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2012年1月31日 (火)

使いこんだXZ-1に美学を感じる

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今回のプラハ行きは、さかい写真研究所のさかい所長の、向こうでの個展というサポートがあったので、最初の1週間は目のまわる忙しさだった。
それで首からXZ-1をぶら下げて行った。まるでツーリストのじじいであるが、これが案外に快適だった。
ペペンペンだとやはり高千穂の銘機であるから、作例を撮影してやるぞ!(最近のtwitterの書き込みでカメラ女子が猫連を撮影したくず写真を皆さん、自分の作品と呼ぶのはやめて欲しいという投書に禿同、我ら「作例写真家」はもっと作例にプライドを持とう!)と、意気込むのが良くない。

その点、XZ-1は気楽に肩の力を抜いて撮影できる。昨年の3月のマンハッタンでも雨の中をXZ-1を裏返しにぶら下げて撮影して、好結果を得た。

あたしのXZ-1はご覧のように、最前線から戻ってきたような状態である。ベルクロは昨年の3月のマンハッタンで貼った。これはハンドリングが良くなるのであるが、この前、ヒルズで打ち合わせをした時、高千穂の偉い人の前ではロゴマークが見えなくなっているので、ちょっと心配した。高千穂光学は大事なお得意さまである。

しかしこういう高性能のコンパクトカメラは最初からレンズ交換できないから、あたしのようにラフに使う「都会戦場カメラマン」には最初からゴミの入る心配がないのが良いが、メーカーさんにしてみればレンズ交換が出来ないとご商売にならないのであろう。

この前、プラハのP(あたしの銘機礼讃に登場する、ハベル大統領の友人)が新しいフジのレンズ交換式のデジカメに興味を示していた。だから「実際の現場ではレンズ交換など煩雑だから、その前のモデルのレンズ交換の出来ないのがいいのでは」とサジエスチョンしたのだが。

2012年1月30日 (月)

新潟行き

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インチョン空港関係のニュースで「東洋最大の免税店」とか言われていたので、その印象は否定的であった。大体、免税店で何か買おうなどという「先進的」な欲望はあたしにはない。大昔は海外の取材に行って、おみやげは「舶来ういすき」というのがあった。
80年代に家人とウイーンに行って、その帰りにはおみやげのういすきを一人三本枠のめいっぱいだから、合計6本買った。
あまりに重いので、京成上野のコインロッカーにいれたまま、忘れてしまったことがある。

空港での免税の興味はとうにうせているが、最近の欧州行きでは「同行二人」のライカインコがいる。こいつはまだ海外旅行が新鮮なので、あたしがラウンジで麦酒を呑んでいるとその間に「ペット用の免税店」に飛んで行って「免税の鳥の豆」などを買ってくる。この免税店は普通の旅客には見えない。これはペットロス専門の店だならその方面の人には見えるのである。

あたしの現実の空港の観察の楽しみは搭乗口で思いもかけぬ行き先を「発見」することだ。
新潟行きがあるのは、インチョンはハブ空港であるから知識では知っていたが、実際に目の当たりにすると、目の醒める思いがした。
昨年の夏に急用で新幹線に飛び乗って新潟の家人の実家に「雨が降って来たので、閉め忘れた二階の奧のピアノ室の窓」を閉めに行ったのである。
そのことが思い出された、今度のこの飛行機に飛び乗って新潟に行かねばならぬと思い込んで見るとなかなか、その搭乗口に「近親感」がわいた。

新潟空港はあたしの「地球規模の演歌」(この話は新刊の屋根裏プラハに書いた)の中でも重要なポイントなのである。1970年代の新潟空港も080年代の新潟空港も、あたしの写真集「東京ニコン日記」「ウイーン ニューヨーク 新潟」に収録されている。
新潟の家に滞在して、新潟人になった気分の所で、インチョン経由でプラハに行ったらまた面白いであろう。

2012年1月29日 (日)

ソウルインチョン国際空港

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仕事と生活の関係でエアポートは日常の一部になっている。北井一夫さんが欧州の撮影に見えるので、当時、ウイーンからパリに到着する北井さんを迎えに行ってそれから欧州を旅行したのは1970年代の後半であったが、なんでも北井さんは空港が苦手でどこを歩行しているのか、分からなくなるのでアシストが必要なのだそうである。こういうのを「空港音痴」というのであろうか。

これは空港内でそこここにある、膨大な看板やサインを全部見て自分をコントロールしようとするせいである。到着したら、出口だけを目指せば良いし、乗り換えならトランジットだけを目指せばいい。

実は大韓航空は36年ぶりに利用したのだ。こう自分で書いて吃驚している。前回は1976年の夏に当時、「現代日本写真家展」のドイツでの巡回展の為に日本に行った時の帰りの便が大韓航空だった。帰りはチューリッヒで乗り換えて、スイス航空でウイーンに戻った。

その当時の金浦空港と今のインチョン空港を比較するのは無意味であるが、やはりカメラはクラシックがいいけど、エアポートは新しい方が良い。

感心したのは、韓国語、英語、中国語と日本語のそれぞれの案内がボードにでることだ。今では当たり前かも知れないが、何時も使っているアエロフロートでは、露西亜語と英語のみなのでその多彩さに驚いたのである。

2012年1月28日 (土)

「屋根裏プラハ」の表1と表4

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プラハから戻った翌朝の午前中に、新潮社のある矢来町の界隈を歩行した。極東の真冬の朝の光だ。建物がすべて小さくて、うすっぺらでまさに「一晩で出来た町」の印象がある。まず、神聖ローマ帝国の帝都と比較する方が間違っている。

文芸編集第一の佐々木さんと会って、プロモーションの予定を打ち合わせ。献本の10冊を受け取る。帯のダークなバックに銀の文字がプラハしている。

カバーを外して、初めて本体の表紙を見た。あたしが普通に表紙だと思っているのは、実はカバーなのであって、本体の本物の表紙はその裏に隠されている。
その業界用語で言う、表の表紙、つまり表1だが、これはプラハの中心部の建物のエントランスの上の「初期の飛行機」のレリーフなのである。

これを撮影したのは1985年のことだから、ビロード革命の4年前だ。恐らく20世紀初頭のまだ航空機が新時代の象徴であった時期に「時代を先取り」して、期待の20世紀の象徴をここにレリーフしたのであろう。

ところが実際の20世紀は実は、航空機による大量殺戮の時代になってしまった。
この建物が好きで、この数年は思い当たる街角を探しているのだけど、どうしても発見できない。

さて裏側、業界用語でいう「表4」だが、これは最近、あたしの凝っている、プラハの東部のZizikovの街区にある、包帯屋のウインドウである。ここは今回のプラハで確認したらとっくに別の店になっていた。

ようするに、この二葉の写真は1985年、つまり革命前の「古き良き赤いプラハ」の遺影なのである。カメラはプラウベルマキナプロシフトだった。百貨店MAJの写真機売り場でチエコ製のモノクロフィルムを確か300本まとめ買いしたこれは成果であった。当時は統制経済だからモノの値段はどこで買っても同じなのである。

今回の本ではその装丁がなかなか効いている。これは「新潮社装丁室」とあるが、田中さんという女性の手になるものだ。彼女の感覚はいい。

なにか昔の写真が退色したような銀の感覚がそこにはある。この画像はデジカメで分かり易くする目的でちょっとコントラストを上げてあるが、本物はもっと高級感覚のある、薄墨の銀色だ。実際には銀のインクは使っていないのだがそういう印象があるのは凄い。これは11x14インチのゼラチンシルバープリントが原稿だ。カバーの写真も同じである。

装丁室のスタッフのなんでそんなことを知っているのかと言えば、新潮社の新館のグリルで、文芸第一編集の佐々木さんと打ち合わせの時に、たまたまセルフサービスのグリルの列に並んでいた、田中さんを紹介されたのである。さらに本書の印刷の担当も、印刷会社の田中さんなのである。
だから「屋根裏プラハ」は三人の田中が制作した本でもある。

2012年1月27日 (金)

ニコリテスリーの窓

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新潮連載の「屋根裏プラハ」の第一回にアトリエの話を書いたのである。そのゲラに、新潮編集長の矢野さんが「いいです!」とエールを送ってくれたのが嬉しくてそのセンテンスは今でもはっきり記憶している。

「屋根裏の窓は世界に開いている」

これを褒められたのが嬉しかった。事実、このエレベータもない戦前の屋根裏の部屋から見ることの出来る「視覚世界」はこの窓だけだ。矢野さんはあたしは「矢野文章塾」と命名させていただいたのだが、足かけ3年間に文章を教えてもらった。なにしろ、ずぶの素人がいきなり「新潮」で連載を開始したのは、矢野さんの賭けであったのだろうが、かなりはらはらされたのではないかと思っている。

この窓はアトリエの窓であるから北側を向いている。これは採光は最高である。東京などでも最近は自然光は流行であってそういうスタジオはそれなりのレンタル料をとる。あたしのアトリエはねんがら年中、自然光だ。

向かいの建物はプラハに唯一のスターリン建築である。当時はホテルインターナショナルと言った。それが革命以降にはホリデイインとなり、伝統の赤い星が緑になった。その後、他のホテルチエーンとなって、星は緑から黄金になった。まず黄金都市プラハならこれで良いわけだ。

しかし今回、その星を子細に見たら、以前は夜には赤い星が光っていたのが、最近は灯りを消してある。

2012年1月26日 (木)

カフェスラビア

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★本日の夜遅くに東京着予定。

モルダウ川ぞいの国立劇量の反対がわの角が、カフェスラビアである。

ビロード革命の前にはこのカフェには良く行ったものだった。それがこの20年来は行かなくなった。その理由は不明だけど考えるに、あたしのプラハでの「立ち位置」が居住者でもなくツーリストでもないとくことにその理由がありそうだ。

しかし、今回はさかい所長と行ったので、さかいさんはプラハは初めてだからこういう「有名カフェ」に行ってもいいと思った。

その前にこのカフェスラビアに何時に行ったのかは案外によく記憶していて、ビロード革命の直度に行ったのである。その時に、このカフェでブロンドの女性の後姿を撮影したのが最後であった。

このカフェの前をおよそ、8系統ほどの市電が通過する。ここはプラハ市内の交通の要所である。かのヨセフ・スデクもここの角をコダックパノラマカメラで季節を置いて撮影している。確か見開きの右は雪景色で、その対向頁は初夏であったような記憶がある。

この席に座って市電を見ていると、かさに1分ごとに電車が来る。しかし実際に停留所で待っていると、20分もこないことがある。

 

2012年1月25日 (水)

宵越し麦酒

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★本日移動日。プラハ インチョン 成田

31日に発売の「屋根裏プラハ」(新潮社)のエッセイ集17章の中の、最初の章はあたしのアトリエの貧乏自慢である。まずエレベーターがない。これも20数年前は楽であったが、還暦になるとその階段の段差が増える。
数年前まであった電話は廃止して、ケーブル接続になったので面倒な電話はかかってこない。
これは貧乏暮らしではなくシンプルライフの楽しさが書いてあると言い換えた方がいい。

その中で、あたしの貧乏自慢の白眉は、宵越しの麦酒である。よく人物を評して、宵越しの麦酒のような奴といえば、これは日本ではかなり否定的な意味であろう。
チエコ語にはそういう言い方があるのかないのかわからないけど、個人的な見解を言えば、プラハの麦酒は一晩経過した翌朝が一番うまいと思う。
日本の麦酒もこれからの方向を模索するなら、有名人の起用より「宵越しの味が違う!」とやった方が良い。ただしこれは膨大な時間と開発費がかかる。この愛用のブランドだって、創業は1581年である。

これは「屋根裏プラハ」の中では東京から到着して疲れ果てて、飲み残しの麦酒を翌朝に呑んだらうまかったという話になっているが、たしかにその時にはそうであったのだけど、夜の麦酒を一杯やった時に、あたしは翌朝の為にコップ一杯分の麦酒をデスクの上に置いておく。
これは深夜にプラハの見えない「精霊」たちへのおごりでもあるのだけど、そういう精霊連が呑んだあとの麦酒はまた格別にうまい。
吉田健一は朝麦酒のうまさを書いているが、宵越しのそれではないと思う。

ただしそれには条件があって、やはりプラハのアトリエは24時間暖房が効いているのでそういう楽しみがあるのである。
東京のすきま風と冷え切った部屋では、まず麦酒以前の問題である。

2012年1月24日 (火)

路上のオブジエ

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普通のプラハっ子なら、もう何年もカレル橋は渡ったことがない。あたしもそうであった。

しかし今回はさかい写真研究所の展覧会があったので、案内で何度かそこを渡ったのである。そこで大学の後輩の木村君(仮名)に遭遇したりでまさに吃驚した。

ただし観光地で知り合いが遭遇することは、よくあることで70年代のカメラ毎日で「すれ違うアメリカ」という特集、これは山岸章二さんが企画したのだけど、日本の有名写真家のKとAとが偶然に出会うというのがあった。しかもその場所はアメリカの有名な観光地グランドキャニオンなのである。

せっかく木村君〔仮名)に遭遇したので、そのことをブログに書いたら、岡山固執堂の十文銭銀水からコレスポンダントが来た。この数年、岡山固執堂の「査察」に行っていないので、「袖の下」としてうどんを送るように言ったら、うどん国の高松とうどん好き国の岡山と二個口のうどんが届くことになった。

さて、名所旧跡には行かないあたしだが、上の画像のような路上のオブジエを観察してプラハ観光の楽しみにしている。

上のやつは、何かの自販機か、トランスのようなものが、梱包してある。ミニクリストアートというところ。

下の方は、看板の剥がれである。ハリーキャラハンが撮影した、シカゴのポスターの剥がれが有名だが、プラハのもそれに劣らぬ芸術だと思う。

2012年1月23日 (月)

「屋根裏プラハ」(新潮社刊)トークショーのご案内。

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★福田和也さんとの「屋根裏プラハ」のトークショーのご案内。
日時
2012年2月11日(土)
18:00〜18:40+サイン会(開場17:50〜)青山ブックセンター
詳しくはこちら。http://www.aoyamabc.co.jp/event/tanaka-fukuda-talks/

「プラハを撮る、プラハを書く、プラハを語る」
田中長徳(写真家)×福田和也(文芸評論家)

田中長徳



住民でもなく、旅行者でもなく。この街に長年アトリエを構えてきた写真家が「屋根裏」からの視点で綴る、プラハをめぐる17の断章。街がくぐりぬけてきた過酷な歴史と、変わりゆく人々の姿。独特のユーモアの間に、街と人への敬意が滲む、個性溢れる名エッセイ。

発行形態 : 書籍
判型 : 四六判変型
頁数 : 288ページ
ISBN : 978-4-10-331731-9
C-CODE : 0095
発売日 : 2012/01/31

 
雑誌から生まれた本
新潮から生まれた本

    2,100円(定価)  

ーーーーーーーー以上は新潮社のHPから。http://www.shinchosha.co.jp/book/331731/

この「屋根裏プラハ」は、あたしがこの20年余、プラハで一体何をしていたのか?その存在証明でもある。

ビロード革命の最高潮の時、1989年11月末に取材中のプラハからあたしはリスボンに「脱走」したのだった。理由は不明だ。なぜ革命の最終段階で逃げたのか?その事を思いだそうとして、あたしはこのエッセイを書き出したようなのである。しかし赤旗が倒れる最後の瞬間だけは、あたしは見届けたつもりだった。

あれから22年が経過した昨年末、ビロード革命のヒーロー、バーツラフ・ハベル氏の訃報にリスボンで接した。寒くて熱かったあの11月の最終の日々がフラッシュバックしたのである。

今度のプラハ訪問で、故ハベル氏の肉親の方々に会うことが出来たのも、不思議な縁と言う他ない。先日、ハベル氏を偲ぶ会がビロード革命ゆかりのバーツラフ広場のルツエルナパレスで開かれ、そこには4000人のプラハ市民が集った。

新潮本誌に20回にわたって連載された全20章のうちから本書には17章を選んだ。取材と執筆でこのあしかけ三年間、プラハと東京の永久運動とも思える行き来が続いた。それが還暦過ぎのあたしの思索と活力の源泉になったと思うと実に不思議な感がある。

「屋根裏プラハ」の中の章には、アトリエでカメラを閲兵式めいて整列させるシーンがある。クラシックカメラ店の話の話がある、ヨセフ・スデクの話もある。そう、カメラエッセイも沢山入っている。

中でもエッセイの狂言廻し役として、本書では「ペンデジタル」が重要な役割を果たしている。この足かけ3年の時間は実はペンとプラハを往復する日々でもあった。

沢木耕太郎さんが1/27発売の「波」の2月号で「屋根裏プラハ」の書評を書いてくださったそうだ。新潮本誌4月号では池内紀さんが書評を書いてくださる。
実に有り難いことだ。

本書の刊行記念として、2/11または2/12には福田和也さんとのトークイベントもある。(場所は決まり次第告知)

それと同名の写真展「屋根裏プラハ」が2/11から京橋のアイランドギャラリーで開催される。あたしの二月は「屋根裏月間」になりそうだ。

1/23プラハ。
NIKOLY TESLY の屋根裏部屋にて記す。

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                  新潮社出版部文芸         
       
     
 
田中長徳著『屋根裏プラハ』、本日見本ができました。カバーに使われている二重露光の写真は、偶然こうなったのだそうです。つい見入ってしまいます。プラハ好き、写真好きの方はもちろん、歴史好き、機械好き、乗り物好きにもたまらないエッセイ集です。

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おかげさまで、「屋根裏プラハ」のスタートは好調だ。
沢木耕太郎さんが「波」二月号(新潮社)での書評は見開きの2頁ではなく3頁で絶賛してくださった。実に嬉しいことだ。
タイトルは「孤独な散歩者」。http://www.shinchosha.co.jp/nami/newest/

福田和也さんとの対談は2/11を予定。場所は六本木になる予定だが、正式に決まりしだいお知らせ。

アマゾンでは1/29の午後4時で本のランキングで1777位。トリプルセブンのラッキーナンバーだ。これも有り難い。
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★沢木耕太郎さんの「波」の書評。「孤独な散歩者」Kodkodokuo

アトリエの朝食

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1989年以来、プラハのアトリエに居る時にはこんなものを朝に喰っている。似たような献立が、大昔、エプソンRD1の写真集のトップに掲載された。

あたしの健康を気遣ってくれる方面から、朝に卵の3つは食い過ぎと言われて、以来、2個にしている。ただしこの3個の卵は先週の1週間のホテル暮らしで卵がなかったのでその反動である。

この「屋根裏プラハ」の屋根裏部屋は5年ほど前に改築して天窓が新しくなった。その時に工事の人が入って、十数年来、愛用の焼き込んだフランパンは、ゴミと間違われて捨てられてしまった。

それで新しいのを入れたが、それも数年経過してようやく、サニーサイドアップに馴染んできた。

トルコスタイルの粉を入れただけでかき回して、珈琲の粉を沈殿させる奇習はウイーンでは廃れてしまったが、ここではまだ生きている。珈琲の味を周辺まで楽しむにはベストだ。これでないとプラハの朝が始まらない。

2012年1月22日 (日)

ヨセフ・スデクの家

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プラハのアトリエに20年ほど前、ヨセフ・スデクが遣っていた、蛇腹カメラがあった。それを利用して「贋作」を作ろうという相談がまとまり、プラハのPが大キャビネのカットフィルムをどっかから探してきた。
ヨセフ・スデクが撮影した、墓地を同じアングルで撮影したのである。その時のプリントは残っていないけど、日本カメラ刊の「銘機礼讃1」にその写真が掲載されている。

ヨセフ・スデクが1925から彼の死まで棲んだ、アトリエはしばらくは更地になっていたが、どっかの財団と市民運動のおかげで、今から十数年前に同じ建物が建築され、今はギャラリーにっなっている。

ヨセフ・スデクの住まいは表通りから奧に建物を2つ入った中庭にある。ヨセフ・スデクの仕事場の当時はモノが山積して、妹さんの話では窓に接近することもできなかった。その様子はヨセフ・スデクの「写真家の迷宮」という11x14インチのコンタクトプリントの作品がある。

今では普通のギャラリーであって、当時を偲ぶものは、水洗用の桶と踏み台とストーブくらいなものだ。プラハの冬は厳しいから、ヨセフ・スデクの部屋の窓には冬には氷の花が咲く。それさえヨセフ・スデクは作品にしてしまうのである。

中庭に登場したそのアパートの住人さんが、ノコギリと廃材を持って出てきた。なんでもお母さんが「ガスのストーブよりも薪のストーブの方が暖かさが心地よい」というので、材木をストーブ用に切断しに来たのである。
その人の親孝行も偉いが、そのあたしと同年代の男性は、幼年時代にヨセフ・スデクさんとは親しくしてもらったといった。

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2012年1月21日 (土)

暖冬プラハ

今年のプラハは暖冬だ。
屋根裏プラハ、今回、新潮社から出る、エッセイには2009年の1月にあたしがプラハ空港に到着した直後から雪が激しくなり、バスで到着したターミナルからアトリエまでは、普通は徒歩10分もかからないのに、半時間も雪で難渋して「遭難」しそうになるくだりがある。

アトリエの描写でも天窓にぶらさがった、つららを折って、それを口に含んで、ウオッカを飲んだらうまかったという話がある。

昨年2011年の今頃も厳しい寒さで、道はかちんかちんに凍っていた。それに比較すると、今年は気温が0度から上なので、さかい所長には絶好に天気である。

プラハのPなどは「もうプラハの春がきた」と浮かれているほどだ。

これよりさかい本隊は空港に向かう。本隊を空港までおおくりして、越冬隊のあたしはアトリエに残留。

すでにホテルから移動で、カードリーバーを荷物に入れてしまったので、画像はなし。

★土曜の午後二時。プラハは雪になる。よくこの一週間、天気がもったなあ。

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★カメラはXZ-1

2012年1月20日 (金)

分刻みのスケジュール

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さかい展も大成功でスタートしたわけだが、チエコテレビの取材もあった。こっちは「吹き替え」ではなく、オリジナルの音声に字幕がかぶるのである。

1973年だったか、あたしがヨナスメカスの映画祭がウイーンのアルベルテーナで開かれた時にやはりインタビューを受けたがそれは英語のオリジナル音声の上にドイツ語の字幕だった。これはフェアな感じもするが、逆に言語が複雑な地域での解決方法でもある。ちなみに南チロルはイタリアであるが、ニュースなどではこれも字幕が入る。これは伊太利亜語ではない。ドイツ語のチロルなまりなのでそこにドイツ語の字幕がかぶるわけだ。

そう言えば、70年代初頭はまだENGではなく、FNGフィルムニュースギャザリングだった。カメラはアリフレックス16SR。

さかい展の「公式行事」はすべて終了。さかい隊は本日金曜に土浦国に戻る。あたしは越冬隊なので、プラハのアトリエに戻る。

 

2012年1月19日 (木)

ヨセフ・スデクの墓を探して

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あたしには展墓趣味はないけど、外国で墓地を巡るのはすきだ。観光名所よりその国の風土伝統がそこに断面になって表出しているからである。

先月はリスボンの墓場を散策中にそこらを浮遊している、精霊に足をすくわれた。そしたら、墓の中から生きている精霊が飛び出してきて。路上に転がったあたしの帽子を拾ってくれたのである。

ヨセフ・スデクへの墓参は今回のプラハでのさかい展での「公式行事」として決まっていたものだ。暗いプラハの火曜の午前中に、中央駅から列車に乗った。数年前にプラハからウイーンに行く時にこの駅を利用した以来だ。
列車の旅、40分ほどでコリン市に着く。ここはかつての工業都市だ。普通のチエコの平均的な町をも見るには格好のサンプルである。しかも雪もよう。

10年ほど前にプラハもカメラ店で買ったソ連製の一眼レフカメラ、ゼニットには撮影中のアグファのカラーフィルムが入っていた。それを現像したら革命前のプラハの老夫婦の写真だった。彼らは夏の休暇でこのプラハから60キロほどの眠ったような町に出かけるである。なぜ、それが分かったのか?コリン市の市庁舎とその前の広場はなかなか個性的なので判定できたのである。

その話をベースにして、新潮の連載「屋根裏プラハ」でストーリーを書いた。それは31日に発売の「屋根裏プラハ」(新潮社)の17章の断章の中にも収録されている。

ヨセフ・スデクの出身地だけではなく、あたしにはコリンは種々な思い出がある。
駅からタクシーで中央墓地についた。同行のプラハのPもヨセフ・スデクの墓参は初めてである。通行中の参拝者に彼はヨセフ・スデクの墓所を聞いたのだが、一向にらちが空かない。
当然の理であって、彼ら墓参の人が知っているのは「自分の家のお墓」である。他に彼らの知っているのは地元の有名人の墓だ。
ヨセフ・スデクは国際的には知られているけど、ローカルレベルでは有名というわけでもない。

仕方なく、事務所で聞いてその位置は分かった。ヨセフ・スデクは1975の没だが、彼の面倒を看た妹さんも1990に没しているのが、墓碑銘でわかった。それでいつもヨセフ・スデクのことを回想すると子規と律のことを思い出す。

ヨセフ・スデクの朋友のヤロジミール・フンケのお墓もすぐ側にあった。

2012年1月18日 (水)

LUCERNA PALACE

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ルツエルナパレスは1911年に落成した歴史的建築文化遺産で、ギャラリー、シアター、商店、カフェレストランの複合体である。まだオーストリアハンガリー帝国の時代だ。

これを設計したのが、12月18日に亡くなった、バーツラフハベル元大統領のおじいさんのバーツラフハベル氏である。中央で最初の日本式カフェ、YOKOHAMAもここにあった。

1/16から3月までもロングランのさかい所長の展覧会がスタートした。紋付きはかまでレセプションに登場したさかいさんの「出囃子」は日本の雅楽である。これがよかった。選曲はPAVEL VACHA氏、つまり月末に新潮社から出る「屋根裏プラハ」の中で狂言廻しの役というか、主役の「プラハのP」なのである。スナップショットの左はじの人。

この紋付き袴と雅楽のマッチングに感心したが、さてどこでプラハのPはこの音源を探してきたのだろうと、考えを巡らして思いだした。

10年以上前にウイーンで東儀秀樹さんと最初に遭遇した時に東儀さんに、雅楽は何を聞いたらいいか?と聞いて、入門用に薦められたのが数枚のCDだった。それがプラハのアトリエにあって、それをプラハのPに進呈したのである。

さかい所長も偽ライカ同盟のメンバーだからこれで話しは合う。

ルツエルナキノは現在残っている1世紀超の貴重な映画館である。そこにさかいさんを立たせてポーズしてもらったら、こんな感じになった。明治時代の定奴などがあの当時に欧米で人気があったのは、こういう感じなのだなと思った。

画像はレセプションに駆けつけた、ハベル元大統領の親族の方など。なんでも、先日、ルツエルナパレスの全館を遣って「ハベルを追悼する会」があり、4000人のゲストが集結したという。その模様は巨大LEDでビロード革命の聖地の、バ^ツラフ広場に生中継されたそうだ。

2012年1月17日 (火)

カレル橋上の遭遇

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さかい所長はプラハは初めてだ。

JJ氏(植草甚一)が初体験のマンハッタンでアメリカ文学の豊富な知識をデータベースにして、すぐにマンハッタンに溶け込んだのと同様に、さかい所長はヨセフ・スデクの作品でちゃんとプラハを知っているから、話は早い。

まだ日曜の午前という絶好の時間帯にカレル橋上をヨセフ・スデクの光を再確認しながら歩行していたら、「チョートクさん!」と声がかかった。
日大の一年後輩の木村純一氏〔仮名)夫妻であった。木村君は昨年の10月のあたしの大阪でのリコーの講演会とさらにその前のオリンパスの講演会、さらにその前の前のニコンの講演会に来てくれたが、奥様は40年近く前に新婚の大阪のお宅にお邪魔して泊めていただいことがある。ようするにお目にかかるのは人生二回目。

こういうのは奇遇な遭遇と言うのであろうが、冷静に考えれば日曜の午前のカレル橋などは、ツーリスト以外には居るはずがない。つまりその遭遇率はかなり高いのだ。

よくあたしがわかりましたねえ、と言ったが記念写真を撮影して跡でみれば、これは分からない方がおかしい。

ヨセフ・スデクの仕事で重要なのは、やはりカレル橋を中心にした作品だ。
特に冬場はなかなか晴れる機会がないけど、日射しが低いのでドラマチックである。実に良いチャンスで「ヨセフ・スデクの光」に遭遇した。

2012年1月16日 (月)

東京プラハ

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一昨日の成田は朝が早いので苦労した。tcatの始発が5時45分なのだ。各種のタクシー会社に断られたのでメトロで行った。1990年代にまだルフトハンザの仕事していた当時、2月の大雪で車が駄目で、メトロで行った記憶あり。6時の始発から2番目のリムジン。
第一ターミナルで下車した9人の乗客のうち、6人がCAさんだったのは愉快だ。昔はCAさんはハイヤー送迎だったのだから時代だなあ。

成田のA380はさかい所長も大満足。機内は韓流客が圧倒的に多い。となりのおばさまはケリーバッグをCAさんに新聞紙を持ってこさせて床にじか置きにしないで新聞紙の上に大事に置いている。へえ、と思った長年飛行機に乗っているが、これはケリーバッグを崇拝する新興宗教か。ケリー真理教。

インチョンはでかい。ラウンジもなかなかレベル高し。そこからB777-200に乗り換える。客筋はがらっと変わってチエコ人多し。

最近では定宿のジシコフの安ホテルに到着して、名物のプラハのスカイツリーを見るに脇にまだ降誕祭の電飾あり。その遙か向こうに昨夜東京で視たのと同じ月。

★カメラはXZ-1

2012年1月15日 (日)

屋根裏プラハと矢来町界隈

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★プラハ二日目。プラハに居ると思い出すのは先週の極東のことだ。

足穂の戦前の矢来町界隈を書いたエッセイで、横寺町の鍵型小路を曲がって、新潮の編集者さんの所に前借りの相談に行ったそのくだりが好きである。

当時の新潮の受付にいた「名護屋さん」とか言った女性に編集長を在非を問うて、不在ならそのまま帰ってくるという「真摯」な態度であった。足穂は「当時は会議中という断り方はまだなかった」と記している。

前後一度だけ、困窮の足穂が社長の「佐藤さん」に面会して解決をしようと思った時に、やはり不在だった。そのことについて「前後一回だけ、自分の用件で佐藤氏に会おうとて不在であったので、あぶない所を助けられた」という意味の回想をしている。これはたしか、足穂の母親が亡くなった時に、関西への旅費の相談だった。

矢来関係で新潮社を訪問するくだりでやはり好きなのは、百鬼園の日記である。足穂と異なり、漱石門下の百鬼園はもう少し、「顔がきいた」のであろう。お金の相談やら、全集の相談をしにいっている。不思議なのは、佐藤氏が不在でそのまま帰ることが多かったが、昔の一はアポをとらずに訪問したもののようである。それだけ世の中がゆっくりしていたのだろう。

百鬼園の全集の相談は結局はご破算になって、他の出版社から出ることになるが、これが「三畳御殿」すなわち「禁客寺」の興りだ。

あたしの夢はようするに、そういう出版の用向きで、新潮社に出かけることだった。今回の「屋根裏プラハ」ではその夢が達成して、新潮社に正式に「仕事」で足り入りできることになった。それではというので、気分は足穂であるから、まず大江戸線の最寄りの駅から降りて、袖摺坂を登って、足穂が戦時中の灯火管制の時にそこからカノープスを見た高台を経由して、東京高等数学塾、すなわち足穂の寓居から鍵型小路をすずれ折に歩行して、飯塚酒店の脇を左折して、いきなり新潮社の前に出た。

担当の文芸第一出版の佐々木さんと、「屋根裏プラハ」の表紙の最終チエックをした。表紙は1985年、すなわち革命前に撮影したモノクロ作品である。打ち合わせがおわって、道路を別館の方に渡ってそのB1のグリルで名物の200円ランチをご馳走になった。サンドイッチか、ハンバーガーかのチョイスがある。あたしは後者を選んだら、驚いたことに、焼きそばパンもついていた。

これは話題のタニタを上回るステータスだな。ベストセラーも芥川賞も「焼きそばパン」から生まれるわけだ。

新潮社を辞して、荒木町の我楽多屋さんに行くので、メトロで行ってはつまらないのでそのまま徒歩で矢来町から榎町を経由して向かった。途中で南榎町に泉鏡花の旧宅跡の看板を見た。そこは明治32年から4年間、鏡花が棲んだ場所という。

百鬼園のエッセイ「布哇の弗」では、怪しい紳士が百鬼園の寓居を訪れて、布哇の日本語新聞に高額な謝礼で寄稿を依頼して、何枚も色紙を失敬してそのままになる話がある。そのインチキ紳士が「ひゃくもんせんせい」と言うのを百鬼園は怪しいと見ているのだけど、結局信用してしまう。「これから泉鏡花先生のお宅に廻って」とその詐欺紳士はそのままになってしまうのだが、それは唱和も10年代であろうから、この明治の泉鏡花の旧宅とは異なるのでろうか。

矢来町界隈が懐かしのは、あたしの幼年時代の路地の面影がそのままに残っていることだ。硯友社の大だて者もやはりこの界隈であったか。

★カメラは胃フォン3型。

2012年1月14日 (土)

天国に梯子をかける

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★プラハ到着。時差真っ盛り。

これは昨年の10月に撮影したプラハのスナップである。一連のこのシリーズは2月10日から26日まで、京橋のアイランドギャラリーでの個展の為に撮影された。

カメラはM5でレンズはソ連製の1930年代に制作されたFED 28mm f4,5である。これはなかなか不思議な描写のレンズだ。
展覧会のタイトルは「屋根裏プラハ」。つまり新潮社から月末に出るエッセイ集と同じタイトルだ。

スナップが面白いのは、人間が想像する限界を超えた不思議なシーンをそこに創造してくれることにある。プラハの旧市街を歩行中に教会の側面のあれは何というのか、よく聖像などを安置する、窪みがあるがそこにキッチな落書きがされてあった。

それが面白いので撮影して、そのまま歩行して教会の正面に出た。そしたらそこで男が教会に梯子をかけていたのである。

教会は巨大な建築であるから、足場も梯子も何の不思議なことはないのだけど、この場合、その行為がまるで「夜空に梯子をかけている」とか、「天国に向かって梯子をかける」ような風に思えたのが自分でも愉快だった。これはある種の見立てと言ってよかろう。

その理由はこの教会のファサードがまるでしっくいで固めたような、真っ白の壁面であってそれが無限の空間とか到達不可能は距離とかいうシンボル的な印象を与えたからのようである。

それで単に労働者が仕事で教会のファサードの修理をしているだけの日常の光景がそのままにジャンプシフトして、なにか人類が神様の所にまで到達しようとして梯子をかけているように見えた。

そういうスナップの仕事には、カラーよりもモノクロが似合うのは、カラーだとそれが単に現実のコピーになってそれ以上に出ない為であろう。モノクロはその意味で「この世界をどのように認識しているのか」という問いが発せられるからそれだけ、哲学的な視点なのである。

2012年1月13日 (金)

今回のプラハ行きのデジカメ連

Yuki

★本日移動日 成田 インチョン プラハ

毎回、アエロフロートでプラハ行きだが、今回はキャリアを変えて大韓航空である。70年代にはサービスは悪いが安いというだけで選ばれていたこの2つのキャリアだけど、最近ではそのサービスの向上が著しい。

欧州のそれぞれの航空会社のサービスを格付けする会社の「機内食」の評価などでも面白いことになっていて、この二社が頑張っている。割と上位にランクされていて、欧州系の有名キャリアが後塵を拝するような状況にさまがわりしている。

ただしあたしの意味する大韓航空は最後に乗ったのが1976年という大昔である。当時は金浦空港でなにかアンケートを書かされた。それで南周りのルートで台風の中を延々と飛んだのである。これが70年代だ。

まだシベリア経由などはない。
今回のあたしの大韓航空の大評価はインチョン プラハ便があることだ。韓国がプラハに定期便を飛ばしてどれだけの採算があるのかは分からないが、日本にはもともとプラハ便はないし、その一事だけでも偉いと思う。

今回のプラハ行きの任務は、さかい写真研究所、所長の向こうでの写真展のサポート隊員役なので、機材は最小限だ。
つまり、ペペンペンにはパンケーキの17MM それにXZ1。
この前、リスボン行きの時に忘れた、GRD4を忘れないように。

それでまた向こうでモノクロも撮影して、2月10日の京橋のアイランドギャラリーでの「屋根裏プラハ展」の追加もしたいのだ。その方面のフィルムカメラはまだ用意していなくて、出発の10分前に決定の予定だ。

コダックがフィルム生産中止というので、日本でもコダックは品不足のようだけど、プラハには自国のモノクロフィルムでかのスデクも愛用したFOMAがある。今回はプラハでFOMAを調達して撮影しよう。

2012年1月12日 (木)

カメラの雑誌

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カメラ雑誌ではなく、カメラの雑誌である。そのカメラの雑誌が頑丈な段ボールに入って、神保町の書店のまえに無造作に置いてある。中を見たら、それはそれは宝の山であって、単体で買うと資料的な価値からかなりするようなカメラの雑誌がいっぱい入っていた。
JJ氏はアメリカ文学には興味があって、カメラもかなりお好きだった。その話は当時、JJ氏と一緒に行動と仕事をしていた、我が偽ライカ同盟の会長片岡義男さんからお聞きした。しかもかつてJJ氏と片岡さんがそこでコーヒーを飲んだ、それは喫茶店キャンドルなのである。ただしキャンドルはすでにオリジナルは撤去されて、あたしが片岡さんと話をしたのは、ほとんど同じ造りでしかも当時のオリジナルの椅子やテーブルの並んだ復活したキャンドルであった。これをレプリカと呼ぶのは良くないであろう。なにしろ1947年に創業したその名代の喫茶店のこれはご子息が経営しているのだ。

片岡義男さんも、JJ氏の影響でカメラは好きだ。いや、片岡さんの場合にはカメラが好きというよりも写真撮影が好き、いや正しくは写真表現に肉薄するカメラの操作者というべきだ。
10年ほど前に出したchotoku@workという写真集はあたしの過去のカメラと作品との関係を位置づけた本である。その中で先年没した有名写真家のこと(執筆時には存命)を書いた。ようするに日本の一部の写真家はなにかカメラに恋をすることは恥ずかしいことのように思っていて、もっぱら写真は精神的な所産であるかのような「体面」を作っている人がいる。これは体に良くないのである。

世界的写真家のヨセフスデクが戦後のプラハを1898年製のパノラマコダックで撮影したのは有名なカメラ伝説であるが、スデクは大のカメラ好きだった。本当の写真家はこうありたいものである。優れたレンズ、素晴らしい新機構のカメラは写真家にあらたな創造の為の地平を切り開く可能性を与えてくれる。

先日、沢木耕太郎さんとキャパの使っていた一連のカメラの話をした。そうしたらそれまで物には固執しない哲学者の沢木さんが「自分もライカの一台くらいは欲しくなった」と感じるようになったそうだ。
これは新境地で感激すべき展開だと思う。天涯が写真機に方面に偏倚しているのである。

2012年1月11日 (水)

スキポー空港で見た羽根のある生き物

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以前はスキポールは良く利用していたが、この数年使っていなかった。それが先月のリスボン行で久しぶりに利用した。
ラウンジなど出来てから時間が経過しているから古くさいけどそれはそれで良い。問題はラウンジにシャワーがないことだが、49-52(この数字の意味がいまだに不明)の近辺には誰でも使えるシャワーがある。これは昔、夏にあせだくでここでトランジットした時に偶然発見したものだ。ただしタオルの用意はないから、自分ンで用意する必要がある。

一般に欧州のハブ空港はどこでも日帰り間隔で、アテネやイルタンブールに飛んでいるから、彼らはシャワーの必要をあまり感じないらしい。だからここは穴場であって誰も使っていない。

ラウンジで「ねっとサーフィン」にも飽きて、外を見たらそこにヨナスがいる。本当の名前は知らない。このカラスに似た黒い鳥はプラハのアトリエでも夕方になると群れをなして飛ぶ。その声がカラスを想像していると、拍子ぬけする可愛い声だ。
人間が飛行機を考えだした、その大先輩である。
トイレに立ったら、スキポール名物の蠅に出くわした。小便器の中に何時も居るのである。これは陶器のイラストであるが、最近ではその蠅も見ないから、そのうちうにこの飛行生物が珍しいものになるのかも知れない。
しかしこの3つの飛行生物の中で、一番新らしいのは分かるが、ヨナスと蠅とはどちらが先輩なのであろう。

★カメラはXZ-1

2012年1月10日 (火)

夜の柴又帝釈天

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偽ライカ愛好会の「大撮影会」「大新年会」が葛飾郡柴又で開催された。この界隈は矢切の渡しがわずかにあたしの「写欲」(これは私語だけど、1960年代のカメラ雑誌で使われた。写壇も同じ頃に使われた死語)を刺激するほかは、このあたりには興味がない。これを分析して見ると、アノニマスでフォトジエニックではない街区がただただ広がっているだけで、その北は金町浄水場という背景である。

ここに以前に来たのは1983年だからまさに30年前で、その後、1年間マンハッタンに行き、戻ってきてから再訪したのが80年代の終わりあたりか90年になってからかそこらは曖昧である。藤田66で矢切の渡しを撮影した。

いずれにしても、最後の訪問以来四半世紀は柴又に行っていない。
偽ライカ同盟の持ち回りの幹事さんがここを次回の撮影ポイントにしたのは、ちょっと意外な感じを受けたが心配になったのは、あの界隈は退屈だからその退屈さに慣れておく必要があるという点だった。

それで1月5日のさかい写真研究所の戻りに、金町で降りて界隈をロケハンした。さらにその翌日の6日にもまた柴又に行ったのである。元来10年に一度ほどの訪問がこの1週間で3回も行ってしまったので、あたしはにわか葛飾市民であるが、すでに自分の余生の柴又行の回数をすべて使ってしまったので、もう柴又に行くことはないであろう。

あたしにとって柴又の帝釈天の参道が脅威なのは、まるでイスラム革命のタファリール広場のような雑踏と混雑にある。しかもこれは信仰というのではなく、物喰いつつの時間つぶしである。あるは信仰とは無関係な現世利益である。まあそれはそれでいいか。
例の「フクシマ50」に対抗して、セシウムの雨あられを顧みずに列をなして参拝した善男善女の英雄は将来、サンチャゴデコンポステラへの巡礼団みたいに、「シバマタ50000」とか呼ばれるようになるかも知れない。

それは未来のことだから予見しようもないが、今回の偽ライカ愛好会柴又巡礼団の最大の収穫は「柴又は夜にかぎる」という点だった。
この界隈の飲食店、みやげもの店は午後6時になると、ばたばたと店を閉めてしまう。これは太古には、夜になると、妖怪もののけ、辻斬り追いはぎ、セシウム、ストロンチウムなどが徘徊したあの百鬼夜行の時代の自己防衛の名残であろう。

無人になって初めて柴又が見えた。感心したのは、帝釈天への参道が立派な石畳であることを確認できた点だ。昼間の善男善女の万鬼昼行ではこれは分からない。第一、地面が見えないのである。

大新年会はその参道の半ばにある川千家で開催した。幹事さんが事前に武蔵の国、小山郡からはるばる東葛西領柴又まで出張して、ミシュランの覆面調査員よろしく、その料亭の内容をチエックして、これならいけるということになった。
しかし当日に料亭で階下の参道の大混雑を眼下に見る静寂とした座敷で、幹事夫妻は「鯉こく」と「あらい」が何であるのか知らなかった。これはなかなかシュールでいいと思った。

10年前にウイーンの放送局のレポーターが来日して、佃地方の蕎麦屋に案内したが、彼らは勉強熱心で、日本の酒のつまみの独逸語日本語対訳を持参していた。もっともウイーンは民俗学の盛んな土地柄だから、これは日本文化への尊敬という意味とはちょっとことなって「原住民の食い物リスト」であるのかも知れない。
それに比較すれば今回の柴又夜行を企画したのは大阪国と名古屋国の人であるからまず「鯉こく」と「あらい」は知らなくても罪にはならないであろう。

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あたしの一番親しい「帝釈天」のテキストは「病床六尺」の以下の一文だ。

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○この頃病床の慰みにと人々より贈られたるものの中に
 鳴雪(めいせつ)翁より贈られたるは柴又(しばまた)の帝釈天(たいしゃくてん)の掛図である。この図は日蓮(にちれん)が病中に枕元に現はれたといふ帝釈天の姿をそのまま写したもので、特に病気平癒(へいゆ)には縁故があるといふて贈られたのである。その像は四寸ばかりの大きさで全体は影法師を写したといふために黒く画いてある。顔ばかりやや明瞭で、菱形(ひしがた)の目が二つ並んで居る。傍には高祖真毫(しんごう)自刻帝釈天王、東葛西領柴又、経栄山題経寺と書いてある。上の方には例の鬚題目(ひげだいもく)が書いてあつてその傍に草書でわからぬ事が沢山書いてある。その中に南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)とか、病之良薬(やまいのりょうやく)とかいふのが僅(わず)かに読める。いろいろな神様を祭らせてなるべく信仰の種類を多くせうとした日蓮の策略は浅墓(あさはか)なやうであるけれども、今日に至るまで多くの人の信仰を博して柴又の縁日には臨時汽車まで出させるほどの勢ひを持つて居るのは、日蓮のえらい事を現はして居る。


 

2012年1月 9日 (月)

「新潮二月号」のアラーキーさんの仕事など

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「新潮」二月号にアラーキーさんの作品が30点掲載されている。これはなかなか面白い。以前、矢野編集長は文芸誌の紙質は悪いので写真の印刷に向かないという意味のことを言っていたが、これは逆である。こういうあまり質の良くない紙に印刷されると、デテイルの優れた写真印刷よりも、映像がシンボル化されるので、アラーキーのような写真にはかえって好都合で強いメッセージになる。

あたしが7年前に出した、500頁の写真集の場合、最初から頼んで印刷は一色にしてもらった。ようるするにあたしの場合には1970年代に東欧の美術館で出された展覧会の型録をアピアランスを狙っているのである。

その為には上質紙より普通の紙がいい。プロボーク時代の高梨さんがやはり雑誌で、わざと紙質の悪い本文用紙に彼の都市論的な4x5のネガの密着を原寸大で印刷してので、やられた!と思ったのはあたしの20代の頃のことだ。

1970年代にウイーンの美術雑誌「プロトコーレ」にあたしのスナップ作品を掲載したことが何度かあった。大抵は一折り(16頁分)だったがとなりがアノルドライナーとか、ジョンケージの作品なのだからゴージャスであった。

ただしこれはその折りだけは、上質紙なのである。これが普通紙だったらもっと面白かったであろう。オンラインの写真集に限界があるのは、もともと存在しないもの、つまりオンラインの本は「月の湖面に映った」ようなものだから手にとれない。存在がないのでそのテクスチャを欠損しているわけだ。

もう一件。今月末に出る、「屋根裏プラハ」の広告が新潮の巻末に出ているのがこれは嬉しい。別に苦節足かけ三年というわけでもないけど、この取材の為に随分とプラハ通いした。来週からまたプラハである。

2012年1月 8日 (日)

雑司ヶ谷という迷宮

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極東の東京の雑司ヶ谷とリスボンのアルファマを比較するのは、いささか乱墓というべきかも知れない。
歴史からすれば、アルファマは9世紀以来の街で、雑司ヶ谷はそれほど古くはあるまい。鬼子母神は別としてもこの界隈の町並みはせいぜいが100年プラスと思われる。
ただしこれは歴史知らずのあたしの当てずっぽうであるから、注意する必要がある。両親の墓はかなり前に、銚子から越生に移したのだが、なにかの供養の時(父の埋葬であったかも知れないが忘れた)に、門前の農地の側になにか立て札があるので、接近して確かめたらその場所が昔の鎌倉街道の跡なのであった。鎌倉街道は寸断されても、そこここに生きているので油断がならない。
雑司ヶ谷界隈にもそういう「古道」はありそうだ。

アルファマから戻って数日後のまさに空がリスボンの「サウダーデブルー」の午前11時にこの界隈に立ち入ってみれば、そこはアルファマである。

リスボン人にしてみればそれで郷愁を感じるのであろうが、ここで空間認識を切り替えないと、東京の時間帯の生活に差し障りがある。ちょうど昼時なので、雑司ヶ谷にその名も高き、日の丸食堂に入った。おやじさんがのれんを出した瞬間であった。この食堂の場所は地図などには書き示せない、雑司ヶ谷の奥の細道にある。
数年前の土用にあまりに暑いのでここに駆け込んで「今日はいやに冷えるねえ」と我慢会気取りで天ぷらそばと、熱燗をやったことを思いだした。それで思いつきで同じメニューを試したのだが、普通の東京の冬に当然のあったかい物を食べているのだから、これは面白くもない。

それから細い商店街の中のあっちの道とこっちの道を結んでいる、いわゆる「通り抜け道」にある「雑二ストア」を徘徊した。これは雑司ヶ谷二丁目ストアの略である。
30年前からこの雑二ストアを知っている古老たるあたしに言わせれば、知る限り今の青いペンキの、いわゆる「青ペン」の建物の前に色彩不明の木造のバラックの寄せ集めのような、恐らく終戦直後の廃材で建てたような市場があった。あれはあれでよかった。
しかし、今の雑二ストアの見所は、その青ペンキのトタン板とサウダーデブルーの空とのグラデーションとコントラストの鑑賞にあるのだ。

雑司ヶ谷とアルファマの共通点を考えるに、どちらも地図はまったく役に立たない点であろう。アルファマを地図を見ながら徘徊している、ドイツ人ツーリストを見かける時、ああ、彼らは世界を地図で理解しょうとしているから駄目なのだとはっきり分かる。ヴィムベンダースもそうだ。彼の映画では、ドイツ人は伯林から4泊5日でリスボンにやってくるが、そのドライブ中にカセットでポルトガル語会話の練習をするのである。言葉はレストランで通じる程度で良いのであって、その国の言語を理解するのはかならずしも、その国を理解することにはならない。

それぞれの街のセクションは記憶と学習によって経験になる。それそれの地域の細分化されたのが、次の段階でそれぞれの記憶野が統合されて、全体の空間認識に到達する。これはかなりの知的作業なのだ。
あたしの場合、アルファマでの「道に迷い歴」は約三十年。一方の雑司ヶ谷の方も同じくらいだけど、その複雑さにあっては雑司ヶ谷の方が難易度が高い。
ようやく数年前にそれぞれの地域の記憶が組み合わされて、おぼろげながら全体が見えてきたばかりだ。

カメラはGRD4

2012年1月 7日 (土)

矢切の渡しを見に行く

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あたしの旧著、「銘機礼讃」に矢切の渡しを撮影したショットがあった。それは銘機礼讃のトップの口絵なのだけど、撮影したのはフジタ66なのである。レンズは藤田の80mmであった。

そのショットを今、出して調べようと思ったら、何時もはそこらにある銘機礼讃が発見できない。しかもその巻1か、それとも巻2かも忘れてしまった。

そのまま割り切れない気持ちで四半世紀ぶりに、柴又から徒歩15分の江戸川の土手に出た。柴又という所は実はあたしのような路地徘徊写真家にはあまり魅力のない街なのだ。しかも寅さんの帝釈天はどうもつまらない場所である。

家人の歌う独逸語の歌曲をプログラムに表記する訳文の日本語に訳してくれた田崎先生はすでに四半世紀前に60歳余で他界したが、その田崎先生が寅さんの大ファンで、寅さん会とか言うのをつくっていた。それで田崎先生の葬儀には山田監督から花輪だか弔辞だかが届いた。だから、寅さんは大衆芸能ということはできなくて、独逸語の専門の大学の先生でウイーンでホフマンスタールを研究する人がぞっこんというような面もあるわけである。

しかし、写真家からすると、あの柴又界隈はどうも撮りにくい。東京カメラクラブで柴又の奥の細道の小谷メンデイングにレオタックスの修理を頼みに行った時代からもすでに20年は経過している。
「柴又も レオタックスの 昔かな」とかやっていたのだ。

その小谷邸の先が土手であってその上から遙かに河原の先に、矢切の渡しがあった。

今回、行ってみたらあまり変化はないのが嬉しかった。そこらのぼっくいに「矢切の渡し」とあるのもそのままに古びていた。桟橋に立つとなにか水が空色なのである。こいう桟橋の風景を以前に見たと思って、それは一昨年の5月のヘルシンキでたしか11番の市電の終点にあった渡し場と思いだしたのである。

しばらく見ていたら渡し船がやってきた。これが櫓を使うのでいかにも良い感じだった。ウイーン時代にはドナウ運河に渡し船があったが、これは川の上のワイヤーを張って、川の流れをパワーにしてちょうど振り子のように川を往復するだけだから、どうも味気なかった。

渡し場のこれは何と言うべきか、単にぼっくいにぼろ布をかけてかろうじて雨を防ぐ仕掛けも実に鄙びている。柘植義春さんの「石を売る」の中の石売り屋のおやじさんのセットそのものだ。

四半世紀経過しても、モダンになっていない渡し場と見て、安心して柴又方面に戻った。

2012年1月 6日 (金)

たこ足にコップ酒

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国木田独歩だったと思うが、なにかの小説で当時の場末の居酒屋の様子を活写して、庶民が章魚を肴に酒を飲んでいる様がいかにも旨そうである。

それも明治の時代だから「ごく下等な労働者」などと平気で書いているのは、労働基準監督局から文句が出そうだが、これは時代が時代だから仕方ないとして、そういう「下等な店」でも「白馬を一本つけよう:とあるからこれは濁り酒であろう。
当時の章魚は刺身であったかどうかも不明だが、時代を昭和に直せば、あたしの場合こういうコップ酒とたこ足の丸かじりが好きだ。

以前、恵比寿の駅前にやはりかなり大きいたこ足を喰わせるその店の内部の様子はよく記憶にあるが、その名前を忘れてしまった店があって、数年ぶりにそこを再訪したら綺麗になくなっていた。店のおばちゃんが「はい!おつりが250万円」というような店であった。これも最近なくなったなあ。

その飲み屋で20世紀の終わりにはマンハッタンの57丁目から写真専門のギャラリストが来て、その飲み屋の酒の流れている濡れたテーブルの上に、アジエのオリジナルを並べて見せてくれた。くだんの作品は厳重な透明ファイルに入っていたので濡れる心配はなかったが、あたしの感心したのはやはりアメリカ人はやるころがダイナミックだなという一点であった。

その10年前にパリのプロラボのPICTで御大ピエール・ガスマンがあたしに、アジエのオリジナルのガラス乾板を放り投げるように渡したのは、あたしを試す為であったのだろうか。落としたらそれでお釈迦である。

コップ酒を前にしてたこ足を噛んでいると、そういう過去の記憶が次々に浮上してくるのも面白い。あごの運動が記憶を活性化するのであろう。

2012年1月 5日 (木)

あの人のカバンの中身

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カメラマンのバッグの中身って言うのは、雑誌の企画に困った時の伝家の宝刀みたいなもので、あまり頻繁にやってはいけない。ちょうど、雑誌の対談もあまりやり過ぎると効果あなくなるのと同じような作用だ。

以前、某誌でカメラマンのバッグの中身を取材して、森山大道さんにお願いしたら、僕はカメラバッグを持たない主義と謝絶されたので、それならその持たない哲学を教えてください、と食い下がってインタビューにこぎ着けたこともある。

カメラマンのバッグの中身の記事が時に面白くないのは、なにかそこに見えない作為が感じられることで、ずらりと並んだ交換レンズ群はまるで交換レンズのカタログみたいにあれもこれもの突っ込みになってしまう点にある。
亡くなった、ナベゾさんがベストセラーの「マル金マルビ」の本で「売れっ子カメラマンはカメラケースを交換レンズでいっぱいにしても、使うのは35ミリ広角の一本だけ」という観察は深い。

さて、これはカメラマンのバッグの中身ではなく「あの人のカバンの中身」なので興味津々である。
発売中のリアルデザイン「RD」の特集。
登場している皆さんはほとんど知らない人なのは、これは老人の世間知らずということで申し訳ない。昨年の七夕の「笑っていいとも!」に呼んでもらった時だって、知っているのはタモリさんと鶴瓶さんだけで後の若いタレントさんは知らなかった。

この「あの人のカバンの中身」で、三国シエフはあたしと同年代と思っていたのが七歳もお若いのに驚いた。三国シエフとは面識はないが、あのレストランのバーテンダーさんとはカメラ友達であった。それも世界で100台しか生産されなかった、英国製のカーボンインフィニテイという大型カメラのコレクターさんであってかなりのマニアな話題になった。「一度うちの店にも来てください」と言われたままになっている。
カーボンインフィニテイの社長のノーブルさんとは東京で会ったことがある。

新潮編集長の矢野優さんはあたしの「屋根裏プラハ」の連載でお世話になった。最初の打ち合わせの時に、矢野さんは大学ノートを開いて、あたしの他社の 連載状況をチエックしたが。それは大事な連載だから「落とされ」ては困るという理由からであった。それでなんとか20回の連載を完結することが出来て満足 だ。

その最初の矢野さんの「取り調べ」を受けた時に彼の開いたノートは普通の大学ノードではなく、新潮特製の「打ち合わせ帳」であることが今回判明したのである。彼 は万年筆を持っていないことも、こういう特集で分かるのである。この装備で大江健三郎先生の所にも出掛けて行くのだから、凄いことだ。

 

2012年1月 4日 (水)

ライカおせち

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あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

あたしの母親世代は、おせち料理に「憂き身をやつす」最後の世代であった。しかし本格派とはほど遠いから、数の子などは塩をもどさずに、そのまま重箱に詰めていた。それに削り節をかけてさらに醤油をかけるのだから、子供心にもこれは血圧に悪かろうと思った。

家人の新潟の旧家のやり方は、ちゃんと塩抜きしたトラッドである。しかしやはり旧家には雑煮の奇習があって、まずおしるこを食べてから、すましの雑煮というしきたりである。

フォッサマグナの西側は丸餅で、白味噌で大きな八頭のおいもが入る。20年以上前に京都の西陣の旧家に遊びに行ってそこで伝統的なお雑煮をよばれた。これはこれで良かった。ただし文化財クラスの町屋の建物の十二畳の客間は結構だったが、金屏風はありがたいけど、京都の底冷えの元旦である。

さて、これが我が家の吉例の「ライカおせち」である。というのは嘘であって、たまたまカメラジャングルから発掘したらライカが2台入っていた。そのうちの一台はラクサスライカのレプリカであったので、このライツの革ケースをライカの重箱に見立てただけの話である。

これは神戸税関のステッカーだ。通関済みのこれはシールなのであろう。なにかライカが本当の高級品な舶来品であった頃が偲ばれる。

2012年1月 3日 (火)

OM1とぺぺんぺんを並べてみた

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あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

今から過去に遡ること参拾弐年前。

1980年の秋の「初リスボン」ではライカの他にOM1を持参した。50mmと28mmだった。
これは借り物カメラであった。OM1で撮影したリスボンのモノクロショットは当時の「オリンパスフォトグラフィー誌」の巻頭に掲載されている。
その七年半前の1973年の同誌では東京のスナップを掲載している。これはオリンパスWSで撮影した。ズイコー35mm f2が付いた世界で一番明るいワイドカメラで、当時のアサヒカメラのニューフェース診断室でも講評だった。作例の撮影は木村伊衛兵さんなのだからゴージャスだった。

当時のオリンパスフォトグラフィの編集長は泉沢さんであって「田中さんは編集部にプリントを届けるとそのまま欧州に出発しました」と編集後記にあった。

今回、リスボン行きで当時を思いだして往年の OM1を持参しようと思ったが、モノクロ撮影にはすでにニコンS2を用意してあったので、それは止めにしてOMシリーズのズイコー50mmを持参したのである。それにペンペンアダプターを付けて、主に夜景撮影に使った。これは好結果を得た。

佃地方に戻って、借りだしのOMレンズを元のOM1に戻そうと思って、ペペンペンとOM1を並べた写真がこれである。こうして見ると全体の本体のレイアウトがかなり似ていることに初めて気が付いた。ペンFとペンペンは似ているのは前から分かっていたが、これは新発見だった。

そこで感じたのは、もしOM1がデジタル化したらこのペンタプリズムのフォルムがそのままデジタル化するのではないかと思った。これはデザイン上の問題である。ただしOM1のデジタル化と言ってもサイズはあたしの場合、フルサイズは不要である。

サイズはマイクロ3/4で十分である。しかも今はEV全盛の時代だから、ペンタプリズムが入っていないモデルにわざわざ、このした山形デザインで付けるのは現実的ではなかろう。ただ、OMのデジタル化でそれがマイクロ3/4ならかなり小形になる筈だ。

二番目の画像は一番目の画像の、ペペンペンにOMレンズ50/1,4のアウトフィットで撮影した作例である。こうして見ると、70年代のシリーズのデザインはなかなかクールだな。まったく古く見えない。OM1がもしデジタル化されれば、その型番はやはりOMDになるわけであろう。

2012年1月 2日 (月)

ジュピター180MM F2,8 製造番号180

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あけましておめでとうございます。本年もそうぞよろしくお願いいたします。

これはジュピター6というシリーズの180MM F2,8の鏡玉である。
1950年代の後半、所謂冷戦の時代に、ソ連が自国のカメラ精神を発揚する目的で制作した、明るい180ミリだ。これがゾナーのコピーである。

同じ時期に、日本ではニッコール180MMF2,5が会った。ゾナーよりも0,3だけ明るいレンズであった。その直後に時代はニコンFが登場して、そのニッコール180MMにニコンのレフボックスでは使いにくいので、アダプターでニコンFに使えるようになった。大昔のアサヒカメラの口絵でアービングペンがそのレンズをニコンFにつけてモデル撮影した口絵があった。後の頁で撮影風景もあり、そこには「アシスタントのカズイノウエが露光を半段づつ変えて行く」とコメントGあって、プロの世界はすごいなあと感心した。

180MMという玉はそういうポートレート向きなのであって、これをスナップに使うのは至難の業である。だからその後にニコンが発売した望遠レンズも200MMのF4であった。岡村昭彦もこのレンズはベトナムに持参した。あたしは上の明るいニッコール180MM F2,5でオーストラリアを取材したことがあるが、持ち運びが大変であった。

上の事情を前振りにして、このジュピター6の話になるのだけど、同時のソ連の最先端のカメラはこのゼニットCなのである。ようするに西側の国がすでにペンタックスとかニコンFを常用していた当時に、ソ連の現役はこういう「ライカD3にむりにミラーボックスを付けたようなカメラ」なのであった。

それは時代遅れに思えたのは今までのカメラの価値観であって、最近の価値観だとなにかクラシックな古い一眼レフにこういうぎらぎらしたでっかいレンズが付いているのは、ゴージャスだと思う。

上のジュピター6はあたしのレンズでアルパ10D(100台限定のゴールド仕上げ)にアダプターで付けている。この場合、このマウントはM39なので、それをM42にするアダプターが間に入っている。

それでこれはどうでもいいことかもしれないが、その製造番号は180番なのだ。

下のジュピター6は最近、我楽多屋さんに入荷した同じレンズであって、これは純正のゼニットが付いている。この方が正統派であって、あたしのアルパの方は「西側芸国主義に汚染」された組み合わせというわけだ。

2012年1月 1日 (日)

ライカA型はなぜいいのだろう?

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あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

このライカAが何時から佃地方にあるのか記憶にないが、ライカAを手にすると、なにかライカの秘密と言ったり、バルナック精神と言うと教条主義であるが、そういう大げさな話でなくとも、ライカの初期のモデルを手にするとある意味で撮影の意識が覚醒するようだ。

これがD2以降の当時の「自動焦点ライカ」を手にするとその「撮影時の戦闘精神」というのはあまり意識しなくなってしまう。
思うにまずA型はレンズ交換が出来ないから、ライカ人類の通常落ち込む問題点、すなわち、8枚玉のズミクロンとか、レアなズマレックス85mmf1,5とか、暗闇を制圧する、ノクチルックスなどの誘惑の欲望からは完全に自由である。
もっともカメラメーカーさんは交換レンズで喰っているわけだから、A型は採算効率は最低なカメラである。

この間、東京大周遊をカメラマガジンが取材した。もともとこれは銀塩マガジンであるから、フィルムカメラを持参してくださいという編集部からのリクエストであった。それで田中という名前なので、田中光学の田ナックを用意したが、なにかあまりに受け狙いの「全方位外交」のように思えたので、佃地方を出る前に急遽、キャストを変えて、A型を持参してフィルムは1本だけ撮影した。

それをヒルズ地方の55ステーションで現像したら、そこに新たな驚きがもたらされた。50mmの旧エルマーの写りがなかなか良いのである。
メーカーさんによってはMTF曲線が至上主義みたいな信仰を持っている所もあるけど、あれはレンズ神学上の問題だからまず構わないとして、以前、著名なレンズ設計者の方とお話した時も、最新鋭のレンズの設計の話も済んだ後に、その人は言葉を改めて「ところで、長徳先生、、、いいレンズって何なんでしょうね」と言ったのである。この一言を聞いて、あたしはその紳士を信用する気になった。
レンズの専門家が取り組んでいる、解像力をはじめとするもろもろのレンズ用裾が昔とは比較にならないほど進化したにもかかわらず、いまだに「真実の良いレンズ」は得られないわけだ。

以下の作例はライカAに旧エルマー。

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