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2012年3月31日 (土)

プラハの春の白い花

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プラハ大周遊。

昨年の10月に、プラハの東の労働者街から、唯々南に歩行して、鉄道の線路をさらに南下した地域は、なにか東京で言えば、四つ木のような場所で気に入った。
歩行中に手頃なホテルを発見したので、そこに五泊してる。
今度の日曜には、アトリエに戻る。
プラハに22年も居ると、アトリエのある、ニコリテスリーが基準点になってしまいのが面白くない。

それで一昨年に「発見」した、ジジコフ地区のホテルに住んだり、そこからの散歩で発見した、ずっと南のプラハ4区のヌスレ地区にホテルをとったりしている。
これが面白い。

さて、復活祭の前の欧州は実はまだ、冬である。
それでもイースターの直前にそここにの茂みに、なにか名前は分からないけど、灌木に白い花の咲くのは知っていた。

季節はJARO(HARU)である。

ヨセフ・スデクの作品でもこの白い花は出てくる。
今朝、ホテルから東に歩行して、鉄路を北に超えて、緩やかな丘をどんどん北に向かった。

これは昨年の秋のプラハ大周遊のちょうど逆コースなのである。
明るい曇り空の下、まだ若葉は芽生えていない、グレー一色の風景の中に、その白い灌木があちこちに見える。
それに接近して、寒そうな白い花を撮影した。

さらに接近して、ズームでアップして、かなり驚いた。
それは薔薇科の灌木で、日本ではsakuraという種類の樹であった。
この22年のプラハで初めてその不明な樹木の属性を知ったことになる。

じかし、植物の種類とか、人間の背景とか、およそ、その個に属する、属性というのはかえって知らない方が詩情がありそうだ。

★カメラはリコーCX-6

2012年3月30日 (金)

OMーD プラハでの最初のショット

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外国のホテルに投宿して、最初にあたしが調査するのは、窓からの眺めである。

昨年の3月は滞在の前半分はマンハッタンの33丁目のレキシントンとマジソンの間のブラウンストーンビルの最上階に投宿した。

マンハッタンは不思議な街だ。みんな、珈琲の紙コップを持って走っている。あたしもホテルの向かいのグロッサリーに一日、何度も珈琲を買いに行った。

最初にミッドタウンの古びた、周囲の建物の屋上の給水桶の並び方に興味がいった。それは1年前にはペンライト2で撮影した。

一方でプラハだと、まず中庭に何があるかに興味がある。ここプラハ4区は、工場街(それも19世紀末の人文科学的な好ましさの)なので、中庭には小さな作業場があったりする。

火曜の夜、まず、窓からは三日月と金星と、木星の直列が見えた。

それをOM-Dにスタンダードズームの12-50で撮影した。肉眼よりもはっきり鮮やかに写っているので、肝をつぶした。

そういう眼よりも良く見る、最近のデジカメは、ようするに逆に「非現実感」が増すのである。これはいちがいに、善し悪しの判断はつけられない。

今のデジタル画像が一体、何に似ているのかと言えば、これは絵画のハイパーリアリズム感覚に近い。

部屋は最近、出来たホテルなので綺麗だ。

あたしは中銀カプセルタワー、黒川さんの名物建築を仕事場にして、これを、銀座八丁庵と命名して遊んでいたことがあった。

その銀座八丁庵は広さがジャスト10平米なのである。このホテルアスカニアはそれよりはやや広い。

アスカニアと言えば、戦前のベルリンの有名な光学メーカーである。あたしはミラーレンズの1000mmf6,3を持っている。これはレフレックスニッコール1000mm f63がデッドコピーしている。

アスカニアは他には映画撮影機で有名だ。レニはドイツ女だから、自国のアスカニア製の撮影機より、お隣のフランスのパルボがお気に入りだった。

ベルリンオリンピックは、フランスのカメラで撮影された。

ホテルの中庭の左の視野を12-50でテレズーム方向にシフトすると、なかなか面白い。教会の尖塔が見えるのは良いとして、その先にあるのが、プラハでは悪評たかかった、某タワーホテルである。

十数年前、カメラジャーナルのツアーでここに宿泊した。あの時には浅田恵理子と母上の中子さまの20名ほどのメンバーの一員だったな。

そのタワーをたまたま、投宿したこのホテルから見るのも感慨深い。

まずOM-Dを旅カメラとして使うのなら、常用ズームが一本で良い。

OM−Dは使わない時には、ドアの脇のハンガーに掛けてある。これだと小さいOM-Dを見失う心配はない。

★OM-Dの解禁まで、あと二日!

2012年3月29日 (木)

OM-Dの実際の大きさ

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3年前に「田中長徳ペンの本」の1が出て、2年前には同じタイトルの2が出た。
今回、OM-Dを持って、かつてペンの本を撮影した、プラハを再度、撮影している。

もともと、トラベルライトが信条にマイクロ4/3であるから、今回も機材は必要最低限で、常用ズームとあとはズイコー9-18と、12mmだけ。長いレンズの必要を予測して、エルマー90mmの沈同だけ。
しかもメモリはSDの2GBを1枚だけ持参した。
これで一冊本を作る。

もっとも、今度企画している、「田中長徳OM-Dの本」は、最新型だけでなく、あたしが日大一年生の時代から愛用のワイド、仕事にずっと使ったOM-1からOM4、さらに「銘機礼讃1」で登場のXA1、などなどあたしのオリンパス史を時間軸にとって、そこにOM-Dを横糸に編み込もうという計画である。

いつも、数千台のカメラに囲まれているので、投宿したホテルのコート掛けにぶらさげたのは実にシンプルである。これは良い感じだ。

真ん中がOM-Dで右はライカ型の小物ケースだからカメラではない。

実はオリンパスの役員の小川さんが三年前にカメラ事業部から医療機器方面に栄転される時、武蔵小山の商店街で、これと良くにた小物入れを手にいれて餞別に差し上げた。小川さんは下町のご出身なのであたしの冗談を快く受けてくださった。

その翌年に小川さんはまたカメラビジネスに帰ってこられたのは、あたしに言わせてもらえば、差し上げたカメラケースの引力もあったのかも知れない。

左はすでに20年来着古したシテイカモのジャケットだ。
うちのマンションに年二回、電気の定期点検にくる係の人が、ホールにかかっていた、このジャケットを見て「ああ、牛の服の人の家はここか、、、」と言っていた。
それでこれを「牛の服」と呼ぶ。大昔、牛模様のWINのマシーンもあったっけ。

さて、主題はその真ん中に鎮座する。OM-Dである。型録などを見て想像している人が初めて実機を手にすると、みなさん、その小ささに驚く。
でもOMシリーズの伝統で、小さいけどアクセスしやすい、その操作感覚はちゃんと確保されている。

たびたび書いているが、不可解なのは、その電源スイッチの小ささと場素であある。もう指のほうが慣れてしまったから良いようなものだが、これに関しては帰国してからオリンパスの関係者さんにお話を聞いてみたい。

2012年3月28日 (水)

NRTのOM-D

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二ヶ月ぶりの成田のラウンジ。
外は寒いのに、室内は暑いので、汗だく。
さっそくラウンジのシャワー。
昔は欧州では、シャワーはFの特権であったが、最近はCでも使うことができる。
もっとも、欧州は狭い。最大三時間しか飛行しないから、日帰りのビジネスマンが多い。
シャワーを必要とするのは、あたしのような世界の果てから来る連中だ。

シャワー浴びて、二杯目の麦酒をサーバーからついでいたら、亜米利加のヒスパニック系の美女が、Are you Japaneseと聞いてきた。
見れば分かるだろうと言うまでもない。
この1月にKEのCAが「日本人ですか?」と聞いてきたのと同じで、これはまず相手の属性を聞くのが礼儀であるからだ。

もっともあたしは実利主義だから、相手の属性を聞くのは嫌いだ。相手の属性に固執するのは、履歴書の裏をひっくり返して見る、人事の採用の部長の仕事だ。
しかしあたしは人事科の人間ではない。

くだんの美女は「ほら、ここに二本、日本のお酒があるけど、どっちがソフトか教えてくださらない」であった。
見れば、焼酎の一刻者と、大吟醸が並んでいるが、英子国民にはそれが読めない。
「それは、このsakeに限るよ。ちょっとデギスタシオンしてみたら」と小さいグラスに1cmほどついであげた。
ただし、テステイングと言わず、デギスタシオンと言ったのはこれは諧謔であるが、相手には通じなかった。

席に戻って、MacBookの脇に、借り出したばかりのOM-Dを置いてみる。
昨日の東京大周遊では、同行二人のライカインコが、「これ、撮影しようとしたら、もうバッテリーが空じゃん」というので、見たら、朝にフルチャージした電池がすでにない。
普通はメーンスイッチをオンにしたままでもオートカットされる筈だが、どこかおかしい。初期不良であろうか。

Omd1 今回の「OM-Dとの感傷旅行」では、各種レンズを持参する。今朝、深夜にOM-Dで見えないほど暗い、中央大橋をそれも1/4秒ほどで撮影したら、そのぶれ防止機構がかなり使えるので、吃驚した。しかもこれは135mmテレエルマーの撮影だ。
これは三脚メーカー殺しだな。

これよりSUに搭乗。

以下はOM-Dに12-50mmズーム。

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2012年3月27日 (火)

本日移動日。NRT SVO PRG

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本日移動日。NRT SVO PRG

一月の終わりに東京に来て、「屋根裏プラハ」が出版されて、各種のイベントやら、同名の写真展などがあって、今、本の方がおかげさまで3刷なのである。

ほぼ2月の「東京滞在」が終わって、今日からプラハに帰る、と書くとこれは自分の立ち位置を逆に考えていることになるが、やはり東京がベースというより、プラハがベースと考えた方があたしの「属性」としてはわくわくする。

思えばそれは22年間、プラハ滞在中に毎朝、毎朝、自分で詔勅をつくってきたことにありそうだ。

東京に「滞在」していると、佃途方では家人がこのような、ブレックファーストをつくってくれる。それはありがたいわけだが、プラハの場合にはアトリエはあたしだけだから朝食は自分でつくる。

そのプロセスは「屋根裏プラハ」の第一章に書いてあるが、もう22年目になると、朝起きて体がオートマチックに動いて、何も考ずとも、ちゃんと準備が出来ている。

そういう毎朝の所作の連続が積み重なってのプラハの体験と記憶の累積が、どうもあたしに、自分の生活の基盤は東京よりプラハにあると考えさせる「錯覚」の基盤を形成させる理由のようだ。

そこらの錯覚をモスクワ経由のプラハ行きの飛行の間に、よく分析してみよう。

2012年3月26日 (月)

スカイツリーの明け暮れ

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昨年の1月半ばの寒い雨の日に、理研の紳士連とあれはアサヒカメラの連載取材で、スカイスリーの根本に行った。

雨で誰もいない。記念写真を撮影して戻ろうとしたらメトロの入り口にFM葛飾の記者さんがいて、やはり誰もいないのが不満なようであった。

それでお互いを取材するようなことをして別れた。

その後、スカイツリーが世界最高の高さになったというので、マスコミが騒いだ。メデイアはそういう、何かのイベントがないと、材材にしないのは当然であるが、その頃から、テレビなどで「無理やりのでっちあげ」のローカルねたをが多くなったとは、隣室に住む家人の報告である。家人の部屋にはちゃんとtvがあるので一応、世の中の動きは分かる。

一方であたしのデスクのある、大ガラスの部屋にはテレビはない。ただ部屋からスカイツリー、つまりそのような(おもにXXな)番組の電波を出す、その大本が見えるという構造になっている。

テレビを見ないあたしにすれば、スカイツリーをあたしは空筒とか、ライカインコメモリアルタワーと呼んでいるのであるが、そのくらいの表現の自由は行使できるであろう。だからあたしはこれは単位風景として観賞している。

しかもその空筒が生え始めた当時、これが視界にとまるようになったのは3年前の夏であったのだが、だんだんと伸びていくそのシルエットはちょうど、小学生の朝顔の観察日記のような感じで時々、このブログにも書き留めた。

スカイツリーが日常風景そのものという認識は、住まいの角部屋から毎日、筑波山が見見えるのと同じで感覚で、空筒はむしろ退屈な存在なのでああ。

あたしは大ガラスの部屋に客を呼ぶことはなくて、(ごく稀にテレビの取材でカメラが来ることはあるが)誰に会うにもヒルズであっている。ただしヒルズのある六本木はもともとあそこは、江戸時代の御手引き線の境界であったから、スカイスリーは遠距離すぎて、まったく迫力にかける。

一方で、一昨年の五月に偽ライカ愛好会のメンバー(当時は東急BEの文化講座であったので、ライカ愛好会と称した)と錦糸町から淺草まで補講した時、かの空筒はどんどんスカイラインを圧して、かなりの視覚のストレスになった。

写真家などは、気が小さいのでこれだけ視野を圧迫されると、そこから離脱したくなるものだ。

結局、我が家が一番という小市民的な価値観で、朝な夕なに大ガラスの部屋から見える空筒が一番だ。

しかし、毎日これを見ていると飽きがくる。時々、豪雨とか、濃霧で空筒が見えない日はちょうど時間が5年以上前に戻ったような区分で逆に落ち着く。

★カメラはXZ-1

2012年3月25日 (日)

我楽多屋さんでOM-Dのお披露目

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恒例の月一の四谷アローカメラ、我楽多屋さんの「シドニー寄席」が昨日の午後2時から。
新装開店で2階に移動しての、最初の集会だ。

例のごとく始まったが、今回はCP+で数時間待ちになった、OM-Dのサンプル機を持参してご披露。熱気溢れて大好評。
皆さん、興味津々。

ただし最初に会場から疑問点が出たのはそのメーンスイッチの位置だ。
あたしはペンペン人類なので、スイッチがどこにあるのか、探して苦労して、間違ってビデオの赤いボタンを押してしまったりした。

右手でカメラを握っている時に、スイッチが操作しにくいのである。

あたしの指摘したい問題は、レザレッテの滑ることだ。これは百円ショップで、ベルクロを買ってきて張れば問題解決だ。あたしのXZ-1がそうだ。

会場で、顔認識の白い枠がファインダー内で移動するのが、見にくいのでどうしたら消せるかが分からない。
たまたま会場の前の方に居た、ペペンペンを首から提げている紳士が、オリンパスのことは詳しいので、教えていただいた。
これでは立場が逆である。

そういえば、この前の金曜にOM-Dを受け取る時、オリンパスの紳士が、連射モードの秒9コマのシャッター音がかっこいですよ、とその場でデモをしようとしたが、結局、設定が分からなかった。
新製品はその方が謎が深まっていい。

この画像は、我楽多屋さんにいらした、ペペンペンの紳士が撮ってくれたものだ。
こうして見ると「他人が持っているOM-D」はなかなかかっこいい。

1971年のM1(OM1ではないぞ!)は、シドニーの常連さんの提供。とOM-Dを並べてみる。こうして比較すると、70年代デザインの良さが現代にリファインされてOM-Dに生きていると思う。

2012年3月24日 (土)

★速報★ 手の中のOM-D 第一印象

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金曜の晩にオリンパスの紳士が、OM-Dの試作機をヒルズの仕事場に届けてくれた。
それを雨の中、大事に佃地方に持ち帰り、今朝、パッケージを開けた。

いつでも、新しいカメラのパッケージを開ける時は、わくわくする。

登場したのは、OM-Dブラックモデルである。
昨年の仕事納めの時、オリンパスの紳士連がヒルズに見えた時に、見せていただいたのはクローム仕上げのカメラだった。

これがクロームかブラックかは、まず購入時に選択に迷うところだ。

テスト機には新鋭のスイコー12-50mmが付いている。
しっかりした造りのレンズだ。
驚いたのはパワーズームであることだ。なめらかにズーミングが可能なので、ズームレンズで厳密な構図を決めるには、この方が高級感があっていい。

あたしは取説を読まな主義なので、そのまま使いだした。
面食らったのは、ペンペンで慣れているメーンスイッチの位置が不明でしばらく探し回ったことだ。

シャッターをきったら、すごく静寂なのに感心した。それもその筈で、これはミラーレス一眼なのである。
ところが、見慣れたOMシリーズと同じと思っていたので、ミラーが運動してこのァ静けさは凄いとおもったのは、これは嬉しい錯覚だ。

手にした印象は、ペンデジタルと同じ「ずっしり軽い」これがいい。あまり軽すぎると軽い写真しか撮れない。

やはりグリップ感覚はちょっと問題で、右手で握り込む、レザレットが高級すぎて、しぼが細かいので、ちょっとすべる。
もっとも、OMのフィルムカメラ時代には、各種のレザレットが発売になったから、案外、摩擦係数の高いのと張り替えができるようになるかも知れない。

背面のLEDがテイルトするのは、かなり多様な撮影に向きそうだ。これから勉強する価値がありそうだ。

あたしはマイクロ4/3の支持者である。
だから、一昨年にペンで撮影したオリンパスギャラリーでのリスボンの写真展なども全部JPGで撮影してB全に出力した。
これで問題はなかった。
その画質にはオリンパスの当事者さんが驚いて、写真展の会場のトップに「これらの作品は全部JPGで撮影されました」というカードをつけたほどだった。
だから画質は保証できる。

実は来週の火曜から滞在のプラハでこのカメラで撮影する。
オリンパスはすでに50年近く愛用しているが、大学生の当時のオリンパスワイド、70年代のOM1、80年代のオリンパスXA、そして現代のペンデジタルと、最新のOM-Dまで、オリンパスのカメラの歴史とあたしの写真家の航跡とが重なるような本を計画している。
近く、えい出版から「ライカという人生」という写真集を出す。これはあたしのライカの歴史を振り返る、ハードカバーの上製本だ。
その続編として「オリンパスという人生」を出す予定。

プラハの2週間でOM-Dで町を撮影しつつ、同時にあたしの最新のエッセイ集「屋根裏プラハ」の続編のことも考えようと思う。

OM-Dはそういう思索を助けて知の冒険をサポートしてくれる。

★お知らせ

いつも「ペンペンチョートクカメラ日記」をご愛読ありがとうございます。

ミレニアムの1000万ページビューが予想よりかなり早く接近してきました。一千万のキリ番を踏まれた方は、上のchotoku.tanaka@gmail.comまで、キャプチャー画面をお送りください。

スポンサーのオリンパスさんから「豪華記念品」が、あたしからは今回のプラハでOM-Dで撮影した、作品をサイン、額装して差し上げます。

いきなりカイロ、突然回路

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あたしのPowerBookairには画像が沢山入っている。

本当はクラウドで置いておきたいのだが、ちゃんと1テラの容量を確保してあるのだけど、時間がなくてなかなかアップすることができない。

しかもあたしのPowerBookの容量はすでに使い始めて3年で、もう空きは750mくらいしかない。

しかし画像を捨てるのは貧乏症なので、出来ない。それで、世界中にこのパワー^ブックを持ちあるいているのであるが、中に数万の画像が入っているにもかかわらず、その重さはデジタルの場合にはない、ということ。

質量のない画像というのは今更に不思議である。

1980年代のウイーン時代に、日本に戻るのでそれまでプリントした、ゼラチンシルバープリントを全部捨てた。

捨てたら、どこかの裏日本のスーパーマーケットの経営者のぼんぼんが、それを全部拾っていった。あたしには先見の明がない。そのぼんぼんには先見の明があったわけである。

しかし、石元泰博先生にしても、1960年代にシカゴから戻られる時に、プリントは全部捨てた、と当時のアサヒカメラのご自身の記事に書いてあった。

それでもネガだけはどうにか船に乗せた、とあった。あたしはその一文を記憶していて、それを真似しただけに過ぎない。

印画紙もネガも物質としての重さがある。だからそれが気になって、自分の過去を清算するというほどの大げさなことではないが、気持ちのジャンプの為に、プリントを捨てるのは、これは快感である。

一方で、デジタル画像には重さがないから、そのまま持ち歩いている。それがどういう意味があるのか、それは今の時代にはまだ見えない。

数年前の秋に訪問した、埃及のカイロの画像が、マックの中にひっかかっていた。それを見るにそれはそれなりに面白い。

間違って、クリックしたら、いきなり「回路」が起動したのである。そういう勝手に起動した画像とどのようにつきあうのか、それがあたしの人生の目下の大問題だ。

2012年3月23日 (金)

ゴアテックスのパーカーと給与明細

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久しぶりに野々宮が、ヒルズ地方にきた、野々宮が経営する小会社は、麻布十番にある。勝間の10x40で見ると、眼下のメルセデスベンツの広告塔のマークの回転するその先のタワーマンションの窓が野々宮の会社である。

これが恋人の仕事してる会社なら、仕事中の胸とどろくであろうが、野々宮ではそういうことにはならない。

野々宮が示したのは(着てきたのは)ゴアテックスのパーカーである。USNAVYの官給品だ。

「中にゆうようえいさい、がはいってました」と、野々宮。

何?無線不明瞭で聞き取れない。セイ、アゲイン!とリクエスト。二度目の発音でもまだ分からない。漢字説明してもらって、ようやくその航空管制の言葉が「給与明細」であることが分かった。

アメリカはこんな軍事秘密を北朝鮮の隣国に販売して良いのか?

明細は上の通りである。1200ドルから各種ひかれて、手取りは500ドル余だ。米軍も大変だなあ、と思った。

★カメラはXZ-1。OM-Dカウントダウンまであと十日!

2012年3月22日 (木)

Ten on Edogawa

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篠崎駅から、ソロで東京大周遊、空白の五マイル。

ただただ南に歩行。この場合、持参の居フォンのマップは見ない。

植草という名前を建物の上に見て、JJ氏を思い出す。連想して、片岡義男さんも思い出す。

数年前に片岡さんと、神保町のキャンドルの移転した店、そのインテリアは昔のままのカフェで、片岡さんは植草さんとここで数十年前に会ったという話をした。そういう時間軸が全部つながっているのがいい。

ほどなく水門に出た。
1月前にここに同行二人のカメラ人類を伴ってきた場所だと思ったが、これは間違い。1月前の軌跡を回想するに、あれは中川の支流にかかる水門だった。そのそばに日本離れした、まるでハノイ(河内と書く)みたいな色彩の建物を見たのだが、ここのポイントにはその建物がない。それでここがにているけど違う場所であることが分かった。

江戸川の右岸から新行徳橋を東に越える。ほぼ一キロ。快晴、強風。なんども体重80キロが吹き倒されそうになる。

羽田を離陸した直後の上昇中のJAL機の尾翼が手にとれるようだ。それに勇気つけられるというのは、いったいどのような思想背景があたしの中にあるのか?

インターは混んでいて、車両は一寸も動かない。歩行するあたしは、この地域の唯一の運動体というのも変な話だ。

出会う人類はヘルメット姿のセキリュテイの人だけ。

ヒューストンの郊外のアストロパークめいた、脱色したラブホテルのパームツリーが強風になびく。

市川市街で駅方面にゆく、三叉路でちょっと迷う。こういう時には判断停止にして、ライカインコの言う方向に歩くのがいい。

知らない道があるポイントで、知っている道になる。

東京大周遊は、途切れた自分の足跡をまたつなぎあわせる行為だ。

JR本八幡駅前の「かつ屋」で海老天丼5本入りで510円だ。安い、うまい。

駅を北に抜けたら、日大の先輩が声をかけてきた。半時間立ち話。大手広告会社を定年して、今は株のトレードをしているという。どこで誰に会うか分からない。

人間嫌いのあたしなので、向こうから声をかけてくれるカメラ人類はありがたい。

新宿線で、反対側の新宿駅にて、実に久しぶりに、カメラ店数店回る。

ライカM5が安くて7万円だい。これは買いだな。

午後遅く、ヒルズに来て、ちょっと仕事。

この頃は、酒の量落ちて、カメラも欲しくない。

その理由は何だろう。かの「ドルチエビータ効果」であろうか。

来週の今日はあたしはプラハを歩行している。

★カメラはXZ-1。来週の出発までに、OM-Dは間に合うかな?

もう5万ページビューで一千万を達成する。

2012年3月21日 (水)

世界最大のデシケータと宇宙最大の「ネカ」

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我楽多屋さんの新装開店の二階のお店で、あたしはチエキを3台買って満足して階段を下りた。

前のお店だった一階の空間に、同行のBMW野々宮が、巨大なデシケータを発見した。デシケータは小学校の理科室でお馴染みであるが。あの小学校の理科室の小さいのを仮に一号の大きさのデシケーターとするのなら、このデジケーターはさしずめ50号という感じがする。

野々宮がそのキングオブキングスを欲しそうにしているので、あたしは階段をまた上って二代目に聞いた。

「あの、下にある、デシケーターは売り物ではないですよね」

と、聞いたのである。答えは確かに売り物ではないが、引き取ってくれればありがたいというありがたい返事だった。

それで、BMW野々宮は自分のBMWのトランクにそのメガデシケータを格納して、めでたしという運びになった。

ここであたしが指摘したいのは、そのデシケータの大きさのことではない。

帰りの車中で、野々宮の愛猫三匹が、この中に仲良く入って、「土鍋猫」ならぬ「デシケーターネカ」になるであろうという話題だった。

そこで、後で野々宮がアップしたこの画像を見て、仰天。

このネカは野々宮家の三匹のネカの中で最古、最大のミンミンだか、メイメイとか言うのである。この前、内ゲバでやられて、一泊の動物病院でなんでも、6万円だか支出した、女王さまである。

デジケーターは50号という感じなら、このネカのサイズは100号超というところだ。

びっくりした。

 

2012年3月20日 (火)

アローカメラ 我楽多屋さん新装開店

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四谷荒木町のアローカメラは、今般、1階から2階に移転した、

さっそく見学に行った。これが案外に具合が良いのである。もともと、カメラの部品とか時代遅れのレンズというモノはかなりマニアックな存在であるからして、お店が入り易い必要はない。

マンハッタンの老舗の中古カメラ屋さんなどは、全部、ビルの上の方にある。そこまで、エレベータで上ったり、階段を踏みしめたりするのが、日常世界から、非日常世界にワープ感覚があってわくわくするわけだ。

この20年来、我楽多屋で数多くのがらくたを買った。その中の記憶に残す銘品をあげて見よ、と言われれば、まずは英国の高級4x5カメラである、サンダーソンがある。倫敦の骨董市で10万円で買って帰国した翌週に、たしか2万円で出ていた。これはかなり前のことで、我楽多屋で買ったそのサンダーソンのを紙袋に入れて、路穂、四谷のJALホテルで森山大道さんにあって、用意のリコーGR1をお渡ししたのである。

ニッコール6,5mmf1.8という、プロ用映画機材の超広角レンズがまとまって出てそれを半ダースほど一度に買ったのもかなり前のことだ。

最近では$OS RSの元箱付きをやはり破格の価格で買った。

他にはセルフタイマーを一挙に何十個も「大人買い」したり。関式露出計発掘したり、ようするに普通の流通の範囲から逸脱いている「逸品」を探すには、このお店は格好な「猟場」なのである。

一番最近買ったのは白いチエキを一度に三台も買った。これは磨いて遊ぶのではなく、ちゃんと撮影して「遊ぶ」為なのである。

我楽多屋が2階に移動したので、元祖カメラ買い取り名人の「買い取りオフィス:」は同じフロアになった。

この間。その距離を実測してみたら、なんと「たったの三歩」なのである。

こういうのは「勤棲一致」ではなく「売買一致」とでも言うのであろう。

2012年3月19日 (月)

佃名物ボケコッコさま(ボクちゃん)のご近況について

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もっぱらこの数年、佃名物ぼけこっこが話題になっている。

その鳴き声はなかなか素晴らしい。実際にボケコッコー!と聞こえる。音程は音階で言えば「ドミミドレー」である。

以前タワーの37階に居た当時は、窓がボケコッコ側であったので、朝夕に良く聞こえた。それが7年来、タワーの反対側になってから部屋からは、ボケコッコの声は聞こえない。

先週、早朝7時半ころに、ぼけこっこーさまのお社の前を通過したら、お散歩中であった。脇に女子の先生がいらしたので、いろいろお話を聞いた。

ボケコッコーは週末は居ないのである。これも不思議であったが、女先生が持ち帰って飼育しているのである。もうご高齢なので、大事にしているわけだ。

三年前ほどになるか、やはり昼間にボケコッコが庭で散歩なさっていたので、脇にいたおじさんに話を聞いた。

ボケコッコのお名前は、大きいほうが、ボクチャンで小さい方がなんとかちゃんと聞いた。ところがそのあと、二羽いる筈のんぼけこは一羽しかいないのが、不死具だった。

昔のドクタースランプあられちゃんで、食いつきがっちゃんなる生物が居て、確かこれはツイン、二匹であったと記憶するが、にわにわにわとりがいます、の例もあり、腑に落ちなかった。

女先生によれば、その一羽はがんでなくなったそうである。これで積年の謎がとけた。一同合掌。

われわれの間では、ボケコッコさまは、商売繁盛、無病息災、大願成就の神様である。一度はそのお社の前に、お賽銭箱を置こうという話になって、あたしは笠間稲荷まで賽銭箱の選定に出かけたこともあった。

しかしこの計画は実現はしなかった。

最近のボケコは夏は葦簀、冬はビニールの二枚張りでそのお姿がなかなか見えない。まず高貴なボケコッコさまであらせられるから、御簾内に居られるのが正しいのである。

2012年3月18日 (日)

朝日新聞読書欄。屋根裏プラハ。

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朝日新聞の日曜朝刊の読書欄に、石川直樹さんの評で屋根裏プラハが紹介された。
嬉しい。
まずは週末は港においでの筈の新潮編集長の矢野優さんに見ていただきたい。
雑誌新潮の連載でエッセイというのは、大竹伸朗さんとあたしがあるばかりだ、とは先週に打ち合わせをしたあたしの担当編集の佐々木一彦さんから聞いた。
しかも無名のあたしを矢野さんが発見してくれたのである。その土台を作ってくれたのが、福田和也さんである。これはその背景に「ライカには人間と人間とを結ぶ不思議な力」が働いているわけだ。

書評の対抗頁にミラン・クンデランの新訳書「出会い」を奥泉光さんが書いている。これも面白い。
この1月にプラハのPとかつてPがFAMUの授業で教わったクンデラ教授の、そこは教室ではなく、モルダウ川を見渡すカフェスラビアで半世紀の時を隔ててクンデラの話になった。
チエコ語で書くのではなく、フランス語で書いているという話題になったが、それはアンナ・ファロバがフランスのパスポートを持っている、という程度の意味である。
屋根裏プラハならぬ、見開きプラハだな。

2012年3月17日 (土)

M5を持ったHCB?

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写真集WIEN MONOCHROME 70Sは千部限定の重さ2,5キロの写真集である。

数年前に東京は麻布の暗闇坂のオーストリア大使館(カンガルーの居ない方。通常、仲間内ではわざと逆に言って、オーストラリア大使館)での、あたしのウイーンの展覧会の型録として刊行された。版元は東京キララ社。

この写真集には膨大なモノクロ画像が入っているが、この間、ぺらぺらとめくっていたら、見開き左頁に、このような画像を発見した。

これはウイーンの繁華街ケルントナー通りで、通行人をちょうど真横から切り取るような感じで、連続撮影したショットが多数掲載されている。

この老人の持っているのは、ライカM5であったことは最初、撮影した1975年当時から分かっていたけど、改めて見ると、この人はかなりライカを扱い慣れているカメラ人類であることがわかる。

これはM5の最大の特徴である「縦吊り」のコンフィギュレーションであって、肩から下げたM5を軽く左手でホールドしている。

この人を巨匠HCBであるとは、言わないけど、かなりの達人であるのは確かだ。

ちなみにレンズは固定のズミクロン。フードもちゃんとプロパーなのが付いている。

2012年3月16日 (金)

デジタルカメラの「仮想敵」としてのiPhone

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★一部のブラウザーでは画像がひっくりかえっている場合があるが、ご容赦。

フェースブックは、お友達の「作品」が拝見できるので、なかなか楽しみなのであるが、ひとつ気がかりなのは、ほとんどの方はRAWで撮影したのを色々加工して、それをリサイズしてブログに掲載していることだ。

あたしのいい加減はモニター、というよりMacBookエアの画面ではいかに優秀なツアイスレンズや、ライカレンズで撮影した「作品」でも、それらはいったんウエブにアップされると、トイデジカメで撮影したのと事実上は区別がつかない。

優秀レンズで撮影した「作品」をウエブ上でアップして、その画質を褒めたりすることは、案外、相手に対して失礼なことなのではないかとまで、あたしなどか考えてしまう。

にもかかわらず、ウエブにアップした「作品」に「ライカM9 ノクチルックス50/F0,95などとデータを書き込むことは、それなりに無意味なことではなく、そこに「カメラ人類人民共和国の党内の序列」が関係してくるのも、また確かなことである。

ようするに、カメラとレンズのブランドと、RAWモードとは、すこぶる政治的な存在でもあるわけだ。

そこで先取防衛のデジカメ戦略からすると、我々の注意する「仮想敵」は「競合他社」のデジカメではなく、iPhoneを筆頭とする、スマートフォンなのである。

そこら辺の危機感を感じていないのは、皮肉なことに、われわれカメラ業界人間である。毎月のカメラ雑誌のレビューにしても、競合他社のデジカメは視野に入っているが、メトロの中で隣の一般人が操作する、iPhoneに関しては、目をつぶっているような感じがするのだ。

ところでこの6枚の画像はこの前、上野界隈を大周遊した時の画像である。この位のデータサイズ(300KB)でも充分である。

女子衣料一般の通販の型録撮影の鬼である、木星弾クラブの突撃隊長などは、まず100KB以上のデータはサーバーにはねられるから、それ以下で充分と「豪語」しているくらいだ。

スマートフィンの「不穏な動き」に関しては、我が、地球防衛デジカメ軍は常に注意を払う必要がある。

2012年3月15日 (木)

四つ木暮色

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あたしの知らない東京は、上野と浅草の先に存在する。

一応、山の手出身ということになっているのは、文京区生まれのせいであるが、今は歌われているかどうか知らないが、文京区歌というのを小学校の時に習った。「ああ、大江戸の昔より、ここは学びの土地にして、紅の塵近けれど、緑の丘は静かなり、以下略」というのである。

隣接の区を「紅の塵」とやってしまって、良く名誉毀損で訴えられなかったものだ。そういうお高くとまっていた文京区であったが、実際には区内には日本国有鉄道の駅はない。ようするに僻みで作られた歌詞であるような気がしてならない。

それにあたしの生まれた音羽などは、以前は岡場所であったし、東京三大貧民窟を窺うようなランキングの町だった。そこらの背景は断腸亭が音羽の東側の高台の屋敷町の生まれであって小学校の時に、音羽の労働者の師弟と友情を結ぶくだりがある。

その幼年の友人はすぐに引っ越しをしてしまうのを、断腸亭は哀惜を持って綴っているが、これは断腸亭は毎年の正月二日には先考の墓所を雑司ヶ谷に訪れているから音羽界隈には詳しかったのであろう。

昭和十年年だかに、市電の為に音羽通りが拡張されたことも断腸亭日乗には記載されている。

あたしの当時の東京の認識空間は北東なら、淺草から先は「暗黒大陸」。言い方が悪ければ「白地図」であった。

今でも荒川、町屋、北千住と聞くと、東京球場とかおばけ煙突が脳裏に浮かぶ。
淺草から出ている電車と、上野から出ている電車のそれぞれの会社の名前が混乱していて、しかも、千住大橋から掘切菖蒲園に行こうとして、いや、それは立石であったかも知れないが、乗り換えの青戸で方向を混乱させて、また今乗って来た電車で出発地に逆戻りというのこともある。

そのラビリンスぶりが面白い。
東京大周遊「空白の五マイル」で、出発は町屋であったが、尾竹橋を超えて、千住桜木のバス停の前で、鈴木さんという映画の照明の専門家で、ベンダースの映画の照明もした人と知り合いになった。
その鈴木さんは下町育ちで、最近、町屋から四つ木に引っ越したという。

それでその次の週であったか、空白の五マイルで、例の国本長官が狙撃された、荒川の土手から千住大橋にぬけて、そこから掘切菖蒲園まで電車で行き、金子酒店の酒保で小休止してから、あたしは一大計画を思いついた。

それは、ここ、掘切菖蒲園から徒歩、四つ木まで歩こうという無謀な計画だ。
数ヶ月前に、その逆ルート、すなわち立石から掘切菖蒲園まではトラバースした経験がある。

遭難しないように、平和橋通りを南下して、適当な場所から、黒い水に飛び込む感じで、小道に分け入った時には、あたりはもう暗くなっていた。
ようやく、四つ木駅の北側に到達して、驚いたのは20年前にこの界隈に初めて来た時の、宗家「四つ木の灸」の家と、その向かいのホーロー引きの「駐車禁止」の赤字に白文字の看板が朽ち果て、倒れかかった木製の屏に打ち付けられていたことだった。

駅舎を超えて、南の商店街に入ったら、もう寂寞の極みという感じで、実に良かった。ベンダース監督と仕事をした照明の鈴木さんはやはり光の専門家であるから、こういう夕暮れの商店街の光の美しさに惚れたのではなかろうか。

★カメラはオリンパスXZ-1

2012年3月14日 (水)

大根の花

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★佃地方のクラシックなPowerBookで書いているが、画像が転倒していたらすみません。

一月の末のこと、プラハから佃に戻って、キッチンに入ったら、そこに大根の頭の部分だけ、ちょっと緑の葉っぱがあるのが、お皿の中にあって、水をやってあった。

それを見て、思いだしたのはウイーンの「清貧時代」のことである。今にして回想してみても、あの七年半のウイーン暮らしで、どのような金銭的なバックアップがあったのか、それが未だに謎なのである。

まあ、時々、ウイーンとかの芸術家助成プログラムのようなシステムでお金が出たり、伯林にプロジエクトで「東西伯林」の撮影をしに行ったり、ザルツブルグでアメリカの大学のサマースクールの講座をもったりしたけど、それが生活の安定とは何の結びつきもなくて、まずは当座の生活がいくらか支えられるにしても、その状況は「焼け石に水」なのである。

そういう不安定な生活がすでに10年を四つも重ねて、現にここに進行しているのは奇跡という他はない。

だから逆に視れば、あたしはあたしの生活のドラマチックな進行を鑑賞して、どきどきしているのであって、世の中でテレビドラマが生活の退屈の潤いになっていることを知って(これは先週末に偽ライカ愛好会の撮影の後の反省会で教えられた)のを知って驚いた。

テレビを見る習慣のないのはその理由であるが、世の中の人は「おのれの人生はさて置いて、絵空事の他人の人生のドラマ化を時間をかけて見る」というのは、これは極めて芸術的な行為には違いない。

しかしあたしは自分の進行中のドラマ(それもかなり終盤の)につきあっているだけで手一杯である。

話がかなり迂回した。

さて、大根の花の話だ。ウイーンん時代はそういう「もったいない生活」であったから、大根の葉はちゃんと生育させて、スープの青みに使っていた。

しかしキッチンに置いておくよりも、これは観葉植物としても利用できることが判明したので、大ガラスの部屋のテーブル上に置いた。

それで1月が終わり、二月が駆け抜け、三月も半ばであるが、大根はまるでスカイツリーの模型みたいになって、しかも花まで咲いた。

これは眼下の墨堤のが咲くまでの、リリーフとしては実にありがたいと思う。

★カメラはオリンパスXZ-1  OM-Dは今月末だからまだまだだなあ。

2012年3月13日 (火)

ギャラリーバウハウス

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三月末まで、神田明神脇のギャラリーバウハウスでゼラチンシルバープリントの大展覧会が開催中だ。

ロバートフランクの作品から巨匠連の素晴らしい銀塩プリントに混じってあたしのプリントも2点展示してある。

数年前にプラハの近郊で撮影したものだ。

最初、何かの手違いであたしのプリントが展示されていないのだと勘違いした。あたしは視力は遠視と近視と乱視で、周囲2,5メーターの範囲の世界を、そうありたいと思う想像力で眺めているだけなのだ。

そこに伴った視力1,2の正常なカメラアイを持ったカメラ人類さんが、あたしの作品を発見してくれた。

驚いたのは、実に変な言い方であるが、自分で焼いたプリントに惚れ直したのである。
このプリントは数年前、さかい写真研究所の暗室でフォコマート2cを使って、イルフォブロムにプリントして通常の処理をしただけなのに、これは何と言うべきか、しばらく前に見た時よりも、写真が@成長して」いるのである。

オーナーの小瀧さんとその話をした。
もともと厳密なアーカイバルスタンダードでプロセスしているのであるから、処理した後に画像が進化する筈などはないのである。

にも関わらず、小瀧さんもその不思議には同感してくれた。

彼はこの状況を「ゼラチンシルバープリントが育つ」と命名した。
科学的な根拠はないのだけど、これは最近になって知った、ゼラチンシルバープリントの謎なのである。

 

2012年3月12日 (月)

四角い写真と四角い時計

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★まずブラウザーの不具合で二番目の画像が横転している方はご容赦。

この前、京橋はアイランドギャラリーでの写真展「屋根裏プラハ」の三回あったトークショーのこれは最後の2/26の時のショットだ。
撮影は突撃隊長で、機材はiPhoneG4である。

ここで、コンパクトデジカメの本当の敵は「競合他社の同じクラスのデジカメ」ではなく、スマートフォンであることを、我らカメラ人類は再確認する必要がある。

あたしの周囲の偽ライカ愛好会でも、ライカM8とかM9で撮影して、それを顔本の小さな画面にアップする紳士淑女が多い。
趣味の問題であるし、好みの問題でもあるから、どのようなデジカメで撮影して、どのような発表の仕方をしても、あたしの関知する所ではないが、これを赤瀬川さん流に言えば「メモリが無駄に使われている」ということだ。

初期のFD時代には、原平さんはFDの中のまだ使っていない、空き容量が無駄遣いのように思って困ったそうである。これは原平さんのような、戦中派でもののない時代に育った人は皆持っている飢餓感覚であろう。

さて、この撮影は偽ライカ同好会メンバー、木星球メンバーの酒井ゆうじさんが中古カメラ市でKE7aを入手したので、それの記念にあたしが酒井さんのKE7aで酒井さんを撮影している所を突撃隊長が横から、胃フォンで撮影した。

酒井さんは写っていない。

そのことが問題ではなく、ここで問題にしたいのは、■に付いてである。ギャラリートークではあたしの背景にはずっと四角いフレームが並んでいる。6x6サイズであろうが、パノラマサイズであろうが、写真は四角形なものだ。絵画もしかりである。

もっとも全周の魚眼レンズで撮影すると、丸い画面が得られるし、ウイーンの美術館のフェルメールには確か、円形の小品があったと記憶するが、平面のスタンダードは■である。

あたしがライカで撮影している、その腕時計が気になった。それが●ではなく、■なのだ。これはホイヤーのモナコといいうモデルで、我らが高校生時代のスター、マキーンが、映画栄光のルマンという映画で使っていたそうだ。その映画はあたしは知らない。これは我が家に大昔からある時計である。

クロノグラフ機構は壊れているので、10年前に専門店に修理に出したが、修理不能で戻ってきた。それでそのままに使っている。当時は欧州行きの飛行機で、まだビデオンデマンドになっていなかったので、出発からの経過時間を計測するので、クロノグラフが必要だった。

今はスカイマップが経過時間から速度から現在位置から、ヘッドウインドウ、テールウインドウまで教えてくれるので、時計は二針で充分である。

こうして距離を置いて見て、この時計がなかなかのデザインであるのが分かった。一昨年の今頃にバーゼルのショーに行った。このモナコと同じデザインでしかし、その機構はずっとモダンになった新しいモナコが話題になっていた。

今にして思えば、それは何か、オリンパスOMとOM-Dの関係にも似ている。機構は進化するけど、そのデザインコンセプトは70年代に確立されたので、40年前のデザインがそのままに世界に通用するわけだ。

2012年3月11日 (日)

二年前

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三年前の7月3日に四代24年に渡って君臨した、ライカインコ民主主義人民共和国の四代目総書記「ライカインコ四世」が急逝した。
我が、ライカ人民共和国の人民はこの偉大な「ライカの太陽」の偉業を後世に伝承するために、「ライカインコ記念塔」の建設に着手した。

なお、世間、一般ではこれを第二電波塔と呼んでいるあ、これは世の中をあざむく仮の名前なのである。我が民主主義ニッポンは国民の心の安定を最重要に上げているから、1年前のメルトダウンだって、「事象」などと読んでいた。
これこそ為政者の「やさしさ」である。

それで、チエルノブイリを超えるようなメルトダウンが起きて、ドイツの救助隊がその場できびすを返して撤退するような状況にあったも、この国は「安全」なわけである。

さて、ライカインコメモリアルタワーは先週完成して、5月の開業を前に大人気である。入場券など数ヶ月先まで売り切れらしい。まさに「にんばろう!がっぽん」の精神が六十四州に生き生きているのである。
しかし、昔の共産主義時代のワルシャワの小話ではないが、悪名高いワルシャワの文化宮殿を見なくて済ます方法は、その文化宮殿の上に登ることなのである。

ゆえに、大入り満員のライカインコメモリアルタワーに殺到する人は、その実、このタワーが憎悪に対象となっている人民であるとは、考え過ぎであろうか。

そのライカインコタワーは我が佃地方の大ガラスの部屋で毎日、毎週その建設状況を見るのが楽しみであった。
昨年の1月にはアサヒカメラの連載の記事で、ライカインコ記念塔の建設の「現地指導」をするつもりで、人民服にサングラスで意気揚々と記念塔の建設現場まで行ったが、マスコミブル新(訳注+70年代用語で、ブルジュア新聞の意味)は1月の小雨の寒波で腰抜けどもで誰もおらず、かろうじて、葛飾FM曲の同志が取材に来た。
あれ以来、あたしは葛飾を敬愛するようになったのである。

日々のスカイツリーは、ちょうど朝顔の観察記録のように、あたしのペンで記録され、それはペンペンになり今はペペンペンになっている。
今月末からは、ライカインコメモリアルタワーはOM-D記録され続けることであろう。

ところでこの画像は一昨年の撮影だが、どうであろう、この方が面白いと思いませんか。完成したライカインコタワーはもう成長することはない。しかしタワーが完成するまでには不断の進化がそこにあったのだ。

3/11のその当日。あたしはマンハッタンに居たが、気になったのは、建設中のライカインコタワーの安否であった。ライカインコタワーがそのまま倒壊しては、我が人民共和国が世界に端をかくことになる。

その大地震の時の揺れ具合のビデオがあったが、後で見てもこれは凄い揺れだった。あたしの不在にしていた、仕事場のヒルズ地方の49階でも、その振幅は体感では5メーター以上あったと、生存者は語った。(この生存者という言い方は正しい使い方だと思う)

大震災から1年が経過した。我々はまだ生存している。すなわち生存者である。

2012年3月10日 (土)

薄くてちっちゃいレンズは、セクシーであるという事実

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一眼レフ用の広角レンズは、レトロフォーカスタイプであるから、レンズの全長がかなりある。

考えてみれば当たり前の話であって、ミラーボックスがあって、その中でミラーが往復運動をするのである。

ライカとかコンタックスの広角レンズに、それが登場した当時から、ライカ人類とかコンタックス人類が、それが一体何であるのか分からないままに、或る心惹かれる魅力を感じていたのは不思議なことだ。

このことはあたしもライカを使い始めた当時から何となく意識していた。
最初に手にした小さい薄い広角レンズは、あたしの場合、ズマロン28MM F5.6であった。これをブラックペイントのM2にライカビットMPをつけてみるとなんとも格好が良い。ようするに「しびれる」のである。

そのかっこよさはこの場合、レンズが非常に薄くて小さいということが重要な要素なのである。ちなみに40年前、そういうプチレンズに凝った一時期があった。
列記するなら。Lマウントのニッコール25MM F4とか、それほど小さくなないが、キヤノン25MMF3,5も薄かった。

最近ではBMW野々宮とお揃いで手にいれた、ワルシャワで改造された、ソ連製のルサール20mmf5,6などは、非常に小さい。それとロボット用のスパイが使用する、特殊レンズでその長さは5ミリほどしかない特殊レンズなどもレンズセクシーである。これはアタッシュケースの中に組み込むのでその薄さが「ファッション」ではなく、その目的がちゃんとある故のデザインであることがまた魅力なのだ。

昨年の秋のプラハで撮影したシリーズはこの間、京橋のアイランドギャラリーで展覧会をしたが、あの全てのショットは、(1枚だけノクトン50mmf1.5のショットあり)ライカM5に上のレンズ、FED28MMF45(1936製)をつけて撮影した。これはちょっと見るとアンバランスなのである。つまり大柄ボデイに極小のレンズのコントラストがセクシーである。
言い換えれば、大柄な美女にごく小さなショーツのコントラストがよく映るのと似たようなもんか。

しかも小型なレンズは持ち歩き便利であって、ほとんど視神経の延長として使える。あたしのM5はプラハで連射、いや、連写されたのであった。

以前、まだミラーボックス時代の一眼レフ用レンズで「パンケーキレンズ」流行したことがあった。このレンズユーザーもかなりのレンズ好きであるが、もともとミラーボックスのあるカメラだから、レンズは魅力的な小ささにまではならない。

ペペンペンとか、今度登場のOM-Dはミラーレスシステムカメラなのであるから、そういう「セクシーなプチレンズ」は是非欲しい。そういうミニレンズはカメラ女子向けでもある。そういえば、フィルムのペンF時代にオリンパスは専用の薄いレンズを出していたっけ。

ところで顔本を見ていたら「どうして男性のパンツは大きいのであろう」と奥さんが嘆いていたのを読んで笑ってしまった。ようするに女子のショーツに比べ、男子のトランクスはでっかいから、洗濯に手間がかかるという意味であろう。

このショートメッセージは正鵠をついている。
男性はもともと、ミサイルと戦車を並べて軍事パレードをして喜ぶような「お子様」である。

だからレンズも大砲もでっかいのがお好みなのだ。それでノクチルックス自慢になるわけだ。その巨砲願望の儚さはなにも、ウイーンのゲルグガッセの心理学者の先生を担ぎ出すまでもない。

 

2012年3月 9日 (金)

フリーアドレス

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ヒルズの49fで仕事をするようになって、あれはヒルズが出来た年からここに居るのであるが、それが何時であったのかもすでに忘れてしまった。

しかしながら五年以上前に出したChotoku X Roppongihillsという、あたしの個人的なヒルズガイドでは、その中の写真がまだ建設以前で更地になっていた、防衛庁の跡地、すなわち東京ミッドタウンがまだ存在しなかった時代に、ヒルズの50階から眺めた写真が掲載されているのだから、これは大過去なのである。

開館当時のヒルズのオフィスは49fと50fのメゾネットであった。50階には立派なバーがあってこれはセルフサービスであったが、アルコール類だって揃っていた。上のクラブに伴った、元フェラリーのメカニックさんが、あたしはクラブで安いワインを飲ませたので、ちょっと判然としないまま、生酔いで50階に戻ってきた。そのバー(飲み代が会費にすでにはいっている)に、マルゴーのそこそこのがあって、飲み直したこともある。彼はワイン通なのだ。

その50階に行くのには、ライブラリオフィスの中にある階段を登るのだ。これが長い時間の座りっぱなしからの、良い運動になった。

われわれはこの階段を「天国への階段」と呼んでいた。しかしこの天国時代は最初の3年ほどであって、やめになった。なんでも真夜中に大勢で騒いだ連中がいたのが、天国崩壊の理由と聞いたが、本当のことは分からない。

今でも飲酒は禁止ではないけど、あの当時の空気はなくなって、皆さん真面目に仕事している。

上の座席はあたしの好きなシートである。飛行機にプリファランスシートと同様に好みの座席が決まってくる。

しかし本来、フリーアドレスであるから、座席は席替えのある方が本来は望ましいのであろう・

2012年3月 8日 (木)

スローな「ブギ」のロボット

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「本品、ロボットは西ドイツ、デユッセルドルフ市オットー・ベーニング社の製品にしして、正規の関税、及び物品税を納付したものであることを証明する。東京やさか通商」

たしかこんな文章であった。新品のロボット製品に添付されていた証明書である。ロボットカメラの名前はやはりチエコにその出自があるとことがいい。

そのロボットはそれこそ売るほど持っていて、かなりの珍品もある。ひとつはデンマーク空軍の軍用カメラだが、王冠に羽根のマークが正規の刻印の費用がなかったのか、それはダイヤモンドカッターを使用しての、フリーハンドなのである。

およそ、カメラのような光学機器の刻印とも思えない。それはすでにアートである。そういうデンマーク空軍のロボットを手にいれてから、あたしはデンマークという国を信用する気になった。

これはずっと時代が下って、60年代のロボットの最新モデルである。正方形の24X24サイズ。この前、たまたま東京大周遊中に、路上で会話した人が見せてくれたデジカメの画像が正方形であった。

これが良かった。正方形の画面にはなにか「宇宙的郷愁」が存在すると以前から思っていたのであるが、その理由は恐らく、ハッセルブラッドのLUNA SPACECAMERAの正方形画面にありそうだ。

それを真似して、デジカメでスクエア画面を撮影すればそこには宇宙の平均密度が必然的に写し込まれるというわけである。

このロボットの変わっているのは、普通のモデルなら1秒間に数カットの撮影ができるけど、これはスパイが隠し撮りをする、本物のスパイカメラなのだ。これをいかにもスパイ好みの(70年代のJボンドスタイルの)アタッシュケースに格納して、レンズはこれではなくて、ごくごく小さいのをつける。(ロボット社はそういうスパイ用レンズを生産していた)

ただし巻き上げの作動音は静寂な場所では気がつかれるから、スパイ大作戦はご破算になってしまう。

このカメラはスプリングにギアをいれて、巻き上げを極度に遅くして、ギアの音を静寂化させている。だから巻き上げはスローである。

偽ライカ同盟会長、片岡義男さんの名作「スローなブギにしてくれ」を思い出す。

2012年3月 7日 (水)

しののめ@大ガラスの部屋

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我が「垂直長屋」(1989年4月に竣工のクラシックタワーなのでこの名あり)の北西角部屋は両面がシーリングの大ガラスなので、大ガラスの部屋とも呼んでいる。

ようように完成した東京スカイツリーである。今までは北西の角部屋というのは、南東の角部屋に比較して方位が悪いとか、日当たりが悪いとか言われた。

あたしは風水にこるわけでもないし、占い師の助力も必要とはしないけど、北西の角部屋の光は直射でないので好きだ。しかもカメラやレンズが直射日光で焼けることもない。

さて、世の中ではそのスカイツリーの前売り券が完売とかいうのは結構なことだけど、その空筒(これはスカイツリーのうちでのあだ名)もまだタケノコの芽が出たような時から見ているので、知らない間に子供が成長したなあ、という程度の実感しかない。

それでも興味があるのは、まだ東雲の時間の空筒の姿である。背景には筑波山が見えたりするのも奥ゆかしい。

2012年3月 6日 (火)

屋根裏プラハの打ち上げ@いぬっころ

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先週末、「屋根裏プラハ」の編集部関係の方々があたしに打ちあげを設けてくださた。

最初は広尾のチエコ大使館の近くにある、某チエコ料理店で開催ということであったが、そこのHPを見たら「重要なお知らせ」とあって、2月26日にて閉店いたします、と記載あり。

これは驚くほどのこともない。
このジンクスはあたしは特定のガストロノミーにゆこうとすると、必ずその店は閉店になっていたり、あるいはようやく常連さんになれたかなと喜んでいると、ある日、店主がまじめな顔をしてあたしに向かって、実は諸般の事情で来月いっぱいに閉店になりますと告げられるのは常のことなのである。

その「通い出したらすぐに閉店」の店は枚挙にいとまがない。

その代わりというか、打ちあげはあたしの思い出レストランである、四谷三丁目の「いぬっころ」で開催された。実はこのあだ名はあたしと福田和也さんら数人だけの間で通用する、符丁なのである。

それゆえ、好評重版発売中の「屋根裏プラハ」の後書きの中で、本書が生まれたきっかけは、数年前に「あの写真部」の例会で福田和也さんから、新潮の矢野優さんを紹介されたというくだりがあるが、その舞台がこの「いぬっころ」なのである。

例のごとく、天下の新潮社校閲部はそのような、いい加減な呼び方をしない。それはちゃんと校閲部によって「だあしゑんか」(カレルチャペックの愛犬の名)と翻訳されているのだ。それはもっともなことで、誰かがそのチエコ料理の店にゆきたいと思っても、いぬっころ、では検索ができないのである。

ここらがやはり一流出版社だなと、変なところに感心した。

画像の左から新潮装丁室の田中さん、文芸第一編集部編集長の斉藤さん、新潮編集長の矢野さん、そして文芸第一編集部の佐々木さん。

それぞれに多忙な方々なので、あたしもそこら辺の礼儀は知っているつもりなのでだ。
午後7時から始めて午後九時には謝辞を述べてお開きにした。
これは以前、写真コンテストの審査委員長という役割での宴会で北京の新華通信社に呼ばれて、あそこの建物のタワーの最上階でマオタイ酒を乾杯した時に教えられた礼儀なのである。

午後6時から開始された宴会はかっきり一時間半で終わった。それぞれの新華社の出席者はそれで家族の元にもどって夕食だと言う。そういうこともあるのかと思った。
これには感心した。

★カメラはXZ-1

2012年3月 5日 (月)

Dear The Bertles!

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ビートルズのこの企画は今年で十年目だという。5年前であったか、かのアルフィーのカウントダウンコンサート後、バックステージでその方面の偉い方からこのコンサートのご案内をいただいた。

ところが折悪しく、年に一度のそのコンサートの時にはプラハかパリかウイーンあたりの路地裏を徘徊しているので、複数回のチャンスを逃した。

それで今回は五度目の正直である。

会場の満員のお客さんを観察するに、若い人が圧倒的におおい。出演のアーチストよりもあたしの方がさらにじじいである。

皆さんのステージの上でのビートルズの出会いとの話は面白かった。彼らは年長さん、年中さん、年少さんに分かれるが、坂崎さんはすでに年中さんなのである。

皆さん、小学校の高学年あたりにリバプールの不良バンドに感染しているのである。それで今年がビートルズが生誕半世紀。昨年はベルリンの壁の生誕半世紀。壁はありがたくないが、ビートルズはあたしの世代の神様であった。

ビートルズが来日した、1966年だったかそのツアーを撮影した浅井慎平さんに当時の赤坂のホテルの話などを聞いたのはあれは1970年であったから、まだ「武道館の犯行」から四年しか経過してなかったことになる。その場所は原宿駅から徒歩2分の稲越功一さんの事務所でだった。

ビートルズの行状の実際を浅井さんから聞いたはずなのに、それが記憶にないのは残念である。あれは稲越さんの処女写真集のパーテイであったと思う。

あの4年前の武道館のライブには、あたしの妹が行っているのだ。あとでその感想を聞いたら、聴衆の歓声ばかりで何も聞こえなかっただと。

赤尾敏氏が数寄屋橋の辻説法で「青少年を不良化するビートルズの来日阻止!」と叫んでいた当時である。そういうリバプールのヤンキーを女王陛下はちゃんと認めてあげるのだから偉い。

来日時、たしかJALのB707であったと思うが、タラップを降りる時にビートルズのメンバーが「ハッピーコート」を着て出てきて手を振った。大変な宣伝効果だ。

ペンタックスの当時、旭光学も来日中の彼らがペンタックスS2のブラックにフィッシュアイタクマーを手にしているモノクロ写真をカメラ雑誌の広告に使用した。今と違うからどっかの通信社の映像をそのまま使ったのではと思われる。

日大写真科の学生の我々は「ビートルズの使っているペンタックス」というので話題になった。しかもブラックペイントだ。

高校は志村出身のあたしだが、学芸会はかならずビートルズのコピーバントが登場した。ターギのないやつは、掃除のほうきをそれに見立てて、シャウトしていた。団塊世代は恥知らずである。

学校の規則を破って、マシュルムカットにする偉い学友もいた。世の中はビートルズのビートとツイギーのミニスカートの時代だった。

不良指向のあたしも当時、ビートルズはよく聴いたので、当時のうろ覚えの歌詞が大脳の古い場所から取り出されて、あたしも一緒にくちずさんだ。ビートルズの同時代人のつもりだから、これはうれしかった。当時のLPは2千円以上したのである。どうしてお金を工面したのか、いまだに分からない。

府中の森の熱狂の帰り道に、東府中から新宿に出て、西口広場を通過するときに、いきなり1967の新宿フォークゲリラの記憶がフラッシュバックした。あそこでもビートルズは歌われていたのである。

来年は11回目だという。またゆきたいな。

★カメラはXZ-1

2012年3月 4日 (日)

雑司ヶ谷の「牛豚鳥」ではなく北千住の「犬猫鳥」

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東京大周遊でのトピックと言えば、クラシックな街中の商店街で見かけるすがれたお店の中で、「牛豚鳥」という肉屋の看板を見るのがトラッドな楽しみである。

それらの看板の中には豚とか牛とがコックのスタイルとしているのがあって、これは俗に「共食い系」と呼ばれている文物である。例の雑司ヶ谷にあるようなのがその一例である。

最近になって芥川賞の田中さんの「ともぐい」などでこの言葉はかなり一般的になったと思う。

不思議なことに実に数年ぶりに「北千住通い」が再開している。それで数日前に書いた「北千住の奇跡」などがその代表例であって、ここでもカメラ人間の出会いの不思議に驚いている。

その「牛豚鳥」は肉屋の看板であるが、ここに登場するのは「犬猫鳥」である。北千住のラビリンスを徘徊していたら、花と白黒の猫(ネカ、ト読む)とか、犬の不在感を感じさせる張り紙とか、ガラス戸の内側の暖かい環境にいるライカインコ(イエロー)などを見ていた。

ところでうちのライカインコは2009年の7月3日に昇天した。それと時期を同じくして、佃の大ガラスの部屋から「ライカインコメモリアルタワー」の建設が開始された。これは世の中に言うところの、スカイツリーと呼ばれる建築物のことである。こういう見立てであたしの「幻想の現実世界」は成り立っているのだ。

町歩きの時には、そのライカインコと「同行二人」という認識があたしにはある。これはちょっと宗教的な感じがする。
リスボンの裏町を歩行していると、あたしの頭上のライカインコが「あれ、買え!」とか指示が出るのだ。ライカインコは自分の大きながま口を持っていて、なかなか小金持ちだ。東京大周遊中のランチとか、珈琲代とかは、ライカインコが出してくれるのである。

北千住はリスボンとかパリとかプラハと並ぶレベルの高い町であって、路地裏を歩行しているとやはり頭上のライカインコが「これ撮れ!」とか言うのである。それでライカインコの指示に従って撮影したのが、この三葉の画像というわけだ。

2012年3月 3日 (土)

マキナのタッチとダッシュ

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十年前の佃日記をオンラインで読んでいる。当時は個人カメラ雑誌、カメラジャーナルというものを毎月出していたので、締め切りが迫ってくると、ほとんど佃の37fの部屋にすわりきりで仕事をしてた。あまりに長時間座っているので、家人に心配されたほどだ。

2000年の12月22日の夜遅くにサイゴンのタンソニュット空港のラウンジで沢木耕太朗さんと雑談した時、沢木さんはご自宅から仕事場まで30分ほどの時間がかかり、それが仕事にはかえって良いのだという意味のことを言っておられた。

それはいいなあ、と思っていたらしばらくして、屋根裏プラハから戻った時、六本木ヒルズライブラリの記事を朝日新聞にみて、即、会員になった。それ以前は仕事は東京か、あるいは東京から9000キロほど西のプラハのアトリエでしていたのである。

思うに雑文を書くという行為は原稿用紙のマス目を埋めるのは昔の話で、いまは、両手の指をキーボード上に連続的にタッチすることである。これは視線を変えてみると、キーボートと「いちゃつく」ことと言い直すこともできると考えた。キーボードを愛撫するので、男性は四六時中、PCの前で座りずめでそれで女性に失望されるという話しはすでに20年前にアメリカの雑誌の断片で読んだ記憶がある。

あたしのような前期高齢者は異性といちゃつく時期はとうに過ぎているが、キーボートと、いちゃつくのはまだ可能である。しかも人間同士の「いちゃつき」はこれは生命の不変の原理であるかもしれないが、あまりにも当たり前であって、退屈かもしれない。それより、キーボードと「淫行関係」にあった方が面白いということにも気がついた。面白いというのはそれが「創造的行為」という意味だ。

ゆえに我々の世代ではキーボードと戯れることが「代理的な性体験」なのかもしれず、それについてはいまさらウイーンのフロイト先生を持ち出すまでもない。

ほかに原稿を書く手段には、音声入力もあった。10年近く前、岩波のアクテイブ新書の一冊を音声入力で書いたことがあるが、しゃべり過ぎて予定の原稿の五割もオーバーしてしまったので、後で削るのが大変であった。だから口で話すより、キーボードにタッチするのが、今のところ便宜的最適な方法なのである。

ヒルズの49階で終日MacBookAIRと「恋愛関係」もいいけど、やはり持参のカメラとも遊びたくなる。MacBookをタイプしている時の、思考と身体性の関係はよく解き明かすと面白いことになりそうだが、確かなのは、これは話をしている生理反応の発音だけが抹殺されていて、伝達系の回路の出力先が指先に代謝しているわけである。ゆえに身体を動かしている実感がないのは問題だ。

その正反対にある身体性活動があたしの場合には東京大周遊なのである。

MacBookの作業がかなり静的な(上に述べたように性的であると同時に)なものなら、手元のカメラと手にしての「素振り」はこれは身体的エクササイズなのであって、そこがいい。

プラウベルマキナは最近では石川直樹さん愛用の670が高値安定であるが、こちらは1929製最初期モデルだ。数年前、カメラ雑誌で石川さんがモダンなマキナ、あたしがクラシックマキナで対談をしたこともあった。

このURマキナがシンプルで非常に良い。その最初期のモデルだけを使っている英国の写真家でモノクロ写真だけ撮影する人をオンライン上に発見して、同じ志を持つ人に巡り会ったような気がしたことがあった。要するに趣味の問題と片付けてしまえるかもしれないが、趣味は世界観の立ち位置の事であり、形而上学上の大問題だからこれは大切なのである。

薄暮の東京の光の下で手の中にある、マキナはエロチックだな。

★カメラはXZ-1。早くOM-D出ないかな!

2012年3月 2日 (金)

千住桜木お化け煙突

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千住のお化け煙突が存在したのは、1925から1962までだ。
この年代がなんとも豪華な印象を与えるので、それが何なのか考えてみたら、どうもライカの誕生からその黄金期までの年代記と一致していることに気がついた。

でもあたしがまじめに東京を大周遊するようになったのは、1964年の東京オリンピックからであり、ライカを手にした1967からそれは本格的になるのだが、その時点でお化け煙突はすでに存在しなかった。

ただお化け煙突の存在は当時、山の手に住んでいた少年のあたしの知識にも入ってきたが、それがどこなのか特定しようとも思わなかった。少年時代の東京の空間認識はせんぜいが浅草止まりであってその先は異世界だった。

数年前に路地裏学会の桃木会長を尾竹橋上で今はもうない、そのおばけ煙突と追体験するために、手前にボールペンをたてて、背景の風景と一緒に撮影したりした。その話はアサヒカメラの連載「還暦からの写真楽」にも書いた。

数年ぶりに、千住桜木から尾竹橋上に立ってお化け煙突のないのは当然ながら、もと、お化け煙突の一部が校庭に「太鼓橋」として保存されていた、小学校がなくなっている。
それで近寄ってみたら、そこは帝京科学大学千住キャンパスという建物になって、そのエントランスにかつての「お化け煙突」のパーツで構成されたモニュメントがあった。
あたしの世代ですら、お化け煙突を知らないのであるから、今の40代の世代がまったく知らないのも当然である。

日没が近くなったのでそこを辞したが、後で説明の看板をXZ-1で撮影したのを見たら、お化け煙突の1/20の模型が設置されていて、それで煙突が1本から4本まで変化するのが分かるような仕掛けになっていた。

たしかにそれは教育的な立場からは親切なのであろうが、別に重なり具合を追体験することが、お化け煙突の追悼につながるのであろうか、と考えた。

2012年3月 1日 (木)

北千住の奇跡

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北千住の最初の訪問は 1967年あたりであったと思う。縦位置で北千住駅のホームから撮影したショットがたしかchotoku @ workに掲載されていたような気がする。
その後は1980年代にアサヒカルチャーセンターの講師をして、東京を25名ほどのカメラ人類さんを引率して歩き回った。この時はまだ駅前の再開発は着工する前で戦後の北千住の町並みが広がっていた。そこをアサヒカルチャーセンターの旗を持って、「はい!皆さん!この旗を見失わないように!」などと添乗員めかして界隈を歩いていたのだ。

時代がくだって、アサヒカメラの連載とか、en-Taxiの連載でも北千住を歩いた。この界隈は都市風景の「見立て」の宝庫である。似たような地区には、パリのマレ地区とか、リスボンのアルファマとかあるけど、そのサイズの大きさに関してはこれは比較にもならない。

その意味でこの巨大な迷宮は実に魅力満点だ。
例の「空白の5キロ」計画は最初は町屋駅から尾竹橋通りを北上して、千住桜木から大川町、柳町と経由して千住大橋駅に行く心つもりであったのが、最初の尾竹橋通りはストレートなので退屈である。
それで裏側からのアタックはやめにして、ノーマルに西口から歩行を開始した。例によってニコニコ通りから川まで出て、いったん元に引き返して、あたしがよく事務所代わりに使っている、千住柳町公園のベンチの位置を確かめた。

そこで二月の午後の日差しはすでに夕暮れになっていたので、駅前に急いだ。駅に向かう、水戸街道の一本手前の南北に走る一車線の通りの東側に不思議な喫茶店があった。いわゆる名曲オーデイオ喫茶というのであろうか。木造モルタル二階建てなのだが、そのファサードがなにかザルツブルグの祝祭歌劇調ににているのが妙であった。ここには何人も何回も人を伴ったことがある。
これは実はあたしの方からの一種の試験であって、この建物のおもしろさの「見立て」に感激してくれる人が実は本物の東京大周遊の理解者であり、日本路地裏学会を分かってくれる人間なのである。

もっともこの名曲喫茶は数年前に廃業したが、その後改造が行われて、もともとあったエントランスがL字型を構成していた部分はカットしてしまい、今はフラットなファサードになってしまった。

久しぶりにその伝統のファサードを見ようと、角の小路から足を踏み入れようとしたら、ちょうど道路工事でアスファルトをうっている。入り口のガードマンさんが、ここは通行できないから隣の小路を通ってください、という声が終わらないうちに、もう一人のガードマンさんから「チョートク先生!」と声がかかった。

あたしには誰であるかすぐに分かったのである。それは12年ほど前にやはり東京カメラ散歩の時、北区滝野川の路地裏のアスファルトの工事中の小路をあたしはその熱い部分は踏まないように、道の端を歩行していたら、「もし、もし」と声がかかった。あたしは工事区域に立ち入ったのだと思って、謝ったら「いいえ、いつも本を読んでます」とガードマンさんが言うのである。

その人に12年ぶりに再会したわけだ。これは北千住の奇跡と言わずして何であろう!
あたしが「この前にお目にかかったのは滝野川の現場でした」というと、その大久保さんと言う人は(ヘルメットに名前があるので分かった。ちなみに大久保さんの血液型はAB型)「たしかにそうですが、以前、どこでお目にかかったかは忘れました」という。
当然の話で、工事中のガードマンさんから声をかけられたのは、あたしは人生で一度きりだから鮮明に記憶しているが、かの大久保さんはあれ以来、数千の現場にいらしたわけだから、それは記憶できないのは道理である。
そこで大久保ガードマンの許可を得て、その元名曲喫茶の前まで入れてもらい、これを撮影した。大久保さんと建築物のファサード論で盛り上がった。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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