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2011年4月30日 (土)

浜出屋が開くまで

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浜出屋は、板橋区大原の名物である。
まだ高校生当時、都電通学の窓から「大人になったらこの店に来てやろう」と決心した。
当時は平屋の瓦葺きでなかなか良かった。

それがマンションになったのも20数年前で、たまたまあたしは大京のカレンダーをやっていた。世界の集合住宅のような内容であった。浜出屋のマンションは大京なのでそのカレンダーが新しくなったお店の中にかけられた。

店主の修ちゃんは、カメラ好きでよくカメラ談義をした。その修ちゃんがなくなってもう数年になる。
今はおかあさんとあんちゃんとねえちゃんでやっている。いつも満員だ。

修ちゃんが元気であった当時、ヒルズにデイナーにご招待したことがあったのも懐かしい。

この間、久しぶりに飲みにいった。午後5時に開店なのでちょっと前に行って、のれんを出したり、提灯をセットしたり手伝ったが、なかなか手順が分からない。
その前に大原町を徘徊して、撮影をするのが常である。

大原町1番地に青いトタンの塀に貼られた住居表示が気に入っている。実にシンプルでしかもその存在がなにかアート方面にシフトしているのがいい。

その先にある、鍵型小路の町工場も好きだ。その工場の入り口の鉄板には、この工場の歴史がそのままに刻まれている。数年前に日本路地裏学会の桃木会長とこの界隈を探査して、これに感心した。なにか意思を離れた所にある、タピエスという感じだ。

それからまた、大原の裏を通って白黒のネカの居る所などを通過して、ようように午後5時に浜出屋に入るわけだ。

2011年4月29日 (金)

こないだ品川で

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品川から南、大崎、大井町とか、蒲田とかはあたしには「異国」である。
それで時々、東京フリーきっぷというのを買って、外国に出かける気分で「南東京」に出国する。

この日もニコンSPにニッコール28MMを付けて「出国」した。そういう時には気分を出すために、ちゃんと日本国旅券も携帯する。

こういうシーンはデジタルカメラで撮影しないのは(記録用として携帯はしているが)簡単な理由で、デジカメはインスタントくじのようなもので、一過性でそのまま忘れてしまうからである。

大事な仕事なら、確実に撮影できてそのまま画像を渡して後は忘れてしまうのが、道具としては最高の機能には違いないが、フィルムカメラで撮影することは、それを現像に出してCDになって戻ってくるまでの数日間の時差のただ中でいろいろと考えることが大事なことに思える。

結果がすぐに分かるのが、最大の顧客を獲得できる映像の技術であるというのは正しかった。ポラロイド社の先駆者としての苦労がそこにはあった。
今のデジカメでも同じだが、撮影してすぐに結果が分かるのは、あれは便利さを通り越して実は、味気ない部分もあるのは否定できない。

大井町の肉のまえかわはまだ開いていなかった。午前11時なのだから当然である。歩行を北に向けて、ゼームス坂から品川に向けて歩行したら、太陽が背中のあたりにあって、クラシックなフィルム撮影術の理想的な環境となった。

2011年4月28日 (木)

鏡の中の街

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アメリカの大都会の風景が「鏡の中の町」に思えるのは、なにも抽象的な話しではなく、マンハッタンはガラスで構築されているから、その鏡面反射がこの大都会を何重にも見せていることにある。

都会の写り込みの美学を最初に教えてくれたのは、リー フリードランダーの「セルフポートレート」である。あれは1970年当時だったが、銀座のイエナ書店でも注文できないので、直接、小出版社に注文した。あとで、リーさんに会った時に聞いたらその小出版社は彼の自宅であったそうだ。
ここらのまじめな本の出版というのは、その事情はどこも同じであるというので、笑いあったのも記憶にある。

五番街でこれは事務所の引っ越しなのか、男性が頭にアーロンチエアを乗っけて信号待ちをしている。
その瞬間、あたしの脳裏に浮かんだのは8年ほど前に巴里の下町で見た、路上の鏡運搬人である。彼の背中に背負った鏡がそこらの光景を反射して、なんとも言えなかった。それを追っかけてライカでスナップしたのである。
もっと古い記憶をたどれば、昭和30年代のTVで確か「黒いオルフェ」であったか、似たような光景が出てきた。

三番目のショットも不思議である。横断歩道を走ったワイシャツの男が次の瞬間には、前の巨大広告の中に飛び込んでしまうのではないかと思われる。

安ホテルの室内で写真家が鏡に向かうのは、これは一種の伝統芸というところだ。木村伊兵衛もフリードランダーもホテルの鏡の中の自分にライカを向けている。

ライカM3 ツアイスイエナビオゴン35MM

2011年4月27日 (水)

クリストを真似る極東

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1981年であったか、東京で「梱包芸術家」のクリストの話しを聞いた。
彼が東欧の「祖国」に居た時、1週間に一度通過する、国際列車の窓から見える光景を「豊かな東欧の農村風景」に粉飾するために、クリストはトラクターを並べ、収穫の農民を演出させたそうだ。
そういう巨大な風景の中でそれぞれの点景がどのように見えるかについての経験を積んだと、芸術家は述べている。

その後、クリストは独逸はベルリンの「ライヒスターク」(旧帝国議事堂)を梱包して「男をあげた」わけである。

東京ステーションホテルの中のバーには以前は行っていたものだが、その東京駅が修復されるというので、もう泊まれなくなるというので、ステーションホテルに宿泊したのはもう4年ほど前になる。
終電の終わった後のバーカメリアで飲むのはなかなか落ち着けた。

そのまま、ステーションホテルのことなど忘れていて、この前、BMW野々宮車に同乗したら、いきなりクリストが梱包したような東京駅のオブジエが眼前に登場したのには、驚いた。

そのまま、銀座を抜けて倶楽部エダムに行く時に、隅田川上のうちのタワーはなにか墓石めいて見えたのも愉快だった。095

カメラはキヤノン7sにキヤノンf0、95。

2011年4月26日 (火)

XZ-1の将来を占う

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二泊三日で家人の実家に行ってきたのは、先週のことだ。持参カメラはXZ-1とライカM1である。
要するに、最初からデジカメの守備範囲とライカの守備範囲とを分けて使っているのである。

XZ-1について、周囲のカメラ人類から「どうですか?」と聞かれることが多い。
そういう相手はどうも、X1とかX100とかと比較してどっちにしようと迷っているようだ。

peke1とかpeke100の場合、レンズ交換が出来ないのが不便ですよ、と回答している。
というのは、あたしの場合、XZ-1は純粋な旅カメラであるからだ。この前のマンハッタンでも、先週の新潟でも旅カメラは軽い方が良い。

持参のライカは結構な重さであるが、あれはダンベル体操をしているようなもので、最初から重いライカを持って素振りをするのだという、暗黙の了解がある。

一方で、コンパクトデジカメの場合には、視神経の延長であるから、これは軽い方がいい。
しかしXZ-1の場合、常にズボンのポケットに入れておくにはちょっとレンズがでかい。そのレンズのでかさは明るいレンズなのでまあ、仕方ないと思っている。

明るいレンズは「暗い所で撮影できる」というのが、一般の価値感であるが、あたしはそれはメリットと思っていない。むしろ、今のデジカメはゲインが上げられるからそれほど明るいレンズでなくても、暗い場所でちゃんと写る。

それより明るいレンズは、開放でのぼけ味がなかなか良くて、いかにも光学レンズで撮影したというリアルな醍醐味がある。これはデジタルカメラ的というより、フィルムカメラ的な描写の魅力なのである。

XZ-1の将来の可能性を考えることは、楽しみなことだ。その意味は普通なら、もっと高性能にしてレンズ交換も出来るようにして、というのが普通のリクエストであろうが、あたしは逆である。

レンズ交換の方はペンシリーズに任せておいて、このシリーズは固定ズームの方がいい。
マクロ撮影域はちょっと遅いのでこれは改善が必要だ。問題はまた例の問題であって、本体のグリップ感覚の悪い点だ。

あたしは100円ショップのマジックテープを貼って、指がかりを良くしている。イパッドにも同じマジックテープを貼ってある。

カメラ本体はこれ以上小型化は必要なし。これがGパンの尻のポケットに入るようになると、目下、そこに入っているイフォンの行き場がなくなってしまう。

上越新幹線の窓辺にこんな具合にXZ-1を置くとなかなか旅情が良い感じになる。無論、車内販売の缶ビールをその脇に備えたのは言うまでもない。

2011年4月25日 (月)

ローワーイーストサイドを21mmで撮る

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今回の「フランクマンハッタン計画」は、酒井写真研究所とのコラボである。
フランクのオリジナルプリントの側におかれて、その磁場を受けた、フランクがアメリカ人の撮影に使用したライカM3と同時代のM3を持って、往事を偲びつつマンハッタンを撮影しようというアイデアだ。

単なる精神主義者の思いつきと言われようが、それはそれで結構である。もともとユーラシア大陸の果ての小島だから、アニミズムのメッカでもあるから、一木一草にさえ精神が宿る。ましてや、金属の精密な工作物である、ライカに精神が宿らないわけはない。(いや、本気)

それで主にフランクと同時代のイエナ製のビオゴン35ミリで撮影して、好結果を得たがやはりあたはストリートスナップは19の歳に21mmレンズで開始したので、スナップのメッカのマンハッタンのそれもローワーイーストサイドにくれば、ノーファインダーのスナップがしたくなる。

快晴の午前中のデランシーストリートからアベニューのAからDまでを徘徊して撮影した。
快晴のトップライトのマンハッタンの光はドラマチックだ。あえて苦言を呈するのなら、あまりにも光が出来すぎていて、なにか本物の光景を逸脱している点だな。
マンハッタンが「虚構を構築する商業映画」のロケ地に多用されるのもそこらに背景がありそうだ。

ライカM3にスーパー暗愚論21mmf4で撮影。

2011年4月24日 (日)

こないだ新宿で

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新宿には行かない。

理由は面白くないからだ。

1967年当時の新新宿フォークゲリラ当時には、新宿には人間を吸い込み、収束する力があった。あのパワーが収束したのは1968年ということになっているが、あたしの見方では1980年になって者皆スクエアになってからのことではないか。

1968年に東松照明さんの助手みたいな恰好で荒れる新宿を撮影した。これはカメラ毎日の特写なのである。新聞社の外車の中にキヤノンの600mmと800mmを積み込んで車内から東松さんは撮影した。さらにデモの現場では建物の上によじ登ってまるでスナイパーなみの活動であった。当時のカメラ雑誌というのは思い切った仕事が出来たものである。

政治的であることが、そのまま時代のファッションであったからそういう芸が可能だった。

最近の新宿というのはあたしには仕事場のヒルズの先に存在して、まあ暇だから人肉市場にでも行ってみようかという程度である。これは還暦過ぎの年のせいであろう。

例によって、ニコンSPにニッコール50mmf2を付けて、新宿をスナップした。撮影している時にはそんなに感じなかったが、こうして出来た画像を見ると、やはり新宿は変である。マンハッタンよりも変だと思う。

2011年4月23日 (土)

こないだ大洗で

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3月11日の大震災のちょうど1週間前に水戸に行ったのである。
水戸地元の言語デザインから依頼されて、この界隈の撮影をすることになり、その撮影はあたしがマンハッタンから戻った、4月の第二週からと決めた。
その前の月にロケハンに行ったのである。

水戸はなかなか歴史的な町並みが雅であって、撮る気になった。水戸に一泊して翌日の土曜には大洗に行った。活気のある漁港であって、なんでもTVなんかで人気の「かあちゃんの店」というのに案内してもらいそこで飯を食った。

のんびりした漁港でカモメも岸壁でのんびりしていた。これが大津波のくる6日前のことなのである。

大震災の第一報を聞いて、すぐにマンハッタンから言語デザインにメールした。その前の晩に一杯やった、水戸市内の「かにや」さんのご主人はあたしのカメラ本の愛読者さんだった。その「かにや」は全壊で、大洗の「かあちゃんの店」は流されたとの返事があった。
信じられなかった。

大洗の丘の上にはひなびたお堂があった。みんなここに逃げられたのではないかと思っている。
水戸方面の撮影は計画を練り直して再開する予定である。

2011年4月22日 (金)

フランク計画 アヴェニューA

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品川の双葉のラボ、フラッシュに依頼した、この前のマンハッタン計画のモノクロネガのスキャンがあがってきた。

最近のスキャンはかなり性能がアップしているようで、まるでフォコマートで伸ばしたような、画面の平面性がある。

撮影は2週間で11本だった。つまり基本は「一枚切り」なわけである。

他にはペンペンライト2とXZ1で膨大な画像を撮っているのは、このブログの10日ほど前に紹介した通りである。

マンハッタンをライカで撮影して、しかもロバートフランクの当時の気分を回想しようなどとは、もともと「見立て遊び」なわけであるが、実際にはこれはかなり興奮する「知的なライカ遊び」であることが判明した。

この計画は当初はマンハッタンフランク計画と命名していたが、時節がらマンハッタンというのはいかがなものかという意見があったので、もっとフラットにフランク計画とした。

エデイション3で11x14のゼラチンシルバープリントを10枚ちょっと造る。ワンセットは発注主の酒井淑雄さんに行く。2セット目はあたしがアーテイストプルーフで持つ。3セット目は一般に販売する予定だ。

そのセレクションは酒井さんがする。これはたまたま手元の1本のネガの最初の3コマを紹介しただけだ。それで分かったことは、やはり1カットで一枚切りのことである。デジカメは沢山撮影して構わないが、フィルムライカは1カット1枚というのが2011年の撮影作法であることに気がついた。

アベニューAの1stストリートの角でライカのフィルムを入れ替えて、ごらんのように、アヴェニューAの20番地で最初のワンカット。その次の通りでバイクを撮影して、3カット目はすれ違いのマンハッタナーを撮っている。

カメラはM3で、レンズはイエナ製のビオゴン35ミリだ。ようするにフランクがアメリカ人を撮影した当時の機材でも今なお立派に使えるということだ。

2011年4月21日 (木)

ACALL 犬と桜

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この前、アサヒカメラの連載、「チョートクのゆるゆる庵」で、チエコの写真家テイッキーに付いて書いた時、日本で最初に彼の仕事を紹介した、タカイシイさんにインタビューした。その号が発売になった直後の4月13日にそのテイッキー氏は84歳にて亡くなった。

タカイシイギャラリーは本店の他に京都と六本木にあると聞いていた。その六本木店はあたしの通勤路にある。すなわち、押尾容疑者の件で連日、ブロック塀の前に高い脚立を立てていた、麻布警察の裏手なのである。

佃からヒルズに行く時には、このショートカットが一番に近い。麻布警察の脇の通路を入ると、突き当たりがタカイシイのギャラリーである。

そのギャラリーの裏側に森山さんの「犬」の巨大プリントが展示してあるので、必然的にワン公と目が会うような仕組みになっている。そういう仕掛けを考案した、タカイシイはやはり凄い。

肩にしたニコンSPには、エイコールの135MMが付いている。その綴りはACALLである。凄い名前だな。五十年代から60年代にかけて、サードパーテイの交換レンズを作っていた。今でこそ、サードパーテイのメーカーさまは大いばりであって、ライカから津アイスからなんでもOEM生産しているけど、当時のレンズ専業メーカーは可愛そうなものだった。

そのエイコールの135mmのニコンSマウントというのを初めて見た。これを手に入れたのは、品川の松坂屋なのである。どうせ、大した写りはしないであろうと思うのはあたしの先入観であって、撮影してみたらこれは大した写りなのである。

期せずして、桜と犬とが並んでしまったのは、あまり良い取り合わせではない。原平さんではないが、桜画報にはやはり馬が似合う。野良馬はあっても、野次犬はいないからだ。

2011年4月20日 (水)

ブロイラーハウスの夕べ

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谷口雅の写真展「寝ている間に革命があったようだ」は桜上水のブロイラーハウスで開かれたが、その最終日に日本カメラの前田編集長との90分トークに行ったわけである。

その時に持参のカメラは60年代の気分を出す為にニコンSPにニッコール50mmf2を付けて行った。50mmのニッコールはf1,4ではなく、f2の方が思想が正しいという意味合いがある。

当時の学生運動の盛んな頃は、まず「思想」が問われたのである。いい加減なレンズを使うと「なーんせーんすー!!」とばかり糾弾されてしまう、恐ろしい社会だった。その恐ろしい社会は案外に今でも継続しているのである。

それでニッコールのf1,4だと、なーんせんす!であるが、ニッコールのf2だと、「よーし!」となるのである。これは当時の王子公園などでヘルメットかぶっていた連中でないと、その口調は分からないであろうが、しいて似たしゃべり方を捜索するのなら、30代後半の「もとギャル」の「あたしわあ、、けっきょくう、、そのお、、」というあの口調に似ている。

「われわれえ、日大芸闘委わあ、この闘争においてえ、、、国際的連帯をう、、」ってやっていたのがつい最近、40年前のことなのである。

なんでそういう大過去を思いだしたのか?桜上水からブロイラーにゆく、道すがらニコンSPに50mmf2で開放で撮影したのがその原因である。これはデジカメではないので、その画像の結果はその場では分からない。

数日後に、品川のラボ、フラッシュからカラーネガのCDが到着して、それを見てびっくりしたのは「なんだ、この懐かしさは!この光は40年前のあの画像を同じじゃあねえか!」という点にあった。

なにもそこに魔法があるわけではない。当時の(実際にはさらに10年前の1957年のカメラ)に当時のレンズを付けて撮影したのだから、その頃の光が再臨したのは当然のことである。

ただし、谷口雅も前田編集長もちょっとだけ、古くなったけどそんなのは「ただちに健康に害があるわけではない」ということになる。

カメラには思想が必要だ。フィルムnカメラの場合、そこには思想という背骨が貫通している。一方、デジカメに思想が求められるのは言うまでもない。これは性能ではない。思想なのである。その点で見れば、まあ、ペンデジタルは合格というところだ。

撮影はニコンSP ニッコール50mm f2 フジカラー

2011年4月19日 (火)

CANDiD

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キャンデイッドという言葉を最初の知ったのは、60年代の後半で重森さんの書著であったとおもう。スナップショットよりももっとアクチャルな感じがして、現実の瞬間を引きはがしてくるというような語感がそこにはあった。その伝来の由来は多分、シカゴから戻ってきた、向こうの写真アートが「ちゃきちゃき」な石元さんあたりではなかろうか。

そのまま、あたしなどはストレートフォトグラフィの土石流に押し流されていたから、前頭葉の奥深くにCandid Photographyは格納されてしまったものらしい。

それが数年前のあれはリコーのGRDの何のモデルかはすでに失念したが、その発表会場でリコーの湯浅プレジデントがその言葉を持ち出したので、かなり懐かしいと感じると同時に意外な印象ももったのである。

もともとキャンデイットフォトは「シリアスフォトグラファーの用語」であるから、リコーのような大企業がその理念として、この言葉を唱えるのはなにか似つかわしくないと感じていた。
同時に大メーカーがどのような展開をキャンデイットで見せるのかも興味があった。

昨年の12月にプラハのフォトシュコダのカフェでドイツから「輸入」されたドイツ語のリコーのフライヤーにCDNDIDの文字があってドイツ人写真家が登場していたので、ああ、これはリコーの全世界スケールでの戦略であるのかと嬉しくなった。
普通のカメラメーカーは高性能とか世界一を謳っているが、それでは駄目だ。
キャンデイットとはカメラの性能の諸元ではなく、そのカメラを手にした人間の視線と思考の向かう方向を示唆しているのだ。
これはカメラメーカーとしてはかなりの知的冒険だからそこに意味がある。

この6月末に銀座で個展を開催予定なのでその打ち合わせで、理光のNさんに会った時、あたしに手渡されたのが、このニュースレターであった。

実はこの金のかからない印刷スタイルはインターネットなどが来襲する三世代前の、70年代の欧州スタイルなのである。
70年代にプリントレターというアート写真の定期刊行物がチューリッヒから出ていた。世界の写真家のオリジナルプリントの価格表である。あたしの名前もその中にあった。あたしのゼラチンシルバープリントは当時300ドルだった。あれから40年が経過して今でも同じ価格なのである。これは困ったことだ。

このCANDiDはその第一号のようだが、その人選が洋風なのでかなかか迫力がある。ストーリーはミンスク生まれで、パリ在住のアレクサンドラ・カテイエールとロバート_キャパの現在、ICPで開催中のThe Mexican Suitcaseをフィーチャーしている。

この6面だけのフライヤーを見ていると、なにかキャパの時代も現代も同じという感じになるのが痛快である。これからの印刷物の安価で効果的な一例と言うことも出来る。なんと言ってもフライヤーの端に二穴のパンチ穴のあるのが良い。
この間のマンハッタンでは2週間も居たのに、MoMAはおろか、ICPにも行かないのが悔やまれた。

これは定期刊行物なのであろうか。それが気になる点だ。次号も期待。

2011年4月18日 (月)

東京プラクチナクルーズ

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これがプラキチナだ。
日本カメラの連載を開始した1991年当時、担当編集者さんはプラクチカとプラクチナを取り違えていたが、そんなことは知らないのが健全なカメラ精神というやつである。
このカメラはドレスデンのKW製である。その独逸語で写真機製作所というのもまじめな感じを受ける。津久田にはこのカメラは沢山ある。プラハでついつい買ってしまうのだ。それも20年もプラハに棲んで、思いつきで年に1台買っても大変な数になる。
これはその一番、最近、つまり昨年の12月の大雪の時にその雪につられて買った一台である。
一台と言っても、ちゃんとスプリングのモーターがついて、しかも優秀な50MM F2のレンズもついている。その名前はフレクソンというのもなにか奥ゆかしい。同じレンズはパンカラーという名前でも登場しているが、フレクソンの方が数としては少ないようだ。
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プラハのヤンフスゆかりの教会の向かいの小さなカメラ店で手にとって、買ってしまったのは自分の意思の弱さであるが、シャッターとモーターの巻き上げの感じが絶妙に良かった。
プラクチナのスプリングモーターは個体によって相性はむつかしくて、うまくカップリングしないこともあるが、これはかなり珍しい例でちゃんと動くのである。値段は1万円ほどだった。
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3 そのまま、津久田に持参してそれで存在を忘れていた。それがこの前の週末に久しぶりに野々宮BMWにて、東京ツーリングをしようという時に、思いついて持ち出した。
モーターをいっぱいに巻き上げると、かなりの撮影ができる。
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ちょうど電力会社にデモが向かっている所だったのを連射したのがこれである。
まずは写真のオートメーションである。

いや、冗談ではなく1950年代の半ばにはモーター付きのカメラは全部、オートメーションという認識があった。

2011年4月17日 (日)

あたしの居パッド

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先日のマンハッタンで居候先の佐々木画伯のロフトにはWIFIの設備がない。それはケーブルテレビ経由のインターネットなのである。
佐々木画伯は宮城県県人会の会長さんという重職にあるので、例の大震災の募金などで多忙だから、その回線を借りるのは遠慮した。

それで通りを下って、シャネル屋さんの角、つまりプリンス通りであるがその先の角にある、元は郵便局で今は林檎屋さんになっているクラシックな煉瓦の二階建てのビルにWIFiの電波を借りに行った。
ここはトイレもあるし、水の飲めるし非常に良いロケーションである。

ついでに、新型のIPADを見た。あたしの言う所の居パッドである。デモコーナーにはマンハッタナーが群がっている。小さいけど重いわね!というのが周囲の居パッド人類の第一印象だけど、その翌日にあたしの居パッドを持参して、計測したらそのサイズは同じであった。

居パッド2と、すでに旧型になったあたしの居パッド1を比較するに、デザインは初期モデルの方が好きだ。つまりLEDの周囲のマージンがブラックであるというのが居パッドの魅力ではなかったか。居パッド2のようにフレームが白いとなにか「ビックカメラで売っている投げ売りのフォトフレーム」という感じがする。

あたしの居パッドには、背面にマジックテープが貼ってある。これで指かかりを良くするのである。ゆえに取り落としたことは一度もない。
さらに黄色いプライスタグの貼ってあるのは、これは荒木町の我楽多屋で買った何かの商品のシールなのだけど、アイキャッチのつもりなのだ。

あたしの場合、居パッドにカバーを付けたりする人種が嫌いだ。これは道具なのだから、大事大事に使って、そのままそっと元箱に戻してそれを「ほとんど自分の購入価格と同じで下取り」してもらうような居パッド人種もあまり好きにはなれない。今度の居パッド2の場合、なにか複雑なカバーが付いているのも気にくわない。その理由はライカが傷付くのが嫌で、透明な防護シールを貼るのに何か似て居る。ようするにけちくさいわけだ。

昨年の12月に高千穂辰野工場に行く途中に、スーパーあずさの網棚に委フォンを忘れた。それが松本駅まで行ったのである。松本駅との電話で、あたしの委フォンの決定的な証拠は裏側に朝日新聞の社旗のシールの貼ってあるのが決め手になった。
それでこの居パッドの場合、これを紛失した場合には、「裏面に特価品24000円」という黄色いシールが貼ってあります」と言えば良いわけだ。

2011年4月16日 (土)

LES MANHATTAN

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ローワーイーストサイドを短縮してLESって言わないんですか、と、マンハッタンの怪人こと、船原長生さんにその現場を歩行しつつ聞いたら「まあ、そういう言い方はあまりしません」とのことだった。

ところがその先、ワンブロック行った所にこの界隈のユダヤ人の移民の歴史を展示した小ミュージアムがあって、そこにLESの文字を発見したのである。

だからこの略語は有名ではないけど、そこそこ使われているもののようである。

そのLESで多い出すのは、80年代にマンハッタンのホテルの部屋で延々と見ていた、セサミストリートである。あの舞台は特定の場ではないのであろうが、そのセットの構造は小路があって、ドアウエイの階段にみんな座っていて、ゴミが散らかっていてさらにゴミバケツが並んでいる。

これはアッパーイーストではなく、やはりその属性はローワーイーストサイドだと思う。

あたしはアメリカ映画を見ないのは(アンデイとジョナスを除いて)父親の遺言のせいだが、そのロケ地がマンハッタンなのはもともと、ロケを安上がりにする手段であったのであろうが、そういうローバジエットで撮影された映画を見続けているうちに何か擦り込み現象が起きてしまうもののようである。

つまり、思考の手段と目的な反転してしまい「汚いLESは実はハードボイルドでお洒落」という価値感のすり替えが行われているようなのだ。

この間、東京国際会館で石元泰博さんの講演会のラストの方で、90歳にしてかくしゃくとした巨匠は「ほら、あの有名写真家は誰だったかな。建築写真で有名な誰でも知っている、ほら、、、あの写真家、、、」と言って空中を探るような眼差しをした。

それを最前列で聞いていたあたしも一緒に空中を目で探ったがその時にはその名前が分かっているにもかかわらず、口に出ることはなかった。

上のゴミ箱の画像を見ていて、その有名写真家はウオーカーエバンスであったことを思いだしたのである。

エバンスは建築写真家としては、トップクラスではあるが、同時にゴミ箱写真家としても優れている。

2011年4月15日 (金)

ウイーンライカ日記のデザイン帳

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1996年に出した、写真集「ウイーンとライカの日々」のこれはその元となったデザイン帳である。
分厚いノートに画像が貼り付けてある。
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ユージンスミスは未完の写真集「ピッツバーグ」のマケット(写真集の版下用に精密に造られた1点限りの本)を終生大事にしていた。スミスのような巨匠でも、自分の思うような写真集はなかなか経済的な困難で制作できなかったものと見える。
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スミスの一生はかっこいいなと思うのは、愛猫の猫缶を買う為に外出して、そのまま卒中でなくなったことだ。同級生の一ノ瀬の場合には、クメールルージュに殺されたのだから、ドラマ化するとなると、これは一ノ瀬の方が断然上のクラスである。
しかしスミスの死が犬死にだとは(この場合には猫缶関連だから、猫死に)だとは思わない。
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それと言うのも、河口彗海などはヒマラヤの雪の高峰を踏破して、チベットに赴いた英雄であるのだが、その死因というのは空襲の時に、暗黒の街中で、防空壕か何かの穴に落ちて失神している所を救出されたが、それが原因でなくなったからだ。
個人の死というのはその意味では、ドラマ化しにくい背景で訪れるもののようである。
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さて、このノートブックを参考にして、浅田恵理子が「ウイーンとライカの日々」のデザインをしてくれた。その「束見本」を浅田からもらおうと思ったら、すでに捨てた後なので、これは一驚を喫した。
今でもこの本にサインを求められることがある。これは嬉しい。

無論、読者の方への感謝の気持ちからすれば、「千客万来の中古カメラ店」(カメラジャーナル新書)の読者さんだって充分に有り難いのであるが。

2011年4月14日 (木)

オンザロード

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ライカM8-2にオリオン28ミリを付けて、胸のあたりの高さにホールドして、マンハッタンを東から西に横断して撮影したのがこの一連のシリーズである。

マンハッタンの面白さはやはり通行人にあるのであって、そのあたしとすれ違う人だけを撮影するだけで、充分にオンザロードの気分が味わえる。

その意味は勘違いされがちであるが、別段、そこに日本人のあたしから見た、「外国人」が写っているからではないのは当然である。そこに登場する人物のキャラクターが際立っているのである。

通行人でキャラが際立っていると言えば、映画のエキストラさんである。欧州で映画の仕事をした当時、撮影の関係で数十人のエキストラさんに会った。彼ら彼女らの問題点は「単なる通行人」であるのに、その背中に個性が出過ぎていたりすることにある。

それに対して、ここに登場する「俳優さん」はいずれも完璧な演技で、これは主役クラスだと思う。

2011年4月13日 (水)

五番街のオレンジマン

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70年代にアメリカで24x30インチというような、巨大な大型カメラを使っていた写真家がいた。8x10など問題にならない。

その名前はたしか、アート シンサバーグではなかったか。彼の作品以前にこの写真家が巨大なカメラを肩にして大都会の街角を行く、近影があってそれがど迫力だった。撮影以前にそのパフォーマンスの方が凄いという感じだ。

ミッドタウンの32丁目の五番街で夕刻に見た、この男の姿を最初に視神経が感知した瞬間に、なぜか40年前の超大型カメラの写真家のことを思い出したのは、そのショッピングカートのオレンジの巨大なマッスのせいである。

こういう瞬間には、まず視神経の判断を停止させて、なにが何でも連続して撮影することが肝心だ。それが何であるかなどの詮索は撮影した後で考えれば良いのである。

ペンペンライトに14-150ズームを付けていたので、最初は全景のシーンを撮影してからその不思議なオレンジマンにズームアップした。

次に分かったのは、この男は何かの広告のボードかなにかを準備するサービスマンではないかと思ったことである。

ようように向かいのクロッシングまで来て、ホームレスさんが金目になりそうなオブジエを収集しているらしいということが分かった。

しかしマンハッタンという処は油断がならないから、ちょっと目にはホームレスさんの廃品回収のように見えるのが、実は著名なアーチストであることも充分にあり得る。

かのジョナス メカスがボレックスで撮影した、16mmの短いフーテージの中でソーホーの通りを沢山のショッピングバッグをぶら下げて歩行している怪しい男はこれを知らない人が見たら、そこらのボーボーにしか見えないが、あたしはその男がロバート フランクであることを知っているのとこれは同じことなのである。

その意味で、マンハッタンの通行人というやつは実際のところ、実に油断がならない。マンハッタンの怪人チョーセイさんの話しだが、この前、ピア66でコロナを前にして、彼の大親友であってつい先頃亡くなった「J」の逸話を聞いた。

「J」は有名な実業家であって、よくメデイアからインタビューを受けたけど、そのインタビュワーが初対面の場合「J」を見誤ることが多々あったらしい。よれよれのシャツによれよれのGパンでしかも、その片方の裾だけ、まくり上げていたのだそうである。

2011年4月12日 (火)

谷口雅@ブロイラーハウス

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谷口雅はみやびと読むらしいが、あたしは「が」と呼んでいた。
その谷口雅に実に30年ぶりに会ったのが、先週末の桜上水である。

ブロイラーハウスというのは時間限定で1年間展開している、インデイ系のギャラリーである。そこで谷口の「寝ている間に革命があったらしい」というタイトルの写真展が開催されて、その最終日に日本カメラの前田編集長とのトークがあったので、おもしろ半分にでかけたら、その対談に引き込まれたのである。

なにしろメーンテーマは「昔話し」が中心になっているのだから、そこに校長先生の展覧会(谷口はもう8年も総合写真専門学校の校長という要職にあることを知らなかった)の見学に来た、カメラ女子ではそんな大過去など知らないわけである。

カメラ女子ばかりか、会場で見かけたスター写真家金村修だって、70年代の谷口らが起こしたプリズムのことは時間軸の体験からアウトしているであろう。

そう言えば、先月タカイシイに清澄で会いインタビューしたことと、今回週末に金村の「生」(なま)をブロイラーハウスで初めて見たことはあたしの体験にプラスになった。すでに石川直樹は知っているから、これであたしの中の「モダン写真三人衆」の細かい観察が出来たわけだ。

谷口が30年前に仏蘭西のどっかにJALパックで出かけた当時、凄い金持ちなんだなと周囲が噂した。当時はJALパックはそういう認識だった。
それで谷口の日本カメラに掲載した仏蘭西のどっかで撮影した作品が、写真の実存に肉薄しているので、へえ!と思ったのである。

だいたい、写真評論をする人の撮影する写真は信用しないことにしているのだ。飯沢某はデビュー以前から知っているが、写真の腕はどうもであった。
谷口は写真の表現者であって、その谷口が「ついでに評論とか校長をしている」というスタンスがそこにある。

谷口の30年来の視線は一貫していると思えるのは、なにしろ30年ぶりに会ったらそのスタンスが同じであったと言う意味でそう言い切ってよいであろう。

会場の隅に堆積した作品は、まるで大震災の爪痕をそこに見ているようだった。谷口の仕事はいったん制作したのを「破壊」することにあるそうだ。なるほど。

そのブロイラーハウスの二階に登る階段の急なのが、なにか昔のmoleみたいで懐かしかった。そう言えば、このトークで谷口は70年代にあたしの個展が新大久保のプリズムで開催されたことを指摘されたので、すっかり忘れていたことを思い出した。たしかプラハに平木収がやってきて、個展の開催を依頼されたのである。ただしあたしは作品を送っただけで東京には行っていない。

その企画展シリーズは谷口のアイデアで田村とか桑原先生などの個展も開催したのである。あのプリズムのあった場所は新大久保の雑駁な飲食店の二階だった。

2時間半というもの、椅子のないブロイラーハウスで立ちっぱなしのトークである。あたしは何時間歩行しても大丈夫だけど、立っているのは駄目だ。
翌日、がっくり来た。

ところで、そのブロイラーハウスだけど、建物の作りからしてもとは焼き鳥屋さんではないのか。店内の目の高さに赤くペイントされたガス管が口を出している。赤いガス管はプラハでは法律でそのように塗装されることになっている。だからそこだけがプラハの空間に思えた。

2011年4月11日 (月)

国立公文書館デジタルアーカイブ

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大震災からちょうど1月が経過。

これは国立公文書館デジタルアーカイブの防空ポスターである。

まるで小林清親ばりの夜景の闇の描写がすばらしい。

それは良いが、当時の防空対策というのは今にして見れば実に幼稚なものである。当時の作家の被災日記のリアルさに対して、実に観念的であるのはなさけない。

この防毒室というのが最初は何か分からなかった。これで毒ガスを防げというので、さらに防毒蚊屋に至っては、これはフルクサス運動のアートであると見なされよう。

今の東電の発表もこれと同じレベルなのではないか。いや、この国立公文書館デジタルアーカイブには、時代を経た、芸術性は浸出しているけど、例の記者会見ではそういうものもない。

「タバコの火でも油断大敵」

「プルトニウムは安全無害」

ってとこだな。

2011年4月10日 (日)

キースヘリングの昔

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http://yfrog.com/h0f9bjpjは友人の画像ファイルだが、それを見ていたら、懐かしいキース・ヘリングが登場した。なんでも色が褪せたので、パステルで補修するとか書いてあるので、天下のヘリングを勝手に補修して良いのかと心配したが、これはポスターなのである。

つらつら懐かしいのは、1982年はヘリングの旬であって、マンハッタンのSOHOあたりにはこの落書きキッズの落書きがそこら中にあった。
あたしもかなりの数の落書きを目にしたが、先見の明がなかった。ただそれをカメラで「複写」しただけだったのだ。

頭の良い連中はカッターナイフをポケットに入れて、これを切り取って値上がりを見越して保管したのである。

その翌年、ホイットニーでヘリングの大展覧会があったのを見にいったがそれらはミュ−ジアムの白壁に落書きされていたのでそれを「剥がす方法」がないのは痛快だった。しかしミュージアムのことだから、日本の古墳みたいにその壁を剥離してちゃんと保存してあるかも知れない。

ユダヤ人の大金持ちのシーモアの家はちょうどホイットニーの向かいにあって、アパートからヘリングの落書きがミュージアムの中に展示してあるのが良く見えた。
あたしは彼に依頼されて、マンハッタンを撮影したのだが、そのプリントをより分けながら、シーモアは「あんな落書きのどこがいいんかね」と相手にしていなかった。それは他のモダンアート関係のユダヤ人さんの仕事なのであろう。シーモアの仕事はキャッシュレジスターのビズネスだった。その商売の時にはユダヤネームではなく、きわめてアメリカンな名前、つまりジョンスミスというのである。

それから数年が経過して、ベルギー政府観光局の仕事で北海ぞいのリゾートのクノイッケンハイストのカジノを取材したら、デルボーの壁画と並んで、ヘリングの壁画が賭場をはさむようになっていたのには正直驚いた。落書きキッズも堕落したものだなと嘆息した。これはヘリングが死んだ翌年あたりの話しだ。

さらに数年後に、ミラノのスカラを撮影するので、スカラの裏手にデイレクターのマンションに行ったら、サブウエイの構内に落書きされていた、そのサイズは15フィート四方はありそうな、立派な落書きが二点、ちょうど広いリビングを挟むように展示されていた。デイレクターの話では非常に高価な値段で購入したそうである。

それはそれで凄いと思った。しかしその数年後にマンハッタンでMOMAを訪れた時に、件のヘリングの作品がなんと「卓上カレンダー」になっていて失望したのである。
どのような世紀の名作でも、それが卓上カレンダーとかトートバッグになってしまうと、ファインアートはそれで一応は打ち止めであって、以降は実用デザインの道を歩むことになる。
これがモダンアートの宿命だ。

2011年4月 9日 (土)

エプソンR-D1が一向に陳腐にならないのは何故だろう?

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エプソンRD-1が登場したのは何時であったか、すでにデジカメの時間軸だと歴史的な過去ということができる。

登場当時には、実動サンプルは1台しかなく、開発者の偉い人が欧州でテスト撮影して日本に持って帰ったのを、あたしは借りて、早春の京都に撮影に行ったのも懐かしい。

その春には実動モデルの別のを持って、イタリアのローマに写真集の撮影に出かけた。あれは7−8年前の話の筈である。

当時はクライアントからRAWで撮影するように指示された。仕事だから当然の話だが、あの当時、最大のサイズのSDメモリが512MBというのも、今から思えば嘘のような話しだ。

CHOTOKU X RD-1 というタイトルのハードカバーの写真集は、助っ人の坂崎幸之助さんの対談という応援もあって、そこそこには売れたようである。

7年前にデジカメがどのような状態であったのか?今、それを思いだそうとしてもまったく記憶の圏外なのは驚く。その中で、エプソンR-D1は陳腐にならない数少ないカメラである。

画素が650万しかないなどとクレームを言う人は駆け出しカメラメカニズムライターさんだし最初から相手にしていない。写真は画素数で撮るものではないのは言うまでもない。

エプソンからかなり遅れて、ライカM8が出た。エプソンはフィルムカメラの操作感覚を残しているのが、今にして思うと大英断であったことが分かる。

M8はフィルムカウンターがトップカバーのはしっこについていて、がっかりしたものであったが、それがM9になったらさらにバックのLEDのデータでしか分からなくなってしまったのはさらにがっかりである。

エプソンのカウンターはアナログ方式の針による指針である。500枚以上の残数のある時にはかなりラフであるが、残数が10枚になると一齣ずつカウントして行くのも大したものだと思う。

まずデジタルライカに比較して優れているのは、巻き上げレバーと巻き戻しノブ(実際にはコントローラー)があることと、LEDをひっくり返したらそのまま普通のフィルムカメラの感覚で使えることだ。

ドイツのデザイン会社のデジタルフィルムマガジン(ようすうに普通のフィルムマガジンに素子が仕掛けてある)のコンセプトが、今年のエイプリルフールズデイのビッグイベントであってあたしもまんまと引っかかってしまった。

その翌日にその言い訳メールがドイツから来たのは感心したが、そうなると、俄然として手元の「世界最初のデジタルRFファインダーが脚光を浴びたわけだ。

作例は上から、EPSONにCANON 28MM、委フォンで撮影したEPSON,

TANAR 50MM、それにCOLOR SCOPAR 21MM

2011年4月 8日 (金)

サクラサク

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あたしの場合、春の到来を感じるのは桜ではなく、ネコヤナギの芽ぶきだ。
ウイーンでは復活祭の飾り物として、ネコヤナギにイースターエッグを飾る。この前、ニューヨークはミットタウンはパークアベニューでおばさんがネコヤナギの枝を持っているのを見て、非常に春を感じた。

桜は単にバラ科の灌木の花という感じしかないのは、あたしの青春期が日本精神とは無縁なウイーンで8年も過ごしたことにありそうだ。

その桜感覚のマイナスと補正するかのように、毎年、この時期になると、住まいの真下がこういう状態になる。花見客が夜遅くまで騒いだりするので、そこらへんはうれしくもないが、また春が巡ってきたという実感はある。
この角度から見ると、隅田川の水面が桜のバックになるので、これは視覚的には妙である。南蛮絵屏風がそのままに展開しているカメラアングルだ。

カメラはペンライト2 上はノボフレックス135mmのレンズで下はズイコー9-18mmの望遠側で撮影。

2011年4月 7日 (木)

マンハッタン 路上のライカインコ

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SOHOのプリンスストリート駅の路上は見事な一枚岩の歩道である。マンハッタンは岩山の上に築かれた町であるから、路上の石畳が立派なのは当然としても、時に一枚岩の敷石など見るとその立派さに唖然とする。
プリンスストリートのそれはブロードウエイとの交差点であるから歩道とは言え、かなりの混雑するクロッシングなのに、そこの一枚岩には鑿で掘ったと思われる、キースヘリングばりのイラストがある。
真夜中に掘ったと思われるが、大したものだと思う。

この2匹のライカインコの図柄はどうも一枚岩ではなく、半乾きのコンクリの上をひっかいてイラストのようである。
でもなかなか素朴でいい。
右のコンバースはこれはマンハッタンの怪人の右足だ。
撮影地点はチエルシー界隈。

撮影はM8-2に例のソ連製の28mm。

2011年4月 6日 (水)

Yohichi Okamoto のニコンSP

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Yohichi Okamoto をどう綴るのか知らない。
日本のニュースで外国で起こった事故の死者の名前がカタカナ表記されるんは、あれはローマ字表記からカタカナに転記しているわけだが、オカモト ヨウイチさんの名前を知ったのは80年代のウイーンである。
ウイーンで洋書を扱っている(ドイツ語圏で洋書というのは変だが、英語の本という程度の意味)で、ハードカバーの写真集を手にいれた。
それはウイーンの占領時代に始まるモノクロの一連のスナップショットなのである。そこで岡本の名前を知った。洋一か、陽一か、それとも庸一か、要一か?そこれは不明である。
岡本はアメリカの軍人としてウイーンに進駐したのである。彼は二世か三世だから果たして日本語は話したかそれは不明だ。

あたしが心を引かれたのは、その岡本の著者近影である。腕組みして眼鏡を額の上にかけて、岡本はちょっとシニカルな笑みを口元に浮かべてカメラを見ている。
その腕組みの手の中には、ニコンSPがあった。レンズは50mm f1,4であった。

そのニコンSPを持った肖像がなかなか良い感じなのである。その良い感じを分析しると、真面目は六十年代のアメリカのフォトジャーナリストとでもいう空気がこっちに押し寄せてくる。

似たようなニコンSPを持ったセルフポートレートを何かの機会に見たことがあった。それはライフと契約している写真家の像なのである。

あたしの「東京ニコン日記」の中にサンケイ新聞の写真記者が首からニコンSPをさげて銀座の昼火事を取材している姿が残っている。
今はかなりよじれた写真機趣味の老人を慰めるニコンSPだが、半世紀前にはちゃんとした報道の機材であったとはちょっと信じ難い。

2011年4月 5日 (火)

ダンカンさんの「英雄無き戦争」

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東京大周遊で月光町に行く前に、武蔵小山のいつも行く、その名は知らぬ古書店を覗いたら、DDダンカンの「英雄なき戦争」があった。これがカバー破れだが、800円。ただし重い本なので一度、駅のロッカーにそれを入れてから撮影に行った。

改めてその本を見るに、ダンカンのジャーナリストとしてのなかなかの視線がそこに見えてくる。新鮮に思えたのは印刷がグラビア印刷であることも重要だ。今はこの手の本は全部、オフセット印刷になってしまった。

1973年3月29日はベトナムから最後のアメリカ軍が撤退した日だ。そのおなじ3月29日のまさか東京でこの本に再会するとは想定外だった。
この写真集の中で見えてくるのは、負け戦のアメリカ軍の記録である。
今の電子戦争で実態をみせないメデイアに対して、40年前の報道はまだまだちゃんとしていたという印象がある。

ダンカン氏のこの本は1972年だったか、新宿の京王プラザホテルのニコンF2の発表会の時に、ダンカン氏からサイン入りをいただいたのであった。一介のNDCのアシスタントであった若造は、ニコンf2のカタログの撮影の仕事をしていたわけだが、そのクライアントの晴れの発表会に招待されたのは、毎年ニコンサロンで個展を開催していたその関係であったらしい。

若気の至りで、会場でダンカン氏と歓談した後に「日本光学もF2をくれないかなあ」などと言ったらしい。
それがNDCの写真部長の耳に入って、翌日、会社でひどく叱られた記憶もある。

ダンカン氏に会ったのはそのあとは1981年頃に三木淳さんとダンカン氏が銀一カメラに居る時に遭遇した。この時のショットは「東京ニコン日記」に掲載されてある。

この時のダンカン氏の機材は2台のライカM3DS(これはライカMPのプロトタイプ)にニコンFとワイドラックスだった。ライカにはズミルックス50MMF1,4とニッコール28MMF3,5(写真集では間違って、F2,8と表記)それにニコンFには200MM F4が付いている。

全部のレンズにはY2のフィルターを付けたとあるのが、歴史的な写真術であることが分かる。フィルムは60本ほどのトライXを携帯していた。

2011年4月 4日 (月)

M8-2でマンハッタンスナップの続き

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マンハッタンスナップの続き。M8-2にソ連製の28mm付けて、カメラは右手の肘のあたりに構えておく。それで歩行しつつ、自分の視神経と運動神経が自然に反応した瞬間に右手の人差し指をちょっとだけ動かす。

ただし、M8-2もデジタルカメラであるから、今回、マンハッタンに持参したM3と比較すると、そのタイムラグの件ではこれは残念ながら駄目である。
真実のシャッターチャンスを最初から到来予測してその瞬間の寸前にシャッターを押すとちょうど良いという感じだ。

デジタルライカ(M9とか)を使っている周囲のライカ人類でこのタイムラグのことを指摘する人が居ないのは実に不思議であるが、思うに彼らは「お花」とか「パンダさん」とか「モデルさん」のような、時間軸を激しく動くようなスナップを撮っていないせいであろう。

一番上の画像はM8にノクチのf1を付けてLESを歩行中のマンハッタンの怪人、CHOSEIさんだ。世の中の数多くの、ノクチルックスの所持者は、そのほとんどが休日写真家である。だからあまり使いこなしているライカ人類はいない。せいぜいがゆきつけのバーなどで、自慢のノクチ談義の末に1枚だけ、バーのカウンターの中の人物をモデルかわりにして撮影してピントが浅いのを自慢するのが関の山である。

それに対してCHOSEIさんはノクチルックスと共生しているというか、心中している感じがする。彼は四六時中ソフトケースに入れてM8を携帯しているのである。他にもポケットにはリコーのGRDが入っている。しかも彼が使うのはその50MMのレンズだけなのだ。

一方であたしはこのオリオン28MM一本やりである。写真家の視線などというものがなにも深淵な哲学的思想などではない。単にいつも繰り返し同じレンズを使うことにその視線の秘密は尽きる。このレンズの秘密はスーザンゾンタクが「写真論」の中で何十年も前に指摘していることでも分かる。

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2011年4月 3日 (日)

M8-2でマンハッタンスナップ

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今回、マンハッタンで使ったライカには2本のレンズがあるだけだ。
まずM8-2では、オリオン28mmが付けっぱなしになっていた。これは社会主義国時代のソ連製レンズで、トポゴンタイプなのだけど、実に良く写る。もう一台のM3にはイエナ製のビオゴン35mmだけが付いていた。

ところで、ソ連製のオリオン玉であるが、なにしろf6である。フィルムで使っていた当時には、なにしろ明るさというより、暗さがf6なので暗い場所では使えなかった。午後3時以降に町が日陰に入るともう使えないである。それが今ではデジカメで使うのには、感度は自由になるし、トーンもいじれるので好都合だ。
2週間のマンハッタンで、絞りはf6の開放であとはM8-2が勝手にセットしてくれる。

このショットはチョーセイさんとピア66で麦酒を飲んだ後に、チエルシー界隈を東に歩行していた時の撮影だ。
連続して撮影すると、最初のショットの時にはまったく想像もできなかった次のショットが自分の前に自然に運ばれてくる。
こういう「偶然の不思議」というやつは、そこらの台本作家でもかけない、想像の圏外にある。

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2011年4月 2日 (土)

フラットアイアンビルを撮る人

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三角形の奇妙なビルの存在を最初に知ったのは、アルフレッド・シュテイグリッツの写真集からである。
20世紀初頭の大都会のダイナミズムを象徴する、作品だった。
このスカイスクレーパーをモチーフにした写真家は数知れずである。
あたしも8x10でかなり撮影したが、全貌を至近距離から撮影するのは至難のわざだ。

夕刻にここを通りかかったら、三脚を据えて撮影している人がいる。今時、4x5で撮影することは、大変なイベントのようであって、その三脚写真家を脇からデジカメで撮影している人が居るほどだ。

どんなカメラかと、接近して観察するに、ジナーの安いモデルである。ADRAMAあたりなら、目下、捨て値で出ているようなカメラだ。
4x5カメラの達人を自認するあたしとしては、一体、どのくらいのテクニックを持っているカメラ人類なのか、観察するとどうも素人さんのように見える。
この広場からフラットアイアンの全景を撮影するのなら、まずカメラを保持している支柱をぐっと前に上げて全体の構図を決定してから、細かい蛇腹の操作に入るのが常道だが、これを見るとそういう操作は一切なし。

しかしそこで思ったのは、このカメラマンは案外に上級ではないかという点でもある。どうもカメラはフラットアイアンビルではなく、カメラのアングルから想像するに、五番街の方向に向いているようなのだ。

そこで結論としては、この4x5カメラマンさんの撮影モチーフが、フラットアイアンビルなら、この人は初心者だけど、五番街を撮影しているのなら、かなりの上級者と見た。
やはり銀塩の大型写真術は奥が深いとこの場合は言うべきであろうか。

お詫び ブラウザーによっては、建物の方向が正しく表示されていない場合があります。
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撮影カメラはペンライト2に14-150

2011年4月 1日 (金)

セントラルパークのSEALION

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2週間のマンハッタン暮らしは到着の木曜の夕刻が大雨だったのと、その2週間後の月曜がやはり雨であったことをのぞけば、なかなかの天候だった。

1983年当時のマンハッタン暮らしは、234w48stの安ホテルに居たのであるが、もともと、あたしも家人も映画嫌いである。なんでも家人の高校生時代に、ウエストサイドストーリーを何回見たかというアンケートがあったそうだ。
それで一度も見ていない人はよほどの変人でしょうというのが、そのサーベイの結果であったそうである。
あたしも家人も一回も見たことなし。

1983年はまた、浦安の鼠園のオープンした年だ。CBSイブニングニュースのダン・ラザーがそのアメリカのまねっこの鼠園を皮肉たっぴりに紹介していたのは、つい最近のことに思える。
その鼠園に一度も行ったことがないのも、家人とあたしだ。
それでそういう変人が何をマンハッタンで楽しみにしているのかと言うと、セントラルパークの動物園のSEALIONなのである。
これは別に何ということもない動物で、しかも日本みたいに芸をするわけでもない。ただ普通にそこに居って、泳いでいるか、岩の上で「威張って」いるだけなのだが、そこにパフォーマンス的な魅力がある。
マンハッタン人に聞きと、このsealionは自分の子供時代の懐かしい記憶の部分になっている人は多い。思えば、五番街のテイファニーに一番近い場所に居る動物なのではなかろうか。
そこら辺に、不思議な高級感が漂う。
、、、、とは、筆の勢いというやつである。

カメラはPenlite 2に9-18mm

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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