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チョートクカメラ塾ブログ

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2010年9月30日 (木)

アクリルの箱の中

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記念碑とか、記念像の「アンヴェーリング」というのは楽しみなものである。これがテレビ番組だと、ヴェールの下から「焼き芋」が出てきたりでその有り難さが半減する。
やはり、こういうセレモニーは式典の中ですると、迫力もあるし有り難みもある。
これが高千穂の新製品の高級コンパクトのフラッグシップ機の「アンヴェーリング」の瞬間だ。
周囲が外人さんばかり(ドイツなのだから当たり前か)というのもいかにもカメラの本場らしい(この言い方も変である。カメラの聖域は日本なのに)。

この報道写真で見ると、アクリルの中の新製品はハロゲンランプの関係でなにか「黄金のデジカメ」のように見えるが、本当はブラックである。
アクリルのケースの中の高価で歴史的な価値の計り知れないのを視たのは、10年以上前であったか、日本にURライカが来た時以来であろう。あのURライカだが、ドイツのライカ社で手にとって見たことが二度あった。一度目は数人のグループであったから何もしなかったが、二度目はライカの社長のコーンさんがちょっと席を外した時に、レンズを舐めてみたことがあった。これはあたししか知らない秘密である。
最近のアクリルの中のカメラであたしが見たのは、あのURライカ以来だな。

アクリルの中で触れないカメラというのは、今度のフォトキナのライカM9チタンとか、他にも沢山、あったのであろうが、なんとも秘密めいて想像力を喚起させられる。
実はその触ってはいけないモックアップだが、何時のことだったか、ヒルズを訪問した高千穂の紳士連が持参してちょっとだけ「触らせて」もらったことがあった。
それで分かったことは、それがモックアップであるということ、それ以上の情報はなかった。
やはりこういう「アンヴェーリング」のエキサイトするモノは、アクリル越に見るのが正しい鑑賞法である。そこには夢がある。

面白いのは、この報道写真に写っている「カメラ人類」さんの視線である。それぞれが液晶モニタを見ていて、ご神体など見ていない。中にケータイで撮影している人の居ないのは、これはやはりフォトキナの格調の高さだと思う。

2010年9月29日 (水)

赤えんぴつ

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新潮の連載「屋根裏プラハ」はもう14回になった。今、そのゲラを見ようとして、ボールペンの赤を紛失していることに気がついた。
それで、森タワーの4階のコンビニに行ったら、以前は置いてあった赤ボールペンの在庫なし。
それで脇に下がっていた、赤鉛筆を買う。二本で120円である。

赤鉛筆とは不思議な存在で、おしらく手元にあるあらゆる物品の中でもっとも「象徴性」の高い存在であろう。その程度の高さはライカの比ではない。
同時に赤鉛筆は少年時代というか、小学校入学当時の「これからあたらしく人生をい開始する」というフレッシュさ、そのものでもあった。

赤鉛筆を削るという楽しみも忘れていた。これはもう40年来絶えた作業である。
来週からのプラハ行きでは、アトリエで心静かに赤鉛筆を削ってみよう。
ただし、そのテクニックは何十年もご無沙汰だから、かなり酷いものに違いない。

2010年9月28日 (火)

AKIBAのE-5

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AKIBAのUDXで開催された、E-5の発表会に行ってきた。

そのしばらく前に「報道関係内覧会」というのがあったのでそのおおまかな概要は知っていたわけであるが、これが正式発表ということになる。
思えば、初代、E-1の発表会は数年前のことだったが、ヒルズのあたしの仕事場と同じ49Fのフロアで開催され、そこにF1フェラーリが鎮座していた。客用のエレベータの他に重量物を上に上げるエレベータの存在を知ったのはこの時である。

その数日後には三井綱町クラブでE-1発表記念の大園遊会があった。緑の芝生の上の赤いフェラーリがあった。ちょっと度肝を抜かれた。

その時、お土産に資料とチョコをもらって、ヒルズに戻って受け付けのお嬢さん連にチョコは差し上げた。直後、スタッフさんが「これ、ちょーとくさん、大事なものじゃないんですか?」と届けてくれたのが、チョコでない方のもうひとつの小さな包みの中は1GBのCFカードだったからだ。

ここで数年前のメモリの事情をちょっと説明しなければならない。当時1GBのメモリは実に邦貨3万円に近かった。へえ、と思ってその後、そのカードは愛用した。

あれから何年も経って、E-1がE-5に進化したわけである。今度の発表会は新しい総合施設の秋葉のUDXだ。今回初めて行った。ここはもと「やっちゃば」の後に建設されたモダンビルである。そこの4階。

あたしはペンペンの性能で何も文句はないけど、カメラメーカーのフラッグシップ機というのは、その下のクラスのカメラを引っ張り上げる将来ぬ向けての一種の牽引力のようなものがある。
だからペンペンよりも高価なトップクラスのE-5がどのようなアピアランスであるかにはとても興味があるのだ。

前のプレス発表の時にあたしのすぐ後の若い男性二名が「E-5って、スペック的にはなんてことねえよなあ、、、」と話していた。
おそらくカタログデータばかりを分析しているスペック愛好家さんの眼から見れば、E-5はたしかに地味なカメラに見えるかも知れないが、なかなか水と埃に強いから、サハラ砂漠に不時着したり、モルダウ川の岸辺で使ってもE-5は大丈夫そうだ。アートフィルターがデジタルシネマでそのまま使えるのをあたしは評価する。

ペンペンがカメラグランプリ2010を受賞したのもその「スペック的にはなんてことねえよなあ、、」のペンペンのそれ「以外の部分」が評価されたわけで、あたしの後の列のスペック偏重記者さんの考えていることはすでに「ずれて」いるのである。

世界はスペック以外の部分(最高の画素数とかそういうカタログデータではない部分)でデジカメを評価し始めている。それはデジカメのアピアランスとかライフスタイルの背景の構築という方向の可能性であろう。

そこら辺の「デジカメの回り舞台の回転開始」に関しては、もうすぐ発売の「カメラは詩的な遊びなのだ」(アスキー新書)でじっくり考察している。草野心平の詩も掲載されている「デジカメ本らしくないカメラ本」なのである。

発表会で実に久しぶりにJPSの田沼会長にお目にかかり、木村伊兵衛さんのお話になった。これは「たぬちゃん」(田沼会長)が木村先生の助手時代の話しなのである。こういうのは貴重だ。他にはブルース・オスボーンさんの「生」も視ることが出来た。
そういう背景で、AKIBA界隈は数年来、やっちゃば跡方面には足が遠のいていたがなかなか興奮した。
そうそう、E-1時代にはおみやげが1GBのCFカードであったが、今度は8GBのSDHSカードだった。

時代は変化してゆくなあ。

2010年9月27日 (月)

はやとちり

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同じ失敗を繰り返すのが、還暦世代の特徴だ。
二月ほど前に、品川の松坂屋カメラでニッコール50mmのライカマウントレンズの前わくがブラックなのである。これは珍しいと思ったら何とフィルターの前わくが欠損していたのであった。
この前、ヤフオクでSマウントのブラックレンズを見かけた。専門書でもその存在のロットが確定されていないレンズである。あわててビッドを入れた。
不思議に思ったのは、その後、誰もビッドを入れないことである。
不審に思って確認したら、説明の最初に「フィルター枠欠損」とある。ようするに「はやとちり」なのである。
届いた前わく欠損偽ブラックレンズであるが、これをニコンS2に付けるとなかなか似合う。
それで気に入っている。

お互い、説明は良く読みましょう。

2010年9月26日 (日)

ニューカラーを真似る

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あたしのMoMAで、現代写真を研究していた時代はまだ80年代の初頭であって、MoMAのコレクションでも「カラー写真」の収蔵には躊躇していた時代だった。釈迦フスキーは、ニューカラーを提唱していたが、まだまだモノクロのコレクションがほとんどだった。
この前、麻布の暗闇坂のオーストリア大使館の向かいの広大なギャラリーで見た、8x10のカメラを使うグループ展は総勢20名というビッグイベントであったが、中にはコロジオンあり、プラチナプリントあり、ゼラチンシルバープリントありで多種多彩な展開だった。
その中でこれはごく普通という言い方も変であるが、タイプCプリントの展示を見てそれがあたしの津久田のタワーの大ガラスの部屋からも見える、中央大橋の早朝の光景が妙に非現実的に8x10で撮影されていて、一種不思議な感にうたれたのである。というのは30年前にニューカラーとして、登場した当時のカラープリントの印象を一言で言えば「何かねぼけたようなずれた色彩」であったのが、今の時代にはかなりリアルで、いや、それはリアル過ぎる色彩感覚が、逆に一種の「非現実感覚」をそこに呼び覚ますという刺激なのである。

このところ、ずっと、ライカM9とM8-2で撮影していて、それも入稿が済んで、今日からカラーネガをカメラに入れて、いにしえの新表現であった、いわゆる「ニューカラー」の真似をしてみた。80年代の写真学生の機材はそろいも揃って、マミヤ670であり、その第二世代が目下活躍中の石川直樹さんだというのも、別段驚くほどのことはない。すでにあのニューカラーを提唱した時代から、10年が三つも積み重なっているのである。

三重ねといえば、この間の三越の銀座店のリニューアルで、中国人がライカm9を三つ積み重ねてそのまま買っていったそうな。そのライカのパッケージの三つ重ねは大変な高さになったと、目撃者は興奮気味に証言していた。

2010年9月25日 (土)

打破フレックス X ぴんぼけ胃フォン

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一度に二つのことを書くのはなかなか面倒だがこれは仕方ない。
まず、胃フォンは使用一年を経過したとことで、最近ではぐっと不調だ。どうも1年の保証期間を過ぎると問題が出るような、プログラミングがなされたいるのではないかと心配になるほどだ。

あたしの胃フォンはまず、昨年から今年にかけて、欧州から成田に到着と同時に「圏外」というトラブルが発生。もともと電話は家人とだけの連絡用にしてるので、成田到着という一番連絡のとりたい時に連絡がとれないのはこまる。周囲のおばはんが、「あ、あたし。今着いたとこ、、」とか安ケータイで連絡しているのに、あたしの高級スマートフォンが圏外なのは実に理不尽である。
最近ではそれに、胃フォンのピンぼけも加わった。あたしは老眼ではないが、胃フォンの方が先に「眼があがって」しまった。
ご覧のように、手前にまったくピントが合わなくなった。そういう意味ではなにか人間的ではある。あ、それよりもあたしの胃フォンは人格を持っている点だ。カメラのアイコンをタップしても、すぐには撮影を開始しないのである。10秒後にカメラが起動すれば良いほうで、数分もかかることがある。怠け者の小人さんがデジカメ胃フォンに入っているのである。

さて、本来のテーマ。
キヤノン2Bが好きなカメラはのは、その底部にメイドインオキュパイドジャパンの刻印があるからだ。ここではピントは外れているが、全体のフレーズが冥途インジャパンに比較すると、ずっとセンテンスの長いのが、視覚的に「本物っぽい」のが好きなのである。

ここに登場のダハフレックスとは、ペンタゴナルダハプリズムからフレーズを省略したのであろうが、そのセンスは抜群だ。
打破フレックスでもある。あたまの数フレーズを単純に採用した、ペンタックスなどよりずっと秀才の感がある。
その打破フレックスの名前の通り、これは上から見るのであるが、左右正像に見える。あたしなどは数十年来、ローライやハッセルを上から覗いてきたので、実は左右は逆像の方が見やすい。だから上方向から観察する左右の正しい像はちょっと混乱するのである。
この打破フレックスは、いつ頃、どこで幾らで買ったのかとんと記憶にはない。しかし愛すべきアクセサリーではある。

2010年9月24日 (金)

ライカとライカの画像

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そのモノの存在そのものより、そのモノの画像(イコン)の方がどうもその影響力が強いというこの秘密は戦前にすでに、ワルターベンヤミンによって看破されているが、ライカもその例にもれない。

「ライカワークショップ」の撮影で机上に乱雑に置かれたライカはたしかにマンレイの言うとことの「がらくた」である。
ところがそれがちゃんと照明を当てられて、写真に撮影されると、これがまったく別の存在になってしまう。単に「物欲を刺激する」などという低次元の商業主義のためのイラストではない。
もっと、宗教的と言ってよいほどの「信仰の対象」にそれは一気に飛躍するのが実に不思議だ。

撮影中にそのデジカメのLEDをちょっとみせてもらったら、そこにはまぎれもなく「超絶的な飛躍」があったのでそれを「複写」したのがこれである。

えい出版の清水編集長は、文具の本で大ヒットを飛ばして、同時にライカ関係の本から「F5,6」まで幅広い守備範囲がある。
ここで清水さんがやっていることは、あたしのライカのがらくたを精査して、それを組み合わせそこに物語性を抽出することだ。そこで沢田風の眼鏡付きの35Mミリ広角レンズにさらに専用ファインダーをのっけて、ライカが一気に飛躍したりするのである。

この一連のライカ画像は今度のライカ本の巻頭に掲載されるのだが、著者から見てもわくわくする。ライカはそれを手にして撮影している時には、自分の視神経と身体の延長だが、それがひとたび「イコン」となるとこれが信仰の目的になるようである。

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2010年9月23日 (木)

落札ご案内。c258645709 「ハズレちゃったアイスの棒

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男性は棒のような物に興味を示すのは説明不要である。
この前の淫美線痴話駅の撮影に行った一〇問銭銀水は、その翌日に岡山のペンタハウスで、馬まら(本人談)のようなスリックのものポッドを発見して、動けなくなり、店主はいなかったが、店番の息子さんにおやじに電話させて、その価格が3000円であることを確認して「つけ」にして持ってかえった。これをイフォンを上に乗せて撮影したカットがあるのだが、今は津久田なので、このバカマックはSDHSは再生が出来ないので省略する。
さて、表題の「アイスのはずれ棒」を発見したのは、木星玉のBMWののみやである。それについて木星玉のメンバーでついったー上で意見交換がなされたようだが、スエードご広告は京葉線内で痴漢の現行犯を警察に突き出すような「森田健作」だから、こういう冗談が分からない。

あたしはアイスの棒世代ではない。若い頃は欧州で本物のイタリアンジエラートの口である。だから富士山のマークの棒は「一家に一本」だと思った。
あたしの棒関係では、ボレックスプロ16(世界で60台ほど生産された撮影機)のアウトフィットの中には特製の撮影用モノポッドが付属しているのであるが、それが欠品であったので、一度は全部がそろっているアウトフィットを買ったのである。これは単にその棒が欲しいだけであった。
それでボレックスプロの棒は数本持っているが、アイスのはずれ棒は一本も持っていない。
それをヤフおくで落札できたのは非常にうれしい。
売り手は町田方面の住人だ。あそこらへんは文化程度の高いことが出品者から判断できる。

2010年9月22日 (水)

ライカ大撮影会

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「ライカワークショップ」(えい出版)がいよいよラストの段階になって、巻頭に掲載のライカ画像の大撮影会である。撮影は気鋭の若い写真家さんがやってくれるので、問題はないが、問題はそのライカの運搬である。
なるべく数をしぼってそれを新聞紙にくるんで、家人から借りたスーツケースにいれたら、20数台だけど持ち上げるのがやっとという重さである。
朝10時にヒルズの待ち合わせポイントで待っていた。向かいに白いクラウンがとまっているので、それは違うであろうとさらに立っていたら、社内から清水編集長が登場した。クラウンでヒルズに運搬されるなんて、なにかリバーポイントタワーを社宅で借り上げている、上場のえらいさんになった気分だ。

撮影開始。清水編集長は聞けば、本当に1台のM4しか持っていないそうでこれはライカ人類の極致だな。撮影は午後4時前に終了。途中で日本カメラの撮影で借りたライカM9をえい出版の人にお願いして、ライカジャパンに返却してもらったりした。ここらへんのシフトはかなり複雑といえよう。

5時間にわたってライカを見ていて、判明したのは、実物のライカより撮影したライカの方が「ものとして立ち上がっていること」である。これは毎度のことだが今回も再確認。

2010年9月21日 (火)

墨田区京島の祭礼

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最初に京島を真面目に撮影するようになったのは、20年ほど前である。路地の奥に裸電球の街灯があって、当時でもそれは珍しかったのでマミヤ7の中判カメラに三脚を持って夕暮れの京島の街を歩いた。
アンコールワットの取材から戻った、ナショナルジオグラフィックの契約カメラマンを今京島に伴ったら、感激して「ここに棲む手立てなないか?」と真剣に相談されたことも懐かしい。
テレビの取材で京島界隈をクルーが2班で撮影していて、ここは迷路だから互いの位置が分からなくなってケータイで連絡とったら、相手の生の声が路地の向こうに聞こえる。路地一本隔てただけで「遭難」するのが京島の怖さだ。

日本カメラのグラビア撮影で、空筒(スカイツリー)を撮影した。カメラはM9である。路地を手前にした、空筒というのが撮影したくて、界隈に孫れこんだら、ちょうどお祭りの時期であった。ここのお祭りがみやびだなあと感じたのは、その年齢層がかなり上な点である。なにか地元だけでしっかり御輿を守っている感じがある。

カメラはM8にエルマー65ミリである。まんはったんの怪人ちょーせいさんは「俺はelcanしか認めないぞ!というライツカナダ原理主義者である。あたしはそれほどではないが、このレンズは1970年代からずっと使っている。一時はこれをコンタックスRTSに付けて、京セラの稲森会長などを撮影した。これは中央公論の巻頭グラビアだった。ただしこのクラシックレンズはどうも「色乗り」が悪いのである。だからモノクロだけで使用していた。
ところが。M9と組むとなかなかの色合いになる。画像エンジンとやらの相性が良いのであろう。

2010年9月20日 (月)

東京フォト2010の人々

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最初にお詫び。
津久田のパワープックがバカなので、イフォンで撮影した画像がひっくりかえっている。これが最新のOSで見ればちゃんと見えるらしいが、90度回転していたらご容赦。

東京フォト2010(正式の名前は忘れた)のプレビューに行ったのである。こういうレセプションは苦手である。最近ではそういう会合にはでない。それはあたしの人間関係はもう満杯でこれ以上はおつきあいを増やすつもりはないからだ。
ただし今回は、東京フォトが仕事場の9F下で開催されているので見学に行った。入場に数分かかるような大盛況であった。

ひとつには、日本最古のフォトギャラリーのツアイトフォトが出展しているので、石原悦郎さんに会いに行ったのである。日本最古と言うと何か奈良時代からあるようで雅である。ヒルズの森ミュージアムのオープニングレセプションの帰りに同じエレベータの箱で石原さんに遭遇した以来だから七年ぶり。同じ箱にMoMAの館長さんが乗っていたのも一興であった。
石原さんに北京のギャラリストを紹介してもらった。その中国紳士はあたしのことを知っていたのは、数年前に新華社の写真雑誌「撮影世界」ともうひとつのカメラ雑誌「大衆撮影」にあたしはクラシックカメラの記事を連載していたからだ。
ただし「中国で一番高い原稿料を出す」(関係者談)というそのお金はまだもらっていない。近々、北京に集金に行くことになろう。

北井一夫さんに会った。
1979年と80年に「ドイツ表現派」の撮影であたしは通訳兼助手をしたのである。「ドイツではお世話になりました」と北井さんは言う。これが30年前のことを昨年のことのように言うのが、北井さんの人徳である。
北井さんが展示している、タカイシイギャラリーの石井さんを北井さんは紹介してくれた。ポケットに名刺を探したがなかった。最後の一枚の名刺は受付で渡してしまったのである。
タカイシイの話は森山さんから聞いていたが、どういう人かと興味駸々であったのが、ひげがかっこいいというのが第一印象だった。こういうのは大事である。北井さんの撮影の「秋田明大」のプリントを懐かしく見た。

唯一のメーカー系フォトギャラリーとして、理光のリングキューブが一等地の広いスペースに出品していたもうれしかった。しかも出品者は外国写真家連なのである。なじみの日本の写真家はタカイシイで見たから、そこらあたりのあたしの感覚としてはかなり広い写真の世界を見ることが出来た。石川直樹さんの出しているギャラリーは大混雑で分からなかった。それでまた49Fの仕事場に戻って「残業」ををした。

外国系のギャラリーは知っているとことがない。あたしのマンハッタン時代にはライトとかウイトキンであった。お世話になったMoMAのシャカフスキーさんももう居ない。
世代交代だな。

2010年9月19日 (日)

ライカM9にビゾフレックス

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twitter掲板はこちら。 chotoka

大昔に坂崎さんと「ビゾフレックス倶楽部」を作ったが休眠状態。数年前に黒田慶樹さんと、オプラレックス同好会を作ったのも休眠状態。
手元のM9(ライカジャパンから日本カメラの特写のために借りた)に思いつきでビゾフレックス2型を付けてみたらうまく固定できない。いや、本体は付くけどプリズムが付かない。
それでビゾフレックス3型を付けてみたら、ちゃんとついたのにはかなりびっくりした。今まで、トップカバーが無名なのをライカの文字を付けると、お金をとられる(これは実際にかなり変である)とか、批判ばかりしてきたがこれで批判は帳消しでプラス方面になった。

手元の西ドイツ製のノボフレックス640mmを付けて大ガラスの部屋から空筒(くうとう、と読む)を撮影した。大迫力。
さっそくブログにアップしようとしたが、津久田のPowerBookは旧型なのでSDHCカードを認識しない。
それでイフォンで撮影した姿写真だけをアップしておこう。
これで空筒撮影用のカメラシステムはM9にビゾフレックス3にエルマー65MMとなった。

2010年9月18日 (土)

贅沢三昧

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twitter掲板はこちら。 chotoka

ライカM9とライカM8−2である。

この世の中のライカ人類の栄耀栄華の極みである。
撮影で午前中に、M8−2を持って清澄白川からバスで亀戸に行った。レンズはライツの35ミリである。バスの中から空筒(スカイツリーのこと)が下町のスカイラインの向こうに、バスの進行につれて見え隠れする。それを撮影した。

福の神橋で下車して、運河沿いに空筒方向に歩行して撮影。ライカの面白さは手にとって品定めしている間はデジタルライカはM3に比較してデザインがどうの、手触りがこうのと言っているが、いざ撮影の道具として手の中に収まるとそれは、自分の視神経の延長となって、そんなことはまったく気にならなくなる。これは本物であろう。

空筒の撮影が一段落して休憩で、メトロで西馬込方面を徘徊。またメトロで人形町に出て、日本カメラの前田編集長に会い、写真談義。快生精養軒のカフェには久しぶりに行った。なかなかの美女子が仕事している。佐藤ムンカッチの親戚の人であろうか。なにか良い風景を見ている気分になって、そこで手にしたM9が元気づいているような錯覚を感じたのも、ライカの魔法である。

35ミリレンズをM8−2からM9に付け替えたら、いきなり自分の視野が広くなった気分になる。それで午後のセッションを撮影。浅草の橋上から京島方面を巡る。
ひとつ確かなのは、M9とかM8とかでの撮影はデジカメで撮っている感じはまったくなくて、フィルムライカが電子化されているという身体感覚になることだ。それと込み入った撮影のセッションでは、36枚ことにフィルム交換をしないで済むのは便利だ。

メトロで宝町まで来て、都バスで津久田に戻る。

2010年9月17日 (金)

講演会御案内★写真の境界線観測★いよいよ今夜八時ゴング!

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仕事場のヒルズの49fから9階下に行ったフロアで東京photorography2010とか言うイベントが開催されている。
そのHPを見たら、日本橋のZEITフォトサロンみたいな、大昔に(1981)にあたしが個展を開催したギャラリーもある。ZEITフォトサロンの石原さんとは、ヒルズの53fの森ミュージアムのオープニングで会ったのが最後だからもう7年前だ。同じ下りのエレベータの箱にMoMAの館長も乗っていたからこれは愉快だった。MoMAの館長であるとなぜ分かったのか?
真っ赤な薔薇の花の造花に「ニューヨーク近代美術館館長」と墨色豊かに書かれていたのである。完全にニッポンだ。

いれゆるオリジナルプリントは長年売っているが、あたしのプリントの価格は30年前と同じだ。1枚3万円の据え置きなのである。この前、神田のバウハウスでの個展の時には「それでは安すぎ」というので倍の6万円にした。結構売れたのであるが主催者は「もっと高くすれば良かった」と残念がっていたが「後の祭り」であった。

オリジナルプリントも良いけど、銀塩とデジタルの境界線を知りたいというのは、あたしの目下の最大の興味である。
昨年、三井さんにリコーのデジタルカメラの発表会で隣になった時に、彼の影響を受けてG3を買った。その三井さんのiPhoneでの個展(京橋のアイランドギャラリー)に、マンハッタンの怪人ちょーせいさんとでかけた。
ちょーせいさんはライカM8で撮っていたが、あたしはG3と型遅れ(1925年製)のライカである。
そういう機材とかプリントとかの国境線はどうなっているのか?

そこらへんを三井さんと「バトルトーク」しようと言うの講演会が27日夕刻にデジタルハリウッド(秋葉原)で開催されることになった。
まず面白いことになりそうなので、立ち見、リングサイド観戦大歓迎。あたしはパイプ椅子でG4ミツイに殴りかかるかも知れない。
荒れ模様の風雲デジタルハリウッド決戦だ。

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おかげさまで、7777777の切り番が接近してきました。
切り番を踏まれた方はスクリーンショットか画像の画像をchotoku.tanaka@gmail.com宛お送りください。「豪華粗品記念品」をお送りします。今後ともよろしくお願いします。

2010年9月16日 (木)

さんまとコンビーフ

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昨年の七月のライカインコ追悼ツアーにて、千葉県の銚子に20年ぶりかで行ったのだが、銚子電鉄の敷地の薮の中にうぐいすが鳴いていたりで、なかなかの野趣であった。
その時、寂れた田中町界隈で、例のちょうしたカンズメの工場の前を通った。
その時までこのブランドが銚子製であることをまったく知らなかったのである。
70年代のウイーンに留学した当時の学生なら、日本から親がこのさんまの蒲焼きを送ってきたのを、ちょうど「うなどん」のようして食べた人は少なくない。
それが長じて、なにかウイーンの留学時代の懐かしい味の記憶となって今でも時々食べたくなる人すら居るのである。

そのちょうしたの蒲焼きをこれは銚子で買うのが本場とばかりに数個を買ったのであるが、そのまま年を超して2010年すら後はカウントダウンできるほどの残りの日数になってしまった。
昨年は7月と9月に銚子に行き、たしか9月10日あたりからエジプトの回路に行ったのであった。ちょうどラマダンの時期でもあり、そこらの飯屋はしまっていたので、安宿の向かいの小店で、コーンビーフを買ってそれをチップスと一緒に食うと、これがステーキの味になるという、モーゼも知らなかった味の奥義を発見したのも懐かしい。飲み物はもっぱら、ファンタをナイルの水道水で割ったもので、これは実に甘露だった。
日本の不注意なバイヤーなので、そのうちの一個のコーンビーフには缶切りが欠落しているのを知らずに買ってしまった。さらに缶切りを忘れてきたので、そのまま日本におみやげで持参したのも、一緒に年を超した。欧州に居る時には結構、カンズメのお世話になっているのに、日本でその存在を忘れてしまうのは実にけしからん次第である。
それで早速、取り出したけど、カンズメというのはビンテージワインと同じで、その外見を見ているうちが「華」であることに今更ながら気がついた。
それで、そのままイフォンで撮影してまたキッチンの棚に格納した。

2010年9月15日 (水)

キヤノン35mm f1,5

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スクリューマウントの35粍レンズで一番明るいのはこれではなかろうか。ズミルックスも腰名レンダーもこれより明るいけどMマウントである。

このレンズは40年前には愛用した。わざとライカD3のブラックにこれを付けたりしたのである。このレンズの問題点はフルサイズの画面で画面の角にちょっとビグネッテイングの出ることにある。だから古いネガ(トライX)などを見ていると、このレンズで撮影したカットは画面が見切れているのですぐに分かる。
こういう面倒なレンズは今では生産などしないのであろいが、当時の世界最高という矜持がこういうモノを作らせたのであろう。

この明るい玉の正しい使い方はやはり、キヤノン7とか7sのような「純正本体」に付けるのが「思想が正しい」のであろうが、ちょっと遊んでこういうライカに付けるのも面白い。明るい35mmレンズと言えば、60年代の木村先生とか70年代の「村へ」でキヤノンを卒業した後の北井さんとか、さらにあの時代に北ベトナムのハノイあたりに取材に行ったリアリズム写真の先生などを思い出すのが常である。

もっとも今の時代だと、ライカM9などではもともと感度が高いから、こういう明るいレンズはあまり必要がなくなった。やはり明るい玉というのは、50年代のまだフィルムの感度がせいぜいASAで50までの時代に威力を発揮したのである。

2010年9月14日 (火)

黒塗り

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スエーデン軍用のライカ3fはご存じのように、100台前後の生産でその本体は全部が真っ黒に塗装されているのである。付属のエルマー50粍の沈胴レンズも真っ黒である。これが実に不思議な感じがした。なんでも専門のライカのリペイントのお店に聞いたら、沈胴のレンズはペイントが膨らむのでなかなか塗装が困難であるという。それではあのブラックのエルマーはアルマイト仕上げなのであろうか。

このリペイントの3fはなかなかの出来であって、巻き上げノブまで真鍮の上に塗装してある。ここまでやるとそれがだんだんに剥げてくるのが楽しみでもあり、およそ写真の本来の楽しみとは別の所でライカと遊ぶことになってしまうのであるが、それはそれで構わない。

このファインダーは今回の岡山訪問時に「ペンタハウス」の委託コーナーにあったのを買った。一昨年のペンタハウス行きではやはり委託コーナーにあった、ズミタール50mm(レンズフードなどおまけつき)を買った。それを付けて、門田屋敷あたりを撮影していたら、持参のライカM2-mのシャッターのリボンがいきなり切れたのであった。でも銀塩ライカはシャッターリボンが切れても直せばそれでまた使える。今のデジカメのRFモデルにしても、コンパクトデジカメとかデジタル一眼レフに比較すればその命は永いけど、フィルムを使うカメラほどの寿命の長さはないに違いない。

この3fなどは1950年のカメラである。その後、朝鮮戦争の勃発時にDDダンカン氏は一度に日本でライカ3fを5台も買って、それでニッコールを付けて取材に行ったというのだから、その豪華さが偲ばれる。この逸話は確か、三木淳先生からうかがった。

2010年9月13日 (月)

ちょーとく固執堂改造計画

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岡山のちょーとく固執堂が出来て数年になるが、今回、十文銭銀水の計画でさらに拡張した。一階ばかりでなく、二階も出来た。実に大したものである。スタジオの2Fの角部屋であってここでカメラ本を書いたら良いものが書けるであろう。

しかも無線LANはないので、雑文書きに集中できるしくみである。新機軸はこの展示ケースである。どっかの駄菓子屋さんの閉店で出たのを、銀水のお嬢さんがご結婚で家具を揃えた時に、何十万も買ったのでそれに便乗して、この展示ケースを手にいれたそうだ。これが中に入れた物がグレートーンスケールが倍加して一層綺麗に見えること抜群である。

アローカメラのシドニーの常連さんが作ってくれた、あたしの「彫像」もガラスケースの中で異彩を放っている。

紛失したと思っていた、「ウイーン・ニューヨーク・新潟」のオリジナルプリント付きの限定版写真集も銀水が回収してくれて固執堂の新コーナーに並べてあった。さすが管理態勢抜群である。

2010年9月12日 (日)

奉還町のライカインコ

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岡山の奉還町というのを、十文銭銀水から聞いて、「幇間町」だと思って良い名前だなあとは聞き違いであった。これが子規の古いエッセイからの影響なのである。大学の試験でカンニングをする時、前からメモが回ってきてそれに幇間と書いてあった。子規もどうも変だと思いつつその英語の翻訳問題をカンニングメモを助けに書いた。これは伝達ゲームの間に「法官」が「幇間」になったのだ。

岡山駅西口の通りはそれで「奉還町」である。

昨年の秋にはこの通りを突先まで歩行してその途中の魚屋で牡蠣のむき身を1キロ買った。これが味が良かった。

その時には気がつかなかったがこの長い通りには、路面にタイル装飾がある。よく見たらこれが「ライカインコ」の意匠なので感心した。津久田でもそうだが10年も経過するとこういう路面タイルは剥げてしまう。ここのはかなり高級な作りらしい。それにそれぞれのデザインが全部異なるのはかなり詩的である。

同行の銀水は高校時代には岡山市内をわざと1駅だけ国鉄に乗って岡山駅から工業高校まで通学したそうである。それでこの界隈にはかなり詳しい。

散歩の途中に銀水の知らないうどんやがあったので入った。店名がないのである。店のおやじさんに聞いたが、発音がはっきりしない。二度まで聞き返したが分からない。それで勘定の時に店の若い女子に聞いた。それでも分からない。感じ説明をしてもらったら、安心のあんに生きるであんせい、と聞いた。

それを銀水と感心しつつ歩いているうちにお互い還暦過ぎなので1時間も経過したらすでにその店名を忘れている。年をとるとはこういうことなのだ。

2010年9月11日 (土)

因美線 知和駅

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岡山の十文銭銀水が仕事で鳥取の県境に近い、淫靡線の痴話駅に撮影に行くと聞いたので同行した。これは変換間違いで因美線の知和駅なのであるが、なにかその音声に惹かれる。

10年落ちのハイエースの白い車体は、2000年にハノイからフエまで似たようなクルマで走ったことがあるので懐かしい。ベトナムの国道一号線は当時は自転車とあひるの通行が主であって、クルマはほとんどなかった。白いハイエースは国道で一番速い交通手段だった。時速30キロ。これは南北を結ぶ列車より速いのである。無敵の速度だった。

まず欧州人の感覚なら越南はまだかつての宗主国の名残で懐かしさはあるのであろうが、極東のさらに東、平壌のさらにオストのここら辺は実に旅情を感じる地域であると思う。

それがJTBのスタンプラリーの各駅舎の取り残しで明日が下版というので銀水はその仕事で行ったのであるが、それに 便乗して良いものを見せてもらった。

ところで思い出した。東京がまだ屎尿がくみ取り式の当時にバキュームカーがそこここの路地に入って凄い悪臭の風を起こしたことを知っている人間も数少なくなったであろうが、あのバキュームカーには「便乗禁止」とあった。実際に便乗する人間が居たのであろうか。

ここらの山は深い。かつて米子から岡山に列車で走った時、もっと西よりだけど、島根の三次市を通った。あそこは稲生家化け物話の生地である。この界隈の山野中はなかなか興味がある。

くだんの駅舎に到着する寸前に一両連結(って言うのかどうか知らないが)のジーゼルが90度方面に見えたので、それを座席からペン2で連写。運転の銀水のフルサイズデジカメは後部のトランクに入れてある。ペン2の勝ちである。あとで画像が必要な時にはゆずると約束したが、鉄橋の上を通過する一両電車は野趣満点だ。

駅に滑り込んできた電車を撮影した。誰も下りない。中には「鉄人類」と思われる人がいっぱいいる。電車が去って行くと後には快晴の午後のホームにオレンジのコスモスが揺れている。「春なのにコスモスみたい」っていうパルコのコピーが80年代にあったな。

鳥が鳴き、トンボとチョウチョが飛んで稲は黄金色である。栗の「いが」が膨らんでいる。空は真っ青で白銀山(というのだとGOOGLE MAPで知った)の上には白い綿のような雲がぽっかり。日本昔話の世界だ。

子規が人力車で徘徊した明治の三河島あたりの秋もちょうどこんな感じであったのだろうか。

2010年9月10日 (金)

岡山の暮れ六

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昨年の晩秋に(リコーGXRワークショップの撮影)後楽園を徘徊して、道を遠回りして内田百閒の生家の跡にある、「こってうし」のブロンズ像を拝観したりした後、大河の手前側にある普通のうどんやにはいった。秋であったから牡蠣うどんで冷やを一杯やったのが、なかなか記憶の底に沈殿していて、岡山到着の夕方に禁酒会館の脇のホテルを出てお城の石垣づたいに、橋の上まで来て眺めたら、何時もは俗なコンクリートでエレベータもある鵜城がシルエットになっていた。
あたしは、バイエルンの狂王の偽シンデレラ城が嫌いだから、こういう歴史的なレプリカ建築は興味ないのだが(レプリカの時計とかライカは大好き)この夕暮れは何時になくお城のシルエットが美しかった。まあ、これは影画であるからだ。

その足で、川の側のうどんやに入って、牡蠣は時期にはまだまだ早いから、いたわさでコップ酒をやっていた。手のすいたご主人と話しをした。
ここが大正期の内田百閒の日記にある、「す店」の跡地であったことを聞いて感慨があった。貧乏な百鬼園先生は故郷の財産を処分して親戚の酢製造業からもらえるいくばくかのお金の為替の到着を延々と待っているのであった。
その金額が当時の百鬼園先生の生活を完全に変貌させるような巨額のお金なのかと期待して読んで行くと、奥さんから勤務先の士官学校に電話が来て、それが40数円なのである。当時の百鬼園先生の借金が2000円を超えていたのだからそこが実に不思議だ。

そういう大昔の、しかも書物の上だけのリアリテイが現実のものとして、浮上してくるのがいい。

2010年9月 9日 (木)

カメラは詩的な遊びなのだ

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おかげさまで重版を重ねたアスキー新書「カメラは知的な遊びなのだ」の続編の「カメラは詩的な遊びなのだ」(アスキー出版)がもうすぐ出る。

デジカメでもフィルムカメラ(特にライカ)でもそうだが、皆さん(あたしも含めて)お道具を揃えてばかりいて、写真の方がまったくお留守になってしまうのは問題だというので書いた(実際には語った)のがこの前書の「知的な遊び」であった。
今度はその知的をさらに一歩進化させた「詩的な遊び」が新書で出るわけだ。

「詩的な遊び」とはわれわれの生活に第三者的な視点を加味して、それを象徴化して楽しむための技術である。津久田のご近所に敬愛する吉増剛増さんがお住まいで、以前からSX70で撮影したお正月の虹の作品などを拝見し、吉増さんのお住まいはビルのあの辺りであろうとなどと目ぼしを付けていたのだ。これはストーカー行為というのではない。パリのリボリ通りのあたりで、かのHCB氏のお住まいはこの辺であろうか、と仰ぎ見るのと同じ心理である。

最近、吉増さんの出した岩波のカラーの写真集『盲いた黄金の庭』を見たら、そこに津久田のリバーシテイ21郵便局と住吉さまの裏手の掘り割りに加え、プラハの22番の市電が一緒に収録されていたので、ああ、やはり詩人は視点が違うなあと感心した。吉増さん写真作品は70年代から見てるけど、当時は大道ダッシュみたいなモノクロのあれぶれであった。
これはそれが現代詩手帳の小さい画面であったから、あるいはその作風を見間違えているのかも知れないけど、ともかくそういうのだった。最近の多重露光のお仕事はいい。
それで詩人の写真作品には及ばずながら、カメラ人類が詩的な方向に写真をシフトさせるにはどうしたら良いのか、それを考えたのが本新書である。

カバーの「写真の極意は金魚すくいに通じる」は編集者さんがあたしの言葉から選んだものだが、こうして抜き書きするとなかなか象徴的で詩的なので面白いと思った。スナップも金魚も「もなかの皮」とか「薄紙」ですくうから面白いのであって、頑丈な網では面白さが減退する。これは使うレンズがエルマーかノクチルックスかの違いみたいなものだ。

カバーにはカメラグランプリのペン1と1925年のライカ1とを並べた。最古と最新という感じであるが、この肝はあたしは同時に両方のカメラを使っていて、それぞれに操作感覚の混乱などは起きていないことだ。
ノクチとかズミハチも結構だけど、ツエッペリンが来日した当時の小型写真機でもなんとかなるものである。いやなんとかどころかその写りは絶妙である。2010年に比較して1925年はカメラはずっと詩的な存在であったことがこれでも分かる。

2010年9月 8日 (水)

ライカの細部への執着

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★本日移動日 津久田ーおきゃーま。台風9号だが、岡山便は飛んでいる。

スエーデンの軍用ライカの3fに何がしびれるかと言えば、巻き上げノブまで真っ黒に塗ってあるということに尽きる。戦前の軍用ライカの場合は巻き上げノブは通常のクローム、またはニッケルである。

この3fは3fの一番最初のロットをブラックペイントしたものだが、ごらんのように巻き上げノブがちゃんと塗ってある。これが使う込むと下地の真鍮がだんだんと浮いてくるのが、ライカ使いの醍醐味というやつだ。
銚子から戻って、雑司が谷を撮影して、北千住に行った暑い暑い午後に、久しぶりに銀座のレモンに行ったらこのブラックがあった。こういう希少種は思案する前に手を出してしまうのがルールである。

このライカはシャッターの調子がとてもよい。「ぬるり」と巻き上がるのである。ウインドウの脇を見たら、ライカビットの黒塗りがあったので、それを附けてみたらこれもお誂え向きの感触である。ライカよりライカビットの方がずっと高価であるが、それもゲットしてとんでもない散財になった。
レンズはやはり真っ黒のやつをつけたいのでこれは文句なく、木星珠のブラック(邦貨2センエン)を附けた。

これだけモノで武装して行けば、おきゃーまの禁酒会館で例のトランプさんの、ライカAと勝負してもまず大丈夫であろう。

2010年9月 7日 (火)

キヤノンの28mmコンタックスマウント

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6年前にはイタリアのナポリでアリフレックス16SRを買った。これはナポリ訪問記念のお土産というわけだが、別にナポリにカメラ店があるわけではない。カメラ店は自分のPowerBookのデスクトップ上にある。
今回もなにか銚子の訪問記念に買うものはないかと、市内カメラ店ならぬオンラインカメラショップを徘徊していて発見したのがこれ、キヤノン28粍のコンタックスマウントだ。

かなり前、土田ヒロミさんと歓談した時、彼がこのレンズを持っているという話しを聞いた。このレンズはソースによれば200本という生産数である。だからほとんどプロトタイプと言って良い。
銚子のM9での撮影の記念にこれ以上のものはない。それで昨日、津久田に戻ったら到着していた。レンズはずっしり重い。

それをコンタックスに付けずにまた山さんの作ったコンタックスライカアダプターに付けて、それをM8-2に付けて使うことになった。
M9でテストしてみたら、このクラシックレンズは周辺がかなり暗い。50年代のレンズなのだから当たり前だ。だからフルサイズのM9より、ちょっと小さめの画面のM8にはジャストフィットだ。

2010年9月 6日 (月)

なまえのない店

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昨年の七月の銚子大周遊は家人と銚子駅から犬吠まで歩行した。

田中町というのは日本中にある。なぜか知らないが田中町は寂れている。新潟市の田中町、奈良の田中町もそうだ。銚子は新潟並の人口50万かと思ったのは勘違いであって、7万都市なのである。中央区なみの人口が広範囲に展開しているから人間がまばらなのは無理もない。そういう街並みが好きなのだ。亡くなった田中雅夫先生から「田中町は寂れているのが本物である」とのお話を聞いたのはすでに30年前のことだ。それではと発憤して写真集「世界の田中町」を作ろうと思ったが、考えてみれば田中町というのは日本の地名である。

銚子の田中町も良い感じの寂れ方で、なにか映画のセットめいた感覚がある。しかも街並みはなかなかに通りが広くて、水辺が近い。その感じはどこかアメリカのミシガン湖畔の小さな街の感じだ。これは日光が強烈なこともある。あたしは寂れた都会風景に「本当の町」を感じる。

田中町商店街の程中に、「なまえのない店」がある。昨年発見して今年行ったら健在であったのが嬉しい。ただしこういう店は外部から眺めるのみで中には入らない。これは長年の街歩きの経験則なのだ。

エルマー50MMの戦前の玉で撮影した。この後、銚子電鉄の本銚子の裏手の山の真上にある神社に昇って、そこから銚子港の全景を撮影しようとしたら、このエルマーを撮り下ろした。「おむすびころりん」ならぬ「えるまーころりん」である。

おっかけて、鼠の国の入り口の手前でようやく追いついて拾い上げた。

2010年9月 5日 (日)

銚子ライカの全容

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今回は「ライカワーショップ」(えい出版)の口絵の撮影で銚子に居るわけだが、これが持参のアウトフィットである。

M9と戦前エルマー50mmだがこれはこのまま沈胴できるので、従来のライカとそのままの感覚で使える。M時代のエルマーはちょっと出っ張るので携帯には適さない。ライカM3のプロトタイプでは、エルマーはスクリューマウントのレンズがそのままMマウントになったレンズであった。これは正に「撮影できるボデイキャップ」というわけだ。
あとはエルマリート28とテレエルマー135である。これだけで仕事になるのはライカの楽な点だ。
M8−2とM9ではその操作感はかなり異なるのだけど、一台だけ持参すればそのライカになれてしまう。思えばデジタルライカになったからと言って、今までの撮影方法が変わることはまったくないことが、今回の銚子の撮影で判明した。
ようするに、28MMではほとんどファインダーを見ていないし、50MMと135MMでも真剣に構図を検討することなどはない。
デジタル一眼レフの長所はファインダーの正確さにあると言うけれど、逆に正確なファインダーなので「構図至上主義」にずぶずぶとのめりこんでしまう。

M9だとファインダーなどは「単なる見当器」の認識があるから、構図よりもっと重要な空間の構造を素早く認識できる。ようするにM9を構えている時には、ファインダーよりも周囲の空間を敏感に認識しようという身体性の方が活性化しているのだ。

2010年9月 4日 (土)

銚子のワン公

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銚子に最初に来たのは小学校低学年の頃、夏であった。
両国駅から蒸気機関車でやたら時間がかかった。内田百閒のエッセイに一週間、千葉を起点にして安房から銚子を巡る傑作がある。
当時は(戦前か)やはり不便であったのか、それとも百鬼園のきまぐれかそれは分からないが、千葉が要の旅なのだ。銚子ではどっかの古い旅館に投宿してそこの部屋でいっぱいやっていると、屏風の陰から犬が出てくる。これは無論、百鬼園の創作なのだが、その背景には犬吠崎が心理下に入っている。

昨年の7月に家人と「ライカインコ追悼ツアー」で銚子に来た。その20年前の1989年のハリネズミ追悼ツアーではプラハからウイーンを回ったので、それに比較すると大幅な経費節減であるが、ライカインコは「鳥ができて」いるから文句は言わない。

その銚子があたしの人生4回目の銚子であった。小学校の時、中学校の時、それを父方の墳墓の関係でこれは40代最初に行って、昨年の7月が四度目。これで銚子が気に入って、昨年の9月にはまた来た。その勢いで直後にはカイロに行った。それで今度が人生6回目の銚子ツアー。まあ、避暑に来たようなものだが、仕事。

ライカワークショップのメーンの口絵を撮影に来た。カメラはM9である。これは疑いもなく、銚子にある唯一のM9ではないかと愚考する。

さて、昨年の7月、家人と駅前から利根川へ北に向かうメーンストリートを歩行していたら、「油屋金物店」という古い商店が角にあって、そこに薄茶のワン公のかなりのご老体がぼっと立っていた。これがご近所の名物犬らしい。
1982年のマンハッタンでウースター通りのノースエンドのパーキングロットに黒い犬が居て、これが人気犬だった。これもご老体で通りの真ん中にぼっと立っている。それがロフトのファイヤーエスケープから良く見えた。
これを「ウースター犬わし」(わしは犬であるというのを言葉を前後入れ替えた遊び)と命名して親しんでいた。でこぼこのウースター通りをクルマが南下すると、駐車場から通りの真ん中でその「ウースター犬わし」がぼっと立っている。
クルマはそれをひっかけないよう、慎重に迂回して行く。

Photo_3 さて、銚子の油屋金物店の「油屋犬わし」は、広い歩道上にゆっくり座っている。これはマンハッタンより良い環境だ。リスボンでもそうだが「犬わし」がゆっくりしている街は良い街である。

ライカM9。えるまりーと28mm

2010年9月 3日 (金)

路地裏学会の謎

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日本路地裏学会では路地のサイズを基準路地として定めている。両手を広げた幅が路地の最大サイズである。

これより広いと車両が通るので路地とは言わない。最小の路地単位は片手を肘から出してこれで人体の通過できる幅を「胎内潜り」と称する。これは案外に便利な路地幅の単位である。
ところがBMW野々宮から届いた通信によれば、どこかの地方で幅が35センチの幅員の建物と建物の隙間を通り抜けようとした、66歳の男性がそこに挟まれたまま三日も経過してから救助されたそうだ。
実に立派な話しであって、これは路地裏革命の英雄である。日本路地裏学会はこの路地裏英雄に「日本路地裏学会名誉会長賞」を贈ることにした。
しかしその英雄的な行為に感嘆するのは、幅35センチというのは一尺であることだ。
これを書いているヨックモックの幅である。あたしのようにウエストが1000mm
人類なら最初からそういうことは想像もしない。おそらくこの「路地裏英雄」はかなりの痩身と見た。

胎内巡りではなく、こうなると膣内巡りだな。木星球倶楽部の膣擊隊長桜井(仮名)の領域だ。

身辺、100㌫の銚子状態。あたしも幅35センチの超路地裏を探してみるか。

画像は桃木日本路地裏学会会長(2010 年6 月 きゃうとにて 代表取材)

2010年9月 2日 (木)

ライカM9で撮る

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本日移動日。東京ー銚子。

「ライカワークショップ」(えい出版)の特写(この言い方は1950年代の感覚でいいねえ)で、千葉県の銚子に行くのである。

亡くなった父は銚子出身なので、その足跡というと大げさだけど、昨年は9月の1日の台風明けの銚子がなかなか良かった。本日から撮影行。ただしテッチャンではないので銚子電鉄とかぬれ煎餅とかは撮影しない。

昨年は7月にも「ロケハン」に行ったので「土地勘」はあるのだ。そこに最新鋭の世界唯一のレンジファインダーライカでデジタルのフルサイズのM9を持って、路地裏徘徊と地球展望台(これも昭和30年代の言い方)を撮影してこようと思う。

M9はライカジャパンから取材でかり出した。M8-2には慣れているが、M9とは若干異なる操作感覚だ。まずフィルムカウンターはM9にはない。もっともM8-2の時でもあたしは画質はノーマルで撮ってるので、カウンターは常に999を表示したままである。要するに「まだまだ沢山撮れるよ!」というサインなのである。

M9はinfoの表示で残数Verbleibende Aufnahmen(ドイツ語)が表示されるのである。今、1846と出ているから当分は心配ないが、このフィルムカウンターが液晶画面上にあることには、だんだん慣れないといけないのであろう。過去40年にわたってずっと巻き上げレバーの基軸にある、目盛りを見続けてきたせいだ。

あ、ドイツのカメラなので、言語はドイツ語に設定して「独逸気分」を出している。

テスト(ライフワークと読む)では、ズマロン35mmの眼鏡付きを持参して、ヒルズから早朝のシーンを撮影した。当たり前ながらちゃんと良く映る。凄いと思う。

下の方のカットは、上のクラブに行く時のジャケットだ。1982にマンハッタンのキャナルストリートの蚤の市で20ドルで買った。以来、裏を直してまだ着ている。最近、襟の部分の縫製が口を開けてきた。修理が必要だ。M9がこのジャケットのようにこれから30年使えるかどうか?それは30年後の未来が答えを持っている。M3もM4も40年前のMシステムはまだ使えるのだから、その推測からすれば、M9も大丈夫なのであろう。

2010年9月 1日 (水)

ヘクトール73mm f1,9

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四国の松山に行ったのは、アローカメラの野田買い取り名人が故郷に立派なお墓を建てた時に、小豆島を観光しそのお墓を見学に行ったびである。あれはもう10年では効かない昔であろう。

高松駅の書店でゲーテのイタリア紀行(岩波文庫)を買って界隈を旅行した。小豆島はシシリー島に似ていることに吃驚したのであった。

帝国製薬の社長の某氏は野村総研のリチャード・クーさんのカメラ親友でもあり、このお二人はドレスデンの一眼レフの立派な本も出している。四国のそれがどこであったかすでに失念した綺麗な街を某氏に案内していただいてそこにある、中古カメラ店でヘクトール73mmf1,9を買った。まず旅の記念というつもりであった。

その値段も失念しているが、このレンズはかつてはライツの交換レンズの中で一番高価だった。それは当時のライカのカタログ(これは某市のお医者さんが、戦前にコレクションしていたのを譲っていただいたのである)の価格表で確認した。タンバール90mmよりずっと高かった。そのライツのレンズのカタログには、奥付に1939年の新レンズである、クセノン50mm f1,5の追加の貼り込み頁があって、これはさすがにヘクトールの値段を抜いていた。

ヘクトールの価格は当時のライカD3にエルマー付きの価格に迫る値段だった。このレンズは戦前は芸者遊びにも飽きたお大尽が、ライカにこのレンズを付けてお座敷で馴染みの芸者衆を撮影するような、そういう「道楽のなれの果て」の撮影用レンズであったのだ。

木村伊兵衛さんが、銀座で文人墨客のポートレートを撮影したのも、この玉である。これは癖球であるのは言うまでもないことだが、このヘクトールをフィルムで撮影すると実にしまらない画面になってしまう。もともと「鏡玉解放時には絵画的な描写でありますが、絞るにつれて先鋭さを増し」という当時のレンズなのだから、当然な次第なのだけど、これをライカM8−2などに付けて、後でフォトショップでちょっと画面を整えるとなかなか洒落た感じになる。要するにデジタルライカ向けのレンズなのである。

印象派とは大げさながら、なにかバルビゾン派の風景という渋い発色である。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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