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チョートクカメラ塾ブログ

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2011年10月31日 (月)

ペンミニの「高千穂窪」(たかちほくぼ、と読む)

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プラハの二週間では、ペンミニに12mmの広角レンズだけで、派手なストラップを付けてそれを首からぶらさげて、市電に乗ってプラハの外れから外れまで撮影に行ったのである。
ペペンペン (PEN EP-3)に比べて最初はなにか頼りない感じがしたのだけど、そういう撮影時のカメラへの手触りというのは、案外にすぐに慣れてしまうものだ。
今まで20年来、カメラのグリップ感覚で「滑るのは駄目」だから、ラバー製のアンチスリップパッドみたいなのがいいと言い続けてきた。

ところがペンミニは「つるぴか」であるから、使いはじめにはかなり混乱したのである。しかしミニサイズであるから両手で包むように保持すれば、逆にぶれないので「つるぴか」は最初はマイナスに思えたけど、撮影開始して数日が経過するとそのことも気にならなくなった。

面白いのは、ペンミニのトップカバーの曲面のことである。トップカバーのアクセサリーシューの右手の凹みというか、段差の部分であるがその曲面のなめらかさが撮影中にはあまり意識は向かわないが、電車で移動中になんなくその「窪地」をなでている自分に気が付くのである。窪みを指が触って安心している。

ウイーンから日本に戻ってきた1980年末に当時の流行雑誌を見ていたら、いわゆる当時のカタカナ職業の若い社長がなにかのアクセサリーで、何時も持っている「つるぴか」な小物なのであるが、その凹みを指で触るとなんとなく気分が落ち着くとあった。
これを「観音窪」(かんのんくぼ、と読む)と言っていた。ペンミニに関してもそうである。

カメラの取り扱い説明書に「この凹み、高千穂窪は撮影中にストレスを感じた時にこの凹みに触ると心が落ち着きます」などとあったらこれは痛快だ。
これからのミラーレスが進化するとしたら、画像の優秀さだけでは駄目だ。そういう癒し系の長所をどんどん出すべきだな。

2011年10月30日 (日)

Potraviny

Portaviny

Portaviny2

Potravinyとはプラハの街のあちこちで見る、グロッサリーのことである。あたしのプラハの都の西北にあるアトリエの側にもあった。

ちょっと買い物をするのには実に便利だ。それが近くのプラハ工科大学の敷地内の学食(Menza)の隣に大手スーパーが出来て、そういう個人の営業の小さい店にゆかなくなってもう20年近くになる。そういう店は巨大スーパーにやられてとっくに閉店してしまった。

今回、アトリエの床の工事があったので、緊急避難の意味で、プラハの東の下町のZizikov地区にちょっとだけ棲んだ。ここは高校があったり、労働者街でもあってなかなか活気がある。

ちょっとロンドンのウエストエンドみたいな感じだ。ホテルの同じ建物の1階がそのグロッサリーである。林檎を一個とか、麦酒を一缶だけ買いに行くには実に便利だ。無論、一個の林檎、一缶の麦酒は巨大スーパーでも買えるのであるが、長い列に並んで買うのは面倒だ。マンハッタンみたいに買った良品が10点以下の人向けの「エクスプレスチエックアウト」というのがここプラハではまだ導入されていないのである。

こういうグロッサリーを日本のコンビニと混同してはいけない。新鮮な野菜と果物がこの手の店の売りなのである。それに比べて日本のコンビニは出来合の総菜ばかりだ。

あたしの前で買い物をしている典型的なプラハ市民の老婦人の籠の中は、じゃがいもと、青い香草とツベチケン(杏の一種)であった。これで美味しいマッシュポテトを作るのだなと思った。古き良きプラハ、ウイーン食文化がまだ生きている。

2011年10月29日 (土)

GRD4でプラハのワン公連を撮る

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Grd4

プラハの撮影でライカとGRD4というのは良いコンビだ。

ライカM5のクロームにはソ連製の28mmレンズ。GRD4には日本製の28mm相当レンズが付いている。

首からM5をぶら下げて、ジーパンの尻ポケットにはGRD4を入れて、プラハの下町である、街の東側のジシコフ地区を徒歩で南下する。どんどん歩行してプラハの街の南の限界まで歩くのだけど、この地理感覚はあたしの東京大周遊の時に大田区をどこまでも南下するのと何か似た感触がある。

街中でこれはまだ朝の時間帯なのだが、店舗の前に大型犬が二匹で真剣にお店の中を窺っている。ようするに飼い主が買い物中なのである。よく見ると脇に小さい黒いちびちゃんも居るのがご愛敬で、それを窓ふきのお兄さん連がかまっているのもなかなかの良いショットだ。

あたしはエリオット・アーウイットの作品が大嫌いで特に犬のシリーズは人間の弱みに取り入っている感じがして、断固これを撮らないのであるが、こういうショットなら撮っても良いと思った。

視神経の延長としてのコンパクトデジカメの真骨頂である。

2011年10月28日 (金)

プラハ。「新世界」を照らす「ランタン」

Novi

Lucerna_entrance

プラハの新世界は王宮の北西の壁の内側、つまり旧世界の果てにあった。これが出来たのは500年前である。それでいて名前が「新世界」という所にプラハ人独特の皮肉がある。

プラハの中心部は例のビロード革命の時の中心部、バーツラフ広場だ。その南の端はプラハのすべての中心部で、まあ日本の銀座四丁目のようなものだ。
かのヨセフ・クーデルカが1968のプラハの春のソ連軍侵攻に時に無人のバーツラフ広場を撮影したのもこのポイントであって、この地域はチエコ人の心の古里と言って良い。

ヨセフ・スデクのパノラマシリーズにはプラハ世界の極北の新世界と、プラハ世界の中心のバーツラフ広場が両方とも撮影されている。

Lucernaとはランタンの意味である。これを設計したバーツラフバベル(同名の元大統領の祖父の建築家)が1909年にこの総合アートセンターを落成させた時には一大センセーションが起こったそうだ。映画館、ギャラリー、事務所、店舗の複合コンプレックスの走りである。
中部欧州で最初の日本喫茶店、Yokomamaもここに竣工当時にいち早くオープンしている。

建物はアールヌーボー様式の現代ではちょっと見られないインテリアである。全館が当時の最新デザインであるのは、20世紀初頭というのはチエコは欧州の列強の中で経済的にも文化的にもその繁栄を謳歌していたからだ。
その後、ナチスの侵攻、ソ連の侵攻と悲劇が続くことになる。

そのランタンと新世界の間を徒歩で移動してもせいぜい一時間半ほどである。
この移動はプラハのルネッサンスから近代を経て、現代への歴史を肌で感じる意味で「プラハ大周遊」としてはお奨めコースである。

今回のプラハ行きはさかい写真研究所の「土浦のパノラマ作品」の展示を準備することもあった。その展示はLucernaで2012年の1月17日から開催される。

2011年10月27日 (木)

明石焼き

  • 3

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プラハから戻って、自分の記憶の遠近感を考えるに10月の初めの、明石の方がその後のプラハの二週間よりもずっと記憶に残っていることだ。

あたしの明石のガイドブックは例の小山書房刊の昭和23年の新風土記叢書「明石」なのであるが、一驚を喫したのは足穂は昭和20年の時点ですでに喪失した自分の明石を書いているのであるが、その記憶の部分は今回の「初明石」でいささかも壊されていなかった。これが収穫だった。

思えば足穂は「明石」の中ですでに喪失した時間と風物を回想しているのである。足穂の時間の時点ですでに存在しない風物であるのだから、それが堅固な記憶となり風化しないのは当然の理である。

面白かったのは足穂はそこを生活圏にすえていたのであるから、明石の全部の空間への目が行き届いており、同時にそれが彼の「明石全世界」であったわけだ。ところがあたしから見れば、その大明石はあまりにも狭い、小明石なのである。

駅の北方はお城だし、横断歩道橋を渡って「うおんたな」の商店街の南は幾筋かの通りを越せばそこはもう漁港であり、海である。

シャッター街というのも生やさしい、朽ち果てた商店街の中にそこだけ人間が集まっているお店があり、近づいてみれば明石焼きの小店であった。

これは駅側だけの事情ではない。足穂の書いている「岩屋さま」のお祭りのある地域がどんな所かと、当てずっぽうに歩行して居たら、あたしを追い越す若い男女があって、彼らはその先の人間の蝟集している場所に急いでいる。乾ききった白っぽい通りの先に列が出来ている。それも明石焼きの店なのだ。

この画像の店はもっと手近な近隣への連絡船の行き交う港の側の店だ。お盆の上に15個の明石焼きが並んで、これをつゆに付けて喰うのであるが、初めての体験なのでそれが熱々なのに驚いた。それで水冷式に日本酒の冷やを口に含んで冷却した。このよそもんが明石焼きで失敗するくだりは、足穂の「明石」にも見える。

店内に張り紙があって、「お一人様、かならず一人前をご注文願います」とある。わずかな値段の一人前の明石焼きを二人でつついて時間を潰されてはお店はたまったものではあるまい。

今回、プラハで日本を回想して最初の頭に浮かんだのは10月2日の明石焼きの記憶である。

船原長生ことマンハッタンの怪人隠居は神戸界隈出身なのでこのあたりは彼の「しま」である。さっそくツイッターに「明石焼きが喰いたい」とあったのはうなづける。少年時代になれた味ならなおさらであろう。

あたしのように還暦をさらに過ぎてからの身でも、明石焼きは充分に旅情になるのである。

2011年10月26日 (水)

ライカM5のデイラー用セールス資料

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この3月のマンハッタンと7月のベルリンの撮影では、さかい写真研究所の「ロバートフランクのオリジナルプリント放射線」が照射されたと信じられている(その手の精神的な線量を量るデバイスがこの世にはない)ライカM3を持参した。

今回のプラハはペンミニとGRD4とそれからM5のクロームに主に28mmのソ連製のレンズを付けたのを持参した。撮影本数は20本であるから、タイトルは[Praha 20]というわけだ。

このイラストの子品レンダーの50mmは参考用に付けただけで実際にはほとんど撮影はしなかった。他にもソ連製の100mmも持参したけど、このレンズのショットも数枚だけ。

1971年のライカであるから、すでに40年が経過しているというのはちょっと信じ難い。デザインが古くなっていない。
このリーフレットはアメリカのライツが当時の最新鋭のM5のセールスポイントをデイラーに告知する為の内部資料で、M5の10個の優秀なポイントなどと書かれている。中身が気になるので欲しいと思った。しかし値段は15ドルなのだけど、送料が恐ろしく高いので断念した。まあ中身は大体想像できる。

世界最初のTTL測光とか、縦に吊るライカの良さとか、本体の底の方にあるクランク式の巻き戻し、などが特徴なのであろう。日本のシュミットの広告みたいに「大ライカ万歳」って項目はどうもなさそうだ。アメリカ人は手がでかいから問題なしであろう。

2011年10月25日 (火)

プラハ「新世界」の見えないアパート

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さきほど、成田着。

プラハの王宮の「黄金の小路」は70年代には自由に通行できたがそこに、カフカの仕事部屋があるというので、この10年来は入場料をとるようになった。

しかし黄金の小路は「初心者」向けであって、王宮の広場の北西、つまり城壁の内側とロレッタ教会と修道院の敷地の周囲に「柵代わり」にずらりと並んだ長屋がある。この細い道がNovi Svetすなわち新世界である。15世紀あたりからあるプラハでもかなり古い街区が「新世界」というのもなかなかのブラックユーモアだ。

かのフランツ・カフカが夏の夕暮れをこの界隈を散策する様子を新潮連載の「屋根裏プラハ」に書いたことがある。無論、実際に見たわけではない。壁だけの片側街であるが、プラハ観光の上級者向けである。

プラハのアトリエもすでに20年以上棲み古したので、そのアパートの様子を見に行って深夜にお化けが出るかどうか確かめるのでそこに一泊した。これが面白いのは外見からはまったく宿泊施設であることが分からない。表札にも「何とか荘」とか「メゾン新世界」とか何も書かれていない。

以前、リスボンには「見えないカメラ店」というのがあったが。その系列でゆけばこれは「プラハの見えないアパート」というわけだ。

ただしあたしのような「準プラハ人」でないとなかなか棲みこなせない。というのはこの界隈には食品を売っている店が2キロ四方に渡って1軒もない。サハラ砂漠のようなものだ。この新世界小路には革命前から残っている「黄金の梨」というレストランがあるだけだ。革命以前にはこの小レストランには良く通ったが、革命後は(20年も経過してるけど)西側の儲け主義なのでゆかなくなった。

ようするにいきなりこの「新世界荘」に連れてこられた人はまず困惑する。コンビニもなにもないわけである。それでまあ考えたが今のアトリエはそのままで、時々ここに移動するのが良いとうう結論になった。

場所は新世界11番地。なんか美空ひばりの港町13番地を思いだした。

2011年10月24日 (月)

JOSEF KOUDELKA / CIKANI

Cikani★本日移動日。プラハモスクワ佃地方。

今回のプラハはペンミニとGRD4という軽いカメラで「楽に視神経の記録」をするつもりで来たのである。
その撮影は概ね成功であった。

もうひとつの目的はクーデルカのこの写真集をゲットすることにあった。これは例の名作、マンハッタンのMOMAでも開催された(70年代)のクーデルカの名作、ジプシーの新たなバージョンである。
これを買うまでは紆余曲折があって、その前に2台のエクザクタを買ったりしている。ようするにあたしの場合、クーデルカとは、エクザクタの使い手であったわけだ。

こうしてその白い表紙を見ていて思いだしたのは、足穂の例の伊達得夫を「騙して」出させた500部限定の「ヴィタ マキニカリス」である。白い表紙が共通しているのだ。
写真集のトップに画像を出さない戦略は彼、クーデルカのアイデアかどうかは分からないが、うまい見せ方だ。

アトリエの古い椅子の上に写真集を置いて頁をめくる。この感覚は佃地方では無理である。空間にカメラが充満してしまっては、写真感傷(鑑賞)どころではない。

2012年は懸案のプラハでの「SAKAI TOSHIO展」もある。これはパノラマシリーズだ。プラハでクーデルカの新パノラマ写真集を見た。これはテームスアンドハドソンから出ているのだが、内容は比較にならない。本の造本とレイアウトが駄目である。

2011年10月23日 (日)

プラハで「明石」を読む

Akasi

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この10月は1日からGRD4の講演会で大阪に行き、その後、大阪に三泊して明石に行った。

言うまでもなく、明石は稲垣足穂の故郷である。この小さな播磨灘に張り付いた小さな街を足穂は愛憎二面で「明石」に描いている。本人は後年、自分の作品群の中ではこの作品を否定しているが、それはあまりにも自分の出自に身近な事側であったせいであろう。

梅田から一時間弱で到着した明石は思ったよりさらに小さかった。魚の棚の他にはほとんど人の集まる所がない。さびれた街角で何か人だかりがしているなと思うと、これが「明石焼き」の小店なのである。

鉄道の北側にはお城があるが、これも足穂が「明石」の中でたびたび触れているから今更に見物に行こうとも思わなかった。

Photo_2 結局、「うおんたな」で最近できたという、つなぎ屋という立ち飲みで一杯やった。ここの肴はうまい。その向かいの乾物やで足穂自身も明石を出奔するまで知らなかった干鮹(これは、ひだこではなく、現地ではほしだこ、と発音)を買ってまたとことこと、大阪は高麗橋の向かいのホテルに戻った。

足穂の「明石」は昭和23年に小山書店から「新風土記叢書」の一冊として発行されている。その古本が佃地方ではいくら探しても出てこない。それで新刊で同じ「明石」が収録されている「大阪明石年代記」を買って明石の旅に持参した。

プラハのアトリエに着いてみれば、探していた古書はそこにあった。

それで夜な夜な、「明石」を味読している。プラハで味わう「明石の鮹」はまた格別だ。

2011年10月22日 (土)

ペンミニ持ってカレル橋を渡る

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昨年の11月に出した「ライカワークショップ」(えい出版)には20年以上前にライカで撮影したカレル橋のショットがある。それは橋を遠望する北の丘の上からたしか400ミリのテリートレンズで撮影したのである。

カレル橋は美しい橋であるが。それは「遠望」するから綺麗なのであってその上を歩行しても何の感慨もない。

ペンミニに「小鳥姉妹ストラップ」(10年前に十文銭銀水のお嬢さんが手作りのやつで、女子カメラストラップの嚆矢)を付けた。こうするともともと軽いペンミニがさらに軽くなる。空気よりちょっと重いくらいの印象だ。

そのペンを持って最初は19番のトラムで橋を上流に眺めつつ電車の窓の中から撮影した。これは橋の構造が良く分かる。カレル橋を過ぎた最初の停留所で降りて、モルダウ川越に撮影したのが、次のショットである。これは観光写真とかカレンダーでおなじみのショットであるが、ちょっと綺麗すぎて退屈である。しかし観光客さんの考えるプラハのイメージというのは、概ねこんな感じなのであろう。

それからカレル橋を渡った。晩秋のまだ午前10時頃なので観光客の数は少ない。例のジャズバンドが演奏している。この連中はちょっとメンバーも替わったが、ビロード革命以来ここでやっているからすでに20年である。20年もやっていれば周囲のミュージシャンさんでもアルフィーだって、ゴスペラーズだってかなり上達しているのは当然だけど。このカレル橋上のジャズメンは一向に上手くならない。こういうのを「向上心を捨てよ!」というのであろうか。

ペンミニは小型敬老のつるぴかであるから両手でしっかり保持する必要がある。ハンズあたりでゴム素材を買ってきて貼れば良いのであろうが。ここはそのつるぴかの感覚を楽しんだ。Photo_4

 

2011年10月21日 (金)

GRD4で深夜のトラムを撮る

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数年前、プラハのアトリエでプラハの宿泊施設を見ていた。プラハ中の膨大なホテルのデータであるから、その数は500を超える。その中で一番、宿泊してみたかったのがこの建物である。

これはプラハの下町のZIZIKOVの安旅館であるが、そのネオバロックのファサードが気に入った。ネオバロックなど最初から相手にしていないあたしであるが、その空色のファサードが良い感じだった。

この画像はちゃんとした「建築写真家」が撮影したものであるから、そのパースがしっかりしている。実際にはこの通りはプラハの下町の交通の要所であって、このホテルの前のトラムのストップは何時も混雑している。

この界隈にはメトロのサービスがないので、トラムが必須なのである。なにか戦前の東京の下町はこうでもあろうかという感じだ。

そこに一泊したのは、アトリエの温水のシステムがおかしくなったので、緊急待避でホテルにシャワーを浴びに行ったのだ。皮肉なことに管理人(あたしのエッセイ、屋根裏プラハに登場の若い金髪のイケメン)があたしが留守の間にアトリエに来てそれは直してくれた。修理ではない。彼がアトリエに来たら自然治癒したのだ。

結果として、その空色のホテルに泊まったのだが、収穫があった。あたしの部屋は二階の一番右手である。窓からちょうど市電が眼前に見える。フランクフルトでもウイーンでもリスボンでもこれだけ、市電がベストアングルに見えるホテルの窓は体験したことがない。
それで気がついたのは、深夜のトラムの運行である。普段はここは九番、五番、弐拾弐番などが走っているのだけど、深夜になるとナイトトラムの五十五番が走る。本数が多くはないのであるがこれは終夜営業だ。そこらへんがなにか東京の交通サービスなどよりずっと文化的な気がした。

GRD4を窓に押し付けて撮影。シャッターは四分の一秒ほどか。

Grd4

2011年10月20日 (木)

阿!トラムの停留所がない!

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数日前のこと。ホテルから引っ越ししてタクシーでアトリエに到着した。5か月ぶりである。やはり20年以上棲んでいるのでそれなりの懐かしさがある。家に戻った気分だ。
それから市内に用事があるのと、撮影に行くのとで何時も使っている、トラムのストップに行って吃驚した。芝生になっている。ストップがない!

これはショックだ。ビロード革命の当時も、この場所からトラムで市内に行って、市民フォーラムのデモを見たりしていたのである。
だから何時も使っている停留所がなくなるというのは、ビロード革命よりも凄い変貌である。ある意味、東京のセシウムとか横浜のストロンチウムよりもショックだ。こっちは目に見えるからである。

よく気を落ち着けて観察したら、ストップはそこから100メーターほど南のプラハ工科大学のMENZAの方に移動していた。冷静に考えてみると、この停留所「いけずねなめすてい」(という風にあたしには聞こえる)はもともと、上りと下りとで停留所が100メーターほど離れていたのである。それが今回、一緒になったわけだ。
この5ヶ月の間に、プラハのトラムやメトロの料金も高くなった。

2011年10月19日 (水)

この朝霧の下にモルダウあり

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プラハの晩秋は天気が良い。
それなのに、日本に戻る時の朝の天気は心配するのが例である。これは悪天候というより朝霧のせいなのだ。

プラハの霧は名物であって朝霧が濃くなると10メーター先からすでに水墨画の世界になってしまう。西欧のまっただ中にあって、水墨画も変な話であるが実際にそういう感じがする。これで午前の飛行機が着陸できなかったり、結果として離陸できないことは、ままあるのだ。

昨夜もその前の晩も月が綺麗だった。そういう日は「放射冷却」が起きるから、朝には瓦の上が霜で真っ白になる。霧も発生する。

全部が見えない霧ではなく、この画像のように一部だけ発生するのは、なかなか情緒があっていい。アトリエはモルダウの北側にある。この川霧はアトリエから見て東側に発生している。

なぜか?
モルダウは街の北東で大きく蛇行しているのだ。それで結果としてアトリエからは南と東に川がある勘定になる。

すなわち川霧の発生している空間の下にモルダウが流れているわけだ。東京の川は真面目な一直線であるから、この蛇行した河川の情緒というのはなかなかに得られない。

2011年10月18日 (火)

さかい写真研究所十月のSUDEK作戦

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「さかい写真研究所十月のSUDEK作戦」とは、いかにも大げさであるが、この事大主義は何かをやろうと言う時に気合いを入れるには大事なことでもある。

それは言うまでもなく「センスオブユーモア」の意味でもある。

我が、さかい写真研究所は銀塩プリントの良さを現代社会に広告する任意団体である。最初6年前だったか、プラハのP(あたしの新潮の連載で順主役で出てくるプラハの写真家)とあたしとさかい所長の三人展で「パノラマ展」をやろうと企画したのである。

それがそれぞれのメンバーの事象で延期になり、またさかい写真研究所が新築で異端したりでのびのびになっていた。

さかい所長の今回の展示はヨセフ・スデクが使ったのと同じ、パノラマコダック(1989年製)のコンタクトプリントで総勢60点だ。しかも撮影地はかのTSUCHIURA JAPANである。グラーフ・ツエッペリンの到着地でもある。

面白いのはヨセフ・スデクのプラハの写真集の作品とその印象が非常に酷似している点だ。それは使ったカメラが同じこともあるが、なによりもヨセフ・スデクとさかい所長の「眼」の共通点によるものだ。

会場は前チエコ大統領バーツラフ・ハベル氏の祖父が設計した20世紀初頭のコンプレックス文化施設だ。その孫のハベル氏も時々顔を出す。

★TOSHIO SAKAI  [TUCHIURA PANORAMATICKA]
JAN 17-MARCH 4  2012   LUCERNA PRAHA
http://www.lucerna.cz/o_lucerne.php

http://www.geocities.jp/sakai8x10/

2011年10月17日 (月)

プラハのメトロ

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プラハのメトロは恐ろしく深い場所にある。郊外線はそうではないけど、街の中心部の駅の深さは凄い。
あたしの通勤圏のヒルズのある大江戸線の六本木駅だってかなりの深さだけどそれよりもっと深い。
何でも、冷戦時代に核シエルターとして構築されたという話だが、それもうなずける。それほど深いのだ。それは不必要な深さである。大江戸線も案外、同じような目的で深い場所に構築された可能性もある。

その深いメトロのエスカレーターだがこれはプラハ名物だ。慣れないとそれに飛び乗るのは怖いほどである。一般に大都会だと危険の防止の為にエスカレーターの速度は遅くしてある。それが都会の規模が小さくなると、その速度が増すようである。

プラハは300年前には世界有数の大都会であったけど、今はそれほどでもないから、(その昔にエスカレーターがあったわけではないけど)今では速度の速いエスカレーターだ。
さらに不思議なのはそのエスカレーターの広告である。人間の立ち位置ならどんなにエスカレーターが急角度でも、その広告ポスターは垂直に掲示されるべきなのに、ここプラハではそのポスターの角度は、なんとエスカレーターのベルトの角度に対して90度で貼られている。
これがなにか「迷宮都市プラハの狂ったモダンタイムス」という感じがして非常に面白い。
世界中でこんな変な広告の貼り方をしている都会は他にない。

カメラはペンミニに12ミリ。

2011年10月16日 (日)

プラハの満月

Photo_2プラハのアトリエは北向きである。これは自然光を扱うアトリエの基本である。
数年前に森ミュージアムで開催された企画展で有名な建築家のパリのアトリエが再現されていた。それが良く出来ていたので感心したのだがその複製のアトリエも北向きであろうと思われた。

短期滞在のこのホテルの屋根裏は、その向きは南西なのである。それで満月が早朝に傾くのが見えるのは嬉しい。
東京で以前37Fに住んでいた当時は西側の住居だったので、武蔵野に落ちる月を愛でていたのであったが、この10年来は北向きの住居なので「傾くまでの月を見しかな」が出来ないのである。
久しぶりに明け方の月を観賞できた。隣の遊星は木星であると思われる。すなわち我が、木星騙しクラブのシンボルの星である。

2011年10月15日 (土)

プラハのハロウイーン

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プラハはカソリックであるから、万聖節が来るのは分かるけど、ハロウイーンの「悪習」がここにまで押し寄せているとは思わなかった。
この小さな八百屋はプラハの東のそこそこに高級な住宅地のヴォノフラデイにある。住宅地のど真ん中にそこだけが、お店なのでなにかぱっとした感じで、プラハに居る時には年に一度ほどはこの八百屋を見たくなるが、さっき行ったら、明らかにハロウーイン用と思われるパンプキンが並んでいるので、ちょっとがっかりした。

あたしの知る限り、日本でハロウーインを最初に体験したのは1983年の秋であって、当時全盛を極めた、ギャラリーMINの城田さんが企画して、近所の子供を集めて夜にそこらの近所を徘徊してお菓子などをもらったのが嚆矢であった。
当時はまだパンプキンの飾りもなかった。城田さんは長年、アメリカに留学していた人だから(最近の若い写真人類はMINは知らないであろう)自然にハロウーインのお祭りをすることになったと思われる。

あたしの場合、それに参加しても、どのような宗教的な意味があるのかも分からなかった。その翌年の秋だったか、マンハッタンの向かいのフォートリーに行ったらやはりその手のハロウーインの飾りが盛んにあったので納得した。

もっともあたしは長年、カソリックの総本山のようなウイーンに棲んだ人間だから、ピルグリムファーザーズの新世界の習慣など、おかしくってというような反動的な人間なのである。

ウイーンでは毎年、万物枯れ果てたこの時期に中央墓地に詣でるのは意味のあることだと思っていたが、どうもハロウーインというのは11月1日ではなくその前にあるようである。

一番、不可解なのは日本でこれが商業的な意味でそれなりに成功している点だ。パンプキンと悪魔とあとは蝙蝠って所だ。たしかにそういうイメージは目に見える。
一方でセシウムもストロンチウムも目に見えない。
ここらが万聖節ならぬ万難節というわけだ。

カメラはGRD4。

2011年10月14日 (金)

屋根裏プラハ パート2

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Photo_2 東京から到着の月曜の深夜にプラハの屋根裏部屋のパート2にて。深夜の饗宴をやった。何がパート2なのかと言うと、プラハのアトリエと同じ、ここは屋根裏部屋なのだ。

新潮の連載「屋根裏プラハ」でほぼ二年間、1月置きにプラハに行っていたのである。毎回が取材のつもりであったが、今回はその連載も完結して1月に本になるので気が楽だ。今は東京の編集部から来るPDFの原稿の直しの為にプラハに居るような気分である。

そのニコリテスリーのアトリエの入ったところの部屋の床の工事で目下、ホテル暮らしの開始というわけだ。週末にはアトリエに戻る。
このホテルの小部屋が愉快なのは、アトリエに比較するとずっと小さいけど、その天窓のブランドがどうも同じメーカーのものである点だ。アトリエは天井の高い場所にあるから棒を使って天窓の開閉をするのだけど、ここのは天井が低いので手で開け閉めできるのは便利である。

このホテルのサイズは以前、新潮の連載でご一緒した佐藤優さんが滞在された小菅の接見禁止の部屋の倍はあるであろう。佐藤優さんはもともとプラハで神学を研究したかったと何かの本で読んだ。

そのベツレヘム教会は有名だが、あたしは不信心だからその向かいのロマネスク様式の家の1階の中古カメラ屋でもっぱら買い物をしていた。ゆえに皮肉だけど、建物としてはベツレヘム教会堂よりも中古カメラ店の方が古かったりする皮肉がここプラハでは通用する。

さて日本から欧州に到着すると、今なら七時間の時差があるから、その分だけ朝が遅いので寝て居てよいわけだ。サンテクスの南方郵便機のなかで、ツールーズはフランスアエロポスタル会社の全ネットワークの拠点だからスタッフは今すぐ起きねばならんが、アリカンテのスタッフはまだ寝て居て宜しいという、堀口大学の訳文に感心したことがあった。極東は「にんばろう!ガッポン!」の一大スローガンがあるから世界で一番早起きだけど、あたしはまだ七時間も余計に寝て居て良い訳だ。

しかし欧州の初日はまだ日本の生活時間だから午前五時、すなわち日本の十二時には腹が減る。モスクワのラウンジで持ってきた、これはピロシキではないけど、なかにシャンピニオンのいっぱい詰まったパイはなかなかうまい。それとモスクワで買ってきた、ロシアンスタンダードを飲れば実にハッピーな欧州の初日になる訳だ。

吉田健一のエッセイで戦後ソ連の代表部がまだ派手にやって居た頃、日本の快男児が次から次へとウオッカを乾すので、これは立派な人物だということになり、しかしウオッカを飲んでいるだけでは身体を壊すというので、脇に、肉饅頭をもった皿を持ったボーイを立たせたそうである。そういうことを思い出すのは、このパイはウオッカに非常に合うせいである。

屋根裏プラハパート2からの眺めは秀逸だ。スカイツリーも見える。あたしのアトリエからはスターリン建築様式の旧ホテルインターナショナルが見えたけど、その意味でもこれは一双の絵屏風みたいなものだ。


2011年10月13日 (木)

GRD4を持ってプラハの街をどこまでも

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GRD4が2011年度の日本グッドデザイン賞を受賞した。まことにおめでたい。GRDのデザインはフィルム時代のGR1から評価が高かった。

それは「遊びのデザインではなく実用のデザイン」であったからだ。世の中のカメラデザインは最近では「つるぴか」が主流のようだが、GR1に関しては最初から「ごつざら」であった。

あれは1995年であったかGR1のプロトデザインの評価であたしも助言をさせてもらったがその時に言ったことは「あまり時代を追いかけたデザインはやめた方が良いのでは」ということだった。実はGR1の前のモデルのアマチュア用コンパクトカメラはかなり優しいデザインであったからだ。

以来フィルム時代からデジタル時代にシームレスに移行したのがGRシリーズである。もうGRD4になって誰でもデジタルカメラであるのは分かっているので、この際、思い切ってDを外してGR4でも良いのではないかと思う。いや、次のモデルはGR5になるのであろうか。

今回、プラハでそのGRD4をジーパンの尻のポケットに入れて、秋深いプラハの街を徘徊しているのだ。

思えばちょうど1週間前にあたしは極東の西日本の高野山に居て、頂上まで行きながら、高野山駅の駅前のあまりにも雑然とした風景にがっかりして、そこできびすを返して戻ったのであった。あれはそのまま歩行を継続して今、プラハに居ることになるから、あたしの風景として高野山とプラハとは連続しているわけだ。

まあ真言密教の聖地とハプスブルクの聖地とはどちらが格が上であるのかなどここでは論ずるべきではないけどひとつ確かなのは、あの高野山からここのプラハまではあたしとポケットの中のGRD4とはその「世界線」が継続していることになる。

その事を確かめようと思って、GRD4の画像を見たらちゃんとそこに高野山駅前の画像があったので、再確認した。

GRD4のグッドデザイン賞は、あたしの個人的な評価ではなく「世間の大向こうが折り紙をつけた」という意味で嬉しい。最近ではペペンペンもグッドデザインだし嬉しことが重なる。

2011年10月12日 (水)

ヘドのレンズトリオ

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★プラハにて

この三月に今度出る、「ライカという人生」(えい出版社)撮影でM8にソ連製のオリオン28mmをつけてマンハッタンをスナップしたら大変に具合が良かった。これはトポゴンタイプのf6のレンズである。

10年以上前に、アメリカのエステートで日本を占領していた在日米軍のヘッドの偉い人の所有していたフェドを買った。坂崎さん流に言えば、フェドではなく、ヘドである。

そのフェドにはカメラの裏側にたしか1944年の2月の26日(細かい日時は忘却)だかに、欧州戦線で西からアメリカ軍、東から赤軍が攻撃して、なんとか言う川のほとりで両軍は手を握った。それを記念して、ソ連の偉い将校がアメリカの偉い将校にこのヘドを記念に贈呈してということが、ロシア語で刻印されている。

その皮ケースのポケットには小さく降りたままれた紙片が入っていて、その将軍の名前とGHQの電話番号が万年筆で記載されていた。戦後の進駐軍のトップが日比谷のGHQにいて、フェドを愛用していたというのは、痛快だ。

そのカメラにはFED 28MMF4,5というレンズがついていた。青いボール紙製のキーパーに入っている。レンズが曇っているので、撮影したらぼけぼけであった。そのレンズは今も所有している。

最近、同じレンズがヤフオク上に出現して、これがなかなか売れないので「天体軌道」を周回しそうになったので、あわてて落札した。そのセラーはIDを変えていたが、その文章の言い回しで誰かすぐに分かった。「手渡しはたとえ隣町の方でもお断りします」とある。以前からこの人の渋い出品物をかっているのだ。その人は坂崎さんの親友のT木さんなのである。

そのレンズがプラハ出発の直前に手に入ったので、テスト撮影してみたら、思いの外の写りの良さである。ノンコートのレンズでしかも1940年代のレンズなのだからまず驚異である。津アイスやライツばかり(それもモダンな)に近視眼的ね興味が行っているのも経済効果の点からは歓迎できるが、いにしえのレンズのパワーも軽んずべからず。

データは28MMフェドレンズをM5で使った。ここに写っているのは、同じく50MM F2と100MM F63のレンズだ。ほかにこのプロトタイプの100MM F5,9というのももっているが、目下カメラジャングルに潜伏して行方不明だ。

2011年10月11日 (火)

ペンミニノインショウ

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5か月ぶりのプラハに出かける前に、高千穂から、デジタルカメラE-PM1のテスト機が届く。2週間の貸し出し期間である。

ぺぺんぺん(ペン3)に慣れてしまっているので、最初設定がわからなかった。あたしはアスペクトレシオを3:2にするのが必須なのでそのやり方に少々戸惑った。明るいLEDの画面の右方向にスクロールしてゆくと各種設定ができるのであるが、あたしの頭脳は1960年代のフィルムを使うペンのままだからこれに気がつくのがなかなか困難であった。

毎度のことながら(以前のペンの本でも書いたけど)設定の一番最初の選択に、カードの初期化があるのは実に恐ろしい。普通のユーザーさんはぽんぽんと気楽に初期化をするのであろうから、お客さまのためを思ってこういう最上部の階層にあるのであろうが、あたしのような老カメラ人類には、これはワンタッチで裏蓋とか底蓋の開くライカみたいなものだ。
ライツ時代のライカフレックスは実に簡単に裏蓋が開いたけど、あれを思い出す。これは怖い。

デザインは「つるつるぴかぴか」である。これも今の流行なのであろうが、あまり好きにはなれない。やはりペンFの時代を知っている「ペンの古老」には「はやりモノ」という感じがするのである。リアのLEDパネルなどはまるで、スマートフォンなみの大きさである。
しかしそのデザインのことはこれは好き嫌いの諸問題であるから、国籍人種年齢性別の問題だ。しかしそれ以上に魅力に思えたのは、そのカメラのサイズである。
ペペンペンと並べると、一回り小さい。いや、一回り半の小ささか。

保持してみると、これは「つるぴか」であるから、本体の前に指をかけることはできなくて全体を手の平で包み込む感じになるが、この感覚はペン3でグリップを外しての撮影感覚に近い。
今まで20年来、カメラ本体のホールド感覚にはうるさいことを言ってきたが、時代はほかの方向に行くようだな。

レンズは常用ズームをつけると、そんじょそこらのコンパクトデジカメと区別がつかないので、ここは気合いを入れて12ミリの広角レンズを「奢った」」のである。
果たしてちゃんと写った。ライカアダプターで名玉のヘクトール73MMをつけた様子はなどまさに威風堂々である。

この7月はベルリンにペペンペンを持参して、もっぱら12ミリで撮影した。その作品は明治神宮の「海森彩生展」で展示したのであるが、今回のプラハではこのペンミニを使ってみようと思う。
思い切って、これ一台と後はGRD4だけでプラハを撮るのも面白かろう。小型軽量、トラベルライト。
無論、ほかにライカに白黒フィルムをいれて撮影する。これはさかい写真研究所の研究課題でもある。
それでレンズはライカ用のをペンミニとアダプターで共用すれば良い。デジカメにズームは便利すぎてどうも最近は嫌いになった。ここはいっちょうプライムレンズでゆこう。ツアイスのスーパースピードは確かに良いかもしれないけど、値段大きさ重さでは、ワンマンカメラマンには向かない。

70年代の超有名なプロ用映画撮影機にフランス製のミニエクレールがあった。ワークホースのエクレールNPRをビックリするほど小型化したカメラであって、実に画期的だったが、ペン3とペンミニの関係はそういう感じかな。

下の作例は、12mmのズイコーとヘクトール73mm。こういう「つるぴかカメラ」に往年の名玉の付く時代か。

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2011年10月10日 (月)

田中眼科

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★本日移動日 成田 モスクワ プラハ。

先週の大阪滞在の最終日に飛行機の時間は午後なので、例のごとく町を徘徊した。高麗橋から南北を結ぶ、これは御堂筋の一本東の名前は知らないまっすぐな通りをどんどん南に歩行した。

午前の日差しがまだ青い陰をつくっている時間に早足で歩行するのは気持ちがいい。歩行するにつれて変わってくる町並みを感じる空間移動感覚というのは、ちょうどこの3月のマンハッタンの5番街をミッドタウンからどんどん南に歩行するのに何かにている。それは快適な歩行なのであるがカメラと同行二人であることが大事なのだ。。

目についたのが眼科の看板だ。その「眼」のイラストは小さいけど、これは町のランドマークになる。つげ義春さんと調布の団地中央の喫茶店で週一に会って、ミランダTの話をしたのは、あれは80年代にことだが、もっぱら漫画の話はさけてカメラの話をした。まだつげさんの原作が映画化されるずっと前の話だ。

つげさんとの会話で「なんで漫画の中で目医者の看板が頻繁に出てくるのですか」と聞いたkとがある。その答えをちゃんと記憶していないのは、つげさんがちゃんと答えてくれなかったのか、それともその回答は予想に反してつまらないものでったのか、それはすでに記憶にない。しかしこれはたぶん後者であったような気がする。

2011年10月 9日 (日)

高麗橋 本吉兆斜め向かい

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大阪滞在の間は、三井ガーデンホテルに滞在した。一泊5500円というのだから、これはプラハのホテルなどよりも安い。しかもど真ん中のロケーションである。

撮影にゆく行き帰りに「しもた屋風」の木造のさえない古い家があるのでもう閉店した生薬屋さんか何かなと思って別段気にもとめなかった。

いよいよホテルをチエックアウトする段になってフロントのカウンターの上の、近隣地図をもらってなにげに見て、びっくりした。その古い木造家屋は「吉兆」の本店であった。吉兆が高麗橋にあることくらいは知っていたが、実に意外な感じがした。

あたしはかつて暮らしの手帖に1969年から連載されていた、花森安治の「吉兆つれずれ話」を愛読した。これはウイーン時代のことで家人の両親が毎月、ウイーンまで送ってくれたのである。だから「料理はぴゅっと盛れ」とか言う湯木貞一の名言が記憶にしみこんでいる。実際にウイーンの七年半の清貧暮らしではそのロングインタビューの中の「吉兆のまかない料理」などは実に参考になった。

ウイーン時代のあたしはなかなかの料理人であって、なんでもこなしたのである。

東京の銀座八丁目に東京の吉兆があってその前を歩いて、黒川さんの中銀カプセルタワーに昼寝をしに行ったこともあった。当時の吉兆の値段が6万円であってそれが中銀カプセルタワーの10平米の部屋と同じ値段だった。
それでその部屋は「銀座八丁庵」と命名した。これは吉兆のもじりなのである。

2011年10月 8日 (土)

南海高野線代替輸送車 様

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大阪にGRD4のトークで出かけたのは10月の一日のことだ。当日は朝7時半のJALで行った。例によって20分もない水平飛行時間の間にどれだけ「森伊蔵」が飲めるかという、きわめて個人的な興味からである。もっとも早朝からそうそう飲めるものではない。
それから大阪に三泊してあっちこっちをうろうろした。

三日目に、きょうとにゆこうと思って心斎橋線のメトロを乗り違えて、なんばにきてしまった。それで南海電車でいきなり高野山に登ろうと決心した。
こういうのが旅の思いつきというやつで、そういう気持ちを昔はデラシネとかホーボーとか、ノーマドとか言ったようだが、齢が還暦を過ぎてかなり経過したのでそういう言葉は若者に向いていることが自分でもよく理解できる。
あたしの場合には「老人徘徊」である。

南海の窓口で特急で高野山までと言ったら、例の台風で紀ノ川の鉄橋が壊れているのでそこは代行バスであるという。
これで高野山に行くことよりも、代行バスにむらむらと乗りたくなった。だから今回の高野山行きの「犯行の動機」は紀ノ川の代行バスに乗りたかったということになる。

橋本という駅から南海電車はいきなりローカル線の感じになった。紀ノ川の鉄橋は目で見た限りでは流されてもいないようだが、そこから川を越えた向かいの駅まで、マイクロバスの大がシャトルサービスをしている。
これが気に入った。電車とバスではその視界がまったく変わることは言うまでもないが、例のロバート・フランクのマンハッタンのバスシリーズを引き合いに出すまでもない。これが5時間のバスであったら退屈もするであろうが、たかだか5分だけ車窓の視野が電車からバスになるのは痛快だ。

関東などでは代行バスではなく、代替バスといったなあと運ばれる最中にそのことが気になった。それで降りる時にバスの前の「なんとか様ご一行」の例の文字列を観察したらそこにはちゃんと「南海高野線代替輸送車 様」とあって納得した。
しかし後で考えてみると、この言い方も変である。正しくは「南海高野線代替輸送ご一行 様」が正しいのではなかろうか。
なにか町内会の温泉旅行めいた気分を5分だけ味わって、変な気分であった。このサイズの代行バスにこの前、乗ったのは何時であったか思い出した。

ハッセルブラッドさんの生誕100年のプレスツアーで、出かけたスエーデンのヨーテボリでほかの空港に着陸してしまい、そこから市内までの代替バスがそれであった。もう5年ほど前のことだ。あの時は、洪水ではなく、なんでもその日に英国で印刷された大量のクローネン紙幣が強盗団に狙われているというので、本来のヨーテボリ空港は閉鎖されてその代わりに30キロほど離れたローカル空港に着いたのであった。

ところでこの代行バスにあたしが乗ったのは10月3日のことだが、これが最後の日であって翌日から南海線は復旧したそうである。貴重な体験であった。

2011年10月 7日 (金)

M5にビオター75mm

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M5には巨大なレンズが似合いというのは、これは「まやかしの美学」であって、実際にその組み合わせで撮影に行くという意味ではない。

手持ちのコンタックス用の交換レンズの中で実際に撮影に使うのは、テッサ−28mmと、ビオゴン35ミリ、ゾナー50mmとゾナー135mmくらいなものだ。これは珍品のビオター75mmでその存在が疑問視されていた戦前の幻の玉である。資料で当たっていては分からんもので実際にその番号帯のレンズが出土すると「レンズグルメ連中」は沈黙するのである。

この玉はコンタックスライカアダプターに付けて、M5に付けてあるのだが、その距離計連動は最短の1,15mではかなり怪しい。しかし手元にはペペンペンもA12もあることだし、実際には何ら不便はないのである。

つまり、モデル撮影ではこの組み合わせで、実際の撮影にはミラーレスデジカメに付ければ良いわけだ。

しかし不思議なのは、レンズ交換式のデジカメにはまだ旧レンズを装着した時の「美学」というものは存在しない。ただ単に付いています、というだけだ。ここが将来の仮題ということなのであろう。

2011年10月 6日 (木)

江戸川区江戸川1丁目解放区

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新聞を見たら、キムタクの写真集のタイトルが「解放区」なのでちょっとめげた。商業出版でこういう言葉を使うと違和感を感じる。

仕事の時間が、ぽかんと空くと、ヒルズには行かずにどっか東京の周辺に行きたくなる。以前は北千住が得意であったが、最近では東京の南限の新幹線の走っている西馬込とか、あるいは東京の東の限界の江戸川区あたりに行くことが多い。

江戸川区江戸川は、都営新宿線の一之江で降りて、ひたすら南に歩く。建て込んだ陋巷を歩行しているといきなり、鼠園めいた商店街が出現したりするのも興がある。

その先の河のほとりに起立する、ゴミ焼却の巨大煙突がランドマークになっているので、そこを目指して歩行すれば道に迷うこともない。

江戸川区江戸川の観察物の白眉は、やはりこの「ありあわせの厚紙に印刷された住居表示」である。それが雨にやられないように、ビニールが被せてあるのはそこらのラーメン屋さんの有名人の色紙と同じ存在感だ。

あたしのような「全共闘世代」がこれに感心するのは、その住居表示になにやら「解放区」の気分が漂っていることにもある。「江古田解放区」の往時を夢見ているのだ。ああいう解放区の立て看板は当初はただの模造紙をボードに貼ったものだった。それが後期には進化して、ビニールで被覆するようになったのである。

立て看板の成れの果てのノスタルジーだ。一方であの当時のアジ演説、例の「われわれはあ、明日の10,21闘争にむかってえ」という語尾がa音とかe音に変化するのは、20年前にガルであった女史連に見事に受け継がれている。

ヒルズのオフォスでもすでに50に手の届く女子が「あしたのうちあわせ、はあ、、」とかやっている。我らの解放区はすでに消滅した。

2011年10月 5日 (水)

祝!!ペペンペンが2011グッドデザイン賞を受賞!

Photo ペペンペンが2011グッドデザイン賞を受賞した。他にもオリンパスの2機種とシステムが受賞している。一昨日、あたしが高野山にお参りに行って、ケーブルカーの駅からその先に進めないで、しかも河の氾濫で南海線は一部代行バスでやれやれと高麗橋の吉兆の向かいのホテルに戻ってきた時にこの受賞の報に接した。
ペン、ペンペン、ペペンペンと使ってきて、世界中の街角で自分のペンペンを眺めて、良いデザインだなあと思っていたのである。
その一大成果がGマークという形で「大向こう」に「折り紙」を付けられたのだから、これは嬉しい。ただし大向こうが認めたから良いというのでは無論ない。良いデザインはもともと良いデザインであって、これで往年のライカデザインにちょっと肉薄したと思う。

以下は正式のHPからだけどその口調はなにか戸籍調べみたいで固いなあ。しかし目出度いことだからこの位、固くても目出度さには変わりなないと思う。分類:オーディオビジュアル機器ってのがちょっと引っかかるが、これはカメラじゃないのか?
以下はその引用。

★2011年度 グッドデザイン賞 受賞
    •    受賞番号:
11G07039

    •    受賞対象名:
デジタルカメラ [E-P3]

    •    事業主体名:
オリンパスイメージング株式会社

    •    分類:
オーディオビジュアル機器

    •    受賞企業:
オリンパスイメージング株式会社 (東京都)
    •    担当審査委員:
ムラタ・チアキ
    •    安次富 隆
    •    佐々木 千穂
    •    戸谷 毅史 

★受賞対象の概要
OLYMPUS PENはポケットに収まる万年筆のように、誰もがいつでも携行できて気軽に写真を楽しめるレンズ交換式デジタルカメラ。E-P3は使う人の意思を込められ ることで圧倒的な好評を得ている「ライブガイド」やアートフィルター機能を更にブラッシュアップ。その上、ダイレクトインプットが可能なタッチパネルを搭 載。いたずらにオールタッチ操作とするのではなく、システムカメラを使うユーザーが一番使いやすいインターフェイスを新たに開発した。質感の良さで好評の 外観も持つ歓び、操作する楽しさを味わえるレベルに進化させた。

以上、引用終わり。
考えてみれば、ペンのカメラオブザイヤーはあたしがヘルシンキに滞在中であった。不思議なことに旅先に高千穂が「吉兆」をもたらすのである。
今回の受賞対象はペペンペンであるが、これは同時にペンとペンペンにも与えられた賞であると思っている。

さあて、目出度いから今日はクラブエダムで祝杯か。

M5に似合うコシナノクトン50MM

Photo_2クロームのM5というのは人気がなかった。これは70年代の5が出た当時の話しだ。
当時は新しいブラッククロームというので、黒いのが人気だった。

それがM5が新品であったのがすでに40年前のことになると、周囲にM6、M7、そしてM8、M9というようにブラッククロームが鼻に付きすぎて、つまらなくなる。

M5はブラックをずっと使っていたのだが、四半世紀前に新宿でクロームの本体にズミクロン35MMのライカファンこのみの8枚玉と、エルマリート90MMのセットを当時、20カメラ円ほどで買った。これとブラックのM5の二頭立てで海外の取材をよくした。
JTBの仕事などだとかならず、料理の撮影もあるのでその為にはエルマー65MM付きのビゾの3型のM5用を持参した。

さて、そのM5だけど、なかなか似合うレンズが少ない。考えてみれば今のレンズ交換式のデジカメは最初から交換レンズの美学など考えていない。あたしの認識する希有な例はペペンペンにつけた12mmレンズくらいだ。ここにはデジカメ交換レンズの美学はある。

ノクトン50MM F1,5はコシナが交換レンズビズネスに参画したごく初期のレンズだ。当時、小林社長の肝いりであたしを起用してくれた。それでレンズを一式もって欧州を回って「田中長徳 ヨーロッパを撮る」というシリーズを見開きで展開した。
このノクトンは大柄なのでカメラを選ぶのである。あたしの経験でこのレンズが似合ったのは、懐かしの安原一式だ。カメラジャーナルの特集でその組み合わせでやったことがあった。

このレンズをライカM5のブラックに付けて使ったこともあったが、別段底にレンズの美学を感じたわけでもなかった。それがクロームの本体にこれを付けると、その存在感は「凛」とするのである。
当時、シュミットのカタログでがM5にズミルックス50MM F1,4付きが最高級でたしか38カメラ円である。
それを超えたライカ美学がここには見える。

2011年10月 4日 (火)

サウスダコダ1939

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本当は今日は兵庫県明石で、魚の棚(うおんたな、と読む)を取材して、午後の飛行機で羽田に戻る筈で、それが予定原稿なのだが、それが出来ないのは理由がある。今回の関西の旅行には重さを軽減するために(なにしろ3泊だから)居パッドしか持って来なかった。居パッドのブラウザーは選択肢がなくて、そのブラウザーだとこのブログは書けないのである。それで居パッド用のテキストライターを探し出してそれをインストールしようとしたら、居パッドに接続してある、親方のAirMacがどうとかにて、そこに新しいシステムを入れないと、新しいアプリは使えないなどと、脅迫してくる。だからあたしの「生活改善」の為にはまずマックエアのHDの空きを造ることから開始しなければならない。

ところがHDには数年前に行った、モスクワとSTペータースブルクの画像でいっぱいいっぱんになっているので、まったく手を付けられないのである。

そういう複雑な家庭の事情にて今回の3泊4日の関西では更新が出来なかった。(という長い説明で済みません)

このショットは例のさかい写真研究所の行き帰りのどっかで撮影したものだ。こういう映画のセットみたいな建物を見ると、あたしはウオーカー エバンスの撮影した「アラバマ1939」みたいな大恐慌吹き荒れた地方都市の新開地を思い出す。それがそのままあたしの代理体験としての映像の記憶なのだ。

タイトルは上では「サウスダコダ1939:」となっているが、同じ意味である。

この前、デルタ航空のTIMに30年ぶりに新宿であった時、会話の偶然からサウスダコダの話題になったのだが、あたしの英語は向こうに通じなかった。サウスダコダとフラットに発音するのでは通じない。

サウス、ダコーーーーダ。ってな感じに発音しないと駄目なのだ。「マッダーナルド」みたいなもんか。

2011年10月 3日 (月)

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土浦のさかい写真研究所には、最近、頻繁に行くようになった。行く時には普通車のグリーンに乗るのもなんとなく習慣になったが、これは上野から乗るのではない。メトロの千代田線でまず行ける所まで行く。この前は松戸まで行ってそこで下りのグリーンが連結してある列車を待った。

そういう列車編成は30分に一本しかないようなので、松戸駅の改札の内側を歩行してなんとなく時間を潰した。これが面白かった。不断、東京の移動時間帯では半時間も電車を待っていることなどは出来ない。3分の電車の遅れだけでメトロの車掌さんが切り口上で「まことにもうしわけございません」とやられると乗客は皆が、苛!っとするのである。

しかし、松戸駅の構内がこれがプラハ駅の構内だと思うと時間の「いじり方」が異なるのであって一向に平気である。あっと言う間に半時間が経過して、下りのグリーンに乗った。

グリーン車は事前にスイカでグリーン情報をカードに記録するようになっている。車内で買うとちょっと高くなる。この前はスイカに記録する時間がなくてそのまま乗車した。すると飲み物をもった女子の検札がすぐにやってくる。それで思いだして苦笑したのが、百鬼園の一等車に乗る話である。車掌が廻ってきて「変な奴が一等車に乗っているな、と思っているのではあるまいか」というのである。ここらが百鬼園文学の「自意識過剰の魅力」なのであるが、あたしも変なじじいがグリーンに乗っているな、と思われるのなら本望だ。

しかし最近の緑車は通勤客で満員であろうからそういうことを勤務の女子は考えているとは考えにくい。

2011年10月 2日 (日)

懐かしの七月

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懐かしの七月、というのは稲垣足穂の古い怪談話を脚色した小説である。そのタイトルが長年、心に浸みて、あたしの30代のウイーン時代には毎年、七月を心待ちにしたものだった。もっとも足穂のカレンダーにはその前の月の「六月の夜の都会の空」というもチーフもあるから、夏は2か月はまるまる楽しめるわけだ。

この7月のベルリンで撮影したペペンペンに12MMのレンズをずっと付けたままで二階建てのバスに乗ってベルリンを東西南北に自由に移動した。

それはカラーでの撮影なのはこれはデジカメだから当然と言えば当然である。その中からセレクトした30枚ほどの作品を、3か月のロングランであった、明治神宮の「海森生彩展」で展示したのである。

その作品を買ってくれた紳士の話では、なんでも30点の中の20数点が鉄道関係のショットであったそうで、あたしは「鉄道写真家」としての才覚があるのだそうである。それは知らなかった。

このショットは二階建てのバスからの撮影であるが、あたしがこの視点が好きなのはそれが何となく映画のスチルのワンショットであるかのような印象を与える点にある。その高さがちょうど「イントレ」を三段ほど組んだ高さに匹敵するせいであろうか。

2011年10月 1日 (土)

ベルリンヒルトンのステッカー

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香港の友人から来た、上の絵はがきの文面を味読してもらいたい。

LVなどは70年代に凱旋門の脇の「本店」に買い物に行ったのが最後だ。そこで買ったショルダーにライカをいれて、自転車で東京の裏町を徘徊していると路地の奥から「新聞屋さん?」の声がかかった。小型の集金鞄の斜めがけのせいだ。

LVはそこらここらで、知的財産を盾にしていろいろ取り締まりを強化しているが、このヒルトンの昔のステッカーは著作権フリーなのであろうか。広報担当の説明がききたい。

はがきの主はこれを30年代と書いているが、あたしは実物を持っていた。その実物が貼ってあるのは、ベルハウエルのフィルモ16mm撮影機頑丈な革ケースであって、その一部に切り欠きがある。そこからレンズだけ出して、これは当時の東ベルリンをNTVのニュースのクリューが隠し撮りをした名残なのだ。1961年と言えば壁がベルリンに出来た時だからこのような隠しカメラが必要であったのだ。

そのケースを中古で買った時、そこにこのステッカーのオリジナルのやつが貼ってあった。穴の開いた革ケースをあたしは銀座の鞄店で直して以来、数十年愛用していたのだ。穴にはアルミの板が打ち付けてある。その鞄は今では六本木に仕事場のあるテレビ局の人の所有になっている。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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