フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »

2010年4月30日 (金)

空樹@業平橋

1_2

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

おかげさまで再生回数5000回超えました。

どうもありがとうございます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

一昨年の初夏であったと思うが、あの写真部福田組の面々と空樹の根っこに集合してそこから亀戸方面に撮影乱酒した。その当時はまだ空樹のクレーンがその工事現場の土台に見えるのみであった。
それが昨年の7月に例のライカライカインコの昇天を機に、視線が無限遠に伸びるようになって、建設中の空樹をうちでは「ライカインコメモリアルタワー」と命名した。あたしはTVは見ないから、こういう電波塔には無関係だが、そうなればそうなったで、自分なりの空樹の存在感を獲得すればよい。
これは公共事業の私物化であると文句を言う方面もないから、東京市民は各自、空樹をぞれぞれに「ロンちゃん記念塔」とか、あるいは横浜市民でも「ゆーた君追悼の碑」とか、さらには今年生まれたお子さんのための記念モニュメントに認定すれば良い。お金は一円もかからない「見立て公共事業」でそれぞれに個人は「独裁政権のトップ」になれるわけである。

そのライカインコメモリアルタワー、もとい、空樹であるがおそらく東京ではあたしが工事関係者を除外して空樹を一番見ている市民であると思う。佃の大ガラスの部屋から日本に滞在時は毎日見ているのである。
建設中の空樹をライトアップしたらすてきであろうと前に書いたが、昨年のクリスマスの時であったか、数時間だけ空樹がライトアップされたことがあった。
こういう100年に一度の「お祝いごと」なのにその下に誰も奉祝に行かないのはおかしいと思っていた。
この1月のはじめの寒い日にアサヒカメラの連載の取材で空樹の根本にいったが、そこで遭遇したのはFM葛飾のレポーターさんだけという寂しい状況だった。それがその高さが東京タワーを超えた頃からかなりお客さんが増えたのは嬉しいことである。空樹を見るベストポイントを探していたのだが、3週間前の木曜に福田組の撮影会で業平橋駅からのシーンがダイナミックであることを発見した。まるでヒューストンである。
カメラはライカM3にジュピター50ミリ。工事用カラーフィルム。プロセスはノーリツ。フジのプロセスよりトーンカーブがゆるやかで大人の画像だ。品川の双葉にあるフラッシュというラボに依頼。

2010年4月29日 (木)

鞄の中身

Img_0283

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

おかげさまで再生回数4500回超えました。どうもありがとうございます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

カメラマンのバッグの中身というのは、いささか手ずれしたカメラ雑誌の特集だと思っていたが、この数年、あまり見ないようだ。10数年前に某誌でそれをやってあたしがカメラ人類の皆さんを取材した。坂崎幸之助さんのバッグの中身などは、健康保険証がはいっていたり、旅グッズが入っていたりでさすが「ツアーが生活」と感じられて面白かった。
森山大道さんは「ぼくはバッグは持たない主義だよ」というのを「それではその持たない主義を取材させてください」とお願いした。
後で思い出せばその時に、リコーGR1が話題になってこの会合が森山さんがコニカビッグミニからGR1に使用カメラを移行するあれが転機になった。そのGR1で森山さんはあの分厚い写真集「新宿」を撮影したのである。以降、大道さんがフランスのアパレルの広告などをそのGR1とGR21で撮影しているのは大道ファンの知る通りだ。

ところで最近、カメラバッグを新調した。いや、新調ではなく10数年前にリスボンで買った狩猟用の鞄が発見されたのでそれを使い出したのだ。この手の狩猟用の鞄はもともとハンターが山坂を駆け巡るような実用的視点で造られているので、カメラメーカーが考え出したあやふやな「スナップ用バッグ」などとはその時代的な背景がまったく異なる。だから使い易い。
ストラップの長さといい、材質といい、ポケットの造りといい実に「映像ハンター」むけにも親切な造りである。
ただ、まだまっさらな新品である。これが良い革の調子になるには、あたしが後期高齢者になる時期であろう。
その意味で楽しみだ。現在のライカ社に表敬訪問に行く気はないけど、ライカ100年のその年、つまり2025年にはこの鞄をぶら下げてウエッツラーに行ってみよう。

ところで 今日、2010年4月28日の鞄の内容はここで説明することもない。ご覧の通りである。これが将来、どのように変化するかが楽しみである。この中で一番古いのはライカである。二番目はリコーのコンパクトデジカメである。一番のニューカマーはペンデジタル2だが、ペンペンの登場であたしのカメラの視座は大きく変貌した。昨年の初夏まではマイクロ4/3が何であったかすら知らなかったからだ。

2010年4月28日 (水)

東京の60年代

19 20

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

おかげさまで再生回数5000回に接近しました。どうもありがとうございます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

警視庁築地署銀座東七丁目派出所と読める。これは60年代のスナップである。当時の東京大周遊では東京の街角にある、この小さな交番をもっぱら撮影した。クラシックな街角にぽつんと建ってその中に立ち番のおまわりさんがいるのは、フォトジエニックでないわけがない。幼年時に絵本で知った最初の童話はナイトパトロールのおまわりさんが、月夜の街で、もぐらの子供に会う話であってこれは今でも心に残っている。
ただしこれは欧米風のパトロールである。長谷川如是閑は「倫敦?倫敦!」の中でおまわりが立ちっぱなしのポリスと巡回ポリスの二種類あることを記している。
日本だとポリスボックスがあるから事情は異なる。

下のショットは今ではどこだか不明であろう。これは国鉄の有楽町駅から数寄屋橋に行く途中で撮影した。右の塀は元の朝日新聞界隈になる。今の東京の夜景などよりずっとドラマチックだ。今の夜景は明るすぎて夜景にならない。カメラはこれもライカM2にニッコール21ミリで撮影したものであろう。

 

2010年4月27日 (火)

ラジアルタイヤをはきかえる

3

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

おかげさまで再生回数4500回超えました。どうもありがとうございます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

この数年はごらんのようなスニーカーをはいている。同じものを3足買って交代に使っているが、なにしろ良く歩くのでソールはこんな状態になった。かりに1足を250日はくとして、まず年間平均で毎日10キロは歩くから、単純計算だと2500キロか。上野のABCマートで9800円だ。3足の中で右側に重さがかかるので、ソールに穴があいた。それをはいてお店にいってそこで新品にはきかえた。自分の体重が一歩ごとに靴を踏みつぶしているのだから、靴は変形する。新品に変えたら両足が本来のバランスをとりもどして歩行が快適になった。
もう一台、ライカを買い足したり、新しいレンズを買うのもいいけど、スナップ写真の基本はカメラより靴である。

作例は右が本日買った靴のソールで、左は約500日ほどプラハ、カイロ、アンダルシア、パリなどをのたくったソール。

2010年4月26日 (月)

青柳

Fh0100114 Fh010015

2

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

おかげさまで再生回数4700回超えました。どうもありがとうございます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

青柳って言葉は、幼年時に覚えた。祖父が酒飲みであったからその晩酌のつまみに魚屋から取り寄せたのであろうが、後年になって記憶をたどれば、家の冷蔵庫がまだ電気以前の時代には、青柳はかならず「酢の物」であった記憶がある。先日板橋の浜出屋でその青柳(実際の貝類の分類ではそうではないようだが、ここでは慣例に従う)を食べた。

あたしが佃の四季で好きなのは、桜満開の後の葉桜の時期だが石川島から住吉さまへの小橋を渡る時に、ちょうど目の高さの柳の新芽の芽吹きはなんとも言えない。そういう色彩に注意するようになったのは、やはり中年以降のことで、若い時代に女の子を追っかけていた時代にはこういう色彩は眼に入らない。これが老年の楽しみというやつであろうが、その印象は悪くない。老人になっての楽しみはやはり、世の中の女子をまるで「風景」のように観察できるようになったことだ。

一昨日、タワーのエレベータの中、あたしが蕎麦屋帰りでライカM4の雨に濡れたのを首からぶら下げていたら、同じ箱に乗り合わせた人が「雨で大丈夫ですか」と聞いてきた。「ええ、デジカメじゃないから平気です」「高そうなカメラですね。何をお撮りになるんですか、やっぱり景色とか、、、ですか」と短い上昇時間にライカを挟んで話しが弾んだ。「ええ、風景とかスナップとか撮ってます」の答えで、あたしは降りてしまったけど、その風景とは世の中の女子をまるで「風景」のように観察できるようになった、という意味が含まれていたことにその後、気が付いた。ただしこれは意識の方向の問題であって、実際に街行く女子を撮影する気持ちはない。彼女らは申し合わせ事項のように、美女そろいであるが、一方でその存在は「もっともフォトジエニックからは遠い」のである。

そうそう、上の作例の運河の青柳はキエフに木星珠での撮影。下の青柳は、いふぉんで撮影。どちらも良く写る。

2010年4月25日 (日)

横位置と縦位置の問題

Fh010005 Fh0100014

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

おかげさまで再生回数4500回超えました。どうもありがとうございます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

 

MP突撃隊長が3週間前のクラブエダム主催の隅田堤防大園遊会の時、あたしにKIEVをくれたのである。いや、そうではなかった。

くれたのはその前の週の小川町でのペンペンリスボン展覧会のレセプションの時だった。これは新キエフに旧型のキリル文字のカバーをかぶせたスペシャルモデルである。レンズはごく最近の木製珠が付いているから、その描写は戦前のゾナーなどより数段上であって、ちょっと写り過ぎるのが難点だ。木星球は現行レンズに限る。そのキエフを佃の花見に持参した。雨が降りそうな天候であった。大宴会の様子をキエフにニッコール25MMで撮影しようと思っていたが、ついついお酒の手の方が多忙になってそのことを忘れていた。それでお花見が終わってから、クラブエダムで飲み直し(これは酔っぱらいの使う嫌な言葉だが)した時に、エダムから道一本はなれてキエフで横位置で撮影した。25MMレンズというのは、21MMと28MMとの中間の長さなわけであるが、使い方によってはかなり効果的な撮影ができる。

最初の横位置の撮影は、いわば環境描写とでもいうショットであるが、思いつきで撮影した縦位置の方は、これはそれに対して空間描写とでもいうべきものである。だから同じ立ち位置なのにその見え方がまったく異なる。あたしは雑誌の仕事などではどちらかと言えば「編集者さんに思いやりのある」方なので、かならず「縦位置と横位置」は撮影する。雑誌のレイアウトでどうにでも活用できるようにするためだ。さらにこれにモチーフへの距離の「寄りと引き」とをカバーしておく。親切親切である。

クラブエダムは今の東京では希な木造の商家だ。あたしのガキ時代は酒屋さんはみなこういう造りであった。その背後にタワーが写り込むとその空間はなにか超絶的で「星州」めいてくる。

2010年4月24日 (土)

東京の60年代

13 14

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

おかげさまで再生回数4500回。どうもありがとうございます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

東京を本格的に撮影開始したのは、1964年であった。当時高校三年生。東京オリンピックで「外人さん」が沢山東京に入ってきたのである。それまでは外人と言えば例外なく進駐軍であった。あたしはそれを「真鍮軍」だと思ったのは、彼らの軍装になんとなく真鍮を感じたからだが、オリンピック以降には「丸腰」の外人が増えてそれが平和になった証のように思えた。戦争体験はないわれわれ世代だが、戦争のことはつい最近の事実として両親から聞いていたからだ。

当時のスナップは最初はニコンFに21mmのニッコールを腰だめにしての、ノーファインダー撮影であり、そのレンズを父親の会社に出入りの機械屋さんに「挽いて」もらったレンズアダプターでこれをライカに付けていた。今でも同じレンズを使っている。つまり40年も経過したのに、レンズもカメラもまったくの進化がないのである。これでは日本のカメラメーカーやレンズメーカーさんに申し訳ない。ライツもこれで経営危機になったわけだし。

さて、作例である。当時はこの数寄屋橋公園がデートの待ち合わせ場所だったし、ハンガーストライキとか日本愛国党の赤尾敏の辻説法とか、この公園は実に使い道が多かった。

撮影機材はライカに21mmを付けて、もう一台はオリンパスWsなのである。当時、ズミクロン35mm(今で言う所の8枚玉)はシュミットの定価が77000円であった。これは普通の給料は13800円時代の七万超えなのであるから大金だ。

それでもっぱらオリンパスワイドsであった。21mmがノーファインダー撮影なのに対して35mmの方はちゃんとファインダーを覗いて撮影した。オリンパスワイドSは、そのアパチュアが他のカメラより狭いのでフォコマート引き伸ばし機でプリントすると黒枠が太くなるので他と区別できる。

40年が経過してみて、一向変わらない風景というのは御堀端のこのあたりである。

2010年4月23日 (金)

馬込雪が谷御嶽山

Img_0218_2 Img_0220 Img_0221 Img_0222

馬込の文士村にこの前、来てから10年は経過している。暑い夏の日であって、ニコンSにニッコール35mm f3,5を付けていた。そういう細かいデテイルは案外に良く記憶している。足穂が寄宿していた絹巻省三の家の跡地に行った。坂と谷の多い歩きにくい土地で、探り当てた番地は急な石段のある場所だった。退屈なので早々に退散した。

あれから10年経過してまた行くつもりはなかった。ただ西馬込の駅前の案内板に足穂の居た(時代は異なる)場所の近所に三島の例の西洋館があることを知った。しかしその疑似西洋は篠山紀信の写真集で見れば十分である。

昼時になって、桜並木通りでランチを食べる適当な店が一軒もないので吃驚した。馬込界隈にはコンビニすらないのは、なにか小菅にも似ている。南馬込4-48-13のセブンイレブン大田区南馬込4丁目店でサンドイッチとエスプレッソを買ってそこらに座って喰う。ここらの住民は何を喰っているのであろう。周囲には住宅だらけなのに。足穂は食い物をさげすんでいるのは、「おかずのなかった文学」であったことは本人が述べているけど、唯一の例外としてこの界隈のカフェの記載があって「ハンバーグサンドイッチはうまかった」とある。足穂の膨大な著作で食い物について肯定的にかかれた短いフレーズが面白い。そこらがジョイスと共通している。

そのまま浅草線の西側、馬込貯水池を越えて新幹線の線路の周囲を徘徊する。新幹線をトレースして行けばそのまま「おんたけさん」に行ける。30年前、ある女子とこの界隈を徘徊した。その時は確か中目黒あたりから真夏に歩いたのである。あたしは精神主義者だから「ねえや」に惚れる。それでその女子の言う「おんたけさんってすごい名前だよね」の一言に惚れたのである。その後も単独で3度ほど「おんたけさん」詣をした。今回、駅前の菓子屋で「豆餅」を買った。2片で180円。この買い物も実に半世紀ぶりだ。

東急何線だか知らないが、新幹線と十文字に交差しているこの駅にはなにかローカル駅を超えた凛とした存在がある。その新幹線とのクロスのせいであろうか。しかも周囲には公共交通機関はまったくないのが凄い。足穗は戦後に雪が谷大塚に寄宿していた。当時は広大な農地であったことだろう。大田区は巨大な謎だな。

この日の東京大周遊はまず、清澄白河から都バスを乗り継いで、亀戸。そこからまた都バスでしら髭橋経由で、水神前から隅田川を渡って千住汐入。この界隈の地形は80年代と大きく変貌して見当がつかない。南千住の駅のそばにドナウ通りあり。

南千住から都営線で西馬込について、その界隈から御嶽山まで歩行。電車にて戸越銀座に出て都営線にて蔵前から都バスで、泪橋。大林は臨時休業にて、浅草経由で佃に戻った。交通費は一日乗車券の700円のみ。

2010年4月22日 (木)

都電に乗る

1 6

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

おかげさまで再生回数4000回超えました。どうもありがとうございます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

机の上にCDがあるので、何かなと思ったらこれは数年前に岩波書店から出した「東京今昔」のデータであった。
その60年代の画像を見てたらなかなか面白い。懲りもせずにリスボンに通っているのは、ひとえに60年代の東京の都電を追憶しているのだと気が付いた。

当時の乗車賃は13円であったと記憶する。ラーメンが30円くらいした。今でもメトロの初乗りの料金の約2倍がラーメンの一番安いのと思われるから、こういう価格には法則があるのかも知れない。上の画像は銀座4丁目だ。三越が立て替えの最中である。歩行する男女は皆、思想が正しい感じがする。安全地帯という道の真ん中に出っ張ったエリアがあってそこで電車を待ったのである。今なら命がけだな。
高校時代は護国寺から17番で池袋に行き、そこからバスで志村高校に行ったり、あるいは巣鴨から都電で(番号は忘れた)で志村坂上まで行ってさらに国際興業のバスに乗り換えて通学した。
当時は都営三田線はまだなかったのである。
それで毎日、学校に行ったのは大したことであって、今では時々、大原の浜出屋に行くのは勉強ではなく酒飲みの為であるが、それでも面倒だと思うのは、やはり老化のせいであろう。
 

 

2010年4月21日 (水)

東京大周遊「目黒の一本道」

Img_0198 Img_0199 ★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

おかげさまで再生回数4000回超えました。どうもありがとうございます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

目黒という地名は自分にとっては異世界である。それゆえ、その磁場に惹かれて最近よく行く。まず目黒線の目黒の先の武蔵小山駅で降りて歩行するのが、自分のような「目黒初心者」には向いている。それで南下して一大商店街を抜けて、「くりこ庵」の@130円の鯛焼き方面に行くか、北上して「月光町」から学大に抜けるかの人生の二者択一の道がある。
この前の東京大周遊は北上した。
適当なところで「えい!やっ!」とばかりに「目黒の一本道」に入ってまっすぐにまっすぐに歩き始めた。この一本道の不思議さは、狭い路地であるにもかかわらず、それが視線の尽きる所まで続いていることにある。すなわち「消失点」がある。これが不安感をかきたてて、それが快晴の午前11時であったりすると、それこそ命のある限りその一本道を突き進むのが自分の任務であると錯覚してしまう。よく大量の鯨が海岸に打ち上げられたりすることがあるが、これも似たような「海中の一本道」に拐かされるもではなかろうか。
ここは目黒本町5丁目から3丁目界隈だが、この目黒本町のエリアは東京のすべてのエリアよりも広大ではないかと怪しまれる。
その一本道の途中にはこのような、まるで深層心理学のテスト教材のような「ご自由にどうぞ」という画題の「物品の陳列」があったりするし、カツラの広告がバス停に鎮座していたりするので、界隈はますます「柘植義春」めいてくる。Img_0202

2010年4月20日 (火)

石かれい

Img_0193 ★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

おかげさまで再生回数4000回超えました。どうもありがとうございます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

カレーの方は大好きで、数年前にはインドのデリーに「カレー武者修行」に出かけておおいに自信をつけてきた。最近ではエチオピア中毒になって、週に2回は70xを食べに行かないと落ち着かないという日々である。
あたしは一度、食い物に凝るとそのままそれを喰い続ける癖がある。昨年末には銀座のYZKMYで一日置きに蕎麦でいっぱいやっていたが、それは沈静化した。午後4時半からというのはヒルズの戻りに具合が良かったのだが、それが5時になってから足が遠のいた。向こうはこっちの時間帯に合わせて営業しているのではないから、それは自分に責任がある。
今回のテーマはカレーではなく、かれい。
金曜に、連載の取材で西高島平から蓮沼を回って、曇り日の午後で緑は鮮やかでまるで春浅いハイドパークを散策している気分になった。せっかくこの界隈に来たので、高校時代から馴染みの(ただし当時は都電から見るだけ)大原の浜出屋に行った。
この前、ここで喰ったイカ刺しがなかなかだったので、同行の皆さんにお勧めした。果たして良かった。刺身など、値段が高ければいくらでも良いのは喰えるのであろうが、それは面白くはない。ライカも刺身もコストパフォーマンスが大事だ。その日はお品書きに「石かれい」とあった。だいたい白身の魚は東京では食わないのだが、試したらこれが抜群だった。それで4皿頼んで、つくずくと自分の不品行が恥ずかしくなったがうまいものはうまい。最初はわさび醤油で喰ってたが、それではもったいないと思い、食塩をわずかにかけてみたら味が引き立った。さらに一味を加えたら日本の喰いものとは思えないような超絶感覚が出てきた。最後の一皿はまた普通に刺身醤油で喰って満足した。ここで凄いのはその代価が@400ほどなのである。こういうのが本当の食い物文化というのであろう。
おかげで、この日は名物の焼き鳥の方面にはほとんど手が回らなかった。
また行くぞ!浜出屋。

2010年4月19日 (月)

チョートク佃日記2001年5月31日ー6月5日「立ち読み見本」

Top ★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

再生回数4000回に迫る! 感謝!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

以下は近日中に刊行予定の「田中長徳佃日記2001-2009」の冒頭の部分。
毎日更新の「ペンペンチョートクカメラ日記」の最初の部分にあたる。ただしあたしの個人雑誌だった「カメラジャーナル誌」掲載時代だから紙の上の日記である。

東京キララ社からごく少部数(250部ほど)で、オリジナルプリントを添付する計画だ。細かい体裁価格については版元と相談中。

東京キララ社は、今までに「WIEN MONOCHOME 70s」「チョートク海をゆく」など500ページ本、1000ページ本を出している。今度の日記もかなりの厚さになると思うが、これはオンラインではなく紙の上に印刷するのが大事なコンセプトだ。

これはそのデータ見本という格好になる。刊行の折はどうぞご贔屓に。

今まで忘れていたが、日記帳の最初に、オリンパスフレックスでの撮影の記述があるのを非常に面白く思った。この二眼レフは今でも手元にあって大事にしている。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@

「チョートク佃日記 2001年5月31日ー6月5日」

★2001年

5月31日木
 満54歳の誕生日。両親を亡くして最初の誕生日を家で静かに過ごす。木村伊兵衛先生のご命日。そういえば、私の母の誕生日の5月 25日は、ロバート・キャパが、インドシナで地雷で爆死した、命日でもあった。何十年もキャパのことを思っていたのに、それを知ったのはつい数日前、25 日のワイドショーを見ていた、家人から聞いたのである。キャパも一ノ瀬も、お茶の間の話題になるような時代は、平穏な時代なのか、それとも。一日、在宅し て執筆。夜になって、空気が澄んできて、横浜方面まで見渡せる。オリンパスフレックスを三脚につけて、夜景を撮影。絞りf8で8秒。

6月 1日 金
 21世紀初の「写真の日」である。その由来は、大昔に聞いたけど、忘れた。午前4時半にライカの声(注・セキセイインコ)で起こされ、 昨夜、そのままであった、ベランダの三脚上のオリンパスフレックスで、早朝の東京ベイを撮影。絞りf8、1/100秒。モノの形にすべて陰がついているの が奇跡のように思われる。それは、私が早朝の光景に慣れていないからだ。まだ、そこには行ったことがないのに、カサブランカの朝、という気分が濃厚なの は、青空の雲の盛り上がりのせいか。日本カメラグランプリの授賞式。東京写真ウィークのレセプション。どちらも欠席。終日、執筆。夕刻、銀座に出遊。夜 半、高く登った月を大型双眼鏡で観察。

6月2日 土
 湿度高し。ライカM3(オリーブ)にエルマー35ミリ、エルマー50ミリ、 セレナー100ミリを携えて、九段下、牛込から神楽坂を経て、江戸川橋に至る。赤城神社下の20年前によく撮影したあたりを俳徊する。町並みはあまり変貌 していないことに、一驚する。通り過ぎる若い女性はみな羽化したばかりの蝶のように見える。こういう感覚は前にはなかった。シニア世代の視神経の快楽であ る。ただし、そういう光景は撮影しないに限る。江戸川橋にて雨降り出す。撮影3本。晩餐の時に昨年空輸したモラビアのワインの木箱を開ける。夕焼けの大気 の中を飛行機が雲を引いて輝く。手元のライカに手を伸ばして、そういうモノを撮影することの無意味さに気がつく。

6月3日 日
  天気晴朗。佃小学校の運動会。つい先週にも運動会があったはずだと思ったら、それは昨年の同じ時期のことであった。イオス1vにツアイスの500ミリf8 の望遠レンズで、はるか下界の小学生達を撮影する。下から沸き上がる大歓声。応援合戦。その声は少女ではなく、少年っぽい声音なのが良い。ウィーン少年合 唱団は嫌いだけど、15年前、彼らをウィーンのアウガルテン宮殿に取材した時、私が聞きたかったのは、ウィーン歌曲ではなく、この日本の応援歌を彼らに歌 わせることであったのに、ようやく気がついた。これは東西を越えた「天使の合戦の声」である。日没を同じレンズで撮影。撮影3本。夜執筆。

6 月4日 月
 全日執筆。夕刻、新幹線にて新横浜。新横浜というところは、どこかその町並みが、夕暮れのヒューストンに似ている。もっとも、私の知 るヒューストンは大昔、ブッシュ大統領の父親が大統領であった時代のヒューストンである。A社の社長さん、以下、数名と会談。その後、隣接するホテルの 40階で会食。デジカメと銀塩カメラの将来についての話で盛り上がる。5年先に、今夜の話題を想い出して、一体、どのような気がするのであろうか? 新横 浜駅から遅い「のぞみ」で帰宅。

6月5日 火
 軽い二日酔い。12時に有楽町でBに会い、音羽に出て生家の近辺を散策。キートー ンは「緑陰」である。目白台から池袋に至る。散歩カメラはフランス製のフォカにレンズは28、35、135の3本。メーターは持たず。軽い曇り日で、絶好 の撮影日和。いったん、高輪に行き、再度板橋に引き返し、夕刻5時半、トプコン通りの「楠」に飲む。

2010年4月18日 (日)

21ミリで街をスナップ

Fh010037 Fh010034

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

再生回数4000回に迫る! 感謝!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

例によって佃の机上はジャングルのカオスである。数年前のCDを発見してそれを覗いてみたらなかなか面白い。これは確かライカM3にスーパー庵牛論21MMで撮影したショットである。
数年前の神田明神の例大祭の時期に撮影したということが分かるのは、画像ファイルの中にお祭りの提灯が写っているからだ。
こういうショットは長年撮っているが、自分にはやはり21ミリが感覚的にあっている。アサヒカメラの5月号に「カイロ」を掲載しているが、これもライカに21ミリのスナップだ。こういうスナップショットではすでに21ミリの視覚が自分の視神経と同一化しているのでファインダーは見ないものである。というよりこういう撮影では最初からファインダーは付けていない。
フィギュア作家の佐佐木潤一の作った、あたしの写真集「ウイーンとライカの日々」をテーマにしたフィギュアがある。それはオブジエの上に21ミリのファインダーが落ちているのである。これはその下が世界の路面の石畳でつまり世界中の道にあたしの落としたライカの21ミリファインダーの偶像化なのだ。
もうこれ以上高価なファインダーは落としたくない。それで21ミリのスナップ撮影ではファインダーは持たない。

Fh010019 Fh010018 Fh010017
 

2010年4月17日 (土)

東奔西走

Img_0073_2
Img_0094_2
Img_0098
Img_0124
Img_0125

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

再生回数4000回に迫る。感謝!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

火曜はよく晴れた。そうなるとヒルズなどに行っていられないので、東京大周遊だ。月島駅で東京フリー切符を買った。JRから都営から東京メトロまで全部乗れる券である。この前、初めて渋谷の「えん」という店で大昔の友人関係のクラス会があり、それがアルコール飲み放題で2時間が1500円なのである。いまさらながら還暦すぎて「飲み放題」とは恐縮だが、ああいうシステムは案外に沢山は飲めないようだ。6名の還暦世代が居て、麦酒が6杯と焼酎のボトルが3本というところだ。

東京フリー切符にも似た所があって、この切符の範囲は大東京の全部であるから、これを乗り放題をしようとするとタイムアウトになる。それほど東京は広い。昨年だったか、ちょうど今頃であるが、アエロフロートのエリートプラスメンバーになることを決めて、東京からモスクワ、それでその先は一番遠い場所を探して集中的に旅行した。遠いほうがマイレージが沢山つく。それで一番遠いのはスペインのマラガなのである。10年前までモスクワリスボン便があったがそれはなくなってしまったので、アンダルシアはロシア人にとって欧州世界の果てである。

さて東京大周遊の方はまず、市川に行く。それから小岩に戻って昔よく通った、しかも水曜に行ってしまって必ずお休みにひっかかる駅南のなんとかカメラに行ったら、すでに中古ケータイ屋さんになっていた。ここでは以前、キヤノンペリックスの55MMF1,2などを買ったのである。

いったん都心に戻り体勢立て直して、東西線で中野のfカメラ。観音藩座の写真機が30カメラ円プラスで出ていた。背景が真っ赤というのもめでたい。都心に戻って方向を模索していたが、武蔵小山商店街の「くりこ庵」の鯛焼きの顔を見たくなり、目黒駅を超えて長い長い商店街を歩行。その途中にライカM3をデザインした「デジカメケース」を発見。持参のペンでじたるを当ててみたらそれはオーバーサイズだったが、コンパクトデジカメ入れには良いので、一個手に入れた。中にSDカードのポッケがついているのがアイデア。

戸越銀座に抜けてその勢いにて歩行して、新幹線の高架を潜って大井町。10年前であったか、ニコンS3Mのモーター付きを持ってここらを撮影したっけ。ここですでに夕刻である。そのままりんかい線で新木場経由で佃に戻るつもりだったが、これはフリー切符の範囲外。それで値段は500円以上するので却下。

方向を北に転じてJR京浜東北で赤羽に至る。赤羽商店街のペットショップのライカインコの顔を見るつもりが、そのペットショップはお休みだった。しかしインコの声はする。向かいの電気店の二階に「鳥さんのマンション」(大きなタワー型の鳥かご)があって、そこで10羽ほどのインコが「じゃかじゃか」言っていた。

北区唯一のお化け屋敷(と、思われるが)の赤羽霊園を観察する。ここは工藤由起をモデルにした10年ほど前の写真集「東京散歩カメラ」の中でも登場している。南北線と大江戸線を乗り継いで佃に戻る。

ああ。草臥れた。

2010年4月16日 (金)

ニコンSフロント10:0

Img_0067 14日は日本デザインセンターの三馬鹿アシスタントが中心に渋谷に集まって、飲み会。連中は割合に頻繁に開催しているらしいが、あたしはとんとご無沙汰にて、おそらく20年ぶりの参加だった。
40年近く前の銀座の本社と豊田市の外山スタジオのことで話題沸騰した。
当時のクライアントはトヨタ、ニコン、アサヒビールなどの大御所であった。アシスタントで銀座8丁目のペントハウスのスタジオでニコンFとF2の撮影をしたのも懐かしい。ここではアサヒビールの撮影もあった。グラスに注いだ麦酒のカットを沢山撮影すると、脇に置いてある巨大なポリバケツがすぐにいっぱいになる。それが6割見当のうちに、えいや!っと抱えて中の麦酒をトイレに捨てに行く。これを怠ってしまうともう持ち上がらないほどの重さになる。

ニコンの撮影はタングステンランプで、あらかじめトレースしてあるセルロイド板をリンホフのピントグラスに当てて、同一アングルで撮影した。ニコンはフロント10:0。つまり真正面からが一番力強いアングルだと思った。
その10年ほど前のアサヒカメラでモノクロの見開き2頁の広告にあたしは痺れていたのである。「名はサイモン・ニコン」っていうのは、カメラマンがニコンを愛するあまり、苗字をニコンに変えてしまった話で、当のニコンさんはケープカナベラルでモーター付きのSPにレフレックスニッコール1000mm f6,3を付けてその後でにっこりしていたりする。これがなかなか良かった。やはりニコンの全盛期は60年代だ。そのアサヒカメラの広告シリーズでよく記憶しているのは、オーストリアからオーバーホールの為にニコン本社に戻ってきた、Sというのもあった。これはシドニーのフィルムラボで複写用に酷使されていたという触れ込みのSなのである。複写用の割には、グッタペルカがぼろぼろで、しかもトップカバーは傷だらけなのは不思議であったが、酷使されたニコンSに美学を感じるようになった、これがその最初である。それから20年近くなって、銀座のキャパの展覧会に「血染めのニコンS」が展示されていたのも懐かしい。このニコンは後に「秘仏化」されてわれわれの眼には見えない所に行ってしまった。

2010年4月15日 (木)

職質

Img_0068

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/2010/04/100402.html

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

先週の木曜の午後、北千住駅の構内にあたしと福田和也さんと週刊新潮のなかしまさんが居て、なかしまさんはトイレ休憩に行ったので所在なさそうにわれわれ男連は構内にただただ突っ立っていた。
そこに向こうから数人の制服警官が来た。その中の一番若いハンサム警官がまっすぐにあたしに寄ってきて、「すみません。千住署警ら課の山田と申します。職務質問よろしいでしょうか」と言ってきた。

山下洋輔さんが彼の本「ピアノ弾き跳んだ」の中でウイーンで会った29歳当時のあたしのことをかなり危険な人物と書いている。(その次のセクションはまだデビュー当時のタモリさんというのだから、これは古い)だから最初は新人警官のこれは職質練習だと思った。

これは日本だから信用したわけだが、海外でこの手のポリスのアプローチは全部偽警官である。1982年夏、ミュンヘンの中央駅でたしかニコンのロケの仕事であったと思うが、日本人のデザイナーの男性と夜、歩いていたらミュンヘンのあんちゃんが(すでにかなり酔っていた)2人接近してきて「おれたちゃ、ポリツアイだ!パスポートを出せ!」と言った。彼の見せた警察バッチめいたのを見たら、単なる運転免許証なので「へえ、独逸では何時から免許証がポリスの証明書に変更になったんだ。おもしれえ!一緒にそこの警察で話しを聞こうじゃねえか」と言ってやったら向こうに行ってしまった。

しかし今度の北千住構内のは本物の警官らしいので、ちゃんと話しを聞いてみるとなんでも失踪者の届けが出ているとかで、あたしがそのじじいに似ているから証明書を見せろというのである。それでJPSとオリンパスのカードを見せて「ああ、たなかさんですか。お住まいは?ああ、中央区ですか」となって「ご苦労様です!」で無事に終了したわけであるが、残念なのはこの3年の間に2回ほど、お巡りさんに声をかけていただいたが、一昨年の新潟では「おじいちゃん、今日は年金の振り込み日だから、振り込め詐欺に気をつけてね!」であったし、先週のは届けの出ている失踪したじじいに似ているというのである。
ちょっとがっかりだ。

ただ、この2枚のカードの写真を見ると、上のは1983年当時の撮影でいかにも爆発物など仕掛けそうなどう猛な顔をしている。それに対するに下のは、ごく最近の顔であるが、これはお巡りさんでなくても、まさしくどっかの徘徊もしくは失踪老人である。

2010年4月14日 (水)

遠藤君を囲む会の会費用の千円札

Img_0069

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

ハノイの裏町の市場で何かの買い物をするときに、ぼろぼろの1万ドン札を取り出したら露天のおばちゃんに受け取りを拒否されたことがある。あまりにぼろの紙幣であるので「こんなのはドンじゃない!」と言われたのである。あたしなどはお金は数字だと思っている。現金に縁のないせいである。
会合などには行かないことにしているが、どうしてもはせ参じる必要のある集会がたまに巡ってくる。4月14日にはクラス会がだぶってしまった。ひとつは都立志村高校の同窓会で、この前にはクラスメートの還暦前に開催したのである。もうひとつは日本デザインセンター時代に「三馬鹿アシスタント」と言われたのは、あたし、青山、遠藤の三人だがその遠藤がLAから戻っているので、一夕、遠藤君を囲む会をすると勧進元からメールが届いた。翌日、タッチの差で志村高校の同窓会の勧進元の中西君から手紙が届いた。ファーストカムファーストサーブシステムであるから、高校のクラス会には欠席届を出して、三馬鹿アシスタント保存会の方に行くことにした。
その会場は渋谷の「えん」で会費は5200円である。漠然と想像していたのよりかなり安い。そのHPを見たらこれは宴会のセット料金の安いのから2番目であって、これが3700円で、これに2時間の飲み放題のセットがついてトータルで5200円になることが分かった。勧進元が参加メンバーも「功成り名遂げた連中」だから最低ラインでは相応しくないと考えたのかも知れない。

あたしはチエーン系の居酒屋には根性がないので入ったことがない。それでこういう社会体験を出来るのはやはりNDC時代の縁というものでありがたい。
ところで新刊の「田中長徳ペンの本2」にも書いたけど、この2月のリスボンでは、人生初めて掏摸にやれらて、1月のジュネーブサロンの時の使い残しの50
スイスフランを掏られた。その後、3月に今度はバーゼルに行った。その時の使い残しのスイスフランが90ユニットあることが分かった。5月10日からのリスボン再訪問でまた掏摸にあって、このスイスフランを掏られるのはしゃくである。それで掏摸にやられる前にもっとも有効な使い方をしようと、タワーの5fにある銀行に行った。90フランに30円を足して受け取ったのが日本円ピン札の1000札が7枚。500円玉が1個。いきなり財閥になった気分である。この資金でどっかの会社でも買い占めてやろう。明治時代なら可能だな。でも大切なお金は上手に使いたいので、この日本円はそのまま封印して遠藤君の会の会費に充てることにした。
ハノイと同様に、日本藩の藩札の価値が減耗するといけないので、会費支出までこのお札は折らない。なにせスイスから駆けつけたお金である。

2010年4月13日 (火)

クラブエダムの大饗宴

Img_0062

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

再生回数3000回に迫る。感謝!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

思い立って胸の振り子さんに会った。この人はこの前のあたしの高千穂画廊の講演会に来てくれて、あたしの1,5メータまで接近して、キヤノン4SBにジュピターで撮影してくれたのだが、お顔がキヤノンに隠れて見えなかった。これは問題なので、ヒルズにおいで願ったわけである。振り子さんは社会人で循環器系のお医者さまであって、名刺がないからとご自分の身分証明書を見せてくれた。それに対抗してあたしは初対面なので「あたしは左軸変移という者です」と自己紹介した。これが医師を患者の関係だ。しかしなにも振り子さんに往診に来てもらったわけではないので、そこで話しを打ち切ってカメラのことになった。彼の持参したフェドが非常に若い番号だと言うのである。111110じゃそれほど若い番号ではない。いや、あたしは父譲りの乱視である。よく見たら11110だった。桁を読み違えたのである。これは凄い。
2時間のカメラ馬鹿話しは面白かった。振り子さんはあたしのカメラ本を読破しているだけではない。写真集もほとんどお持ちであって、「ウイーン・ニューヨーク・新潟」などは二冊も持っている。そのうちの1冊はブックオフで最近買ったそうだ。その価格500円。恐るべしブックオフ。

もっとも北井一夫さんは例の稀覯本の巣木偶のパノラマ写真集を神保町で500円で手に入れている。その本を見せてもらったが、それがチエコ人が日本の女性に贈ったもので、日本女性のファーストネームが巻頭に書かれていた。

そのまま、会場をクラブエダムに移して、大饗宴となった。メーンテーブルの上で酒池肉林のカメラ宴会だ。これは羅馬人の大歓楽にもひけをとらない。もっとも羅馬時代にはカメラがなかったから、刺激が足りずに連中はコロシアムで殺し合いなどを肴に酒を飲んでいたのであろう。不幸な連中であったな。

2010年4月12日 (月)

キヤノン4sbの銅像のRF窓のリング欠けについて

Img_0031 Img_0056

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

キヤノンの銅像がカメラ店や写真家に配布されたのは30年ほど前であったか、キヤノンの生産台数が何億台になった記念であった。細かいことは忘れた。
到着した当時は生々しいブロンズであったのが、30年近く経過すると良い色合いに古色が出ている。この銅像も問題点は、レンジファインダーの窓の飾りリングがないことだ。中古カメラ店などで、このリングの欠品のやつは値段が安い。だからあたしのようなキヤノンのRFファンの場合、このリングにこだわるのである。
それで、この銅像が到着した時、偉大な偉業の達成記念なのに飾りリングがないのはあまりといえばあまりなので、腹を立てた。まず例えれば、レーニンの銅像のズボンのチャックが下がっていたようなものである。
これが30年前の話しだが、最近、この銅像をカメラ店で見たりすると、そぞろその昔が思い出されるので、年をとるとそういうことはあまり気にならなくなるようだ。でも、キヤノンの4sbとか2Dとか2bとかは今でも使っているが、やはりあたしの持っているこの時代のキヤノンはちゃんとRF窓には飾りリングが付いている。
気になるのは、この銅像を造る時、まだキヤノンには4sb時代を知る関係者さんが居たはずだがなぜチエックが出来なかったのであろうか。これは謎ですね。

2010年4月11日 (日)

今様、映画撮影スタイル

Rimg4214 http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

佃から出かける時、満開の桜の下で3人の男連が立っている。男が数人立っているのはこの世界ではありがちなことで、それは不思議でもなんでもないが、真ん中に三脚があると「何か悪だくみ」をしていることは必須なので、脇を通り抜けつつやはり見てしまう。写真撮影を長くやっていると、写真を撮ることは「見えない窃盗」なのではないかと思う。「仙界異聞」によれば、天狗とか山人は里に出てきて、村人の所有する食物とか食器などを勝手に使っているのだが、人間の方から見ると、その食物なり、食器なりは、見た眼には無くなったり減ったりしていない。写真撮影というのも何か似た所がある。「ええやないか。減るものでなし」という言い方もあるかも知れないが、風景なり人物なりを撮影した場合、何かが確実に減摩している可能性はある。だから昔の人の写真術に対して「魂を抜かれる」との禁忌はあれは迷信ではなく、直感での洞察であって鋭いと思う。

それで桜の下の三人衆を1秒だけ観察してすぐに分かった。最初は写真学校の実習と思ったのは三脚の上にデジイチが載っていたからだが、三脚は安物だけどヘッドはプロ用のザハトラである。これはそこらの放送学校の実習かと思った。さらによく見ると、左の男性はゼンハイザーのショットガンマイクにライコスのウインドジャマーを付けているので、これでようやく彼らが職業人であることが判明した。

このサウンドマンの機材はまったく同じモノをあたしも所持しているのである。

デジタル一眼でのムービー造りが経費のないプロダクションの機材の定番なのは仕方ないとして、映画創りはやはりフィルムの方が「格式」があると思うのはこれは古い考えなのであろう。1976年のフォルカー・シュレンドルフ監督の「とどめの一発」のロケは寒中のオーストリアの田舎で撮影したが、キャメラは当時は最新型のアリフレックス35BLであったし、それを取材に来た独逸第二放送のクルーのキャメラはエクレールACLであった。いずれも高価な機材であってそういう機材が尊敬されるような時代でもあった。それに引き替え、最近の映画屋さんはどうもお手軽すぎていけまへんな。

2010年4月10日 (土)

去年の春、巴里で、ズマレックスで、カラーネガで 2

89550035

Img_0057 ★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams

http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

この前、パリに行ってからもう1年か。パリに買い物に行くつもりもないし、ルーブルに行くのもいやだし、高級ホテルなど若い頃に取材で色々見せてもらったからもう沢山だが、路地裏散歩のパリはやはりいい。それも70年初頭のレアールが大改築されていた当時のパリのことがまだ自分の記憶に残っているので、パリの裏町を歩行しつつ、40年近く前のことを思い出すのが愉快だ。その愉快さとは20代当時の自分の記憶のパリとはまったく異なるパリであって、じじいになると時間軸が上の方から距離感を持って見渡せるので、パリも数十年のフィルターを通して多重構造に見えるのだ。そういうじじいの楽しみがあるわけだが、この秘密は20代の時には想像もできない消息であった。
四半世紀前にはパリの高級ホテルの事情には自信があった。今はパリの安宿に自信がある。要するに一つ星なら最高だが、最近では一つ星ホテルなどなかなか発見できないので、やむを得ず2つ星で我慢というのが、最近のホテル選びだ。2002年当時はもっぱらピガール住まいで黒猫屋旅館に宿泊していた。安いけど周囲の治安はよくない。それはそれで良かった。その宿屋が大改装されて今では高くなってしまった。高いなら本当に高級な宿屋に泊まればあきらめがつくが、中途半端に高いのはいやだ。それで黒猫屋はやめて、最近は北駅の側の名前は分からないなんとか屋に泊まる。その最上階の部屋はちゃんとスイーツになって(部屋の真ん中に仕切りがあるという意味)いて、窓はプラハのアトリエと同様に斜めになっていて、向かいのパリの屋根と複雑怪奇な煙突が見える。こういうのは最高のパリ気分だが、ライカM4に持って来たレンズが21ミリから50ミリなので、もう少し長いレンズが欲しくなり、バスチーユ付近のライカ屋に行ったら、手頃なズマレックス85MMがあったので手に入れたことは昨年の今頃の日記に書いた。今、よっくもっく上の画像を見ていたらその時の画像があったので、それをアップして、ぞぞろパリを懐かしんでいるわけだ。

89550026

こういう宿屋の鑑賞のポイントはベッド関係だ。ケットなどはすでにボール紙化していて、触ると分解しそうでそこには埃及の古代裂布の風情がある。ここまで行かないと本物とは言えない。くだんのズマレックスをF1,5の開放で撮影したのがこの画像である。10日パリに居て、このレンズを開放で撮影したのは、この一回だけだ。その意味で大口径レンズを使いこなしていないことを痛感する。でもライカのレンズは大きくて重いのが本物であると痛感している。

2010年4月 9日 (金)

福田 巌本 岡倉

Rimg4241Rimg4234

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

木曜朝の「とくだね」で「福田さんがつまらなそうな顔をしているから見たら」と家人が言うので、ベッドから出て家人の部屋に行ったら、福田和也さんが今しも「大学もはじまったし、つまんない」と小倉さんのふりを受けて「退屈そうに」話していた。それで急に福田さんに会いたくなった。
twitterを開いたら、ガムテ作家で週刊新潮記者のなかしまさんが書き込みをしている。「今日は福田先生と染井の墓地の福田英子のお墓の前でランデブー」とあった。それでGoogleで、染井、福田英子とぐぐったら、トップが福田さんの書き込みで、「ライカA型もって染井で福田英子の墓に云々」とあった。文化人の行動予定がわれわれ、アルカイダに筒抜けだ。その意味で最近のgoogleはかなり信用できる。

なかしまさんに取材中にお邪魔の失礼の段をお詫びして、できればそこで福田先生にお眼にかかりたいとメールした。その諾否を効かずにその足で「東京大周遊」に出かけた。こういう好天では、ヒルズの49fのエアコンの効いた所には居たくないのが人情である。春日で来たらなかしまさんから、福田英子の墓は染井の1種イ4号11側であると、メールが来た。墓地でランデブーとは何とも宇宙的だ。

福田さんの見える予定時間の1時間前にくだんのポイントに到着した。あたしには調べたいことがあった。ウイーンから戻った直後の1981年当時、あたしは自転車狂いで「自転車日記」なるものをつけていた。毎日100キロ走行しないと落ち着いて寝られなかった。よく染井の釈天心の墓の前で怪しからんことをしていたのである。そこに腰掛けてランチを食っていたのだ。天心のお墓はモダンで実に素敵な椅子なのである。若気の至りでとんでもないことをしたと、その直後に写真家の岡倉さん(天心の御関係者さん)にそのことを詫びたら、「それは先祖もよろこぶから、気にするにはおよばない」との有り難いお言葉だった。

29年前のことを思い出して、染井の案内板を見て驚いた。福田英子と天心はほとんど並んでその墓がある。さらに巌本真理の墓はその間にある。福田英子の隣の隣が巌本でその隣は岡倉なのだ。福田英子のお墓は知らなかったが、天心と巌本のお墓は異なった時に訪れていた。巌本真理はなくなった翌年かであったから、まだ白木の墓標もま新しく、そこに「巌本真理の墓」と墨黒々と書かれていた。それが30年近く経過して見れば、墓標は高さ40セントほどになって、それもほとんど朽ち果てている。そのことに感激した。短い墓標には頭に黒い屋根のようなものが付けられていた。

釈天心の墓は真四角な墓石の中央は短い草やコケが生育している。松葉がそこにコントラストをなしてそれだけ見ているとそこに世界を感じる。その地図にしばらく見入っていた。それで今の染井の墓地は快晴で世界全体が桜の満開なのである。なんとも言えない幸せな気分だ。

福田英子の墓石の向かいのお墓に座って日差しを浴びていた。しばらくして墓石の影からまるで女子探偵のような姿で、なかしまさんが登場した。しばらくしてなかしまさんが登場したのとはまったく異なる方向から、さっきTVで見た見覚えのある仕立ての良いジャケットを着た福田さんがまっすぐに歩いてきた。あたしが帽子をとってお辞儀したら、福田さんはちょっと照れたような笑顔になった。 Img_0046Img_0048

2010年4月 8日 (木)

水銀をバックにして桜を撮った

P4067807

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffichttp://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

今年の桜は天候不順で長く楽しめた。
ただしその楽しみ方には、自分の場合、日本的なところがちょっと欠けているかも知れない。ウイーンのドナウカナルで毎年、早春に咲くのが山桜である。どういう植物の特性かは知らないが、これが他の春の植物よりずっと早咲きである。復活祭よりはるかに前に咲くのだ。夕暮れのウイーンの闇の中に白く燃え立つような、桜はこれは日本の情緒ではない。ウイーンの桜としか言いようがなかった。
これが70年代の親しい桜とすれば、80年代の桜は、マンハッタンの向かいのニューアークの春である。かなりの公園の敷地に桜が満開でその桜は、ポトマックと同様に日本から贈られたような話しだったが、古いことで記憶は定かではない。面白かったのは、そこでアメリカ人が日本的な花見をしているように見えたのは、あれは錯覚であったのか。桜の満開の下でのピクニックは、これは日本の花見なのか、それとも桜に「特別な意味」を持ちたがる我々の錯覚なのかそれは不明だ。
日本の桜を撮影する写真家の仕事は無名、有名を問わず興味はない。日本のパスポートを持っていることが、この場合のマイナスファクターになってしまっている。
そういう桜の磁場から自由なのは、ただリー・フリードランダーがあるのみだ。彼の撮影した桜は唯一、バラ科の灌木という植物学的存在に肉薄していた。

佃のベランダからこの時期に下を見ると一面の桜の絨緞だ。桜は下から見ると太陽光の方向で明るくも暗くもなる。ところが上から観察すると、一様に照明されるのでそれはない。だから退屈であり、撮影しようという気にもならないのは、およそ世間で開花前に公開されている桜の画像は、例外なく1年以上前のストック画像であるということもその背景にある。

ペン2に135mmのノボフレックスレンズで何気なく、逆光の河面をファインダーに入れたら、その水面がまるで水銀のように光った。それで小学校の当時、家にあった水銀の小さな瓶を思い出した。そこに指を突っ込むと、現実にはあり得ない反発力で指が押された。学校から戻ってその瓶に指を突っ込むことを、密かな楽しみにしていたという半世紀以上前のことをにわかに思い出した。あの水銀の瓶は少年時に失われたモノに中で一番、残念に思っている宝だ。

2010年4月 7日 (水)

ブルーシート

Img_0008

★フォトシネマ★ チョートク「リスボン旅行記」× 陽 香&Traffic Jams http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

★御礼 チョン!! とざい、とうざあーーーい!!オリンパスギャラリーでの個展。ペンペンチョートクカメラ日記 IN リスボン。千秋楽にございます。チョン!(拍子木の音)

田中長徳写真展 オリンパスギャラリー東京には多数の皆様のご来場まことにありがとうございました。「ペンペン化学反応」に関わってくださった企画の皆々様、坂崎幸之助さんの「友情出演」に感謝します。★

花見の定番のブルーシートは、あたしが帰国して最初の花見体験の時にはまだなかったような記憶がある。当時の定番は茣蓙であって、これが江戸時代の緋毛氈に一級くだる庶民の花見の敷物であったのだろう。

工事用のブルーシートを日本の花見風景の基調であることを発見したのは、写真家の小林のりおであろう。

この青というのは桜に対しての青空の色相ではなく、色は似ているがもっと不似合いな色の方向である。その理由は殺人事件の時の捜査員が、遺体を搬送するときに、周囲をこのシートで目隠しをしつつ、しずしずと進行することにある。

ただし、そういう場面を生で見た人は少なくて、大抵はTVの二次体験のはずだが、あたしは隅田川河畔に棲んでいるので、あるとき溺死体を収容して関係者がそれを四方から囲んで移送するシーンに遭遇した。というよりバルコニーから見ていたのだ。ただ、そのシートの色はブルーではなかった。でもそれなら何の色であったかと問われるとそれが答えられない。青ではないというのが唯一の記憶のキーワードであるのに、その色は記憶から飛んでいるのだ。ようするにブルーシートがそのまま桜の樹の根本には死体が埋まっているという、われわれの共同幻想を否定するには十分な色相の変移があったわけで、これは色彩効果というべきなのだ。

そこここに敷きならべられたシートには、かなり強烈なサインの暗示がある。それが使われる前には、そこに座るべき人間が「不在」である。そのことはそのままそこに座る人が遺体でブルーシートで隠されているという隠されたシンボルでもある。年に一度のお花見はブルーシートのおかげで、逆に我々の「生」を浮き上がらせているわけだ。

2010年4月 6日 (火)

本場、月島のお花見

Img_0013 http://twitcasting.tv/chotokutanaka/movie/94582

http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

 日本に帰国した翌年、1981年のお花見に呼ばれて行った先は四谷の土手であった。慣れないのとそれまで棲んでいたウイーンから東に1万キロも離れた極東であるから、あまり居心地がよくなかった。それに花見時は冷えるのである。あたしと家人と、それから長年のパリから戻ったばかりの翻訳家の3人がまだ日本の習慣に慣れていないので、浮いていたのである。あれから29年が経過した。

月島のクラブエダムの花見の宴が、4月4日、復活祭の日に挙行された。月島の水路の親水公園状の階段を会場に設営したのである。
開始は11時で、ツイットキャストで酔っぱらいのあたしが収録したので、ひどい有様であるが、通常のケータイの電波でムービーを撮影すると、湾岸戦争の当時、チクリットでフォックスTVのライブカメラが武装勢力の攻撃を受けた時の、あの差し迫っているようで、それでいて間の抜けた襲撃時のライブの「パラパラ漫画感覚」を思い出した。あのニュースはパリの安ホテルの部屋で見たのである。なにかスムースなアクションムービーより、このコマ落とし感覚は、ちょうど静かの海に着陸した探査機の雰囲気があって格段上である。
宴の半ばで横笛が登場した。元・笛吹き童子の演奏がよかった。そのライブは「世界で3人は見てる」とあたしは言ったのだけど、後で調べたら本当に3人だったのは笑った。ツイットキャストの酔っぱらいカメラマンは、ステデイカムなしの移動ショットで橋の上にまで移動撮影するのだけど、そこからの笛の音もなかなかいい。これは和笛だから良いのであって、これがフルートやクラリネットでは駄目だ。
結局、通算7時間呑んだ。もっとも喜界島の焼酎であったのだから、悪酔いなどしやしない。それでも佃にもどって12時間も眠ったのだから、それほどにお花見のインパクトは凄かったわけだ。

2010年4月 5日 (月)

子供用スピグラ

P3307740銀座のカメラ屋さんに行くために、銀座駅にきた。その前に丸の内線の地下通路にある「からなべ屋」というカレースタンドが4月末で閉店というので、そこのうまくもないカレーに「飛び辛スパイス」を沢山かけて食べた。その店は前身がコックドールと知り合いから聞き、さらにその前は甘味処の「月ヶ瀬」であったと聞いて感慨を深くした、月ヶ瀬は少年時代の銀座では外せないコースになっていたのである。当時、銀座に行く時には母親が「余所行き」の服を着せるのでそれが嫌であった。あれから半世紀経過して、銀座を歩行するあたしは、いふぉんの電波が圏外で使えないので、いつもアップル銀座の脇でWIFIを無断使用の労働者である。着ているものも10年一日。

メトロの階段を登って銀座教会の脇に出るあの出口も日本デザインセンターに3年間通った当時と同じコースである。銀座はメーンストリートは女子供向けの南蛮ショップになってしまったが、案外に角角は40年前のデテイルが保存されている。まあ、リスボンなどはその10倍の時間スケールで昔の町が日常になっているから40年ほどで安心はしていられない。

それでこの「子供バンド」の広告板に出会った。往年の報道カメラマン愛用のスピグラを皆、手にしている。子細に観察するとv6というロゴの右に居る少年の構えは一応合格だが、他は全部ぺけだ。こういう演出は関係者の中にカメラ好きが居ることが分かるので、楽屋ネタ落ちであるが、まずわれわれ世代を楽しませてくれる。世の中には子供用パスモというのがあるそうだが、これは子供用スピグラ。

2010年4月 4日 (日)

骨拾う人に優しき菫かな

P3307717 http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

都営荒川線の東池袋からちょっと大塚方面に歩いた場所に都電の線路の柵の一部が切り欠かれている箇所がある。3年ほど前、日本路地裏学会の桃木会長とこの界隈の路地裏調査をした時に、偶然発見したのだが、ここは普通の散歩者はちょっとこの場所を発見するのは困難であろう。ごくごく普通の東池袋の迷路の先の行き止まりの風情の奥に件のスポットは存在するからだ。
若草色の柵がそこだけなくて、中に入ると鉄色をした東京都のマークを浮きだした蓋があって、その先はいきなり銀色のレールなのである。そしてそのスペースが菫の一大群落になっていた。
これは気が利いている場所というので、戯れに「轢死者の為の花園」と命名したが、あれが3年前のことでそれから知り合いとか知人のまた知人で数人の自殺者を数えているから、この命名は逆にちょっと悲惨に思えてしまう。実際にはそのことなど完全に忘却していたのを、数日前、ここに知らず知らずのうちに迷い込んで、そのことを思い出したのだ。実際には緩速な都電荒川線に飛び込む人間も居ないであろうが、この時期に電車の遅れの案内で「人身事故」という表示は不親切である。単に「テクニカル・リーズンにより遅延」でいいのではないか。菫の数は3年前に比べるとかなり減っていた。P3307719

2010年4月 3日 (土)

リスボン1980・リスボン2010

R1180077 P2185143http://fotopus.com/style/catch_up/#entry03

★緊急のお知らせです★

今日はマイクロ4/3の日です。

それを記念して本日、午前11時と午後2時から、神田小川町のオリンパスギャラリー東京の、あたしの個展会場でトークショーあります。入場無料先着順。是非、覗きに来てください。お待ちしてます!

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka

上の画像は30年前のリスボンでモノクロで撮影したスナップだが、どこに発表したのか、その媒体のことは大半は忘れてしまった。ひとつ記憶にあったのは写真集「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社)の中で、1頁の中央にわざと小さくレイアウトして使った記憶があった。他にこの画像をどういう媒体に使ったのかそれが思い出せなかった。人間の記憶はいい加減だけどその中でもかなりはっきりしないのがあたしの記憶だ。
たまたま手元の画像ファイルを見ていたら、その30年前の市電のショットが出てきた。これはフジフィルムのモノクロフィルムと印画紙の広告なのである。A4サイズの観音開きの立派な型録だが、何時の時代のものであったか。かれこれ10年は経過、いやもっと前のものかも知れない。当時、あたしは断続的にフジフィルムの広告に登場していたが、それはモノクロの感材の広告だった。さらにモノクロの3本パックの中に小さい冊子を封じ込んでその冊子があたしの「モノクロの薦め」であったこともある。
その30年前のショットと同じカメラアングルがこの前の2月のリスボンのショットなのであるが、こうして比較して見たら、やはりあたしの記憶はかなりいい加減で、その自分の立ち位置などはかなりずれていることが分かった。
それにしても1980年と2010年ではクルマの数が圧倒的に違う。30年前は秋でこの前は冬だったから、樹木の茂り方は異なるとは言え、変わらないのは石畳の上を行く黄色い市電だけだ。

2010年4月 2日 (金)

豊島区日ノ出町の裏

P3307727

豊島区東池袋は昔は日ノ出町と言った。都営荒川線は王子電車と呼ばれていた。あたしが運転免許をとったのは今のサンシャインのある場所で当時は巣鴨プリズンだった。クルマの稽古をしていると、向かいのプリズンの運動場から人の姿が見えたりした。この界隈を「水窪」と呼んだとは、土地の古老の話だが、窪地でわき水の出るような地形であったのか。

リスボンのアルファマの界隈の28番の黄色い市電が通る狭い路地に「カフェエレクトリコ」という名前の小さいカフェがある。その階上の小部屋に棲みたいと30年来思っているのだが、思っているだけでいまだに実行しない。東京なら市電が走っているのが日の出町界隈だから、その裏手あたり、このアパートも気に入っている。こういう場所に住みたいと思って実行できないのもこれも30年来の話しだ。このアパートは崖下にあって、建物の裏手はちょうど2階高さになっている。こういう複雑構造であるから裏手から入ると、2階が入り口というのだが、この階層のフェイントは坂とか崖の多いリスボンとか東京には珍しくもない。

P3307729 ただし、この建物で気に入っていたのは、裏の崖の上から崖下にかけて「私道の梯子」が用意されていたことだ。20年ほど前、実際にその梯子で崖の上に抜けたり上から崖下に降りたりするのが楽しくて、もうその目的の為だけに日ノ出町に行ったのである。数年前から安全性の見地からであろうか、その梯子はまだあるが通行は止められている。

でもその使わない梯子というのは、逆にその使わない分だけ「オブジエ感」が際立つのでこの前もそれを鑑賞に行ったのである。

2010年4月 1日 (木)

月光原界隈

P2033694 P2033686_2 P2033696

★最新のtwitter 掲示板はこちら。

chotoka 

東京の数多い地名で、この月光町と月光原はトップクラスに入るのではなかろうか。目黒は自分には巨大な謎である。半世紀前に「目黒のおばさん」という人が居て、都電を何度も乗り換えてその家に行ったら、右と左の目が金と銀の白猫が居た。それと目黒のさんまの二点が自分の目黒の全大圏全知識である。目黒というと中目黒とも違う範囲を指すものらしい。あたしには茫漠とした地域というより空域に思える。ちょうど北京から戻って来るときに、飛行機の窓の左側に朝鮮半島の北辺を見た時に感じるある感覚とかなり近い。

空域であるから、地名というよりも空間が夢幻化してくるのであろう。学芸大から徒歩でかなり歩いた所に三宝カメラがあって、そこにカメラを見に行くのが楽しみだが、普段はそこからまた学芸大の駅に戻るのだ。

もう10年ほど前、カメラ店参拝の後に思い立って、その道をさらに南進したら、知らない街角に鋭角が建物がY字路上に君臨していたので、これはすごい所に来たものだと感心した。その空間のありようが、どう見てもイスタンブールのそれもコンスタンチノープル時代の建築に見えて仕方がなかった。中はカフェのようなのだが、やっているのかどうかも不明。さらに感激したのはその界隈の名前が「月光町」というのである。現在では目黒何丁目とかつまらん無個性的な名前になっているのが、往年はなかなかやるな!という町名だった。町内会の事業計画の案内板もなにか歴史と夢があるように思えた。

さらに地下鉄と乗り入れしている、その名前は思い出せない私鉄の駅を通過したらその先に巨大な商店街が出現した。こういう意外さは、昨年のカイロの秋にモスクの迷路を歩行してたら、いきなり眼前にグランバザールが登場した時以来の感激だった。しかもその商店街は見渡す限りの一本道なのである。その長いストラーセの途中の右に、鯛焼き屋があった。客で賑わっていたのでそれを買った。なんでも横浜に本店のある店らしい。その先の国道を越えて、さらに行ったらようやくあたしの知っている私鉄の駅に出た。そこからJRを経由してまた恵比寿で降りて、ヒルズに戻った。

なにか世界の果てというより月まで旅行したような気持ちになった。その鯛焼きの袋についている鯛焼き君のイラストもなかなかいい。

« 2010年3月 | トップページ | 2010年5月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31