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2012年2月29日 (水)

JP

Jp

ジャクソン ポロックをJPと言うのは一般的などうかは分からない。

佃からヒルズへの通勤路で、何度か地下道を曲がるのであるが、有楽町線から日比谷線に乗り換えの最後アップ階段を登って、そこを右折するのである。

ここは階段だから歩く速度が落ちてしかも身体が右に旋回するので、視野も同時に左から右にスキャンするので、壁のポスターの視認効果は高い。

いきなり30年ぶりに網膜に投射されたポロックの作品を見て、身体が硬直して時代は一挙の70年代に飛んだ。

なにもJPの作品を当時見たのではない。ウイーンの南の温泉町、バーデン出身のアヌルフライナーは知り合いというわけでもないが、当時、ウイーンから出ていた美術雑誌のグラビア頁のお隣さんだだった。ライナーの一折りの作品(これは16頁分を意味する」の隣があたしのスナップショットの一折りであったりしたからだ。歩ロックがJPならライナーはARと略称される。

アクションペインテイングがとっくに美術史の領域で語られる時代になって、当時のアーチストの破天荒な暮らしぶりとか、アル中ぶりが伝説化する時代になってしまったのは恐ろしい現実だ。

屋根裏プラハの書評が「芸術新潮」に掲載されたので、そのサンプルが送られてきた。これは今の時代にJPを展覧するのに、面白い。しかも会場に芥川賞の若い女性作家を配するなどは、想像の他である。

JPのエキセントリックな暗しは「芸術新潮」の特集記事に窺えるが、ARの方も神話が沢山あって、貧しい時代には故郷バーデンで「空き缶拾い」をしていたという神話がある。ただしARがまだ弱点なのは「生存作家」である点だ。時代が異なるとは言え、JPには比較にならない。

あたしの知る、ARは1970年代にウイーンであった彼である。今、どうしてるかなと画像検索して相当なじじいになっているんで、吃驚した。映画の仕事を手伝った、VS(フォルカーシュレンドルフ)の近影をオンラインに見て、やはりじじいなっていて吃驚したが、1970-2012と言えば40年は経過しているのだから、当たり前の話である。

2012年2月28日 (火)

JINの眼鏡

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もともと、親譲りの乱視である。小学校の乱視検査表の例の同心円から発する矢印が濃淡をもって見えるのが乱視であると言われた。
それでも眼鏡はつかわずにずっと来た。
写真家は案外に目の悪い人が多い。スナップする時には周囲、2,5mの状況が判断できればそれより遠くの状況は見る必要がない。
これが長年のスナップ術の極意とでも言えるものであった。

遠方は霞んでいるのであるが、それが全体の状況が「マッス」で認識できれば良いのである。その方が写真があがった時に、「二度驚く」ことが可能だ。
もともと写真とうのは、「われらを取り巻く斯くも茫漠とした世界は何であるのか?」という根本存在に迫る哲学的な行為であり、形而上学的なアプローチであった。
それが何時のころからか、単に押せば写るようになってから、写真行為は世界の認識ではなく、「常識の上塗り」になってしまった。
「猫は可愛い」とか「綺麗なお花」とか「女の魅力を追求」とか「富士山は我がテーマワーク」のような貧困なる視神経に隷属するようになってしまった。
まあ、それはここでは論じないが、最近、というより昨年の8月の末に打ち合わせでオリンパスに行った帰りに、新宿のJINで眼鏡を作った。チタンフレームで9800円はどのような原価計算をしているのか、逆に怖い。

最初に眼鏡を作ったのは1996年10月であって、これは銀座の眼鏡のたなかで作った。3万円ほどだった。この眼鏡は長い時間執筆をする時にかけるもので、普段は使わない。それと同時期に当時はルフトハンザの仕事をしていたので、飛行中に免罪でBOSSのコラプシブルなサングラスを買った。長年愛用していたが、いつだったか木星弾クラブの集まりの時に、路上に落としてヒンジ部分の樹脂がかけた。それでも使えるのでそのまま使用している。
サングラスはもうひとつ、立石駅南口の公園のベンチに落ちていたのを手にいれた。これはちょっと怖いタイプのサングラスなのである。
昨年、大阪に所用でJALの最前席で森伊蔵を飲んでいた時に、それまでかけていたその怖いタイプのサングラスを外して二杯目を頼んだら、CAさんが真顔になって「随分、感じが変わりますね」と言われた。その意味は分からない。
その怖いサングラスはパリかどこか、外国のホテルで蝶番がこわれてバラバラになって捨てたのである。

最近買ったJINのチタンフレームは実は空港での夕刻にかける。外国の空港は暗いので、あたりは茫漠としてくる。自分の世界が茫漠としているのは好む所であるが、それで飛行機に乗り遅れては困るので、この眼鏡を買ったのである。

日曜に、京橋のアイランドギャラリーで「屋根裏プラハ」にサインをしている時、はずした筈のチタンがない。立ち上がったらその立ち上がる足で床に落ちていた眼鏡を踏んでしまった。
取り上げたら見るも無惨につるが変形していた。しかし指で直したらほぼ元の形状に戻った。形状記憶合金でもないのに偉いと思った。

2012年2月27日 (月)

東京マラソンに驚く

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東京マラソンのことは知っていたが、実物を見たのは初めてである。
そのコースは結構な長さで、新宿から都心に出て、いったん浅草に行きまた都心に戻ってうちの近くの佃大橋を超えて有明方面まで走るのである。

その距離が42キロあまりであることは知っていたが、実際のその長さを地図の上に展開してみると尋常ではない距離であることが分かった。

あたしなどは東京大周遊を気取ってはいるが、歩いてもせいぜいが20kmである。それでも年に数回、今日は歩いてやるぞと歩行の欲望にまかせて歩いても、30kmなどにはなったことはない。

これは歩くだけではなく、ついでに撮影もしているし、スポーツドリンクではなく、アルコールもその後で摂取しようという、よこしまな考えがあるので、それが歩行を阻害しているのである。

東京マラソンはそのような、走行(でも歩行でもいいが)が、何かの手段ではなく、目的化しているのである。これはかなり怖いことであると思った。ようするにただただ走ることだけが目的なのに、その資格をとるには大変な狭き門であって、聞けば、参加資格を得るのは、宝くじに当たるよりも困難と聞いたが、これは話の綾というものであろう。

日曜の午前中に珍しく家人の部屋でそのトップクラスのランナーの走行を見た。2位で入賞した日本人の選手は走っている時の姿は非常にドラマチックであったが、ゴールに入った後の風貌はまったく静かな男性に見えた。マラソンは人間をその時にだけ変貌させてしまうもののようである。

テレビを見た後に、メトロで銀座一丁目に行った。京橋のアイランドギャラリーでの「屋根裏プラハ」は新潮社から出たエッセイ集「屋根裏プラハ」と同じタイトルのまずコラボ企画とでも言える展覧会だが、その最終日のトークのためである。
メトロの階段を上る時に、階段の途中に私服警官が立っているのに気がついた。
なぜ私服と分かるかと言えば、警察無線のイヤフォンでも分かるけど、それ以前にその立ち居振る舞いで分かる。
普通の市民は階段の途中に立っていたりしないものである。

40年前に東京でのイベントがデモ行進くらいしかなかった当時の東京を記憶しているあたしはわくわくした。これが団塊の世代の問題点である。
地上に出たら、デモ隊が中央通りにいっぱいだった。ぎっしりと並んで「原発反対」の赤や黄色の幟を持っている。
よく見たら、一般市民参加の東京マラソンであった。

なぜマラソンとデモ行進と見間違えたのか。その速度が著しくスローでほとんど歩行に近い速度であったからだ。
マラソンとデモが実はほとんど同じ示威行為であること。これがちょっとした発見だった。

しかもデモの場合にはそんなに長い距離は移動しない。マラソンは40キロである。その意味では通常のデモ行進以上の迫力の示威行為が東京マラソンに見えた。

トップアスリートは別として、一般参加者の走行、あるいは歩行はあたしにはなにか「意志を抹殺されたデモ行進」のように見えたのが奇態であった。

家人の教え子のはなちゃんという若い人がこのデモ、じゃなかった、マラソンに参加していた。彼女はJA葛飾柴又の偉い人である。毎日、20kmを走行して練習したそうだ。立派に完走したのはそれはそれで喜ばしいことである。Photo

★カメラはXZ-1

2012年2月26日 (日)

トートバッグ考

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初めて、トートバッグに接したのは、80年代、8X10で都市風景を撮影していた、ジョエルマイヤロヴィッツの仕事ぶりで知ったのである。
あの30年前の「ニューカラー」という表現スタイルは、受け継がれて今では、石川直樹の6X7のカラー風景などもその流れである。

思えばニューカラー時代の写真家は自分ですべての機材を運搬する必要があったから、それが中判なら問題なしだが、8X10だとかなり重い。もともと、8X10はアメリカ政府が使う公式カメラであったが、その移動はクルマ、その前は馬車であった。最初から自分で機材を運搬することはかんがえていなかった。

当時、ジョエル マイエロビッツへのインタビューで非常に新鮮に思えたのは、8x10のデイアドルフとフィルムホルダーをトートバッグにいれて、それに三脚を持って徒歩で撮影にゆくという点だった。そのトートバッグにカメラという組み合わせが非常に珍しかった。

現代で考えればごく普通の機材の運搬方法だが、当時はそういう運び方はなかったというのがなにか不思議な事実に思える。

1983-84にマンハッタンに住んだ時、MoMAで最初に買ったのが、キャンバスのトートバッグだった。それに8x10カメラを入れて、三脚を抱えてマンハッタンを上下して撮影した。

最近では偽ライカ愛好会が特製のトートバッグを制作したりで、そのバリエーションが増えた。上のトートバッグは左のは、えい出版の清水編集長からいただいたっもの。右のは路上で拾ったモノである。

その収容力と運搬力はたいしたものだ。「田中長徳研究家」に資料の貸し出しで右のトートバッグにはあたしの写真集の1000ページのと500ページのと、さらに数冊の本が入っている。重いモノを運ぶには最適だ。

四半世紀前に佃大橋の上で氷屋さんの使う、xx氷店という文字の入った頑丈なトートバッグを拾ったことがあった。ああいうのが、トートバッグの原点なのであろう。

2012年2月25日 (土)

空筒と飛行機雲

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眼前に巨大な塔がある。
それに飛行機雲が交差している。

プラハのアトリエではない。プラハはジジコフ地区のあたしがよく宿泊する安ホテルの窓からの夕刻の光景だ。
ホテルの窓は南西を向いている。それで午後の光から夕焼けの空はここでないと見られないすばらしさだ。アトリエの窓は全部が北向きなので、夕刻の空がドラマチックには見えない。

あたしは飛行機好きなのでパイロットの使う航空地図を旅行中に持ち歩いている。プラハの空域も他の欧州の街と同じで空の上には航空路がひしめいている。
にもかかわらず、ニアミスが起きないのは、航空管制がしっかりしているからだが、素人から見れば、やはり空は広いからだと思う。

この飛行機雲を見ると、よく初心者は飛行機が急上昇していると錯覚するのだけど、これは巡行高度に達しているのだ。よくその視神経の勘違いがおこる。
何時だったか、メインのテレビのそれもプライムタイムで、視聴者からの画像投稿で「飛行機が真っ赤になって落ちて行く」ってのがあって、スタジオのレポーターがさわぎになった。何のこともない。天空を真西に航路をとっている飛行機が赤い夕焼雲の飛行機雲を曳いて、地平船に隠れようとする直前のショットなのである。

それが飛行機が真っ逆さまに、、、と見えたのである。しかし飛行機はちゃんと水平飛行しているのであった。

★カメラはXZ-1

2012年2月24日 (金)

「空白の五マイル」金子酒店まで

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これは先週の荒川沿いの「空白の五マイル」の後編である。

堀切菖蒲園の立ち飲み「金子」は、福田和也さんご一行とかBMW野々宮さんとかと、行くわけであるが、そのまま行っては駅からあまりに近いので、運動不足になる。

それで前回は町家まで行って、そこから京成線で行こうと思った。ところが「探求心」が起こって、電車ではなく隅田川の右岸をたどって適当なリバーポイントから対岸に渡ろうと思ったのである。勿論、隅田川を渡河しても、その先に荒川があってさらに、それを渡るのであるから、これは酒を一杯飲む為の歩行には、遠路過ぎて、どこか適当な場所で京成でも東部でも乗ろうと思ったのだ。

しかし前回に書いたように、京成線の町家の先の鉄橋は電車だけであって、人間は渡れない。それで隅田川にそって下流に下ったらなんと対岸に橋があるのは、千住大橋まのである。空白の五マイルとは大げさながら、この界わいは未知である。

にもかかわらず、これがまた不思議なのだけど、隅田川の土手には高層マンションの林立なのだ。それで周囲にはマンションはあるが、コンビニなどは一軒もない。この界わいの人はモノは喰わないで居られるのか。

結局、あたしは隅田川右岸をトラバースして、南千住の操車場の前まで延々と歩行して、そこからメトロの日比谷線で北千住に行き、東武線で牛田(ぎゅうでん、と読む。ぎゅうどん、みたいでかっこいい)で京成線の京成関屋駅(これが駅同志が頭をぶつけるほどの近距離にあって、エロチック)に乗り移って、荒川を電車で渡河して、堀切菖蒲園についた。

この界わいの様子は断腸亭日乗に詳しいが、交通の不便な当時に荷風は実によくこの方面に足を伸ばしている。

ようように、金子酒店についたのだが、角を曲がる時に観察するに、向かいの閉店してるスナックのファサードがどこかメキシコはカンクンの町外れにありそうでいい感じだ。

そこの向かいがおなじみの金子酒店である。いつも、焼酎が飲みたくて店の周囲など見ていないのであるが、こうしてあたしの裸眼(あたしの裸眼はそうありたいものを想像で見ているだけなので極めて不正確)ではなく、デジカメ(XZ1)で撮影したのを改めて見ると、界わいのアピアランスはなかなか渋いのである。

2012年2月23日 (木)

東京市滝野川区片岡町

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滝野川界隈は、もとは滝野川区であって、この界隈に惹かれたのは、足穂の旧作で環七と明治通りの界隈の「中野アパート」に棲んでいた足穂の話がもとになっている。そのまま忘れていたのが、丸山薫の「こうもり館」で急に興味が増した。これは中野アパートのことなのである。

数年前に福田和也さんを隊長にen-Taxiの取材で鵠沼のブレッソンさんらとここらで道に迷って面白かった。この界隈はCHOTOKU@WORKにも出てくるし。GRDのムックにも登場する。

ここに伴った他国の人はここを「たきせがわ」と言ったりしたが、それも道理であって、この界隈は東京人でも誰も知らない。

滝野川へのアプローチは2つあって、簡単なのは西巣鴨駅から入るのが初心者である。上級者になると、王子駅で降りて、ホテル倫敦の下の喫茶店でブリーフィングをして最近閉店した江戸時代からの卵焼きの料亭「扇屋」の前をかすめて、音無側の渓谷(実際にはコンクリの人工公園)を分け入る。

この間、火事で焼けた桜新道(これはさくらじんみち、と読む)は音無川の都電を超えた南側である。道に迷わない為には都電に乗って、滝野川界隈に停留所を幾つかスキップするのも良い。界隈には小さな商店街で「競争横丁」というのがあった。ようすうるに安売り競争の意味なのである。

滝野川は7丁目まである。改正道路(明治通り)がそれを南北に分断したにはごく最近(1927)であって、その前には広大な雑木林と田園地帯であった。そういう武蔵野のラビリンスの真ん中に環状五号線が横断しているさまは、なにかオールドデリーとか、カイロにも似ている。

滝野川の魅力はそこで道に迷うことにあって10年前に偽ライカ同盟の片岡義男会長がこの界わいの魔力に巻き込まれて、毎回、オリンパスOMを持って密林に分け入った。あたしも同行したのである。

あれから一昔が経過して、ある部分は変わった場所もあるが、滝野川の迷宮としての本体は案外にしたたかに残っている。

久しぶりにこの界わいを歩行して、また本格的に迷った。以前は「滝野川信用金庫」が目印になっていたのが、その看板が見えないのでロストポジションになったわけだ。

この界わいはそれゆえ、偽ライカ同盟では北区滝野川ではなく、東京市滝野川区片岡町と呼んでいる。

2012年2月22日 (水)

M1とM5

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オリンパスのM1が登場した直後に、その名前が当時のライツの簡易型ライカであるM1と同じであるというので、ライツ社からクレームが来て、オリンパスはその名称の最初にOの文字を加えてOM1にしたのはカメラ人類には良く知られている。

もともと任意の英文の文字と数字で構成された2文字が「競合他社」のそれと偶然に一致しても今の時代なら問題などないと思うが、1970年代初頭はライツ社は完全に別格であったから、それでオリンパスはそのような対応をとったのであろう。
あれから40年が経過して、いよいよそのデジタル版たるOM-Dが登場するので、横浜の展示会では2時間待ちになったというのはその人気のほどが分かる。

思えば、1970年代にその名称をOMにしておいて良かったと思う。さもなかったら今度のデジカメの新型機はM-Dになってしまうわけで、これではライツの複写用ライカでファインダーのないのと同じ名前であるから、さらに混乱するところだった。

戯れにM1とM5を並べてみた。

いや、実際にはOM1とM5を並べたのであるが、それぞれに個性的なカメラスタイルだ。しかもこれは1971年という同時代性デザインを担っているのである。言い換えればこれは「七十年代スタイル」なのである。いずれも、今、見ても少しも古さを感じさせない。

ところでM5に付いているのは、戦前のソ連製のレンズFED 28mm f4,5だ。左のM1には普段は28mmのズイコーレンズを付けている。一眼レフとレンジファインダーはかなり操作感覚が違うというのが、普通のカメラ人類の見方であろうが、あたしは一眼レフでの撮影でもライカの撮影でも28mmの広角レンズなら、最初から置きピンで撮影するからどちらでも同じことなのである。

手にすっぽりと格納でくるのはM1の方であり、大きくてその分だけ手に刺激を与えて視神経を覚醒させるのはM5の方だ。ただしM5にあまり大きな広角レンズを付けると「取り回し」が悪くなるので、可能な限りの小さなレンズをつける。それでこんな不思議なスタイルになった。

2012年2月21日 (火)

FED2と、アンダーパーフォレーションエフェクツ

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あたしの人生の奇跡というのは、食うや食わずでそれでもまだなんとか生きているという点にある。24歳でフリーになってすでに40年間が経過しているのだから、あたしの驚きはクレムリンから赤旗が降りたことや、伯林の壁の崩壊や、大震災も大問題だが、それらを経験したあたしがまだ存在していることだ。

一番の謎はこの1947年極東生まれの自分の存在だ。人間の生まれた場所とその時間ほど不可思議なものはない、と言われる通りである。

1970年代のウイーン暮らしでもカメラはろくなものを持っていなかった。そこでソ連製カメラと出会ったので、あたしは経済的に助けられ、同時に写真表現でも助けられたわけである。異なる経済体制でももとで生産される当時のソ連のカメラはその中のわずかな量が、バーターとか密貿易で当時の西側世界のフロンテイアであったウイーンに持ち込まれた。
このカメラ、フェド2型もそのような「もう一つの国」から来たカメラであった。

もっともウイーンのカメラ店ではお店の場所ふさぎであるから、ほとんど只みたいな値段で売っていた。ほぼ上等の牛肉が5キロほどの値段でレンズ付きのソ連製ライカは手にはいった。ただし高価神戸ビーフではない。普通の牛肉である。そのようなライカに対する代替品のつもりで手にいれた、フェド2だったが、あらたな驚きがもたらされた。

当時、ロバートフランクの作品に心酔していたので、初期のスイスから移民して、アレクセイブロドビッチに師事していた初期のフランク作品のスクラップブックをニューヨーク近代美術館のコレクションの中に発見した。そのすでに変色しかかった、メキシコのシリーズは画面の下部に点々と、パーフォレーションの闇が画面を浸食していた。これにやられてしまったのだ。

ようするに初期のライカなどで、フィルムのカメラ本体への差し込みの量は不安定であったりすると、この黒い斑点が画面に登場する。その真似がしたかったのだが、あたしの持っていたライカM2は高級機だからそんな問題はおきなかった。

ウイーンのカメラ店で手にいれたクラシックなフェド2ではそれが可能だった。この効果を利用した作品は、フランクの初期作品の真似なのであるが、あたしの写真集「ウイーン ニューヨーク 新潟」のウイーンのセクションに収録されている。

十数年前に数寄屋橋のギャラリーで個展をした時、そのいわゆる「アンダーパーフォレーション」のモノクロプリントを何点か展示した。その言葉が和製英語であることは分かっていたので、会場に詰めていたあたしは、英語の母国語の客を待ち受けていたのである。ようやく発見した、アメリカ東海岸の人に、背景を説明して、この状態を英語で一体、何と呼んだら良いのでしょうか、と問うた。

くだんの外人さんは、写真の素人さんであったが、あたしの英語の意味を理解して、しばらく考えてから「アンダーパーフォレーションエフェクツ」で意味は通じであろうと指南してくれた。

それでフェド2型はあたしには、そのアンダーパーフォレーションエフェクツを発生させる大事なカメラなわけである。ついでに自慢するのなら、この初期型のフェド2はその距離計窓が四角いのである。後期のモデルは丸くなってしまう。丸でも四角でも構わないようなものだが、こっちの方が好きだ。

2012年2月20日 (月)

荒川区・町屋・伯林ノシタルジー

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東京大周遊には約30パターンほどのモデルコースがある。そのうちのいくつかは、以前、雑誌en-Taxiに同名のタイトルで連載したが、これは福田和也さんや、取材のカメラマンさんが同行して記事にするわけだから当然として、実際の東京大周遊は単独行である。当たり前の話で、ゆきあたりばったりにコースを設定するのだから、コースはあたしの胸先三寸で決まるわけだ。これが取材だと皆さんに迷惑がかかるので、いきなり方向を変更することは出来ない。

いきなりの方向変更とか、引き返しは「天候が悪いか、到着空港の視界不良の場合には出発空港に引き返すことがあります」という、おなじみの国内線のアナウンスに許されているだけだ。

しかしこの間の晴れた2月の日に、手持ちのコースを増やすつもりで、ロケハンに出掛けた。なにもソロだからロケハンもないのだが、実際にはライカインコと同行二人という事情もあるので、未知のコースをトラバースしたわけだ。あたしとしては「空白の五マイル」の領域の探査のつもりだった。

メトロの町屋と北千住の間の区間があたしにとって、なにか航空機による連絡を感じさせるのはその間には道がないからである。この超絶感がいい。

実際には尾竹橋通りで町屋と北千住(実際には千住桜木)は結んでいるわけだが、墨堤の右岸をトラバースすれば、どこかで左岸に連絡がつく人道橋がありそうなものだと思ったのである。

パリのセーヌでもプラハのモルダウでもそういう人間の通る橋はある。もともと橋は人間さまが通るもので、クルマとか列車が通るようになったのは後世のことだ。

町屋駅前から北上して適当な場所で右折して、京成線に出会ったのでそれを潜って、町屋の火葬場の前に出る。明治20年代の子規がまだ元気な当時に、この界隈の田園風景を徘徊していた子規は、博善社(火葬場)の前から飴売りが太鼓を叩きつつ出てきた、その不似合いな組み合わせに立腹している。

あれから100余年が経過したのであるから、向こうに分かる橋がありそうなものだと右岸を下流に向けて歩行したが、何もない。京成線の鉄橋は電車だけであって、人間は渡ることが出来ない。

だからこれは一種の独占である。なにか京成の陰謀ではなかったのかと思える。結局、そこからはるか下流に迂回して、千住大橋まで隅田川を向こうに渡る徒歩の手段はなかった。

それで思いだしたのは、統合以前の伯林のことだ。隅田川を伯林のシュプレー川に見立てると、ここは対岸への連絡が途絶しているのだから正に国境である。

そのつもりになって右岸を歩いていたら、東伯林のテレビ塔が視界に入った。これはあたしの「ジャイロコンパスの時間設定」が誤っているのだ。すぐに1970年代から2012年にジャイロコンパスをリブートしたのであるが、これはあたしの東西伯林時代の分断へのノスタルジーが見せた「迷景」なのである。

2012年2月19日 (日)

屋根裏プラハと、FEDと、アンネさん

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話題沸騰でCP+で三時間待ちの、OMDをあたしも早速使ってみたいが、テストレポートはもう少し先になりそうだ。

それでそういう「カメラの空き時間」を狙って、上のカメラFEDの1934年モデルを持ち出した。佃地方の我が家から出て、ぼけこっこさまのケージのある、佃島小学校の前あたりでどうもフィルムの巻き上げの具合が悪い。

それで佃島公園の中にある、あずまやにてFEDを分解して各部点検していたら、向こうから「写真撮っていいですか?」と声がかかった。声の主は外人さんである。この状況を判断するに、欧州から来た外人カメラマンが、極東は地の果ての佃島の老人があずまやで休憩している所を撮影することになるわけで、実に民俗学的な写真の魅力に満ちているのでは、と、これはあたしの勝手な想像である。

その女性の日本語はあたしよりうまい。だいたい、あたしは日本語のネーテイブスピーカーであるから、日本語をぞんざいに扱う。

あたしは英語も独逸語も無手勝流でそれなりに用を足しているのであるが、外国人と日本語で話しをするときには、緊張する。主語動詞時制格変化をちゃんと話そうとするンのである。

最初は昨日、日本に来たツーリストさんかと思って、「日本語がお上手ですね」と聞いたら、ヘルシンキから来たアンネさんと言う人だった。昨日、ヘルシンキからフィンエアで到着したのかと思った。

そこであずまやの中で日本語会話をしてみたら、アンネさんはスエーデンの大学の日本語学科を専攻した方で、しばらくはチエコのブルノにも住んでいたそうで、あたしが見せた「屋根裏プラハ」のチエコ語のサブタイトルを理解するようなレベルの高さだった。いえ、もちろん日本語のテキストだって理解できるのである。

それで持ち合わせていた、「屋根裏プラハ」を贈呈したのだが、だんだんお話を聞いてみると、アンネさんはお子さんが生まれてからは育児に専念しているそうで、やはり東京のフィンランド学校でちゃんとフィン語をお子さんに教育しているという。これは当然であって、その逆の状況で欧州で生まれた日本人の子供さんが日本語で苦労したりするのをあたしは知っている。

ここで何が面白いかと言えば、もし、あたしの戦前のFEDが普通にフィルムを巻き上げていたら、こういう「国際交流」は起こりえなかったわけだ。実に時間の偶然が紡ぎ出す出会いとは不思議というわけである。

別れ際にアンネさんのフルネームをお聞きしたら、名字は日本人の名前であった。何のこともない。つまり、あたしは「日本の方と日本語で会話」をしていたのである。

その夜、アンネさんから丁重な本のお礼のメールをいただいたので恐縮した。言うも愚かであるが、それは日本語のテキストなのである。

ところでアンネさんは日本語を勉強する以前に、ロシア語を専攻していたそうだ。当然の話で、サンクトペテルブルク前に広がる海は、フィンランド湾なのである。ロシア語とチエコ語には共通点があるので覚えやすいとアンナさんは言う。しかしあたしは何度かチエコ語を勉強しようとして、あまりに子音が発音困難なので投げ出した口なのである。だからこういう人はやはり語学の天才と言うべきであろう。

★アンネさんが撮影した、あたしのフリッカー画像はこちら。

http://www.flickr.com/photos/akurashashin/6899242643/#/

2012年2月18日 (土)

2002年は十年前のことなど

昔、東京大周遊飲酒で浅草、神楽坂、茗荷谷と痛飲しの夜遅く、丸の内線の車内で、福田和也さんと並んでベンチにかけていたら、福田さんはいきなりあたしの方に向き直って「ちょーとく先生。佃日記」を出版しませんか。という提案があった。それで10年来の雑誌に印刷されたりオンラインで記載された日記を整理した。それが原稿用紙で8000枚とかでその企画は台割りまでしたのだけど、某出版社の社長交代時に「不用不急の本は控える」との戒厳令にて無期延期になった。
それを今度は別の小出版社から250部の限定にてオリジナルプリントつけて販売する計画が進行中である。

それで10年前の日記をクラウドから棚下ろして見ているのだが、10年前にはたしかに、インターネットは遅いしミラーレスデジカメはないし、ペンペンもペペンペンもA12もOMDもなかったけど、カメラの選択のスタンスはフィルムとデジタルの二頭立てであったことがわかる。
その意味であたしのカメラ選びと写真家の仕事のデテイルは不変なわけである。ただしあまり変化のないのは、進化がないので問題なのかも知れないが、まあそれは其れで良い。

あたしが10年前に何をして何をカメラに対して一体何を考えていたのか、その一例が以下の文字列である。
変わったことと言えば、野々宮の車がジャガーからBMWになったこと。それとJALのFクラスなどをバブルの流れでまだ使っていたのが、最近では思想の正しいSUとかKEとかKLなどのYになったことか。

以下は2002年の佃日記。本日画像なし。

1月5日 土
朝、

メールチェックしたらプラハのバベルからプラハの雪景色の画像到着。昨年の10月にバベルに提供した「旧型」のニコンクールピクス950での撮影であるが、彼のアパートの窓から見た眼下の路面電車が良い感じである。一台のデジカメを特定の個人が持っているかそれとも否かで、その人間の周囲の状況が世界に伝わるか否かが決定的な要素になるのは、当然のことながら改めて認識してみると面白い。これはインターネットが大前提のことなのであるが、1MBの画像がG3ノート上で見られるだけで、それは一種の視覚の代理体験、いや、21世紀の新しい体験となるようである。
その雪のプラハのメールを見ていたら、それまで晴れていた空がいきなり曇り、小雪がちらつく。午後1時、野々宮ジャガーが迎えにくる。野々宮に渡した2002年の「お年玉」は16ミリ映画用の超広角レンズ、ニッコール6.5ミリである。昨年の2月にアローカメラで空前絶後、大量の8本の買い付けをして(当時、これはギネスブックモノだと冗談を言っていたものだが)死蔵していたもののうちの1本。クルマにて砂町銀座を始め、裏東京の盛り場をデジカメで撮影する(毎日の仕事)つもりが、道が渋滞していないので砂町銀座を通り越してしまう。それで、まず京島3丁目に行く。

ここで3台のデジカメのメモリをほとんど使い果たしてしまう(機種はソニー、オリンパス、キヤノン)。向島の鳩の町に行った時にはほとんどメモリなし。裏通りのタイル貼りの建築などを撮影してメモリ、完全になくなる。そしたら、いきなり良い天候になったのは皮肉なり。クルマを転じて赤羽に向かう。道の途中の町工場の、白地に黒い文字で書かれた無味簡素な看板がよい。それもかなり大きいので立派な看板建築である。クルマを停める時間はなかったけど、これは4×5カメラで撮影したい。

赤羽の小山酒造の立ち飲みはしまっていた。荒川を越えて川口市に至る。駅前の混雑した感じは17年前と変わらず。駅前の川口堂書店が良い。当時、板橋から自転車にて川口の撮影に行ったが、あの当時にはまだキューポラが残っていた。あの時に撮影した大量のフジクロームを本誌の連載でやってみたし

クルマを戻して西新井を経て立石駅前の秀寿司に至る。店は大繁盛にてシャリがなくなるほど。2人前のおみや2つを1人前を2つに「減額」させられる。この駅前のすしは恐らく、そのコストパフォーマンスからすれば日本一であろう。立石仲店を散策。

クルマにて本日開店の本所二丁目の牧野に。野々宮と新年宴会中に例のJALのFクラスのチケットを、ケータイから落札。帰宅してメールを見るに、キエフの500ミリレンズをウクライナから発送したとの報。「付録」としてコンパス35ミリカメラのボディを付けてくれた由。これは私へのお年玉である。

2012年2月17日 (金)

チエコTVの午後七時のニュースの「さかい土浦展」

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プラハのルツエルナパレスでさかい所長の「土浦パノラマ」展は好評のうちに3月初旬まで開催中であるが、初日にチエコTVのニュース取材がはいった。

その翌日にON AIRというので、午後7時から普段TVを見ないあたしも、ホテルの下手で注視していたのだが、その日の放映はなくて、その翌日に放映されたそうである。

それをプラハのP(新刊の屋根裏プラハで登場のプラハのジャーナリスト)がチエコTVのリンクを送ってくれた、その2分ほどの「トップニュース」の画面をあたしが複写したのがこれである。

チエコ語であるが、その内容が推測できるのはわれわれが日本語で話したのが、通訳されているからだ。(考えてみればあたりまえ)

それで驚いたのはさかい所長のことを「日本のヨセフ・スデク」と呼んでいることだ。これは実に嬉しい。さかい所長は自分はヨセフ・スデクの最大の心酔者と言って憚らないのだが、その個人の思いが「チエコ共和国が正式のお墨付き」を与えたということになる。さかい所長は名刺の肩書きに「日本のヨセフ・スデク」と書いて良いわけだ。

あたしも助演で現代のデジタルカメラ時代になぜ、若い連中にアナログカメラが好まれるのかという補足説明などをしている。

なお、この紹介画面は会場の一部であって、この小部屋がさかいパノラマ展の全会場というわけではない。念のため。

★チエコTVのリンクはhttp://www.ceskatelevize.cz/ct24/kultura/161122-japonsky-film-doprovodi-japonsky-sudek/

2012年2月16日 (木)

青山ブックセンター六本木店の「屋根裏プラハ」コーナー

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ヒルズの戻りに青山ブックセンターの六本木店に行ったら、入った左がわにあたしの本のコーナーがあって吃驚した。

八重洲ブックセンターでカメラ本を売っていた当時には、よくB1の趣味の本のコーナーであたしのカメラ本が最前列右側のボジションに平積みされていてその様子を見に行ったこともあったが、最近は書店はアマゾンだと思っていたので反省しきりである。

ABC六本木店は本のセレクションに独特の味わいがあってそれが魅力であることも理解した。アマゾンの単なる売り上げの数のソートとはちょっと違う。アマゾンだと目的の本を探すのは無敵だけど、なにが欲しいのか分からない状態で本の海の中を廻遊する楽しみというのはない。そこがバーチャル本屋でないことの魅力だ。

思わず、屋根裏プラハを手にとって数頁読んでしまった。ついでに田中長徳ペンの本の巻1と巻2を手にして、プラハとリスボンのショットを見てまたまた旅モードにはいってしまった。

2012年2月15日 (水)

昭和13年にライカは英国でいくらしたか?

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インドのムンバイから、壱千九百参拾八年当時の写真カメラ書がロットで到着した。これは小型のハードカバーで1938に当時の倫敦の大手カメラ店チエーンのWALLACE HEATON LTDの型録である。

およそ、われわれカメラ人類が一番知りたいのはこのような昔のカメラの新品の値段である。1938と言えば、かのオーストリア出身のアドルフがウイーンに乗り込んだ年でもある。
当時のライカの最新型であった3B型は最新鋭のキセノン50MM F1,5が付いて59ポンド6シリングであった。これが今の感覚でどれだけの値段なのか、ちょっと見当がつかないが、当時の最高級のプロ用35MM映画撮影機のニューマンアンドシンクレアが一式で300ポンドはしたのである。

一般にプロ用映画機材は労働者の1年の給与では無理で2年分の給与に相当するという、一般方程式で計算するのなら、二年分の年収を仮に2000万円とするのなら、ライカの最高級器はその5分の一でほぼ400万円ほどであろうか。もっとゆずって年収1000万円で計算するなら、それでも200万円だ。さらにもっと安く見積もって年収500万円で試算してもいいが、そういう年収ではまずライカを買おうという購買意欲はないかも知れない。ライカはトップクラスの価格であってアマチュア用の安価な機材はその下の価格帯に多数存在したからだ。

いずれにしても高いなあと思う。ちなみに対抗馬のコンタックス3にゾナー50MM F1,5が付くと78ポンド5シリングであった。ついでに書いておけば、殿様カメラであったコンタフレックスは、同じゾナー50MM  F1,5付きでさらに高価な87ポンド2シリング6ペンスである。
当時は旧のスターリングポンドだから、1ポンドは20シリングで240ペンスである。
しかしながら、大手の型録の巻頭に登場のライカなのに、その写真図版が左右が逆になっているのは、摩訶不思議である。誰もその異常に気がつかなかったのであろうか。

2012年2月14日 (火)

スデクのプラハ写真集

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新潮社から出た「屋根裏プラハ」と合わせて、アイランドギャラリーで同名の写真展を26日まで開催中だが、プラハと言えば、巨匠ヨセフ・スデクである。
この写真集は今では稀覯本に属するもので、1948にプラハのスボボダという書肆から出た。
佃の大ガラスの部屋の仕事机の上に常に置いてあるので、仕事に飽きると開いて楽しんでいる。そのまま視線を遠方に移すと、隅田川の上に空筒が見える。
屋根裏プラハの本のカバーは、1985のプラハの街の光景が「二重写し」になっているのであるが、こちらは実景で1945当時のプラハと今の佃地方が二重写しになっているわけだ。

最初の見開きの左側のショットは非常に好きな作品である。一方で右側のショットはかなり嫌いな作品だ。ようするにあたしの場合、歴史的な文化遺産と今の生活とが、ないまぜになっている光景が好きなのだ。だから左の教会とその手前の普通の家(とは言えかなり古いが)がひとつの画面に入っていて、しかもそれが雪景であるということに趣味の深さを感じる。

二番目のショットはプラハ城を東から王宮の庭園を前景に撮影したものだ。アングルがことなるが、右のショットの立ち位置は、現在でも夏なら入ることができる。カフカの城のことを思い出すのは、この庭園とお城の間には深い谷があるので、城までは直接に行くことが出来ないのがその心理的な背景にある。

三番目は「ベルベデーレ宮殿」を撮影したショットだ。ウイーンに長く住んでいた当時、アパートの向かいがウイーンのベルベデーレ宮殿であったので、そこの庭園は自分の家の庭であると考えていた。そのウイーンの庭に比較すると、プラハのそれはほとんど庭としての体裁を備えていない。それは庭ではなく、谷なのである。
ウイーンの風景はその構成要素が庭が主体になっているのに対して、プラハのそれは谷が構成要素になっている。これはちょっとした発見だった。

この噴水は水が出ている時には、歌うような水音がする。それが噴水に耳をつけると聞こえるのだ。70年代初頭に渋澤達彦さんが欧州旅行(この言葉には現代のわれらの欠損した過去の遺産という感じがある)の折、ここに立ち寄った記念写真我残っている。それでプラハでここを訪問すると、一度だけお目にかかった、北鎌倉の夜の渋澤邸を思い出す。

2012年2月13日 (月)

屋根裏プラハ対談@ABC

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福田和也さんと、六本木の青山ブックセンターで「屋根裏プラハ」のトークとサイン会を挙行した。「屋根裏対談」あるいは「屋根プラ対談」である。
数年前に、やはり福田さんをわずらわせて、八重洲ブックセンターでサイン会とトークをやった。その数年前には坂崎幸之助さんに対談相手をお願いして、東京駅の丸善でサイン会とトークを開催したこともある。

話慣れているはずなのに、書店でのトークはなかなか苦手である。満員のお客さんには分からなかったかも知れないが、無事に終わったあとに「ちょーとく先生、緊張なさってましたね」と福田さんに指摘された。さすが稀代の文芸評論家である。

福田さんにプラハのモルダウ河畔の日本大使館の二軒先のワイン酒場VIVOのことを話した。是非、今度行きましょうと盛り上がっていたら、会場後方でうなずいている「外人さん」がいる。お顔を見たら、在日プラハ大使館の一等書記官殿であった。この人はカレル大学哲学学部日本語学科出身の英才であたしなどより日本語の専門家である。あたしゃ、日本語に関しては「ネイテイブスピーカー」であることでまず最初にアウトである。

今回のイベントでは担当編集者の佐々木さんが、インフルで「学級閉鎖」になったのでその「代打」で、新潮矢野編集長が見えた。あたしにとっては矢野文章塾の師匠である。それだけでも緊張なのに、出版部長の中瀬女史まで見えたのでこれは大変なことになったと思った。
会場は満席(というより、椅子席は10ほどなので、ほとんど立ち見でまるで、四谷アローカメラのシドニーの立ち見席みたい)であった。

福田部長代理は、あたしが話題に詰まった時の「助け船」というので、ライカ3Cのグレーの軍用モデルに、これも非常に珍しい。戦前のライツのリストストラップを持参してテーブルに置いた。それで会話が一段落した時にそのライカで福田さんを3カット撮影した。フィルムを聞いたら「T MAX」ですとの答えにまた焦った。トライXは知ってるが、T MAXは知らないフィルムなので感度を聞いたら400だと言う。それで山勘メーターでf2で1/40で撮影したが、写っているかどうかは分からない。

トークの後にサイン会。無慮40冊以上の「屋根裏プラハ」にサインした。その時に中瀬部長があたしの脇に立って、あたしの目下開催中のアイランドギャラリーの案内はがきを「こちらもどうぞよろしく」とサインを求めるお客さんに手渡してくれたのに、また恐縮した。

10年ほど前、ライカ社の社長さんが来日の折、ウイーンのライカショップのペーターのところに修理を依頼した、デユフレックス(ハンガリー製の珍品の一眼レフ)を、ウイーンのペーターはライカの社長さんに持たせて、あたしの所まで配達させたことがあった。
こっちとしては思いもよらぬことなので、恐縮したのだったが、出版部長を脇に立たせて遣うとは、あれはご本人は「職責」とお考えなのであろうが、ともかくライカ社社長の他社のカメラ運搬させた以来の「あたしのベスト恐縮例」(日本語が変)なのである。

青山ブックセンターはあたしは恩義に感じている。10年近く前に「チョートクX六本木ヒルズ」を出版した時、その本を店頭に平積みにしてくれたのである。これはヒルズ店時代のことだ。

散会後、近所の雲南料理で会食。普段知りえない、出版界の話をいろいろ聞けて参考になった。矢野編集長の話では「屋根裏プラハ」の売れ行きは良いそうである。これも実にありがたい次第である。

2012年2月12日 (日)

コンタレックスという存在

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この前、銀座でデイスタゴン25mmを買った。それがきっかけになって、昔から家にあるコンタレックスとその交換レンズを並べてみた。無論これだけではない。本体は半ダース、交換バックなどは1ダースは持っている。
実に10年ぶりかでマガジンを付けて25mmで東京を撮影した。やはり重いし大きいのは、その存在がオリンパスM1などとは正反対の一眼レフであることが分かる。
このカメラを実際に使って名作をものしたのは、あたしの知る限りでは、アンセル・アダムスがあるばかりだ。彼は大型カメラしか使わなかったが、ごく例外としテ、ホロゴンウルトラワイドを遣ったので、その系列としてコンタレックスにも手を出したのであろう。

日本の人でコンタレックスの愛用者と言えば、友人関係ならまずリチャード・クーさんが居る。彼は若い当時にこの銀色の美女に一目惚れして、苦労してカメラを手にして交換レンズを買う余裕がないので、国産のサードパーテイ製のレンズを自分ンでコンタレックス用に改造したという、「剛の者」である。

黒田慶樹さんは、父上の遺品はライカではなく、キヤノンのレンジファインダーであるが、一眼レフの好みも個性的で、コンタレックスの愛用者だ。たしかご結婚の前のニュースなどの画面では部屋で、コンタレックスコンペンデイウム(カメラ本)を見ている姿が紹介された。

久々にこの重いカメラを持って東京を徘徊して分かったのは、肩からぶらさげる時にはレンズを内側にした方が重く感じないという一事だ。1960年代の新聞社のカメラマンがニッコール85-250をやはり同じように肩にしていたのを思いだした。

2012年2月11日 (土)

植田のあんこだま

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佃日記の2001年8月8日に以下の記載あり。

8月8日水
 前略  <<<午後、都営線とJRを乗り継いで、6月以来懸案の日暮里の駄菓子屋横町に「植田のあんこ玉」を買いに行く。夏場は生産しないとの由。これは偉いことである。秋以降の楽しみに回すべし。>>>後略。

植田のあんこだまは以外に良い知られている菓子だ。それも駄菓子屋の領域なのである。この「大箱」の値段は確か500円だが、あんで持ち重りするほどのボリュームである。以前はヒルズのレセプションのお嬢さん連の手土産にしたこともあった。

日暮里の駄菓子屋横丁が再開発でタワーになって、そこに行くのを止めてからは、もっぱら水天宮脇のお土産屋で買っていた。其れが、新潮に「屋根裏プラハ」の連載を開始するようになって、あんこだまがプラハのクネドリーキに変わって数年が経過した。

舎人ライナーが出来て、再開発のビルが完成しても、すっかり「植田のあんこだま」のことは失念していたのである。

数年ぶりに手にいれて、深夜に白湯で三つ四つつまんでみた。なかなかいける。しかも最初につまんだのが「当たり玉」であった。これはもともとこのお菓子が「駄菓子屋ルール」のもとにあるので、小さいあんこだまの中に砂糖の玉が下の先で探り当てられると、箱の上の方にある「大当たり」のジャンボあんこだまをもらえるというルールなのである。

そういう田舎の駄菓子屋にこの緑色の箱がなにやら、埃っぽい店先に並べられるこれは予感を持っている。そういう駄菓子屋はあたしの記憶の中にしか存在しないけど、もしこの駄菓子を店先に並べていて、子供相手に商売をしている店があるとしたら、一体、ひとつぶを幾らで売るのだろうか。

植田製菓は荒川区東尾久1丁目にある。壱拾年以上前から一度見学に行きたいと思ったまま果たせていない。

2012年2月10日 (金)

新OM-Dのデザインは「ネオバロック様式」か?

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1972年の何時であったか、発表されたばかりのテスト用のオリンパスM1を手にした。その時の印象は強烈であったので今でも良く記憶している。

1970年代半ば、あたしのウイーン在住当時にもM1からOM1に名称変更したカメラは良く使った。ただしあたしのカメラではなく、当時ウイーンに留学していた音楽留学生のカメラであった。その小型軽量はなかなか使えたので、ほとんど所有はあたしのカメラになっていた。
1980年の秋にリスボンに行った時にもそのOM1とレンズ2本を持参して撮影した。その2月後に日本に帰国したのである。

1981から1983まであたしはアメリカのカメラ雑誌、モダンフォトグラフィ誌の極東コレスポンダンスとして仕事した。ボスのケプラーさんについて日本中のカメラ工場を取材した。その時、数ある一眼レフの中で、ケプラーさんが愛用していたのが、OM2であった。

その影響を受けて、あたしはOM4を仕事に使うようになった。ケプラーさんにOMを使う理由を聞いたら(当時のアメリカのメデイアは京都の俵屋に泊まるような豪華な取材であった。日本の露天風呂を教えてくれたのも、ケプラーさんだった)なによりも、小型軽量なのが良いとのことだった。デザインがいい、とも言っていたがそれは二の次の話なのである。

まだ商品化されていない、プロトタイプも各カメラメーカーではケプラーさんにはちゃんと見せた。それだけケプラーさんは世界のカメラマーケットに影響を与える特別な人物であった。今はそういうカメラ人類は絶えて久しい。

撮影可能な「アンダーテーブル」(発表前)のカメラは、その場で白いハンカチ(何時も持参していた)をバックにして、OM2の上にデデイケートフラッシュをつけてケプラーさん自身で撮影した。これはまだデジタル画像などが登場する四半世紀前の話なのである。
カメラメーカーから配信されるのは発表済みのカメラのあまり画質の良くない紙焼きプリントであるから、世界のトップクラスのカメラ雑誌の編集長自身で新製品とか試作品の撮影はなされたのである。

あたしの場合、この70年代のM1の登場と80年代のOM2をケプラーさんが愛用していた事がすりこみになっていたので、OMシリーズは良く使った。
確か多摩川高島屋の新聞広告であったと思うが、ウイーンに仕事に行った時、あたしはOMが2台に21.35.100の3本のレンズのみだった。クライアントの広報部長さんはカメラ好きなので、キヤノンF1にモーター付きで超広角から300ミリまで持参したが、全機材を持って歩いたのは初日だけであった。重さでアウトになってしまったのだ。
OMシリーズに3本のレンズだけ。これがあたしの80年代の標準機材である。

新OMDが「オリンパスOMシリーズの初めてのミラーレスカメラ」という認識。これが新製品のあたしの一番的確な感想である。M1の継続の最新型という意味である。

この実機を最初に見せられた時に、感心したのは「OMのラインが良く生かされているな」ということであった。しかもフィルムのOMより7割サイズなので、非常に引き締まった感じを受ける。

あたしは写真家としての仕事の他に最近では新刊の「屋根裏プラハ」(新潮社)などでのエッセイ書きも仕事にしているが、そのプラハ本の話の中でも建築に関する記述があたしの場合はなかなか多い。
ようするにネオバロック、ネオゴシック、さらにキュビズム建築と、表現派建築の話なのだが、35mm一眼レフの歴史は建築になぞらえることが出来る。分かり易い所で言えば、ミランダTとかアサヒフレックスはロマネスク。ニコンFとかキヤノンF1はゴシックだ。その(カメラ)建築様式の変遷という立場から、OM-Dをなぞらえてみれば、これは40年前のM1がバロック様式であろとすれば、新OM-Dはさしずめ「ネオバロック様式」であると分類することが出来る。

もし、過去のカメラ美学の伝統を現代に継続することが可能ならば、高千穂光学の強みはここにある。
伝統のデザインを新しいカメラの骨格に組み込めることは、これは単なる過去の自社デザインの「コピー」なのではない。これは「オリンパス様式の伝承」というべき事件であると定義したい。

2012年2月 9日 (木)

スデクの黒

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昨年の何時だったかもう忘れたが、東西線の行徳あたりの駅で降りて、北に歩行した。ここは市川市であって、江戸川が街の東側に高い土手を形成している。
その上に登って、土手を上手に歩行すると、その先は旧江戸川との分岐になっている。川の分岐点を視るのが、あたしの趣味のようであって、この前、プラハに向かう時には、やはり成田を離陸した飛行機の左側に座っていたら、離陸数分で荒川と隅田川の分岐点が見えた。
すなわち、それは岩淵水門界隈なのである。普通だと双眼鏡で確認できる程度だが、1月13日にはそれが裸眼で確認できたのには感心した。

同様な川の分岐点には、ウイーンの着陸寸前んおドナウ川がある。この場合、ウイーンを東側から南に巻くようにアプローチすす場合、進行右側にはドナウが分岐してドナウ運河に分かれるポイントが見える。いずれにしても、そのポイントは高速で移動する飛行機から視るのだから、数秒に過ぎない。それが素晴らしい。augenblickというやつだ。そこには地理の真実が垣間見えている。

この水たまりがあたしの好きなものであって、よどんだ水の上に疲れた地平線が横たわっている。この前にここに来たのは昨年の時期は何時か忘れた。

今日来てみて、撮影して驚いたのはカラーで撮影しているのに、それがまるで「スデクのモノクロプリント」のように見えたことだ。カラーの設定を間違えたのかと思って確認したが、正しく普通のカラーモードで撮影している。

スデクの名作に、モルダウを川岸から撮影した作品でちょうどこのような似た枝ぶりの樹木が前掲にあった構図のがあったのを思いだした。

2012年2月 8日 (水)

石元泰博さん1921-2012

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Photo 石元泰博さんが2/6に亡くなった。90歳だった。
季刊クラシックカメラであたしが「責任編集長」をしていた当時、石元さんのライカM2のブラックペイントを取材させていただいたことがあった。
その実機のほんの一部の大きさにして1mm x 3mmほどのペイントが剥離したので、あれは小石川にあった編集部であったが、それを石元さんのライカの「形見」として、フィルムの袋に入れた。居合わせた数人にこれが本物の石元ライカから「剥がれた塗料」であることを証明してもらう為にサインしてもらった。そのライカのかけらをいただきたいとお願いした。これが前世紀の話である。

先週の札幌でホテルの29fから視たパーキングロットの眺めから、なぜか連想されたのは、石元さんの写真集「シカゴシカゴ」だった。あそこには巨大なパーキングロットが登場する。駐車場を視て石元さんを思い出すのは、あたしの場合には正統的な記憶の脈絡なのである。桂離宮をあたしはまだ視たことがないが、恐らく桂の実物を見てもあたしは石元さんを連想することはないのではなかろうか。

札幌の三日間に視たホテルの窓からのパーキングロットの印象は不思議なものであった。昼間には満員の場所が深夜になると、そのスペースが空になるのである。
それは当然なことながらあたしの了解したのは、このパーキングロットというのが、これが現世の象徴のことであって、それぞれに駐車しているクルマがそれぞれの人生ならかならずそれぞれにクルマは去って行くのだということだった。
その2日後に石元さんの訃報を聞いたのである。不思議な気がした。

石元さんと最初に会った(目撃した)のは、1965年であったか、まだ西銀座と言われていた、当時の地下鉄丸の内線駅の乗り換えで、中型のジッツオの三脚にブラックのライカM2を付けた石元さんである。あれに影響されてあたしはライカM2のブラックを買ったのである。

次に石元さんを見かけたのはずっと時代がくだった1980年代で石元さんはジーパンにノーネクタイのワイシャツ姿で肩から、EOS1を提げて有楽町の雑踏を足早に曲がっていった。かっこいいなあ!と思った。当時のEOS1はそのほとんどが「仕事のカメラ」の存在であった中に石元さんの肩のEOSは「表現のカメラ」に見えた。すなわち、EOSの「階級」がずっと上に見えたのである。この時にも声をかけるチャンスがなかった。

その数年後にあたしは建設中の東京テレポートを撮影の為に8X10に機材をつんでまだ無国籍地の有明の界隈を走っていた。はるか進行方向前方にジッツオの三脚を持った人影が見えた瞬間にあたしはそれが誰なのか瞬時に分かったのである。
両肩に二台のEOS1を提げた石元さんであった。
「お乗りになりませんか」のあたしの問いの答えは

「いや、いい!」
これだけである。

その前年かに銀座のプランタンかどこかで東京を撮影した8X10の作品展で石元さんは受付におられた。そこで8X10での撮影の具体的なテクニックについて、立ち話で45分も会話が展開したのである。
石元泰博こそが、現代において、写真を観念から脱して語ることの出来る唯一の写真家であった。そこでは芸術論もなければ、写真の信仰論もない。ただただ、大きな重い8X10の機材を運搬するにはどのような方式がベストかが討論されたのだった。

最後に石元さんの謦咳に接したのは、昨年の東京は六本木での講演会である。「桂」についてのお話だった。当時のデイレクターは自分の作品を「トリミング」して発表したが、本当はフルサイズの画面が正しいという、正鵠を得た1時間ほどの講演会だった。
そこで手にいれた米国での展覧会のカタログにはまだ来日したばかりの銀座でリンホフで撮影する若き日の石元さんが写っていた。撮影はこれは大辻清司さんではなかったか。

あたしの写真家人生で石元さんとの会話は前記の「いや、いい!」とその前に展開した、8X10の撮影テクニックの45分だから、都合、45分と数秒である。

これで十分だ。我々には石元さんの仕事がある。これからが石元さんの本当の仕事の始まる時間なのだ。

2012年2月 7日 (火)

雪の夜汽車

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先週の札幌行きの記憶の断片があちこちから顔を出す。ホテルは駅前の上空であったから、駅に直角に交差する、鉄道路線が見渡せて、あたしは別にテッチャンではないけど、それなりに楽しめた。

夜、日付が変わる頃になっても列車はちゃんとやってくる。それを見ているうちにこれを流し撮りしたらどんなものかと思いついた。

XZ−1で数枚撮影した中の比較的、出来の良いのがこれだ。流し撮りというのは、以前にトヨタの広告写真に携わっていた時には大事なテクニックであった。まだ黎明期のクルマは、いわゆる、「ゼロよん加速」を競っていた当時のことだから、速度は非力である。だから俊足というイメージのカットを撮影する為には、こういう流し撮りが有効であった。

当時はデジカメではないので、フィルムで沢山撮影してその中のベストショットを選んだ。今はすぐに結果が出るので、まずスクラッチくじが外れるようなもので、なにか味家ない。

下の画像はXZ-1に以前、我楽多屋で買った、8X32の双眼鏡を前に手持ちで宛がって撮影した。これも立派に実用になる。イタリアのGAMIの16MMスチルカメラはもっぱらこの手の望遠コンバーターレンズであった。あれは格好良かった。

2012年2月 6日 (月)

「屋根裏プラハ」の新聞広告と手作りフライヤー

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札幌から戻って「時差」で寝ていたら、家人が寝室に朝日の朝刊を持って入ってきた。新潮社の新刊広告でそこに「屋根裏プラハ」のコマ割広告が出ている。
これは嬉しい。時差が一度にすっきり覚醒する。
その上にあるのは、担当編集の佐々木さんが制作してくれた、フライヤーである。この手作りの感覚も嬉しい。
このフライヤーは12日から始まる、京橋のアイランドギャラリーでもこの本を扱っているのでそういう場所とか、書店に置いてもらうことのようである。

さし当たり、あたしが置く場所が考えつかないので、六本木駅の入り口で配ろうかと思ったがそれは迷惑というものである。だからヒルズのライブラリの受付に置いてもらおうかと思う。

1970年代のプラハで、名物おじさんが居た。小雑誌を売っているのである。それが老舗の薬局の前で、その薬局というのはバーツラフ広場にある。チエコ語の冊子だから、同行のプラハのPにその内容を聞いたらそれが「ヒッチハイクで世界一周」というご本人の経験本だった。
当時の社会主義体制下で、外国でのヒッチハイクはかなりの困難を極めたことであろう。

2012年2月 5日 (日)

35Fのおかゆ

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★昨夜、札幌から東京着。東京の方が寒く感じる。

今回のJALダイナミックパッケージは往復Jクラスで、札幌駅前のタワーホテルで三泊ブレックファースト3回とスパ付きで4,6カメラ円である。
銚子に二泊三日で3カメラ円はかかるのだから、これは安い。どこがもうけているのか心配になってくる。

35fのレストランに都合3回行った。チョイスはバイキング(これ、マンハッタンのヒルトンのレストランでマネジャーが使ったので吃驚した。ただしくはビュフェであろう)か、和食。バイキングは家族連れで待ち席状態なので、丹頂という和風に行った。
係りの人が「あと、500円足すと海鮮どんぶりができます」という。あたしは、海鮮はもう食べ飽きたので、おかゆを頼んだ。大体がおかゆを頼むというような年齢の老夫婦が多い。

おかゆをすすっていたら、脇のテーブルに若い男性が一人で座った。係りの人が同じ内容の質問をしている。その答えは
「大丈夫です」
この大丈夫の用法はあたしのような明治時代の本を読んでいる人間には吃驚するのである。ようするにプラス500円の海鮮どんぶりではなく、普通のごはんを頼んだというわけなのだけど、この用法「大丈夫ですか?」はコンビニのキャッシャー用語なのかと思っていたのが、通常の日本語会話で使うんですね。

それなら、海鮮丼を頼まない場合には、健康に甚大な障害が出るのだけど、それを我慢して「大丈夫です」と言ったように聞こえる。
まあ、海鮮丼を食わなくても「今すぐに健康に問題が出る段階ではない」ということなのであろう。

2012年2月 4日 (土)

新札幌の雪に驚く

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札幌三日目。
東豊線のメトロにて、南の終点、福住まで行く。ここには札幌ドームがある。それはJALホテルの窓からも双眼鏡で見えている。

札幌の地下鉄の特徴は、改札を出てから地上に出るまでの距離が異常に長いということに尽きる。しかもその方向の表示が、これは日本の地下街のマイナス面でもあるのだが、指標が不正確である。
これは日本人の方向感覚の不確かさから来るものであろう。ドイツだと初めての街でもまず案内指標に従って歩行して道に迷うことはない。日本だと簡単に迷ってしまう。それが面白いと喜んでうちはよいが、そうで無いときには問題になる。

たとえば地下街でこの先の角を右に曲がるという場合、欧州ならその角にまっすぐな↓がある。ところが日本だとそのかなり前に↑の先に→が組み合わさった、鍵型の→が出てくる。これは親切のつもりで表示してあるのであろうが、かえって混乱を招く。

あたしはメトロの東西線でJRの駅に地下から出ようとして、駅を通り超して、その先の商業ビルに出てしまった。JRの標識が見えなかった。ここに来る旅客は誰でも知っているであろうというので、省略してある。でもあたしのような最初に新札幌に来た人間にはそれは分からない。

新札幌で駅前のタクシーが積み上げてある雪に隠れてしまっているのは、これは立派なアトラクションであった。そういう雪景は実に久しぶりに見た。

この下に高田あり。という伝説の表示板を思いだした。

2012年2月 3日 (金)

サッポロJALタワーホテルはカフカの城のようだな

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昨日からサッポロのJALのタワーホテルに泊まっている。南向きの部屋で29fなのだけど、感じとしては、ヒルズの仕事部屋の49fより高く感じるのは、街の小さいせいであろう。その先に雪山が見える。一昨年の今頃、ジュネーブサロンに行った時に、会場のすぐ先にモンブランが見えたのを思いだした。

今回は例によって、サッポロの今井コレクションの「研究」に来た。ブリテイッシュジャーナルオブフォトのアルマナックの1931から33までが3冊揃いである。これが面白い。1931ではライカがようやくレンズ交換式になったというのがライカの最先端のニュース。1932年はコンタックスが登場した年、で本格的なレンジファインダーの歴史が開始された記念すべき年代である。
当時のカメラの価格が分かるのも面白い。映画カメラのコレクターのあたしとしては、英国のシンクレアの当時の価格が分かったのが最大の成果。

それはともかく今回はJALのタワーホテルで朝食の時には上のような素晴らしい眺望が楽しめた。それが午後には視界ゼロの吹雪になった。

このホテルに到着するのは、なにかカフカの城のような趣きがある。JRの構内の案内でそれに従って歩くと変な場所に出てしまう。
それに南に向かった正式な車寄せは、洞穴のような印象の殺風景な場所でトラックの集荷所のようだ。チエックインする時に、タワー(城)は見えているのに、そこに至る方法がない。それでガードマンさんに効いたら「この奧です」だと。

車で乗り付ける人なら何の問題もなかろうが、さっき、今井コレクション(時計台の向かい)から徒歩で南口に出てホテルの車寄せに歩行しようとしたら、その手前で歩道が消失している。
それで非常階段のようなのに雪が積もっていて、「反対に行きたい市民はこの階段を登れ」とある。苦労して雪の階段を登ったらそこは、歩道橋の真上でホテルの入り口はさらに雪の降り積もった歩道橋を降りるのである。
高齢者にやさしくない作りになっているので、冒険感覚が楽しめる。

河口彗海は西蔵に入国するのにカンチエンジエンガの雪の高峰を踏破したが、その気分である。もっとも河口彗海は戦後に防空警報の中、暗黒の夜にそこらに掘ってあった穴に落ちてそれが原因でなくなっている。
サッポロも歩行には注意が必要だ。

★カメラはXZ-1

2012年2月 2日 (木)

「屋根裏プラハ」(新潮社刊)の刷り出し

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★札幌滞在。

昨年の2011年は一冊も出版がなかった。それで実に久しぶりに「刷り出し」がでた。これは「屋根裏プラハ」の担当の佐々木さんが送ってくれたのだ。新潮の本誌の連載時にも刷り出しは送っていただいたが、あれは毎月10頁だった。その20回分がどかんと(実際には17回分だけど)届くと迫力である。

昔の本はこのままに製本して、ペーパーナイフでその紙の端を切りつつ読んだものだという。それは知らないけど、日本の古典の稀覯本などの復刻版でその造本の具合は知っている。確か漱石の「猫」の本文は印刷したままになっていてそれを切り開いて読む形式であった。

ちゃんと製本された「屋根裏プラハ」ではそんなことは感じないのだけど、この「刷り出し」を視ていると、それがなにかオフセットではなく、昔の活版印刷のような印象を受けてくるのも不思議なことである。その理由は印刷された紙がそのままに存在するので、紙の上を通過して行った版の圧力の痕跡をそこに感じることがその理由のようである。

印刷は大日本の市ヶ谷工場(のよう)である。あの市ヶ谷工場は以前、朝日新聞の連載を担当していた当時に、見学に行ったことがある。あの急な坂のまるでリスボンみたいな丘の上で刷られたと思うとまた感慨が深い。

★「屋根裏プラハ」はアマゾンのエッセイのランキングで現在30位という。http://www.amazon.co.jp/gp/bestsellers/books/507402/ref=pd_zg_hrsr_b_1_4#2

2012年2月 1日 (水)

成田の到着の「平安神宮」のへんてこな電飾看板を点灯せよ!

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★本日移動日 東京 札幌。

インチョン空港のラウンジで酒盛りしていたら、成田行のA380がスポットに入ってきた。搭乗口のB17はサテライトの一番先にある。そこまでぶらぶらしていたら、韓国文化を宣伝するコーナーみたいのがあって、伝統の衣装で練り歩いていた。こういうのはあたしはもとから嫌いなのだけど、観察するにその衣装がなかなか威厳があってしかも色彩が良いので感心してしばらく見ていた。

伝統的な衣装の良さというのは、その前の週に、プラハのさかい所長のレセプションでさかいさんが、紋付き袴を着用したので感じていたのだが、こっちの韓国の衣装はもっと古い伝統であるのは分かるが、色彩が良い。

その形から時代をあたしの歴史はまるっきり分からない頭脳で検索すると、なにか頭髪と髪飾りのデザインが大昔の1万円札に出ていた日本の人の装束ににている。

A380で一時間ちょっと飛行して、金沢あたりから日本の陸地に入り、前橋の南からいわきの南をかすめて鹿島灘から銚子の沖に出てそこから北に転じて着陸。

旅券検査への通路の最初の段階であたしはまたもがっくりきた。昨年の3.11の一週間後にニューヨークから戻った時にもここを通った。電力不足という口実を見せる為に、日本の玄関のそれも外人客が最初に目にする、例のキッチュな「平安神宮の電飾看板」の灯りが消えていた。

いつもこの平安神宮の電飾を見て、日本の憂鬱を感じるのであるから、まず消灯されているのはあたしには有り難いけど、日本を訪問する外人さんにはどう見えるのか?まるで戒厳令の国に来たようだ。あるいは将軍様の喪に服して、明かりを消していると思われても仕方ない。

がんばれ日本は大嫌いな言葉であるが、それだけ頑張っているのなら、成田の電飾看板くらいは点灯するくらいの「電力のゆとり」はある筈だ。

恐らく「上からの指示」がないのでまだ消したままにしてあるのであろう。

日本のがんばりぶりを知ってもらう為に外人さんを何千人か招待する計画は、駄目になったそうであるが、それよりここの灯りをつけましょう。

環境芸術家、クリストは彼の祖国、ルーマニアに居た当時、一週間に1回だけ通過する国際特急列車の窓から「豊かな祖国」を演出するための任務についていた。すなわち、列車の見える範囲でトラクターを動かし、収穫物を山積みにして、明るく楽しく働く労働者を配置した。これは演出による第一印象を良くする為であった。今の日本はそのまったく逆をやっている。しかもそれが無意識、無関心に由来しているのが怖い。

成田の到着の「平安神宮」のへんてこな電飾看板を即点灯せよ!

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  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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