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2010年1月31日 (日)

フレクトスコープの謎

P1303542 P1303544 P1303545 埼玉から1台。アメリカから一台届いた、これは埼玉から届いたゾナー180付のフレクトスコープの方である。ebayで入手した。売り手は外人さんであった。長年各種コンタックスと遊んでいたが、この実物を手にするのは初めてだ。使っている人を見たのは、戦前の型録の中でアーリア系の若者がこれを構えている小さい写真を見たのみである。しかし今更ながら感心するのはそのデザインである。ビゾフレックスなど田舎まるだしだ。一種バウハウス系と言ってよい。そのダイナイズムがグロテスクになる一歩手前で押しとどめられているのが、なにか凄いデザインである。ミラーボックスはかなりの空間があるので、内面反射はおこりにくい。ハッセルにゾナー150などを付けると内面反射で苦労したものだがこれだけ「懐が深い」とその心配なし。
分からないことが沢山ある。1940年当時のツアイスの総合型録には、この装置の断面図がある。それでケーブルレリーズは下から入れて、上に出してそれがカメラのシャッターにねじ込むようになっている。断面図を見るにこれは2本の通常のケーブルレリーズで構成されているように愚考されるが、その上のセクションのケーブルはどのように取り付けて良いかが分からない。
ただ、アダプターでペンデジタルに使っているので(ミラーをアップして)ミラー関係は最初から使わないので実際の撮影には問題なし。やはりペンデジタルなどのリアルビューファインダーは凄い。この間のオリンパスのプレス会見で関係者さんはやはり「一眼レフ」と呼称していたが、普通の黒い三角形のプリズムのデジカメを差別する意味でなにか他の言葉はないものか。
最大の謎はこの180ミリゾナーの取り付け方法だ。今まで理解していたところでは旧東ドイツ時代に「フレクトスコープ用」と称して、アダプターが売られていた。うちにも2個あるが、調べてみたらこのゾナーのネジの方が径はずっと大きくて、しかもネジのピッチは細かい。だからまったく互換性がない。これが謎である。
ファインダー像は逆さまに見えるのである。戦後の西ドイツ製のパンフレックスの場合には正像だが、こちらは倒立像である。デザインは前後のとは比較にならない。こちらの方が数段優れている。
このカメラはコンタックス3ではない。キエフである。まあ同じモノだから何ということはないが。

2010年1月30日 (土)

古いカメラの使い方等ご指導します

P1241079 P1241077 錦糸町のヒカリカメラにはなかなか渋いモノがある。昔、レオタックスGのゴールドを買ったのもこの店だったし、10年来探していたアストロベルリン製のライカ用ユニバーサルファインダーもここで発掘した。このファインダーは「戦前のアルミ削りだし」で出来ている。しかも28−150ミリのレンズまで使える。
日曜の午後にここに行って、ブロニカS2の元箱入りを買った。これはヒカリカメラがTWITTERに書き込んだのを、プラハのアトリエから予約したのである。プラハには有名なパスデラとかシュコダがあるが、大雪で交通が途絶したので、アトリエ内のよっくもっく上のバーチャルカメラショップが一番近いカメラ店になる。
その予約品を取りにいった。
ヒカリカメラの店内にこんな札が貼ってある。その字体がなかなか渋い。最近ではコンパクトデジカメが普通だから、クラシックカメラは指南が必要なのだ。カメラの中のフィルムは撮影中には取り出してはいけない、などは使い方指南の中でも最重要事項であろう。
ウインドウにあたしの10年前の写真集[chotoku@work]があった。これは稀覯本というほどでもないが数が少ない。あたしは著者購入本は50冊ほど持っていたが、全部人にあげてしまって数年前に「日本の古本屋」で検索したら1万円近い値段だった。それでも資料として必要なので買った。その隣の[wien monochrome 70s]は書店を通さずに千部限定で出した本でこれも最近ではなかなか見ない。

このお店の「文物」には大昔、キヤノンが何億台だかのカメラ生産を記念して限定で作った実物大のキヤノン4sbのブロンズの文鎮もある。これは間抜けな話しで、そのオリジナルから型を取るのに、現物のファインダー窓の飾りリングが欠品している半端物をそのまま型取りに使ったのである。制作過程でキャノンの内部で誰も文句を言わなかったのは驚愕の至りで、当時、キヤノン4sbの現役時代を経験した人間が居ないというのは言い訳にならない。あの当時以降、キヤノンはそれまでのキヤノンとは異なるメーカーになってしまった。

2010年1月29日 (金)

100円リュック

P1253446 R8111301 12月の初めにGXR本の撮影にて岡山に行った時、街の南にある「みーちゃん横丁」の「ペンタハウス」に十文銭銀水と出かけた。地方都市だとカメラの物欲に負けて一気に買い物をしてしまうと後が続けないので、小出しに欲望を達成するのが賢いやり方である。沙漠の小動物が沙漠の植物を少しずつ食べて後を残しておくのと同じだ。それでこの時も、6泊7日の間に確か3度ほど行ったのである。最初は戦前のJENAのターレットファインダーを買って、その後に戦後のOPTONのターレットファインダーを買った。お店の段ボールの中にある「小物」こそ宝庫である。100円でこのリュックを買った。同行の銀水には奨めて、やはり革製の小さな鞄(小金持ちの金貸しが借金取りになって集金して歩くのにぴったりの)を100円で買って差し上げた。いつも銀水には「長徳固執堂」でお世話になっているので、こういう細かいところで「恩の押し売り」をするのだ。あたしの黒いリュックは値段は100円であったが、それを500円で買った。まさに佃財閥である。これは押し売りならぬ「押し買い」とでも言うのであろうか。
このリュックはこの間のプラハ、スイスの取材に持って行った。かなりの収容能力があるようで、往復2万キロも移動すると、ようやく使い勝手が良くなる。
周囲には見栄があるから、100円で買ったとは言っていない。

オリンピアゾナー180MMで空樹を撮影

P1273482 2セット(ひとつは米国からもうひとつは埼玉から)到着したオリンピアゾナー180MMのうちの一つ(程度の悪い方)を箱から取り出して、これにコンタックス=ライカマウント=ライカMマウント=マイクロ4/3のアダプターを付けた。フレクトスコープはミラーをアップにして、降りてこないようにセロテープで固定した。これにペンデジタルを付けると、ご覧のようなスタイルになる。
このレンズで朝の空樹を撮影したのが下の作例である。ソフトな感じの中にすげーシャープさを内包して「本場のツアイス光と影の神髄」(この言い方は最大のステレオタイプだなあ、大笑い)が見え隠れする。
1940年のツアイスのドイツ語の総合型録に、ベルリンオリンピックの陸上競技場を撮影したこのレンズのショットがある。無論、当時だからモノクロである。
その伝統芸能クラシックなレンズが今また、マイクロ4/3で蘇るとは、かのホフマンさんもご存じあるまい。レニさんだってあの時にはパルヴォで「民族の祭典」を撮影していたけどこの次第はご存じないわけである。
この時間のジャンプとレンズの実用性とさらにオリンピアゾナー180MMのレンズの仕上げの良さが、あの当時の「第三帝国」の「手触り」をそのままに伝達するのだとしたらこれは凄いことだと思う。これを竹田正一郎現象と呼ぼう。危険思想。
アメリカでは入国に際し「1938−45年にナチスドイツに協力しましたか?」のクエスチョナリーがあるが、さしずめ、このレンズなどはナチ協力レンズというので、米国入国を拒否されそうだ。正にその時代のレンズであるからだ。作例はいずれもこのレンズ。ペンデジタル2で。P1273488 P1273480

2010年1月28日 (木)

1.26東京大周遊

P1261096 P1261098 P1261101 毎回、プラハから戻ると時差のあるうちに、佃から徒歩、板橋は小豆沢の飲み屋まで歩いたりするわけであるが、今回は多忙にてそういう風流がやっていられないのは残念な次第である。それで近場で「東京大周遊」を執行した。
例の大塚坂下町である。ガキの頃は父親に連れられて音羽通りを遡って、富士見坂を上り、大塚消防署の望楼の脇の当時は大阪銀行と言ったと思うが、そこの住友銀行に行った帰りに小林制帽店の脇から、大塚坂下町に降りてあそこらへんのラビリンスを巡ってまた音羽の家に戻った。父はそういう路地裏趣味があるわけではないので、どうしてそういう場所を歩いたのか分からない。坂下町と富士見町の角に松本鳥獣店(当時はまだペットショップという名前はなかった)になにか小動物を見た。後年、そこの息子とは文京七中で同じクラスになった。
後年になって、赤尾敏をその奥の日本愛国党に撮影に行ったことがある。これはまだ大学生の当時である。なにも赤尾先生に心酔したのではなく、一種の度胸だめしであった。その際に「先生の思想に感動して、、、」というのが本部に入る決まり文句であった。
新大塚の駅で、タカザワケンジに遭遇した。数年ぶりであろう。ライカCLを持って撮影中のようであった。駅から入った所に「旅」という飲食店がある。以前はちゃんとした飲食店であったのが、最近では普通の弁当やになっているが、その「旅」というロゴが昔のJTBの同名の雑誌を思い出させる。
その先の右手に「となかい」というレストランがある。これも普通の食堂のようだがまだ入ったことはない。およそ飲食店の名前で「となかい」とは不思議な店名である。店主がとなかいファンであるとさらに不思議である。
いったいとなかいって、英語で何というのか調べたらtonakaiと出たので吃驚した。それでトナカイと入力したら、Reindeerと出た。となかいは日常会話では使わないから、日本語の会話でも使わない。赤鼻のトナカイは年一度の登場である。

そのとなかい飯店の先の豆腐屋の角を曲がったら、そこは真冬のマンハッタンであった。地下からスチームが噴出しているのである。それとも新たな温泉が掘り当てられたのであろうか。

この界わいには謎が潜伏している。

2010年1月27日 (水)

プラハ。「車窓の真実」

P1211015 P1211011 今回のプラハはあたしの20年来の経験でも一番寒くしかも雪が凄かった。それで老人の転倒を恐れてなるべく危険な場所には行かないようにした。一番危険なのは、アパートの裏手の裏庭のごみ集積所である。かちんかちんに路面が凍結しているのだ。それでごみはなるべく出さないようにした。2週間弱居住してゴミ捨ては1度のみ。
アトリエの前の電停から8番の電車が出ている。電車の系統だが昨年の春頃から一部の変更があって、それまでは2系統あったのが1系統だけになってしかも経路が変わった。その理由は3つ先のプラハの王宮下の「ハラチャンスカ」地区で一大都市再開発があり、そこを市電が通れないのである。それでこの経路のすべての路線はいったん北に大きく回り道してから南下して王宮の西側の環状道路にそって進み、急な坂道をつづれ折りした後に王宮の丘の真下のマラストランスカに出ることになる。
電停から8番に乗るとその経路で丘の下に出て、モルダウ河の屈曲して東に向かうポイントの右岸を河と併走して、それからインターコンチネンタルホテルの先の橋を渡り、旧市街のど真ん中に出るが、そこからすぐに東に折れて、鉄道橋の下を潜り、カーリン地区の黄昏れた街区を走る。その地区があたしの好みなのだ。さらに8番は郊外の駅を右に見てずっと奥のもう人跡未踏という感じの、住宅地とも工業地区とも言えないようなカオスに入って行く。この8番は好きなラインだ。

上の画像はそれとは関係がない。これは14番の路線がモルダウを西に渡って、すぐに北に曲がる所を車窓から撮影したのである。ここも王宮の丘の南西の果てという場所で、ゆるやかに地勢が隆起して、そこを遊歩道がつま先上がりに続いている。かの素木偶がパノラマカメラで撮影した名所旧跡である。素木偶のアトリエはこのすぐ側にある。
以前はこの公園の付き当たりには社会主義の真っ赤な巨大な星が君臨していたものだが、革命から数年してこのような「人間のマッス」の彫刻になった。

電車の窓からのスナップというのは、60年代の東京でもっぱら都電から、ライカM2に21ミリの撮影をしていたので自分にはお馴染みな写真行為だけど、都電がなくなった今は、同じような楽しみは僅かにプラハとリスボンで残されているのみである。

2010年1月26日 (火)

「GXRワークショップ」本日発売!

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1月26日。午後早めに帰宅したら佐川急便が「GXRワークショップ」(えい出版)の見本を届けてきた。例によって「田中長徳直伝!」の黄色い文字がカバーに躍っている。

著者にとって一番嬉しい瞬間だ。
このシリーズは3冊目のGRD本ということになる。GXRのロゴから[X]をマイナスすればGRワークショップになるわけだ。そのことの秘密の繊細は巻頭の「GXRコードの謎」に詳しく書かれてある。
今回の本は

「拡大するカメラユニットの将来性」

これがテーマである。

リコーGXR、そしてGRデジタルの誌上カメラ教室。ここに開講!

●GXRのシステムとカメラ哲学
●GXRのレンズの楽しみ
●GXRの撮影テクニック
●GRデジタルIIIのコンセプトとアドバンテージ
●上位モデルよりも働くカメラCX2の実力
●GXRとGRIIIの長徳流テクニック
●GXRとGR DIGITAL IIIの仕様と機能      などなど。

例によって、岡山ロケでは長徳固執堂を撮影。さらに瀬戸内海の某所にて、GXRとにニコンS3にニッコール50mmf1,1で「でぶしろ岡山代表」を激写した比較カットもある。
GXRへの欲望を上昇させるには絶好の一冊だし、手元にGXRでもGRDでも、そしてCX2でも、さらにペンデジタルでもペン(フィルムのやつ)を持っている人でもカメラの実用性とその美学と機械学について楽しみつつ、思いを馳せることが出来る一冊である。
発売は本日28日です。どうぞご贔屓に。

 

GXRワ-クショップ

      

買ったきっかけ:
著者なので、さきほど見本が届きました。

感想:
デジタルカメラは今、転換期です。新しい方向を探るデジカメの未来を書きました。

おすすめポイント:
フィルムカメラのニコンS3とGXRの競合作例が見物です。
GXR持って、この本持って、一泊二日の旅がお勧め。行き先は岡山でも、カイロでも。

GXRワ-クショップ

著者:田中 長徳

GXRワ-クショップ

ココログ出版から本を出す

Img_0854 Img_0858 昨年の暮れに注文してそのまま忘れていたココログ出版の「KCチョートクカメラ日記」が出来上がって発送されたという知らせを受けたのは、先週のプラハである。444頁ほどで、2007 9 30から2008 4 11までを収録している。別に私家本というのではない。計画中の「チョートクカメラ日記」の「紙本」化の為に、どんな手触りになるのかを、ココログ出版から1冊だけ制作してもらったわけだ。奇態なのは、オンラインでの注文はそのままデータを出版に流用するわけであるが、まずあたしのような素人目にはなかなかよく出来ていると思う。ただし注文当時は本のサイズが分からなかったのである。どこにもそのことが書いてなかった。実際に手にとって「束の厚さ」も文字の大きさもそれなりのバランスがとれている。オンデマンドの出版は想像以上の出来であった。ただし1冊が1,5カメラ円もした。このダミー本を参考にして計画中の扶桑社の「ダイジエスト版」(CD付きの予定)と、東京きらら社の「限定版」(全テキスト印刷)の2件の出版の参考にする。

こういう立派な布装のハードカバーである。ハードカバーの日記本というのは、思い入れがあって、四半世紀ほど前にベルギーを旅行中にブリュッセルでウオーホールの日記を手に入れて、それは大判のハードカバーであるが、旅しながら読みふけった経験があるからだ。大アーチストは乗ったタクシーのチップ代まで細かに記録してあるので後年、この「マンハッタンタクシーチップ案内」は実際に支払いの時に参考にさせてもらったことがある。この大型本のカバーを外してそれを裏返しにして、写真集「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社)の表紙デザインのラフを描きそれをダミー本にしたこともあった。

この1冊だけの本の厚さはご覧のように「ライカよりちょっと薄い」程度だが、全文掲載限定版の方は上下二巻にしてその厚さはかなりになりそうだ。もうひとつのCD付きの方はそのままマシンで読める。

2010年1月25日 (月)

モンブラン!?

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最初に知ったモンブランは、お菓子の名前だった。その次が万年筆の名前だ。本物のモンブランを視たのは、5年ほど前、リスボンからウイーンに飛んだ時に上空から視たのである。これはお菓子のモンブランにそっくりだった。その時にはアリフレックスSRで上空から長回しで撮影した。そのラッシュは上がっているが実際には視ていない。あれは先代ライカインコ3世昇天前の7月だったな。

今回、時計GEGINの取材で行ったジュネーブでホテルの屋根裏部屋から雪山が見えた。何の山であろうかと、いふぉんの地図で調べらたらジュネーブの東にあるのがどうもモンブランであるらしい。90年代にアルパ研究会の全盛時代には、この変わったカメラを弄んでいたが、そのカメラの箱に確かに似たような山のマークがあった。それでこれがモンブランであろうと勝手に決めたのであるが、あるいは間違っているかも知れない。

28年前にフォトキナの取材で、変則的に(その時だけ一回)パッケージツアーに相乗りしてケルンを取材したことがあった。パッケージだから「いろんな場所を一緒に見せて」くれるのである。それで英国ロンドンでは日曜のミサに来たダイアナ妃の後姿をワイドローライで撮影した。ダイアナはピンクのスーツを着ていた。その前だか後だかに、シャモニーに行った。その時、モンブランを観光でザイルバーンに乗ったはずだが肝心のモンブランがどうであったのかは記憶にない。パッケージツアーってやつは、何も記憶に残らないのは大したものだ。自分の意思で行くのではないからまあ当然である。

それで今回、ホテルの屋根裏から視たモンブランは脇にスイスの国旗が配置されたせいもあるが、昔、日比谷交差点の日活ビルの1Fにあったスイスエアの観光ポスターが色あせていて、それが良い感じであったが、退屈なジュネーブの午後のショットがなにか、その観光ポスターを「真似して」いるように見えたのが妙であった。このミニホテルの53号室からの早朝の光景もなかなか良い。

このスイス国旗は年がら年中、出しっぱなしである。国旗掲揚というのがない。アテネのパルテノン神殿の真下のホテルの偽ペントハウスに長逗留していたとき、朝夕にギリシャ軍の兵士が国旗を上げ下げするのを日課のように視ていた。週末だけは大きめの国旗になるのも面白かった。ジュネーブ屋根裏の国旗に限って言えば、この「出しっぱなし」の効果でかなりの人件費の削減になるのであろう。それがスイス流の経済感覚だと理解すれば何か納得した気分だ。

2010年1月24日 (日)

反帝・反ノク レンズ比べ

P1241302 P1241303 カメラ雑誌の伝統芸能に「実写テスト」というのがある。マッチ箱サイズの大きさの作例を印刷して、それを比較しても無意味なことは大多数の読者の知っていることであるが、読者はあれは伝統芸能だと思ってそれを楽しんでいるわけだ。
ブログ上のオンラインギャラリーなども同様であって、小さなPC上で「ツアイスの光と影」を論じたり、大口径レンズの「闇の中のピントの浅さを論じ」たりするのはもとより根拠のないテストであるが、それはそれで娯楽であるから何の問題もない。
レンズの味わいとかシャーブさの床屋談義より。実際に「実写作例」(これは嫌いな言葉だ)があるから、そこにはまだ救いがあろうというものだ。
日本カメラ2月号で紹介した木星倶楽部の影響でもあるまいが最近、ジュピターレンズの価格がヤフオクで沸騰したり、市場で枯渇しているようなので、「火に油を注ぐ」意味では毛頭ないがここに作例を掲載しておく。もとよりこの150K程度のデータで分かるはずもないのだが、われわれの世界認識の限界は自分の場合にしても、この「よっくもっく」の不確かな液晶画面で世界を観覧しているのが「それが即、汝の世界」であるのだからそれはそれで構わない。

上はレニングラードに付いていた、ジュピター50ミリで下は誰でもライカ人類なら知っている、独逸製の50ミリである。絞りはともにF11で補正していないのは言うまでもなし。

木星珠の方が「やにっぽい」のは自分の好みである。

モスクワ空港にて

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プラハモスクワが1時間遅れて、いやな予感がした。案の定、サテライトは使えないので、タラップ車が迎えに来た。気温マイナス18度。体感マイナス25度の洗礼をうけた。ただしまわりは全部モスクビッチだから慌ててなんていない。それでマイクロバスでトランスファーデスクに行って、長蛇の列。「ショートコネクション!!」と叫びながら最前列に出してもらって、脱衣所めいたセキュリテイチエックを通過して、まだ10分時間があるから水を呑もうとダイナーズのラウンジに駆け込んだら、なんと東京行きそのものが2時間遅れであった。まあそういうことはありがちである。昨年の4月には巴里からモスクワのエア仏蘭西が2時間半遅れて、そういう場合には待ってくれないから、ノボテル収容所に一泊させられた。まあそれはそれで良い休養になったが。
それで今、ラウンジの掲示板を眺めつつ、搭乗待ちである。
このラウンジはあたしの生活の場になっていて、昨年5月のアンダルシアからの戻りでは、朝6時半に飛行機が着いたから、13時間ここで仕事していた。
昨年の9月の回路からの戻りでは、朝6時にモスクワに到着したからもっと長く居たわけである。
そういう長逗留を経験していると、欧州のビジネスマンは腰が軽いと思う。1時間も居ないですぐに離陸してしまう。

上の話しの追加。東京行きのSUの遅延はイスタンブール便が遅れたのでその客を拾うので遅れた由。ソ連邦時代のSUではそんな遅延の事情の説明は一切なかった。それが出発前に機長が機内放送でそのことをお詫びするような「西側」の状況になった。そのお詫びが「心がこもっている」ので良い。東京のメトロで毎朝遅れで聞いている「申し訳ございません」の切り口上よりずっといい。

2010年1月23日 (土)

プラハ空港にてPRGSVONRT

P1223429 世の中はうまく行かない。プラハ空港はターミナルは1と2がある。日曜にチューリッヒに行く時、バスをターミナル1で降りたら、出発はターミナル2であった。そのことに懲りているので、今日はバスをターミナル2で降りたが、モスクワ行きはターミナル1の方であった。
プラハ空港のラウンジはターミナル1の方がターミナル2より優れている。これはターミナル1は遠距離(彼らにとってモスクワはロングハールフライト)であるから、内容がいい。
2のラウンジにはシャワーはないが、1のラウンジにはある。それで2日ぶりにアトリエではない「ちゃんとお湯のでる」シャワーを浴びて、うまい麦酒を飲んで、雪見酒をしているわけだ。
モスクワへの飛行は2時間半。乗り換えて、モスクワ成田は9時間45分。成田に到着したら、佃に荷物放り込んで、いきなりアローカメラ。それから倶楽部エダム。その後、あの写真部の月例会だ。

ラウンジの係りの青年にシャワーの鍵を借りる時、話しをした。彼は先月、広島と長崎と東京に行った由。「天鵞絨革命の時、君なんか生まれてなかったでしょ」と聞いたら「ぼくは5才でした」とのこと。革命の時に5才という若者多し。これがプラハの将来の「団塊の世代」になるのであろか?

2010年1月22日 (金)

チューリッヒの名門カメラ店のウインドウ

P1203269 P1203272 P1203278 P1203277 本日移動日。PRGSVONRT。

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1973年に初めてウイーンに行った時、偶然に発見したのが49番ぞいのカメラ店、フォトオラーターであって、以来長いおつきあいになった。
15年ほど前のチューリッヒでは湖に向かう、目抜き通りの東側のパラレルな小路でアルパの旧型などを視たが高かった。
15年後に、駅からまっすぐに湖に向かう、メーンの通り、バーンホーフストラーセでコッホという100年になるカメラ店を「発見」した。駅前通りというのは、独逸語圏で一番多い地名であろう。駅前にバーンホーフストラーセありである。
普通はじょぼくれた通りが多い。チューリッヒでも駅のそばの店はケバブ屋があったり100円ショップがあったりで庶民的だが、通りを南に下がってチューリッヒ湖の方に行くと、俄然高級店が多くなるので、美豚とかかるちえとか、なんとかとかが並ぶ。自分には関係ない通りなので足早に通り過ぎようとしたら、このカメラ店に出会ったわけである。高級店街のカメラ店というのは独逸圏では珍しい。大体がカメラ店(特に中古カメラ店)はレッドランタン街にあるのが普通だ。ミュンヘンなどがその良い例である。駅前のレッドランタン街には中古カメラ屋があり、高級なオペラ座の前には高級時計店がある。その意味で、チューリッヒのこの店は変則的だ。
店の正面のウインドウにはペンデジタルが鎮座している。ペンデジタル1である。1月は並びの美豚でもどこでも、バーゲンであるから、このペンデジタルも見切り値段である。価格はご覧の通り。スイスフラン表示。
あたしの狙い目は脇のウインドウである。欧州のカメラ店は正面が新品で脇は中古という伝統がある。ライカとかその付属品とかが並んでいるのでこれは嬉しくなった。ライツの90ミリとアルパの180ミリとニッコールの85ミリが並んでいるのが圧巻だ。特にアルパの180ミリは半額以下の大バーゲンである。
オンラインでカメラを探すのではなく、マイナス3度の寒さでカメラを探す方が興が深い。

2010年1月21日 (木)

ジュネーブ通信その3(時計BEGIN編集部特派のあたし)

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本日、ジュネーブからインターシテイで3時間かけて、チューリッヒに来た。

チエコ航空はジュネーブ・プラハの直行便がないので、スイスの西から東まで列車で移動したわけである。これに3時間かけて、チューリッヒからプラハが飛行時間が1時間なのであるから、地理学上の混乱が生じる。
十数年ぶりのチューリッヒだが、ここは真冬に来る街ではないことを再確認。チューリッヒ湖までバンホーフ通りを歩いた。高級宝飾店の通りに100年の伝統のあるカメラ店を発見したのが、唯一の手柄だ。アルパの180ミリのレンズ、例の名前忘れたが、オールドデルフトのを売っていた。安かったがすでに数本持っているので買わず。

だいたいがスイスという国の存在をこの30年来、認識していなかった、そのことを今回「深く反省」しているのであるが、考えてみれば昔からスイスのカメラは沢山持っている。アルパの初期モデルは、アルネアというのであるが、あれは50年代の日本のミランダがまだ登場する前の代表的な一眼レフであって、そのスタイルを「スイスの電気機関車に似ている」とずっと以前からあたしの本の中で書いてきたのである。その時代背景は1970年代のことであって、確かにあの頃のスイス国鉄は実にクラシックな「でこぼこスタイル」の電気機関車であって、その印象があまりに強烈なので「工業デザインというのはここまでグロテスクになることが可能なのか」と感嘆するほどであった。その電気機関車は直接に所有することが出来ないから、その代償行為という意味でアルパを手にしたわけである。
今回、21世紀も10年が経過した時点で、実に久しぶりにスイスに来て自分なりに発見したのは、新しい電気機関車があるということは当然であるが、そのデザインに注目した。新しい電気機関車のデザインはこういうのだけど、これは何と言うべきか、変にボリュームのある、やはり「悪夢系デザイン」なのであるが、そのデザインがなんと70年代のアルパ10型以降のデザインになんとなく似ているのである。
アルパカメラを今回スイスに持ってこなかったのは失敗であったのだが、スイスデザインの新たなベクトル方向(長年、axisでカメラの工業デザイン評をやっていたのですぐにこういう言い方になってしまう)を発見した思いであった。

思うに時計のデザインといういうのはコンサバの極みであるわけで、すでにそのデザインが完成され尽くしている。もうこれ以上はいじくりようのない段階に達しているわけで、だからその分、会社の倉庫を漁って古い図面を探し出して、その分、復刻もしやすいのであろうが、これが日本のカメラの場合にはいくら古くてもこの半世紀来の話になってしまう。デザインというのは恐ろしい存在であって、そこらは「企業努力」などで解決できるレベルの話ではないのだ。やはり時間の蓄積という以外にないのである。P1203317

ジュネーブは仏蘭西語でチューリッヒが独逸語でそれで南部に伊太利亜語を話す地域があって、それで永世中立国でお金儲けが上手という瑞西という国の存在を再確認したのが今回の大成果。

あ、それとコーヒーがまずくて、パンがまずいと言うのもこれは瑞西の伝統なのである。これは欠点ではない。瑞西の個性なのだ。だから将来も堅持してもらいたい。

2010年1月20日 (水)

ジュネーブ通信その2(時計BEGIN編集部特派のあたし)

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ジュネーブサロン三日目。
興味のあるのは、サロンの皆さんがどのような腕時計をつけているかという点だ。我が時計BEGINの編集長は初日はIWCであった。これはその日にIWCのトップにインタビューがあるから、そういう戦略なのであるが、そう言えば編集長はこの前、東京のヒルズで会った時はパネライだったな。
プレスクラブに到着するとすぐに、炭酸水の冷えたのを一杯もらうのだが(あたしの1泊150フランのインターネットダイヤルアップの木賃宿には冷蔵庫もない)それがなかなか冷えてうまい。それよりも吃驚なのは、そのバーテンダーさんの腕のブランドは不確かながら、凄いコンプリケーションに目が行ってしまう。
プレスセンターで仕事していたら隣の席に座った台湾の女子がパネライだった。パネライの関係者さんだからこれは当然である。8年ほど前、フィレンツエの広場でライカM3を買ったついでに、向かいのパネライのショールームにアポ無し取材をさせてもらったことがあった。FMの時計をつけた変な東洋人が来たが、入れて良いかどうかがすぐにミラノの本部に問い合わせされた。
それで許可されていろいろ見せてもらったことを、その台湾女子に話した。

さて、あたしの「ジュネーブサロンの時計」はご覧のような、シチズンの新幹線時計である。20年前に500円で買った。これは国鉄の払い下げなのである。最近値段を調べたら、なんと2カメラ円になっている。これこそ「インベストメントの勝利」である。最初はパルサーのデッドコピーの赤色ダイオード時計(実際にジュネーブに持ってきた)と思ったが、ジュネーブサロンの伝統と名誉を傷つけるような気がして止めにした。

それぞれのウオッチの関係者さんならまさか「競合他社」の腕時計をつけている筈はないから、ある程度、それぞれの時計人類の腕を見ればその所属が判定できる。

今日はジュネーブを発って、チューリッヒを瞬視して、「故郷のプラハ」に戻る。
短い滞在であったが、今回のジュネーブ訪問で時計の価値感が変わった。現代のメカ式時計というのは、信仰の一種であることを確認した。その詳しい内容な次号の「時計BEGIN」で展開の予定。

2010年1月19日 (火)

ジュネーブ通信(時計BEGIN編集部特派のあたし)

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http://youtu.be/s1rpaZT3d2w?a

ジュネーブは27年ぶりとも28年ぶりとも思われるが、ともかくこの前にスイスに来たのは十数年前のシャフハウゼンなのだから前世紀の話しだ。あの時はジナー社のトップのコッホ君(まだ彼が結婚する前)を訪ねて、彼の独身アパートでワインをしたたかに飲んで、ドナウの源流を撮影した。その時は彼のおじいさんが最初に作ったジナーカメラを貸してもらったのである。スイスはカメラ王国だったな。
爾来、あたしの脳内にはスイスという言葉が存在しなかった。それが今回は時計BEGINの「特派」という形で実に久しぶりのスイス訪問なので、欧州の見方が変わった。
もっとも編修部はシニアに優しいから「勝手に動いて結構です。市内なども撮影なさってください」との思いやりにて実に有り難い。

もっとも仕事の出来るスタッフが何班にも分かれて夜討ち朝駆けで、著名ブランドメーカーの社長さんを取材したり、プレス発表に出たり、工場の撮影をしたりのフル回転だ。こういう限られた時間に仕事をこなすのは編集長が仕事慣れしていることもあるが、全体のチームワークが優秀なせいであろう。それに若いこともその最大の理由だ。
逆に還暦過ぎがうろうろしては足手まといになるので、そこら辺はわきまえているつもりだが、同時に自分で自由にサロンの会場と街を見学できるのは実に有り難い。
それにしても時計業界はかつてのデジタルショック以来よくここまで復興したという感慨が深い。

今度の最高の出会いは松山猛さんに「遭遇」できたことだ。ここら辺は時計BEGIN編集長の編集の技なのである。なにしろ「帰ってきたヨッパライ」を生で聞いていた土地の古老があたしだし、最近ではアメックスのプラチナ会員誌で「旅する編集長」を愛読したくちなのである。

松山さんもあたしのカメラ本を読んでいてくれた。それでいきなりカメラの話になった。松山さんの持参のカメラはパナソニックの一眼レフである。レンズはシュタインハイルの35ミリのマクロクイノンである。これは50年代にアメリカ市場に出された高級レンズである。10年前はアメリカあたりでは捨て値であったのが、この数年来は高価だ。松山さんはかなり安く手に入れられたらしい。P1182743

牢名主ならぬ「ジュネーブサロン名主」である、松山さん夫妻に会場を案内していただいた。スタッフ専用のカンテーナがなかなか良い感じだ。四方山の話しをしつつ、松山さんと赤ワイン各3倍づつ。

ジュネーブの新作時計ですか?

バチエロンコンスタンチンのブレス発表を傍聴したが、記者会見の言語が日本語なのでこれはかなり吃驚した。長年行ってたケルンのフォトキナでは英語かドイツ語が普通なのであ る。考えて見れば、ジュネーブサロンは「日本人」がお客様なのである。要するにアメリカ、ドイツ、中国、アラブ、ブラジル、ロシアという具合に顧客を分け て案内するのであろう。いよいよ、BRIC諸国が経済のメーンとなる時代だな。

ああ、そういうことか。と納得した。

P1192821 ジュネーブは何時も飛行機の上からリスボンに行く時に見ていたのが普通であったので、地上で見るジュネーブは周囲に雪山が迫ったなかなかの風光明媚であるが、街はなんとなく実務めいていて好きにはなれない。嫌いなのは例の大噴水だが季節外れなので噴水はなかったので安心した。町並みは言うもおろかながら、「商売商売」という感じで目抜きの通りには高級宝飾店と個人銀行ばかり。目抜きの銀行のファサードを見て吃驚した。ガラスを破壊して中に入ろうとした痕跡が凄い。天賞堂の例の盗難は関係者が居ても気が付かなかったそうだが、この強化ガラス突破の「あらっぽい犯行」はレマン湖にその槌音も響き渡ったことであろう。それで結局は侵入できず。

逆に言えば「我が銀行はこんなに安全です」という広告にもなる。それでわざと修理をせずに撤去しないでいるのか。

2010年1月18日 (月)

SIHHの初日

Img_0808 ジュネーブ初日。
日曜の午後5時にプラハを出る飛行機が2時間遅れた。機材のやりくりがつかなかったのと、デ・アイスというのであるが、飛行機の翼の氷を作業車が取る作業が長引いて遅くチューリッヒに到着。プラットホームでこれから乗務する車掌さんをつかまえてジュネーブへのコネクションを聞いた。5年ぶりのドイツ語だがいきなり話し初めてちゃんと通じたので驚いた。こちらはウイーン弁だし向こうはスイスドイツ語だから奇跡のようなものだ。
ジュネーブへの直行はないので、ローザンヌで乗り換えたが、列車が15分ほど遅れたので気を遣ったが、これは最終のコネクションなのでちゃんと待っていてくれた。それで四半世紀ぶりにジュネーブ。
真夜中に駅前のホテルに到着して4時間ほど眠った。それでジュネーブ空港の側、パレクスポのSIHHに朝8時半に着いて、こうして仕事開始なわけである。
あ、「偽名」で入ってます。

スーバー6を持ってGENFに

Img_0786 プラハのアトリエには「売るほど」カメラがあるが、それは東京に居る時にはその在庫を忘れている。
やはりデジカメの他にフィルムカメラを持参しないと「腹の虫」(これは庚申の虫か?)が収まらないので、今回も思案のあげく持参したのがスーパー6である。これはアメリカの俗称にて形式名は533/16というのであるが、これは東のツアイス製ではなく、西ドイツのシュツットガルト製だ。その造りはほれぼれするほどで、今、机の上にこのカメラを置いて眺めてたら背景にあるベッドライトの反射を受けて、巻き上げノブのダイヤモンド仕上げが虹色に光ったので、吃驚した。
戦前のイコンタは11枚撮りであったが、その理由は分からない。恐らく巻き上げが不安定なのでコマ間隔の安全を見て、11枚にしたのであろう。
この戦後の西ドイツモデルは、12枚撮れる。そのメーターの受光部もなんとなく、西側のコンタックス3aに似ているのが面白い。
このスーパー6に120フィルムは20本だけ持って、ジュネーブを撮影してくるつもりだ。

2010年1月17日 (日)

雪のプラハを歩く

P1112088 P1112096 思い起こせば、70年代後半のまだ社会主義国時代のプラハで雪に遭った。その時はウイーンから出かけたのであるが、持って行ったカメラはコンタックス1型の例の黒いやつで、レンズはジュピターの50ミリf1,5が付いていた。当時はモノクロフィルムを買うのにも苦労していたので、フィルムはもっぱらウイーンのマリアヒルファー通りの「ムービーセンター」で期限きれの東ドイツのQRWOとか、伊太利亜製のなんとか言うのを買った。それらはすでに古いからトーンカーブが寝ていて、ようするにだれたコントラストなのであるが、そのコントラストは当時のいかにもうら寂しいウイーンとか東欧のプラハに相応しく思えた。
そのコンタックスと期限切れフィルムでプラハの旧市街を撮影するとき、コンタックス1型のフィルム巻き上げノブはトルクが重いので指が痛くなった。今でもあの時、雪のプラハを撮影した界わいを歩行していると、それが夏でも秋でもその大昔の雪のプラハを思い出すのは不思議な次第である。
自分の記憶ではあの70年代の半ばがかなりのレベルのプラハの大雪だった。2009年の1月、ちょうど一年前もプラハは雪であったが、今年のそれに比較すれば大したことはない。
ペンデジタル2を持って、その大雪のプラハを撮影した。気にくわないのは、こういう画像を撮ってしまうと、良く似たカラーリトグラフを以前、プラハのどこかのレストランの壁に見たような気がしてそれで、幾分興ざめしてしまうのである。
その感覚はたとえば、NHKのラジオで昨年のクリスマスイブに「せっかくのクリスマスなのに、ホワイトクリスマスでなくて残念でした」となどと言っている、あの俗物さ加減と似ているのである。
雪なんてものに、情緒を求めるのはもともと間違っているのであろう。

2010年1月16日 (土)

プラハで30年前の自分に出会う

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ルツエルナは1908年に出来たアールヌーボー風の建物である。その古い仏壇めいたインテリアはあまり好きではないから、この30年来足を踏み入れたことはなかった。中には500席の劇場もある複合施設だが、これがハベル元大統領のおじいさんが設計したので、宮殿めくエントランスの階段の上には、その銅像がある。孫にそっくり(遺伝学から言えばその逆)だが、建築家の像をこんなに立派に提示していいのか。これが竣工当時のものとすれば、彼、バーツラフ・ハベル〔元大統領と同じ名前)の人間性を疑う。これは彼の死後に制作されたものであろう。
会場は300席ほどあるグランカフェで、カウンターが「デコデコ」でその上にはオーケストラピットがある。まずこういう「日光東照宮」はインテリアに金がかかりすぎて、現代では無理である。
その中に25ほどのフレームを展示。60点ほどのプリントが点在する。「東京ルーム」というのを造りそこだけは1月1日に撮影したデジカメ画像をヒルズのゼロックスで出力したのを並べた。3月半ばまで開催中。

あたしの紹介パネルで、30年前の自分に出会えて嬉しかった。30代のあたしは胸からソ連製のパノラマカメラをぶら下げ、金属のトランクを手に元気いっぱいである。それから30年後のあたしはしらがのじじいでやはりパノラマカメラを手にしてなにやら「物知りずら」をしている。年齢を重ねると黄門さまの嫌みが出るとはこういうことを言うのであろう。
30年前のあたしの一連のスナップ(これはプラハのPの撮影)を見て、あの時は昨年、亡くなった平木収がプラハを初訪問した時で「同行記者団」の代表取材撮影があったことを思い出したのである。それを思い出すと今度は記憶の糸がつぎつぎにほぐれて、あの時泊まったのは王宮裏のすこぶる不便な場所のホテルサボイ(昔は三つ星であったが、今は改装されて五つ星のホテル)であったとか、そこのホテルのカフェのおねえさんが非常なミニスカート(当時すでに時代遅れだった)で、同時に闇の両替屋であったこととか、最初に平木をプラハの駅に迎えに行った時、「この世の中に俺より丸顔の人間がいるのか!」と感心したこととかなどが連続に思い出された。最近のことは忘れるが、30年前の記憶は自由自在なのがじじい特権だ。
たしかこのプラハ訪問の後、平木はあたしのウイーンのアパートに数日滞在して、それから巴里に発った記憶あり。実はその後の平木とはまったく付き合いがない。日本に戻って何かの集会で平木に会った時、「ぼくはワインをこよなく愛する」とか言っていたのは個人の嗜好の好き勝手だから良いとして、平木がワイングラスを小指を立てて持っているのには参った。どこでそんな「小技」を覚えてきたのかと思った。P1142307_2

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2010年1月15日 (金)

HCBのライカM3と速写ケース

A446 先週の木曜は7日であるが、都写美で「HCBとイヘイキムラ」に関して「講演」した。聞き手は金子隆一さん。あたしの話しは脱線が普通であるから、一昨年の夏にNYKの氷川丸での講演でも脱線しすぎて、最前列のおばさまに叱られた。最後列で傍聴していた博報堂の関係者さんは青くなったようであるが、すぐに軌道修正。あたしは「修正主義者」だから叱られるとすぐに本道に戻る。
それで都写美の後に、木星珠倶楽部で盛り上がったのは良いが、プラハに来て、倶楽部員が都写美のパンフに出ていたHCBの速写ケースなどが盛り上がりそれで木星珠でそれのレプリカを作ろうという話になった。

一方で木星倶楽部メンバーがHCB関係の画像を捜索して、こんなのが出た。ライカ社のお墨付きである。どうもM6時代のようであるが、このぼろぼろのズミクロンはあたしの「ライカを買う理由」(東京書籍)の表紙に掲載されてるが、凄いクロームのはげ方だ。

本物はこうでなくてはならない。

さて、今夕からプラハのギャラリーで展覧会。今からフェルニサージュに出かける。なんでもハベル元大統領(の弟さん)も駆けつけるという沸騰ぶりである。

2010年1月14日 (木)

画廊男・佐藤洋一ビッグバンから2年

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2008年1月14日は、新川の「ギャラリー・ノット・イコール・ギャラリー」で画廊男が彼の人生最大のアート行為を実行した日であった。現在美術家が肉体を道具にしているのなら、その最大のイベントは自らの存在に手を加える行為である。「ビッグバン」。

画廊男がビックバンする直前に、あたしの個展をしようという計画があった。毎日、界わいを撮影したデジタル画像をリアルタイムでプリント展示しようというのである。その計画に興味を持ったので、あたしがスポンサー探しを開始したやさきに、画廊男は自分の存在にかかわる最大のショーを開示してしまったので計画は停止した。

先週末にプラハに着陸するときに、画廊男のビッグバンは何日であったのか、そのことをふっと思い出したのだが、さっき、関係者さんから14日に追悼記念のイベントがあるとメールがあった。
それでその集会に参加する意味で、ここに「ギャラリーノットイコールギャラリー」のオープン直前の佐藤洋一の画像を載せておく。
14日からのあたしのプラハでの展示には1月1日にペンデジタルで撮影した画像の展示もある。なにか2年前の画廊男との約束がここに成就したと考えている。

佐藤洋一はあたしの周囲の変わり者の中で「形而上学的な話題」で何時間でも会話のできる人間だった。カメラのレンズの話しもした。木星珠の話しもした。もっともそのほとんどの時間は、近所の酒屋で買ってきた「北杜」という安ういすきを1時間で二人で空にする行為に費やされた。
だから画廊男と、あの河面を見晴らす二階で「ここはベニスのキャナルグランデだ」と盛り上がっていた。あの後、その「北杜」を買うのを止めていたのだが、最近また画廊男のことを思い出しつつ飲んでいる。

2010年1月13日 (水)

DIMEでいふぉん

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DIMEでiphonの話しをやるようで、こっちにまで依頼が来た。ありがたい次第である。最初は記事を送って、写真を送る予定であったが、先週の金曜にモスクワでプラハ行きの便に乗り換え時にSVOのラウンジでメールを見たら、取材においでになりたいリクエストあり。
でもプラハまで来てもらうのは恐縮なので、やはりこっちからメールで原稿を送ることにした。
顔写真が必要なのであるが、担当者さんから「証明写真みたいのではないのを」とリクエストがあったので、アトリエのエントランスに3年前に新設した鏡に向かってこれを撮影した。
それまでは20年来アトリエには鏡というものがなかったのである。だからプラハのこのアトリエに20年来棲んでいて、自分は常に20年前の40才になったばかりの自分であると思っていた。これは恐ろしい時代錯誤である。鏡のないということはそういうことであって、自分がじじいになっていることに気が付かないで、まだ若い、まだ若いと勘違いしていたのである。
それで鏡がアトリエに入って、ちゃんと自分の存在と年齢が自己確認できることになった。
ところであたしのいふぉんはまずケータイ電話として使っていない。一方でこのDIMEのいふぉん特集に登場する諸氏はアプリ使い倒しているプロの面々であろうから、自分のいふぉんの使い方はかなり変わっているであろうと思う。
普通にはどのような使い方をするのか、そのことが分かるからDIMEが楽しみである。それにしても不思議なのはいふぉんのカメラは想像以上に良く写ることだ。パネル上をタッチすると、すっとそこにピントが合って、露光も合う。下手なデジカメよりもその操作性はかなり高い。デジカメ各社さんは「競合他社のデジカメ」はよく調査研究しているかも知れないが、案外いふぉんに関しては「非競合他社他商品」という認識があるのではないか。いふぉんを相手にものを考えると案外にデジカメも面白い所に行くのではないかなと愚考。Img_0740

2010年1月12日 (火)

パレ・ルツエルナ Palac Lucerna

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1月14日からの写真展示の案内状。
場所はパレ・ルツエルナという。この巨大建物は1907年とかにバーツラフ・ハベル元大統領のおじいさんの同じ名前のバーツラフさんが設計した「歴史的な建物」である。当時(今でも)これだけの手の込んだ建物はなかった。ベンツエンスラフ広場で一番に目立つ。ここに中央ヨーッロッパで最初の日本レストランも同じ年に出来ている。まあ、現代の「シネコン」とか「文化村」の走りのようなものだ。
新潮の3月号の連載「屋根裏プラハ」では、「キュビズム建築」のことを書いている。キュビズム建築は好きだけど、この手の「デコデコ建築」は嫌いだ。というのはあたしはウイーンでもプラハでもブリュッセルでも巴里でも、そしてバルセロナでも、いわゆる「アールヌーボー」や「セセッション」や「ユーゲントシュテイル」様式が大嫌いなのだ。その装飾過剰ぶりが嫌なのである。日本で嫌いなのはだから、日光東照宮とか昔の目黒雅叙園などは大嫌いで、雅叙園のトイレの内装の黒漆と螺鈿細工などはいまだに「悪夢」に登場するほどである。
パレ・ルツエルナもどこか「装飾過剰な成金趣味の仏壇」のような感じがして足を遠ざけていたのだが、まあ今回は仕方なし。
それで「屋根裏プラハ」の次々回あたりで、あたしの写真展示のレセプションのことを書こうと思った。ハベル元首相の兄弟がレセプションに来ると関係者から聞いた。これは格好のプラハ人観察の現場になりそうだ。
また単純な地元のローカル新聞の若い記者が「あなたの写真は何を表現しているのですか?」という未熟な質問をしてくるのであろう。
「何も言うことはない。写真をちゃんと見ろ!」と言ってやろう。

このチラシの2点の画像だが、これはキュレーターがうまいセレクションをしたと思う。左の建物は市内のど真ん中の歴史的建築だが、これはかの素木偶もパノラマカメラの縦位置で撮影している。それに配するに、極東の魔都の「第二電波塔」である。プラハの電波塔もなかなかにグロテスクだし、旧東ベルリン時代の電波塔の存在感の恐ろしさは何度もエッセイに書いた。それは良いとして、成長中の極東の第二電波塔だが、こうしてプラハで見るとその存在の根底が見えて、かなり怖いことに気が付いた。
ロドチエンコがデザインした電波塔はあれはスケッチだけであったが、90年代にソ連のデザインを回顧する一大展覧会が「西ヨーロッパ」を巡回した当時、そのデザインを実物の1/10かで実際に制作したのである。それでもウイーンの博物館の高い天井につかえるほどだったが、あのロドチエンコタワーの「悪夢部分」をさらに強調したのが、建設中の押上タワーなのである。もっともこの怖さは日本で隅田川の上流の点景として見ている限りでは、それを感じないから問題はなし。Img_0742

2010年1月11日 (月)

雪のプラハ

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自分の記憶によれば、20年来のプラハの大雪だ。4年前だったかやはり1月にプラハに来て、その時は帰国の便(アムス経由)が最後でその後、数日空港閉鎖になったそうだが、これは積雪のせいではなかったらしい。土地の古老のプラハ人も「10年来の大雪」という。それが金曜の朝から「予告もなし」に降り出してこの大雪だ。その一番激しい時にあたしは、700メーターほどをトランクで雪かきしながらアトリエまでなんとかたどりついたわけである。
老人の特徴だが、疲れはすぐには出ない。3日後(というのは今日)あたりからじんわりと体の接合部分が痛んでくる。
注意が必要だ。
ただ、雪の中ではあまり寒く感じない。確かに気温はマイナスなのであるが、プラハの雪っていうのが湿度が100㌫(ほかも同じであろうが)だし、風がないから寒くはない。寒さというよりも体の中が清められるような身体感覚である。
六本木ヒルズであれは5年ほど前に、東京でそこそこの降雪があり、ろくろく広場にスノーマンができた。それが珍しいのでデジカメで撮影したが、翌日には溶けてしまった。
プラハのアトリエの冷蔵庫はいい加減な奴であるから、モノを冷やすのには向いていない。それでウオッカを飲るのに、天窓開けて「つらら」を折って口に入れるのが痛快であった。今回も試そうと思ったら、まだ雪が溶けないので「つらら」は出来ていない。それで一案を考えついて、ウオッカは天窓の外に吊した。これは天然冷蔵庫ではなはだ具合がいい。
バブル当時、飛行機はわざとfに乗って、ホテルは1つ★という「モノ好き」をやったことがあった。北駅付近の市場でまぐろを買って、それをホテルの窓の外にぶら下げたことを思い出す。

2010年1月10日 (日)

雪のモスクワ

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モスクワ空港は雪。プラハ空港も同じ。その積雪量みてるとやはり雪慣れしてることが分かる。日本でこの半分でも降ったらすぐに空港閉鎖だ。
ところで昨日のsvoprgはオンタイムで搭乗したのに、テイクオフが順番待ちで45分。さらにprg上空でホールドして45分。窓からオリオンの三つ星がなんどもぐるぐる廻った。結局1時間半の遅れ。友人などにクルマでピックアップしてもらわんでよかった。前回のプラハは8月であったがこの時もsvoprgは1時間近く遅れた。まあモスクワでの荷物の積み残しがなかっただけありがたいが(昨年の1月)1時間ほど空港であたしの札を持って待たせたリムジンのシエーファーさんにチップをはずんだ。これが友人知人ではチップをはずむわけには行かないから、結局、「高いもの」になる。それで昨日はエアポートタクシーを使うのもしゃくだから、119番のバスにのって、メトロA線のデービッツカ駅まで来た。バスの中でプラハ在住のカメラ女子(リンクはってある人)に遭遇したりでプラハは狭い。
それで雪の行軍となったわけだが、普段なら5分の道のりを雪に難渋して30分かかった。
先週の木曜の都写美のHCBの映画でモスクワ近郊のスズダリの雪景色を撮影した作品があって、それを語る女優さんが「まあ、まるでブリューゲルみたい」と言うので腹をたてた。ブリューゲルと雪景色ではあまり「平凡」な見立てであって、日曜美術館レベルである。まあ仕方ない。

モスクワ空港の雪景色はいい。出発前にこれは他では見たことないのだけど、作業車が飛行機に接近してシャワーみたいので機体を洗うのである。なにか不凍液みたいなのを使うのか。その噴射部の先にはライトが付いている。その動きが「クリクリ」していてまるでカメレオンの目玉である。これはSUの立派なエンタメである。

2010年1月 9日 (土)

木星珠倶楽部通信「観音0.95はエルマノックス」デアル。

Img_0725 七草の東京都写真美術館での「木村  +HCB」展の金子隆一さんとのトークは満員御礼で終了。そのことはプラハで良く考えて書くのだけど、その前に木星珠倶楽部新年会のご報告。
恵比寿でのトークの後、わざわざメトロを乗り継いで、清澄の「エダムクラブ」まで行く。そこはすでに満員であったので、木星珠得意の場外露店派遣村スタイルの宴会となる。最初はあたし持参の木星珠50MMF2をライカM2ブラックライカビット付きに付け、それを今度は高千穂電子写真機筆型2式に付けて遊んでいたのだが、野々宮BMW持参の観音50MMF0,95を筆型2式に付けてみた。まずデザインのアンバランス感覚がいい。これは工業デザインの勝利である。しかも事前に「打ち合わせなし」でこれだけのアンバランスな調和を生んでいるのが凄い。エーリッヒ・ザロモンは、エルマノックスで男を挙げたが、この観音もその可能性大だ。これがなかなか遊べるのである。ちょうどアメリカから反のくの闘志「いいおとこ」さんが見えたので、反のくメットをかぶってもらいめでたい新年会となる。
良い年した大人がこんなことしてていいのか?
まったく問題なしである。七草の都写美のHCBの映画会ではかの巨匠も自作のプリント前にして冗談ばかり。曰く「あたしゃ、写真には入れ込まない」「写真はやっつけ仕事がいい。パン!」(と銃を撃つまね)「過去なんてどうだっていい。でも写真っていきなり過去が表出する。ちょうどゲップみたにね」そして極めつきは「あたしゃその日暮らしだよ」だと。P1071957 P1071962

作例は高千穂電子写真機筆型2式 観音50,MMF0,95 絞りは開放。100万円ののくちに対する「鏡玉開放人民戦線」。
@PRAHAにて〔嘘,NRTのDELTAラウンジにて)

2010年1月 8日 (金)

200100105東京大周遊

本日移動日。
NRTSVOPRG

P1051652 P1051637 2010年の東京大周遊。今年最初のソロ飛行である。日本路地裏学会の桃木会長は時間のすりあわせができず。まず市ヶ谷から曙橋。住吉公園に数年ぶりに行く。この公園は好きだ。その裏手は女子医大を隔てて深い谷になっている。この急な土地感覚がまるでリスボンを思わせるような高低差の超絶感がある。リスボンの良く似た通りを歩行しつつ、思案していたのがすぐ近所の急坂の途中にあった「リスボンの見えないカメラ店」の奥の金庫から店主の出してきたライカM2のブラックペイントを買おうか、それともM2ーMの方にしようかなどという贅沢な買い物の悩みであった。そのカメラ店も2年前に「あの写真部」の福田和也同志が調査に行ったらすでに無く、その店はケータイ屋か何かになっていた。
住吉公園は日当たりの良い高度差のある公園でその公園の看板のロゴも古いからさぞかし歴史もあるのであろう。造りの良さは大事だ。似たようなしかしもっと有名なのはこの近所の夏目公園である。漱石の旧居があって内田栄三がどきどきしつつ通った跡地であるが、ここは造りが悪いので駄目である。
住吉公園の脇は急坂になっていて、そこに朽ち果てた木造建築がある。これがラーメン屋であるが、そののれんは坂の通りに向いていなくて、その建物に入る行き止まりの路地にむいて暖簾が出ている。それが何となく奥ゆかしい。
暖かい日差しを受けて上から雀の声がする。見上げればそこの落葉した灌木に雀が2ダースも並んで「チャン村」が出来ているのであった。
さっきから公園の反対のベンチでゆっくり食事をしていた老女がまるで日常の動作で、シーソーの脇の水飲み台まで来て、その水飲み台の脇の下にある蛇口から水を出してはみがきをしている。どうもショッピングバッグレデイらしい。その行動がいかにも慣れている感じで規則正しい生活者に見えた。

カメラはペンデジタル2にズーム。正方形の画面で撮っているとなにか、ワイドローライで撮影している気分になる。16GBのカードが入っているので8000枚撮りの120フィルムを666本持ち歩いている計算か。

2010年1月 7日 (木)

東京の空の上の雲

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大晦日の日も終日、ヒルズのワークスペースで仕事したが、この日はあたしのヒルズでの7年間で一番、雲が綺麗というかドラマチックに見えた日だった。こういう幸運はありそうでなかなかない。特に午後からはその傾向が強まってこれは風が強いので雲の移動が早いからその影響で「野面」(のずら)に日の当たっているところと紫の影のある部分のコントラストがはっきり見えてそれがさらに都会の空のダイナミックさを強調するのである。
あれは1980年の11月の初めに、もう数日で7年半のウイーン滞在を後にして東京に戻るという日の遅い午後に、ウイーンの南にあるラーベルクという小高い丘に行った。ここは南からウイーンを北に向かって一望できる場所であるが、まだウイーンが近代都市化される前の感じがまだ良く保たれているのである。周囲には煉瓦造りの工場があり、ガスタンクがあって、それ以外の部分は野とも林ともつかない大都会の周辺地である。自分にはそのような都会と非都会のはざまの「どっちともつかない境界」をぶらぶらするのが好きなのだ。ウイーンに限っていえば、かのベートーベンが曲想を得た、ハイリゲンシュタットあたりの森はそれなりに素敵ではあるが、自分の好みはかの楽聖から70年ほど経過した時代、つまりそれまでは田園だったこのウイーン郊外に最初の電化の電車が走り始めた頃が好きなのである。
そういう19世紀末感覚の風景が大晦日の東京に見れたような錯覚が起こったのは何のことはない、空の雲のあり方が「ウイーンの午後風」であったからだ。でも自分の知る限り7年ぶりに眼にしたこの雲のドラマはそれなりに貴重なのである。
撮影はいふぉん32GBで撮った。

2010年1月 6日 (水)

正方形

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日本ならマミヤスケッチ。ドイツならロボットとか、テナックスが24x24で正方形の画面だ。正方形の画面は構図が造りにくいからいやだという人がいる。そういう人はカメラを構えるとその場所で5分も動かなくなって、構図と対話したりするのだ。そういう人に限って、レンズのぼけ味にうるさくて、絞りは真円でないと許さないという面倒な性格である。
ここに登場のテナックスは戦前のツアイス35ミリカメラとしては、コンタックスと並ぶ高品質の出来であるが、コンタックスより優れているのは、歴代のコンタックスは全部ノブ巻きであったのが、このカメラだけ唯一、レバー巻き上げである点だ。
正方形の画面が便利なのは、ロボットカメラの場合、これは第二次大戦のことだから、空中戦とか爆撃目標とかを撮影するのであろうから、機体にかなりの「G」のかかっている場合になにも構図もうんうんもないわけである。目標がちゃんと把握されているのが一番大事だから、その場合、レクタングラーが画面よりスクエアな画面の方が直感的に撮影しやすいのであろう。
しかも36枚撮りのフィルムで50枚撮れる。フィルムを2本持参すれば100本。10本で500ショットというのが心強い。まあ、ここらがフィルムカメラに関しての「連続ショット数」でそれを頼りにできる数なのである。
この前、装填したペンデジタル2に入っている16GBってのは、8000枚以上撮影ができる。これでは有り難さが激減してしまう。

テナックスはただ上から見ただけで、それぞれの部品がそれぞれの部分に収まって、しかもハーモニーを奏でている。ここらへんは日本のカメラの遠く及ぶ所ではない。

2010年1月 5日 (火)

鮹の足は何本か

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暮れの30日に河岸に行ってきた。この日は水曜だから休市日の筈であるのは、佃を出てから気が付いた。でも年末であるから市場は開いていると思った。大混乱なのでショートカットして一番最初に見かけた鮹を買った。これは何時もの自分の「買い物のルール」であって、最初に見たライカをケルンのドームの前のカメラ店で買うとか、同じく西武百貨店のペット売り場で最初に出会ったライカインコを買うとかいうのであって、今まで失敗したことがない。39年目の配偶者も然り。
トレードしたのは自重2キロの日本のパスポートっていうか、日本の排他的漁業水域の出身の鮹さんである。数年前、やはり年末に霜降り商店街を歩行中に小さな商店に大きな鮹が鎮座していた。それを買おうと思ったが撮影の途中だから荷物になるのでやめた。その買い物怨念が爆発したわけである。
家に持ち帰ったら立派なので感心した。花袋の文章だったか独歩だったか、場末の飯屋で馬方が鮹の足肴にしてとっくりを倒すというくだりがあって、その鮹の旨さがいかにもという感じだった。明治の鮹であるから、無論われわれが常に喰っているモーリタニア沖のそれではない。あれは内地産であろう。
その日の夕刻に早速試してみた。うまかったがあごが疲れた。普段喰っているモロッコとかモーリタニアのは柔らかだが、大和魂の鮹は気骨が入っている。
足を2本喰っていい加減に飽きたが、1月7日までの日本滞在中にこれを食い尽くさないと家人に迷惑がかかる。それで毎日、一本ずつ喰った。もう大分喰ったから残りは少ないであろうと調査したらまだ足は沢山ある。そうか鮹の足は10本だから、と思って考えたら10本は烏賊である。でもあたしの喰ったこの鮹さんの足はどうも10本の感じがする。食い残したらプラハに持って行く。モラビアの白と合いそうだ。
ウイーンのミュージアムで見た泰西名画の大作に南欧の魚市場が描かれている。そのシーンでオクトパスはなにかグロテスクに描かれている。脇にあざらしが居て、これは生きておって何か文句を言っている。当時の魚市場にはあざらしの放し飼いがあったものと見える。その絵の鮹がグロに見えるのはその絵描きが鮹嫌いであったせいであろう。馬鹿な奴である。

2010年1月 4日 (月)

キエフ2のフルセットの皮ケース

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あれはImg_0663 1970年代の半ば、プラハでソ連製カメラに血道を上げてた当時のことだ。なにしろ、伝説の清貧時代であるから、使えるカメラは安価なキエフしかなかった。それはベートーベンが何度目かの引っ越しをしたアパートにあるカメラ店で買ったのである。キエフと楽聖がパラレルで並ぶのがウイーンの凄いところだ。

それでプラハに遊びにいった時、知人からキエフ2型のフルセットを買わないかと持ちかけられた。カメラとユニバーサルファインダーと交換レンズが35,50,85,135なのである。ただし50mmだが、明るさf1,5とf2の二種類が付いている。これは昔のツアイスの伝統である。F2のゾナーは通常撮影。F1,5のゾナーは特殊レンズであるという認識があった。カメラ本体は古い方のキルル文字のやつだ。要するに、第二次大戦直後に生産された、名前はキエフだけど、その実態はコンタックスというカメラである。実物を見せられた。それはこの画像のと同じで、立派な皮ケースに入っていた。

その時は、ウイーンに住んでいた時代で、数日だけ来たプラハだし、持ち金が少なかったので、2000コルナという安値であったがそれを手にいれるのは見合わせた。帰りのウイーンへの汽車賃が怪しくなっていたからだ。

ウイーンから帰国したのが1980年。それからさらに時間が経過して、プラハで出会ったのと同じセットを手にいれたのが、このアウトフィットなのである。これは銀座松屋の中古カメラ市で、確か、早田カメラで買った。値段は忘れたけど早田ものであるから、安価というわけではない。このカメラセットは当時、世界で一番高価なアウトフィットであったわけだ。それはコンタックスのアウトフィットのであるわけだが、それを大国ソ連が国の力で無理矢理に東側製カメラにしてしまったが、その品物は実はツアイスそのものであるという、二重の意味でのブランドのひねりがあるのが、実に不思議だ。

思えば、自分の周囲のツアイスイコンのカメラはそのすべてが、ドレスデン製であり、イエナ製なのである。戦前のゾナーとか、戦後のジュピターなどはフィルムで撮影すると確かにコントラストが低いし、「変な色」であるかも知れないが、カラーネガで撮影してそれをちょっとトーンカーブを伸ばしてやったりすると、実に現代っぽい色合いになったりする。もっともあまりやり過ぎると現代の「単に綺麗に描写するレンズ」になってしまうから、何事も頃合いが大事である。

2010年1月 3日 (日)

元旦の江戸の闇

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元日。

例の如く、ヒルズで仕事して午後5時にオフィスを出た。毎年の例だが1月1日のみは通常24時間オープンのオフィスが午後7時には閉まるのである。日比谷線で佃に戻る時、日比谷で乗り換えるのを止めにしてそのまま八丁堀まで行った。プラハのラテルナで14日から開催の写真展では「1月1日のあたしの生活」を出品するので、朝、佃を出て、昼、ヒルズからの眺めなども撮影し、夕刻、色温度の上昇した大東京をヒルズから撮り、夕べ、八丁堀から徒歩、ライトアップされた中央大橋を撮影しようと思ったのだ。
八丁堀の運河の上でペンデジタルを構えて撮影してたら「あら。綺麗な風景ですねえ。すばらしいわ」と声がかかった。小柄な女であるが顔をこっちは見ていない。元旦の夜であるから周囲は真っ暗なのである。江戸の闇がまだそこにしゃがんでいる感じの暗さだ。その女の声が「宗教勧誘関係の声」なので、自分の中でアラートを発した。これは世界共通の声の性質だ。方向を変じて逃げるのも面倒だ。適当に会話しつつキリンビールの本社の手前まで歩いた。「今日もお仕事ですか」「ええ、仕事は休みなし。」「どういうお仕事なんですか」「あの物書きみたいなことを、、」「まあ、大変ですわねえ。」ここら辺で本題になりそうだと思った。「どんなのを書いてるんですか。本屋さんでみれますか」そろそろ面倒になってきた。「しんちょうっていうんですが」「え。しんちょうさんですか」「いえ、しんちょうはあたしの名前じゃありません。しんちょうって文芸誌があるんです。そこで連載書いてます。あたしの名前はたなかです」これは商売にならないと思ったのか。おんなの離脱ははやかった。「どうぞ、よいお歳を」といっていきなり真っ暗な車道に出て消えてしまった。その素早さ。ちょうどスクランブル体制の戦闘機が離脱するような感じだが、いきなり姿が消えたのはやはり「勧誘」だなと思った。職質ではこういう動きはしない。この界わいだと近くには「お岩稲荷さま」もある。案外、そこのお使いがあまりに寂しい江戸の元旦の夕べなので、ちょっかいを出しに来たのかも知れない。あたりはとっぷりの江戸の闇。ようように大川端まで来てペンデジタルで川とタワーを撮影し、今、さっき起こったことを反芻した。

2010年1月 2日 (土)

我がマジックガーデン

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日本のお正月味わう。来週から真冬のプラハである。

数年前の日記で、月島のマジックガーデンのことを書いた。この魔法の庭は相生橋のたもとの新佃島方向の堤防の内側のことなのである。もともと廃園趣味があって、本物の伊太利亜のそれなどは御免被るとしても、ちょっとした郊外で、初冬に秋の菊がそのまま立ち枯れていたりすると、妙に興深く思ってそれを撮影したりするのが楽しみで、思えば新婚当時だから、23歳の頃からの廃園趣味なのだから、年期が入っていたわけである。その後ウイーンのシエーンブルン宮殿の庭で「偽廃園」を発見て、極東の民ばかりではなく、かつてはマリアの「テレちゃん」にもそういう変な趣味があったことが分かって、その影響で「オーストラリア」が急に好きになった。その為、7年半も居住することになってしまったのであろう。この間、共同ビルクリニックの戻りにほぼ1年ぶりに門前仲町を縦断したのである。商船大学の北のコンクリの塀際の植栽は誰がやっているのかは知らないが、なんとなく「泰西風」なのである。それをいふぉんで撮影した。この手の色合いの微妙に異なるグリーンの中に紅やら朱を散らすのは、ウイーンのちょっと高級な花屋などが使う常套であるが、その色彩が越中島というのが気に入った。この画像はいふぉんで撮影。

なお、大好きだった「マジックガーデン」だが最近、久々に行ったら、綺麗に手直しされてしまって、その廃園気分が一掃されてしまったので、もう行くことはないと思う。廃園趣味からは遙かに遠い「区民の親しみ易い公園」になってしまった。

2010年1月 1日 (金)

新春特番 元旦の持ち物自慢

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        あたしの新春「持ち物自慢」ペンデジ2に10年落ちのタムロン28-200MM AF〔アローカメラでも買い取り拒否の銘玉)レクタフレックス(伊太利亜)にお年玉の木星珠180MM F2,8(製造番号180)時計はJLは外してシチズンホーマー(新幹線モノ)って、結局悪質「反ノク教条主義」

と、書いたらそれで140wになった。

あけましておめでとうございます。本年も「ペンペン チョートクカメラ日記」をご愛読よろしくお願いいたします!P1010776

ペンデジタルは目下、交換レンズが2本しかない。GXRも同様だがこれはもともとレンズ交換が出来ないのが売りだから、GXRで望遠撮影はあきらめて、競合他社のカメラに譲ることになると、ペンデジタルにはマウントアダプターがあるので、佃の不良レンズ在庫が楽しめる。これって、レンズ交換福笑いってやつだ。
ペンデジタルには10数年前にタムロンの広告の仕事で使ったズームレンズ28-200MMを付ける。ニコンFマウントなのでアダプターで。これが非常に調子いい。初日の出撮影用機材としてジャパネットあたりで万年青年が売りそうなモノ。
年末の「反のく集会」ではとぽごんトロッキストが枝村あじとで暴れて周囲にご迷惑をかけたが、白ヘル黒ヘルが並んで酒飲んでるようなけしからん世の中だ。ヘルメットが路上を占拠した時代を知らない年代のコスプレ芸闘委員なのだから仕方ないが、いっちょ、写真家オザワエイイチあたりの上級政治局員に指導してもらおう。
そこに赤ヘルが深川から自転車で駆けつけたのだが、赤ヘルはまだ赤ヘルもってないので、ホームセンターに(どこの!?)買いに行ったがないので、自家ペイントするそうだ。赤ヘル、ジグザグデモで財布落としたそうだ。これで7日の都写美のあたしのトークショーに各セクトが最前列で並ぶと馬鹿言ってるので、お前ら、本官の写真家生命を失墜させる気か!ナーンセンス!と叱って止めさせた。

それで上の「持ち物自慢」だが、フィルム一眼レフは伊太利亜製のレクタフレックスに限る。塩野七生先生には四半世紀前に滞在先のホテル帝国(って書くとどっかの駅裏のさかさくらげみたい)でお目にかかったが、ローマ噺もさることながら、今朝の朝日新聞の十字軍の新潮全面広告の塩野さんご自身のコメントの最後の数行はまさに意を得たりである。そのローマ興亡史ゆかりの羅馬製の一眼レフがレクタフレックス。下丸子や大井森前町のような海苔しびお台場白洋舎が見える極東環境でないのがゴージャス。
これに木星珠お年玉スペシャルの180MMF2,8を付ける。でっかいでっかい初日の出。
蓬莱山に舞い遊ぶ、ライカインコは千年、佃屋酒店の亀は万年。

謹賀新年 6Pチーズの味

Img_0662 新年のご挨拶は抜きである。

今更、謹賀新年でもないと気取っているのではない。自分にとってはこの1月は8日が新年だと思っている。それまでは2009年の仕事の残部をかたづけている感がある。8日からのプラハでちょっとはゆっくりして自分を見返してみたいが、すぐに展覧会があり、その次の週はジュネーブサロンでそれでまた東京に戻る。

国際問題、経済多難な2010年の念頭にあたり、6Pチーズの味というのを考えた。チーズではなくチースであるとは明治時代の名作にあるが、我々は濁ってチーズ。チーズを知ったのは小学生の時であるが、普通のナイフで切るのは、あれはバターと区別がつかないので良く理解していなかった。それが6Pチーズになって初めてその醍醐味に接した。これを保存食と思ったのは小学校の野外映画会(無論季節は夏)があって、それが満員でスクリーンの反対側から見ていたのだが、母が持たせてくれた6Pチーズを初めて味わってその美味に感激した。少しずつ食べて映画の終わり、その帰り道、小石川の屋敷町を通り、真っ暗な鼠坂を下る時まで口中にはチーズのかけらがあった。
ウイーンに居た時代にはちゃんとしたチーズを食っていたので、日本のプロセスチーズは「石けんみたい」だから喰わなかった。
ウイーンから戻ってそろそろ30年になるが、以来、日本の生活に慣れたのでプロセスチーズも食べるが、少年の時のあの6Pチーズは今のそれよりもっと硬くて、香りがあって、もっと黄色でそして味はとびきりによかった。これは昭和20年代から30年代なので、ろくな喰いものがなかった為の味覚の比較問題としてかたづけてしまうのは簡単であるが、実際、あの当時の6Pチーズの味は記憶の中にあるだけなので、検証するわけに行かない。それに比べるとクラシックカメラのレンズの味わいは今でも楽しめるからずっとそこに「醍醐味」がある。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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