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チョートクカメラ塾ブログ

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2011年11月30日 (水)

プラハのカメラ人類と遭遇

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プラハの市電の路線の数は全部で26ある。その中の真ん中あたりの11番路線には乗ったことがなかった。その理由はあたしの生活圏には関係がないという単純な理由によるのである。
11番はプラハの東の郊外に発して、街を西進してナショナルミュージアムから南に曲がってかなり南下してから、今度は南東に進路を変えて、郊外に行くのである。
その南東の郊外は、いかにも郊外らしい風景というのも変であるが、送電線があるほかはまさに「無国籍」な感じでそれが気に入った。
あたしはライカM5とXZ1を持ってライカではモノクロで、そして言うも愚かであるが、EZ1ではカラーで撮影していた。

そこは市電の終点であるから、今来た市電なループ状態のレールの先でしばらく休憩してからまたこっちに戻ってくるのである。この無限運動を思わせるプラハの市電が好きだ。

さて市電がやってきて、乗車したら運転手は電車を発車させずに運転台から降りて小走りにあたしの所に来た。なにか文句を言われるのかと思った。
というのはデリーの地下鉄では車内はおろか、窓からの撮影も禁止なのである。一度、カメラを持ったら、駅の掃除人にしかられた。これは隣国パキスタンのスパイを警戒しているのだ。
もちろん、撮影禁止であってもそういう場合にはブラインドショットという手があるから困ることはない。

さて、プラハの電車の運転手にしかられるかと思ったら、彼はあたしのライカを指差していきなり「そのカメラは24X36か?」というのである。すなわち国際的なカメラ人類の交流がいきなりそこで開始したのである。
その路面電車のカメラ人類さんは「ライカサイズか?」と聞かない所がいかにも玄人めいている。

これは何かの記念になると、11番の電車が中心部のナショナルミュージアムに到着した時に電車を降りてそのカメラ人類さんを撮影した。

ジャンボの400のコップピットでキャプテンのカメラ人類とカメラの話をしたり、道路工事のガードマンさんから「いつも読んでます!」と声をかけられて、カメラ談義になったり、チエコの国境の駅の税関職員さんとライカの話になったり、さらにヨドバシカメラのガードマンさんに「ちょーとくさん、、、」と声をかけられたりしたこともあるが、プラハの市電の乗務員というのは初めてのケースだ。
これは実に嬉しい。

2011年11月29日 (火)

プラハの周辺部へ

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プラハのアトリエのある街区はプラハ6区である。旧市街はその南のプラハ1区である。

普段の生活だと6区から1区に行ってまた戻るというのが普通だ。東京の生活で佃地方から出て、ヒルズ地方で仕事して夜にまた佃地方に戻るうようなものだ。それが本来の生活というものだ。

この10月のプラハではそのマンネリズムを破壊して見ようとおもった。元々、マンネリズムはマニエリスムの意味であるから、その総本山のプラハでこのルールを破壊するのは大抵なことではない。

しかしまず第一歩から開始せねば何事も始まらない。それでホテルを出て、ただやだひたすらに南を目指して行った。知らない街区がどんどんとあたしの歩行する背後に巻き取られて行った。

プラハの4区に到着した。20年あまり住んでいりのに、ここら辺は異境でまったく知らない風景なのがなにかうれしかった。

寂れた工場街が閉鎖されて、その背後の巨大は壁面にこれから建設される予定の集合住宅の巨大イラストがある。実にわかり易い未来像の提示である。

その南はボヘミアのなだらかな丘と野原が始まる限界点である。ちょうどランチの時間になったので、近所に発見した11番という路面電車に乗って旧市街に戻った。

カメラはライカM5にFED28MM。ADOX 100

プラハの南北というのはなかなか連絡がつかない。メトロも市電も東西に走っているのだ。だから南に道をとると、時々、見覚えのある道が直角に出現した。そこは例外なく市電のレールがある。すなわち市電の窓から記憶している光景なのである。そこを直角にすぎるとまた、知らない街になった。

2011年11月28日 (月)

高千穂XZ-1を胸に荒川三角地帯を行く

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晴れた晩秋の午前に青い空が「サウダーデ」いているので、都バスを涙橋で乗り換えて日暮里方面に向かった。舎人ライナーに乗るつもりなのである。

バスに乗り換えて、ふたつ三つのバスストップをすぎて、バスが渋滞している左ての窓に不思議な光景が登場した。一番上の画像がそれであって、バスの中から撮影している。

迷わずに次のバスストップで降車して徒歩でその地点に戻って、ほぼ同じアングルでXZ-1の望遠サイドで撮影したのが、二番目の画像である。

さらに接近して驚いたのは、ここは細い道が三方向から交差してその削り残しのデルタ地帯にトタンの建築が建っていることだった。ズームを望遠方向から広角方向にバックして、横位置と立て位置で撮影したのが、三枚目と四枚目である。

ただそれだけのことだが、この場所は何かマンハッタンのフラットアイアンビルの近辺にその空間が似ているとおもった。

それから荒川三丁目の商店街を通って、三河島に抜けて日暮里を徘徊してから、改めて舎人ライナーに乗った。

2011年11月27日 (日)

レニングラードの塔の上の秋

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手元にレニングラード製のLOMOなどがあると、なにかあの北欧のきれいな街を思い出す。

レニングラードの上をアエロフロートで何十回も飛行して、いつかはそこに着陸してみたいものだとおもっているうちに、時代が廻って昔の名前のSTペテルブルクになってしまった。

ネバ川のそばのホテルの窓から大寺院の尖塔を一日の仕事が終わって暮れゆくスカイラインを眺めていたら、その手前のこれは実にドラマチックな建物の露台の上に若い三名の男女が居るのに気がついた。

そのうちの二人は寄り添っていて、もう一人の男性は立っている。この二人の男性のどちらが自分の投影に近いかと変なことを考えた。言うまでもなく、一人で立っている男性の方が自分の心のドッペルゲンガーに近いのである。

時期は秋であったけど、北欧の日脚は長い。この三人がこの露台に居た時間は一時間以上であった。あたしはロシアンスタンダーとをちびちびやりながら、この無言   劇を楽しんだ。

2011年11月26日 (土)

プラハのホテルのことなど

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プラハ滞在中にはアトリエがあるから、ホテルに泊まる必要はないが、昨年から今年にかけてアトリエのあっちこっちが具合が悪くなったり、あるいは暖房が壊れたり、お湯が出なくなったりのインシデントがある。

それで時々は市内のホテルに避難する。ホテルはVEREREでオンラインで予約する。そのシステムはどうなっているのか分からないけど、24時間前までならキャンセルしてペナルテイをとられることもない。なかなか便利だ。

もっともホテルの情報はかなりいい加減な部分もある。この10月に宿泊したのはプラハの労働者街の上のホテルだ。ウイーンにも良くある19世紀後半のウイーンで言う、MIETE HAUSってやつだ。こういうクラシックな建物の方が天井が高いので気持ちが良い。

でも一番大事なのはWIFIが使えるかどうかだ。全館で無線LANなどと書いてあっても、電波が弱いので使えるのはロビーだけと言う場合もある。

だからホテルを決めるときには宿泊者のレビューを見ることにしている。この上のホテルは実際に宿泊してみたら、WIFIの電波が弱くて結局ロビーで通信をした。

これはいったん、そういうシステムなのだと思えばあきらめもつく。ようするに、一階のポストに郵便を見に行くのだと思えばなんのこともない。

変な話だけど、このホテルにはエレベータが付いているのがありがたかった。アトリエにはエレベータがない。四半世紀近くそこに暮らして、最近では急に階段が急になったなとおもったのは何のこともない。あたしが老人になったのだ。40代と60代で体力が違うのは当たり前だ。

あたしは変な旅行者であって、パリに行くのに飛行機はFに乗るけど、ホテルは理想的には一つ★が好きというような変わり者だ。これはその背景には昔、バブル時期にホテルインスペクションと称して、世界中のホテルのあらゆる部屋を見たので、その結果として「ホテルの部屋の諸行無常」認識になってしまったせいだ。

もとプラハの迎賓館に宿泊した時は「つづき部屋」を行ったり来たりでその歩行で疲れていやになった。天井は高い方がいいが、部屋は狭い方がいい。ベッドから手をのばして大抵のものに手が届けば理想的である。

上のホテルの部屋では屋根裏に住んだので、天井は低かったけどその代わりに、天窓から月と星が見えた。しかし前回の滞在時にもう一泊ホテルに宿泊する必要があったので、上のホテルと同じマネージメントのその向かいの空色のホテルに泊まった。このホテルのファサードは前からVENEREで見ていて、気に入っていたのだ。

3 サンクトペテルブルク郊外のエカチエリーナ宮殿と同じ空色なのである。もっともエカチエリーナ宮殿だと広大な全部の宮殿がこの空色なのでちょっと息がつまる。それに内部には例の「琥珀の間」なんかあるから、さらにやりきれない。

この空色の安ホテルのファサードが好きなのは。その空色が最小限にとどめられているからだ。宮殿と安ホテルを比較するのも狂気の沙汰と言うかもしれないけど、実は本物より偽物の方が感じが良いのはそれが「様式にとどめれらている」のがその理由のような気がする。

2011年11月25日 (金)

昼は畳屋、午後5時から焼き鳥屋

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月島駅の六番出口のそばの尾崎畳店の前をもう22年も往復しているのだが、この畳屋さんの間口二間のその左側の半間に大工さんが入ったのはもう10年も前だ。なにが出来るのかなと注視していたら、おでんやさんになった。その屋号を「はなや」というのである。そこの家には「ごろにゃん」なる名前の黒猫も以前居ってご近所の人気者だった。その後に来たのは真っ白い犬の「はなちゃん」である。

そのうちに「はなや」ののれんが見えなくなって、今度はおじいさんが焼き鳥を焼くようになったのが数年前か。それもやめになって、今度は新しい焼き鳥屋が登場した。

これは午後5時までが尾崎畳店でそれ以降は「幸待」(さいわいざむらいではない。こうじ、と読むそうだ)という焼き鳥屋になる。

プラハの中心部の五百年前の建物で、ランドリーカフェというのがあって、よく出かけたものだった。そこはお店の半分が洗濯屋で半分はカフェだ。しかしこれよりも時間割で別のお店になる方がマネージメントとしては高度だな。

半年ほど前に開店したそうである。地元民としてはこういう近所の飲み屋は逆に入りにくいものである。そのあたりの細かい事情は吉田健一とか足穂なども書いている。

ふらりと入ってみた。ここの鶏はかなりいける。あたしはシンガポールのニュートンサーカスから、アテネ、イスタンブールのケバブ屋まで、世界的な焼き鳥探訪者なのだけど、とくに「つくね」が凄い。そこらの居酒屋のつくねと一緒におしでないよ!という品質なのである。

お店は長屋の一軒。四半世紀前には、こういう長屋の飲み屋は界隈にまだかなりあった。トイレは家族の居住区にあるので、店から中に入ると、セーラー服の中学生がテーブルで教科書を広げているのも、また風情があった。

なんでも保健所のご指導で入り口にトイレをつける必要があるので、そういう「居間を通過してトイレ」という伝統はなくなったようである。

2011年11月24日 (木)

テイサンの観光バスのわんこ

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あたしの少年時代の東京の交通事情は車が珍しい時代であった。車に「自家用」とか大書してあったし、70年代の高度成長時期には、車の背後に「オーナーなんのだれそれ」と言うネームプレートを付けるのが流行してた。もの凄い時代であったな。

トヨタのパブリカの型録を撮影していた時、ブレーキオイルに空気が入っていたかなにかの事故で車があたしに直進してきて、すんでの所で轢かれるところだった。それ以来、あたしは車という存在を信用しなくなった。

まずトラウマですね。

それでも憧れる、車のデテイルというのはあった。この「テイサン」などはあたしの小学校時代からそのシンボルは変わっていないようだ。

もとはグレーハウンドのぱくりのようにも見えるけど、その実、そのレリーフの理派さと言い、バスの車体のレッドといい、こっちの方がモノとしては立ち上がっていると思う。

そういう少年時の記憶が前頭葉の深い所から呼び覚まされたのは、蔵前から南千住に向かっていた、ウイークデーの午前中の快晴の路上である。

都バスの最前席でいきなり、テイサンの走る犬のモチーフが現れた。あわててXZ1のスイッチをオンにした。この間の立ち上がりの速度は以前のデジカメに比較しれば速いのであるが、やはりライカ(フィルムの)にはかなわない。フィルムカメラの場合は「備えよ!常に!」なのである。

それでもこっちのバスが赤いわんこ号を追い越す瞬間を2ショット撮影できた。

上出来である。後で見たら、午前の東洋の光と風景をバスの車体が反射しているのがフォトジエニックであった。

似た意匠のバスに小田急のそれがある。でもあれはシエパードがじゃれている感じがするのであまり好きではない。

 

2011年11月23日 (水)

新世界の裏手

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旧世界のプラハはモルダウの左岸の上の丘陵に構築された、城壁都市である。だから政変が起きると、為政者が王宮の上の窓から投げ落とされたりする、高度感がある地形だからこれは即死だ。

かつての城壁は今でも一部が残っているが、そこは市電のレールがお城と修道院と教会をぐるりと取り巻いている。昔はその外側はボヘミアの野であったわけだが、今はそこに大プラハの市街地が展開しているのは言うまでもない。

あたしの好きな新世界はまさに忘れられた奥の細道であるが、そこから南に小路南西にたどると、石畳の先はゆるやかな登り坂で教会と王宮の庭にはさまれた、白い壁がつらなる。

そこに取り付けられたガス灯(今ではナトリウム灯)がこういう天候の良い日だと白壁に影を落としているのも、プラハ情緒だ。せっかくの良い場所なのに誰も来ないのは実にもったいないことだ。

その先には長いコリドール(屋根のついた建物沿いの道)がずっと続いていて、これは例の映画「アマデウス」のシーンで使われた。もとより舞台はウイーンなのであるが、当時にしてもウイーンはモダン都市であったから、その代打として「ウイーンにコスプレしたプラハ」が登場したのだ。

★カメラはライカM5(我楽多屋さんで3,5カメラ円)にフェド28MM(ヤフオクで2カメラ円)フィルムは伯林で買ったADOX 現像はガスマン・堀野。値がスキャンは品川双葉のフラッシュ。

2011年11月22日 (火)

希望と金と植物

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交通機関の構内のお習字の展示というのは、あたしは好むものである。表意文字の真骨頂がそこに開示されているからだ。

名家遺墨展などよりよほど面白い。もっともこういう駅構内の展示というのはそれなりのローカルな習字団体の年功序列と組織の政治的な結果であるのは分かっているが、それを考えに入れなくても面白い。

これが表意文字であるから、その意味を理解しつつ、全体の文字の姿を風景のように認識するという、表音文字の世界ではあまり関係のない思考をそれぞれに巡らしているのである。

アールヌーボーの例えば、アルフォンス・ムハの絢爛な画集などであっても、そこに印刷された文字は最初の一文字が大きく配置されて、華麗に装飾されているけれど、それは全体の意味に何者かを付加するのではない。単に「ああAという文字が装飾されてるな」と思うだけである。

それでまず「希望」だ。あたしは天の邪鬼だから「希望の虚妄なることは絶望の虚妄なるに等しい」の肩を持つ人眼である。

ウイーンの西の外れのJOSEFSTADTに寂れた、しかし巨大なワイン酒場があってその屋号が「希望」なのであった。こういうシニカルな店名には痺れる。その哲学的な命名に引かれて70年代のウイーン滞在時代には時々、足を運んだ。

二つ目の「金」と「植物」。
これは「かね」ではなく「きん」なのであろう。その「きん」にも「かね」にも縁がないが、それよりあたしが人生で感嘆するのは、不思議な縁でなんとか餓死もせずにこれまで生きて来られたことである。
これも「金」のお陰なのであろうか。

それより近親感があるのは「植物」である。
それも東京大周遊をしている時に、これからがベストのシーズンであるが、霜にやられた廃園めいた花がもっぱらの好みなのである。墓地に供えられた枯れた花も好みである。12月のリスボン訪問では街の西の果てにある、例の共同墓地でそういう花を観賞する予定だ。

2011年11月21日 (月)

高千穂XZ-1でアキバから蔵前

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秋葉方面にはほとんどゆくことはない。以前なら、ヨドバシにフィルムを買いに行ったが、最近のあたしのヨドバシはオンラインショップのことだと思っている。

BMW野々宮によれば、以前のカメラクラブのメンバーだったU先生が秋葉の文化圏で頑張っていて、なんでも「いちご姫」というキャラに熱心だというのも、数年前の話だ。メード喫茶発生より以前か?

秋葉地区に、STEPというマックの安売りがあったのはあれは何時であったのか。店内には箱が詰まれているだけで、店員さんは一切説明をしない。LC630をここで買ったのだから大昔だ。

オーム関係のPC屋もあったなあ。

ヨドの8階の西安に刀削面を食べに行ったこともある。しばらくマイブームになった。それで本場の西安(中国の)に余った7万マイルほどを使ってJALで向こうに10日ほど居たことがあった。本場では刀削面の店はほとんどなかったのも変な体験だった。

そういう過去の雑多な記憶をずらずらと引きづりながら、晩秋の秋葉から、浅草橋を経由して蔵前まで歩行した。

カメラは高千穂のXZ−1である。木星球倶楽部の面々が亜米利加の革ジャンにご執心で、A−2ってのを身体に馴染ませる為に夜も着てねているそうだ。あたしも大昔に買ったA-2があったのを思いだして、クローゼットから引っ張りだした。この軍用衣料はポケットがないので、手を突っ込むことが出来ない。それでこれを着て歩行していると「思想」が正しくなるようである。

東京の街には最近は鏡がないようだ。名作、リーフリードランダーが「セルフポートレート」を撮影した時代には街中が鏡だらけだった。見渡してみれば、ぼろぼろの中華屋さんのサンプルウインドウの背後がミラーである程度だ。

晩秋のダークブルーな快晴の空はまたしても、リスボンのサウダーデ方面に気分をシフトさせる。総武線の高架線の下が綺麗に取り払われてそのアーチ型の構造が見えている。リスボンの西の町外れに似たような構造の水道橋があったな。

晩秋の午後の明るい光の中で生き生きしている、路傍の花ってのがあたしの永遠のテーマである。アスファルトの背景はそのまま博物学の下地になる。その脇に強風で喫茶店の看板が倒れている。何なのか理由が分からないままに感動する。

ヨセフ・ボイスのインスタレーションがもっと生々しくなった印象がそこにあると言えば良いのであろうか、、、、

2011年11月20日 (日)

フェド28とスデクとセグウエイ

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プラハの王宮の裏の新世界という場所は、観光客さんの来る中心部のずっと先にある。そこに当時は王宮の裏手の黄金の小路の小さな部屋を書斎にしていた、かのフランツ・カフカが仕事に飽きてその新世界まで夜食を食べにくるという話を「屋根裏プラハ」の一章で書いた。

実際に新世界小路には昔からのレストランが1軒だけあるから、我がフランツかここを訪問した可能性はある。

新世界の500年前からそこにある建物に一泊して翌朝、歩みを東に向けて15分も行くと王宮の広場に出る。まだ朝速いのでそこは中国の旅行団に占拠されている格好だ。まるで天安門広場に居るような気になった。

彼らも、HISの団体さんもここで門の前に立っている衛兵と記念写真を撮影して、それからカテドラルを見物して掏摸にあったりして、さて安物のボヘミアガラスの店につれて行かれることになる。

この画像はかのヨセフ・スデクも撮影している。王宮からの急な坂がつづれ折れになっているコーナーである。

そこにいきなり、セグウエイの集団が来て急な坂を登って行った。そのコントラストが案外に似合っているのに、また吃驚したのである。

★撮影カメラは下のライカM5ぼろクローム(我楽多屋さんで3,5カメラ円)にフェド28MM(ヤフオクで2カメラ円)フィルムはこの七月に伯林で買ったADOX フィルム現像はガスマン・堀野。ネガスキャンは品川双葉のフラッシュ。

2011年11月19日 (土)

佃名物「ぼけこっこ」 に ついて

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中央区佃島小学校の「ぼけこっこ」に関しては、長い歴史がある。
すでに10年以上前から、校庭の西側に立派な鶏小屋があって、時無しに鳴いていた。それを家人が時間を間違えているので「ぼけこっこ」と命名したのが、ぼけっこっこの縁起である。

小学校の校庭というのは、われわれ一般人がなかなか立ち入れないことでは、これは平壌より困難なのであるが、選挙の時だけは投票と引き替えに立ち入りが許可される。

ぼけこっこの「本名」を知りたいと思ったのだ。しかしケージの前にはなにも表示がなかった。その隣のモルモットの方はそれぞれが「ベルサイユの薔薇」なみのバタくさい洋風の名前がついているのである。これではいかんと思った。

その次の統一地方選挙の時にその区域にはいったら、学校の用務員さんがいたのでぼけこっこのお名前と聞いたら「ぼくちゃん」とあとはもうひとつ別の名前があって、なんとかちゃんと言うことが判明した。
実は一羽だと思っていたのが、二羽いらしたのである。その二羽が庭で遊んでいて、おじさんがかわりばんこにだっこしてきて、その名前を紹介してくれたのである。関係者さんの話だと以前は3羽居たのが、泥からばい菌が入った病気でなくなったとのことだ。アーメン!

しかし不思議なのは、ケージの外から観察すると何時も一羽しか見えないのである。どういうトリックになっているのかはいまだに不明だ。
しかし二羽いるのは確かであって、大きさが違うのである。
それで家人とメールで連絡するときには「今日は大」とか「今日は小」という風に区別している。
さらに不思議なのはこれが週末とかには、一事的に居なくなるのである。これも理由が不明だ。

若いお母さんなどは、「ほら、にわとりよ」と幼児に教えているが、これは「にわにわにわにわとりが居ます」のあのにわとりではない。
正しくは「にわにわにわちゃぼがいます」だな。

カメラはXZ-1。

2011年11月18日 (金)

銀座八丁庵のこと

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20歳の当時、銀座一丁目の日本デザインセンターで働いていた。トヨタの車のロケになると、数寄屋橋の上の高速を通って、銀座8丁目から汐留の方面に抜ける時、道が左に急カーブになると、それに連動して、なにか電気洗濯機を積み上げたような不思議な建築群が現れた。

これが黒川さんの中銀カプセルタワーだった。このような未来的な建物に招来澄子とが出来るであろうかと思った。

そほ直後、1972から1980まであたしはウイーン暗しで、帰国してから1年経過してすぐまたマンハッタンに行ってしまったので、カプセルタワーのことは忘れてしまった。

東京がベースになった2005年頃に思いだして、そこを仕事場にするようになった。とは言え、仕事場はすでにプラハのアトリエがあるし(1989から)それ以上の立ち回り先を加えるのは面倒である。すでにヒルズで仕事していたので、毎朝、佃から銀座八丁目に行き、そこで一風呂あびてからヒルズにゆくのである。

帰りにはまた八丁目に寄って、銀座をぶらぶらしてから佃地方に帰った。これではあまりに遊行めいていて、実際には仕事にならない。

それでもこの「銀座八丁庵」は2年ちょっとここで仕事したのである。雑誌でその手の有名建築家のマンションの特集があって、あたしの部屋に取材に来たこともあった。その時に黒川さんもカプセルタワーに見えた。彼の持ち物の最上階の裏手の部屋も見せてもらった。

黒川さんが亡くなるちょっと前、ヒルズのバーで(森ビルの偉い人と)歓談する機会があったので、あたしは積年の質問をしたのである。

つまり若干、20歳を超えた新鋭建築家がいかにしてこのような仕事が可能であったのかという質問だ。黒川さんは「いや、あれは会社の仕事だからあたしが前面に出るようなことではありませんでした」という意味のことを語られたので、やはり「大人」’たいじん、と読む)だなあと感激したのである。

黒川さん亡き後は、息子さんが建築事務所を継いでおられる。その未来夫さんに父上のお住まいを見せてもらったことがあった。なんとあたしは勉強不足で知らなかったのであるが、黒川さんは大変なカメラ人類でライカなどずらりと揃っていた。邸宅の茶室にそのライカを置いて、撮影したりした。

そのメタボリズム建徳の歴史を回顧する大展覧会が目下、森アートミュージアムで開催中だ。仕事場の3階上のミュージアムであるが、まず3年に一度ゆく程度である。この前に行ったのは、コルビジュエの展覧会だった。

今回の展覧会はメタボリズムが日本の戦後建築様式の中に歴史として固定されたと言う意味で重要である。世の中、メタボ検診とか、メタボリズムの本来の意味は吹き飛んで、あたしのようなデブのことだと勘違いしているのは愉快だ。森美術館も「メタボリズムとメタボとは違います」という異例のステートメントを出している。

上の画像はそのメタボ建築が竣工当時の記録写真だ。周囲の風景はそのまま70年代である。いかに中銀カプセルタワーが未来的であったか理解できる。

2011年11月17日 (木)

ペペンペンに明日吐露1,6メーター鏡玉

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ベルリンで造られ、プラハから送られてきた、アストロベルリンの800mmf5である。焦点距離は800mmもあるのに、その明るさがf5というのはなかなかない。普通ならこの長さならf8あたりが良いとこだ。この上のアストロベルリンのレンズは、1000mm f6,3であるが、f6,3はf8よりハーフストップ明るいだけである。

その上のクラスには2000mmもあるが、これは明るさ(というより暗さ)はf11だ。

普段、アリフレックスを載せている、映画用の三脚にこのレンズを載せた。マウントはM42だからあらゆるカメラにつくわけであるが、手元にM42マイクロ4/3アダプターがどっかに行ってしまったので、代打としてこの前、秋葉のヒカリカメラで買った、M42-NikonFアダプターで、いったんFマウントにしてさらにライカマウントに変換してそれをMマウントにしてそれから、さらにアダプターでマイクロ4/3にした。

最終光学ユニットに凹レンズが入っているので、ちょっと甘いようであるが、もともと2キロは離れている橋の上の「看板」が読めるのだから、大したものだ。

勿論、スチルだけではなく、このままハイビジョンも撮影できるのだから、感心する他はない。

800mmレンズであるが、マイクロ4/3の合成焦点距離は1,6メーター相当になるわけだ。

2011年11月16日 (水)

GRDグッドデザイン・ロングライフ賞

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リコーのGRシリーズが、グッドデザイン賞のロングライフ賞を受賞した。
業界では10年間はデザインが変わらない工業製品などをその候補にしているそうだが、GRシリーズはフィルム時代から起算してすでに15年になる。
長く、GRの誕生以来、おつきあいしてきたあたしにとってこれは嬉しいことだ。

その嬉しいポイントは、これがフィルム時代のコンパクトカメラからの一連のデザインの流れを審査陣がくみ取ったという点にある。なかなかやるな!と思う。

フィルム時代からの一貫したデザインの継承という意味なら、オリンパスのペンFからペペンペンに至る系譜もそうであるが、これはなにしろ最初のペンFが東京オリンピック時代であるから、審査員さんは生まれていないか、まだ物心がついていない時期であろう。

現在の工業デザインの時間のスパンで言えば、GRシリーズの受賞の15年という時間は「永遠よりもちょっとだけ短い」程度の長さの時間なのである。

GRシリーズのロングライフ賞というのはこれはこれからのデジタルカメラデザインの方向を示す意味で重要なマイルストーンでああろう。

思えば、15年前に最初のモデルGR1が登場する前に、理研からそのトップカバーをもらったことがある。なにかの記念なのであるが、その理由は忘れた。今では大事なオブジエとなっている。

GRもそのデザインに「天下のお墨付き」が下ったのであるから、もうGRD5でもGRD6でもそのデザインは変える必要もない。
その意味でGDデザインは往年のライカをシミュレートしているようなのである。GRD4はつまりM4の仮想である。
だから来るべきGRD5からはそのデジタルのDを外して、GR5で良いと思う。

昔は電子メールと呼んでいたのが、今ではメールというのと同じことだ。

2011年11月15日 (火)

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Dday

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偽ライカ愛好会というのは、任意団体の趣味の会であってたしか昨年の11月に開始したのであるが、これがほぼ毎月、撮影会をやっている。

大したものだと思う。

愛好会の「隊旗」もあって、これは懐かしい「赤色革命」のメランコリーの旗だ。それも素人の手作りではなく、ちゃんとプロが制作した旗だ。

その撮影会が挙行された。これが日の出から水上バスで淺草に行って、仲店を徘徊するというので心配になった、晩秋のしかも日曜であるから淺草は大混雑であろう。それに水上バスは毎日、部屋から見ているがあれがウイークデイにはがらがらであるが、週末には大混雑であるのは見てるから知っている。

果たして、水上バスは混雑していた。しかしこの水上バスに乗ったのは、数年前であってその時には外人さんの東京案内であった。その前は10数年前に雑誌の取材で水上バスに乗った以来だ。

しかし、それ以来の水上バス体験だったのである。この前の航行では水の上にはスカイツリーがなかった。それですぐに退屈したのである。それが船の進行に合わせて、川上の視野の左右に現れる。それが面白い。

「これは演習ではない」と今回の火器大演習(輪番制)の呼びかけに書いてあった。それを意識してDDAYのキャパを意識したコンタックス関係の機材を持参するカメラ人類が多かったのはさすがだと思った。

2011年11月14日 (月)

牛田(ぎゅうでん、と読む)の裏のあたり

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偽ライカ同盟会長の片岡義男さんは、街歩きのハードボイルドを実行している人だ。東京の西部から小田急線で出てきて、オリンパスとかペンタックスの一眼レフを持って、どこまでも歩行するのだ。
数年来、片岡さんと東京の周辺を歩行した。ただしその歩行の方法があたしとは異なっているので、最近ではご一緒することはない。
というのは片岡さんは絨緞爆撃方式で特定の地域をすみずみまで撮影するのに対しして、あたしの場合には鉄砲玉であるから街区を一直線に抜けて行くのである。

数年前、片岡さんが「いやはや、千住柳原は実に凄いところだな」と漏らしたので、その後、単独で行ってみた。

そこは隅田川の屈曲部でふたつの路線の電車の駅が向かい合っているのも変である。関屋という駅はまず普通の名前であるが、もうひとつの牛田(うしだ)というのはシュールである。あたしはわざとこれを「ぎゅうでん」と呼び慣わしている。

東京大周遊で思いついてその「ぎゅうでん」に行った。普段はここは地下鉄の相互乗り入れが行われていて、北千住から南栗橋とか言う極北に結んでいる。一方の南の果ては中央林間である。

「ぎゅうでん」に数年ぶりに降りたらかなり開発されていて吃驚した。千住千草園方向に行く途中の店舗が新しくなり、以前から好きだった、この高度感覚あふれる高い所の窓がある木造建築が真っ赤に塗装されている。
どこかオランダあたりに来た感じだ。
京成の低い、その高さが1,5メータのガードを潜ってその先の千草園で地元のネカ(
猫)と遊んでまたぶらぶらと駅前に歩行してたら、地元の紳士がその高さ1,5メーターのガードの前にたたずんでいる。
何かと思ったら電車の行き過ぎるのを待っているのである。
これは生活の知恵だなと思った。
誰だってその下をくぐるガードの上を轟音を轟かせて行き過ぎる電車の下は歩きたくないものだ。

★カメラはペンペンにKinoptik Apochromat18mm T2,3

2011年11月13日 (日)

リスボン。墓地のその先

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12月はリスボンというのは以前のあたしの年間カレンダーではごく普通のことだった。クリスマス前の街の気分には独特なものがあるが、日本だとこれは商業に流れ過ぎて駄目である。

リスボンはその点、レコンキスタの歴史があるから、街は一見アラブ風でしかもしっかりカソリックが土台を据えているというのが美点である。

いつだったか。トルコ航空のビジネスクラスチケット往復五枚綴りというのを使ってイスタンブール経由で頻繁に欧州に行っていた。その時のイスタンブールの定宿はHOTEL ALSERというのでこれが、ブルーモスクの真向かいであった。クリスマスの時期にそこに宿泊したら、例のごとく一日に何度もアラーは偉大なり!が等ウドスピーカーで鳴り響くのだが、ホテルの入り口には小さいクリスマスツリーがあった。なにかトルコ戦争の対峙するウイーンの光景とまったく逆の位相をそこに見た気がして面白かった。

さて、リスボンで有名な観光市電路線は28番であって、これはベンダースのリスボン物語にも出てくる。その西の終点は市営墓地である。それで市営墓地の中を散策するのが趣味になる。その墓地の西の果ては貨物駅の集積地点でその先に巨大な吊り橋が見えた。

今回、その裏手にゆこうと四半世紀ぶりに決心した。そこで頼りになるのがGOOGLEのストリートビューである。市営墓地の裏手をずっと西にゆくとなかなかの面白い通りがある。

これが疑似的な光景であるのは分かっているがそれぞれのショットを自分でアングルを決めてズームも設定して「撮影」するとそこにはいかにも観光バスの二階から撮影したツーリスト写真がそこに現出するのが面白い。

バス乗り撮影の巨匠であった、かのフランクさんもこの楽しみはご存じあるまい。

2011年11月12日 (土)

高千穂XZ1で本駒込周遊

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3月のマンハッタン滞在の時にはペンライトに高倍率ズームで、XZ1には明るいズームが付いていた。XZ1はレンズ交換は出来ないので常についているのだけど、その広角側は明るさはF1,8なのである。
ペンが登場した時、そのムックの制作でCマウントの25MM F0,95のフランス製の玉をつけて、それで暗闇を撮影したりしたものだが、本来、ああうのは「写真を撮らない連中がレンズで武装する際物」であることに気がついた。
だから常用レンズの広角サイドはF1,8で充分である。これが明るくなると、前玉がでかくなるから、携帯性に問題が出てくる。

この前の春のマンハッタンは雨ばかりであって、そういう時の街歩きには高倍率ズームは面倒である。若い連中で自分がカメラマンであることを主張したい連中ならフルサイズのデジタル一眼レフもいいであろうが、あたしはもう自分がカメラマンであろなどと主張する気力もないから、単なる散歩の老人が一番いい。

それで実に久しぶりにXZ1を持ち出した。ここにマジックテープが貼ってあるのはこの前のマンハッタン行きがそのままになっているので、こうするとグリップ感が増していい。それにEVFも付ける。その理由は別にファインダを良く見ようといううのではなく、カメラの光軸の方向のコントロールが確実になるせいである。

ライカM3を使っている時、シンクロ接点には犬のおっぱい、こと、シンクロターミナルアダプターが付いている。これはそこに指をかけて、ライカの撮影方向をグリップする為である。
それと同じ目的で、XZ1にはEVFを付ける。

小石川から西片経由にて白山上から吉祥寺の境内に初めて入る。川上眉山の墓があるのでそれに詣でる。眉山の墓から南に市街地に出たら、見覚えのある小路で道路工事をしている。
そこのカードマンさんがあたしに「こんにちは」と挨拶する。こういうのは良い感じだな。知らない同志が挨拶するのはまるで欧州の空気だ。
その先に区立の本駒込公園があって、そこのベンチに座って(上の画面の左のベンチ)にて、新潮の単行本の「屋根裏プラハのゲラの校正を居フォンでした。
なにかゲラを居フォンで見るのが実に不思議だ。

このベンチに前、何時座ったのかを思いだしたのである。それは千石の辛い辛いカレー屋の「大沢」(店主がボクシングのチャンプ)で、辛いモノが大丈夫なあたしでも「よくこれを駒込保健所が許可しているな」と思う辛さだったので、このベンチで休憩したのだ。
辛い食い物の記憶は案外に色あせない。

2011年11月11日 (金)

TSUKUDA/TUCHIURA

この前、土浦のさかい写真研究所に行った。
用件は来年の1月から3月のさかいさんのプラハでの個展の打ち合わせである。
さかいさんは土浦で撮影したパノラマ作品を展示する。
それが用件ではあるのだが、どうもあたしの本当の用件は、佃から土浦までの行程、眼前に見える光景を時系列でオートマチックにカメラで記録することにあったようだ。
カメラはNIKON Fでレンズは21MM, 例のミラーアップして撮るレンズだ。
以下は1本撮影した中からの10ショットである。暗い日なので絞りはF4でシャッターは1/500だった。
日本の風景は実にフォトジエニックだ。
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2011年11月10日 (木)

ニコンFとあたしの半世紀

201212 佃地方の機材を整理していたら佃のカメラガラクタ山の中からニコンFが出土した。しかも二台。

いや実に懐かしい。
手にとってしげしげ眺めた。まずその真面目実直なデザインがいい。曲面を多用した「指にやさしいエルゴノミックデザイン」などではない。そこには直線しかない「指に当たりが強いクラシックデザイン」なのである。ところが長時間カメラを握るにはこの直線デザインの方がずっと道具としては優秀なのである。

最近ニコンFをあまり使っていないのは、他の代用カメラのあるせいだ。ニコンFマウントアダプターを介して、アルパとかに使っているし、そのままニコンFマウントはロシア製のキエフ19とかいうカメラもあるせいだ。不変のニコンFマウントはちょうどライカマウントみたいに普遍的な存在になっている。

思えば1962年、最初にニコンFを手にしてからすでに半世紀が経過しているのである。いやどうも、その時間経過の速さには吃驚した。二分の一世紀など実に夢の間であった。

当時、カメラ少年のあたしが最初に手にしたのはアサヒペンタックスAPであって、当時の値段で定価は58mmf2がついて5万円に500円安いだけだった。今の貨幣価値からしてどのくらいになるのか見当も付かないが、1950年代後半のサラリーマンの月給は3万円台ではなかったか。無論、これはカメラ人類元祖のあたしの父が買ったのを事実上、小学生のあたしが勝手に占有していたのである。甘い父親だ。その直後に今度はニコンFが登場した。これは事件だった。

当時のカメラ雑誌の広告に見るニコンFの姿写真はまだ思春期の少年のあたしの心に深く浸みたのであった。その画像はかなりトップライトの写真で、ようするに上から強い光線を受けているのでニコンFのペンタプリズムのトップの三角形が強調される描写であった。カメラの本体のスタイルなんか良く分からない。でもそれだけ新鋭写真機の存在感が浮き立つ広告だった。

これが日本デザインセンターの仕事であるのを知ったのは会社のトレードマークが広告の下に小さく入っていたからだ。
これがサブリミナル効果を生んだのか「日本デザインセンターに入ってニコンFの写真を撮影したい」と思った。これは大きすぎる夢であった。ところが人生は不思議なもので後年、実際にそのようになったのである。

さて、最初はペンタックスを持って真冬の日光の凍った華厳の滝を見、それから眠り猫を父と見た時、そこでアマチュアカメラマン氏が鞄からニコンFにニッコール200ミリをだしたのを見て、ポーっとなったのは、カメラ少年時代である。ニコンFが人生の目的になったのだ。元祖カメラ人類の父親もその新ニコンF購入計画に賛意を示して母親を「騙す」策略を色々考えていたようだ。

ただし父は普通のカメラ人類であったから、ニコンFの出た直後のフォトミックファインダーというのがついたモデルの方にしろと言った。ちゃんと正確な露光が分かるからだと。これはTTL測光方式の前の外部測光方式の当時のフォトミックのことだ。スポンサーが言うのであるから逆らえない。

レンズはあたしはニッコール50mmf2のシンプルなデザインに惚れていた。これは少年のデザイン評価の直感というやつなのであろう。しかし父は「子供に良い教育を受けさせたいという親の共通心理」から、レンズはもっと明るいf1,4の方にせよと言った。たしかF2とF14では価格差は7千円ほどもした。父は太っ腹であった。無論、スポンサーなのだからこれも逆らえない。
結局、ニコンFフォトミックに50mmf1,4レンズを付けて買ったのである。これが中学の時の話であたしは14歳だった。今、あたしは64歳だから、まさしくニコンFを手にして半世紀が経過した。
大体14-5歳の子供がこういう高級機を持つことが大間違いなのであるが50年が経過してしまってはもう取り返しがつかない。

最初はあたしも単なる写真小僧であった。鉄っちゃんこと、鉄道(写真)ファンにはならなかったのはもっけの幸いであった。もっとも当時実家音羽の家の前には動くものと言ったらま自家車も走っていないような時代だから、もっぱら20番の都電を連写したりして遊んでいたのだ。
高校(都立志村)に入ってから自分はとうてい本郷方面の大学に行けるような学力ではないと自覚したので、もっぱら写真表現小僧の方に移行したのである。こういうのを「写真不良化」というのであろう。

ところで写真表現小僧になるにはまず父に買わせたニコンFはクローム仕上げであったので、これをブラック仕上げにすることが急務であった。高校の同級であたしの他に唯一ニコンFのブラックを持っていた洗足池のてんぷら屋の息子が日本光学工業に出入りしていると聞き、その方策を聞いた。なんでもトップとボトムと、ファインダーのカバーを全部ブラック交換して7千円ほどだと言うのでその値段に吃驚したが、結局依頼した。

当時の日本光学の営業は丸の内ではなく、日本橋のふとんの西川のビルの上の方にあった。クロームニコンがブラックニコンに変身するまでの2週間は長かった。カレンダーに印しを付けて待ったのである。
約束の日、学校の帰りに板橋から急いで池袋に出て都電で日本橋にゆき、父親からあずかった7千円のお金と引き替えに「新品のブラックニコンF」を受け取った。ちゃんと同じ製造番号が打ってあった。これで「表現者」になれると思ったのは少年の勘違いではあるのだけど、ブラックニコンは写真青年の士気を鼓舞してくれたのだ。だからあれから半世紀近い時間が経過しているのに、あの日のことは忘れない。

日大写真学科に入学した時に今度は父に21mmの超広角レンズを買わせた。その前はもっぱら28mmf3,5の最初期のニッコールで東京の町をスナップしていたのである。そのレンズは第一面の径が大きいので他のレンズのようにそこにレンズ名を刻印できないので、鏡胴に刻印してあった。その「設計に無理をした感じの広角レンズ」の存在感が好きだった。しかしその上のクラスが21MMだった。そのレンズの小ささがなにか尋常ならざる存在感を示していた。

思えば当時の一眼レフは20MMクラスの超広角レンズの設計はまだ未熟だったから、ニコンS用の21MMをそのままニコンFマウントにしてミラーアップするレンズだった。
大学生になってからはもっぱらニコンFにミラーアップした21ミリ付けてTOKYOの下町を斜めに横切るという撮影方法があたしの定番になった。
f11にしてシャッターは概ね1/1000しか使わない。フィルムはトライXであってこれは量販店で100フィート巻きがたしか3600円だった。それも月に百巻きが1缶ではすまなくて、2缶になった。

この時代よりちょっと前、明石町の長屋の土門拳先生が「自分はトライXの長巻きが月に一本ではすまなくて、二本になってしまうとこぼしていたのを、我が意を得たりとばかり何かの本で読んだのも懐かしい。

ニコンFに21MMで街を斜めに横切るというあたしの写真群が「カメラ時代」という当時の雑誌に一ヶ月置きにグラビアで8頁も掲載されたのだから、大学生であったあたしはますます勘違いをそこに助長させるわけであった。あの当時のカメラ雑誌の印刷は今ではすでに存在しない、グラビア印刷であったのだ。あれが良かった。だからますますそれが「写真表現」であるかのような錯覚を20歳の若造に植え付けたのである。

20歳の時すなわち1967年にはライカM2(のブラックペイント)がやってきたから、もうニッコール21ミリはアダプター付けてライカに使うようになったので、ニコンFとの真面目なおつき合いは実質、1962から1966までの五年間と言ってよさそうだ。高校大学と使ったブラックの二台のニコンFは1973年のウイーン行きの当初に向こうの写真家とライカM3のブラックペイントに交換してしまった。だから手元にはない。その製造番号だけは今だに記憶している。すなわち一台目は6463471で二台目は6713702だった

今あるのはその後にアメリカから買ったクロームボデイである。
最近、気がついたのはどうもブラック仕上げよりもクロームの方がかっこいいという事実である。東松照明さんの復帰前の「沖縄シリーズ」は有名だが、東松さんが現場でクロームのFに21MMつけてしかも下駄履きで撮影というのが確認されている。下駄履きのクロームのニコンFだ。これはテーマになりそうな気がする。
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このニコンFのショットは土浦のさかい写真研究所に向かう途中で撮影。この21MMで沿線を延々と撮影した。

2011年11月 9日 (水)

LOMOKINOにしびれる

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ロモキノが面白そうだ。
まずそのデザインに痺れた。サンクトペータースバーグは数年前にJPSの取材で行った。ネバ河のほとりにKGBのでっかい灰色のビルがある。そこの御大のプーチンさんは行きつけの寿司屋Sに車で乗り付けるとか聞いて、あたしのレニングラードはネガテイブな印象であったが、こういうカメラがでてくると、その印象はポジテイブになる。

これはテクニスコープ方式の2パーフォレーション、つまり35MMフィルムの穴が4個を半分にしたワイドスクリーン方式である。正確にはスーパー35ではない。

それはともかく、ベンダースの「リスボン物語」でも手回しの映画撮影機が登場して過去の記憶のフーテージだけその100年前のカメラで撮影した画面になるのである。
こうなるとフルハイビジョンのリップシンク(この言い方がまたクラシック)よりも画面がスキップする「てけてけおじさんムーブメント」の方が表現としてはずっと上になりそうだ。

ハリウッド的商業映画をあたしが嫌いなのは、無味乾燥な美男美女のほとんど無意味な会話でそれが成り立っている点にある。このマシンで撮影すればそういうのとは隔絶できる。

実はあたしの周囲にはこの手の手回し映画撮影機が沢山ある。一番古いのはツアイスのKINAMOである。短い尺のフィルムを入れて手回しで撮影するマシンである。それより進化したのはSEPTであってこれには外付け式のスプリングモーターが付いている。

プロ用機材なら彼のレニさんが愛し、伯林五輪を撮影したフランス製のPARVOもある。これは初期のは手回しだけど後期になって電気モーターもついた。

フランス製のカメフレックスはヌーベルバーグ、シネマヴェリテの時代の代表カメラであるが、その中の珍しいアクセサリーに「手回しクランクユニット」がある。これは中にギアが入っていて、秒6コマから16コマでハンドクランクできる。
当時の映画機材のいいのは「いざとなったらハンドクランク」という所にある。

アメリカの銘機参拾五ミリのEYEMOでもちゃんとクランクで回転できるようになっている。最後に頼るのが人力というのがいい。ボーイング767も足が出なくて最後はマンパワーで出そうとしたもが駄目で、ワルシャワ空港に胴体着陸したのだった。

デジカメもデジタルムービーも電気がなくなったら只の箱。

ところでこのLOMOKINOのデザインは秀逸だ。構成主義である。これは1910年当時のアマチュア用映画撮影機の真似なのであるが、もしこのロゴがアルファベットではなくキリル文字であったら、そこには「キノプラウダ」の気分が充満してさらに妙であろう。

2011年11月 8日 (火)

ミランダTにシュープリーム105mm f2,8

Tこの間、某所でオリオン光機製のシュープリーム50mmというレンズを見せられた。沈胴の50/2.8であって、厳重にテイッシュにくるんであり、さらにハンドクリームの瓶に入っていた。
某氏がミランダの創業者からもらった試作品らしいということだったが、その正式名称は不明である。

ただ、それを見せてくれた人が「シュープリーム」と言ったのだが、その前にウルトラとか、スーパーとかの前置詞がついていた。その名称を確かめようと思ったbのだけど、文字の刻印が細かいのとその場所が蕎麦屋の店先の暗い所であるのに加えて、そのレンズのリングがダイヤモンド仕上げの上に文字が載せてあるのだ。

ツアイスのビオゴン21mm f4,5は優秀レンズだが、昼間の直射日光の下で撮影していると、そのダイヤモンド仕上げの面に日光が反射して数値を読むのか困難である。それと同じ状況がおこった。

しかし、その名前がシュープリームであるのは嬉しかった。あたしはシュープリームレンズのコレクターであって、同名のレンズはこれはオリオン光機が国産で最初に制作した一眼レフ用望遠レンズなのである。こんなことを書くと不思議に思うかも知れないけど、国産のニッコールのF用が登場する直前にそういう「交換レンズの真空時代」が短いが一瞬だけ存在した。

だから当時の資料を見ると、実にシンプルで国産の一眼レフ用レンズの一覧表はこれしか掲載されていなかった時代もあった。
オリオン光機は以前はプロ写真家から依頼されて、ニッコール105mmのライカマウントのバレルをカットして、それをM42に改造するビジネスをしていた。
だから会社としては、一眼レフ用の望遠レンズを出したら当たると思ったのであろう。
その時期にミランダが出て、それからペンタックスが出て、さらにニコンFが出て、キヤノンフレックスにミノルタSRが出て一眼レフ時代に入っていったのだ。

ミランダTにはズノーレンズが定番だけど、このシュープリームもなかなか本体とのバランスがいい。あたしは今まで、シュープリームってのはこの105MMしか存在しないと思っていたので、この間、秘密の50MMのシュープリームを見せられて世界が開けたのである。

2011年11月 7日 (月)

さうだーで

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Photo先週の良く晴れた日に、佃地方からヒルズ地方に仕事に出かけたのだが、大江戸線を降りるのをタイミングを見失ってそのまま終点の光が丘まで行ってしまった。
光が丘に来たのは二年前の六月でちょうど都知事選で、ドクター中松の宣伝カーが止まっていて、ご本人のドレミの歌の替え歌が流れていた、誰も足を止める人はいなかった。あたしだけである。持参の異フォンでそれを録画していたのであって、別段、中松さんの政見に共感したわけではない。

光が丘から徒歩、たんぼ道(の跡)をたどって下赤塚駅まで出て、そこでランチの後、さらに東武練馬方面に歩行した。
東武練馬の不動通りを歩き初めて、なにか忘れ物を思い出したような気分になった。
来月のリスボン行きの前に、例のアメリアの偉大なテーマになっている「サウダーデ」とは何のことか見当が付きかねていたのが、紺碧の空をバックにしたそこいらの町並みを漫然と見ている時に。「ああ、これであったか」と見当が付いたのである。
リスボンのアルファマの上の展望台から町並みを眺めて居るときと同じ気分がそこにもたらされた。
極東の武蔵の国と極西のかつての一大帝国をオーバーラップさせせるのも変だけど、要するに古い建物が不規則に積み上げられていて、それが紺碧の空でそこに午後の強烈な日差しが当たってるのは、サウダーデなのではと思ったのだ。

しかし子細に観察するに、リスボン大聖堂のSeと見間違えたのは銭湯である。なぜ銭湯が大聖堂なのかと言うとそのファサードが対象であることから来ているようだ。しかもリスボン大聖堂は坂の上に向かって「登り窯」のようにつま先上がりに建てられている。この銭湯の同様な地形である。

カメラはペンペンにキノプテイク18mm

2011年11月 6日 (日)

福田和也同志と理研式電子小形写真機四型改

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福田和也さんに最初にお目にかかったのは、確か4年ほど前の今頃であった。いや、五年前であったかも知れない。
何しろ、右から左まで斬って捨てる怖い評論家と知っていたから、緊張して指定のJRの液まで行ったのある。

初対面の福田さんは身なりのいいい紳士であった。その紳士がいきなりGRDストラップレスアナーキスト同盟員であることが判明したのは彼のGRDに紐がついていなかったからである。
戦前の第三インターの連中がお互いに相手の顔を知らないが、その目印で「同志」と分かるようなものだ。
以来、あたしは「尊敬する福田同志!」と呼んでいるのである。

この間、都内の連絡所である某蕎麦屋で、あたしと福田同志とが連絡をつけた。そこに理研機関上層部の同志数名が現れて新らしい武器「理研式電子小形写真機四型改」を受け取ったのである。

福田同志はかつてあたしとの対談で「GRDでのワンショットはその場所と雰囲気を記録するメモとしては100頁以上の情報量にあたいする」という意味のことを言っていたのを思い出した。

福田同志は取材現場ではちょうど舞台の全景を記録するように広角レンズで全部を記録するのが後で便利とも言っていた。それを聞いてウイーンのオペラ座でフジタがデザインしたマダムバタフライの舞台の全景のスケッチを見たことを思い出した。

実際の福田同志と中国方面を宣撫工作活動で潜行したことがあるが、実際には彼はメモも実によくとっている。そのメモとGRDとで取材は完璧になるのであろう。

福田同志は12月の初めに東京は駒込の某画廊で「初の写真の個展」(本人談}を開催するそうだ。これは福田同志が最近愛用している、ライカフレックスによる全紙の作品展なのである。あたしと同じく「デジタルとフィルム」の両輪で進む、これはマルクスレーニン主義ならぬ「アナロデジタル主義」。言い換えれば「晴れたらライカ、雨ならデジカメ主義」なのである。

いえいえ。修正主義などとは言わせない。もともとフォトショップで修正はしない主義なのである。

2011年11月 5日 (土)

ガスマン・堀野

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先月、プラハで撮影したモノクロは20本であった。
この春のマンハッタンが11本で、七月のベルリンが12本であったからそれに比較するとM5で真面目にしたわけでもあるまいが、撮影本数は20本だった。
七月にもと東伯林のマルクスエンゲルス広場(今は名前が変わったが)のアパレル関係が並ぶ界隈のお店で、アナログ写真材料専門店がある。
そこでクロアチア製のADOXを20本買った。

日本では多忙でモノクロなんか撮影してる時間のゆとりがない。プラハでゆっくりと撮影できたのは良かった。

現像は「ガスマン堀野」ラボに依頼した。ガスマンはHCBの現像とプリントをした巨匠である。ガスマン氏にパリのモンパルナスの彼のラボ、PICTで会ったのはもう四半世紀の昔だが、当時はまだデジカメはなかった。それで写真家は自分で現像して自分でプリントが普通だったが、HCBはそうではなかった。
ようするに分業化の走りなのである。

ガスマン堀野は数年前はいれゆる「クラカメ高校生」であったのが日大の写真学科に入ってからいきなり「大人」になった。なにか着ているものが名取洋之助めいて、ようするにおやじかのである。
まだ二十歳になったばかりなのに先が思いやられる。

それはともかく、ガスマン堀野の現像のトーンはなかなかのものだ。石元泰博先生のモノクロネガは結構薄くてしかもガンマはある。それっは4号の印画紙で焼くとじりりとトーンが出るのである。
それに似たネガのトーンだ。

2011年11月 4日 (金)

アトリエの月の出

Moon今回(すでに先月だが)のプラハ滞在はたかだか二週間ほどだったが、それなりの味わいがあった。
その理由は寝る場所を4カ所変えたことにある。なにもわざと好んでそうしたわけではなくてそれには理由があった。
まず住み古したアトリエの前室のリノリウムが剥がれてきたので、それの修理があった。それでプラハ到着時にそのままアトリエに行くことは止めて、プラハの東のZIZIKOV地区に行った。そこの屋根裏部屋で眼前にテレビ塔を見てその背景に満月と木星があったりして感激したのであるが、数日後にアトリエに戻ったら給湯設備が壊れた。

再度、ZIZKOVの今度は別のホテルに一泊して、その間にアトリエの給湯を管理人さんにチエックしてもらったら別段なんともないという。
それでアトリエに戻ったら今度はトイレの水が流れなくなった。このアトリエはあたしが住みだしてすでに20余年だしその前、1930年代の後半に出来たのだから最近ではなかなか不具合が起こる。

緊急待避のつもりでプラハの西北、王宮の裏手の「新世界」にある500年前の古い建物の宿屋(実は中はモダン)に逃げたら今度はそこが断水という目にあった。もっとも断水は一時的なものだから深夜の3時にはお湯も水もでたので巨大なバスタブにお湯を張ってゆっくり温泉気分を楽しんだ。

さてこれで一段落と思ったら帰りのモスクワ東京便のシートの底が抜けていたのである。

都合、アトリエには5泊ほどしか出来なかった。毎夜、アトリエから月を見ていると、その月の出が毎晩遅くなり、月がだんだん欠けてくる。
そういう月の満ち欠けを観察できるのは実は時間のゆとりのある証拠なのである。月の右手の明るい星は木星であろう。

アテネオリンピックの前の前の年に、やはりアテネのパルテノン神殿の脇のホテルパルテノンでペントハウスの露台から月の満ち欠けと遊星の運動を観察した。あの時には双眼鏡で木星の衛星をふたつまでとらえた。プラハは明るいのでそこまでは無理である。

2011年11月 3日 (木)

伯林ノイケルン謹製のアストロの八百粍F5で撮る

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8001先週、プラハに居た時にebayでプラハのカメラ屋さんに注文した、アストロベルリンの超望遠鏡玉が届いたので、それを組んでみた。
佃地方の大ガラスの部屋にはすでに前からある、各種アストロ玉がひしめいているのでなかなか広げることが出来ないので、バルコニーで展開させた。
こういう長い太いレンズである。貫禄ありすぎ。

相当の数がベルリンからアメリカに輸出されたのだが、こういうレンズを個人で買うのはまず大金持ちとかは別として、CIAとかその方面のお客さんであろう。

もっとも、この個体はチエコから出たのであって、その距離スケールはアメリカ向けがフィートなのに対してメーターである。無論、当時のボルシエビキ体制下のチエコで個人でこういうモノを買う人間も居ないだろうから、この鏡玉は秘密警察とかその方面の備品であったのかも知れない。

レンズマウントはM42であって、これは交換できる。たまたま、手元にあったキヤノンフレックスに付けて(アダプターを介して)付けてみたら無限も出ていた。ただしフィルムなのでその作例は今の次点ではお見せできない。M42ペンペンアダプターが手元にあるのだけど、それが発見できない。

撮影はなにもバルコニーからする必要はないので、室内の窓際で行った。部屋から永代橋方面を撮影した。橋に付けられた「永代橋」の看板がちゃんと判読できる。300MM程度の望遠だとバルコニーの手すりが前ぼけになってしまうのだが、800MMになるとその影響がまったくなくなるのは面白い。

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アストロの800mmで撮影。画面がブラウザーによって、横転してたらごめん。

2011年11月 2日 (水)

モネの庭とは大げさだけど

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プラハから戻って、ヒルズに仕事に行くのも「殺生」なので、ペンペンのゼブラ柄にフランス製キノプテイクのレンズを付けて、撮影に出かける。

その空間感覚と言えば、自宅から出て近所を徘徊という感覚ではなく、遠く欧州のその先の知らない街を彷徨っているという「見立て」なのである。

キノプテイクのレンズは10年以上まえにポーランドから1ダースほどまとめて買った。ワルシャワには頭のいいカメラ屋さんが居て、この映画レンズはカメフレックスマウントで往年のヌーベルバーグの連中の愛用したレンズなのであるが、そのマウントは特殊すぎて他に使えないから、レンズのユニットを取り出して、それを適当なライカレンズのバレルにいれて販売している。これは客の「足下を狙った商売」であるから、恐ろしく高い。

ところが台湾には偉い人が居て、カメフレックスマウントをマイクロフォーサーズにするマウントを出したのでこれは重宝している。あたしの持っている玉でキノプテイクのやつは、18,25,32,40,50,75、100,300MMという所であるが、常用レンズは18MMである。

ペンペンのパンケーキに立派な17MMレンズがあるのに、わざわざフランスのレンズを使うこともないわけであるのだが、それがそれ、レンズ遊びの楽しさだ。

月島駅の近所のマンションの公開空き地がこれであって、なんとなく「モネの庭」に思えたのは、単にそこに咲き乱れている花が逆光であったのと、ベンチが古ぼけていたのがその理由である。

睡蓮がないではないかと言われるであろうが、うちのタワーの向かいには立派ではないが小ぶりなロータスが人造の池の浮かんだのがあるので、その視神経の記憶がここでは補填されているのである。

思うに、この逆光の状況で軽い天空からの青っぽいフレアが出ているのは、欠点ではなくむしろ美しさの一部になっている。このキノプテイックの18MMはオーソンウエルズやゴダールが好んで使ったと言われる名玉だけど、大昔の単純なレンズ構成が逆に良い結果を生んでいるのかも知れない。こういうフレアはフォトショップで作るのはちょっと面倒なのではなかろうか。

2011年11月 1日 (火)

アストロ300MM鑑玉

Astro300

Astro3001

この七月のベルリン行きであらかじめ調べておいたのがアストロベルリンの会社のあった所在地だった。アストロの会社は戦前から戦後は1990年までその場所は都合三回引っ越しているが、全盛を極めたのは、ノイケルン地区で、これはベルリン南東部の工場地帯なのである。しかも現在でも下町風で外国人も多く、ベルリンの本当の顔を見せている街区と言って良い。

四半世紀前にアメリカからかなりの数のアストロレンズを買った。その中には640mmf5というバズーカ砲みたいな巨大レンズもある。これにはアリフレックスを付けてその全体が巨大なクレードルの上に乗っているが、これは部屋の飾りではなく実際に「南中する満月」を撮影したりしている。その16mmフィルムからの駒伸ばしはそのまま日本カメラの連載に掲載したこともあった。

これは同じくアストロの300mmf3,5である。イデントスコープというミラーレフボックス装置が付いている。戦前のベルリンオリンピックの日本の水泳選手が現地でこの組み合わせの機材をカメラマンから借りて覗いている古い報道写真を何かで見たことがあった。

当時のレンズだから写りは悪かろうと思うのは大間違いである。確かな写りをする。アストロベルリンのレンズは個性的なのでそのファンも多い。ただし球数が少ないので最近はその価格は「高止まり」だ。

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