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ロック ユー

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2011年3月31日 (木)

タイムス広場

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234w 48th stというのが、1982のあたしのアドレスであって、これは名前こそ、プレジデントホテルと勇ましいが、単なる安ホテルだから、アメ横の焼き鳥屋の「大統領」みたいなものだ。

83年頃はここいらも剣呑な場であって、夜中に拳銃の発砲音がしたりしたものだった。ホテルの目の前が安物イタリアンのママ・レオーネで週末には、ペンシルバニアあたりから団体さんがバスを連ねてやってきた。

ホテルプレジデントはブラウンストーンの古ビルである。1週間のレートがたしか125ドルほどだった。毎週開けにそれを払いにいったが、ホテルの計算書は戦前の印刷機であって実にクラシックなビルが出るのである。あの印刷物は今でもどこかにとってある。

半年ほど棲んだら、ある日、200ドルほどのキャッシュバックがあった。これはこのホテルがウエルフェア関係の人も宿泊していて、ツーリストでないあたしもそのおこぼれにて市税がリファンドされたものらしいが、詳しい内容は知らない。

持ち慣れない200ドルなので、消費してしまおうというので、家人となにかちゃんとしたレストランに入った記憶がある。

もともとローワーイーストサイドが趣味なので、タイムススクエアには興味はないが、今回のペンペン撮影で一冊本を出す計画なので、まさかバワリーとかAV Dばかりでは本のプロモーションで問題があろうかと思い、ペンライト2に自慢の9-18を付けて撮影したのがこれである。

ここまで広告板が林立してしまうともうご立派という他はない。アメリカ人の普通の人間の大脳内はこんな風になっているのかと思うと空恐ろしい。

2011年3月30日 (水)

月光町と目黒の一本道

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3/29 火曜日

マンハッタンから戻って、最初に喰いたいのは、エチオピアの70倍だ。

お店の奥のカウンターで待っていたら、後から来た女子に声をかけられた。この人はライカM3を持っている、ライカ女子なのであるが、この前、昨年だったかやはりこのエチオピアの離れであっている。

あたしのブログとかついったーを良くチエックしてくれているようだ。

それでライカ談義になった。その中で最近では、ゴスペル酒井さんがいきなりライカを発病という話題になった。

ライカ女子はTDワカコさんと言うのである。持っているライカはおじいさまから譲ってもらったそうだ。聞けば、新潟の有名な市の市長さんをしていたらしい。ここら辺はあたしはよくライカエッセイに書くがまず「正統派」というやつだな。

なんでも最近、マンションが火事になって、そのライカが燃えはしなかったが、かなり熱にあぶられたらしい。ミデイアムではないようだが、レアあたりまで行ったようだ。それで時間、その焼け具合を診断することになった。

TDさんは目黒本町の月光原のことを知っている。それで神保町からむらむらと、月光原に行きたくなって、それを止める方法もないので現地に向かった。

3月29日の真昼の白い太陽とようやく暖かくなった風の下、武藏小山の駅前からまず、くりこ庵の鯛焼き屋を目指したが、亡失したようである。

そのまま、目黒の一本道を歩行して、「割るならハイサワー」の博水社の前を通過して縦横に歩行。

ついでに、散歩ーカメラにも行く。アート製の天井に届く巨大スタンドあり。

武蔵小山の古書店にて、DDダンカンの「英雄無き戦争」を800円にて、それとサザビーズの写真オークションのカタログ(1989)をゲット。

散歩カメラはXZ1

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2011年3月29日 (火)

ヒマラヤンカフェの羊カレー

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マンハッタンの怪人こと、船原長生さんに教えてもらったのが、ヒマラヤカフェである。1STアベニューとアベニューAとの間にある。そのロケーションがいい。ここはチベット料理の店だ。

そこが気に入って、毎日通ったのである。月曜は休みだったが、都合5日、連続しや通ったので、チベット料理のいったんが理解できたとは言わないにせよ。
なかなか堪能した。

10年前にパリでやはりチベット料理を食ったがこれは「お洒落な界隈の趣味の店」なのであまり感心しなかった。

その点、このヒマラヤカフェは普通の汚い店であるのが信用できる。
MOMOというチベット餃子もうまい。ただし、酒のライセンスがないのでアルコールは飲めないが、そういう店ではないのだからそれはかまわない。

デリーなんかで真面目な紳士が酒抜きでターリーを喰いつつ、仕事の打ち合わせをしているのは、日本のビジネスマンが酒のみつつ何か話しているよりも、アルコール抜きなので何か信用できる感じがする。

マンハッタンに持参の文庫が、「チベット放浪十年」(木村肥佐生著)である。これにはチベットの食い物の話しが出てきて、それを前夜に読んでから、このカフェにくればなかなか立派なチベット体験が可能だ。

気に入ったのは、チベットスタイルの羊カレーである。
そういうエスニックな料理を食いながら、店の外の風景はこれはローワーイーストサイドであるのがまたいい。

カメラはXZ-1

2011年3月28日 (月)

ペンライト2にkinoptik

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★御礼★

おかげさまで、アクセスが850万を超えました。

どうもありがとうございます!

東京滞在2日目。
余震もあまりに小さいので感ぜず。

今回のマンハッタン2週間に持参のデジカメは「真面目路線」であるので、ペンライト2には、9-18. 14-150それに新しいコンパクトな常用ズーム14-42のみ。
EZ1にはもともと明るいレンズが固定でついている。
さらに最新のCX5を持つ。
あ、それに委フォンと、フィルム系はライカM3にビオゴン35mm.
東京に戻ってきて、カメラとレンズコーナーのジャングルの中から、カメフレックス用のマイクロ4/3アダプターを探し出して、そこらここらに散在している、カメフレックススタンダードのレンズポートから適当なレンズを外して、ペンライト2に付けてみたら、果たしてちゃんと写っていた。

カメフレックス用のkinoptikのレンズは当時の最高級品であって、個人が買えるような値段ではない。それが20年前の東側の体勢崩壊の時に、東側のプロパガンダ映画を撮影する為の機材が大放出になり、kinoptikのレンズを1ダースほど手に入れた。ただしカメフレックス用のマウントはアリフレックスには付かない。その逆のカメフレックスの本体にはアダプターでアリフレックスマウントは装着できる。
そういう時代背景でながらくカメフレックス用レンズは「放置」されていたのが、最近ではマイクロ4/3の登場で、一気に脚光を浴びたわけである。
そのミスマッチぶりが、非常にオブジエしているのがいい。

先週に五番街の長生邸にて、彼のマイクロ4/3機材を見せてもらった。それはPLマウントのレンズが民生機についていて、プロ用のフォローフォーカス機構とマットボックスが装備されていてなかなかのプロ機材感覚で良かった。

かつてのプロ用レンズとモダンなデジカメのミスマッチというのは、なにか美女が軍用の(本物の)ジャケットを着ているような、変な魅力がある。
これが最近の「ブランドだけレンズ」ではなかなかこうは行かない。

以下は作例2点。

ペンライト2 Kinoptik Apochromat 25mm T2,5

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2011年3月27日 (日)

アヴェニューD

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80年代。
マンハッタンのSOHOに居た当時、まずウエストハウストン通りからブロードウエイを超えて、バワリーに行くことはなかった。当時のバワリーは結構、剣呑な場所であって、カメラを持ち歩くなんてとんでもなかった。
知り合いのマンハッタンの長い、郷津さんがそこら界隈のジャンキー氏の優れたポートレートを残しているが、それが中古車のサイドに一眼レフを隠した「動く隠しカメラ」で撮影しているのである。
その展覧会が東京の新宿であった時、バワリー土産として郷津さんはジャンキーさん愛用の「ミッドナイトエクスプレス」というポケットサイズの安リカーを参加者に配った。濃いブルーの壜で夜行列車の疾走するイラストがついていた。味に感じては記憶にないが、普通に飲めた。

アベニューのAからDまではさらにそのバワリーの東側にあって、そこらは危険地帯と言われていた。そうなると怖いもの見たさで、アベニューDのどこそこまで行って帰ってくるという遊びが横行した。
ようするにアベニューの4つのアルファベットは、都市神話の最高のランキングとしてローワーイーストサイドに君臨したわけである。
今回、その思い出をたどって界隈を徘徊したけど、そこにあるのはただの雨に濡れている古い冴えない通りであった。
都市神話とは、その中に危険な部分をはらんでいるから魅力なのだ。
70年代の山谷もそうだった。

2011年3月26日 (土)

デルタ・デ・ナリタ

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JFKで搭乗待ち。
天気は回復。DL173は2時間遅れで出発とのこと。
これはベトナム航空とのコードシエアなのだ。
戦争が終わってもう何年経過したか。

ようするに、2時間遅れというのは、成田から到着した機材が2時間遅れたということだ。

それをあわてて整備してとんぼ返りっていうか、ジャンボ返り。

飛行機は滞空していることがお金儲けになるのだからそれはそれで良いのである。飛行ルートはアラスカからカムチャッカ半島のかなり北側。

大圏コースなので、最初は真北に向かっていたジャンボがそのうち、西に飛行するようになり、北海道からは真南に飛ぶのも面白い。

本日のクリューはキャプテン関係はデトロイトベースで、アテンダント関係はニューヨークベースという。日本人アテンダントさんのうち、ひとりは今日が初フライトだという。ビールを頼んだら、ギャレーでどこにビールがあるのか分からないのも新人っぽくていい。先任アテンダントさんに、4月1日に羽田で会う約束をした、デルタのチーフパーサーのTIM YODERの話しをしたら知っているという。狭い世の中である。ただしロス羽田便はキャンセルなので会えず。

行きのニューヨーク行きは乱気流でかなり揺れたが、返りの成田便は至って静か。と思っていたら、成田アプローチで結構でかい、ウインドシアを踏んづけたようで、機内で人間が浮いた。まさに絶叫コースター。NASAに行かないでも、無重力体験ができた。

2011年3月25日 (金)

今回のマンハッタン二週間

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本日移動日。
マンハッタンから佃。

まず、六年目のマンハッタンが面白かったのは、ローわーイーストサイドが安全な街になっていたことだ。六年前にバワリーを歩行していて、それを感じたのだが、当時は、それでもアベニューAから東はやっぱやばいのではと思っていたのである。
それが今回、その界隈も普通になっていたので安心すると同時に、ちょっとがっかりもしたのであった。時間ち共に
街の変貌するのは世の中の常である。その最たる例がベルリンであった。あたしの最初に知ったマンハッタンは三十年前であって、そこに戦前のアメリカがまだ残っていることに、感激したのだった。それにしても、当時のマンハッタンはソ連の脅威から身を守るための核シエルターの入り口を示す、黄色いマークがそこら中にあった。あたしの~記憶ではこれが
ユダヤのダビデの黄色い星とオーバーラップしているのは何とも不思議だ。

撮影関係では、今回はロバートフランクの六十年代を回想する、「フランクさかいチョートクマンハッタン計画」のコラボ。今度出る、ライカ写真集の撮影。それとペンライト2と、XZ1でかなりの数を撮影した。

二週間で、ミュージアムにも、カメラ店にもゆかずにひたすらローわーイーストサイドの路上にいたのである。
On The Road ってわけだ。

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2011年3月24日 (木)

ローワーイーストサイドのKATZ CAFE

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マンハッタン大周遊の二度目は月曜に開催した。
大雨の中、例によってローワーイーストサイドを周遊。この前、満員で入れなかった、KATZ CAFEに入った。大変な満員だが、長生さんによればこれでもかなりすいているという。
様子が分からないので、長生さんと同じものを頼んだ。
ビーフパストラミが山のように入ったサンドイッチである。普通の日本人の胃袋ではちょっと食べきれない量である。あたしは完食したけど。


2011年3月23日 (水)

チョー製・チョー特マンハッタン大周遊

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長生さんを知ったのは、中島らもさんが亡くなった時に、リンクをたどって知ったのである。
マンハッタンに凄い人が居ると思った。

以来、あたしのブログでは「マンハッタンの怪人」と呼んでいる。これはスカイスクレーパーの林立するマンハッタンのイメージである。
ゆえにこれはオペラ座の怪人よりレベルも高度も高いというわけだ。

昨年の夏にそのチョーセイさんが来日した時に、彼を偽ライカ同盟と木星球倶楽部の名誉会員にご招待して、そのレセプションにクラブエダムで「ロン缶」で乾杯して、それから州崎のゆめのやに行って焼き鳥記念デイナーをした。

その翌日は、ヒルズでビール飲み大会をする約束が、メールの不具合で、チョーセイさんが、ヒルズのレセプションに来てくれた時には、あたしは帰った後であった、
それが残念なので、今回、マンハッタン大周遊と同時に世界酒飲み大会臨時総会も開催したわけである。

マンハッタンのアベニューA界隈が普通の街になってしまって、残念なのは後日書くが、チョーセイさんはM8にノクチであたしはM8-2にオリオンでこれはまったく異なるレンズを持ってそれぞれに撮影をした。
このノクチとオリオンはいずれが優れているか、というとんでもないデイベートはそのうち、どっかの雑誌でやろうと思っている。

これを書いているのは、SOHOのロフトの側の林檎屋の2階なのである。

2011年3月22日 (火)

Soho今昔

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ここのアップルストアの仮設事務所はホットスポットだが、なぜか、委パッドから画像がアップ出来ない。

今、プリンスストロートの林檎屋のワークショップで居パッド2をステージで展開中だが、やはり委パッド2でも画像がアップできないのであろうか。これはヨックモックでアップした。

Sohoは三十年前に住んでいたから、その変貌に驚愕である。
ウースターストリートはメカスの映画によれば、フルクサス運動のジョージ マチューナスが一本の木もなかったこの通りに最初のきを植えたのであった。
ポリスが文句を言いにきたがそれを押し通してこの木は育った。

それが大木になったのをメカスは灌漑深く撮影している。

ウースター通りに、シャネルが登場したのには肝を潰した。Sohoもついにシャネルがある様な街になってしまったのかと思った。
週末は大混雑で歩行もできない。

2011年3月21日 (月)

アップルストアのお世話になる

ロフトの通信環境が悪いので画像はなし。
金曜日はチョーセイさんと万八反大周遊。
アベニューA,B,C,Dがモダンになったのでびっくりした。
ハドソンリバーぞいピア66でコロナ麦酒。みんな
バケツに入れた
コロナ飲んでる。東海岸でトップの売上だそうだ。
今は土曜日の昼だ。
ロフトの側のアップルショップでこれを書いてこれより撮影NOW。
…………………………
午前中の撮影から戻る。
アヴェニュA界隈をライカM3にビオゴンで撮影三本。
ランチは昨日、チョーセイさんに教えてもらった、チベット料理店。モモ、チベットの餃子にコーヒーでで9ドル。チベットには
なかなか行けないのでマンハッタンでラサ気分。
居候先はwifiではない。それに大震災の義援金などで家主が大変なので、遠慮して、プリンスストリートのアップルショップの二階を「仮オフィス」とする。
きれはありがたい。ここのアップルストアは銀座の五倍はある。もとは郵便局で、三十年前にはよくここから郵便を出したものだった。手紙がメールに変わった意味で象徴的。

2011年3月20日 (日)

セントパトリック\デイ


マンハッタンに春がくるのは、セントパトリックデイあたりからである。
グレーの街に緑色のスカーフとかユニフォームが目にしみる。
だいたい、セントパトリックデイの印象というのは、あたしの場合、 1983年のそれしかないので、その日はグレーの寒い日だった。
マンハッタンでSOHOのアーチスト、佐々木画伯のロフトに今日から居候なのだが、ビレッジの若い衆が揃って、緑のハッピなので、ああ!セントパトリックデイかと、想い出したのである。
非常にあたたかなセントパトリックデイだ。
それに対してこちらのテレビで見る日本の\被災地の様子が\気になる。Photo


2011年3月19日 (土)

犬Yの犬

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犬Yの犬というタイトルはちょっとふざけているようだが、1983年の夏の100年ぶりという酷暑にSOHOのワン公があまりの暑さに、仰向けになって「Yの字」になっていたことがその命名の理由である。
これはほぼ30年前で、我々はSOHOのアーチスト家族の日本の里帰りの間の留守役を仰せつかって、SOHO界隈には詳しくなった。
コムデギャルソンが、woosterstに新規開店して、当時「250ドルもするジャケットを売ってるぞ!」と話題になった。コムデギャルソンのマンハッタン一号店は小さかった。その前はどっかの地方銀行の支店が入っていた。

まあ、犬の観察には30年来の自信がある。
実はこの1月のウイーン行きではまったく犬の姿を見なかった。なんでもウイーン市がワン公に法外な税金をかけたのが、そのワン公ホロコーストの原因らしい。
しかし、犬Yのワン公連は元気である。

撮影したのは、ライカM8-2に、レンズはソ連製のオリオン28ミリである。このレンズは1970年代のウイーンでもライカに付けて愛用したレンズだ。
実によく写る。モダンなツアイスレンズより軽量なのもよい。

2011年3月18日 (金)

マンハッタンでipad 2を試す

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ipad2(以下、委パッド2)は、アメリカでは11日に発売だった。日本での発売は延期になった。
ミッドタウンからメトロでプリンスストリートに行った。まず6年ぶりのメトロが綺麗になっているのに驚いた。
プリンスストリートの郵便局が林檎屋になったのはかなり前のことだ。そこに委パッドを見に行った。空前の円高だがそれを買うつもりは最初からない。

手にした感じはかなり小さい。隣でテストしている地元の委パッド人類は「small but heavy,,,」と言ったた。まさにその通りである。
手にとった感じは良いが、見てくれはあたしの持っている最初のモデルが好きだ。画面の周囲の黒いのが良い感じなのである。

昨年の委パッドの1型が登場する直前のお祭り騒ぎが今にして、なにか恥ずかしい。こっちでは何と言うこともなく、普通にテストモデルを待たずに手にすることが出来た。

明日からSOHOのアーチストのロフトに居候である。ただしそこはWIFIはなさそうなので。この林檎屋に電波を借りにくる必要があるかも知れない。

2011年3月17日 (木)

ペンペンライトデマドカラウツス

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このホテルは三十一丁目のパークとレキシントンの間にある。安ホテルを絵に描いたような建物だが、100年は経過している煉瓦積みの幅のない8階建てだ。こういう歴史的な建物は地震がないから、好んで宿泊しても問題なしだ。

あたしには木賃宿指向があるようなので、パリでも一つ星指向なのであるが、このホテル31に居ると、ベレニス・アボットの撮影した「変貌するニューヨーク」の写真集を思い出す。これは30年代の撮影であって、アボットはニューヨークの失われる過去の都市の美学を追想しているのだが、2011年から見れば、彼女の心配するほどに「古き良きニューヨークは失われなかったと見ることも可能だ。

この八階建ての古ビルのエレベータはアールデコの様式がキャビンの中にそのまま残っているのは貴重だ。しかも例のドアの内側に金属の蛇腹ドアがある、あたしの好みなのだ。今ではあたしの知る限りでは、オーチスの蛇腹式は、横浜のニューランドと京都の東華菜館くらいになってしまった。
もとの日本橋のシュミット照会のビルだった、6階建ての煉瓦造りのビルの2階にバーがあって昔は良く通った。その理由はお店そのものよりも、そこに至るのが、やはり蛇腹式のクラシックエレベータなのである。

ニコンFのカタログを撮影した、銀座8丁目の古ビルの8階にあった東宝スタジオもやはり蛇腹式であった。三越の本店も前はそうだったし、下に降りる時にマイナスのGがかかって「きんたまが抜ける」ような気持ちを小学生時代に味わった。あのようなマイナスGのエレベータは最近では存在しないようである。

このホテル31のエレベータはそれでも大変なオートマチックであって、普通は内側の蛇腹のドアは手で締めるようになっている。あたしの部屋の8階に行くのに、ドアを手で閉めるようとしたら、このホテルの創業時から居るのではないかと思われるようなユダヤ人の爺さんに「手でしめるんじゃないよ、これは自動だよ!」と叱られた。
こういうクラシックな昇降機でもオートマチックがあるとは知らなかった。

ホテルから東側の光景がこれである。西側の窓からはエンパイヤが見える筈だか、次回にはそっちの「エンパイヤビュー」をリクエストしてみよう。

アンドレ・ケステスの有名なシリーズに五番街の1番地の高層階からワシントンスクエアとか、眼下の建物の屋上に居る人々の姿を撮影した傑作がある。
彼はコンタックスSに300ミリレンズで撮影していた。
それを真似るわけではないが、こういう光景にはもしそこに人間が登場するのなら、なかなかドラマチックだ。
カイロでも似たような光景を撮影したことがあった。

それで待っていても、なかなか屋上に人影は見えない。真っ暗な深夜に隣のビルの屋上スペースに男性の姿があった。何かと注意して見たら、禁煙の古ビルの屋上でタバコを吸っているのであった。

窓からペンライト2で撮る。現代のケルテスになりたい。

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2011年3月16日 (水)

マンハッタンのM3とM8-2

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今回のマンハッタン滞在は近々にえい出版から出る、あたしのライカ写真集の為の撮影である。
最初の計画では「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社)の続編のようなものを考えていた。
これはウイーンでのライカスナップであるが、最初は1973年に撮影した、コダクロ−ムのセクションと2011年に撮影したカラーネガでのセクションとを並べてみるつもりであったが、清水編集長との打ち合わせで、ラストにデジタルライカを入れようということになった。行き先はマンハッタンとあっさり決まった。

さらにその写真集の大ラストには、ライカM3で撮影したモノクロームのセクションを加えるという計画、これはあたしがマンハッタンに来る前の週に、土浦の写真家でロバート・フランクのオリジナルプリントコレクターである、さかいとしおさんとフランクのオリジナルプリントを見ている時にひょっこりと企画されたものである。

思えば、1970年代あたしは20代の当時にやはり最大のライカ使いはHCBではなく、やはりフランクであったからだ。
それでこの写真集の構成には是非、ライカで撮影したモノクロのプリントのフランクへのオマージュを入れたいと思った。

それで気分は完全にフランクというわけで、さかいさんのプランクのプリントの側に置かれていた、M3(これは安田さんのメンテナンスもの)と、あたしの手元のフランクが使用したという伝説と同型の(これはジャック・ケラワックの詩の中にあるのが唯一の根拠だが)JENA製のビオゴン35MMを持参したのである。

こういうのは「いわしの頭も信心から」ならぬ「フランク信仰はビオゴンから」というわけで、一種のアニミズム信仰であるが、なにしろ極東写真家だから、それはそれで構わない。

アメリカが夏時間に変わった週明けの月曜の曇り日に、くだんのM3を持って、31丁目の安ホテルからセントラルパークサウスまで往復して、まず手始めに3ロールを撮影した。
スナップショットはなかなか手応えがあった。当然ながら、デジカメに比較してレスポンスが断然に速い。シーンを発見した時には無意識にシャッターが切れている。デジカメだとそこに半呼吸があるから、ちょっと遅れる。

五番街の歩行者の大半がアメリカの周辺から来た、ツーリストさんと、日本の買い物女子である。これはつまらない。
思えば80年代の五番街には不思議な人間が沢山歩いていたものだった。

ばりばりのアルマーニのスーツに足の指が出ている、ヨットシューズという男性が居て、あたしなどは其れが不思議で、2ブロックほど後をつけたこともある。

今回、これはいいな!と思ったのは、アレンギンズバーグにそっくりなホームレスさんと、もう一人は頭上にアーロンチエアを掲げて、一人でオフィスの引っ越しをしている男性くらいなものだった。

M3で撮影した画像はすぐに見ることが出来ない。
それがまた未来に映像の罠をしかけるわけで、楽しいのだ。

2011年3月15日 (火)

BUD LIGHT

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6年ぶりのマンハッタンで面白いのは、パークアベニューは想像していたのより、ずっと狭いことだ。
マジソンとかレキシントンはもともと狭いという感覚があったのが、そっちの方はむしろ広く感じる。
五番街というイメージは日本では流行の最先端という感じがあるが、これはロックフェラーセンターあたりの話しであって、30丁目界隈などは下町風である。

BUDは大昔はその缶ビールのパッケージをそのまま、ミニドレスにしたキャンペーンガールが居たのも懐かしい。
言うまでもないけど、西側のバドワイザーというのは、もともとはチエコの麦酒の街、チエスケブドヴィツエの名前から来たのである。それでこれはビロード革命の前の話だったと思うが、その本家がアメリカの会社を相手どって訴訟になりそうなのを、アメリカの方で多額のお金を支払って「和解」したこともあった。

しかし残念ながら、プラハでほんまものの麦酒を呑んでいるあたしにしてみると、アメリカのBUDはどうもいただけない。しかしここはアメリカなのであるからそれなりの覚悟でおいしいと思って飲む。これが大事だ。
BUDのロングトレーラーがマンハッタンの繁華街のど真ん中のさらに狭いストリートを曲がって行くのは、なにか建物がそのまま動く感があって実にダイナミックである。

東京の銀座などで「流行り物の軽音楽」の広告トラックなどは、そのレベルが低いけど、このトレーラーの広告効果はかなりのものだ。その影響を受けて、レキシントンと31stの角のグロッサリーでBUD LITEを半ダース買ってみた。飲めないことはないけど酔わない。

カメラはXZ1である。紐でつながったキャップは迅速なスナップには向かないので外してしまった。

2011年3月14日 (月)

XZ1で犬Yのストリートを撮る

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マンハッタンを真面目に撮影したのは、今から29年前の1982年である。その時は8X10カメラで撮影していたので、ストリートを行く人が面白いと思いつつ、なにしろ大型カメラであったから撮影するすべがなかった。
サブとして、キエフ88とコニカプレスを持参したが、これはもっぱら8X10で撮影する時の「ロケハン」用カメラであったから、街並みばかり撮っていたのである。

マンハッタンのストリートスナップの巨匠は、惜しくも癌で亡くなった、ギャリー・ウイノグランドである。彼の「ぼろぼろに使い込まれたM4」は有名だけど、有為のグランドは5番街を中心に膨大な量のスナップを撮って、その中から8千枚ほどのプリントを残した。

マンハッタンの路上は世界で一番、スナップが面白い場所である。
今回、持参したXZ1を首からぶらさげて、夕刻の街に出た。
角のグロッサリーにビール(BUD LIGHTのまずいやつ)を階に行くので、31STの角から北を見たら、クライスラービルが夕景の中に綺麗に見えた。
それでこのレキシントン通りの31丁目から29年前に8X10で撮影した記憶が浮上した。
そのまま、アップタウン方向に歩いて、42丁目の角で撮影したのが、これだ。
それできびすを返して、レキシントン通りの今度は東側をくだった。

高そうな小型犬を連れた老紳士。いかにもレキシントンあたりに棲んでそうな人が、交差点の真ん中で「それは、LX5かね?」と聞いてきた。「LX5じゃなく、新しいオリンパスのXZ1なんです」と赤信号になるまでの10秒ほど、カメラ立ち話。こういうことも東京ではない。ライカが話題になってもデジカメは話題にならない。

31丁目の角のグロッサリーでビール半ダースとオレンジジュースを買った。おやじさんが「15ドル」というので、5ドル三枚払ったら、「ちがう、16ドルだよ」という。
「あ、御免、昨日東京からついたばかりで、ジエットエンジンで耳がおかしくなってんだ」と1ドル足して払った。
こういう冗談は日本では言うことも想像できない。ようするにフランクネスな街だ。

29年前と今であまり変わったこともなさそうだが、変わったのは通りの表示と信号が新しくなったことか。

2011年3月13日 (日)

雪のプラハ

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昨年の12月のプラハ滞在はなかなかに収穫が多かった。
最大の成果は、プラハの旧市庁舎のギャラリーでTICHY展を見れたことだ。
その内容は7日に出た、新潮の4月号と20日に出るアサヒカメラに書いたのでここでは触れない。
昨年の12月の大寒波でアトリエの暖房が故障したので、2区のアパートに退避した。
ここは旧市街の1区に隣接する区域なのだ。
この20年以上、プラハの北東に棲んで、そこから市内に行く視点が固定されていたので、これは面白かった。ようするに北区に棲んでいた視点が大田区になったようなものだ。

いつも、気に入った「らいか」を持参するわけだが、12月には、キヤノン5Lのブラックと、ニッコール85MM F1,5を持参した。
このカメラはアパートメントで一杯やる時の「肴」になるわけだが、言うもおろかながら、「実際に写真を撮る」こともできるわけである。

それでその本体もレンズも真っ黒なカメラを持ち歩いて、いつもなら何ということもない、プラハのベンチに雪のつもっている処を撮影した。
雪があると、なにか風景がモジリアニ方面にシフトするようである。

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★マンハッタンノート

昨日来、日本の地震ニュースの視聴で睡眠不足。今朝の7時から午後1時までは、熟睡。曇りの静かな(とは言えマンハッタンだから緊急車両のサイレンがかなりのもの)ニューヨーク。

2011年3月12日 (土)

ウイーンをエルマー65で撮る

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これは今回、ウイーン滞在中の一番最後のロールである。すなわち45本目である。
ライカ撮影の最終日は好天になったが、気温はマイナス10度だ。
まあ、寒さはなかなかライカでは写らない。

ライカMDにビゾフレックス2を付け、レンズはテリート280mmとエルマー65mmを持っていった。
最初は280mmで建物の装飾など撮って、最後の1ロールで、エルマー65mmに切り替えた。

40年前には21mmを愛用していたのが、年齢を重ねて還暦を過ぎて、65mmのレンズがちゃんと使えるようになったのは、これはライカレンズ焦点距離と年齢の関係という、寓話に過ぎないのだけど、なにか納得するところもある。

旧市街のAmfofの裏手は、迷路の小路であって、ここらはウイーン名物の馬車好みの光景である。
その小路の出口方向から通りの奥行きを狙っていた。
65mmというのは、光景を平坦に写してしまうものだが、奥行きのある小路のようなのを撮影すると、なかなかダイナミックなシーンになるものだ。

ちょうど来合わせた、馬車を撮影したのだけど、その光はドラマチックだ。
その一方でなにか三流の劇映画のようにもなってしまった。


2011年3月11日 (金)

犬Yに到着する 日本は大地震

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犬Yというのは、6年前の「ツアイス紀行」でも書いたが、1983年の夏に、100年来の暑さというのでSOHOの犬がYの字になって寝ていたので、それから犬Yになった。

6年ぶりのマンハッタンだが、あまり変わっているように見えないのは、到着が木曜の雨の夕刻であるせいだ。

安ホテルに入って、ああ犬Yだなと思うのは、例の大統領の使うような電話機と、デイランシーストリートあたりで売ってそうな、安ピカもののスタンド。
それに、部屋の窓を閉めれきれずに、間で挟んである、クーラーである。
こういう室内だけ見ていると、なんだ、1983年とちっとも変わっていないじゃないかと思う。だから午後のウオールストリートでまだツインタワーの碧い陰の中を歩行できるような気がしている。

東京から犬Yに来て困るのは、一日が24時間プラス14時間で合計36時間になってしまうことだ。それで6年前もブログの日付が一日ずれてしまった。

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ここまで書いてツイッターを見たら、BMW野々宮の大地震の第一報あり。佃の家人にスカイプで電話。あたしの大ガラスの部屋のカメラやプレートが落下。40階建てのマンションのエレベーターは休止中。

携帯はなかなかつながらないが、スカイプは大丈夫のようだ。

被害が出ているのが気になる。以前の新潟の大地震の時はベルリンに居たのだった。家人の話では佃に20余年居るがこれだけの部屋の揺れは未経験とのこと。震度5強だからさもあるべし。

大観覧車

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★本日よりマンハッタン。

さて以下は1月のウイーン日記である。

日曜の午後に思い立って、ウイーンは3区のアパートを出て、すでに日の傾いた街に出た。

高速鉄道(あたしはこれをイタチ特急と呼ぶのは車体に小動物のイラストがあるからだ)にて街の北西部のフロリースドルフまで行き、そこからメトロで街の西方向というルートである。

この日はカメラはライカではなく、フォクトレンダーのビテッサTだが、レンズは35mmの広角がつけっぱなしである。いたち特急がプラーターを過ぎた所で右手に名物の大観覧車が車窓に平行して走っているように見える。

これは線路から大観覧車までの距離がかなり遠いせいである。あたしの70年代にはオーストリアが占領から独立した50年代などは「ごく最近のこと」であった。それでウイーンの映画と言えば「第三の男」のモノクロのミステリータッチの画面だった。それで日本から来たお客さんなどは、大観覧車に乗りたいというので、なんどかは案内したこともある。

ところがこの大観覧車に上からの展望を期待するのは、これは期待外れというものなのだ。普通のツーリストのそうあって欲しいというウイーンの光景は見えずに、とんでもなく方向違いのドナウの遠方が見えるだけで、お目あてのシュテファンの姿などはどうもここからはぱっとしないのである。

世界三大観光地がっかりスポットに入れても良いと思うほどだ。

でも、走行する「いたち特急」から瞬視した大観覧車はなかなか詩情にあふれているように見えた。これも実際に乗るよりも風景として眺めていた方が素晴らしいウイーン名所のひとつだ。

2011年3月10日 (木)

XZ1で快適スナップショット

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★本日移動日 NRT JFK

巨匠 ウオーカー エバンスの傑作に、ニューヨークのメトロの中の乗客を撮影したシリーズがある。これはモノクロームだ。
コンポラ写真の巨匠のブルース ダビッドソンの仕事にもニューヨークのメトロの乗客を撮影したのがある。これは35MMのスナップショップで、ちゃんとストロボをたいている。今の時代に見ると、よく乗客から文句をつけられなかったと思う、凄いショットがあるが、写真家は「常に一人で行動して撮影した」とコメントに書いている。

エバンスの作品は二眼レフで乗客を真正面から撮影しており、ダビッドソンのは車内を動き回って撮影しているが、前者は戦前の撮影で、モノクロでしかもフィルム感度が低いので苦労しており、後者は80年代の撮影だが、メトロの蛍光灯はフィルムでは変な色になるのでライカに蛍光灯の補正フィルターをつけて、しかもストロボには蛍光灯にシフトするフィルターを付けている。

XZ1のテスト撮影でメトロの乗客を撮影してみたら、明るくしかもホワイトバランスもちゃんとしていたので、かなり感動した。といっても今のデジカメなら当たり前のことか。
それだけ、コンパクトデジカメはスナップショットに向いている。これがフルサイズのおやじ一眼レフであったらこうは行かない。

まず理想のスナップシューターだ。

4 ところでXZ1だが、右手の指が滑るのである。これは東急ハンズで、ラバーを買わなければと思っていて、ふと気がついて、いつもかぶっているキャップにマジックテープが貼ってあったことに気がついた。

このショットを撮り終えた後に、キャップからそのマジックテープをはがして、XZ1に付けたらさらに理想のスナップシューターになった。
このマジックテープは以前、木星玉の突撃隊長からもらったのである。

2011年3月 9日 (水)

オリンパスの朝

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大学一年生の春。
1966年だった。中野のカメラ店でこのオリンパスワイドを買って、それを音羽の自室の机の上に置いて「さあ!撮るぞ!」と燃えたのであった。

あれから45年が経過しているのだが、当時のオリンパスワイドは今でもちゃんと使える。

東京に季節はずれの雪の降った日の午後に、高千穂の紳士がこの2台の最新のデジカメをヒルズに届けてくれた。
一夜明けて、そのパッケージを窓際に置いて、まだ春浅い朝の光で見ていたら、いきなり45年前の「オリンパスの朝」のことが思い出されて、カメラの森の中からくだんのワイドを取り出して、2つのパッケージの上に置いてみたのがこの画像である。

一昨年の夏にそれまでの時間が止まってしまって、途方にくれていた時に、いきなりペンデジタルがあたしの前に登場した。それにはオリンパスワイドと同じ焦点距離の35MMレンズのパンケーキがついていた。
これに救われた。
それで大ガラスの部屋から、はるか隅田川の上流に見える、まだ「芽を出したばかり」の空筒を撮り始めたのであった。
スカイツリーはどんどん伸びて、あたしのぺンはぺン2になり、今ではかなりその塗装もはげてよい感じになっているが、あたらしい年度を期に、ここでデジカメを「着替える」のはなかなか悪くないと思った。

それでこのスタッフをあたしの眼にして、6年ぶりのマンハッタンを撮影してみよう。
あ、その前にバッテリーをチャージするべし。

2011年3月 8日 (火)

ライカM3にjena Biogon35mmで土浦大周遊

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フランクマンハッタン計画とは、単なる言葉の遊びであるが、その実、まじめな写真の実験室でもある。
ロバートフランクのコレクターである、土浦の酒井写真研究室の酒井所長と、あたしのコラボなのである。
マンハッタンを撮影してそこにフランクの軌跡を感じようという計画だ。

撮影はあたしで、セレクションは酒井所長が行う。
フランク気分を出すために、酒井所長から彼のM3を借りたのだ。レンズはイエナ製のビオゴンである。
大事なミッションであるから失敗はできない。
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それで先日、酒井研究室で6時間ほどフランクと現代写真のルーツを語り合って、いい加減、神懸かりになったところで、ほぼ同時代のライカと同じブランドのレンズで、カメラテストを行ったのが、これである。ちゃんと写っていた。

そればかりか、今週の末から展開する、マンハタンの撮影より、どうもあたしの個人的な趣味としては、ここ、土浦の方が写真的なのである。高台越しに見える、霞ヶ浦などはフランク先生の影響であろう。

むろん、それでマンハッタンの撮影を中止にしてしまっては、今回の企画が駄目になるので、今は「土浦よりもニューヨークの方が魅力的」という自己暗示を自分にかけているところだ。

2011年3月 7日 (月)

ウイーン ズマロン35mmf2,8で撮る

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ウイーンに持参したのは、M3用のズマロン35MM F2,8である。

例の眼鏡付きのやつだ。これはM3専用のようなことを言われているが、実際にはM2系統のファインダーでもそのままに利用できる。

澤田教一のM3にズミクロン35MM眼鏡付きにさらに、単独ファインダーを付けるというのは最高の戦闘スタイルであった。

35 あたしのズマロンはどういう力がファインダー部分に働いたものか、手に入れた時には自分の目が乱視だから、そう、見えるのだと思っていたのだが、これは本当に眼鏡部分が菱形に歪んでいるのである。

距離計もかなりずれているのであるが、ライカの場合、まず広角レンズから50MMレンズ見当はもともとレンジファインダーで距離など合わせないから一向に問題はない。

35MM広角レンズの名使い手はやはり、ELSKENではないだろうか。彼のSWIEET LIFEはほとんど全編が35MMレンズで撮影されている。

主要なモチーフを中央に配して、周囲の空気とか環境をさりげなく描写するのがこのレンズである。

これもコダックのカラーネガ(感度100)で撮影。

2011年3月 6日 (日)

ウイーンの自写像

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ウイーンの繁華街ケルントナー通りの名店と言えば、スワロフスキーとロブマイヤーである。

日本がバブルであった当時には、仕事でこの二店はよく取材したものであった。お店の格からすればこれは比較にならなくて、ロブマイヤーが上である。

ただし知られているのは、スワロフスキーであろう。なにしろ世界のどこの空港でもスワロフスキーのクリスタルは売っている。

一方のロブマイヤーの方はかつてのソ連の大会議場とか、ニューヨークのリンカーンセンターとか、ウイーンオペラのいずれもシャンデリアを制作したりしている。

今回、6年ぶりにスワロフスキーのクリスタル店の前を通ったら、なにやらミラーにクリスタルを貼り付けたようなデコレーションがあった。

あまり感心しない装飾ではあるが、そこにライカMDを持った東洋人のじじいが反射しているのが面白く撮影したのがこれである。

レンズは旧の21MMF4の方のスーパー庵愚論である。このレンズはスクリューマウントなので、バルナックライカにも付けられるのが便利だ。

ここではグレーの仕上げのライカMDで撮影をしている。

★お詫び。一部ブラウザーでは画像が転倒しております。

2011年3月 5日 (土)

ライカM1の昔

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日本デザインセンターに入社したのが1970年。翌年のボーナスで買ったのは、ライカM1だった。本当はMDが「街が戦場のように写る」のではないかという期待があったのだけど、銀座の三共カメラにはMDの在庫はなかった。それでMDが登場するまで「とりあえずM1」ということになった。

このライカはレンジファインダーを省略したM2である。当時のライツはM1からM2への改造を引き受けていた。だから改造されてしまったM1はM1ではないのだからその総数はかなり少ないはずだ。

日本カメラのTさんが欧州のオークションでライカの代理店の部品をたしか250キロほど落札して、正月の2日という日にその開梱を見学に行った。その中には膨大なライカのパーツがあったわけだが、それを見学に来たのは、赤瀬川さんと坂崎さんだった。

パーツの中に例のM1のめくら蓋というのがあった。つまりこれはM2に改造されたM1のもう必要のないパーツなのである。「これはいいピアスになりますから、、、」というのでそれは坂崎さんがもらったのである。

あたしのM1は主に35MMのレンズがついて、もっぱら目測でスナップをした。35MMなら別に距離合わせは必要ないからだ。50MMも同様である。

85MMのレンズを付けて、アクセサリーファインダーを付け、それで目測でスナップをしたこともあった。

ウイーンのフォトオラーターでライカビットMPがついたM1を買ったこともあった。価格は当時の貨幣価値で3500オーストリアシリングだから、7万円ほどであったろうか。なにか非常に高いような気がしたのは、1974年当時のことである。

M1は考え方によってはMDより「街が戦場のように写る」のではないかということに気がついたのは最近のことだ。常に35MMと50MMのブライトフレームが見えていて、それはパララックスが矯正されるのである。こういう具合にライカビットも装着できる。

2011年3月 4日 (金)

ロバート フランク ビオゴンを持った写真家

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ロバート フランクのような巨匠はカメラなどどのようなものでも良かったに違いない。
しかし彼の弟子を自称していたリー フリードランダーとは何度もライカ談義をしたことがあるが、彼はカメラ好きである。
ヨセフ スデクもカメラ好きだった。
フランク先生に会った時、そういう話しを聞きたかったのだが、それは横浜の公式な席であったので、ライカ談義は失礼になるのではと、遠慮したのである。
これが15年ほど前だがまったくつまらない遠慮をしたものである。
そのかわり、フランク先生が広告写真家であった当時に、デトロイトの偽ライカである、デトローラの撮影をしていた事実をあたしは知っていたから、そのことを聞いた。
これは逆にかえって失礼になったのかも知れない。

外国人として最初のグッゲンハイム奨学金は2千ドルであったらしいが、これは1950年代には大金である。3台のライカをぼろぼろのセダンに積んで、アメリカを放浪して、アーカンソーかどっかで、地元の警察に怪しまれて、警察のごやっかいになっている。
田舎の警察としては3台のライカを持って、しかも怪しい英語を話す外国人は職質するのは当然だ。

ジャック ケラワックが「ロバート フランク!ライカにビオゴンを付けた男よ!」と唱っているので、こういう詩人のワンフレーズが後年になって、われわれ好事家のライカ研究の助けになるというのは、実に奇縁である。
それは言うまでもなく、イエナ製のライカマウントのビオゴン35ミリであった。

今回、フランクライカマンハッタン計画にあたって、フランク先生の真似をして、ビオゴン35を持参することにした。
マンハッタンをコダックのモノクロフィルムで撮影して、セレクトは酒井写真研究室の室長がして、そのファインプリントは酒井コレクションに納入するのである。
すこぶる「アート」な計画なのだ。

一応、撮影前にそのビオゴンのピントをチエックした。うちにはライカマウントのビオゴンはないので、コンタックスマウントのそれをアダプターでライカマウントにした。
手元にピントをチエックする、デバイスがあった。
マークを見たら、これがWICA製であるのでさらに驚いた。WICAとは戦後間もなくウイーンで作られた偽ライカコピー機だ。その数100台とか言われている。そのピントチエッカーはそれより数が少ないのではなかろうか。

一応、ピントは大丈夫であった。これでマンハッタン計画は着々と進む。

2011年3月 3日 (木)

アルテ ウイーン

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ウイーンの日曜の午後の散歩。それはクラシックなフォクトレンダーのビテッサTに35mmの広角レンズを付けてなされたものだが、そのラストの画像がこれである。これはコダックのカラーネガをスキャンしたのをトーンカーブをちょっとじくってある。もともとの画像は全体がコントラストが低く、シャドーのしまりも甘いのであるが、こうなると、フィルムで撮影してそれをスキャンした画像はなかなかに可能性があると思う。

今度出す、ウイーンのライカ写真集(えい出版社)でもそのメーンはカラーネガによる撮影である。

このような古い作業場というのはもうウイーンでも見ることが出来ない。ウイーンんがいかにアルテ・ウイーンであっても、経済の範疇から脱出することは不可能だ。それで最近のウイーンのファサードが西側経済圏とまったく同様な実につまらないものになっている。言い換えればウイーンも北京も東京もニューヨークもその都会の風景な攪拌されてなんとも記憶にとどまらない無個性化に突き進んでいるのだ。

この愛らしい作業場は実は高架線の下の忘れられた建物なのだ。これはやはり国を隔てていても共通性がある。昔の京成線の町屋の先の高架線下と共通項があるのが嬉しい。それにこの朽ち果てて風化した木製の羽目板などは、昭和20年代の我が家で営業していた、スプリング万年筆株式会社の小工場との記憶とも重なってくる。確か、絞りはf3,4の解放でシャッターは1/125ほどだった。

2011年3月 2日 (水)

記憶の中のネオン

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これもフォクトレンダーのビテッサTを持っての、日曜の夕刻の散歩のショットである。

ウイーンのフォルクスオパーは民衆歌劇場と言われるのは、中心部の国立歌劇場に比較しての言い方であろうが、この建物はオットー・ワグナーが都市計画したシュッタットバーン(今のU6線)のフォルクスオパー駅のすぐ向かいにある。この高架鉄道はそこに20世紀初頭の都会の夢がたゆとうているのが好きであった。それが華麗というのではない。なにか裏寂れた華やかさなのである。

高架線と直角に交差してウイーンの北西の郊外に延びる路面電車の左右には「小市民的な町並み」が並んでいる。安手の「高級宝飾店」とか間口一間の「ボンボン屋」があったりする。

知り合いのウイーン人が趣味が高じてこの通りの一本北側に古道具屋を開いたのも30年ほど前であって、ウイーンにしげく通っていた当時にはそこに顔を出して「顔つなぎ」に古いロレックスを買ったりしたものだった。彼は数年前にすでに年金生活に入って音沙汰がなかったが、一昨年だったか、いきなり思い出したように、あたしにメールを寄越した。どうしてあたしのメアドが分かったのかは不明だが、多分、ウイーンのライカショップのペーターあたりに聞いたのであろう。

このネオンはあたしの70年代に物思いつつ歩行したこの通りの記憶のポイントであった。まだ点灯していない時間帯であるが、PETERの文字がブルーで、その下の矢印が黄色のネオンだった。

これが何の為の広告ネオンであるのか?それが未だに分からないのだ。

2011年3月 1日 (火)

偽ライカ愛好会2/27リビア奪還反戦デー

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偽ライカ愛好会は昨年の秋からスタートして、今回が4回目である。1月の第三回はウイーンに抑留されていたので参加できなかった。
今回は「偽ライカ愛好会2/27 反戦デー」というのである。
いや、あたしが勝手に付けた名前であるが、ベトナム戦争時代からそういう反戦デモはあった。だからリビアに平和を国際デーでもよろしい。
外電によればトリポリでは5人以上の集団は無差別にスナイパーが発砲するそうである。しかし極東の上野はリビア政府の管轄が及ばない地域であると判断して、行軍した。
14:00に上野公園口に集結して、パンダ宮殿の前まで行軍し、東照宮に参詣する。そこから不忍池に降りて水上鳥類の合戦を観て、湯島天神に参詣。
カダフィ側の傭兵が、ワンカップ大関を持って「男坂」を検問(日本語ではよっぱらいのからみと読む)していたので、我々は陽動作戦にて、「女坂」を登坂した。
再度、アメ横に戻ってそこで1時間ほどの自由演習となったので、あたしは昭和通りを横断して多喜屋のラベンダービルの裏手方面に斥候隊として、敵側の情報を探る。

アメ横はあれだけの混雑なのに、それ以外の場所は無人であった。
女子が街角でなにかしているのが、奇態だと思ってよく観たら、デジカメでお店の商品を撮影している、アルバイトさんのようであった。こういう格好はデジカメ以前にはよっぱらいが下呂を吐く時のポーズである。

その先の公園では、おばあさんが東洋の日没の瞑想をしている。やはりアメ横が異常なのであって、こっちが正常であることを確認して、あたしもベンチに座って先週東京メトロの中で拾った能率手帳に、あたしのスケジュールを引き続き書き込んだ。この手帳の持ち主は1月には出張でUAに乗って、オーランドまで往復していた。
ところでカメラはM8-2である。例のごとく、BMW野々宮商会のレンタカメラであるが、ボデイキャップの在庫がないのか、ソ連製のオリオン28MM F6を付けてきた。
このレンズで撮影したら70年代の愛用レンズなので当時の写真感覚が一挙によみがえったのもおかしかった。
ただし、当時はフィルムで今はデジタルである。感度が高いのでこういう夕暮れでも平気で撮影できる。

以下は図マール大島隊員による、記念撮影。これを撮影したたむらっくの三脚がえらく気に入った。こういう壁を観ると、あたしなどはベルリンの壁を思い出して、そぞろに懐かしい。

この後、参謀会議(飲み会と読む)にて、ライカ新兵の酒井ゴスペラーズを入隊許可した。いや、酒井さんが入隊するか否かは本人の意志による。なにしろ、当、旅団は「新兵いじめ」が激しいので有名。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
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