーバスのカメラ

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スイスカメラ誌の1970年の浜谷浩さん(はまたにひろしと言ってる大学の先生がおられるようだが、はまやひろし、と読む、神奈川県大磯町東小磯にお住まいだった)の作品が巻頭でその後にあたしの23歳の東京フォトグラファーの作品が掲載された、

その次の月のカメラ誌であったか、単純な塀とか部屋の壁とか、下手なポートレートとかが特集になっていて、そのタイトルが「ウルトラバーナリテイ」というのである。これを「超陳腐主義」と訳した人がいた。これはあたしが「ストレートフォトグラフィ」に気がついた最初の写真でもあった。

その中の「ストレートで下手なポートレート」の中の一枚がマンハッタンはセントラルパークかどっかのベンチに座って、トートバッグからマミヤC3を覗かせているマンハッタンのバザーなどに良く居るタイプの普通のおばさんが写っていた。

キャプションを見ると、それがあのダイアンアーバスであることが判明して吃驚したのは、東松照明さんに憧れていて、実物みたらそこらの普通のおっさんであったのと同じカルチャーショックであった。

もっともこれはまだアーバスが新人駆け出しの時代のことで、当時、開業したばかりのライトギャラリーだかウイトキンだか忘れたが、かのアーバスの作品が一点2020弗で買い手のなかった時代の話だ。まさにアップルの株が1弗だった時代みたいなものだな。

家人の遠縁にあたる、堀口大学先生だって、ご真影をみたらどっかのあまり信用のおけない呉服屋の店主という感じがした。およそ本物の人間は「らしくない」のである。

一方で男性雑誌などに出てくる決まり過ぎのモデルさんはその反動というのか「いかにも格好だけで、その実体が伴わないのは「メデイアはメッセージである」とかの70年代の予言者まくるー版も申しております。

当時、あたしは池袋の中古カメラ屋で36000円で買った、アーバスと同じマミヤを持っていたのでおおいに励まされた。当時、Camera Artという日本で発行されている英文雑誌に連載を持っていたのだが、そこでは65mm付きと135mm付きのマミヤC3は良く登場したのである。

最近、実に40年ぶりで同じ形の(実際にはC33)のカメラとレンズ4本付きをアローカメラ我楽多屋で手に入れた。よく確認しなかったので、80MMはシャッターは不動で180MMはファインダーレンズが曇っていたけど、それは問題ではない。

このカメラの実用性は言うまでもなくて、昭和40年代の営業写真の戸外での撮影はこの二眼レフかマミヤプレスに限られていた。

今でも真面目な写真に使える銘機である。さっそく120フィルムをまとめて注文した。

2012年5月 1日 (火)

OM-Dに貫禄をつける特殊メークでカスタマイズ

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あたしの古いカメラ本に「ニコンFのブラックにやすりをかける」というエッセイがあった。

日本デザインセンター時代の先輩で、実際にそういう人が居たのである。あたしはその人はあまり好きではなかった。ようするに写真の仕事は処世術としてこなすのだが、写真の表現には全く認識がなくて、中身はからっぽという感じがしたのである。

その先輩は二台のニコンFにブラックのうちの一台にやすりをかけて、いかにも使い込んだ感じにしたが、もう一台は「売る時にソンだからやすりはかけてない」と言っていた。

今もそういう蛮勇があるのかどうかは知らないが、あたしの少年時代にはおろしたての運動靴がぴかぴかし過ぎて恥ずかしいので、わざと汚したりした。
体操着とか柔道着も同じであった。
ようするにこれは「ばんから」の遺風なのであろう。

今の若いもんの好きなジーンズのダメージ加工とこれは一脈通じるところがある。
ところでこれだけ優れたデジカメが競争で登場している日本なのに、まだ日本の優秀なメーカーさがやっていないことが一つだけある。
これはどっかに売り込めば商売になるので今まで黙っていたのであるが、ここでもう明かしてしまおう。

それは「デジカメのダメージ加工」である。

今のデジカメが往年のライカに比較してまことにつまらないのは、それがライカの場合には「この一台と連れ添って世界の果てまで、我が命のある限り撮影しよう!」というライカと人生を共に歩くという意志がそこにあったことだ。

一方で実際のデジカメの市場原理は、コンパクトデジカメではほぼ半年ごとの新型モデルへの差し替えであり、ミラーレスでも一年とはもたないのであるから、「このデジカメと世界の果てまで、我が命の尽きる日まで」という運命共同体の一体感はそこに起こりようもない。

もう一つの問題点はデジカメを下取りに出すとかならず「使用感がありますね」というので減額される。カメラは使う道具だからこれは使用感が出て当然であるが、世の中の市場と言うものは、カメラは高性能であることが望ましく、さらにそれが製品になってからは元箱から一度も出したことのない、デッドストックであることがさらに望ましいという変な価値感が定着している。

そこでメーカーさんが「公式にダメージ加工のデジカメ」を出せば、これは「オフィシャルな存在だから、その後の流通過程でも文句は出ないわけだ。

しかし実際にはそういうダメージ加工とか、3年落ち特殊メークのデジカメは存在しない。
そこで先週だかに「偽貫禄同盟」なるものが結成されたのである。新品のカメラに貫禄をつけるという趣味のクラブだ。会員はまだ3名であるが、その本拠地は東京は四谷のアローカメラに置く。

この特殊メークの良い点は、いざとなったら簡単に金色のマーカーを除去して、もとのピカピカの新品に戻すことが出来る点だ。そこらが実に現代にマッチして親切であると思う。

どうです?あたしのOM-Dはプラハを三往復してそのついでに回路にも3回行っているような感じでしょ?

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