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2010年10月31日 (日)

熱帯魚

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熱帯魚というものを初めて見たのは、これは喫茶店の中であろうと思ったのは考え違いである。小学生の時に見たのであるから、がきが喫茶店に居るはずはない。これは記憶違いであって、どこかのデパートで見たのであろう。生家の近くのデパートと言えば、それは池袋の西武でパートである。
熱帯魚で記憶してるのは、エンゼルフィッシュとグッピーである。なによりも凄いと思ったのは、水槽のそこからぶくぶくあぶくのでるのと、ヒーターが入っていることだった。当時の日本家屋は電気と言えば60wの白熱電球とラジオが唯一の電気製品だった。洗濯機とかテレビはまだそのちょっと先の話しである。

ずっと後年になって、坂崎幸之助さんから彼がグッピーの専門家であることを聞かされた。高校時代のアルバイトで錦糸町の「錦糸園」というペットショップで坂崎さんはバイトをしていたのである。
かなり専門的なグッピーの話しを聞いた。「こんどXXという奇麗なグッピーを差し上げますからぜひ飼ってみてください」と言うので、あたしは水物のペットは飼うのが難しそうだと心配していたら、そのままになったので、ちょっとほっとしているのである。
20年来お世話になっている、共同ビルクリニックに行った。家から徒歩で茅場町でそこからメトロでヒルズはいつものコースだ。
メトロの駅の構内にある、いかにも「駅員さんが手すさびに制作」したような展示物を見るのがすきだ。あれは実にキッチュである。しかも今風の訳知り人間が意識して制作した「キッチュアート」ではないからこの方が段階が上である。

それでいつもこの展示物の前に立ち止まってしばし観賞するのである。
熱帯魚というタイトル文字の熱という文字の点が壊れているのも良い。わざわざ熱帯魚であることが分かっている上での「だめおし」がいかにもアートしているのである。
その脇にある金閣寺の背景絵は、金閣寺と断っていないところにまた奥ゆかしさが感じられる。
これはメトロの構内にある「ジオラマ」ものとしては白眉だと思う。

最近ではなくなったようだが、15年ほど前に都心の駅に「ぽんたの広場」というのがあった。信楽焼きのたぬきを1ダースほど並べてその大きいのから順に@長男ポン太、次男ポン次、三男ポン三郎とか、それぞれに名前のついたなんとも変な展示であった。
当時、あたしは酷い腰痛にやられていた。腰痛を癒すには、椅子が一番なのである。ところが東京にはこの椅子というものがまったくない。
特に酷いのは渋谷駅の15年前であって、こっちは必要があるので必死に捜索しても、渋谷駅周辺には一基も椅子がなかった。それで仕方なく、喫茶店に入ったりした。その点、このポンタの広場にはお世話になった。この前には椅子が数脚置いてあり「お休み処」とと札が出ていた。

そのポンタは最近ではヒルズの中にある、コンビニのマスコットキャラになっている。あたしの世代から見れば、このめたぼ体型のたぬきなどはまさに自分のキャラクター化である。それが現代の最先端のコンビニのキャラになっているのは、これは老人対策ではないかと思ったりする。

2010年10月30日 (土)

紙ヒコーキを拾う

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先日の「目黒の一本道ツアー」では、1週間前の「偽ライカ愛好会ツアー」で歩行した、西小山から武蔵小山の経路を逆に歩いてのである。

武蔵小山駅前にある、焼き鳥屋をVちゃんから教わったので、起き抜けに一杯のつもりで行ったら、まだ店はしまっていた。ここらへんが品川区はやはり上品だ。

くりこ庵への商店街ではなく、武蔵小山方面に向かう地味な商店街の左手にある、つたやにて「で御霊ハンバーグ定食」これが割引にて490円。この定食をあたしは小岩とか登戸とか京都とか長崎で食べているが、これが一種の旅情になっている。なんせ極東である。

商店街を歩行していたら、最初は「空耳」かと思ったのだが、後ろを歩行している女性が携帯で話しているのが、チエコ語なのである。こういうことが品川区小山で起こりえるのも今の時代だな。

西小山の駅前に出てから、方向探知機をセットし直して、目黒の一本道を北に歩行。カメラはライカ3fにとぷこーる50ミリ。原町、本町丁目から4丁目を経由して、出たところが見覚えある、月光原の側の横断歩道橋。その先がさんぽーカメラである。そこでトイレを借りて、目黒通り交番前から鷹番小学校の前を足速に通過しようと思って、そこでこの紙ヒコーキを拾ったのである。

プラハとかリスボンとかで、路上の敷石をコレクションするのが何十年来の趣味だが、路上に落ちている紙ヒコーキを拾得したのは人生で最初である。

飛行動物ならぬ、飛行物体を拾ったのは「吉兆」である。そのスタイルはまさにコンコルドに酷似している。コンコルドに搭乗したいという夢はついに果たせなかった。CDGでは自分の乗っている搭乗機がゆるゆるとタクシーしている時に、台座に乗ったコンコルドを狭い窓越しに見ることはあった。

コンコルドとA380では比較にはならないけど、来月のパリ行はA380であるから、これを以て、コンコルドの代用とするつもりだ。

2010年10月29日 (金)

ライカワークショップのゲラを見る

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★御礼 いよいよ、あと5万ページビューで800万ページビュー達成です!!

「ライカワークショップ」(えい出版社11月12日発売)の進行が佳境にはいってきた。この「佳境」というのはどうも業界用語のようである。編集の進行の最終段階は地獄であるはずだから、この用法はちょっとおかしい。しかし大昔にウイットのある編集者さんがいて、シニカルな意味を込めて使ったのが、そのまま伝統として引き継がれてきたのかも知れない。

この1月のはじめにプラハに着陸する時に、ロシア人のパイロットが「オーチンハラショ・パゴーダ」と機内放送して、あたしなどは「素晴らしい天気」をそのままに理解して、さて空港に着陸したら吹雪であった。それでバスでアトリエの側まで行き、普段なら6分ほどで到着するアトリエまでの「平原」で雪の為難渋して半時間もかかったことがあった。

さて、ライカワークショップのゲラである。出版は人間の仕事だなあと思うのは、人の手に関わっている部分を離れると、これが数日で本になってしまう点だ。この本の巻頭にはかなりの数のライカのポートレートがある。これがめちゃ格好いいのである。ベンヤミンを引用するまでもなく、ライカも実物よりそのイコンの方がずっと存在感がある。

そんなわけで、校了になると後は見本を待つだけだ。この瞬間、長い時間かけて原稿と取り組んだ苦労は昇華される。

2010年10月28日 (木)

JAN PAZDERA

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1975年、プラハに最初に行った時に「発見」したのが、フォトバザールである。フォトバザールとは、普遍的な名前のように聞こえるがこれがプラハでは、このお店、すなわちJAN PAZDERAのことである。
プラハの中心地に店を構えているのは、現代の感覚では、はなはだゴージャスである。今の日本などでは、なるべくテナント料の安い場所を探すのが普通であるからだ。
「写真機店」という欧州のカメラ店ばかりを撮影した写真種を出したのはもう120年以上前であるが、今回、撮影した店内とあの当時の店内とを写真集とこの画像で比較したらほとんど変化がないのにはかなり頼もしく思った。これがデジカメの店であったら、ただただ10年前の展示物を見て、そこに回顧の感情ではなく、時代遅れを感じるばかりである。

JAN PAZDERAは2店舗ある(以前は3店舗あった)が、クラシックな建物の通り抜け道の途中にある方が、この「プロショップ」である。大体が、かつての社会主義体制で使われたプロパガンダ用の35ミリ映画撮影機などは、もともととんでもない高値に設定されているから、お店のウインドウの中央に鎮座していて、数年来動かないのが普通である。このカメフレックスは価格が安価なのと、程度が良かったので入手した。
問題はこの木製ケースも入れて25キロほどある機材を、どのようにアトリエまで持参するか、その方が問題であった。前の日に入念なイメージトレーニングをしてから犯行に及んだのである。
最初の考えでは、お店の近くの広場にたむろしている「雲助タクシー」を利用するつもりであったが、そういう大事な時に限って一台も泊まっていない。
カメフレックスの移動時には、本体は出してこれは木星球倶楽部のトートバッグに入れた。ようするに片手で25キロを持つより両手に分散した方が楽、くらいの分別はあたしにもあった。
タクシーは止めにして、アトリエまでは路面電車かメトロがある。考えた結果、路面電車は乗り込みに段差があって危険と考えた。それでメトロ。高速なエスカレーターはかなり深い所にまで行くが、これは東西冷戦時代に核シエルターとして作られた名残なのである。エスカレーターの乗り降りには気を遣った。
一番の問題はメトロを降りてから、アトリエまでの徒歩7分である。右手と左手とに木製トランクを何度も持ち替えた。
アトリエの入り口から6階まで、エレベータはないから運び上げるのであるが、これが一番、きつかった。
翌朝、そのカメフレックスのトランクとそれから東京に持ち替えるスーツケースを下に今度は運び下げたのであるが、これは大したことはない。
空港でチエックインして空手になった。ようやくすっきりした。

2010年10月27日 (水)

プラハのカメフレックス

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今回、プラハからカメフレックスを持参した。木製のセットケースに入ってその重さ24キロ。29歳当時、立木義浩さんの事務所に、1976年から77年にかけて欧州を32名の写真家で巡回した大展覧会の打ち合わせに行って、歓談しているときに、話題が映画カメラの話になった。立木先生は「おーい!カメもってこい!」と叫んだら、助手さんが持ってきた。これがカメフレックスとの出合いである。

聞けばパリにロケに行ったとき、60万円ほどで買ったという。当時の60万は今のいくらになるのかわからないが大変に高価だった。当時は篠山か立木かといわれる時代であったが、篠山先生はアリフレックス35をお持ちだったから、同じブランドではよくないという考えが立木先生にあったのかも知れない。

カメフレックスは1947年に登場した。あたしの生まれ年の撮影機だが、そのデザインは宇宙的な意味では、シトロエンDSと酷似している。
ユニット方式で本体、レンズ、モーターが手品のように変えられるのである。さらに16ミリと35ミリのフォーマットが瞬時に交換できるというのはまさにマジックである。
カメフレックスは半ダースほどもっているのだが、その一台が今度、来日した。その理由はアエロフロートのエリートプラス会員なので、40キロの荷物を持てるのだけど、一度もその特権を行使したことがない。それならというので今回、プラハから東京に移動させた。

上の画像はオーソン・ウエルズが葉巻をくわえてカメフレックスを覗いているショットである。稲垣の場合には葉巻はダミーのボール紙製であったが、巨匠も金属の塊のカメフレックスを手にすると、葉巻はボール紙っぽく見えてくる。

中の画像は1947年のこれはカメフレックスの発表会か何かショットであろう。拡大してみると、奥の方に各種のアクセサリーがあってこれも楽しめる。

下の画像は英国の雑誌のカメフレックスの広告だ。かなりコンパクトに見えるが、これは100ftのマガジンがついているからなのである。これがつくとカメラ全体が非常に小さくなる。ところがこの100ftマガジンはなかなか市場に登場しない。あたしなど数年探してようやく1個だけ手にいれた。

というわけで、日常には何の関係のないカメフレックスであるからこそ、大事なのだ。ちゃんと映画を撮るのなら、カメフレックスについている、フランスはパリのキノプテイックの交換レンズをアダプターでペンデジタルあたりに装着したほうが手っ取り早い。

2010年10月26日 (火)

iPhoneが常に圏外

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東京は月曜。
朝っぱらから、「ライカワークショップ」のゲラ(pdfではなく、紙に印刷したやつ)が到着して、俄然やる気になる。

2週間ぶりにヒルズに行こうと思ったが、連載写真のカメラのぶつを撮影する必要があるので佃の大ガラスに滞留。

ところで、あたしの胃フォンであるが、例の国内に到着と同時に「圏外」というのにまたなって、一向に改善しない。しかし冷静に考えるに、ケータイを使うのは、成田に到着した時に家人に連絡する時のみである。だから一年に数回使うだけ。さらに向こうではスカイプであるから、ケータイを持っている必要はほとんどない。むしろ、胃フォンの電話ではなく、デジカメの機能を使っている。それなのに、何とかプランでソフトバンクに毎月お支払いをしているのも馬鹿な話しである。

っったく!もう!

胃フォンは常に圏外サービスだし、プライオリテイハンドリングの筈の荷物は最後に出てくるし、踏んだり蹴ったり、じゃなくて「圏外だり最後ったり」である。二十歳の頃はまさか40年後にこんな苦労をするとは思わなかった。未来学者が未来を予測しがたいものであるというのも良く分かる。

この画像は胃フォンのカメラテストである。WIFIで送ってちゃんと作動しているから電話として使っていないことを再確認。
さて、どうしようか。胃フォン止めるか。それとも胃フォンのG4に切り替えるか。
あたしは機械ものに運がない。かならず初期不良とか、非常に珍しい事故で問題が起きるのである。

ここで目下のあたしの機材の問題点を再確認すれば

★胃フォンG3は欧州に居る時には、真夜中にSMSを発信してきて、電話代を言ってくるのがうるさい。

★成田到着と同時に「今までのネットワークは使えません」と切り口上で「圏外」になる。それで突撃隊長のあいぽんを借りて、家人に到着報告をするという面倒さ。

★居パッドに関しては、テキスト入力時にかならず、文字のリフレインがある。それで周辺のついった仲間がこれを真似する。真似する。

当面の問題点は以上。それに来月のパリのストライキも気になるけど、これはパリの交通局のHPを見ていればまず問題なし。

2010年10月25日 (月)

「偽ライカ愛好会」東急目黒線 西小山ーー武蔵小山

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帰国して時差を克服するのに、最良の方法は動き廻ることだ。それで金曜にプラハを出て、土曜の朝について四谷でシドニー寄席をした。土曜の夜は早めに寝たが午後11時頃にメガ醒めた。
それからまたちょっと飲んだりして、午前3時半に寝て午前10時に起きた。
時差の二日目はなかなかきついが、ここでまた眠いというので寝てしまうと、後にさわる。

東急の有名文化サークルである、Be(べ、と読む)には、「ライカ愛好会」の講座で数年来お世話になった。その最終回が9月末にあった。あたしは開講中にそのメンバーと講座の後に懇談などをしたことはない。時間通りに終了させたぱっと帰ってしまう。

ただ、講座は修了したので、その歴代の参加者が連絡を取り合って、お疲れ様の顔会わせをしようとことになったらしい。そのアイデアを受講者のVなる男性が連絡してきたのはしばらく前のことだ。それから日にちが経過していよいよ、無届け集会を秘密裏に決行するとの通信が届いた。これがプラハでの話しである。

あたしはもともと父親譲りで対人恐怖だし、人つきあいが悪いので、そういう集まりには出ないことにしているが、時差の解消の方法にはこれは良いと思ったので今回は参加を承諾した。

その無届けデモ行進が昨日のことだ。デモだから、本来はどっかの国のクルマをひっくり返したり、国旗に火をつけたりするのが本来なのだが、そういう仮想敵国はさし当たり見あたらないので、ただただ、時差に翻弄されつつ品川区を遊覧したのである。
集合ポイントは1330に東急目黒線西小山駅。無慮10名ほどが集合して曇り日の中を歩き出した。曇り日は方向感覚がなくなるので、町で迷子になるには最適な日である。
品川区の裏の裏みたいな場所を一時間半ほど撮影。

実はあたしは武蔵小山界隈はおなじみなのである。散歩カメラ店に行ったり、長いアーケードにある鯛焼き屋に行ったりしているのだ。
だから土地勘はある。
今回の撮影で、気になったのは、この看板である。「カタログ社」なんてちょっと凡庸な頭脳では考えつかない。なにか日本にグラフィックデザインが伝来した直後に起こした会社みたいな面影があり、この場合、重要なのはその看板の風雨による「すがれかた」である。
なかなか良い味が出ている。

その先に材木店があったが、これは本来「竹竿屋」というべきなのであろう。その竹竿の展示の方法がいかにも、現代アートめいているので気に入った。

武蔵小山の商店街の「くりこ庵」にて、鯛焼き買ってから、BeのメンバーだったVのお宅にお邪魔して、大宴会となった。駅そばのどっかのブテイックみたいな瀟洒なハウスである。
アルコールに「電気ブラン」が加わった頃から、「ライカとロボットとローライのどれが一番偉いか?」とか、体重2,5キロのワン公と、3,5キロのにゃーを戦わせるとどっちが強いかとか、かなり高度な知的会話が楽しめた。

なんでも有志が東急のBe(べ、と読む)の業績を記念して、時々会おうじゃありませんかというので、あたしは止めさせたのである。それは東急のBe(べ、と読む)に対する重大な背反行為である。しかし憲法の保証する結社集会の自由から見れば、名前のない臨時の集合なら構わないと思った。

ただ問題もある。この前、ライカM9を持って銚子に撮影に行った時、とある喫茶店の名前が「なまえのない店」なのである。(この写真は11/12発売の「ライカワークショップに掲載)
この名前では身も蓋もない。どうしよう。それで東急のBe(べ、と読む)からはずっと下がって、その影を踏まずという意味で、偽ライカ同盟にしようということに、おっと間違えた、偽ライカ同盟はすでに18年も存続している任意団体である。訂正。「偽・偽ライカ同盟」にしようと考えた。
しかし思うに、これもダブルネームで発音しにくい。
結局、ここは「偽ライカ同好会」という名称を仮につけようではないかと言うことになった。
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なんだかわけが分からないが、その「偽ライカ愛好会」の非秘密メンバーの集合写真がこれである。
上のワン公が「偽ライカ同好会」の会長代理犬某号。これからはオラクルの真似をして、組織のトップはお犬さまである。ネカ(猫)はそういうことは嫌いだから役職を押し付けてはいけない。他のホモサピエンスどもはその手下のメンバーである。なお、個人情報保護の立場から、代表犬とメンバーの氏名は公表しない。
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★以下は付録画像。本文とは一切関係ありません。

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2010年10月24日 (日)

東京の時差ぼけ初日

本日は画像なし。
昨夕のモスクワ出発時には、ダブルブッキングで、Jにアップグレードで、シートは2Hであった。臨席のロシア人のブロンド女子が脇でイパッドをタップするのが、なかなかセクシーに見えたのは不思議だ。
ただし、CクラスはYのような、飛行そのものがエクササイズという感覚に欠けるのは面白くない。それに最後尾のギャレーにて2ユーロ払ってウオッカを買う楽しみもない。

昨日、到着したらピックアップサービスあり。午後2時から例のシドニーにて、大演説会。それから倶楽部エダムで歓談。
飛行機の中では2時間睡眠なので、眠い。

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佃。

2時間ほど深く眠って覚醒。これが毎度のパターン。ポケットからアエロフロートのチョコが出てきた。銘機アントノフ2である。20年近く前に、プラハの観光でこれに搭乗したことを思い出す。タイヤの付き方がセクシーである。

日本の初期のアビエーションでは、これを「タイワ」(大輪)と言ったらしい。プラハ空港のバス停にはU HANGARというのが今でもある。ハンガー前という意味だが、これも初期のアビエーションの名残があって良い。

そうそう、思い出した。NRTがまったく駄目空港だと思うのは、これだけのサイズの空港で出国時にFAST TRACKのないこと。もひとつは、帰国時にプライオリテイハンドリングのバゲッジなのに、いつもHISの団体さんが全部荷物を引き上げて、その一番最後に出てくること。今日も、ラゲッジのベルトの前で30分以上。それで出迎えの人に迷惑かける。プライオリテイハンドリングを一番遅くに出すのは。重大な契約違反だ。皆、NRTを信用しなくなる。

2010年10月23日 (土)

NTR着

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★本日移動日。RPRSVONRT

プラハモスクワと乗り継いで、成田に定刻に到着。
迎えの車の乗って、佃に荷物を置いてそのまま四谷三丁目のシドニーで恒例の講演会。例のロンドンのグリーンパークのように、ビール箱の上に乗っかって、大演説。
(ただしこれは木曜に書いている予定原稿なので、その通りに行くかどうかは不明)

ところで、これがウラル山脈である。これは今回、東から西に超える時の撮影だが、ウラル山脈を西から東に越えると、あたしなどは「ああ、日本に戻ってきた」と感じるのである。
これが大昔の南廻りの場合だと、飛行機がベトナムに差し掛かると、日本に戻ってきたという気分になる。
だから新婚当時、大泉学園の家の風呂場にはアメリカ軍のトンキン湾をメーンにしてナイロンの巨大地図を貼ってあった。
これは例の風呂屋のペンキ絵の「美保の松原と富士山」の70年代訳なのである。

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話しが前後するが、今、モスクワ空港のターミナルDのラウンジ。入って吃驚。赤青緑のランプちかちか。これはアメリカの三流映画に出てくるバーをそのまま、真似たと思われる。これは誰でも肝をつぶす。孫子の代まで語り伝えたいほどだ。まだ「ファットマン」(アトミックボム)の真似をしていた方が良かった。

プラハのアトリエには、ミースファンデアローエのオリジナルのスツールが4脚ある。それに比べれば、ここの椅子は「IKEAのバーゲンで買ってきたやつ」である。

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酒とつまみは、欧州で最悪なのは、チューリッヒのラウンジだが、それと比較すればユーラシア大陸のトップだ。アルメニアコニャックをやっている。

2010年10月22日 (金)

旗竿の上の鳥

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★本日移動日。PRGSVONRT

プラハのアトリエから佃の大ガラスの部屋に戻って、一番困るのは「天井」のあることだ。普段、クラブエダムなどで屋根のないスペースで宴会をしているんだけど、天井があると窒息しそうである。
プラハのアトリエは屋根裏部屋であるから、無論天井はあるけどどの半分近くは天窓である。

数年前にヒルズのミュージアムのコルビュジエの特別展で、彼のパリのアトリエが復元されていた。無論、その広さはうちなどとは比較にならないけど、コルビュジエのアトリエは隣家の屋根の部分の石積みがそのまま壁になっていた。

それも野趣はあるかも知れないが、これは暖房効果が悪そうだ。そこまでレプリカで再現されていたのはさすがだった。

このアトリエは数年前に天窓が開くようになった。それ以前は、開かなかったからなにか牢獄にいる感じであったので、窓から外が見えるようになった、その開放感は比較できない。新潮の連載の「屋根裏プラハ」の第一回に「窓は世界に開いている」と書いて、矢野さんに「良いです!」と書き込みで褒められたことは忘れない。

眼下は公園である。風の強い木曜の朝。向かいにある避雷針と思っていたポールのてっぺんに「ヨナス」がとまった。ヨナスとはからすの一種で、正式の名は知らない。大昔に東ベルリンの夫婦が買っていたこの鳥の名前が、ヨナスだった。それでヨナス。
隣の元ホテルインターナショナルのタワーのてっぺんの金星と対比になっているのが面白い。

アトリエの空もかなり様子が変わった。これから冬が来る。

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空港着。

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モスクワ空港。新しく出来た、ターミナルDのラウンジからは、ついったーが発信できない。はてさて!?

2010年10月21日 (木)

たそがれプラハ

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火曜日。午後2時にルツエルナに行き、原稿書き。機材は居パッド。アトリエはケーブルなので、居パッドを使うには外のwifi環境に出る必要あり。
プラハのP来る。この前のバーツラフ・ハベルがここのレセプションに来た時、秘書の事前の話しでは15分だけ滞在なさるということであったが、実際には1時間半も居たよし。元大統領閣下も時間があっていいな。管総理の欧州会議の2泊三日は可愛そうだ。

Pから午後5時開始の元プラハ市長(現在は出版家)の集まりに誘われるが、謝絶してプラハの黄昏方面を徘徊。
メトロのB線のかなり東の果てまで行き、そこから19番の電車でさらに東に行く。ここらの大工場と高速道路と労働者街のコンビネーションこそが、本物のプラハの風景だ。この「周辺部好み」はあたしの場合かなり長い。ビロード革命の以前からこれをやっているのだ。当時はメトロのBラインの西の終点はまだズリチンまで開通していなかったな。
19番の終点から終点まで黄昏れのプラハの街を行く。
19番の路線はプラハの中央には行かない。北東から南東の街区を結んでいる。それが良い。19番の南東の終点から、22番の市内行きに乗り換える。これが例の吉増剛増さんの写真集「盲した黄金の庭」に登場の有名な22番だ。
夕闇が濃くなってくると、それまで暗くみえていた電車内の照明が明るく感じられるまるで、移動する「蛍籠」である。

またモルダウを超えて、王宮の裏手まで登った所で電車を捨てて、闇の中を歩く。キンモクセイではなかろうが、なにか香りの高い花がある。
最寄りの駅、ハラチャンスカまで歩行して、そこから8番の電車でアトリエの前まで。
帰宅。
カメラはCX3。

2010年10月20日 (水)

CX3とCX4

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プラハ二週間の滞在も、もう終わりだ。あれもしたい、これもしたいと思っていたことは全部が机上の空論であって、結局はアトリエで原稿書きばかりしていた。これではヒルズに居るのと変わりがない。まあ、毎日、佃から六本木まで通勤する手間ははぶけている。これがプラハに居ることの利点であろうか。

さて、理光、リコーのCX3は重要なデジカメだ。本ブログの「ぶつ撮り」とか、アサヒカメラや日本カメラの連載のカット画像はほとんどこれで撮影している。
もともと、GRDシリーズは28mm単焦点のスナップ系カメラであって、この間、表参道ヒルズでその5周年の大会が開催された。ただし28mmだとぶつを撮影するとプロポーションがくずれる。それでGXRでも良いのだけど、初心者のあたしにしてみれば、わざわざユニット交換をするほどのこともない。

その5周年の大イベントにリコーの人から、その初代、つまりフィルムカメラ時代のGR1のプロトを出品するようにと依頼されたのだけど、大事なカメラの箱にいれたまま、佃のカメラジャングルで目下行方不明である。ライカ250などもその箱に入ってあった。慌てて目下失踪中だったのが時間切れにてプラハ。

あたしはそのGRD大集会に参加しようと考えていたのが、チケットの手違いであたしのプラハ到着の翌日が表参道ヒルズの大会となっていた。これもこっちの不手際である。それでその大会へのご挨拶とGRDのプロトを会場に展示できなかった「おわび」をメールで送った。
そのメッセージはどうやら会場で代読されたようである。

さて、プラハに持参のCX3と最新モデルのCX4であるが、何か新しくなったのか、デジカメウオッチという専門サイトを熟読したのだが、あたしの時差ぼけのせいか、それとも日本語の理解力のないせいか、よく分からなかった。ようするに画像を加工する方向がかなり改良されたようだが、もともとそういう方面はつかわないから、あたしにはないも同様である。

それでCX3はすでに傷だらけだが、問題なく使っている。両者をハンドリングの点から比較すると、どうも新型の方が「指がかり」が悪くなっているようだ。CX3
にはあった本体のギザギザがなくなって、スムースになっている。
今のデジカメ戦争はそういう僅かな部分でのコストダウン競争の段階にまで入っているのであろうか。

そうそう、最近、チエコのプラハでも「正式」にリコーを入れるようになった。それで大手のカメラ店フォトシュコダでも、同じウインドウにリコーとオリンパスの名前が入ってそこにペンとGRとが並んでいる。あたしのカメラバッグの中のようだ。
CX3は市場価格が4万円弱である。CX4はプラハにはまだ入っていない。

2010年10月19日 (火)

バルダマチック

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★御礼★
さきほど、アクセス数が790万頁ビューを超えました。800万頁ビューも視野に入ってきました。どうもありがとうございます。

プラハのアトリエには30年来の大トランクがある。それはビロード革命の前からのトランクなので、中に何が入っているのかも忘れていたのを、今回、発掘作業をしたら、各種の「文物」が出土した。その革のトランクはなかなかの存在感であったので、そのトランクの中に入って行ったら、過去のプラハに行くつくという話しを書こうと思った。これは新潮連載の「屋根裏プラハ」の話である。

魔法のトランクを開けて、一番、悔しかったのは、チエコ製の二眼レフ、フレクサレットを買った日なのに、大トランクの中から、同じモノがもう一台登場したことだ。

このカメラはそれとは異なる、ちょっとした発見である。西ドイツ製のレンズシャッター式の35ミリカメラ、バルダマチックだ。父の持っていたのもバルダ製のカメラであったが、これはセミ判のバルダックスというのである。
バルダの中で気になったのは、この「しもぶくれ」のデザインになってからの、バルダマチックの方である。これでパララックスの連動するレンジファインダーがついていて、ファインダーの中にメーターの指針と絞りの値が見えるなどは、昔はなんとも思わなかったけど、今にして思えば、これはLEDではないのだから、非常に込み入った光学系のなせる技なのだ。
中級カメラでこういう込み入った機構を作るというのは、やはり当時のドイツの工業水準の高さを認識せざるを得ない。
このカメラには専用のモータードライブとか、スパイ大作戦めいたラジコンまで用意されていて、それがまた病気のもとになるので怖い。

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2010年10月18日 (月)

旅のズームレンズ

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「旅のズームレンズ」という言い方はなにが旅なのかという事を問われるから、はなはだ曖昧である。
しかし、ここでは単に地球上を佃からプラハに来て、また欧州から極東に戻り月が変わればまた今度は佃からパリに行くというあたしの日常行動も、やはり旅の一部であるという認識で論を進めることにする。

それで「旅のズームレンズ」。

ペンデジタルの1と2を持って、今、2週間ほどプラハに居るのである。レンズは14-150と9-18の二本だけだ。カメラにそれぞれ1本ずつのレンズが付いている。

その中で圧倒的に使うのは、14-150である。300ミリ相当で明るさがf5,6というのはフィルム時代にはかなり暗いレンズであったのは、あの当時には仕事ではかならず、300ミリのf2.8を持参するのが必須であったことがまるで今昔のようだ。

というのは、明るさがf5,6でもデジカメの感度を上げれば問題なく撮影ができる。あたしはメカライターさんが目の仇にする「画面の荒れとか色むら」というのがどういうことなのかいまだに分からない。森山大道さんを例に引くのは恐縮だけど、フィルム世代のわれわれには、その「目の仇」は寧ろ好ましい要素なのである。

上の画像の3枚はカレル橋の側で望遠サイドと中間と広角サイドで撮影して、補正はしていない。最近のズームのその逆光に強いのはおどろくばかりである。クラシックな高倍率ズームの望遠サイドはかならず「ハレ切り」(フードを使うこと)が常識であったが、この高倍率ズームの花形フードは使い始めの当時には、なにか座りがわるく撮影中に何度も落下させたのでそれ以来使っていない。
それでもまったく問題なしであるのは、戦前から50年代のレンズが「スタンダード」であるとおもっている、あたしのような旧レンズ人類には驚愕だ。

それで旅には本来はレンズは一本で行きたいのである。
しかしこの旅に一本のレンズというのは、思い起こすに80年代のカメラ雑誌のメカ記事の定番であって、当時はまだ不完全な28-70ミリレンズしかなかったのだけど、それはそれで良いとして、これのタイトルが「なんとか旅、ズームレンズ一本勝負」っていう、二泊三日で国内で撮影してくるのは経費の関係で仕方ないとしても、その言い方が嫌いであった。
時代劇ではないのだから、もう少しモダンなタイトルがつけられないのかと、いぶかしく思ったのもすでに30年前だ。
だいたいレンズに「勝負感覚」を盛り込むのが、われわれ、全共闘世代の嫌みなのである。
そういう反省もしつつ、つくずく今のレンズは「勝負!」などと意気込む必要がなくてもちゃんと写るのがありがたい。

この前、オリンパスの紳士連にヒルズで会った時に「タツノクオリテイ」という言葉を聞いた。これはなかなか新鮮に感じた。というのは、あたしはそれまでズイコーレンズは長年、「タカチホクオリテイ」であると思っていたのだ。30年前、モダンフォトグラフィのH ケプラーさんのお供でそのタツノに工場見学をした記憶はすでにすり切れてしまった。ケプラーさんは取材で日本の10余りのメーカーさんを取材して歩いたが、自分のカメラはオリンパスのOM2であったのも懐かしい。日本だとこういう立場の人は「気を遣って」ライカを持ったり、国籍が特定できない一眼レフを使ったりするからだ。

Zoom4 ところでメーカーさんは沢山の交換レンズを買ってもらって、それでご商売が成り立つのであろうから、実は「全部がこの1本で撮影できる」では困るのは当然だ。
しかし撮影するサイドから言うのなら、やはりズームは高倍率が1本の方が楽なのである。

今の高倍率ズームは14-150であるが、あたしの期待するのは、倍率はそれほどは要らないから、12-120あたりが欲しい。それが難しければ、10倍とは言わずに広角側はちょっと広くして、例えば10-80あたりのレンズがあれば非常に旅レンズちしては便利だ。
明るさは必要ない。今のデジカメは写りが良いから、感度を上げれば問題なしである。

作例のカメラはペンデジタル2 レンズは14-150ズイコー

2010年10月17日 (日)

電球を買いに

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金曜の午後にアトリエで原稿書きしていたら、デスクの上の電球がきれた。電球はきれるものである。日本の不幸せはLEDランプになって、電球がきれて買いに行く楽しみがなくなったことであろう。仕事に飽きていたので、これ幸いと下に降りて行った。

近所のスーパーBILLAでバルブなど売っていると思ったのだ。食料の買い物はすでに金曜の午前に済ませてある。広い店の中を何度も周回したが、ここは日本のスーパーではないのだから、冠婚葬祭ののし袋は売っていないのは最初から理解しているが、電球も売っていないことが分かった。

今回、パンツをはいたやつしか持参しなくて、この時もこの店で補充のパンツを捜索して発見できずに、ダウンタウンのデパートのMayに買いにいったばかりである。

夕暮れの旧市街を歩行しつつ、電気屋がどこにあるか記憶のファイルを捜索した。これが役にたたない。自分の記憶の電気屋は革命前の記憶ばかりだ。埃をかぶったウインドに型遅れの掃除機や電気ストーブの並んでいる店で、何時も閉店しているというのが自分のイメージだ。

方策がないので、またデパートのMAYに入った。先週にパンツを買ったところである。電気用品売り場は3階の狭いスペースだった。デジカメを売っているのが、やはり電気売り場なのである。これには感心した。同じ店が社会主義時代にMAIという名前で(このMAIからMAYに改名したのは手柄である)あった時代にあたしはこのデパートで一気に300本のソ連製のモノクロフィルムを買ったのである。当時は国内は統一価格だから、市内で一番安い店を探す必要もなかった。その後やはり同じデパートでチエコ製のフォマの120フィルムをやはり300本買った。

あたしのMAIでの一気300本モノクロフィルムの大人買いは、プラハの関係者の間ではすでに一種伝説になっている。

ただし、今回は電球は2個買った。フィルムではないから電球は300個も買っても使い切れない。売り場を出る時に考えなおしてもう2個買った。一個4.8コルナだから25円である。

革命前の物価のままに電球の価格は抑えられているようだ。まず、三越本店に電球の球を買いに行った人間の気分である。それで新しい電球でまたこれを書いているわけだ。

2010年10月16日 (土)

平壌のクラシックなアリフレックス

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アリフレックス35ミリカメラは、ドキュメンタリーから劇映画まで幅広く使われた。第二次大戦中は、アメリカもこの敵国の「コンバットカメラ」が撮影には必須なので、自国でそのコピーを製造した。これがシネフレックスである。あたしもこの歴史的なカメラを持っている。ただし壊れていて、ebayのセラーはドアストッパーには最適であると説明していたので、そのような使い方をしていた。
アリフレックスは初期モデルの方がかっこいい。数台持っているアリの中では、2cという最終モデルの前の2aとか2bがいい。そのファインダーのあたりの危うさが良いのである。

N01_25441949 北朝鮮のニュースを見ていると、かならず将軍様の脇に公式ニュースカメラマンがいて、彼の持っているのが旧式のアリフレックスでこれはかなりのかっこよさである。小泉首相の平壌訪問でもこの旧式アリフレックスとカメラマンが登場した。ビデオと異なり、映画撮影はその撮影者の腕が分かる。長くフィルムを廻すわけではないから、ここぞ!という時に撮影する。その動きを見ていてなかなか達人のカメラマンであると感心した。
以来、朝鮮中央放送のニュースに興味が行くようになった。

N23_25437515 しかしあれから10年以上経過したのだから、まさか今ではニュースはビデオであろうと思っていたのだが、最近のロイターズ配信の三代目将軍さまのニュースを見ていたら、ちゃんと最前列にクラシックなアリフレックスがあったのは嬉しかった。
しかもアリフレックスウオッチャーのあたしにコメントさせてもらえば、自力更生ではないが、10年前はカメラマンはバッテリーは肩からかけていたのが、この画像を解析すると「オンボードバッテリー」になっているのである。

中国の全人代なども四半世紀前には、ニュースは35ミリのアリフレックスBLで撮影していたので、偉いと思った。70年代のモスクワのショパンコンクールも同じ機材である。これも偉いと思った。
しかし2010年に北朝鮮がメデイア用に35ミリフィルムで記録映画を撮影しているのは、時代遅れとかそういう位相では語れない所がある。
やはりソビエトロシアでもそうだったように、プロパガンダは35ミリ映画で撮影するのがもっとも効果的なようである。

2010年10月15日 (金)

白か、それとも、黒か!?

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★プラハ在。

おかげさまで、「カメラは知的な遊びなのだ」(アスキー新書)の立ち上がりは好調である。これから年末にかけて、あと3冊の本が出る予定だ。

ひとつはこのカバーのテスト判(色校正の時に最終的に決定)の「ライカワークショップ」(えい出版社)である。この数年来のライカの問題点を洗い出した、あたしのライカ本の最終便である。以前からライカM9に関しての質問が多かったので、ライカM9のフィールドテストも口絵作品入りで登場する。ほかにM8-2も登場する。要するにM型ライカのフィールドで今まで、手をつけていなかった「デジタルライカM」に関するワークショップである。

その内容は11月11日に見ていただくとして、編集部からカバーのテストが送られてきた。これを見て痛感するのは、ライカはやはり「画像が絵になる」ということである。なにかライカを手にするとそのままHCBなみのスナップの天啓がひらめいてそのまま大芸術家になれるような気分だ。それは錯覚なわけであるが、錯覚であろうがなかろうが、たとえ、一時であってもこの苦界でカメラ人類を幸せにしてくれるのは大した効用であると思う。

2010年10月14日 (木)

フレクサレットでプラハ大周遊

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★御礼
10月12日のコロログ総合ランキングで、78位でした。どうもありがとうございます!!

新潮連載の「屋根裏プラハ」で今度、プラハのカメラのことを書くつもりだ。

それであんまりいい加減も書けないから、資料を集めてきた。調べるとチエコのカメラの歴史は日本などよりずっと深淵である。すぐ国境の北は、カメラの帝国、ドレスデンである。その距離はたったの200キロ。一方でドレスデンの真似をしてここまでのし上がった日本はその距離、ドレスデンまで10,000キロ。いったい距離と真剣さとはカメラの開発にどのような意味があるのであろうか?

チエコカメラの資料ばかりでもつまらないので、立体資料である、チエコのカメラも買った。1950年頃の二眼レフ、フレクサレットである。プラハのアトリエにこれよりずっと新型のグレーの同じモデルがあるのだけど、それはジャングルの中から捜索するのが面倒である。
それで町中で一台買った。邦貨0,35KAMEA-YENである。

買ったとなれば、やはり撮影したくなる。
デジカメの場合には撮影してすぐに結果が見えてしまうからそこで「熱」がさめてしまうのだけど、フィルムカメラは未来に向かって、一種の罠を仕掛けるようなものだから、そこが面白い。
持参の富士のカラーリバーサルを10本ほど持って、一日中、プラハの市電に乗っていた。
それで良い仕事をした気分で戻ってきた。
やはり宝くじみたいなもので、インスタントに結果なんて分からない方がいい。
ただし宝くじなんて一度も買ったことはない。
あたしの場合、この生活そのものが、宝くじのようなものだからだ。

三日間撮影して15本ほど。この初期型は赤窓方式なので、フィルムを巻く時には全視神経を小さい窓に集中させる。これが撮影が電車の中などだと、なかなかに困難である。

スデクは大判カメラのほかにブランド不明の6X9カメラも使っていた。これがやはり赤窓式なのである。オートマットと異なり、120フィルムの裏側の紙の番号を見ながらフィルムを巻くのはなかなか良い感じだ。写真と直に対面している感がある。しかし遠くを見て、そのまま至近距離を見るので、眼が疲れる。

2010年10月13日 (水)

1947may のニッコールで遊ぶ

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今回プラハに持参したのは、ペンを中心にCX4とかエプソンRD1とかである。その中でペンとエプソン用には1本のレンズしか持参しなかった。

それが最近、手に入れた1947年5月製の、すなわちあたしの生まれた時のレンズだ。これをモダンなデジタルカメラにつけてプラハを撮影しようというのだ。

マウントアダプターでペンにもつくし、アダプターを外せばそのままエプソンにもつく。先月にはM8-2とM9を持って、東京のスカイツリー(空筒)を撮影した。その時は、35mmレンズ一本で撮影に行った。M8に付けるとおおむね50mm相当で、M9に付けるとフルサイズだから、広角と標準を同時に持っている感覚が面白かった。

こういう同じレンズを違うフォーマットに付けるというテクニックは、大判カメラではごく普通のことだ。アンセルアダムスもスデクも4X5カメラで使った標準レンズを8X10カメラで今度は広角レンズとして使っている。

しかし、この「同じレンズをフォーマットの違うカメラにつけてレンズの描写を変えるというのは、デジカメではあまりやらない。だから面白い。

アトリエの天窓からの撮影。

上はエプソンで下がペンである。その色合いは微妙に異なるのだけど、それはここでは議論はしない。それは好みの問題であるからだ。

2010年10月12日 (火)

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プラハに居れば、それなりにプラハの朝がくる。

ここに20年以上「生活」しているわけで、一人暮らしだからそれなりの生活のスタイルが出来てくる。

こっちに来て二日目の朝が一番、暮らしを感じる時間だ。プラハはもう冬だから外の記憶は0度で快晴。でも7時を回らないと明るくならない。アトリエの天窓を開ける。冷気が入ってきて覚醒する。市電の音がする。

「屋根裏プラハ」(新潮連載エッセイ)と、同じだなあと、変なことに感心する。自分の書いた随筆をもう一度現場で再体験するのも不思議なデジャブ感だ。

お湯をわかしてコーヒーをいれて、フライパンでたまごを焼く。発売したばかりの「カメラは詩的な遊びなのだ」(アスキー新書)の中で、プラハで目玉焼きをつくる話が出てくる。もう四半世紀も同じことを繰り返している。プラハの革命前もソ連のクーデターの時もあたしはアトリエで毎朝、目玉を焼いていた。

「カメラは詩的な遊びなのだ」の中で「主治医に注意されてたまごを三つを二つにした」とある。別段、桜井先生に注意されたわけではないけど、そういうと自分を律することが出来るのでそう言ったのである。

編集の段階で困ったのは、「目玉焼き」と「金魚すくい」の二点の写真をリクエストされたことだった。

数年前の写真集[CHOTOKU X R-D1」の巻頭にはその目玉焼きの写真が出てくる。アトリエの窓がまだ開かなかった改装前の写真は表紙になってる写真集だ。

その画像を今回、編集部からリクエストされたのだけど、大昔のことだからすでにHDがクラッシュしてしまってそんな写真はない。もう一点は「金魚すくい」の画像である。金魚すくいとはモノのたとえであるが、編集部は実際にその写真を要求してきたので「クールだなあ、、、」と思った。

それで9月になって猛暑の中を金魚すくいがありそうな縁日を探したが、その捜索方法が悪かったと見えて、これも不発であった。それでその写真はやめにして、新書は全編をヘルシンキの画像にした。これはヘルシンキで偶然にお友達になった、デザイナーの遠藤さんがヘルシンキの撮影に向いている場所を教えてくださったのである。それで今でも「からす頭」みたいな場所の日本的な地名を記憶している。

それで「カメラは詩的な遊びなのだ」をお読みのかたは、その新書の40ページの「たまご二個のしあわせ」を読まれるときにはこの画像を一緒に味わっていただきたい。

ここではたまごは三個である。欧州の田舎のホテルとかアメリカのホテルなどだと、朝食のメニューに「3 EGGS」というのがある。それだけの健啖家が居るわけだ。あたしもその端っこに加えてもらいたいけど、数年来、プラハでの朝のたまふごは2個である。このブログが桜井先生の眼にとまるのは確実なので、ここに証言しておく。

2010年10月11日 (月)

昭和22年のニッコール50MM F35

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★プラハであるが、先週の日本の話。

古いニッコールのことに関してはどうもよく分かっていない。ニコン1型の登場した時についていたニッコールだが、例のブラック仕上げのニコン1についていたのは、その後に登場した明るさがF2のそれではなく、明るさがF3,5であった。
当時のニッコールはまず西暦の下一桁が製造年代になりその後の二桁が製造月というナンバリングがされている。
このライカマウントのニッコールはそれから見ると、1947年5月に生産の56番目というわけである。これが先に書いた、ブラックのニコン1型についていたレンズよりはるかに若い。

以前にも、ごく初期のニッコールを持っていた。ひとつは沈胴のF2レンズで、もうひとつは固定のF1,5レンズであった。これはニコンサロンの寺尾さん(1970年当時の館長さん)からいただいたのである。ただしそのレンズをウイーンで使ったが発色があまりに渋いので使えなかった。これは当時のエクタクロームの発色の話をしているのだ。
このF3,5などはそれより古いのであるが、フィルムが異なる。今はカラーネガで撮影してスキャンすると機械が適当な色合いに仕上げてくれる。
ここの画像はライカM5に付けて撮影したのを、タワーの下の55ステーションで処理したのであるが、このくらいに色がつけば文句はない。
むしろ、派手すぎる。
でもライカとクラシックなレンズの組み合わせはなかなか実用的であることが分かった。デジカメのようにあまりに沢山撮影できないのもいい。
フィルムはカメラのキタムラで200本まとめ買いをしたのである。
以下はヒルズに行く前、いつもの佃の朝を撮影。

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2010年10月10日 (日)

御嶽山(おんたけさん、と読む)

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★プラハに居て、この先週書いたテクストと画像を見ている。日本は生け花だと言ったのはウイリアムクラインだが、その意味が良く分かる。

先週の東京大周遊。
先週の東京滞在の最後の数日を思い返してみるに、不思議なのは日本の東京の私鉄の沿線とその生活の極東さ、とでも言うべきか、これは世界のほかの街にはちょっとないのではないか。

まず、踏切が不思議だ。無論、踏切は世界中にあるのだけど、市街地にそれがあるのが不思議なのである。欧州では、市街地ならそれはかならず立体交差になっている。シベリア鉄道のモスクワー極東間だって、モスクワから東200キロほどの地点の正教会を取材した時、広大な草原のまっただ中の」その教会に行くために、シベリア鉄道の立体交差をくぐった。さすがだな、と痛感した。

自分の狭い欧州体験で、日本の郊外の私鉄の風景に似ていたのは、アテネからピレウス港に向かう私鉄から見た郊外の雑駁な市街地がなにか郷愁をさそうと思ったら、それが城南方面の私鉄のどっかの駅ににていたことくらいだ。

この間、プラハに来る直前には、都営線西馬込から新幹線の路線にそって西に向かった。この界隈をあたしは「城南の一本道」と命名しているのだけど、狭い路地にもかかわわらず、それが視線の果てる所まで続いて消失点をなしているのは、これは「悪夢の中に見たキリコの絵」みたいで好きだ。

反面、こんな街には住みたくないものだとも思った。酔っぱらって戻ることが出来ない。しかも横須賀線と新幹線の騒音がなかなか高い。

そのまっすぐの新幹線と直角に交差するのが、東急池上線の御岳山駅である。

今は昔、1981年頃、ガールフレンドのNとこの界隈を真夏の曇り日に大周遊したことがあった。それはこの界隈が起点なのではなく、10キロメータ−以上離れた別の街区から何時間もかけてここに到着したのである。汗だくであった。

写真家の渡辺兼人は都会写真の名手であるが、いつだったか武田花さんを間にはさんで、ゴールデン街のバーで「街歩きをして撮影するのは、性的交渉の昇華というよりずっと上のクラスだ。セクシャルな世界の完全の反世界だから、結果としてそれは遥かに性的な体験である」という意味のことを言って、それが非常に面白く思った。
あたしの場合、30年前にNが、「おんたけさんって、すごい名前、、」と言ったのが最初にここに来た「犯行の動機」というわけだ。
その御嶽山駅は、30年後にも当時と変わらない、スレート葺きの昭和の一向に冴えない駅舎なのも面白い。

当時、ここに伴ったNにしても、すでに50歳は確実に超している筈だけど駅舎はエージフリーだ。それはなんとなく怖い。城南の私鉄の駅のたたずまいは「東京大空襲を生き延びた」という存在感がある駅があってそれが怖いのだ。

新幹線と交差するクラシックな駅舎の不思議と言えば、品川の上神明がある。おんたけさんが下なら、こちらは新幹線は上を行く。どちらもそこに宗教的な響きのあるのが、東京の神秘である。

そう言えば、Nの言葉で中野界隈の町内会の掲示板の縦書きの文字列を、それを横に呼んで「なにか、古事記か日本書紀の音の響きがそこに感じられる」と言ったことも記憶に残る。そのNより年回りが1周上であった、当時はおじさんのあたしとしては、そういう小娘の言動にころりとやられてしまったわけだ。

2010年10月 9日 (土)

梅沢写真会館界隈

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★プラハ

今、プラハであるが、それは予定原稿であって、まだプラハに出かける前である。写真は未来に仕掛ける罠であるというセオリーからすれば、東京の三ノ輪の都電の終点からこの梅沢写真館の通り抜けをくぐって、その途中の右手にある、このニューススタンドほど「失われた時」をいとも簡単に追憶できる場所はない。

この界隈に親しんだのは、須田一政さんと遊んだのが最初だから、19歳の頃であろう。梅沢写真会館そのものより、この通り抜け道にあるニューススタンドがまさに60年代というより、戦後そのものの存在であった。
あれから40年が経過して、当時に戦後そのものだった、ニューススタンドがまだ戦後そのものとしてここに存在していること。これがどういう意味があるのかはあまりにテーマがでかすぎてよく分からない。

三ノ輪のメトロの駅は最近に改装されて「三ノ輪らしからぬ風情」になってしまった。

60年代にきわめて三ノ輪的な存在だと思っていた、交差点の脇の仏壇屋「観音堂」はその屋根の傾き加減が東京では随一であって好きであった。その裏手に須田さんの友人の熊谷さんという人がアパートの二階の部屋の中を真っ黒に塗って、押し入れに寝て暮らしていた、ザ ピーナッツの「つきちゃん」の大ファンとのことであったが、そのつきちゃんが二人組の右か左かかも知らなかった。あたしの芸能音痴がその意味で筋金入りである。

当時はアラーキーの実家の下駄屋の「仁王下駄」もまだ存在した。

今回、アラーキーの急遽跡を見晴らしたら、その先に「空筒」が見えた。よく通った泡盛屋亀島の「もと文学少女」めいた老女のお店もしばらく前に閉店になった。それで河岸をかえて、最近では大林に行っているわけだ。

2010年10月 8日 (金)

[カメラは詩的な遊びなのだ]は10日発売!

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カラー版 カメラは詩的な遊びなのだ。 (アスキー新書)

      

買ったきっかけ:
あたしの書いた本なので、著者購入本として買いました。

感想:
これからはカメラテクニックではなく、カメラを手にしての「生き方さがし」と「生き甲斐さがし」が重要。そこをポイントに。

おすすめポイント:
カメラで遊ぶことは、詩人になること。同時に金魚救い(掬いではありません)の達人になること。
アイフォンとデジカメの位置関係に関しても語ってます。デジカメとスマートフォンユーザーにおすすめ。取説に書いてないこと。

カラー版 カメラは詩的な遊びなのだ。 (アスキー新書)

著者:田中 長徳

カラー版 カメラは詩的な遊びなのだ。 (アスキー新書)

「カメラは詩的な遊びなのだ」(アスキー新書)は、10月10日に全国一斉に発売。
これは「カメラは知的な遊びなのだ」の続編である。

おかげさまで、前のタイトルが非常に売れたので(6刷)今度はその次のシリーズを出しましょうという企画があったのはこの春の話だ。

例によって、この5月にリスボンに行くつもりが、アイスランドの火山騒ぎで、ヘルシンキにストップして、そこに2週間ほど居て、ヘルシンキ人より遥かにヘルシンキを歩行したカラー作品が今回の本の土台になっている。トップの水辺の写真が好き。できたばかりのペンデジタル用9-18ワイドズームで撮った。この時期、まだペンの高倍率ズームは出来ていなかったな。

実はこういう写真はオンラインで見るとそのまま、見過ごされてしまうのだけど、こういう具合に紙の上に印刷されると、そこにベンヤミンの言う所の「イコン」世界が開示してくるからそれが面白い。

最近の若い連中の「オリジナルプリントブーム」にしても、「手にとれない湖の上に浮かんだボートから見る湖面の月」ではつまらないということが理解できてきたこれはその背景なのである。

デジタルカメラで撮影した画像は手にとれないから、それを印刷して初めて「ああ、あの五月に俺はヘルシンキでいったいなにをしていたのであろう、、、」という過去の記憶にアクセスできる。
やはり写真は印刷することが大事だ。写真は「イコン」である。

この本は新書版だけど、新書サイズは好きだ。「東京ニコン日記」は10年前に出た800ページほどの写真集で、これも新書サイズ。
稲垣足穂の全集はユリイカから伊達得男が出しているが、この伊達の死で中断した全集は新書判ハードカバーである。

さて、カメラは詩的な遊びなのだ、は、全カラーという「豪華版」だがこれだけカラー満載でこの値段はかなり安い。その背景にはなにか秘密があるに違いない。

その撮影機材はあとがきに詳しく書かれているが、ペンデジタル1と2を持参。レンズは9-18と標準ズームとペンケーキ(17mm)と、マンハッタンの怪人ちょーせいさんに買ってもらった、ノボフレックスの135ミリスクイージレンズ(迅速にピントのあうやつ)。ほかに1947年製のライカの135mmヘクトールレンズである。

ところで、本書を「ペンデジタル1のカメラグランプリ受賞」への私的なオマージュにしようと思ったのは、このブログ、「ペンペンチョートクカメラ日記」の印刷版という意味がひとつ。
それにヘルシンキ滞在中、2010カメラグランプリの発表でペンデジタル1が受賞したこと、それと町中でペンデジタル1の広告を多数発見したことがその背景で相当に効いている。

写真のセレクトは編集の本多いずみさんがやってくれた。かなり映画的な展開なのでこれも気に入っている。この人の写真眼は確かである。
今、見本が届いたばかりだが、本書に関してはまた集中的に書くこともあるだろう。
ともかく、良い本を出してもらったのがうれしい。
これからのデジカメは詩的であらねばならない。ご近所の写真の詩人、吉増さんに見習おうと思う。

2010年10月 7日 (木)

ニューカラーを真似る「落合編」

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東京の各方面の街で、かなりレベルの高いのが、中野駅から落合駅に至る早稲田通りぞいとその周辺部だ。

以前は、この界隈にカメラジャーナルの編集部があった。中野から徒歩、あたしの足で15−20分である。東京でこれだけ周囲の公共交通機関に連絡がないというのは、独特の風景を構築できる。

先日、そのカメラジャーナルのあった編集部の建物を訪問したら、すでに新しい建物になっていた。その郵便受けにはまだビニールがかぶさっていたから、誰も住んでいないことが分かった。日本の変化の多さに改めてびっくりした。

早稲田通り沿いには、名古屋の青山達夫が学生時代から社会人になってもしばらく住んでいた。そこで市ノ瀬がベトナムに行くという話を聞いたのは1970年と言うからもう40年が経過している。

落合には、今は鎌倉に立派なアトリエのある奥西画伯が木造の古い家に住んでそこで油を描いていた。その様子は「東京ニコン日記」に収録されている。

この界隈にはユリイカの伊達得男の自宅兼オフィスもあった。

間宮マガジン35は優秀なフィルム交換式のカメラだ。そのカメラと交換マガジンを二個もって、落合を歩行した。50mmレンズというのはちょっと日本の路上ではスナップがしにくいレンズの筈であったが、この界隈は案外にすんなりと撮影ができたのはうれしかった。

ahellのタンクローリーの黄色というのは、80年代の「ニューカラームーブメント」の記憶の基調色である。

2010年10月 6日 (水)

ロボット軍団

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ドイツのオットーベーニング社のロボットを開発したのは30年代の話だが、これは当初はドイツ空軍が戦果を記録するためのカメラだった。

このロボット軍団の中の左下のロボットはそのかなりの初期モデルであって、資料にも載っていない。レンズはビオター40mmf2であって、当時の偵察目的にはこのような明るいレンズが必要であったのだろう。コンタックススペシャル(諜報用)には、やはりビオターがついていた。

ロボットも軍用だけでは商売にならないと気がついたのか、ロボット2を出した。これはただし巻き戻し機構がないので、いちいち、暗室で操作をする必要がある。それからロボットスターができて、その後期モデルからはちゃんと巻き戻しノブがつくようになった。画面の上はロボットスター2で、これはファインダーのないモデルで記録用(というより諜報用)で、下の方が一般向けに使えるファインダー付きのスター2型である。

ロボットの魅力はそのカメラの質量がライカとは全く異なることにある。それがロボット患者を増えさせるういするのようである。

真ん中は50年代後半になって、ライカに対抗する意味での高級レンジファインダーモデルのロボットロイヤル24sである。当時の最高の西ドイツのゾナー50mm付き。ライカが望んで不可能であった「ツアイス標準レンズ付き」をロボットは簡単に実現してしまったのだから、ライツは悔しがったのであろう。ツアイス付きのロイヤルはそれで西側では「馬鹿値」がついているようである。

2010年10月 5日 (火)

レオタックスG スエード塗装もの

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ライカのリペイントには、高橋ぬりとか、しんたろー塗りとか、各種の名人塗りのブランドがあった。

木星珠倶楽部のスエード伍高酷は、プラモデルの腕が長じて、さらに以前に板金をしていた経験もものを言って、最近ではカメラ塗装を初めたようである。

それで手元のレオタックスGを塗ってもらったらなかなかの腕前だった、惜しむらくは、あたしの好む、ちょっとマットっぽい感じのブラック塗装ではなく、てかてかのなにか「虎屋の黒砂糖羊羹」めいていて、そこに渋いお茶が欲しくなる点だ。

この前、その塗装の出来たレオタックスを持って、東急BE(べ、と読む)の夏期屋街大演習に行こうとして、フィルムを装填したら巻き上げがまったく出来ない。巻き戻しクランクの内部がひっかかっているのである。

それで再度検査してもらたったら、巻き戻しのレバーを固定するピンの長さがどうとかにて、すぐに調整して戻ってきた。
たまにはライカはやめにして、こういうクラシックな「らいか」で撮影したいものである。

ここまで書いて、その修理があがって、勇躍撮影に行った。品川の旗の台とか、あの界隈を撮影して、フィルムを巻き戻したら、途中でふっと抵抗がなくなった。これはフィルムを巻き戻した証拠と思って、カメラの裏蓋を開けたらフィルムはまだ巻き戻し途中であった。

撮影中のフィルムを間違って裏蓋をあけてそこに生のフィルムの色を見るのは嫌なものである。それはそれであきらめて、他日、二本目のフィルムを佃で撮影して巻き戻しをしたら、同じ事故である。カメラ開けたら、フィルムが丸見え。それで伍高酷塗装に再修理を依頼した。

大事な撮影ではなくてよかったが、大事な撮影にたかだか500台しか作られなかったレアもの礼央タックスGを使う方が悪いという意見もあることであろう。

今度は三度目の修理だから完璧になおるであろう。

2010年10月 4日 (月)

ケースはヘドだけど(坂崎風の下町言葉)中身はライカです。

Leica3 ケースはヘドだけど(坂崎風の下町言葉)中身はライカです。
って、そういう言い方は20年前までは可能であったが、最近ではそのヘドの方がレアなモデルであったりすると、本家のライカなどよりずっと高価なご時世である。
ライカの基本は壱型にあると思うのは、今更の話だけど、まず交換レンズの欲望が最初からないから、これは本質に触れている。そこが良い。
ライカの「堕落」はまず交換レンズが使えるようになったことであり、連動距離計であり、ネックストラップアイレットであり、M型バヨネットであり、TTL測光であり、デジタル化であるとするのなら、最初のモデルが輝くのは当然か。

Leica1 アレキサンダーロドチエンコは最初のライカユーザーの一人だが、彼のライカ使いのダンデイぶりを何かの本で見て、その理由が分からなかったが、実はライカに距離計を立てているのである。
これはちょっと粋な感じだ。

皮ケースはヘドであるが、フロントのフラップをあげてそこに縦型の距離計を挿すという行為はもっと評価されていい。
この距離計は製造番号は5252なのだけど、それも良い感じだ。
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2010年10月 3日 (日)

こんなもん、どうやって作ったんだろ?

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Ororfというのは、ライカM用ターレットのことだけど、数十年持っているが、実際に使ったことは二回しかない。一度はカメラ雑誌で紹介するためであり、二度目はライカビデオで紹介するためであった。
ようするに、ズームレンズが到来する以前の頭の良い人が理想のレンズ交換システムとして作ったのは良いがあまりにも大きく重いので250個だけの生産にとどまった。

しかしこのターレットはとても良く出来ている。ようするに本体背面にある、三脚の雲台を固定する時のレバーに似たのを(というよりこれは絶対に部品の流用だ)を右にまわすとレンズが外れて回転して、左にまわすと固定されてロックされるのである。屋外でのレンズ交換では人間の二本の手では足りなくて、三本目が必要になる。
それでかならずレンズを落下させて痛い目にあった記憶がライカ人類にはあるが、この新兵器を使えばそのリスクは回避できる。
一方で、常にこの重い機材を持ち歩く必要がある。

そのバランスを考えたら、やはりライカ人類は二本の手で屋外でレンズ交換をして、レンズを落下させるというリスクの方を選んだわけである。

2010年10月 2日 (土)

柳沢さんの記念撮影

8x10

この前、オーストリア大使館の向かいの麻布なんとかギャラリーの「8x10」展の時の記念写真をカメラ旧友の柳沢さんが送ってくれた。
伝説のアルパ研究会が発展的に解散して、すでに10年以上が経過しているが、あの当時も月一のアル研で柳沢さんは記念写真をとってくれた。

機材は英国製(とおぼしき)の木星組み立てカメラに、怪しげな聞いたこともないようなレンズが付いていた。それで三脚を高くして、集合写真の撮影時に、そこに居合わせた被写体に文句を言うのである。

「ほら!そこ!!ちょーとくさんから左の連中は映らない!」とか言うのである。これが本物の職業写真家なら、そういう場合にはカメラのアングルの方を加減してもっと後にカメラを引くとかするのがプロである。でも柳沢さんはプロではなく、アマチュアだからそういう勝手はつうじるわけだ。これは凄いことだと思う。

その撮影した結果はこのように素晴らしいのでちょっと見直した。というのは柳沢さんは「ああだ。こうだ」と言ったあげくに1枚しか撮影をしなかったのである。

それもかなり光線状態の悪い場所であったので、あたしなどは「どうせ、映ってはいないであろうな」と思っていた。

それがこのような素晴らしい結果である。柳沢さんを見直した。しかもその撮影時の三脚というのが誰かからもらったやつとかで、初代のスリックマスターのぼろぼろを黄色に塗ったやつなのである。ドレスダウンをしていてこの成果は実に大したものだと思う。

2010年10月 1日 (金)

ネカバス

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お詫び。画像が転倒している場合には平にご容赦。

ネカとは、我が家の隠語で「猫」のことだ。
コミュバスというのは、どのように名前が付けられているのか、だいたいは想像がつく。市民の応募で関係者が「多数決の民意」でつけるから、退屈なものがほとんどだ。
ヒルズを発着している、チーバスもなにかお水っぽくて夜に似合いそうだし、羽村町には、ハムランなる怪獣めいた名前のコミュバスがあるそうだ。

中央区はエドバスであって、これも知れたことを言っているようなのはあまりにも陳腐である。そのエドバスには丸っこいネカが100円玉を持っているイラストが描かれている。
それでうちでは ネカバス。

そのネカバスは中央区には二系統あって、中央大橋をわたるのは、勝鬨方面というらしい。まだ乗ったことはなくて、うちの大ガラスの部屋から1時間に三回見える。
この前、台風12号の真っ暗な雨の中をそのネカバスが小柄な車体に煌々とライトを光らせ、風雨の中央御大橋を進行しているのを見て、その勇ましさにおもわず手を合わせた。これがぼけこっこ信仰の次に来る、ネカバス信仰の興りというわけだ。

昨日、ヒルズからの戻りにそのご神体が、もんじゃ案内センターの向かいで時間調整をしていた。おもわずイフォンで撮影したら、ご神体の霊力によって、画面が二分割された。
まことにありがたい次第である。
それから、ネカバスさまを拝んだら、ドライバーさんが変な顔をしていた。
また変な徘徊老人がおると思ったのであろう。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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