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2009年12月31日 (木)

おおつごもり プラハの謎めく路上 1985

R8112036 Praha_1985_chotoku 1985年にかなりのショットをプラハで撮影した。まずデパートに行って300本ほどのソ連製のモノクロフィルムを買う。当時の社会主義体制ではどこに行ってもモノの値段は同じだった。それで百貨店でフィルムの大人買いができた。それを凄いペースで撮影した。カメラはプラウベルプロシフトでSA47ミリが付いていた。もっぱら6X9で撮影。その膨大なショットは現像して湾岸戦争の当時にプリントをした。それから10年経過して2007年頃に土浦のさかい写真研究室で残りをプリントした。
今回のプラハでの展示では、その1985年のプラハの路上写真を展示する。プラハから報道用に画像データが欲しい(すでに1月前に送ったが追加請求)と言ってきたので、プリントをGXRの50ミリ付きで複写した。思うにプラハの路上にある物体はその存在感が浮き立っているのが不思議である。
シュールと言ってしまえばそれまでだが、こういう風景はカラーではなくモノクロが生きている。このプラハの旧市街の街角は25年経過して、その感じはまったく変貌してしまった。まあ、それが写真の魅力なのである。だから町歩きは止められないわけだ。R8112035

2009年12月30日 (水)

「大晦日スペシャル」春、巴里で、ズマレックスで、カラーネガで

Pc300772 撮影してから9か月後に現像が上がった。現像に出さなかっただけなのであるが、フィルムはビニールの袋に入れて目立つ所にちゃんと保管しておいた。昔のポートワインはわざわざ船に乗せて時間稼ぎをして、味を良くしたようだが、それはフィルムにも当てはまるのであろうか。
巴里のボージュ広場は70年代の初め、初めて巴里に行った時に見物に行き、世の中にこんな場所があるるかと思った。あの当時、ポンピドーセンターはまだ完成してなくて、一方でレアールの古い「でんでん虫レストラン」がまだ営業中で、巨大なでんでん虫のフィギュアが店の上に掲げられていた。
レアールは俗な所ではあるが、その俗さ加減の中に「ここは巴里だぞ!文句あっか!」という巴里の開き直りがあるのが良い。
89560020 この時は思いつきで、メゾンライカ屋でズマレックス85MMを買った。隣にベルリンから来たモーターサイクルの皮のブロンド娘がノクチルックスの品定めをしていた。独逸の方が安いのでもないらしい。なにかのくちな事情がそこにありそうだ。これは重いレンズだから同時にライツの(注:ライカのではない)ベビーデユーテイ用のストラップも買った。60年代の総合型録に出てる、三脚穴の留め金のついているやつだ。そのズマレックスの値段は忘れたが、ストラップの方は50ユーロもして、高いなあと思った。ぶらぶら撮影を開始して、人間ライカメーターを使用し、バスチーユ広場からボージュ広場の周辺を撮影した。何時ものようにスーパー庵愚論21ミリで撮り、それから手に入れたばかりのズマレックスで撮影した。ライカM8ではないので、撮影するだけでその結果が一体どのように写っているのかもまったく分からない。返事の来ないラブレターを延々と書き続けるような感じがある。89490004
今、タイムラインで見れば、その巴里の記憶すら、ライカインコ4世の昇天の4か月も前のことだから、すでに遠い記憶になっている所に、現像が上がっていきなり昨年の4月が蘇ったのである。これがデジカメには真似の出来ない、フィルムライカのマジックというやつだ。
89490037 89490034 85ミリという長さのレンズは長年、ゾナーとか木星珠とか85ミリを使っているから今更でもないけど、ズマレックスはF8とかで撮影してる時には問題はないが、絞りを開放にすると、一点にしかピントが合わなくなるので、それを利用して写真で文学的なコンテクストを作ることができる。まあ、そういうのは自分にはあまり関係はないが。85ミリが面白いのはそこに空気感が出ることであろう。それに対して21ミリの方は強いていえば「空間感」とでも言える。メタフィジカルなと言い直した方が分かりやすいけど。しかし思うにやはりF1,5のレンズは重すぎて得策ではない。町歩きなら、90MMF4のエルマーで十分、というよりエルマーの方がいい。

ライカ夢の饗宴!?

R8110506 月一の東急BE(べ、と読む)カルチャースクールがなかなか痛快なのは、受講のライカ人類持参の意識とお道具のレベルの高いことだ。この前の講座ではこんな顔合わせになった。
東の横綱ライカMPにはノクチルックス50MMF1,2付き(F1でもなくF0,95でもないのが取り柄)と、ライカM9にはズミルックス35MM アスフェリカルF1,4付き。もともとBEは大人の集う集まりであるからそこでライカ宗教戦争が勃発する気遣いはないが、こう並べて見るとそれなりの話題性があって、実にゴージャスである。ライカMPは言ってみればライカM3の進化モデルであって、それが延々と進化した結果が右のカメラということになるが、心配なのはM9の寿命という方である。これからライカ社がM9の後継機に対してどのようなスケッチを用意しているのかは不明であるが、デジタルカメラは流れ行く存在であって、陳腐化の宿命からは逃れることが出来ない。だからと言ってフィルムのライカの将来も予測できない。

デジタル一眼レフにせよ、リアルビューファインダーにせよ、撮影画面を見ることが可能なデジカメが一般化している中で、将来のライカM9−2(というかどうか分からないが)では、案外にリアルビューファインダーになってしまいそうな気がする。そうなると、レンジファインダーは無くなって、ボデイはライカMDとかX1(愛称ぺけいち)のようなフラットな外見になるのでは。

これをライカの爛熟と呼ぶと何か相応しく思える。

2009年12月29日 (火)

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2009年12月31日(木)  20 tweets

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この仕来りは今でも墨守されているのであろうが、旧東欧からくる クーリエさんの苦労話は身にしみた。タラコとかわかめとかウイーンに買いにくるのだ。不思議なのは、大使館の新年会はカップルでも日本人以外は入れないこ とだった。お上は紅白は「外国人に見せられないもの」という認識があったのか。

posted at 20:58:23

宗教上の理由でというかTVは見ないから、紅白見たことなし。この 一事だけでも自分の変わり者であることが分かる。ただし、1970年代には見たのである。1月半ばにウイーンの日本大使館で日本食を食って、その後に別室 で見せられた。それが16ミリ映画だったのだから、メカスの映画みたいだ。

posted at 20:54:19

2008年と2007年の大晦日、横浜の氷川丸上で年越し。0時本 船の汽笛を吹鳴させた。早朝、船長さんが本船の旗を揚げに行くのを二日酔いの足下で付いていった。快晴で、白い富士山と白い月が見えた。0時にはベランダ に出て、東京湾の汽笛の一斉吹鳴を聞く。元日は平日なので、ヒルズで仕事。

posted at 20:13:34

ヒルズ発。2009の仕事はこれから佃でするなう。

posted at 16:53:29

それでおもいだしたのは、2年前、一葉の旧居の近くで偶然遭遇した知人が一葉の関係者の末裔にあたるというので一驚したことあり。あたしは緑雨が応援した「こんにゃく版のたけくらべ」は文字が読めない。どっとはらい。

posted at 16:45:58

福田和也同志からウナ電。>敬愛する田中同志、木星反ブル闘争に連 帯の挨拶を送ります! なんの偶然か、ただいま中島ガムテープ同志のために、樋口一葉の小伝を執筆しております。>そのなかしま(高橋)同志は今、福岡でホテルの部屋に猫がいな いなどと不平をもらしているわけだ。どっとはらい。

posted at 16:44:06

16時現在。プラハ5度、体感2度。ジュネーブ7度、体感6度。東京7度体感2度という。ウランにはかなわんが頑張る。ヒルズの仕事部屋のガラス、曇って向こうが見えず。

posted at 15:55:56

ピッピイーッツ!警視庁からセルコールを発しました。言語デザイン、警視庁から言語デザイン。ルモコン接続。「毒放送」願います。、、、、応答なし。いったん注意。以上警視庁。

posted at 15:50:44

ヒルズ。新潮の原稿30枚のうちの20枚まで書く。続きは明日にしよう。ワークスペースの窓に椅子を寄せて流れる雲を鑑賞。今日は今年最高の雲が出ている。野面を光と影が移動して行く。

posted at 15:12:16

@BMWnonomiya 駒フレックスのケース付きあり。気になるが買わず。>やはり、コマは、茨城県のなんとか言うお稲荷さんの参道前の店で、藁苞納豆と一緒に買うのが正統派です。

posted at 15:10:14

今まで1.853つぶやき。ということは平均が120wとして、えーと222,360wだから、555枚。こりゃ単行本なみ。ここで遊んでないでそれだけ別の所で書けば、かなり稼いだ筈。どっとはらい。

posted at 13:52:24

「毒」がないので、娯楽に事欠いておる。原稿かいて「毒吐くべ」を鑑賞するのが、仕事のテンポ作ってくれたものだが。「毒」はどこへ行った!?

posted at 13:32:42

午後1時。向かいの城山タワーの最上階のガラスが太陽反射して眼が開けていられない。天体の運行は正常のようである。

posted at 13:01:32

ヒルズ。プラハのキュビズム建築のことを書くのに飽きて、眼下の大東京を眺める。こりゃ、ガラス製のロシア構成主義だな。構成主義建築も、表現派建築も所詮、キュビズム建築の「弟子」であることに思い当たった。斜光がドラマチックな東京の12時30分。

posted at 12:30:50

河岸でかった地物の鮹(自重2キロ)の足、昨夜、二度も分けて喰ったが、もう沢山。原因はモーリタニア沖のばっか喰ってたので、味覚がずれてしまったのだ。

posted at 10:54:14

@GENGODESIGN 本官を隠し撮りしてはだーめ。やはりフルサイズがんれふはよく写りまんな。あそこ「ひちりん」でっか。もう8年以上行ってないな。http://gengodesign.posterous.com/9282274

posted at 10:47:49

ヒルズ。ワークスペース2。これより新潮連載「屋根裏プラハ」の3 号の原稿書き。以前は原稿の備蓄があったのだが、今はなし。斎藤十一編集長大作家の原稿5本に3本は没にしたそうだが、矢野優編集長は優しいかそんなこと はしない。せいぜいが6本に2本の割合。驚異の6割打者があたし。

posted at 10:35:12

ヒルズなう。行きがけに珍事。銀行のATMで用を弁じていたら、隣 の中年男性がインターフォンで係ともめている。「旗日でもないのに大晦日になぜ手数料とるのか」という。喧々諤諤。「じゃ、下ろさないからいいです!」ガ チャン。きっと母上から数億もらってるどこかの大金持ちに違いなし。

posted at 10:30:07

佃。大つごもり。空樹のバックを舞台係がゆっくりと肌色の雲の背景を移動させている。

posted at 09:09:31

ヨセフ・スデクの写真集、「プラハ」(1948 SVOBODA PRAHA)を見る。序文がイリヤ・エレンブルグなのだ。レジメには赤軍に開放された我が国、最高の幸せとある。スデクの作品とはミスマッチ。

posted at 00:25:14

1月7日「都写美」ライカ講演の為に考える

Img_0640 1月7日の午後6時から東京都写真美術館で開催中の「木村伊兵衛とアンリカルチエブレッソン展」で、彼らのライカテクニックに関してのあたしのトークショーがある。この前、10月に大阪芸大でライカの講演を都写美の金子隆一さんとご一緒した。今回はその金子さんから「お座敷」がかかった。金子さんとは長いお付き合いだし、あまりいい加減なことも言えないので下調べしたノートをここに掲載しておく。
現代のライカ人類がつぎつぎにライカを買い換えたり、M9を買ったり、そのM9を買った人が下取りに出したM8とかを、それまでライカというマークの付いていたデジカメが高くて買えなかった人(BMW野々宮など)がその下取りを手に入れて幸せになったりで、それぞれのライカの新品と中古品のそれぞれのクラスはそれなりのマーケットで順調な展開をしているのは幸せなことである。
ところで、ライカの巨匠(ここでは木村とHCBを指す)が、ライカを大事にしたのは今のライカ人類の及ぶ所ではない。あたしは一度だけ銀座の三共カメラで木村名人に遭遇して二言三言お話をさせていただいたことがあったが、木村さんはちゃんとM5を皮ケースに入れて腕に抱えていた。「ライカ大事」なのである。
HCBと木村が1954−5年にパリを散策している時の写真で木村がニコンSを持ってハシゴに乗っているのは不思議なショットである。一方、木村のショットでは出たばかりのM3をHCBは大事そうに皮ケースに入れて撮影している。これがパリのパンテオンの前で、あたしは考証の為に同じ場所に行ってそこがバス停になっていたのを確認した。
3年前の国立近代美術館竹橋のHCB展でも講演会をしたことがあるが、あの時の資料で面白かったのは、はじめて50ミリレンズ以外の玉をライカに付けて使っているHCBを見たことだ。ひとつは戦前のショットでイケメンのHCBがライカD3にエルマー35ミリを付けていたのと、もうひとつはこれは戦後、ライカM3のクロームの本体に戦前のブラック仕上げのズマレックス85ミリを付けて、さらにライカの上にはこれも戦前のブラック仕上げの湯にバールファインダーをつけているHCBの姿だ。これから推察するにHCBはかなり生真面目な人でM3のブライトフレームには90ミリしかないので、戦前の85ミリのフレームのあるユニバーサルファインダーを使ったと見ることができる。しかし周知の通り、戦前のユニバーサルファインダーは「逆像」なので使いにくいことおびただしい。M3の90ミリの明るいファインダーより「やや周辺が写り込む」という考えを持てばそれで問題なしなのであるが、どうもそこいらの「かたくなさ」に巨匠HCBのライカ使いの秘密があるのかも知れない。それで真似してライカM2のブラックにこちらは戦後のスマレックス(クローム仕上げ)と戦後のユニバーサルファインダーを付けていふぉんで撮影したのがこれ。

2009年12月28日 (月)

木星珠倶楽部画報

Pc261368 Img_0632 この前、思いつきにて木星珠倶楽部を立ち上げた。ソ連製のジュピターレンズの同好会であるが、その精神は「反ノクチ」 なのである。今年は歳末派遣村はないようであるが、我ら、写真機労働者が体制側の賃金カット、不払いなどに断固戦う為に組織したのが、木星珠倶楽部である。「反ノクチ」とは反ノクチルックスの意味で、そういう高価な珠が買えない細民が結成した未組織共産団、あるいは高価なレンズを買えない連中のアルカイダと理解してもらっても一向に差し支えない。つずめて「反ノク」か。何か数十年前のヘルメットに書かれていた「反帝」とか「反スタ」を思い出してそぞろに懐かしい。
その宣言は日本カメラ2月号「銘機礼讃2010」に登場するが、これはその前の前座というわけである。
R8111897 思うに枝村酒店に集合した面々はいかにも不逞カメラアナーキストの顔つきをしているから、富坂署(じゃなく、今なら所轄は月島署か)の検束候補者そのものである。こういう危険分子を社会に泳がせていてはいけない。
とまれ、思想的な能書きはともかく、木星珠で撮影したら、これが帝国主義のレンズ、西側ツアイス、キョウセラ、越名などの一連の「ッアイス帝国主義レンズ連」を脅かすほどの画質なので、吃驚した。まあ1973年から木星珠は愛用しているのだから、今更の話しではない。1975年だったか、東ドイツはベルリンを訪問した時のあたしは、ライカM2に木星珠50ミリF2をぶら下げていた。その記録写真は「ウイーンとライカの日々」の巻末のアーカイブに掲載されている。
作例は木星珠50ミリF1,5。1951年製。アダプターでペンデジタル2に使用。

2009年12月27日 (日)

頭脳鏡玉+高千穂式「筆二型」電子写真器

Img_0627 1970年頃だったと思うが、大塚駅から徒歩、大塚仲町方面に歩行して左側のカメラ店にミランダTが出ていたので迷わず買った。ミランダTはその後に出たミランダとは「別格」なミランダなのである。その価格は0,8カメラ円だったから、あたしの日本デザインセンターの初任給3,7カメラ円に比較すればそこそこ高価な買い物であった。そのミランダTを持って、戸倉元と川崎の村田君の家に遊びに行った。その時、川崎臨港バスに乗って、ミランダTのファインダー越しに覗いた午後のバスの中の光景と流れ去る港町の風景は忘れられない。あのバスの座席は紅いベルベットであって、それが斜陽でさらに紅くなっていたのは、その現像したエクタクロームで後になって知ったのである。そのミランダTは戸倉に譲り、それがまた川崎の村田君の所に行ったのである。そんな次第を記憶しているのは、1973年からのウイーン滞在で、その初期の時代に川崎の村田君から自分のカメラコレクションの写真はがきを受け取った時、その中央にくだんのミランダTがあったからだ。その時のキャプションでは画面の中に日本刀の一振りもあり、その説明があった。それが何か、そこらの古道具屋のおやじめいてじじむさいと思ったのは、あたしもまだ26歳であったからだ。当時、写真館の経営の村田家は建物の上に「村田カラー」なんていう大看板をかかげていた。ようするに、フジカラー、サクラカラー、村田カラーというわけだ。
年末にしばし原稿書きを休んで、大ガラスのそこここにある、がらくたのカメラを取り出してその中にミランダTがあり、レンズは帝国光学のズノー50ミリであった。それを思い附いてミランダーライカマウントアダプターに付けて、さらにペンデジタルのアダプターに付けて撮影してみた。それが下の画像。70年代の光どころではない。
頭脳に高千穂「筆式二型」電子カメラの場合、1950年代後半の光が写るのである。ただしその光の質感は2009年の年末とそれほどに異なるわけではない。ただ昔の光りの方がちょっとだけ優しいのである。その村田君は数年前に逝去。Pc221278

2009年12月26日 (土)

竹田ウイルス性コンタックス熱

Img_0626 竹田正一郎さんの新著「ツアイス・イコン物語」の書評を日本カメラに送った直後から新型のイコンウイルスに感染発病。ライカは全部しまって、コンタックス1型を出してきた。コンタックス2型もあるのだが、それは同じカメラであるキエフにした。この異なる名前なのだが、内容が同じというのを愛でるのは、なかなか高度なカメラ頭脳が必要である。

似た例がある。ライカインコの場合、あれは鳥類であったから頭脳は人間などよりずっと上のクラスの筈だが、ライカインコに炊きたてのごはんを別の皿であげても、人間共の喰っているごはんの方が上等だと思って、そっちに寄ってくる。「このごはんとあのごはんは同じだよ」と言っても理解しない。思うに現代の生産物はその「均一性」を売り物にしている。東京のヒルズのローソンでも岡山でもローソンのおにぎりは同一物質なのである。ところがカメラ人類は「本来すべて同じ品質であるはずのカメラ」が中古になると「カメラ選り好み」をしたがる。すなわちこの差別化が中古カメラウイルスの仕業である。ライカインコの「炊きたてご飯の目利き」も案外これに近いかも知れない。
それでカメラを選り好みしてツアイス系ウイルスが目下、あたしの場合優勢だ。
コンタックスには「イエナからドレスデンまでシャープに写る」あのテッサー28MMF8を付ける。ビオゴン21ミリは西ドイツ製なので、政治信条が異なるから付けない。越名製も同断。そこにこの前、岡山のペンタハウスでゲットした戦前のプロパーなターレットファインダーを付けてみる。これはなかなか型がええのう。
岡山と言えば、趣味の変人奇人が多い。その最たる者が内田百閒であるが、最近では十文銭銀水を始め列強が揃っている。思うにこのような人物を生んだ背景には岡山の住みやすさがあるのだろう。ようするに仕事が終わってからの時間を持てあましているのであるが、そういう場所に文化が生まれる。東京のはあれは文化ではない。文化商売である。
岡山駅のユアーズというスーパーで宝のカップ焼酎を物色していたら、地元のトランプさん(偽名。例の富豪とは無関係)にその様子を見られて、さっそく彼の出入りの禁酒会館の1fのカフェに伝令が行ったそうである。そのトランプさんには会ったことはないが、まだ若いのにライカ国粋主義兼、万年筆原理主義者であって、趣味の文具箱(えい出版の清水編集長の仕事)の中に万年少年で、トランプさんが1頁大に出ているのを、そのカフェで見せてもらった。トランプさんはライカは1型しか認めんという人らしい。それならこっちがドイツカメラはコンタックス1型しか認めないとやれば、そこに新たな論戦が爆発するわけだ。
また岡山でペンタハウスと富士カメラとコトブキカメラの間を行ったり来たりしたいものだ。

2009年12月25日 (金)

ANGENIEUX 25-250 T3,9 + PEN DIGITAL 2

Pc201159 カメラジャングルはすこぶる創造的な場所である。あのカメラのあのアダプターとおのアダプターを付けてこのレンズを付けてなどと想像しているだけで楽しいのであるが、実際にはそのパーツは持っていることは分かっているのだがそれらがどこにあるかはそれはそれで別の話だ。仏蘭西はパリのアンジエニュー25-250は銘レンズである。大昔、学生時代に東北新社でアルバイトした時に、CFの撮影だとかならずアリフレックス35にレンズはこの10倍ズームだった。最近ではカンフー映画専用などと差別されているレンズであるが、ジャングルから出土したので、これはアリstマウントだからまずこれにライツ製のアリライカMアダプターを付け、さらにライカMマイクロ4/3アダプターを付けて試写。ハイビジョン用にはレンズをクレードルに載せて(これは持っている)撮影すればかなり機動性がある。ここではスチモードで撮影したが、その画像は想像以上のできばえであった。これはまだ日本にはニッコール43-86しか存在しなかった時代の同時代ズームなのだからその性能には恐れいる。半世紀前のズームである。
ただし、この大きさであるからスナップには使えない。佃の大ガラスの部屋で三脚に載せてムービーを撮影するには格好だ。同じズームで20−120というもう少し後の明るいワイドよりのズームも持っているが、こちらはアリバヨネットである。アリバヨネットPLアダプターはあるから、これをマイクロ4/3に変換するアダプターがあればそれも使える。
画像の作例は上から25ミリ、70ミリ、250ミリである。Pc201261_2
Pc201260 Pc201259

2009年12月24日 (木)

ハリネズミ昇天祭21回目

Tnn_1000734 Dsc08970 1988年の12月24日にうちのハリネズミが死んだのは良く記憶している。針ねの遺体をタオルに包んで月夜の中を深夜出かけた。橋の上から海兵隊の追悼ラッパを口笛で吹いた。それから河面に落とした。針ねの体は水面を中心に波が同心円を描いてきらきらした。あの夜は満月であったのか。

その影響か今でも隅田川の水は「ハリネズミ味」なのではないかと思う。味わったことはないけど、毎日、河面を見ているのでそれが分かる。中央区の区民であたしほど隅田川を見ている人間は居ないであろう。
ボヘミアの古い民話でハリネズミは天上に行ってお月様になるというのがあった。それでうちの針ねもお月様のかけらのさらにその一部になっているわけである。
今宵はハリネズミ昇天21年祭を盛大に挙行の予定。
1988年であるから、ビロード革命のさらに1年前のことだ。時間軸を遠近法で見るのなら、うちの針ねはレーニンさんと同時代の「人」なのである。

1988年当時にハリネズミを飼うなどはよほどの偏屈人である。当時、針ねの話しが出来たのは羽仁進監督と坂崎幸之助さんのお二人のみであった。

それが最近ではmixiにコミュが出来るほどでまことに針ねも「有名ネズミ」になったものだ。ネズミーランドのキャラに迫る人気である。昇天祭と言っても何も特別なことはしない。大ガラスの部屋にある「ライカインコのお宮」の脇に針ねのフィギュアがあるがその前に好物の猫缶をそなえるくらいだ。

写真家オザワエイイチがクリスマスの「紅い葉っぱ」を送ってくれた。これは恒例である。メールで新宿で見かけたという、針ねがサンタ帽子をかぶって、汗かきつつ全力疾走している、ポスターか何かの画像を送ってくれた。これは日本的な脚色であって、本物の生き方は実にゆったりした「ゆるゆる庵」(アサヒカメラの新連載のタイトル)なのである。しかも夜行性で、人間が寝ると起きてくる。昼間は寝ている。人間の都合に合わせてハリネズミをこういう風に走行させてはいけない。走るのは師だけで十分。

2009年12月23日 (水)

クラインのクロームのニコンS3

Img_0621 R8111040 新潮2月号の「屋根裏プラハ」ではウイリアム・クラインのことを書いた。彼とはプラハで会っているのだ。その前は東京のプランタンかなにかのオープニングの時に知り合った。こういう世界的な有名写真家と面識を得るのはあまり「良いこと」ではない。本当は作品だけでのおつきあいが一番良いのである。ただしその時には写真論は一切なしで、もっぱらライカのテクニックについて、銀座の展覧会のレセプションで歓談した。一緒にEDエスルケンも居たのだから実に「きらほしのごとし」であった。クラインさんとその後、プラハで再会した時の逸話を書いた。
そのクラインが32歳で写真集「東京」の撮影で来日した当時のカメラ雑誌の記事を見ると、若造の大写真家は日本庭園のような場所を奥さんを背後に従えて歩いている。その胸にぶら下げたカメラはニコンS3のクローム仕上げであった。このレンズで東京を撮りまくったのである。その撮影のコンタクトがあれはサンケイカメラであったか、掲載されていた。それは神田かどこかのお祭りの御神輿のショットなのであるが、28ミリ付きの彼のS3は最初はフルショットで全景を撮影していたのが、どんどん接近してラストのショットでは、御輿担ぎのおやじさんの顔がピンぼけになるほどのアグレッシブな撮影方法なのである。
プラハで彼が「プラハ人の写真集」を制作するというので撮影に同行したが、あの32歳当時の撮影スタンスは変わっていなかった。

★上の画像はいふぉんで、下の画像はGXRに50ミリカメラユニットで撮影。

2009年12月22日 (火)

城西国際大学宣伝飛行隊

Pc140473 ヒルズで仕事していると、在日米軍の子供が操縦する大型ヘリとか、カラスが操縦する一人乗りのカラス非行器とか、NRTから上海に飛行の777が上空を通過したりで、飛行生物体を鑑賞するには事欠かない。その中で時々、BMW野々宮の非行機の本拠地の桶川のホンダエアポートから飛来する「風船爆弾ことツエッペリンnt」はそのお姿を拝見するのが楽しみだ。
大抵はなにかの広告看板をつけて登場するのだが、以前は大和ハウスであることが多かった。不思議なのはこの広告飛行に幾ら払っているのか知らないが、対広告効果は限りなくゼロに近いのではと思われる。というのは地上300メーターあたりを飛行するのであって、まず歩行者は飛行船を真下から見た場合、それはシルエットにしか見えない。広告のパネルは側面に貼ってあるので、飛行船が側面を見せた時にはすでに地上の観察者からは飛行船は遠方に行きすぎて、裸眼では観察できない。
そうなると、あたしのような地上200mあたりに居て、窓際でしかも最低でも勝間の10x40くらいの高倍率の双眼鏡を持っている人間となると、これはかなり限られてくる。
おそらくこの宣伝フライトでこれを見たのは、その意味はこれが城西大学の宣伝飛行隊であることに気がついたのは、まずパイロットと便乗者だ。これは搭乗するときにいやでも看板が眼に入る。さて飛行中にこの宣伝飛行に気づいた人は何人いるだろうか。
カメラはペンデジタルに勝間10x40を押し付けて撮影。今まで、この撮影はいふぉんでやってたが、案外にペンデジタルの17ミリプライムとの相性よし。

2009年12月21日 (月)

速報! スカイツリーに建設以来、初めて明かりともる

Pc211267 Pc221270 真っ暗なヒルズから佃に戻り、食事して「大ガラス」の前に行ったら、空樹に明かりがともっていた。

あたしは毎晩、空樹を観察しているが、今回が初めての燈火である。クリスマスバーションか、それとも天皇陛下のお誕生日奉祝か。いずれにしても不景気な年の瀬の中でほっと心が明るくなる。

(と、社会面風に書いてしまった。年の瀬なんて言葉は新聞が年末に使う以外、使わんな)

★カメラはペンデジタル2にタクマー300mm f4

ついでに説明すると、普段はクレーンのレッドランタンだけ。だから途中から上にライトが付いたり、トップステージが照明されるなどは、破格。ただし、この画像はゲインが上がっているから、実景はもっと地味である。

@@@注(空樹=スカイツリー。我が家では、ライカインコメモリアルタワーと呼称)`

ーーーーー下の画像は今朝9時25分撮影。クレーンが資材つり上げてるのが見える。

オリンピアゾナー180MMF2,8ダイレクトマウント

Dsc07929sized 竹田正一郎さんの新書「ツアイス・イコン物語」は危険な本であって、最近までしばらく休眠していたツアイスの虫がまたわるさをしている。この画像のレンズなどがまず最大の新型インフルというところだ。
ゾナー180ミリのダイレクトマウントでコンタックスレンジファインダーに付くやつである。ベルリンオリンピックとかその前の冬季オリンピックのガルミッシュ・パルテンキルヘンなどでカメラマンがゾナー180ミリを使っている姿がある。あの当時、ツアイスの他にもアストロベルリン製の超望遠レンズもオリンピックでは活躍した。ただしアストロは進んでいたから、すでにレフレックス式のファインダー装置を完成させていた。そのアストロのレンズが佃には沢山あるが、これは一眼レフ方式のレフボックスなのが面白くないと言えば面白くないのである。ゾナー180ミリをいきなりレンジファインダーに付けるのが、鯔背な戦前のコンタックス技なのである。しかも魅惑のクローム鍍金にこーていんぐなし。もっともこのレンズはやはり開放のf2,8の近距離ではピントが合わせにくかったようで、ツアイスもすぐにミラーボックスを出している。ところがこれは画面が逆さまに見えるような「さかしま」状態なのである。やはりコンタックスは180ミリまではちゃんとレンジファインダーで撮影できるのが良い。

こんな馬鹿を言い出したのも、この前の岡山行きにて、あそこのペンタハウスにて、180ミリのファインダー視野を持つ、戦前のツアイスのターレット式ファインダーを手に入れたのが「運の尽き」であった。

なにもゾナー180ミリでなくとも、もっと軽量なテレテッサー180ミリF6,3でも良いのだけど、これも最近ではその姿を見なくなった。そのテレテッサー180ミリF6,3は持っているのだが、これはエキザクタマウントなのである。コンタックスではない。世の中、おしなべてうまく行かないものだ。

そのテレテッサー180ミリF6,3は、「チョートクカメラ ボクのレンズたちの中に1頁大のカラーの作例あり。これはまだ白金にマックカメラがあった時代の撮影で、外車に桐の花が散るというショットだ。これもいいレンズである。

2009年12月20日 (日)

US NAVY プロパーなレンズとカメラ

Pc130414 ながらく寝室のドアストッパーになっていた、トプコンである。これにはモータードライブなしの250コマフィルムマガジンが付いているが、普通のカメラバックをどっかに見失ってしまったのでやむを得ずこういう処置になっている。
最近、カメラジャングルからトプコール135ミリF2というレンズも出土したので、これを付けてみたら、なかなかプロパーな気分になった。300ミリF2,8も持っているが、このレンズの方はアリフレックスマウントなので、管理人の銀水がまちがっても無断でペンタハウスに委託に出すような心配はなし。思えばこの135ミリF2レンズは1981年頃に新宿西口のヨドバシカメラの本店で買った。当時は年一にて中古カメラとレンズのワゴンセールあり。このレンズには確か0,3カメラ円の値札が付いていた。結構仕事などにも使ったが、その値札はとっくにすり切れて残っていない。カメラの方は恐らくEBAYで手に入れたものであろう。本体の底部にUS NAVYの刻印あり。海軍は最初はライカM2ーMのような高価な機材を使っていたが、後年はちょっとレベルを落として安いトプコンあたりを採用したのであろう。250のマガジンが付いているので、そのUS NAVYの刻印は見えないのが残念だ。このカメラはこの状態で長巻きのフィルムを入れずとも、普通のパトローネを入れても撮影ができるのが偉い。

久しぶりに小豆沢のトプコン通りを徘徊したくなった。

2009年12月19日 (土)

ジオラマとうきょう

Pb051114 ジオラマ風に撮影するのは、本邦では本城さんが開祖というわけだが、似たような仕事は海外でもあるらしい。疑似ジオラマ表現ができるのは、ペンデジタル2以外にもあるらしいが、この前、長崎に行った時にその機構をテストしてこれは面白いと思った。
この場合、ジオラマというのは正確な表現ではない。というのは自分はベルギー郊外のワーテルローを始め、巨大なジオラマを数多く見ているが、これなどは戦場の中に観察者が投げ込まれたような効果がある巨大な舞台で、小さい盆栽のようなものではなく、かなりの大きさのシネコンなみのそれはサイズなのである。
だから本当のジオラマというのは、現実にダッシュが付いたような、「一対一」の存在感なのである。だから本物のジオラマはカメラが制作する前後のぼけたぴんぼけの光景ではないのだ。これはゆえにずっと小さなスケールになるわけで、これ何と呼びかは不明だが、言葉を探せば「疑似偽盆景」とでも命名するべきものなのである。

2010年の1月14日から60日ほど、プラハのラテルナパレスで展覧会をする。
「PRAHA1985 TOKYO 2010」というタイトルだが、二部に分かれ1985年のプラハはスデクの弟子を自称していた当時のマキナで撮影した真面目なゼラチンシルバープリントの展示である。一方で東京の方は来年の正月元日に撮影する予定のペンデジタルの「ジオラマモード」の東京のなのではなく、ヒルズのゼロックスプリンターでプリントした「下町商店街のちらし」のようなプアなクオリテイの疑似印刷物を展示予定だ。

2009年12月18日 (金)

PEN PEN チョートクカメラ日記スタート

Pc040282 2009年の8月に出たばかりのペンデジタルを持ってプラハの急な坂道を旧市街から王宮に向かって息を切らしているときに、ペン、ペン、ペンという音が聞こえた。これは旧市街の谷の向こうの修道院のお昼の鐘の音なのである。
手にしているペンデジタルを祝福しているような不思議な感じを覚えたのを今でもはっきり記憶している。

2009年の11月1日にこれから出る予定の、ペンデジタル2を持って、長崎の急な坂道を阿蘭陀屋敷に向かって息を切らしている時に、ペペン、ペン、ペンという音が聞こえた。これは長崎の鐘の音ではない。自分の言葉遊びなのである。昔、谷岡ヤスジの漫画の重要キャラである、「ムジ鳥」が「アサー!!」と叫んでいる脇でカラスのような鳥が大根を三味線持ちして「いよー!ペペン、ペン、ペン」とやっていたその口まねなのである。あの鳥どもは今はライカインコとともに旅に出てしまった。
それでその時のカメラエッセイのタイトルは「ペンペン長崎」となった。

2009年の11月15日に発表になったばかりのペンデジタル2の事で、小川町のオリンパスギャラリーでトークをした時、とっさの思いつきで「日本ペンペン倶楽部」を創立させてしまったのである。日本ペン倶楽部ではない。ペンペン倶楽部なのである。

1997年10月に日本カメラ博物館での講演会で「偽ライカ同盟」をやはり思いつきで創立した「前科」もある。

ペンの文字は自分には初代のオリンパスペンであり、ペンFであり、さらにペンデジタルであり、ペンデジタル2でもあるわけだが、それではペンペンペンペンになって、いかにも言葉の座りが悪い。
今日のチョートクカメラ日記リニューアル時の新冠詞に付いては、以前のそれは「MJ」であり、「KC」であったのだが、これが「OM」では音の座りが悪い。ペンの一言では音の弾みがないのでやはり変だ。
ところがペンペンと弾む音節を重ねると、非常に調子が良い。
それでペンペンチョートクカメラ日記の新スタートとなった。

今後ともご愛読のほどお願いします。

駒村商会さんには2年3か月に渡り、さらにメデイアジョイさんにはその前の4年半に渡り大変お世話になりました。ありがとうございました。

2009年12月17日 (木)

部屋から空樹「スカイツリー」を撮る

Pc120413 佃界隈はすでにタワーマンションは建ち尽くしてもう立錐の余地もない。今、居るところは1989年4月に竣工のタワーだから、築20年。この間もバルコニーの塗装をしたが、建物は日本だからこれが木造ならばすでに価値のないというところであろう。
その向かいの狭い空き地で工事が始まったので、このタワーの成長記録を撮ろうというので、基礎工事の頃から撮影を始めた。ところがこれは普通のオフィスビルであって、もう13階建てかなにかが完成して内装工事にはいっているので、もう上に伸びる期待はできない。
それと入れ違いに「本命」の空樹が隅田川の上流に姿を現して、それを撮影し始めたのはこの夏のことだった。そのずっと前にあれはBMW野々宮とであったか、en-Taxiの連載取材「東京大周遊日記」で空樹界わいを撮影して歩いたのであるが、あの時は現地はまだ更地も同じで何も構築物はなかった。それが今年の8月のプラハと9月のカイロの取材から戻ってきたら、空樹は急成長したのである。
以来、折りにつけて沢山写真を撮ってはいるが、残念なのは建設中こそ100年に一度のビッグイベントなのに、空樹にはライトアップがされていない点だ。しかも誰も見に来ないのである。この間も大雨の中をリコーの東方の三博士と降誕祭のイベントのつもりで空樹の根っこに行ったのであるが、閑静そのもので押上の里の詫び住まい状態で、ただ唯一遭遇したのは越境してきた葛飾FMのレポーターさんだけで実に寂しい限りであった。
さて、うちの大ガラスの部屋からは隅田川はお見通しなので、その間に邪魔になるような建築物は建つ心配はない。第一、水の上には家は建てられない。
空樹までの距離を生かした、こういう画像が一番ドラマチックで好きなのだが、案外にこういう雲の具合にはなりにくいものである。
でも、富士山を撮りつづけた岡田紅葉さんではないのだから「空樹撮影をライフワーク」にする気持ちなどまったくない。
空樹は誕生のあかつきにはやはりエッフェル塔などと「兄弟さかずき」を交わすのであろうか。あたしがスカイツリーと兄弟になってもらいたいタワーは旧東ベルリンのTV塔である。東ドイツ時代、あれは実に悪夢の魅力だった。押上の空樹も最初の命名候補には「夢見タワー」なんていう夢魔に追っかけられそうな名前もあったし。プラハのTV塔もボヘミアあたりの少年が明け方に見たロボットのお化けの夢という存在感があるから、これも候補に入れておこう。
ところで、この夢見タワーこと、空樹(我が家ではライカインコメモリアルタワーと呼んでいる)だが、見かけはやはり左に傾いているううに見えるのが妙である。

撮影はペンデジタルにズーム。

2009年12月16日 (水)

まだ行ったことない店

Img_0594_2 この間、清澄通りの枝村で有志と「木星珠倶楽部」の設立総会のあと、一人佃の住まいに戻る裏通りであたしの視神経が気が付いたのが、この小さな中華屋さんである。佃の20年でたまに前を通過することがあったが、そのままに通り過ぎていた。こんど行こうと思ったが、今度行こうと思って行ったためしがない。いったいに佃から月島はガストロノミー不毛地帯である。言っておくが「もんじゃ」はあれはガストロノミーではない。
パリのシテの裏通りにある「名も知らぬ小さな食い物屋」に入る趣味が昔はあった。そういう店を当時はお洒落なものであると感じていたのだが、最近になってああいう外国の店は実は月島のこういう店と「同格」であることが分かったのは、案外な発見である。これは赤本の影響かも知れない。
近所の中華屋さんで良く行くのは、佃小橋の脇の銭湯の1fにある店で店長が「保谷」さんと言うのであって、この人は保谷のご出身と聞いたが、近所にある店は案外に入りにくいものであって、ここに行くようになったのは実に2年来のことなのだ。
思うに人間の食い意地などにはおのずから限界もあり、人生の残り時間もあり、無制限に食い物屋に行くことなど不可能であるから、その裏をついた欲求不満を解消する商売が、例の赤本になるのであろう。ゆえに赤本をはしから攻略するような趣味人間とあたしはあまりお話したくはない。
第一、おフランスの地元の食い物屋に本来は極東の民の来るのは、あれは本当は不自然なことであるには違いなく、そういう不自然が不幸にもエアフランスなどで可能になってしまった現在ではもう「手遅れ」なのであるが、実際のところ我々「パリのアメリカ人にダッシュのついたような民」は、アメリカンと一緒に硬いステーキと胸のやけるポンフリを喰っている方が「罰」が当たらないかもしれない。そこで極東に視点を変えれば、極東ローカル人間であるわれわれこそがもっとこういう店にゆく使命があるのかも知れない。
まあ、ガストロノミーはその店のファサードを見せることがその業務の大事な部分なのである。ゆえに、こういうお店に最初から「味の快楽」などを期待するのは「育ちの悪い証拠」であることが自分のことを振り返ってもわかる。この店の外見がお洒落なことに初めて気が付いた。

2009年12月15日 (火)

ロンジンの銀時計のネイルセット

R8111947_2 金時計は持っていない。銀時計は3つあるがその2つのうちのひとつは秒針が紛失したし、もうひとつはゼンマイが切れた。今、動いているのは、このロンジンのポケットウオッチを腕時計にしたやつである。蚊取り線香入れみたいなカバーが付いているので、昔の世代の日本人なら、この穴から蚊遣りの煙が出てくるのを期待する。ハンターケースとかいうスタイルにて、本来はフィールドで風防を保護する為のものなのだろう。ただし針が細いので、蓋をした状態で時間を見ることは出来ない。右のリューズを押すとと蓋が開く。ネールセットというのは昔の時計の時刻合わせの方法でこの場合には4時と5時の間の小さなレバーを引いてからリューズで合わせる。慣れると現行の方式よりも迅速で楽である。
それで毎朝、目覚めた時にねじをいっぱいに巻いて、それからいふぉんを参考にして時刻を合わせるのだが、このロンジンはクロノメーター並であって、10日たっても合わせ直す必要がないほどだ。それが実は面白くない。機械式時計は毎日2分ほど誤差があったりすると、それが毎日に「正確」なペースだったりすると、その時刻調整が毎日楽しいものである。これは「誤差が正確」というのであろうか。このロンジンにはその時刻合わせの楽しみが省略されている。それが不満なのだ。あ、「11時02分長崎」。

2009年12月14日 (月)

空樹(スカイツリー)日記091214

Pc120453 P8251214 スカイツリーの存在に気が付いたのは2009年の7月のことだ。ライカインコ民主主義人民共和国がこの四半世紀継続していたので、そこの人民(総人口2人)はなかなか外(国)を観察するほどのゆとりもない独裁体制であった。この四半世紀は外国に行く時にはあたしか家人がかならず佃に人質になっていたのである。それが世界の民主化が進行して我が家の「55年体制」の崩壊で自由になったと同時にペットロスにもなった。これはLAが革命の震源地か。
視線を目の前10センチのライカインコから10キロ先の空樹に切り替えたのは、実はこれが「ライカインコメモリアルタワー」であったことに気が付いたからなのである。もともと独裁専制国家はばかでかい建物とか天に届くオベリスクとか、とかくこういうことをやりたがるものだ。それで4代継続したライカインコ王朝の独裁ぶりが明らかになったのである。もっともこの秘密は世間にはまったく公表されていなくて、このタワーの建設理由はあくまでも表向きは「第二東京電波塔」なのである。

そのスカイツリーこと、空樹を7月に撮影し始めた当時には、まだ隣の30階建てのタワーマンションなみの高さであった。それが雨が降るごとにどんどん成長して今はこんな高さである。最終はこの3倍の高さになるらしい。ペンデジタルに以前は500ミリのレンズで撮影していたのはそのタワーのサイズが低かったからだが、今は200ミリのレンズでも危なくフレームアウトしそうな成長ぶりである。Pc120284
完成したら、拙宅を改装して、よく田舎の展望台にあるように、ガラスに透明ファイルで文字を黒くのせて、「富士山」とか「筑波山」とか「丸ビル」とか「中央大橋」とか名所を大ガラスのそれぞれの位置に案内を貼り付け、ついでに「ライカインコメモリアルタワー」の文字も入れようと思う。さらに100円を投入すると2分だけ覘ける大型双眼鏡を設置すれば完璧だ。
カメラはペンデジタル1にタクマー200ミリf5,6。下の夏に撮影した方はトズーマースポーツレフレクター500ミリf5,6。

R8111946

2009年12月13日 (日)

世界に冠たる ツアイス・イコン物語・竹田正一郎さんの最新作

Pc130462 フランクフルト中央駅にZeissという肉屋があってその包み紙も当然のことながら、Zeissである。ウイーンのアパートの鍵もZeissだった。ソーセージのZeissの方はたまたまお名前が同じなのだが、鍵の方はZeiss Ikon製である。ソーセージも鍵も買ったが、食品の方は友人のお土産にして、鍵の方もアルパ研究会の誰かさんにあげてしまったから、いずれも今は手元にない。
竹田正一郎さんの新刊「ツアイス・イコン物語」は今まで知らなかった事実がちりばめられている。特にZeiss最初のカメラSyntaxの事は知らなかった。1940年に試作の完成したプロトタイプの35ミリ一眼レフだ。コンタックスSの前にこんなカメラがあったのか。
竹田さんは昨年に「ライカ物語」を訳出し出版されている。今回のはその続編の書き下ろしであるが、思うに竹田正一郎という人はコンタックス党でライカは使わない。同様な人にコンタレックス党の黒田喜樹氏もいるが、こういう連中はZeissの神への信仰が非常に篤い。まあ「Zeiss原理主義」である。それで竹田さんは実は今回のZeiss本を出す為にその前座として、昨年「ライカ物語」を出したのだと理解できる。
一昨年の夏に当時のライカ社の社長さんステーブ・リーさんがヒルズに訪ねてこられた時に「コンタックスが死んだのでわれわれはライバルが存在しなくなって困っている」と漏らした。たしかに名門ライカではそのライバルとしては極東のカメラブランドなどは最初から相手に出来ないのである。
だからこの「ツアイス・イコン物語」竹田さんのZeiss ikonカメラへのレクイエムと読めばさらに心に浸みる。さっそくカメラジャングルから各種のikonを礼拝用に出してきた。それがこの画像だ。

ツアイス・イコン物語 は光人社刊。2400円。発売中。

[wien monochrome 70s]という限定版写真集

Pc120289 Pc120287 Pc120286 「wien monochrome 70s」という限定版写真集を出したのは、たしか偽ライカ同盟の会員黒田慶樹さんのご結婚の年の1月だったと記憶する。出版社はあたしの本をよく出してくれる東京きらら社だが、この本は最初に千ページの計画にて「束見本」を作ったら重さが5キロになった。それで考え直して500頁の本にした。箱入り。銀箔押し。これは書店を透さず1000部の限定にした。オンラインで最初の週にその三分の一が売れた。今ではあたしの手元に残っているのは9部だけになった。これを数年前まで進呈したり、希望の方に分けたりしていたのが先日、国会図書館で見たという人から希望があって5部入りのパッケージを勘定したらもう2包みしか残っていなかった。それで残部10部から一部を進呈して、残りはAPにすることにした。つまりもう進呈も販売もしないわけである。定価は1カメラ円であった。印刷はモノクロの1色である。出版社はダブルトーンを提案したのだけど、ダブルトーンはきらいだ。印刷だけで「アート」になってしまうからだ。墨一色の方が「映像の信号」は正確に伝達されるのである。
数年ぶりにこの写真集を開いたらなかなか面白かったのは、やはりwineと同じでwien などは30年ほど寝かせないと面白くならないのであろう。20代から30代の時にウイーンに暮らしていた時間を濾過して蒸溜したような本だから酒のつまみにもなる。
きらら社からは同じシリーズで[tokyo 1960]も計画中だ。

2009年12月12日 (土)

ニッパーちゃんと「ちこんき」

Img_0584 この犬はあたしの最初の人生の記憶である。生家の二階で午前の光があたった居間に座っている眼前には「蓄音機」があった。そのほの暗い箱の蓋の内側に印刷されているのが、この犬の姿である。祖母が「ちこんき」と呼んでいたのでずっと「ちくおんき」ではないと思っていた。これは江戸弁の発音の一種のリエゾンではないかと思う。荷風がリヤカーを「ぎやかー」と呼んでいたのとなにかの共通性をそこに感じる。

子供のあたしがよく聞いたのは「みかんのはなさくおか」であった。これは寂しい歌である。あたしの変わり者体質は案外にこの幼年時の歌謡の偏向に起因しているのかも知れない。

一方で大人の聞いていたのは、もっぱら邦楽とか「国民歌謡」であるがその中に「香に迷う」というのがあった。子供の理解度ではこれは「蟹迷う」であって、蟹が道に迷っておうちに戻れない歌かと思い心を痛めた。
ウイーンの7年半滞在物語もすでに70年代の昔の話しであるが、当時、ウイーンのアパートには「ロンドン・デッカ」製の「ちこんき」があった。盤はなぜか一枚しかなくて、それはpathe製の円盤で曲はアップテンポのフォックストロットなのである。退屈時間に飽きるとそればっかり流していたが、フォックストロットっていうのは、ウイーンにはもっとも似合わない。それが気に入った。その時に思ったのは「ちこんき」は音源の再生装置ではなくこれはバイオリンみたいな楽器そのものであると感じたことだ。音がスピーカーから出るのではなく、「ちこんき」の筐体から直接に発するからそんな気がしたのであろう。その後の30年は自分の興味はもっぱらハイフィデリテイ関係ではオーデイオには行かずに「ナグラ」(スイス製のオープンリールテレコ)の方に行ってしまったが振り返るにこれは「正しい道」であったと今は思っている。
先週、銀座のyzkmyに行くのに開店の午後4時半前に着いてしまったので、近隣を徘徊したら、こんな「ちこんき」屋があった。飾り窓にニッパーちゃんのマーク付きの「ちこんき」がある。興味本位にその値札を見たらなんと2000ドルもするのである。あたしのウイーンで買った「ちこんき」は古道具屋でたしか500円也。

ニッパーちゃんを撮影した名作というわけでもないが、夢の島で撮影したこの犬の写真があたしがこの魔道に入るきっかけになった。それはニッコールフォトコンテストで特選になった作品で撮影データはニッコール21ミリ付きのライカM2のブラックにライカビットがついていた。他で記憶しているのは、拙著「銘機礼讃1」に登場の昔のGFであった「N」の撮影した「ニッパーちゃん」のタイトルの1980年代初頭の東京のモノクロ風景がある。これはオリンパスXAで撮影。アサヒカメラのたしか1983年の1月号の新年企画の中の見開きの1枚だった。その方面では「N」の都会スナップの評価は高かったが、彼女はふっつり写真は止めてしまった。これはヒロミックスの登場の10年以上昔の話しである。「N」はすでに50歳に近くなっているであろう。

2009年12月11日 (金)

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2009年12月28日(月)  15 tweets

ソース取得:

SUのHPで面白いのは、アジアが北京ではなく、東京の点だ。隠れ多極主義者の仕業か?BRICをわざと外している。http://wwww.aeroflot.ru/templates/index_en/

posted at 20:35:48

あろえフロートのHPが変わったな。変わり過ぎてネズミーランドみたいだ。同志!大丈夫か!?http://wwww.aeroflot.ru/templates/index_en/

posted at 20:33:10

木星珠倶楽部のNO-KAIから戻る。白ヘルと黒ヘルが内ゲバせずに、並んで呑んでるのは初めてみた。これより白湯飲んで、年末進行の続き。

posted at 20:25:54

世の中、社内の忘年会のあと、今年最後の忘年会などうらやましい限り。こっちは本当の年末進行にて、今日中にあと5本かかんといかん。ゴーストライターさんもつかまらないし。エダムでは開会の連帯の挨拶だけにて収監されそう、、、

posted at 16:52:07

つまり、1985年にプラハで撮影したプラウベルプロシフトの撮影の方が、3年前にプラウベル3Rで撮影した分よりずっと新しく見えるわけだ。やはり写真レンズにはその時代の光を写す力あり。

posted at 14:49:07

プラハで展示のモノクロの作品セレクト。実はこの10月に大阪芸大 で展示する予定で、取り分けておいたプラハのプリントが探しても出てこず。その展示は野々宮コレクションのウイーンシリーズでやったが。頭脳切り替えて他 の作品で構成。ついでに室内の整理で段ボールを10個分捨てる。

posted at 14:46:07

朝8時から大ガラスの前に座って仕事していると、自分が「日時計」 になった気分だ。プラハには好きな日時計がいくつかある。ベニスにもある。東京では公園の花キャベツの中くらいしか思い当たらない。日時計の正しい見方 は、曇りの日に見るに限る。晴れていると、自分の時計との誤差ばかり気になる。

posted at 13:23:11

@asmnksm ごはんたき、猫連の邪魔は入りませんか。そうそう、矢野さん、この前、ヒルズであったとき、「ああ、高橋ですか、、」」って言ってましたよ。

posted at 13:19:05

佃。ブレーク。嶋の突先まで歩行。まるで船である。ローソンでボン ゴレリングイネ。0,049カメラ円。日本クッカリー八千代工場製。これじゃヒルズと同なので持ち帰り明治時代の皿に載せ、バージンオイル。皿を使うと味 が「二階級特進」になる。人件費が感じられるからだ。エスプレッソなう。

posted at 12:12:38

@BMWnonomiya 本日ハ「納会ノ嵐」作戦発動ノ為 一八〇〇「キヤンプエダムラ」への帰投ハ困難キワマレリ>イシカハジマ グンカンク ヨリ キョクサイ ヲ メイズ! オハリ

posted at 11:26:01

作家のいしいしんじさんから「マグロ2010」が届く。世界唯一の 「マグロ未来小説だ。第一付録は「赤身柵」。第二付録は「中トロ柵」第三付録は「ちょうどいい解凍法のことBY いしいしんじ」の文書。感謝!恒例の三崎まるいちの「発送の儀」では、今年は新潮矢野さんはお休みだったらしい。

posted at 11:10:00

コンタックス1型(徳国製)に、木星珠85mm f2のブラック仕上げを付けたら、なかなか第三帝国状態に。竹田総統好み。これは10年前水戸のカメラ屋さんに講演に行った時にそこで買った。値段は1,8カメラ円の記憶。戻りに大笑い海岸で回転寿司。

posted at 10:13:40

あたしをフォローしてくれた人がフォローしているリストを見たら、勝間和代さんが。23万フォローされて、数千フォロー。一読して「社交で大変そう」だ。ちょっと気の毒。

posted at 10:10:18

佃。仕事。午前9時ローカルタイム。天候回復。朝日が射してきた。さっきのグレーの墨絵に淡彩をほどこしたようだ。嬉しい。

posted at 09:08:36

佃。感度400でf2,8 1/30の暗い朝。空樹(くうじゅと読む)は薄墨絵のようだ。冷蔵庫の卵で目玉を作ろうとしたら、赤いのは2個ともゆで卵であった。こういう経験は初めて。午前8時より原稿書き。

posted at 08:05:38

カレンダーの憂鬱

Img_0591 年末の憂鬱はメトロ内で背広の男性が紙袋にいれた沢山のカレンダーを持っているのを目撃することだ。見るともなく見てしまって憂鬱になっている。別に来年のスケジュールが大変でそれを思って憂鬱になるのではない。日本の社会、会社の「おたな体質」がもっとも顕著に出てくるシーンなので暗くなるのである。営業さんはには同情するが、カレンダーというのはすでに紙の上からオンラインに移行して久しい。
自分が最後にカレンダーの仕事をしたのは平成1年であるから大昔だ。某デベロッパーの仕事であった。カレンダーは「高級なの」は表紙もいれて13枚あるから枚数計算で結構な収入になるのである。当時が大昔である証拠はレスポンス3000とかいう機械が印刷所にあって、これが画面の通行人を消したり、電線を消したりするのである。時間当たりのオペレータ代がたしか10万円した。まだそういうことに慣れていない時代であったから、おもしろがってベルリンの住宅街の通行人やら犬やらVWやらを消しまくった。パリの建築の長さの足りない壁は自由に伸ばすことが出来るので有頂天になった。それで出来たカレンダーは案に反してなにか寂しいものになってしまった。
もっと前のカレンダーの記憶でこれはポジテイブな記憶なのは「1971のカレンダーシャツ」というものである。シャツの前面に一年分のカレンダーの「タマ」が印刷してある。NDCの仕事でトヨタに行っていた当時、これをシャツではなくカレンダーとして使用して、独房に下げて、あと何日仕事すると収容所から出られるかと計算したのである。その独房とカレンダーのシャツは「東京ニコン日記」の中に掲載してある。

2009年12月10日 (木)

麻布署の裏

R8110489 大江戸線か日比谷線を出て、メイウシヤマの通り、以前の六本木スタジオのあった裏通りを歩行するのが通勤経路だ。今はそこにヒルズが立っているが、20年前には宮島整形外科というのがあって、そこに腰痛の治療にかよっていた。WAVEで洋書を見て、あの中にあったRAIN TREEとかいうカフェで休んだ。そこらは全部フォーマットされた中で、この麻布署だけは昔日のごとくにそこにある。監視用のtvカメラがひどくクラシックなので、ヒルズの行き帰りに鑑賞している。数日前の夕方に前を通過したら、こんな具合であった。塀いっぱいに高い脚立が立っている。どっかのホームセンターの脚立の在庫処分かと思った。
こういう報道関係の皆さんのご苦労はすごい。以前そういう若い人を知ってたが、張り込みの取材で弁当を食べていて、そのまま眠りこけて、箸を取り落としてもそれが落下する前にぱっと目覚めてその箸を掴むほどの覚醒が必要だそうだ。古武道である。
翌朝、出勤時にやはり前を通ったら、脚立が数本残っていた。そのひとつには「報知」とマジックで書かれていた。ブロック塀の上にはペットボトルのお茶がうまく載ったまま「放置」になっている。麻布署は何をしているのか!危険な爆発性液体かも知れない。

2009年12月 9日 (水)

ジュピター50ミリf2「木星珠」

J87841 1977年であったか、初めてベルリンに行ったとき、東ベルリンのギュンターのところに宿泊した。普通の公営住宅であるが、広い。さすが社会主義の「先進国」であると感心した。ギュンターは当時、東ベルリンに250名しかいない建物爆破の専門家であって、そのオフィスはブランデンブルグ門を見下ろす結構な場所にあった。周囲は無人地帯で警備兵が散歩しているだけで、あとはリスが遊んでいる「閑静」な地域であった。日本ではやらないけど、東ベルリンは老朽建物の取り壊しは、爆薬でするのである。ギュンターから爆薬での建物崩壊の写真を見せてもらった。それで後年、2001年のツインタワーの崩壊をTVで見て、これは変だと思ったのだ。単に飛行機が突っ込んだだけでタワーはあんな風には崩壊しない。あれはタワーの各所に爆薬が仕掛けてあった崩壊の仕方なのである。

それはともかく、東ベルリンの中古カメラ店で1本のソ連製ジュピターを買ったのである。値段はあまりに安いので記憶にない。このレンズと以前から持っていたソ連製レンズ、すなわち28、35、50、135ミリであたしのウイーン滞在中のほとんどのモノクロスナップは撮影されているのである。とくにジュピター50ミリはライカM2につけて本当によく使った。1980年に帰国してからやや経済にゆとりができたので、ほかのライツ製レンズも持つようになったけど、自分の原点はジュピター50ミリだ。たしか1973年か翌年のクリスマスのウイーンの蚤の市で、どっかの大学の先生が露店を出して(こういうことは坂崎幸之助がフリマをするようなものでごく自然である)そこで500シリングでキエフ3型にジュピター50ミリ付きを買ったのだ。これがソ連製コンタックスとの出会いであった。その撮影結果でキエフというカメラは本家のドレスデンよりよく映ることがわかったのである。ただしこの時のレンズはf2ではなく、ジュピター3の方、すなわち明るさはf1,5の木星珠であった。R8110495

毎年、この時期になると、なぜかクリスマスの自己プレゼントということを想起すると、ソ連製のレンズを思い出す。まあ、ライカM9を欲しがるより経済的な負担はないから「こんな時代」にはそんなレンズをほしがっているほうが安全だ。この木星珠は画像で見ると、埃と傷だらけだけど、ちゃんと写る。

2009年12月 8日 (火)

ロンジンを右手に

R8110485 R8110486 芥川賞と直木賞の正賞はロンジンの懐中時計だそうだ。賞金の方は副賞なのである。鳩山さんのやっている友愛音楽コンクールで家人の知人(というより親子ほど年齢が違う)が、今年の20回目の同コンクールで見事第三位に入賞した。実にめでたいがその賞金は1位2位が各20万で、3位が10万であるという。これは変だ。1位が25万で2位が15万で3位が10万なら分かるが。それにその単位はドルではない。円なのである。世界に冠たるこの国が、文化振興の為にはしみったれたお金しか出さないのは実に見事なやりかたであると感心しきり。
話は戻るけど、ロンジンの懐中時計は伝統の文学賞の歴史を感じる。今時、なかなか懐中時計を使う人はいない。
もともと腕時計は女性用のもので、懐中時計が男子の持ち物であったから、岡山に講演にきた漱石が「自分の懐中時計はニッケルです」とポケットから出したのを、少年の頃の内田百閒は聞いて「田舎に来たから漱石先生はわざと話題の質を落としている」と邪推したそうだ。断腸亭は実務派だから、亡父から受け継いだ金の懐中時計を鋳つぶしてお金にかえて、ニッケルの側に変えさせている。
このロンジンはもともと懐中時計を腕時計に改造したものだ。銀時計は腕に当たる部分がやさしいので、付けていて楽である。こういうことに気がつくのはじじいの証拠だが、ハンターケースというのであろうか、昔の蚊取り線香の容器のような格好のカバーが付いている。竜頭が異常に長いので、そのまま左手につけると手首にひっかかるので、このように右手につけている。パネライで左手きき用にリューズの左側にあるモデルも持っていたが、一方でジンなどは、戦闘要員の為の時計として、竜頭を手首側に付けないモデルもある。
このロンジンは1925年製であるが、クロノメータークラスの正確さである。1週間経過しても合わせ直す必要がないほどだ。機械式の時計を眺めていると、つくずくデジカメのその命の短さを嘆く。まさにライカインコなみ。

カバーを開けると、なにやら100年前に沢山グランプリを受賞した時のメダルの記念が沢山刻印されている。時計がまだ「権威」を持っていた時代の名残だが、綺麗なものだと思う。

2009年12月 7日 (月)

下弦の月を撮る

Pc060442 R8111844 佃ではこの20年間に数回部屋を変わったが、37fの西向きには長く棲んだ。「武蔵野の月は草より出でて草にいる」とは、独歩の言葉をそのままどこかの海苔屋の老舗が引用したのであるが、実に日本の情緒である。でも月の不思議は極東より、アラブ系が本家という感じがする。夕刻、イラン上空を飛行中にまるであつらえたような三日月とビーナスが造りもののように出ていた。

また、北ドイツの小都市の夜更けになにかシーツの上が青く照明されているなと思ったら、月が部屋を覗いていることもあった。それはさておき、ここ極東の楽しみは武蔵野の尾花を分けて入る月であって、その武蔵野などはもうすでにないのだが古い銅貨のようなひしゃげた月が西の地平線に落ちて行き、本当に武蔵野渋谷村の草の間に落ちるのではないかと思われる光景を高倍率の双眼鏡で観察したりした。
今の部屋は北東の角にあるから武蔵野に落ちる月も、下弦の月が朝の光の中に溶けて行く光景も見られない。その代わり、東の空が自由に観察できるから、月の出は見るに苦労しない。
37f時代にはアリフレックス16STにアストロベルリンの640ミリの超望遠レンズで月の南中を撮影した。このレンズとアリのSTは今も大机の前に鎮座しているから、たとえば、ペンデジタルにアリフレックスのアダプタを付ければ、スチルでもムービーでもお好み次第なのであるが、頑丈な三脚をセットするのが面倒である。その代わり、出窓の角にタクマー300ミリf4があるので、それにノボフレックス製M42アダプターで約600ミリ相当の画像を手持ちで撮影することができる。そのようにして撮影したのが、この画像だ。ペンデジタルで感度は1000で、マニュアルで1/1000秒でF4の開放。マイナス3補正。
歳をとると夕食後に眠くなるのが、通常の例であって今宵も22時頃に起き出したら、角部屋の先に壊れた提灯のようなものが見える。これは自分の乱視のせいであって、無論提灯ではなく、ようやくに地平線を離れた下弦の月の出なのである。
9月のカイロの2週間はさすがにカイロを見下ろす商人宿の16階のベランダから月の満ち欠けを観察するのは親しい楽しみであったのが、この3月というもの、そのことをすっかり忘れていた。

2009年12月 6日 (日)

マジックインクとマジックハンド

R8111746 岡山から東京に戻る。飛行時間は55分であったが、その後半の35分はかなりのタービュランス。岡山のラウンジに居る時に家人から「かなりの悪天候」と聞かされていたので、気象庁の降雨情報を見たら東日本全域は激しい雨で、カルテは真っ青になっていた。エクレールの光る中を飛行するのは、勇壮な感じのするものだ。今年の5月30日にマラガからモスクワを深夜飛行したとき、伊太利亜北部を飛行中に、南部の奥の方で実に活発な積乱雲が発達して、夜目にもあざやかな雷光が見えたのを、思い出した。
定刻に着陸したが、羽田到着の乗客はだれも「タービュランスはもううんざり」とそれぞれの顔に書いてあるのが面白かった。しかしどんなに揺れても速いのはいい。

さて、今回の1週間の滞在で、一番のニュースは奉還町商店街の奥の方のさえない魚屋で買ったほぼ1キロの牡蠣がなかなか良かったことだ。昨日は土曜だから普段なら築地の河岸の場内で買い物をするのであって、新鮮な牡蠣を買うのはたやすいことだが、それを岡山の奉還町で達成したのが嬉しい。一般に岡山も魚は極上なところで、どこに行ってもまずい魚は出てこない。それと普通のうどんやで、所望すればごく普通の感じで「コップ酒」が出るのだから、やはり文化の程度がちゃんとしている。東京などだと蕎麦屋でも「お酒は午後5時から」などと、周囲の会社の人事部に気を遣っているようなのは駄目である。

奉還町の商店街での発見は、このマジックインクの看板だ。小学校の低学年の当時であったか、細長い瓶の直接にフエルトのペンが付いたのが斬新で、しかも「何にでも書ける」というのが新機軸であった。それ以前には鉛筆も墨汁もガラスには文字を書くことは出来なかった。しかもシンナーの未来的な香りがあった。
マジックなんとか、という言葉で当時、飛んでいた言葉は他にもある。「マジックハンド」である。
R8110697 岡山中央の商店街の老舗「フジカメラ」にブロニカDが出ている。ブロニカの極上は最初期モデルにそのとどめをさすわけである。シャッターが壊れているとのことだったが、あたしはシャッターの調子の悪いブロニカDは三台持っている。それでこのカメラはミラーが上がったままの状態だと、フォーカルプレーンの布幕を前後から指で押さえて引っ張ると、シャッターが動作することを知って居るので、そのようにしたら不動のシャッターが動き出したので、お店の人がかなり驚いていた。これもマジックハンドかも知れない。しかし正しいマジックハンドの用法は「放射線の出ている物質を操作する機械の手」である。あの当時、TVなどであの金属製の人間の手の動作を見るのが好きだった。

2009年12月 5日 (土)

速報 GXRのユニットで遊ぶ 4

R8111699 R8111781 R8111732 R8111743 岡山の駅の反対側、つまり西側を徘徊したのは今回が初めてである。NHK関係のミュージアムめいたガラス張りの建物があって、其れを高い位置から見ると、一種不思議な感じを与える。ここをペンデジタル2のジオラマモードで撮りたいと思った。
そこから、奉還通りの商店街にはいる。かなり長い商店街であるが、シャッター街にはまだなっていない。それなりに活気がある。100円の大きなキャベツが人気で、さぬきうどんの店も多い。いつも歩いている岡山駅の東は表玄関ならこっちには人の暮らしがある。
そこの通りをとっさきまで歩いて、GXRにズームカメラユニットを付けたので、スナップした。スナップモードで距離は5メーターであるが、主に24ミリ相当のズーム範囲を使ったので、その深度は非常に深い。撮影は全部これで用が足りたが、1ショットだけ眼前の植物の撮影の時だけ撮影距離を1,5mにしただけで後は全部、6メーターの「置きピン」である。思えば、長年ライカでスナップして町を流している時も同じであって、無論、RFで距離なども合わせない。人物のショットで1メーターの接近になれば、RFでちゃんとピントを合わせるかと言えば、そうではなく、この場合でも目測でピントは合わせているのである。そうなると、オートフォーカスは不要になってしまうのであるが、フィルムカメラの一眼レフのオートフォーカスの場合、以前から「生真面目にいちいちピントをカメラが合わせに行く」のはどうも変だと思っていた。なぜならライカの場合にはレンズの焦点距離の深度目盛りを頼りにして目測で用が足りているからである。これは50ミリまでの撮影であって、当然、90ミリ以上ではRFのご厄介になるわけであるけど、スナップショットというのは短いレンズで撮るのが普通である。
その意味で、奉還通りからJRの備前三門までの1時間ほどの歩行は「スナップの三昧境」を久しぶりに思い出させてくれた。
このようなデジタルカメラでいったい何パーセントのカメラ人類が、スナップモードで「置きピン」で撮影しているか知らないが、これは案外に有効なスナップ術なのである。その心理的な背景にはどうもGXRのあの「じーこ、じーこ」というフォーカスの作動音が耳につくのも事実だ。
この作例は全部、GXRでスナップモードで5m。

しろと「でぶしろ」

R1141289 R8111307 ★本日、移動日。午後遅く  OKJHND

間違って、カテゴリーを「つぶやき」にしたら、ずらずらっと昔の日記が見られるようになった。こんな技があったのか。その中に2007年の10月に「でぶしろ」に会いに行くというのがあった。これがその画像である。

東京は北区某所に「でぶしろ」とう名物ねこが居た。今は姿をかくして「でぶしろ分持の尊」(でぶしろわけもちのみこと)となったのが今年の初めであったか。

GPSで場所を確認してそのポイントに行ったら、ちゃんと段ボールの豪邸に鎮座していた。

昨年の1月には皇居には行かずに新年祝賀の儀に日本路地裏学会会長とともに、でぶしろ参賀に行ったこともある。

このでぶしろさんと筆者の画像は一時、PowerBookの壁紙になっていたこともある。やはり猫も人間も後姿が肝心だ。

十文銭銀水によれば、犬の名前はしろ。ねこはたま、鳥はPちゃんであるというこれは30数年前に銀水が唱えた理論であるが、正鵠を得ている。

それで銀水の愛犬のしろであるが、その価格は12万円。それが彼の自宅の近所の農道に7万円入りの財布がしろの散歩の時に落ちていたそうで、それを代官に届けたら半年後に「お下げ渡し」になって、都合、7万円はお上からの補助で5万円のワン公の出費補助になったとか。現代版はなさかじじいというところ。

めでたし、めでたし。どっとはらい。

2009年12月 4日 (金)

速報 GXRのユニットで遊ぶ 3

岡山滞在。

Pc040279 R8111663 R8111666 10日ほど使って、GXRの使い勝手、全貌がだんだんに姿を現してきた。あたしの流儀では説明書とか、型録は見ない主義だ。先入観が入ってくるのを嫌うのであって、岡山にもプレス資料と取説は持ってきたけど、それはスーツケースの奥に入っているのであって、見ることはない。何かの拍子にどっかのボタンを押してしまいそれで新境地が開けたりするのである。
それでGXRの風説に「マクロモードで撮影すると、オートフォーカスが行ったり来たり」というのがある。これは全国各地のカメラ店のデモ機を触った結果の風説であろう。

まことにオートフォーカスというのは問題点を指摘する弱点では格好である。例のライカM9の「色むら」と同じで楽な攻撃ポイントであるが、本来接写をするときには、マニュアルにして体でカメラを前後してピントの頭を出した方がはるかに迅速に撮影できる。
この作例はそのようにして、持参のモナコのぼろを撮影した。ツアイスのファインダーもMFで撮影している。
スナップ撮影の場合も実はオートフォーカスより、スナップモードにした方がはるかに撮影は速い。スナップモードの焦点距離の目盛りはやたら沢山めもられてあるが、もともと撮影レンズの焦点距離は短いのであるから、50ミリのカメラユニットでもズームカメラユニットでも、大体が5メーターに固定しておけば大抵のスナップは大丈夫だ。
各カメラユニットでMFにした時、どっかのボタンを押したら、液晶画面の中央が拡大されてピントの頭が見やすくなるというモードに入ってしまい、それをキャンセルするのに苦労した(というサービスであるが、実際には目で距離を測っているので、それほど有り難くない)。この方式は60年前の英国のレイフレックスとかペリフレックスにあった。一種の机上の空論というやつであって、一眼レフのファインダー像に中央が拡大されるのである。開発者さんとわれわれ現場のカメラ人類ではそこらの使い勝手に関する意見は異なるのである。
ズームカメラユニットでマニュアル撮影の場合、マクロモードにしてマクロボタンをおしつつ、コマンドダイヤルを回して距離を合わせる。無限から30センチまでの撮影範囲はダイヤルの回転で普通にフォローできるが、30センチから1センチまではかなりコマンドダイヤルを回転させる必要あり。特に3センチから1センチの距離は指が疲れるほどだ。
慣れの問題であるが、GXRというカメラを使うカメラ人類は、かなりの迅速撮影の指向があるであろうから、スナップモードとMFをうまく使うとこのカメラの魅力を引き出せる。

以上、七面倒臭いことを書いているようだが、スナップモードの方が迅速に撮影できるというのは、われわれのようにライカで30年スナップを撮っている人間がそうすれば「ライカと同じ速度で撮影が可能」という意味である。普段の撮影にはオートフォーカスで十分。

GXRで撮影中のカットは、ペンデジタルで撮影。

長徳固執堂@岡山

R8111457 R8111497 R8111483 5年前か6年前かそこらはすでに記憶に定かではないが、長徳固執堂が出来た。十文銭銀水のスタジオM2が建て増しになった時、彼の好意であたしのがらくたを収納するスペースが出来たのである。そこに置いてあるのは、がらくた同然というより、がらくたそのものであるのだけど、勝手に処分されたりカメラ店で転売されては困るので、時々「査察」をすることになっていた。昨年の夏に岡山に行った時には、その時間もなかったので、今回「査察」したわけである。
長徳固執堂は「どっかの地方で偏屈おやじの作ったなんとか秘宝館」のようなのにしたいと、相談してあった。看板も揮毫したのである。開館(とは言え、非公開)当時はまだ建材が生々しくて落ち着かない状態だったが、さすが5年以上が経過すると、良い感じに古びてくる。そこでちょっと原稿書きして、昼寝して、銀水のジュニア(ここの常勤館長)が、近所から買ってきてくれたアップルパイでコーヒーを飲んだ。このアップルパイの皮が極上であって実に感心した。

ここのスペースはなかなか貴重で、その広さに80年代のソーホーのロフトを思い出すのが常である。
それで眼前は田んぼであって秋なのである。実際には12月2日なのだけど、スタジオの窓を開けていても寒くはない。
長徳固執堂が出来た当時、日本カメラの付録でここを紹介してもらった。ただし公開してないので、「場所を特定」されないように(つまらない気を遣ったものだ)その冊子の表紙には、牛窓あたりの風景を入れた。その牛窓に昨日また行ったのであるが、こういう風光明媚な場所がこの地上にあるのかと思った。

2009年12月 3日 (木)

新幹線が見える窓辺

R8111316 2年間だけ時々、昼寝をしに行った銀座八丁庵は黒川紀章さんの名建築だが、その10階の部屋の丸窓から、新橋を望むに新幹線がほんのわずかだけ見えた。つまり建物の間から一瞬だけ見えるのである。
その反対の視点、つまり新幹線から銀座八丁庵を見たらどう見えるであろうか、これが気になって、わざわざ東京駅からくだりの新幹線に乗った。そういうことに無駄なお金は使えないので、新横浜まで行って在来線で戻るのである。
その結果は、フォーカルプレーンシャッターの幕の間から瞬視した光景というのがあたっている。われわれ、写真関係者は瞬間にモノを見ているので、ビルの間から中銀カプセルタワーの窓が瞬間に見えるのが分かった。
岡山駅前のこのホテルでは、眼前がエジプトのカイロで見慣れたコプト派教会の礼拝堂が見える。これを結婚式場と言うのは野暮というものだ。大体、異教徒が異端のキリスト教会で結婚式など出来ない。その先にはローマ時代の白いドームが見えて、その間をのぞみがゆるゆると入ってくる。
このショットは今度のGXRワークショップで編集部の意向で「GXRとニコンS3にニッコール50ミリF1,1の比較テストなのだ。ただしニコンで撮影した分はまだ現像していないので、写っているのかいないのか。不明だ。画像はGXRに50ミリカメラユニット。下の画像はCX2で300ミリ相当撮影。R8110474

2009年12月 2日 (水)

おきゃーまこうらくえんでもみじ

R8110908 岡山に最初に来たのは、1976年の夏で、29歳のときだ。現代日本写真家展の準備で外人さんと来日して、かれはナイーブだから神経性下痢になってすぐに帰国。その後、「得意の日本語」を駆使して東松、奈良原、篠山、立木、森山さんというような巨頭写真家に出品を快諾してもらった。それでやれやれというので、家人の実家の新潟経由で裏日本を循環して岡山に来たのである。当時の岡山は山陽道ののんびりした小都であった。ちょうど岡山の日大の後輩である、戸倉元(本名十文銭銀水)の新築の家に居候になった。最初の男子の誕生直後でこの子供が「バスに固執」するので、こっちの寝ている部屋のバスの玩具を取りにくる。これは見所のある子供だと思っていたが、今はスタジオM2ではおやじを超えて息子さん指名で仕事がくるようになったのは当然である。
そういう33年間の岡山訪問で、まだ一度も後楽園に行っていないのに気がついた。月曜の晴れた午後に、しかし月曜は岡山はどこも博物館とか歴史記念物は閉館であるから、後楽園もそうであろうとただ近所を徘徊するつもりで正門前まで行ったらこれが開園していた。行くつもりで行って仕舞っているのはあきらめがつくが、仕舞っているつもりで開いているのは、精神衛生上はなはだよろしくない。

しかし、この機会を逃すともう後楽園に入るチャンスはないと思って入った。庭園を歩行して脳裏に浮かんだのは、ミュンヘンのイングリッシュガーデンである。普通のバロックの庭は幾何学的で一向に面白くないが、あの庭は自然に「ダッシュ」を付けたところがいい。後楽園もイングリッシュガーデン系だ。

周囲はデジタル一眼レフで武装したカメラファンで戒厳令状態。皆さん、紅葉を撮影しているのである。それであたしも真似をして紅葉を撮影。フォトコンテストの審査などで、紅葉の写真は「家訓」で最初に落選させることにしているが、この作例も自分が審査員であったら、最初に落選させるようなのに仕上がった。

カメラはGXRにズームカメラユニット。

2009年12月 1日 (火)

「ブリッジ」の双眼鏡

R8110775 缶詰で岡山のホテルで仕事している。誰にも会わないので、退屈することもあるから、窓辺に双眼鏡を置いて、雑文書きに飽きると窓の外を見る。なにか猫になった気分だ。NYKのコンテナ船「ライラ」を便乗取材した時、ブリッジの双眼鏡はニコンの銘が付いていたが、ちょっと安物のような外見のやつだった。ブリッジには神棚状の場所がある。これはパナマ船籍でも日本の船であるから当然だ。そこに当時の宮原社長の写真が掲げてあった。今ではこの写真は新社長に代わったのであろう。
士官室の食堂には「ブラックマドンナ」のイコンがあった。これはキャプテン以下、ルーマニアの人だからである。
双眼鏡だが、ブリッジのニコンに対して、据え付けの大型のはフジノンであったと記憶する。
その大型双眼鏡に持参のリコーのコンパクトデジカメを押し付けて、撮影したカットは東京湾の大混雑がうまく表現されていたので、1000頁写真集「チョートク海をゆく」に掲載されている。
さて、岡山でのワッチ用の双眼鏡はツアイス8x30だ。確かビロード革命の時、バーツラフ広場の脇にあった、開店したばかりのフォトシュコダで買った。これで覗くと岡山駅周囲の新幹線在来線の行き来とか、通行人の様子がわかる。この8x30は何時も海外に持参のkern8x30に比較すると、その視野はちょっと地味であるが逆に画像が強調されないので、長時間の観察には見やすいようだ。
ブリッジの双眼鏡の真似ではないが、これにはストラップは付いていない。でももともと8x30はアーミーモデルであるからストラップつけて常時携帯するのが本来なのであろう。この写真はGXRの50ミリ。
さて。また仕事。

★追記。火曜の朝に起きて、日記の更新がされていないことに気がつく。なんと、公開日時が12月31日の午前0時になっていた。月の変わり目にはこういう間違いあり。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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