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2011年2月28日 (月)

ウイーン中央墓地にて

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映画アマデウスで、サンクトマルクス墓地の共同墓地にモーツアルトの遺体が投げ込まれてそこに墓堀妊婦(ATOKは人夫がない!)が石灰をかけるシーンが好きだった。これには東洋の生者必滅が見えている。

それでは困るので、サンクトマルクス墓地の通路にあわてて当局がアマデウスの墓石だけを建てたのもかなりの昔だ。

3世紀前まではこのウイーン南部のサンクトマルクスがウイーン市の南限だった。巨大都市ウイーンだから死人も増える。それで後年、ずっと離れた南に中央墓地を造った。これはかなりの広さであって、この1月に展墓をしたのだが、道に迷って遭難するかと思われた。誰もいないので烏に道を聞くしかないが、烏言葉が分からない。

中央墓地は電車の71番にそって北から南にそれぞれ第一門から第四門までのエントランスがある。中に市バス(Dr Richard)が走っているほどのサイズだ。

メーンの墓地はその第二門であって北の果ての第一門はユダヤ人墓地だ。プラハではユダヤ人墓地はキリスト教墓地と一緒のことはなく、独立しているが、ウイーンは混在(と言っても境界はある)している。

その北のユダヤ人墓地とその南の境界線のあたりの切支丹墓地の区画はようやく満杯になりつつある。今回、一番に目立ったのはこの墓石だ。スラブ系の言語なのであたしには意味は分からない。

左の女性は生前墓である。下に右の男性とおぼしき人がメルセデスの高級車の前に立っているのが奇態だ。

メルセデスの前に立つことが人生の成功の象徴と考えるような連中なのであろうか。これは天国の門はちょっと開きそうにないな。

世界中の墓地を見てきたが、実に面白い。人間が死を表象化している各種パターンがそこに見える。その意味で墓地はもっとも民族学的だ。

天国のメルセデスに比較して、ユダヤ人墓地のユダヤの大金持ちの墓も嫌いだ。気持ちがいいのは、こういうダビデの星だけを刻印した墓石である。

この界隈は荒れ果てている。巨大な墓石のそこだけ真新しい文字が刻まれていて、それを接近して見るに「1945アウシュビッツにて死去」などとある。

この墓展には、KE7-Aにズマレックス85mmで撮影した。カラーネガをスキャンした画像のガンマを調整してある。こうなるとフィルムライカもほとんど無敵である。レンズは開放絞り。なかなかいいな。

2011年2月27日 (日)

ウイーンの路上スナップ

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1月から2月にかけてウイーンで撮影したカラーネガ45本があがってきた。今、それをはしから見ているところだ。これは今度、写真集にするのであるが、実に6年ぶりにウイーンを撮影したのでなかなかの手応えがあった。

今回のウイーン行きの新基軸は全編がイーストマンカラーならぬ、コダックのカラーネガで撮影されていることだ。そういう撮影は今まで自分のものではないと思っていたのがこの5年ほどでもっぱらカラーネガで撮影するようになったのは、暗室を廃して「明室」にしたせいだ。

無論、暗室は土浦の酒井写真研究所にあってそれは何時でも使えるようになっているのであるが、モノクロフィルムで撮影するというのは、かなり日常から浮上した特別な時間という認識になったのである。それでまず普通の記録にはデジカメで、ライカでちょっと真面目に撮影しようという場合には、カラーネガで、モノクロで気合いを入れて撮影しようという時にはじめてモノクロのトライxにフォコマート引き伸ばし機となる。

これは2011年現在の過渡的な段階であって、今後それがどうなるのかは分からないが、とりあえずはそういう映像システムで目下進行しているのである。

今回のウイーンでのライカ撮影だが、現像は品川区にある、フラッシュというラボに依頼した。ここはNORITUの機械を使っているが、デジタルスキャンのトーンがゆるいので便利である。それをちょっとだけ加工して上の画像のようにする。ライカにフィルムで撮影してそれをモノクロにプリントしたいた当時より、トーンカーブが自由になるので好都合だ。

カメラは「KE7Aではないライカ」に上の画像ではクラシックなズマレックス85MM F15を付けている。絞り開放。電車の中からの撮影だ。

下の画像はライカMDにビゾフレックス2を付けてエルマー65MMである。人物を大きく配したスナップ撮影に好適、、、などと書くと戦前のライカのレンズ広告のようだが、ウイーンの路上スナップがリアルに撮影できた。

2011年2月26日 (土)

ワイン屋の看板

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ウイーン・タールというのは、ウイーンの谷というような意味であるが、もともと高低差のあまりない街並みであるから、谷と言っても大したことはない。

極東の東都のお茶の水あたりは明治の頃から小林清親あたりの版画にも描かれているが、ここは大変な高度差があってまさに水墨画の高度感覚がある。

それに比較すればウイーンの谷などは大したことはない。それに対して有名なのはウイーンの森の方である。

通常にウイーンの谷と呼ばれる地域は、ウイーン川のコンクリートで固められた護岸が東西に長く続いて、そのラインの上をウイーンのメトロが定期的に駅を刻んでいるあたりのことを指すのであろう。

その南側に配置された長い通りはわれわれウイーン人にはなかなか趣のある通りであった。言い換えれば、リング通りなどは初歩的なツーリスト向けの通りであるのに対して、ウイーンの谷に並行する通りには詩情がある、と思っていた。

その夢が幾ばくか現実に引き戻されたのが今回の6年ぶりのウイーンツアーであった。この店などはその典型的な「がっかりした変貌」の代表である。

もともとクラシックなワイン酒場であってそのファサードはほとんど真っ黒に二里潰されていた店で入ると左手に立派なカウンターがあった。店の正面の上にはちょっと、ミュージアムあたりのスチルライフにありそうな、葡萄の果実の絵が掲げられていたのである。

これは昔のウイーンのワイン酒場の典型のデザインであった。

こんど気になってその店の様子を見に行ったら、くだんの葡萄の実の絵は正面に一個あるのみにてすべて撤去され、しかもファサードはオレンジ色になっていたのでかなり驚いた。

こういうちぐはぐな感じになってしまうと、あたしのような「店舗の印象で入る飲み屋を変える」ような人間にはかなり興味が落ちてしまう。

この店に限らず、ウイーンは目下「オレンジ色」が人気のカラーのようで、そこここにオレンジ色の店を見た。それらはことごとく失敗しているようにあたしには見えたのである。

2011年2月25日 (金)

佃から徒歩通勤

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単なる思いつきで、朝、徒歩でヒルズに行った。築地の旧居留地がこんなに綺麗に見えたのは初めてだが、やはり「ルミエール」が良かったのだと思う。

銀座の昭和通りと三原橋の角で自由業めいた服装の男女が100名ほど列をなしている。マンハッタンで良く見た、フリーの服装の男女というのは、ウエルフェアの列に並ぶ人たちである。ところがこれがパチンコの新規開店の列の並ぶ人であることに一驚を喫した。

銀座四丁目から数寄屋橋に歩いて右側にGAPが新規開店という巨大広告がある。これも初めて見たが、ようするにそれほど銀座に行っていないのだ。銀座の現像所が閉まってから、銀座はまったく行かないなった。昨年までは福田和也さんの写真の月例会が7丁目のおでんやであったので、月一は縁があったがそれもご無沙汰だ。

日比谷公園は綺麗になっていたのに感心した。ここに踏み込むのも20年ぶりか。要するに樹木が生長してそれなりの趣になっているのである。

ホームレスの人がぎんなんを袋に詰めて売っている。ここのぎんなんであろうから買おうかと思ったが、数年前に岡山の十問選銀水のくれたぎんなんもまだ消化していないので止めにした。

霞ヶ関から溜池まで出れば、あとはヒルズまで一本道である。ただ高速道路下の陰気で騒音の激しい通りはパスして、その一本西側の小路を歩く。ここにはまだ昔の東京がちょっとだけど残っている。

調子がついて、帰路も同じ道を歩いて戻った。それで約18キロほど。ただしこれをしていると、ヒルズにいる時間が5時間ほどになってしまい仕事がはかどらない。

しかし精神的には非常によろしい。

2011年2月24日 (木)

ウイーン空港のクラシックラウンジ

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空港のラウンジというのは大事だ。あたしの場合、意地汚いのでそこで酒を飲むのが主目的であるが、それでは申し訳ないので仕事もする。

思うに今まで一番、寂しかったラウンジはシャルルドゴールの1ターミナルのJALのファーストラウンジであって、すでに10数年前であるが、なにが寂しいと言うと、パリ、倫敦、ニューヨーク、そして東京のそれぞれの時間の時計が掲げてあることだ。

やはり某カメラメーカーの工場に同じように世界の異なる時間帯の時計がかかげてあったが、あれがそのうちにはかっこいい感覚になるのであろうが、今、あれを見ているとまさに時代遅れの感がある。それで寂しくなる。

サンクトペテルブルグの安ホテルもやはり世界の時計が並んでいた。なにか田舎のスーパーの時計売り場の感がある。

ここのウイーン空港のラウンジもそれに負けず劣らず寂しい感があるが、その理由はすでに20年は経過しているのでまず蛍光灯の照明がいけない。東欧時代の警察みたいである。しかし20年前にここを使用していた時には別に時代遅れという印象はなかったのだから、人間の感覚とは不思議なものだ。

このラウンジが自分にとって忘れられないのは、その十数年前にルフトハンザでウイーンからミュンヘン経由でリスボンに行ったのであるが、そのチエックインの時、ボーデイングパスは受け取ったが、係のミスでまだ使用していない、のこりのチケットの綴りをあたしによこさなかったのである。それがここのラウンジに来てから気が付いた。

今ならチケットレスだからこういうことはない。それでリスボン空港でその失ったチケットを再発行させたりした。

今回、そのウイーンのラウンジに休息して見れば、ソファが破れたりしている。そういうのはまったく気にならないのだけど、どやどやと空港の関係者と施工業者とおぼしき面々が入ってきたのには吃驚した。近日にここは改装されるようである。

このソファの破れで思い出すのは、かつてコックピットに立ち入りが可能だった時代には、あたしはスロットルレバー周囲のグレーのペイントが手ずれで地金が出ているのを見るのが好きだったことだ。ちょうどライカのグレーのペイントが真鍮の地が出るような美的感覚がそこに存在した。

もっともこのラウンジの手前にはモダンな最近風のラウンジがあって、普通の客はそっちに入っている。あたしと家人ともう一人、このビジネスマンの3人だけがここの客なのである。その理由だが、初めてこのラウンジを見た人はまさかここがラウンジだと思わずにスタッフの休憩室かなんかだと思って入ってこないのである。

空港のラウンジでそこに備え付けのお酒のことは良く記憶している。チューリッヒのラウンジなどいかにも瑞西のしみったれ精神がそこに具現化されている。ただしラウンジのバーはそれなら豪華なら良いのかと言われればそれも逆であって、キャセイの香港のラウンジのバーなどは豪華過ぎて逆に品格を失っている。

モスクワのターミナルDのアルメニアとアゼルバイジャンのコニャックはなかなか飲める。ニューデリーのラウンジでまずビール飲んで、水割り飲んで、それで落ち着いてこれから本格的に飲もうと思ってカウンターに行ったら、立派なバーテンダーさんが「あんたはもう十分に飲んだから、あとはオレンジジュースにしなさい!」と叱られた。世界中のバーで飲酒を停められたのはここが初めてであった。

時代が下って、パリシャルルドゴールのスタアラのFのラウンジで仕事していたら、いきなり兵士が来て、今、爆弾がしかけられているとういう情報が入ったのですぐに避難してくれという。仕事をデスク一面に広げていたのので兵士が片付けを手伝ってくれた。手元のある赤ワインのうまいのを見捨てるのが惜しく、ちょっと待てと言って立ち飲みした。それで時間が間に合わなくてそこで、テロリストの爆弾が破裂したら百年目である。

カイロの空港のラウンジはあそこは外国だから酒が飲めるであろうと、期待して行ったらアルコールは一切置いてない。その代わりにそれぞれのゲストのテーブルの上にはテイッシュの箱がおいてある。そういう国なのだから仕方ない。それでそのテイッシュで何度も鼻をかむ真似をしてみた。なにしろ「間が持てない」のである。

2011年2月23日 (水)

STANDARD紙

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70年代のウイーンのカフェだと、それは事実、コーヒーを飲む場というより、実は新聞の読み場であった。新聞は藤製のでっかい団扇みたいなのに綴じてあるので、片手で新聞が持てるのである。あれは実に大発明だが日本では見たことがない。ちょうど、お母さんが布団を干して、ペンペンと叩く蠅叩きのようなのがあるが、あれが新聞紙大になったやつだ。

カフェが新聞の読み場というのは、かと言ってその意味は、そこらにある新聞を全部読み散らすというのではない。そういうのは我々のような外国人のしわざであって、ちゃんとしたウイーン人は自分の新聞以外は読まない。

自分の新聞とは、言うまでもなく自分でスタンドで買った新聞ではない。自分が主義主張で選ぶ新聞のことである。

まず地方新聞だとそれぞれの地方紙の役割があるのだが、全国紙ならDIE PRESSEの愛読者はまずARBEITER ZEITNGは読まない。KURIEとKRONENは読む人間は共通しているであろうが、新聞はそれぞれの階級を示すバロメータだ。

そこにSTANDARD紙が登場したのは70年代だったか、80年代であったかそれは忘れたけどこのフィナンシャルタイムスみたいな茶色の紙の新聞が出た当時はこれが若い中道リベラル人間向けという感じがあってなにかフレッシュであった。

その時の印象をあたしなどはいまだに引きずっているので、メトロの中でこういう人がSTANDARD紙を見ていると、そういう方面の人かと思ってしまう。

70年代の半ばにウイーンで低予算の活劇映画を撮影した時、スランシツカナ広場の前にある小さい喫茶店、その名もKLEINES CAFEでロケをした。客の殺し屋が顔を覆っているのが、フィナンシャルタイムスの茶色の新聞なのである。今ならそれがDIE STANDARDで代用できるかも知れない。ただし殺し屋が顔を隠すのはやはり大きな新聞紙でないと駄目だ。ウイーンの新聞はほとんどがタブロイド紙なのである。

2011年2月22日 (火)

漱石山房の失望

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先週、漱石山房を見に行って実にびっくりした。自分には一種のイタリアの廃園趣味というほどのものではないが、公園というのは「適度に荒れて」いるのを評価する者である。その意味で新宿の漱石公園などは実に良い感じだった。
しばらく前の新聞でその公園が整備されたという記事を読んだのはすっかり忘れていたのである。
先週だったか、世界の果てというのは、実は新宿区原町にあることを確認し
そのバリアをえいや!っと超えてさらに北に進んだら、おや、これは漱石山房に向かう道ではないかと気がついたのである。
ところがその場所に行ったら、なにかフラットな子供の遊び場のようになっていたので驚いたのである。かつての漱石公園のよすがは、メーンのエントランスの銅像だけになって(もともとこの銅像は嫌い)しまい、L字型のかつては医者の持ち物であった広大な庭園のよすがとも感じられる、庭石などが残っていてそこに座ったりも出来たのだけど、それらは一掃されて、ただの空き地になっている。
そして新宿区教育委員会の無味乾燥な立て札と、その背後には太陽自家発電の時計が立っているのである。

なにか資料館のようなプレハブがあるが、あまりにがっかりしたので中に入る気もしなかった。

もともと漱石関係のここらの場所は明治時代はいかに不便であったかが想像できる地域で、漱石自身の回想でも、芝居見物の時には暗いうちから提灯で近くの神田川から船を仕立てて江戸に向かったのである。

歴史のある公園を予算があるというので、全部同じな顔をした「無味無臭の空間」にしてしまうのは実に怖いことだ。

★おわび。一部のブラウザーでは画像が転倒している場合があります。

2011年2月21日 (月)

シカゴの石元さんのミノルタ

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この間、荒木町の我楽多屋さんに行ってふと見たら、二代目さんがこのSRのブラックを磨いているのである。
カメラ屋さんがカメラを磨くのはこれはご商売の範疇であるから別段珍しくもないが、その磨かれつつあるクロスの中のブラックのミノルタがいかにも好ましく見えたので早速ゆずってもらった。

この呼吸というものはなにか古美術店の店主と客の掛け合いのようなものでなかなかにスリルがある。しかも福田和也さんによれば古美術に通う客は一財産を潰して始めて正客となれるようなのだが、クラシックカメラの場合、その単価は安いので安心である。

さて数日後にこの美麗なSR7を手にして思ったのは、50年代後半にシカゴを撮影していた石元泰博さんのことだった。まだ本格的に日本に帰化される前のこれはアサヒカメラかなにかで書かれたご自身のコラムなのである。

その中で石元さんは最近のシカゴでの自分の仕事とかハリー・キャラハンさんのことなどを書いた後に「僕はミノルタSR1を肩にしてシカゴの街をどこまでも歩いて行った」とあった。この一行に痺れたのである。当時、まだSR7は出ていなかったわけだが、この石元さんのミノルタSR1はこれは間違いなくブラック仕上げであったのではあるまいか。

なぜなら後年、ずっと時代がくだってあたしが「季刊クラシックカメラ」の責任編集長の職にあった当時、企画で石元さんから拝借したライカM2はやはりブラックペイントであったからだ。

ミノルタSRのシャッター音はけっこう大きい。そのシャッター音がシカゴのストリートに響くのはなにか洒落ていると思った。

2011年2月20日 (日)

極楽荘

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プラハやウイーンに居る時に何時も想像する極東の大都会の風景は南千住とか北千住それに赤羽界隈である。

ああいうシュールな街というのは欧州ではちょっと作ることが出来ない。都市計画などの重力の限外で、見えざる混沌の風景を司る神がそういう極東の風景を見えざる手で創造しているのだ。

三ノ輪橋の都電の終点界隈というのは、最近は地方から来る人の観光のスポットになっているようで、JTBの旗をもったおばさんが「はい!皆さん、お揃いですか?」などと都電を降りてきた中年の数人の男女を整列させたりしている。係りの人は電車には乗らずに、三ノ輪橋で下車してお客を拾って、それから死の行軍をさせたり下町の食いもん屋に送り込むという段取りのようである。

電停からちょっと南に下がった左手にかなりの空き地がある。なにしろ建て込んだ街並みがこのあたりの魅力のひとつでもあるわけだが、それがいきなり空き地になるので重力の磁場が変化しているような感じ、あるいはそこが前衛劇の舞台面のようにも見えるのが妙である。

その空き地の先に建っている二階建てのボロアパートの扁額は「極楽荘」と読める。この名称に参ってしまった。こういう処に棲んでみたい。2週間でいい。ここから山谷の大林に通ってその行き帰りにそこらの銭湯というのは理想な暮らしだと思う。

さらに注意すると、空き地の右手に稲荷のあかい鳥居が重なっている。その鳥居は空き地の方が参道になっていて、社は通行人で雑踏する小路には背を向けているのである。普通の参拝者なんて相手にしてません、との意志表示があってこれも感じよい。「伊勢屋稲荷と犬の糞」というが商家などでは敷地の中に稲荷をまつってそれが一般の通行人向けの稲荷ではないのだから、このパブリックに背中を向ける稲荷はトラッドである、という見方もなりたつ。この門の閉じることなし。では駄目なのだ。

しかも二枚目のような、不心得者へのワーニングがちゃんと表示されている。これはかなり怖い。何が怖いかと言うと、赤いラッカーのはげているのが怖いのだ。東京の周辺部を何万時間も徘徊しているあたしに言わせると、怖いのは赤ペンキの褪せた看板である。その理由は不明ながら、深層心理で鬱屈したものがあるのだと思う。根岸の中村不折のミュージアムには中国から持ってきた石仏が並んでいる。その中にやはりワーニングの札があった。この警告は上の極楽荘稲荷とは逆の表現である。すなわち「触っても御利益はありません」というのである。これも含蓄のある言い方だ。

極楽荘の先にある「支え合って建っている建物」はもう存在しないと思っていたら、今回まだ健在だった。しかもちゃんと塗装が新しくなっている。

これも立派な文化財だ。まず日本のマニエリズム建築と言って間違いはなかろう。

2011年2月19日 (土)

真面目なキヤノン

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先月は写真集の制作の為に、ライカを使ってウイーンでずっと撮影して東京に戻って、さて大ガラスの部屋のカメラのラビリンスを見渡して、眼に入ったのがキヤノン7系統だ。
ブラックの7の話は他日に譲るとして、二台並んでいた7sの存在になにやらしびれたのは何故であろう。
このカメラは国産のRF機が現役であった最後のモデルである。キヤノンはレンジファインダーに固執していて、ニコンFに遅れをとったのだ、などと良く書かれているが逆に見れば最後までレンジファインダーの孤塁を守ったのは立派なものだと思う。これはカメラの本道を行っている。

レンズは35mm f1,5(これはズミルックスと競合する名玉)に、伝説のキヤノン50mm f0,95である。最近、この玉が再発見されてもっぱらMマウントに改造されたりしているが、あたしはあれは好かん。
その理由はこの玉をライカに付けるとまったく「似合わない」のである。ライカにはのくちがあるのだからそちら方面に任せておけが良い。

わざわざ、キヤノンが苦労してこういうでっかい玉を外爪のバヨネットにしたその意気を買ってあげるべきであろう。

ところで0,95はもっぱら美麗な個体が人気であるが、あたしのレンズが自慢なのはこれは有名新聞社でもっぱら航空機からの夜間撮影用に使われたレンズという歴史があるからだ。
まだデジカメの登場前にはもっぱらフィルムで撮影していたのである。

しかも夜間のセスナの撮影などでは三脚を立てるのは無論不可能だからできるだけ明るいレンズの使用がマストであった。
世間で数多くの0,95の個体を見てきたが、これほどにバレルが擦れているのは見たこともない。レンズもセスナの狭い機内で転がったらしく、前玉にも傷がついている。それがそれでまた実に良い感じだ。
この当時のキヤノンはなにか商売が下手で真面目という感じだった。

今の大繁盛はまことに結構であるが、個性という点からすると昔のキヤノンは良い顔をしている。

2011年2月18日 (金)

ネカととんかつと手ぶくろ

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水曜の東京大周遊の成果がこれである。東京大周遊って東京大空襲にも似ていると思うのは、内田百閒の「東京焼尽」の読み過ぎである。

この日はまず早朝の6時からヒルズで仕事。夢のような快晴なので仕事をほっぽり投げて東京大周遊。日本路地裏学会新宿区原町調査団。

この日は700円の都営の一日乗車券をわざと買う。これでヒルズから日ノ出町の「名も無きコロッケ屋」に都営だけでどのようにゆけかと考える。一種の一筆書きのゲームだけど、これはかなり難問だ。

大江戸線の牛込柳町から北に原町を歩行していたら「この先、道がないので普通車は通行できません」の警告あり。それを無視して歩行してたら、本当に道がなくなって、歩行者ですら歩行できなくなった。思いあまって、家と家の隙間を抜けてさらに前進したら、別の道に出られた。まるでネカ(猫j)である。
今まで明らかにされていなかったが、世界の果ては新宿区の原町の北側にあるわけだ。

馬鹿田大学の大熊講堂前を抜けて、中川右介の棲んでいた伊東ビルの前を通り、都電に乗って、日ノ出町で降りる。
コロッケ買って、護国寺の裏の墓地のコンドル先生の墓に詣でてから本堂の前に出たら、ネカ(猫)がひなたぼっこして、脇に手袋が置いてある。これはネカの所有になる手袋を干しているのだ。(図参照)

そのネカ呼んだら、寄ってきた。ネカ好きであることが分かるらしい。
さっき「名も無きコロッケ屋」でかった、200円のとんかつのスタイルがネカと相似形であることを発見した。これはマニエリスムだな。いやマンエリスムではないぞ。
ピタゴラスも知らなかったこれは真理である。

あ。と気がついて、ネカの背中にヒルズのカードキーを当てたらそこは予想通りに自動ドアであって、中に入ったらいきなりヒルズのオフィスに戻っていた。
これは便利だ。そのまま午後の仕事継続。

★お詫び ブラウザーによって画像が横倒しになっている場合があります。

2011年2月17日 (木)

ライカ1200番代付きライカモーターの剥げたのに痺れる

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このライカモーターは何時からうちにあるのか分からない。
凄い真鍮の剥がれ方だ。戦後のライカ3cなどで、クロームの仕上げが点状に剥離しているのは、戦争直後のクローム仕上げが悪かったとの定説だが、これは第三帝国が一番パワーのあった時代のクローム仕上げだから、そう簡単には剥離しない。

それがこれほどに剥離しているのはそれだけこのモーターが酷使されていたことの証拠であろうか。
だから数年前にそのゼンマイが切れたのである。70年代にウイーンのライカ人類でライカの修理は全部自分でするのでライツオーストリアの敵の渾名のあった、ウイーン人は「チョートクさん、ライカモーターは絶対にばらしては駄目。中に強力なゼンマイが2個入っているが、それをばらしたら元に戻すのは絶対に無理」と警告された。

あたしの知る限り、アマチュアライカ修理人でただ一人これを修理できるのは、新宿三丁目在住の岸本マーシー名人のあるばかりである。
それで岸本名人に切れたライカモーターの修理を依頼したら、ちゃんと修理が上がってきたので吃驚した。さらに岸本名人がいうには「あ、当時のライツの技術は全然駄目。だってスプリングの端っこの固定の仕方が実にいい加減」だと。

やはり名人はオスカーバルナックと言えども批判の対象になるのは凄い。

このライカモーターには製造番号が1200番台のごく初期のライカをライツが3aに改造した本体を付けている。そう、ライカにモーターが付いているのではなく、その逆なのである。
思えば、1982年のマンハッタン滞在では8x10がメーンだったが、サブとしてライカD3にズマール50mmとヘクトール135mmで五番街を撮影したりしていたのだ。
だから3月の「ロバート・フランクへのセンチメンタルな旅」でマンハッタンに行く時のライカの選択肢はここまで範囲を拡げても良いことじなる。

そう、ライカ選びは出発するまでの紆余曲折が楽しみなのだ。
名著「南方録」では利休のお茶のお道具建てが延々と記載されている。まずあれに近い遊びと言える。

この付いているレンズは木村伊兵衛の懐刀と異名をとる、ニッコール85mm f1,5である。伊兵衛さんがなぜこのレンズを「懐刀」と呼んだのかその背景は知らないが、当時、木村先生はニッコールクラブの会長であった。八点五センチの鏡玉は通常はf2のゾナーのコピーたるニッコールがあった。これが三木淳さんがダンカン氏に見せたニッコール神話である。それよりも1段も明るいレンズなのだから、当時の感度10のカラーフィルムとか感度50の白黒フィルムにはさぞかし強力な助けになるレンズであったのだろう。

この鏡玉はニコンSマウントは見かけるが、ライカマウントは数が少ないようだ。

2011年2月16日 (水)

空筒日記

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空筒(スカイツリー)の存在に始めて気がついたのは一昨年の七月のことだ。
それまでライカインコばかり見ていた視点が一挙に無限遠まで拡散されたのである。
以来、その生長をまるであさがお日記のような感じで楽しんでいた。ようするに東京とプラハとの頻繁な往復で東京に戻って来た時にどれだけ伸びたのかが楽しみなわけである。
タワーというものがいったん完成してしまえば後は100年がそこに存在するものであるから、その建設途中の姿を見ることが出来るのはなかなか貴重な時間軸上の体験なのである。
エッフェル塔の建築中の様子を見た当時のパリジャンの気分がなんとなく分かる。

ところでウイーンにもテレビ塔はあるけど、それはドナウ河を渡ったはるか先に存在するのであって、日常に見える範囲にはない。それで日常に見えるタワーというのは聖シュファン寺院の尖塔なのである。かつてカトリックが専制国家の象徴であった時代の名残であるが、今のわれわれはカトリックの尖塔を見ても、別段そこに専制主義を感じることはない。
寧ろそこに感じるのは、文化的な興味である。

前々号の新潮の連載「屋根裏プラハ」で「大寒波生活」というのを書いた。

その中でテレビ塔というのはそれが東ベルリンであれ、平壌であれ、なにか専制国家の圧迫のストレスをそこに感じると書いたらゲラが校閲部から戻って来た時、「平壌のは記念塔でテレビ塔ではありません」とあった。
ああ、なるほどさすが校閲部だなあと尊敬した。

思えば、あたしもこの建設中の空筒はTV塔とは思っていない。あたしはTVは見ないので、自分はこれをもっぱら「ライカインコメモリアルタワー」と認識している。
その事は昨年10月に出た「カメラは詩的な遊びなのだ」(アスキー新書)にも詳しく書いてある。
空筒(スカイツリー)のシリーズは完成時に合わせて出版と写真展をやるつもりだ。

撮影はペンデジタル2に高倍率ズーム。これが空筒専用機材。ただしレンズは1000mmまで用意している。

2011年2月15日 (火)

1990年代写真集「ウイーンライカ日記」のデッサン帳

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十数年前に「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社)を出した。これは自分の出した少なくはない写真集の中では好きな方である。
最近ではデザインとか編集は専門家にまかせているが、この本があたしが全体の構成にまでこだわった本である。
この写真集は今でもアマゾンで買える(ということはあまり売れなかったのである)けど、ここにあるのはそのデザインをした元のノートである。

通常だときちんと版下用のプリントを貼り込んだものを、マケットという。かのユージン・スミスですら、長年の腹案の写真集「ピッツバーグ」を丹念にマケットにして大事にしていた。その写真集はスミスの生前には実現しなかった。

MoMAでロバート・フランクの[Black and White Things]〔確かそんなタイトルであった)を見たけどそれもマケットであって、この手作りの本はジョエル・マイエロビッツがMoMAに委託していたのである。それでこのマケットを見る機会を得た。これは1980年代の話しだが、アメリカはそのように「公共の宝」とも言える写真の文化財をパブリックに見せて(無論、MoMAのビューイングでの話しだが)くれるのは偉いと思う。

フランクのマケットで最大のユニークなやつは、フランクがアレクセイ・ブロドビッチに送った「卒業アルバム」である。これも一点限りの「稀覯本」だが予想に反して頁に貼った写真の糊が変色していたりした。そこにまた古美術としての妙があったのだ。

さて、この「ウイーンとライカの日々」のスケッチブックを取り出したのは、訳がある。この写真集とその後に出した500頁の写真集「ウイーンモノクローム70s」の続編を今度はえい出版から出すのである。それで参考の為に資料として見ているのである。

Photo_3 この前、土浦の酒井写真研究室に行った。三年ぶりであった。3年前には坂崎幸之助さんとフォコマートの運搬をして、坂崎さんの暗室作業を手伝ったのである。その後、酒井所長は体調を崩されたが今回、復帰されたので彼のギャラリーで「ロバートフランクの貴重な資料」を沢山見せてもらった。

そこで一泊して翌日、えい出版の清水編集長と今度の写真集の打ち合わせをして、これはウイーンだけではなく、3月のニューヨークで撮影したのも加えたら良いであろうと言う編集方針になった。

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あたしなどライカに痺れるのは、フランクの不朽の名作「アメリカ人」でフランクがライカM3に旧東ドイツ製のビオゴン三十五ミリを着けていたことに因っている。ジャック・ケラワックが「ロバートフランク、、、ビオゴンをライカに着けた男よ、、、」と彼の詩で謳っている。ケラワックはライカスペシャリストではないけど、ビオゴンとくればカールツアイスイエナのビオゴン三十五ミリというわけだ。以前、この事実を何かに書いたらあたしの真面目な読者さんがビオゴン三十五ミリを早速買ったというので見せてくれた。それは信州中野製のやつであったが、その勘違いはそれで結構である。今のツアイスの方がフランク時代のそれより良く写るのは当然だ。
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紙の写真集が今のようなオンライン写真集の全盛の時代にやはりコレクションされて人気があるのは、それは手に持つことができるということ。もうひとつは赤ワインをぶっかけたらダメージを受けるし、火災にあったら焼失するという点だ、
「美のはかなさ」の不安定な土台に紙の本は立っている。
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2011年2月14日 (月)

ローライフレックス指向とhttp://jpads.org/

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今回、6年ぶりにマンハッタンに行くのは、ローライフレックスを人に預けてあるのをピックアップに行くのだ。
数年前にebayで買った、プリズム付きのテレローライである。アメリカにはまだ「へそ曲がりなセラー」が居るのであって「アメリカ以外には絶対に発送しない」というのである。
それで知り合いのマンハッタンのアーチストの元に送ってもらった。
本来ならそれを極東に送ってもらえば良いのだけど、それでは「マンハッタンに行く理由」が出来ないから、ちゃんと非行機に乗ってピックアップに行くのだ。

昨日だったか、銀座のレモンに欲望の方向を探査に行った。あたしはズマロンの28mmを見せてもらったが、あたしの緩い基準でもあまりにレンズが曇っているのでそれは見合わせた。
隣のカウンターのカメラ人類さんはワイドローライを手にとって店員さんと話しをしている。カメラ人類は自分のカメラを見ながらそういう、隣のカウンターの人の動向までなんとなく関知しているものだ。

そのカメラ人類さんもくだんのワイドローライを棚に返却して、一歩先にレモンを出たのであるが、8階のエレベータをドアを開けてあたしを待っていてくれた。それでそのカメラ人類さんが首からぶら下げている、ライカM5の話しになった。最初はレンズはコシナのF1,1の玉かな、と思ったのはあたしの乱視のせいで、なんとそれはノクチのf1,2なのである。この2本のレンズはその外見が似ているので紛らわしい。

いつまでもエレベータの中に居るわけにも行かないので、銀座教会の通路でさっきカメラ人類さんが見ていたワイドローライの話しになった。
あたしはもう四半世紀もワイドローライを使っているが、ラフな仕事にはハッセルよりも速く撮れるとか、フィルム交換が迅速だとか、古いデイスタゴン55mmはその発色がやにっぽくなるが、それが本当のツアイスの味ではないか、などと立ち話を15分。

そのカメラ人類さんと名刺交換。

なんでも、2月24日から27日まで広尾でTHE JPADS PHOTOGRAPHY SHOW 2011というイベントを開催するそうでその案内ももらった。昨年の10月にヒルズの40fであったTOKYO PHOTOGRAPHYのようなイベントらしい。
ようするにカメラ集めだけで、そのプリントに興味のない連中は単なる「おやじ趣味」でそれも悪くはないが、この人はアートフォトグラフィ的カメラ人類さんということなのであろう。人間の出会いは愉快痛快だ。
詳しくはhttp://jpads.org/

2011年2月13日 (日)

瑞光七拾五年

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横浜で開催中のカメラショーは多忙で行けない。
オリンパスから送られてきた、プレスレリーズに期待できるレンズがあった。
会場で展示されているのだが、モックアップモデルだから性能は分からない。画像で、しかもあまり解像が良くないこういう画像を見ていると、夢が膨らむ。

昨年、オリンパスの辰野工場を見学に行った。最近、取りざたされている「辰野クオリテイ」なる「運動」を見学して、マイスターさんにインタビューしてきた。
その話しは3月号のアサヒカメラに掲載する。

オリンパスの社内報にズイコーレンズが七拾五年なのでなにか書いて欲しいと依頼があったので、七拾年前に出来た、瑞光200mmf4,5のことを書いた。
昭和15年頃のレンズでもともと航空写真機についていたレンズを戦後にミランダマウントに改装したものだが、これが実に良く写る。当時は国産一眼レフはまだミランダしかなかった。

このレンズには手製のボール紙のレンズフードが付いている。昭和20年代後半にこういう先進のレンズを使っていたのは、かなりの達人写真家であろう。

ズイコーレンズのモックアップモデルだが、これはプライムレンズであろうから、期待できる。レンズのサイズからすると50ミリ以上であろうか。そのデザインは自分の持っているレンズ群の中で似ているのがある。マキナの180mm望遠レンズのテレマキナーに似ているのである。
レンズ基部の分厚い感じが「萌える」のである。こういう「辰野クオリテイ」のレンズはやはりペンデジタル2に付けるとステータスがある。

P2121667 ★追伸

本ブログを見た、偽ライカ愛好会の、みうらまりさんから(唯一、ライカを持っていない愛好会メンバー)上で話題になった瑞光のモックアップモデルの画像の投稿あり。

感謝!!

2011年2月12日 (土)

ポストカードで苦労する

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今回のウイーンは天候に恵まれた。

その意味は、雪からどんよりの天気からぴっかぴかの快晴まで多種多様の天気を体験できたことだ。
まず1月も滞在すればそのような天気のパターンは見られるものである。
これがHISの4泊6日では買い物とオペラ見物に走り廻ってそうは行かない。

実は家人との結婚40周年記念のイベントでウイーンに行ったのだと、帰りの飛行機の中で家人に言われた。
こっちは写真集と写真展の撮影で行ったつもりであるので、そういうことは考えていなかった。ようするに40年間にわたる性格の不一致であるが、これは今更どうなるものでもない。

家人は普通人であるので、上の画像、ウイーンのベルベデーレで撮影した珍しい快晴の雪景を100枚ほどポストカードにしろと命令がきた。今年の年賀状はまだ出していないのでこれにしようと思ったようである。

それで最近ではまったく使っていないYAHOOのマイアルバムに画像を載せて、フジカラーともうひとつなんとか言う会社のオンラインでポストカードを注文しようとしたら、驚いたことにこれができない。

ポストカードの制作の可能性はかなり限られていて、若い人向けの、結婚、出産、転居というメッセージが最初からあるやつである。「結婚しました。今後ともよろしく」「あかちゃんが生まれました」などというメッセージの下に勝手に縦位置に切り抜いた画像がデザインされて出てくる。こっちは全景、つまりフルフレームで載せたいのに、ズームバックしようとすると「それは出来ません」というアラートが出る。迷惑千万である。

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こんな風になってしまう。
他のデザイン選択肢がオンラインでは不可能なのである。どっかの国の選挙みたいだ。これは実に大変な専制国家になったと思った。
ちょうどウイーン1938という感じでもある。

どうにもしかたないので、大昔の64MBのライカブランドのSDカードに入れて、有楽町のカメラ店に持って行くことにした。
あたしはプリンターを持っていない。

2011年2月11日 (金)

牛模様の服

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ウイーンのアパートメントでは入り口側のテーブルにヨックモック(Macbook)を置いてその脇にはシテイカモのジャケットなどが掛けてある。
ワンルームのツーリスト向けの部屋だから、そういう次第になるのは止むを得ない。
佃の陋屋ですら、まさか玄関にコートを掛けてその脇に置いたデスクで仕事をしているわけはない。
ただ、これは旅の途中の変則生活なのであるが、これが案外に使い易い方式であることにも気がついた。

佃の住処に来たこの界隈のサービスの人が、玄関にはいってきて、この有様を見て「あ、ここが牛の服の人の家か、、、」とつぶやいたと家人が言っていた。
佃界隈では「牛の服のじじい」で認識されているようなのだ。そういえば、昔、winマシンでパッケージが牛模様ってのがあったな。あれはなかなか良い感じだった。

もっとも、きゃうと在住のいしいしんじさんの場合には「レッサーパンダの着ぐるみ」で浅草で著名であったから、ここらはあたしなどは勝負にはならない。

ところで、毎日毎日、ウイーンでライカで撮影をしていて、実際のところカフェには1度しか入っていないという、反社会分子・非観光客的な生活であったのだが、毎日午後に帰宅してやれやれというので、入り口に来ているモノを脱いでぶら下げて居間でワインの炭酸わりなど飲んでいて、視線がドアの部分に注がれると、まるでそこに自分が居るような変な存在感があって「ぎょっと」したものであった。

自分の抜け殻というべきか。

その理由は真上から直に照明されるハロゲンランプのせいでもある。最近の博物館の展示は埃及の古代裂でも、ギリシャの金杯でも一様に、上からのハロゲンである。これがなにかそこに「スチルライフの惨劇」とでも言うような照明効果を生むのである。

2011年2月10日 (木)

日本路地裏学会「ウイーンぬけられます」調査

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日本路地裏学会は2010年の6月に京都調査を行った。これは桃木会長がしばらく前から京都で仕事するようになったからだ。
今回はその続編でウイーンでの「抜け道調査」である。
ウイーンが独逸に比較して路地裏学が進化しているのは、通りにはSTRASSEとGASSEがある点だ。前者は大通りで後者は小路だ。

その小路はいいけど、その幅は日本から考えると実は路地にはほど遠くてかなり広いのである。

もともと路地裏学では人間ふたりがお互いを気にせずにすれ違いの可能なのを路地とか小路とか呼んでいる。その意味からすると、ここに紹介する「通り抜け道」は本来は公道でもないし、車両の通行も出来ないから、われわれ日本路地裏学会の規定する所の路地裏学の範疇にはいるのである。

もともと、79年代初頭、最初にウイーンに行くまで、あたしは「ウイーン」という言葉に非常に「高度感のある都市」を想像していた。

ところが実際のウイーンはヨーロッパアルプスがその高度を失って、ドナウ河に行きついた場所だから、これは実は平坦なのである。最初、自分の持っていた土地のイメージとかなり異なるので、がっかりしたのは、旧市外をぐるりと走る元の城壁跡のリング通りに立った時だった。高度差のある城壁のイメージはゆえに、ウイーンよりプラハにかなり濃厚なのである。

しかし、あたしの憧れていた「高度差」のあるウイーンの風景も実はないことはない。それらはウイーンの街区の深い地層を南北に走る「通り抜け道」なのである。

滝田ゆうの戦前の下町を活写した漫画の中には「ぬけられます」の看板がいたる所に出てきて、これが迷宮への案内板になっている。
ウイーンの通り抜け道はそのよううな怪しいところはない。

「自由意志による通り抜け道」と入り口に誇らしくタイトルが掲げてあるのは、このウイーンマリアヒルファー界隈のランドマークである。その近所にあるウイーン分離派館の「聖なる春」の看板と好一対である。

この階段ばかりの道の「正しい通り方」は、やはりウイーン川ぞい、マジョルカハウスのある方、つまりナッシュマーケットの低地から北に歩行して行くのが正しい。途中右側にはかのヴェートーヴェンが何度目かの引っ越しで棲んでいた古家もある。かの楽聖が楽想を得る為に散歩したウイーン北の郊外の散歩道ではあまりに平凡だけど、かの楽聖が借金の胸算用などをしつつ歩いたかもしれないこの階段の方がある意味では興が深い。

その階段の道は別に外部の通行人を通すのが目的ではない。何層にもなっている、実に奥の深いアパート群の住民を外部世界と連絡させるのが、この通り抜け道の本来の目的なのだ。通行人さんもよかったらどうぞ、という程度なのである。

ウイーンのリング通りが日向の通路なら、この「ぬけられます」の方は影の通路というわけだ。

2011年2月 9日 (水)

ウイーンの手料理

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ウイーンにすみ始めたのは1973でその3年後に東京に「里帰り」したのである。

1976年の夏のことだった。同行したオットー・ブライヒャ博士は気鋭の美術評論家だから、日本のカルチャーショックにやられて、予定より早くウイーンに戻った。これはまだ羽田に着発していて成田はできていなかった遠い夢のようだ時代だった。

現代日本写真家展という数年にわたって欧州を巡回した写真展の準備で出かけたのである。山岸章二さんに会ったら、応援してくれた。学士会館の食堂でカレーライスをご馳走になった。山岸さんはローマでぼったくりにやられた話をした。編集長時代の山岸さんは立木、篠山も恐れるほどの怖い編集長だったから、なにか山岸さんは本音で心を開いてくれている気がしてそれがうれしかった。

あたしは29歳。山岸さんはまだ40代だったと思う。

当時は関東大震災の後の仮普請の音羽の家がまだあった。母が「ウイーンでは何を食べているの? ごはんなの?パンなの?」としつこく聞いてきた。

昭和苦労世代の母親にしてみれば、主食があって副食があるのが彼女の考えだから、ウイーン料理で肉が主菜で米がバイラーゲ(付け合せ)であることは容易には理解できなかったのである。

「御地には野菜がないので」とも手紙によく書いてきた。欧州を経験していない母のこれは思い込みなのである。

さて、ウイーンで今回食っていたたものは、こんな感じだ。そこらにある材料を適当にいためたりして、30年来かよっている馬屋でフィレを買ってきて。刺身にする。贅沢でも何でもなく、ウイーンでは良質な馬肉がある。ウイーンの70年代の清貧時代だって同じものを食っていた。だからウイーンは極東の果てに比べるとその食文化は程度が上ということになる。

今回も食費はほとんどかからなかったので一驚を喫した。10ユーロは例の赤いお札であるが、その使いではすごいのだ。日本で1000円では何も買えはしない。

2011年2月 8日 (火)

平まどか展@森岡書店

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茅場町界隈にチエコの書籍などが置いてある、渋い本屋さんが出来たという、ニュースを聞いたのは数年前のことだった。画廊男こと、佐藤さんのやっていた「ギャラリー・ノットイコール・ギャラリー」でも「偽グランキャナル」の水辺を見下ろしつつ、安ウイスキーの肴に、その森岡書店の話題が出たこともあった。

2週間前、ウイーン滞在中、平まどかさんからのメールを受け取った。これが森岡書店での本の製本装丁の仕事の個展の案内なのである。

なんでも案内を送ったら戻ってきたとのことだ。マンハッタンの佐々木健二郎画伯からも同じクレームが来た。ようするに日本郵便が1年間、転送してくれたのがその期限切れになっていたのがそのままだったわけだ。

平まどかさんの個展 ルリユール展 を一見して、面白いなと思ったのは、小説でもエッセイでもそれらの言葉の家が実は本なのであるという事実だ。これは重い真実に思える。それと言うのも今のオンライン出版はどれも「家無き子」であるというゆえにそこに逆の視座が構築されたわけだ。

だから10年間のベルギー仕込みの平さんの製本術に感心する以前に、あたしの痛感したのは文芸の舞台は紙がプラットホームだという一事だった。これは今の時代だから逆にその存在の価値が問われる仕事である。

あたしは大正期の好きな本を数冊持っているが、その中にはすでにばらばらのものもある。川田喜久治さんの「地図」だって、頁がバラバラになってすでに40年は経過しているのである。

製本というのはそのような解体した世界を再構築するものだ。そこが面白い。無論、ベルギー仕込みの美麗な本の技を見ることができる。

森岡書店の森岡督行さんとも話しをした。なんと森岡書店の場所はあたしが週一に通過している、新川の井上ビルの3階であった。この1階のウオールストリートというバーで飲んだこともある。

津田新一さんが1967年に新人社を起こして、一冊だけの出版「写真 この一瞬に賭けるものはなにか?」を出した伝説の出版社はユリイカ書肆めいた陋屋の二階でそれは、井上ビルから河面を隔てた対岸にあったことを今回、森岡書店の窓に再確認した。

森岡書店の展示の中に白い医療機材の格納庫があったのも懐かしかった。稲越功一さんがそれを欲しがっていたので、販売店を教えてあげたのもすでに1968年のことである。

森岡書展の店内のオブジエ類はそうじて、ボイス方面に「白色矮星変移」しているのである。キラー通りの旧ギャルリルワタリに、かのボイスが来た当時のことなどを思いだしたがこれは80年代初頭だからごく最近に属する。

平まどか ルリユ-ル展
Madoka Taira Exposition -Reliure d'art-

会期 2月7日(月)ー2月12日(土)
時間 13時ー20時

場所はhttp://www.moriokashoten.com/?mode=f4

★おわび ブラウザーによって画像が回転してる場合はご容赦


2011年2月 7日 (月)

昔,棲んだウイーンのアパート

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70年代に棲んだのは、ドナウ運河のほとりの、フリーデンスブリュッケから南に左岸を数分行ったところで、河面を見下ろす2階だった。ウイーンの言い方だと、日本の一階が地階になるから、これは一階というのだ。

80年代に棲んだのは、今回のアパートのすぐ側のこの建物だ。ヨセフ・ホフマンがずっと棲んでいたことを知ったのはかなり後になってからで、建物の入り口に「ウイーンホフマン協会」とか言うブロンズの銘板を見てからだ。

大体、日常に買い物の戻りに、荷物を持ったまた、家の入り口の看板などは見ないものである。この建物はウイーンの建築ガイドブックなどにも掲載されている、ゆユーゲントシュテール様式の名建築である。それで日本の1階は地階であるのは同じだけど、その上に「上の地階」さらに「メザニン」という階があって、一階は日本の4階にあたるので、なかなか混乱が起きる。

ウイーンの中心部のシュワツツエンベルク広場から出て、南の中央墓地を経由してさらに奥の新興住宅地まで行く市電の71番の2つめの停留所が昔のアパートの前であった。今回、宿泊したアパートはその一個先の電停である。

だから行き帰りに昔の住居が見えるのは、なにか懐かしいような過去を巻き戻しているような変は感覚である。

この建物の最上階の屋根裏部屋からの、むかいのベルベデーレ宮殿の庭園の素晴らしい眺めは忘れられない。そこは80年代には空き部屋になっていたので、下から最上階まで行って眺めを楽しんだものだった。

これは市電71番の窓からのワンショットである。

この通りから旧市内に行く途中の左側にホフマンスタールの住んだ旧家が残っている。こっちは時代はずっと前だから、その住まいは実に地味な4階建てである。

2011年2月 6日 (日)

市電の昔

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70年代のウイーンの名物は、このクラシックなボギー電車であった。内装などはピカピカに磨き上げた木の板であって、ちょうどジャガーマーク2のダッシュボードが電車の中に張り巡らされていると思えば良い。

それで天井にはタングステンランプ。似たような電車は今でもリスボンにあるから、時々乗りに行く。

今まで、リスボンの市電の一種のノスタルジーはあれは昔の東京の都電にあるのかと思っていたのだが、実はそうではなくてあれは70年代のウイーンの市電を思いだして、そのノスタルジーを求めてどうもリスボンに行っていたことが今回、判明した。

家人などは70年代の初期にウイーンの音楽大学に通う時に、この「寒風にドアを開け放し」の市電で通学したのであって、今回のウイーンで偶然にこのクラシックを電車内から見て(これを撮影したとの瞬間がこれ)往時を懐かしんでいた。

ようするに零下5度の寒気でも、市電にはドアがなくて、そこに落下防止の為の革のロープが張ってある。ようするに、これは電気で動く馬車なのである。

それにしてもこのクラシックな市電にしても70年代のそれにしても基本は赤と白の塗装がいかにもオーストリアハンガリー帝国の首都を思わせる色遣いだ。

最近のウイーンの新造の市電はなにやら、芋虫みたいな長い電車で、ノンステップにはなったが、まったく色気がない。

2011年2月 5日 (土)

マックファン

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ウイーンでも胃フォンを持っている人間が多かった。スーパーマーケットはBILLAばっかりだし、あまりに単一ブランドが「勝利」しているとなにかとんでもない専制国家に居るような気がする。

90年代初頭のマックがマイナーであった時代が懐かしい。

それで東洋行の飛行機をウイーンで待っている時、最初の画像。まずモスクワ便のサテライトがこんな感じで、ロシアの今風おにいさんが何を見ているかと裏から廻って確認したらこれが「アメリカ帝国主義のしょうもない商業映画」である。

もっともロシアの今は「アメリカ映画の真似」がウエイオブライフだ。

二番目の画像はモスクワのラウンジであるが、マックエアだな。この男女の手前にズームバックした手前のヨックモックはあたしのやつでこれもしょうもない、ついったー好きの東洋人。

その後、東京行きの飛行では、上の男女が今度は大型のマックで、これもしょうもないアメリカ映画を見ていた。一応、飛行機は330だからビデオオンデマンドなのに、彼らの好みが機内でそういう映画を見ることがトレンドらしい。

ようするに彼らのリビングの環境をそのまま飛行機の中に持ち込むのが今風なのらが、実につまらない時代になったものだ。

もともと、エイゼンシュタインとメカス以外は映画とは認めないへそ曲がりがあたしだから、こういう暴言吐いてもどこからもお咎めがないわけである。

2011年2月 4日 (金)

岸辺のマリア教会

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岸辺のマリア教会、とは実に変な名前であると思う。実際、旧市街の曲がりくねった細い道を行くと、その先にいかにも「敷地を倹約」してあるかのような、小さな教会が起立している。それが一種の高度感にある高台にあって、周囲から高くなっているのは、この教会が出来た数百年前にはこの脇はドナウの水辺であったのだ。教会の名前もその立地におっているのである。

1970年代の半ばに知り合いがここで、ブリッテンの「隅田川」を演奏した。それは実際にそのテーマとなった極東の隅田川の背景を知っているのかどうか、そこは聞き漏らしたが、それはともかく、岸辺の教会で隅田川というのはなかなか洒落ていると思った。
本来が無宗教の不信心なので、この教会に立ち入ったのか、ウイーンを何十年も知っているのに、たしかその「隅田川」の一回きりなのである。

このゴシックの尖塔は小さいものだが、ジュテファン寺院のそれに匹敵する存在感がある。ウイーンに棲んでいた当時には、この尖塔の撮影がテーマになっていて、たしか藤田光学の400mmレンズでアングルを探しながら撮影したものであった。
カメラ本体はエキザクタだった。

2011年2月 3日 (木)

第三の男とOZU

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★東京到着。

ウイーンの映画と言えば、甘い恋愛ものという相場なのであたしは嫌いであった。
1973年だったか、アルベルテイナの中にある、オーストリアフィルムミュージアムでその10周年記念にジョナス・メカスの特集があった。ここで彼のフィルムのほとんどの「ノーカット版」を見たのである。
たまたまあたしは外人なので、インタビューをうけた。それはまだビデオではなく、アリフレックス16SRなのである。独逸語は不自由であったから、英語でしゃべったら数日後のORFの特集番組であたしの下手な英語上に独逸語の字幕がかぶって放映されていた。

この70年代のウイーンのフィルム博物館であたしは一生に見るべきフィルムのほとんどを見てしまったようで、以来、まったく映画を見ない人間になってしまった。

6年ぶりに旧市街の夜を歩行した。例の第三の男の舞台に使われた立派な宮殿もある。映画の中ではモノクロの世界であったのが、こうしてカラーで実景を見るのは何か変である。
フィルムミュージアムは目下、OZU特集であって連日の満員御礼らしい。市内でもあちこちに原さんのポスターが見られる。

2011年2月 2日 (水)

マコウスキー

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★本日移動日 VIE SVO NRT

ウイーン16区にあった古道具屋マコウスキーのことは忘れられない。
1973年の5月にウイーンに到着して、とりあえずの家財道具を揃えたのはこの店だった。
すでに25年ほど前に閉店してしまったが、時々、この建物(角の白くなっている窓が入り口だった)を再訪する。
なにしろここは産地直送(つまりお年寄りがなくなってそのまま品物家具などがここに来るのである)だから、地元の人と専門の古美術の買い付け業者さんが来たりする。
知り合いはここでニューヨーク近代美術館でレプリカが売られている、ガラスの紅茶セットのそのオリジナルを買った。
あたしはここでバロック時代の彫像を買った。それを見極めるには、壁にさげる為の釘の材質を見るのだ、とは同行のウイーン人のKの教育であった。バロック時代の釘はなんでもまだ手づくりなのでそれで判断するのだそうだ。

今でも着ている、ジャケットとかなにか一式のワードローブも実はここで買ったのである。たまたま体型があたしに似た男性が亡くなったのか、手頃はジャケットとかが沢山手に入った。その中にはハリスツイードの上等のジャケットもあった。そのジャケットは1985年だかに、アメリカ取材中にテキサスが11月というのに異常な寒さで、サンアントニオで偶然に会った知り合いのデザイナーに進呈した。彼女はとんでもない薄着であったからだ。
京都の着道楽の男が1980年に大枚20万円で造ったハリスツイードより、あたしの中古屋でかったのが良い品質なので彼は不愉快になったのも愉快だった。

今、六本木ヒルズのクラブに着て行くツイードのジャケットもその時にまとめて買ったのである。

この界隈、16区は労働者街であって、そこらに散在するカフェとか居酒屋もなかなか興がある。
ウイーンの地形というのは凸凹の緩いのが南北にゆるく波打っている。それで散歩の時なども、その地形が影響してなかなか運動になるのである。
望遠レンズで見ると、その高低差がかなり強調されてドラマチックだ。ウイーンの冬というのは、このように雪が溶け残って実に陰鬱な風景であるのだが、それが長年ここに棲んだ身にしてみればドラマチックなのである。

2011年2月 1日 (火)

ストレーバースドルフ

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ストレーバースドルフはウイーンの田舎だ。
ドナウを越えてさらに北西に行った市電の終点だ。その市電は大昔は331番といって市内から出ていたが、最近では系統が変わってドナウの西側の南北に長い長い路線になった。この系統は26番というのである。

普段はプラハに居るあたしであるが、プラハにもウイーンにも市電がある。
26番というのはプラハでは市内中心部を南北に結ぶ重要な路線である。一方でウイーンの26番はドナウの東に3本東西に延びている地下鉄の路線を南北に縦断したそれを連絡する役目がある。
それで同じ26番系統でもちょっとウイーンとプラハではそこに混乱が生じる。

この路線が331番であった当時、終点のストレーバースドルフには親しい友人が居た。かれのことをあたしは「じじい」と呼んでいたが、本名はブッケルトという人で彼はズデーテン独逸人である。それで戦後に「追放」に近い形でウイーンに「流浪」してきた。
彼の住まいは旧市街一区のナグラ通りの屋根裏であった。彼のガールフレンドのマリアが郊外のストレーバースドルフに棲んでいた。
ブッケツト氏と知り合ったのは、中心部のアムホーフで開催された蚤の市に、古屋誠一を露天を出していた時にブッケルト氏が声をかけてきたのである。
その古屋があたしに初めて声をかけてきたのが、やはりこの蚤の市であった。

山下洋輔さんが「ピアノ弾き飛んだ」の中で、あたしのことをタモリさんのデビューの前のセクションで書いている。その中にウイーンの旧市街に変なじいさんからピストルを沢山見せてもらった、とのくだりがあるがそれはこのナグラ小路の屋根裏のことなのだ。

ズデーテンドイツ人として家を追われた時、ブッケルト氏は歯ブラシ一本だけの所持を許されたとは、公式な発言であって、実際には少年時代から愛用の美麗な彫刻のある猟銃なども持ち出している。それも山下洋輔さんとあたしに見せてくれた。
ブッケルト氏のウイーンの屋根裏部屋は大変な物量のカメラ、本、科学機材、銃器のラビリンスである。チエコ人の散らかしは、巨匠写真家スデクにも見れらるが、これは一種の天才である。

一方でストレーバースドルフの方の家にはマリアが住んでいたからこっちは普通のこじんまりした家で猫が沢山いた。

その郊外の家に38年ぶりに行ってみた。要するに平屋の家が延々と続いている田舎町である。こういう風景はドナウを越えたサウスモラビアにもある。それはなんとも地味だけど懐かしい通りだ。

その当時、ブッケルト氏と通ったワイン居酒屋は今はビアホールになってしまってちょっとがっかりした。ウイーンのワイン居酒屋は本来は麦酒などは置かないのが昔からのしきたりなのである。「とりあえずビール」という悪しき日本の習慣はここにはなかった。

田舎の一本道の突き当たりにある公園にはまだ雪が残っていて、カラスがカップルになっていた。これも季節感のあることで1月の終わりにはカラス共は繁殖の準備に入るのである。
その雪景色の公園の光景が何かに似ていると思ったらそれがブリューゲルの大作の雪景色に似ているのには吃驚した。

公園の隣には立派な消防署がある。煉瓦造りで上は望楼になっている。独逸表現派の流れがそこに見てとれる。この消防署のことは自分の記憶の奥に沈殿していたのが、今回の真冬の散歩でいきなり意識の地平に浮かび上がったのが嬉しかった。

ストレーバースドルフは田舎であるからその気温は市内より2度は低いであろう。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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