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2010年2月28日 (日)

リスボンの七つの丘

Fh000011 Img_1071 Fh0000052 30年前にリスボンに行った時はやはり10日ほど居て、それから北のコインブラの大学の有名な図書館を見に行った。そこの大学の先生と知り合いだったのである。それからさらに北上してポルトに行き、またコインブラに戻って、さらにそこから巴里に向かった。あそこの駅はコインブラAとコインブラBがある。なにか銀座の8丁目の天麩羅屋でA天丼とB天丼があるのと似て、変な感じがした。

この30年前の初リスボンは、ライカとSX70が主な機材であった。アメリカのポラロイド社にエリコ・ヴォルフという偉い人が居て、まあ彼の思いつきのような感じの依頼で山のようなポラロイドのピクチャーロールを持ってリスボンにやって来たのである。撮影した写真は皆さんに差し上げたのだから、まずSX70の伝道師だ。
一方のライカは2400何番かのD3のブラックで、そのライカはその年の11月に4年ぶりに帰国してから確か、写真家の吉村晃に譲ったような記憶がある。

レンズはもっぱらジュピター50MMの木星珠で撮影した。あとは28ミリのオリオンだった。今回の「リスボンの30周年記念ツアー」では、同じライカとレンズを持参して、それからこれは自分のようなカメラライターの悪癖なのであるが、最新モデルのペンデジタルと最古モデルのライカの撮り比べをしてみた。結果はここでは発表しない。3月30日の「田中長徳ペンの本2」で公開(というほど大げさなものではないが)の予定だ。
この画像はライカで撮影したものだが、良く写る。実際、この80有余年のカメラの発達の歴史とは何であったのかと、と改めて自問せずには居られない。
リスボンの風景はまさに30年前といささかも変わりがない。ただ当時のあたしは32歳で今は62歳であること。

いや、これは大変な進化なのかも知れない。

2010年2月27日 (土)

ライカ1204にフェド100mmf6,3で撮る

Fh000027 Fh000031 P2265863 Fh000028 今回のリスボンでは、ペンデジタルは3台持ったが、他に1925年製の古いライカも持参した30年前のリスボン行きには同様に古いライカを持参したので、今度はもっと古いライカを持って行った。30年前のは製造番号は2400番台だったのがさらに古くなって1204番というのになった。これは最近、木製珠クラブのメンバーからトレードしたライカである。

それに30年前と同じレンズ、つまりソ連製の木星珠をつけた。これはプラハかどっかの中古屋で千円でかったレンズだ。ペンデジタルでは2800カットほど撮影したが、ライカでは24枚しか撮影しなかった。にもかかわらず、ライカでの撮影を満喫した感があった。

東京に戻って、ヒルズの4fで30分で現像してCDに焼いてもらった。一瞥するになかなか良い。デジタルのぬめっとした感じがなくて、フィルムのざらっとした感じが、いかにもライカで撮影したという目ざわり(アピアランス)である。

36枚撮りのフィルムであるからまだ12枚残っているので、ヒルズに行く途中にいつもの通勤路で撮影したのがこの3枚である。レンズはこれも大昔に買った、ソ連製のフェド100mmf6,3という小さなレンズだ。このレンズの「優秀さ」は以前に出した「ちょーとく僕のレンズたち」の中で銀座通りの松屋を撮影したのがある。レンズの内部がブラックマットになっていないので、ぴかぴかで逆光だと使えないが、普通の撮影なら問題なし。巷間、ソ連製のマウンテンエルマーと呼ばれるがオリジナルよりも映りはいいかも知れない。

2010年2月26日 (金)

大学さん

R1179906 R1179907 家人の遠い親戚が堀口大学であるとはどこかにも書いたし、酒の席でも話しているが、誤解されるのはそれを「自慢」しているようにとられることだ。最初に読んだのが高校時代に「戦う操縦士」なのである。なにかの奇縁を感じるが、寧ろ家人の両親などのこれは親戚への愚痴のたぐいなのであった。家人の話では堀口大学の親戚筋である家人の周囲の人々は大学さんとその父上「くまいちさん」らとは距離を置いてあまり付き合いはなかったらしい。こう書くとまた誤解を生むが、仲の良い悪いにかかわらず、親戚というのはそういう遠い付き合いが普通かも知れない。遠くの親戚より近くの他人だ。

ここに示す2葉の写真は家人が新潟の家を整理している時にアルバムから剥がして持参したものである。重いアルバムなのでそうしたのは仕方ないが、他の数葉の中には家人の祖父が樺太で事業をしていた当時に、昭和天皇と皇后陛下がが行幸になったその式典を遠くから撮影したのもあった。昭和天皇は若い。これもセピア色のロマンスがある印画である。
さて、大学さんと父上と母上と兄弟の写真は、写真家として興味がある。まずそのサイズは9X12センチのハンドカメラで撮影したのと、その撮影方法がいわゆる「スタジオポートレート」ではなく、ハンドカメラによる「早撮り写真」であることだ。だからその流動的なリアリテイには、なにかアルフレッド・シュテイグリッツのセセッションと同様なストレートフォトグラフィの共通点を感じる。この2枚を観察すると、それぞれの写真に写っていない人が居る。その人がカメラを手にしてシャッターをきったと見るのが普通であろう。その画面の傾きなど「大道風」である。

場所はどこであろうか。
大学さんの経歴をちょっと調べれば分かることだが、研究者でもないからそれは面倒である。断腸亭は大学からの外国からの来信、交友をこまめに日録に記録しているが、その時代よりもこの大学の風貌ははるかに若いのに興味がある。少年がようやく青年に脱皮する年代に見える。
場所はホテルの一室の2つの出窓から交互に撮影したのであろうが、面白いのは高楼の下の船舶がまだ帆船である点だ。この古い写真の変色の仕方が良いのであって、デジカメのなんとかセピアモードでは真似の出来ない高尚さである。

2010年2月25日 (木)

「第三信号系カメラアイ」とは?

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twitterのことを4月号のアサヒカメラ連載「チョートクのゆるゆる庵」に書いた。もともとtwitterなら本が1冊書けるほどなのだが、それを雑誌連載の1回分という注文なのでなかなか困難であった。さっきゲラを見てそれを戻したのだけど、見開き2頁だから文字数が限られる。かなりテキストのはみ出しが出た。

ところで最近のtwitterでのマイブームは                     asmnksm                           四谷に現役作家による文章スクール&BAR開店。メニュー名に「ライ麦畑でミックスナッツをつかまえて」「老人と海とアラビアータ」「時をかける薬膳カレー」…突っ込みたい点が山ほどあるので、全部省略します http://ichigaya.keizai.biz/headline/795/

である。作家の某氏が開いたレストランというのだが、こういう料理の名前に凝りすぎなのはおおむねいただけない。大体、これを口にして注文するのが恥ずかしい。メニューに外国の中華屋みたいに番号がついているのなら、「ぞれじゃ、12番と21番お願いします」とあたしが言うと、びっくりドンキーなどでアルバイト経験ありそうな女子が、ありがとうございます!!ご注文繰り返します。「ライ麦畑でミックスナッツをつかまえて」と「老人と海とアラビアータ」でございますね!!! なんて店中に響き渡る声で復唱されたら、立つ瀬がない。そういう店を経営している作家さんとは、どういう人かと興味本位でオンライン業界新聞を読んでみると、なんでも芥川作家の量産を目指す(まだ実績ゼロ)文章セミナーの経営者だ。これってあたしの教わっている「矢野文章塾」みたいなもんか?

その人物検索サイトを閉じてから、時差ぼけの関係でちょっと魔が差して、「田中長徳」と入力したら吃驚仰天。数年前に削除された筈の「第三信号系」云々のことがまた復活している。「第三信号系」のこと。これは確かに10年ほど前の単行本に書いたのであるが、「存在しない感覚の比喩として戯れ言」としてのおふざけが、どうも一人歩きを始めたようなのだ。

★以下引用 

人物
音楽や文学などの幅広い分野の教養(ワーグナー作曲のオペラ「さまよえるオランダ人」を写真家・エルスケンになぞらえるなど)に裏打ちされている卓越した鋭いカメラ評論や、本職の写真評論家顔負けの優れた映像論及び写真芸術論、またその特筆すべき写真作品群において注目を集める。
現代の日本ではおそらく最も知的な写真家の一人で、かつ長年のヨーロッパ生活などで磨かれた抜群のユーモアのセンスを備えており、本分の仕事は、世界でも数少ない第三信号系のカメラアイを備えたシリアスなフォトグラファーである。

--------------

引用終わり。

問題は最後の1行だ。要するに「第三信号系カメラアイ」などはこの世界に存在しないのだ。稲垣足穂が「でたらめにでっち上げた用語」が後年、書店の棚の上の審美主義の辞書にそのまま掲載されていたので立ち読みで発見して吃驚したと足穂の回想にあるが、それと似たケースかも知れない。ただ一度、島尾まほさんの父上と豪徳寺のお宅でそんな「第三信号系」の話しをした記憶はあるが、それは酒の席の座興なのである。

この紹介記事を書いてくれた方には感謝したいのだが、最後の1行については、改めて議論してみたい。最近、40年前に見栄で読んだメルロー・ポンテイの「眼と精神」が色あせて出土したのである。その本の中の一節にありそうなフレーズだ。ただしメルロー・ポンテイは写真家の仕事にはまったく否定的であった。

思うに「第三信号系のカメラアイ」とはキャッチコピーとしては秀逸でもともと「一人歩き」を始めるような要素はある。まず第三という文字に個性がある。「三国人」「サードパーテイ」「第三の男」「ライカM3」などなど。

今度、ペンデジタルで「3型」が出たら、さっそく「ペンデジタル3=第三信号系のカメラアイ」とやってやろう。あ、リコーCX3ではすでに第三信号系のカメラアイは完成しているな。


2010年2月24日 (水)

リスボン。麺麭を切る人、運ぶ人。

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リスボンの中心地、ロシオの広場の南側に、ファサードが北向きのグレーの石で出来た小さい飲み屋がある。ここら辺は、大理石は普通に使われている建材だからそれが珍しいというのではない。店のファサードがグレーで、その真ん中に小さい入り口がある。それが、穴蔵に入る感じで、ここからあそこに移動するという空間感覚が良い。席は全部立ち飲みというのも好ましい。
宿屋から雨の朝にその飲み屋で麦酒と例の鱈のコロッケをつまもうと思って、店に行ったらまだ準備中で、男性がその日、一日に使う「丸麺麭」を両手にぶら下げて入って行く所だった。目算してもかなりの数だから(ここは人口は50万台である)それをペンデジタル2で、抜き打ちに撮影。創業1840と上の看板に読める。

丸い麺麭ってのは欧州で毎日、膨大な数が喰われている。欧州のエネルギー源である。
それで思い出したのは、15年ほど前のプラハへの旅のことだ。15名ほどの団体さんであたしが団長さん。ウイーン、プラハなどを徘徊したのである。ウイーンから観光バスでプラハに投宿した翌朝、ホテルのレストランの席であたしの向かいが当時のCJ誌の編集長N氏で、その隣は観光バスのドライバーさんだった。
ところであたしは長年のプラハ暮らしの癖で丸麺麭を真ん中から切ってそれにバターを付けるのである。向かいのN編集長がそれを見て、ドライバーさんにこう言った。
「ミスタータナカ、、、、パン、、、、、」

言ったのはこれだけ。それで、後は麺麭を水平に切る真似をしたのである。生粋日本人のN編集長はあたしの麺麭の喰い方がユニークなのを咄嗟の英語で言おうとしたのであろうが、考えてみれば、丸麺麭を水平に切ってバターを付けるのは、日本ではあまりない、などというのを英語で言うのはかなり面倒な言語中枢を動員する必要がある。おそらく米国でのトヨタの公聴会などよりより面倒であろう。N編集長はW大出身なのである。これはあたしの誤解であることを承知で言っているのだが、あたしの周囲のW大の知識人はおしなべて英語の文法に比較して会話はちょっと苦手という人が多い。だからそういう場合には無論、手真似で良いわけで、今回のリスボンでもあたしのメインのコミュは手真似であった。無論、N編集長の向かいのドライバーさんにはその意味が通じたのであるが、その朝食文化の相違を正確に理解したかどうかは不明である。彼はウイーンから来た観光バスのドライバーさんでこのルートは初めて(途中で古都TELCにも寄った。あの時、菅直人さんの奥様もメンバーであったことをここに付記しておこう)なのであるが、そのご本人もくだんの「ミスタータナカ」と同様に丸麺麭を水平に切ってバターを塗っていたのである。
今回、雨の日の午後、リスボンのこの飲み屋に入って鱈のコロッケの丸麺麭サンドなど食ったら、なぜか十数年前のこの些細なことを思い出したのである。

2010年2月23日 (火)

リスボンの展望台にて

Img_1029 1980年9月の初リスボンを追想するためのライカ(1204)であるが、ケーブルカーの頂上の展望台には見事な「アズレージョ」のパノラマがある。前からそのタイルの上にカメラを置いて撮影しようと思っていたのが、今回は5年ぶりに実現。本当はペンデジタル2を並べたかったのであるが、「カメラシフト」の関係でこうなった。ライカには木製珠。ペンライトには常用のズーム。まず何が来るか分からない「旅カメラ」としてはコンパクトデジカメには標準ズーム。ライカには50ミリ。何の変哲もないがこれが案外に正解だと思う。
このショットはいふぉんでの撮影。この後、1980年の往時を偲んで、ライカで撮影し、同じカットをズームでレンズの長さを25ミリにして撮影。
展望台という場所は山のようなツーリストが来るのだけど、彼らはそこに長く滞在しない。この撮影をしつつ1時間ほどこの場にいた経験からすると、普通のツーリストは(これは日本人ではなく欧州人)でも滞在時間は5分に満たない。
それが観光地の絶景というものなのだ。

2010年2月22日 (月)

本日移動日。LISHELNRT

Img_1030 本日移動日。LISHELNRT.

この画像はLIS空港でチューリッヒ行きのTAPに乗り込む機長。それでは当たり前であるが、この人はコックピットではなく、キャビンに乗るのだ。この四本線のキャプテンはよく見ると手に搭乗券を持っている。ようするに「デッドヘッド」(業務外)で移動中なのであるが、通常ならこういう場合は私服であるから見分けがつかない。それが制服なのでなにか実に不思議な感じがした。

LISHELで飛行中、ビスケー湾上空にて東京の観光ビデオを見せられ、これも不思議な感じになった。フィンエアは極東路線に力を入れているのであろうが、夢うつつで目をあけたら、見知らぬ極東の小路が機内のビデオモニタに映って、そこに「もんじゃ」の文字が読めたら日本人ならだれでも、肝をつぶすわけだ。

これより、HELから搭乗。新空港はなかなか効率よく出来ている。

SUで遅れた出発に慣れているので、オンタイムに出るのが何か不思議。飛行時間は9時間ほど。

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飛行時間9時間プラスでFINAIRにてNRT.

FINは今回初めてであったが、なかなか好印象。特に新しい空港のセクションは建築としても見応えあり。ちなみに空港のエリアはWIFIが無料であるのは偉い。

最近ではSUばかりなので、それとは異なるもっと北側の経路であるのも面白い。座席は41Lに座った。ここは非常口座席だが、機材はA340だった。行きはA330であったが、330に比べて340ではこれは非常口のドアのサイズの関係だろうか、ウインドウが10インチほど後についているので外を見るに、首が痛い。

それでもB777だと非常口座席には窓がないから、まずまず快適。

空路。隣の席の日本女性と話しをする。姉上がヘルシンキ在住で訪問したとのことだ。夏は素晴らしいから是非どうぞと言われた。あたしには古い友人で芸大から指揮者でヘルシンキに留学して今、そこで活躍中のKのことを思い出した。観光ではなくそういう訪問はなかなかいいと思う。ウラル山脈を越えるあたりまで、いろいろと話す。その人のお住まいがあたしの母親の実家の江古田界わいであるので、そのことにちょっと驚く。こういう偶然は放送作家には書けない。その女子は姉上から借りたなんとか言うフィンランドの弦楽器を大事そうに持っていた。

佃に戻る時に、木星珠倶楽部メンバーにタワーの前で声かけられる。ライカにライカビット付けた過激派で、界わいを撮影中であった。

2010年2月21日 (日)

今は昔のライカ

Img_1026 リスボン滞在最終日。今回は「田中長徳ペンの本2」の撮影で来たのだけど、30年前の最初のリスボン訪問の時のクラシックライカに木製珠付きがどのように見えたのか、それを再確認したい欲求もあった。こうして2台のカメラを並べて見て、分かるのは1980年の秋には30年後にこういう「状態」になるということは予想を超えることであったのはもちろんだが、銀塩ライカの息の長さへの驚愕である。
翻ってみれば、そのような「1925年に出来たライカがまだ使えるばかりか道具としての魅力を十二分に発揮」していること。これはどういう意味なのか考えねばならない。そのようなライツ社の「勤勉真面目」なポリーシーが後年ライツ社の経営を逼迫させたわけだ。
ライカ社の以前の社長の某氏が数年前、ヒルズに来た時「もはやわれわれに売ることができるのはブランドだけ」とは非公式な発言だけど偉いと思う。この売りはブランドだけ、というのは日本のカメラメーカーが果たせないことでもある。だから「正真正銘のライカ」などという「お言葉」が独歩し始めるわけだ。

2010年2月20日 (土)

リスボンのアリフレックスBL

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リスボン。
昨年あたりまで例えば巴里などで商業映画の撮影を脇で見物したものだが、それはキャメラがフイルムを使うことに理由があったことに気が付いた。
昨日も宿の近所でドイツのナンバープレートのついた電源車が沢山停まっていて、ロケをしていたが、キャメラはアリ製のビデオでがっかりした。
この表紙はチャドの古本屋で見つけたものだ。ここには映画撮影機の粋がある。実際にはこのキャメラをこの女子がかつぐのはかなりの重さなのだ。アーノルドリヒター社がアリBLの後にSRを登場させたのは理由がある。小型軽量はもちろんだが、NASAのスペースシャトルの乗組員のような「素人」さんでもちゃんと操作できるような配慮がある。実際に彼らが船内でアリSRを操作しているのは、無重力もあってなにか玩具のようだった。
さて、この表紙だがアリBLは反転画像になっている。実際にはこのようにキャメラの右側からファインダーを覗くことが出来ない。これがアリSRになってから、ファインダーはキャメラ本体の左右のどちらでもセットできるようになった。

2010年2月19日 (金)

リスボン。我らは「赤旗」を守る!

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ウイーンなどはかつて戦前は「赤いウイーン」と呼ばれ、カールマルクスホーフのような社会主義的理想郷の集合住宅があった。70年代だって第一党は社会主義的名前であったと記憶する。
ミラノに1985年に行った時、大規模な赤旗の行進があって、それがミラノの街に似合った。それが1989年以来、世界は「赤旗抜き」になってしまったのは残念な次第だ。主義主張ではなく、赤いプラハの時代にも、グレーの街に赤旗は恰好なコントラストをなしていた。世界の東部分での赤旗より、西の部分での赤旗の方が風景としては良いコントラストをなしている。
数日前に中心部のロッシオで赤旗の行進を見た。まず旗が小さいので迫力に欠ける。それにピクニック気分で散歩しているのは、21世紀だからまあ許そう。
あまりに楽しそうなので、これは主義の赤旗ではなく、葡萄牙の紅白歌合戦の紅組応援団かと思った。
それで思い出したのは20年ほど前に、やはりこの大通りを闘牛の牛さんが沢山行進していたことだ。あの行進とこの行進が時間が20年ずれていてよかった。

2010年2月18日 (木)

路上のPESSOA

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リスボンに持参したのはペソアのリスボンガイド一冊のみだが、これには理由があって、この宿ではWIFIが使えるから「重い紙のガイドブック」を持参する必要はない。必要な情報はオンラインで得られる。たとえば、今、一文無し(実際には30EURO持てる)で、VISAカードがこの宿屋にドイツから送られてくるのを待っている段階だが、万一未着の場合、タクシーは乗れないから、バスで行くとしてhttp://www.carris.pt/en/bus/44/ascendente/default/にて空港行きのバスの時刻調べた。普通の観光客向けの91番は始発が7時45分だからそれに乗っては飛行機に間に合わない。それで普通のバス路線を調べる。始発は5時45分。こういうことは紙に印刷したガイドでは不可能だ。
それでペソアに今回もお世話になっているのだが、彼の画像がオンラインで案外に少ない。大抵はカリカチュアにしたイラストばかりだが、ペソアの路上を行く姿はなんとかく黄昏れているのが魅力なのに、それを「かっこ良く脚色」しているのがつまらない。
なにか荷風散人の雰囲気がよろしい。ただ、彼の服装に関しては当時の普通の市民の服装である。上の画像に後姿が見えるのが、当時の普通の労働者のスタイルだ。
ところでペソアの住居はあたしの好きな28番の市電の西の終点の墓地のちょっと手前にあって今は博物館になっている。ここも狭いリスボンだから歩いて訪問しよう。目下visaカードが何時到着するか分からないので、それまでは徒歩で街を撮影。もっともこれが一番効果が上がる。

ペソアにライカを持たせたいと思ったのは、レーニン廟でレーニンさんにモスクワを持たせたいと思った酔狂よりも事実に即している。ペソアは自らポルトガルを世界に宣伝する本や雑誌を計画していたから(実際に出版されたのは詩集1冊だけ)ライカには興味を持っていたのではないか。それにこの歩行のスタイル、そのスピードは写真家のテンポである。

雨は止まない。

火曜の午後からずっと降り続いている。出発の日曜まで雨のようだ。今日の撮影は難しいことは出来ないから、ペンライト1台に常用ズーム1本のみ。それとビッカ飲むための1ユーロ。

2010年2月17日 (水)

リスボン土産の「被害証明書」

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午前10時頃、 雨の中、ペンライト持って、常用ズーム首からぶらさげてフィゲイラ広場にもう発車しそうになっている15番のトラムに乗ろうとしたら、あたし世代の数人のじじいがドアのあたりで曖昧な動きをしている。その連中の後に飛び乗ったら、箱はすいてるのに、あたしを奥に入れさせない。押し合いへしあいで、電車の発車直前に半ダースのじじいはいっせいにトラムを降りた。あたしは30年来の思いつきにて、べレムに行こうと思ったのだ。この思いつきというのは危険なやつである。
電車が走り出して胸に手を当てたら、ジャケットのボタンが外れていて、パスポートはそこにあったが、例のこのブログでも自慢している、数年来、家人が300円ショップで買ってくれた、カラフルな定期入れが紛失している。周囲の人がなにかあたしに向かって言ってるので、多分、連中は地元では人間国宝クラスの仕事師なのであろう。犯行時間はリスボン時の午前10時10分。

コルネリウス広場でトラムを降りて、雨の中をペンションに戻って、まずスカイプでAMEX VISA DINERSの順に電話してカードを止めた。今回はスカイプ持ってきて良かった。1月のいふぉん代は天文学的な請求でうろたえたのである。このカードの止め行為をいふぉんでしていたら破産である。
宿のおかみにポリシアツーリスモの位置を聞いた。取られた定期入れには現金はほとんど入っていない。右のポケットのユーロの少額紙幣の額を確認した。土曜まで市内を撮影して、日曜の早朝にバスで空港に行く資金は十分にある。
ホテル代は昨日支払ったのも良かった。
ポリシアのオフィスは れすたうらどれす広場の博物館の1Fにあって、あまりに立派なので最初は立ち入りを躊躇したほどだ。高い天井の下、2名の若い英語使いのポリスがいて、悠揚迫らずに証明書を制作してくれた。
30年リスボンに通っているが、今回はいい思い出になった、(これは皮肉な意味ではなく本心である)と言って、これから麦酒を飲みに行くよ、とポリスと握手して分かれた。
しかし考えて見るに目下「節約」が必要なので、バーに入るのは止めにして、近所の店でSAGRES(こっちの麦酒)のロン缶でないのを半ダース買った。
それで30年来始めての貴重な体験を反芻しつつ、これを書いている。
それにしても、この証明書は何か大航海時代の遺品という感じがある。文書はポルトガル語に限る。ポリスはその「対訳」をくれた。
なにかペソアのリスボン案内みたいな気がした。

結局、AMEX PTもDINERSも再発行駄目という「飛んでもないサービス」であることが分かった。高い会費をとっておきながらこれはあまりに酷い。

結局、VISAの再発行に決して、この安宿にドイツからVISAカードを出前してくれることになった。1988年、バルセロナのランブラスで、女子大生がパスポートとAMEXカードが置き引きにあった。そのトラブル解消のお手伝いをしたのだが、この時のAMEXの対応は見事でパスポートより先にカードが再発行された。しかも現地のオフィスで受け取ったのだ。20数年も経過するとAMEXのサービスはかくも低下するのか。ちなみにあたしは1985以来の会員で、カードの盗難はもちろん初めてだ。

2010年2月16日 (火)

LEICAとLITE

Img_1011 30年前と今とのテクノロジーの違いを論じても意味がないが、逆にそれが出来るのは老人の特権でもある。もっと時代が遡れば、例のフルクサス運動があった。あれはマンハッタンの電話ボックスの周辺に前衛芸術家連中が集まって、電話ボックスを綺麗に花で飾って、その周囲でダリなどが踊っていたものだったが、今にしてみれば、マンハッタンから仏蘭西に電話するのがなにが芸術なものかと思う。時代による価値感の変化。それが時間経過というものだ。
あたしの場合、最初のリスボン行きが古いライカで、今のリスボンではそれよりさらに古いライカを持参して、まずそれだけでは現代に生きている理由がないので、最新のペンライトも持参した。この2台を安ホテルのベッドの上に並べて感じるのは、この2台を見て別に時代が進化したということではなく、この画像の画質そのものにある。これは持参のいふぉんでの撮影であるが、なんとも良く写る。無論ふぉとしょなど使っていない。光の状態は欧州の安宿はもともと伝統的に、辻潤時代からホテルの電気代を節約するから、その室内真っ暗な伝統は今でも生きている。もっともこの伝統はかのヴェートーヴェン時代からそうであって、かの楽聖も大家と点灯代でもめた次第が日記に出てくる。
それでまず30年来の写真機の技術進化に驚くわけだが、ひるがえって考え直せば、この30年来の進化がそのままこの画像そのものに内包されているわけだ。
30年前のリスボンでは古いライカでモノクロでそれが写っているやらいないやら、それすら現像するまで不明だった。「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社1991)にそのときのリスボンの安宿の部屋で鏡に写ったあたしのセルフポートレートが出てくる。壁には古い古い、サラザール独裁体制が天下をとった時以来の電話機が見える。この世の中にまだケータイが登場する、これはずっと以前の話しだ。そういう電話機は固定であって、ナポレオンソロだけが無線電話を使える時代だった。今のケータイに関しては言うまでもなし。

2010年2月15日 (月)

リスボンの山と谷

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それほど広いわけではないリスボンの旧市街だが、ちょうどシーツをしわくちゃにしたような地形なので、思いの外広く感じる。あたしの宿屋のあるバイシャ地区の東は「α間」で西は「倍路有ると」であるがその西に向かう急坂を黄色い市電が登り降りするのをヴェンダースは多重露光で撮影している。あの映画のシーンでは坂の途中の市電がふわっと消えるわけである。この撮影ポイントはその市電の坂上の位置からリスボンを見た所だ。市電は19世紀末のGE製であるが、これが急な坂には向いているようである。その作動音には興奮する。宇宙的な音がするのである。リスボンの市電のダイナミズムというのは、下り坂で電車の前が「つかえそう」な所が魅力なのである。
しかしこのポイントから見ると、リスボンはいかにも狭い場所であって、これが500年前に世界を制覇した大帝国にも見えない。その零落感というか、わびさび感覚がまず好ましいのであるが、日本の繁栄はまず最初の100年としてこれから400年が経過した後にこのような詫び錆び感覚が街に残るかというのはまった期待できない。だから今のうちにリスボンでその感じをしっかり楽しんで置こうというわけだ。

2010年2月14日 (日)

「市電カフェ」から市電を見る

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24番の電車がα間の前でいきなり高みから急な坂を下って、右に急カーブをきるところに、CAFE DO ELECTORICOがある。文字通りの「市電カフェ」だがアルコールはない。ここも30年来かよっている。お母さんやおばあちゃんが子供や孫をつれてくる、町内の喫茶店だ。この店はフロアがやや低いので、ここに陣取るとまさに、昔の列車の映画でレールの上に置いたカメラの上を列車がばく進するようなショットが撮れる。
ペンデジタルライトに長めの望遠ズームで珈琲飲みながら撮影したのがこのショットである。
70年代にはこの「電車曲乗り」はリスボン名物であったが、この20年来にはあまり見なくなった。市電の走り出す時に飛び乗って、停車の直前に飛び降りる単なる「ただ乗り」であるが、その飛び乗り飛び降りが「リスボンっ子の粋」に通じる所がある。それともこれもサウダーデの一種なのかも知れない。だから、不正乗車には違いないが、それを通り越してすでにあたしのようなツーリストから見ると、これはリスボンの伝統芸であり高い文化なのである。かの映画「リスボン物語」では黄色い市電は良く登場するし、市電の中から木製の手回し35ミリ映画撮影機でのショットも登場するが、あの映画ではこの「市電曲乗り」はなかったような記憶がある。
それで久しぶりに絶好のアングルからこの伝統芸が撮影できたのが嬉しい。

2010年2月13日 (土)

リスボンのブリテイシュバー

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木曜はヘルシンキからの飛行機が遅くついたので、ブリテイシュバーには行けなかった。それで金曜の午前11時前に行った。5年ぶりだ。ここの看板は1980年当時のと変わっている。絵柄はまったく同じなのだけど、1988年頃に店の大改修をしたので、以前のようなすがれた感じはなくなった。5年に一度ほど極東から来る客が生意気を言っても仕方ないが、ごく普通の感じのバーになってしまった。以前の看板は、1980年10月にポラロイドSX70で撮影したのだが、それはポラロイドのコレクションになってしまったので、今、手元にはない。ガラス絵であるのはこれと同様だが塗料が縮んで、ひび割れが良い感じだった。それを古いライカで撮影したりなどした。
ブリテイシュバーの店内は禁煙になってしまったので、どうも感じが出ない。男共はいったん店の外に出てシガレットをふかしている。これはあまりいただけない。ブリテイシュバーの「美学」が死んでしまった。
麦酒を一杯のんでそれから、丘の上の方からSE〔カテドラル)がアルファマを背景にして見えているのを確認して「ああ。リスボンだ。さうだーでだ!」と納得した。まあツーリストを満足させるには、リスボンはまことにお手軽に出来ている。

2010年2月12日 (金)

リスボン着(予定稿)

016 画像は10日の「買い取り名人」の出版記念会。大盛況。バックの横断幕は非常に良く出来てる。誰が作ったmのか。

フィンエアにて成田からヘルシンキ経由でリスボン。
何年ぶりか、三代目のライカインコがまだ在世のころだから、5年前の夏だと思う。
街はあいかわらずで巨大模型のようだ。
バイシャ地区のホテルの5階の窓から、お城の偉容が良く見える。
なんちゃってるが、これはストリートビュー(google)から見た想像である。あたしの貧困な「創作」などより「実景」の方がはるかにリアルであることは間違いなし。
まだ成田のラウンジなので実際にリスボンはどうなのか分からない。リスボンは石造りだけど頻繁に地震と火災がある。1988年のチャドの大火災で中心部は焼け野になった。1980年にあたしが古い写真を買った古書店など全部焼けてしまった。
さて、次の行からは「本物のリスボン」。

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現地時間の午後8時にヘルシンキからリスボン着。飛行時間4時間40分であるから欧州世界の果てから果てという距離感だ。

ロッシオの裏手の宿屋に入る。

さすが20時間の飛行は疲れたのでねる。

2010年2月11日 (木)

本日移動日

本日移動日。NRT HEL LIS。

Electronic Ticket            
 
FINNAIR LOGO

Passenger Name Booking Code
TANAKA/NAGANORI MR 1A/ZS2PPB
E-ticket Number Issuing Airline / Date Frequent Flyer Number
105 2446853232 Finnair / 31 JAN 400394378    

Flight Date  From  To Depart Arrive Reservation
AY 72   
11 FEB 
Tokyo Narita
Terminal: 2
Helsinki
Terminal: 2
12:00
15:10
Class: R /OK      
Baggage: 20K 
AY 3693 
11 FEB 
Helsinki
Terminal: 2
Lisbon
Terminal: 1
16:40
19:30
Class: R /OK      
Baggage: 20K 
AY 3694 
21 FEB 
Lisbon
Terminal: 1
Helsinki
Terminal: 2
08:45
15:25
Class: R /OK      
Baggage: 20K 
AY 73   
21 FEB 
Helsinki
Terminal: 2
Tokyo Narita
Terminal: 2
17:20
10:00
22 FEB
Class: R /OK      
Baggage: 20K 


成田ナウ。今日は休日であることをすっかり忘れていた。
空港はセキュリテイは長蛇の列だが、パスポートコントロールはがらがらであった。
よう分からん。今、向かいのJALが登場中。かなり混雑しておる模様。
FINエアはA330の300である。何時もSUで200には乗っているが、300は始めてなので楽しみ。こういうのは「鉄ちゃん」ではなく、何というのか?「空ちゃん」であろうか。
これはフィンガーで24時間500円のワンタイムで書いている。手元にはういすきのポケット瓶がある。この数年、新幹線でこれを販売しなくなったので久しぶりのポケット瓶だ。うれしいねえ。

2010年2月10日 (水)

ライカ 製造番号1204

Img_0941 1980年の秋に最初にリスボンに行った時に持っていたライカがたしか製造番号が二千何番というのだった。今年は「初リスボン三十周年記念」なので、ペンデジタルの他にそれを記念してライカを持参。今度は一千四番というのである。この番号からするとレンズは珍品のライツアナスチグマートが付いていたらしい。それがライツの手で改造されて、ライカ3aになってレンズは交換できるから、ライツアナスチグマート の方もこの世界のどこかにあるのであろうが、手元にはない。それはそれで良いと思う。今回、リスボン30周年というので、30年前にリスボンで撮影したのと同じレンズ。すなわち木星珠50ミリを付けて持参する。
1991年発行の写真集「ウイーンとライカの日々」〔日本カメラ社)の中にその時のモノクロスナップが掲載されている。その多くはこの50mm木星球での撮影である。当時のリスボンは実にサウダーデがそのままに「結晶」したような鄙びた街であった。街中に野良犬とも飼い犬とも分からない犬連が多く居て、それが人間共と交歓していた。そんなシーンを古いライカにジュピターでトライXで撮影したのである。トライXはそこらの薬局で買った。薬局でフィルムを売っているというのは、当時のラテン系世界の一種の特徴であったようだ。HCBのプリント師のガスマンさんもそういう薬局で写真のケミカルをHCBが買っていた話しをした。
ところでこのライカにはちゃんと巻き上げ軸にはスリットが切ってあるから、ライカモーターも装着できる。こういうライツの改造は実に大したものである。一方でライカM9の広角レンズの周辺のマゼンタかぶりというのはどうも情けない。今更ながら、1925年当時のライカがそのままに今でも使えるという、その事実に驚く他はない。リスボンの詩人ペソアは1935年に没しているから、彼はライカを知っていたわけでリスボンでライカの話しが出来そうだ。一方でカモンイスにはライカと言っても通じないであろう。

2010年2月 9日 (火)

スペシャルアナスチグマート5cm明るさ不明

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chotoka 

スペシャルアナスチグマート5cm明るさ不明、というレンズだ。ブラック仕上げでコンタックス1時代のものだ。ただし自分の狭い範囲の調査ではどこにもこのレンズのことを言及していない。表記に5cmとあり、製造番号からするとイエナ製のようである。絞りはなく、(明るさf8くらいか)ピントも固定されている。と言ってポストカメラというわけではなく、バレルの脇の小さなネジでレンズ本体は直進するから、ピントは合わせられる。もっともこれはペンデジタルに付けてリアルビューでチエックできるから簡単であるが、これがM9ではピントも分からないわけだし、リアルビューの一眼レフだと今度はミラーがあるから、コンタックスRFマウントのレンズは付けるわけにはゆかない。その意味でマイクロ4/3は便利である。
それで撮影した角部屋からの風景がこれである。2枚あるが一枚はこのスペシャルアナスチグマート5cm明るさ不明での撮影で、もう一枚はツアイスの最高傑作のゾナー50mmf1,5 optonである。どちらがどちらかはここでは敢えて明かさない。レンズの描写は信仰みたいなものだし、目のある人ならすぐに分かるはずだ。

あたしにとって発見は、今までテッサー50mmの戦前のコンタックス用などの優秀さは知っていたが、その前の時代のスペシャルアナスチグマート5cm明るさ不明までこれだけ写るとは思わなかった点だ。レンズは戦前のそれもノンコートに限るな。

2010年2月 8日 (月)

ニコンS4

Img_0932

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ニコンS型のコレクターにとって逃すことが出来ないのが、このS4だ。日本より外国のコレクターに人気なのは国外で発売されなかったせいである。35,50.105のフレームはS3だがこれから35ミリのフレームを除外して、フィルムカウンターは手動セットにして、セルフタイマーを省略した。これで当時、高価だったS3をさらに安価にして買いやすい価格設定にしたのが、どうも裏目にでたようだ。もともと「耐久消費財」時代のカメラを求める気分は「少しでも高級なカメラ」にあったから、シンプルなS4は売れなかった。
久しぶりに(というか今週は二度目)目黒のさんぽーカメラに行ったら、S4が出ている。以前の半額である。しかも2台出ていてその一つには初めて見る元箱がついている。S4よりその元箱の方がレアであることは言うまでもない。やはり今、クラシックカメラは買いだな。その他に21ミリニッコールのSマウントとか、85ミリF1,5とかなかなか素敵な品物が出ている。
もっともこちらはリスボン行きを前にしてカメラ買いの資金などないので、他のウインドウの中に見つけた1050円のペトリの80-210だかのズームを買おうとそれを頭の中のウイッシュリストに入れておいた。それで「お買い物」の店内を見て(前田司郎さんのドラマ「お買い物」の中古カメラ市はここでロケしている)くだんのペトリズームの前に来たらそれはすでになくて空きの空間だけが開けている。この前もこの店で同じようなことがあったので、そういうことは二度起きないと思っていたのが不覚であった。
YOUTUBEにアップしたさんぽーカメラの電飾看板だが異常にアクセスが多い。その理由を考えるに、「電飾看板が好きなひとが見て居る」なら嬉しいが「さんぽーカメラの休業日を知りたくて見ている」では興ざめである。さて、、、

2010年2月 7日 (日)

キエフ5

Img_0929 ウイーンのフォトオラーターで見慣れないキエフを買ったのは70年代後半であった。その価格は5千円くらいだった。その後、1980年に亜米利加のモダンフォトグラフィの特派員になって、その見慣れないキエフを記事にした。これは当時は西側にはほとんど流出していないカメラだったのだ。それでその記事の直後に大阪の大コレクターから、是非ゆずってくれと言ってきた。同時に現金書留で15カメラ円を送ってきたのでこれは拒否する方法がない。
鉄のカーテンが崩壊してから、だんだんキエフ5は市場に登場するようになった。それにつれて価格も下落して今なら2カメラ円ほどの代価である。
このカメラには二種類あって、プロトタイプはこの市販モデルとほとんど変わりないけど、シンクロ接点が逆の位置についている。それと市販モデルでは50,85のブライトフレームが付いているが、プロトタイプにはそれはない。
キエフ5はそのシャッターも巻き上げ感覚もなかなか優秀で実に実用的なカメラである。コンタックスレンジファインダーの歴史の中で「唯一のレバー巻き上げ方式」のカメラがこれである。
キエフ5の最大の問題点はそのネックストラップアイレットの位置が変な場所なので、カメラが上を向いてしまうことにある。ゾナーとかジュピターの85ミリを付ければちゃんと良いバランスになるのであるが、50ミリとかそれ以下のレンズだと上を向いてしまう。それで鵠沼のブレッソン氏にカスタムの革ケースを制作してもらった。鵠沼の飛騨の匠は、横吊りではバランスが悪いというので、縦吊りのケースを付くってくれた。これで銘機がちゃんと使えるようになって嬉しい。
ここのレンズはニッコール21MM,ジュピター85MMそれに標準の50MM。

2010年2月 6日 (土)

ライカMP騒動

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http://cgi.ebay.com/ws/eBayISAPI.dll?ViewItem&item=250571519185

ライカMP(ここで最近ライカ社がリメークしたMPとは異なるという説明をつけなければいけない面倒な時代になったが)は400数十台生産された「売れないカメラ」であって、M3にライカビットという旧式な巻き上げ装置(その引き金状態の金具の先はとがっているので、機内には持ち込めない)を付けた時代遅れのモデルである。すぐにライツ社は販売を止めたが、後世になって勘違い連中が増えて、この機種を手にすると「50年代のスター写真家」になれるのではというのでその価格が沸騰した。EBAYに最近登場したそのMPの一台は製造番号が365番というので、いかにも好事家の好みそうな一台である。
我が木星珠倶楽部の会員もビッドしてあわや、ハイビッダーになったらどうしようと思っていたようだが、この会員は規約をよく読んでいない。フィードバックが5以下のビッダーは事前に許可をセラーからとるようにと言われているのだが、勝手にビッドしてしまった。でも結果として金額を押し上げる作用になったのだから、セラーも文句は言えない。
落札価格は1万ドルちょっとだったから、まずこのカメラが販売された中では「レコードロー」である。一時は2,5万ドル以上はした。
ところで、旧著にも書いたが、1970年代のウイーンのライツオーストリアで同じクロームのMPが中古のライカウインドウにでていたことがある。価格は3800シリング(現在の7万円)ほどだった。それを買おうとしたら、店員が奥にいったん入って行き、「このカメラは予約があるので売れない」と言った。それなら最初から店に出すべきではない。
どうもレアライカの「値つけ間違い」に気が付いたらしい。

2010年2月 5日 (金)

吉本隆明 五十度の講演 を持ち上げてみた

Img_0913

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chotoka      

今回の「東京滞在」はもうすぐ終わるので、リスボンに持って行く資料を佃の部屋で捜索している。案外に簡単に発見できた。ペソアのリスボンのガイドだ。ただ10年ほど前に出た日本語訳は発見できたが、探しているのは15年ほど前にリスボンで買ったオリジナルのペーパーバックの方だ。それが見つからない。これは1920年頃のリスボンのことを書いた大詩人の「実用的なガイドブック」で英語と葡萄牙語が対訳になっている。もちろん、英語がオリジナルで葡萄牙語が訳文だ。その黄色い表紙まで記憶しているのに見つからない。まあそれなら向こうのFNACで買えばいいか。

ヒルズで4fにランチを買いに行って、青山ブックセンターで「吉本隆明 五十度の講演」を発見して感動した。これからの紙の本は物量質量重量重視ではないか。それで試みに持ち上げてみた。かなり重い。たとえるにアリフレックスSRに400ftマガジン付けて、フィルムは入れずにレンズも付けてないくらいの重さだから5キロ弱だと思う。25年前にブリュッセルの本屋で買ったアンデイ・ウオーホールの日記はばかでかいハードカバーであったが、旅の間持ち歩いていた。
以前、ベルリンのホテル(サビグニープラッツ)の駅の側の古本屋でヘルムート・ニュートンの重い大きな写真集を見つけた。たしか買えない値段ではなかったがこれがクラインだったらフランクだったら、素木偶だったら迷わず買っていただろう。買うか買わないか。ここらは難しい狭間であって、アンセル・アダムスならやはり買わないわけである。
上の吉本の「5キロ五〇回オブジエ」を見て、腹案の「チョートク佃日記」(全部が紙印刷の限定本250部でオリジナルプリント付き、ふそう社から出すCD付きとは別の本)の出版を決定的に思い立った。それでリスボンに発つ前の日に東京きらら社の中村さんをわずらわせて打ち合わせをすることになった。
中村さんは前にあたしの1000頁の本を出している経験もある。500頁の2,5キロの写真集を出した「前科」もある。あのウイーンの写真集は最初は1000頁計画だった。それが「束見本」で確認してこれを暗闇坂のオーストリア大使館のギャラリーのレセプションで来客に持ち帰ってもらうのは礼を失すると気が付いた。それでその半分の「重さ」になった。限定の日記は数冊をセットにしてそれを筺に入れる予定だ。帰宅して手元の本を調べたら「燕石十種」が考えている造本のそれに近い。
この前、テストで「こころぐ出版」で444頁ほどの日記をハードカバーの本にした。それを見てこれはいける!と思った。オンライン日記ではアトランダムに面白い所を探すというのはなかなか難しいのである。そこらが紙の本の便利さだし、質量がちゃんと存在するのがいい。あまり重くすると運搬が困難だから、せいぜいコンタックス+オリンピアゾナー180MMF2,8付きくらいの重さにしようと思う。これなら3キロは超えない。

★追記

chotokutanaka                     

       
        ヒルズ。下の青山ブックセンターで例の「吉本50の講演」を持ち上げに行く。これ日課だな。良くパッケージみたらこれって紙の本じゃなくDVDのセットだった。それで一気に熱が冷めた。カメラは金属で重く、本は紙で重いのがいい。プラスチックのDVDはどうも調子でない。        

2010年2月 4日 (木)

牛窓山上の狐目の男/ソファ上の狐目の犬

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この前、12月初めに岡山に行ってGXRの岡山編の撮影をしたのであるが、その時の記念写真を十文銭銀水が送ってきた。ここには6-7年ぶりに行ったのであるが、あたしより年下の銀水はいつもM2スタジオにこもっているか、はたまた行きつけのジムに行くだけなので運動不足でその結果の体力低下である。あたしは路地裏健康法を実行しているので元気、(と、ここらへんはじじいの健康雑誌ののり)である。

牛窓のお稲荷さんだか何かが祭ってある丘の上の看板のペンキ絵の縁起絵巻には壇ノ浦のシーンが描かれているその先に、銀水の奥様のつた子ちゃんの出身の犬島の煙突もくもくの光景が同時に描かれているのは、タイムラインがめちゃめちゃで、あばたーもかなわないシュールさがよかった。その社の脇の石のベンチにハイレッドセンターが置き忘れたままで半世紀が経過した、赤ペンキぬりかけのブラシがそのままに放置されていたので、それをGXRで撮影した。その写真は「GXRワークショップ」に掲載したのである。銀水は富士のなんとか言う女子向けの40年前のハーフカメラで撮影していた。それを地元のミーちゃん横丁のペンタハウスに出た、ハーフサイズのスキャナーで画像を「あげた」のがこれである。

なにかハーフサイズのクラシックカメラは以前はお正月と海水浴が同時に撮影できる利点があったが、最近では12枚撮りとか24枚撮りの安カラーフィルムで撮影してそれをスキャンというのがトレンドだ。

ところで、この社の上のあたしはなにか犯罪者っぽくて不思議である。「将軍さま」が指令しているニュース写真のようでもある。もともと写真家などはそういう怪しい人種であって、玄関の下駄ならたんたる軽微な犯罪であるが、もっと大事なものを当事者にはそれを気づくことなしに「盗んで」くるのだから危険だ。このショットにはそのようななにか「天賞堂の脇の壁を油圧ジャッキで破壊せよ」と指示しているような感じがある。そこがいい。

お隣のわん公は、銀水の愛犬「ふくちゃん」である。この犬は銀水邸に行くと犬嫌いのあたしを狙って飛びついてくるので苦手であるが、こうして画像を見ている分にはなかなかかわいい。

2010年2月 3日 (水)

いふぉんで「ゲラ」を戻す

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chotoka                     

この間、新潮連載の「屋根裏プラハ」のゲラを戻した。通常はこういうプロセスは編集部から郵便でゲラが届いて、それを確認してまた郵便で送り返すのが作法である。それが昨年の9月のカイロでは、編集部からPDFのゲラが届いた。本来はそれをプリントする必要があるのだけど、安ホテルなのでそういう装置がない。それで内容をよく見て、「何頁の何行目のxxを▲▲になおし」というようにまたメールした。
これが案外に面倒なのである。
今回は手近にプリンターがあるから、それで出力して赤を入れて、さてそのゲラをデジカメで撮影しようと思って、佃に時差ぼけの関係で忘れてきたことに気が付いた。手元には、いふぉんはある。もともといふぉんの高性能は知っていたが、なんとなく「複写」はコンパクトデジカメの方が良いのではという先入観があった。それでもそれしか選択肢がないので、ゲラをいふぉんで複写したら案外に良く写った。思えばこの程度の解像力ならまったく実用になることを知ったのが大収穫であった。この方式なら世界の何処にあっても校正の点で問題ないわけだ。

       3時間以上経過すると消すことがあります。

2010年2月 2日 (火)

VIVO

Img_0777 Img_0785 VIVOは戦後すぐに出来た日本の前衛写真家の集団だと思っていたら、それは同時にプラハの酒場の名前でもあった。もっともVIVOなんてありふれた名前であるから、この世界にはそういう名前の店はそれこそ、VIVOの数だけありそうだ。
このVIVOはプラハのモルダウ川左岸の日本大使館の並びにある。界わいは観光客の波が途切れるという場所であるからここで昼間から赤ワインなど飲んでいても、眼前に日本のツーリストさんがうろうろして「ここはプラハではなく実は渋谷ではないのか!」とパニックになる心配もない。
店は一間、奥行き一間半という大きさで客用のカウンターが左右に最大10席ほどで取っつきはお店のカウンターだ。1月には半年ぶりに行ったのだが、お店のアルバイトの女子が変更になっていた。だから向こうもあたしの顔を知らないから、常連ではないと思ったのであろう。まず半年来ない客が自分を常連と思うのが間違っているのかも知れないが、それはともかくとして「赤にはオーストリアのと、チエコのがありますけど」と聞いてきた。「そんなドナウの向かいのまずくて高い赤は願い下げにしてこっちのモラビアの赤をくれ」とじじいは粋がって言ってみたが、これは真実である。ワインの値段など「人件費に比例」するから、先進国の高いワイン(ドナウの向かいの)より新興国の安いワイン(地元の)の方が味が数段上であることは言うまでもない。それでプラハの午後を同行の今回のプラハでの写真展を企画してくれたキュレーターと馬鹿話をしつつ3時間滞在してワインを3杯づつ。
これが良かった。

2010年2月 1日 (月)

iTwingeは忘れた頃にやってくる

Img_0900 昨年7月3日のライカインコ4世の昇天で、それにかかる最大のジャンプは「よっくもっくといふぉん」の導入である。えいやっとマックの新型ラインを導入したのである。それまでG4の古いやつで、あいふぉとなんか動かない状態であったのが、写真はさくさく動くし、いふぉんはメールチエックに使えるし、外でついったーを操作できるしで、まあ還暦過ぎには過ぎたる環境となった。これもライカインコ4世のおかげである(と極東の専制国家の個人じゃなかった個鳥崇拝)。
いふぉんに関しては、次号のダイムでの小特集の中にあたしもまぜてもらっているが、いふぉん使いのお歴々の中で「電話としては使わない」というの多分はあたしだけであろうか。
あれは昨年の8月頃であったか、倶楽部エダムでなかなか「いふぉんの入力」がうまくいかないとこぼしていたら、木星球倶楽部の言語デザインが、こういうデバイスがあると教えてくれたのが、あたしのすでにプラハに居る時であった。それで早速注文してそのことを忘れて、その後は9月にカイロに行き、今年になってまたプラハとジュネーブに行って、帰国したらこの品物が届いていた。こういうものは忘れた頃にやってくるのだ。思い返せば確か昨年の秋の終わりにメールで製品出荷遅れのお詫びが来ていた。これはいふぉんの上にすっぽり被せて、タイプをしやすくする為の支援ツールである。さっそく試してみたが、まずこの半年の間にあたしのいふぉんのタイプ速度があがったせいであろう。こういうカバーがなくても大丈夫であった。逆に指の力が必要なのだ使うのに骨がおれた。それでせっかく手にいれたものだが、そのまま送られてきたビニールの袋に入れて保管ということになった。画像の撮影はいふぉん。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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