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チョートクカメラ塾ブログ

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2011年6月30日 (木)

★速報★ペン3の変わらないとこ、変わったとこ

Photoペン3型が発表になった。他にもレンズが2本と、この秋に出る新型のデジカメがあるが、まず一番最近に出るのは、ペン3である。
ペン3は今までのペンと大幅に変わったのはその内部機構である。それは細かくはプレスレリースを読めば分かるので、あたしは実機にさわった印象と撮影時の印象に触れたい。

まず、変わらないのはそのデザインである。実はペン1からペン2になって、ペン3がそのスタイルがパワフルになったり、デザインのラインが洗練されたりするのは嫌だなと思っていたのである。

ペンのスタイルは十分に洗練されているのであるから、新製品で目先のラインを変えるような「こざかしい真似」は止めてもらいたいと思っていた。
それが従来のモデルの基本のデザインラインを踏襲したのは素晴らしい。あの本体上のあれは何と言うのか、銀色の光輝くラインがペン2やペン1と同じなのを見て、最初に安心したあたしであった。

70年代のオリンパスのOM1に始まる一連の一眼レフシリーズでも、オリンパスはそのベーシックなデザインのラインを変更しなかった。
これは陳腐なことではなく、逆にユーザの信頼を増加させることである。

ペン3はあたしはホワイトを使ってみたい。それで二台目のペンは無論、一昨年の1型のホワイトを同時携行してベルリンに行こうと考えている。

一方で変わらないデザインに対して、内部はまったく新しくなっている。メーカーの宣伝文句はここでは省略して、テスト機を操作して感じたのは、これでペンは機械式のライカとほぼ同じ撮影速度になったなというある種の感慨なのである。

あたしにとって、デジカメが我慢できない遅さから、まあ使える速さに脱皮したのは、ちょうど10年前、2001年9月に独逸で(カタログの為の撮影に)使った、パナソニックLC5が最初であった。それ以前のデジカメは「動体は撮影できない」という状態であった。あれは歴史的転換点であってあれから正に10年が経過している。
ここでペン3になって、ペンはメカニカルフィルムライカのスナップショットの速度と対抗できることになった。
この事実を自分はちゃんと書き留めておこう。

新レンズの12ミリF2はバランスの良い、スナップシューターとしてあたしの路上の仕事に大きく貢献してくれそうだ。まず使用モードはオートフォーカスではなく、クラシックなマニュアルモードで使うつもりだ。

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★以下は7月1日のペンペンペンに関する追記

ペンペンペンの反応が凄い。

やはり今までペンとか、ペンペンを使っていたユーザーが買い換えるのではなく、「買い足し」するようなのである。

伝統のライカユーザーの場合、M2とM3を持っていて、そこにM4とM5を買い足したものであった。ペンとかペンペンとかは確かにペンペンペンが登場すると、旧型になるのかもしれないけど、その意味は「もう使えない」というのではなくサブとして、あるいはセカンドユニットとして使えるという存在感だ。

これは大事なことである。

今、今月の19日に出る月刊「RDリアルデザイン」(えい出版社)のカメラ特集のイントロの話を書いている。テーマは「ファインダー」なのだが、ペンペンペンの場合もそうだが、電子ファインダーと外付けファインダーの効果的な切り替えが、この小型でフットワークの良いカメラの使い方の切り札になる気がしている。これからは光学ファインダーをいかにデジカメに応用するかだ。

従来のデジタル一眼レフの場合、すべてが光学ファインダーである。ミラーレスの場合には、デジタルファインダーと広角レンズ使用時の外付けファインダーとの臨機応変な切り替えが使い方のキーになるであろう。

もう一つの興味は、やはりプライムレンズの使用にある。従来のデジカメはズームが普通であったが、ズームは実用デジカメに任せて、プライムレンズで撮影するのが、カメラによる「世界認識」の為のステップアップだと思う。

商業映画の撮影の現場に長く居たあたしの経験で言えば、例えば、ブリキの太鼓のフォルカー・フュレンドルフだが、彼はズームは使わない。プライムのスーパースピードでそれもせいぜいが50と85がせいぜいなのである。

ズームを多用するのは畢竟、制作費の安い香港系の空手映画というイメージがあって、これが損なのだ。

12ミリと45ミリの二本のプライムがあればこの世界はまるごと撮影できるのは確かであろう。ただし45ミリのレンズの呼称が「ファミリーポートレートレンズ」というのはいかにもいただけない。家庭写真には勿論優秀な結果が出るであろうが、45ミリをポートレートレンズと認識するのは、まるで半世紀ま前のライカレンズの型録みたいだ。

まずメーンレンズは12mmの新レンズだな。2年前のペンの登場時にペンの本をインプレスから出した。そのロケはプラハで行ったが、当時はまだ広角ズームの9-18が存在しなかった。それでコシナの12ミリf5,6をマウントアダプターで使用した。ただし明るさがf5,6なのでそれで苦労した経験がある。新12ミリはその点、明るさがf2だから充分に暗い場所が撮れる。

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★以下は7月2日のペンペンペンに関する追記

明日の7月3日にはペンペンペンの大発表会がある。あたしは同じ時間に銀座の三愛ビルのリングキューブでウイーン展のトークショーがあるので(予約不要)残念ながら参加できない。その場所は秋葉原だ。

実は一昨年の同じ日にもやはりペンの発表会があったが、あたしはそれは知らなかった。というのは、その一昨年の7月3日にライカインコが昇天したという個人的なアクシデントがあって、精神的にちょっとやられていた時に、その翌日であったか、インプレスのデジタルカメラマガジンの上田さんから、ペンデジタルを使ってみないかというお誘いがあったのである。

ライカインコは鳥だからPちゃんである。ペンもPで始まるからあたしはイニシアルのPに救われたことになる。それで翌月、8月に本の制作でペンを持ってプラハに行った。その11月にはペンペンを持って長崎に行き、2010年の2月には2冊目の本の制作でペンペンを持ってリスボンに行った。

それで来週からは新鋭のペンペンペンを持って、ベルリンに行くのである。ベルリンに行くのは、ベルリンの壁が出来て今年が50年なのでその関係の取材に行くのである。ベルリンではペンペンペンで旧東ベルリンのテレビ塔を撮影しよう。このテレビ塔はなぜか、東京スカイツリーに似ているのだ。テレビ塔の兄弟だな。

あの、2年前の7月の初め、隅田川に面した大ガラスの部屋で、空になったライカインコの鳥かごの先の無限遠の地平線上に、東京スカイツリーが芽を出した時期とこれは一致する。それでペンでスカイツリーを撮影開始したのが、ちょうど2年前だった。そのツリーはどんどん伸びて今は完成間近である。

ペンでスカイツリーを撮影することは、以来、あたしの「ライフワーク」となった。

スカイツリーをペンで撮影開始して、ペンペンでさらに継続して、今やスカイツリーをペンペンペンで撮影することになるわけで、そういうツリーの連続した成長と第三のペンまでの成長とが、あたしの中ではシンクロしているわけである。

先週掲載した、香港の友人からのペンのキーホルダーだけど、あのパッケージを見て吃驚した。表紙の男性がペンを持っている写真は、当時は気がつかなかったけど、良く見たらあれは、ペンでもペンペンでもなく、あれは発表前のペンペンペンなのである。モードダイヤルが右の肩に付いていない。

どうもオリンパスの発表の時期は世界共通ではないのかも知れない。というのは、ペンの登場した2年前のことだが、日本の発表より欧州の発表の方が若干前倒しだった記憶がある。いや、それは記憶違いかな。

ペンペンペンのデザイン上の面白さは例のハンドグリップがネジで外れることだ。グリップを外すとそこには広大な地平が開ける。そのデザインは1965のフィルムを使うペンFのデザインと共通するものを感じる。

どっかのサードパーテイでこのビスで固定する、外部バッテリーでライカビットみたいなのを出してくれないかな。昨年の2月のペンペンでのリスボンの撮影では、午前中にめいっぱい撮影すると、ちょうどバッテリーが空になった。そこで撮影は中止にして、ランチに行ったわけだが、ライカビットなみのベースプレートの外部電源があれば、なにかかっこいいと思う。

もともとペンペンペンはプロ用なので、もう少し、そのデザインを「いかつく」しても良いわけだ。

マンハッタン計画完成

Photo

Photo_2

この二月に計画が開始され、3月にちょうど、東日本大震災の初日から撮影が開始された「フランク・さかい・チョートクマンハッタン計画」が6月29日、完成した。

当初は10枚のセットのオリジナルプリントで、エデイションは三で、あたしがAPを持って、さかいさんがワンセットで、もう1セットは販売の予定であったが、さかい写真研究所の市川研究員が買ってくれたので残部はゼロになった。

10枚に加えて、もう一枚をプラスして、合計のプリント数は11となった。これで「マンハッタン イレブン」というわけである。
価格は11x14の11枚セットが30万円だった。あたしのプリントは市場では@6以上で取引されているからこれはバーゲンかも知れない。
Photo_3
さて3年半ぶりの暗室作業でかなり戸惑うかと思ったがそんなこともなく約5時間で30枚ほどのプリントを終えた。フラットニングも完璧にて、そのまま額そうできる。
今年は夏8月には日本で暗室三昧にしようと思う。節電の時季であるが、暗室は液温管理があるから、クーラーをおおっぴらに使えるのである。

2011年6月29日 (水)

LAMEGONとBIOGON

Lamegonリンホフテヒニカと入力すると、バカなATOKは凛保父手比に過と出力する。凛保父はなかなか良い感じの漢字変換だからそのままいただくとして、手比に過の方はあまり感心できない。

その凛保父であるが、日本デザインセンター時代にはメーンカメラであって、これでトヨタのスタイリングから、朝日ビールから東芝の冷蔵庫から、新日鉄の工場撮影までこなした。
今でも凛保父は暗闇でも操作できる。ほとんどの商業写真をこれで撮影した。スタジオでもっと高度な撮影の場合にはジナーを使ったがそんなことは滅多になかった。軽量で小型でどこにでももち運べるのが強みだ。
ところで商業撮影の場合、レンズはシュナイダーのジンマーで180,210,240あたりが一番使うレンズであった。
クルマの撮影には150、135それに121ミリを多様した。

広角レンズは90,75,65があったけど、まずは90mm以下はほとんど使用しなかった。今では商業写真ではなく都会写真を撮影しているから、65や75も使うけれど、一番使い勝手の良いのはやはり90mmである。
90mmはシュナイダーのスーパーアングロンf8が常用だった。明るいf56の方は高価だし使わなかった。さらに高価なのが、ツアイスのビオゴンに90mmで明るさがf4,5というのがあった。これは天文学的な高価レンズであって、今のライカのノクチルックスf0,95などより高かった。
これは西のツアイスに対抗して出した東のツアイスイエナ(というよりもこっちが本家)のラメゴン90MMF4,5である。
これも西のレンズを凌ぐ優秀レンズである。ただし比較写真でも分かるようにそのサイズは特大である。
凛保父に付ける時にはまずリアのエレメントを外してレンズボードを固定してから、レンズのリアエレメントをねじ込む必要がある。
普通の4X5の広角撮影は大抵はF16あたりに絞って三脚で撮影するが、このレンズはF4,5という明るさだから、手持ちでの撮影がいい。その為にユニバーサルファインダーが必要になる。

2011年6月28日 (火)

矢野優さんとライカ

Photo_3リングキューブの写真展の初日に福田さんの音頭(スポンサーと読む)で、泰明小学校の向かいのビストロに飲んだのだけど、矢野優さんはライカD3を持参していた。これはあたしの「屋根裏プラハ」の20回連載がおかげさまで新潮で完結したので、そのあしかけ三年も「矢野文章塾」で教えを受けたので、いかさかの感謝の気持ちでこの前、贈呈したのであった。

矢野優と言えば、日本の5大文芸誌の中の紅一点ではなく「黒一点」の存在で最近では新潮の掲載作家から芥川賞の連打というスター編集者だ。
その文芸名人に教えを受けたのも福田和也さんからのご紹介なのであって、最初の矢野さんに会ったのは、あたしの知人が新たにオープンした四谷三丁目の「いぬっころ」という名前のPIVONICHE(ビアホール)なのであった。それが縁でプラハのエッセイを連載に至ったのは実に不思議な縁というほかはない。

毎回、矢野さんはヒルズのあたしの仕事場に来てくれた。なにのキャリアもない駆け出しの還暦エッセイストであるから、本来は矢来町にお伺いするのが本道であるが、最初の日に延々と6時間以上、クラブで飲んでそれかれらライブラリオフィスで飲んで意気投合とは失礼の極みだが、矢野さんの背景を良く知ることができた。
ただしそれで親しくなれたかと言えば、それが逆であって、毎月の「矢野文章塾」は大手クライアントとの打ち合わせなどよりもずっと緊張したのである。

矢野さんは福田部長代理の指揮する「あの写真部」の幽霊会員でもあるが、人気月刊誌を編集しているのだから幽霊は仕方ない。
この前、この(画面下部にぎりぎりに見えている)をヒルズで贈呈して時に、矢野さんはこのライカを持って奥様の実家のオランダに奥様と行ってみようかとぽつりと言ったのである。奥様の父上は著名な映画作家であるが母上は映画のスチル写真家でライカM3を持って活躍していたそうだ。

矢野さんは無論、フィルムライカの初心者なのでスマートフォンにカメラのメーターのソフトを入れている。それを酒場で計って「明るさがf2で1/8」とかやっている。その矢野ライカを手にしてお銚子もののあたしは「やはりクラシックライカはいいなあ」と思わず、ライカの底ぶたを開けたら「あ、感度400が入ってます」と矢野さん。

まったくライカライターとして、面目を潰した。あたしの周囲のライカ人類は皆さん、修正主義裏切り者集団であるから、ライカにはフィルムなど入れずに「ライカの素振り」の連中ばかりなのである。
これは大粛正が必要だ。

2011年6月27日 (月)

広田泉 「ここから始まる」

 

Photo_4

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Photo_6 あたしは鉄写真家ではないので、「鉄」はとらない。
ただ一度の例外は90年代の後半にJTBの仕事で、独逸国鉄を西のフライブルクから東のコットブスまで旅して撮影した時だった。

ベルリン上空ではICの疾走するのをヘリから空撮した。これはパイロットが旧東独逸の戦闘ヘリの戦士でなかなかの腕なので、よいショットが撮れた。
実際、空撮のよし悪しはカメラマンの腕よりもパイロットの腕にかかっている。

同行したのはDBの広報部長さんで当時は珍しい電波時計をつけていた。ICが彼の電波時計の正確さで、ポツダムの上空から見ていたら時間通りに出現したので、広報部長はご満悦であった。
撮影が終了して、彼は自分の家を上空から見たいというので、西ベルリンの郊外のその上を飛行した。
夕刻にそのお宅にお邪魔したら、家族はちゃんとヘリが上空を飛ぶのを見たそうである。

この写真集広田泉「ここから始まる」は東日本大震災の被災地の鉄道の爪痕の記録である。広田泉さんは父上が著名な鉄道写真家であって、長男の広田某さんには以前、小学館の雑誌「ラピタ」の連載などでおせわになった。
その次男さんが泉さんであって、その方面の第一人者だ。
この写真集の売り上げは復興支援にチャリテイされる。

思えば、あたしなどはこの方面の鉄道に乗ったことはなくて、すべてが鉄道写真家さんの作品からの「二次体験」なのである。
完全に破壊され流失した鉄道風景というのは凄まじい。

数日前に東京都写真美術館で、1968年の「プラハの春」のソ連軍のプラハ侵攻の記録を見たが、あれとは比較にもならない。第一、死者の数の桁が違うのである。

広田泉 「ここから始まる」
HP 鉄道写真ドットコム http://shop.home-3.com/?pid=32190916

2011年6月26日 (日)

午後 エンパイヤ光る

1
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Photo1980年代にマンハッタンに居た当時の茶色の表紙のメモ帳を8冊持っている。8番街の43丁目の文具屋で買ったものだ。たしか1冊が75セントであった。当時は中曽根の行革時代で文化庁から支給された滞在費(確か公務員の日当の最低の水準)は削られ、しかも円は280円だったから、メモ帳を買うにも苦労した。
8冊のメモには当時の日記、MoMAでのプリントビューイングの記録、それと町中のスケッチである。
MoMAのセクションだけは鉛筆で他はペン書きだ。理由はMoMAにはペンは持ち込めない。使えるのは鉛筆だけである。

そのメモの中に日記に時々「午後エンパイヤ光る」の文字が見える。天気の良い日の午後にエンパイヤステートビルはその表面のステンレスの外装で目を欺くほどに光輝くのだ。
これはなかなか撮影が困難であった。かろうじてワイドラックスのパノラマカメラで撮影した縦位置のパノラマ写真をまだ存命だった、平木収がなにかの写真年鑑に収録してくれた。
それに満足したあたしであったが、今にして思えば、最初の写真年鑑(平凡社)にあたしの写真が掲載されたのが1971で見開きページでその隣が木村伊兵衛さんであったのだから20代の青年は驚喜したわけである。
平木収が掲載してくれた写真年鑑はそこの出版社のか忘れたけど、すでにすれっからしのあたしはそれで感激というほどではなかった。

以来、写真年鑑というものに興味を失ってしまったが、もう刊行はされていないのであろうか。

2011年6月25日 (土)

カメラマガジン チャリテイプリント販売のショット

Photo_2カメラマガジン15号での「東日本大震災関連のチャリテイプリント販売」だが、午後7時のオンラインでの販売開始とほぼ同時に売り切れたそうである。

予約してくれた皆様には御礼申し上げる。またリクエストが殺到して買えなかったという報告がTWITTERに見られるがお許しいただきたい。あの販売はあたしも知らなかったのだが、某通販のサイトを使っていた。特定のポイントにアクセスが集中するのは想定外だったようだ。http://www.sideriver.com/ec/products/detail.php?product_id=15231

しかし結果は実にありがたい次第である。販売プリントは11X14が5万でこれが5点。キャビネ相当が5点で@1万である。
この画像はカメラマガジンの15号の表紙にもなっている。今回、非常に面白く思ったのは、数日前に書いた「まんはったんイレブン」の続きの話でもあるが、ようするに、11本だけ撮影したたかだか400ショット程度のカット数で、この数ヶ月に必要とした、モノクロのショットの需要の全部の要求に応じられたことだ。
それらを箇条書きにするのなら

1近刊の写真集の為の画像
2カメラマガジン表紙の為の画像
3同、本文の画像
4「フランクさかいチョートクマンハッタン計画」の為の画像
5アサヒカメラの口絵の為の画像

これだけの画像をフィルム11本でこなしてしまったのである。モノクロネガからスキャンした画像を上の1から3までの目的に使用している。

これがそれぞれに1MB程度のデータなのだ。昔からデジタル画像の印刷に関係しているクラシックカメラ人類は、その程度のデータ量ではといてい雑誌の表紙など無理という認識であろうが、カメラマガジン15号の表紙をみれば、ちゃんと使えることが分かる。

さて、本番の「フランクさかいチョートクマンハッタン計画」の為の画像の方だが、これはスキャンデータではなく、手元のモノクロネガからプリントするわけだ。

その理由は不明ながら、現時点での世の中の写真作品に対する一般的な価値観は、デジタルプリントはオリジナルプリントとしての商品価値はあまりないのだが、銀塩プリントはちゃんと価値があるということになっている。それで例のチャリテイプリント販売もほとんど即時に売り切れたのであろう。

思うにライカM9Pが出た時点で再考するに、最新のデジタルMライカの唯一の欠点は「それはフィルムカメラではないから、オリジナルプリント制作は無理である」という実に皮肉なことになる。
ライカに関しては、どうもM3の方が実用からするといまだに上のクラスであるという認識はちょっと前には想像もできないことではあった。

それで上のショットの話に戻るけど、その前後のショットを確認してみたら、この多分マンハッタンのバワリー界隈と思われる街角のショットは正しく「一枚切り」なのであった。

データはライカM3に旧型のスーパーアングロン21MM F4 ネオパンプレスト。

 

2011年6月24日 (金)

リングキューブ初日の出来事

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あたしは個展などに詰めているのは、自分の「政治信条」に反するので、まず行かない。

それは展示してある作品は、その作家が生きているかもう死んでいるかは無関係であるからだ。

プラハでヨセフ・スデクの写真展を見て感心しているとき、彼が故人であるかどうかは問題ではない。

一方で日本は個展などはもっぱら社交の場であったことを教えてくれたのは、偽ライカ同盟会員でかつ、あの写真部の部長代理の福田和也さんであった。

前の日にメールが福田さんからあって、何時にリングキューブにいらっしゃいますかとの要旨であったので「個展では誰にも会いません」と返事してはいかにも偏屈じじいであるから反社会分子になると思って、明日は夕方から顔を出しますと返事した。

初日にリングキューブのオフィスから「福田和也さんからお花が届いています」のメールがあった。東京のカメラのギャラリーではそういうお花は受けない仁義なのである。つまり「ご供物ご供花の儀は固くご辞退申し上げます」の冠婚葬祭モードなのである。実際には競合他社の名前の花が届いてしまったら迷惑という大昔に決まった仁義のようだ。

それでリングキューブに「うちの写真部の福田が来たら、ちゃんと叱っておきます」と返事した。

初日の夕刻に会場に行ったら満員御礼である。理研の写真Nさんがいきなり受付のドアの奧から出てきて「このたびは、、、」と語尾を濁らしたので、最初の思いだしたのは父親の葬儀の記憶だ。まあ個展などは過去の自分を見るわけだから、過去の自分は死んでいるも同様だ。それでその挨拶で良いわけである。

お花が届いたという話しだけど、まだ到着していないなと受付のテーブルの上を見た。それはあたしの近視のせいであって、天井にも届くような巨大な花輪というか花束が天を圧しているのに気がついてのはしばらく後である。

以前、新潟の豪農の家を訪問してそこの納屋に見学に行った時、そこに居る黒犬は見えたけど、実はその背後に停車している黒い軽四輪だと思ったのは実は巨大な牛であった。あの視覚トリックが銀座のど真ん中で再現されたことになる。

いかに仁義違反ではあるかも知れないが、この巨大な花をどのようにしてエレベータに乗せたのかも気になった。

それで自分の個展のことなどはそっちのけでその花の立体彫刻のことばかりが気になった。でももともとあたしは会場に居てお客様に挨拶する性格でもないので、それはそれで良いと思う。

なお7月3日の午後2時からは会場でギャラリートークを開催の予定。予約不要です。

2011年6月23日 (木)

Its Love Its Pen/ from HONGKONG

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香港の友人からEMSが届いたので何かと思ったら、それにこのような手紙がついていた。
ペンペンは香港でも頑張っているという。これは向こうのカメラ雑誌の付録だという。

中のキーホルダーは昨年あたりに日本でも話題になったもので、偽ライカ愛好会のメンバーからもらったことがある。それは確か、白いペンのミニチュアであった。
今度、香港から届いたのはブラックの方であるが、これだけしっかりしたパッケージに入っていると逆にそれを開けるのが勿体なくなるのが人情というものだ。

今回、雑誌リアルデザインのリニューアルにあたって、デザインの周辺のことを連載することになった。
タイトルは清水編集長によれば「チョートクの部屋」(仮題)であるそうだ。なにかインターネットの黎明期を思い出すタイトルで良い感じだ。あの頃は「なんとかの部屋」というのが流行したものであったが、それが大過去になると逆に新鮮な感じもする。

思うにペンは性能よりもコンセプトとデザインで人気になったカメラであって、ペン1も2もそのデザインが同一なのは、ライカと共通している。目下巷間話題になっている来るべき新型は必然的にペン3号になるのであろうが、やはりデザインはそのままであって欲しい。つまりライカM1,M2,M3を同時に持ってもその印象が変わらないのと同じ理由だ。その意味で共通なデザインというのは、カメラの存在感の重要な土台になる。

ぺん三号の性能はさらに良くなって欲しいが、あたしの希望はタイムラグがライカなみになって欲しいという点だ。ライカは瞬時に撮影できるが、デジカメはまず電源を入れることから始まる。そこが短縮できればスナップにはかなり使えることになろう。

2011年6月22日 (水)

ライカMPバランス

Mp1
Mp

Mp3

このホールドグリップを作った具生工房の方のお話では、若い当時にベトナムの戦場カメラマンの写真を見て、それがライカM4の底部に「鉄片」を付けていたのが深く記憶に刻まれたのだそうである。

稲垣足穗が書くところの京都は深草の練兵場に墜落した初期のアビエーションの「白鳩号」はバランスを取るために飛行機の尾部に鉄片をくくりつけてあったとの噂があった。
それゆえにM4の底部の鉄片云々の逸話はなにか古い航空史を連想させる。

ホードルグリップはその高さは本家のライカビットMPより低く、エイブラハム村の伍高酷ビットよりはかなり低い。
ライカM3に付けて見ると、その印象は実にライカMPなのである。

考えて見るに、あたしの場合ライカビットMPで底部のトリガーでフィルムを巻いた記憶は皆無なのだ。それなら「スタイルバランスだけMP」のこのグリップの方がずっと大人の存在ではなかろうか。

2011年6月21日 (火)

カメラマガジン15号の表紙を撮影した古いM3

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M3_2
東日本大震災から100日余。
最新号のカメラマガジン(15号)は東日本大震災にスポットをあてている。
チャリテイの誌上写真展で13人の写真家が作品を掲載している。
あたしが撮影したのは、マンハッタンのローワーイーストサイドだ。 なにしろマンハッタン滞在初日に大震災の一報を聞き、すぐに東京の家人にスカイプで連絡したらまだ揺れている最中だった。

大震災が気になって、昼間は撮影にでかけ夜から朝までは日本のニュースをインターネットで見ていた。それが数日継続したのだから我ながら良く体が持ったものと思う。
ライカM3に35mmのビオゴンと21mmのスーパーアングロンでローワーイーストサイドを歩き廻った。無論、ファインダーなど見ていない。あたしの身体感覚がそのままファインダーになっていた。
この表紙のショットはバワリー界隈である。30年前は剣呑な場所であって歩行に気をつける必要があった。
歩行は可能だけど、カメラの携帯などは厳禁であった。マンハッタン在住の写真家郷津さんがこの界隈にたむろする「じゃんきー連」を撮影するのに、古いセダンのドアの中にカメラを仕込んで、彼らの居る歩道の前にゆっくり停めてからケーブルレリーズで撮影したのは有名な話だ。

ロバート・フランクはこの界隈、バワリーに住んでいた。1970年に写真集の発行というすばらしい目的をもってここを訪問した元村青年の目にこの界隈はどのように映じたのであろう。

2011年6月20日 (月)

まんはったんイレヴン

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まんはったんイレブンとは、フクシマ50の真似ではないし、サッカーに関係もない。これはこの3月の東日本大震災のその日に偶然にスタートした「フランクマンハッタン計画」(実際の名前はフランク・さかい・チョートク・マンハッタン計画だが長いのでこう簡略)のプロジエクトで撮影したフィルムの本数なのである。

大昔、まだデジカメの存在しない当時には、仕事の前に300本以上のフィルムを用意したものだが、そういう記録の為の仕事はデジカメが引き受けてくれることになったので、最近の写真家は実に身軽である。

だから、マンハッタンに出発の前の日に有楽町のビックにて安売りの3本で幾らかのモノクロフィルムのパッケージを4個買った。これで12本だ。

それでマンハッタンで11本撮影して1本余った。
これが2週間の撮影の全ショットで、それをビックで現像したのを、品川のフラッシュでスキャンした。
ここの店はNORITUの機械でなかなか良い仕事をする。
その中から今回のデレクターのさかいさんが10点だけセレクトをした。

これはさかいコレクションに1セット、あたしが1セットでもう1セットは販売予定だ。
そのセレクションに関してはなかなか感じるところがあったのだが、そのことはここでは触れない。

要するに、11本のフィルムだけで、つまり400ショット弱の少ないフィルムの量で予定通りの仕事ができたのは特筆すべきだ。
その1ショットは発売中のカメラスタイル(えい出版)の15号の表紙になっている。これは震災関連のチャリテイなので、13人の写真家が参加。あたしの表紙のデータ量は1メガそこそこであるが、ちゃんと印刷されている。

世の中の金満M9人類連はまず膨大なメモリを消費してRAWで撮影して、それからおもむろにご自分の創造力に頼ってそれを絵心で立派な作品にするようだが、そういうアーチスト連を批判する気はないけれど、映像は時間意識の問題であるから、本来はそこに時間をとられてはいけない。これは死に神の思うつぼなのである。

あたしもコマーシャルの時には代理店さんに懇願されてRAWで撮影もするが、それがそのままデータをカリスマレタッチャーさまが創造的映像を制作するわけで、あたしはSDメモリをはい!とデザイナーさんに現場で渡すのみである。

マンハッタンの路上にはドラマがあふれていると良く言われるが、あれは経費の安いドラマをロケで撮影するだけの理由であって、しょうもない男女が言い争いをしながら五番街を横切るシーンなどは見ていて欠伸も出ない。

あたしが尊敬するマンハッタンの路上のシーンはかのギャリー・ウイノグランドが自分の背の高さよりも高い厚さのプリントを制作したと言われる、そのスナップショットなのである。その意味でマンハッタンにはドラマが溢れている。

このショットなどは最初は棺桶の安売りと思ってしまった。それが面白い。

ここにあるのは、フィルムからスキャンした手にとれない画像であって、いわば夜の湖面に映った月のようなものだ。これからネガからゼラチンシルバープリントへの引き伸ばしが仕事として控えていることになる。それが大事なポイントだ。

2011年6月19日 (日)

神のめぐみと親の恩

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Casca この前のプラハ滞在は2週間のうち、2回しか外出しなかったので、物欲爆発してアメリカのノースキャロライナから一台。それとウイーンの「ライカ0型長者」これは、例のNHKでも紹介されたウイーンのペーターが、1,5億でセコハンライカを売ってその手数料が3000千万というので口さがない連中の噂話で、彼を競売商と呼んでいることにあるのだが、その競売商人ペーターの在庫の中から、1台、それぞれにミュンヘン製のカスカを購入したことにある。

その2台が到着してみると、程度はまず値段から想像できたが、あまり良くはない。最初にNCモノでテスト撮影したのがこれであって、この個体はシャッターは1速しか切れないし、ブライトフレームは飛んでない。しかし一速のシャッターを五十分の一と考えれば、絞りは決定でき、ちゃんとこういう風に撮影はできるものだ。

この親の恩の立て看は月島の大通りのなんとか教の前に昔からある。問題はその筆跡であるが、この文字はなかなかのものである。
シュタインハイルのクルミナー50MMは、外見は電気事情が悪かった当時の精錬不足のアルミニウムでできていて、実にしょぼいのだけど写りは癖があるなりに、確かである。

2011年6月18日 (土)

写真展 WIEN  街の光 冬の影 @RINGCUBE

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★御礼 PEN PENチョートクカメラ日記 総計880万ページビュー達成。

 どうもありがとうございます! (携帯のアクセスはカウントしません)

あたしの個展 WIEN  街の光 冬の影 @RINGCUBE は6月22日から7月10日まで銀座四丁目三愛ビル9Fにて開催。

そのはがきができてきた。最初の個展のはがきは銀座のニコンサロンのTODAY TOKYOというので、これはあたしの日大写真学科4年の時だった。当時、日大の学生でニコンサロンで個展を開催した最初のケースだった。(えへん!)
その時のはがきはすでに「コレクターズアイテム」である。

実に銀座で開催する40年ぶりの個展というわけだ。
このはがきの感心したのは、その画像が「ぴんぼけ」なことだ。それが文字と背景との「地と図」の役割を明確にしているので、これをデザインしたデザイナーは大したものだと感心しているのだ。

というのはメーカーさんのギャラリーであるから通常はこんなぴんぼけ写真はまず上の許可の下りないものである。それがちゃんと了解を得たのだからすごい。
この画像は実は意識してぴんぼけにしたのではなく、この1月にウイーンで膨大なショットをリコーのGXRで撮影した中の唯一の「アウトオブフォーカス」の1枚なのだ。

駐車禁止の標識の側に立っているのが、煙突掃除屋であってこれはウイーンあたりでは幸運のシンボルなのである。その姿を道路の反対側に認めて最初のショットはぴんぼけになった。その後のショットは無論、全部ピントは合っている。

あたしはデジカメもフィルムライカのような速度で使用するので最近のデジカメがピントの合う速度はかなり速くなったとは言え、やはりスナップショットの立ち上げにはカメラの方が迷うのである。

しかしこの画像を使用するに至ったのは、あたしよりも写真展のスタッフさんとADさんの方が視神経が進んでいるというのに感心した。

最初のアイデアでは、ウイーンの古書店のウインドウのショットでそこにあたしが映っている画像を使う予定であったのが、これに差し替えになった。そこが大したものだと感心しきりなのである。

ぴんぼけを積極的に写真集に使用しているのに、片岡義男さんの「東京縦画面」がある。片岡さんに聞いたらそのショットは最初から意図してぴんぼけにしたそうだ。意識的なアウトオブフォーカスと結果として生じたぴんぼけといすれが「正当派」であるかは論を待たねばなるまい。

2011年6月17日 (金)

日本路地裏学会2011年次総会

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2011年の日本路地裏学会年次総会が過日開催された。
場所は東京である。実はプラハで開催も可能であったのは、会長の母上がプラハ急遽プラハ行きを決定せられて、その随行員として会長を同道せられたのである。

桃木会長はなんでもプラハのキュビズム建築に興味がおありとのことであったから、キュビズム建築を見古したあたしが、ご案内しようと思っていたのが、これは実にタイミングが悪い。

6月25日はあたしのプラハを発つ日であって、同じ日に会長ご一行は日本を発つのである。
それでまずは、旧市街の五つ星のホテルにご滞在でもあり。問題はなかろうと思っていた。

あたしの出発の日、25日は例のアイスランドの火山爆発の火山灰の影響で午前中から、主にベルリンよりも北の空港は順次閉鎖になっていった。
昨年の同じ頃にあたしはフィンエアで東京からリスボンに行くつもりが、ヘルシンキから先にゆけなくなり、それでヘルシンキに2週間居たことがあったが、折悪しく、会長ご一行様は同じトラブルに巻き込まれた。

すなわち、ヘルシンキに一泊を余儀なくされたのであるが、フィンエアの用意したホテルがなんでも100キロほど離れているので、そのホテルには行きたくないとご母堂が仰有るので、なんでも白夜のヘルシンキ市内にまで行って、ホテルのドアを一軒づつ叩いて部屋の有無を調べたそうである。

翌日はヘルシンキからプラハの飛行機が機材故障とかにて、まずベルギーだかに飛んでさらに乗り換えてプラハに向かったとか。結局48時間ほどの「遠いプラハ」であったそうな。

会長もあたしもまだプラハの小路の空間感覚が抜けないままに、東京の雑司ヶ谷方面を徘徊した。実はこの1週間の間に、まずGRDの撮影会でこの界隈に行き、次に偽ライカ愛好会で翌日に同じ道を歩き、数日おいて日曜に野々宮BMWと同じ道を歩行して、さらにその翌日の月曜にまったく同じコースを歩いたのである。
この界隈に住んでいるのなら別に不思議もないが、そうではないのだからちょっと異常であることは論を待たない。

この界隈、雑司ヶ谷は実に不思議な東洋に残された最後の異境なのである。かのクリストの作ではないかと怪しまれる大鳥神社の前の参道の狛犬はしっかり梱包がされていて、実にモダンアートしていた。

その先の住宅地と荒川線との間には新しい道路が出来ているのだけど、そこはまだ使用していないので複数のクルマ止めがずらっと道路を封鎖しているのは、その厳重さは、この3月に見たマンハッタンのウオールストリートの不審車両をブロックするクルマ止めよりも立派なのでそれにも驚いた。

同時に封鎖された道はなにか統一前のベルリンのチエックポイントチャーリーを思い出したりもした。

おや!また桃木会長の頭から電柱が生えているぞ。

2011年6月16日 (木)

伯林の壁ノスタルジー

Die_berliner_mauer_2今年の8月23日は伯林の壁が出来てからちょうど半世紀にあたる。

半世紀、50年は長い時間である。結局、伯林の壁は今では人々の記憶から日々に退色して行く。そこで分断された伯林市民ですら、壁がなくなってすでに20年以上が経過しているのだ。

1979年に西伯林のプロジエクトで「現代の東西伯林の様子を記録」というのであたしはウイーンから数週間、西伯林に泊まり込んで撮影をした。東と西、それぞれ50点百点のモノクロプリントを納入した。

それから10年近く後になって、最初の撮影はモノクロで35MMであったので、これはカラーでも記録しておこうと、今度は4X5のカメラを持参して撮影した。

ポツダム広場は当時は西側の観光名所であって、このような状態になっていた。そこで買った絵はがきが大パノラマなのである。
それから数年が経過しないうちに今度は壁が解放され、破壊されて、このポツダム広場の無人地帯を自由に歩行することが出来るようになった。

7月はそのいにしえの伯林の壁を訪問し、また壁に分断されていた人々のインタビューをする。新潮連載の「屋根裏プラハ」が完結して、この足かけ3年、毎月30枚づつ書いていたのでその勢いがついている。

この前、新潮の矢野編集長にお目にかかったとき「田中さんは筆力がある」と言われた。そういうおだては真に受けてしまうので、今回は二週間の短期伯林であるが、なにか書けそうな気になっているのである。

2011年6月15日 (水)

カメラの「どうでえ力」について

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カメラ友達の日野カツヒコさんはまだ27歳というのに、変にカメラ趣味が老成していてまだ会ったことはないが、まあしかしこういうカメラ人類にはオフでは会わない方が良い場合もある。

あたしの所のビオター75mm f1,5はその日野さんの所から檸檬経由で来たのだ。

その日野さんが案出したのが「どうでえ力」という新しいクラシックカメラの価値基準である。この「どうでえ力」を過去に大流行した勝間さんのなんとか力と混同されては困る。
世間に流行った「なんとか力」はすでに手垢にまみれて、最後にはジャンプ力すらもなくなってしまった。そこらここらで出版する実用ビジネス本がことごとく「なんとか力」になったのは恐ろしい。その理由はあの流行したなんとか力というのは、世間をまっとうに見ている普通の価値観であるからだ。そこがどうもね、、、という感想なのである。

実はなんとか力の数ある中でもっともパワーのあるのは、これは勝間さんが考案したこの案件のずっと以前に赤瀬川さんの発見した「老人力」である。

原平さんの、提唱する老人力とは巨大な批判とブラックユーモアなのである。ところが原平さんが何かの機会に長嶋茂雄さんと対談した時、長嶋さんは老人力のことを老人パワーと勘違いしておらしたということを原平さんは指摘しておられた。確かに長嶋大監督にブラックユーモアのセンスがないのは当然で、ブラックばっかり飛ばしていたら、野球には勝てる筈もない。

ここで言う「どうでえ力」とは言うまでもなく、原平さんの「老人力」と同じベクトル方向なのである。「どうでえ力」とは重装備のカメラ機材のオーナーのこれは「勘違い自慢」のことなのである。カメラ人類のご本人はご自慢でも、第三者のカメラ人類から見て「まあ、趣味悪いねえ。あんなの、、」と批判されるようなカメラとレンズの組み合わせである。

歌舞伎方面で言うところの「けれん」というのとも案外に近いかも知れない。

それで我が今週の「どうでえ力」のトップはこれ!

プラクチナにスプリングモーターと500枚撮影のマガジンを付けて、レンズはカールツアイスイエナのゾナー300ミリである。これを持って銀座四丁目のホコてんの花道の七三のところでチョン!!と木が入って
「どうでえ!!」と見栄を切るのである。

2011年6月14日 (火)

雑司ヶ谷の共食い系看板

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街の看板観察で初心者が一番入門しやすいのは、「共食い系」である。特にこの手の看板は日本に多いようだが看板のキャラクターのぶたさんが自分で自分の肉を調理していたりする。

しかしながらこの手の共食い系肉屋の看板などは、日本に肉食が伝来した
このせいぜい100余年のことであるから、その歴史は案外に浅い。浅いので逆に極東地域で独特の進化を遂げたと見ることもできる。

豊島区雑司が谷界隈を先週であったか、GRブログの自主的撮影会で流した時に同行の15名の目がこれを発見したのだ。あたしはこの近所に昔からある「雑司ヶ谷2丁目マーケット」略して「雑2マーケット」の中にある、クラシックな靴屋の看板に三十年前からご執心なので、この3つのキャラクターの共食い看板の前をずっと通過していながらそれに気が付くことはなかった。

雑司ヶ谷は外人写真家をここらに案内すると、感激してここに住む手立てなないのか、などと後先も考えずに感動する地域なのである。
そういう地域は東京であたしの知る限りではもう一カ所ある。それは京島3丁目界隈だ。

この共食いキャラはあまりに線を多く引かずに装飾的になる一歩手前で踏みとどまっているのが偉いと思う。

 

2011年6月13日 (月)

ペンの開発秘話が日曜の早朝の6チャンで

Photoあたしの部屋(佃の大ガラス)にも寝室にもテレビジョンセットはないからテレビは見ない。

つまり寒村に電気が来ていないのと同じことである。

テレビを見ないのでAKBを知らない。あれは「あきば」と読むのかと思っていて、そういうことは今更聞けないので、この前、クラブエダムのちかちゃんに人のいない時にこっそり聞いたら、あれは「エーケービー」なのだそうだ。
ローマ字をそのまま発音するのだと似た音にプーチンさんがご出身のKGBがある。こっちは数年前の秋にその本場のレニングラードに見学に行ったが、、、。

テレビを見ないと世の中に遅れると思うのがあたしの危機感である。それでうちでは家人がFERN SEHEN 報道部長であって、放送内容のアウトラインを逐次報告してくれる。

例の菅さん問題だが、以前カメラジャーナルの版元でお世話になった、アルファベータの中川右介氏が「とくだね」に出て結構長い時間、菅さんと例の中華屋での会話の内幕を暴露していたのも、家人からの報告で知ったのであるし、福田和也さんの今朝の寝癖の具合なども実際には見ていない。これも家人からの報告なのである。

今朝の報告によれば、朝7時半からの6チャンネルの「がっちり、、なんとか」というのにオリンパスペンの開発物語が出たそうだ。へえ、凄いなと思った。しかし今時の登場は時間が経過し過ぎてるな。

インタビューされた高千穂の人は開発のトップの方で、家人はそのお名前を失念していたが、あたしがその方は「優男」かと聞いたら、そうだというので、これは昨年の12月に出した「パリとプラハをペンで撮影した写真集」の中でインタビューをした対談相手と同一人物らしいことが判明したのである。

それにしてもその番組表を新聞で確認したらサブタイトルが「どん底からの大ヒット」とあった。この品のなさ。いやはやこれだからテレビは嫌いなのである。
オリンパスは別にどん底メーカーではない。

家人からの調書によれば「ペンのヒットは旧カメラ人類と新カメラ人類の両方のユーザーの心を掴んだ」と言うのだがそれはその通りである。
ただし、実際に幕を開けるまで果たしてどうかというのは当のオリンパスさえ先が見えなくて自信がなかったと、これがあたしが直接に聞いた話だ。

ところであたしの初代ペンはご覧の通りに元気であって、もう2年前の発売なのだけど、一向に古さを感じさせない。これはまた問題なのであって、2年前の機種が古さを感じさせないと買い換え需要が頭打ちになる。

ライカなどが80年前の1型はまったく古さを感じさせないので、あんなことになったわけである。
その後継機にはペンライト2が出たのでこれはこの3月のマンハッタンに持参してかなりのショットを撮影した。

思うにあの衝撃的なペンの発表が2年前のちょうど今頃だから、そろそろ新製品が発表されてよさそうなものだ。
地震予知はまったく役にたたないけど、ペンペン予知の方はほぼ100パーセントの予知率であることは確かである。

2011年6月12日 (日)

東池袋の名もなきコロッケ店

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この間の東京大周遊は、二十名ほどの撮影部隊で、音羽方面から雑司ヶ谷方面の撮影を挙行したわけであるが、この人数になると町中のラーメン店なり蕎麦屋なりに全員が一度に入るのはまず困難である。

あれは何時であったか、某カメラ倶楽部の撮影会で夕刻になり、今はもうなくなった三ノ輪あたりの泡盛屋をがらりと開けて「あの、20人なんですけど、入れますか」という人が居た。

すでに狭いカウンターの店は地元の常連さんでいっぱいであるのだから、聞く方も世間知らずである。そういう団体さんは白木屋のお世話になれば良いのだ。

それで今回はその20名ほどのランチの要求を満たす為に、一計を案じて日ノ出町の「なもなきコロッケ屋」に分隊を案内した。店の旦那に一気にコロッケ40個を注文したのである。店のおやじはあたしの大量注文に驚くかと思ったら、まったく動じなかった。そりゃプロなんだから、コロッケ千個の注文だって驚かないのは道理であろう。

いつもこの店で買い物してさて店のおやじの名前はと思って思い出せないのは、この店のおやじは哲学者の変人であるから自分の名前など名乗らないのだ。それが今回、店のファサードの右に白い表札があるのを、同行のスタッフが発見した。

梨本さんというお名前なのである。へえ、なにか芸能レポーターみたいだ。

2011年6月11日 (土)

銚子への道

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2009年7月3日のライカインコの昇天以前は、なにしろ4代24年にわたって我が国は「ライカインコ民主主義人民共和国」であったので、あたしと家人とは二人揃って旅行など出来なかった。

旧東独逸もそうであった。当時は人質としてどちらか一方が国内にとどまらないと「アウスライゼビザ」(出国ビザ)は出なかった。それも特殊な職業の人の話であって、一般の人は西側には男性65歳、女性60歳にならないと出国が出来なかった。

ようように我がライカインコ独裁国家も終息したので、家人と歴代のライカインコ連の追悼の意味もこめて、千葉県の銚子に2泊3日したのである。
この時の体験は実に強烈であった。あたしの地理感覚からすると、銚子は東京の隣接地域ではなく、ユーラシア大陸の東端のさらにその先の小島の東端の岬の北太平洋の荒波洗う地の果てである。その超絶感覚はポルトガルの西端の岬の比ではなかった。

それで英国製のアドボケートという夏向きの白いカメラにパナマ帽子で通行中の旅行者のふりをして銚子の地の果てを散策したのだけど、実はあたしの家の家系はこの地方に古くからある醤油会社を経営していたのである。
銚子の田中某というのはそれで有名であったらしい。その醤油工場は四半世紀前に父と墓参りに行った時にはすでに広大な更地になっていた。時代というものはそういうものだ。

嬉しかったのは、愛用している「ちょうした」の缶詰の工場を発見できたことだ。銚子は半島であるが中央に小高い山がある。そこの植物群は東京とはかなり異なる。なにかシシリー島を旅している気分になった。

高い丘の上に社がある。そこまでは急な階段で提灯が並んでいる。家人とかなり歩行した後で、とてもあそこまでは登れないと思った。実際にその小高い丘の上に立ったのはそれから13か月後の2010年9月のことだった。その丘の上からは銚子港が一望できた。

2011年6月10日 (金)

頭脳鏡玉の実力

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帝国光学のZUNOWはそのブランドイメージだけは異常に高くて、情報が一人歩きする。

ニコンFよりも早く出た、一眼レフのズノーカメラはその発表会を椿山荘で開催したそうだ。そのデザインは当時の最先端のデザイン会社GKが担当したそうだが、いつだか岡山の田中カメラで革ケース入りの一眼レフを見せてもらった時に納得した。革ケースがもなかの皮のように前後に分離するのである。そんな皮ケースは見たことがなかった。

あたしの使ったズノーレンズで一番親しかったのは、ミランダTについていた50MM F1,9である。それからオートテラに付いていた、ズノー45MM F1,8だ。

数日前、NEOCAにズノー45MM F1,8の付いたのを神戸から落札した。売り手はこの前、ドルカ1型を売ってくれたカメラ人類さんと同じ人で、この人のオークションは作例がついている。それがご子息を撮影したので、実に良い感じなのである。神戸の須磨のあたりの実に平安な暮らしがそこに写っている。その作例がビッドするきかっけになった。

さっそく今日、フィルムを入れて撮影してそれを森タワーのラボで現像したらなかなか良く写る。とは言えそれはズノーレンズであるから良く写るのではなく、1859年代の後半の国産のレンズはおしなべて良く写るのである。

しかしそこにはやはりレンズブランドの思い込みがあるから、「やはりズノーレンズには往年の東京は中野のマイスター魂が宿っている。ズノーレンズは日本の光と影がそこに芸術として表出している」てなことを言っても変だと思うでしょう。

上の例文を東京は中野 を 独逸はイエナ に

さらに日本の光と影 を 独逸の光と影 に

直せば、我々が普通に話している意味の通じる文体になる。そういう思い込みが如何にいい加減なものであるのかも、ここに証明できる。

★最初の画像が最近質問の多い「ぼけこっこってなんですか?」への回答。そういう鳴き方をするちゃぼが、佃島小学校におれらるのだ。地元では有名鶏。レンズは解放だが、頭脳独自のぐるぐるぼけが出ている。

2011年6月 9日 (木)

ホテル静寂荘

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弐年前の夏。ペンデジタル1の本の撮影でプラハに滞在した。ちょうど、ライカインコ4世が昇天してかなり精神的にまいっていた時、ペンの誕生に助けられたことになる。それと2年前の夏に佃の大ガラスの北の地平線から「空筒」が伸び始めたこと。さらに新潮の連載「屋根裏プラハ」の執筆が開始された時季にもあたる。

仕事なのでアトリエから近くの元迎賓館に宿泊した。ここのバルコニーからはプラハ市街が一望できるのでそのカットが必要なのでここを選んだ。この元迎賓館は今はホテルプラハという。その時は夏であったわけだがその半年前の豪雪の時にもこのホテルプラハに宿泊している。その時の体験を元に、「屋根裏プラハ」の2回目かに「神なきカテドラル」というタイトルで書いたのだった。

2年前の夏のことだが、ホテルプラハは静かな森と林の中にあるのでそこらを徘徊していたら、気の利いた小さなホテルを発見した。それを「静寂荘」いうのである。ペンデジタルの撮影を数日かけてホテルプラハの露台で撮影して、そのままアトリエに戻る予定が、アトリエの途中にある「静寂荘」にさらに数日宿泊したのである。およそ、プラハのアトリエも何もしないには向いた場所であるが、それよりもっと山の中にある「静寂荘」は本当に何もない。それが気に入ったけど、この冬の豪雪の時には我がアトリエに市内から行くのも難儀であったから、「静寂荘」はあたしにとっては「夏の離宮」という位置づけになる。

2011年6月 8日 (水)

コンタックス四つ葉のクローバー

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この前の日曜の偽ライカ愛好会の第七回火器大演習には、参加者15名の中に、ご覧のようにコンタックス2型が4台集合した。それも事前の打ち合わせでコスプレの概要を打ち合わせせするとか、反原発の意志表示として、黄色いシャツを着るとかいうようなものではなく、カメラ人民の自由意志が期せずしてここに集結したらこういう形になった。

戦前はライカクラブの他にコンタックスクラブというのも日本にはあって、もともとライカクラブだってお金持ちの集まりではあったのであろうが、コンタックスクラブの方はさらにその上の段階の金満家の集合体であったらしい。

向こうの独逸で発行された、コンタックス本の中にその極東のコンタックス同志会の面々が和室で歓談している写真がわざわざ使われているところを見ると、その豪華絢爛なありさまはやはりゲルマン人も特別に印象づけたのであろう。

時代は変わって平成11年の御代であるから、我々は椿山荘ではなくその大邸宅と神田川の境の細道をもっぱら歩行して、水神社の急な石段の左右に天を突く大銀杏の間をすり抜け、目白台から音羽の谷を歩行し護国寺の裏手から雑司ヶ谷墓地に抜けるという、ごく普通のカメラ散歩庶民に過ぎないのであるが、これが70数年前であったのならこのコンタックスのクローバーはそうそんじょそこらで簡単に見れるものでもない。

それより感心するのはそういう20世紀のしかも前半分に制作された、独逸製のカメラが今でもちゃんと使用できることへの驚異である。かりに今の最新のデジカメが今から70年後の2080年頃にこういうクラシックカメラ愛好家の集まりがあって、そこでちゃんと使えるものなのであろうか。

コンタックスファン(日本で京セラがコンタックスという名前のカメラを作ったのでその意味はかなり広範囲になったのが残念)の為に説明しておけば、この4台のコンタックス2はそれぞれに前期、中期、後期さらに戦後に生産された、イエナ・コンタックスという具合に見事に分散していた。これも事前に打ち合わせしたのではないのが愉快だ。

レンズを見るに、12時の方向から時計回りに、ビオゴン21MM F4,5、ゾナー5 CM F2、ジュピター3,5CM F28、ニッコール2,8CM F3,5。

2011年6月 7日 (火)

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リコーGRブログの関係で、この前、文京区の音羽から江戸川橋を経由して雑司ヶ谷方面に大周遊をしたのである。
総勢がスタッフさまと含めて20名近くであったので途中で、本隊から迷子になる兵士も居た。
それでも実質4時間の行軍が終わって、集合ポイントに来てみたら、手元の万歩計がちょうど11111を指していたのは、偶然とは言え嬉しかった。

その意味は1万歩以上歩行したのが嬉しいのではない。普通のあたしの一人の大周遊は2万から3万が普通であるから、これは1並びという数字が綺麗に見えたのが嬉しかったのである。

思えば、ライカやなにかは沢山持っているが、万歩計はこのオムロンのやつだけで、それもかなり昔に買ったのである。このバッテリーは大体が半年ほどで駄目になる。それは薄いボタン電池なのだけど、その4桁の型番がいまだに記憶できないのである。
売り場に行くと、まったく同じサイズのボタン電池でしかも型番が1番違うのがあったりするので実に年寄り向きではない。
それでも半年ごとの電池交換というのは、なにか生活の区切りのような感じもして、それはそれで悪くない。

 

2011年6月 6日 (月)

ペテルブルクの夕焼け舞台

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今、使っているヨックモックは今使わない余分な画像が山のように入っていて、作業領域を圧迫している。それで画像を捨てようと思うのだけどそれもなかなかに実行できない。

その昔の画像でちょっと気に入ったのがこれである。レニングラードの夕暮れでちょうどホテルの向かいにある建物の最上階に物見の塔めいたのがある。

例によってサンクトペテルブルクの夕方は北国であるから非常に長い。それで塔の上に男子が2名と女子が1名いるのである。

こちらも暇なので、手元のロシアンスタンダードをちびちび飲みながらその無言劇を見ていた。かなり暗くなった段階で男性のうちの一人が塔を降りていった。
そういうだけの話なのだが、これに物語りをかぶせるとなにかロシアの長編小説のワンカットを見ているような気分になる。
映画の映像ではなく、スチルの画像だと逆にそこらに物語性が充満して想像力が活性化する。

2011年6月 5日 (日)

ホールドグリップはキヤノンにも付く

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このところ、入手したホールドグリップで遊んでいるのである。
こういう遊びは撮影の本質とはまったく関係ないのだけど、だから面白い。

しかし、昨日、東京大周遊をした時、ライカMDにホールドグリップを付けて撮影してみたら、これが案外にグリップ感覚が良いのは発見であった。

それで、手元の各種RFで遊んでみたがキヤノンのRF関係では5Lにも付いた。さらにキヤノン7にも装着可能なのである。その後の7sでは三脚のねじ穴の位置が異なるので付かない。

タナックV3にも付きそうだけど、昨夜、バヨネットアダプターを間違えて付けたまま外れなくなっているので、その問題解決の方が優先である。

2011年6月 4日 (土)

カスカ用35MM交換レンズの代打指名

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プラハに居る間にミュンヘン方面の「らいか」の病になって、カスカ2がアメリカとウイーンから到着した。都合2台である。その話は後回しにするが、カスカ2用の交換レンズは単体で出たことがない。大昔、中古カメラ市でその50mmf,2,8がジャンクで出たことがある。それはすぐに買ったのだけど、ひどく安かった。これはお店の人がそれがカスカ2用であることを知らなかったのである。
だいたい、700台と言われるかなり変わったカメラのマウントを知らないのはこれはカメラ屋さんの罪ではない。そういうカメラを生産した、シュハインハイルがいけない。

カスカ2の交換レンズで望遠系は欲しくないが、35MMレンズ、これはオルソチグマートという名前で明るさはF4,5なのだけど、以前はまったく人気がなかった。
それがこの数年、結構な値段になってきたのは立派なことである。
まずフォーカシングの方向がライカと逆であるのが使いにくいし、鏡胴は頑張りすぎの真鍮で非常に重い。チャームポイントはフォーカシングレバーが二個ついている点で、なにか「鼠園」のキャラにも似ている。

この前、あの写真部の例会撮影会で福田和也さんにお目にかかった時、オカダ屋のしゅうちゃんが「このレンズは非常に優秀な性能だから、そのことは他人に言うな」と言ったそうである。プロパガンダの極意をわきまえている発言で、オカダ屋なかなかやるな!と感心した。

この鏡玉はなかなかいいレンズである。しかしここでその長所を書いてしまうのも、なにかつまらない気がする。「このレンズの描写の魅力は他人に言うな」という気分である。
手元にそのオルソチグマートは2本ある。いずれもカスカ2マウントではない。これはライカマウントなのだ。なんでもカスカがまったく売れなかったので、そのオルソチグマート35MMはライカマウントに改造されたそうだ。
それでライカにこのレンズを付ければまずまず、正統な@「後継者」と見なしても良いであろう。

2011年6月 3日 (金)

レクタフレックスの赤いケース

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イタリアのレクタフレックスは1947年登場だからあたしの生年と同じである。
その革ケースはなかなか造りが良いのだが、最近はカメラも少なくなったけど、ケースはさらに見ない。
レクタフレックスのローター用の革ケースなど、20年来探しているのであるが、実物は見たことがない。一度だけ名古屋のカメラ店で見て欲しいと思ったのは、純正のレクタローター用のケースの中にカスカ2のフルセットが入っていたことがある。ただしその革ケースは「単品売り」はしないので、カスカごと買ってしまえば、二つの夢が動じに達成ということであったのだが、資金面が無理なのであきらめた。

例の鵠沼のブレッソンがあたしの窮状を聞き及んで、それならというのでレクタフレッス用のカスタムケースを何個か制作してくれた。
ご覧のような高級革ケースであって、なかなかの出来である。もともとレクタフレックスのデザインそのものが、羅馬のキューポラを参考にしてデザインされたのだということは、このレクタフレックスを持参して10年ほど前に羅馬を訪問した時に発見したことである。

こういう高級な革ケースに入れると、ちゃんとした写真を撮りたくなるのだから不思議なものだ。それでやはり撮影の行き先は、羅馬ということになるが、来月のあたしの行き先は「創立五拾周年」の伯林の壁の方であって、羅馬ではない。

2011年6月 2日 (木)

カスカな苦労

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数年前にカスカ2は売ったのであるが、この前のプラハ滞在中にカメラ店に行かなかったのでまた欲しくなって、帰国したらアメリカはNCから届いていた。

どうも古道具屋に長年保管されていたと見えて、程度は良くないようだなと思っていたら果たしてその通りだった。

EBAYを10年以上やっていると、そこら辺の経験がものを言う。常に最低の程度であろうと気持ちの方をそっちに構えておけば大丈夫である。これが極意というものであろう。案の定、シャッターは1/50の単速しかきれないし、レンジファインダーはめちゃめちゃだし、ブライトフレームは一昨日の方向を向いている。しかしこれは1/50で目測で撮影してレンズは絞り込めばちゃんと映るのである。30年前にメキシコ市でニコンS2を買った。そのニコンはシャッターはやはり単速でしか切れなかったのでそのような使い方をしたらちゃんと映っていた。だからカスカ2のシャッターの具合が悪くても別段驚くほどのことではない。

ところで、カスカ2は1948年だかにミュンヘンで登場したカメラで、反ライカ、反コンタックスの存在だ。つまりウエッツラーとドレスデンに弓を引く「国賊カメラ」なのである。

このカメラの魅力はやはりフロントパネルののっぺりした感じにあるのであろう。同時に登場したのにカスカ1もあるが、エキセントリックなデザインという意味では2型よりお1型だと思う。

数年前の秋に名古屋に撮影に行き、常滑とか挙母とか歩き廻った。名古屋のカメラ店にカスカ2にレンズ4本付きのアウトフィットがあった。それが長らく欲しかったのだが、ようやくそのことを忘れた頃にこのざまである。交換レンズは別に欲しくなないのである。他に山のようなレンズを持っているので、レンズ交換はそっちの方ですればいい。

2011年6月 1日 (水)

ライカ型録1931年1月

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本日は6月1日。写真の日。

村山定男先生から頂戴した、1931年のライカの総合型録は実に貴重な資料である。そればかりかその本としての装丁が実に美しい。

普通のライカの型録よりちょっと大ぶりであって、表紙は本文と別刷りである。普通のライカカタログは共紙であって、表4に印刷の年月と、刷り数が小さく入っている。このカタログではそれは3頁目の下に入っているのが特徴だ。

なにより貴重なのはこのカタログが1931発行の点だ。つまり言うまでもないことだが、ライカD型以前のライカ世界を垣間見るkとができる。

全頁を繰って行くと、あの当時のライカの最新鋭の発明品としての誇らしさが充満している。

真ん中の見開き頁のライカの断面図もユニークである。

ちょうどC型の登場した当時で3本の交換レンズのセットを注文する時に心得なども貴重である。当時はまだマウントはスタンダード化されていなかった。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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