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2011年9月30日 (金)

アポロ以後 マック以前

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ハッセルブラッドの人気のなさはなにか可愛そうな気分だ。

数年前にビクターさんの生誕100年のプレスツアーに招待されたのはまだ春浅いヨーテボリの3月であった。不凍港のはずの港が、こちんこちんに凍っていた。

ヨーテボリはもともとドイツの移民の街であるから、そこらを歩行しているとまるで北ドイツの小都市である。あの時には1000Fにマウントで各種の交換レンズで撮影した。

キヤノンの200ミリのレフボックス用のレンズが、キルフィットのアダプターでそのまま1000Fに装着できて無限もちゃんと出るのである。

1000Fは寒さに弱いという「風評」があったが、連日マイナス20度でもちゃんと動いた。多分、1000Fは久しぶりに故郷に戻ったので頑張ったのかも知れない。

あの数日の記憶で忘れられないのは、公式晩餐会であった。ロブスターのクリームポタージュに塩を入れ間違ったようで、おっそろしく塩辛いのである。バブル当時に世界の一流レストランはかなり取材した経験があるが、ハッセルの記念晩餐会のポタージュの塩辛さは生涯忘れない。

そのハッセルがスペースカメラとしての20年を記念して出したのが、1988年のグレーの記念モデルである。全世界で1500台とか言われているのに、そここにで捨て値で出ている。こういうモノは人類の文化遺産であるからちゃんと使ってあげないといけない。

あたしのモデルはシュリロの★入りであるが、個体番号は18番だ。今まで数多くこのグレーモデルを見てきたがこの番号より若いのはまだ見たことがない。

アポロの活躍は人類の偉大な一歩であったことは認めるにしても、あれ以来、我が人類の夢はあまり宇宙に向かわなくなった。

それのずっと後にアップルがマックを出したのである。20世紀の後半の時代は「アポロ以降、マック以前」に時代の核がありそうだ。

2011年9月29日 (木)

M5にTessar 28mm

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ツアイスの銘玉はやはりテッサー28mmであろう。当時、イエナからドレスデンまでシャープに写ると言われた玉である。

しかもかなりの広角レンズなのに、これが普通の4枚構成のテッサーであるということがなにか、全然気張った所がないのが偉いと思う。

このレンズはもともとコンタックス用しかないので、このようにアダプターでライカに変換して使用している。言うまでもなく戦前のレンズであるから、その性能な現在の玉と比較すること自体、ほとんど意味はない。

駆け出しの「レンズグルメ」さんなどはこういうレンズを現在のモダンレンズと比較して、まさに鬼の首でもとったように、その欠点をあげつらう向きがあるようだが、これは当のテッサー28mmには実に迷惑なことであろう。

周辺は光量は落ちるし、ピントも甘いのが良いのである。今のモダンレンズには真似の出来ない美点であると思う。しかも戦前のレンズだからかなりコントラストが低い。

ところがカラーネガで撮影したり、これをデジカメに付けて撮影すれば、コントラストもガンマも自由に調整できるのだから、昔より、コントラストの低いレンズに関する評価というものはかなり新展開を見たということだ。

ツアイスの広角レンズには他には、トボゴン25mmもある。この希なレンズはあたしのウイーン時代に一度だけ手にして、キエフに付けて撮影したことがあるが、周囲がかなりぼけぼけで感心しなかった。

要するにレンズは人間と同じで出会いのものであるから、名門レンズだから良いとは限らない。

2011年9月28日 (水)

ライカポケットブックに教えられる

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10年以上前に出した、ライカポケットブックの邦訳は最近では珍しい本に
なっている。例によってかなり売れたのであるが、それは手元にない。手元にあるのは「束見本」である。これは表紙は本物にそっくりだけど中は「白い本」なのだ。それがなぜか、佃地方の大ガラスの巨大な仕事机の角に(実際にはスデクの仕事場と同じで空いているスペースはマックブックの置いてある場所だけで、残りはカメラに占拠されている)このガイドブックが置かれている。

なにかの必要があって、ライカのことを調べたい時に、手を伸ばして中を見ると、中はただの白い紙である。それで元の位置に戻すのだけど、2月も経過するとそのことを忘れているからまたガイドブックに手を伸ばす。
これは精神上よろしくないから日本の古本屋のサイトで調べたら、ちょっと手が出せないようにな値段になっている。ヤフオクでもかなり高値になっている。
しかし、これは業務上に必要な書物と思って、思い切って買った。

調べたかったのは、このヘビーヂューテイ用ストラップのことだった。一昨年の四月にパリに居た時に、メゾンライカでこのストラップを見つけた。価格はまだユーロが高い時だったのでちょっと躊躇するような値段であったが、この機会を逃すと何時であうか分からないので買った。同時に買ったズマレックスの方がその20倍ほどの価格であったが、そのレンズの方は安いと思った。

そのままストラップは佃地方の大ガラスの部屋のどっかに行ってしまい、最近になってそれが「出土」したのである。あたしの気になったのは、これは一体、どのような機材に付けるのかと言うことだった。幅広いしっかりしたストラップに頑丈なスクリューが二個ついている。手元のライカにビゾフレックスを付けたのは、これは重い機材の筈だが、どうも付けてみると座りが悪い。

しかし上の画像でお分かりのように、ようやく積年の疑問が一挙に溶けたわけである。

2011年9月27日 (火)

言っとくがメタボリスムとメタボは別もんだぞ!

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あたしの仕事の上の森美術館でメタボリズムの未来という企画展が始まった。

メタボリズムほどその意味合いが変わった用語も少ない。日本のメタボリズム建築に惚れて棲んだのは、銀座八丁庵のあった黒川さん設計の中銀カプセルタワーだった。これは建築学的には日本より外国で有名であって、見学に来る外国のお客さんはプライベート空間だから中に入れないが、下でうろうろしている外人さんにあたしのまさしく10平米しかない室内を見学してもらったこともある。

別に外人好みにしたわけではないけど、もともと狭いから室内には金屏風と和机しかなかった。そこにPowerBookを置いて仕事していたのだが、外人さんにはそれがシンプルで良かったのか、「禅」の精神ですねなどと通り一遍のお世辞を言ってくれたのも嬉しい。

それが今ではメタボリズムは変身して、メタボになり、メタボ検診になり、デブの意味である。あたしなどは日本のメタボリズム建築を愛したあまり、自分がメタボになってしまったという言い訳もできるが、言っとくがメタボリスムとメタボは別もんだぞ!

2011年9月26日 (月)

Sun Nacのデイレクターズファインダー

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アリフレックスの上にあるのが、デイレクターズファイダーである。大昔の映画監督のステータス的な小道具だった。

総監督が撮影監督に画面の構成の指示を出すときに、この単独ファインダーを、こねくって構図を考えたりする、まあ映画の製作スタッフには迷惑な道具であったに違いない。

ただしこのファインダーというのは、映画撮影機からハーフミラーでファインダー画像をモニターに取り出せるようになって、画面を皆で合議制で閲覧できるようになったからその存在価値を失った。もともとがアメリカ製であるが、これはサンズームで有名なサンがナックと共同で出したものだ。本体の下にほとんど読めない字でmade in japanとあるのは当時は日本製であることはあまりおおっぴらにできなかったのであろうか。

最近、海外で何かの賞をとった映画監督が紹介されていた。これがまったく冴えないのである。往年の映画監督ならその偉容を示すために、パナフレックスのファインダーを覗いていたり、こういうデイレクターズファインダーを覗き込んで、怖い顔をしていれば良かった。

しかし現在では液晶のモニタを見ているだけである。映像の創作者が映像の最終の受け手をまるっきり区別なつかない状況になってしまった。

これでは映画への100年の夢も醒めるというものだ。

2011年9月25日 (日)

ぺぺんぺんにお仏蘭西の玉

 

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20年前、東欧が崩壊した後の数年後に東欧世界で使われていた、西側製のプロ機材が大量に放出された。実は当時、東のプロパガンダ映画を撮影するのは、やはり西側の機材の方が優れているという認識があった。

あたしの尊敬する、タルコフスキーはその中では、ソ連製カメラを愛用するほとんど例外のような人で「ぼくの村は戦場だった」は赤軍の記録映画撮影機のコンバスオートマットで撮影され、「惑星ソラリス」の場合は、ロジーナというスタジオ用の撮影機で撮影された。さらに後続の映画では、アメリカのミッチエルをデッドコピーした撮影機が使われている。これはタルコフファンなのでちゃんと同じ撮影機をあたしは買ったのである。

しかし東欧の政権が崩壊すると、そういうかつての機材が流れるようになった。これは仏蘭西製のカメフレックス用のキノプテイクのプライムレンズと、同じくズームレンズのアンジエニューである。これをワルシャワから手にいれたのは10年以上前であったが、当時は捨て値だった。カメフレックスなどは、あまりに特殊なレンズマウントなので他に使い道がないのだ。

それがワルシャワに頭の良い人間がいて、このレンズのグラスだけ取り出して、それをライカマウントに改造したのでる。そういう変なレンズをライカ人類は買うのである。それで最近では在庫払底だ。

これは台湾製のアダプターであって、カメフレックスのレンズがそのまま、マイクロフォーザーズに使える。もともと映画用のレンズだから、「そこに映画の世界が開示される」とはこじつけではあるが、まあカメラ人類のわがままの行く所はこんな具合だ。

作例は上から KINOPTIK APO 16mm。同25mm。それとANGENIEUX ZOOM 35-140mm

2011年9月24日 (土)

GXR A12 にリケノンを付ける

Gxr_rikenon1960年代にはリコーの35mm一眼レフはなかなか人気があった。これはプロ用というよりも一般向けの一眼レフなのである。それはリコーシングレックスというのだが、この生産時期の短い間だったと思うけど、そのレンズのマウントはニコンFと互換性があるのだ。これはリコーの古老に聞いても彼らが入社する以前の話しであり、その背景は分からない。

ただしレンズはちゃんと手元にあるから、あたしのニコンFとかアルパにはこのリケノン55mm f1,4が付いていた。しっかりした作りのなかなか優秀なレンズだ。

A12は各種のレンズが装着可能なのだけど、ここは一番、純正リコーレンズを付けて有終の美を飾りたいと思った。装着するとなかなかの堂々ぶりである。

この前、海森展で坂崎さんとトークショーで後半からゴスペラーズ酒井さん乱入の後に、会場であたしの写真集のサイン会があった。そこでお目にかかったリコーのカメラ人類さんは「敵国にのりこむのに、これなら大丈夫だろうと思って、、」:と持参のA12を見せてくれた。そこにはOM用のレンズがアダプターで付いていた。これもなかなか粋なものだなと思った。

2011年9月23日 (金)

プラハでクロームコンタックス+ビオゴン21mm

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9148 この五月のプラハの日々の最後の方であまりアトリエで雲と流れ星ばかり見ていると、独逸浪漫派になってしまいそうなので、コンタックス2にビオゴン21mmを付けて出かけた。例のごとく、市電に乗って思いつきで行き先を決めて出かけたのである。

この21mmレンズの唯一の欠点はレンズのバレルの仕上げが良すぎて、この日のような快晴の光の元では反射がきつすぎて、絞りの値を見ることが出来ないことにある。だから最初から絞りはf11にして、距離もガムテープで固定して撮影に出かけるのだ。露光の調整はシャッターで行う。

アメリカの巨匠ハリーキャラハンは当時の最新鋭だったこの超広角レンズをいち早く入手してシカゴの街の人物スナップをした。キャラハン先生は大型カメラ使いであったから、コンタックスにつけたビオゴン21mmで手前から遠方までシャープに写ったそのメタフィジカルな空間描写に驚いたと撮影メモに書いている。

2011年9月22日 (木)

プラハの窓は世界に向けて開いている

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「アトリエの窓は世界に向けて開いている」と書いて、矢野文章塾の新潮編集長からお褒めの言葉をいただいたのも、屋根裏プラハの20回連載の最初の時期のことだ。

このプラハの都の西北にあるアトリエは近所にはプラハ工科大学とか、各国大使館とかもある。ビロード革命の直後にソ連の文化部の大看板がそこに捨てられていたのをアトリエまで重いのを担いで来たのもすでに二昔だ。

アトリエは数年前に天窓が大改装された。それ以前はこの戦前の屋根裏部屋は天窓は磨りガラスであったのでまるで独房であった。それがいきなり全世界が見渡せるようになったのである。

アトリエの天窓をみたら、そこに白鳥の5羽ほどが屋根すれすれに南のモルダウ川に向かって飛行しているのを見た時には、感激のあまり、東京の家人に電話したこともあった。

この5月のプラハでは2週の間に外出はまさに2回だけであとはアトリエで雲とみたり星を見たり、その星の手前を走って行く人工衛星を見たり、さらにその下を通行するプラハ空港を離陸した飛行機の腹を見たりした。

この場所は航空路の真下なのである。

ようするに外出などしないでもまったく退屈しない。シュテーグリッツは人生の後半にグラフレックスの4X5カメラで空と雲を撮影して、名作「エキバレント」を制作したが、その故事に倣って、あたしはコンタッックス2型にビオター75mmを付けて、雲を撮影したのである。

2011年9月21日 (水)

ベルリンのグライスドライエックという場所

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開催中の海森彩生展で、ベルリンの写真を展示している。それはペペンペンに12MM(ライカサイズだと24MM相当)で撮影された30枚なのである。サイズHがA2なのでなかなか見応えがある。

昨年春のオリンパスギャラリーでのリスボンの展示ではサイズをBゼロで展示した。ようするにマイクロ4/3でそこまで伸ばしても平気なのである。このことはオリンパスの技術の専門家さんもびっくりしていた。

ここの画像はペペンペンではなく、ライカM3で撮影した分である。ベルリンの不思議なその中心部に広大な空き地が残されていることだ。その名前をGLEIS DREIECKという。直訳すれば「三角」である。江戸川区にも同じ地名があったな。

東西ベルリンの統合前にこの界隈を歩き回った。ようするに荒野である。何本かの地下鉄が交差する高架線上の駅であって、そこからの眺望が荒涼としているのがいい。

ベルリンの地下鉄に七年ぶりに乗ったら、ご覧のようにブランデンブルグ門があらゆる窓という窓にエングレービングしてある。どうもこれはベルリン訪問のツーリスト目当ての案内ではなく、窓を傷つける、バンダリズムへの対抗策であるようだ。これだけ窓に「落書き」がされていたら、もうそれ以上に手を加える必要なないというので、落書きキッズはあきらめてしまうのであろう。

2011年9月20日 (火)

ぺぺんぺん 坂崎 酒井 海森

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明治神宮での海森彩生の写真展シリーズのラストウイークにて、あたしの展示と坂崎さんの展示の「二人展」を記念しての「基調講演」が日曜にあった。
もともと坂崎さんとは写真集を二人で出したりしたのでそういう次第になったのはうれしい。
その開催の前日に麻布十番にてゴスペラーズの酒井さんと、8x10写真展で会ったら、たまたま日曜がオフというのでトークにご招待した。
というのは、坂崎さんはゴスペラーズのファン倶楽部の雑誌で、以前、酒井さんと対談してカメラの話しで盛り上がっている。その同じコーナーに昨年はあたしも呼んでもらったのだ。カメラつながり悪の枢軸である。

2時間の持ち時間なのでゆっくりと話しができた。坂崎さんの展示への質問コーナーなどもあって、あたしはマイクを客席に廻す役と、記念品を配る役である。ボランテイアですね。このトークの売り上げは東日本大震災のチャリテイで義援金としておくられる。

話しの内容は、あたしのPEN PEN BERLIN 2011の撮影の話しとか、デジタルとモノクロの写真にはそれぞれの良さがある話しなど。
人形町の快生軒のマスター、佐藤さんの話し。土浦のさかい写真研究所で3年前に坂崎さんと暗室作業をした話しなど。

もっとも楽屋ではご覧のように、ペンペンの歌のコード確認と一応、リハーサルでトークの内容の打ちあわせはゼロであった。

以前、京都でのトークの時、新幹線の中で坂崎さんとカメラ談義でいざ、トークになったらわれわれにはすでに語るべき何ものもなかった。それでぎりぎりで到着したので、トークをしながら眼前にお弁当が出たので、その幕の内のかまぼこやら、椎茸の話しをネタにトークをしたら、あとで主催者さんから文句が出た。

楽屋で酒井さんが高千穂光学の鳥居さんから、ペペンペンの説明を受けている。やはり酒井さんはその撮影速度にびっくりしていた。
とことでここに掲載する画像は全部アトピンである。理由はあたしが、ペペンペンの12MMレンズをマニュアル操作で使っていたので、距離を3メーターにしたままで撮影してしまったのだ。
やはり著名アーチストに囲まれて、あがっていたものとみえる。

トークの後、坂崎さんは銀座のリングキューブのGR RIST展覧会に出かけた。あたしは会場であたしの写真集のサイン会。びっくりしたのはあたしの写真集が山になっていることだった。どこで仕入れてきたのであろう。

あたしはせいぜい5名さまほどがお買い上げならうれしいと思っていたのに、3時から閉館の4時半までの90分間にずらりと列が出来ていた。実にありがたい次第である。列のラストにならんだ方々に御礼申し上げる。

家人などは写真展を見に来て、あまりの大盛況なのでサイン中のあたしにめくばせしようと思ったのが、それも出来なかったという。もっとも佃地方に戻れば家人はそこに居るのだから、会場であいさつする必要もなし。

2011年9月19日 (月)

東京8X10展

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昨年も開催された、東京8X10展に行ってきた。場所はオーストラリア大使館ではなく、オーストリア大使館(数年前にここで写真展をあたしが開催した当時には、エントランスに、ここはオーストラリア大使館ではありません、との張り紙があったFが今はどうしたろうか)つまり、カンガルーの居ない方の国の大使館のむかいのギャラリーである。

レセプションに定刻の午後4時に行ったらすでに満員であった。そういう人員の動員力は大事なのだけど、あまりに人間が多すぎて、写真をちゃんと見ることができない。次回、ヒルズの行き帰りに十番で降りて人間の居ない時に再訪しようと思った。それであたしのモードを「人間と話しする」に切り替えた。
出展者の漂流者さん(長い付き合いなのに本名は知らず)に彼の展示の前で遭遇した。3点の作品はガラス乾板で撮影という。そのサイズが大キャビネなので、これは昔の写真館で使っていた暗箱を使ったのかと思ったら、6X9サイズのガラス乾板なのである。
ガラス乾板にはフィラギリテイト(脆弱さ)があるからそこが魅力なのだ。
かつて、パリのピエールガスマンの暗室「pict」でガスマンさんにあった時、ほら!っという感じでまるで、投げるようにあたしの手に渡された18x24センチのガラス乾板ななんとアジエのオリジナルの乾板だった。落下させたらおしまいだ。
それに対して、軟片(フィルム)は床に落下するだけで、何も影響はない。せいぜいがごみがネガにつくだけだ。

漂流者(しょうりゅうしゃ、と読む)に聞いたらなんでも、ベルリンの写真材料店から買ったそうだ。それは七月にあたしがそこでアドックスの白黒の135フィルムを買ったのと同じ店だった。その値段は白黒のフィルムとは思えないような高値なのである。これは写真への愛がないと出来ない。みなさん、高価なカメラは買うけど高いフィルムはなかなか買わないのだ。

あたしのウイーン時代、1900年から1940年代の一人のアマチュア写真家の膨大な量のガラス乾板を手に入れた。その撮影者は軍人さんであって、生まれた子供を手の平に載っけて遊んでいる。その三人兄弟(男、女、男)が成年になって、三人ならんだ姿はSSの制服なのである。
そのガラス乾板は古屋誠一の奥さんに差し上げた。彼女がベルリンで自殺してもう何年になるのであろう。古屋はあのガラス乾板は今でも持っているであろうか。

2011年9月18日 (日)

プラハの五月に

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Photo_3デジタルカメラの時間軸とアナログカメラの時間軸は完全に異なる。
これは最近になって気がついたことだ。
この3月に大震災の一報を聞いた、マンハッタンで撮影した一連のモノクロ作品は半年が経過した時点で、アサヒカメラの10月号に掲載されている。
時間差が半年あるのは、これはマイナス要因なのではなく、時間をずっと過去にやり過ごしてからその過去時間を展覧する意味合いがある。

一方でこの七月にベルリンで撮影した、一連のカラー作品は目下、明治神宮のギャラリーで展覧会が開催されている。これはデジタルの時間軸だけど、ライカでマンハッタンで撮影した時間の進行よりはずっと速い。

この一連の画像はこの5月のプラハのショットだ。
コンタックス2に戦前のテッサー28mmをつけてのプラハの待ち歩きの様子である。この五月の二週間はほとんどアトリエから外出しなかった。外に出たの二回くらいだった。
撮影済みの十数本のカラーネガはそのまま、佃の大ガラスの和箪笥の脇にぶらさがっている虫文庫のトートバッグに入っていた。そのまま夏が経過して九月になったので現像に出したら、忘れたプラハの五月がそこに写っていたとういう次第だ。

デジタルカメラの時間軸がまったなしで、同時にすぐに忘れてしまうのに対して、アナログカメラの時間軸はその点で、みやびなのである。

土浦から佃に戻るまで

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A9149土浦のさかい写真研究所には沢山の写真集がある。数年前に酒井さんに預けたあたしの写真集もある。
別に名前がつけてあるわけではないので、どの本が誰の本か分からない状態になっているが、それは一向にかまわない。
というのは、東京とかプラハとかに居ると、なかなか写真集を見る機会がない。それで土浦に一括してあればそれが閲覧には一番便利なのだ。

さかい写真研究所では、モノクロのプリントをするのがあたしの研究課題である。
その他に楽しみなのは、東京の佃との行き帰りだ。
ようするにさかい研究所への行き帰りに、持参のカメラでそこらここらの環境を撮影することが、新しい発見になっている。日本の日常性を撮影するのとは、これはちょっと意味が異なる。

過去20年来、プラハではかのヨセフスデク的な環境に囲まれて撮影しているのだが、よく勘違いされるのは、プラハのようなモチーフの豊富な欧州で撮影してうらやましいと言われることだ。

これはとんでもない勘違いである。あたしにとっては、プラハも東京も銚子も土浦もそしてマンハッタンもパリもウイーンもモチーフとしては完全に「同じ距離」にある。

それを教えてくれたのは、スデクの写真集だった。彼の主要な仕事は、プラハの川沿いの自分の家の中のがらくたの堆積とか、寒さで氷結した窓などをモチーフにしているのである。日常性と言ってしまえばそれまでであるが、本当の写真家の眼は「我を取り巻いているこの模糊とした環境というのは一体何なのであろうか」という一事に向けられている。

あたしも土浦の行き帰りに感心して、その展開風景の不思議さを撮影しているのである。プラハよりそのモチーフは魅力的なのではと思ったりすることもあるののはここが「民俗学の辺境」であるせいか。

酒井さんは長年、自分の土浦をスデクと同じ1899年製のコダックのパノラマカメラで撮影している。
その細長いプリントを見せられたのは8年ほど前であったが、そこにはまるでスデクのパノラマカメラのとらえたプラハと同じ質量の原風景があった。

ようするに「土浦のプラハ化」が写真上に生成されていたのである。パノラマカメラは本来は軍隊とか警察とかNASAのような「我が領土を記録」が主眼であったのが、スデクはパノラマカメラの形而上学的な力に最初に気がついた一人であった。

目下、酒井さんはそのプラハで、土浦で撮影した一連のパノラマ写真の個展を企画しているようなのだ。

まさしく、欧州の美学からもっとも遠く離れた極東の風景は欧州人には神秘であるかも知れないが、我々の持っている視覚を彼らに伝えるのはなかなかに困難かも知れない。そこには現代の写真家の戦いがある。

ところでこの数葉の写真はマミヤワイドに付いた35MM広角レンズで撮影した。普通のカラーネガで撮ったのを品川区のフラッシュという激安ラボに現像とCD焼を頼んだ。誰でも可能な何の変哲もないテクニックだ。そういう普通の技術なのだけど、しいて長所を上げれば、これらは「フィルム」で撮影されたということに幾分かの意味があるかも知れない。

2011年9月17日 (土)

新GRD4と馬込九十九谷

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二年ぶりにGRDの新製品発表会があった。GRD4である。

以前は発表会は都内であったのがこの二度ほどは、馬込のリコーの事業所で開かれている。
そこは環七沿いの何もない通りの先にあるのだが、これが都心の発表会より面白いのは、その行き帰りに参加者がいろいろとカメラへの想いをめぐらすことができる点にあるようだ。

想えば、リコーの湯浅プレジデントが現在のGRDの世界認識の基本姿勢である「CANDID」を最初に発表提唱したのはあれはまだ発表会が都心で開催されていた時だから、GRD2時代だった。

その次のGRD3の発表はこの馬込のリコーであった。実は前回、2年前の発表会の後にあたしはこの界隈をGRD2を持って徘徊して、新幹線と高地低地がまいなぜになった大田区馬込の地理学の不思議さにうたれたのである。

ここは馬込九十九谷とよばれて、かつては文士村だった。たまたま、今度の発表会で隣同志になった、福田和也さんと帰路、馬込駅までご一緒したのだが、その炎天下でしかも強風の午後、福田さんはボルサリーノの白の帽子を飛ばされないように、手にもっていた。これが夏の紳士のダンデイズムである。一方のあたしはTシャツにGRDのネクタイならぬ、手ぬぐいの労働者か農民のいでたちであってこれが明治大正時代なら、福田さんは大学の先生(実際に福田同志は慶応大学の教授)であたしは無産者(ただしカメラを持ったとまえふりがつくからもっと危険)という役所になるわけだ。
福田さんがこの晩秋に開催予定だという写真の個展の計画などを話合いながら環七を歩いた。福田さんは「この先には稲垣足穂が棲んでいましたね」と言う。「ああ、衣巻の家に居候していた当時ですね」あたしは言った。

神保町に向かう福田さんと分かれて、さてランチを食い逃したので、環七ぞいに探したがここらは見事に飲食店がない。ようように台湾飯店を見つけて入った。週刊新潮のなかしまあさみがアメリカ取材で、チャーハン修行をしてきたのを想いだして、チャーハンを頼んだら、店の客だと思ったカウンターで食事してる、台湾のあんちゃんがいきなり厨房に入って造りはじめたので、これは本物の外国だなと嬉しくなった。

帰りにリコーからもらったおみやげの中を確かめたら、白と黒のGRD4のロゴの入ったテイッシュペーパーだった。これはニコン羊羹とか煎餅と同じに生来、レアものになりそうだ。

そこにあたしと同じ、リコーの紙のバッグを持った男性が飯店に入ってきて、小あがりに席を占めて、いきなりノートパソコンを取り出した。今の記者発表の記事をあげるのであろう。この人もリコーの新製品発表会後のランチ難民であることがわかる。

チャーハンは480円で安うまであった。それから東馬込の谷から山に分け入った。ここらの不思議さは、一軒の商店のないばかりか、コンビニも自販機もない快適自然環境であることだ。

谷と崖とが絡み合って競争しているその真下に小公園があって、入り口は崖の上にある。なにかヒマラヤの奧の小さな村もこうであろうかといううような桃源郷なのである。実際にはどうなのか、今度、石川直樹さんに聞いてみよう。

トレッキング気分で歩行していたら、いきなり地平線をきりさいて、新幹線が通る。それをGRD2を尻のポケットから取り出して[CANDID]したのである。

新GRD4のことを書かねばならないが、まずは初めてブレ防止機構がついたのが手柄である。他にも新機構が沢山ついているようだが、こういうシンプルなCANIDカメラは余計な機構がついていない方が使い勝手が良い。どっかの記者さんが「壱千万画素では旧型と変わらないのでは」と噛みついていたが、そういうのは素人さんの質問だなあ。

その意味ではGRD4は普通のコンパクトデジカメとはまったく異なるカテゴリーにはいるのである。これはやはりジャーナリストの為のカメラなのである。文芸誌新潮の矢野編集長がこの3月の大震災直後の被災地に取材で行った時にGRD3で沢山のショットを撮ってきたのを見せてもらった、
同じく、新潮社の文芸出版部の今度あたしの本「屋根裏プラハ」を出してくれる担当の佐々木さんもGRD3を使っている。ジャーナリストやエデイターの真面目な道具として、GRD4はその歴史を受け継ぐことになるのであろう。

あたしも尻ポケットのカメラをGRD4にアップグレードしようと思う。そのナンバーから言えば、GRD4とライカM4とには共通項があるな。M4にエルマリート28MMを付けた電子カメラというわけだ。

2011年9月16日 (金)

A12で640mm月の出、手持ち

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Photo_2 普段はGXR+A12には、普通の標準レンズ、つまり21mm,35mmあたりが付いている。
この間、久しぶりに中秋の名月を見た。それは気がついたらすでに中天にあって普通の金貨色の満月であった。

その翌日の夕方、家人がうちの自慢の三方向バルコン(我が家の狭いすみかは、カメラに占領されているので、このバルコンだけが唯一の自慢)に日没に出て、夕闇と夕方の冷涼な風にあたっていた。
十六夜の月が出たとの声に、あたしもバルコンに出てみた。そういう時には、双眼鏡を持参するのである。
あたしは父ゆずりの乱視だから、普通の月でも、悪魔妖怪の仕業のように、二つに見える。いわゆる山姥の月である。だからちゃんと、正しく月を見据えるには双眼鏡が必要だ。

バルコンから隅田川超えて東の地平線を見れば、十六夜月は今、武蔵野の芦原から登ったところだった。ただしそれは金貨ではなく、きったねえ十円玉のような月だった。これは地平線の温気がこういう色にしているのである。

しばらく時間がたってから見たらら、ちゃんと金貨色の十六夜月になってきた。足穂言うところの「お月様が自分をポケットにいれて歩いていた」というあの金貨である。

大ガラスの部屋に戻って、A12にノボフレックスの640mmを取り付けて、その金貨をねらったら、案外に逃げ足が速くて、すでに向かいのタワーに半分かくれたところだった。

それを撮影したので、半分の金貨になった。

それでもこういう撮影はフィルムカメラでは不可能であろう。いきなりフィルムの感度が200から1600に自動的になって、絞りはF9でシャッターは1/15秒がきれるのである。
三脚を出すひまなどあったものでない。だからバルコンの手すりにカメラを押し付けて撮影した。

2011年9月15日 (木)

ぺぺんぺん東京人

1新宿という街は、あたしの青春時代には、デモの街であり、フォークゲリラの街だった。
新宿に行かなくなって7年ほどになる。
その理由は六本木ヒルズで仕事するようになって、大江戸線で通勤するようになったら、なんと六本後の先に、新宿が存在するようになって、これが便利なのではなく、新宿に行くのがさらに面倒になったのである。

トラッドな新宿への行き方は、佃地方からはまず東京駅に出て、そこから中央線快速である。これは東京を東西に横きる感じがあっていい。
新宿線で森下から行くのも同じ感覚で移動しているので悪くない。

ところが、あたしにとって新宿と六本木が並列された目的地になってしまうとどうも心が重い。飛行機で例えれば、パリを新宿とするのなら直行は良いとして、六本木経由での新宿は、なにかシンガポール経由のパリという感じがするのである。

しかしこの前、新宿で高千穂光学の打ち合わせがあってその後に久しぶりに界隈を散策したら面白かった。駅の南の高島屋のなんとかスクエアというのも、出来てから初めて行った。
東京を撮影する時の写真のバイブルとなっているのが、高梨豊さんの「東京人」である。あたしの高校生の当時にカメラ毎日で、一挙に50頁とかが掲載された。

そのシリーズでは高度成長期の東京の場所と人が活写されている。
ペペンペンに24MMを付けて、新宿の連絡通路を歩行している時、高梨さんの60年代の東京がフラッシュバックしてなかなかに痛快であった。

なにもプラハやベルリンに行っているだけが都市撮影なのではない。
東京があるではないかと思った。

2011年9月14日 (水)

ペペンペンはライカ速度に肉薄する

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Photo

北海道の三泊四日は、ペペンペン(ペン3)に24ミリだけつけてそれをぶらさげてあちこち移動した。

若い当時に、ニコンSにニッコール25ミリをつけて東京を歩いた時とか、キヤノン2dにニッコール25mmをつけて、ウイーンの町を歩き回った当時の、撮影感覚が呼び戻された。

その意味はレンズの画角がにているということもあるのだけど、それよりも特記すべきは、ペペンペンになってその立ち上がりの速度が長年慣れている、フィルムライカの速度に肉薄している点にある。

ライカはフィルムカメラであるから、電源をいれてスタンバイになるという時間差はない。巻き上げておけば常に撮影できる。
デジカメは昔は横断歩道の向こうにモチーフを発見して、スイッチをいれてもくだんのモチーフはすでに歩道を渡り終えて角を曲がって消えてしまうというのが常だった。
なぜか?
当時はデジカメはその起動に30秒もかかったのだ。

デジカメが今のような速度になるその最初の第一歩は10年前の、ちょうど今頃であった。
あたしの9/11の第一報をドイツは南部のフリードリヒスハーフェンのツエッペリンミュージアムの撮影を終えた直後に聞いた。
当時、パナソニックのルミックスLC5のカタログの撮影であたしはドイツを旅して、パナのレンズのブランドがライカなのでそれでライカ社を訪問したりしていたのだ。
当時、インタビューであたしのコーヒーを運んでくれた、若い人は今ではライカのトップである。
10年の時間経過とはそういうものだ。

あれ以来、デジカメの速度は年々に速くなって行ったが、それがペペンペン(ペン3)に至って、ようやくライカの速度とほぼ同じ感覚になった。これもこの10年の偉大なデジカメの進化である。

札幌から小樽はJRで半時間だ。昨年の11月の末にも小樽にいってその時、海岸に一瞬見える、この岩のことが記憶に残った。そのまま岩の存在は記憶の底部に沈殿していたのが、今回その前を一瞬通過したのである。
今回はペペンペンを取り出して、スイッチをいれてもモチーフを十分に引きつけてから撮影する時間のゆとりがあった。
この進化がこの10年の成果なのである。4

2011年9月13日 (火)

僕はミノルタSR1を肩にかけ、シカゴの街を、、、

Sr1この春に六本木の国際文化会館で、石元泰博先生の講演会を聞いた。国際文化会館には初めて行ったのである。
しばらく前、石元先生は写真家引退宣言をなさっていて、石元ファンのあたしなどは落胆んしていたのが、また「曼荼羅」を撮影開始されるというニュースを聞いて欣喜雀躍であった。

石元先生のブラックのライカM2に関しては10年ほど前に、季刊クラシックカメラの責任編集長をしていた当時に見せていただいた。
ハゲハゲのM2だった。その真似をして19の秋に同じブラックのM2を買ったのであった。

当時のアサヒカメラには石元先生がアメリカから戻られたばかりの消息が記されている。その中に「僕はミノルタSR1を肩にシカゴの街をどこまでも歩いて行った」というのがあってそれにしびれた。
この英才の為に、当時の千代田光学はロッコールという機関誌を発行していたが毎月250ドルの経済援助をしていたのである。実に芸術家を大事にするやりかたであった。この援助で石元先生は、「ある日 ある所」を完成されたのである。その写真集をあたしは銀座の「イエナ洋書店」で買った。

突撃隊長こと、桜木某は辣腕の広告写真家である。彼は仕事の写真はデジカメを使うけど、趣味の方はもっぱらクラシックカメラの愛好家であって、その趣味はかなり進んでいる。

世の中にブラックペイントのライカM型の価値は高いけど、ブラップペイントのミノルタSR1の値段は高くはない。世界がそこまで覚醒していないからだ。
そのブラックミノルタを桜木は持っている。ついでに、どっかのオークションでこれも珍品のブラックミノルタSR用のブラック仕様のロッコールも探してきた。

石元先生青春シカゴの機材という感じがあって、見ていて気分が良い。石元先生のシカゴ時代のSR1がブラックか否かはお尋ねしたことはない。
しかし絶対にこういうブラックボデイだと確信しているのだ。

2011年9月12日 (月)

ベルリンのホテル生活

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1ベルリンの七月の滞在は、まずベルリンの壁が出来て50年になるので、それを記録しに行ったのである。
自分の中では、このイベントは22年前の壁の崩壊や21年前の独逸統合より重要であった。
1980年だから31年前になるが当時、西ベルリンのコレクターから依頼されて東西ベルリンの現在の姿をモノクロ写真で撮影し、納入した。
その人は不動産バブルで当てた、まだ20代の独逸人男であって、ようするに女も酒もいい加減に飽きたから、ここらでアート的なことをして、それで文化人としてベルリンで名を挙げようということであったらしい。
その対価として、もらった小切手には当時の清貧なウイーン暮らしなら半年は生活できる数字が並んでいた。
このまま、生活が進行するのならこれは怖いことだと思った。

あれから31年が経過して、ベルリンに撮影に行ったのである。カメラはペンペンペンとGXRを持っていったが、懐かしいという意味での回顧的ベルリンを撮影するとなると、当時の機材を時代考証で合わせる必要がある。
それで100フィートのトライXをダークバッグの中でパトローネに手巻きしたのを12本だけ持参した。ライカM3である。

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今回の撮影行はこの春の「フランクマンハッタン計画2011」の続編なのであってその名前も「フランクベルリン計画2011」というプロジエクトなのである。

さかい写真研究所は、モノクロームファイバーゼラチンプリントを通じて写真芸術を推進している。その酒井所長は、日本のロバートフランクの最大のコレクターの一人だと思う。その酒井さんとあたしが企画して、この春にマンハッタンで撮影開始したのが、奇しくも東日本大震災の初日であった。その撮影ショットはアサヒカメラ10月号「ローワーイーストサイド逍遥」で登場予定。その前後のいきさつは省略するけど、この7月にはその第二弾でベルリンに行ったのだ。

ベルリンでは安ホテルに滞在していたのいたけど、東京でもプラハのアトリエでも各種の雑多なものに囲まれているので、鞄ひとつでベルリンのホテルに到着するのは、実に快適である。
ホテル暮らしは何十年もやっていて慣れているが、今まで30−40代に世界中のホテルを渡り歩いた経験からすると、いわゆる最高級ホテルは観光関係でかなり宿泊したけど、ああいう所は仕事で泊まるとこではない。仕事人にはホテルはシエルターであって、ラグジャリーは有り難迷惑なのだ。

チープな3☆のスタンダードなシングルがいい、ただしバスルームは広くないと駄目だ。このベリルンのホテルはベッドルームとバスルームが同じ大きさなので狭いながらも実に快適だった。

写真家というのは、ホテルの鏡を見ると、ライカを向けたくなるものらしい。キムライヘイ、リーフリードランダーなどなど皆さん、同じ反応である。
インコがケージの中でぶら下がった鏡に興味を示すようなものであろう。

上の三点はカラースコパー21で撮影した。下のは田中光学のタナー50mm f1,5により撮影。

2011年9月11日 (日)

A12に最も古いコンタックス用レンズを付ける

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A12_anastigmat 今週の水曜に小樽で、ホンマタカシさん、タカザワケンジさんにばったり会ったのだが、聞けば週刊新潮の連載の取材であったようだ。

ホンマタカシさんのカメラは昔から6X7のマキナであって、これは30年前から、ニューカラー派の標準機材であったのだけど、同じくニューカラー派で知り合いの写真家には、石川直樹さんも居る。
しかしホンカタカシさんは、カメラ雀の間では、リコーGXRを使っているとの噂である。

そこらの時代に応じた、機材の変革というのはあるのだろう。
昨日にGXRは販売が開始された。

A12に付けてみたのが、これはレアなレンズである。
というより、このレンズの資料というのが見つからない。
コンタックス1型時代のレンズであって、5CMのレンズなのだが、絞りはついていないし、フォーカスのヘリコイドもない。なにか複写用などの特殊用途なのであろう。レンズ名はスペシャルアナスチグマート。

コンタックスマウントであるから、アダプターを介して、A12に付けた。
レンズは内側にビスがあって、前後にはフォーカス移動可能なのでそれで撮影距離はほぼ無限が出るようにした。

ご覧のようにちゃんと「独逸のマイスター魂のツアイスの光と影」(脚注:冗談!)が写っている。

このような明るさも分からないレンズは、GXRのようなレンズの独壇場だな。

2011年9月10日 (土)

高度4万フィートから福島原発を見た

Photo水曜の午後にJAL516で札幌から東京に飛行した。
北海道は台風12号崩れの熱帯低気圧と台風13号に挟まれて、三十年以来の豪雨になった。

下北半島から視界が良くなった。
青空の上の方に「ハリネズミ」の月が出ている。これは昼の月が半月からちょっと太った月齢の時に、我が家で飼っていた、ハー君に似ているので、そう命名しているのである。

不断、欧州に向かっている時に空にハリネズミが登場することが多い。エジプトに向かう時にも見た。

そのハリネズミの月の下に目をやったら、あたしは座席の左側の視野なので、北行便のトラシック(トラフィック)が見えた。

こっちは777で向こうも777だ。今の人類の目で見ることのできる移動体としては、すれ違いで時速1800キロほどだからこれはかなり速い。

その北行便が窓の視野に隠れてから、視点が三陸の海岸線をさまよっていたら、快晴の午後の斜光の中にくっきりと白い構築物が「インサイト」した。
福島原発であった。
あたしは深夜の南回りで月光に照らされる、タジマハールを見たことがある。
また、凱旋門をリスボンからフランクフルトに飛行中に眼下に見たことがある。

この間のベルリン滞在で「フクシマ」の名前は独逸人は誰でも知っていた。
その「本物」のフクシマAKWをライブで見た。
白く輝いてなにか神々しい感じであった。

高度1万メートルから見て、目視で距離は50-60キロだと思う。かなり長く見えていた。

それから大洗の「かあちゃんの店」のあたりと思われる海岸線が見え、水戸の偕楽園が見えた。
霞ヶ浦の上空から土浦の酒井写真研究所の位置を探ったのは高度がかなり低くなっていたからだ。
東京湾上に出て、規程のアプローチで着陸したのは、国際線用の新滑走路であった。

東京の西日がドラマチックに見えたのは、札幌では毎日、グレーの日々であったからだ。Photo

2011年9月 9日 (金)

ホンマタカシさん、タカザワケンジさんにばったり@小樽

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世界中のいろいろな場所で知り合いにばったり会うことがある。この間は、アメリカの古い古い友人に30年ぶりにばったり会った。この場合は当時は20代の青年が50代になっているのであるから、実際には新宿のヒルトンで示し合わせて「ばったり」と会ったのである。
そういうのではなく偶然の遭遇の場合、パリの夕刻のメトロの乗り換え口でばったり知り合いに会ったことがあるが、これがそういう場所は「ばったり係数」が高いのだから不思議なない。

銀座のカメラ屋さんで黒田慶樹さんにばったり会ったのも、これはその意味では何の不思議もないのだ。

札幌の今井コレクションの探検も終わって、道内最終日にふらりと出かけたのが、小樽である。小樽は1960年代のカメラ毎日で東松照明さんが「東松照明日録」という数十頁の作品を出していて。これの中に小樽の運河街のショットがある。

それが深層に残っていた。1967年、初めて東松さんに彼の新宿の事務所で会って写真を見てもらった時には、若い先客がいた。当時の中平卓馬さんであってまだ「現代の眼」の編集者時代である。中平さんはあたしの数十枚のポートフォリオの中から、アメリカ軍の巨大輸送機の写真を「いいね!」と言ってくれた。

小樽の古い建物などを撮影して、午後の便で東京に戻るつもりで、駅に行ったら十二時三十四分の千歳空港行きがある。時間がまだ20分あるので、駅前の三角市場を通過していたら、昔から高校生のような感じの3名の男性がくる。その中の一人が「長徳先生!」と呼ばわったので吃驚した。
例の「笑っていいとも」の出演で今回は、札幌で「見ました!」とか声がかかって、それは嬉しかったのだが、今回はそうではなかった。

声の主はタカザワケンジさんだった。タカザワさんがまだ20代の時、あたしが責任編集長をしていた、季刊クラシックカメラの編集員がタカザワさんだった。あの時、森山大道さんにインタビューするのであたしが、大道さんはなかなかつかまらないよ、と言ったら、タカザワさんは「もう、アポをとりました」と言うのでその行動力に吃驚したことがある。
バッタリ遭遇の脇に2名の紳士が居る。あたしは乱視なので遠方から高校生に見えたのは立派な成人であった。

そのお一人を「ホンマタカシさんです」と紹介されたので吃驚した。
その場で「のちほど改めてご挨拶します」とあたしはお茶を濁して早々に分かれたのであるが、後で空港にむかう列車の中で「ほんまにホンマタカシなのであろうか」と考えた。
そのホンマタカシさんは、お目にかかった時には坂崎さんやなぎらさんみたいに、なにかギターケースのような大きな荷物を下げていたのである。写真家のホンマタカシの他にシンガソングライターのホンマタカシが居るのであろうかと考えた。

東京に到着して夜にタカザワケンジさんから顔本に連絡がきた。なんでもあの界隈のアトムクラフトベルケの撮影であったそうだ。

ホンマタカシさんは同じ日大写真学科であることは知っているが、ご出身は文京区音羽でいらっしゃるという。それでホンマタカシさんと現代写真を語るのは恐れ多いけど、お目にかかって一度、音羽の話をしてみたい。

それにしてもタカザワケンジさんがホンマタカシさんと連れだっていたから、そういう遭遇が出来たのだ。
思えば、ホンマタカシと、タカザワケンジはその名前がカタカナだからモダンタイムスである。他に気に入っているカタカナ名に、イナガキタルホが居る。そうそう外人のアーチストなら全員がカタカナ表記ではあるがそれは勘定に入れない。
あ、ホンマタカシさんは中平卓馬さんともご関係が深かったな。

2011年9月 8日 (木)

ちょっと三崎口まで

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新潮の矢野さんに初めて会ったのは福田和也さんの紹介で四谷のチエコビールの店「犬っころ」であった。二度目にお目にかかったのは、たしかヒルズのライブラリでポーランド製の99パーセントのウオッカを水で割ったのを飲みつつ、都合、5時間ほど会話した。
その時、矢野さんは三崎口に別荘を持ってそこに矢来町から逃亡して、やはり仕事をするのだと言った。
なんでも京急で終点まで行こうと決心して、ついてみたら港があると思ったのが、山の中であったという。今では矢野さんは三崎口にバイクを置いて、週末はその隠れ家にこもるらしい。

ちょっと三崎口まで、というのは石川直樹さんの新刊の真似である。

この間の東京大周遊で西馬込に行くつもりが、間違って三崎口行きに乗ってしまった。矢野さんの隠れ家方面の風光を確認しようと思った。終点から下車しなければ、これは一日乗車券でゆけるわけだ。
欧州の鉄道は乗車の実績を確認するのでしょっちゅう検札がくるけど、日本では到着駅を出ないと実績にならないのは、そこに欧州にはない改札のあるせいである。

京急が久里浜から単線になったのには驚いた。オストシュタイヤーマルクとは、旧ユーゴ国境に近いオーストリアはシュタイヤーマルクの街だが、知り合いの別荘に行った。あそこで単線に乗ったのが80年代のことだ。

三崎口駅はやけに出口までの階段が高い所にあった。改札前でまわれ右をして、こんどは電車の最前列に座ったらなかなか眺めが良い。
やけにトンネルの数が多い。

矢野さんが矢来の日常から自分を遮断したいという目的にはこれは格好な街だと思った。
時代が異なるが、ランボーならアデンやシャムを通り過ぎて三崎まで来そうな気がした。もともと浦賀とか下田は外国人が漂着しやすそうな地区である。
ランボーが明治政府の武器商人になっていたりしたらおもしろかろう。

帰りはランボーを記念して、アビシニアだから、神保町のエチオピアで70倍カレーを食った。
それから武田泰淳が奥様と出会った運命の神保町裏の「ランボー」の跡を行ったり来たりした。

2011年9月 7日 (水)

ぼけこっこの近況

830佃地方から六本木ヒルズ地方に毎朝通勤する時に気になるのは、「ぼけこっこ動静」である。まあ首相動静みたいなものだが、あたしには前者の方がずっと大事だ。

最近のぼけこっこのトピックは、時々居なくなったり、また想像もしていない時に登場するという点にある。
どうもこの夏の猛暑を心配して、飼育係さんが持ち帰っているのではないかと考えた。すでに10年は居るからあたしと同じかなりのご老体である。
だから余計に親近感がある。

我が家にはライカインコもおるわけであるが、こちらはすでに生死を超越しておるので問題はないとして、そうなると自然にまだ「れんごく」(ATOKはこの漢字変換できず)に居るボケコッコの方が気になる。

この間、ヒルズに早番で出かけた時には朝日にぼけのとさかが逆光であって、なかなか見事であった。
しかも「ぼけこっこー!」と鳴きまくっておる。

秋の涼風のせいであろうか。
その声はずっと離れた、佃小橋上でも聞き取れた。なかなかのマイスタージンガーだ。

2011年9月 6日 (火)

先史時代の遺跡

Photo_3さかい写真研究室に行き帰りの車窓風景である。
なにかアイルランドの野原の先にこつ然と登場した、先史時代の遺跡の感がある。

高速の土台もそのユニットはこうして見ると、そこに人類の英知が生きている。その上に道ができると、そこで排ガスと出したり、事故が発生したりするのはこれは人間の原罪というものであろう。

この遺跡を土浦の行き帰りに見るのが好きなのだけど、どこで登場するのか、それは忘れている。
いきなり車窓に登場して、その光景が行き過ぎる時にはすでにデジカメで撮影している。

その意味、最近のデジカメの立ち上がりの速度は実に速くなった。大昔、皆さん信じないであろうが、立ち上がりに35秒もかかった時代が本当にあったのだ。

2011年9月 5日 (月)

PENPENPENをEVFなしで使う

Pennpenpen

Penpenpen1 明治神宮で東日本大震災復興の祈りをこめた「海森彩生」写真展のシリーズのラストを14日からつとめるわけである。
その期間中の18日には、わが「PENPENフレンド」たる坂崎幸之助さんとトークショーもある。そこで1年半ぶりにオリンパスペンの歌(この前、坂崎さんとやって好評だった)を会場大合唱をしようと思っている。もっともこの件はまだ坂崎さんとの打ち合わせがないのでどうとも言えないが、この前もいきなりお願いしたらご快諾してくださり楽屋でコード進行の打ち合わせなどもあっので、今回も大丈夫と思う。

ペン2のことをペンペンと呼んでいて、ペン3のことをペンペンペンと呼んでみて、それでは長過ぎると思って、ベルリンのドイツ語が母国語の連中にペンペンペンであると言ったら、それは変ではないとの回答であった。独逸語は複合語が多く、やたらに長いのがあるから、ぺンX2ほどでは連中は驚かないと見える。

さてスナップ向けのペンペンペンであるが、昨年の3月にジュネーブに時計BEGINの取材で行った時に夜汽車の中にEVFをなくしてきた。
それにこりているので何時も落下させないように注意しているのだが、このようなスナップだと最初から本体のLEDだけで充分である。

それで最近は「PENPENPEN EVF付けない運動」(これも長いねえ)を提唱ではないが、この前のベルリンでも、状況によって付けたり外したりした。

このバスは系統29Bというのであって、ベルリンの西から東を横断するのである。その二階建てのバスの最前列というのが、ステータスであって大人も子供のこのっ席を奪い合いになる。

2011年9月 4日 (日)

石川直樹の新刊は「みんなで行こう!エベレスト!」だな。

Isshikawa_everest石川直樹さんには一昨年の参議院選の前の日に、en-taxiの取材でご一緒した。

それ以来、お目にかかっていない。そのことは以前に書いたけど、あたしは石川直樹の軌跡に興味があるのであって、彼と親しくなって、ゴールデン街ではめを外そうなどというのは、これは旧人類の勘違いであるからだ。

世界的な写真家と知己になって、彼の家に住み込んで、薪割りを手伝うのも伝記作家としては、取材では有効であろうが、われわれは写真家とか作家の仕事に興味があるのであって、そのご本人と慇懃を通じることはもともと必要はない。

2年前の猛暑の日に、石川さんとあたしは新宿駅東口から、銀座を超えて月島まで歩行した。ただし石川さんはばててとは思えないが、途中、麹町でタオルが投げられた。それで同行の福田和也さんらと蕎麦屋で一杯やってそこで解散したのであった。

その関係の話しを最新号の「ユリイカ」は石川直樹特集なのでちょっと書かせてもらった。このテキストは本ブログから検索して、網にかかった分をそのまま掲載したのである。

石川さんはの最新の本が出た。
「For Everest ちょっと世界のてっぺんまで」リトリルモア 1200円。

これはこの数ヶ月の石川さんの行動が記録してあって、5月20日にはエベレストの頂上に10年ぶりに登頂したというブログ調の本だ。
3月28日から5月27日までの「絵日記」なのである。そこが面白い。

非常に近親感を感じさせる造本で、「地球の歩き方」みたいだ。
今までの石川本は「CORONA」もそうだったけど、写真芸術の檜舞台の感がある。
この「ちょっと世界のてっぺんまで」にはそのような高揚感覚はなくて、ちょっと見ると「ガムテープで造るバッグの本」みたいな女子向けの工作本と似似ている。
週刊新潮のなかしまあさみが、昨年出したのがその本であって、これは売れた。ようするにガムテープと鋏とカッターを用意すれば、あなたもすぐにクラフトテープアーチストになれます、というような、間口の広さがなかしまの本にはあったのだが、それと同じアピアランスが「ちょっと世界のてっぺんまで」にはある。

あたしには探検家の伝記の装備機材のリストを見る趣味があるのだけど、本書はその意味でも新機軸だ。
それは「せかいのてっぺんへのお供たち」
というのであってカラーで切り抜きでちょうど「パリジエンヌのお洒落なお供たち」のノリなのである。

2年前に石川さんが話してくれた、普通の体力で高度順応をしていればエベレストは誰でも登れますとは、話しは半分以下かも知れないが、若い当時にあたしの愛読した(それもまだヒラリーとテンジンが成功する前の戦前のエベレスト登はん史)では多くの人命が失われている。だからその背景は知らないけど、マウントエベレストは以前と異なる存在になったようだ。

石川さんは楽々と「ちょっと頂上」まで行っているが、この本が佃に届くのには時間がかかった。
前回の「CORONA」はちゃんと届いてのだが、「ちょっと世界の」は古いアドレスに送られて、転居先不明で戻ってきたそうで。その件で、リトルモアの田中祥子さんからわざわざ問い合わせのメールが来たのである。それでようやくに「世界のてっぺん」が佃に到着した。

2011年9月 3日 (土)

A12にライツの眼鏡レンズはいける!

PhotoリコーGXR用のA12ユニットだが、周囲では予約した人とあの値段ではちょっとという人とが居る。
予約した人は、すでにM8を持っている人であって、その価格をM8と比較しているので、高いとは言わない。一方で高いので、、、というカメラ人類はこれをコンパクトカメラの範疇で見ているからである

A12はもともとかなりハイブローな存在であるから、普通のカメラ人類にはまったく必要はない。むしろお洒落感覚でデジカメ選びをするのなら、PEN PEN PENの方がいい。
A12はすでにライカレンズのレンズ資産(これ、嫌みないい方だけど、あえて使用)を持っている皆さんの為のユニットである。

眼鏡付きの35mmレンズでもっとも有名になったのはサワダのベトナム取材の時、首からぶらさげたM3とゴーグル付きの35MMズミクロンだ。
その気分を味わおうと、A12に装着したら、これが案外に行けてる。

あたしのこのズマロン35mmmだけど、眼鏡の形が歪んでいるので分かる通り、距離計はすれているのである。だからライカでの撮影では、目測でやっていてなんら問題なしであったが、ミラーレスデジカメだとちゃんとピントを合わせることができる。
それでなにか得した気分になれる。

2011年9月 2日 (金)

京橋のアイランドギャラリーから佃の大ガラスまで歩いて分かったこと

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Photo_6海森彩生の明治神宮での写真展がもうすぐ始まるので、その展示の打ち合わせに、京橋のアイランドギャラリーを訪問した。
この前に行ったのは、たしか1年前であって、マンハッタンの怪人、ちょーせいさんと一緒に行ったのが最後だったか?
それで約束の午前11時を10分遅刻した。というのはこの前は、ちょーせいさんにつれていってもらったので、中央とおりのどの角を曲がるべきか、そのランドマークを忘れていたのだ。

結局分からないので、会いフォン(あたしのは通話はしない。メールのみ)で、場所を確認した。なんとメルシャンの本社の裏にあった。
ベストロケーションだ。

この前、銀座線で葬式帰りのじいさんばあさん(あたしと同世代)のだんなの方が「なんとか先生は銀座でもう何十回も個展をしてる」と言ったらかみさんがそれを受けて「そう何度やっても銀座でなきゃだめなの。京橋じゃだめ」なんて言っている。
よほど、「御若くねえの、、おまちなせい、、、!!」
とタンカ切ろうかと思った。

アイランドギャラリーで展示の打ち合わせと、坂崎さんとのトークの打ち合わせをした。前回の坂崎さんとのトーク(オリンパスフォトプラザで昨年の4月)で好評だった「ペンの歌」をまたやろうかなどと言う話しになった。

それから展示用に仏蘭西のなんとか言う、ペーパーがなかなか感じよいセミマット(PhotoSatin Premium RCとかいう紙)なのでそれを使うことにした。
これならモノクロでプリントしても、バライタとは異なる良い感じになりそうだ。今度、テストしてみよう。そのペーパーのURLは、こっち。
http://www.e-maruman.co.jp/paper_product/digital/infinity.html

その戻りに京橋から佃まで歩行した。その町並みがひどく懐かしいものに思えたのは、佃に棲み始めた20年余年前には、このコースはよく歩いていたのである。さらに古い話しになると、当時は有楽町線は、新富町が終点であったから、そこから徒歩、佃大橋を超えたこともあった。

ところでなぜ、この界隈を歩行しなくなったのか?
それは8年前からヒルズの仕事場に通うようになったのでこの方面がまったくお留守になってしまったのである。
その意味で、今回の明治神宮での写真展はそのことも大事だけど、アイランドギャラリーのおかげで、ひさしぶりに「きゃうばしーーつくだ」ルートが再構築されたこともある。

2011年9月 1日 (木)

空間から環境へ「常磐線たぬき駅」?

Photo_5さかい写真研究室への行き帰りは、JRを使っているのであるが、普通列車だとそれぞれの駅に取手以遠は停車するのである。
そこで、それぞれの駅の駅前をしみじみと観察できるのが楽しい。

これはどこであったか、佐貫かと思われるのだけど、その駅名を車内で放送する時に英語のアナウンスが「たぬき」聞こえるのも興が深い。

要するにここにはコンテナ風のかなり古い建物が「当座」という感じで二つだけ建っていて、しかも夏なので周囲の雑草が「強者どもが夢の跡」めいていて、風情がある。しかもそれが駅から徒歩20分の場所にあるのではなく、ホームから至近距離で観察できるのが痛快である。

その弐連の建物の前も脇もちゃんと道になっているのは、これは駅前であるから当然としても、向こうから白い乗用車が来るのを観察したりすると、やはり鉄道と駅前広場とそこを目印にして参集するクルマともなれば、そこに都会の模式図をなんとなく想像して、都会というものの本質とか空間とか環境とか都市機能などを考えないわけには行かなくなり、そこで再度、あたしの視神経がいかにも都会らしくない夏草に囲まれた建物風景に出くわしてショックを受けるから、その結果として、たかだか2分ほどの停車時間がまた忘れられない体験になったりする。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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