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2011年12月31日 (土)

屋根裏プラハとモロッコ章魚

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魚河岸が30日までである。いつも土曜に場内に行くのであるが、大晦日はお休みだから20日に行った。いつもの鮪のさくと章魚を買うのである。鮪も章魚もすでに買う店は決まっている。
鮪の方は頻繁に買いに行くから、おやじさんに顔を覚えてもらっている。この前「来週からリスボンだ」と行ったら「いいなあ!」と言われた。
それで金曜の何時もより早い時間帯に行ったら「あ、田中さん、帰ってきたの」などと言われたのが、実は嬉しいのである。
そこで鮪を買って、次はモロッコの章魚である。この秋に明石の章魚は現地に買いにいって、それに章魚のほしたんも買って、それで章魚飯を作ったらなかなかうまく出来た。
しかしまあ、章魚はうで章魚がいい。音羽の少年時代から青年時代にあたしの章魚好きは始まった。
母親の世代はちゃんとおせちを作る世代であるが、それが日本家屋の使わない座敷の寒い部屋におせち一式と章魚の刺身や鮪が並んでいた。これはようするに家の冷蔵庫が電気ではなく、氷の時代の名残なのである。

東京大周遊で、霜降銀座の奥のさびれた商店街のしもた屋の中に、軽四輪が駐車していて、それが小さな魚屋さんなのである。その軽四輪の中のガラスケースの真ん中のうで章魚がなかなか立派なので歳末に買った。駒込から佃地方にそれをぶらさげて帰るのに、腕が痛くなるほどの大章魚であった。これは10年以上前のことだ。

一昨昨年の暮れに場内で買った大きな章魚は正月中に食い切れ名鳴ったので、プラハに持参した。大章魚の半分は残っていた。アトリエでスーツケースを開いたら、さすがに1万キロを旅したので、章魚は疲れていた。それでパエリア風の料理にして喰った。サウスモラビアの赤ワインになかなか会うのである。

それでモロッコの章魚を見ると、プラハを思い出す。そのプラハのエッセイをまとめた本「屋根裏プラハ」が1月に新潮社から出るのである。章魚とプラハは一見何の関係もなさそうだけど、あたしの中ではリンクしている。
その新刊はすでにアマゾンでは予約受付中だ。景気をつける為にあたしも一冊予約注文しよう。

2011年12月30日 (金)

文京区音羽の崖下のマンホール

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「カメラマガジン」第16号の撮影で「東京大周遊」を取り上げてくれるというので、撮影に行った。

東京大周遊と言っても「高尚な思想」があるわけではない。日大写真学科1年当時に新宿から徒歩、半蔵門から銀座経由で月島まで歩行したのがその興りである。

一昨年、石川直樹さんとen-Taxiの取材で真夏のあれは確か参院選の前の日に同じ、新宿から月島コースを歩行した。世界五大大陸の最高峰を踏破した石川さんは案外に平地は弱いのではないかと思っていたが、果たしたその通りで途中の四番町あたりでタオルが投げられたので、そこらの蕎麦屋で宴会になった。

それはそれで構わない。都会をただただ歩行するなどは、冒険ではないし、さりとてあまり上級の趣味とも思えないからだ。
そのあたしの東京大周遊だが、何も東京に固執しているのわけでもない。先週はリスボン大集湯であったし、10月はプラハ大周遊。7月にはベルリン大周遊。5月もプラハ大周遊で、3月はマンハッタン大周遊だったし、1月はウイーン大周遊をしたのである。まずどこでも構わないのだけど、さと言ってどこでも町が面白いというわけでもない。

世界の町にはそれぞれの「言葉」というか「語り口」というものがある。やはり町を会話をするのなら、話が面白い人と会話するのが良い。町の場合も同様である。

あたしの生まれた旧小石区音羽5丁目2番地にまた行ってしまった。最近、ネタ切れなのでなにかと言うとここに来る。この5月であったか、理研の大撮影会があってここに来た。その翌日は今度は偽ライカ愛好会の撮影会でまたここ来た。

しかし自分の生まれた場所というのは、単に母体がそこにあっただけなのにそれを人間の一個体である、あたしという存在がそこをほとんど無意識に目指してしまうのはどういう理由なのだろう。

駱駝が沙漠の中で自分の生まれた場所を特定したり、渡り鳥が戻ってきたり、魚の遡上と似たような動物の本能なのだとした思えない。
この前、ここに来て、このマンホールのあたりがあたしの生まれた場所ですと同行の20名さまに説明したら、風評被害で「ちょーとくはマンホールの中で生まれた」ということになったそうである。その界隈で生まれたのであって、マンホールの中ではないぞ。

しかし、危険地域には変わりはないので今回行ったら、立ち入り禁止の黄色い斜線が引かれていた。

カメラマガジン編集部の井浦さんとカメラの松村さんを音羽の壁の前で撮影した。この7月のベルリン行きで哀愁のベルリンの壁はなくなったし、ベルリンの壁の代理体験であった、小菅の拘置所の壁もなくなったので、皮肉なことに音羽の崖というのは、あたしの東西ベルリン時代の壁の記憶を思い出す唯一の「よすが」になってしまった。

井浦さんの持参のカメラは懐かしいOM1である。このカメラを持って、あたしがリスボンを徘徊していたのは実に31年前、すなわち1980の秋であった。

 

2011年12月29日 (木)

あたしのような素人が校正をすると、、、

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新潮社からもうすぐ「屋根裏プラハ」が出る。あたしの初めての「非カメラエッセイ集」だ。そう書いて、カメラの話もかなり収録されていることに思い当たった。

校正というのになれていないので、やたら時間がかかる。内田百鬼園が大正時代に金貸しから金を借りてその証文を作る時に、その金貸しが「まるで素人が校正をするような目付きで」と書いているのが非常に面白い。これは高利貸しからの借金であるが、額面300円だかの金を借りるのに、前利とか公正証書とか調査費用とかいろいろ引かれて胸算用の300円よりかなり少ない金額を懐に入れて「金が出来たような、まったく足りないような不思議な気分」でその金貸しの家を後にするくだりが、あたしは好きである。タイトルは確か「地獄の門」と言ったな。

「屋根裏プラハ」の校正を朝の10時から夜の10時まで12時間ばっちりやった。それは疲労感はなかったけど12時間と言えばもう成田から欧州の主要な都会に飛行機で到着している時間と同じである。

300頁弱の本のボリュームが多いのか、それともあたしの校正の速度が遅いのかそこらは定かではない。恐らくその「相乗効果」なのであろう。

そういう長い時間にわたって、慣れない素人の校正をしていると、自分が何か大正時代の百鬼園に金を貸したその高利貸しのような目付きなのであろうと、想像する。

出版社の校閲部の三大タイトルと言えば、岩波書店、新潮社、それに朝日新聞社だろう。あたしの素人校正は実はそういうプロの校閲部の影の力に支えられているわけである。

「屋根裏プラハ」に関しては、月刊誌の新潮の連載中に校閲を担当してくれた人が今度は単行本の校閲に移動になったので、実にじっくり読んでもらった。

「屋根裏プラハ」のチエコ語訳は新潮社校閲部長さんのお手を煩わせた。ネイテイブスピーカーにチエックしてもらった方がいいという、ご本人の希望でプラハの知り合い(それもミラン・クンデラから文章法を教わったオールドボーイ)に確認をとったら、「すばらしいチエコ語だ」と返事があった。

そういう風にだんだんに本が出来て行くのは嬉しい。この「屋根裏プラハ」はあたしの125タイトル目の出版物になる。

2011年12月28日 (水)

石川直樹 ユリイカ

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月曜。

朝日の朝刊にSUN DISKの広告で石川直樹が出ている。全面広告。

石川はマキナ670の使い手であって、世界中に持ち歩いている。カメラは2台持っているが、フードは1個しか持っていないので、海外から戻るとその、ひしゃげたフードをたたき直すのが仕事であるとは、以前、雑誌の石川さんとの対談で話題になった。

その問題は一昨年の参院選の前の日だったか、ひどく暑い日にEN-TAXIの取材で新宿から月島まで石川さんと福田和也さんらと歩行した時、途中で寄った、アローカメラ、我楽多屋さんで石川さんがマキナのフードを発見したので、数年来の石川写真術のウイークポイントは無事解消したのである。

そういう石川直樹の銀塩写真術を見ているから、朝日新聞の全面広告にはちょっと違和感を持ったけど、まさか現代にマキナの広告などあり得ないからこれは時代の趨勢というやつだ。

その新聞広告を見て、先週まで2週間、佃地方を留守にしていたので山になっている郵便物の中から、ユリイカの石川直樹特集を取りだした。ちょうど一年前の教、すなわち12・26にプラハから戻ってやはりデスクの上の郵便の山の中から、石川さんが送ってくれた「CORONA」を発掘したのである。なにかタイムラインがはっきりして来た。

ユリイカの石川特集はかなり面白い。
それは若干33歳(だっけ)ですでに功成り名遂げた人間の年譜がそこに見えるからだ。石川直樹についてユリイカのこの特集の中であたしは「何をするか分からないような目をしている」とか「千日回峰行者のようだ」とか書いているが、最近の石川直樹のスタンスは「石川です。写真と撮ったり文を書いたりしています」と初対面の人に自己紹介するのである。

20代ですべてをやり尽くしたあげく、気球が着水してもうおしまいという時に、NYKのコンテナ船に救助されたりした。こういう人間にはもう怖いものは何もないのだろう。

それでこの2011年の短い残りの時間は大事に「ユリイカ」を読むことにしよう。そころでその「ユリイカ」の編集部の明石さんはやはりあたしのような世代とはその人間の比重がかなり異なっているので面白い。どうも福田和也さんの教え子ということらしいが、やはり「変なやつ」なのである。

「ユリイカ」ならあたしのようなオールドボーイは伊達得夫が居り、さらにこの雑誌の名付け親たる、稲垣足穗がいる。だから編集の明石さんから原稿依頼があったとき、「自分もついにユリイカに執筆かあ」と感激した。こういう著名雑誌はノンギャラでもいいのに、なんと原稿料ももらえるのだ。
しかも0,5カメラ円だ。これは記念にもうひとつ、マキナのフードを買って石川さんにプレゼントしようと思う。

ちなみにあたしが執筆した「ユリイカ」のテキストは実は本、ペンペンブログからの「コピペ」なのである。しかし頭でこねくるより、ブログはリアルなドキュメントであるからその方が記憶の「シズル感」はある。

2011年12月27日 (火)

音羽の鷺坂

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堀口大学は家人の家系の遠い親戚である。そのことは折につけて書いたことがあるが、面白いのは青年時代から愛読した文庫本の「戦う操縦士」とか」人間の土地」が大学さんの訳になっていた点だ。

音羽の通りから江戸川橋に向かう手前の左手に鷺坂という恐ろしく急な坂がある。先日、リスボンに行く前の「足慣らし」に実に10年ぶりにその坂を登ってやはりその傾斜が急なので感心した。小学校のガキの当時の身の軽い時でもこの坂はなかなか難儀であったが、64歳で体重が80キロでは難儀度はさらに増している。

その鷺坂の石碑をもう60年来見慣れていて、なにが気に入っているのかと言うとその字体であることが分かった。それで今回初めて、その石碑の揮毫がだれであるのかと、石碑の裏側に回ったら、大学さんの教育に熱心だった、外交官のパパさんの揮毫であったのでなにか妙に納得したのである。

音羽から護国寺にかけてのこの界隈は、ガキの当時から墓石や石碑ばかりであったので知らないうちに、それらを見慣れていて、しゃっちょこばった字を書くのは軍人であるから嫌いだ、などと色々勉強してきたのである。

大学さんの一家がこの久世山界隈に住んだということも知らなかった。この界隈で有名な文人は佐藤春夫であって、そこに出入りしていた、足穗が佐藤春夫のことを「文春の喇叭卒」と書いて出入り禁止になったりしている。
思うにこの界隈は当時は場末であったから賃料も安かったのであろう。小学区の通学路など実に寂しい道だった。
断腸亭の生まれた家などは、邸内にきつねの住処があったほどだ。

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2011年12月26日 (月)

コップはコップ。パンはパン。

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日本が最初に接触した外国文化が種子島のポルトガル人だとすれば、彼らの持参したブレッド、あるいはブロートは「パン」なわけである。パンはパンであって日本語でも、他の言葉に置き換えようとすると、代替語が存在しないことに気が付く。

かなり前、知り合いの優秀な編集者で早稲田出の、英語はあまり堪能でない人と欧州を旅行して、その他にあたしが引率する団体さんが15名ほどだったが、プラハかどっかのホテルでその編集者と我々を運んでくれる、外人のバスのドライバーさんとあたしが同じテーブルになった。

その編集者はあたしがパンを欧州風に半分に切って、綺麗にバターを塗るのに感心して、同席のドライバーに「MR TANAKA,,,PAN,,,」と言ってあとは仕草で説明した。これを英語というべきかどうかは別の問題として、立派にコミュニケーションがとれた。

そのパンであるが、これはリスボンの安ペンションのパンなのである。これがその前に宿泊した、五つ★のホテルより格段に旨いことに気が付いた。ようするに高級ホテルの客は通りすがりかも知れないが、安いペンションの方は固定客がついているから、パンの質に手は抜けないわけだ。

コップの方は、リスボン空港のラウンジのものである。エントランスの受付に青リンゴが山になって客にとらせるのも面白いが、このコップを見て、キリスト教の「聖杯」を思いだしたのは、リンゴとの連想であろう。古い宗教画にはこの手のコップが登場する。

リスボンのカフェでミネラル水を頼んだら、おばちゃんが「コップは要るか?」とポルトガル語で聞かれてその「コップ」という部分だけが、日本語に聞こえたのはこれは錯覚であって、ポルトガル語の外来語であったわけだ。

佃地方にその聖杯を持ち帰って、最初はリスボンから持ち帰った赤ワインを飲んでいたが、お茶にも、コーヒーにも、ウオッカにもこの聖なる杯は飲みやすい。

もう一個、失敬してくればよかった。ちなみに我が家で愛用している薄手のワイングラスは25年前にリスボンで買ったものだ。確か1個は割れてしまったが、まだ5個は残っている。

2011年12月25日 (日)

1955アメリカンのカメラ雑誌のニコンS2の広告

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先日、沢木耕太郎さんとキャパの使ったカメラについて話し合った。キャパはライカやローライやコンタックスを使ったが、戦後来日してからは、ニコンSを使い出した。そしてインドシナで死んだ時にはニコンS2,も持っていた。
最初のキャパの仕事はチューリヒにおける、トロツキーのポートレートだがこれはコンタックス1型による撮影だ。そう見ればキャパのカメラはコンタックスに始まってニコンS2に終わったことになる。
ニコンS2が好きなのは、例のぐにゃりマークのロゴでしかも、モダンなレバー巻き上げでクランク巻き戻しのニコンはこれしかないからだ。
リスボンの街を歩き廻って、8本と半分だけモノクロで撮影してきた。

帰国して、ヒルズに行って、昔、アメリカでニコンS2の発売当時の雑誌広告の切り抜きがあったことを思い出した。10点以上ある。
実際よく集めたものだ。当時、レンズのf2付きが299,5ドルで、f1,4付きが349ドルであった。
もう故人になられた、ハーバード・ケプラーさんや、ボブ・シュワルベルクさんの絶賛のコメントも懐かしい。あたしはこれらの方々には30年前にお世話になったからだ。

2011年12月24日 (土)

最後のフィルムを使うスパイカメラ

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★東京二日目。時差まっさかり。

20世紀には、スパイカメラというものの存在があった。よくスパイ映画で部屋に誰もいなくなった時、来客の男が実はスパイで、人なきに乗じてその部屋の机の一番上の引き出しから機密書類を取り出して、ポケットから出したミノックスで複写するのだ。映画では機密書類は机の一番上の引き出しと決まっている。

実際にはあんなに地明かりで、手持ちで書類を撮影できるほど、当時のフィルムを使うスパイカメラはシャープであったのではない。

デジカメの天下になってから、デジカメのスパイカメラのことをとんと聞かないのは、普通のコンデジで十分スパイカメラの用が足りるせいであろう。

ここに取り出いたしたのはその意味で、前世紀の本物のスパイカメラだ。その名をロボット35SCという。実に小さい本体で、これをスーツケースなどの中に入れて撮影するのであ。いわゆる盗撮ですね。盗撮は女の子を黙って撮影すると、迷惑防止条例などにひっかかるようだが、本物のスパイは「幕府の犬」であるから、そういふ方面の嫌疑はご免になっているわけだ。

盗撮写真じゃなければ、スパイ写真じゃない。1月に新潮社から出る新刊「屋根裏プラハ」で、プラハの報道写真家が知らない間に行きつけのカフェで自分の姿を撮影されていたのを、革命後にある筋から見せられて驚いたそうだ。職業写真家なら自分が撮影されたならすぐに気が付く筈だが、彼は全然分からなかったという。そういう話を「屋根裏プラハ」に書いた。

思うにフィルム時代のスパイカメラの成功はその本体をどれだけ小形に出来るかにあるが、それには35ミリのフィルムのカセットという制約がある。小型化を阻むのがこのフィルムカセットのサイズだ。ミノックスのような9,5MM幅のフィルムなら小型化できるが、シャープネスには限界がある。

このロボットでは特殊のカセットに35MMフィルムをまき直して使う。画面サイズはハーフサイズよりやや小さい画面を22カットほど撮る。

ロボットSE35の当時の凄いのは、これは世界で唯一の自動露光のスパイカメラであることだ。フィルム感度は100から3200まで設定できる。ようするに「諜報写真のオートメーション」ですね。スパイは他の業務でも忙しいから「多忙な諜報部員のストレスを解消」する新機軸であった。

問題点はこのカメラは酸化銀電池で動くのだけど、昔の電子機器だからやたら電気を食う。それも値段が一個二千円近い、酸化銀電池を使う。あたしはスパイ失格Sだと思ったのは、このカメラはスイッチをオンにすると自動的に電源をカットしない。それでスイッチを切り忘れると、全部電池がいってしまう。

あたしがスパイなら、貴重な諜報費用をロボットのバッテリーだけで使ってしまうからすぐにクビになるのは明らかだ。

2011年12月23日 (金)

リスボン ひつぎ と ひこうき

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東京着。

リスボンで一番、良く行く場所は28番の市電の西の終点の、市営墓地である。市電はそこまで行ってまたループ状の無限軌道を引き返す。

市電の輪廻転生ではあろうが一方でその前の広場には天国への門がある。葡萄牙はどうもこの墓地で見る限りは、火葬ではなく、これは土葬とも言えないのか、ようするにひつぎが死者の家の中に安置されているのだ。

この前、その死者の家の前で転倒して、生者がその家の中から飛び出してきて、あたしを救ってくれた。

思うにこの墓地が好きなのは、整然と並んだ糸杉の並木道に白亜のモダンな家が並んでいるその風景にあるようだ。

四半世紀ほど前、フジフィルムのなにかの広告でやはりこの場所をホロゴン15mmで撮影したのが使われた。広告の担当者さんはこれがお墓であったことは恐らく知らなかったようである。

糸杉をバックに見える空からは常に轟音がしている。
「目を覚ませと呼ぶ声が聞こえる」なら黙示録の天使のトランペットであろうが、これはリスボン空港にアプローチする飛行機の音なのだ。

生きているものと、墓の中に去ったものとを祝福しているのが、ジエットエンジンの轟音であろというのはドラマチックでいいと思う。

お墓の中には透明なガラスドアだから中を参観できるのもある。若くしてこの世を辞した人のひつぎと思わぬ対面を果たしたりすることもできる。

★カメラはXZ-1

2011年12月22日 (木)

リスボンで一番有名なカフェ

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★リスボンアムス経由で東京地方に到着。

東京に居た時に見た、GOOGLE MAPのリスボンの路地裏のショットがこれである。リスボンの墓地の北側の坂を延々と下ってくると、北側のゆるい坂に穴蔵のような入り口が2つあって、そこに男達が立って、グーグルカーの方を見ている。

この間、町の西の水道橋(すいどうばしではなく、すいどうきょう、と読む)から町の最も西側の小道を南に歩行していたら、いきなり記憶にある街角に出た。

これは疑似体験というやつで、グーグルカーの撮影したこの上の画像がそれなのだ。

それが現実の光景として目の前に現れたので吃驚したのである。よく現実の光景で観察すると、それは穴蔵ではなく、うらぶれたカフェなのである。それで興味がでて入ってみた。

中は、ちょうど仁日本の堀切菖蒲園の金子酒店の立ち飲みみたいな感じで数人のおっちゃん、じいちゃんが居る。
ネーバーフッズバーってやつだ。英語を話すおやじが居て、フクシマへのねぎらいの言葉をもらった。フクシマはリスボンの墓地の裏手のカフェでもかなり有名である。

★カメラはXZ-1

2011年12月21日 (水)

ブリテイッシュバーの午後五時半

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★本日移動日。リスボン アムス 成田。

安ペンションの前のバス停から出ている790番のバスは便利だ。中心部まで南下して、川沿いに西に向かう。

カイシュソドレ駅のブリテイッシュバーの前を通過して、今度は北の坂を上り、カフェブラジリアの先の坂をさらに登って、サンロケ教会の脇の細い道をすれすれに潜って、アルカンタラ展望台の先を西に走行して、丘の上が終点だ。

そこから急な石段を降りると、リスボンの見えないカメラ店である。

帰りはその急場石段を登って、またバスの終点から乗る。ところが帰り道にまたブリテイッシュバーの午後五時半の前を通るので、ここをそんまま通過するのはかなり困難である。

それで入ることになる。東京の夕刻のラッシュ時間ならこういうローカルなバーは満員のはずであるが、深閑としているのが逆に趣きがあっていい。

麦酒を一杯だけ飲んでまた来合わせた790番のバスに終点まで乗れば安ペンションの真ん前だ。アベニーダパレスホテルより数段上のサービスである。

皮肉にも、朝の珈琲はこの安宿の方が熱いし、パンもこっちの方がうまい。

★カメラはXZ-1

2011年12月20日 (火)

ブリテイッシュバーの小さな椅子

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ブリテイッシュバーの小さい机の前に差し込まれている、四客の小さな椅子については、何時もバーに行った時にはその配置に感心していて、そのまま忘れてしまうので今回はここに書いておこう。

この椅子はエントランスをはいったすぐ左にある。テーブルのサイズが小さいので、普通に並べるとこのスペースでは収まらない。
このやり方がベストであることがわかる。

ところで20年前だったか、このバーで立派な身なりの紳士がちょうどこの椅子のあるあたりで座り込んでいるので、気分でも悪いのかと、心配したことがあった。
よく見れば、それは靴磨きのおじさんなのである。店内に道具を持ち込んで客待ちしていたのである。

靴磨きはユーラシア大陸では、イスタンブールがその限界かと思っていたが、リスボンでまた復活していたことになる。

その靴磨きラインは大西洋を渡って、亜米利加にはちゃんと散在しているのも妙だ。

2011年12月19日 (月)

Pingo Doce の「鳥の豆」

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Pingo Doceの意味は知らないが、リスボンのスーパーマーケットである。いや、郊外の住宅地にある、スーパーメルカドスのような巨大市場ではない。まず、日本の明治屋のようなちょっとお洒落なお店であろう。

リスボン暮らし31年目のあたしだが、棲む場所はいつも、Rossioの近所なので自然とこのお店の御世話になっている。今だと、クリスマス前の恒例のバッカーリョ(鱈の干物)を買う人で大混雑だ。

今は五つ★ホテルを引き払って、町のちょっと北のペンションに居るのだが、リスボンは不思議な所で、街中で気さくなレストランというか、喰いもの屋はいくらでもあるが、コンビニとかスーパーに似たような店は皆無だ。さもなければ町に何カ所かある、西本願寺みたいな巨大建物の本物の市場に行かねばならない。

ところが今居る、安宿は隣は陸軍アカデミーと大病院なのでそういう店はない。結局、バスに乗って、RossioのPingo Doceに買い物に行く。

ライカインコが昇天したのは2009年7月3日であるが、あたしの家の宗教は真言宗豊山であるが、他に「ライカインコ真理教」をも信奉しているので、ライカインコとは「同行二人」である。弘法大師みたいなものですね。

Pingo Doceのキャッシャーの長い列に並んでいたら、頭上のライカインコが「おい!これを撮影せよ!」言うので、何かと思ったら、あたしの言葉で言う所の「鳥の豆」(とるの、まめ、と読む)すなわちインコの餌であった。リスボンのフィンチは大食なのであろうか、パッケージがやたら大きい。

ライカインコからの撮影指示があったので、首からぶら下げていたXZ-1で撮影した。さらにキャッシャーに置かれて「鳥の豆」を押さえで(この言葉、編集用語で懐かしいな)ワンショット。
ライカインコが「ペットから信仰」になってから(これはこの間の高野山訪問の影響だな)やたら「神おろし」であたしに各種のご神託がある。
その一部の話は、今度の新潮の「屋根裏プラハ」にも書いた。ようするにあたしのアトリエには革命前の大トランクがあるのだが、それは革命前のプラハに通じるタイムトンネルなのである。そのタイムトンネルに入って戻れなくなる危険をライカインコが救ってくれたというこれは「実話」なのである。

さて、鳥の豆はともかく、13ユーロで買ったモノの全てがこれである。芝エビの茹でたのが1キロ。麦酒半ダース。ミネラル水半ダース。それにチップス。なにかプラハより物価安いみたいだ。

★カメラはXZ-1

2011年12月18日 (日)

リスボン 墓場と転倒

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飛行機がリスボン空港にアプローチする時、最初、4月25日橋の上を追加して(この一番上の画像の吊り橋)から市営墓地の上空をかっきり、それから超低空でリスボンの市内をかすめて空港に着陸する。まるで最後の30秒はまさにそこらのバーで飲んでいるリスボンの人のビアのグラスの手元が見えるほどだ。これが正しい都市はの着陸の方法である。

だから飛行機の着陸と墓場とは親しい関係にある。まず着陸の隣に座っているのは死に神であろうから、この関係は悪くない。

三十年来、この町の西のはずれの墓場によく遊びに来た。ちゃんと座るベンチも決まっている。三十年前はまだ墓場はかなり未来であったのが、ようようにして墓場は近未来になった。
飛行機はゴッホの描いた糸杉なみのドラマチックな風景の上を突っ切る。これがいい。10年前には週に2便、水曜と土曜にモスクワとリスボンのSUの便があったのだが、現在では対多数のロシア人はお金持ちだから、古びたリスボンには興味がなくて、彼らはみんな西側の人民の哀れなバカンスの仕方を真似たいので、リスボンではなく、アンダルシアのマダガに行きたがる。
それでリスボンにめっきりロシア人の姿を見なくなった。

何時ものベンチに座って休憩してから、墓地の散歩を開始したら、通りの先の墓地のドアが開いている。説明すると、ここの墓地は列車の死んだ医者、おおっと変換間違い、寝台車の、それも三等寝台のように墓室の左右に三段ずつの棚があってそこに棺を収める。脇に小さい椅子もあって生者が死者と会話できる設備もある。

そのドアが開いていたので、おや!と思った瞬間にあたしは足をすくわれて、転倒した。瞬時に思いだしたのは、2週間前にヒルズで沢木耕太郎さんと会話した、例のキャパの「倒れる兵士」のイメージである。ほぼ同じように仰向けに転倒したのはあたしは腰痛の後遺症で右足の右側の感覚がちょっと鈍いのだ。
それで世界中で転倒する。この前は2年前の夏にスペインのマラガで転倒した。通行人が新聞をかなぐり捨てて助けに来てくれた。今回の転倒では墓地の中から女の人が飛び出してきて、あたしのキャップを拾ってくれた。
佃の路地で転倒したこともあるが、誰も助けには来てくれなかった、
墓地の中から飛び出した彼女にお礼を言ってキャップを受け取ったら、彼女は墓地の中で泣いていたことがわかった。

沢木さんの好きな作品に「イルカと墜落」というのがあったな。手元にみつからないので、出発前に札幌の古書店から買ってリスボンに持参した。まだ読み返してはいないうちに、いきなり「墓場と転倒」になってしまった。

2011年12月17日 (土)

リスボンのブリテイッシュバー

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初リスボンの1980年の秋から、このカイスドソドレ駅のそばのブリテイッシュバーに来てるのだからもう三十年以上だ。

よく当時を記憶しているのは、入り口のガラス絵の客船がぼろぼろになって、画像が分解を開始していたことだ。マサチューセッツはケンブリッジのポラロイドがスポンサーであたしの撮影したSX70プリントを買い上げた。

今では探している人の多い、31年前のSX70プリントである。数年前のギャラリーバウハウスでも最初に売れたのがこのプリントだった。

その後、1989年に来たときにはブリテイッシュバーは大改造をしていた。その翌年に来たときには大改造は終わってきれいになっていたが、くだんのガラス絵は修復されてしまったのでつまらなくなった。でもそれからすでに20年以上が経過しているから、ややガラス絵も古びて良い感じになった。

思えばビロード革命(プラハ)の時に修復されたわけである。

30年も通っているのでなんでも知っているつもりになっていたが、今回の大発見なこのバーの形は長い台形であるということだった。いつも入り口の椅子に座って、店内を見ると非常に奥行きのあるように見える。これは遠近が誇張されているのである。

今回、はじめて一番奥の椅子に座って入り口を見てその空間の秘密が判明したわけである。

★カメラはXZ-1

 

2011年12月16日 (金)

リスボンの降誕祭

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リスボンの市内の中心部を縦横に小路が碁盤の目のように走った、バイシャ地区とするのならその東がアルファアであり 西はバイロアルトである。
個人的にはアルファマの方が好きなのだが、これは好みの問題である。

カイスドソドレ駅はバイロアルトの先にあるが、そこのブリテイッシュバーで午前中に麦酒飲んで、坂を上がっていたらアズレージョの綺麗な建物に赤旗と思ったのは、そうではなくナザレの子供の肖像畫であった。その風貌がラテンなのは実は変なのであるがそれは問わない。葡萄牙にはナザレという地名もある。

今まで何回かリスボンに降誕祭の前に来ている筈だか、この肖像畫に関して記憶がないのは単にあたしの注意力の散漫のせいであろう。

それにしてもこの赤い肖像画は社会主義国の独裁者のそれとも共通点がありそうだ、

さっそく駅の近くの小店でその赤い肖像画を買った。

★カメラはXZ-1

2011年12月15日 (木)

リスボンのポルコアレンテージョ

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ポルコアレンテージョというのは、リスボンの南、アレンテージョ地方の豚肉料理ということになっていて、実際にそこにそういう料理があるのかは知らない。ウインナーソーセージはウイーンにないのと同じことである。

ただし、あたしはこのポルコアレンテージョが大好きでリスボンに来ると食べたくなる。日本の葡萄牙料理店にもあるのかも知れないが、それは邪道だ。わざわざ、フェルメールの絵を1万キロ離れた極東に運んできてもフェルメールはわからないのと同じで、葡萄牙料理は現地で食うに限る。

これはどこの安い飯屋でもある定番だ。午前の撮影でさっきケーブルカーの坂の途中の30年来行きつけの店を探していた。そこは「蚤の夫婦」さんがやっている小さな飯屋であるがもう閉店していた。

このバイロアルトの高台からテージョ河に下るケーブルカーの急な坂道は、30年前には本当に庶民が住んでいたのであるが、最近は生活の為の店が少なくなってしまった。蝟集するのは我々、ツーリストばっかり。
30年前のこの界隈の様子は、あたしの写真集「ウイーンとライカの日々」に掲載されている。

坂の途中の飯屋にポルコアレンテージョが看板に書かれていたのでぶらりと入った。まあリスボンの食いもの屋のメニューがわかると言っても、この程度の楷書で書かれていればわかるという意味だ。

店のおっちゃんが、英語のメニューにするかい、、って言うので、「ふざけんない?あたしゃこう見えても30年来のリスボン育ちよ!」って啖呵きったら笑っていた。

あたしはカラフのハーフをとってそれで飯を食ったけど、斜め向かいのプロフェッサーはちゃんとフルボトルでランチを食っている。本物の紳士はこうありたい。立ち食い蕎麦を2分ですするのは、極東の植民地の貧民の食生活である。あたしは貧民だからそれも好きだが。

ゆっくりBicca(エスプレッソ)をすすって、坂の上に来合わせていた、28番の黄色い市電に飛び乗って、ホテルに戻ってきた。

これからシエスタだ。

★カメラはXZ-1

2011年12月14日 (水)

ターレットファインダーを真っ二つに切断

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確か、1980年のリスボンでは、ライカD3にソ連製の20ミリ、28ミリと50ミリ。それにオリンパスのM1(OM1ではなかった)を持っていた。それからフォトキナのポラロイド社から提供を受けたSX70と大量のピクチャーロールだった。

ライカに付けたファインダーがこれである。ソ連製のターレットファインダーを半分に切断して造ったホームメードのファインダーだ。値段も忘れてしまったが、今のウイーンのライカショップの向かいにあった、フォトオラーターで買った。

要するに5本の対物レンズを28MM用の広角の対物レンズだけにした簡易システムであるが、これを改造した人間はよほどの頭の良い人であろう。買ったのがウイーンであるから、多分、ウイーンのモノ好きが造ったのであろうが、もともとウイーンにはWICAみたいなユニークなライカコピーカメラとか、VARIO FLEXのようなまだPCニッコールしか存在しなかった時代に、それより進んだアオリレンズを製造する工房があったり、さらにMINICORDという、ひどくマニアックな16MMフィルムを使うミニチュアカメラがあった。

そればかりか、ウイーンはもともと、フォクトレンダーの発祥の地であり、プロ用映画撮影機のMOVIECAMも造っていたし、その前には世界を席巻した、アマチュア用のフィルムカメラ、EUMICもあった。ようするに日本のカメラ産業が戦後になって発芽したのに対して、その時間スケールがまったく違うことは、ちゃんと理解しておく必要がある。

このファインダーはその意味で、メカニズムへの不断のアイデアの結晶がこういうモノを生んだというわけである。

もともと、広角レンズでの撮影は大体の空間を把握しているだけで、ファインダーなどは使わないのがあたしのやり方なのであるが、それでもなにか気休めのつもりではるばるリスボンに持参した。

他の機材で考えれば、昨年の2月に「ペンペンムック」を制作した時に持参した、ペンペンはこれは今回と同じ個体であるが、そのずっと前を思い出すのなら、31年前の初リスボンに持参の機材で今のあたしの六拾参歳の肉体と同じ経験を持っているのは、この小さなファインダーだけなのである。

お互いに31歳も年をとっている勘定になるが、どうもあたしは白髪であるが、ファインダーの方は最初からぼろぼろであったとは言え、ほとんど老けないようである。人生は幽玄、かつ有限かも知れないが、機械の方はかなりその命は永い。あ、これはアナログカメラの話とまたしても、断るのはなにか皮肉である。デジカメの命は人間より短かった。これが現代の一大問題なのだ。

2011年12月13日 (火)

ホテルアベニーダパレス

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ホテルアベニーダパレスは、リスボンのクラシックな五つ星ホテルだ。クラシックな、という意味はリスボン万博を当て込んで造られた、値段が高いだけの、市内から遠いだけの五つ星ホテルとはその意味が異なるということだ。

なにしろ、創業が1892年である。六階建てで当時はまだこの世の中にエレベータは存在しなかったから実に立派な階段がある。世の中の普通のホテルは安易にエレベーターをその階段の中央のスペースに設置してしまったが、このホテルはその裏側の廊下にこれを設置したのは慧眼だった。こういう空間には19世紀を切実に感じる。建築の歴史の中で一番、見所はやはりエレベータがなかった時代の建物の空間処理である。

だから、建物の上から下を見ると、なにか表現派の映画のワンシーンのような記憶が蘇る。

あたしの旅行術では常にホテルは一つ星希望を標榜している。昨年の2月にペンペンのムックでリスボンに来た時には、星などないペンションに泊まった。これはこれで良かったが、5階まで自分の重いトランクを引き揚げるというエクササイズがあった。これは還暦過ぎにはこたえる。まるでプラハのアトリエのようだ。プラハのアトリエには最上階の屋根裏でエレベータはない。

今回は例外だが、22年前にビロード革命のさなかに11月のプラハから逃亡した時もこのホテルに宿泊した思い出がある。同時にこういうホテルに暮らしていると、19世紀の人間の気持ちが幾分は理解できるような気分にもなる。フェルナンド ペソアの「リスボンガイド」の場合、時代は1910年代だから、リスボンに到着する客は海側からこのホテルのある中心部に入ってきた。これが正しいリスボンの訪問の仕方である。偉大なあのペソアの時代を幾分なりとも追想できる。

20世紀になって、客は町はずれの空港から市内に入ることになったので、正しいリスボンへのアプローチは幾分その価値をそがれることになった。

それでもホテルアベニーダパレスはリベルダーデ大通りの基盤に位置するリスボンのマイルストーンである。

今回、某編集部からGRD4のムックの原稿を依頼された。引き受けてリスボンを撮影するつもりで到着してカメラを出したらそれはGRDではなく、CX4だった。この2種類のカメラは良く似ているので、佃地方の大ガラスの部屋の大テーブルから持ち出して、ズームで撮影しようとして、GRD4であることに気がついたりする。今回はその逆の状況だけど、なにしろ、リスボン地方と佃地方は「たった1万キロしか離れ」ていないのだが、取りに戻るのは何か面倒だ。

編集部に聞いたら帰国した後の締め切りなので、なんとか間に合わせることが出来た。ただし作例はこの秋に撮った、プラハのやつにする。これは「間違って持参したCX5」の作例である。

高千穂方面はペペンペンと、ペンペン。それに各種交換レンズ。さらにXZ1も持ってきたから用意万端だ。

 

2011年12月12日 (月)

月夜の道を三千キロ

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KLMでアムスを出て、眠っていたのだが、水平飛行になってから窓を見たら、ちょうどオールドデルフトあたりと思われる箇所で、雲が切れた。あわててカメラを出したのでそれはぶれている。ここは写真レンズで我々には有名な地方である。

フランスはパリの東を通過して、ビスケー湾は何時も揺れるのだけど、案外に静寂であった。

次に目が醒めたらB737-800はすでにビスケー湾を飛び越えて、イベリア半島のとっさきのサンチヤゴデコンポステラの上空にあった。

そこから右手にポルトガルの小さなまちまちを見て南下する。日本では月食だそうだが、ポルトガルの大地を月の光が延々と照らしている。もっともそれはアムスからずっと欧州が月光の元にあったという意味だ。

11年前の12月にサイゴンのラウンジで沢木耕太郎さんにお目にかかって沢木さんは深夜のJALであたしはそれより1時間早く出る、ベトナム航空だった。沖縄列島がやばり満月の光で白く輝いていたのを思いだした。

二時間半の飛行というのはあっと言う間である。高度を下げた飛行機の窓から、リスボン地方、すなわちシントラからカスカイスまでが一望の下に見えた。

深夜特急で沢木さんがユーラシアの最西果てで野犬に吠えられた当たりも含まれるのであろう。その先の闇は「地果て、海始まる領域」である。

2011年12月11日 (日)

リスボンの犬を撮影する三台のカメラ

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1980年の秋。最初のリスボン訪問で、街の中心街のアベニーダリベルダーデの大通りの真ん中で、白黒の大きい犬が昼寝していて、それに感心したのである。

アンダルシアの犬ではなく、あれ以来、ポルトガルの犬が我が映画の主役になった。あれはライカD3にソ連製のオリオン28mmで撮影された。
昨年の2月にリスボンに行った時は、ペンペンのムックの仕事であった。ペンペンに8-16ミリのズイコーで、1980年のポルトガルの犬の何代目かの子孫である、子犬を撮影したのである。

それゆえ、あたしのリスボン行というのは、その実、ポルトガルの犬を撮影に行くことなのである。昨年の5月には仕事ではなく、純粋にツーリストとしてポルトガルを撮影するつもりが、例のアイスランドの噴火でヘルシンキの足止めになってその結果、初めてのヘルシンキで二週間当地を見ることが出来た。

今回はなるべくシンプルな機材で撮影したいので上のような陣容となる。バブル時代に膨大なフィルムカメラの山とフィルムの山をしょって撮影に出掛けた時代とは大違いだが、あたしのような還暦人類にはデジタルはまさに福音だと思う。軽くて小さくて良く写る。間違ってもエピックなど使う気にはなれない。あ、値段が値段だからエピックは最初から手が出ないけど。

2011年12月10日 (土)

プラハ王宮のヨセフ・スデクの仕事場

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★本日移動日。成田。アムス。リスボン。キャリアはKLMで機材は747コンビ。ジャンボは今にうちに乗っておかないと。これ古いからビデオオンデマンドではないはず。
飛行時間20時間と5分。seat 9Aと5F。

ヨセフ・スデクは生涯プラハのモルダウの左岸のガーデンハウスに住み、そこをアトリエにしていた。それは1920年代から彼の死までそうであった。そこは普通のアパートのドアをあけて建物の中を通過して、その奧の中庭に建った小屋である。
名作の庭シリーズとか凍結した窓ガラスシリーズとか、写真家の迷宮シリーズなどはここが舞台である。

そのアトリエが手狭になったので、彼は王宮のちょっと先の坂の途中にも二番目のアトリエを構えた。そこは眼前が谷になっていて、なかなかの眺望なのである。
そのヨセフ・スデクの旧跡が、最初のアトリエと同様にやはりフォトギャラリーになったのは10年近く前だった。
ここも狭いスペースである。建物はバロック様式でなにやら楽しそうなピンクに塗装されているが、この色がオリジナルかどうかは知らない。

以前、ギャラリーバウハウスでのあたしの個展の撮影の為に、冬にプラハを訪問してこのヨセフ・スデクギャラリーに行った。そこの管理人はあたしの持参した戦前のプラウベルマキナに興味を示して、カメラ談義になった。

当時、あたしの心配したのは入場料を10コルナとることだった。そのことが問題なのではない。僅かな入場料を取るようになると、そのギャラリーにはますます人が寄りつかなくなるのだ。
20年前に西側になって初めて旧市街に出来た、某フォトギャラリーはオリンパスが筆頭のスポンサーであたしも最低クラスのスポンサーとして僅かに出資したが、この素晴らしいギャラリーも数年後はじり貧になって、やはり10コルナの入場料を取るようになった。
ギャラリーはすぐにつぶれて、ツーリスト向けの土産物店になってしまった。無残である。場所は旧市街のど真ん中の古文書館の真向かいだから、レントが安価な筈もない。

この前、久々に王宮近くのヨセフ・スデクギャラリーを訪問したら、果たして閉館していた。
それはそれで残念だけど、そういう箱物がなくなっても、ヨセフ・スデクの名声はいささかも揺らぐことはない。

日本でドナルドキーンさんの記念館が出来たり、横尾忠則さんが自作を大量に故郷に寄贈して記念館を企画していることはそれで結構であるが、文人墨客の名誉は永いけど、その手の箱物はまた別の存在である。箱物の管理運営が世の中の景気に左右されやすいのは実に残念なことだ。

2011年12月 9日 (金)

安原一式のこと

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安原一式はすでに前世紀の神話になったのか。

あたしは安原創業者にインタビューで会いに行ったことがあった。場所は世田谷の野沢銀座のワンルームマンションだった。小さな部屋の二階がスリーピングロフトという場所で安原創業者はダブルの背広で対応した。椅子は部屋にひとつしかないので、創業者がそこに座り、ちん入者のあたしは畳に座ってお話を聞いた。

ちょうど創業者の白い木綿のソックスがあたしの目の高さにある。会話の進展につれて彼の親指の動きでその心理が読めた。

だから大事なインタビューでは質問を受ける人は、かならず靴を履いていた方が有利なのである。

安原一式を注文したのだが、待ち時間がかなりあったので、ヤフオクで登場したのを二台買った。だから予約金で払った5000圓は帰ってこなかったが、それはそれで問題なしである。

その一式が久々に出土したのである。理由は沢木耕太郎さんから古いキャパ時代のローライが見たいというリクエストがあって、それを発掘した時に出てきた。操作して見ると、あの当時、一式よりもやや後に出たコシナのレンジファインダー機よりもシャッター音は静かである。それはシャッターに遮光幕がないのが理由だが、別に漏光の問題はなかった。

一式のトップにプリクラが貼ってある。前世紀のあたしと前世紀の坂崎さんの姿がそこにあった。真ん中の女子は確か、ナース稲森といったなあ。

安原創業者はどう思っていたのかは不明だが、一式はストラップのバランスが悪い。それで上向きになるのでなるべく重いレンズを付けるとバランスが良くなる。これはその一例である。ロボットロイヤル用のドイツはエンナ製24/4である。これをロボットライカアダプターに付けてある。かなり長いレンズになるけど、ハンドリングは悪くない。

2011年12月 8日 (木)

プラハ下町レストラン

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ブラウザーによっては、二番目の画像がひっくり返っているかも知れんがご容赦。

プラハのビロード革命以前の街の商店のファサードには素晴らしいものが多かった。それらは一部は撮影してあるのだけど、もっと撮っておけばよかったと残念がることしきりである。

特に、薬局、写真機店、鮮魚店(というより生魚はないから、魚屋だが)楽器店、旅行代理店など、いずれも20世紀初頭のキュビズムから表現派に移行する時期の商店のファサードはすばらしかった。

それらはこの20年で大方は取り払われてしまった。プラハの東部の新市街はあたしの目下の興味の中心なのであるが、その労働者街の、これは革命後に出来た店のファサードはにわか造りではあるが、それはそれなりに80年代を表象していると言えそうだ。

この安レストランの看板などはその中でもっとも好ましいものかも知れない。日本のメード喫茶にも共通のウエイトレスに対するあるイメージがそこに感じられる。

今は五つ星の高級ホテルになってしまったが、王宮裏手の当時は安宿であった、ホテルサボイに日本から初プラハだった、故人の平木収と宿泊したことがある。これはアトリエに住む以前の話しだ。そこのウエイトレスの黒いミニスカートが短すぎて、それが話題になるような時代だった。70年代後半というのはすでにミニスカは時代遅れの風俗であったから、それに極めて東欧を感じたのである。そのもう一つの理由はそういう、おねえさん連は同時に闇両替商でもあったから、その東欧感覚がさらに倍加された。

このレストランのイラストだが、この前、10月にその場末の安ホテルの屋根裏部屋で窓から四方を見渡していたら、記憶のある光景が目に入ったのである。

1月にはさかい写真研究所のさかいさんの個展がプラハである。さかいさんは多忙だから1週間の旅程であるが、あたしもアトリエから出て、同じホテルに住むのでここに行ってみようかと考えている。

カメラはライカM5にfed 28mm Adox film

2011年12月 7日 (水)

チエコセンターの横山佳美写真展はなかなかだぞ!

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数年前のこと、プラハのムステクのフォトシュコダで声をかけてくれたのが、横山さんという日本女子であって、今、経歴を見たらプラハのFAMUの映像学部写真学科に留学していたそうだ。ここは映像の大学のトップのメッカであって、FAMUはかのバーツラフ・ハベル氏も入学てきなかった超名門だ。

横山さんとはそれきりになったが、その翌年だかつまり、2010年の1月の10日という日にあたしがモスクワからプラハに到着したら、横山さんも同じ便であったらしく、119番のバスで偶然に出会った。その朝から酷い降雪であたしがバスの終点のデービッツカからアトリエへの道で遭難しそうになったので良く記憶しているのである。その事は文芸誌「新潮」の連載20回の中に書いてある。

横山さんからのご案内で12/2の金曜に沢木耕太郎さんとヒルズで会った後に、広尾の駅から徒歩、チエコセンターに向かった。ここは大昔にチエコにビザが必要な時代にはよく通ったものだ。もう20年ほど前かな。真っ暗なお屋敷街でなにかプラハの6区を歩行している気分だった。

写真展はなかなか良かった。いわゆる「カメラ女子」のお作品などは今更見たくもないが、横山さんの視線は一本哲学の筋が通っていて、日本とプラハが「一つの文化圏」に感じられるのが面白い。
以前、横山さんの作品をウエブ上で見た時には、「単なる写真学生の習作」にしか見えなかった。
ところが、こうしてチエコセンターの地下でずらりと写真が並ぶと、それが視神経の確かなパワーになっている。それはウエブ上では「単なる記号」でしかない写真がここではちゃんとした「オブジエ」として存在しているからだ。

その理由を考えて見るに、この展示がアナログプリントであって、全部、チエコ製のFOMAという印画紙によることも大きい。このブランドはかつて巨匠ヨセフ・スデクが愛用したチエコの国産の印画紙だ。横山さんの話では、プラハのキッチンでプリントしたそうだが、その腕は確かである。それに料理も写真のプリントもある種の共通点がある。1973-80のあたしのウイーン時代もプリントはもっぱらキッチンでやった。

オープニングのチエコ大使館の一等書記官ホリー・ペトルさんの日本語のスピーチが素晴らしかった。もっとも会場のチエコの紳士淑女は皆さん、日本語に堪能なのである。数年前にあたしがオーストリア大使館で開催した写真展のレセプションは大使閣下以下、皆さん英語が堪能であったが、こういう文化センターでは、相手国の母国語を使うのが戦略的に有利であるのは言うまでもない。

ホリー・ペトルさんはカレル大学の日本語学科ご出身である。「あそこは哲学部日本語学科なんですね」とあたしは聞きかじりの知識の断片を披露した。

今まではビザしか用がなかったけど、これからはチエコセンターに行こうと思う。
同センターのウエブのチエコ映画の紹介コーナーで「チエコっとシネマ」などはかなりのIQの人間でないと思いつかないであろう。

横山佳美写真展http://tokyo.czechcentres.cz/news/bio-sh-j-jin-hngshn/

2011年12月 6日 (火)

沢木耕太郎さん

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沢木耕太郎さんが、ヒルズに見えた。

この前にお目にかかったのは11年前であって、2000年12月22日にサイゴンのタンソニュット空港のラウンジで一時間ほどお話したのである。

それが沢木さんの最初の越南訪問だった。沢木さんはホーチミンのホンダのバイクの数の多いのに驚いたという話をした。
あたしはホーチミンを見ただけでは、越南を見たことにはなりません。ハノイをご覧になった方がよろしい、と先輩風を吹かせた。

沢木さんとは同い年で彼の方が半年遅いのである。実はこの先輩風はかなりでっちあげであった。というのはあたしはそれが二度目の越南訪問であって、沢木さんより単に一度だけ多い、という状況であったからだ。

サイゴンの空港ラウンジの沢木さんは、ジーパンにノーネクタイのカジュアルスタイルで珈琲カップを手にしていた。
思うにワイシャツのノーネクタイスタイルは似合う人は少ない。あたしの知る限りでは、ナムジュンパイクに、石元泰博に、沢木耕太郎というところだ。ホワイトシャツのノーネクタイはなにか収監前の人という感じを与えるのである。実に難しい着こなしであると思う。

11年ぶりにお目にかかった沢木さんは、同じ12月でもなにしろここは越南ではなく、東京であるから、ワイシャツ一枚ではなかったが、キャパの話で2時間以上会話が盛り上がった。これは希有な体験と言って良かった。

「キャパ神話」が現在ますます確固としたものになっているのは、今の報道が電子化され、同時に生な人間を扱うジャーナリズムの視線が逃げ腰になっていることに原因がありそうだ。
キャパに代表される「アメリカのヒューマニズム視線」は沢木さんにお目にかかった、その越南ですでに70年代に終焉したわけである。

沢木さんには資料として、キャパの時代背景のカメラを三台お貸しした。それらは西班牙戦線時代のライカとローライフレックス。Dデイの時代のコンタックス2である。そうそう、トロッキーを撮影した有名なカットはあれはコンタックス1型であったな。

思うに、キャパの活躍した当時の現役カメラは、現代ではクラシックカメラであるが、立派に実用になる。30年前に最初のリスボンの撮影では、あたしの肩にはブラックライカD3が揺れていたし、四半世紀前に晩秋の大和路では法隆寺あたりで行き暮れてしまった時、あたしのツイードのジャケットから肩から戦前のローライフレックスを斜めがけしていたのだ。
この5月のプラハ行きでは、キャパがDデイに使ったコンタックス2でアトリエの写真を撮影していた。

いずれも70年以上前の写真機が現役なのである。
言うも愚かであるが、今のデジタルカメラが70年後に現役であるというのはかなり想像しにくい。

2011年12月 5日 (月)

飲酒家・福田和也の視点

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★御礼 950万頁ビュー突破(携帯からのアクセスは含まれず)しました!
どうもありがとうございます!

駒込のギャラリーで今週の土曜まで福田和也さんの個展が開催されている。福田さんとはすでに長いお付き合いで、彼が部長代理をつとめる「あの写真部」で写真を拝見したりしている。
その福田さんと前回の「あの写真部飲酒撮影会」にあたしが参加した時、真夏の上野の路地裏で「こんど初の写真の個展をします」と言われたのにはちょっと驚いた。
なんでも日比谷のカリスマ中古カメラ店OKD-YAのSちゃんに勧められたという。カメラ店の大将がお客に展覧会を勧めるのは、これは昭和30年代の日本のカメラ店の美風であった。それが絶えて久しいけどまだ存在、あるいは復活したのかと感心した。
土曜の夕刻、駒込のギャラリーアルチザンに行くので六義園ぞいに歩行した。あたしの知るこの界隈は昭和30年当時であるから、この数十年は行っていない。かなり洒落た街に変身していた。

会場で最初に確認したのは、あたしの贈ったお花の到着である。この8月の銀座のリングキューブでのあたしの個展で福田さんが高さ2メーターを超えるお花を贈ってくれたことへのこれは「報復攻撃」だ。
目には目を。花には花を。その朝に、偽ライカ愛好会の便衣隊の斥候を放って、お花の状態を調査させたりした。

登場した稀代の飲酒家にして当代一の文芸評論家福田和也はあたしにマグナムのボトルから赤ワインをそそいでくれた。それをこぼしてしまったが、これはマグナム福田はまだ酔っていない証拠なのである。この酒仙はご酩酊になると、眠ってしまうからまだ行動しているのはその前の段階なのだ。

請われて、乾杯の音頭をとらせていただいた。
亡くなった、写真界の大御所、田中雅夫先生がどこかの展覧会の乾杯の音頭を取られるときに、お話が長くて一同が参ったことがある。そのことを知っているのでごくごく短いスピーチにした。
しかし自分では短くしたつもりでも客観的時間ではどれだけ長かったのか、それは分からない。大体、乾杯の挨拶がすらすら言えるようになったら、もう墓場は近いことを知るべきだと言う真理を、シャンペンを口にして思いだした。

銀座の名門バーTHONETのマスターがマグナムサイズのシャンペンをポンポン抜いたので乾杯したわけである。山海の珍味とは文学的な比喩ではない。魚河岸の親方が作った、立派なからすみを賞味した。その朝にあたしは河岸に行って、その魚卵を見ている。ああ、もうその季節になったのかと思ったらその夕刻に本物のからすみ。そこに新宿の文壇バー、猫目のママが駆けつけた。新潮の矢野さん云々の話をしてくれた。行かにゃあにゃあ。

ようするに乾杯後には身の回りの酒食に多忙になってしまって、福田写真どこではなくたなったが、これは飲酒家福田和也のおもうつぼなのである。

だから最初に一巡した後には、マグナム福田の作品をちゃんと見る時間がなかった。しかし多くの展覧会の展評を書いたあたしの経験からして写真展は最初の一巡の3分で分かるものだ。

もっともマグナム福田はシャイであるから、ご自分の写真展をいかにも「旦那芸」であるかのように吹聴していた。だからあたしも有名人が習い事の画などを出品する、例の「チャーチル会」のようなものだと思っていたのが、実際には福田和也の視点は形而上学に肉薄していた。これが大手柄であった。上の眼前のワイングラスなどがその典型だ。

つまり写真家福田和也の誕生の瞬間に立ち会ったのである。

★福田和也展は10日 土曜まで http://www.artisan-tokyo.com/news.html

2011年12月 4日 (日)

大大阪(だい、おうさか、と読む)

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数年前、JALの東京大阪便に、Fが出来てから乗るようになった。普通は新幹線ではなく、バスで京、大阪に行ったりする。これは時間の余裕があるから可能な離れ技だが、一方で、大阪を飛行機で往復するのは、飛行中に例の森伊蔵を何杯飲めるかにかかっている。

こういう書き方をするといかにも卑しいが(酒飲みだからその通りだが)ここにはルールがあって、アテンダントさんが「おかわりはいかがですか?」という声を来てから御願いすることにしている。実際に何杯飲んだかはここでは書けない。

このプレミアム焼酎はオークションなどではお酒と思えないような値段がついている。一方で機内では(今はどうか知らないが)以前は確か4月に「定価」で限定販売していた。

JFK行きの便で、Fクラスから免税の販売がゆるゆるとやって来て、Cに座っていたあたしはもうFクラスで売り切れたかとはらはらどきどき心配したこともあった。

マンハッタンのホテルにチエックインして、下の屋台のケバブ屋から串を買ってきて、それとシルエットになったエンパイアビルを肴に一杯やったのも懐かしい。

ところで、大阪便だけど、西行便はヘッドウインドだからちょっと時間が稼げるが、それでも水平飛行の時間は30分もない。その間にこういうお膳を食べて、森伊蔵を複数回呑むのはそれなりに忙しい。

この画像は大阪を発って羽田に向かう時のショットである。大東京とは言うけど、大大阪とは言わない。しかし東京は拡大し過ぎているから、大都会の実感を離陸直後の視野で大都会に感じるのは、大阪くらいのサイズがいい。

だから、大 大阪である。

2011年12月 3日 (土)

GRD4で立石放浪中

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ライカのビデオの上下巻を製作したのは、いつのことであったか忘れたけど、これはVHSのカセットで作られたにだから、かなり昔のことであろう。そのビデオもすでにデッキがないので見れないという状態だ。一方で40年前の16ミリ映画は今でも映写機を持っているので、問題なく見れるというのも変な話だ。

そのライカイズム(たしかそんなタイトルだった)はライカM型は建設中の代官山の高層タワーマンションを背景にして撮影し、バルナック型は立石界隈で撮影した。どちらもプロダクションのアイデアでそうなったのだけど、下町の立石の撮影は面白かった。

最近、数年ぶりに往時を懐古してまた立石方面に出撃しているが、風景はあまり変わっていないようだ。

なんで立石になったのか、それは後で分かったのだが、夏のことで撮影の後に立石駅前の立ち食い寿司屋でスタッフがビールで一杯やりたかったまでのことだ。

いや、そういう欲望というのはこれは仕事より重要な人生の目標であるとあたしも考えている。

駅前の「のんべ横町」の大看板は今にもなくなるかと思っていたのが、その逆で新しくなったみたいだ。こうして真昼の観察すると、これはあまりに大げさな看板でなにかオープンセットめいているのが妙である。

その横町の反対の入り口の「赤看板」という用品店のもう使わなくなった看板の退色した具合が好きだ。それを見て何時も思い出すのは、プラハのカレル橋から旧市街に抜ける所に市電がその建物の中をくりぬいてトンネル状になっている、箇所があってその丸天井に帝政オーストリア時代の薬局か何かの看板が半分消えかかって残っている。その色合いがこの立石のそれと色相が似ているので、プラハでその代赭色の看板を見ると、立石を思い出し、立石でこの赤看板を見て、プラハに郷愁を感じている。

最初の画像のネカネカ公園の奥の滑り台の右手のベンチがあたしの定位置であって、世界中の小公園にそれぞれ、あたしの場所がある。来週からのリスボンも然りである。

★カメラはGRD4。

2011年12月 2日 (金)

気まぐれイフォン

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月曜。
鐘淵で降りる。ここはカネボウ発祥の地か。鐘淵紡績ってのはクラシックな名前だ。鐘淵駅からいったん、レールを東に渡ってしまうと、再度西に渡ることは出来ない。これがここらの都市の掟なのである。
荒川の右岸の歩道を延々と左側に半蔵門線の行き交うのを見つつ、北に歩く。左側に東京の真実の風景が広がっている。
ところがそこに至る方法がない。
レールの西側に渡るのは次の駅、堀切まで歩くしかない。しかも堀切で跨線橋を渉と左にはすぐに運河があって、歩行は阻止されている。

いつものデジカメを忘れて、というより、たまたま2GMのメモリがいっぱいになって撮影できないので、イフォンを持参した。あたしのイフォンはきわめて気まぐれであって、気分が向かないとカメラは起動しない。

昔は町中の大衆ビストロに「気まぐれシエフのサラダ」というのがあって、その受け狙いのメーミングに辟易したものだった。あたしの気まぐれイフォンはカメラが使えるか、使えないかの真剣勝負である。

あやせばしの手前の堤防のスペースは車止めがあるから、ここまで車両は入ってこれない。そこは落書き解放区なのである。
このバーチャル居住空間はなかなか良い。しかもママへの伝言もちゃんとある。

それを撮影しようとしたら、またイフォンが気難しくてカメラが反応しない。あたしはこのイフォンとは二年半のおつきあいなので、そういう時にはそこらに座って、イフォンのご機嫌のなおるまで待つ。それで撮影したのがこのショットだ。しかもあたしのイフォンは時々、画面がだぶったりするのである。

カメラメーカーさんの方針というのは競合他社のデジカメとばかり競争をしてばかろで、スマートフォンにはあまり視野が向いていないようである。カメラ雑誌にイフォンの広告が出ないから、無関係という感じを持つのかも知れない。
デジカメの仮想敵な競合他社ではなく、イフォンである。しかもあたしのイフォンのように、気まぐれであったりすると、それはデバイスというよりも、すでに一個の人格を形成している。

2011年12月 1日 (木)

三井に住んでいます、という、表4広告

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マンハッタンから戻ったのは1984年だからその数年後になると思うが、何かの仕事でボートをチャーターして、隅田川を撮影した。
そういうことはそれ以前にはなくて、少年時代の隅田川はメタンガスがぶくぶくと出る、臭い、本当の墨のような色をしていた。
だから大学生時代に「東京大周遊」を開始した当時でも、墨東の川は真っ黒で異臭がするというすり込みがあった。

それが何時であったか、「隅田川に魚が戻ってきた」というニュースがあって、そんなバカなことがあるものかと思っていたあたしであった。だが実際にボートに乗って河面を行くと水がにおわないし、綺麗になっている。

その水の上に巨大なタワーのシルエットが見えたのにも驚いた。風景がマンハッタンめいているのだ。なにかクラシックな町並みとタワーのコントラストがシンガポールのようにも思えた。

昨日、月島駅から佃地方への戻りに、不動産の広告の冊子を手にしたらその表4に夕景の佃地方の綺麗な写真が出ている。

もっともこの画像には見覚えがあって、あたしはテレビは見ないけど、プラハのアトリエでのつれずれに、このCMをyoutubeで発見して、そぞろ佃地方が懐かしくなった記憶がある。もう数年前のことだ。この地球上で一番好きな道は帰り道です、という意味のコピーがある。これはあたしのことを言っているのかと思った。実際に中央大橋を渡って、佃地方に戻ってくるのである。

改めてその写真を見ると、あたしの「大ガラスの部屋」の明かりがついているのが見える。

そういうのは嬉しいことだ。Google mapで「うちのお母さんが洗濯物を出しているのが写っていた」とか、「下着姿を写されたと提訴する女子」などより、この画像の方がずっと心が落ち着く。

実際に、ヒルズ地方からの戻りに、八丁堀で下車して隅田川にさしかかると、こういう光景だ。ただしこのショットはもっと上流の永代橋近辺のテラスから撮影している。

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