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ロック ユー

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2012年4月30日 (月)

プラハのOM-D

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現在、OM-Dの本を書いている。七月には出る予定である。

この画像は今回、プラハでの撮影に使った機材だ。数年前に出した「田中長徳ペンの本」では、当時はまだマイクロ4/3というフォーマットそのものがまだ珍しく、当時はミラーレス一眼レフということばもまだ一般的ではなかった。

当時は各種のアダプターで市場にあるほとんどのレンズが使えるということもまだ目新しいことであった。それで各種アダプターを持参した。あの当時と今とを比較すると今ではマイクロ4/3のアダプターによるレンズ交換ということが、すでに学術研究の一課題になった感がある。

しかし、今回はそういう「レンズ交換アダプターによるアクロバット」は止めて、純粋なズイコー交換レンズ群を中心に持参した。ここにトラベルライトの思想があるのは言うまでもない。

唯一、持参したレンズアダプターはもっともスタンダードな「ライカM−マイクロ4/3」だけで、これにはライツ時代の沈胴エルマー90mmf4を付けた。それ以外にズイコー交換レンズの布陣は、メーンが例の話題になっている、防塵防滴の12-50の標準ズーム、これに9-16のワイドズームをくわえて、さらに12MMF2のプライムレンズを加味した。

この組み合わせはプロの映画カメラマンのレンズセットに酷似している。要するに常用のズームと広角ズーム、それに明るいプライレンズと、望遠のプライムレンズの組み合わせである。

あたしは編集者には親切な性格なので作例のセレクションがしやすいように、「一日、一レンズ主義」で撮影したのである。

だから画像ファイルを連続して見てゆけば、使ったレンズは日によって即座に分かる仕組みになっている。

まずこの数のレンズが小形軽量であるから持ち歩きに何ら問題がないのもありがたい。これはマイクロ4/3の利点であることは今更言うまでもない。

2012年4月29日 (日)

プラハのモンマルトル旅情

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恐らく、プラハに住んでいるプラハ人もそれからあたしのような寄留の外国人も含めて、あたしはプラハ市内を徘徊している人間のトップ50位くらいには入るのではないかと思う。

元々プラハ人は待ち中の遠歩きが好きである。東京の人よりずっと長い距離を歩行する。その理由は街のサイズが東京などよりかなりコンパクトであるから、ようするに「歩きがい」があるわけだ。

2時間歩行しても、周囲の街の風景がまったく変化がなくて、2時間前と街並みがまったく変わっていないというのでは、これは面白くない。

プラハの場合、まず2時間も歩行すれば街は歩行者の期待に応えて、風景を一変させてくれる。これがプラハの街歩きの魅力である。

ところで、ここはプラハの旧市街の東側にある、ヴィノホラデイという地区で、なかなか文京的でもあり、ちょっと洒落たショップなども点在する地区だ。

その中で、このパリはモンマルトルのギャレットの風車をそのままお店のファサードに取り込んだのは、まずあまり品の良いという感じではないけど、思うに、あたしの興味はプラハ人から見た、パリのこういう典型的な風景が、彼らの精神的な距離感としてそのように認識されているかにある。

思えば、プラハからパリに出奔してそこで成功したアーチストは、かのムハを初めとして数多い。昔の日本が「パリに行きたいが、パリはあまりに遠い」と嘆息したのとはちょっと訳が違うのである。

そのパリも街のサイズとしては、プラハよりかなり大きいけど、それでもまだ東京のような巨大都市ではないから、散策するに絶好の大きさである。

カメラはOM-D 12-50MM

2012年4月28日 (土)

プラハ四区の素敵なウインドウ

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今月の前半は、OM-Dのムックの撮影でプラハに居た。

あたしのアトリエはプラハの6区でこれは旧市街の北のモルダウの左岸にある。今回の2週間の滞在中の最初の1週間はプラハの南部、モルダウの右岸の4区のホテルにいた。

ここはもうプラハの南樹の外れと言って良い。プラハの旧市街の観光客で溢れている街区は見所もあるけど、逆にその観光名所がステレオタイプ化されて退屈でもある。

本来、ツーリズムというのは退屈極まりないものであるからだ。

プラハの周辺部にこの四半世紀、あたしが憧れているのは、中心よりも周辺にプラハの濃度が高い点にある。

宿泊したホテルの一角などは、鉄道の線路が東西に走っている周辺には、大小の工場街がある。この工場がもともと19世紀末に膨張するプラハの生産を受け入れる意味での新開地であった。

そこに必然的に労働者街が出来、その住宅が出来、商店がレストランが出来るという発展の仕方であった。

ところでプラハの街歩きの楽しみに、古道具屋巡りがある。革命以前には旧市街にもなかなか見所のある、アンテーク店が散在していたが、プラハが西側の街になって以来、そのような古道具屋は旧市街からは綺麗さっぱりなくなって、その後はMACとかKFCやスタバになってしまった。

利の薄い古道具店ではとうていレントの高くなった中心街で商売は出来ないわけである。

一方でプラハ4区のような周辺部の街区ではまだまだ魅力的な古道具屋がある。ただし、そういう店と長年お付き合いしたあたしにしてみると、もうそういう店で何かを買って、それを身辺に置きたいという欲望はすでに過去のものである。

場末の古道具屋の存在そのものを、愛でるという精神状態になってしまったのである。もっともこれでは売り上げは頭打ちであるから、それなりに何かを買う必要も感じているのだけど、それは今後の課題というやつだ。

一番下の画像は、風情のある、古道具屋のそれではない。これは旧社会主義時代を思い起こさせる、トラッドなウインドウの展示である。

そういうクラシックな飾り窓もまた懐かしい。

2012年4月27日 (金)

あたしのOM-D

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水曜の午後、昼図から佃地方に戻ったら、高千穂光学からパッケージが届いていた。
この前のプラハロケで借りたOM-Dは成田に到着した日の午後に、時差でよろよろしつつ、タワーのレセプションから返送したのである。

翌日からペペンペンに最新型の超コンパクトな常用ズームをつけて、撮影を開始したのが、4/11であって家人のリサイタルは4/21であったがそれらのイベントもつつがなく撮影した。

それで今日から新しい「あたしのOM-D」の使用を開始したのが、4/26であるからそこにほぼ二週間のブランクがある。

嬉しいのでさっそく仕事場に行く前に、10分だけバッテリーをチャージして出かけた。
佃地方の月島駅のA6の出口というのは目下、改修工事で閉鎖されている。それで仕方なく横断歩道を越えて、エレベーターの下りに乗るのである。

このエレベータが出来てすでに5年ほどであるが、実に不思議なオブジエがある。
エレベーターの前にご覧のような、花崗岩っぽい磨き上げた、物体がある。
最初は自転車をここに通すのかと思ったが、そうではない。

その利用目的は不明だ。
それであたしはこの意味不明の物体で遊んでいるのである。この間を歩行してするりとすりぬけるのは、還暦すぎの運動神経の鈍ったこの身体では、これがうまく出来るとなにか偉業を達成したかのような感じになる。

これからOM-Dで遊んでみようと思うが、例のOM-Dのムックの企画が本格始動したので、実際には遊びというのではなく仕事ということになりそうだ。

ところでOM-Dでもペペンペンでも「視神経の延長」として全面信頼して使うのがあたしのデジカメに対するスタンスなので、「フルサイズのデジタル一眼レフでフォト所駆使して我が写真芸術を極める」のはあたしの本意ではない。

ろころが世の中には勘違いの諸氏が居られて、フルサイズのデジタルカメラを否定するのはけしからん言動である、と仰有る。
これはもともとデジカメ論戦のデイベートなのである。

ゆえにあたしの軸足はペンペンとかOM-Dとか、コンパクトデジカメに置かれているのであって、これは「論理的遊び」であることを最初に申し上げておく必要がある。
先輩諸氏のように、コンデジからフルサイズの超高級機まで「これこそ本物!これを待っていた!」と絶賛するのはあまりに「全方位的礼讃」で結局は何も言っていないのと同じことではないか。ライカのレビューは半世紀前のものでも真面目に読めるのに、デジカメのレビューは1年前でもなにか「陳腐感」を感じるのはこれは問題だと思う。

名門のスイスジナーのコッホジュニア社長に四半世紀前に、彼の本拠地のシャフハウゼンで会った。
コッホ氏は大のクルマ好きで名車を沢山所有していたが、彼はそういう「全方位的なクルマライター」をかなり批判していたのを思いだした。
その時、あたしはコッホ氏のおじいちゃんが作った、ジナーノルマで古いシャフハウゼンの街並みを撮影した。

コッホ氏の上の痛烈なクルマライター批判は、バーを半ダース廻って最後に彼のアパートに行った時の言動だが、当時はコッホジュニアはまだ独身であったからもう大昔の話だ。

2012年4月26日 (木)

素敵ーとその桐箱

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親しい友人からもらったのが、これである。

理研のStekyだ。海外にはこの愛好クラブもあるようだ。実際には昭和20年代の輸出の花形カメラだったし、鎮座の和光Tokyo PXでもかなり売れたのではないか。

シンプルな16mmのフィルムを使うサブミニチュアカメラだが、そこそこに良く写るので人気カメラだった。
今でも、ebayなどで豊富に登場するのか、いかに売れたかの証拠でもある。

このカメラがマットブラックに改装されて、警察用に「ハンケン」となったわけである。その課程は、チエコの同じクラスの超小型カメラである、メオプタが同じく、ブラック塗装されて警察用に使われたのを思い出す。

ところで、1973-80年のウイーン時代には、家人とウイーンの散歩をするのが。仕事であったわけだが、ウイーンに数多い中古カメラ店で家人が欲しがったのは、このステキーだった。

もともとカメラには全く興味のない家人のことで、その当時、あたしのポートレートを撮影する必要から、ライカにズムミクロン90mmを付けて渡したら、レンズの方から覗いたような、カメラ音痴の天才である。
それがこの素敵ーだけに興味を示した、その背景はいまだに不明である。

このカメラにはできの良い桐箱が付いている。当時の検査証もついている。
桐箱は実は当時の理研光学の製品ではお馴染みのものであって、リコーフレックスも桐箱入っていた。その箱の蓋の表には、焼き印で名称とシンプルな図案がついていた。

オリンパスのライカマウントのズイコー40MM F2.8も立派な桐箱に入っていた。
当時の極東の逸品は桐箱入りでその高級感をさらにアピールしたものと見える。

この間、上野界隈を徘徊していたら、いきなり桐箱屋さんが登場したのには驚いた。お店で値段を見ると、桐箱の価格は想像していたよりも遙かに安価である。
これにライカを入れたらいかにも、いかにもという感じだ。
ライカの格納可能なのが1000円台で買える。これには平紐を通す穴がついているので、ちゃんと紐で結んでやれば、使い古しのライカも「利休遺愛のライカ」になることは請け合いである。

2012年4月25日 (水)

鰯の缶詰に良く似た物体

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この間、沢木耕太郎さんとライカの話をした。

ライカの話と言ってもM9Pがどうのこうのというのではなくて、ロバートキャパががスペインで使っていた1936年当時のライカの話だ。

沢木さんには資料として、ライカ3a の1207番というのをお貸ししてある。沢木さんはそのライカが3aであると思われていて、1207番の製造番号はその番号の前の
2桁がなにかの具合ですり切れているのだと誤解なさっていたので、その誤解を解く為にライカの製造番号、ならびにライツ社が行ったライカの改造に関してご説明した。
恐れ多くも、沢木耕太郎にライカをご進講する、個人レッスンの教師という大変な立場があたしなのである。

この前、沢木さんは調査の結果、スペイン時代のキャパはエルマーの他にズマールも使っていたので、その実物はないかとのご下問であった。
あたしは必要な時に必要なモノが手元にないのが得意であるが、この時にはちゃんと目の前にズマールがあったのでそれをサンプルとしてお貸しした。

そのレンズは実は戦前にやはりドイツ空軍が使っていたとおぼしき古レンズであって、ニッケル鍍金はほとんど剥離しているが、ノンコートのレンズはまだまだ綺麗である。これで戦前の戦闘のシーンが撮影されていたのであろうか。

最近、鰯の缶詰の缶に似たフィルムカメラが1万円ほどで登場したとウエブ上の話題だ。
いかにも若者のクラシックカメラ受けを狙った商品で成功しそうだけど、それらは所詮はストーンウオッシュでひげ加工をしたジーンズみたいなものだ。
青山二郎が瀬戸物の時代を付ける方がまだ無邪気な遊び感覚がありそうだ。

1万円を投下するのなら、このようなクラシックライカを探して3万円を投下した方が長く楽しめるのは言うまでもないことだ。
ちなみにこのライカD2の個体は1980年にウイーンで買った。
底蓋にSE WOLFと「箱書き」があるのも奥ゆかしい。

20年ほど前に、関東カメラサービスでネックストラップアイレットを加工してみらって、シャッターを調整してもらって、未だに絶好調である。

なんでも沢木さんは連休の前だか後だかに、くだんのライカを携えてスペインに旅行なさるそうである。

2012年4月24日 (火)

駒込霜降橋のカメラの林商事

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駒込駅から岩崎庭園の方に向かう。
チロリアンのお店の正式な名称は忘れたが、なんとか堂という立派な菓子舗である。これがなぜ、チロリアンという不思議な名前の菓子を出しているのか分からん。
30年前にはたしか「チロル銘菓」と銘打っていた。チロル地方にはそんなお菓子はなし。

さらに道を行くと、シンプルは白い横看板に赤い字で「カメラ」とある。
林商事である。創業は昭和三十年とか聞いた。
このお店は東京の中古カメラのネットワークからちょっと外れているのがいい。
以前、ここでプラナー付きのハッセルブラッド500cを買った。しばらく使っていて、コンパーシャッターがばらばらになった。
修理に持参したら、全額を返金してくれた。これは先代の社長の時代だ。こういうお店は信頼ができる。

駒込の928邸に、製造番号928のカメラやレンズを見学に行く前に、林商事に寄ったのである。このお店のたたずまいは「写真が良き趣味」であった黄金時代のよすがを今に留めている。

傑作写真がお店いっぱいに貼ってあって、店主は芸術家肌で、ベレー帽をかぶっていて、地元のアマチュア諸氏のフォトコンテストの応募の相談などに乗っている。それでこのお店でプリントしたモノクロ写真はなかなかコンテストの入選率が良いという感じのお店だ。

店主が、自慢のかつての都電の停留所看板もある。これはこの界わいきっての名店の並ぶ「霜降橋」のホーロー引き看板である。同種の看板はあたしも持っていた。あたしのは電停の正面に据える方のやつで、両となりの停留所名が記してある。
たしか都電が廃業する時に500円で買った。
他には護国寺前、上野動物園前も持っていた。
しかし、あまりに思いので、20数年前に写真評論家の長谷川明にあげてしまった。かれはその後、恵比寿から成増に引っ越したから、くだんの看板はもう持っていないであろう。

2012年4月23日 (月)

家人のリサイタルをペンホワイトで撮影

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4/21は「国際反戦デー」ではなく、家人の何十回目かのソプラノリサイタルであった。芸名を田中美好という。

毎回、マネジャー役を務めるのだが、今回は序列があがって、楽屋入りは手伝わなくても良いことになった。

それで寒い曇りの神楽坂を歩行して、なかしまあさみがご執心のりゅうほうのチャーハンを試食に行ったのだが、それは本日のテーマではない。

記念写真を撮影するので、考えてわざと初代の白いペンを持参した。レンズはコンパクト化した最新の常用ズームだ。

こういうリサイタルにフルサイズのデジカメを持参するのは、かのHCBに言わせれば、リサイタルに大口径の拳銃を持って行くようなもので、垢抜けない。

皆さん、おしゃれして来る中で、ホワイトのペンの初代はなかなかシークでよい。

お客さんの入りもほぼ満員で実にありがたい次第だった。

まずこの程度に撮れていれば、家人から文句を言われる心配もない。

マイクロ4/3とコンパクトズームの威力だ。

実はあたしの任務はコンサート後の撤収にある。とにかく大量のお花とかチョコレートなどをいただくのでこれを「ありがためいわく」と言っては罰があたるけど、家人も職業歌手であるから、逆にそういうエチケットを頂くことは恐縮してしまう。

それであたしは「喪主」(これは冗談ではなく、コンサートは生前葬で、出版は遺書だと思っている)の立場であるから「お供物ご供花の儀は固くご辞退」と諸方面に通達してあった筈であるが、こういう通達はなかなか徹底できない。

それで帰りのMKタクシーのエステイマはお花でほぼ満杯であった。まさに霊柩車の出棺というわけで、唯一異なるのは家人本人がまだ「息をしている」くらいだ。

自宅のタワー車寄せに到着して、一人でエレベータに花束を運び込むのに、作業員のあたしが苦労していたら、40階在住のお母さんと小学生くらいの男の子とそれより数歳下の女の子があたしを見ている。
お母さんが「ほらおうかがいしてごらんなさい」と女の子をうながしたら、その子は「どうしてそんなにお花があるんですか?」と質問。

「うちのおかあさんがね、音楽会を開いたので、お祝いにお花をいただいたの」
これが答え。

その家族三人でエレベータに花束を摘むのを手伝ってくれた。
それで「はい、これお駄賃」というので、その女の子に花束を贈呈。

これが「生前葬」なのだから、これで「良い供養」になった。

花束搬入業務が終了してフリーになったので、いただいた立派な薔薇の花束をクラブエダムのママにお裾分けで届けるので、月島のホームで待っていたら、隣に来た成人女子が「素敵な薔薇の花束ですね」とまた声をかけてきた。「御世話になっている人に届けるんです」

「あ、彼女に持って行くの?」

「還暦すぎのじじいですよ。とんでもない!」
とか会話弾んで、その中の一本を手折ってその女子に進呈。
「これから仕事なんです」とその人はバッグに大事に一輪の薔薇をしまった。

思いだしたのは、1982年の春に戒厳令解除直後のポーランドはクラコフの旧市街のレストランで食事していたら、たまたま満席で同じテーブルに17歳のブロンドの女子と、そのおばさんでパリに住む品の良い女性と同席したことだった。

聞けば、この地方の伝統的なしきたりで女子が17歳になると、カトリックの「名前の日」に、はじめて公式にちゃんとしたレストランで食事をする習わしがあるそうな。今日はそのハレの日だという。

その時の会話は楽しかった。あたしは地元の雉子料理とワインでご満悦だった。
その人たちと別れて、旧市庁舎の前まで来たら、薔薇の花売りが立っているので、そこであたしには「天啓」が閃いたのである。

その深紅の薔薇の花を全部買って、正確に二つの花束に分けた。

走ってくだんのレストランに戻り、そのブリリアントな二人にお祝いしたのである。

その話は当時のエッセイに写真入りで書いたから「元はとっている」のである。革命前のポーランドの薔薇は西側のあたしには別の高価な買いものというわけでもなくて、ポケットマネーで買うことができた。

あれからまさに今年で30年が経過している。
当時、初レストラン体験だった、かのブロンドの女子は考えてみれば、17プラス30で47になっているわけである。

彼女は三十年前の自分の「名前の日」にパリのおばさんと食事していた特に同席の極東の目のつり上がった男から、深紅の薔薇の花束をもらったことをちゃんと記憶しているであろう。

2012年4月22日 (日)

若円手(わか、えんて、と読む)

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欧米の人間の幼年時の記憶でかならず懐かしいと感じるのは、お風呂に一緒にはいった、黄色いアヒルのおもちゃ、つまりダギイであろう。

もっとも世界は広いから、いい大人でもいまだに、ダギイとお風呂に入っている人間が居ないとは限らない。

1980年代にマンハッタンに住んでいた当時、セサミストリートを見ていた。アーニーがお風呂で黄色いダギイと遊ぶのを見た。

一方、こっちはホンモノのダギイだ。
独逸語では鴨はENTEである。それの若いのだから、若エンテである。これを漢字に変換すると「若円手」というわけだ。

若円手は、住まいの前の広場の小さな池に時々やってくる。なかなかの人気者で、みんなからパンくずなどもらっている。

あたしもその用意をして、ポケットにパンのかけらを入れて携帯しているのだが、若円手は毎日、来日するわけではない。週に2日か3日ほどである。

それでその用意の為に、パンの入った袋を常にポケットに入れているのであるが、この前、雨の誰もいない夕刻に池の前と歩いていたら、ちょうど若円手に遭遇した。

何時もは警戒して池のまん中に浮いているのであるが、その時は池の周囲を歩いていらした。人寂しいのであろう、とは人間の勝手な思い込みであって、えさを探しているのである。

若円手を至近距離で目があった。

「なんだ、今日はお土産はないのか?」と言っていた。たまたまポケットに、パンの欠片が入っていなかった。実にタイミングが悪い。

それで若円手に謝って、大ガラスの部屋に戻ってきた。

翌朝、ヒルズに行く時にパンを用意して行ったが、若円手は居らん。なかなか出会いというのは意識すると困難なものだ。

2012年4月21日 (土)

田端日曜日没雨猫町

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この前の前の週の雨降りの日に、偽ライカ愛好会の928会長のお宅にお邪魔した。それはお仏壇の下に安置されている、ライカのご先祖さまを礼拝する為だった。

その話は別に書くとして、その帰り道が非常に感動した。

JALパックでもHISでもそうだけど、ツアーってのは、ガイドさんについて歩行するだけだから、自己の空間認識が生育しない。

これがまだ行ったことのない、プラハの街のあたしの撮影している街区を、googleストリートマップで旅して、まさにあたしの行動範囲をそのままに代理体験するライカ人類などが最近では出没している。

こういう人は生来方向音痴ではない人だ。方向音痴ではない人は、逆に時差にやられるのである。

会長宅には会長が駒込駅まで迎えに来てくれたので、ただその後をついてゆくだけだった。だから地理空間感覚が欠如していた。

あたしだけ、先に失礼して雨の夕刻の田端界わいを歩行していたら、いきなり方向感覚が失われた、これはしめたと思った。

あたしは普段は土地勘があるので、絶対に道に迷わない。10年近く前、ミラノとかローマに行った時に、音楽留学でモデナにいた、姪を呼び寄せたことがある。それで姪を連れて食事に行くのだが、姪は天才的に方向音痴である。

「ちょーとくおじさん、なんで道がわかるの?と聞かれたけど、あたしの場合には、路地路地の犬のおしっこのようなもので、角角の商店のウインドウの商品の部分を細かく記憶しているので、道には迷わないのだ。

この方式で二週間の間、放浪した回路の旧市街も道には迷わなかった。

ところがこの道に迷わないというのは実は「つまらない退屈な事実」なのである。道に迷うと、世界はその不思議な断面を押し広げて、あたしの存在に迫ってくる。

それはどのようなドラマやエンタメよりもどきどきする。

この状況を「猫町」と呼んでいる。ところがこの猫町状態になったのは、あたしの長い経験でもあまりなくて、一度は1973年にイスタンブールで南北を取り違えて、あたりのグランバザールがいきなり猫町になった夕刻はよかった。

その次は20年ほど前に、午後のカルチエラタンを徘徊していたら、いきなり曇ってきて、猫町になった。太陽が照っていると、方向が判明するので猫町にはならないのである。

三回目はこの前の、極東の駒込田端界隈だ。

雨の夕方の商店街の裸電球というのは、まことに格好な「猫町素材」なのであった。

2012年4月20日 (金)

プラハのAFのライカ

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プラハのメトロなどの駅構内の電飾看板(言い方が古いが最近は何と呼ぶのかな)も最近はモダンになってきた。

これははなはだ迷惑なことであって、ビロード革命の前には、社会主義国の広告にそこはかとない、叙情を感じたものであったが、最近では「西側の広告」になってしまったので面白くない。

初めて、中国の広州に行った時だって、広州迎賓館(たしかそんな名前であった)で見たテレビ広告は、殺虫剤とか、トラクターのしかも動かない広告画像であって、そこに「もう一つの国」を感じたりしたのも、すでに昔も語りである。

世界は30年も時間が経過するとそのように変貌する。

このAFの広告は、プラハを出発地にした欧州各地への広告であるが、イラストの感じがいい。もともとAFや、OK(チエコ航空と読む)それにSUもKEも同じスカイチームであるから、コードシエアも作り安い。

ところで、この広告にはライカが登場している。

60年代のアメリカの雑誌に、手前にM3があって、背景に夜会服の男女がアウトフォーカスになっていて、そこに「夜会に招かれる唯一のカメラ」とあったのは今でも忘れない。

こういうバカンスへの夢をかきたてる広告は、フルサイズ一眼レフではあまりに「業務用」で在りすぎるのであって、せいぜいが、OM-Dとかペペンペンをその上限としてもらいたいわけだ。

このイラストライカを調査するに、どうもM8ではなく、M2かM4のようである。

あたしのような極東からのツーリストから思えば、プラハ人がツールーズとかマルセイユにどのような憧憬を感じるのか、、、それはプラハ人にならないと分からないけど、やはり素晴らしい憧れであることは間違いない。

この広告には夢がある。

★カメラはOM-D 12-50MM

2012年4月19日 (木)

弘明寺と書いて、ぐみょうじ、と読む

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弘明寺と書いて、ぐみょうじ、と読む、とは知らなかった。

この間、ヒルズに行くときに乗り換えを間違えて、品川に来てしまった。それなら、横浜まで行って、ついでにもう5年は行っていない、山下公園の氷川丸を見てこようと思った。

最初に中華街の裏手のその裏にある、小さな飯屋でランチ。いまどき北京でもランチは630円でこれだけは食べられない。

氷川丸に行ったら、月曜は休みであることを思いだした。それで京急で南下、昨年の8月に三崎口まで行った時、あれは黄金町あたりであったろうか、いきなり線路が狭くなってそこの周囲の建物が昭和の面影をもっている区域があったのを思いだして、電車から注意したが、その場所が発見できない。

そのまま電車でいくつかの駅を運ばれて、窓の左手に三角形のなかなか趣のある、お寺の緑の屋根が見えた。其の前の道は下方向に傾斜して行くので、大阪の鶴橋から生駒に行く手前の、石切の駅を思いだしてそこで降りた。

その駅前のお寺は、こうみょうじ、と呼ぶのかと思ったら、これは、ぐみょうじと呼ぶのである。そのことに気がついたのは、お寺の前の商店街を歩いている時に、商店街の飾りの旗が「ぐ」なのである。

これが変である。東都駒込霜降銀座商店街は、イメージキャラが「しーちゃん」といういう、一反木綿のお化けなのであるが、こっちのぐみょうじには、「ぐーちゃん」という、ゆるキャラはいないようだ。

なかなか繁盛の終点街であることは、シャッター街が一店舗もないことでもわかる。その商店街を南に尽きたところに、直角に交わるのが、なんと鎌倉街道なのである。

両親の墓のある、埼玉の奥地のお墓の前に、梅林があってその中に小道がある。道標によれば、それが鎌倉街道なのである。板橋は赤塚の森の中にも、鎌倉街道があった、それらがかつては連結してここに至って、さらに鎌倉に伸びていたわけだ。

ぐみょうじの周囲はかなり険しい山である。その山道に段違いの石段があったりして、その急さかをたどってゆくと、なにか長崎に来ている感じもした。

坂を上りきって、左手にあった、サンマルコカフェで、ベトナム珈琲を飲んで戻った、

不思議な体験だった。

京急はなかなかいいな。

2012年4月18日 (水)

OM-Dとペペンペンのデザインを考察する

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OM-Dは先週の帰国と同時に返却してしまったから手元にない。
それで手元にある、三台のペンのうち、最新のペン3,つまりペペンペンにパンケーキレンズを付けて撮影している・
面白いのは、ペペンペンを手にして、先週まで使っていたOM-Dのことを思いdすに、あれはミラーレス一眼レフではなく「本当にミラーボックスの中でミラーが往復する一眼レフ」であったのではという錯覚が生じていることである。

まあ、その疑似的なミラー内蔵一眼レフへの郷愁というのが、OM-Dの人気の核になっているということが分かった。

一方で、ペペンペンを手にして見ると、こっちの方がデザインとしてはシンプルだし。一般的な一眼レフデザインである、OM-Dと比較してペンシリーズの方がデザインとしては優れていると思える。

シャッター音に関して考えれば、これはOM-Dの方に軍配があがる。最初はミラーが入っているのだという先入観があるから、その心理的な要因が、シャッター音をより小さく感じさせているのではと思ったが、実際にシャッター音はペペンペンより静粛である。

あたしに言わせれば、やはりOM-Dでなかなか操作がなれないのは、そのメーンスイッチの位置だ。この間もOM-Dからペペンペンに持ち替えた直後に、間違ってビデオが自分の意志に反して録画状態になっていた。

レンズは何が似合うか?
ペペンペンにはやはり17mmのパンケーキレンズがコンパクトでバランスもいい。それでこの一週間はこの小型のレンズがずっと付いている。

一方のOM-Dは何と言っても、防滴仕様の12-50mmがバランスがいい。ただしプラハでの撮影中には、ズームレンズを付けたOM-Dは普通には首から下げずに、「裏返し」ぶら下げた。つまりレンズが胸の方向に向くわけだが、これは連日雨だったので、レンズの表面が濡れないようにする、知恵なのである。

アートフィルターに関しては、オリンパスはかなりの自信がありそうだけど、実際にプロ写真家としてこういう小型軽量なカメラを使う場合、アートフィルターなどは使わない。
実際の仕事ではなにか加工する画像が必要な場合には、RAWで撮影して、カリスマレタッチャーさんに全部渡してしまう。こっちは画像の素材を渡すだけだ。
プロの世界ではそこらは完全に分業化しているのだ。

よくあたしがRAWは父親の遺言で絶対に撮影しないなどと書くので誤解を生んでいるが、仕事ならそれはRAWで撮影する。
一方の日常の撮影では全部、JPEGである。

オリンパスの場合、今回のOM-Dの登場によって、逆にペペンペンの存在がくっきりと浮き上がって来たのは楽しみなことである。

ペペンペンとOM-Dのいずれが勝ちか?
などというデイベートがあったら楽しかろう。

2012年4月17日 (火)

中国の有名なアーチストですか?

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プラハのメトロで電車を待っていた。

日曜なのでご覧のように、ホームに人影はない。なにか戒厳令下のプラハという感じがするが、欧州の日曜というのはこれが普通の混雑なのである。

ホームの端の方から長身金髪碧眼のイケメン男子(これって馬から落ちて落馬みたいな言い方だけど)がつかつかとあたしの方に寄って来て、あたしを見つめた。流暢な英語で

「すみません、あなたは中国の有名なアーチストですか?」と聞かれたのである。あたしの答えは「いえ、あたしは日本の無名のツーリストです」であった。

相手は笑っている。

こういう種類の質問はよくされるので、あたしは慣れている。昨年の夏のベルリンでは若い男性が「あんた、中国の有名な空手マイスターだね」と聞かれたので、「よくそういう風に間違えられるんだけど、この手の顔は案外に向こうではおおいんだよ」と返答しておいた。

ところがそのプラハ青年の場合にはその先の言葉がつながっていた。

「いえ、あなたの姿を確かこの1月にテレビで見たのです。中国の有名なアーチストでしょ」というのだ。

ああ、そうか、と思った。
1月にプラハのルツエルバパレスでの酒井展の時にチエコテレビのインタビューがあった。そこに「短い尺」(これ放送関係の業界用語で大昔は映像はフィルムで撮影していた名残なのである)で、あたしは登場している。

そのニュースは午後7時のプライムタイムのものだから、この青年がそれを見ていて、しかも「日本の無名写真家」という紹介がそのまま取り違えられて「中国の著名芸術家」という風に勘違いが起こったのであろう。

欧米人にとって、極東の大国は中国である。日本などはその属国のようなものだ。一方でプラハの知識人に言わせれば、日本はアメリカの属国だと思っている。これは彼らの国がつい20年ちょっと前まで、ソ連邦の属国であったのだから、アメリカ帝国主義に占領された日本はアメリカの属国と思うのは当然の理であるかも知れない。

それゆえ、「中国の有名な芸術家」はそのまま「日本の売れない写真家」と読み替えることは、グローバルな視点で見れば、これは可能だと思う。

以上のような質問は欧州では好意で問われている。それがイスタンブールだとその意味は完全に異なる。

「ちょっと待って!あなたは日本の有名な映画俳優さん、、、」と声をグランバザールでかけられたら、それはいんちき絨毯屋である。相手ににしない方がよろしい。

★カメラはOM-D 12MMプライムレンズ

 

2012年4月16日 (月)

など、あって、、、十三日金曜日のBSジャパン「7PM」

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生放送である。

佃地方には電気は来ているけど、テレビはないので視聴することができない。

にもかかわらず、出演依頼がきたのは、十三日金曜日のBSジャパン「7PM」のクラシックライカ特集であった。

ゲストはあたしとライカ好き真打ちの林家彦いちさん。
彦いちさんとは、初対面なのに彼がいきなり「インダスター」などと言い出したので、最初の三分ですでに三十年の知己のようになった。そのお話は日を改めて書く。

あたしはごくたまにテレビからお座敷がかかるので、色々楽しみだ。スタジオはご覧のような感じでどこも似たり寄ったりだが、控え室は面白い。

以前、経済誌のトップの皆様の顔写真を表紙用に撮影した経験があって、会長室とか社長室には、日本の一般市民としては、かなりの数、見学している。

テレビ局の控え室と大手の社長室はなんとなく似ているような所がある。
それを言葉で表現するのはなかなか困難だけど、ちょっと象徴的に言うのなら、SIDAXの会長さんのお部屋にはご自身でつり上げた、巨大なかじきまぐろの剥製があったが、それがお部屋にいっぱいいっぱいで、通行人が通る時には、そのテールの部分が外せるのである。
ここらがかなりテレビのスタジオのセットめいている。

控え室で、針金のハンガーが3個というのはかなりのレベルである。
それと、机上の台本の脇に並んだ駄菓子もいい感じである。
それより感心したのは、名画の富士山の複製であろう。
こういう場所にこそ、相応しいが、ここはフジテレビかと勘違いした。

あたしは、絵画とか写真の額縁は完全に水平になっていないと、気が済まないたちである。
何時だったか、青山にまだレチナハウスがあった当時に、数点のあたしのオリジナルプリントを貸し出した。
お店に行ったら、そのフレームが曲がってかかっている。それには我慢ができないので店長に抗議して、ちゃんと水平に直させた。

収録の前の打ち合わせが面白かった。そういう世界になれていないので、何でも面白く感じるのである。

デイレクターさんが台本の進行を説明している中で、奇妙な日本語に気がついた。

「など、あって、、、」というのである。これはなかなか含蓄の深い言葉だ。この放送用語は日常生活にも使えるな。

思えば、人生のイベントなどは、これはすべてが「など、あって、、、、」なのではなかろうか。

2012年4月15日 (日)

靴に関する諸問題

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BATAというのは、チエコの有名な靴メーカーである。

ところが、社会主義時代にはその営業はチエコ国内では禁止されていて、一店舗も存在しなかった。

バーツラフ広場の北側に歴史的なビルがあって、それはBATAの店舗なのであるが、1970年代にプラハで開催された構成主義建築の展覧会のカタログにその建物を発見して、感銘を受けたことがあった。

ようするに、コルビュジエなどと一脈通じる、直線とガラスとを組み合わせた建築なのである。さらにそのカタログはほとんどざら紙と、粗悪な印刷であったこともあたしを刺激した。

これが「犯行の動機」となって、あたしのこの10年来の写真集は、わざとダブルトーンではなく、墨一色で印刷してあるのだがその理由の根源んは70年代の社会主義時代に見た、この構成主義建築の展覧会のカタログなのである。

そのBATAは今ではプラハをはじめ、パリとかベルリンとかウイーンにもお店があって戦前の反映を見せている。

このプラハ市内の広告は別の靴のメーカーであるが、プラハの市街の歩道はすべてが7センチほどの直方体の石で表面が舗装されている。これは凄いことだと思う。

その歩道の敷石に足を接触させるのは、これが犬とか猫とか豚(今回のプラハ行きで黒髪の美女が黒豚を散歩させている現場を目撃して、これがパリの有名な女流がダチョウにクルマを曳かせるのと同じくらいにイキだと思ったのだが)そういう敷石の上を歩行する動物連中以外は皆さん、一人の例外もなく、実は靴を履いているのである。

その真実に気が付いて、なにか重い感動に打たれた。

携帯とかスマートフォンを持っていない人は居るかも知れないが、靴を履いていないプラハ市民はいない。あ、この1月に市電の9番の内部で見た、なにかナザレの子という感じの青年なマイナス10度の寒さで裸足だったが、あれは神の子であろいうから、やはり靴を履いていない人類は居ないと断言できる。

★カメラはOM-D 上は12-50MMズーム 下は12MMプライムレンズで撮影

2012年4月14日 (土)

見知らぬ世界のどこかの大都会

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プラハから戻って、翌日からスケジュールがいっぱいで、その方が時差の解消には好都合なのであるが、この三日間忙しく過ごしていた。

帰国翌日に、沢木耕太郎さんにお目にかかり、翌日には重要案件が終日あって、その翌日、十三日金曜にはBSジャパンの番組でライカ関係の生放送をしたりした。

そういう風に管理時間が詰まっていると、欧州から1万キロ東に飛行して、北京の東、平壌の東のさらに東にある、東方が窮まった謎の大都会に来たのだという、これは異国情緒などという単純なものではなく、もっと高濃度のかなり鬱屈したある種の「旅情」なのであるが、その感じを噛みしめる時間がない。

用件と用件の間に、ヒルズで今回のSUでの旅のスケジュールの確認をしていたら、上のような画像にいきなり出会ったのである。

最初はバンコックかなと思い、次に中国の南部の大都会であろうかと考えたが、その水の色が青いのが、先の地理学的推測を否定した。

それならオーストラリアあたり(カンガルーの居る方)のどこかであろうかとまた考えたのだが、分からない。

この画像をさらに観察しているうちに、大河の中央にかかっている、独逸風の鉄橋に目がいった。不思議な感情が起こったのは、あたしはその鉄橋を良く知っているようなのである。

そればかりか、遠い過去にその鉄橋の上を渡った記憶があるように思えた。一方ですぐに脳裏に浮かんだのは、それが「デジャヴ」に違いないということだった。

つまり今見たばかりの、この画像がそのままの記憶段階にジャンプして、遠い過去の体験であるかのように錯覚されることである。

しかしこれは「デジャヴ」ではないのだと、考え直して大河の手間にある緑地の中に引き入れられている水路の周辺の公園を確かに以前に歩行した記憶があったな、と再度考えて、そう、、、、

そこまで考えて、この画像はあたしのなじみの極東の大都であることに思い当たったのである。

その古い親水公園の側には極東では最大といわれる、フィッシュマーケットがある。

さらにこの大河のレフトバンクのスカイスクレーパー林立する界隈にあたしは部屋を持っていて、この大都会に滞在している間は、その魚市場に早朝に出掛けて買い物をしてくる習慣があったことも、ずらずらと連鎖的に思いだした。

ここまで記憶が完全に体験に追いついて、ようやく、あたしの時差から脱出したようである。

それで十三日の金曜のカレンダーが一枚めくられて、夜が明けたら、あたしは自分ンの時差に終止符を打つ為に、その魚市場に早朝に出掛けて行こうと思う。

2012年4月13日 (金)

今朝のフライドエッグ

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朝。起きて、まずキッチンに行って、お湯を沸かして珈琲を淹れて、その火力でフランパンを熱して、玉子を2個いれて、ソーセージとルッコラをいれて、フライドエッグをつくって、それをアトリエの部屋に運んで、最初の珈琲の一口をすするまでが5分である。

それを食べ言えるまではやはり5分。
フライパンとカップをキッチンに運んで洗ってもとのように格納するのは1分ほどだ。

これをもう22年もやっているので、身体が勝手に動いてしまう。こういうのを生活というのであろう。

この所作の間は人生の余計な心配事などは一切考えない。

これがプラハに住んでいて、プラハのホテルには居ない時のあたしの永久自動運動であって、それを毎日繰り返していたら、計らずも、そこに22年が経過したまでのことなのだが、思ってみればそういう朝朝が自分に与えられたのは幸せなことだ。

いえ、別に宗教的な意味とか、松下なんとか塾みたいに、何かのプラスの意味をそこに付け加えるのではない。

ただただ、毎朝の繰り返しが、何か意味を持っているのか、居ないのかそこらが不明であるのがいい。

それで、毎朝、何の変化もない、同じメニューが実に旨いと思う。

★カメラはOM--D 12-50mm

2012年4月12日 (木)

ブラックマドンナの家

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プラハ中心部の「ブラックマドンナの家」は、ガイドブックには「代表的なキュビズム建築」とあるが、数は多くないプラハのキュビズム建築の中では、あたしはあまり好きではない。

どちらかと言えば、プラハの南の方にある、ホホール作の数棟のキュビズム建築の方が好きである。

その理由を今回のプラハ行きで、このブラックマドンナの家の前に立って考えてみた。それで分かったことは、この建物をあたしは「数個の靴の空箱が上から圧縮されてつぶれたところ」というような、かなり下手な形容で表現したのだけど、ようするに、あたしの考えている「キュビズムっぽい」要素がここにはほとんどないのである。

そのマイナスポイントはやはりその外見であって、この建物(1階はキュビズムミュージアムで2階はキュビズムカフェ)が、普通にあたしの脳裏に描く、キュビズムの建物のデザインとはかなりかけ離れていることが分かった。なにかビーダーマイヤー様式の変形と言っても通じるほどだ。

こう書くと、また誤解されそうだが、あたしのイメージする「キュビズム建築」というのは、そんな高級な建築思想ではなくて、単に「ボール髪で制作された建築模型」をそのままに、実物の建築にブローアップしたというのが、あたしの理想の立体派建築なのである。

その連想から、あたしの理想的なキュビズム建築は、その外見は「やや汚れた白色」であるのが望ましい。

近刊の「屋根裏プラハ」では、その立体派建築の中に棲んでいるのが、あたしなのであるが、それはどうも日本人では具合が悪いので、エッセイの中では、そこに棲むあたしは22歳のモルダウ川の向かいの鉄鋼所に通う労働者なのである。これは1968年の夏という設定にした。

この建物、ブラックマドンナの家は、その撮影アングルがなかなか難しくて、至近距離から撮影すると、建物の全体像が見えない。

適当な撮影距離が必要なのだが、やはり建物の外見はあまり好きではない。ただ一方で内部からのショットはなかなか「キュビズムっぽくて」好きだ。

★カメラはOM-D 12-50mm

2012年4月11日 (水)

数年前のちょうど今頃

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まっくぶっくAIRはすでに、満杯で起動するたびに、そのワーニンブが出る。

そのままにしてあるが、そこに入っている過去数年の画像などは多忙で見る暇もなし。

それがプラハの復活祭の日曜に過去を振り返ってみたら、いろいろと面白い画像があった。これは思うにiPhoneの画像であろう。

普通のデジカメなら、あたしはかならずライカの比率で撮影するからだ。

当時は、千住の柳町公園とそのとなりの中央公園に行って、そこでiPhoneでゲラのチエックをしたものだった。

もっともその「性癖」は今でも変わっていない。

スカイツリー(空筒、と読む)は、まだ第一展望台も出来ていなかった。そういうことがわかるので、過去の写真も面白いけど、なにせ皆さん時間がなくて、単に忘れ去られているのが現実だろう。

新製品のデジカメ競争も素晴らしいが、過去も振り返ってみたい。ようするにデジカメ時代は、時間意識の問題に集約されるのだ。

2012年4月10日 (火)

これ以上のメトロの駅はないぞ

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★本日成田着。(予定)

ラハのメトロの赤い線の北西の終点の駅はLETNANYという。

そこのインテリアが非常に未来的で面白い。

それで毎回、プラハに来た時にはここの駅を見に来るのである。ここの赤い線を象徴して、それが列柱の鏡に写り込んで、独特の別世界が出現する。

さらに痛快なのは、地上に出るとそこは市街地ではなく、そのままボヘミアの野なのである。そこに宇宙基地とでも言える、バスターミナルがあって、さらに到着客を、足穂の言うところの、「カンツリー」方面に運んでゆく仕掛けになっている。

この前、1月に来た時はそれが一面の銀世界であった。

★カメラはOM-D 12-50MM

2012年4月 9日 (月)

合わせ鏡

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★本日移動日。PRG SVO NRT

数年前、サンクトペテルブルクの大取材をした。
夏の離宮であったか、ピュートル大帝のあまり大きくはない、運河に面した宮殿を撮影していて、そこの控えの間に、合わせ鏡があるのが面白くて撮影した。

数百年前の宮殿は設計とか施工が充分でないから、壁の平行が出ていない。
それでそれぞれの壁に鏡を取り付けると、反射しあう画像の光軸が微妙にずれて、そこにはマニエリスム的な鏡の中の世界が現出する。

それが面白いのでかなり撮影した。もちろん、実際に使うのは、琥珀の間(一部屋撮影するだけで5000弗とられた)とか、有名な場所ばかりであって、そういう遊びカットは使わない。

プラハの公設市場はマンハッタンと同じように、元の食肉市場の跡を使っている。この建物の写真は「屋根裏プラハ」にも一枚掲載されている。
そこのトイレに入ったら、合わせ鏡なので、撮影してみた。

ところが、両方の壁の平行性が完璧なので、あたしの背後が見えない。
大昔を想起すれば、母親が鏡台に向かって、髪を直していた時だって、手にした合わせ鏡は平行には持っていなかった。
合わせ鏡の平行の設置がずれたので、良い効果を出していたのは、昭和30年代の三越本店のトイレであったが、もう撤去されているだろうな。

★カメラはOM-D  12-50MM

2012年4月 8日 (日)

骸骨を見る人々

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OM-Dですでに2000カットほど撮影した。

計画中の「OM-Dの本」には充分なカット数であると思う。

あたしのような長年の作例写真家でも、意外に気にするのは、お天気である。大昔、ウイーンに棲んでいた当時、「エージエントカメラマン」という職種のカメラ人類がよく日本からやってきた。
大抵はペンタックス6x7を持っていて、観光地や名所旧跡を撮影して、その代金が「べろり五万円」なのである。
当時はウイーンで清貧生活をしていたので、実に豪儀なことだと感心したが、映像がデジタルになって久しいけど、あの商売はいまでもあるのだろうか。

あたしの場合も、カメラの新製品型録とか、レンズの広告などで欧州をかなり撮影したけど、やはり大事なのは「お天気が良い」ことだ。
そういうコマーシャル方面だけが、お天気のことを気にするのかと思っていたら、世界的な写真家のリー フリードランダーさんにウイーンで会った時、やはりお天気を気になさっていたので、ちょっと不思議な感じがした。

あたしなど、期日の限られた海外の撮影で、天気が悪いと、昼間の撮影は切り上げて、もっぱらバーで酒飲んで、夜になってから「夜景」でごまかす。
これは上級者の手口である。照明された大都会は天候に関係ないし、雨でも降っていれば、それなりのプラスの情緒が出るというものだ。

昼間の撮影で、曇天でさえない場合にはこのような、人物が集合してひとつのモノに視線が集中している写真を撮影すれば、大体の編集者さんは喜んでくれる。

このショットは旧市庁舎の天文時計の12時の鐘の鳴るのを見る人々である。
例のLEDの動くのを利用して、ハイアングルから撮影したら、思う通りの画面が撮影できた。
大昔なら、ローライフレックスの二眼レフを逆さまにしてのカメラ操作なわけである。

天文時計はたわいないものだが、脇で骸骨が鐘を鳴らすという、安易なテーマパーク並のアトラクションに世界中から人々は衆参する。
なにか23年前に、バーツラフ広場に参集した、ビロード革命の面々の視線よりも、この骸骨を見つめる人々の方が真剣である。

骸骨は唯一、確かな我らの未来であると思えば、やはり骸骨に人気のあるのは納得が行く。

★カメラはOM-D 12−50mm

2012年4月 7日 (土)

プラハのPの近影

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プラハのPとは、22年前、ビロード革命の前後にはよく会ってワイン飲んで馬鹿話をたり、一緒にベニスに旅行したりもした。

最近では会うのはあたしの2週間の滞在中にせいぜい2回ほど会う。

お互いに多忙なのでこれは仕方ない。

そのプラハのPと例の文学カフェで食事した。ついでに記念写真を撮影した。この画像は愛フォンでの撮影だ。

Pはなかなかの写真写りがいいが、1940生まれなので70歳はとっくに超えている。写真写りの良い理由のもうひとつは、この斜光からのまるで、フェルメールばりの光線にもある。

ただし種明かしをしてしまえば、この場所はトイレに向かう途中の狭いスペースであって、今まではテーブルが置いてなかったのが、最近になって、文学カフェのキャパを拡げる為にここにテーブルを置いたまでで、この店では最低の席なのだ。

この画像を家人に送ったら、返事が来て、「Pもおじいさんになったわね」がそのい答えだった。その筈であって、家人がPに会ったのは、JALのおすたか山事件のあった、1985の夏だから、もう四半世紀前のことだ。

一方で知り合いの編集者にこの画像を送ったら、「Pさんは、ヘアスタイルが変わりましたね」がその答えだった。

このカメラ人類さんはあたしの日本カメラの連載記事のPの顔写真を見ているのである。

その返事をその現場でPに伝えたら彼は感激して、「このヘアスタイルはマンハッタンでトップの知り合いのカッターが最近、里帰りしてやってくれたんだ」と、自慢顔であった。

★カメラは iPhoneG3

一部ブラウザで画像転倒してますが、御容赦。

2012年4月 6日 (金)

プラハの新らしいギャラリー

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プラハの旧市街のど真ん中に新しいギャラリーがオープンしたので、昨日、見学に行った。
案内人はプラハのPである。

古文書館の向かいという絶好のロケーションだが、見方を変えると、ここはツーリストが通る、竹下通りのような場所で「文化と知性」に欠けるから、実はこいういうど真ん中にこういう真面目なギャラリーはちょっと勿体ない。

パッケージツアーのお客さんはこないであろうし、この最初の画像が示すように、方向がわからなくなった、極東のツーリストさんが、地図を拡げていたりする。

しかし今回は1920年代に活躍したチエコの巨匠のまとまった仕事が展示されていて、レベルが高い。
中には洒落たカフェのあるのが、残念であるが、そういう「今風の風俗」とミックスしないと、現代のアートビジネスは商売にならないのも事実だ。

実はちょうど20年前に古文書館の真向かいにやはりフォトギャラリーが出来て、その時の筆頭スポンサーはオリンパスであった。あたしも僅かなお金を投じたので、ギャラリーの銘板の最後の方に小さく名前が出た。

しかし3年も経たないうちに、そのギャラリーは消滅した。今では観光みやげ店になっている。
そのギャラリーの看板娘と「恋愛ごっこ」をした話は「屋根裏プラハ」(新潮社)の中の「路面電車とチョコレート」という1章に書いた。

★カメラはOM-D レンズは12-50mm

★ゲートギャラリーのHPはhttp://www.galeriegate.cz/

2012年4月 5日 (木)

プラハ ヒッピーフェステイバル バス

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プラハのモルダウ川のカレル橋からちょっと下流の右岸の古いビルは共産時代には確か廃屋になっていた。

そこにフォーシーズンスホテルがオープンしたのは数年前だ。あたらしもの好きなのでエントランスの右のなんとか言う、ガラス張りのカフェバーには入ったことがあるが、こいいう場所は偽スノッブからお金を騙しとるばかりの場所だから、それが見え透いて面白くない。

その五つ星ホテルから通りを北上したところが、ルドルフィムヌであって、その斜め向かいの、メトロの駅のある古ビルが好きだ。

その古ビルには時代遅れのポスターとか落書きがいっぱいあって、ちょうど30数年前のマンハッタンはSOHOのキースヘリングの落書きを思い出すからだ。

昨年の暮れ以来、この「ギャラリー」に登場した「作品」で気に入っているのはこの「ヒッピーバス」である。最後にCZとあるところがなにやらローカルめいているのも妙である。

その色彩はフラワーチルドレン時代のものだが、これを描いたのは、同世代人はすでに70代であるから、若い連中が当時の資料をもとに描いたのであろう。

かのアレンですら「家族や子持ちはヒッピーにはなれない」と明言しているから、ドロップアウトはなかなか狭き門である。

そう言えば、ロバートも、ショナスも子持ちだった。フルクサスのジョージはどうだったのかな?

それでもこういう思いつきの絵も、日本のようにファッション化していない所が取り柄である。

かのアンデイだって、実はチエコスロバキアの移民の二世だからそこら辺は信用できる。

★カメラはOM-D 12-50MM

2012年4月 4日 (水)

アトリエのOM-Dとエキザクタ

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オリンパスは大学一年のワイド以来のお付き合いだから、四十年プラスだ。
それであたしのオリンパスとの歴史と最新のOM-Dと、愛用のペペンペンの本を作るので目下、プラハに居るわけである。

それでOM-Dでかなりのショットを撮影している。一応職業写真家をはっているので、そのショット数は一般の方に比較するとかなり多いであろう。

デジタルカメラマガジンの黎明期、良心堂の阿部さんが編集長の当時、毎号、当時のデジカメのレポートを書いていた。不思議なことに、何ショット撮影したのかもレポートに書き入れていた。
当時はバッテリーがすぐになくなるので、メキシコのテイオテイワカン遺跡を高千穂のすでに名前を忘れたデジカメで撮影していたら、お土産売りの少年がずっと後をつけてきた。

これはストーカー行為ではない。当時のオリンパスのカメラは単三を使っていた。それがすぐに消耗してしまうので、背後に単三を持っているベンダーが付いていたのである。

日本カメラの連載の次号で、「OM~Dの偽ペンタプリズム美学」について入稿した。こういうあまりに「哲学的」テキストはカメラ雑誌では没になるものである。それをおOKしてくれた前田編集長に感謝している。なにしろ、東松さん、中平さん、石元さん、市ノ瀬などが出てくるのだ。

OM-Dのペンタプリズム論を書くので、参考用にダインタウンのフォトシュコダでエキザクタを一台買ってきた。
パンカラー50MMF2が付いて、五千円は安いと想ったら、案の定、シャッターのスリットが巻き上げの時にもわずかに、開いたままになっている。

だけど、ライカ0モデルと同じと想えば善いのであって、巻き上げ時にレンズキャップをすれば何でもない。

ペンタプリズム論は20日発売の、日本カメラに掲載します。

アサヒカメラの連載は、40余年愛用している、ハッセルブラッド500Cをフレームファインダーで使うお話を書きました。

よろしく御願いします。

2012年4月 3日 (火)

愛フォンはデジカメの仮想敵か?

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ホテルで退屈するとバスルームの鏡に向かって撮影してみる。

撮影した画像は別にどこに送るわけでもないが、セルフポートレートというのは、昔から写真家の定番であって、木村伊兵衛さんも、訪問先のドイツのウエッツラーで、手にしたばかりのライカフレックス1型を構えて、小さな、ホテルの鏡をおのぼつかない視線で覗き込んでいる。

そういう視線には写真家のというより、生な人間の感情が溢れているのが善い。

自己を撮影して、名をなしたのは、リーフリードランダーさんだ。これは彼のキャリアのごく初期に自費出版でだした「セルフポートレート」というソフトカバーの薄い写真集である。

それの予告を、当時のスイスのカメラマガジンに見て、為替を組んで、ヘイワイヤープレスという出版社に送金した。

折り返し、返事が来て、出版はちょっと遅れるとい断りであったが、後で知ったのはこれは、フリードランダーさんのニューヨークはニューシテイのご自宅なのである。だから手紙を書いたのは、奥さんかご本人ということであろうが、その手紙は紛失したのは残念だ。

ところで、あたしの三年落ちの愛フォンでもこれくらいの撮影はできるのだから、周囲で、スマートフィンしか持っていない連中も居る。

そうなると、デジカメの仮想敵は正しくスマートフィンになるわけだが、その結論はここで急ぐ必要はない。

でもあたしも、OM-Dと愛フォンとは同時に持って、それぞれに使いわけているわけである。

 

画像はプラハのホテルアスカニアで

2012年4月 2日 (月)

白湯を飲む

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何十年、仕事柄、世界中のホテルに宿泊して、パリの五つ星から、亜細亜の無印までの経験で、一番ホテルで頼みにくいのは「白湯」を請求することだ。

安価なツーリストホテルとか、日本のビジネスホテルにはポットがついているが、海外ではお茶を飲む、習慣のある、中国圏をのぞき、部屋にはお湯がない。

それで、お湯をルームサービスに頼むことになる。
五つ星のホテルでお湯を頼んだ時の、その対応に関してはエッセイとしては、面白い話が沢山あるが、ここに書くわけには行かない。

ただ、一般論として、高級ホテルでお湯をたのむと、そのサービスはシャンペンを持ってこさせるのと同様の手順になるから、ちょっと白湯を一杯飲みたいという場合にこれはホテルずれしたあたしでも、ちょっと気後れがして、白湯ではなく、飲みたくもない、シャンペンを頼んでしまう。

ゆえに、本当の富豪なら、何のストレスもなしに、五つ星で白湯を頼めるであろう。あたしは富豪にはなりたくないが、ホテルで白湯を気兼ねなく頼めるのなら、その瞬間だけ、富豪になりたいと思う。

 

これはコストとしては、最悪だ。

一方、この電熱棒は、かなり前に誰かさんが、たしかカブールのバザールで買ったのを分けてもらったものだ。
220Vだから、コップ一杯の水は20秒ほどでお湯になる。

ただし、これは白湯を飲むことにだけ使っていて、普通の日本人ツーリストさんのように、カップラーメンを持参する趣味はあたしにはない。

父親が五十を過ぎて、音羽の家で白湯をしみじみ飲んでいる姿を見て、息子のあたしはなんてじじい臭いんだろうとおもったものだ。

そのショットは写真集「東京ニコン日記」のどこかに収録されているが、あたしが当時のおやじの年齢をこえて、白湯の味がわかるようになったのは、嬉しい。

★カメラはリコーCX-6

2012年4月 1日 (日)

お客様へ 輪転機故障の為、本日臨時休業します

いつも、ご覧頂き、ありがとうございます。

期せずして、1000万頁ビューと
OM-Dの発売日がクロスしました。

本日は、輪転機故障の為、臨時休業いたします。
輪転機の修理は業者に依頼中です。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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