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ロック ユー

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2011年8月31日 (水)

空筒とツエペリン

Zeerom月曜の朝、さかい写真研究室からのアサヒカメラの編修部に直行する予定で、土浦始発の普通列車に乗った。日本の列車の特急というのは変なものだ。まず特急料金が異常に高額である。独逸なら特急料金は非常に安い。

駅を通過する、スーパーなんとかを見ていると、乗客は東京に向かって皆、前のめりになっている。あたしにはそれより、普通電車の上野行きのグリーンの方が落ち着ける。
取手あたりでおばあちゃんと孫二人が脇に乗ってきた。小学生は老人ではないのだからグリーンもどうかと思うがそれは他人さまの問題だから。問わないとして、そのおにいちゃんの方が「お、あそこにでっかい気球があるぞ!ほら、スカイツリーのそばだよ!あれを発見したおれさまは天才!」とか言ってる。がきタレントだな。

築地でプリント渡して、打ち合わせして、それから佃地方で午後遅くなって、なにげなく空筒方面の空を見たら、実に久しぶりにツエペリンNTの姿が見えた。さっき常磐線のグリーン車小学生が話題にしたやつである。

塔と飛行船は出会いのものであるから、なかなか絵になる。
2年前だったかこの飛行船の会社が解散して、ヒルズの49fから東京タワーと飛行船の組み合わせが見えなくなって、寂しい思いをしたが。それが復活したようだ。

佃に装備の勝間の6x30の双眼鏡で観察したら、見覚えのある、どっかの保険会社の看板がついている。しかし飛行船の広告は広告効果はゼロである。
誰も見ていない。
見たにしても、あたしのようなモノ好きが双眼鏡で観察して、ようやく看板の内容がかろうじてわかる程度だ。

飛行船も今までは東京タワーであったのが、これからは空筒のあたりをうろうろするという風に活動方針が変わったものと見える。

ところでちょうど10年前、あたしはパナソニックのデジカメの広告の仕事で、ドイツはフリードリヒスハーフェンに居て、そこで9/11の第一報に接した。
そこのツエペリン博物館で実物大のモックアップを見ている。
だからこの画像を見ると、本物の大きさの飛行船ならこの位置関係では、飛行船の方が空筒よりずっと遠くに存在する筈である。
ところが、この飛行船は本物に比較するとかなり小型なので。これは空筒のずっと手前にあるのだ。
そこらの見かけのサイズも考えにいれると飛行船観察もなかなか楽しい。

2011年8月30日 (火)

さかい写真研究室新室長代理着任す

Photo 土浦のさかい写真研究室に行ったのは、東日本大震災の直前であって、マンハッタンで大震災の第一報を聞いたわけである。
その後、7月にベルリンに行く直前にいって、マンハッタン11というタイトルの限定版ポートフォリオのプリントをした。それからベルリンに行って、またモノクロで12本撮影してきた。
マンハッタンは11本の撮影なので「マンハッタン11」のタイトルがついたが、その伝でゆけば、今度は「ベルリン12」(これはベルリンじゅうにではなく、独逸語でツヴェルフと発音してもらいたい)になるわけであろう。

前回と今回でさかい写真研究室で一番変わったのは。研究室に新インターンが入ったことである。

その名前を「福の神」の「ふくちゃん」と言う。引き伸ばし機は「フクマート」である。代々、さかい研究室は写真好きの、にゃーが多い。「白」と「黒」というのもおったな。これで二匹分のお名前。
新任さんはなかなかの写真好きで暗室探検もしているようだし、なによりもカメラのケーブルレリースが大好きなので、写真猫の将来が有望である。

それで今回「室長代理」に任命した。偽ライカ愛好会でも「名誉会長」がおられるようであるし、適切な人事であると納得している。

今回のダークルームセッションは、なかなかおもしろかったのでそのことはまた書く。

ついでに、顔本仲間のkojiさんも、さかい写真研究室に入会していただいた。

2011年8月29日 (月)

嗚呼!NeXT!

Next_826アップルのジョブズが、トップを降りる宣言をして、そのニュースが駆け回ったのが、先週の木曜の朝だった。
あたしは最近のジョブスは好きじゃない。あたしの好きなのはアップルを「追い出された」当時の彼である。
つまりNeXTCUBEで世界の話題をさらい、さらにその「パーソナルワークステーション」が売れなくて苦戦していた当時のジョブスが好きなのだ。

イマック(赤瀬川さんの奥様命名)で、各種のカラーバリエーションで売れっ子になってしまったマックは嫌いなのである。
やはりマックはフロッグデザインに限るというようなマック旧人類なのだ。

ヒルズの行き帰りにNeXTのTシャツ(ていしゃつ、と読む)を着ていたら、森ビルのどっかの外資系の外人さんに褒められたりしたものだがNeXTがどうのこうのなどと言っているのは、時代遅れと笑われたってかまわない。

あたしが連載をしている、RDであるが次回は別のデザインの話しを書く予定であったのが、木曜の朝に清水編集長から差し替えの指示があった。
ここらは凄い所でRDは月刊誌なのに、週刊誌なみのフットワークの良さなのである。

あわててNeXTのことを書いて、デスクの奥の方で居眠りしているマシンを出してきてあわてて撮影をした。撮影して判明したのは、こういうデザインのマシンというのはもう過去の話しになってしまったのを再確認したことである。
かのジョブスもNeXTもすでに大過去になってしまった。

2011年8月28日 (日)

新潟行き「おこげ」

Photo_2この間、福田和也さんと夜に銀座の名門バー、トネに行った。もっぱら写真芸術の話しに終止したが、無論、クラシックカメラやデジカメの話題がなかったわけではない。
そのバーで常連さんが居てその人が西表島に行った時のお土産を見せてもらった。
西表山猫のフィギュアなのである。それを褒めたらたまたまそこにその常連さんが居て、バーの所有のその西表山猫のフィギュアをあたしにくれたのである。
なにか稲垣足補の所に来た若い作家が無一物の足穂の部屋にかけてあった、太陽と星と月の絵を「友達がバーを開店するからそこの飾りにください」と出し抜けにもって行った逸話があるが、これは状況からするとその逆のケースとなる。

その西表山猫は30年ほど前に、その生息が確認された当時もブームになった。
我が家ではこれを「いりおもてねかねか」と呼び習わしていたのである。

先週の新潟の実家の窓、閉め忘れ事件であたしが新幹線に飛び乗って新潟に行ったわけであるが、その時、知り合いの「いりおもてねかねか」に遭遇した。
その本名は個猫情報保護法で知り得ないのだけど、仮にAさんではわかりにくいので、これを「おこげ」と呼び習わしている。その「いりおもてねかねか」似の「おこげ」ちゃんであるが、家人が年に数回新潟に出かけると、どこで見ているのかそれは不明ながら、数分後には登場して猫のかんずめをもらうという、しきたりになっているのである。

実に不思議なのは、ローカルな猫の居る場所である。その「おこげ」であるが、別段、野良猫風に汚れているわけでもなく、ちゃんとこぎれいにしている。猫に関しては不明な点が多い。

2011年8月27日 (土)

上野徘徊をGXR A12とビオゴン35で逍遥

A6 A7A12_926福田和也部長代理の主催した炎天下の鍛錬会撮影会のの様子である。
カメラはGXRにA12を付けて、この3月にマンハッタンで大活躍した戦前のビオゴン35を付けてある。
A12が偉いのは、デジカメなのにオートフォーカスではないという点だ。
モノクロ写真が最近人気なので、あたしのシルバーゼラチンプリントもそこそこに売れてありがたいのだけど、同様な次第でオートフォーカスよりも自分で目でピントを合わせる方が、なにやら「芸術に携わっている」と感じるのは錯覚かどうか知らない。多分、それは錯覚なのであろうが、この場合、撮影という「己の感性が試されている」というステージでは、そういう手間のかかることをする方が、アートっぽいのである。

あたしは風俗系が苦手であって、こういう所を歩行することは皆無だけど、真昼のこういう場所はまるで映画のセットのようで面白い。
1970年代に大泉学園の界隈にどっかの映画撮影所のオープンセットがあって、そのまやかしものの町の感じが面白いので撮影に行ったことがある。
そのショットはあたしの「東京ニコン日記」に掲載されているが、そういうオープンセットに生活感を盛り込んだのが、こういう本物の町だと思えばさらにおもむきがある。

こういう撮影は実はEVFなども使っていないのである。大昔の東松照明さんの真似をして、あたしは日中はサングラスをかけているから、EVEは見えない。だから完全に距離は目測であって、構図などあったものではない。ノーファインダーなのだ。

ビオゴン35MMは来月号のアサヒカメラのモノクロのグラビアでも作品を出すが、かなりのショットをこのクラシック玉で撮影をしている。モダンなビオゴンは映りすぎるのが最大の欠点かも知れない。まあそういうモダンレンズが好きな人はそれで問題なし。
A12のおかげで手元に不良在庫になっていた、コンタックスマウントのレンズが1000円のジュピターから数千ドルのオリンピアゾナーまで全部使えることになった。

2011年8月26日 (金)

新潟行き「季節一品料理 大門」

Photo_3久しぶりの二泊三日の新潟であった。困ったのは家人の実家のある所は、新潟市なら一応高級住宅地ではあるのだけど、生活にはかなり不便になりつつあることだ。
40年前、つまり結婚したばかりの当時に比較して生活の関係のお店とか飲食店が激減しているのである。

日常の食品を買っていたのが、清水フードセンターというので徒歩圏にあったのが数年前になくなった。
それで家人などはまず新幹線で駅についたら駅地下のスーパーで食材を買ってそのままタクシーで実家に行くような生活になった。

それでもこの4月に行った時には家人など若い当時からおなじみの近所の中華やさんで名物の特大餃子などを食べたものだが、その勝竜というお店も7月末で閉店してしまった。
だから老人三兄弟がお盆で集まった時にはさらに食生活が不便になって焦ったそうである。

家人の家の近くの40年前までは砂山だったところなどは今では豪邸が並んでいる。そこに実際に人間が棲んでいるものなら彼らは一体どのような食生活をしているのか、そんなことも気になる。

実家から徒歩20分のコンビニに行った。コンビ二の栄養の偏った食品はごくたまに2泊ほどならこれは許せる。
そのコンビニ通いの途中にこういうお店がある。
最近、友人で近所に引っ越してきたカップルとその苗字が同じなのでなんとなく気になった。その夫婦はかなりのお酒好きらしく、奥さんの「顔本」は麦酒のグラスを前にしたそのグラスが頻繁に撮影されているからだ。

これは何というのか、板を単に打ち付けたような木造建築はこの地方の特色かどうかは知らないが、これがかつての西堀の跡あたりの長屋風の木造建築でその木肌が風雨にさらされてすがれた感じになっているのはあたしの好きな新潟である。
こういう店がまだ現役時代に行って見たかった。

2011年8月25日 (木)

新潟行き「お隣のごんちゃん」

Photo新潟の別宅の北側の窓が開いていたので、新幹線に乗ってそれを閉めにいったのが先週の木曜日。
それを電話で知らせてくれたのが、お隣の広川さんである。広川さんは大学の先生をしばらく前に退官なさって今は悠々自適のご境遇である。

あたしの本の読者さんでもある。わざわざ知らせていただいたお礼にお隣に伺って、ご主人と四方山のお話をした。
家人から広川先生は大のカメラ好きと聞いていた。応接間で各種のライカを見せてもらった。その話しは別の機会にしようと思う。あまりに内容が「濃い」からである。

この画像は広川先生の愛鳥「ごんちゃん」である。15余年という天寿で昨年の4月に昇天したインコさんだがその噂はかねがね家人から聞いていた。
なんでも毎日、お風呂にはいって、大好物は魚肉ソーセージであるという。これはインコの体には良いのであろう。

我が家のライカインコの4代目は残念ながら女子で卵を生み過ぎの夭折であったけど、ごんちゃんの15歳というのは実に凄いと思う。
それでこの写真はそのごんちゃんがまだ「若鳥さん」時代に撮影したものだ。ストロボの一発撮影のようであるが、広川先生は大したテクニックだと思う。

お話を聞いたら、広川先生は植物学の権威であらせられるようで、昭和26年に最初のライカを買われて、それからミラックスなどの初期のレフボックスなどもお使いの由である。あたしが最初にライカを買ったのが昭和43年であるからキャリアの差は歴然だ。

2011年8月24日 (水)

PEN3の優雅な「のっぺり感覚」を楽しむ

Pen31
周囲のカメラ人類の間で、ペンペンペン、すなわちペン3の話題でちょっとした騒ぎになっているわけであるが、周囲のペンペン人類で面白いのはその画像の描写とか立ち上がりの速さなどはすでに自明のことであるので、それらはあまり話題にはならない。思えば、デジカメをその性能で云々しているのは、実は型録おたくさんとかスペック物知り博士の方であって、あまり写真の表現とは関係のない皆さんなのである。デザインとか使い勝手を評価するカメラ人類の方がスペック研究者さんよりずっと高等である。

周囲のペンペン人類の場合には、すでにペン1とかペン2とかを持っているヘビーユーザー(軽いペンだからこの場合、ライトユーザーというのかも知れないが、それでは感じが出ない)である。
彼らが称賛するのは「この間、量販店に行ったらペン3がずらりと並んでいて、それが全部フィンガーグリップを外した状態なんだ。あの、本体ののっぺり感がいいねえ」などと言うのが聞こてくる。

たしかに新品のペン3の梱包を開けると本体にはフィンガーグリップは付いていない。別の梱包のを取り付けるようになっている。今までペン1とかペン2で見慣れた、本体の右手の感じはペン3では一気に払拭されてそこにはなにかカメラ操作空間の「大海原」を感じさせるとは大げさながら、なにかそこに自由広大な操作空間領域が残されていると感じられる。
これがなかなか良い感じである。

面白いのはペン3の場合、内部機構は完全に新しくなったそうであるが、これが普通ならフィンガーグリップの出っ張りなどは、回路を内部に実装するのにはかなり有り難い空間なのではと素人考えでも分かるが、それをばっさりと切り捨てて外付けのフィンガーグリップというのに徹したのが手柄だと思う。

そののっぺりしたデザイン感覚に惚れるのは、かなりのカメラデザイン通と見た。

2011年8月23日 (火)

KE7aではない。を使う

Ke7a

あれは一昨年の秋の頃だったと思う。
木星球倶楽部の突撃隊長と、新宿の某店にこのKE7aではない、という名前の札の付いたライカを見にいった。
もともとカナダライツがごく少数生産した、軍用ライカであってそれが一時ブームになった。当時のカメラのムックではこれを解剖して、普通のM4とどこが異なるのかを精密に検査したようだが、結局あまり違いはなくてしいて言えば水滴が侵入しまいようにゴムのガスケットが嵌っているというほどの違いであったようだ。

しかしくだんのKE7aは「信仰の対象」になるからそのカメラが梱包されているパッケージを持っているコレクターはこれは金輪際開封しないなどと言う人も出てきた。まあそういうレアなカメラを後の世に伝達するのがこういう人の社会の任務であるからこれはそれで立派なことだ。

このライカはM4の上に刻印した、KE7aのコスプレライカである。だからお店の値札にもちゃんと「KE7aではない」と書いてあった。
そういう見立てライカが好きなのだが、突撃隊長はこれをゲットするつもりで、あたしに「背中を押して」もらう為にあたしを同行したのである。
各局その時にはあたしの背中の押しかたが不十分であったようで、突撃は購入はしなかった。それからお正月が来て翌年の2月頃にその某カメラ店に行ったら、くだんのKE7aはまだあった。操作してみたらブライトフレームもはっきりしていたし、シャッターが静粛なのであたしが手に入れたのである。
フェイクものだと、オリジナルのKE7aの製造番号が刻印されているのであるが、あたしのKE7aではない、の方はちゃんと普通のM4の番号が刻印されている。ここらが真面目だなあと思う。
このKE7aではない、を持参して昨年の5月にはリスボンに向かったのが、例の火山灰の影響でヘルシンキに足止めになって、結局、ヘルシンキで2週間ほどこのライカで撮影した。それは良い感じの撮影であった。ところが撮影したカラーネガの20本ほどは、品川のフラッシュでCDに焼いてもらったのだけど、その包みがそのままどっかに行方不明である。すでに1年3か月捜索しているのだが、未だに発見できない。

そのKE7aではない、のストーリーは昨年末に出た、「ライカワークショップ」(えい出版)に書いた。その後、今年の1月になってやはりこのライカで今度やはり、えい出版から出す、写真エッセイ集の撮影をウイーンでしたのである。これもカラーネガで撮影したのだけど、その方の画像はすでい編集部に入稿済みだ。

2011年8月22日 (月)

8,18新潟行き

818_niigata1
818niigata28月18日、木曜の朝に支度してこれから、ヒルズに行こうと思ったら家人の部屋の電話に長いメッセージが入っている。
新潟のお隣さんからで、新潟の家の北側の二階の窓が開いて雨が吹き込んで居るというのだ。

先週、家人の兄弟が集合して「お盆」をやったのは良いがその最後の「スタッフ」が窓を閉めるのを忘れたのである。
以前は知り合いの老婦人に家のことは頼んでいたのだが、その婦人が亡くなって東京の三兄弟がそれぞれ鍵は持っているが、新潟にはない。

家人が、これは行かねばならないと言ったので「あたしが行くよ!」と新潟に出かけた。六本木行きが新潟行きになった。
Luft1 先月はベルリンの行き帰りに飛行機から新潟が実に見えた。とくに行きの飛行機では市街から海岸線まで手にとるように見えた。写真集「ウイーン  ニューヨーク 新潟」でセスナから空撮したのを思い出した。
今年は4月に家人の実家には行ったのであるが、自分一人で2泊するのも悪くないと思った。

これが大決断なのはあたしは何時も新潟に行くとホテル暮らしであるからだ。なにしろ「豪邸」は入るの何本も鍵が必要だし、また燃えるごみと燃えないゴミの分別が地方都市ではかなり込み入っている。
そういう雑事を敬遠して、家人と実家には行くが一人で行くことは皆無だった。

それが今回は二階の突き当たりの部屋の窓を閉めに行くという任務がある。そういう「人生の目的」を与えられると老人は案外に燃えるものであることが、今回、分かった。

新幹線も久しぶりだ。あたしは荒川を超えて埼玉に入るその瞬間が好きだ。しっかり撮影した。
車内では何時も缶ビールとサンドイッチと決めている。
1970年、万博当時は東京と大阪をよく往復した。新幹線のビュッフェで黒ビールとハンバーグ(当時っこれで700円くらいだったか)をやっていたら、隣に珍客が座った。
勝新太郎である。彼も同じく黒ビールとハンバーグ。

新幹線のビュッフェが何時から無くなったのか、滅多に乗らないので分からないが、百鬼園や吉田健一を例に引くまでもなく、食堂車は楽しいものだ。昨年のスイスとかプラハなどでも食堂車は良く利用した。
もっと前のことなら、パリからリスボンに行く、SUD EXPRESSってのも良かった。スペインの北部の夜を走っていると、田園に「野焼き」の炎が見えた。おSれで手元の安ワインがいっそううまくなった。

上越新幹線ではそういう贅沢はできない。売店にサンドイッチを買いにいったら品切れで、「だるま弁当」しかないと言う。
それを買った。だるま弁当などは家人と在来線で新潟に行った1970年初頭以来だ。
瀬戸物ではなく、プラスチックの容器でそれがチョキ箱になるとラベルに説明があった。
味はまあまあだった。

2011年8月21日 (日)

夏向き冷涼カメラ 仏蘭西製Super Linxs

Super_lynx本物のカメラとそのカタログなり広告なりと、どちらが興奮するかと言えば、これは前者に違いない。
あたしが高校時代に、ニコンFのカタログに憧れて、その縁で、そのニコンの広告を制作する広告会社に入ったのはその間の理由を説明している。

カメラは実物よりカタログ。
仏蘭西製のPontiacという会社の生産した、Super Linxというカメラは夏向きである。
本体はダイカストでその上に厚くクロームがかけてあるような仕上げであるが、フロントとリアの仕上げは細かいレザーパターンなのは、最初から金属にそういう仕上げがしてあるのだ。

似たような仕上げのカメラにソ連製のフェド2があるけど、ソ連製の仕上げは単に手間を抜いているだけの印象があるのに対して、仏蘭西製の方はそれがデザインなのだと宣言している点が異なっている。
これを俗に「パリのエスプリ」などと言うのだな。

このSuper Linxを初めて手にいれたのは本体ではなく、この画像のバックにある、雑誌広告からの切り抜きなのである。
数年前に集中的に戦前から戦後の雑誌広告を収集していた。その中にこの広告があって、これはそのままフレームに入れても観賞に耐えると思った。

それから数年後に本物のカメラの方を手に入れたのだが、これはこれで今のような猛暑の時期に手にすると「ひいやり」としてまことに都合がよろしい。
この個体は仏蘭西製だけど、他に仏蘭西領モロッコという刻印のある個体もある。これも欲しいのだけど、なかなか思うようには行かない。

2011年8月20日 (土)

イパッドの真実

Ipad1リアルデザインの10月号が送られてきたので、真っ先にあたしの連載、チョートクの部屋、を見た。
なにも自分のテキストが活字になったのがうれしいというような初期段階ではない。

気になったのは、この連載は二回目なので、前回はスイス製の超小型録音機NAGRA SNを実物大というキャプションを付けて掲載してくれたので、それが面白かったので、ひょっとしたら今回もリアルサイズでの掲載なのではと思ったのである。

結果はそうではなく、まず80パーセントくらいであった。それはそれで良いとして、雑誌の上の画像と手元の実物を比較して見ると、どうも実物よりも画像の方が存在に肉薄しているのである。

ようするに、パリのルーブルの地下のギャラリーで膨大なキリスト教の古代の宗教画やイコンに我々が心を惹かれるのとこれは同じ理由であろうと思われる。
平面の画像には想像力の遊ぶ余地が残されている。

話しが複雑になるが、この掲載の画像では上の事情というのはなかなかに伝達しにくい。
というのは、この時点ですでに両方の相パッドは画像に変換されてしまっているのである。

リアルデザイン誌は、これだけ厚さがあって、フルカラーでしかも680円は安い。しかもここに掲載されているのは、それぞれのモノの実体ではなく、そのイコンなのである。ゆえに信仰の対象になり得るわけだ。

2011年8月19日 (金)

GXRにズーマー500MMレフレクターで遊ぶ

Zoomar500ミュンヘンのキルフィット社は世界最初のズームを実用化したことでも有名だが、アインシュタインなどともハインツキルフィットは親交があった。アメリカ向けの商品はその新時代のレンズをイメージして、ズーマーというブランドだった。
大昔はテレビ局に、ズームレンズをズーマーとまだ読んでいた古参党員がいたが、あれは良い感じだった。

これは今までも、ペンペンに付けたり、アリフレックスに付けたりして遊んでいるわけだが、かつての本物のプロ機材のレンズをこういう具合に新しいデジカメに使えるのはうれしい。A12の登場でいきなりほとんどの交換レンズの使用が可能になった。

このズーマースポーツレフレクターというのは500mmのf5,6の反射レンズである。優秀なのはNDフィルターがレンズ後方に仕組まれていて、絞り調節の役をすることだ。1960年代の現役レンズで当時は個人が買えるような価格ではなかった。
アリフレッックスの総合カタログの交換レンズの見開き頁にも全交換レンズの写真の中に誇らしく展示されている。
このアリフレックスマウントをライツ純正のアリフレックス=ライカMマウントにアダプター変換してそれをA12に付けている。

このアダプターがレアであった。60年代のライキナスパシャルというのはライカMマウントの超高級スーパー8カメラであったが、その専用のアダプターとううのがあった。他にはM42とか、当時は日本のミノルタと提携していた関係で、ミノルタSRマウントなどもあった。

それで作例というわけだが、大ガラスの部屋から撮影したのがこれである。
全景を最初に登場させると、まるで1936年版のカールツアイスイエナの全交換レンズの作例みたいだ。全景は戦前のビオゴン35mmで撮影。
Zoomar4

Zoomar3

Zoomar2

2011年8月18日 (木)

ノー カンガルー イン オーストラリア!

Kangaroo家人はウイーンつながりの集まりがあって、これは毎年真夏の暑い時に開催される。それには理由があってピアニストの森尚子さん家族(ご主人はアーチストの梶浦徳雄さん)が毎年来日するのがこの時期なのだ。
梶浦さんとのおつきあいももう長くて四半世紀以上であるが、これは我々がウイーンから帰国した後に出来たおつきあいなのである。

それで80年代にはウイーンの梶浦宅に居候させてもらったこともあった。シャンデリアの輝く豪邸である。

さて家人が森さんからおみやげにいただいたのが、まずハリネズミのグッズである。あたしが1980年代にハリネズミを飼っていたことは、日本では坂崎幸之助さんくらいしか知らないが、当時の欧州の友人連はよく知っている。それであの頃はまだ日本では例のハリネズミブームが到来していなかったので、森さんはそのグッズをよく探してくれたものだった。

それはさておき、今回、いただいたのはこのカンガルーとトートである。これはこの1月に写真集の撮影で(今度、えい出版から出る)ウイーンの町を歩行している時に町のウインドウで目について、お、いいな!と思ったいたのだ。
そのまま忘れて帰国したのであるが、この黒いトートを見ると厳寒のウイーンを思い出す。

ところでこのブログのタイトルはノー カンガルー イン オーストラリア!になっているが、これは誤植ではない。この10数年、あたしの周囲では、わざとオーストリアとオーストラリアを逆に言う「運動」が展開されているのだ。
これはここでは紙数が足りないので書けないが、世界的なスケールで、このとり違いがある。
観光協会の式典で、司会者が「オーストラリアのウイーンは」とやって、脇から指摘されて「大変失礼しました。さて、オーストラリアのウイーンは」などとやっている。

以前、ウイーンの市長にインタビューした時も聞き手が「市長さん、オーストラリアのウイーンは、、」とやってた。いくら通訳付きでも最初の言葉は相手には分かってしまう。

そういう問題を回避する為に、あたしは最初から逆に言う国民運動を展開中だ。
すなわち、カンガルーの居るのはオーストリアで、居まない方がオーストラリア。

2011年8月17日 (水)

デジカメではフラッシュを使うな!

KagelKagelというのは、ベルリンではなくその東の境界からブランデンブルグ州に入った所の1000人ほどの村である。湖の多いリゾート地だ。
しかしその歴史は600年以上もあるのだから、これはまた大したものだ。

古い友人に25年ぶりに会いにいったのは、先月の今頃で村祭りを楽しんだ。
友人はLOREというあたしと同世代のおばさんというよりもおばあさんであるが、プラハで最初に会った当時は若い女子であった。まあそれで計算はあっている。

彼女がベルリンの西の町にJEANS 99というお店をs出したのは東西ベルリン統合の直後だからすでに20年が経過している。

それで四半世紀ぶりにそのKagelの文化センタ−であった。ここは古い学校なのだが、どこでも同じであって、学童数が少ないので廃校になり、しばらくは老人倶楽部になっていたのを、数年前から歴史文化センターになった。こういう変遷はどこでも同じだな。

愉快だったのはその四半世紀前に会った、当時の売れっ子の東ベルリンの新聞のスポーツ記者Jugenさんに再会したことだ。かれは今ではこの地域のローカル紙でがんばっている。それであたしの記事を書いてくれた。
そのことは問題ではない。
以前、コシナの仕事でブラウンシュバイクに行った時、たまたま市の博物館でフォクとレンダーの特別展示があった。そこに地方紙の記者さんが来ていて、本来はそこの工場で長らく働いた人のインタビューを計画していたのが、変な独逸語を話す極東の客が来たというので、あたしのインタビューした。その週末のローカル紙ではトップの扱いだったので、町のタバコ屋でおみやげにその新聞を大人買いしたのも懐かしい。

今度の新聞ではいろいろと面白いことが書かれているが、それははしょって、問題なのはご覧のように、100年前の学校の机にもたれて東京写真家はベルリンの壁の取材にきたついでに、Kagelに立ち寄ったのは事実ではあるが、写真が問題だ。フラッシュを使っているので顔がのっぺらぼうである。
撮影の時にその四半世紀ぶりの記者さんに「デジカメでフラッシュは要らないよ!」と言ったのだが、彼は長年、スポーツ新聞の記者であったから、やはり写真はフラッシュというのが常識なのだろう。
独逸人は頑固だからあたしの言うことなど聞かない。それでこういう結果になったのは残念だ。

もう一枚の写真はLOREが撮影してくれた。これはちゃんと写っている。カシオのおもちゃみたいなデジカメだったがちゃんと写る。
100年前の学校の机を抱いているのがローカル新聞だがこっちの方は愛犬のダルマチアンである。こちらはまだ3年ものだ。

2011年8月16日 (火)

中馬込3-18番地に立ち返る

2
1犯罪者はその犯行現場に立ち戻るとか言うけど、写真家の行動ってのは、なにかそれに近い所がある。

まだベルリンが東西に分断されていた時、当時の東ベルリンの工場街を撮影する仕事があった。あそこは秘密警察の舞台だし、密告社会でもあったから今にして思うとずいぶんと危険な撮影をしたものである。
東ベルリンの友人のクルマをチャーターして、無人の工場街を撮影して回った。それは膨大な4x5のカラーフィルムであったが、今では安全にあたしの手元にある。これがすでに30年前の話しだ。

新幹線の大田区中馬込3丁目先の遠近感の消失点が複数ある場所にこの間、野々宮BMWと出かけた。BMWで行くと、西馬込から徒歩で行くのとはかなり様子が異なるが、機動部隊であるからあっと言う間に撮影地点に到着した。

その地点で新幹線を待ったけどなかなか来ない。さっき静岡あたりで集中豪雨が会ったのでその影響であろうかと野々宮がコメントする。

待つことしばしで下りの新幹線の来たのをまた撮影した。デジカメをちょっと望遠にして道の奥行きを撮影したが、やはりここは不思議な風景である。

それで思い出したのは、JTBの仕事でベルリン近くの高速列車を撮影に行った時のことだ。そこはかなりの郊外なので高速鉄道は「巡航速度」で走行するのである。橋の上から列車の通過を待っていた。来たなと思ったら一瞬の通過であった。
それに比較すると大田区あたりの新幹線は速度を落としているので撮影はずっとやりやすい。

2011年8月15日 (月)

それぞれのお盆

Aroha家人が盆暮れに実家の新潟に行くのは結婚以来の習慣であるからすでに40年を超えている。
あたしは東京の生まれだから小学校以来、夏休みに行く場所がないのでずっとそのことが劣等感になっていた。
音羽の家に戻れば両親とじいさんばあさんが居て、自分の家が即、田舎なのであった。これはつまらない。

夏のお盆に家人の兄弟が新潟に集合するのはあたしから見ればこれは「美風」に映るけど、彼らにして見るとそれはすでに生活の一部になっているわけで、不断の努力がそこにあるということもなさそうだ。
なるほど東京という都会の重要なコアはそういう地方出身者で固められていることを今更に知るのである。

地方から来た人はがんばって何事かを成し遂げる。一方あたしのような単に東京で生まれただけの「遊民」は競争しても勝てないし、もともと競争しようなどという気持ちもないから、相変わらずふらふらしているのである。

この墨東で八月のお盆の閑散とした都心の風景を愛するようになって久しい。マンハッタナーは真夏のマンハッタンの混雑を忌避してマンハッタンから逃避するようだが、これは我が仏教国のお盆の習慣が向こうにはないせいであろうか。

隅田川を見る大ガラスの部屋で普段聞かない甲子園を聞きつつ、渋滞情報の東名の海老名バス停で渋滞何十キロを聞くのは夏の風情である。この時期になると蝉は峠を過ぎて、夜は虫の大合唱。

家人は交通混雑をさけて早めに新潟から戻るのも何時ものパターンだ。毎年、お盆の時、亡父を偲んで新潟の部屋にかけてある、例の亡父の赤いアロハを今年は持って来てもらった。これは古いもので1972年当時のアロハで家人の父をお揃いで良く着ていたものだった。
あたしの同じアロハはすでに行方不明である。

お盆の初日の朝7時半という早朝にお寺さんがバイクで来たそうだ。一日に70もの檀家を回るのだから、バイク急便よりも大変な仕事だ。
そこのご住職は昨年亡くなって、その息子さんがお二人とも跡を継いだ。一昨日は家人の実家のお墓の前(これがお寺の墓地の一番大きな墓石で家人などは、なんで墓だけでかいんだろと文句を言う)で読経してくれたのはその御孫さんであった。これがなかなか功徳があって良かったとは家人の感想である。

我が、佃の大ガラスの家では、考えたらライカインコはすでに「おしょうらい様」(これは新潟のいい方で漢字は不明だが、お精霊さまの訛りではないか)である。それでこのインコさまは1991年にプラハのヨセフスデクが撮影したルネッサンス時代の子供のお墓から「お迎え」した「聖像」なのである。まあ、逆隠れキリシタンとでも言うべきか。

そのライカインコの霊を迎えるには、このアボカドの葉っぱが最適であることに気がついた。普通はなすやキュウリの馬に乗って、おしょうらいさまは来るわけだが、我が家は畳もない洋風生活なのでおしょうらい様の乗り物はもっぱらアボカドの葉っぱであって、笹舟ではない。Aroha3

2011年8月14日 (日)

ブエノスアイレスニユキタイ

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アイレスというメーカーは50年代にはなかなか人気だった。
ライカM3にそっくりのカメラも作っていた。これがレンズシャッター機なので、その操作感覚は「モダンなコンパーライカ」というのも良かった。実際にはセイコーのシャッターであったからこれは、「セイコーライカ」なのであろうか。

アイレスフレックスという二眼レフも当時の最高峰はローライフレックスであるが、なにしろ舶来品なので高価で手が出ない。国産のオリンパスフレックスや、ミノルタオートコードというような二眼レフが舶来より安かったので人気であった。

また当時は高価なローライは写真を撮らないお金持ちに任せておいて、自分達は国産の実質的なカメラで優秀な作品を撮るのだ、という気概のようなものが当時の写真家にはあった。これは今は失われてしまった写真機に対する感覚である。当時の国産カメラはそういう存在だった。

石元泰博先生なども積極的に国産の二眼レフを使った人であるが、石元先生はもともとアメリカ人であったから、当時の感覚からすれば高価なローライフレックスもお持ちであったが、そこであえて日本製を愛用するというその知的スタンスが良かった。日本に帰化したアメリカ人には昔は石元泰博、最近ならドナルド・キーンが居る。

オリンパスは戦後にいち早く国産の二眼レフを発売した。これがオリンパスフレックスでその作りが良くて、そのレンズは6枚構成のFズイコーであった。価格も高価であった。
オリンパスはそのズイコーレンズの名声ゆえに他社のカメラにもレンズを提供している。その代表的なのがDズイコー75MM T3,5である。f2,8の大口径のズイコーに比べればなにか地味な感じがするが、これはワークホースであった。

つまり、われわれがカールツアイスイエナのビオターのf2レンズよりも明るさは暗いf2,8とかf3,5のテッサーの方に写真術の本質を感じてそっちの暗いレンズの方を尊敬する、一種の「暗いレンズ信仰」にもこれは通じるところがある。

ズイコー75mmf3,5のアイレスフレックスを手にして行きたい街はこれは他でもない、ブエノスアイレスである。アイレスからの連想であることは言うまでもない。
アイレスとは風とか空気とか言う意味であるから、このズイコー付き二眼レフなら「空気感」が良く表現されそうである。

2011年8月13日 (土)

夏向きライカと夏向きレンズ

Ke7a夏向きライカというものがある。涼しそうなライカというわけだが、その代表的なのは偽ライカ同盟の坂崎さんの「制作」にかかる、ライカM2であろう。普通のクロームのM2のグッタペルカを全部はがしてその地の部分を銀色に磨き上げたもので、以前見せてもらった。拙著「偽ライカ同盟入門」にもその画像がある筈だ。
これは大変な手間をかけた「労作」であって、なんでも全国講演の時に、夜な夜なホテルで作業したらしい。スーパースターであるから、公演後もあまり夜の町に出ることもできないのであろうから、そういうエネルギーが「夏向きライカM2」を生んだのであろう。

そういう夏向きライカは手持ちにないので、ここは夏向きレンズについて考察してみる。
ライカファンは以前はズミクロンの35とか50のブラックペイントが最高の存在と思っていたようだが、最近では60年代にはごく普通の仕上げであった、クロームのレンズの仕上げが見直されている。

このズミクロン90などが実にゴージャスな仕上げである。だから画像にしても、そのグラマラスな感じがそのまま伝わる。
コシナの35MMF1,7の方はこれはズミクロンと比較しては可哀想である。しかし現代のレンズとしてはその仕上げは合格だ。それになにより往年のズノー35MM F1,7よりは遥かに描写が優れている。
しかもこのレンズは第一面が凹レンズであるのが実に渋い。

2011年8月12日 (金)

GXRにA12で福田組夏期火器大演習に参加

A4A1211 福田和也さんからのお誘いで土曜の酷暑の14時という時間に湯島天神に集合した。これは写真への無限の情熱がないと出来ることではない。

使い始めのGXRとA12の組合わせに今日は戦前のBiogon 35mm f2,8を付ける。例の如く、コンタックスライカアダプターの活用である。この戦前のレンズは当時は世界で一番明るい驚異的な広角レンズと言われた。レンズのリアはかなり出っ張りがあるが、GXRに問題なく使える。

こういう日中の撮影ではピントはEVFではいちいち合わせない。目測の方が良い。というかピントは2,5メーターあたりに最初から合わせておけば目の前に展開する事象はすべて写るのである。
GXRのA12はその意味で、オートフォーカスを「解脱」している所が偉い。ここらはまず宗教的な悟りですね。

真昼の湯島天神だが、やはり季節外れと見えて人影はまばらである。なんでも福田さんは近々個展の計画があるとかにて、エクタクロームを入れたライカRで街中のデテイルを熱心に撮影している。レンズはズミルックス50mm f1,4だ。上野の風俗街にも客引きさんの姿のみ。こういう暑い時期に「劣情」を催すカスタマーは居るのかしら。

風俗屋さんの角を曲がったら「猫三色サンプル兄弟」とでも命名したい三匹連れがいたので早速撮影した。A12で目測は2.5Mだ。
元来、あたしは都会派カメラマンである。ネコ派でも、路傍の花派でもない。ワークショップをしていて撮影指導の時に、スナップというのは見えない的を撮影するものだ、などと路上講義をしていると、参加者のおばさまなどがいきなり路傍に駆け寄って、路傍の花などをクローズアップで撮影していると非常にめげるのである。

元来、ストリート写真というのは、眼前の、しかし目にみえにくい「アピアランス」を撮影する極めて哲学的な思考なのである。そういう高度なお話をして居る時に、いきなり路傍の花に駆け寄ったり、路上のネコにしがみついたりするのはいかがなものかと思う。それではあたしが30年前にニューヨーク近代美術館で路上写真の美学を研究した成果は水泡である。

まあ固いことは抜きにして、路上に三色ネコが居ればそれはそれで「かわちい」のですから。むしかしいことは言わないでもいいか。

この日は湯島、上野、新橋、銀座を撮影。その移動の間にそれぞれに酒保を回った。ゆえに撮影地点は4カ所で、飲酒地点4カ所。

カメラはGXRにA12でビオゴン35mm(戦前のやつ)

2011年8月11日 (木)

あたしの居パッド

Ipad雑誌リアルデザインで新連載を開始した。「チョートクの部屋」っていうのは清水編集長のアイデアでなにかインターネットが普及化した当時の「世界にむけて情報を発信」時代には「なんとかのお部屋」というのはHPのタイトルの定番であったのでなにやらクラシックな感じがして懐かしい。

その連載の二度目の撮影があって、本誌は16日に出るのである。680円。

撮影の時、もうぎりぎりでカメラマンさんの手配が間に合わないというので、清水編集長自身が撮影に見えた。それでこのようなショットを撮影した。ただし清水さんが撮影したのは、この特価24000円というシールを剥がしたショットであった。やはりアップルの製品の話なのだから、そういうシールが貼ってあるのはまずいと思うのは、これは編集長の正しい考えである。

しかし一方のあたしは、この黄色いシールは万一、この居パッドを紛失した時の確実な手がかりになる筈なので貼ってあるのだ。

居パッドの裏にはまだ他のものも貼ってある。このマジックテープは根ながら原稿を書く時に手から滑り落ちない用心なのである。

セロテープは旅先でテープが必要になった時いはかならず手元にないというジンクスを解消する為の用意である。

新潮の矢野編集長も同じ居パッド1型であるが、この前、どちらがきったねえ居パッドであるかという「競争:をした。居パッド2型を大事大事にケースにいれて、液晶に保護シートを貼ったり、例の風呂の湯船の保温蓋みたいなのを付けている連中とはあまり話をしたくない。1年使った居パッドを新品同様の状態で使用してそれを下取りにだして得したという居パッド人類も同断。

2011年8月10日 (水)

31年目のTIM

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Timとは31年前に、リスボンからパリに行く列車の中で知り合った。そのコンパートメントには客が三人いた。このTimともうひとりのTim、それにあたしである。

最初に出会ったのは。このTimではなく、もう一人の方のTimである。その人はカリフォルニアの絵描きだった。その絵描きのTimはリスボンで出会って、あたしのライカが仲立ちになって友人になったのだ。こういうのが本当の友達ではあろう。顔本(Facebook)でクリックしたのが友達というのはやはり信用できない。

この青シャツのTimの方は当時、23歳だった。今回31年ぶりに東京で会ったのである。彼は現在、デルタ航空のチーフパーサーでデトロイト羽田便に乗務している。昨年であったか、飛行中の時間のある時に、パーサーの日本人女子と退屈しのぎに話をしていて「30年前、まだ若かった当時、ポルトガルでチョートクというやつに会った」と話したらその話相手の女子がどうもカメラ女子だったらしく、最初にあたしにメールをくれたのである。こういうのは邂逅というのであろう。

それで是非、会おうということになったがこのTImが日本に着陸する時にあたしは大抵は外国に居るのである。その一例が彼が羽田に着いた日には、あたしはマンハッタンに到着したりする。この3月11日がそうであって、新宿のヒルトンで彼は東日本大震災を経験したのだった。

その後、デルタは羽田便を中止して、この6月22日にようやく再開したのである。折悪しく彼の日本に来るスケジュールが月末の週末である。その時はあたしは仕事があるというわけでなかなか会えなかった。

8月には彼は3回、羽田に着陸するちいうのである。調べてみると後半はやはりあたしが具合が悪い。それで一番最初に可能な日にちで会った。これが31年ぶりなのである。その時の体験は実い不思議なものだった。ホテルのフロントに降りて来たTimにすぐには挨拶が出来なかった。というのはこの前が31年前だからその間には人間が31年分だけ年を取る時間があるのだ。眼前の初老の紳士が31年前のアメリカの若い人というのは、挨拶をする前にその31年分の時間経過を眼前にやる過ごすことが必要だった。

それはわずかに数秒のことであったが、その数秒間に地球が31回公転するのをあたしは確かに感じたのである。

この前、会った31年前の特急列車の中で、最初に会った絵描きのTimがスペイン国境で下車してから彼は「自分は原子力関係の専門家だが」と前置きして、今の紳士は爆心地に一週間後に立ち入ったのだからなんらかの被曝をしている筈だと言ったのである。

その事を彼に話したらその記憶はないのである。そればかりかそのコンパートメントに居た同国人のこともあまり記憶していないようであった。人間の記憶が簡単に崩れて行くのは当然のことだが、彼には東洋人のあたしの方が記憶に残ったのであろうか。

青シャツのTimは海軍を退役した後に沸騰水型原子炉の仕事を8年やって、今の仕事についてから21年目だという。パーサーは年齢を重ねると偉くなるけど、コンピューターが年齢を勘案してあまり遠い目的地には搭乗できなくなるんだ、と言った。先月はオランダのロッテルダムに5回飛行したそうである。

やはり一番楽な勤務はロンドンだという。それはそうでもあろう。同じ英語圏だし。飛行勤務はなかなか厳しくて最近はデッドヘッド(仕事なしでスタッフを回送すること)などはほとんどないそうだ。

オフの時には船舶の研究家でもあってその手の専門書に前書きなどを書いている。それでTimをヒルズのライブラリに伴った時に、数年前にあたしが出した氷川丸の1000頁の本を見せた。実は彼が東京滞在で一番見たいものが横浜の氷川丸なのだそうである。それで今度、彼を案内することにした。

2011年8月 9日 (火)

その後のぼけこっこ

A3津久田名物ぼけこっこの謎はいまだ不明。つまり2羽いるのにいつも一羽しか見えないのだ。
それはともかくとして、この前、校庭の開放日というのがあった。夏休みには一般の人間を校庭に入れるものらしい。それで入ってみた。無論、校庭に往くのではない。

ぼけこっこのお姿を拝観するのである。普段はケージの西側からしか見ていないのだけど、校庭に入ればその東側と北側は観察することが出来る。

それで細かく見て分かったのは。北側によしずが新たに設置されたことだった。それよりすごいのはケージの北西方面に「へちま」の苗がすくすくと伸びていることである。これは飼育係のぼけこっこへの愛情というものであろう。
その緑とぼけの姿とが非常に良いコントラストをなしている。

でもこれでへちまが立派に育って実をつけたら、なにかちゃぼとへちまは決まりすぎて、実篤の絵のようになりそうだ。

それはそれで面白くない。

2011年8月 8日 (月)

白いペンと白いイルフォード

A1白いカメラは夏向きのファッションか?この間、モスクワ空港で見かけた日本のカメラ女子が白いペンを斜めがけにしていたのが、非常に良い感じだった。お洋服にマッチしているのである。白いカメラは夏向きというのは、これは一般的な「カメラファッション」の基本であって、あたしのようなじじいでも白いペンにパナマなどという真似がしてみたくなる。しかしもともとNASAあたりの観測用の撮影機などは外見をホワイトに塗装してある。これは太陽の熱でカメラが熱くならない為の対策である。巨匠アンセルアダムスも彼の写真教育の本で、砂漠の撮影ではカメラもその携帯するトランクも白く塗るのが望ましいと書いている。

民生向けの白いカメラの元祖は戦後、英国のイルフィードのアドボケートというカメラであって、これはストーブエナメルで白い塗装がしてある。
2年前にそれまで24年間継続した「ライカインコ帝国」が終焉したので、その記念というわけでもないが、家人と2泊で出かけたのは千葉県銚子だった。それまでは家人とあたしのどちらかが津久田の家にいないといけない状態だった。生き物を飼うというのはそういうことである。

その時に持参した「感傷カメラ」が白いアドボケートであった。その翌週か何かにペンが誕生して、あたしはホワイトのペンを携えるようになった。
これはペン1である。
すでにペンは3型まで行ったわけだが、そのデザインの不変さは評価して良い。ペンが2型になり。3型になってもちょっと見ただけでは、その相違は気がつかない。

ただしペン3をこの間、ベルリンで使っていた時、最初の数日間、なにやら面食らったのは、そのボタンの位置である。まるまる2年間、ペン1で慣れた指の操作空間にペン3ではオンオフスイッチがなかったりするのだ。

ペンにはアダプターで各種交換レンズを駆使する楽しみもあるが、一方でもっともスタンダードな組み合わせはこのレンズだ。このコンビがもっともペンらしい。
隣のアドボケートも35ミリの広角を装備している。ペンのレンズと同じ焦点距離である。

2011年8月 7日 (日)

最近のぼけこっこの謎

803ぼけこっこ、というのは佃島小学校在住のちゃぼのことである。
良い声で鳴くのだが、その音を日本語になぞらえると「ぼけこっこーー!」と聞こえる。

もう10数年のおなじみになるが、一昨年の夏の総選挙の時に、そういう場合にはわれわれも小学校の敷地に入れる。そこに投票所があるからだ。

校庭内でたまたま居合わせた飼育関係のおじさんに名前を聞いた。たしか「ぼくちゃん」とかいうのである。小屋の掃除をしている時に、もう一羽ちゃぼが遊んでいた。その名前も聞いたのだがそれは忘れた。

都合、二匹いるのだ。その二羽は庭で遊んでいたので確認している。
つまり
にわにわにわにわとりがいます。
を地で行ってるわけだ。

ところが鳥小屋を見ると、いつもお姿は1羽だけなのである。これは津久田七不思議のひとつと言って良い。
それに、ぼけこがいない時もある。朝、魚河岸に買い出しに行く時に、元気に鳴いていたのが、1時間もしないうちに戻る時、そのお姿が突然に消えている。

ぼけこの代わりに、はとぽっぽが数羽入っていることもある。むろん、ケージのドアは閉じたままである。
ぼけこっこの方はどうも日勤なのであろうかと思案したりもするが、やはり良く分からない。
謎は深まるばかり。

2011年8月 6日 (土)

GXRのMマウントアダプター、GXR MOUNT A12登場す!

A12

ライカ人類とデジカメ人類の間で長らく噂のあった、ライカMマウント用のユニット、GXR MOUNT A12が発表された。公式な内容はそちらを見ていただくとして
テスト機を手にする機会があったので第一印象を。

このMマウントアダプターの噂は実はGXRが登場した当時から巷間を賑わしていたのである。

一昨年の秋に出した[GXRワークショップ](えい出版社)の編集締め切りの直前に外国のサイトで、GXRのMマウントの画像が流布していた。言うまでもなく、これは夢のある真面目なライカ人類とカメラ人類が「GXRの将来はこうあって欲しい」という夢の未来カメラなのであるが、そのアイデアが面白いのでさっそく締め切り直前の本に入れた。

その出来上がった本をリコーの湯浅プレジデントにお見せした時、あたしは「これはGXRの未来に必須なアクセサリーですから、是非御願いします」と新横浜の応接室で言った記憶がある。湯浅さんは誌面を見て「これは良く出来ていますね」と笑っていた。言うまでもなく、合成画像が良く出来ているの意味なのである。しかし湯浅さんの心には何か期するものがあるのでは、とその時には思った。

それが2年も経過しないうちに、ライカファンの夢が実現したのだから大したものである。テスト機を手にして最初にあたしのやりたかったことは、手元のエルマーとかズミクロンを付けて「おう!付いた付いた!写った写った!」と喜んだのではない。最初からこのMマウントユニットの「ストレステスト」をしようと思ったのだ。
その意味では原発もデジカメのMマウント機も同じことだ。

同梱されているアクセサリーに穴の周囲に開いたレンズフード状のモノがある。プラスチック製の黒いやつだ。これが何か分からないので理光の人に聞いたら、それで使うレンズのバックフォーカルをテストするのだと言う。これは親切な付属品だ。
その正式名称を聞いたら「チェッカー」というのだそうだ。本来「バックフォーカスチェッカー」とでも言うのであろうが、そのあまりにも単純な名称がいい。真面目一途な研究者さんがその名称を決める会議になって「じゃあ、検査具では変だからチェッカーにしましょうか」それでチェッカーなのかな。

A12GXR MOUNT (この機材の正式名称)のストレステストはまず、20世紀の光学レンズの最大の発明と言われる、カールツアイスのビオゴン21MMF45のコンタックスマウントのテストである。1950年当時にこれより広角なレンズは存在しなかった。それでライツが慌てて、シュナイダーにスーパーアングロン21MMを制作してもらったのである。
そのビオゴンはハッセル用とかリンホフ用があるが、小型カメラ用に生産されたのが、ビオゴン21MMなのだ。50年代アメリカの有名な写真家、ハリー・キャラハンはそれまで大型カメラで緻密なモノクロ作品を制作していたのだが、この20世紀の新レンズの威力に打たれ、これがきかっけで初めて35MMサイズのカメラを使うようになった。
ビオゴン21MMは当時はコンタックスレンジファインダーにしか付かないので、新たに21MMレンズとコンタックス2Aのボデイを買ったのである。この組み合わせでキャラハンはシカゴの素晴らしいスナップショットを撮影した。そういう歴史的レンズが簡単にA12を介してGXRに付くようになった。

ビオゴン21MMはそういう伝統のレンズなのである。これがストレステストで合格すれば、後は問題なしだ。つまりいきなり最初からテストのハードルを高くしたのである。
その方法。コンタックスマウントをライカスクリューマウントに変換するアダプターを付ける。その後にライカスクリューマウントをライカMマウントにするアダプターを付ける。これで完成である。

こう書くと簡単なようだが、実はこの組み合わせはライカM9とかM8などでは出来ない。というのはライカには距離計連動のカムがあるが、レンズアダプターを付けるとそのカムがアダプターとヘリコイドの一部と当たってしまって、物理的に使用することが出来ないのだ。GXR MOUNT A12なら距離計カムはなく、ピント合わせはミラーレスだからまったく問題なし。

新ユニットGXR MOUNT A12がライカのレンズで使えるのは当然だけど、このようにアダプターを介して、コンタックスレンジファインダーマウントとか、ニコンレンジファインダーマウントのレンズがそのまま使用できるのはやはり大変な利用価値がある、それで当面は手元にある、ツアイスのレンズを端からからずらっと付けてテストをしてみようと考えている。

ビオゴン21MMは60年前のレンズであるから、その再現はちょっと茶色っぽくなる。いわゆる「泰西名画」のようだとか「レンブラントの絵に似た色彩」であるとか言われるが、それはそれで結構だ。しかしフォトショップで色味は自由に変えられるのでそれは寧ろ表現の幅が広がったことになる。

それよりも感心したポイントは周辺光量の低下とか、周囲の色落ちなどがほぼ問題なく補正されている点である。最大の難関のストレステストでこの問題をクリアしているので、他のレンズはまったく問題なしであろう。ちなみにビオゴンと競合するシュナーダーのスーパーアングロン21MMはF4もF3,4も物理的に問題なく撮影できた。これもレンズの「チェッカー」でクリアランスを調べた結果だ。

GXR MOUNT A12はあたしの周囲でも出たら買うぞ!というライカ人類が多い。それらの人々はライカM9とかM8のユーザーなのである。なにか2年前のGXRのイラストの夢が今に実現したのは嬉しい。これはコンポーネント方式のGXRの強みだな。

その2年前には「これに掃除機を付けたら便利」だとか「これに扇風機を付けたら」などとコンポーネントのユニットの組み合わせジョークがもっぱら横行したが、2011年の現在なら「GXRにガイガーカウンターユニットを付けたら」が一番生きるジョークであろう。

冗談はともかく、手持ちのライカレンズやらコンタックスレンズが全部生きるわけで有り難い。まず「口紅から機関車まで」ならぬ「ジュピターからノクチルックスまで」ということか。

★ヒルズの仕事場から GXR GXR MOUNT A12 ビオゴン21MM F4,5

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2011年8月 5日 (金)

中馬込3-18番地先

3181東京の南部、大田区は謎に満ちた街区である。なによりもあたしが好きなのは新案線の線路が走ってることだ。
ベルリンから戻ってこの界隈を歩行している時に今回、判明したのはこの新幹線の線路脇を歩行する感じはかつてのベルリンの壁の脇を歩行している感覚に酷似しているという点だった。
新幹線に乗って東京が接近したセクションからの窓の眺めが好きなのは、実にめまぐるしく視線の街並みの高さが変貌することである。
それがリズムになっているのが、面白い。

実際にそこを歩行してみると、これはなかなか大変な高度差であることが分かる。もともと馬込九拾九谷(まごめつくもだに)と呼ばれていて、行程産のなかなかある土地であった。そこに新幹線を通すのだから、まず線路はなるべく平らにしないと高速な鉄道は通れないであろう。

一方で周囲の住宅地はそれまでの地形の通りに立っている。だから新幹線の線路の脇を歩行していると、歩行者の目の高さから見ると、新幹線のレールの高さは高くなったり低くなったりする。

数年前に岩波書店から出した写真集「東京今昔」の中にこのポイント、つまり路上の風景の消失点と新幹線の風景の消失点と、一枚の画像の中に2点の消失点がずれて存在する地点を発見して、これはレオナルド以来の大発見だと感激したことがあった。

その場所を再訪したくて、以来、なんども西馬込から歩行したのだけど、くだんの撮影ポイントを発見することは出来なかった。それがこの前、8月2日という日に、発見できた。中馬込3−18先であった。今までここが発見できなかったのは、その300メーターほど「京都」よりの跨線橋から渡ってしまうのが間違いN理由だった。
この光景はなかなか気に入っている。318

2011年8月 4日 (木)

品川方面か煙が

Photo先月は2週間とは言え、その時間体験はほどんどベルリンに居たと言って良い。ベルリンは晴れの日もあったけど、曇りから雨の日が多かった。
一番、痛快(というか、残念)だったのは、ウイーン時代のGFのクリステインの展覧会がベルリンのちゃんとしたギャラリーであったのだけど、それを見に行く機会を失ったことだ。
知り合いの展覧会よりも、自分の写真の撮影の方が重要度が上であるというのは、これは「利己主義」であるといわれてもそれは仕方ない。
それでベルリン最終日の午前に行こうと思って、中心部のボツダム広場まで行ったらそれまで曇っていた天候が急変して、霧雨になった。
ポツダム広場からその博物館までは徒歩10分ほどなのだけど、あたしは行くのを断念した。その理由はたかだか10分を雨に濡れるのが嫌であったわけではない。

あたしのポツダム広場はかつてのベルリンの壁のあった当時の一面の荒野がその記憶なのである。東西ドイツrと統合の翌日、1990年10月4日にもここを歩行している。それはまだ何も建っていない、やはり空き地であった。
ポツダム広場は空き地であるという記憶から、今のボツダム広場のメルセデスベンチの看板とソニーの広告が翻るモダンな街並みを想像すると、それは同じ街にはぜったいに見えない。そのことがなにかあたしにマイナスのイメージを与えて、新しいベルリンを歩行するのをあたしに断念させたようである。

ベルリンから東京に戻って、ようやく六本木ヒルズの49Fで仕事を落ち着いてできるようになった。午後5時頃、品川湾の方をなんとなく眺めていたら、いきなり海の方から煙が襲ってきた。どこかが大火事だと思ってその煙をよく見たら、それは煙ではなく霧なのであった。その霧をよく観察したら、それが実は霧でもなく雲なのである。でも高さが200メーター以上の高所から見ると、やはりこれは煙とか霧に見える。
瞬く間に、視界が閉ざされてしまった。こういう急激な天候の変化を見て、それを楽しむにはやはりこの観察ポイントは最適だ。

2011年8月 3日 (水)

いざ!鎌倉!!

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5偽ライカ愛好会はほぼ毎月、撮影に出かける。
撮影場所は会員が交代で決めるのである。普通は都会が多いが今回の撮影地は、鎌倉であった。しかも雨の日曜日。
これが面白かった。
鎌倉と言えばデートコースで小町通りが竹下通りに化けていると思っていたのが、こんなに静かな場所があるのかと思った。
知り合いの画家が平山郁夫の先にアトリエを構えているのでそこに行ったのもすでに20年前だ。裏庭はそのまま鎌倉の山に通じていて、背中の毛のはげているたぬきが出没するという話だった。

これは鎌倉の話であって、もっと前、今回の北鎌倉で降りたのは40年ほど以前のことだった。
澁澤龍彦さんのポートレートを撮影に行った。別に意気投合してわけでもないが、ウイスキが出されて澁澤邸に一泊したのであった。その時の写真は「東京ニコン日記」に掲載されている。

鎌倉街道というものがある。両親の墓は今では埼玉の越生にある。そこに行った時、畑の中に細い道の名残のようなものがあった。標識を見てそれがかの鎌倉街道であることが分かった。
昔の人のスケールとエネルギーにはかなわない。みんな徒歩でこういう道を通ったのである。

北鎌倉の通りを北上して鎌倉なんとか女子高校というところに向かう車道がものすごい急な坂である。そこを今度は急な石段を下って、なんとか言う山の近くで土器投げがあった。落語の愛宕山を期待していたら、そうではなく、土器を眼前の石に投げつけて煩悩を粉砕するらしい。かわらけは一個100円である。あたしはカメラの煩悩を粉砕するのはもったいないので別に投げなかった。

それから山の尾根を通ってなんとか言う武将の銅像がある場所を経過して、またも急な下り坂になった。その坂の下に岩山があって、提灯がある。そこは闇のように暗い。隧道がかなりの長さでそこを超えると、古風な社があった。それが「銭洗い弁天」だと言う。
江ノ島のそれは知っていたが、鎌倉にもそういう場所はあるとは知らなかった。
その縁起は見ようとも思わないが、銭洗いとはいかにも後世に発案された現世利益である。もともとはちゃんとした神社であったのだろう。

縁台で休んでいたら、隣の二人の外国人が観光客にとっての円高の苦労を話し合っていた。

後は広い一本道で鎌倉市役所を通過して、駅前に来たら、サンバカーニバルをしていた。雨の中で踊り子のお尻まるだしのスタイルがやはり日本人がケツ出しているようにしか見えなくてそれが極東を感じた。

江の電で藤沢まで一行、17名が移動した。現地参加の鵠沼のブレッソンがいろいろと車内で、撮影ポイントなど教えてくれた。まるで鎌倉江ノ島観光協会のボランテイアガイドさんである。

藤沢駅前にある、トラットリアに一行は落ち着いた。15歳から64歳までだから年齢層は広い。
飲み放題メニューで、これではお店も赤字覚悟であろう。なにしろイタリアなみの酒豪揃い。

2011年8月 2日 (火)

占領国日本

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5また八月がやってきた。
終戦の八月と言ってもその大東亜戦争がすでに歴史的な過去になってしまった。
終戦から何年が経過したのか、それをカウントするのには家人の年齢をチエックするのが便利だ。
それで何年が経過したのかすぐに分かるシステムになっている。

戦後になって工業がまた再起動した頃のカメラには占領下日本と刻印されている。
そういうカメラが好きなのは、そのロゴタイプとしてのスタイルが、普通のメイドインジャパンよりも長いので、全体のバランスが良い。

メイドインオキュパイドジャパンの刻印のあるカメラはニコンだと恐ろしい価格だけど、レオタックスとか何かだと非常に安い。

オキュパイド気分を味わうだけなら、数百万のニコン1型よりも数万で買えるカメラの方がいい。

ここに登場のオキュパイド物はあたしのデスクの周辺にある数台をとりあえずピックアップしたものだ。
機種は説明しない。
いろいろ想像して楽しんでもらいたい。
ただしこの5つの占領国日本のカメラとレンズの機種が判明しても、別段偉いわけでもない。

2011年8月 1日 (月)

最後のクレーン

Photo1980代だったか、ニューヨークから一年ぶりに戻ったら、日本で「地下鉄はどこから入れるか」という漫才が流行していた。
2年前の今頃には、例のスカイツリー、すなわち空筒はまだ土台だけだった。

それがどんどんと伸びて、ある日気がついたら塔の上に立派な三基のクレーンがあった。
そのクレーンが資材を上につり上げるのである。
大ガラスの部屋で仕事をしている時などは、そのクレーンの仕事を双眼鏡でずっと眺めていた。

向島の釣り人を背後で眺める暇人の話しが落語にあるけど、あたしもその同類である。物と魚の違いはあるが、これも一種の釣なのである。

タワーが完成したと思って、今年になって1月はウイーンにまるまる暮らして、3月にはマンハッタンに行ったり、5月にはプラハから戻ってきたり、そしてまた7月にはベルリンを往復している間に、空筒は今度は自分を構築していた巨大クレーンの始末を開始したようで、先週にベルリンから戻ったら、もうご覧のように小さなクレーンが一基だけになってしまった。

そこで考えたのは、このクレーンをどう始末するかである。下に釣下ろすクレーンは他にはもうない。

そこでペンペン(注 ペンペンペンは高千穂に返却済み)にノボフレックスの640mmを付けて撮影した。
後でこのように画像の解析をしてみると、クレーンのあるフロアには巨大なドアがある。
おそらく、そこに機材用のエレベータがあるはずだから、分解して下ろすのであろうと納得した。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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