フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

ロック ユー

« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

2010年12月31日 (金)

倫敦製カメラとメタルフード

18

19

例年のことであるが、大晦日が接近すると「今年最後のカメラ買い」をしたくなる。財務状態が皆さん、良いわけがないので本当はそういうことはしない方が良いのだが、歳末の暴れ買いをすることで、精神的に元気になれるのならそれも悪いことではない。

都の西の方にある、散歩ーカメラはクルマで行くなら良いが、あたしのような交通弱者だと、なかなか行くことができない。どちらの私鉄の駅から歩いても20分はかかる。

水曜日に久しぶりに野々宮BMWに搭乗して2010年の総括をやった。この場合クルマの中での放談が面白いので、クルマは止まっていても良いのだが、東京は駐車場以外には勝手に駐車していると、お上の目がうるさい。それで走行することにした。
「散歩ーカメラは絶対に今日は休みだから、その前を通過してみよう」ということになった。目黒郵便局の前を左折したら、運悪く例のネオンが煌煌としている。こっちは閉店しているお店の前を通過する(こういう遊びは徒歩ではちょっと不可能)するつもりであったので、実に迷惑である。
しかしそのまま通過するような根性もないので、店内に入った。

たしかに一時は山のように在庫していた、ニコンSとS2のいわゆる「ぐにゃり系」が一台もない。華国のバイヤーの手が伸びたのかも知れない。
店内徘徊して感動したのは「ロンドン製カメラ」というやつだ。オーソドックスは手持ち一眼レフである。レンズはロスエクスプレスかなにかがついている。大陸番の乾板の撮り枠がついているから、まず実用にはならない。その名称のロンドン製というのが気に入った。思えば第一次大戦時まで、ロンドンは世界の写真機の一大センターであった。パリを凌いでいた。

明治時代にはロンドンに留学するのが正統な学問の方法(漱石など)であって、パリに留学するのは腰抜けか遊び人(荷風など)であった。それが時代は変わって、英京倫敦の銘機がこのような感じで出ているのである。
そのうち、世界のどっかの中古カメラ店に「東京製照相机」とラベルがついているクラシックカメラが登場する時代は近い。
感動のあまり、手にした胃フォンが震えてぶれてしまった。まるでDデイである。

その向かいには高級レンズの代名詞のアポテレ鉄鎖ーがあった。これはイエナ製でないことは確かだが、西独逸なのか東京製なのかは不明。感心したのはそのレンズフードに「金属製」と刻印してあることだ。そんな中古レンズで価格がこんなに高価なのだから、新品の値段は想像もできない。そういう超高価なレンズのフードに金属製と刻印することを命じた津アイスの偉い人は、ほんとにユーモアのセンスがある。
ちなみにあたしの愛蔵している、瑞光200mmは航空写真用レンズで後年に鏡胴にいれてミランダ用に改造されている。そのレンズフードはボール紙製なのであるが、どこにもそのことは刻印されていない。

さて、皆さん。カウントダウンの時間も接近してきました。
来年もペンペンブログをご愛読よろしくお願いします。

2010年12月30日 (木)

エクトラ ニ サイカイスル

Ektra

偽ライカ愛好会のVというのは、アパレル関係者であるから超多忙で日本と中国を年中行き来している。その仕事のストレスがカメラの暴れ買いで緩和されているのは、実にカメラはお医者さんの感がある。

年末年始は心が改まる区切りであるから、やはり「あたらしい中古カメラや古レンズを揃えて、それに癒されつつ新年を迎えたい」というのは、これは親父の趣味というより、知的生活者の精神のセラピーである。紅白やパチンコだって無論、セラピーには良いかも知れないが、あたしはそっち方面には縁がない。

そのVは最近はライカフレックス方面で治療されているらしいが、不幸なことにその特効薬の交換レンズが市場に払底していて手に入らない。そうなると業界人のVであるから、数ダースの忘年会と称する、暴飲暴食集会で正体なくなるまで痛飲して翌日は頭痛だけが人生というわけだ。
これは良くない。

20年ほど前、まだ不二越カメラ店が三越の向かいにあった当時、やはりあたしは大晦日のカウントダウンが接近するにつれて、情緒不安定になり、思わず飛び込んだ不二越で英国海軍のAP(アドミラルパターン)の刻印付きのライカ1Fを二台同時に入手したことがあった。
それはしかも連番なのである。
「これさえあれば、俺は大丈夫!」とその時に思ったのだ。その活力が作用して、2011年をこれから迎えられるのも、実は20年前に買った大晦日のライカであったというのは、可能性があるのだ。

それで2010から11へのカウントダウンでは、あたしは密かにウクライナの買い付けのセラーがEBAYに出していた、1940年代のROLEX 8DAYSを買おうと思っていた。例のPANERAIがそのオリジナルで使ったメカである。

それのオークションの進行状況を確認して、さて国内のヤフオクを見たら、そこにコダックエクトラが出品されていた。それでいきなり修正主義者になったのだ。
エクトラはたしか6年ほど前に、飲み代の支払いに困って、坂崎幸之助さんをヒルズにお呼びして、買ってもらったことがある。それが自分の持っていた最後のエクトラなのである。
ひさしく、エクトラの顔を見ていないので、これに決めた。その翌々日、飛騨高山からくだんのエクトラのセットが届いた。
それで、久しぶりに使い方を思い出しながら「これさえあれば俺は大丈夫!」と妙に自信を深めているのである。

2010年12月29日 (水)

GXRレンズを整列させてみる

Gxr

数日前、ゴスペラーズの酒井さんが旅先で、ついふらふらっとGXRの28MMのレンズユニットを入手してそれでどっかのイルミネーションを撮影したという短信をついったーで読んでその影響であたしも同じレンズユニットで東京大周遊をしたらこれがなかなか「偽ライカ」っぽいので良かった。
昨年の晩秋に岡山で「GXRワークショップ」を撮影した時にはまだレンズユニットのAPS-Cの方は50MMしかなかったわけだが、こうして28MMと50MMが揃うとかなり「真面目な撮影の為の機材」という感じがする。
ここに整列させてみた、GXRのレンズユニットは上の方の2本は、ズームレンズであるから、いかにも新鋭のデジカメという感じであるが、プライムレンズを使うとなにか「知的な撮影用カメラ」という感じになるのは、これは気のせいではなく真実である。
その気分を分析してみれば、ようするに数十年来愛用のライカ連中にはズームレンズは使ったことがないから、プライムレンズで撮影しているとその時のカメラと周囲の空間の身体関係は「ライカのレンジファインダーとほぼ同一」なのである。

最初にライカM2で撮影を開始した当時のレンズはズマロン28MM F5,6であったのだが、その時の28MMの視覚というのがカメラとレンズの身体性に擦り込み現象が起きているのである。さらにそのルーツを探れば、高校時代に最初に手にした広角レンズはニコンF用の28MMであった。

今、考えついたのは、やはりここでカメラユニットをもう一台用意することだ。レンズユニットがこれだけ揃っているのに、カメラユニットが単一なのは、なにか勿体ない。

2010年12月28日 (火)

GXRに28mmで東京の昔

M2

M2_2

東京の月曜日。

ヒルズに仕事に行かねばならないのだけど、せっかくの快晴の東京なので、東京大周遊。

持参のカメラは千九百六十八年当時に戻って、ライカM2のブラックにライカビットMPである。レンズはズマロン28mmf5,6を付けて、トライXを20本持った。

と言ってもこれはバーチャル上のライカM2であって、実際にはGXRに28mm〔相当)のレンズが付いているのだ。

あるいは考えをもっと前身させて、往年のGR1にプレスト1600を装填したと考え直しても良いが、GR1の場合にはあまりに携帯がしやすいので、これはあまり想像したくはない。それにGR1の場合には例の「ストラップレスアナーキスト同盟」の件もあり、Gパンの尻のポケットに入ってしまうのがつまらない。

ライカM2は首からぶら下げていたわけで、その意味で28mm付きの往年の愛機をバーチャルするには、GXRが適当である。

最初は新木場に行って、そこから都バスで西大島まで出て、昼に神田神保町のエチオピアに行ったら、様子が変である。券売機が壊れてしまったのである。それでお店の人に現金で払ったのだが、券売機は頭いいから、値段間違えないけどお店の人だって頭は良いのだけど、通常、大盛りとか、ルーおおめとかそれにバリエーションがからんでくるので、これは自販機の方がクラスが上である。

なにかあたしがM2を懐かしんで東京大周遊をするのでGXRを持ち出したのとちょうど逆の状況とも言える事件が起きたわけである。

徒歩そこらじゅうを徘徊して、神田を撮影。このミルクホールはあたしの20代のランドマークであったのが、まだ存在するのでかなり嬉しかった。これをまさにこんな感じでM2ブラックにズマロン28MM F5,6で撮影した日々のあったのだ。

午後遅く大塚公園に到着。子供のサッカーに興じるのをバーチャルM2で撮影。もっともオリジンの千九百六十八年にはサッカーはこういう場所での遊びにはなっていなかったな。

それを見ていたら背後で津軽三味線が響く。この冬枯れの公園とじょんがらがなかなか良いコントラストである。見れば公園の「ちん」(漢字変換できず。小亭のこと)で若い男性が演奏している。なかなか聞けた。

それから日ノ出町の「名も無きコロッケ店」で店主と哲学談義。

撮影カットはトライXで8本であった。(デジカメだがフィルム換算で)

2010年12月27日 (月)

石川直樹写真集「コロナ」振り返る白馬

16

17

土曜の晩、荒木町のトラットリアで、隣の写真人類さんが開いていた石川直樹の新写真集「コロナ」のことは昨日のブログに書いた通りだが、そのプレースM帰りのお二人が有名出版社P社の人だったので、あたしのワインの酔いも手伝って、その「コロナ」の価格のことになった。

定価0.36カメラ円なのである。これは部数が相当でないとこの価格では困難だ。石川さんの写真集の売れている証拠である。
あたしが10月、プラハに居た時にBMW野々宮が石川直樹がユニクロTV広告に登場して、なんでもマキナ670も映っているような話しだった。あたしはTVは見ないけど、そのCMはみたいと思った。例の歪んだレンズフードは映っていただろうかとそれが気になった。

日曜の朝、2週間の間にたまった郵便とか配達物の山をよりわけていたら、一番下に大きな封筒が見えた。あたしにはピンときたのである。

それは土曜の夜の荒木町で開いた「コロナ」サイズであったからだ。
なかかららは手紙を添えてコロナが出てきた。
まず最高のクリスマスプレゼントである。

全写真を「速読」で読んだ。
なんどかエッセイで触れた「プンタアレナスの振り返る牛」のことが頭にあったからだ。そしたら今度は「コロナの振り返る馬」に遭遇したのである。

この馬を目を見て、これはスペイン乗馬学校の白馬とどっちが幸せであろうか、と愚にもつかないことを考えた。1月の第一週からウイーンに行くのでそんな連想が誘発されたのである。

2010年12月26日 (日)

コロナとキヤノン

14

15

プラハから帰国二日目。
恒例のシドニー。
プラハの話しをもっぱらする。

我楽多屋さんにて、ビテッサTにレンズ3本付きを買う。以前、大竹省二先生からこのカメラが良いという話しを聞いて、欲しかった時代から20年は経過している。今朝、出がけにビテッサの蛇腹モデルに触ったのが、「呼んだ」のかも知れない。
シドニーの忘年会あり。大盛況。
宴果てて、野田買い取り名人と荒木町の某トラットリアにて赤ワイン。なかなかいけた。この前、我楽多屋さんで買った、キヤノンVLのブラックと前から持っている、キヤノン6Tのブラックをカウンターに置いて鑑賞する。

そこに写真人類の男女登場。石川直樹さんのあたしの知らない写真集をそれぞれに広げている。
失礼を承知で声をかけたら、P社の人で、プレースMの石川さんの会合からの戻りという。これは奇跡だ。お願いして新写真集を見せてもらう。
視神経覚醒する。

2010年12月25日 (土)

ノスタルジー

12

13

極東の降誕祭前夜を味わう。

プラハのメトロは3線という分かり易い構造だ。あたしのアトリエはそのA線の北の終点にある。これがグリーン。B線は黄色でモルダウを東西に横切る。C線は赤でこれは北西から中心に向かってまた南東に走る。A線とB線はモルダウを潜るが、C線はモルダウの右岸を走る。

25年ほど前、日本の団地にノスタルジー感じて、撮影に通ったのがC線の南の終点の大規模団地だった。以来5−7年ごとに撮影にゆく。ただし大雪の後に撮影に行ったのはこれが始めてだ。

プラハの街が「そこだけで世界に唯一の独立世界」に思える理由はメトロの終点からはその先の集落に連絡するバスがあるが、とこから私鉄でさらに別の街に連絡するというのはない。これがプラハをある種の良い感じにしているのである。

それが雪で覆われるとさらにその妙味が増加する。今回、普段見ているはずの駅前の広場で今まで見落としていたのは、社会主義国時代のこの銅像であった。由来などは知る由もないが、コスモノーツ(その服装で分かる)と、労働者が立って、お互いの健闘を祝しているような構図であった。まず宇宙飛行士が東西競争の威信をかけた代理戦争であった時代の典型的な構図である。この宇宙でも代理戦争は最近では流行らないが、その代わりにサッカーや五輪での代理戦争がある。まあこういうのは感心しない。

零下14度の環境から脱して、C線で今度は北上して中心部を通過して北の終焉まで行った。こちらは最近になって完備されたターミナルで、これは宇宙的な感じがする。南の終点のコスモノーツの像だって、宇宙的であるわけだがそれは半世紀前の宇宙感覚だ。それに対して北の終点のモダンなメトロの駅とそれに連絡する郊外バスの連絡ホームはすこぶる、今の時代の宇宙感覚がそこに具現化されている。

これはその背景の雪景色にあるようだ。

2010年12月24日 (金)

東京滞在二週間

11

プラハのラウンジには、クリスマスツリーがある。
その先の窓のソファで出発前に飛行機の着発を見るのは何時ものことだ。
朝の7時にリムジンに迎えにきてもらった。今回、2週間の滞在でプラハで一度も氷で転倒しなかったのはありがたい。
しかし、今朝の出発時が一番危険だった。このアパートメントの前の短い通りは、雪かきをしないので、かなり危険である。ようするに一日待ち歩きして、結構足下の悪い箇所を通過するが、アパートメントの前が一番危険だ。ブラックアイス状態になっている。

プラハモスクワは朝の11時の便はa321だった。何時ものa320よりキャパがちょっと大きい。それでベルクヘッドの座席がかなりの足下のスペースがある。

モスクワターミナルDのラウンジでまたシャワー。何が面白いと言って、ここのシャワーブースはバスタオルではなく、大きめのキッチンタオルなのである。これを2枚使って身体を拭くのはちょっとコツがいる。自分が巨大名どんぶりかスープ皿になった気分だ。

モスクワ成田は、機材が突然にA330からB767に変更になった。こっちの方がキャパが少ないので、多分、A330の方は上海行きになったのではと思う。
そうなると、オーバーブッキングになるので、YのエリートメンバーはDに格上げになる。あたしもその一人だった。
せっかく24Aの広い非常口座席を確保したのに残念なことだ。シートは2a

成田到着前、左手に銚子の突堤と犬吠崎と市街はまるで作りもののように見晴らせた。高度は6000ftほどか。これは素晴らしかった。

2010年12月23日 (木)

雪上の落書き

3

★本日移動日 プラハ モスクワ 東京

ハンガリーオーストリア帝国の版図の建物はどこも同じことである。

あたしのアパートメントの向かいには、最近できた安ホテルがある。安ホテルは最大の人員を収用する必要があるから、部屋は狭く天井が低いのは、経済の常識である。

それで今居る所は、天井は4メーター強あるので、それに慣れてしまわないように時々、向かいのホテルの天井の低さを確認して、これから到着する佃の部屋に驚かないように「訓練」をしているつもりなのだが、さてこれは実際の所、家に戻ってみないとどのようなショックを受けるのか、ちょっと分からない。

それはさておき、100年前の住居はこのように二重窓になっていて、その外側と内側のガラスの隙間は20センチほどある。厳冬下はこの方が部屋の冷蔵庫などより、効率的である。

窓の外側には、下の階の窓の上の庇がついていて、ここに雪がつもって、ウイーン時代というからすでに30有余年であるが、その庇の上に「落書き」をしたことをつい最近の出来事のように思い出した。

登場キャラクターは70年代の飼い猫ミミヲちゃんと、ライカインコ帝国の独裁鳥であったライカさまである。

我が家のキャラクターで他に有名なのは、ブームの来る前のハリネズミのハー君であって、これは当時、獣医さんに連れて行くと珍しがられるほどであった。

坂崎さんや、羽仁進監督とはりねがいかに可愛いかという話しをしたのも懐かしい。このハリネズミは限定版のリコーのコンパクトカメラ(フィルム時代の)のキャラになったり、英国製のカメラバッグ、ビリンガムの限定版カバンのマークになったりした。

プラハの街中を歩いていると、雪に埋もれたクルマの上に一筆書きめいたキャラが即興で描かれていたりして、これも楽しみだ。

しかし大寒波はすでに通り過ぎて、それらのイラストもほとんど消えてしまった。しかし今週の水曜(あたしはすでに東京に飛行中)には、また欧州には寒波が来るそうだ。

2010年12月22日 (水)

プラハ中央駅

2

Photo_3

★本日移動日。プラハ モスクワ 東京

プラハの中央駅は30数年来のお世話になっている。社会主義時代にはこのアールヌーボー様式の駅舎はなにか「非現実的な演劇の舞台」のように見えたことだった。プラハがその経済的文化的な最高の時期に建設された文化の華の時代のデザインであったのだから、それが戦後の社会主義とは相容れないものがあった。

ウイーンからベルリンに行く時にこの駅で停車した。当時はウイーンから一日数本の連絡しかなかったので、早朝にウイーンを出た列車は午後3時の斜光の中、この駅舎に到着するのである。それがなにか憂鬱なプラハの風景と一致していた。ドレスデンを経て、当時はベルリンの東駅に午後10時すぎに到着した。

久しぶりにプラハ中央駅の構内を散策したら、こんなブロンズ像に出合った。駅に人間の感じるドラマをまさに象徴下したような人間像である。実際にプラハ市民で離婚してこのような家族構成の人をあたしは複数知っているのである。

しかしこの悲哀感はこれが駅のプラットホームだから成り立つのであって、飛行場では似合わないことも同時に気がついた。

2010年12月21日 (火)

プラハ 夜の散歩

5

6

酷寒の中、夜の散歩。

このアパートが有り難いのは、徒歩で市内のど真ん中に行けること。それも10分もかからない。そういう地帯は中央の商店に客をとられるから、かえって寂れている。都心からちょっと離れた所の特徴だ。佃なども銀座に買い物に行ってしまうから商店はだめである。

都の西北のアトリエからプラハの中心部に徒歩で行ったことは一度もない。一回だけビロード革命の夜に、市内から徒歩で戻ったことはあったが、これが電車がストライキであったせいだ。アトリエと市内の間には非常に高い崖があるので、カフカではないけど、城の背後に棲んでいるので交通は電車以外なし。

それでアパートから徒歩で中心部への夜の散歩を楽しむ。

どっかの安ホテルの前にかつての国営旅行社、cedokのマイクロバスが止まっているのも懐かしい。70年代はこの旅行社はソ連のインツーリストと並んで、お世話になった。というより他に旅行の方法がなかった。

さらに歩行したら、行きつけの「カフェセラピー」の前に出た。メトロからの行き方は知っているが、まさか今回の自分の住んでいるエリアからここに徒歩で出かけられるとは思ってもみなかった。

それで翌日、昼頃行ってみたら、顔なじみのウエイトレスさんが居たが、今日は臨時休業という。まったくついてない。

2010年12月20日 (月)

プラハ土曜日

9 非常に寒い。
それでアパートメントのサーバーがまた落ちた。

行きつけのcefe Lucernaでこれを書く。週末の午前中なのでコンコースの客足はまばらだ。

2010年12月19日 (日)

去年の五月、マラガで

Photo

パワーブック(ではないのだけど習慣によりそう呼称する)を雪のプラハで開いていると、昨年の画像がそこここから頭をもたげてくる。
アエロフロートのエリートプラスの会員になる為に、モスクワから一番遠いところを予約したのが、このマラガであった。昨年の5月に用もないのにそこに居たのである。
SU(アエロフロート)は以前はツポレフ154がモスクワとリスボンを結んでいた。たしか週二回であって、運賃は10万円だった。これは良く利用した。その後にファーストクラスが20万円であったこともあり、あたしの記憶する限り、これは世界中のFクラスでキャビアがおかわりできる唯一のエアラインなのである。
今のSUは二クラス制になって、最初からキャビアなどはでない。

マラガに居た時には何もせずにただ街中を徘徊していた。これが良かった。思えばこの時代はまだペンペンデジカメに遭遇する以前の話しなのだ。だから大過去という感じもある。
この時のカメラはエプソンRDとリコーのコンパクトだった。このショットはエプソンで撮影している。広角レンズは何であったか忘れたが、望遠の方はクロームのズミクロン90mmなのである。マラガの明るい光りの中で、明るさf2のレンズなどい使い道がないのであるが、ホテルの部屋で遊ぶ時にはこういうゴージャスなレンズも必要だ。

宿泊したのは中心部のいわゆる「デザイナーマンション」である。向かいの「デザイナーズ事務所」のドアの反射がなかなか面白かった。それを90mmで撮影。

今回のプラハは同じくゴージャスなレンズとして、ニッコール85mmf15を持参したがまだ開放では撮影してない。そう言えば昨年の4月にはパリでやはりゴージャスなレンズのシリーズである、ズマレックス85mm f1,5も買ったな。

Photo

2010年12月18日 (土)

アパートかアパルトマンか、アパートメントか?」

Photo

Photo_2

雪が粉雪になり、寒さはマイナス14度という状態なので、都の東北のアトリエは雪は深くて遭難の恐れがあるから、中心部の2区のアパートメントに移動。

これがパリだとアパルトマンとかいって、ツーリスト狙いの狭くて高い住処の代名詞になる。一方でこれが日本だと西日差し込む四畳半のアパートになって、「神田川」の舞台になる。しかし断腸亭などの戦前の日記の記載を見ると、荷風もそのような日本のアパートは個人主義の生活が出来るからというので、好意的にとっていたようである。

ここのアパートはビロード革命の舞台になった、ベンツエンスラフ広場から南に徒歩5分ほどの場所だ。一階にあまり上等ではないパブがありその三階(日本風なら4階)だ。

遅いエレベーターがあるだけでこれは有り難い。あたしのアトリエにはそんな現代の武器はないからだ。まず20キロの重さの荷物を20時間飛行した後に持ち上げる憂鬱な気分はこれは実際にやってみないと分からない。

このアパートの建物は100年ほど前のものだから天井の高いのだけが取り柄である。試みに比較の意味で佃の寓居の画像を並べて掲載しようと思ったのだが、あまりの天井高の違いにめげて掲載は取りやめた。

実際、欧州でも最近建築の住居は天井が低い。天下の六本木ヒルズクラブの天井もかなり低い。あれはきっと意識的に「安易な感じ」を出すために計画されたのであろう。「混乱卿」あたりならやりそうなことだ。

ともあれ、古い建物がわれわれ後世の人間に贈ってくれた最大の贈り物はこの天井高なのである。ただしこれも高すぎると人間は不安になる。ウイーンの皇帝の住居を撮影した時、こんなに天井が高くて果たして安心して眠れるのかしら、と余計な心配をした。限りなく高い天井は「青天井」とほぼ同類項であるからだ。

あたしなどは出身は平民だから、このアパートのキッチンだけで充分に生活できる。もっともパリの安宿ではこのキッチンくらいの「広さ」の三つ星ホテルは探すのには造作もない。
いつだったか、フェルメールの取材でイタリアからパリを経て、北にまで大旅行をした時、同行のライターさんが「ここは三★ホテルなのに、スーツケースが部屋で開けない」と文句を言ってた。三つ星ホテルを甘くみてはいけない。

これこそパリの風物であると、寛容することの方が大事なのだ。

2010年12月17日 (金)

トンネル

1212

あたしのトンネル好きは年来のものだ。少年時代に近所の音羽の護国寺には、戦時中の防空壕がまだ口をあけていた。その中に入って遊んだこともある。だから内田百閒の日記なので、空襲の防空壕の話しには同感できる。少年時代のあたしの、単なる遊びの防空壕ではなく、それが命を守ってくれるのだからその信頼感は一層であったに違いない。
プラハの地下鉄は冷戦時に防空壕を想定して建設されたので、プラハ市内ではその深さはゆうに50メーターの地下にある。これはホンモノの防空壕であるから、あたしの年来のトンネル付き、防空壕好きは満足させられるわけだ。
40歳の時、ミシガン商務省に招待されて出かけた時には始めて「とんねるず」のCDを買った。その値段が2800円でかなり高価であった記憶もある。

12121

12122

12124

今度宿泊したプラハのカーリン地区の北のはずれ、眼前は小山なのであるがそこにぽっかりとトンネルの入り口がある。しかも曲がりくねっていて、反対側の明かりは見えない。こういうのには興味がある。ここを南に抜ければジシコフ地区であることは分かっているが、GOOGLEの地図で見た時にはトンネルだとは思わなかった。
数分で反対側に抜けたが、出合ったのは2人だけだった。
プラハのPに聞いてみたら、1930年代に出来た隧道であるという。こっちは100年前からあるのかと思っていたのが案外に新しい。
しかしプラハの東の街区を南北に遮っている丘の為に交通の行き来がなかったのがトンネルで人を通すようになったのは、なかなかのアイデアだと思った。
プラハには東西に走る似たような丘陵は幾つもあるのだが、それらは自動車の道である。クルマを運転しない自分にはもともとそれらは無縁である。
このトンネルだけが、自分と関わる唯一のものだ。

2010年12月16日 (木)

歳末の車窓

1
プラハの大寒波はいったん収まったが、12月14日頃からまた激しくなった。
12月14日は日本では「討ち入り」の日だが、あたしの結婚記念日でもある。毎年やってくるが、その数日前に「ああ。また討ち入りの日だな」と思い出すのだがそのまま忘れてしまう。
今回も家人からのメールの追伸に「今日は39回目の結婚記念日、討ち入りの日です」とあって思い出した。
40年に近くなると、そこにはいろいろと感慨あり。

2 もう降誕祭までカウントダウンだが、プラハの大寒波でも市電に乗っている分には寒さからは自由である。街のあちこちの教会の前には、ツリーを売る露天が出ている。
ウイーンの貧乏時代の8年間はついにツリーを買うようなゆとりも生まれなかった。それで落ち穂拾いというのであろうか、ウイーンではその屋台の出た後に散らばっている、ツリーの小枝を拾ったのも、今にして思うと懐かしい。
イブの日には家族が揃うのが、欧州のしきたりである。日本の場合には、未婚の男女がホテルでけしからん所業をするのが、伝統でありから、神はそういう異教徒に天罰を下してもおかしくもないが、神様は最近では多忙なのでそういう、異教徒のはびこるソドムにまでは手が回らないようである。

3 今回のプラハも22日にはこちらを発って、23日には東京だ。クリスマスの日に東京に発っても良いのだが、それをすると敬虔深いカソリックのプラハ市民には「チョートクはクリスマスの日に家に居ないのでは、家族仲が悪いのでは」と邪推されるので、其れを説明するのも面倒だ。それでこっちのカソリックの週刊に従い、それまでに極東の布教区に戻ることにした。
数年前にイブの日にウイーンで仕事だった。ライカショップのペーターの母上がまだ元気な頃で、請われて家族写真を撮影に言った。それが終わってイルミネーションのウイーンの街を歩いて、オペラの裏手のペンションに戻ったが、まるで戒厳令のような無人の街であった。歩行しているのは外国人のみなのである。ペンションに戻ったら、宿の心づくしのクリスマスのケーキと果物がテーブルの上に置いてあった。なにか東京拘置所には入ったことはないがあそこの新年のお膳もこんな感じであろうかと思った。
そのクリスマスの次第は、写真集[CHOTOKU X RD1」に掲載されている。ホテルの12月24日のカレンダーを大写しにしたのがそれである。あれからもう何年経過したのか?
東京に行って1月になったら実に久しぶりに家人と2月まではウイーンで暮らすのである。この四半世紀、ライカインコが居たのでなかなかそれが出来なかった。

2010年12月15日 (水)

PENPEN チョートク日記 プラハ パリ

Cover2

この所、毎月一冊刊行のペースですが、これが本年最後のあたしの出版になります。アマゾンでは150冊目のタイトルです。

内容は2009年の夏のペンデジタル1との最初の出会いから、カメラグランプリの受賞を経て、先月のパリへの撮影行まで、プラハとパリをペン〔画像)とペン(文章)で撮影したペンペン日記写真集です。

ペンデジタルを持っての「新しい観る旅」の提案と、気楽なぶらぶら歩行の薦め。
ライフスタイルとしてすでに定着した、カメラ女子のペンペンファッション。
ズームレンズが2本だけで、この世界はすべて把握できる新世界観テクニックなど満載。

ペンデジタルとクリスマスお正月を過ごすのが楽しくなる内容満載の一冊。
クリスマスプレゼントにも最適。
この価格でこの内容は安くし過ぎたと、東京キララ社中村さん。

文芸誌「新潮」(新潮社)に長期連載中エッセイ「屋根裏プラハ」(連載16回目は2011年2月号に掲載)と併せてお読みください。

発売は河出書房新社  
全国書店で一斉発売。
アマゾンでも!

犬三態

Photo

Photo_2

家人の義兄の家の犬のロンちゃんにはあったことはないが、家人の携帯でその姿を見せてもらったことはある。ダックスである。
そのロンちゃんが、なんでも犬の腰痛にて手術を受けることになった。
あたしは何十年来の腰痛であるから、犬の腰痛の痛みも良く分かるつもりだ。
なんでも昔、腰痛の本を読んだら、腰痛というのは人間が二足歩行をし出した結果、生まれた人間だけの病気であると書いてあった記憶があるが、最近ではその基準は広がって犬にも適応されるらしい。
ロンちゃんには早く良くなってもらいたいと、ここでお見舞い申し上げる。

プラハの風景で見逃せないのは「犬」である。ここでは仮に「犬三態」と命名したが、雪の中の白いスコッチテリアなどは、背景に溶け込んでまるで迷彩色だ。若い頃、自衛隊が雪の中の行軍に使う、白い毛皮の外套を持っていた。上野の松崎商店で買ったもので、ちょっと自慢であった。ウイーンに行った時、向こうのその手の好き者の友人に請われて譲った記憶もある。そのコートの感じがこの白いワン公に似ている。
カメラ店につれて来られたワン公はいかにもつまらない感じが、そのうなだれ方に出ている。これは可愛そうだ。カメラ屋につれていくのは動物の虐待になりそうである。

三枚目の犬のイラストは実に良い感じに描かれている。これは食品店の犬立ち入りお断りのイラストなのだけど、それを描いた人は大の犬好きであることがこれでも分かる。

Photo_3

2010年12月14日 (火)

金色のキュウリ

Photo_2

Photo_3

Photo_4

プラハの月曜。

今回のWIFIの接続できない点に関しては意味不明である。

ペンションのWIFIが駄目で、何時も行ってるカフェでも接続できない。それで急遽、アトリエに戻って、ケーブル接続でこれを書いている。

ACの充電器を忘れたので、今度は通信は出来るけどバッテリー切れとの時間の追いかけっこである。

さて、本題。

アエロフロートの搭乗券に「金色のキュウリ」のイラストがある。あたしのエリートメンバーの知らせを送ってきた、手紙のレターヘッドにも「金色のキュウリ」のイラストがあった。

キュウリは何か特別な意味を持っているらしいが、勉強不足で知らない。でもこのぶらりキュウリの図には、なにか日本画と似た風情があって好きだ。

2010年12月13日 (月)

インターネットで不具

インターネット不通

プラハ
体調好調
撮影好調
インターネット不通
開通まで時間かかりそうです!

2010年12月12日 (日)

プラハ徘徊1日目

1210

12101

プラハ初日。
ペンションのドアを出て眼前がメトロの入り口というのが、実に真冬には好条件。道はカチンカチンだが、ちゃんと雪は脇に寄せてある。

まず電車の3番で南の終点まで、散策。見事な雪景色。こういう厳しい寒さでも交通機関は動いているのが寒波慣れしているプラハの証拠だ。

都心に戻って10月以来のプラハのPに会う。娘さんのユラはバーゼル在住のバイオリニストだが、一昨日、お嬢さんとプラハに戻る時、プラハ空港の視界悪く3回着陸復航をしたそうだ。寒波より空港の悪天候が問題か。

例によってフォトシュコダに。持参のキヤノン5Lのブラック(キヤノン6Tのブラックはシャッターのリボン切れでまだ修理してない)にニッコール85mmf1,5とキヤノン35mmf1,5を持参したのだが、木星球の135があったので購入。価格0,18カメラ円相当。他にはめぼしい物なし。

Citiバンクに行ったら、すでに他の場所に移転していた。市内散策して部屋に戻る。このペンションの右となりは銀行で、左となりはスーパーという好立地。来週の半ばからまた天候悪化というので、今回はアトリエは行かないことに。それまでに屋根の雪が溶けるとも思われず。

2010年12月11日 (土)

プラハの部屋のゴッホちゃん

Aaron1

プラハのアトリエのストーブの煙突に雪がつもると、ストーブは故障ではないが、自動的にカットされる構造である。

故障ではないのでこの1月にアトリエにサービスを呼んだが、様子を見に来て肩をすくめてそのまま帰っていった。ようするにストーブのチムニーの口は急な屋根の斜面の部分にあるが、そこは「屋根屋」の領域だから自分は屋根に出る権限はないから手を下せないという。
日本式のサービスで考えれば、けしからん話しであるが、こちらの感覚で考えればこれは正しい。
その20年ぶりのプラハの寒波はもうこないであろうと思っていたら、また先週が大雪でアトリエのストーブが使えないと管理人から連絡があった。

それで今回は視点をかえて、アトリエとは反対側のプラハの東側の街区の安ホテルに滞在している。ホテルとは名ばかりで、ペンションである。ちゃんと「Pension A」と建物のエントランスにも書いてある。
昨夜、ここにチエックインするとき、リムジンのドライバーさんはこの長い通りのこのペンションを知らなかった。当然の話でリムジンの客は★が四つ以上のホテルに泊まるであろうから、こういう安宿に客を送ることはない。その一泊の値段はリムジンの空港から市内までの料金とほぼ同じなのである。

そういうアコモデーションだから、酷いかと言うとこれは逆であってWIfiは使えるし部屋は広いし、朝食は立派だ。20年来、自分で珈琲をいれていたプラハの日常と比較すれば天国だし、暖房はばっちりだしおおいに結構だ。しかも中庭に面して静寂。

Aaron2

部屋ではゴッホの「耳を切った男」の複製がこっちを見ている。

これがなかなか気に入った。
ゴッホはKLMを利用していた当時、アムステルダムで磯崎さんの新建築の美術館の建物と一緒に見たこともあるが、あたしの注視したのは、ゴッホの作品で吉原の花魁顔見せの引き札の引き写しの日本語の正確さがゴッホの複製の絵筆でどの程度のものであるのかを、実際の作品で検分する程度だった。
その日本語はゴッホの絵筆でちゃんと再現されていて、それを読むことが可能であった。これを機会にこの人を信用する気になったのは言うまでもない。

それが今回、安宿のゴッホの複製で図らずも、ゴッホちゃんと対談する機会を得たのは嬉しい。ゴッホのひまわりならともかく、自画像などはホテルビジネスの部屋にぶらさげる絵としてはムンクと並ぶタブーの代表格であろう。自殺を誘発するからだ。それで普通の「きれい綺麗の絵」になるわけだが、ホテルの画はこれまで世界中を旅して「およそキッチュなものの代名詞」であったのが、この複製はそれを突き抜けて、あたしに何かを語りかけてくる。

すなわち平面のゴッホのファクシミリは「人生で人間は褒められることが本当に大事なのだ」(書簡集)と言っているようなのだ。
あたしは人生で褒められたことは皆無だ。
せいぜいが「田中長徳の写真は何が良いのか分からない」とこの40年来言われてきた。日本でストレートフォトグラフィの本質を知っているのはせいぜいが数人であろうからそれは当然の話である。
最近になって、新潮の連載で初めて矢野さん(編集長)に初めて文章の方で褒められた。それには名編集者一流の仕掛けがあるのかも知れないが、あたしとしては本当に嬉しい。
その次回の「屋根裏プラハ」の16回目の年末進行の原稿を書く為に今プラハに居るわけだが、雪のせいでアトリエを追い出されて、安宿に逃げのびたらそこでゴッホちゃんが応援してくれたという恰好になった。

そのゴッホちゃんの顔をしげしげと見て、彼の目がブルーであったことに今更に気がついた。

2010年12月10日 (金)

空筒周辺

1

2

20日弱ほどの「日本滞在」を終えてまたプラハに「戻る」わけだ。

まだ成田空港のラウンジだ。エアフランスは欠航だし、ルフトハンザは大幅な遅れである。

思えば、この5月には例のアイスランドの火山灰騒ぎで、リスボンに行けなくて「初ヘルシンキ体験」を果たして、それが「カメラは詩的な遊びなのだ」(アスキー新書)の口絵になったりした。

その意味では一見、マイナスのポイントがプラスに転じるわけである。

今回のプラハは大雪にてアトリエのストーブが故障の一報が事前に入っていた。いままでプラハで20年以上、「都の西北」の工科大学のそばに寓居があったのであるが、それが「視点の固定化」を生むのは間違いない。

それでこのストーブの故障を「てこ」にして今回は都の北東のカーリン地区のホテルを予約した。前から気になっていた地域なのであるが、あたしの棲んでいる、デービツッカからは遠いわけではないが、地理感覚がプラハになれてしまうと、電車で30分の街の反対にはなかなか行きにくいものである。

それで今回のプラハは新しい視座が開けるのではと期待している。

東京滞在の最後の日の夕方にヒルズから大東京を眺めて、いささかの感慨あり。

★追記

モスクワ空港。この前の10月にはバスでターミナルDからFに連絡があったが、今は回廊でつながっている。プラハ行きは30分遅れ。

例によってプラハ空港のラゲッジベルトでは、プライオリテイタグが附いているので一番最後に荷物が出た。そのしわ寄せで、リムジンのお兄さんには1時間待たせてしまった。チップをはずむ。

カーリン地区のアパートメントに到着。今日本の朝6時。こっちの午後10時。

2010年12月 9日 (木)

帰ってきたイフォン

Photo

Photo_2

★本日移動日。NRT SVO PRG

イフォンがJR松本駅から着払いで戻ってきた。
帰ってきたイフォンである。ちゃんと携帯用の箱に入っているのは、忘れ物の中で携帯が最多であるから、ちゃんと駅にその用意がしてあるのだろう。

今回のイフォンの旅を回想するに、まず先週の金曜のあずさ11号13号車10番C席上の網棚に忘れたのである。
コートの胸ポケットに入れてそのまままるめて網棚にあげた。コートを取り出す時に、イフォンはつるつるなのでそれだけが網棚の中に残ったのである。

東京に戻った土曜の午後に遺失物センターに電話したら、ちゃんと松本駅に保管されているというので、携帯の特徴を説明した。黒のスマートフォン、ソフトバンク製(アップルと言わないのがなにかJR的)だが、背面に「朝日新聞のシール」が貼ってあると説明した。

係の人は「松本駅にスマートフォンが一台あがっているので、電話で問い合わせます」と言った。しばらくして「間違いありません!」と自信を持った声が聞こえた。
まさか冗談で貼った朝日のシールが目印になるとは思わなかった。この場合、女子高校生愛用の「りらっくま」では全員がつけているから駄目である。

日曜の朝、東京駅遺失物センターに行った。これが分かりにくい。ガードマンさんににきいても分からない。
改札の駅員さんにきいたら、コピーしてそこに丸をマジックでつけたのをくれた。こういうコピーが用意されているのだから、よほどわかりにくいのであろう。

場所は日本橋口の高速バスの駅の奥にあった。あたしの前では、寡黙な中国人の青年が如何にも国鉄マンという感じの窓口の人と「対峙」していた。
財布を落としたのだ。

びっくりしたのはそ財布がちゃんと届いているのである。日本は善意の国だなあと思う。ただし、それは届いているのだが、それはこの窓口ではないと言っている
どうも新幹線のJR東海の所轄とJR東日本の所轄では違うらしい。
ここらが縦割りと言うやつであろう。

次はあたしの番だ。こういう場所は実は人生で今度が二度目である。
三十年前、ハンブルク駅のホームにリュックを忘れてベルリンにつき、あとで列車でハンブルク往復して忘れ物を取りに行った記憶がよみがえる。当然ながらあの時は全部独逸語でやったのである。

さて、日本語で事情説明して、すでに発見されているからその忘れ物管理番号を告げた。確認してから、松本駅に書類を作って窓口の人はファクスした。すぐに今度は電話して、
「あ、東京駅遺失物センターの中山です、松本駅の今井さんですか、、、」と話している。
この苗字の組み合わせはモノマガジンの編集長と社長の苗字と同じだなあなどと考えていた。中山さんは「今、ファクスを送りましたが届きましたか?」と聞いてその内容を電話で再確認している。さすがJRは豪華だなあと感心した。

なにかファクスが社会に登場した30年前の昔を思いだした。
たしかにファクスの内容は再確認するが、東北新幹線では乗客を再確認しないで200人を積み残して発車したりするのがご愛嬌であろう。
要するにファクスはすでにローテクで新幹線はハイテクなのである。

「あ、お客様がここでお待ちなので、今日発送してもらえますか?あ、今日は日曜で業者が休みか」などと話している。この業者という言葉にもなにか旧国鉄を感じて懐かしく思った。

その翌日のお昼にこのようにイフォンが津久田に到着したわけである。
実にJR東日本の遺失物捜索システムはすばらしい。

2010年12月 8日 (水)

ツポレフとルノーとアルパ

Tu154

津久田の大ガラスの部屋の角に仏蘭西製のステレオスコープのキャビネットがある。中には120年前のステレオ写真が1000枚ほど入っている。これは一人のアマチュア写真家が一生の間に撮ったステレオ写真だ。ビュワーは自然光の透過光で見るから、電気からは自由だし、OSのシステムの互換性などに悩まされることもない。
ハンドルをまわすと、ステレオ写真が次々に繰り出されてくる。中にはオートクロームのカラーもある。今時の地デジよりよほど面白い。

ここで話題にしたいのはそのステレオスコープではなく、その上に置かれてある小物のことだ。

ツポレフ154は好きな飛行機で以前はモスクワーウイーン便がこれであった。最近のアエロフロートは西側の飛行機になってしまったのがつまらない。

その前には、ツールド仏蘭西を取材する、パラマウントニュースのルノーの撮影車がある。今ならバイクで気軽な感じで自転車乗りを追っかけているが、昔は急カーブでカメラマンがカメラと一緒に路上に放りだされたのではと気になる。

その隣にはこれも古いアルパのロゴマークがある。これはお店でアルパカメラの脇に並べてあったものだ。色違いを数種類もっていたのだが、それらは散逸して、今はこの黒色だけになった。

2010年12月 7日 (火)

諏訪から買ったマミヤワイド

Photo

2

マミヤワイドは35mmレンズ付きのワイドカメラである。今では35mmなどワイドでもないが、昭和30年当時はこの地味な広角レンズは「社会派カメラマン必携の焦点距離」であった。

うちにも、一台このカメラがある。それはかなり使い込まれていて、何時から我が家にあるのか分からないが、汐留カレッタがまで出来る前に、そこの考古学調査をしていた頃、金網越に発掘調査現場をこのカメラで撮影した。
だからかなり前のことだ。

ワイドカメラはオリンパスWがもっぱら元祖であって各社からワイドカメラが出たが、その中でもマミヤのそれは、頑丈で比重が高い感じがある。

長野のオリンパス辰野工場の見学から帰って数日後にこのマミヤワイドをヤフオクで落札した。売り手は諏訪のカメラ人類さんだ。あっち方面に縁のあることだ。

この新しく手にいれた個体は、昔から持っている個体よりずっと綺麗だ。あたしはカメラの綺麗、きったねえは気にしないが、やはりカメラは綺麗な方がいい。

なんでもこのレンズはセコールのブランドだが、実はプロミナーなのである。プロミナー35mmf28はこれがライカマウントだととんでもない値段がついている。
初期のマミヤフレックスなどは、そう言えば、ズイコーが附いていたな。

2010年12月 6日 (月)

思いがけないハリネズミ

Photo_2

信州の辰野に高千穂の工場見学に行ったのである。それは近々に書こうと思うが、まず行きのあずさの網棚の上に、胃フォンんを置き忘れた。これには複雑な事情がある。あずさに乗る直前にコートの胸ポケットに胃フォンをいれた。

出発当日の朝は記録的な12月の豪雨で頑丈な傘を持参したのである。それを忘れてはいけないと思い、網棚に置いた。

網棚とは変な言い方にて、本当の省線電車の網棚をあたしは覚えているが、本当に網がはってあった。ところが最近ではこれは網棚とは名ばかりであって、実際には飛行機の頭上のロッカーと同じ構造である。

目的地の茅野で降りた時、その網棚に格納した傘ばかりに気をとられていた。コートは丸めて上に置いてあったが、それを取り出す時、胃フォンはつるつるであるから、胃フォンだけ網棚(という名前の頭上ロッカー)に残ってしまったのだ。

これをちょうど逆のことを最近している。それはゴスペラーズの酒井さんと対談した時、胃フォンはゴミの被覆のカバーに入っていて、それをポケットから出す時に、同じポケットに入っていた、SDカードがその摩擦係数がたかいので、一緒に引き出されて落ちたのである。

これはヒルズの49fのオフィスであったから、掃除の係の人が確保してくれていた。胃フォン紛失はちょうどその逆であって、今度は摩擦ななさ過ぎなのが問題であって、するりとポケットから落ちたのである。

ここまで書かないと上のハリネズミのキャラクターの話に結びつかない。工場見学の後、ホテルにはいったらそこは無線ランではなく、ケーブル接続であった。油断して居パッドしか持参しなかったので、インターネットの圏外に置かれた。

それはそれで良いのであるが、翌日、中央高速のバスに乗ったら、そこでは無線ランが使えることがわかって、これに接続したら上のような「ハリネズミがアンテナを立てて通信しているキャラ」に出会ったのである。

ここまでハリネズミのキャラクターが一般化しているのは、まったく想像の外であった。それも、まず茅野駅で携帯を社内に忘れ、さらにホテルが無線ランではなかったという事情が結果として、ハリネズミと出会った条件になったのであるから、これは実に不思議というほかはない。

世の中、一般の出会いというのも、そういう複雑な条件が重なってそこに結実するのであろう。

2010年12月 5日 (日)

車窓の富士山

Photo

富士山には月見草が良く似合う。

は、太宰であったっけ。これはたしか高校の教科書に登場してその取り合わせが陳腐であると思った。

高速バスに辰野から乗車して諏訪湖が左手に接近してきたら、その背景の山に雪が被っていて、その視覚から連想したのは、10年ほど前にこの地点で坂崎幸之助さんとバスの中から持参のパワーブックでチャットしたことの記憶だった。そういう細かい記憶の断片っていうのは視神経の刺激から浮かんでくるのである。当時は粗末な通信機器を使っていたのであろう。

バスがさらに南下した地点でその10年前の記憶はそのままバスの車窓から前方の左右に揺れながら見えた富士山のことを思い出した。

それで果たしてその数分後にバスの全面に富士山が見え隠れするようになった。こういう記憶の覚醒というのは面白い。

そこで思い出したのは、草野心平の「省線電車から見え隠れする富士山が電線上で見せる五線譜上の幾何学」(正確には記憶しないが、たしかそんな意味であった)のことである。

ペンデジタル2についた高倍率ズームの150ミリサイドで、連続して撮影したショットの中から選んだのがこれである。富士山が五線譜と戯れているように見える。

中央高速で東京に下る時の印象は実に「日本の本州は山ばかり」ということだ。

2010年12月 4日 (土)

家人が撮影したあたしの肖像

Photo_2

年末のプラハ行きの資金調達の為に、この間、ヤフオクでライカを売った。
有り難いことに高価に買ってもらった。
そのハイビッダーの方から以下のメールが来た。

>>>それと、とても厚かましいお願いなのですが、
以前M2を出品された際、実機をお持ちになったところの写真を
所望された方がいて、田中様が快諾されておられました。
傍で見ていてうらやましく思ったのですが、
不都合がなければ同じ光栄にあずかってもよろしいでしょうか?

お忙しいところ、こんなお願いをして申し訳ないのですが、
いただけたらうれしいです。発送は遅くなってもかまいませんので。。

----------------

というのである。とても光栄なことなので快諾した。

そこで困ったのはその撮影である。よく著者近影を頼まれると鏡に映り込んだ自分の画像を提供する。これが一番楽だからだ。

しかしこれは落札されたライカを持った肖像だからそうは行かない。

一番、やりたくないのは家人に撮影してもらうことである。これが何故やりたくないかと言えば、理由は簡単で、家人は天才的なカメラ音痴でこの何十年もカメラなど手にしたことはない。

思い起こせば、千九百七十年代のウイーンでやはりそういう必要があって、ライカM2にズミクロン90mmを付けて、家人に撮影させたことがある。その時、吃驚したのは家人はレンズの方から覗いたのである。

昨晩、札幌から戻ってそのままになっている、ペンデジタル2に11倍付きのレンズを家人に渡して撮影してもらった。これは家人にとって初めてのペンペン撮影なのである。

そのわりには良く撮影できたものと思う。こういうポートレートを撮影するのは昔ならかなりのベテランの撮影の筈である。それが曲がりなりにもちゃんと撮影できるのだから、と、感心した。

あたしが何か浮かない顔をしているのは、家人が果たしてうまく撮影できるかどうかの心配顔なのである。

2010年12月 3日 (金)

アカルイダの仕業か?

Photo

札幌から戻ったら、うちの前の庭にとんでもない、イルミネーションが出来ていた。

大体が東京の西部の住宅地などに、クリスマス時期だけ「突出的なイルミネーションが出現して、それが軽薄なテレビの暇ネタになるのを、苦々しく思っているのが、佃の垂直長屋のじじいのあたしなのである。

それが何の予告もなしに、このような一大イルミネーションが爆発したのは、これは光のテロリズムである。その首謀者は言うまでもないアルカイダの下部組織である、アカルイダ(明るい駄)の仕業に違いない。

これでこの小さな庭が、イルミネーションの名所スポットになってカップルとか家族連れとか中国の観光団が押し寄せたら、万事休すである。

こういうことが起こるのは、景気はやや回復しているのであろうか?あたしの周辺は悪くなるばっかりであるが。

まったく人生で何が起こるかわからないものだ。

2010年12月 2日 (木)

感心しない「ぼくの見ている風景」

Photo

2

札幌新千歳空港のラウンジの眺望は世界の空港の中でもトップクラスだと思う。

この前、成田でスカイチームのデルタラウンジに入ったら、係りの人が隣のエアフランスのラウンジにもアクセスできるというので、入ったら、赤が基調の派手はでな室内は見ないようにしていれば我慢できるが、肝心のA380のお姿が見えないので、中止して元のデルタのラウンジに入った。

新千歳のラウンジが快適なのは、周囲が市街地ではなく原野であるから、その風景が初期の航空術時代のそれを重なって見えることもある。これは案外だった。

ラウンジで観察してたら、あたしの嫌いな新幹線のドクターカーみたいな黄色いアニメキャラのと、それと相前後して、なにか子供を機体に書き込んだ飛行機が登場したので、一気に航空気分が醒めてしまった。

黄色い飛行機にしても、子供の似顔絵を描いた飛行機にしても、なにか貧困な子供騙しであって、アビエーションの美学からは遠くかけ離れている。

これが北朝鮮の独裁者の顔が三代並んだりしたやつなら、実に政治的な感じがして良いと思うのだが。

JALが採用する広告のキャラは昔は黒めがねでポケットに手を突っ込んだ二人組演歌歌手だったりして、そのキャラ選びが「お手軽」すぎる。

そこらがあたしのJAL嫌いの理由だ。

2010年12月 1日 (水)

札幌グランドホテルHofの雪

Hof

Hof2

Hof_3

先週、ウイーンの友人が新婚旅行で東京に来た。それでお祝いという意味で、あたしの写真集[WIEN MONOCHROME 70S]を贈った。

旦那はオーストリア放送のデイレクターでかみさんはフリーカメラマンである。500頁もあるあたしの写真集を1時間かけて見たので、へえ、やはりウイーン人は時間にゆとりがあるなあと感心した。

そのかみさんの方が70年代生まれなので、まさに自分の生まれた大昔のウイーンなのである。

その時に話題になったのが、HOFのことだ。HOFというのは、ウイーンの建築で四角く構成された建物の内側の中庭を含んだ、建物構成のことを呼ぶ。

HOFというのは、内側に開いた世界でそれが限られた広さであるから、逆にそこに面白さがある。HOFの中庭は一種、舞台のようなものだ。

ウイーンで7年半棲んだドナウ運河ぞいの中庭が自分のウイーンの世界だった。1975年の2月に空前の大雪があって、中庭の雪景色が実に見事だった。

初札幌で三日目の朝はその銀世界だったので、反射的に思い出したのは1975年の2月のウイーンである。それがHOFの中庭から連想されているのだ。

« 2010年11月 | トップページ | 2011年1月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31