フォト

ギャラリーバウハウスの展示

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

2011年7月31日 (日)

アサヒフレックスと理研光学

Photoペンタックスがリコーの傘下になったという短信に接したのは今回のベルリン行きのずっと前のことだが、最初はその逆なのではないかと思った。

これはニューヨークタイムスの見出しがかなり英語が分からないと理解できないのと同様なセオリーである。

板橋区前野町の旭光学に見学にいったのは小学校の当時だ。おそらく担任の先生がカメラ好きであったせいであろう。そこではアサヒフレックスを生産していた筈だがそれは記憶にない。

ただしそのちょっと後に学校の帰りに同じクラスの女子の家でお父さんのカメラというのを見せてもらった。それがアサヒフレックスでその軍艦部分の細かい工作が好きになった。それともその同級生が好きになったのであろうか。たしか飯山さんとかいったな。

アサヒフレックスには「競馬ファインダー」が付いていることを知ったのはその小学校5年の夏なのである。
それと前後して父が買ったのが最初のモデルのアサヒペンタックスだった。こちらはカメラの上に富士山のような突起があって、アサヒフレックスのような美学を感じることは出来なかった。これが小学生の少年のカメラ美学なのである。

その「競馬ファインダー」のことは、最新刊の「RD」に書いた。海上保安庁の密猟取り締まりに競馬ファインダーが大活躍という話しだった。

2011年7月30日 (土)

ホテルカリフォルニアの昔

Photoベルリンに行くとどうしてもホテルは旧西ベルリンの方になってしまう。
その理由を考えるに、やはり東西ベルリン時代の生活習慣が影響している。昔、「中央線の呪い」という本があった。つまり東京の中央線の沿線に棲むとそこが便利なのでそこから抜け出せなくなるというのである。

同じ考えで行けばやはり「西ベルリンの呪い」は存在するのだ。
1970年代には西ベルリンのクーダム近辺は西側世界のショーウインドーと呼ばれていてあらゆる商業施設があった。ホテルも同様だがピンキリであってその一番高級なのはホテル四季であって、これがケンピンスキーとして今でも盛業中である。

大昔のライカM4時代の交換レンズのカタログでズミクロン35MMの作例がこのホテルの前のクーダムの独逸では珍しい集中豪雨による出水をスナップしたものだった。ブロンドの美女が手にしたパンプスを気にしつつ裸足で水たまりを超えようとしている。
そういう咄嗟のシーンに35ミリレンズは最適というような説明がついていた。今でもその作例はなにやら「やにっぽい色彩」なのは当時のレンズのせいではなく当時のカラーフィルムのせいであったのだろうか。
そのクラシックな写真を今回、何度も記憶の底から発掘したのは、毎日M29系統のバスで「ミッテ」に出かけていたからだ。
二階建てのバスの二階の最前列からその「現場」を通過するたびにそのことを思い出した。

もうひとつのクーダムの記憶はそのペンピンスキーの並びのホテルカリフォルニアである。通りに面したクラシックな建物がホテルとは名ばかりのペンションだった。
たしか一泊35マルクだった。ここを基地にして毎日、東ベルリンに出勤していたのだ。
あたしの部屋は裏庭に面している。ベルリンに泊まるのならその裏庭の方が遥かに静寂でいい。ここには足掛け四半世紀通ったので、中庭の樹木が目に見えて大きくなるのが分かった。ジョナス メカスがマンハッタンのSOHOのwoosterstで60年代にジョージ マチューナスと植えた一本の樹が見上げるほどに成長したことを彼の日記ビデオで取り上げている。樹は人間などよりその成長が早いのは、津久田のアボカドの二代目を見ても分かる。

それで今回のホテルも裏庭に面していたので実に快適だった。
なにしろ「しーーーーん」という音がするほどの静けさなのだ。
ペンペンペンに12mmを付けたのを手にして鏡に写った自分を撮影したらなぜか40年近く前のことを思い出した。写真は過去にさかのぼれる記憶の鏡である。

最新のRDリアルデザインで「新ファインダー文明がやってきた」という小特集の巻頭エッセイを書いている。680円なので書店でぜひ手にとって欲しい。
そこでもこの3月のマンハッタンのホテルでのセルフポートレートが掲載されている。
こちらはペンペンペンではなくてカメラはライカM3にビオゴン35mm(ただし戦前モデル) Photo

2011年7月29日 (金)

伯林 Sバーン ノスタルジー

Photo_4あたしは二年前にかったパナマを持っている。アンダルシアのマラガで買った本物であって、ちょっと自慢の品だ。最近はパナマは流行らしくてヒルズへの行き帰りによく見かけるが自然とその品質を比べてしまう。
2年前の夏、福田和也さんたちと谷中あたりを徘徊したのが暑い日であって、福田さんは商店街の小店でパナマを買われた。その買い方が粋であったが、その値段にも驚いた。その価格はアンダルシアの倍はしたからだ。

パナマの似合う人をアンダルシアで沢山観た。パナマの大問題はそれが似合いすぎるとなにかジゴロのように見えて人間に信頼が置けないような感じがするのが難である。
東京のメトロのホームでビートたけしのパナマ姿があった。それが何の広告かすでに忘れたが、たけしのパナマは似合う一歩前で停止しているのがさすがだと思った。

2年前の7月3日の日にヒルズに仕事に行くのに、上から降りてきた業界風のおぱさまにあたしのパナマをほめられた。それはうれしかったが、その日の午後にライカインコの体調が急変した。家人からメールの第一報があったのが午後2時18分だった。あわてて津久田に戻ったのだが、後で気がついたらスイス製の時計がその時間で壊れて停止していた。その午後5時過ぎに息を引き取ったのである。
だからパナマ帽子はそのままライカインコを記念して、かっての鳥かごの上が「定位置」になっている。

さて、ベルリンであたしの見た懐かしい光景というのはこういう種類のものだ。夏のベルリンには本当はパナマは要らない。大した暑さではないからだ。これは本来はピレネーを超えた南の風物なのである。でもSバーンのホーム越しに一瞬だけこういうシーンを観るとなにか、そこだけアンダルシアのような気がする。

★カメラはぺン3に12MMM

2011年7月28日 (木)

露西亜の蕎麦

Photo_3かつての人気バンドに「たま」っていうのがあった。その中に「露西亜のパン」というタイトルがあった。
ベルリンに居てなにも日本の米が食いたくなることもないし、向こうの黒パンとか普通に食っているのである。

偽ライカ愛好会とか、木星玉倶楽部の連中は平均的な日本人だから、4日間、中国にいっただけで日本のラーメンに憧れて、成田に到着と同時にラーメンのはしごをするとか、1週間欧州にいっただけで帰りに誘惑にまけて15ユーロもする、空港内の味噌チャーシューを食ったりするらしい。

あたしにはそのような食い物のノスタルジーはないが、唯一食いたいのは日本の蕎麦である。欧州には日本の蕎麦屋があるのかないのかは知らないけど、市場ではそば粉を売っている。ウイーン時代にはそれで蕎麦を打ったりした。今では他にすることが沢山あるので、還暦過ぎて蕎麦を打たないのはあたしの後半人生の幸運だ。

帰りのアエロフロートで、蕎麦が一口だけ出た。それは言うになりないのだけど、感心そしたのはその「つゆ」が非常にクラシックな味がしたことだ。
あたしの記憶する限りの大昔の戦後のもりそばのつゆの味で、砂糖などまったく入っていないのである。
だれが吟味したのか、ちょっと気になったことである。

2011年7月27日 (水)

ベルリンの青い花

Aaプラハのアトリエはまずメトロの終点だから郊外と言える。近くにある、旧迎賓館などは山の中にある。アトリエの南はかつては巨大な公園というか、一種の空き地であってそこで移動遊園地がかかっていたりした。
その様子はスデクのパノラマ写真集の中にも記録されている。それが60年代にプラハ工科大学になった。今では学生の町ではあるが、それは慶応とか早稲田のような雑駁な町並みというのではない。

社会主義時代に建設された「理想の学究都市」である。残念にも社会主義は20世紀の夢におわったが、都市計画がそのままに残っている。それは今の損得勘定のない時代の都市計画である。
この5月のプラハ生活では2週間の間に2度しか外出しなかったけど、それは旧市街に行かなかったという意味で実際には工科大学のメンザの続きにある、大手のスーパーに買い物に行っている。

その行き帰りに観るのが、この青い花だ。
青い花というのは、なにか非常に人工的な感じがして、星屑がそのまま花咲いたようにも見える。これがプラハの晩夏の風情なのだけど、今回のベルリンでは同じ花が元の壁の側にも咲いているのに気がついてなかなか懐古の情を催した。

80年代の後半、四半世紀前に4X5カメラでベルリンの壁を集中して撮影したことがあった。その時の興味は何も、壁が反人道主義であるなどという古くさい観念で撮影したのではなかった。
青い花と黄色い花と桃色のいずれも細かい花が、ベルリンの壁に咲き乱れて、それは日本の古代の屏風絵のように見えたのだ。よくある、金屏風ではなく銀屏風のバックに咲き乱れる秋草の風情なのである。

2011年7月26日 (火)

伯林 中央駅

Photo_5ベルリンの街が何か大都会という感じがしないのは、欧州ではごく普通の「ターミナル駅」つまりテルミニ、言い換えれば駅構内にレールの終点があって、列車はそこまで来てまた戻って行くという、あの終着駅感覚が欠如しているせいだろう。

ヒトラーの総統府の夏草の茂る廃墟の東側の、アンハルターバーンホーフはあれはテルミニタイプであるが、そのまま廃墟になっている。このタイプの駅は駅舎のファサードをギリシャ神殿のように、荘厳に作ることが可能だ。

一方でベルリンの全部の駅、それも主要な遠距離列車の駅は「通過駅」タイプである。つまり駅舎の両側にレールが貫通している。これが面白くない。
駅の貫禄に欠けるわけだ。

現在の中央駅は、以前はごく小さなSバーンの駅であった。ベルリン統一後に近所に政府機関やなにかがボンから引っ越してきて、ここにガラスドームの巨大な中央駅が出来た。

あたしの新発見は見慣れた、ベルリンのSバーン、例の黄土色とエンジ色のツートンカラーの例の電車が巨大なガラスドームの下で、案外に映えるという点である。
もともとこのクラシックな塗装のSバーンは古ぼけた煉瓦造りの駅舎に似合うものとばかり思っていたのが、モダンなガラスドームもなかなか良い。

それにしても偉いのは、ベルリン当局がこのSバーンの塗色を変更しなかったその見識だと思う。

★カメラはぺン3に12ミリ。

2011年7月25日 (月)

モスクワの薔薇

Photo

アエロフロートをアレルギーのように感じている人が居るらしいが、それが誤解である。
今のSUは往年のSUのようではない。
ただしあたしは、ゴルバチョフ時代、政府専用機がイリューシン62時代のアエロフロートも好きである。しかしこれは例外の飛行機好きというもので、普通は西側の機材(って言う言葉もすでに死語だが)が評価が高いようである。
25年ほど前に、そのアエロフロートがまだ3クラス制の当時、どういう具合かFが20万で買えた時代があった当時はよく利用した。飛行機の中でキャビアのおかわりをして、モスクワの収容所めいたホテルに一泊して、翌日がリスボンなどは良かった。週2回の便があったのだ。その後、経済発展の露西亜の人民はすがれたリスボンより、リゾートのスペインの南部のマラがなどに行きたがるようになって、アエロフロートはリスボンは撤退したのである。
それ以来、20年ほど乗らなかったが、3年前にJTBの取材で実に久しぶりにアエロフロートを利用したら(最初はFINの予定だった)案外に良かったのでそれから頻繁に利用するようになって、今はエリートプラス会員になった。世界の航空会社で3クラス制から2クラス制になったのが多い。
以前はFの客というのは、案外にのんびりしたゲストが多かったようだ。それに対してCの客はまさに中間クラスなので中間管理職の多いせいか、あまり感心できないような連中もいたようだが、最近はまた2クラス制になったので、そこらは中和されてCクラスは単に座席ピッチが広いのと、2ユーロ握ってギャレーにウオッカを買う楽しみがなくなっただけの違いである。今回だって、それはYクラスに行って後部のギャレーでウオッカのロシアンスタンダードを買うことは可能ではあろうがまだやったことはない。

今回の戻りの飛行では、アテンダントさんはあたしより年上ということはないであろうがなかなか味のあるおばさんであった。
何かの拍子で「これは本当はご婦人に差し上げるのですが、旦那な様子のいい方だから」というので薔薇の切り花をもらった。

それで思いだしたのは20年ほど前に、ドイツルフトハンザの広告の仕事をしていた時に、そこのファーストクラスのパンフを造ったことを思いだした。当時のLHのシンボルはFクラスのお客にくばる薔薇の花であったので、保税地域(単なる飛行機の中だけど)に立ち入るのに、機材の申請をしたりした。
その事を思いだしたのである。
日本から欧州に行く時に、まさか向こうのホテルに薔薇の花を持参するわけにも行かないが、今回は帰国であるので新聞紙にくるんで持参した。
モスクワの薔薇が津久田でだんだんに開花するのは楽しい。

Photo_2

2011年7月23日 (土)

日本地区への迂回路

Photoベルリンで見るべきものなどは何もない。地ツーリストは申し合わせ事項のように、ブランデンブルク門に行く。
あとはチエックポイントチャーリである。それとペルガモミュージアムだ。ミュージアムは、埃及からかっぱらってきたモノの展示だから、ドイツとは無関係だとなると、商売になるのは「ここにベルリンの壁ありき」だけになってしまう。壁はできそこないの土木作業であるから、もとより3年前にそこを訪問した、中国の西安の城壁などとは比較にもならない「やっつけ仕事」であった。
年寄りの自慢というのではない。かつて70年代に壁がまだ厳然と存在した時間を記憶しているから、その跡に立ってそこに「夏草」が生い茂っているから、感慨がある。これはかなり東洋的な思想ではあろう。

かつての東駅からワルシャワ通りにかけての東西に走る東ベルリンの幹線道路の南は、シュプレー河でここが東西ベルリンの壁になっていた。このセクションはかなり長い。東ベルリンの友人のソ連製のクルマでそこを中心のアレクサンダー広場に向かって走った。「この左側は西なんだぜ!」という友人の口ぶりはまるで「この左側は月世界なんだぜ!」と同じ響きがあった。

そこは今では何の思いつきか知らないが、しょうもないイラストがずらずらと描かれて、観光バスの止まる名所になってしまった、
そこで目にとまったのが、この看板である。
壁がそこだけ細めに開けられていて、その先には「日出る国」とフジヤマとデフォルメされた五重塔が見える。

日本への迂回路ではない。日本地区への迂回路だ。この地区という言葉はそのまま、東ベルリン地区、西ベルリン地区と共通している。うっすらと政治的な極東が見える。

実はあたしはこの「迂回路」を通って、今日、東京に到着したのだ。

2011年7月22日 (金)

伯林 U8 ベルナウアーストラーセ駅

U8

★本日移動日。ベルリン モスクワ 東京。

ベルリンのU8系統のベルナウアーストラーセ駅はかつての東西ベルリンの割合に中心部を南北に分断する境界であった。
普通は南北問題と言えば、南が西側で北は東というのが普通であるが、この場合はその位相が逆になっている。
そのベルナウアー通りの長い壁にそってどこまでも歩行した。

7年前もこの壁づたいに歩行したのだけど、28年前と駅についての勘違いがあった。このU8路線は西側の電車であるから、旧東ベルリンの領域は停車しないでスキップするのである。東西ベルリン当時、あたしは壁に行く時には、ベルナウアー通りの駅で下車したものとばかり思っていた。それは間違いだった。当時はこの駅は東にあったからそこでは電車は停車しない。止まるのは南から進行する電車が国境のベルナウアー通り駅を過ぎて、最初の西側の駅である、ボルタストラーセ駅で降りてそこから南下して壁に到達していたのだった。
Uバーンの駅にはこのような鏡が設置されている。これはワンマン運転だから、運転手が発車の時に後部を確認する、巨大なバックミラーなのだ。

2011年7月21日 (木)

★特別付録★ ベルリンのライカ屋さん

Photo_2せっかくベルリンまで来たのに、カメラ屋には行かなかったのですか、というメールが来た。2週間居て、毎日殺風景な壁ぎわばかり歩行していた。
まずあたしは「壁際族」である。
M29のバス路線は「パーテイバス」と呼ばれているらしい。ベルリンの西の外れから東の果てまでを結んでいる、二階建てバスだ。
毎日、中心部から動物園駅を越して、くーダムの先の路地の奧に、赤いマークが瞬間的に見える。言うまでもない、赤いライカのマークである。

それは見るだけにしていたのだが、滞在の最後になって、ライカの中古の価格が気になってバスを降りた。
ここらは思い出の場所であって、70年代にはこのカメラ屋の近くのホテルカリフォルニアというのが定宿であった。一泊50マルクの安ペンションだ。

当時はこのカメラ店はバラックの平屋だったのが30年が経過したら、立派な商業ビルの一部に入居している。無論、正面は日本のモダンなデジカメが星座の如くに並んでいる。そこはそのままにして、脇の方に廻ると、このようにライカの群島がある。値段はご覧の通りである。今回はもう持参のM3が一台だけで仕事には充分なので、ただ見るだけであった。お店に入ってウインドウを内側から見たら、ライカフレックスのおでこに傷のあるのが安く出ていた。しかし買わなかった。Photo_3

伯林 フリードリッヒストラーセ駅

Photo_7ベルリンのフリードリッヒ駅はかつての国境の駅である。西側からSバーンで駅に入るとなんとも憂鬱な気分になったものだ。
ホームの上の歩廊には、武装した東の国境警備兵が立っている。
階段を下りると、そこは検問所で何時も長い列が出来ていた。
そこに監視用のプラクチカの黒いカメラが天井の上に固定されていて、それには長尺マガジンが付けられていたのも懐かしい。当時はまだビデオカメラはなかったのだ。
検査を受けて階段を下りると、いきなり別世界であった。西側世界から東側世界へのこの瞬時のワープ感覚が好きであった。
歩行している人々の服装は一挙に東側風になり、彼らのショッピングバッグは申し合わせたように、ラッキーストライクなどの西側のシガレットの広告がついていた。
トラバントが薄紫の煙を吐きつつ、角を曲がって行った。
SバーンからUバーンへの乗り換え口には、安いアルコールを売る店があってそこには何時も「西側の酔っぱらい」がたむろしていた。ここの酒は東の管轄にあるので安いのだ。ただしそこに居るのは全部、西ベルリンの人間である。
ようするにフリードリッヒ駅はそこは東の管轄だが地下鉄は南北に西側のが通っている。当然ながら南の最後の駅からフリードリッヒ駅を通ってその先の西側の北側の最初の駅まで、電車は停止することなく、スキップするのである。それを西側のメトロの車窓から見ると、無人の駅を通過するときに、ホームに東の警備兵の姿が見えた。これが当時のベルリン市内の旅情であった。

今のフリードリッヒ駅は単なる古ぼけた駅である。それでも駅全体がレールの進行が僅かに曲がっているので、駅舎の屋根もそのよういわずかに曲線を描いている。
その曲線を見ると、往時の東西の国境時代の記憶がありありと蘇る。

2011年7月20日 (水)

ZEISS IKONの鍵

Photo_3ツアイスイコンの鍵はカメラよりは有名だ。ツアイスの鍵は高級ブランドであって、そのZで始まるイニシアルには、鉄壁の安全性を感じる。もとよりそれはイメージに過ぎないのだけど、カメラもレンズも鍵も、その性能よりもイメージが先行するもののようだ。

四半世紀前、当時はルフトハンザの仕事をしていた関係で、フランクフルトにはよく着陸した。実はフランクフルトはあたしのもっとも嫌いな欧州の都会だ。その理由はなぜか東京のイメージに酷似しているせいらしい。
カメラはフランクフルトのカメラ屋街で随分と買ったものだが、そのうち、ホテルの向かいにある「鍵屋」にて、ツアイスイコンの鍵を一式買ったことがある。

その鍵は普通のシリンダー錠だから、現代に使えるというわけではなくなったけど、今でも元箱入りであたしの部屋のどこかに「秘蔵」されている筈だ。

フランクフルトの中央駅にはツアイスブランドのソーセージ屋がある。それを以前はお土産に買った。その包み紙を見せて「ツアイスは最近では多角経営で食肉加工にも手を出しました」とやって人をかついだものだった。もとよりツアイスはトヨタとかホンダとかスズキのような人間の姓である。

やはり鍵はツアイスイコンに限るな。

2011年7月19日 (火)

なでしこジャパン

Photo
日曜の午後に、波蘭国境付近からベルリンに戻ってきた。
ホテルに着いたらなにか家に戻った気分だった。旅慣れしているというか、環境に慣れてしまうのが良くない。

日曜の午後8時から女子サッカーのファイナルがあるというので、ホテルの部屋にはテレビがあるので見るつもりがそのまま寝てしまった。
目が醒めたのは翌、深夜の1時である。

もともとテレビを見る習慣がないのでこういうことになる。

ホテルの朝食の時に、地元紙、ベルリナーボルゲンポストに「なでしこ」の勝利が写真入りで大きく出ていた。

ご覧のように写真のサイズは日本の感覚で見るとそんなに大きくないように思われるかも知れないが、これはタブロイド紙ではない。

これは普通のリベラル紙である。
欧州では一般紙と大衆紙とは歴然と分かれている。
日本は四民平等が建前になっているが、欧州ではまだ階級は現存する。それで労働者がインテリをうらやむかと言うとまったく別であって、ワーカーにはワーカーのプライドが存在する。

日本のスポーツ紙なら、こういう場合「やったぜ!なでしこ、うんたらかんたら」というでっかいおやじギャグ風の文字が躍っているのであろが、リベラル紙にはそれはない。

かつてのフランクフルターアルゲマイネ紙などは一面には写真を掲載しないのが普通だった。それがモノクロ写真を掲載するようになったのはかなり最近のことだ。
だからリベラル紙がカラー写真を掲載するようになった時にはかなり驚いた。
70年代にはカラー写真を掲載していたのは、出稼ぎ労働者向けのトルコ語の新聞くらいであったからだ。

ところであたしの姪が以前、伊太利亜のモデナに留学してそこのフェラーリだか何かの家庭に下宿していた当時、姪は伊太利亜語の勉強を兼ねて、覚えたてのサッカーの知識を開陳したら、家主にたしなめられたそうである。
その意味は「あなたはこれから社交をする場合、あまりサッカーの話ばかりすると、そういう階級の師弟だと思われるから止めた方がいい」という内容であった。
まことにごもっともなご意見だ。これが欧州なのである。

ひとつになって、頑張ったり応援したりするのは、これは極東の国の得意とすることのようだ。

2011年7月18日 (月)

Uバーンで出会った、あたしに似た人

Photo世の中には自分に似た人が3人居ると言われる。高校時代は市川染五郎に似ていると言われた。それがだんだんに様変わりして若い頃は上田馬の介(プロレスラー)に似ているといわれた。アメ横など歩行しているとよく声がかかったものだった。

かの稲垣足穂は若い当時は当時のモダンボーイのベスト5に入ったイケメンであったそうである。信じられないが戦後にそれがいきなり大入道になった。その経時変化からすればあたしもまず「理想的なダンデイズム」が進行していると言って良かろう。

中年になってからは徳大寺さんに似ていると言われた。小菅の「尊師」に似ているとも言われた。いずれも有名人ばかりなので実に光栄の至りである。

徳大寺さんとは、大昔、ホンダの久米社長の取材で一緒の飛行機で女満別に行った時に、一列前の座席で当時はまだ珍しい携帯のPCで徳大寺さんが仕事をしておられた。時々、こっちをちらちら見られたのであるが「このANAの機内には変な場所に鏡が設置してあるな」と思われたのであろうか。

その徳大寺時代は卒業したと思ったら、1年ほど前、月島の駅で「徳大寺先生」ですか?と聴かれたのである。長徳先生ですかと聞かれた時には、はい、そうですこんにちは!というのであるが、人違いなので「いえ、違います。よくそう言われるんですよ」と言ったら、離れてからもその人はいつまでもあたしの方を見ていた。本物の有名人はかならず否定するであろうからそのせいであろうと推察した。

ベルリンのメトロのU6の南の終点のアルテマリエンドルフという名前が好きなのは、70年代後半に西ベルリンの文化プロジエクトで東西伯林を撮影した当時、その南の終点の駅名に惹かれたのである。今回ベルリン訪問の犯行の動機はやはりまだ見ぬ、アルテマリエンドルフという名前に曳かれたのである。

実際に行ってみたら、世界三大がっかり駅に入るような場所で名前負けであった。がっかりして中心部に戻る時に、このおっさんを見かけたのだ。
ちょっと見るとあたしに似ている人なので近親感を持った。画像を大きくすると、彼の視線はあたしを見ているのが分かる。
なにか俺に似た変な東洋人のじじいが居るなと思っているようである。

こういうのは旅の途中の邂逅と言って良いが、彼はゆうに2メーター以上の巨漢である。年齢はあたしの息子世代かな。

おそらく、アルテマリエンドルフの「産土神」(うぶすながみ)があたしを哀れに思って、そのお姿を示現されたに違いない。

★カメラはペンペンペンに12ミリ。

2011年7月17日 (日)

アスカニアの腕時計

Photo_2ウーバーンで見所はやはり広告である。それもモダンな地下鉄の駅構内ではなく、100年前に出来た駅の構内がいい。

それは昔の銀座線と共通項があって、ようするに鉄骨がむきだしなのである。それが今にして逆に大都会の美学に通じるある種のお洒落を感じる。

東西に伯林を結ぶU4などはなかなか地上の駅舎も良い感じで、ちょうどパリの北部を走る、高架線のメトロ、それもスターリングラード界隈に似ている。やはり時代が100年前のモダンデザインだから良いのである。

そんなプラットホームに、こんな腕時計の広告がある。ブランドはASKANIAと読める。
アスカニアの腕時計はあたしには新顔だが、アスカニアの35ミリ撮影機とか、1000mmf6,3の超望遠レンズなどはお馴染みなのだ。この1000mmは実は、レフレックスニッコール1000mm f6,3はこのアスカニアのデッドコピーなのだ。ターレット式のフィルターの入っている所までそっくりである。

アスカニアの標準型35ミリ撮影機は、往年のトップであった。当時はアスカニアと、アストロベルリンがベルリンのトップ光学会社で戦前に日本の撮影隊が英国の王室の婚礼ななにかを取材に行った時、行きか帰りだかにアスカニア社を訪問して、映画撮影機のセットを買おうとしたら、組み立てから検査まで2週間かかるのでと断られたそうだ。それで日本の代理店たる、小西六で買うようにと指示されたそうである。

アスカニアの工場へは入り口でカメラを預けて内部をつぶさに見学して、その撮影隊はモダンな工場に感心している。
一方でノイケルンにあったアストロベルリンの工場は古くさくて活気がなかったと記している。

そういうアスカニアファンのあたしにとって、アスカニアの腕時計とはまた頭痛の種である。そのロゴがえらくかっこいい。

★カメラはペンペンペンに12MM.

2011年7月16日 (土)

わらっていいとも!ご出演の相談

268234_127899217299035_100002368710

★笑っていいとも!ご出演の相談   

これがメールの用件のタイトルだった。

そういうメールがいきなり(とは言え、メールはいきなり来るものだが)来て、「笑っていいとも」にご出演の相談、というのでかなり驚いた。あたしが「いいとも」に出たくてしかたないということは、周囲には漏らしていないから、これが「なりすまし」であることは少ない。

そういうメールが来たということを、家人に言ったら相手にしてくれなかった。ようするに受け狙いの冗談だと思っていたらしい。

それで木曜の指定の時間に新宿のアルタに行ったのである。
ひとつ確かであったのは、登場する時には、この「偽ライカ同好会」のていしゃつを着て行こうという一点だけだった。
第一、あたしはこの20年はTVを見ないので「いいとも」ではタモリさんと鶴瓶さんしか分からない。

二回のリハーサルの方が面白かった。ザツツブルグの音楽祭のオペラで舞台の立ち位置をチエックするときには、舞台助監督が有名歌手の名札を首にさげて舞台の位置を確かめたりするのだが、ザルツブルグ祝典歌劇場もスタジオアルタも同じであることが痛快だった。

しかし、ステージにモニターがないので、どのように写っているのかはまったく分からないし、それを送ってくれる人もいない。ようするに今の日本では録画などはごくごく日常のことだから、あたしもそれをやっていると思われている節がある。

1週間以上が経過して、我が「偽ライカ愛好会」の掲示板にぼつぼつ、画像が上がってきた。その一枚がこれである。こういう勇姿を死んだ両親に見せたかった。とは言うものの、両親は変わり者であったから、一体何を言われるか分からない。やはり両親の昇天後に「いいとも」に登場できて良かったと思う。

番組で面白かったのはそれぞれのタレントさんが、自慢の一枚を持参して、あたしがそれに評価をつけるのだけど、世の中の一般常識では、写真は自分の写っているのが「自分の写真」であるという、暗黙の了解があるらしい。
我々の間では、自分の写真とは、自分がシャッターを押したと言う意味である。

 

2011年7月15日 (金)

「伯林」のポップアートな色の坪庭

Photo_2
Photo_3

Photo 今回、ペンペンペンはシンプルに使うつもりで、12ミリと45ミリのプライムをメーンにしている。ただし45のファミリーポートレートレンズ(この語感は一時の安マンションが、ファミリーなんとかとネーミングであったのと同様にかなり支持しない)は時間の関係で手に出来なかったので、12ミリの一本勝負だ。

サブカメラというか、オリジナルプリント用にライカM3のさかいモデルに具生工房のホールドグリップ付きでこれでトライXで撮影。レンズはこちらはMマウントの21と28と50ミリだ。

ペンペンペン用の45ミリの代わりに、M3用の50ミリのタナーf1,5がそのままアダプターで使えることに気がついた。最初は間違って、ポップアートモードになっていたが、これはこれで面白い。

伯林の住戸はどこでも中庭がある。正確には向かい側の建物の中庭とこっち側の建物の中庭が共闘して一個の大きな中庭を形成しているのだ。

これを京都の坪庭を膨らませたものと考えると理解がしやすい。だから大都会の伯林の住民の心は日常に庭を見ているので案外に安生なのである。ただしホテルならバックヤードを指名しないとこの恩恵にはあずかれない。

2011年7月14日 (木)

伯林 空筒の「悪夢」

Photo_6あの当時の記憶は今でもはっきり覚えている。毎日、西伯林から東伯林に「通勤」したのである。外国人の通路はチエックポイントチャーリーかフリードリッヒストラーセしかなかった。あたしは電車組だから後者のポイントである。
Sバーンにゆられていると、最初の西伯林のヨーロッパセンターが見えて、その建物の頂上にメルセデスベンツの巨大な広告塔が見える。Sバーンが進行して、国境の駅、フリードリッヒストラーセのひとつ手前の駅、レーラーシュタットバーンホーフになると、そこは荒れ果てた駅舎で何か暗い気分になってくる。

別に当時の東伯林はあれこれ不自由とは言え、あたしのような観光客がそこに圧政を感じるようなマイナス要素はなかった筈だ。
マイナス要素を感じさせるのは、この巨大なテレビ塔なのである。
西伯林のどこからでも、この銀色のゴルフクラブは良く見えた。西を歩行中にいきなり視野の端に、この電波塔が入るとなにかストレスになった。
それはこの銀色のシンボルはそのまま、「もう一つの国」の象徴そのものであったからだ。

2011年7月13日 (水)

JFK@checkpoint C

35jfk

Jfkが伯林の壁を訪問したのは、1963年の夏のことだった。場所はチエックポイントチャーリーと思われる。その理由は背景の壁だけの建物に見覚えがあるからだ。

壁のある当時にはこのような「お立ち台」がそこかしこにあったものだった。これは木製なのである。確か、ベルナウアーストラーセのお立ち台には、「この構築物に登る時は自己責任で」とペンキで描かれていた。

なにも東ドイツの警備兵に狙撃される危険があるというのではない。ドイツ語の国家ではそこらへんの権利関係がはっきりしているのでこれは「お立ち台から落ちて、負傷しても知らんぞ」と言っているだけのことだ。

それでも高い台の上に登ると、向こうの監視塔の中のグレーのガラス越に、兵備兵の動きが見え、なにか光るのが見えた。これはこっちに銃を向けているのではない。双眼鏡のガラスが光っただけなのだ。でも彼らも警備で退屈しているであろうから、そういう西側の「不穏な動き」は退屈しのぎにはなったであろう。

JFKも東側の警備からしっかり監視されていたはずだ。いや、ペンタコンSに500ミリの望遠レンズで姿も撮影されていたかも知れない。

ところで、この画面が6X6サイズである。今のパパラッチなら超望遠でjfkに肉薄するところが、距離を置いているのが良い。ローライであろうか。周囲の報道関係もちゃんと背広着て、なにかインテリっぽいのも良い。

2011年7月12日 (火)

創立半世紀記念のベルリンの壁を行く

Photo_4 7年ぶりのベルリンだ。
この前は、腰名の広告の撮影でベルリンを起点にしてナポリに行った。そこでツアイスの28ミリ用の「雑誌広告」の撮影をした。
ベルリンとナポリはいわゆるLCCを使ったのである。周囲はウアラウバー(ドイツ人の観光客)に囲まれた飛行だった。

ベルリンに戻ったら、新潟の大地震があった。どうもあたしの海外に行っている時に日本に大震災が起こる。これが不思議だ。それだけ日本に居ないということか。

日曜の深夜にベルリンに着いて、仮眠していきなり行ったのはかつての西と東の壁のトップスターである、ベルナウアー通りの壁だ。1979年にここで最初の壁に遭遇したのだ。
ここは東ベルリンの中心部の北側にあたる。西ベルリンが北で東ベルリンが南である。普通のイデオロギーの感覚からすれば、東西と南北が逆転している。

昨日のブログで「ベルリンの壁はもうない」と書いたが、正しくその通りである。いま、あるのは壁の廃墟である。

7年前にはさびれた空き地であったのが、今回行ったら、壁を記念する建築と壁をそのままに文物として残す試みが完成していたので、ちょっと感激した。
おじいちゃんが孫に壁の説明をしている。観光バスが沢山停まっている。
ベルリンの壁はプラハの三十年戦争の飢餓の壁みたいにすでに歴史になっているらしい。

本日のショットはペンペンペンに、12ミリで192ショット。

2011年7月11日 (月)

ベルリンの壁を真似る、音羽の崖

2

ベルリンの壁はもうない。ところがあたしのベルリンの記憶の中でもっとも濃厚なのは、ベルリンの壁に沿ってどこまでも歩行したあの記憶なのである。

あたしの生家のあった、文京区の音羽の一本道のすぐ裏は崖になっている。少年時にはまだ崖ではなく、久世山の上に登れる小道ができていた。
コンクリートの崖が固められて、その脇を歩行するのが楽しみであった。あれから数十年が経過しても、時々は音羽の崖下を歩行する。実際にはこれは崖であって、壁ではないのだが、その壁の側を歩行していると、なにか崖が壁に思えてくる。

最初にベルリンの壁を視たのは1978年であったか、壁はまさに音羽の崖のように見えたのである。

2011年7月10日 (日)

モノクロフィルム12本ルール@伯林

Photo
2
ベルリン。初日。

★御礼。切り番企画8888888も迅速に通過しました。当選の方は、画像をお送り願います。記念品の発送はあたしがベルリンから戻る月末になります。どうもありがとうございます。

★追記。昨夜というか、今朝の1時にホテル着。部屋はかつての西ベルリンのど真ん中だ。これは生活習慣であろう。20年前に壁が崩壊した直後に、モノ好きからわざわざ、旧東ベルリンのホテルに投宿したが、当時、普通の住居からにわかにホテルになったような建物は酷かった。やはり旧西ベルリンの方がホテルはいい。

快晴の日曜のベルリンの朝だ。気温は16度ほどか。ペンペンペンの素振りではなく、テスト撮影に。レンズはまるでライカマウントみたいな、12mmの新レンズが一本のみ。

この3月のマンハッタンで発見したのが、モノクロフィルムの12本ルールというやつである。
あの時にはビックカメラでアマチュア用の3本組のプレストを3箱買ったのである。それで思い出したのは10年以上前になるが、富士フイルムのモノクロのやはり3本パックに「モノクロのすすめ」というタイトルで小冊子を封入したことがあった。ギャラは払ってもらったが、サンプルはもらえなかったので、それがヨドバシに買いに行った。

当時の雑広(業界用語で雑誌広告の意味)で、見開きの富士フイルムのバライタペーパーの広告に出たことがある。印画紙の画面は当然、はめ込み合成だが、脇に置かれたのはライカM5であって、その部分のLEICAというロゴは消してあった。反対に、FUJINON 35MM F2のレンズの文字はくっきりしていた。
思えば当時は大会社が真面目にバライタペーパーを売ろうとしていたのであるから頭が下がる。

2日かけてダークバッグの中にセロテープとハサミとパトローネを持ち込んで、フィルム巻きをした。デイロールを見失ったのでそのようなことになったのだが、これが難行である。
ライカを持って20キロ歩行して撮影した方が遙かに楽だ。
2週間で12本というのは案外に実効的な本数であることが、この3月のマンハッタンで理解できたので、今回のベルリンの壁ノルタルヂーツアーもそれで行く。
それで時差のベルリンで現在、ぼっとして今週のスケジュールを立てている。誰に卯も会わない予定だが、それも重要な仕事のうちだ。

2011年7月 9日 (土)

新宿アルタ前

Photo
Photo_2
Photo_3
Photo_4

★お知らせ。

何時もご愛読ありがとうございます。
ペンペンチョートクカメラ日記はもうすぐキリ番の8888888を迎えます。そのラッキーナンバーを踏んだ方に豪華(か、どうか分かりませんが)記念品を贈呈します。キャプチャ画面か、画面の記録写真をお送りください。グッドラック!

★本日移動日。
NRT SVO SXF 極東は飽きたので、取りあえず壁創立50周年の伯林に高飛び。以下、本文。

1983年、マンハッタンに暮らした時、日本から来た数人の女子に「今、日本で一番面白いTV番組は何?」って聞いたら「わらっていいとも」だという。
第一印象が実に奇っ怪なタイトルだった。29年前の感覚だとかなり未来にぶっ飛んだタイトルなのである。

ニューヨークから戻って、「いいとも」を見るようになった。当時は暇だからお昼には家に居たのである。
もともと森田さんを知ったのは、70年代末にウイーンにピアノを壊しにきた、山下洋輔さんから聞いたのだ。山下さんの著作「ピアノ弾き飛んだ」ではあたしは「気xがいと紙一重の天才ピアニストXXとよく似た田中長徳」と紹介されている。その本にはタモリさんのデビュー前後の秘話も書かれていた。

そのうち、「いいとも」を観覧をしたくなって、はがきを20枚ほど送ったら全部がペケであった。あれから20年余が経過した。「いいとも」を忘れていたのは、佃の大ガラスの部屋には電気は来ているが、テレビはない。
それが今回ゲストで呼ばれたのは非常にありがたい。それも七夕の日である。

朝、10時前に新宿アルタ前に行った。まだアルタビジョンには明かりが入っていないので、真っ暗である。あそこの巨大スクリーンに一瞬でもあたしの姿が投影されたらこれは恐ろしいことである。その瞬間を自分は見なくて良かった。

スタジオで二回リハーサルがあったが、これは本番よりも面白かった。
しかし一番の不思議な経験というのは、ADさんが呼び出しに来るまで控え室で待っている時に、進行を見る為にTVはつけてあるのだが、実際に進行していることがらに対してテレビは0,7秒ほど遅れるのである。「キャー」という生の声がコンマ七お遅れて控え室のTVで「キャー」。その時間差感覚がなにかエコーというか、未来のドップラー効果という感じがして、その時間差をもっぱら楽しんでいた。

時間になって、ADさんが呼びに来て、ステージの扉の後ろに立った。脇にはモニターがあるので、そのモニターを見てタイミングを計って、ドアをADさんが開けてくれる。それでステージに登場するのであるが、能楽の「臆病口」とは良く命名したものだ。青山能楽堂を取材したことを思い出した。

タモリさんの脇に立って、写真の順位と講評などをした。メンバーさんの写真がなかなか良いのには感心した。それに皆さん真剣である。
「良い写真を撮ろう」というのは、世界のカメラ人類の共通の望みなのである。これは大したことだと思った。

ステージのあたしの目の前でタモリさんが、あれは何というのか、ボードの文字を隠してあるテープをぴりっと剥がすのである。そのタモリさんの手つきが実に慣れているのが神秘で何か人間国宝の技を見ているような気持ちになった。
こういうアナログ作業は魅力だな。
第一「テレフォンショッキング」って、テレフォンショッピングのもじりだし、そこら辺がかなり高度な文化の80年代を表象している。

意外に思ったのはステージの装置はほとんど人力であることだ。これでないとなかなか迅速変幻自在な進行は難しいのであろう。

フジテレビのブロヂューサーのK木さんにもご挨拶した。なんでもあたしのカメラの著作は全部読んでいるという大人物である。実にありがたい。

大昔、親戚が黎明期の東京放送のデイレクターだった。見学に行ったあたしは小学生だった。当時はまだビデオがなく全部、生放送なのである。イメージオシルコンのテレビカメラは火を入れて使えるまでに半時間はかかった。しかも白黒だ。その当時を思い出したのだから、あたしも相当なクラシック人間だと実感した。

また「写真王」の審査と講評で行こうと思う。

2011年7月 8日 (金)

二台のコンタックス

1_2

今回のベルリン行に持参するのが、この2台のコンタックス2型である。
同型のカメラはキャパがやはりDデイの日に2台持参して、ノルマンデイの死線を彷徨っている。その前の西班牙戦線でのキャパのカメラはライカであったが、やはりコンタックスの方が戦場で強いと思ったのであろうか。

恐らく、キャパは50ミリレンズと、せいぜい35ミリレンズだけを携行したに違いない。彼の撮影した写真の画角でそれが分かる。
しかし70年前に制作された、クラシックカメラが今でもちゃんと使える事実はなんと言っても凄いことだ。

あたしの今度のベルリン行きも、使うコンタックスは1台のみである。もう一台はバックアップ用なのだ。フィルムはトライXを12本のみ持参する。これはこの3月のマンハッタン計画であたしの教わったことである。
沢山のショットはあまり意味がない。これを勉強するのに実際に40年かかったわけだ。
 

2011年7月 7日 (木)

アトリエの夕景

1

★お知らせ★

★本日からペンペンチョートクカメラ日記 韓国語版がスタートしました。
こちらもよろしくお願いします。本物の「韓流」です。

http://blog.naver.com/chotoku

★本日、7月7日の「笑っていいとも」にちょっと出演します。写真とカメラのお話をします。 ご高覧のほど、よろしくお願いいたします。

★「笑っていいとも」をご覧いたきありがとうございました。

この5月のプラハは、2週間のうち、外出したのは2度のみであった。
ずっとアトリエに居て、室内を歩き廻ったり、窓から外を見たりしていた。

夜ははくちょう座を視たり、流れ星を見たりした。
アトリエの窓だけが「世界に開けた空間」なのである。

以前のアトリエは曇りガラスの二重の天窓であって、これは戦前に構築されたものであるらしいが、まず視野が遮られているのだから、これは刑務所である。

アトリエがモダンになってから、ここで過ごす時間が増えた。
新潮の「屋根裏プラハ」の連載の第1回目に、この8枚ある天窓のうち、キッチンの貼られたA4サイズの白い紙が、google earthからでも見えることを書いた。

それに答えて、あたしのトークショーによくご夫妻で来てくれたD門さんというのだが、その奥様から顔本に書き込みがあって、なんでもご実家の上空からのgoogleを視たら、そこには3年前に死んだ、愛犬の「平吉」が写っていたという。こういう事例はこの世の中には多かろうがそういうのは良い供養になる。

なにか「神の目」をそこに感じるのである。

プラハの夕暮れはこの世のものとも思えない美しさである。特にこのように、明日は極東に発つという全前日の黄昏は、これはそういうメランコリーな気分がそう見せるのかと思ったが、実際にこれはドラマチックな夕景なのだ。

カメラはコンタックス2にビオゴン35である。いずれも1940年代製。

2011年7月 6日 (水)

週末はフォトグラファー

Photo_9この前、フリーアンドイージーというライフスタイルマガジンからライカ関係のインタビューを受けた。
その8月号が送られてきた。980年のムック状の本でこれがかなり厚くて重い。あたしの最近の読書はベッドに仰向けで異パッドである。異パッドより重いものを持ったことのないじじいであるから、手が痛くなった。

巻頭は人生の生き方訓というのであろうか、ウオーホール、開高、ゲバラ、黒沢ななどが登場してなにか修身の教科書みたいなのも面白い。片岡義男さんの連載エッセイに接した。最近は数年来、片岡さんには会っていないのでなにか、クラス会で大先輩に会った気分だ。

男のライフスタイルの雑誌であるから、ライカとか隠れ家とか、自転車とかいつも同じパターンでそれが売れるのだからこういうのは伝統芸能というのであろう。
ライカのテーマが「休日はフォトグラファー」というのである。
インタビューの中であたしは「ライカの素振り」に言及している。ようするに5年前まではライカにフィルムをいれずに、銀座を闊歩しているライカ人類をあたしは批判したものであったが、最近ではその考えを変えた。フィルムを入れないライカのシャッターをきることを「ライカの素振り」というのだが、これが癒しの効果があることに最近気が付いたのである。

まあ、実際の画像はデジタルカメラが担当してくれるので、ライカは素振りでその感覚を堪能するのが案外に良いのかも知れない。
ワインの場合にはこの「素振り」は不可能である。ワインはキャップを開けたらそこまでである。ライカはその点、中身が空でも楽しめる。

2011年7月 5日 (火)

リングキューブの面々

Photo_5
Photo_6
Photo_7
Photo_8リングキューブでトークをした。日曜の午後2時からだった。
佃から直接行ったので、会場には5分前に到着したが、会場の主催者の方ではあたしが遅刻すると思って、気をもんだらしい。
後で気が付いたのだけど、以下のメールが着いていた。

田中先生
本日14:00よりのトークショー、まもなくですが、まにあいますでしょうか?
お待ちしております。
瀬藤

会場に到着したら、満員であった。ラッシュのような会場だが、これでは話が出来ないので、皆さんにあたしの歩行する通路を開けてもらった。
会場はリング状になっているので、あたしの顔は見えない。それで一計を案じて歩行しつつ話をすることにした。

月一で四谷のガラクタ屋でビール箱の上にのってトークをしているが、ここにはそのビール箱がないのは仕方ない。3年以上もビール箱に乗っていると、箱がないとなにか物足りない。
木製玉クラブの常連さんの顔も見えた。
1時間も三愛ビルに立っているのはなかなか大変なことだと思う。こっちは歩行しているのだから大丈夫だ。

終了してからサイン会とか、記念写真などのイベントがあってなかなか楽しかった。
クラブエダムのちかちゃんも来てくれて、今から先に戻ってクラブを開けておきますとのこと。あたしはクラブエダムは日曜は休みなので、仕方ないから六本木ヒルズクラブの方に行こうと思っていたので、これはありがたい。

それで木製玉のメンバーと徒歩、大川を渡ってクラブエダムに行った。

2011年7月 4日 (月)

CHRISTIN LOSTA 30 YEARS WORKS @ BERLIN KUNSTFORUM

Lostaクリステインはウイーン9区の美容室の娘であった。1975年頃、オペラ座の脇の写真展のヘルムートが写真を勉強したいモデルの子がいるというので、ドナウ運河のあたしのアパートに来た。

当時の彼女は写真のモデルではなかなかの売れっ子で、コパトーンの広告で黄色いビキニでテレビに登場していた。ただしあたしのテレビはモノクロだからグレーのビキニにしか見えなかった。

あたしと同じ年代であるから、すでにモデルの赤信号が出ていた。それで彼女は一番身近な転職をしたのだった。すなわち、カメラのレンズの前からカメラの後側に移動して、ファッション写真家になったのである。
最初はなかなかおぼつかなかったが、だんだんに経験がものを言って、さらに30年もやっているのだから、向こうでドイツボーグのスター写真家になったようである。

そのクリステインと最後に会ったのは1983年の秋のミュンヘンであるからすでに30年は会っていないことになる。
先週の暑い日に津久田の部屋で涼んでいたら、いきなりメールが来た。ベルリンでの回顧展の案内である。彼女はミュンヘン在住だけど、今の文化の中心はやはり首都ベルリンなのであろう。

偶然とは言え、来週からベルリンに行くのでまず展覧会を表敬訪問するつもりだ。
20代当時のクリステイン・ロスタはあたしの写真集「Wien Monochrome 70s」に登場している。またカメラ毎日にセルフヌードの作品を発表したこともあるが、一番の武勇伝はニューヨークにヘルムート・ニュートンに会いに行ったことであろう。

2011年7月 3日 (日)

新潮社「伝説のオムライス」

Photo
Photo_2
2011年の前半期の最終日に、新潮社に行った。
この前、en-Taxiの田中編集長から「本の雑誌」をいただいた。6月号であって特集は「新潮社に行こう」である。
突撃レポーターさんのレポート内容で一番興味を持ったのが、大食堂である。実際には新潮の編集長の矢野優さんのインタビューを永江朗さんがやっていたりであるが、矢野さんの方はあたしの「屋根裏プラハ」の連載で「生の矢野さん」をたびたび拝見しているから、それよりも喰い気が先行であって、食堂の200円の定食が気になった。

今度「屋根裏プラハ」が単行本化されるにあたり、文芸第一の佐々木さんと打ち合わせなのである。いや打ち合わせを隠れ蓑にして、200円定食を体験という下心がある。前の日にちゃんと100円玉を二個用意した。ミシュランの星付きレストランはフランスで仕事で2ダースは廻ったが、今回の新潮レストランは星こそつかないけど、超ミシュランかも知れない。
佐々木さんから前の日に「明日はオムライス」です、と情報リークがあった。

思えば、オムライスのサンプルを日本路地裏学会で路地裏調査したこともあった。ただし、正確に言えばそれはオムライスの調査ではなく、その蝋細工のサンプルの調査なのである。東京の下町の大企業の系列ではない、インデイ食堂の小さいウインドウにサンプルは鎮座している。その価格帯は場所がらとかをかなり正確にフィードバックしているので、東京オムライス曲線が出来ると思った。

実際にオムライスを眼前にして、あたしに躊躇があったのは、これは喰って良いのであろうかという単純な考えであった。過去、10年に渡ってオムライスを見たと思ったのはあれは勘違いであって、実はオムライスの蝋細工を見ていたからだ。
国会答弁であたしの一番嫌いな言葉は、まず「庶民の目線」と「絵に描いた餅」である。その説明はしないけど、後者はこれからは「蝋細工のオムライス」とした方が時代には合っているであろう。

オムライスの最初の一口を喰おうとしたら、そこに斎藤暁子編集長が加わられたので、緊張した。実は暁子とは家人と同じ名前なのだ。暁の子は名前では数が少ない。
そこであたしは斎藤編集長に、月島の尾崎畳店が最近、二毛作になって、昼は畳屋で夜は焼き鳥屋になった話しをした。当座の思いつきであるが、初対面の編集長と応接室で対面したら、いきなり畳屋兼焼き鳥屋の話しはいかにも変である。しかしオムライスを口にしながら「今度、畳屋の焼き鳥屋にご案内します」とは簡単に口に出る。
オムライス様のおかげで、実にリラックスした打ち合わせが出来た。
感謝!

2011年7月 2日 (土)

福田和也さんとリコーフレックス3型

Photo_4リングキューブでのあたしの写真展の初日に別に話題つくりというわけでもないが、最初のリコーフレックス3型を持参した。まだ占領国日本時代に出されたリコーの最初の二眼レフである。

当時アイデア社長といわれた(この名称がクラシックだなあ)市村清のアイデアで普通は2万円もした(当時の月給の3倍か)二眼レフを7700円でだしたので大人気となり、三愛ビルの前には列ができたという。

巷間、伝承の間違いは和光で売り出してビルの周囲を買い物の列が一周したという神話である。あたしもそうだと思っていたがこれは三愛ビルの間違いだ。
今のGRDもこの二眼レフの大成功の延長線上と認識することができる。

夕刻になって福田和也さんや矢野優さんらと泰明小学校の向かいのビストロで食事をした。その時、福田さんたちとリコーフレックス3型を手にとってカメラ談義が盛況になった。
7700円というには当時の月収分であるから今なら、30数万円はする高級機ということになろうが、子細に見て行くと本体はブリキのプレスだしなかなか合理的にできている。しかしそのシンプルさが故障のないことにもつながって、今でもちゃんと使えるリコーフレックスは多くある。

戦後の映画「ホロシマ・モナムール」に出演した女優さんが、当時、リコーフレックスで撮影したネガとカメラを何十年も保管(というか忘れたままで)して、それが脚光を浴びて銀座のニコンサロンで展覧会があったのも数年前の話だ。
まあ、リコーとニコンは元をただせば同じ系列会社だからこれは問題なし。

ところで福田さんと「最初のモデルなのになぜ3型なのか」という疑問が提示されたのだけど、さっきそれが判明した。創業者市村清の提唱した「三愛主義」の3なのではなかろうか。

 

« 2011年6月 | トップページ | 2011年8月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年10月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31