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2010年11月30日 (火)

小樽散策コップ酒

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小樽には遠い親戚がいる。

家人の実家のお墓はでっかい。家人の祖先は小樽と新潟の廻船業をしていたので、小樽には親戚が居るのである。それでその新潟をお墓の「賃料」というわけでもなかろうが、盆暮れにいろいろと贈ってくれる。

しかしその家人の家の遠い親戚には会ったことはない。しかしそういう人間関係はやはり小樽を他の街とは異なる特別な存在にしている。

小樽の写真を最初に見たのは、これは1960年代後半のカメラ毎日のモノクロ作品「東松照明日録」だった。数十頁にわたる作品で、東松さんの日常を写真日記として掲載したもので、その中で小樽に行くくだりがあって、運河街の倉庫とか荒れる冬の日本海が映っていた。

それが原点になっていたので、雪のふるしきる小樽は実におあつらえ向きである。札幌から向かう列車の車窓にいきなりグレーの荒れる海が見えた時には感心した。しかし周囲の学生は自分の教科書を読んでいるし、おばあさんはなにか文庫本を読んで日本海など眼中になさそうである。

駅から中央通りを海に歩いた。いきなり突堤に行きついて、そこに停泊している舟は煙突の模様からして、どうもNYKのそれであった。

吹雪もようになって、商店街の中華屋に入って、コップ酒。何を頼もうかと思案していたら、地元の人は皆「あんかけ焼きそば」である。あたしもそれに倣った。

思えば昨年の11月には「皿うどん」でやはりコップ酒を長崎で飲んでいたのである。

日銀の支店のクラシックな建物を見た。倉庫街はほとんど無人だった。そこに30名ほどの団体さんが来た。皆、中国語で話していた。

「光」という名前の昭和4年からあるという純喫茶に入った。ウイーンのワルツが流れていた。なかなかの味の珈琲にパウンドケーキがついて540円は安い。

帰りは中央バスの高速で札幌に戻った。雪の影響で高速は50キロ規制である。札幌駅のひとつ手前の時計台前で下車してグランドホテルまで歩いて戻った。

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カメラはペンデジタル2に14-150MMズーム。旅デジカメの定番レンズ。

クリスマス用の写真集「ペンペンチョートク日記 プラハ・パリ」(東京キララ社)の編集が佳境に入る。木曜が入稿の戒厳令。東京と札幌でPDFファイル乱れ飛ぶ。

2010年11月29日 (月)

北へ飛ぶ

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63歳の人生で、北海道には今回が3度目である。

三度目の正直。

最初は20歳の時に、旭川に広告の撮影。

二度目は40歳当時、女満別に中央公論の巻頭グラビアで、ホンダ技研の久米社長を撮影。

そして今回は札幌の今井コレクションの見学。

「日航機」(この古い言い方いいねえ。よど号みたい)で北に飛んだ。

パリとかプラハに行くのがつまらないのは、最初に北に飛んでだんだん西に飛んで最後には南西に飛ぶのはこれは大圏コースで地球が丸いのだから仕方ないけど、なにか意志薄弱という感じだな。

北海道あたりの近場だとそれを無視して一直線に飛行するので、実際に北に飛んだ気分がある。それが嬉しい。JAL のアテンダントさんも北に飛ぶのがよほど嬉しいのか、タラップを昇る前に皆で記念撮影をしていた。これを勤務時間中にやるのはあたしは別に構わないが、こういうのを飛行中のコックピットでやると、あとで五月蠅い方面から文句が出るのであろう。

以前、イスタンブールからウイーンに飛行するのに、チーフパーサーが45分遅刻してきた。この時は常客は皆、怒った。

1時間ちょっとで着く札幌は凄い。途中でなにかコニーデ式の火山が見えてきた。ANAのパイロットが言ってたが、飛行チャートには下の山とか川の名前は書いてないからつまらないという。それでそのキャプテンは自分の中学時代の地理の地図に自分で山の名前を書き込んでそれを飛行に携帯している。

札幌に着いたら伝言あり。同行予定の市川編集長がバスの遅れで乗り遅れて、一便遅れるという。何時間待つのかと思ったら55分後の便で到着した。東京札幌は幹線なのでかなり頻繁に便がある。

初札幌で、空港から市内への電車に乗ったら、白樺林があって空が高くてまるで欧州である。1時間でプラハに着いたような錯覚だ。

2010年11月28日 (日)

エッフェル塔

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パリで例のエッフェル塔とかジョコンダとかが、そのイメージの方がホンモノより遙かに抜きんでた存在感を持っていることが、毎回のパリ訪問の度に不思議に思っていることなのだ。

ルーブルのモナリザの微笑は、1974年に初めて実物を見た時に、実物よりその複製の方がずっと迫力があることが分かって、以来、見に行ったことはない。アメリカ人の言うように「ホンモノはあまりにも小さい」というのは当たっているかも知れない。モナリザは絵はがきとかクッションとか、小物の表面のデザインであるのが好ましいのである。さらに昔、新宿の画材屋の広告の「モナリザもあっと驚くこの安値!」というようなパロデイの方にそのホンモノ性が見え隠れしている。

エッフェル塔も同様であって、ホンモノのそれは今更でもないし、それにパリの中心部にいては、かなり町外れにあるから見えない。それよろそこらのお土産屋の店先に無限回数複製された、そのレプリカの方が遙かにその存在感がデジタル的なのである。

理想的なエッフェル塔レプリカの存在感はこのように、適当な敷き布の上に並べられた状態である。あたしなどはこのシーンにはるばるとした旅情を感じるのだ。

カメラはペンデジタル2に例の14-150のズーム。こういうモチーフに対してはほとんど無限の万能レンズ。

2010年11月27日 (土)

カメフレックスのフラットマガジン

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今回のパリ行で、カメフレックスを生産していたエクレール社の跡を訪問することがあった。その会社は意外にもオペラからリボリ通りに南下して左側にあったのがちょっと意外だった。当時の新興の会社であるから、もっと郊外にあるとばかり思っていたのだ。

まさかカメフレックスのパーツなどをパリで探せるとは最初から考えていなかった。パリのボンマルシエのカメラ店にはそんな「プロ用」の機材は最初からなかったからだ。

何気なくebayを見ていたら、山のようなカメフレックスのマガジンやらモーターやらがオークションに出ていて、売り手を見たらウイーンのライカショップのペーターである。さっそくBest Offerのビッドを入れたら、5分も経過しないのに、オーケーになった。

それで注文したのだが、先週の金曜に佃に戻ったら、すでに17キロの段ボールが2個到着していて、狭いマンションの廊下がそれでふさがれて、中に入ることが出来ない。家庭内税関に多めの関税を支払ってようやく通関となった。

数多くの珍品の付属品の中で、一番嬉しかったのが、こにフラットな400尺マガジンだ。本来、これはカメフレックスを専用の防水ケースに入れた時に使う、プロフィルを低くさせる為のマガジンなのだが、普通の撮影だとやはり背が低くなるとがかっこいい。ここらが不思議なのは世の中一般に人間の身長とか株価とか高い方が好ましいモノの存在と、その反対にフェラーリの車高とか映画撮影機のプロフィールとか低い方が好ましいもの二つの価値感が存在することだ。ここらは一度ちゃんと心理学的に分析する必要がある。

カメフレックスのこのフラットマガジンは同じスタイルで35ミリのアカデミーサイズと16ミリのマガジンと二種類存在する。今回、パリからウイーンに注文して東京に届いたマガジンはそのいずれもが含まれているので、ここで一気に「世界的なカメフレックスのコレクター」のリストに名前を連ねることになったのではなかえろうか、と一人満足しているところだ。

2010年11月26日 (金)

ライカワークショップのサンプル

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久々に東京のカメラ店を巡回。

新宿のMAPカメラのライカのトライコーナーのM3はなかなかシャッター音が良い。75万台のM3だがこういう個体を見ると、また一台、ライカが欲しくなる。ここらがフィルムライカの魅力だな。店頭でデモ機として展示してあるデジカメなどは、管理が悪いのでバッテリー切れとか壊れていたりすることがある。

これはデモ機を展示しないより、はるかに悪い結果を生む。そのデジカメに興味を持っている購入予備軍は一気にこれでそのブランドから足が遠のいてしまうからだ。

その点、機械式ライカのデモ機というのは、バッテリー切れからも自由であるから、非常に良い。

その隣に絶賛販売中の「ライカワークショップ」の見本が良い具合に並んでいたので、それをちょっと手にとって「立ち読み」したりした。

2010年11月25日 (木)

Give Away

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亡くなった母親の世代はまだ「貧しい世代」であるから、百貨店とかスーパーなどの、粗品贈呈などには60年代に良く並んでそういうモノをもらったようである。それはお皿とか栓抜きとか日常の雑器なのであるから、知らないうちにそれが日常生活に溶け込んでしまう。21歳まで過ごした音羽の家でもそういうお皿があって、後年になって音羽の家を再訪して、母の手料理などがその見覚えのある皿に盛られていて、ああ、これであったかと古い記憶をたぐり寄せる端緒になったりもした。

母が亡くなってしばらくして、何かの用事で横浜は反町の浅田恵理子の家に行った。本人は不在だったが、ご両親の歓待をうけてそこで登場したのが、音羽の家で見覚えのある同じお皿であった。浅田家は名家であるから、まさかうちの母のようにデパートの粗品の列に浅田の母上が並んだとも思われないが、もしそうだとしたらそれはそれで、奥ゆかしいと思う。音羽の家はもう存在しないが、浅田家のあのお皿はまだあるのであろうか?

ギブアウエイの商品というのは、そういう形に残るモノはいつまでも記憶のライン上に停滞しているが、逆に記憶かからどんどん逃げて行くものに、街角でくれる飲食物の試供品がある。

今朝、ヒルズに行く時に「ろくろく狭場「(本当は広場だけど、コンコルド広場を先週見た後でこれを広場とは言いにくい)で、ユニフォームの女子から持ち重りのする小さな袋をもらった。

49階に来て中身を改めたら、そこには缶コーヒーが2本入っていた。あたしは缶コーヒーを飲む習慣がないので、そのままになったが、思えばギブアウエインの商品をもらった、その最初の体験が蘇った。それは1982年のマンハッタンなのだ。ブロードウエイをタイムススクエアから下って行ったら、名シーズンの前で、フリーズンヨーグルトをもらった。早速試食したらなかなかいけた。

しかしこれがあたしの人生で最初で最後のフリーズンヨーグルトである。以来、食べていない。

2010年11月24日 (水)

リッツホテルとアルバートホテル

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80年代のバブル期にいわゆるエキゼクテイブマガジンの取材で、世界中のホテル、それも5つ★専門で見て歩いたことがある。これはルームインスペクションというのであるが、2週間の旅程で毎日5つのホテルを見て歩いたら、その印象はごちゃまぜになるのは当然の理である。

ヴァンドームのリッツも取材して、泊まったのは確かなのだが、他の五つ星ホテルと印象が混じっているのは残念である。しかしながらホテルというのは、逆に高級になるほどその特色が出しにくくなっているのであるから、印象に残らないというのが正しい印象なのであったのだろう。

もっともこういう旅館はもともと自分には無関係だから、それで良いわけだ。にも関わらず、この界隈が懐かしくて、その側のホテルアルバートというのに宿泊してそこからリッツに一杯飲みに行ったりもした。こういうやり方はフェアなのかアンフェアなのかよくわからない。旅の本などには、安いホテルに泊まって高級ホテルの施設を上手く利用するのが、旅上手ってことになっているが、これも何か貧乏くさい感じがする。

それでもヴァンドームのリッツの近くに泊まって、リッツをひやかしに行くという時期があたしにもあったのだ。

最近では北駅のローンスターホテルに執着しているのでそういうことはなくなった。今回、昔懐かしい、アルバートホテルの前を通った。発見事項は今まで三つ星だとばかり想っていたくだんのホテルが看板を良く見たら、二つ星であったことだ。これが今回のパリでの個人的な大発見なのである。

2010年11月23日 (火)

ヴァンドーム広場の憂鬱

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昨日の公園の黄色い老犬を撮影して、そのままカメラを東から北に振るとこの光景が目に飛び込んでくる。

これは華のパリかも知れないが、このアングルで見るとどうも安っぽい風景である。まず浅草は奥山の見せ物小屋という所だ。しかしツーリストの見ている「華のパリ」というのはせいぜいがこのような幻影に過ぎないのではないか。

ヴェンドーム広場というのは、開けた空間なのにそこには変な閉塞感があるのが、嫌いである。青天井のついた体育館とでも言えよう。同じ狭い広場なら、パレルモ旧市街のクアトロクアンテイの方がずっと良い。その古さはパリのヴェンドーム広場との比ではなかろう。

ヴェンドーム広場に興味がないのは、あたしのそこで買うモノがないこともあるが、パリをステレオタイプ化したあまりにも分かり易い風景であるのが魅力を半減させているのであろう。

とは言え、70年代にこの同じバスに乗ってパリ見物をした経験はあたしにもあった。ウイーン在住の日本人ピアニストのご両親が、娘の活躍ぶりを見学に来て、さて帰国することになった。当時はまだ日本とウイーンの直行便などなかった時代である。日本からはパリ経由で来る人が多かった。娘さんはピアノで多忙なので、あたしがその鎌倉のお金持ちのお世話をパリですることになった。ウイーンの空港からルノーキャラベル(確かそんな名前だった)のターボプロップ機で、オルリー空港についた。その殿様(鎌倉の豪邸で金屏風の前に座っているそうなので、この渾名あり)夫妻のお供のパリ周遊だから、当然、この二階建て観光バスにも乗ったのである。

殿様は、ダブルデッカーの二階席でふかり、ふかりとタバコを吸い出したら、運転手Nしかられていた。70年代のパリではすでにこういう場所での禁煙は徹底されていたものと想われる。

2010年11月22日 (月)

チュールリー公園の老犬

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最初のパリ訪問で、コンコルドからチュールリー公園を歩行した時には、これは大変な偉容だと思った。それは夏のことであったから、直射日光を受けて、すべての事物が美しく立ち上がっているのである。
その公園の地面はこれは当然ながら「関東ローム層」の赤土ではなく、白い、砂岩がさらに細かくなったような砂地なのである。

パリ五月革命のことを謳った、学生運動家の短い詩の中に、これは投石をする為に敷石を剥がした時の印象なのであるが、

「敷石を剥ぐとその下は砂浜だ」

という一節があって、これは70年代の学生運動の時代の我々青年の血を沸騰させるに充分なフレーズだった。

あれから時代が何十年も経過して、チュールリー公園を歩くと、そこは全部砂浜のようであり、海岸が近いような錯覚がもたらされる。実際の海岸は数百キロも遠方にあるのに。
パリ市民が、バカンスに執着する、その滑稽さをゴダールは「ウイーンエンド」で揶揄しているが、その長い長いクルマの渋滞の列は、海岸への憧れのベクトルなのだ。
ところが、実際にこの公園の地面だけ見て歩行していれば、その海への想いは多少満足させることも可能なのである。

ただし、その逆の神経作用も可能であって、目の前に砂浜があるのにホンモノの海岸はないというのが、ことさらに海への憧れを加速させるのかも知れない。

チュールリー公園の老犬とその飼い主が、現世の欲をすべて諦めたような表情で公園の長い並木道をゆっくり散歩しているのを見て、あたしはそこに老パリジエンヌの気持ちの極北を見たような気がした。

これは案外に東洋的な諦観に近いのかも知れない。
それにしても、この黄色い老犬はいい顔をしている。

2010年11月21日 (日)

パリ犬

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あたしのエリオット・アーウイット嫌いは数十年来のものだ。その最大の理由は例の「チワワの正面写真」である。
写真の初心者にはこのレベルのはユーモア写真として分かり易いので、この駄写真は繰り返し、一般雑誌などで写真の特集を組まれると必ず登場する。

しかもそういう編集部はまず10年で総入れ替えになるから、従って間違いなく、10年ごとに、エリオット・アーウイットの特集が組まれるという皮肉になる。
それを長い時間のスパンで観察しているあたしなどは、ああ、もう十年が経過したか、、、というこれは愚にもつかない感慨なのである。

この間も某メジャー誌で写真特集があって、そこにカメラ話しを寄稿したが、写真のセクションは相も変わらずのエリオット・アーウイットであった。これは飯沢こうたろうの仕業とも思えない。やれやれ。

しかし、今回、パリで犬連を観察しているうちに、エリオット・アーウイットじいさんの視点にも一理あるのではないかと気がついたのである。これが今回のパリ行で、エアバスA380と同様なちょっとした発見だった。

それは犬と飼い主が似るという一点にある。
この北駅の近くでのワンショットも2組の人間犬カップルが歩行していて、その肩から足のあたりの感じが実に良く似ている。
そういう視点で見ていると、犬観察も悪くはない。

下の画像はペンペンカメラ日記パリ総局の6階の部屋から見た、向かい家の「白おけ」である。これは朝7時頃のまだ真っ暗な時に撮影した。しかもパリは異常に電気を節約するところ(これは大正時代の辻潤も指摘している)で、この光源などは暗い暗い蛍光灯なのだ。ホンモノの犬かそれとも「お犬形のお人形」なのかは不明である。数分後に見たら、この白おけは同じポーズであったからだ。しかし生の犬でもその位の時間はじっとしていることもあろう。

それをペンデジタルの6400で撮影したら、ちゃんと映っている。フルサイズデジタル一眼レフ親父に言わせれば、画像が荒れているとか、言うのであろうがこれで充分な画質ではないか。

昨日、成田で荷物の出てくるのを舞っていたら、ベンチの隣に老婦人が座っていた、そこに麻薬探知犬が来て、その人の手荷物に興味を異常に示している。

「ああ、これね、中にチーズが入ってるから、、、」と応えた老婦人は実は、名うての「スモッグの達人」ではないのか、と帰りのリムジンの中で考えた。それとも麻薬探知犬は単にチーズに興味を示すような「駄犬」なのであろうか。

あたしはそうは考えたくはない。チワワも警察犬になるご時世だ。

2010年11月20日 (土)

地上4万フィートの ぼじょれぬーぼー

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ボジョレヌーボーに騙され続けて、もう何年になるか。年に一度というのは、すぐに忘れて次の年になるからボジョレヌーボーの不味いもは忘れてしまう。
それで一年経過して、またボジョレヌーボーに騙されるわけだ。

家人からのメールで日本でボジョレヌーボーの馬鹿騒ぎのニュースを聞いた。
それでパリのホテルのフロントにその話をしたら、彼は「それは日本独特の文化なのかい?」という冗談を言った。

AFのワインはYクラスでも、赤と白がそれなりのちゃんと飲ませるワインを出す。フランス人の舌に嘘はつけないからであろう。

帰りの飛行のデイナーで、あたしはYの最前線に座っていた。その前はFクラスなのであるが、そこは空である。アテンダントさん(男性)が、まるでファーストクラスの客に勧めるような慇懃な礼儀でボジョレヌーボーが今日が解禁というので、薦めてきた。

無論、Yの客なのだからプラスチックのボトルである。でもその前に、Yにも関わらず、シャンペンをご馳走になったのだから文句は言えない。

しかし季節のご祝儀ワインというわけであって、味わったら飲めたものではなかった。日本のボジョレヌーボーの馬鹿騒ぎで女子タレントさんが「フルーテイで美味しい」とか意見を述べているが、果実の味がするのは、それはまだワインではない。
しかし、フラッグキャリアのAFのボジョレヌーボーが飲めたものではないというのは、これはその不味さに折り紙がついたわけである。これがワイン文化というものなのであろう。
でも来年のボジョレヌーボー解禁時にはまたそのことを忘れているから、また騙されるかも知れない。

2010年11月19日 (金)

あたしのパリ36年

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A380にて飛行時間11時間ほどで東京に到着。

思うに、最初のパリは1974年の夏であった。当時は実存主義の流行の名残がまだあったから、サンジエルマンデプレあたりのカフェに行くのは流行というより、ごく普通のことだった。

70年代半ばにパリ在住の田原桂一さんと会ったのもこの界隈であった。「パリの田原、ウイーンの田中」などと言われていい気になっていた時代だった。
ところで、このローマ時代の「銭湯」の斜め向かいに、古いカフェがあった。ここでフランス語で注文の仕方の練習などしたのである。今回、実に久しぶりにその前を通ったら、すでにツーリスト向けのビザ屋に変身していた。ナポリの街並みを延々と歩行して、一向にピザ屋を見ないと思ったら、こういう場所に「流出」していたわけである。
別にここで休まないと人命にかかわるわけではないから、問題はないのだが。

それより問題なのはその先の、カメラ店 ODEONが無くなって、すでに銀行になっていたことだ。日本では銀行がつぶれてその後がメガネドラッグになったりするわけだが、その逆もあるのかと関心した。

このオデオンカメラのウインドウにあった、ニコンS2のブラックを買おうか買うまいか、などとセーヌからオデオンの前まで何度も迷いつつ「お百度」を踏んでいたのが70年代当時の自分であった。

変わったという意味では70年代から80年代に、4x5カメラを携えて、和製アジエ気取りで何度もパリに撮影に行った当時の5区の安宿は、1泊が26フラン(ユーロではない)だったと思う。

その名前はHotel Bertholletだったと記憶する。そのホテルはまだ存在するけど、改装されて、いわゆるつまらん「デザイナーホテル」になってしまった。前を通過したら、いかにもという感じの「パリのカタカナデザイナー野郎」ってなうすっぺらな若い男が朝の珈琲をすすっていた。
まあ、シャワーの鍵を借りるような、安ホテルでは商売にならないから、その進化はまことに然りと言うべきであろう。

そのホテルの並びにある、La  Grappe  Do`r は今に健在だ。
1975年頃、ホテルから一番近いのであたしはここで20代のアルジエリア系の青年から、アフリカ製の赤ワインを買ったりした。それから30年近く経過して、その店に入ったらくだんの男性はすでに50を超したいいおやじになっていたので、吃驚した。
当然の話なのだけど、単純に驚いた。それでオレンジジュースを買って早々と引き上げたのである。

パリのカメラ屋通りで、一番、胸をときめかしたのは、メゾンドライカの斜め向かいあった、シネテクニークという映画機材の専門店だった。いかにもゴダール好みの機材、つまりエクレールとか、カメフレックスのきったねえのがウインドウに並んでいて、それは非常に高価なフランスフランの手書き文字の値札がついていた。エクレールNPRに10倍ズームの附いたのが、3万6千フランとか今でもちゃんと記憶している。その店が無くなって、その後にハーレイダビッドソンの店が入ってからすでに10年は経過しているのである。

万物流転の中で、36年が経過しても、ほとんどその姿が変わっていない場所を今回、発見した。パリのオステルリッツ駅である。
ここから家人とスペインに出発したのだった。その鉄骨造りの構内の風景はまったく変化がない。1980年に秋にリスボンに行ったのも、この駅がスタートだった。そのことより、今にして凄いと思うのは、夜行列車で初めてパリ東駅に到着した家人とあたしは、朝の散歩を兼ねて、サンマルタン運河を経て、オステルリッツ駅まで歩いたのだ。その健脚ぶりは今でも変わっていないと思う。あ、タイムススクエアからバッテリーパークまで家人と散歩したこともあったな。

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★時間が前後するが、今、パリCDG 2Eのラウンジ。

WIFIはここでは普通に使える。今回のアクセス規制はどのレベルのものは単純には分からない。

ともかく、フランスから出国したので普通の状態に。

2010年11月18日 (木)

本日、木曜は移動日 CDGNRT

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もう明後日は日本出発だ。

要するに10日程度にパリに居るのでは何も出来ないということが分かった。それでも写真集「PEN PEN チョートク日記 パリ・プラハ」(東京キララ社)の必要カットは大体撮影した。

数を撮りすぎるの難点だが、これはあたしのせいと言うよりも、デジカメにも責任がある。16GBあたりを入れるともう無量大数が撮影できてしまう。

今回の撮影行で面白かったのは、晴れの日をずっと待ち続けていたことである。1970年代、ウイーンに7年半棲んでいた当時、よく日本からいわゆる「エージエントカメラマン」と呼ばれる皆さんが遊びに来た。無論、フィルム全盛の頃で彼らの機材はキヤノンF1とペンタックス67であったのも懐かしい。
彼らのもっぱらの関心時は「お天気」であった。

ようするに、エッフェル塔も凱旋門もベルサイユも皆一様に「風呂屋のペンキ絵」とか「安物の絵はがき」のような、快晴の光でないと観光写真としては売れないのである。一般ツーリストが頭に描く、通俗的な写真こそが売れる時代だった。

あの写真商売っていうのは今は存続していないのであろうか。
思えば、1973年にウイーンに移住するときに、何か生活の足しになるのではと当時の「世界文化フォト」と契約して行ったが、結局、一枚の写真も送らなかった。
ああいう観光写真というのは、それなりのノウハウが必要だから、あたしのような素人が手を出せる分野ではないことに気がついたのはずっと後のことだ。

このショットは1週間ぶりに晴れたのが嬉しくて撮影したのだが、太陽が何重にもなっている。ホテルの屋根裏の天窓が二重ガラスのせいであるかららしい。

★本ブログはフランスでココログに現在アクセスできないので、専用回線にてペンペンカメラ日記パリ支局から、極東ペンペンカメラ日記八千代台支局の桜木デスク(仮名、本名MP突撃隊長)に転送したものをアップしております。

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2010年11月17日 (水)

林檎とエッフェル塔

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11月15日。月曜日。
天候はやや回復。

今度の本は126頁ほどの小写真集でタイトルは「PEN PEN チョートク日記  パリ・プラハ」というのである。クリスマス前には東京キララ社から出る、ちょっと可愛らしい本だ。

そのプラハの分は撮影が10月に終わったのだが、やはりこれは売れ筋のパリを入れようと思い附いた。かのキャパですら、「パリ!セモア!」と言っている位だからやはりパリは外せない。
それは、エアバスA380のパリ行きを予約して1月以上経過した、11月の初旬のことだった。最初はエアバスA380に乗って、パリの一つ星ホテルでマグロやエビや海胆や、牡蠣を喰って白ワインのちょっと良いのを飲んで、一人大宴会をしてこようという、アルカイダも顔負けの飲食テロという、けしからん計画であったが、それでは世間に申し訳ないので、そのパリの8泊10日のスケジュールで、60頁ほどのパリの晩秋の写真を撮ろうと思ったのである。

これは、今年のカメラグランプリを高千穂ペンデジタル1が受賞したので、その栄誉をいささか言祝ぐという意味もある。だからこの本は12月中に出ないと具合が悪い。それでクリスマスまでには出すことにした。
東京キララ社は、以前1000頁以上もある、日本郵船氷川丸の分厚い写真集「チョートク海を行く」を、期日に間に合わせた実績がある。それで今回も安心している。

パリを撮影するとなれば、わざわざ凱旋門とかシャンデリゼとか、サントノーレを撮影するのも馬鹿なことだから、今回はパリの右岸のそれも北駅からピガールから、モンマルトル界隈の雑多な下町を撮るつもりであった。でもトロカデーロから見た、エッフェル塔は願い下げだが、モンマルトルの丘の上からの撮影なら、問題ないと思った。

これは一種の東洋のアニミズムというわけでもないが、「良い写真が撮れる呪術」を、アップルコンピューターの上に構築してから、今朝、パリ支局を出たのである。
それはAirMacの好む林檎を赤と緑とを供えて、周囲に有り難いお題目の品々を色々と並べた。

モンマルトルの丘の上でペンデジタル2をエッフェル塔の方向に向けたら、その呪術の効果覿面。いきなり「屋根の上の散歩者」が出現したのである。
このポイントにはすでに36年も通っているが、こんなショットは今日が初めてである。
カメラはペンデジタル2で、レンズは14−150ミリの望遠側。

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2010年11月16日 (火)

サンマルタン運河の36年

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あたしの最初のパリは1974年だった。
ウイーンから夜行列車で早朝にパリに到着した。家人も一緒だった。これがわれわれがまだ二十代の話しである。それで今じゃ60代。

パリの東駅に到着して、そのままぶらぶらと歩いていたら、いきなりサンマルタン運河に出合った。話には聞いていたし、セーヌ川よりサンマルタン運河というのが、この36年間、変わらないあたしの価値感だ。それがいとも簡単に我々の眼前に登場したので、お!パリはなかなか話せるやつだな!
ということになった。

当時のサンマルタン運河は裏寂れて忘れられたような、どぶ川がそのまま広くなったような場所だった。
北ホテルという、何でも昔、映画の舞台になったちっぽけな古いホテルがそのままに、高い太鼓橋の側にあった。営業はしていないようだった。その映画はあたしは見ていない。

運河は南と北とでその水位が4メーターくらい違うので、ドックに入ってきた舟を仕切りで「閉鎖」してそこに膨大な水を注入して、その水位を同じにするもである。似たような設備は世界のあちこちで見てきたが、サンマルタン運河のそれは、前世紀(この意味は19世紀)が、そこにそのままに生きているのが良い感じだった。
太鼓橋の下でパリ市の作業員が作業車を洗っていた。その脇で老絵描きが、太鼓橋をスケッチしている。橋の上では女性カメラマンとモデルが「あまり経費が使えないカタログの撮影」をしていた。クルー全員が女子だ。女の子だけのバンドみたいなものか。

サンマルタン運河は、リュプブリク広場の手前で暗渠になってしまう。それで道を東にとってバスチーユから、マレ区の方向に歩行するのが36年来の定常のコースだ。
70年代にはポンピドーセンターが話題になっていたが、あたしは掘り返された地面のぎりぎりに場所にまだ営業を継続していた「かたつむりレストラン」(巨大なかたつむりの招碑があった)の方に近親観を持っていた。
バスチーユの新オペラだって、昔、竣工した当時は、ちやほやされたけど今では一様にパリの晩秋のグレーのトーンに沈み込んでいる。

1974年。パリの音楽家の友人から、「最近、おじいさんで下手なスケッチを描く人の個展に行った。彼は昔は写真家であったそうだが、、、」という話を聞いて、それが我がスナップの神様HCBであったのには驚いた。芸術の都では、HCBなどまだまだちょい役なのであった。

今日は月曜だ。まだ天気は回付来しない。でもグレーの雲のはしっこに「フランスブルー」の色味がちょっとだけ見えている。これはローンスターホテルの屋根裏からの観察。

★本ブログはフランスでココログに現在アクセスできないので、専用回線にてペンペンカメラ日記パリ支局から、極東ペンペンカメラ日記八千代台支局の桜木デスク(仮名、本名MP突撃隊長)に転送したものをアップしております。

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2010年11月15日 (月)

パリのメゾンドライカ

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巴里。
土曜日。
人生は思い通りには行かない。

ヒルズクラブはドレスコードがある。1983年にニューヨークのキャナルストリートの蚤の市で20ドルで買った、グリーンのドレスジャケットは、一度、裏を取っ替えて着ている。裏地にはブルックリンの粋なラベルがついていたのを、洋服屋さんにそれを保存するように指示をし忘れたので、裏地は無地のままになった戻ってきた。それが残念だ。ライカM9に5万円出して刻印してもらったのに、修理に出したら無地のトップカバーで戻ってきたような気分である。
クラブでもそれしか着て行かないから、あたしの顔を記憶してくれる。

ところが襟の部分が最近になってほつれてきた。修理に出さないと行けない。それで週末のクリニャンクールの蚤の市で新しい「古いジャケット」を買おうと思った。

意を決してメトロに乗ったら、次の駅で車掌が乗ってきて、「このメトロはここで運転打ち切り」と叫んでいる(のが理解できたのではなく、常客が降りたのであたしも降りた)ので、クリニャンクールに行くのは中止して、他の線に乗り換えて、マドレーヌでちょっと降りた。巴里交通当局は極東の壱外国人が38年ぶりに中古の上着を買いに行くのを、反社会的行為として禁止したわけだ。それ人畜無害なマドレーヌ。こういう観光地には行かないことにしているが、例によって、沢山の人だ。なにかストライキか暴動でも起こったのかと見れば、それはフォション本店の前に群れをなしているツーリストである。あたしのホテルのある下町にはそのような、ツーリストスポットはギャレットの風車とモンマルトルくらいしかないから、こういうのを見ると吃驚する。

またメトロを乗り継いでメゾンドライカに行く。金曜に店が見つからなかった理由が分かった。その前を通過していたのである。あたしの記憶に深く刻まれているこの店のファサードは10年以上前の、店先に沢山がらくたライカが並んでいた当時のそれである。
今では高級店めいて暗い作りになってしまったので、気がつかずに前を通過していたのだ。メトロの8番線Chemin Vert を出た所にあるのを見逃していたのは、老人力がついた証拠でもある。

店主のおやじさんがあたしに挨拶したのは、この前(1年7か月前)にズマレックス85mmを買ったからでもあろうが、お店の在庫はどうも良くない。「きったねーライカ」ばかりであるから、その全部が「パリマッチで撮影に使っていました」という感じの酷使ライカである。いや、本当にそういう時代の、あの偉大な五月革命を撮影したレンズとライカなのだ。この真ん中のライカM4にライカビットMPの附いたのなど、1967がデビューだから1968の五月革命を撮影した可能性はある。

それに昨年の4月に二本あったズマレックスは安い方を買ったのだけど、もう一本はまだ居座っている。19か月が経過して商品が動いていないのは、経済が良くないのか。ちょうど今朝、パリでは内閣祖総辞職だし。


★本ブログはフランスでココログに現在アクセスできないので、専用回線にてペンペンカメラ日記パリ支局から、極東ペンペンカメラ日記八千代台支局の桜木デスク(仮名、本名MP突撃隊長)に転送したものをアップしております。


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2010年11月14日 (日)

眠れ巴里

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パリ。いや、巴里か、。。ウイーン時代に愛読したのは金子光晴の「眠れ巴里」である。金子光晴も巴里の狭いホテルの部屋を転々としていた。

あたしの知り合いだったパリジャンもたった一人を除いて、全員が狭い狭い部屋に棲んでいた。
そのただ一人の例外は、アンドレ・カヴァセというフランスの化学コンツエルンの会長のじいさんで、この人の16区のアベニューフォッシュの邸宅は外見は地味だが中は道に迷うほどの広さで、あたしは会長夫妻と長いテーブルのこっちとあっちに(その距離は7メーターほどあった)に座ってランチを食ったのである。黒いお仕着せのメードさんがサーブしてくれた。まずメード喫茶の走りというところだが、これがちょうど30年前の話しだ。会長からは最近連絡がないからすでに天上の人であろう。

狭いアパルトマンに住んでいたのは、これも大金持ちの有名写真家ジャック_ラルテイグである。彼の家にインタビューに行ったが、頭がつかえるほどの狭さであって、さすがパリジャンは金銭感覚がしっかりしてるなあと感心した。
もっともラルテイグの場合には田舎に広大な屋敷があったし、リボリ通りの最上階に住んでいたHCBの部屋には行ったことはないが、写真で見るとやはり狭そうだ。

我々、ツーリストが気楽なのは、そういうアパルトマンの狭いのと、自分の安ホテルの狭さが共通に感じられる点だ。これがフランスの平等主義というやつか。
向かいのパリジャンのおっさんもベランダで天候の悪さに憮然としているの図。

まず、今回は年末に出る「ペン_パリ_プラハ」(仮題)の撮影のパリ分を撮影に来たのだ。カメラはペン1とペン2である。レンズはズームが2本のみ。
それで、今日も天気は悪い。

このように朝焼けの綺麗な日はかならず雨である。それで撮影は適当にしてあとはへ部屋で「ライカワークショップ」の見本を見たり、ワインを飲んだり、近くの市場で買った、エビの殻を剝いたりしている。

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2010年11月13日 (土)

ペンペンカメラ日記パリ総局62号室

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極東では昨日が「ライカワークショップ」(えい出版)の発売の日だった。アマゾンで見るに売れ行きはまさに「!」である。感謝感謝!! パリは天気が悪い。あたしの滞在中は来週の半ばまでほぼ雨だが、観光写真を撮影に来ているのではないからそれは問題なし。 パリの定宿は北駅そばのこのホテルの62号室と決めているのは、プラハと同じに天窓があるからである。しかもローンスター(★ひとつ)でシングルユーズだと60ユーロだ。あたしには変な癖があって、飛行機もホテルも「1」というのである。 変なのは飛行機は1の方が高級で、ホテルは1が最低であることだ。バブルの当時は取材で★が五つのホテルなどに宿泊して豪華な施設やらなにかを撮った。パリのばんどーむ広場のRなんかにも行った。その10年後、バブルの後にはその近くの三つ星のホテルからその五つ星などに一杯やりに行ったりもした。 敬愛するジョナスメカスがここのバーが撮影禁止となったのを知って、ショッピングバッグの中からビデオで撮影しているのは、なにか北朝鮮からのレポートみたいだ。そこが良い。 それでバブルの後にはまさかファーストで旅してローンスターホテルに泊まるという酔狂な贅沢はできなくなったので、前者をYにして後者はそのまま固持している。 実はホテルで泊まりたくないのは四つ星である。人件費の高い欧州では四つ星のホテルに着いたら、まず自分で荷物は運ぶものと覚悟せねばならない。五つ堀ならポーターに任せないと失礼にあたる。 その点、三つ星以下の方が気楽である。実はこの恩恵もデジカメによるのである。バブル時代には最低300本のフィルムを運び、カメラも「中古カメラ市の業者」ではなかろうかと思われるほど(最初、ウイーンのペーターが来日した時には新橋のホテルの自分の泊まっている部屋に不特定多数の客を呼んで商売してた)の大荷物だった。 実は一つ星ホテルというのは数が少ない。探すのが結構骨おりである。一つ星ホテルの選び方がなかなか高度な技であるのは、そこに最低限の設備の中でまずまずの妥協点を見いだすことが、一種のゲームであるからだ。五つ星なら高いのだから、設備が良くて当たり前、であるがローンスターホテルは、安いのにこんな所が評価できるというのが「探しがい」があるわけだ。 さて、この62号室がペンペンカメラ日記パリ総局である。昨年の4月の日記にも出てくるので、お暇な方はそれも読んでもらいたい。 デジカメの描写はまやかしものだから、案外に綺麗に映っているであろうが、実際にはそれなりのローンスターの施設である。1年半ぶりにこの部屋に戻って懐かしかったのは、この2部屋続きの間に「ライカ置き台」があることだ。 ホテルクリニヨンだって、ライカ置き台はない。それと床のまがい物の組木の床材が剥がれていたり、バスルームの奥の窓がこの壱片半の間に壊れて、そこにプラスチックの板がガムテープで補修してある所などいかにも写真のスタジオめいて「風流」である。

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2010年11月12日 (金)

A380の乗り心地

A380_7 最初にA380が紹介された時には、なにしろあれだけの客を二階建て非行機で運ぶのだから、かなり狭苦しいのではないかと思っていた。それがこの前、プラハに行く時にSQのA380の離陸を見たが、かなりふわりと離陸するのである。
あたしのエールフランス機は、満席であったからフルペイロードであろうが、離陸時間はかっきり48秒だった。B747が欧州に向かい成田を離陸する時には70秒ほどかかることもあるから、これはかなりのパワーだ。搭乗機はロールスロイストレント900ではなく、GE のエンジンだという。しかしあたしはあのGE のロゴは昔の電気冷蔵庫めいて嫌いなのである。

A380の新機軸はFは9席で東京パリは220CYENとうから最初から問題にしてないが、Cは40万円ほどなのでちょっと迷った。しかしシニア割引で60歳から130歳までというのを利用した。Yが10CYENしなかった。それでシートプラスという70ユーロの席を買ったのだが、ここはシートピッチが10尺あるから、すでにCよりレッグスペースがある。Fより足下は広いかも知れない。臨席は空だったから実に広い専用面積を占用したわけである。出発の前の日に0,77CYENで勝ったのがカードのデータが届いてなくて、再度カードをきったら、ユーロ高で0,81CYENになっていた。こういうのは不愉快である。

非常口座席だから、100万回の飛行に運が良ければ一度起こるかも知れない事故の時は、あたしも救助補助をする義務がある。それで今回は先週のカンタスのこともあり、シベリアの原野に不時着して、脱出のお手伝いをするのを楽しみにしていたが、残念ながらそういうことにはならなかった。機内でエアフランスの歴史の映画(これにはサンテクスのカップジュビーの事務所も出てくる!)で、フランスアエロポスタル会社はエアフランスの前身であったことを知った。

座席はエコノミー席でもウインドウサイドにもモノ入れがあって、かつて欧州行きの747のFクラスみたいだ。さらにウインドウが広いのがいい。しかしあたしの買った、シートプラスには窓はなかった。せっかく、勝間の6X30を持参したのに残念だった。
しかしそれを打ち消す魅力は、飛行機カメラが尾翼の一番上についたことだ。これを見ていると、本当に地面が背後に巻き取られて行く。まるでコンピュータゲームを見ているようだ。

食事内容も良かった。Yの癖に最初にシャンペンを持ってくる。これは以前、ICAO時代には完全に禁止事項に抵触する。食事は日本からのケーテリングだが、ちゃんとしている。80年代初期の欧州に行く欧州のエアラインの食事のレベル(ただしこの内容をそのままテーブルウエアに盛れば)である。ワインもちゃんと飲めるのが出てくる。
特筆すべきはこの機体後部の立派ならせん階段だ。これを上下して足を鍛えれば、かつてのJALの「青竹踏み」以上の効果で、エコノミークラス症候群などからは、おさらばだ。

★本ブログはフランスでココログに現在アクセスできないので、専用回線にてペンペンカメラ日記パリ支局から、極東ペンペンカメラ日記八千代台支局の桜木デスク(仮名、本名MP突撃隊長)に転送したものをアップしております。


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2010年11月11日 (木)

八百萬頁ビュー記念!!「ライカワークショップ」(えい出版社)は12日発売!

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田中長徳さんの「ライカワークショップ」、見本誌が編集部にとうちゃ~く! 今週金曜日12日発売です(A5判・240ページ・1600円+税)。みなさま何卒よろしくお願いいたします。

★御礼 発売2日前。Amazon ベストセラー商品ランキング: 本 - 875位!!

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ライカワークショップ

      

買ったきっかけ:
著者なので著者購入分で買いました。

感想:
デジタルカメラ時代に、フィルムライカのもっている意味を徹底的に解析します。

おすすめポイント:
もちろん、話題の世界最高のデジカメのライカM9のレポートと作品「銚子」を掲載しました。
口絵のライカの肖像がなかなか物欲刺激。

ライカワークショップ

著者:田中 長徳

ライカワークショップ 

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★パリから緊急なお知らせ★
パリからのご連絡です。何時も本ブログをご愛読ありがとうございます。パリの何時ものホテルの同じ部屋なのですが、なぜかココログとTWITTERだけに接続できません。原因は不明。
ココログとTWITTERに以下ようなメッセージが出ます。
L'accès à la page :
... a été refusé pour la raison suivante :
Site interdit: twitter.com
かと言って10日しか居ないので、撮影優先ですから、インターネットカフェに行く時間もありません。それで日記は毎日更新しますが、日記のアップは18日のCDGのラウンジになります。
その前に更新もあるかも知れませんが、800万頁ビュー達成ということで、1週間のお休みをいただきます。
エアバスA380の乗り心地など、お楽しみに。
このメッセージは東京の偽ライカ同盟メンバーに転送してアップしてもらいました。 
偽ライカ同盟並びに偽ライカ愛好会パリ支局  2010 11 11 田中長徳

シートプラス

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パリ。時差ぼけ中。日本より8時間遅れだから朝、目覚めると日本は夕刻。
つまり今日締め切りの原稿を今朝は朝から頑張って書くぞ!という時間にすでに日本はその締め切りの夕刻になっている。
欧州は時差があるから損である。
例によって、パリの北駅そばのローンスターホテル。

上はA380のシートマップである。あたしは91Lを利用した。トイレもバーも近いのでなかなか勝手が良い。
非常口座席を50ユーロで売り出したのは、あたしの知る限りでは5−6年前のKLMではなかったかと思う。今ではスカイチームではSUまでその真似をし始めtた。
SUならあたしはエリート会員なのでシートピッチが100インチはありそうな非常口座席は無料である。AFではラウンジとか優先搭乗のメリットはあるが、非常口座席代は他に70euro支払う。
でも、代価としては高くはない。AFのFクラスは220Cyenもするのである。

さて到着したばかりでこういう事を言うのも変だが、もう来週は東京である。天気はあまり感心しないが、この年末に出る「高千穂ペンペン写真集」のパリのセクションを撮影。レンズはズーム2本のみ。
ああ、また時差で眠く、、、、、

2010年11月10日 (水)

NRT瓦版 A380初登場の初搭乗

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成田。いつもSUのa330に乗ってるので、反対側のサテライトのAFの15番スポットは今回が初めてだ。デルタのラウンジに入ろうとしたら、受付の女子がその先にエア仏蘭西のラウンジがあるという。

入ってみたら赤で統一された「いかにも、いかにも」という内装だ。ただしラウンジの位置が悪くて、a380が見えない。それでまたデルタのラウンジに戻る。

ここからは眼前がa380である。そこで麦酒。思うにデルタのビアサーバーは麦酒の味が良い。プラハの麦酒に匹敵する。なにかサーバーに秘訣があるのであろう。

それで、a380を肴に麦酒を二杯。公平を期する為に、サッポロとアサヒを一杯ずつ。

ケータリングが二階建てなのも新規な感じがする。ボーデイングは15と15Bとなって二つある。あたしはアッパーデッキなので15Bからの搭乗だ。

コックピットの前に日時計のようなモノが3つある。これは何であろうか?プラハで見慣れた旧市街の古い日時計を思い出した。最先端の飛行機に日時計めいたものが附いているそのアンバランスがちょっとした発見だ。

快晴の極東の空をバックに駐機している、a380を見ていると、遙かな旅情が押し寄せる。つまりエアバス生まれたツールーズから、成田は遠いのか、近いのか分からないという混乱である。

パリからマドリッドに飛行するとき、左側にエアバス社の滑走路が良く見えた。長い立派な滑走路だった。

★カメラはペンデジタル2 レンズは14-150ズーム。旅には便利なので、最近こればっか。他には9-18のワイドズーム。この2本のみ。

ARRI 35 BL でスナップ撮影

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★本日移動日 NRTCDG 機材は空仏蘭西ご自慢の新鋭空乗合自動車「あ」の三百八号。

週末にアリフレックスBLのカメラテスト。

映画機材を手にすると、気分は大監督である。カメラテストというのは、ただただ廻っているカメラの前で女優さんなどが、愚にもつかない動きをしたりして、その動きが演技ではないので、逆にリアルであるのが良い。

あたしが「劇映画」を見るに堪えないのは、演劇の舞台の上の大げさな所作とか表情を無理矢理にクローズアップするからだ。そこに不自然が生じる。舞台写真家と称する人が大根役者をクローズアップするのが正視に耐えないのも同じ理由である。

この前、モスクワの帰りに自分の意志に反してCクラスに収容されていた時は、隣のロシア人の美女が「ダーリンは外国人」のロシア語字幕版を見ていた。見ないでも見えてしまうのだけど、そこに登場する子供の女優(還暦から見ると女優は全部が子供に見える)の演技の下手さには、眼をおおいたくなった。まさか隣の席の美女に「映画を止めろ!」とも言えないので静かにしていた。

これはなにも今の「邦画」だけではない。かのエイゼンシュタインの名作「アレクサンドルネフスキー」をまだ都電が走っていた、青山通りの草月シネマテークで見た時も、俳優の「眼を剝いた」表情が大げさなのでそのリアリズムの欠如に逃げ出したくなった。

ジョナスメカスは自伝映画の中で、自分が登場すると、その大時代的な演技のパロデイをやって激しくフレームの中を神経症的に動き廻る。この場合にはこれは風刺であるから見ていられる。ただしあたしはマルクスブラザーズは大嫌いである。あんなもの見て、大笑いしている周囲の観客は皆、茶碗のかけらのような連中だ。

それで今回はテストピースの撮影なのだから、どこで撮影しても良いようなものだが、こっちは気分がタルコフスキーになっているので、野々宮とダウンタウンの橋の上まで行っているのに「俺の映画芸術は妥協しない」などとうそぶいて、そこでは撮影をしなかった。アリとバッテリーとで20キロはある重いカメラをそこらじゅうに持ち歩いた。

メカスの映画友達のウイーンで酒を飲み過ぎで120キロはありそうな、ヘルマンニッチエのことに関して、メカスはその寡作ぶりを褒めているけれど、これは本気なのかしら。寡作というのは単なる怠け者ともとれる。

その意味でこの日のショットはたった6尺しか廻さなかった。だからあたしもメカスに褒めてもらう資格はありそうだ。一坪地主じゃなく、6フィート映画監督だ。今度、名刺の肩書きのはそう加えよう。

上の画像がそのテストピースである。レンズはTEGIA 9,8MM ストックは感度は400。

APEC警備のポリスの二人組が前を通過したが、何も言わずに通り過ぎた。

2010年11月 9日 (火)

八百萬頁ビュー記念!!「ライカワークショップ」(えい出版社)は12日発売!

 

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田中長徳さんの「ライカワークショップ」、見本誌が編集部にとうちゃ~く! 今週金曜日12日発売です(A5判・240ページ・1600円+税)。みなさま何卒よろしくお願いいたします。

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ライカワークショップ

      

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著者なので著者購入分で買いました。

感想:
デジタルカメラ時代に、フィルムライカのもっている意味を徹底的に解析します。

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著者:田中 長徳

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レオタックスG、パリに行く

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★御礼★ 何時もPEN PEN チョートクカメラ日記をご愛読ありがとうございます。おかげさまで11月9日0時18分に念願の800万ページビューを達成しました。今後ともご愛読よろしくお願い申し上げます。★★

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今回の巴里行きの資金を調達するために、ヤフオクに数点の品物を出品した。
その中の木星珠倶楽部の伍高酷塗装のリペイントモノのレオタックスGだが、リザーブ価格に達しなかったので、再出品しようと思ったが、他の品物を九州方面のカメラ人類さん(長崎と福岡)がお買い上げくださったので資金は調達できた。
それで、レオタックスGは手元に置いて、これはそのまま巴里に持参することにした。
巴里は一年半ぶりだ。例のメゾンライカのお店で、前回には巴里在住のカメラ人類の朝比奈さんに遭遇して、彼のM2にアンジエニューが付いていることを知ったのであるが、せっかくの華の巴里であるから、これに対抗(と、つまらない見栄をはる)するには日本は葛飾柴又のレオタックスにレンズは、かつては映画の世界ではお仏蘭西のアンジエニューと張り合った、お独逸のキルフィット(斬る嫉妬)を持って行こうと思った。

これは50年代、まだレトロフォーカスの広角レンズが市場になかった当時、レクタフレックス、アルパ、エキザクタ、コンタックスSなどが正式レンズとして採用した玉なのである。
アリフレックスもこの40ミリのキラーレンズを採用した。正式にはマクロキラーと言う。がきの当時は、「殺し屋レンズ」って凄いと思った。これはスペルが異なるのである。
そのマクロ域にはレンズバレルの非常に伸びるのもあって、各種のバリエーションがある。

さて、あたしのレンズはM42なので、そこらにあるレンズアダプターでまずキヤノンFDマウントに変換してしかるのちに、ライカマウントに変換した。
二重通訳みたいなもんだが、これで良いわけである。

さっそく、この前、カメラのきたむらで300本買った、コダックのカラーネガで撮影した。

ぼけこっこのお家は、冬響に備えてちゃんとビニールで囲いがしてある。

もう一枚は例の住吉さまの裏手の掘り割りである。
ああ、来年はもう大祭かな。

2010年11月 8日 (月)

キルフィット ズーマースポーツレフレクター500mm f5,6

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★御礼★ 何時もPEN PEN チョートクカメラ日記をご愛読ありがとうございます。おかげさまで、念願の800万ページビューが接近して参りました。重ねて御礼申し上げます。★★

西独逸のキルフィット社のレンズは60年代の名門レンズだった。当時のアリフレックスの総合カタログなどで、アカデミー賞を受賞した時の、アリ35のトップにはどこかの海岸でワイルドライフを撮影する、クルーの画像がカラーで紹介されている。それはアリ35ー2Cにキルフィット社の600ミリズーマーレンズでこれはかなりかっこいい。
600ミリと400ミリで「スポーツコンビ」というブランドであった。それはアリフレックスの交換レンズの真ん中で偉容を誇っていた。
その他にスポーツレフレクターという名前の500ミリf5,6のレンズがある。これは当時としては最新の技術でインナーフォーカスであり、絞りのない反射レンズの欠点を補って、NDフィルターの絞りがついていた。
どちらも会社が経費で買うものであるから、天文学的な値段であった。

手元のスポーツレフレクターはユニバーサルマウントであるから、普段はハッセルブラッド1000Fとライカフレックスあたりに付けているが、昨年の夏あたりからこれがペンペンに着くようになったのは、何か宝くじがあたった気分である。あたしは宝くじは買ったことないし、お馬もお船もルーレットもやらないけど、これは想像であるが、買ったまま箪笥にしまってあった宝くじが期限が切れる直前に当たり籤であったというのはこういう気分なのではないか。

このレンズはこのように、アリフレックスに付けるといかにも大監督の撮影機材という感じがするが、これだと1000尺のフィルムを現像してそれをスキャンしてと大変に面倒である。それで実際に撮影する時には、このレンズはペンペンに付けて、あたしの「ライフワーク」である、空筒を室内から撮影するのである。一番下の作例はそのようにして家から手持ち撮影である。
しかもムービーモードでデジタルシネマも撮れてしまうのだから有り難いというかなんと言うか。

 

2010年11月 7日 (日)

メットライフって何?

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ツエッペリンが東京の上空から姿を消してしまって、残念に思っていた。父の残した古いアルバムを見ると、戦前の東京市の甍の連なりの上に、未来をそのままに形にしたような、グラーフツエッペリンの勇姿がセピアに変色した画面で固定されていた。
東京の空から撤退してすでに解体されたツエッペリンNTの後継者がこれである。数日前に佃の晩餐の時に家人が最初にこの「確認済飛行物体」を発見したのである。あたしは食卓では隅田川に脊を向けている。家人は隅田川の方に向いている。飛行物体発見と同時に、アメリカ海兵隊のシュタイナー7X50で観察した。
はて、ネットライフとは何であろうかと考えた。
翌日、ヒルズの49階で同じ飛行物体が現れて今度はヒルズのタワーに大接近したので今度はちゃんと文字が読めたのである。
ただし飛行船とは大げさで、コックピットも2人乗り程度。まあゴム風船に毛が生えたものという感じだ。

それにしても謎なのは、こういう飛行船の宣伝効果である。登場しても一般の東京市民は誰も見ていないのは確かだ。昔の映画、「スーパーマン」では路上で「空を見ろ!鳥だ!飛行機だわ!あ!スーパーマンだ!」という台詞があったが、実際には人間大のサイズの物体が空を飛んでも何の話題にもならない。あれは映画の世界の虚構である。
同じ意味で、この「毛の生えた風船」を見たのはあたしくらいなものだ。実際に49Fのオフィスでは皆さん多忙だから誰も窓の外など見ていない。

2010年11月 6日 (土)

アルパの持ち方、ミランダTの構え方

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この前、NHKワールドの放送があった。Begin Japanologyと言うタイトルであって、 日本のカメラはいかに発達したかという内容。ペーター薔薇館さんがホストである。
あたしは一眼レフ進化のことについてちょっと話しをした。一眼レフの歴史が分かるような内容のクラシック一眼レフを持参せよという放送局の指示にもとずいて、クラシックなのばかりトランクに一杯持参した。経費が出ますというので、タクシーを利用した。

まずエクザクタとか、アルパレフレックスがあってこれにペンタプリズムがついて日本のカメラ工業は世界に発展したというストーリーである。

薔薇館さんが日本カメラ博物館でライカのレンジファインダーの数々を前に話しをした。それから戦艦大和のレンジファインダーが登場した。さすがNHKはこういう資料映像の厚みは凄い。日本光学は戦前は大和のレンジファインダーで戦後はそれをカメラに応用して、さらにいち早く、レンジファインダーから脱却して、一眼レフに転向したから大成功との見方もなりたつ。

デイレクターさんは、うちにズノーがあるかと聞いてきたのだが、ズノーは数年苗に岡山の田中カメラさんにて、「いじり壊して」ジャンクにしたことはあるが、ホンモノは持っていない。それでその次の世代(というかほとんど同じ時期)のミランダTにズノーの附いたのを持参した。ホンモノのズノーではないが、半分はズノーなのでこれで勘弁してもらった。

放送ではアルパレフレックスを触っている所のあたしの姿に名前がスーパーで出て、職業は写真家でカメラヒストリカとでた。この場合、メカニズムライターは和製英語だから通じないだろうし的確である。

あたしが話しをするバックに英語の音声が流れた。1970年代にウイーンでフィルムミュージアムが10周年になった記念の番組で、メカスに関して話しをしたlことがある。あの時はカメラはアリフレックスSRだった。あたしの下手な英語の音声に独逸語の字幕がだぶった。
7年ほど前に、オーストリア放送協会が日本に取材にきた時、スタッフが足りないので三脚持ちをしたことがある。ウイーンライカショップのペーターとライカ社のコーン社長が売るライカを持参した時のことだ。
15分番組を3本作った。一本目は東京のウイーン風カフェについて。二本目は東京のクラシックカメラブーム。三本目はあたしの仕事についてだった。
あたしの独逸語はブロークンの上に酷い訛りがあるのだけど、デイレクターはそれが面白いと言うのであえて、独逸語で話しをした。その番組は見ていないが、しばらく後にウイーンの友人から、見たぞ!と報告があった。オーストリアは言葉が周辺では異なるから、チロルの果ての村のじいさんの話しなどは、かならず画面に正しい独逸語の字幕が出る。あたしの話しも字幕が出たかどうか、それが聞き漏らした。

このミランダTに附いているズノーは今回、巴里行の取材費捻出の為に、ヤフオクで売った。落札者は長崎市のカメラ人類さんだった。これも奇縁であるが、その奥様から「主人が落札できて大変よろこんでいます」とのメールをいただいた。夫唱婦随っていうか、山内一豊の妻というか、これは凄いことだ。

2010年11月 5日 (金)

アリフレックスにエルマーレンズ

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29歳の時、ドイツの(当時は西ドイツ)フォルカー シュレンドルフ監督の本編の撮影のスチルを担当したのだが、当時はアリBLであった。このカメラが全体のクルーと俳優の中心になっていたのである。
それを取材に来た、ZDF(ドイツ第二放送)の機材がエクレールACLであったのも懐かしい。
当時のアリフレックスはすでに、ツアイススーパースピードであった。レンズは確か、25,35,50,85,135なのだが、監督はもっぱら50を多用していて、すごいなと思った。あたしはライカM2とM3でレンズは21,35しか持参しなかったのだから、スタンドフォトグラフとしては失格だ。
ストックはイーストマンの5222で、そのショートエンドをもらってそれをライカのカセットに装填して撮影した。だからこの映画はその出自が、スチルもまったく同じ「物質」から出来ているのが当時は面白かった。まさか今、本編の撮影でREDとスチルカメラが同じCFカードを使ってなるなどと感激する人間は居まい。

このレンズは戦前のライツのエルマー35mmである。これは資料をひっくり返しても、今までライカ本には出てこない。今のツアイスのウルトラプライムの描写は知らないけど、想像するにそういう5本で1000萬円のレンズの極北に存在する珠であることは確かだ。
北井一夫さんに、クラシックなエルマーをおすすめしたのは、1982年頃のことであるが、以来、北井さんはずっとエルマー35と50をお使いである。
こういうクラシックな珠がアリフレックスに付くのもまた一興だが、これは製造番号からすれば第三帝国時代の製品であろう。

2010年11月 4日 (木)

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今の住まいはタワーの北東の角部屋である。

普通、人気なのは日当りの良い南東の角部屋であるが、手元にがらくたカメラが沢山あるのでそれが日に焼けない意味から、あたしには北東向けは理想だ。しかし昨年あたりから、窓から見る風景で思わぬ拾いものをした。巨大建造物が成長してきたからだ。大川の界隈は、例の空筒があるから、これからは「空筒ビュー」の部屋は貴重なので高くなりそうだ。窓の風景は「オープンプライス」であるから、これを日本円に換算するのは妥当ではないが、まず推定で二千カメラ円ところだ。窓からの風景が寂しいからと言って、同じものを個人で建築したらこんなものではなかろう。

時計工房もアトリエも北の空からの天空光で照明されているのが正しい。
以前から気になっているのは、フェルメールの人物画の採光が、どうも北向きの窓ではなく、人物の配置から勘案するに、南向けの窓からの光で人物のポーズさせているような気がして仕方ないことだ。

まあ、今更、ご本人に聞いても仕方ないことだが。

2週間のプラハから戻って、大ガラスの部屋から空筒(くうとうと書いて、ライカインコメモリアルタワーを読む)が、ぐんぐん成長したのに驚いた。同時に、大ガラスの部屋のアボカドのがきも、どんどん成長して、もう一丁前である。

手元のエプソンRD1sに上海問屋から10枚届いた、2GBのSDメモリ(一個480円)を挿入して、レンズは昭和22年のニッコール50mmf3,5を付けて撮影したら、果たしてちゃんと写っていた。

2010年11月 3日 (水)

ゴスペラーズの酒井さんと対談

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一部のブラウザーでは画面の方向が正しく表示されないことがあるが、ご容赦。あたしの津久田の古PowerBookがそうである。

赤坂は乃木神社の脇のソニーミュージックにゴスパラーズの酒井さんと、中央機関誌「ゴスマニア」の対談に赴く。

乃木坂界隈は思い出の地である。

1976年、欧州で開催された、現代日本写真家展は戦後の日本の現代写真の欧州での一大展覧だった。32名の写真家の中には、東松さん、細江さん、奈良原さん、森山さん、アラーキーさん、立木さん、篠山さんに混じって十文字とか田村とか、あたしのような若造もメンバーだった。その再年少組は当時は29歳である。それが今は立派な還暦すぎ。
そのメンバーの高梨さんの事務所が乃木神社の脇であった。今回、注意してみたらまったく新しいマンションになったのが、さらにかなり古びていた。34年が経過したのだから、当然だ。

あたしの知る赤坂界隈はまだ都電の走っていた時代なのである。

酒井さんとは初対面なのだが、なにしろ、ツイッター仲間なので、まったくそういう感じがない。
言い方が陳腐だけど、「好青年」という感じである。

カメラの話が主で、それから各種メデイア論まで、久しぶりに「知的冒険」が楽しめた。知的冒険とはこの言い方も陳腐だけど、これは普段、福田和也さんとか新潮の矢野編集長とかとかわしている、愉快な会話という程度の意味である。小難しカタカナ言葉が「知的」な会話である筈もなし。

それで、酒井さんに「偽ライカ同盟」への入部を許可したのである。入部を許可とは、また大時代的であるが、英国王立写真協会のこれは真似なのである。

ゴスマニアのバックナンバーに酒井さんと坂崎さんとの対談があった。これがかなりハードなカメラとレンズの話し。レンズ沼にずぶずぶの話しは、つい最近のアサヒカメラで、坂崎さんとの日暮里のニッポールのお話を書いたばかりだ。

突然、思い立って持参したペンライトのメモリを抜いて、それ(ペンンデジタル)をクリスマス時期だというので、酒井さんに進呈した。色は赤と白でなんとなくゴスパラーズなのである。あたしの髭はさんたじじいに似てるし、まあ季節モノのご祝儀だ。
酒井さんはGXRの愛用者であたしのGXRワークショップも読んでいるらしい。ありがたい。

対談を終えて、すばらしい金色の六本木の午後を散歩しながらヒルズの仕事場に戻った。

夜、帰宅したら、尻のポケットにいれてあった、SDメモリを紛失している。尻のポケットに会いフォンを入れていたが、これにはゴムのカバーが付いている。それでポケットから抜き出した時に、SDもひかかって一緒に出て、それが落下したものらしい。
残念。
中には先月のプラハの滞在中の画像がいっぱいに入っている。
でも酒井さんと楽しい会話が出来たのだから、それは税金と思えば安いものだ。

その夜遅く、酒井さんが「金色の午後」に撮影した画像をオンラインで見た。なかなか視神経に滲みる画像だった。なんでもこの日は夜までペンライトで撮影して、各種のアートフィルターも試したらしい。
それで酒井さんの携帯に付いてる、万歩計は15000歩超え。

★追伸。ヒルズで「昨日、オフィスにSDカードを落としたかも知れない」と受け塚の人に言ったら、ちゃんと届いて保管してあった。ここらの管理態勢は大したものだ。感謝!!!

2010年11月 2日 (火)

キノプテイク アポクロマート

Kinoptik_1

Kinoptik_2

カメフレックス用のCAマウントは、以前は捨て値で出ていた。あたしはカメは何台か持っているので、10年ほど前にポーランドのフォトホビーでロットで買ったがとても安価だった。ようするに時代遅れのへんてこなマウントのレンズなど誰も興味を示さなかった。
ところがその後に、50ミリ見当のキノプテイックのレンズを改造してライカマウントにする業者が登場した。これはカメフレックスのレンズの光学ユニットsだけを取り出して適当なフォーカシングマウントにセットしたのである。
かなり高価な値段だけど、好事家はこういう変わり玉に手を出すのであろう。

状況が変わってきたのは昨年の夏からだ。
マイクロフォーサーズの登場で、カメフレックスマウントをまずPLマウントに変換して、そのPLマウントをマイクロ4/3に付けるというアダプターの裏技が登場したのである。
ただしこれはマウントアダプターを二個買わねばならず、しかもかなり高価になる。

プラハでebayを見ていたら、カメフレックスマウントをそのままマイクロ4/3に変換するアダプターが出ていた。これは台湾製なのであるが、作りも良さそうなので1個注文した。

雨の土曜日に到着した、このマウントアダプターをペンデジタル1に付けてみたらなかなか調子が良い。
パリにはキノプテイクのレンズを数本持参して遊ぼうかと思案中だ。

キノプテイクはパリで作られた(今でも生産中)の、文字通り映画用のレンズである。地味な作りで値段はすばらしく高価(もともと個人が買うものではなく、会社の買うレンズである)であった。
それがライカやツアイスのレンズに飽きた、もの好きが手を出したりしたのである。

記録映画作家のヨーリス イボンヌなどもキノプテイクを使っていたが、ただし欧州人はそこでニッコールのニコンFマウントの58ミリF1,4を発見して、それをカメフレックスに付けて撮影したらそこには「パリの夜の路上のすべて写っていた」という事情もある。
ようするに、レンズのブランドなどはあまり関係がないという、これは逸話なのである。

2010年11月 1日 (月)

ローマの魔法の一眼レフ

Recta1

ローマに行ったのは、あれは復活祭の時期であった。欧州は復活祭はみんな待っているのに、むしろ冬より寒いひどい天候であったりする。
そのローマ行が何年であったか記憶にないが、これはエプソンRD1の出た年だ。ローマの歌劇場の側のクラシックなホテルに2週間ほど居た記憶がある。それで毎日ローマの町をエプソンRD1で撮影しようとしたのだが、1600カット撮影したところで、カメラが動かなくなった。それでも写真集のためには充分なカット数なので、それで止めにして、あとはレクタフレックスを持ってローマの町を撮影した。
その話しは日本カメラの「銘機礼讃3」に書いてある。

レクタフレックスの何が良いかと言えば、1947年にはすばらしいカメラであったが、今は何と言うこともない。ただデザインがいい。もっと突き詰めると、そのロゴが良いのである。おそらく世界一のカメラロゴなのではないか。
だからRECTAFLEXのTシャツなんかも着ている。
そのトレードマークは波頭にRが乗っている。テレベ河の上に君臨する真実というところだ。このマークはカメラの底蓋にプリントされているのも尋常ではない。イタリアのアパレルがそのロゴをちゃらちゃらと、表に出してくるのと正反対である。そこがかっこいい。カメラの裏側にLa Reflex Magicaとある。いいねえ。
Recta2

今、うちにあるレクタフレックスを捜索したらこれだけ出てきたが、思うにまだもう一台のローターがあるし、金ぴかのもあるしその場の勢いで買った数台がある。
レクタフレックスをebayで見たら、すでに「全部業者のストック」になっている。10年前までは捨て値であったのは、かつてのアルパの人気のなかったのと同じだが、アルパは5万台生産されたが、レクタは一万台だ。メーカーとしてはまったく成功しなかった。
レンズやアクセサリーが高いのもレクタフレックスの特徴だ。レンズキャップなんて100ドルでも買えない。これはそのロゴに魅せられたカメラ人類が買うのを待っているのだ。
あたしが買い逃したアクセサリーに、28ミリと50ミリのフレームファインダーがある。これがロンドンのカメラ店の在庫にあって、250mドルの値段がついて、しかも二個あった。いつでも買えると思っているうちになくなってしまった。このファインダーはレクタフレックス用のアングラーという名前の巴里はsom 製のレンズであって、ミラーアップして使う。レクタフレックスには普通のアクセサリーシューがないので、アイピースに固定する変なファインダーだ。その28ミリレンズは売り物を見たことは一度もない。
他にはレンズのリアキャップの「透明プラスチック」のやつとか、普通しぼりをアイデアでプリセット絞りにする、レンズフードとかも魅力だ。
先週、ebayでシドニーから4000番台のボデイを買った。これは初期モデルである。動かないのだけど、レクタフレックスにはまるとそのロゴがあれば満足であって、動くかどうかは二の次になってくる。
一眼レフが一番輝いていた時代のカメラだ。イタリア製で唯一の一眼レフである。

イタ車もイタ服もイタ飯やも満杯なのに、イタカメは皆無。そのイタリア人そのものが、半世紀前にカメラ工業国であったことを忘れている。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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