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2011年1月31日 (月)

ボッシュの闇

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以前はウイーンの美術史博物館はメデイアの仕事でいわば「公式」な撮影ばかりしていた。事前に何枚かの申請書を提出して、本番の撮影は朝の8時半ころ、つまり午前10時の開館前に許可を得て、建物の東側のスタッフの入り口から入るのである。

三脚に4x5とか中判のカメラを載せて撮影した。一般客として入場して撮影するときにはたしか、写真撮影用チケットというのを買って撮影したが、いずれも「ノーフラッシュ」が大原則だった。

当時はフィルムカメラしかなかったわけだから、実は三脚なしで手持ち撮影だと本当はほとんど結果は駄目なのである。

経験では五月から九月の晴れた日なら、コダクローム64でも赤エルマーのf3,5の開放で撮影すれば画のデテイルはちゃんと撮れる。つまり1年のわずか数ヶ月だけは手持ち撮影が可能という状態だった。

デジタルの時代になってカメラの感度が画期的に上がったのと、オートホワイトバランスのおかげで、撮影はかなり楽になった。

このボッシュの宗教画の裏に描かれている有名な「子供の絵」は実は回廊の一番影の部分にあるので、肉眼でもはっきりとは見えない。それがデジカメではこの程度に写る。この場合、複写ではないのだから、あたしの姿が反射するのも問題なし。

博物館の巨大な展示室はどうもきらいである。名作を大きく描いて見る者を驚かそうというのはあまりにも時代がかっているおで好きではない。

逆に小さい作品の方が落ち着いて鑑賞できる。

2011年1月30日 (日)

あたしのフェルメール

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ウイーンの美術史博物館には真面目に行ったことはなかった。
ウイーンに棲んでいた当時に、フェルメールを良く見に行ったのは、もっぱらひまつぶしの為であった。ウイーン人に発音させると「フェアメーア」である。

ギャラリーの椅子に座って午後の時間を過ごすなどは、贅沢の極みであるが、まだ20代の終わりの自分にはこれは「午後の退屈な時間をやり過ごす方便」なのであって、別段、美術に特別の興味のあるわけではなかった。
それゆえ、70年代のウイーン生活は当時は分からなかったけど、今にしてそれを回想してみればあの当時の自分は「人生のまたと得難き贅沢」をしていたわけである。

今回のウイーン行で、この博物館が「安く売りに出て」いたので、中古カメラを買わなかった資金の余りで、今回買収したわけである。
ただし、自分だけこの膨大なコレクションを見ているのは、退屈の極みであるから、それとは分からないようにして「一般のお客さん」も入場させてあげているわけだ。

こういう筋をtwitterに書き込んだら、普段、ライカの書き込みなら2分以内にフォローしてくれる皆さんが完全に沈黙を守っているのが、おかしかった。
ようするに意味不明はことをほざいていると思ったのであろう。

この美術館が自分の所有になったというのは事実であって、その意味は自分の好きな時間にここを訪問してフェアメーアを始めとして好みの作品を「いやになるまで見飽きる」ことにある。これはミュージアムのプロパテイを所有したことである。

その権利が年間29ユーロで手に入るのだから、これは個人個人がそれぞれに自分のミュージアムを所有することなのである。しかも管理費とか人件費などは全部、オーストリアが払ってくれる。
そのシステムをここでは一応「年間パス」という名前にしてあるわけだ。

今まで、プラハにはほぼ毎月来ていたのだが、これからはウイーンを起点にしていろいろ見てやろうと、かなり本気で考えている。

2011年1月29日 (土)

ウイーンの写真機店街

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ウイーンの最初の訪問は1973年の5月であって、それが七年半の長い滞在になったのであるが、その5月の日々は実に快適であった。

当時はウイーンの西の町外れに住んでいて、市内に通うのは49番の電車であってその行き帰りに、foto ORATORを発見したのである。それからかなり時間が経ってから、Leica Shopが今のWestbahn Stではなく、もっと西よりのKaiser Stに開店した。今でこそ、オーナーのペーターは立派な紳士になっているが、開店当時はなにか人を威嚇するような感じの男で、これでは客商売には向かないなと思ったのが、今では国際的なクラシックカメラのシンジケートのボスである。人間は分からないものだ。

この通りが、ウイーンのカメラ屋街と言って良い。今度6年ぶりにいったら、かのOratorはピザ屋になり、その脇に新しい小さいカメラ店が出来、さらにライカショップの向かいにも新しいカメラ店が出来ていた。

これが時代の変化というやつであろう。もうひとつ、この通りの北に並行に走っているTharia StにもFoto Borse という店が出来ていた。なにしろウイーン訪問は6年ぶりなのだから最新の状況には疎いのである。

結局、4週間の滞在で何も買わなかったのは、撮影に夢中になっていたのでカメラ欲にまで神経を向ける時間がなかったのだが、これはこれで一大成果ではなかったかと思っている。

2011年1月28日 (金)

かみなりおこしの門

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プレチエニックの建築が好きなので、プラハに滞在している間などは、例の「豪華な教会」を見学に行ってその近くのワインバーでゆっくりしたりするのだが、ウイーンにもプレチエニックの教会建築がある。

ただしウイーンの方の教会に30数年も行っていなかったのは、その名前を失念していたからだ。
この建築を仲間内では「かみなりおこしの門」と呼んでそれで用が足りていたのである。しかも70年代のカメラ散歩の時に最後に見たきりなのでその所在地もはははだ曖昧であった。

今回のウイーン滞在目的はその「かみなりおこしの門」の場所を特定することにあった。旧市街の洋書店Morawaなどでウイーンの建築本の立ち読みで調べたが、最初にひっかかるのはワグナーさんの建築ばかりでその弟子のプレチエニック君などはなかなか網にかからない。

それをインターネットで検索したら一発で分かった。
ただしその教会の名前はあまりにまっとうであって、すぐに書とめたのにもう忘れてしまった。それでこのプレチエニックの地味な初期の教会建築はあいかわらず自分には「かみなりおこしの門」なのである。

かみなりおこしの門の命名に関しては、ウイーンの名ピアノ調律師の根津さんの奥様がこの界隈を散歩して居た時に、この風変わりな建物を見て命名したのである。教会ではなく、門という認識をしたのは、やはり物事を直感でとらえる女性の慧眼であると思う。

「かみなりおこしの門」の場所は ウイーン16区Herbst Strasse 82

2011年1月27日 (木)

鴨が葱しょって

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70年代のウイーンでは生鮮食品の店が軒を並べている、ナッシュマーケットによく買い物に行ったものだったが、6年ぶりにいったらどうも様子が様変わりにて、なにかオリーブを売っている店がやけに目立った。魚はパリのマーケットで新鮮なマグロなど買っているので今回は買う気もしない。

ウイーン人も「若返って」いるせいか、街の角角はジャンクフードの店ばかりだし、ケバブとピザがセットで売られていたり、面白くない。それに肉屋や八百屋のような専門店が激減したようにあたしには見える。こっちの若いもんはそこらここらにある中国人のやっているヌードルスタンドで箱入り焼きそばなんか食って、歩きつつゲームしている。これが洋の東西共通した食文化になる日も近い。

老舗のゲームの専門レストラン(イノシシや雉や鹿などを喰わせる)も閉店したようである。

行きつけの超市場で買ったのが、普通の鴨のフィレである。このアパートはキッチネットなので、まず広い台所に人間がベッドを置いて寝ているあんばいだが、発想を転換させてキッチンの焜炉に椅子を引き寄せてそこで鴨を焼いたら思いのほかに良かった。

鴨は塩。葱は普通のやつ。食通ならパリの名店レストランで、持参の醤油で鴨を喰ってそれを手柄にもできるであろうが、思うに鴨に醤油はその味を殺してしまうような気がする。

2011年1月26日 (水)

DER BLAUE REITER

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Sバーンのいたち特急に乗り換える、ランドストラーセの通路は結構長いのであるが、そこに通路の高さとほとんど同じサイズの巨大ポスターがずらりと並んでいる。あたしのようないかに乱視の人間でも、ウイーンで開催されている展覧会は何があるのかは分かる仕組みである。

DER BLAUE REITERを「あおぎし」と訳したのは明治の偉い人であるかも知れないがこの訳はどうもね、というのは以前から思っていたことだ。なにか「あおさぎ」みたいで変だ。

1985年にミュンヘンのミュージアムにその「あおぎし」を取材に行った。今、そのミュンヘンのミュージアムが全面改装で世界中に「あおぎし」が循環しているらしい。このウイーンあるべるてーなの展覧会もその一部かどうかは知らないが、これは見たいと思ったら、例の如く、あたしが2月にウイーンを発った2日後から開始されるのである。

しかし思うに、昨今の東京での「あおぎし展」もそうだが、秘仏の出開帳みたいなところがやはり変だ。美術史上の「あおぎし」とその本物とは、なるほどオリジナルは見るにこしたことはないかも知れないが、それを見て「感動した!」などと言うのはやはり時代錯誤であって、どうも「自分はライカA型しか使わない」というのと同様な時代錯誤である。

なにせ100年前の美術運動であるのだから。ここらが美術がファッションになる所以だ。

たとえば、フェルメールにしても、日本だとそれが大混乱の中、国内線の飛行機に飛び乗って見に行ったが、参拝者の頭しか見えませんでしたという「自慢話」の為に有名美術を追っかけるような所がある。美術パパラッチ。

これがまた良く分からないことだ。

このポスター中の名家の中でKUBINに親しみを感じるのは、70年代にウイーンの美術雑誌にあたしの東京スナップが16頁ほど掲載された時、そのお隣さんがKUBIN氏であったことだ。この美術雑誌には何度か写真を掲載したが、お隣さんがジョン・ケージさんであったり、アーヌルフ・ライナーさんであったのも今にして思うと実に懐かしい。

2011年1月25日 (火)

VW

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フォルクスワーゲンで1973年にウイーンからスイス、ミラノからベニスを周回した。汚れの目立たない、ベージュの車体で今思うと不思議なのは、カーラジオも何もついていなかったことである。三角窓から入る欧州の夏の風が心地よかったが、それにしてもイタリアの夏は暑いと思った。
総計で2000キロ程度のドライブだったが、思いの外燃費がかからなかった。これは当時、偽マグナムのメンバーだった、KEと旅をしたのである。貧乏旅行であったからベニスなどは天幕をはって寝た。
VWが最後にウイーンに向かうアウトバーンを走行中に、異常に暑い車内の理由が分かった。なんとヒーターをつけたままにしてあったのだ。

カブトムシはウイーン時代の思い出そのものである。週末に知り合いの梶浦画伯のもとで宴会をして、その帰りにウイーンの郊外のシュトレーバースドルフという、なかなかの居酒屋のある村方面の様子を確かめたくなって、市電の31番を待っていた。この系統は70年代には231番と331番という、ウイーンではもっとも数字の多い系統であって、それがいかにも郊外に行くのだという決意をこちらに感じさせる電車であったが、今は「デノミ」になって、31番というちょっと高いライカの値段のような数字になってしまった。
その31番がなかなか来ないのである。しかも気温はマイナス4度の夕方で風が強いので体感気温はマイナス10度ほどだ。結局20数分待った。この31番は主要通勤路線なのだからこういう遅れは珍しい。あたしの七年半のウイーン生活でもこの路線にはお世話になったが、これは待ち時間の記録である。

ライカ日記は撮影完了したので、金曜から普通のデジカメ(GXR)を持っていた。いつもCX3とCX4ばかりでGXRの出番がなかったので今回はペンデジタル2とGXRの二台しか持参しなかったのである。
寒いのでドナウ運河の落日などを撮影して気をまぎらせていたら、いきなり懐かしVWが視野に入った。この場合、大事なのは今のナンバープレートでは駄目である。70年代の往年のプレート、すなわち黒地に城の大きめのナンバーがいい。これを見て、気分はすっかり七十年である。
クルマの三角窓の開いているのも、実にダンデーだ。
ライカとVWにはなにか不変の共通点がある。

2011年1月24日 (月)

ウイーンライカ日記 1/21

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★ウイーンライカ日記 1/21

まだフィルムが2本だけ残っているので、それを撮影してこの写真集は「あがり」とすることに。
45本の撮影でフィルムは25枚撮りだから、合計は一千を超えた数だが、ワンシーンは1ショットしか撮影していないので、その分、手応えあり。ただし銀塩(ぎんしお、と読む)だから現像するまで、果たして写っているか否かも分からない。そこは未来に光の罠を仕掛けるという意味で面白くもある。
ライカは3Cにレンズは全回転エルマーにビドムを付ける。
快晴でルミエールが綺麗。
リング通りから昨日乗った2番の市電で逆方向に向かう。6年ぶりのウイーンだとかつての「名門電車系統」だった、1番と2番がなにか飛んでもない田舎まで連絡がついているのが面白くもある。その先の終点を確かめたくもある。2系統は中心部からギュルテルのヨセフシュタットラーストラーセを超えてかつてのJ系統の代替であることが判明した。ずっと西に向かって、ウイーンの森の際まで行くのである。そこはオッタクリンガーというのであるが、ワインの地酒飲ませる、いわゆるホイリゲ酒場が散見。珍しい1階建てで、しかも間口が2間ほどの古い居酒屋を発見。今度行ってみよう。なにかウイーンの枝村酒店という感じ。
終点で数カットとって、今度は市電の46番に乗って中心部に。リング通りに出た所で、最後のワンショットを取り終え、これで持参のフィルムは全部露光した。
偶然であったが、佃にある120年前のステレオキャビネットには当時のウイーンのアマチュア写真家が撮影した1000枚以上の当時の欧州のスナップがある。その中で一番気に入っているのが、今度、ラストで撮影したのと同じ、パラメント(議事堂)前の大通りである。偶然の撮影場所の一致だ。
ただし120年前は光景は鉄道馬車である。
そこから1番の市電に乗る。2番の系統の「源泉」が分かったので、今度は1番の電車だ。数日前の霧の深い日に1番の電車の東の終点はプラター公園の森の中であることが判明した。今度はその反対の南の終点を捜索に行く。1番の市電はウイーン10区を走り、S
バーン(いわゆるいたち特急)の線路を越えてさらに、南に。以前は62番かなにかの市電の終点の給水塔の所まで行った。
納得して1番でちょっと北に戻り、例のいたち特急で、マツラインスドルファー駅からレンウエグ駅まで行き、帰宅。
13日間のウイーンライカ大周遊、ここに完結する。
撮影2本。

2011年1月23日 (日)

ウイーンライカ日記1/20

M4

★ウイーンライカ日記 1/20

非常に温暖な異常とも言える一月のウイーンだが、だんだん気温が下がる。とは言え、まだ下が0度で最高は4度程度だから暖かい。
すでにコダックカラーネガの「残りの弾丸」は5本になった。これが切れたらライカはおさらばで、普段のデジカメに戻るわけである。最後の5本を有効に使おうと思って、3本だけ持参して、ラストの2本はアパートのテーブルの上に置いた。
今日のライカはM4(例のKE7-Aではないライカ)に、暗い日なので、レンズはズマレックス85MM F1,5のみ。
レンウエグの駅からSバーン高速鉄道の「いたち特急」(二階建てでイタチのような動物のイラストあり)で、隣のプラターシュテルン駅まで。実に30年ぶりにプラターを徘徊。昔馴染みの遊具はリーゼンラード(大観覧車)と、トボーガン(塔に上から麻袋を尻に敷いて螺旋軌道を滑り降りる19世紀のジエットコースター)くらいなもの。ウイークデイなので大遊園地は完全に無人。それは気に入った。ズマレックスでf2で1/500ほどの露光だからかなり暗い。
そこから5番の電車にて西駅まで行く。プラーターからアウガルテン(陶磁器に窯もと少年合唱団の本部がある)の北側をかすめて、ドナウ運河を西に越える。
左にフランツヨセフ駅を見て、ヴェーリンガー通りと、アルザー通りの交差点。この交差点で70年代初頭に撮影した、横位置で背景が私立病院の長い建物の角でその前を5番の電車横断し、ボルボのタクシーが見えて手前が男性の後姿ってのが、写真集「ウイーンモノクローム70S」の表紙になっている。
5番はその先はタリア通りとスエストバーン通りに直角に交差して、南下する。
西駅から同じ5番で戻って、ヨセフシュッタット近辺で下車。撮影。
午後のベタ曇りにて、ズマレックスはF1,5の開放で1/250程度。
ヨセフシュタット劇場の前から、2番の電車でパラメント経由してシュワルツエンベルク広場で71番の市電に乗り換え帰宅。
撮影4本。

2011年1月22日 (土)

ウイーンライカ日記 1/19

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★ウイーンライカ日記 1/19

撮影中のライカの写真集で足りないカットを考えて、280mmのテリーとを持ち出す。ライカ本体はMDである。

本来はレンズは1本しか持ち出さない主義だが、そのような悠長なことを言っていると、時間切れの方が怖くなるので、もう1本、エルマー65mmも持参。

シュワルツエンベルグの宮殿の前から280mmで撮影開始。この宮殿の中のホテルに6年前の夏に宿泊したのだった。あれはリスボンからの戻りだった。オーストリア航空のリスボン空港の搭乗口がCもYも一緒なので文句を言ったのだが、係の人が足りないので仕方なかった。Cの客はあたしとウイーン人のビジネスマンのみ。空路マッターホルンの上空を通過したのをアリフレックスSR2でコダクロームで撮影したっけ。その仕上がった映画はまだ観ていないのである。

オペラの上の方の彫刻とか建物の高い場所にあるオーナメントを撮影する。ライカに280 mmというのはそういう遠距離の撮影に役立つ。ただし日本だとそういう望遠レンズのクローズアップの視野に耐える歴史的な美術は皆無だ。だから日本で望遠レンズの活躍となると、すぐにスポーツとか野生動物の撮影になってしまうのは退屈だ。

シュテファン寺院の尖塔も280MMでクローズアップする。70年代にはこの尖塔の突先を、ソ連製の1100MMで手持ちで撮影していたのを思いだした。若気の至りというか体力があったわけだ。 ローテンツルム通りで撮影してたら、地元の若い衆が「おれを撮ってくれ!」というので「だーめ!」と言ったら「だって、旦那、俺、ウイーン二区では結構有名なんだぜ!」と来た。2区というのはこの中心部の1区に比べると文化的に一段落ちる。その若者がウイーン人だからそういうジョークが冴えるのを評価しているのだ。
でも一般の市民はやはりカメラで写されるのはパパラッチが追っかけるような有名人に限るとでも思っているらしい。その点、極東の「俺の肖像権はどうなる?」のあの陰険な状況よりは遙かにいい。

旧市街をチーズケーキに例えれば、今回、あまり足を踏み入れなかった、その9時から12時方面の空間を撮影する。
ユーデンプラッツ(ユダヤ広場)にはこの20年ほど前にウイーンで大戦中にナチに虐殺された60万人の慰霊碑がある。ここは15世紀まで欧州で最大のシナゴーグがあったが破壊された。現在、 真四角な不思議な形状の広場だと思っているのは、実はそれはシナゴーグの跡地なのである。

その300年後にWAモーツアルトはこの広場に面した建物に住んだりしている。 午後の斜光が綺麗になったので、280MMからエルマー65MMにレンズを交換する。時計博物館の脇の細い道をフィアカーが通り抜けるのを狙う。このショットは「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社)にも掲載されている。
その手前の細い小路の先の小広場にはバロックの古い宮殿がある。1974年だったか、散歩のついでにその窓から外を見ている、白黒の猫を撮影して、次の週にそれを8X10に引き伸ばしたのを持参して、その猫の窓に室内に向けてセロファンテープで固定した。
翌日、その様子を見に行ったら、その写真は無くなっていた。ようするに飼い主の手元に届いたのである。

そこで持参の5本のフィルムが尽きた。その後に天使薬局の世紀末様式のモザイクを撮るつもりが、フィルムが尽きたのだから仕方ない。 2リッターのワインの大瓶を買って戻る。

撮影5本。

ウイーンライカ日記 1/18

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★ウイーンライカ日記 1/18

撮影に出かける。ライカは3Cに、スーパーアングロン21mm f4を付ける。このレンズはM型とバルナック型ライカとで共用できるので、Mマウントのf3,4のレンズより便利。それにf3,4の方はレンズの絞りが4枚しかないので逆光状態だと変なゴーストが出る。

この3Cには独逸語の早田カメラ店のステッカーが内部に貼ってある。そのシャッターの銚子は非常に良い。ただしフィルム交換には時間がかかる。クラシックなバルナックライカのフィルム交換なら、フィルムの先端を長く切っておくのが常道であるが、それも面倒なので、あたしの場合にはまずフィルム交換時には、シャッターをTにセットする。レンズと外す。シャッターを切って全開にして、フィルムの装填をアパチュアの窓で確認する。シャッターを閉じて、レンズをねじ込む。ノブを巻いて2回空シャッターを切る。フィルムカウンターをゼロに合わせる。この一連の動作を歩行しながらするのであるから、名人芸と褒められることもあるが、未熟なら立ち止まってすれば良いのである。ようするに、ライカの楽しみは、デジカメのようにカードを差し込むだけではない。それは面倒というよりライカを楽しむ操作の内にある。だから手間がかかってもそれは充実している。

高速鉄道にてウイーンの南東部のメードリンク駅まで行ってそこから、中心部に向かって歩行を開始する。
周囲の1920年代のウイーン市が建設した、集合住宅には見覚えがある。1973年にライカM2を持ってこの界隈を撮影した記憶が蘇り同時にその時にはレンズがズマロン28mm f5,6であってそれには今ではコレクターズアイテムになっている、例の角形のフードを付けていたことまでも、記憶の糸がたぐり寄せた。こういうライカとレンズを介しての記憶の発掘はなかなか痛快だ。
しかも晴れていた天候は薄く霧がかかって、白い太陽が見えるという、冬のウイーンでも数年に一度というような不思議な天候で、これが氷点下であったらダイヤモンドダストでも見えそうである。

21mmを主にノーファインダーで撮影する。どんどんフィルムを交換する。ウイーンの西の環状線に到達した頃はまだ午後は遅くはなかったが、すでに太陽は隠れかなり暗くなった。f4で絞りは1/30にセットしたつもりが、どうももっと遅いシャッターが切れているらしいことが、シャッター音で気になる。ライカ3Cのスロースピードダイヤルを視たら設定がずれて1/20になっていた。だからその前の数カットはぶれているかも知れない。

スナップ撮影中にはどんなに暗いモチーフでも1/30以下では撮影しないことにしている。高速で歩行中にはどんなに呼吸を整えても、1/30よりスローなシャッターではかならずぶれる危険があるからだ。
さらに東に歩行して、マリアヒルファー通りでもう撮影できないほどに暗くなったので、あっさり諦めてそこからバスに乗って、アパートに戻る。
撮影は5本。

2011年1月21日 (金)

ライカウイーン日記 1/17

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★ライカウイーン日記 1/17
まるで復活祭の後のような好天でしかも温暖。アパートの裏庭のカラスどもが騒いでいるのは、季節外れを勘違いして繁殖期と思って居るらしい。

ウイーンの南方に撮影に出かける。

ライカはM4にズマロンのめがね付きの35ミリだ。フィルムは5本持つ。レンウエグのSバーン(高速鉄道)の駅はウイーンの汚い駅の代表選手だった。それがあたしが6年留守にしている間にすっかり綺麗になった。この駅だけではない。ウイーンの高速鉄道の駅はどこもモダンになっている。そこを走る電車も新しい車両が登場して、これをあたしは「いたち特急」と呼んでいる。野山にいる小動物のイラストがついた二階建てのモダン車両であるが、電車ではなく立派な牽引の電気機関車である。だからウイーンの市内をサービスしているだけなのだけど、そのままベニスとかパリまでのこの車両編成で行けるような錯覚が起きて、まあ通勤地獄に夢を与えるということであろう。

ただし日曜の朝だから列車はがらがらだ。このいたち特急でプラターシュテルン駅に着き、始めてその新しくなった駅構内を見て一驚。ここも未来都市になってしまった。往年を偲ばせるのは広場の中心にあるオベリスクであって、これはかの斎藤茂吉が「ういんなるぷらーてるの紅き薔薇」に歌を詠んだ名所なのである。そのオベリスクはモダンな駅のプラットホームから遠望できる。

もともとプラーターは大遊園地がある歓楽街であるので、そこにはなんとなくクリミナルな空気があった。本来、あたしの好きなウイーンの空気というのはその空気と雰囲気なのだが、その方面は最初のウイーン訪問からすでに40年近くが経過してすでに綺麗さっぱり消滅してしまった。そして新しい公共機関とか建物はすべて若い都市計画者がキャドでスクリーン上に弄ぶようなつまらない偽未来都市になってしまった。
まあそれを言っても仕方ない。

プラーターからウイーンで70年代の終盤に最初に開通したメトロの1番(赤いライン)で市内と縦断して終点のロイマンプラッツ(広場)に行く。アメリエンバードという市営のプールと銭湯が一緒になった、白亜のアールデコ様式の建物を撮影する。ズマロンで縦位置でまずファサードを撮ってから距離をかせいで建物の全景を撮る。
67番の電車で街の南部の限界まで行く。周囲はウイーンの南部の田園である。そこを超えるとまたモダンな団地があって、そこが終点だ。その街の感覚は未来の1984といったら良い。これが厳冬だったら単に冬のウイーンの田舎であるが、温暖な異常気象なので逆に非現実感あり。

そこらを撮影して67番の電車で南駅の近くのラクセンブルガー通りの歩行者天国のあたりに戻る。ここは30年前までウイーンの下町の典型であった。電車と買い物客の交差する活気ある通りだった。それが地下鉄が出来たのがきかっけで巨大な歩行者天国になった。

しかし日曜の朝であるから、まるで核戦争で人類が絶滅した春の朝の感じである。広い通りの真ん中でホームレスのおっちゃんがでっかい音で携帯ラジオのブルースをかけている。そこだけがマンハッタンって感じ。いや映画のワンシーンだが、こういう音のからんだシーンはライカでは撮れない。寧ろデジカメでムービーモードの領域だが、今回の写真集ではそういうデジカメの引力の影響を受けるのを懸念してわざとデジカメは持参していない。

撮影カットが充分になったので、メトロで中心のシュテファンプラッツまで戻る。なにか30年前の日曜の朝の気分を思い出す為に老舗の洋菓子店に入ってグーゲルフプフ(ウイン名物の巨大なドーナツ型のパウンドケーキで、同名のラジオ人気番組が日曜の朝にあった)を、ピンク色のお仕着せの女子から買う。

値段は10ユーロ。わざとウイーン訛りの独逸語で注文する。売り子の女子は「紙の手提げがありませんので、申し訳ありませんが、プラスチックの手提げでお持ちください」などという。
重さが1キロではきかない巨大なピンクの包装物を持ってしまったので、もうライカで撮影は出来ない。そのままメトロとSバーンを使ってアパートに戻る。

午後、新潮の連載「屋根裏プラハ」の第17回を執筆。一気に30枚のうちの20枚を書く。

2011年1月20日 (木)

ライカウイーン日記 1/16

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★ライカ/ビテッサ ウイーン日記 1/16

天気予報では快晴の筈が朝は真っ暗な曇り空。そういう言い方は面白くないのでこれを「天空からグレーの光が降り注ぐと言い直しているわけだ。
まだ光のないうちから出かける。

今日はカメラのシフトを変えて、フォクトレンダーのビテッサTに35mmの広角レンズを付けたのを持ち出す。ライカの引力圏からいったん離脱して見ると、ライカの良さが良く理解できる意味もある。

フォクトレンダーはその発祥の地はウイーンだ。その誕生年はかのモーツアルトと同じ生年なのである。もっともフォクトレンダーが有名なのは、例のペッツバールの当時としては飛躍的に明るい真鍮製のレンズであろうが、その後、19世紀末にその理由は不明ながらフォクトレンダーは独逸はブラウンシュバイクに移転してしまった。
これは一大転換期であってその背景が旧教から新教に変わってしまったことになる。それからずっと時代がたってそのブランドが極東の企業に買われて、信州善光寺の傘下になったなどということは宗教戦争ではないので誰も問題にしない。
これは時代背景の違いである。

ビテッサTはライカとまったく異なる操作性とデザインを持っている。
そのプランジャーと称する巻き上げの棒が軍艦から起立するのは、まず縦型ライカビットとも言えようが、これはデザインから見ているのと実際に使うのとではかなりその印象が異なる。言い換えれば案ずるより産むが易しであって、かなり使い易いのだ。しかもトップカバーはネジが一本も見えない。そこらが未来派指向であって、まずクルマで例えれば、シトロエンDSというところだ。

千九百七十三年の五月に最初に棲んだアパートはウイーンの西の外れであるが、それを見物に行った。その物件は2世紀は経過していると思われる二階建てである。その建物の真ん前が新しいメトロ駅になっているのである。

ウイーンはこの高速鉄道で周辺が引き寄せられ、反面、旧市街はまだ移動が不便だから、街の形を概念図で書けば、中央が広く周辺は狭いという構図になる。

撮影4本。

2011年1月19日 (水)

ライカウイーン日記 1/15

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★ライカウイーン日記 1/14
天候悪し。金曜の週末。
撮影。ライカは3Cに旧エルマーの全回転。撮影前にこのエルマーをチエックしたら無限と1メーターは距離計と合っているが、その途中の連動がかなり怪しい。ようするに信用できないのであるが、もともとライカで50ミリというのは目測が基本であるから、この組み合わせも目測で撮影するのが流儀である。
アパートから南部に向かい、18番の電車で街の境界線のあたりの殺伐とした風景を撮影する。世界の何処の街であれ、街の境界には共通の信号がある。風景が無防備のままに見えるのが面白い。
ウイーンの南駅(のかつて存在した場所)を18番で通過する。大隕石が落下して巨大なクレーターが出来たかのように、まず1キロほどの穴が空いて廃墟になっている。そのまま市電で西駅に着く。西駅は独逸とかスイス、フランスへの玄関駅だ。駅の左右に巨大な建築を増築中でその足場の森が実にアートしている。アングルを変えて撮影。駅の内部はかなり綺麗になっている。その変化の内容はまず空港ターミナルと似ている。駅が空港を真似ているのだ。
正面の目立つ場所に旧市街の老舗のオープンサンドイッチ屋(ようするにオペラの行き帰りにここでちょっと摘んで、シャンペンを飲むのだ)のトルゼルネフスキーが支店を出しているのに吃驚した。この店の旧市街のは全面が曇りガラスでその入りにくさが魅力なのだけど、西駅の支店はそんな悠長なことは言っていられない。全面がオープンカフェ状態である。
いったん帰宅する。
午後になって部屋から狭い空(アパートは1階にて狭い裏庭に面している)から見たら快晴になった。
午後2時にあわてて、280MMテリートにビゾフレックス2型でライカはM4にて、すぐ側のベルベデーレ宮殿の丘の上に昇る。眺望絶景。4本撮影。実は最初は200mmのテリーとを持参する予定が、ここのカットを撮影することを予測していたので、見晴らしの良い庭の上の方からウイーンのシンボルのシュテファン寺院の大聖堂を全部入れるには、200mmではちょっと短いような気がしていたのだ。これが正解だった。ただし横位置にて尖塔を入れて周囲の教会を入れる構図では280mmはぴったりだけど、縦位置にして背景に尖塔を入れて手前に宮殿の庭を入れるには実は250mm見当がいい。ここからの風景は30数年撮影しているからレンズの画角が頭に入っている。
でも真冬に満足な午後の斜光に輝くシュテファン寺院を撮影できて満足。市内を市電で周遊してショッテントアから徒歩旧市街を漫歩して帰宅。

2011年1月18日 (火)

ライカウイーン日記 1/14

Md

1月14日。木曜。
持参ライカはMDにスーパーアングロン21mm f4.

レンウエグの市電の停留所に居たら、ウイーン人のライカ人類が声をかけてくる。最初からあたしのライカを見つめているので、これは来るなと思ったらその通りになった。
彼がカバンから出したのは越名レンダーのベッサにノクトン40ミリである。ウイーン人は今でもウイーンがフォクトレンダー発祥の地であることを誇りにしている。だからその名門の名前が極東で受け継がれたことは喜んでいる。
かつて彼らの版図は、スペインからメキシコまで拡大していたのだから、自国のブランドが隣国独逸で作られようが、マルコポーロが夢見た国で生産されようが、それは「我が帝国の地図の中」のことなのだ。ここらへん大らかでまことによろしい。
その30代のライカ人類は出勤途中であったので、次回のカメラ談義の再会を約した。この人は写真家ではなく、コンセプチュアルアートな人だ。彼のサイトは

http://selfmadesaints.com/

午前中のケルントナー通りはまだ車両の進入ができるので、開店前の物資の仕込みで普通のウイーンの顔をしている。スナップ三昧。

久しぶりに21mmを手にしたので、ライカが連続連写。こういう時にはレバー巻き上げのライカは便利だが、反面撮りすぎるのは欠点。

レンジファインダーのないMDはスナップの広角レンズは最初から目測だし、望遠はビゾフレックスだし、かなり使える。それにファインダーが狂うこともなし。

歩行の方向を転じて1973年に最初に棲んだ、ウイーンの西のはずれの二階建てのアパートの様子を見に行ったらまだ存在した。その前の広場がメトロのU3の駅になっているので吃驚した。

千九百七十三年の五月のマロニエの花が散る頃にこのアパートでは、晩春の夕暮れで隣の家は時計屋で夕暮れともなると、黄色とブルーのオメガ時計のネオンが点灯した。空に白い半月がかかり、なんとも言えない夕刻を過ごした。

その環境がまだあるのだ。その時に撮影したショットは写真集「ウイーンモノクローム70」の後半に出てくる。行人行き交う広場は今はそのままにメトロの駅になっている。

撮影は5本。

2011年1月17日 (月)

フリューシュトック

Photo_2

毎朝は手近にあるものを適当に喰っているわけだ。

まずセンメルブロートがここの名物だが、これにきりだすときりがない。ウイーンに居住した頃は、どこの老舗の手作りのがどうのこうのと走り廻って買ったこともあったが、還暦すぎるとそういう馬鹿はしなくなる。

こういう異常な食い物への偏愛は、ようするに日本で出ているパリのレストランとかパン屋のガイドブックに勘違いして日本婦女子が門前列をなすのと変わりない。

また、地方の山中の蕎麦屋に列が出来たり、つけめんの駅から徒歩15分に行列ができるのも同じである。食い物はその折々にそこにあるもので充分だ。

珈琲も最近ではネスカフェにした。荷風の戦前のペンキ館での生活で「珈琲は湯を入れるとすぐに飲めるもので、滓の出ることなし」と書いてあるのは当時はまだインスタント珈琲という言葉がなかったのであろうが、このことであることに気がついた。

ところでセンメルパンで注意が必要なのは、翌日には非常に硬くなることだ。しかも「弾力」もあるから、老人の歯をへし折るのは簡単である。

70年代に「うちのおじいさんは、本当はもっとイケメンなんだけど、センメル食べて歯が欠けたんだよ」というおばあさんの言い訳を聞いたことがあった。

こちらは生鮮食品は物価高にもかかわらず日本に比較すればまだ安い。それと隣国のプラハの食品の価格は非常に高いということを実感する。ウイーンとあまり変わらない。

2011年1月16日 (日)

ライカウイーン日記 1/13

113

1月12日は快晴となったので、朝の8時から家人と散策。
ライカはM4(例のKE-7Aではないモデル)にズマレックス85MM。まずWAMが埋葬されている、ウイーンの古い墓地、サンクトマルクスに行く。18世紀の街の南の境界がここいらであって、それが一世紀死体を埋めたら満杯になったのでそれよりさらに南の今の中央墓地が出来たわけだ。
それでも大昔の墓地なので、墓石と墓石の間の通路はゆったりとしている。もともとモーツアルトの遺骸は共同墓地に投げ込まれたのだから、特定はできないが後年、墓碑だけ適当なのを建設したわけであるが、それが通路の上に作ってあるので、ツーリストにはかえって発見しやすいという利点もある。朝日が墓石に逆光でさしてきてななかなかのムード。

そこを出て同じお墓電車の71番にてさらに南方の中央墓地に。第一門で降りて、まっすぐな並木道を行く。この墓地の北の部分にユダヤ人墓地あり。そこを訪問するのがウイーン時代の習慣だった。ほとんど荒れ果てているのだがたまに新しく墓碑銘が刻印されているのを見ると「1945 アウシュビッツにて死亡」などとあったりする。

6番の電車にて北西方面に迂回して、ラーベルクにゆく。まずアンカーパン工場の煉瓦作りの巨大な建物の脇を抜ける。ここらのランドマークだ。ここにはボヘミア人のプラターという実に鄙びた小遊園地がある。そこを散策。遊園地は冬だからクローズしている。園内に緑色のペンキのカルーセルあり。今は閉じているが、シーズンにはこれが生きた子馬がサービスする本物の回転木馬なのである。その画像は「ウイーンとライカの日々」に掲載されている。

ラーベルクの丘の上からの眺望は絶景。ズマレックスで数カット撮影。露光は1/500でf11。丘を西から東に徒歩で渡ろうとしたが、雪解けにて足下が危ないのでもとに戻って市電でもとのポイントに戻る。

新しく出来たメトロの駅の真向かいに前から気になっていた(ということは30年来)ワインレストランあり。これはトラッドなファサードで店の全面にワインとかハムとかパンとか田舎の風景とかがプリミテイブな筆で描かれているのだ。そのファサードは写真集「chotoku x RD1」に掲載されている。大抵が中央墓地から市内に市電で戻る時にその店を見るだけだから、わざわざ降りてその店に入ることはなかった、それが今回はその真向かいに駅が出来たので入った。

中は地元の人で満員。定食と飲み物が2人前で18ユーロ。極めて安い。まあ安いだけのことはある味だが。
家人はそのままアパートに戻る。あたしは快晴にうかれてもう少しライカのショットを稼ごうとその駅から市内に向かって最初のメトロの駅、ガスメーターという変な名前の所に行く、もともと巨大なガスタンクのあった所がその煉瓦のガスタンクを生かして、商業施設になったものだ。中を一巡するに、名前の知られた安物の店ばかり。学校帰りの子供がよたっている。「銀座」という名前の東洋の食い物が食い放題の安店もある。
店内はつまらないが、ガスタンクと巨大な煙突の吐く白い煙はライカの題材だ。
適当に撮影してアパートに引き上げる。しかし珍しく快晴の日でこういう色彩は写真集には必須である。
撮影4本。

2011年1月15日 (土)

ライカウイーン日記 1/12

Photo ウイーンの冬は「グレーの光が降り注ぐ」。

これは今回の天候の悪さで思い附いたキーワードである。
回想するにここに七年半滞在していた当時、晩秋の週末に風景が色を失うとそのまま、翌年の復活祭の頃までウイーンの光景はグレー一色だった。ようするに面白くもないただ寒いだけのモノクロの季節である。
2月にウイーン人がカーニバルの馬鹿騒ぎをするのも、復活祭まで待てないからだ。

その晩秋のまだ晴れている最後の日の夕刻の光景の色彩はなにか深く記憶に残っていて、当時、住処のあったドナウ運河の遊歩道から河上を見るに、そこにはカーレンベルクの丘が遠望されて、今年の「最後の夕日」がその丘にあたってそこだけが色彩を持っていて、他のウイーンの風景はすでにモノクロームに脱色されていた。

数年前に「ウイーン モノクローム 70」という500頁の写真集を出したのもそのアイデアはそこらへんから来ている。
無論、ウイーンに住んでいた90か月の間にライカに使っていたのはもっぱらモノクロフィルム、それもトライXではなく、東独逸製のORWOとか、イタリア製の怪しいブランドのフィルムだった。これは当時、マリアヒルファー通りにあった、ムービーセンターのHECK氏の店で期限切れのショートエンドを買ったのである。現像はD76は変えなかったので(当時の清貧生活では)もっぱら印画紙用のD72を 25度にして適当に希釈して現像時間は5分という自己流だった。その当時のネガからプリントしたオリジナルを今でも売っているのだから、まあ無手勝流ではあるが、結果としてはあれで良かったことになる。
現像したフィルムは最初の数ヶ月のはちゃんとネガカバーに入っていたが、すぐにネガカバーが買えなくなった。
それで映画用の金属のフィルムの缶に大体20本単位で丸めていれてあった。それをようように6コマごとに切って、整理できるようになったのは、時代がくだって1980に日本に帰国してからである。

今回の新基軸は写真集の為の全部を、カラーネガ(コダックゴールド感度100)で撮影しようという点だ。理由は大したことはない。以前、これを300本とか買ったのにまったく消化されていないので使おうと思っただけのことだ。
このカラーフィルムの期限は2012の6月とある。
ただし撮りすぎになるのはいやなので持参本数はたったの45本だ。

デジカメの便利さの問題点はやはり撮りすぎにある。今回持参の2台のデジカメ(ペンデジタルとGXR)はしばしの休暇である。いずれにしてもデジカメに復帰するのは、この持参のフィルムがきれた時だ

2011年1月14日 (金)

ライカウイーン日記 1/11 MDにメガネ

Md

ライカはMD レンズはメガネ付きのズマロン35MM F2,8。
こういう使い方は始めて「発見」した。
普通はビューファインダーのあるライカM型につけて、ファインダー視野を縮小する、いわゆるゴーグル付きのレンズである。
本来はライカM3用と明記されているようだが、別にこれはM2系統のファインダーに付けても問題なく使える。

しかし、最初からファインダーのないMDに付けるのはちょっと常識はずれかも知れない。それではファインダーが見えないから、持参の本来は3Cに使う筈だった、ユニバーサルファインダーを付けた。
こうなると、カメラの前面にはトンボのメガネ、上にはビドムという満艦飾ライカになる。それでさらにライカの色はグレーのハンマートン仕上げなので、そこに急に専門的なラボで使っている研究用ライカのようなへんてこ気分が発生する。

NASAのライカなどもそうであるが、最初からライカの美学というようなことは無視しているので、ただただその組み合わせが使用可能であればそのまま、ライカのパーツやレンズを組み合わせて使っている。その「えぐさ」はなかなかだ。

いつだったか、クリステイズの銀座のショールームに登場したNASAのライカMDはそういうカメラであって、記憶はあいまいだが、マットブラックの本体にノクチルックスが付いていた。
それとは比較にもならないけど、前の日の撮影では、ウイーンの中央墓地にて美ぞふれっくす2に、エルマー六十五ミリを付けたのが、そのままびぞのユニットだけを外してそこにズマロンを付けたら、ファインダーのないことに気がつき、急遽適当なファインダーを付けたのである。
そうしたら期せずして「変なライカの美学」がそこに現出したのが面白かった。

2011年1月13日 (木)

LA SCALA APPARTMENT 森田ふみ子メモリアルツアー

La_scala

スカラ座には何度か取材に行ったことがある。これはイタリアでワールドカップのあった時だから少なくとも四半世紀前だ。

実は今回の写真集は数年前に亡くなった、母の実の妹さんの追悼の意味もある。その人は森田ふみ子さんと言って、あたしの日記の古いのにもその名前がでてくる。
3年前の春に亡くなった。

その葬儀の日はちょうど日本郵船氷川丸の改装なったセレモニーの日だった。あたしは自分では「芸人」のつもりであるから、ちゃんと氷川丸の上部甲板からお祝いのくす玉の割れる瞬間を撮影していた。
それは1000頁の写真集になったのである。

それから数年が経過して、今回、慰霊というほど大げさではないがウイーンに滞在して写真集を1冊仕上げることにした。背景を明かしてしまえば、今回はその「森田ふみ子メモリアルファンド」の経済的サポートを受けている。
実際問題、あたしのような貧乏症は1月も何もせずにウイーンなどに居られるものではない。まず写真集製作などは恰好の「ひまつぶし」である。

スカラ座にはあたしが小学生の頃、森田ふみ子さんはよく日比谷の映画館のスカラ座につれてきてくれた。うちは父親方面は単なる人生の苦労人であったが、母親の森田姓の方は教育熱心というか、文芸芸術方面に多大な興味をもっていた。

森田ふみ子さんはまだ、ジ・アルフィーが売れなかった当時、観客にパンを配ったステージを経験している。後年、坂崎さんにその事実を持ち出したら何かそういうこともあったらしい。

そう言えば別の親戚の森田すぎのさんというこれも故人だが、この人は最近になって歴史的に注目されている、大塚茗荷谷の同潤会大塚女子アパートに住んでいた。幼年時にここを訪問したのもあたしの貴重な記憶である。まあ、進んだ独身女性ではあった。

それで今、棲んでいるウイーンは三区のアパートの名前がLA SCALA というのは何かの偶然にしても何か出来すぎの感がある。

このアパートは11月にパリに居た時に、venereにて、実に200超の中の多くの施設からこれが良いとあたしが選んだのである。実際、ここが良いのはまず建物が200年は経過しているので、天井が高いこと。しかも3階建てで当時のクラシックなウイーンの建築の様子を良く残していることだ。

3階建てがステータスなのだ。この近所にウイーンの歴史的建築に登録された住居があって、そこはヨセフ・ホフマンが棲んでいた建物だが、80年代にそのアパートに住んでいたのである。これは普通の7階建てだし、その先の同じ小路のフーゴー・ホフマンスタールの棲んでいたアパートはこれは4階建てである。

あたしの理想を言えば、ウイーンの建築で本当に古いのは2階建てなのだが、こういう物件はなかなかにない。それで3階だての建物は貴重なのだ。

室内はご覧のように偽イタリアンテーストである。ここのオーナーは歌手の文化的活動をサポートするパトロンでもあるのでこういう名前になったらしい。しかも部屋数はたったの7個。エレベータはないけど、部屋は全部1階にあるから問題なし。

ところでウイーンで長年活躍しているピアニストのMさんから、いいアパートがあると別のルートで聞いていた。頑固なあたしはそれに耳をかさずに自分で選んだのがこのスカラ旅館なのであるが、後で聞いたら、なんとMさんが推薦したのもまさに同じ、このスカラ旅館なのであった。
こういう偶然もなにか「森田ふみ子メモリアルツアー」が不思議なリアリテイを持ってくる理由なのである。

2011年1月12日 (水)

ズマレックス85mmf1,5をおっことす

Photo

Photo_2

数年前の国立近代美術館竹橋のブレッソン展で意外だったのは、かのHCBさんが高速鏡玉のズマレックス85mmをライカM3につけて構えている写真だった。伝説では重い機材の嫌いな巨匠は50と90しか使わず、それも90mmは小型で軽いエルマーであると聞いていたからだ。

もっとも現代ではデジカメは感度はいくらでも上がるから、まずレンズはf4もあれば充分である。しかしフィルム時代、それもHCBの全盛時代には感度はまず10がスタンダードで感度50などは高感度の時代であったので、その分だけ明るい玉が必要だった。
現代の明るさ0,95など、あたしもデジカメ本の作例の為に使ったのみで、本当の撮影には一度も使ったことはない。ようするに不用なレンズである。

しかし今回は感度100のカラーネガで写真集の全部を撮影すると最初から決めてあるので一昨年にパリで買ったズマレックスを持参した。こういう玉は手にして遊んでいると、すぐに飽きる。しかし実際に撮影に使うとそういう重さとか大きさは気にならなくなるものである。

ウイーンのアパートに到着直度に整理箪笥にいれた衣類を捜索していたら、あやまってこの重いレンズが高さ2メーターの高度から床に落下した。裸で持っていればレンズと分かるのであるが、これを布製のポーチにいれていたのでこの事故になった。
見れば、自慢のレンズフードがひどく歪んでしまった。
しかしこの材質は伸縮性のある真鍮かなにかの筈である。だから叩いて直そうと思ったが手元にそういう道具はない。
ふと見れば、アパートの鍵がえらく頑丈そうである。それでレンズフードの隙間に籠を差し込んで、騙し騙ししながら、形を整形した。
無論、素人がやるのであるから実に下手なのだけど、なんとか「歪んだフード」のレベルにまで回復した。
石川直樹さんと話しをした時、海外遠征から戻って最初にすることは、マキナのひん曲がったレンズフードを叩いて直すことなのだそうだ。
その追体験をさせてもらったことになる。
暗いグレーの光の降り注ぐウイーンの冬であるから、別段、フードなどは必要はないのだけど、やはり形からズマレックスに入ったわけだから、レンズフードは常用しているわけだ。

そう言えば、一昨年の11月のペンデジタル本の撮影で、長崎に行った時にこの玉は活躍した。なにしろ、レンズの長さが170mmで明るさがf1,5などと言うレンズは他にはありはしない。

2011年1月11日 (火)

ウイーンを撮るライカトリオ

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今回はライカで撮ったウイーンの写真集の撮影でここに4週間いるわけだが、それ以前にライカでウイーンの街を楽しもうという気持ちで来た。
その意味では非常にリラックスして撮影している。
ウイーンには70年代から80年にかけて、延べ90け月滞在したことになる。
それに比較して今回は1か月であるから、その時間スケールで言えば九十分の一だ。でもそれで時間が足りないということはない。
というのは、今回の冬のウイーンの撮影は、自分の時間軸では1980年11月にいったん停止したウイーンでのライカ散歩を31年後にまた継続した感じなのである。
言いかたを変えれば31年前のライカ散歩の最後の足跡の先を引き継いでさらにウイーンの深い所に踏み込む感がある。

ライカで撮影することは、快楽の一種であるし、デジカメと異なりその場で結果が見られないこと自体が今の時代には大変な魅力になっている。これはデジカメが実用化された20年前には誰も予想ができなかった消息であった。
まあ、ロットのキャリーオーバーのような気分です、と言えないこともない。

ここにある3台のライカが今回のウイーンライカである。
まず1950年代のライカ3cには12万台、つまりかなり初期のエルマーが附いているが、このレンズはクローム仕上げなのがちょっとした謎である。

二台目はライカMDである。まずビゾフレックス2にエルマー65が附いているが、いざとなれば21ミリのスーパーアングロンや280ミリのテリート、さらには目測にはなるが、ズマレックス85 なども使える。

三台目はライカM4である。これはどこかのユーモアのある人が、例のライカの軍用カメラKE7aのコスプレをさせているのでである。これには正統派という意味で、ズマロン35が附いている。無論この偽KE7aにはほかの全部のレンズが装着可能だ。
フィルムは工事用カラーネガを45本だけ持ってきた。しかも24枚撮りだ。実は今回は初めてのカラーネガで本格的に仕事をするつもりで来たのだ。
ゆえにショット数が限られるから、1シーンは一枚しか撮影しない。
これが案外に面白い。
一番、今回の撮影で力を入れているのが、一昨年、パリで手にいれた、ズマレックスレンズである。しかしこのレンズを開放で真面目に使ったことは一度もないので今回は86mmレンズは標準レンズのつもりである。

2011年1月10日 (月)

モスクワ空港のターミナルE

E

一昨年の5月にアエロフロートでモスクワ経由で東京に戻る時、エアフランスが遅れた。その便は機材がリスボン発でそのしわ寄せがモスクワ到着に一時間半の遅れをもたらしたのだ。
モスクワではすでに東京行きは出た後で、一泊ビザなしで空港の向かいのノボテルに収容された。20時間ほど暇だったので、窓から見ていたら向かいに一大建築が建設中だった。
それがモスクワの新ターミナルとは当時は気がつかなかった。大勢のワーカーがなにか人海戦術で働いている印象があって、そこに「うらー!」の叫びでも聞こえそうな感じだった。

今回はモスクワに着陸のA330は着陸復航をして、もう一度モスクワの北の空を低高度でゆっくり周回した。着陸復航は10年前のベトナム以来、二度目である。これは拾いものだった。視界は完全に良いのに着陸直前とはなにか滑走路上に他のとトラフィックがあったのであろう。

それでエンジンをふかしてまた上昇するダイナミックな感じを味わった。セスナ乗りのBMW野々宮などは訓練でしじゅう、このタッチアンドゴーをしているわけだが、われわれ一般乗客にはなかなかその機会はない。この着陸寸前にそれを断念してまた上空に戻るあの感覚は、なにか現代に「ヒロイズム」がまだ存在するとしたらそれはまさにこれなのだ、と思わせる。

20分後に着陸したその新ターミナルはDと呼ばれて昨年後半から運用している。今回はまず東京からこのターミナルDに到着して、ラウンジでアルメニアコニャックなど飲んでいたら、係りの女性がきて「自分の間違いであなたを入場させてしまったが、あなたはたーみなるイエから出発する客なのでここを立ち去って欲しい」と言った。この「イエ」が何か分からなくて何度も聞き返してそれがEであることが分かった。ようするに乗客はそのターミナルのラウンジでしか、酔っぱえないというロシアの法律が存在するようだ。

ターミナルEはDとFのターミナルの間にある。これも新しくできた施設である。そこにはE専用のラウンジがあるので入ってみた。
まず、入り口に巨大なロシア語の看板が出ているので、それがあたしのような人間にはラウンジなのか従業員出入り口なのか分からないのが一興だ。

なかはどこかの学校の体育館のような広さである。あまりに広いので中で迷子になった。経済好調のロシアだからこういうものを作るであろうが、あまりにでかいとなにか落ち着かない。体育館サイズの部屋でなにかしていた記憶を呼び戻したら、それは3年前の秋、サンクトペテルブルクの寿司屋がそういう人民大会堂サイズだった。その名前は「やきとり」と言ったな。

ラウンジの奥のトイレに行ったら、割烹着のおばちゃんが座っていて、トイレのドアは厚手のベニヤ板でそれがちょっと壊れていたりして、そこだけが普段着のロシアである。ようやく往年のソ連時代の公共施設の面影がでているのでそれを見て安心した。
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ラウンジの窓にはサッカーボールサイズのクリスマスの銀玉がぶら下がっている。その外はマイナス10度のターミナルの広場で向かいには市内に行く、オレンジ色の電車の駅が見える。

2011年1月 9日 (日)

ウイーン初日

終日ウイーン徘徊。
気温は3度前後にて温暖。
アパートから出撃。
機材はM4(例のKE-7Aではないモデル)レンズはズマロン35,ズマレックス85
撮影二本。
デジカメ携帯せず。
ゆえに画像なし。

2011年1月 8日 (土)

回路カメラ

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Raiak

★予定原稿

金曜の夜遅く、時差が8時間あるから日本時間の土曜の朝にウイーン到着。ウイーンはたしか6年目である。この前はリスボンからオーストリア航空でウイーンに到着して今回のアパートの近くの宮殿ホテル、パレシュワツツエンベルク(ただし部屋代が高価なので、パークビューではなく、パーキングロットビュー)に宿泊した。

いきなり回路の一昨年の画像で恐縮だけど、その理由は今回、ライカで真面目に撮影をする為に各種のライカとレンズを持参したのだけど、一昨年の秋の回路でも同じことであったということを言いたいのだ。

ホテルは16階にあったので、このkernの双眼鏡も役にたった。

回路つながりという意味では、実はあたしが最初に会ったハリネズミは回路の出身の人なのである。70年代にウイーン在住の日本人絵描きSが弟さんが回路在住(たしか破綻した証券会社)なので、遊びに行ってその帰りに一匹のハリネズミを不法移民させたのである。なんと愛らしい動物であろうかと思った。

うちのハリネズミはその後、1985年当時に「来日」したのであるが、1988年のクリスマスイブに昇天した。

その霊を追悼しよというので1988年の2月にハリネズミの「遺針」を持って、アエロフロートでウイーンに向かったのが、霧の為に飛行機はプラハに到着してしまうそこで一泊を余儀なくされた。その二月はプラハの自由化運動が最高量になった二月であった。これもハリネズミのご縁である。

そういういろいろなわけで、回路とハリネズミとプラハとウイーンはなにやら複雑な多角形を形作っているのだ。

★リアルレポート

モスクワ着のSU576が着陸復航。快晴で気流も良いのにその理由は不明。ランウイイ上に障害物か?

今、ラウンジ。これより午後9時のSUでウイーンに。ウイーン到着は深夜。

2011年1月 7日 (金)

雪のプラハ

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本日移動日。約一月のウイーン滞在の始まり。

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昨年の12月(ってまだ先月だが)のプラハの雪は凄かった。実はプラハの雪を見るのがこの数年来の念願であったのが、いきなり1月と12月にその夢が達成されてしまったので「もう結構」という感じなのである。

宿泊のアーパートは国立博物館のすぐ裏手という最高のロケーションなのだが、買い物は皆さん、中心部に行ってしまうらしく、食品店などまったくない。銀行と旅行社と携帯屋と怪しげバーと、つまり生活にはまったく必要のない店が軒を並べている。

昨年の3月のジュネーブでやはりレマン湖のほとりには個人銀行と時計屋したなかったのと同じだ。

それでプラハの場合、食品などは徒歩20分ほど離れた、カルロボナメステイ広場に買いに行った。ここは14世紀にプラハの黄金時代に出来た広場であるが、広場というよりも公園である。

セントラルパークが小さくなったものと理解した方が分かり易い。ただしこの公園幌場は完全に寂れていて、もともと寂れた「廃園」趣味があたしにはあるのだけど、ここはその寂れ方がちょっと気にくわないので、眼中になかった。

それが今回の大雪でなかなかの良い感じにかわったのである。雪が地上の雑多なものを消してくれたせいだ。

この片道20分の散歩は気晴らしにもなり、アパートからよく買い物に徒歩でいった。無論、この広場からあたしのアパートまでは市電があるのであるが、その市電の停留所はかなり先に停まるので結局散歩の方が良い。

マンハッタンの雪景色を撮影した名作にはアンドレ・ケルテスのワシントン広場をかなり高層階の彼のアパートから撮影した一連のシリーズがある。この広場もかなりの高い所から撮影したら面白そうだ。ただしこの界隈は歴史的保存地区であるから、そういうタワーマンションは存在しない。

2011年1月 6日 (木)

パリの窓

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昨年の11月の巴里行きは、あたしのパリ体験の中でも圧倒的に天候が悪かった。
にもかかわらず、おかげさまで「PEN PEN チョートク日記 プラハ・パリ」は好調に売れている。構成をしてくれたデザイナー氏は若い人であるが、われわれの世代のように「綺麗な写真」にこだわらない。なんでも聞いた話しでは、暗い写真の方が良いのだそうである。
「PEN PEN チョートク日記 プラハ・パリ」はアマゾンのガイドブックのジャンルのアクセスランクでは、一時は第三位まで行ったのだから大したものだと思う。

一昨年の夏にプラハを撮影して、それで写真集ムックを出し、昨年の2月にはリスノンンに行って、その第二弾を出し、昨年の10月には新書サイズでペンでヘルシンキを撮影したのを出し、さらに12月には今度はパリとプラハをまとめて出すことができた。それらはいずれも軽量小型で老人に(無論、若いカメラ人類にも)優しいペンペンのおかげなのである。

昨年の春の写真展では、そのリスボンの画像をかなりの大きさのプリント(これをBゼロという)にしてしかもJPEGでこれだけ伸びるかと、ペンペンの開発者さん連が自身が吃驚というエピソードもあった。
まずマイクロ4/3で何でも来い!という気分なのである。

思うにペンペンは一昨年の夏のペンデジタル1に始まり、それがペンデジタル2に受け継がれて、さらに初代のペンデジタル1が カメラグランプリ2010を受賞した。今まで、フルサイズの高性能主義のデジカメばかりがグランプリという様子がペンペンの登場でその様子が変わってきた。
ペンペン女子という新たなカメラ人類が登場したのも一昨年来の新基軸である。

つまりあたしにとっても、ペンは三年目になるのだけど、まずもともと「性能でぶっちぎり勝負」というデジカメではないから、息が実に長い。それで目下、これで不便は感じていないのだが、ペンペン三年度の2011年には初心に戻って、例の17mmの広角レンズだけで、フットワークの良いスナップを撮ろうというのが、念頭の所感である。

もっともここに掲載した2点の写真は昨年の悪天候のパリのショットであるが、この時にはもっぱら11倍ズームのお世話になっている。それはそれで面白いのである。
上の画像は歩行中に向かいのモダンアートギャラリーの中の展示が、それが絵画なのか写真なのか良く分からないという点が撮影の興味の中心であった。
時々、街角のミラーっぽい外装に正体不明の東洋人のじじいが映るのも、なかなか酔狂で面白い。

昨年の12月にはプラハの人間が行き来できる深いトンネルをプラハ市内に発見して、そこに登場するプラハ市民がまるで前衛劇に登場する俳優のようなので、そのことを明日7日に発売の「新潮」の2月号に書いた。
そこで思ったのはプラハ市民だって、そのトンネルの中でこっちを観察しているのだから、彼らの目にはあたしはどう映っているのであろうかという点であった。その印象は上の画像のように見えているというのがその答えなのである。
詳しい説明はしないけど、まずこれも東洋の神秘であることには違いない。

2011年1月 5日 (水)

ウイーンとライカの日々2011

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旧臘の降誕祭の頃から、そわそわして、ちょうど遠足の前夜の気分であったのは、ウイーンに持参するカメラの選択の件である。
実はこれが10回ほど変遷して、元旦の日にいよいよエクトラをウイーンに持参することにして、初鶏をしたらそこでテープカットになったのでウイーンであわてふためく危険が回避された。これは実に有り難い。

その後も持参のカメラシステムの様子が20回ほど変化展開して、ようやくに決定したのがこのアウトフィットだ。
ここに至るまでの経過は実にそれだけで本が一冊分になる。機材の準備は重要であって、名著「チベット放浪10年」などでも、あたしはその用意した機材のリストは記憶するほど読んだ。昭和12年当時のこの地域の旅はクルマもクレジットカードなどないから、駱駝を数頭、それに銀貨を何百枚も用意するのである。

さて、ウイーンとライカの日々(日本カメラ社)が出たのはもう10年の昔である。あれはウイーンでの仕事の取り敢えずの画像の統括をしたつもりにて、70年代に主にライカで撮影したウイーンのスナップショットの集積した写真集である。さらにその集積をもっとでっかくしたのが数年前に出した、「ウイーンモノクローム70」であった。

今回のウイーン行きは1月の駆け足滞在ながら、自分の70年代のウイーンでのライカの日々を追体験して、それを現在の2011年のウイーンとつきあわせてみたい。
これは写真集にする。

それで選考した機材は以下の通りだ。

★ライカM4(例のKE7aではないモデル)
★ライカMD(最初期ロット)
★ライカ3C (早田カメラシール付き)

レンズは
★スーパーアンギュロン21mm f4
★ズマロン35mmf2,8
★ズマレックス85mm f1.5

ビゾフレックス2型
★エルマー65mm f3,5
★テリート200mmf4

まずは60年代の報道カメラマンという恰好だ。
もっと長いレンズも欲しいが、さいわい、昨年の暮れにウイーンのライカショップで落札したオールドデルフトの400mmが向こうにあるのでそれをピックアップ予定。
さあて!
機材は揃った!
後は撮るだけだ!(人形町の快生軒のマスター、佐藤さんの名言)

2011年1月 4日 (火)

田中光学

Tanack1

茨城県の取手の田中酒造はうちの遠い親戚である。大昔、JTBの取材で出かけて、そこの当主と話しをしたら、銚子の共通の祖先を知っていた。そこの酒は「君萬代」と言ってなかなか飲める。
田中光学はその点、遠い親戚ではない。しかし昔から同じ田中姓なので近親感を持っていた。
戦後にはアメリカ市場で田中光学のタナックというライカコピーは一世風靡した。なにしろ、レンズが三本ついてそれでまだ当時のライカ3Cよろかなり安いのだから売れて当然である。
そのタナックはよほどアメリカに在庫があったのか、つい最近までEBAYなどでも捨て値であった。それがようやくに払底したのは最近では500ドル以下の個体を発見するのは困難になっている。同姓のよしみであまり中古価格が安いのもどうかと思っていたのでこの傾向は歓迎だ。

Tanack2

このモデルはV3というのであって、当時のキヤノンVLに似せたデザインなのである。ところが本家のキヤノンと比較してみると、デザインはなにかこっちの方が優れていると思うのは「身びいき」かも知れないが事実に思える。
シャッターもちゃんと落ちるし、すくなくとも米国のエクトラよりかは信頼に足りるシャッターである。
このV3型はライカM型に似たバヨネットマウントである。無論ライカとは互換性がない。しかもこれしかないマウントアダプターでライカのスクリューレンズが使えるのがユニークというか不便というか。この個体でもマウントアダプターは1個しかないから事実上、そのメリットは享受できない。

Tanack3

V3のチャームポイントはこの背面のフラッシュの計算板だ。カラフルだしなにか、ケプラーが描いた惑星軌道図の感じがある。背面のデザインはシンプルで洒落ている。別に身びいきの感想ではないと思う。

Tanack4

タナックV3のライカに長じるのは、裏蓋開閉式のことであろう。これはM型より優れている。ライカだとフィルム交換中に手元の離れた底蓋を紛失しないように気をつかうのが面倒である。

2011年1月 3日 (月)

EKTRAとEKTARで初撮りでテープカット

Ektar

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71610018

今、書いている連載ものはいずれも3月号である。正月号はすでに11月に原稿は入れたわけだ。

紙の出版物はそういう風に前倒しは明治時代からの伝統であるが、オンラインの出版はそれよりずっと楽である。TWITTCASTなどは、木星球の突撃隊長などが愚にもつかない映像ライブをよくアップしているが、これなどは「世界中で自分以外に2人が見た!」などと喜んでいるような「ハイレベル」なので、実に反プロパガンダの感があって感激する。

ブログの画像はそのような同時性はない。特にこのエクトラの初撮りなどは、旧臘に撮影して有楽町の55駅にて30分で現像依頼したのをアップしてある。お正月企画だから昨年に撮ったものだけど、それでもかなりの速度ではある。

撮影はエクター50MMF1,9である。1940年代にはライツのXENONには負けたがそれでも今の世ならのくちクラスのレンズだ。当然ながら当時の最先端の光学技術なのでレンズのぼけとか周辺とかかなり甘い。電子計算機の設計ではないので、設計者のお名前もちゃんとコダックの歴史の中に見える。こういうレンズと設計者の顔が一致しているのは、せいぜいが50年代の観音あたりまでであろう。その顔写真もある。現今の優秀レンズがつまらないのは、レンズを創造した人物の顔が分からないことだ。

エクター50mmは当時のコダックの資料でもf1,9より、f3,5の方が性能が良いと書いてある。そういう真実は最近のレンズ関係者は絶対に書かない。大東亜戦争の対戦相手は当時はかなりゆとりがあったのだ。

フィルムはコダックに敬意をはらって、コダカラーの100である。シャッターは1/250で絞りは開放からf8まで。

★追記21

この画像は暮れに撮影。本番の元旦には中央大橋から鉄砲州神社、湊から佃大橋。住吉さまの「小周遊」。エクトラで2本撮影。湊の小公園で小休止して、マガジンを外したら、アパチュアに見慣れない黄色いリボンが見える。つまりシャッターの「新年のテープカット」なのである。大体がエクトラで2本も撮影するのが「無謀」である。

元旦早々実におめでたい。エクトラをウイーンに持参しないでよかった。

年明けの吉例はまずエクトラを修理に出すこと。
1940年のエクトラのUS PATENTの記事を見たら、そのシャッターがいかに優秀であるかが列記してある。まず登場から70年後に壊れるなどは、かなり優秀なシャッターであろう。3

2011年1月 2日 (日)

空筒新年

Photo

昨年の正月と今年の正月の大ガラスの部屋からの眺めは大幅に変わった。
昨年は一月にプラハで写真展を開催して、それは80年代のモノクロプリントのプラハと2010年の東京をデジタルで撮影した二つの街の対話シリーズであったのだが、そのデジタルの東京ではこのスカイツリー(これははっぱがついていないので正しくは空棒か、以下、空塔と書く)はまだ隣のタワーマンションよりちょっと背が高い程度だった。
それがほとんど毎月の欧州行き(夏期は行かなかった)で、大ガラスの部屋に戻ってくるたびに、空筒が成長しているのがうれしかった。そのくだりは「カメラは詩的な遊びなのだ」(アスキー新書)に書いて通りである。

空筒の登場で、大ガラスの部屋の北西角部屋は今までは「方位が悪い、日当たりが悪い」というので賃料が安価であったのが、三井の賃貸がそれに気がついて賃料をあげるかも知れない。もっとも築23年目のタワーマンションだ。

大ガラスの部屋からの眺めは斯くの如しであって、中央大橋と空筒が良い案配である。これを新潮連載の「屋根裏プラハ」(2月号は1月7日に発売)で「平壌のような、東ベルリンのような、テレビ塔は専制主義国家の象徴」と書いたら、新潮校閲部から「平壌のあれは記念塔であって電波塔ではありません」の指摘を校正紙に認めた。校閲部に感謝。

伊予松山が奥様の実家である「ライカの父」(ライカちゃんはお嬢さんの名前)から挨拶が来た。

★正月や橙投げる屋敷町      子規 新年明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いします。 伊予松山にて    らいかの父

というのである。日本の新年に「のぼさん」の故郷はいかにも相応しい。あたしは一度も松山には行ったことがないから、今でも「侍町は塀ばかり」だと思っているのだが、松山もモダンな日本の都会なのであろう。
この年賀DMが雅なので
その返信。

★正月も東くだりか都鳥 長徳

新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
 

2011年1月 1日 (土)

年頭の所感

Photo

新年あけましておめでとうございます。

本年もPEN PENチョートクカメラ日記を隅から隅までずずいーーっと
ご愛読のほど、御願い(チョン!と拍子木)たてまつります!

さて2011年にはさしたる希望も念願もないが、今年の計画は数年越し懸案の「チョートクカメラ日記」のまず最初の3年分を上梓。限定250部。序文は福田和也さんに御願いしよう。付録としてサイン入りのオリジナルプリントつけて1カメラ円ぽっきり。これは書店では流通させない。版元は東京キララ社。
限定版[チョートク佃日記2001-2003](仮題)は本ブログ上から注文できるようにします。

二番目の希望は文芸誌新潮に連載中の「屋根裏プラハ」が20回で完結するので、これを新潮社から単行本で出すこと。

三番目の希望は愛蔵写真機をどんどん増加させること。ペンペンデジタルとか理光のような優秀なデジカメが周囲を固めてくれているので、クラシックのフィルムカメラを安心して使うことができる。今年もデジタルと「銀しお」の二本立てで行く。

さて、上の画像の「解題」である。
四谷の杉大門通りのアローカメラ我楽多屋の旧臘の忘年会でいただいたのがくだんのうさ公である。
これは何に使うのかしばし考えて思い附かなかったのが、大晦日の午後になって分かったのはこれは極東の古い習慣のチャイニーズホロスコープの意匠であったことが判明した。それでここに登場。

キヤノンのRMはこれも旧臘に目黒の散歩ーカメラで手にいれたもの。実は最近のキヤノンはまったく脳内にないが、F1までのキヤノンはその歴史の順番もちゃんと暗記している。その中で還暦プラスになるまで、今まで使ったことのないカメラがこのRMなのである。ブラックがホンモノか後塗りかはこのさい問題なし。

ただお正月企画としては、そのまま観音純正レンズではつまらないので「サードパーテイ」製のレンズをアダプターで付けてある。
昔の一眼レフの取説では「他社のレンズを付けた時にはその性能は保証できません」の一文があったと記憶する。これも似たようなもので性能が期待できるかどうか、その辺りは不明である。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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