フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

2011年5月31日 (火)

ビオター75mm f1,5にオリンパスのレンズフード

Photo

本日、木村伊兵衛先生のご命日。
ならびにあたしの誕生日。64歳。

プラハの2週間の間に一度だけカメラ店に行った。
その理由は上のビオター75mm ff1,5のフィルターとフードを探しにいったのである。プラハはクラシックな東欧カメラをみつけるには恰好の場所だけど、実用の中古というのは案外に発見は困難である。

アトリエでまずフィルター径を計ったら、55mmと出た。これがちょっと意外な感じがしたのである。1940年代のツアイスはまず40,5ミリが普通であるから55mmというのはかなりの大口径になる。

なにしろこういうレアレンズは「カメラ人類文化遺産」であることくらいは自分でも分かっているので、自分の手元にある間には絶対に傷を付けないようにしようというのが、我が任務である。
ここらが最近のデジタルレンズとは違いますね。デジカメレンズの寿命は長くて三年であるから、それを孫子の代にまで伝えようという気分は皆無である。

それに対して、ビオター75mm ff1,5はそれが登場した時から数えて孫子の代というのが実は現在なわけだ。
プラハのフォトシュコダにはこのレンズの兄貴分のビオター100mm ff2というのがある。これは戦前のエキザクタ66用である。革でカバーされ、CARL ZEISS JENAの金文字の入った立派なキャップが付いているが、これにレンズが付いているのだから「単品売り」はしない。

あたしは実用主義であるから、それよりも保護の為のフィルターとフードを手に入れようと思ったがそれが果たせなかったのがプラハだった。これには1度しかカメラ店に行かなかったという理由もあるけど、今回はアトリエで雲を見たり星をみたり人工衛星を追ったりするのが多忙であったのだからそれは仕方ない。

帰国して翌々日はシドニー(アローカメラが毎週第四土曜の午後2時から開催のあたしのトークでもう十数年開催。入場無料)だったので、二代目さんにフィルターを探してもらった、幾つか選んでもらった中から55MMの径のなるべくクラシックな感じのを選んだ。Toshibaの60年代のやつにした。

次はレンズフードである。全体のバランスを考えて選びに選らんだ最後の一個がこれであった。これはねじ込み式ではなく、締め付け式なので絞りの指標の位置に締め付けのノブを持って行くと、指標代わりになって見やすくなる。
なかなか気に聴いたビオター75mm ff1,5専用のフードなので感心して、どこのメーカーのフードかと思ったらこれがオリンパス製であった。
思うにペンデジタルの常用ズームのフィルター径は40,5MMなのである。これは系統からすればツアイス系統になるわけだ。

実にバランスの良いレンズフードが手に入ったので、後はもう「撮るだけ」だな。

2011年5月30日 (月)

ホールドグリップは案外によさげ

Photo

帰国したら、ヤフオクで落札した「ホールドグリップ」が到着していた。
M型用とバルバックタイプの二種類。これを装着してみるになかなか具合が良い。
ライカビットというのは、本来迅速巻き上げの道具だけど、これを実際に使う人は居ない。
ライカビットの提唱者であった、あいぜんしゅたっと師匠でも実際にはライカMPのライカビットでの巻き上げはあまり使わずに、トップレバーで巻いていたそうである。
思うにライカビットの魅力はその高さの点にあったようだ。それで実際に巻き上げをしないのなら、そのダミーで良いわけである。
このホールドグリップというのは、以前からヤフオクに出ていて、人気はどっちかと言うとあまり無いようであった。
その理由はどうも写真の映りが「王様のアイデア」めいていて「しょぼい」のである。ところが実際に物を手にとってみると、これは精密な樹脂で構成されたものでそのクロームの仕上げなどは50年代のM3に匹敵するほどの良さなのである。
それで気に入ってしまった。
これは阿佐ヶ谷あたりの工房で製作しているものらしい。
これからは、ライカビットもいいが、節電の為?にライカ人類は「ホールドグリップ」が良さそうだ。

突起物ではないから、これなら空港のセキュリテイでビットの引き金のことで問題が起こることもない。

この「巻けないビット」がマイナス印象なのは、その正面のロゴである。不思議なロゴタイプであり、サイズが大きすぎるのがマイナスイメージだ。

ところが背面は実にニートであってGushokohbou  10th Anniversaryの刻印がある。しかも個別のシリアルナンバーが付いている。あたしのモデルはM用が105090でバルナック用が105029であった。

本家のライカビットにはそのようなシリアルは付いていないのだから、なにかこっちの方が高級感があるのも痛快だ。

★追記 セラーさんから以下の連絡あり。なかなかドラマがあるのだ。

--------------

田中様

この度は、ブログに取り上げていただき有り難う御座いました。
この商品は私が高校生の頃ベトナム戦争時、UPIの記者がM4の底に
無骨な鉄板を取り付け首から提げている写真を(マグナムフォトだと思いますが)目にした事からこの写真が頭から離れず設計した物です。
ライカのオーソリティーの方に落札していただき光栄です。

これからも田中様の御活躍、期待致しております。

                    佐藤

2011年5月29日 (日)

シュコダの裏庭

Photo

シュコダの裏とは、プラハのフォトシュコダの裏手の庭という意味である。これを裏庭というと正しい言い方ではない。日本の裏庭の感じは田山花袋の路地裏暮らしのような四間長屋の奧の半畳の日当たりの悪い場所でやつでの葉っぱがあるような日本情緒だが、欧州の裏手の庭はもっとパブリックな感じの存在だ。
ようするに正面の店舗から入って売り場をずっと突っ切ってその奥に立派な庭がある。さらにもうひとつ建物があってそこはプラハでは著名な画廊であったりする。

フォトシュコダはプラハのど真ん中にあるので表通りとそれに面したカフェなどが超満員で入りたくもない。さすがのツーリスト軍団もここまでは知らないから、この隠れた楽園は常に閑散としている。
それでカメラ店の中にある、珈琲の自販機でカプチーノなど買ってここで休憩するのが日課のようなものだ。
ことわっておくが、今回15泊したけど、ここに座ったのは一度だけだった。それはプラハの屋根裏暮らしを満喫する為のツアーであったからだ。

さて、今回のプラハ滞在の冒頭に持参のデジカメはオリンパスXZ1とリコーCX5だけでそれは思う所あったのことと書いたけどその理由はこうである。
まず、コンパクトデジカメだけで大抵の記録には充分だ。もともとペンデジタルだってレンズ交換が可能なコンパクトデジカメであるわけだが、最近の「外遊」ではまずフィルムカメラとデジカメを一対一の重要度で持参するので、そうなるとフィルムカメラの他にレンズ交換のできるデジカメを持参するとなにかと、欲張り過ぎてしまうのである。
前回のマンハッタンでは今反省するに、ライカを持ってデジカメを持ってそれぞれに交換レンズがついていたので、装備過剰のような所があった。

大抵のカメラ人類が陥る罠がこれである。海外旅行の前にあれもこれもとフルサイズのデジイチに交換レンズ沢山持っていったのは良いけど、ハードスケジュールと時差でふらふらになり、結局はサブで持参したコンパクトデジカメが活躍という事例は多い。

このテーブルショットはXZ-1で撮影した。ポケットからさっと出してこのショットを撮ってまたしまったので、普段はデジカメを持っていることを忘れる。そこが良いのである。一方、今気に入っているコンタックス2であるが、これが1930年代のカメラである。それで撮影が楽しめて、同時にデジカメで撮影が楽しめるということが心は自然に1930年代と2011年を自由に行き来している。
しかもコンタックス2はちっともクラシックカメラであるという気がしない。

一方でデジカメの方は3年前の機種でも「あれ、あの当時の流行は何だったっけ?」となってしまう。
これが問題なのだ。デジカメの諸行無常というやつで、これは東洋のの精神である。デジカメの発祥が極東であったというのは、そこらへんに関係があるのかも知れない。

★机上のカメラはコンタックス2にビオゴン21MM F4,5付き。撮影はXZ-1

2011年5月28日 (土)

日時計

1
2
3
4
Photo
6
7
8

プラハの旧市街広場の天文時計は有名で毎日、正午に群集が押し寄せる。すぐ近くのバーツラフ広場にも群集が押し寄せていたがあれは22年前、ビロード革命の時だった。あれ以来、民主化はすたれて誰も集まらなくなったが、一方で旧市街広場の天文時計の前に人民がデモをかけているのは、原発反対ではなく、観光客連だ。なにをする訳でもない。単に正午に時計から骸骨が出てきて、時の鐘を鳴らすのを見るのである。

そんなのは極東の鼠園で普通にあると思われるかも知れないが、プラハのはそれが何百年も前からあるところが違っている。

天文時計が凄いと思うのは、今でこそ欧州の旧市街の広場の市庁舎とか教会にはちゃんと時計があるけれどそれ以前は日時計であったことだ。

また普通の家の南側の壁にも日時計があった。これは日本によくある「お洒落」な目的ではなく、ちゃんと時間を知る為の道具としての日時計である。

屋根裏プラハのアトリエの窓枠に日が射すのも、実はその影の方向と角度から大体の時間は分かる。今回、2週間居る間に外出は2度しかしなかった。もっぱら窓の外を見たり天窓から星を見たりしていたわけだが、その他に部屋の中から天窓の窓枠が構成する日陰で大体の時間を知ることができた。

この画像の上は午前9時半の影である。以下、1時間毎の撮影だ。

2011年5月27日 (金)

屋根裏プラハ

Praha_studio

プラハのこのアトリエを使いだしたのは、ビロード革命の数年前であったと記憶する。当時はまさに屋根裏倉庫のような所であって、まず天窓が磨りガラスの二重で空気が入れ替わらない。にもかかわらず冬は寒くて住めない。
夏は暑くて東洋人にも無理である。プラハの夏の気候はそれほど暑くはないが、なにしろ屋根裏なので熱気がこもる。
それで裸になってシャワーで身体をずぶ濡れにしてその気化熱でしのぐようなこともあった。
ベンチレーションの為に天窓の隙間に麦酒の空き瓶を差し込んでそれで空気を入れたこともあった。
その当時の様子は、写真集CHOTOKU X RD-1にその片鱗を見ることができる。

ここがモダンな天窓になってからはかなり住みやすくなった。風が通るし、冬は二重のガラスだから断熱効果もある。
しかもGOOGLE MAPでこのアトリエの8枚の天窓のその一番西にある、窓にA4サイズの紙の貼ってあることまで分かる。もっともこれはアトリエのことではなく「スパイ衛星」の優秀さの方の領域である。

六本木ヒルズの49Fにて仕事をするようになってもう8年ほどになると思うが、それ以前は仕事はもっぱら東京ではなくプラハでしていたのである。しかし当時はダイヤルアップの時代だから、画像などはFEDEXで送っていた。文字原稿はなんとか送れたけど画像は無理だった。
そのもっと前にはそういう通信手段はないから電話だけだった。モスクワでクーデターが勃発した時、それは家人からの電話で知ったのだが、これはインターネット以前の話しだから、あたしは当時、唯一CNNが見れる(今のCNNなど見たくもないがこれは80年代の話)インターコンチネンタルに走っていったのであった。

部屋は本当のSTUDIOであるから、一方に背景紙があって反対側はこのようなしつらえである。ベッドは南の壁に寄せてある。20年前にはベッドは北の壁に寄せてあったが、そこは屋根の傾斜があるので、真夜中に間違って起き上がった時に傾斜に頭をぶつけることが頻繁だった。
サイズはほぼ30畳ほどだと思うが、もともと貧乏症なのでその角の四畳半ほどのスペースで仕事したり酒を飲んだりしているのだ。
アトリエは他に暗室と小さいキッチンとバスも付いている。
本物のバルセロナチエアが2脚ある。以前は4脚あったのだけど、自分の東洋人の身体にはこの椅子は合わない。リラックスが出来ないのだ。この前、六本木の国際文化会館での石元泰博さんの講演会を聞いた。1時間半ほどの講演会であたしが感心したのはその内容もさることながら、石元さんが「元アメリカン」であるから、椅子に座ったら重心が安定している。これは真似の出来ないことだ。

最上階でエレベータはないから、階段である。今回、日本の節電関係で数ヶ月も阿エスカレータを使わないので体力がついたのであろうか、アトリエの階段が楽になった。とは言え、30歳後半からずっと同じ階段を登っているのである。今は60代の半ばなのであるから、体力は同じわけはない。

アトリエの魅力は仰向けになって星を眺めることが可能な点だ。この前も双眼鏡ではくちょう座あたりを見ていたら、視野をいきなり夜間飛行の旅客機が横切ったので驚いた。さらにその1分後に今度は人工衛星が南北に移動して行った。こういうのはかの野尻抱影先生もご存じあるまい。

天空は案外に忙しい。あたしの頭上はまず黒つぐみとトルコ鳩とツバメが飛行し、その上をチエコ航空。さらに高空をサテライトが飛んでその上がお月様で、それから惑星と恒星の順番になる。

このアトリエは航空路の真下にあるのだ。

2011年5月26日 (木)

6/22--7/10 銀座4丁目RING CUBEで個展開催

Photo

★本日移動日。PRG SVO NRT

この1月は4週間、ウイーンに居たのである。

新潮の「屋根裏プラハ」が完結したので、その続編としてなにかウイーンについて書いて見ようと思ったのはこの1年ほどの腹案だった。

ところがもうウイーンには6年も行ったことがないのである。最後にウイーンに行ったのは、2年前に昇天のライカインコ4世の前の代、すなわちライカインコ3世が亡くなる直前だった。あの時はベルベデーレ宮殿に隣接するシユワルツエンベルク宮殿がホテルになっていたので、そこに宿泊して誰もいない夏の宮殿の庭を散策したりした。あの時は、リスボンの戻りにウイーンに寄ったのである。アリフレックス16SRで撮影をした。

そのような大昔なので、最近のウイーン事情を調査しに行ったのだ。6年間という不在はかなりの時間であったことが分かった。唯一、変わらないのは馴染みの喫茶店ハベルカの店主が元気で4月に99だか百だかの誕生日を迎えることくらいで、それ以外のウイーンはかなり変貌していた。

その変貌の具合を撮影するつもりであったのだが、撮影した画像が今回の銀座4丁目の三愛のビルの9階での展覧会になってみると、これを初めて見る人はやはり「古き良き時代のウイーン」が写っているように見えるのであろうが、それはそれで良いと思う。

ところでタイトルはなかなか気の効いたもので、それは冬がテーマなのである。これはリングキューブの関係者さんのアイデアだが、節電でクールビズだかなんだかが騒がれている夏に「冬のウイーン」というのは少しは涼しくなるのではと思っている。

2011年5月25日 (水)

テッサー付きコンタックス2

Photo_6

★本日移動日。PRG SVO NRT

★母の誕生日。キャパの命日。

今回の収穫は、戦前のコンタックスはちゃんと使えるということの認識だった。

そのおかげで、プラハの2週間に同型のコンタックス2をミュンヘンから、さらにブラック仕上げのフェイクのコンタックス2をウクライナから買って戦列を強化した。

確か、4年前の冬にやはりプラハのフォトシュコダでコンタックス3にゾナー50,85,135,のセットを買って、その時はゾナーの50MMの描写にかなりやられたものであったが、そのコンタックスは翌年の夏にリボン切れになっている。逆に考えればリボン切れを直せばまた使えるということだ。

このテッサー28は以前から持っているが、一度、EPSON RD1に付けた時になかなか使えることが判明した。

手持ちの28MMのニコン、コンタックスマウントではニッコールの次に好きなレンズだ。その意味は高解像を意味するのではない。最近のレンズ制作は高解像とコントラストの向上が主で、なんとか曲線がどうのうのと本質から外れた所で話題になっている。

戦前のレンズは収差がある所が良い。そういうレンズは現在の技術では逆に作れないというか、商業から逸脱していることになるから存在など出来ない。

テッサー28が似合うカメラはやはり40年代のコンタックスに限る。ニコンSPなどにはまったく似合わないのがおかしい。

2011年5月24日 (火)

4年前のはがき

Hagaki

アトリエの棚の上に見覚えのある、展覧会の案内はがきが載っている。取り上げたら4年前の東京はバウハウスでの個展の案内であった。このショットは確か、プラウベルマキナの3aに人形町の佐藤ムンカッチ氏(そのいきさつは銘機礼讃2に出てくる)から拝借したダゴール75MMでの撮影であった。

11X14のオリジナルプリントはそれぞれがエデイション5であって、この作品はすぐに5名様の買い手がついて嬉しかったのを記憶している。価格は6万円だった。この撮影場所はモルダウのカレル橋の左岸なのであるが、ここを普通のデジカメで撮影したらそれこそ面白くもない画像しか撮れない。

マキナのレンズは大昔のレンズだから収差がある。中心部はシャープであるが、周辺に行くに従って性能が悪くなる。ところがこれが面白い効果を生む。人間の視覚は狭いのでプリント上をあっちこっちと動いている。それでいったん周辺の画質の悪い所から画像の中心部に戻るとあらためてシャープネスをより強く感じるのだ。最近のモダンレンズにはその感激がない。どこも同じシャープネスであるからだ。この秘密は80年代にMoMAで膨大なプリントを見ていた時に「発見」したのである。E Westonの10ドルで買ったレンズで撮影した(これは彼の書簡で明らか)プリントがその効果を出していた。だからこのことはドップラー効果ならぬ、ウエストン効果と呼ぶことにしよう。

100年近く前の鏡玉で撮影したのでなんとなくそこに前世紀の気分が出たとも言えよう。CHOTOKUのつづりが間違っているが、これは誰も責任でもない。

あたしが校正をしそこねたのである。

2011年5月23日 (月)

21メーターx 263メーター

Photo

一昨年の8月。プラハの山の中にある、旧迎賓館(現ホテルプラハ)に宿泊していた。そこから歩行して、我がアトリエまでは40分ほどなのであるが、旧迎賓館の周囲を散策してたら、小さな気のきいたホテルを発見した。ホテル「静寂」というのが気に入ったのでそこにまた数泊したので、結局のところアトリエに来るまでに1一週間以上もかかった。

もっとも静寂ホテルは本当の郊外の森の中であるから、一般にはお奨めできない。

さて静寂ホテルから荷物を転がして、我がアトリエに行く途中にプラハ工業大のキャンパスの中を通るのだ。それまで空き地であったところになにやら新建築が建設中であった。

その竣工したのがこのビルである。建物の高さと周囲の長さがメーターで表記してある。建物の番地が巨大に表記してあるビルは今まで見たことがあるが、こういうのは初めてみたのでとても面白く思った。

先々週の火曜の夕刻に空港からアトリエに行くのにクルマでこの前を通過したとき、その建物の十字線がなにやら、フクシマ方面で作業している人の放射線の防護服の十字線に似ていることに気がついた。そうなるとこの数字は許容される被曝量という連想が生まれる。

そういう連想はどうもあまり楽しいことではない。

2011年5月22日 (日)

外人の箸使い

Photo_3

画面をキャプチャする方法を忘れたんで、デジカメで撮影した。

左の画像はTWITPIXに投稿した友人のやつで、その趣旨は「蒙古湯麺は本物よりもカップの方がうまい」というのである。

この指摘はなかなか鋭い。ようするにあたしが戦前のライカなんか使っていると、脇にいるカメラのことをあまり詳しくないカメラ人類が手に「ライカのマークの赤いぽっちの付いたデジカメ」を手にしつつ「へえ、随分古いカメラですね。何と言うカメラですか?」と聞いてくるのに似ている。

あたしも蒙古湯麺中本はオリジナルよりコピーである「偽蒙古湯麺」の方がうまいと思っている「味の分からない人間」の一人である。

ところで問題は右の画像だ。しっかりチエコ語の説明が入っている、箸を手にした西洋人の女子の画像である。箸の持ち方はあたしなどよりもずっと上級である。

気になるのはこういうショットの場合「箸の存在感」をモデルが意識し過ぎてそこには箸の通信販売めいた変な気分が充満してしまうことである。

こういうことは最近ではないのだけど、プラハのビロード革命の直後に、こっちの日本レストランにプラハの知識人を招待したりすると、かならずお土産に箸を彼らは所望したものだった。当時はそれが「極東の文化を研究している」証であったのだ。

最近ではそのトレンドは変化した。箸を所望するのは「自分たちは日本レストランもないような僻地から来た」ことの証明であるからだ。

なんでもガストロノミービズネスは見栄商売である。

2011年5月21日 (土)

北天にあやしい光りものが

Photo_2

2

5月20日のプラハの深夜0時過ぎに、ふと北向きの天窓を見たら、怪しい光ものが7−8個、いましもふらふらと上がって行くのが見えた。

あたしは希に「変な光」を見たりすることがあって、1977年の10月末に日本で夜、シャワーを浴びた後でベランダに立った瞬間に非常に強い碧い光が頭上を一瞬横きるのを見た。

ああいう時には未知の存在への恐怖から、身体じゅうに鳥肌がたったものだった。

しかし今回見た光り物はそのような種類ではない。これは灯籠状の紙風船の中の蝋燭をともしてその熱で上昇する仕掛けなのである。

ただし、これを見たのは3年前の春の西安であって、その同じ熱気球提灯がここプラハで見られたことが実に不思議であった。

案外に、四川大地震の慰霊かなにかでプラハの中国の人の上げたのかも知れない。その後のもの凄い雷雨があって、アトリエの中は稲妻で昼間のようになった。

参考までにアトリエから見た昼間の光景をここに揚げておく。向かいのスターリン建築の尖塔は最近では「論番停電」らしく明かりが付いていないのは残念だ。

2011年5月20日 (金)

きったねえ、ライカフレックスの美学

Photo

以前、クリステイのオークションの「内覧」を赤瀬川原平さんと坂崎幸之助さんとで銀座の事務所に見に行った。もう一人お客さんがいた。
数々の銘品珍品、それも予想落札価格が1000万円というような逸品を見せてくれるのだから嬉しい。その中でもう一人のお客さんは珍品ライカを見て「ここの傷がなかったらもっといいんですがねえ」などと残念がっている。くだんのライカはNASAのスペースライカでかなり使われているのである。

我々、赤瀬川組はそういうNASAのライカは使われているからこそそこに価値が出ているのだと思っていたのに、もう一人のお客さんはまるでどっかのカメラ屋さんの買い取り担当の人みたいなことを言うのでかなり驚いた。

後で三人でそこらの喫茶店で談笑した時に「世の中はうまく出来ている。今日のNASAの珍品は別として、普通のカメラ人類は綺麗な中古が高価で汚い中古には目もくれないから、それを買って我々は楽しめる。この世の中はまんざら捨てたものではない」という結論になった。

そこでこのプラハの「きったねえライカフレックス」だが、これだけブラッククロームがすり切れるのは尋常ではない。レンズは35mmの広角が付いているようなのである。
今回のプラハではebayでオンラインの買い物ばかりで「オフ買い」をまだしていない。こういう事はプラハ滞在の20年以上でも珍しい。折良く新潮連載の「屋根裏プラハ」も完結して昨日送稿したことだし、プラハの春完結記念としてこのライカを買うことを思いついた。
日本ではクーデルカのプラハ1968展が開催中だけど、このきったねえライカは絶対にプラハの春を記録しているであろう。

2011年5月19日 (木)

コンタックスの戦前のカタログを真似る

Photo

1970年代の半ばにウイーンのカメラ店でコンタックスレンジファインダーのカタログがまとめて出たのを手にいれた。

感心したのはその30年代後半のレンズのカタログがしっかりと撮影されていたことだ。これは時代の経過からすれば逆なのであるが、70年代にニッコールの交換レンズのカタログの撮影で鍛えられていたので、そういう気持ちがしたのであるが、考えてみればツアイスのカタログのレンズの存在感を日本光学工業KKが真似したに過ぎない。

アメリカでは時々、ebayなどで戦前の立派なコンタックスレンズのカタログが登場する。まだ敵国関係になる以前はかなりの大量なコンタックスとその交換レンズが輸出されたことであろう。

それで今回はおもいっきり「コンタックスシフト」してプラハに居るのであるが、ふとあの当時のコンタックスの交換レンズのカタログの真似をしてみたくなって、撮影したのがこれである。Photo_2

撮影した後で、これはやはりモノクロでないとまずいのではなかろうかと、色彩を抜いたのがこれである。本当は完全なブルーブラックにしたいのだが、ヨックモックについている安バンドルのはこのセピアしか選択肢なし。これだと1932年当時のコンタックス1の気分になってしまう。

1

偽ライカ同盟の桜木同志(仮名)が、東京で上のセピア画像をみて、ちゃんと色を抜いたのを今、送ってくれた。感謝!

やはり30年半ばから40年代ならこうブルーブラックで行きたい。

2011年5月18日 (水)

辛子似誇負より、こっちがいい

Photo_3

あたしは辛子に誇負の、いやカラシニコフのハードカバーの分厚い本を持っている。ソ連が崩壊してしばらくしてからモスクワから買ったものだ。印刷なども素晴らしくて英語とロシア語で説明がある。

最初のカラシニコフは1947年に登場した。あたしと同年代だ。それ以来、この突撃銃が何億の人間を殺傷したのかそれは分からない。しかし銃弾は当たれば死ぬし、怪我も分かる。放射能はそれが見えないのでかえって怖い。大量殺戮ならメルトダウンの方が上である。放射能と比較するとカラシニコフの方が穏やかに思えるのは殺傷する方とされる方の一対一の関係がそこに見えるからだ。

放射能の場合はそうは行かない。発明者のカラシニコフさんはその本の巻頭で「おれは世界に平和をもたらす為にこの銃を発明した」とか言ってる。言い訳も出来ないのでそういう風に居直ったのであろうが、原子力は安全のいい加減さより、今の状況ではかえって納得が行くのも不思議だ。

カメラは銃器に似るのも思えば不思議な縁であるのだけど、このフォトスナイパーはもとをただせば、赤軍の兵士の偵察用のフォトガンであった。それをカメラ好きのソ連の偉い人、フルシチョフ第一書記の肝いりで生産されたのがこのカメラである。

1973年のモスクワの5月の対独戦勝記念日にたまたまモスクワにいて、ぐむ百貨店にカメラを買いに行こうと思ったら休みであった。赤の広場を行き交う人民がカラシニコフを肩にしているので、今更に剣呑なゲリラが居るなあとおもったら、何のことはない、フォトスナイパーを肩にしているのであった。

四半世紀前にアサヒカメラのテストでこの銃を試したことがあるが、なかなか良く写る。ただしこういう剣呑なスタイルのカメラを持って東電前などに行くと即、公務執行妨害でぱくられそうだ。

このフォトスナイパーも何年前からアトリエにあるのかそれは不明である。せっかうなので、フィルムを入れて窓から北に見える、スターリン建築様式のホテルなどを撮影して遊んでいる。

2011年5月17日 (火)

プラハのフォトシュコダ

Photo_2

フォトシュコダはプラハで成功したマーチャントの一人だ。そのトップのシュコダさんとは付き合いが長いけど、最近はあまり行き来はしなくなった。最後に彼と歓談したのはまだ東京駅のステーションホテルが営業中だった時にあのバー(カメリアではないほう)で呑んだのである。

20年前のシュコダさんの店はまだ開店早々であった。買うものもないので、ご祝儀にイエナ製の8X30の双眼鏡を買った。それはなかなか優秀で今でも愛用している。

シュコダさんは努力家であるから、開店当時の外国語はドイツ語だけであったが、「国際的に商売をしたいので最近は英語の講座にかよっている」と言ったのが10年前だった。それで今の彼はかなりの英語遣いなのである。

今回、半年ぶりにお店に行ったら、ショーウインドウのレイアウトが変わってかなり広い感じになった。中古カメラは大したものはなかったが、このお店の奥にあるカウンターとWCとはよくお世話になるのである。そのカウンターで4X5のフィルム交換をしたこともあった。

2011年5月16日 (月)

アトリエの窓

Photo_4

Photo_5

アトリエの天窓から、流れる雲を見る楽しみをほとんど忘れていた。

昨年は1月と3月と12月にプラハに来た。つまり悪天候の時期だし、空はグレーである。1月も12月も大雪でアトリエの煙突が雪で閉ざされたので、ここにはちょっと仕事に来るだけでホテル暮らしであった。

それでこの天窓の青空と白雲をちゃんと見るのは、実に一昨年以来ということになる。

ちょうど、天窓が額縁になってそこに「生きた雲」が次々に登場するというのを見ているのは飽きない。ちょうどベッドの位置からこれが楽しめるのである。

ところで、この雲のフレームだが、他の風景は一切入れないのが実は良いのである。上の画像のようなのが理想だが、下のように向かいの尖塔を入れてしまうと、変な象徴主義の絵みたいになってしまう。

その意味でも、かのシュテイグリッツの雲ばかり撮影した「エキュバレント」のシリーズは大したものだと再認識する。

2011年5月15日 (日)

文学カフェ

1

Photo_3

プラハのベツレヘム礼拝堂はモダンなデザインで最初は、ヨセフ・プレチエニックあたりのデザインなのかと勘違いしたほどだ。それほどファサードがモダンなのである。

その教会の向かいにあったBSフォトというので買い物をしたのが昨年の12月にモーター付きのプラクチナ2Aを買ったのが最後になった。20年前に開業の当時は、男性二人(どうも親子のよう)でやっていたのが、いつの間にかアイスクリームも売る多極経営になり、その後、半分が女性のアクセサリー屋(安物)になった。そのまま10数年が経過したのだが、今回見に行ったら、100㌫がアクセサリー屋になったいた。政権が自民から民主に変わったようなものか。

その店からさらに北に向かってちょっと小路を左に曲がったその先はどう見ても行き止まりに見える左側に文学カフェがある。そういう名前のカフェなのだ。

まず文壇バーよりは品が良いのが救いである。

ここは土日は開店していないのも良い。ご覧の丸天井なのだからベツレヘム礼拝堂よりも古いかも知れない。

いつだったか、金曜の午後のこのカフェの混雑の中、見知らぬ老紳士から声をかけられた。誰だか分からなかったが、彼自身の説明によれば20年前に自分がプラハ市長をしていた当時、あなたはあたしを市庁舎にインタビューに来たというのだ。それで思いだした。彼はコンタックスT2のゴールド仕上げを持っていたので、これは黄金都市の市長に相応しいと感激してことがあった。

今ではその元市長さんは出版社を経営しているそうだ。毎週金曜に紳士連がこのカフェに集合して、それぞれに自分の料理の腕を披露して会食するのだそうである。そう言えば、金曜には店の奥にじじいばかりが集合する大テーブルが出来ていたが、あれがぞれであったかと思い当たった。

2011年5月14日 (土)

プラハの目玉焼き

Photo

20数年来、プラハのアトリエで「自炊」しているわけだ。外食は一人ではしない。こっちのプラハ人と話しをする時だけ、外食をする。

それで朝食はいつもこんな感じで、フライパンをそのままデスクに持ってきて、珈琲。こういう動作は20年もやっていると、自然に出来るようになるもので身体が自然に動いているのが、我ながら愉快である。

日本では卵を食べることはあまりないが、こっちの卵はなかなかうまい。しかし1日に2個を限度としている。
昼は市内の中華のビストロで喰ったり、行きつけの文学カフェで喰ったりする。この週間ももう20年来か。

こっちに居ると、食い物はうまいものが食いたいという気分はなくなる。手元にある食い物で充分だ。なにか修道僧になった感じだが、それは質素を意味しない。
ベルギーにシメーの麦酒を取材に行って、その修道院の中の「劇場」の豪華さに驚いたことがある。そこで生産される、麦酒もチーズも最高であった。
シンプルな同じものを喰い続けることが出来るのは、かなり先進の食文化であろう。

2011年5月13日 (金)

コンタックス2とGS MARK2

Photo

あたしは他人の影響を受けやすい。それで今回の「プラハ帰還」にどのようなアナログカメラを持参しようかと思っていた矢先に例の「ビオター事件」があり、ビオターをライカに付けてゆこうと考えていたが、そのさらに出発間際に日野さんというあたしの知らない人が、「あのビオターは僕が委託に出しました」との書き込みがあって、いきなり戦前のツアイスオタクが浮上したのである。
その影響もあって、今回はコンタックス2にイエナレンズ一式を持参した。

そうなると時計も揃えたくなるわけで、時計のガラクタ山の中から、英国軍用のGS MARK 2〔ジエネラルサービス)をピックアップした。
この時計は2年前の11月にペンデジタル2の雑誌撮影時に長崎に持参したのである。雑誌のカットでこの時計と足穂の「ヴィタマキニカリス」の伊達得夫が出した限定500部の白い本を持参してそれを長崎に並べた。英国軍用のGS MARK 2は11時02分に合わせたいところだけど、商業誌だからそういう馬鹿はしなかった。

コンタックスも英国軍用時計も同じ40年代の製品である。すなわちあたしの同世代でちょっとカメラと時計の方が先輩ということだ。
その二台をアトリエのデスクの上に並べてその光の加減でこの工業生産物に「命」が通っているように見えたのが発見だった。
ここはアトリエだから8枚の天窓は天空光を拡散させて実に理想の光線状態になる。

2011年5月12日 (木)

プラハの朝

Photo

人間の弱点であり、長所でもあるのは「物事にすぐに慣れてしまうこと」である。

これを順応性というらしいが、半面から観察すれば無神経の別の言い方である。今回、プラハに来て最初にプラハ人から聞かれたのは、原発事故のことだ。日本は全部が駄目になっているとの認識がある。

東京は大丈夫だ。と答えたら、東京は福島からどれほど離れているのかと聞かれた。200キロと答えたらとたんに相手の表情は曇って何も言わなくなった。それはそうであろう。プラハの南のウイーンでメルトダウンが起こっているのだから、これはパニックである。

プラハで毎回の訪問(というか帰還)で最初の印象は夜明けの美しさである。まず3時半に黒ツグミが鳴き出す。これは天使の声である。最初にウイーンに来た1973の丁度今頃は、その声に聞き惚れて、これが噂のナイチンゲールかと思った。実は欧州のどこにでも居る、ブラックバードなのである。

それから各種の鳥が鳴き出し、このように日の出の前兆になる。それから日が出るのはまだ一時間以上先のことだ。

今回は大変な決断をして、デジカメは二台。オリンパスEZ1とリコーのCX5のみ。アマチュアカメラマン以下の装備であるが、自分自身、今回、わざとペンペンは置いてきた。その結果は今回、おいおいに書いて行きたい。

これはそのEZ1の最初のショットだ。昨年のフォトキナでベールを脱いだ新鋭機もこうして実際に使われているが、その開発速度がいささか速すぎないか。それが気になる。どうもデジカメは短期決戦なのが不満だな。

ペンデジタル1は2年前の製品だけど、使うには何の問題もない。エプソンのRD1にしてもまったく時代遅れの感じなない。

坂崎さんとニッポール

Photo_6

★プラハ2日目。時差の為、夕刻からの約束を断って、アトリエで流れる雲を見ている贅沢。

ドルカの話で松屋の中古カメラ市の開催されている、階段の途中で坂崎幸之助さんとニッポールというレンズは日暮里あたりで生産されたのではと、カメラジョークを半時間以上とばして、そのせいで坂崎さんはカメラを見る時間がなくなって、そのままスタジオ入りしたのはあれは偽ライカ同盟ができる以前の話だ。4_2

ドルカについていた、ニッポールは日暮里製という坂崎さんの予想は大当たりであって、昨年、このカメラメーカーのあった日暮里界隈をアサヒカメラの連載の取材で歩き回った。

メーカーの東京光研のあった場所は日暮里の貨物船の第何番踏切のそばで、そこには古いマンションが建っていた。
坂崎さんとの会話に触発されて、大阪のカメラ店でくだんのドルカを買ったのはその20世紀末であるが、それにはニッポールが付いていた。これはこの広告のドルカ2なのである。
最初のモデルは見たことがなかった。それがヤフオクで神戸のカメラ人類さんが出品していたのを落札したのである。入札者はあたしひとり。

その出品者さんはデジカメを持っていないので、息子さんのデジハリとか言うカメラで撮影したと説明にあった。その写りがなにかカラー版の森山大道めいているのが良い感じだった。ヤフオクの出品は、トイカメラで撮影すると夢が広がるようである。

Photo_7 ドルカ1は初めて手にしたが、これは偽コニカの感じがあってお洒落である。最初期型にはレンジファインダーもついていないのもすがすがしい。
フィルム巻き停めのリリースボタンの位置がレンジファインダー窓であることなど、意表をついた意匠である。

1型の方は有名なニッポールではなく、こっちは「コメイル」と読める。これもなにかの意味があるのであろうが、そこらを想像するのも楽しい。

ところで大阪で買った、ドルカ2型で勇んで奈良方面に行って、東大寺の大仏殿を撮影した。気分はフランクロイドライトであったが、そのレンズは曇っていて、あまり傑作が撮れたという感じはなかった。
Photo_8

2011年5月11日 (水)

ペンにビオター75

Photo

ビオター75MM F1,5は1940年に100本だけ生産された記録のある、幻のレンズである。しかも前の持ち主が名乗り出るという、1000年に一度の快挙もあった。このレンズ、本来はコンタックスに付くのだが、アダプターでライカにも付く。ということはライカMアダプターでペンにもつくわけだ。
さっそくテストしてみたら、この方が具合の良いことが分かった。

明るさがF1,5というのは、レンジファインダーでの能力の限界である。1940年代にはまだ一眼レフは完全に実用化されていなかったので、レンジファインダーで使うしかなかった。戦後になって、このレンズのリメーク版の一眼レフ用がかなり多く市場に登場したのに対して、レンジファインダー用は極端に数の少ないことでも分かる。
ペンにアダプターで使うと往年のレンズの優秀さが再認識できる。いずれも絞りは開放。

以下の作例は佃島の大ガラスの部屋で撮った。三角形の赤富士はこの前、新潟の海岸で拾った鉄板だ。そこにテイッシュをつけて富士山大噴火の模型のつもりである。

2

Photo_5

3

4

1940年のレンズが2011年の電子写真機に遭遇したことになる。まあ、40年代の独逸の光が写っているというべきか。

そうそう、今年七拾五周年のズイコーだが、あたしの気に入っているのは、200MMF45のレンズだ。これはミランダマウントである。昭和15年製造というから1940年だ。これも大したものだと思う。

★昨夕、プラハに到着。着陸地に一面の緑の田園風景と、菜の花畑の黄色が晩春の斜光に照らされて何とも言えなかった。

あたしの飛行中の観察のポイントにドイツとか仏蘭西で上空から見る原子力発電所があったが、小国プラハにはそれがない。





2011年5月10日 (火)

「KE-7Aではない」出撃す!

75_2

本日移動日。NERSVOPRG

昨年のちょうど今頃,ヘルシンキ経由でリスボンに行くつもりが、例の火山灰の影響でヘルシンキ空港で足止めになり、決断してヘルシンキに弐週間いた。
まさに北国の春の盛りで実によかった。

あれから1年経過した。今回のプラハは昨年の12月以来なのでかなり久しぶりの感あり。

この1月にはウイーンに一ヶ月いたのだけど、プラハは遠く感じて行かなかった。3月にはマンハッタンに居て「あ、プラハはマンハッタンから見ると東だなあ」と考えていた。その地理学の話は目下発売中の新潮の連載「屋根裏プラハ」の第19回に書いた。

この前に手にいれた名玉のビオター75MMだが、昨年、ヘルシンキに持参した例のライカ「KE-7Aではない」にアダプターで付けてそれを持参する予定だ。(これを書いているのは8日の午前中なのでまだ最終決定でないのは何時ものこと)

昨年はこの「KE-7Aではない」でヘルシンキの街を撮影した。それは品川のフラッシュで現像してCDにしてもらったのだけど、それがそのまま佃のジャングルで行方不明になっていまだに発見されない。これは何時ものことだ。
多分、発見までにあと数年はかかりそうだ。

同じことが先日あって、1988年にプラハの革命の前に撮影した画像が発見されたのである。
それをセレクションしたのが「ライカワークショップ」に掲載の「赤いプラハ」のシリーズである。

今回のプラハでの重要ミッションは新潮連載の「屋根裏プラハ」の第20回の完結編をかくこと。22年前のプラハで撮影したライカのショットがそれを助けてくれる。

例のビオターの前の所有者が、日野カツヒコさんであることが、twitterの書き込みで判明。まだお若いのにあたしが40年来やってきた、レンズ道楽のかなり先の方まで来てる。大した逸材だ。

2011年5月 9日 (月)

ビオター75 f1.5の謎

1

4

ビオターはツアイスイエナの有名なレンズだ。もともと明るい映画用レンズとして制作された。あたしの持っている、チエコスロバキア国立映画局がドキュメンタリーの撮影の為に制作した35MMの肩載せ式(ちょっとエクレールに似ている)ムービーキャメラにも3本のビオターが付いている。それは35mm 50mm そして75mmだ。

ビオター75mmf1,5は戦後にコンタックス2aが西独逸から出た時に、まだオーバーコッヘンのレンズが生産体制が出来ていない状態であったので、ツアイスイエナから西側に供給された。それらはトポゴン25mm,ビオメター35mmそれとこのビオメター75mmだった。

同じレンズはエキザクタマウントでも存在する。これは以前、使っていた。60年代に活躍した、写真家ピート・ターナーはその特異なカラーシリーズ「旅へのいざない」の中で、
ビオター75mmf1,5を使っている。これはニコンFマウントに改造された一眼レフ用レンズだ。

ところでここで問題にしたいのは、コンタックスレンジファインダーに使えるビオター75mmf1,5のことだが、これは一説に800本ほど生産されたと言われるが、大きくて重いからあまり実用性はない。もっぱらコレクター向けのレンズだ。

★上の本数について訂正。ライカショップのオークションで、戦後のビオターの生産本数に関し、225本とある。(nur 225 Stück dieser Objektive wurden zwischen 1950-54 mit Original Contax Anschluss produziert,)

この間、銀座の檸檬に行って、安いコンタックス2型を物色していたら、その棚の下の段にこのレンズが「寝て」いたのである。これは番号からして戦前のビオター75mmf1,5である。
このレンズがお店のウインドウに並んでいるのは人生で初めて見た。このレンズは上の西独逸に輸出されたレンズのさらに原型の戦前のレンズのことだ。

「コンタックスのすべて」(ハンス・ユルゲン・キュッツ)の本にも戦前の
ビオター75mmf1,5のことは触れていないし、写真もない。この本の後半では戦後になって西独逸に輸出したコンタックスマウントのビオター75mmf1,5の方は写真入りで紹介されている。これはフィルター枠の黒いレンズだ。

一方で1940年に100本だけ生産されたと言われる(これは英語のソース)
ビオター75mmf1,5の方は国内の資料ではその存在を疑う記述もある。これは当然の話で実物を見ていないのだから疑って自然である。

こういうセールスレコードのないレンズがいきなり登場したりするのが、オフラインショッピングの醍醐味と言える。
保存状態が非常に良いのだが、これがもし戦前の日本のコンタックスファンの所有になっていたレンズだとしたらこれは痛快事である。
まずはプラハに持参して撮影してみようと考えている。

★追記。今朝、ヒルズでTWITTER開いたら>長徳さんのビオターは実は僕が委託に出していた・・>>の書き込みあり。凄いなあ。こういうのはまず千年に一度起こることだ。


2011年5月 8日 (日)

マンハッタンTokyo

Tokyo

マンハッタンの五番街をライカM3にjena製ビオゴン35mmを付けて撮影したスナップの中の一枚だ。

今回の撮影でおもしろかったのは、意識のフレームを外した点にありそうだ。普段はちゃんとファインダーを見て撮影しているのだけど、今回のマンハッタンのスナップではほとんどファインダーは見なかった。

その理由はカメラを目の高さに構えていると、すれ違う人の視線がどうしても、ライカの方に注がれることになる。

それを避ける意味で、ファインダーはだいたい胸の位置にホールドして撮った。これは撮影される相手から「おれの肖像権はどうなる!」と文句を言われることを防ぐ意味からではない。

言うもおろかなことだが、この東京は世界でもっともカメラの視線に神経質になっている都会である。なんでこんなことになったのかはさておき、確実に都会で交錯する視神経が病んでいるのだ。

マンハッタンの最近は実に撮影のしやすいところでまさに自由に撮影ができた。しかしカメラ目線になられるのは困るので、ファインダ−はなるべく見ないようにして撮影しただけのことだ。

思わぬ効がその結果として表れた。この五番街のショットは視線を遮る巨大なトレーラーの存在が面白く思ったのである。大震災の後であったから、迫ってくる津波の見え方はちょうどこんな風に見えるのではないかとも考えた。

そのショットを後で見たら、右の端っこのイエローキャブの広告の一部がTOKYOと読めるのである。ニューヨークのど真ん中で意識の境界線のあたりに浮遊している、東京のイメージを撮影の瞬間にはほとんど把握していなかったのが、カメラの無意識療育でそれは記録されていたと、言うことも出来る。

このあたりの撮影した時には意識していなかった光景が結果として、カメラアイが撮影していたという事実が実は写真の最大の面白さなのではと思う。

予定通りの思ったようなイメージの作品が撮れたと言って満足している人間は幸せである。彼は自分のうすっぺらな観念の範囲内で言葉で説明可能な写真が撮れたと満足しているのだとしたら、これは悲劇である。

2011年5月 7日 (土)

Hズイコー35mm f2

H

写真評論家の福島辰夫さんのお宅で、エルスケンのスイートライフ(日本版ではない、オリジナルの)を見せてもらったのがたしか1967年だから大学2年の時であったろう。
そのスナップ写真の神髄を見て、まず少年のあたしは同じカメラを手にしようと思い、ライカM2を買ったわけだが、エルスケンの使っていた、ズミクロン35mmは買えなかった。当時の定価が77,000円もしたのだ。それがきりの良い数字なので今でも記憶している。

それで代替レンズという意味で、オリンパスWSを買った。これだって定価が当時三万円以上したので無論、中古である。レンズはHスイコー35mm f2が付いていた。このレンズは優秀で今に至るも愛用している。

2009年の初夏にペンデジタル1の試写をデジタルカメラマガジンから依頼されたとき、最初に頭に浮かんだのがオリンパスWSであった。そのデジタル版がパンケーキレンズ付きのペンデジタル1であるという認識である。

ワイドSの方は1957年のアサヒカメラのニューフェース診断室で木村伊兵衛さんが試写している。どっかの盆踊りの様子を撮影した、モノクロの小さな作例写真であるが、当時のわれわれが感心したのは「夜なのにちゃんと写っている」点にあった。夜は暗いので写らないというのが常識なそういう時代であったのだ。

Hズイコーは8枚玉のレンズであることは知っていた。その断面図を見てかなりエキセントリックな構成なのに感激した記憶もある。今なら明るさがf2の広角などもっとコンピュータの設計で簡単にできるのであろうが、当時の最高のレベルの光学設計がそこになされている感があった。

ワイドSは60年代の東京の街歩き、そしてそれに継続する70年代のウイーンでの街歩きによく使った。このカメラのフィルムのアパチュアは他のカメラよりちょっとだけ、小さいのでネガを見るとすぐにそれと判明するのだ。

逆光に弱いのがほとんど唯一の欠点というところで他は安心していまでも使っている。
オリンパスのズイコーは今年で75周年だという。

ということはこのレンズが登場したのはその75周年の歴史のかなり前の方になる勘定である。

2011年5月 6日 (金)

こないだ土浦で

Photo

Photo_2

Photo_3

大震災のちょうど1週間前の快晴の日に、土浦の酒井邸に行ったのである。

訪問の前の晩に、水戸から依頼された「大観光写真」のロケハンに行った。その1週間後に大震災が起きるとは「想定外」であったが、先日、代理人が水戸から来て、くだんの企画は来年に延期になったと伝えた。

その内容をもれ承れれば、今回の撮影は予算がないので「ボランテイア」でやってくれないかとの打診があり、間に立ってくれた代理人とか地元の実力者さんが、それでは問題だというので、次期に繰り越しにしたそうであって、これは誠に有り難い。

ボランテイアはそれはそれで志を遂げるには良い行動なのだが、時には「ノンギャラ」とか「ただ働き」の苦い薬を包むオブラートとして使われることがある。それは問題なのだ。こっちから自発的にボランテイアを名乗り出るのならいいが、「予算がないのでただでやってください」というのはスマートではない。

来年のことを言うと鬼が笑うと言うが、あたしは別に水戸方面に鬼さまが居るとは思わない。

さて茨城の土浦の酒井さんを訪問したのは、マンハッタンで撮影に使うライカM3を借りる為である。ここは時代考証が大事なので、あたしの持っている製造番号が70万台のライカM3はかのフランク先生がアメリカ人を撮影した当時では時代考証があわない。それで酒井さん所有の80万台のライカの方が時代に合うであろうということでライカを拝借に行った。

もっとも、この画像は実はあたしの70万台のM3で撮影している。そのM3を酒井さんに預けて、その代わりに彼のM3を借りたわけである。無論、撮影の結果はなんら変わることはない。ただ、若干の精神的な想像力の為にそんなライカの「とっかえっこ」をしたわけだ。

2011年5月 5日 (木)

マンハッタンはキャナル通りで

1

2

3

4

5

6

7

この三月は、マンハッタンの到着日が大震災の時であり、その体験談は5月7日に発売の「新潮」の6月号の連載エッセイ「屋根裏プラハ」に書いた。ようするに自分の周囲の風景は確かにマンハッタンのホテルの一室なのだけど、心の在りどころは遙か1万キロ西の日本である。

時差が13時間あるから、マンハッタンの深夜にはずっと日本のTVニュースを見ていて、そのまま寝ないで朝になり、撮影に行くという日々が継続した。還暦過ぎても案外に元気なものだと感心もしたが、恐らく、サブウエイの中で居眠りしたりして、その帳尻は合わしてあったのであろう。

目下、鋭意進行中の「フランク・サカイ・チョートクマンハッタン計画」の撮影で、持参した「たった12本のモノクロフィルム」を使って、ライカM3にカールツアイスイエナのビオゴン35mmで撮影をしたものの一部がこれである。

最初はマンハッタンの最もマンハッタン的な場所というわけで、ミッドタウンから59丁目までを撮影したのだが、それでも物足りないような気持ちになって、SOHOからキャナルストリートを撮影した。

キャナルストリートは言うまでもなく、華都である。マンハッタンに棲んで、あたしの考えががらりと変わったのは千九百八十二年のことで、それは日本人の考えている「ビジネス」という言葉とこっちでの「ビジネス」という言葉の決定的な違いであった。

日本だとビジネスというのは仕立ての良い背広の男性が書類にサインして対戦相手と握手をするようなイメージ、あるいは飛行機を待って、国際線のラウンジで珈琲を一杯という感じである。対するに、アメリカのマンハッタンでは、グロッサリーで林檎を一個売ったり、雨の降り始めにユニオンSQで1本5ドルの傘を売るのが「ビジネス」なのである。

だからビジネスというより、ご商売と言った方が良くて、それだけ地に足が付いているのだ。あたしの仕事場のヒルズにはそういうビジネス啓発の皆さんも居るようだが、また聞きするに「経営者の指導力について」とかやっているのが聞こえる。これは何も言っていないのと同じことである。大体が大企業創業者の成功談はスモールビジネス(零細商売)から身を起こして今の繁栄を築いたというのが多い。それはそれで結構だが、商売は何も成功を前提としたものではないであろう。

まず、一個の林檎をちゃんと売ることが大事であって、それの積み重ねが結果として大成功になるのかも知れないが、それは案外に「事故」のようなものなのではないか。

そんな意味でキャナル通りをライカで徘徊していると、その商売の原点が見えてくりるのも愉快である。それにしてもマンハッタンは人間が写真的である。

2011年5月 4日 (水)

カメラの10回払い

10

昭和30年代にカメラは高価なものだった。当時は日本は貧しい国だったからまだクレジットカードなど無かった。マンハッタンのボスだった、Hケプラーさんの助手をしていた1980年、彼は帝国ホテルで宿泊してオオクラのベルエポックにランチに行き、京都では俵屋さんに泊まるような人で、マンハッタンの北の自邸から白いロールスロイスのオープンカーで通勤していた。アメリカの黄金時代を今にして見るような気持ちになる。

そのケプラーさんは当時、まだ日本ではなかったアメックスのゴールドカードを持っていて、凄いなあと思った。その数年後にあたしもアメックスを持てるようになった。真面目に支払いをしたので、ゴールドカードになりプラチナになって、10年近くが経過して、カードの色はグリーンが一番良いということに気がついて、昨年、一気に二階級ダウングレードしてもらった。一挙に会費が安価になった。

昭和30年代に高価な耐久消費財というのは、まず写真機であった。今なら、ライカをぶらぶらさせて銀座を歩行しても「単なるモノ好きな変人」としか認識されないが、当時は写真機は社会のステータスであった。

土門拳先生は絶対非演出の絶対スナップで一斉風靡したが、当時の先生連はアマチュアの指導者であったから、旋盤工の見習いさんが貯金してもなかなか高級カメラが買えないというカメラ雑誌の嘆きの投書に対して、「A君よ、カメラなんて安物でいいじゃないか!カメラは値段が問題じゃないぞ、撮影精神だぞ」と葉っぱ、じゃない発破をかけている。

当時、カメラの10か月払いは神田今川橋の角の林商会が有名で、黒いスコッチテリアがシンボルマークだった。ラジオのCMなんかも派手に流していた。その林商会と入れ替わりにカメラのキムラが勃興したが、そのキムラも北村に吸収されて跡形もない。

カメラのキムラの会長さんと、十数年前にベルリンでご一緒したことがある。クーダムのどっかのカメラ屋さんでウインドウに会長さんの欲しいカメラがあって、ダイナーズカードがその店ではつかえないので、あたしが現金で少額を立て替え払いしたことがある。天下のカメラのキムラの御大に対して仮払いは実に僭越だけど、会長さんのうような昔のお金持ちはダイナーズはリッチなカードという「間違った観念」をお持ちのようだ。ダイナーズなどあたしでも持てる大衆カードなのである。

カード会社の「信用度」が下がったのは、アメックスも同じである。以前のこと、佃からヒルズへの通勤路で半年ほどアメックスが下請け会社の社員を使って、通行人に対してキャンペーンをしていた。これがキャッチセールスまがいで不愉快なので、通勤経路を変えたほどである。あたしがアメックスを二段階ダウンしてもらったのもそれと無関係ではない。

佃の仕事場からこういう黄色いプラスチックのカードが出土した。

ニコンSPが7万円当時に、一般の給与は1,5万ほどであったから、こういう商売はカメラ人類に夢を与えてくれたのであろう。ちなみに当時のライカM3はレンズ付きで20万円である。つまり雲の上のそのまた上の存在だった。

2011年5月 3日 (火)

昔、昔、浦島は

1

2

3

偽ライカ愛好会の仲間と、横浜の子安から歩行した。この界隈は知らないので面白かった。
運河に面した界隈は、浦島町というのである。
浦島伝説は日本中にあるけど、こんなに近くに浦島地区があるとはおもわなかった。

幼年時、浦島の話しは実に不思議だとおもった。第一、内容が童話に実にふさわしくない。人生の諸行無常を子供に説明しているからだ。

つまり、そのあらましは、壮年の漁業関係者が、竜宮城に拉致されて、乙姫に色仕掛けでやられてしまい、ようようにもどってきたらもはや使い物にならないじじいになっているという話だから、これは教育的な見地からはもっとも相応しくない。

だからこそ、竜宮城の話しをあたしも子供時代には注意して聞いたり見たりしたのだった。これは幼児の直感というやつだ。
童話は本来残酷なものだが、どうも幼児にはそれを受け入れるだけの心の柔軟さと広さと奥深さがあるようである。

それに対する、「心のケア」という言葉があるが、あれはいただけない。一体何をケアするというのか。何か事故があった翌日から小学校の校長先生が校門で児童に声をかける、あのステレオタイプのアクション酷似している。

浦島町はいかにも浜辺に面した、良い感じの「浜通り」がある。しかし海のある位置にはあまり奇麗ではない運河があり、漁船やら竜宮デザインの船やら、てんぷら船やらがもやってあって、実に半世紀前の東京の感じがする。
シンガポールにも似ているし、津久田島界隈にも似ている。ようするに極東がそこにぶちまけられていて、運河の向かいはどっかの会社のデータセンターだ。これが現代の風景だ。

撮影にはライカM3のブンデスアイゲンツム(野々宮BMW所有物)にS暗愚論21を付けた。これにフードを付けた状態で革ケースに収納できることを今回発見したのである。
あたしのS暗愚論21はすでにフィルターわくの部分がぐらぐらしている。ただしレンズそのものには、がたがないのでそのままに使っていたが、今回の撮影ではもはやそれが怪しくなってきた。
レンズを開放で撮影すると、画面の右の方向がピントが合わないのだ。
調整が必要だが、他にも21mmは沢山持っているので、まあ修理は先のことだ。

2011年5月 2日 (月)

こないだ津久田で

1
2
Photo
4
5

桜の満開から3週間が経過した。

ようやく、冷静な目で自宅近辺を歩行できるようになった。あたしは人生の重要な時期、つまり20代半ばから30代にかけてウイーンに居たので、日本人としての基本的な美学とか感性に欠けているような所がある。

それで桜の花に季節感を感じるとか、そこに「日本の美学」を感じるということがない。周囲の写真家の先生方で「桜がライフワーク」というのはそれが博物学上の興味からなら共感するけど、日本の精神的なよりどころであるなどと言われると、その先の会話に苦労してしまう口である。

それで、あたしの桜の満開時の興味というのは、桜の美学というよりも「尋常ならざるそこいらがピンクに埋まった非日常の光景」の方に興味がある。

そういう怖い光景は一人で歩行は不可能なので、数週間前に家人に同行を頼んで佃島を徘徊した。 放射能が目に見えるものならこういう感じになるのかと思った。

桜の満開という状況下であたしはまさか、根本に死体が埋まっているとは思わないけど、やはり不思議を通り超して「異界」とか「冥界」の感がそこにはある。

もっとも「群集の桜」は嫌いだけど「一本立ちの桜」の方は好きである。その理由は明快ではないが、それぞれの樹木の個性を一対一で鑑賞できることにありそうだ。

すでに6年ほど前に切り倒されてしまったが、新川にあった「隅田川鍵型桜」(とうきょう散歩カメラ所載)などは実に好きな桜の古木であった。幹が実際にクランク状をしているのだ。今は上にマンションが建っているが、その下にはこれは確実に死体が埋まっていると思う。

ここに写っている桜はいずれも石川島が造船所から団地になった時に植樹されたものだから、まず桜としては「砂利タレ」という所か。

カメラはニコンSPにニッコール28mm。DDダンカンが愛用したこのレンズは実に素晴らしい。

2011年5月 1日 (日)

fed100mm f6,3で新潟を撮る

1

2

3

4

5

fed100mmf6,3というレンズは、戦前のソ連製レンズだ。小さくてぴかぴか光っているのは、マウンテンエルマーなどよりもずっとロシア構成主義である。

レンズの構成は多分、3枚であろう。というのはこのレンズは「空気感」が良くでるのだ。
かなり以前に、今はもうない出版社から中判カメラの本を出した。その編集者さんはかなりのカメラ好きなのだけど、レンズの「空気感」というのがどうしても分かりません、と言っていた。
これは正直な人である。

その作例というわけでもないが、この新潟を撮影したショットには、その空気感とでもいう描写がちょっとだけ写っていると思う。

このフェド100mmだが、もともと戦前のフェド製である。ということはバックフォーカルが微妙に異なる。それを加工して無限はライカM型のレンジファインダーでちゃんと出るようにした。しかし中間の距離はもともとカムの切り方が異なるのだら、信用できない。もっぱら目測で撮影するが、明るさ(というか、暗さ)がf6なのだから、ピントを外す心配もない。

レンズの内側もピカピカしているので、逆光にはめちゃ弱い。以前から内がわに黒紙でも貼ろうとおもったまま年月が過ぎている。

しかしコーテイングのないレンズでこれだけ写るのはさすが、ソ連製だ。
あたしの弟はコーテイング関係の会社を経営しているので、頼もうとおもったが、良く考えたら、弟の会社はコーテイングの機械を製造しているのだ。コーテイングをしているのではないことに気がついて止めにした。

Fed100

« 2011年4月 | トップページ | 2011年6月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30