何時も、佃のタワーマンションの北東の部屋から隅田川の光景を見ている。
最近では「空樹」も加わって、その「朝顔日記」が楽しみである。
ここに新しい興味のポイントが加わった。草森紳一さんの仕事場がここにあったことだ。草森さんはあたしがカメラ毎日にデビューした当時には、売り出し中の万能人間であった。今にして年譜を調べたらあたしよりも9歳年上なだけだ。20歳の時、草森さんは29歳であったわけだが、この若い当時の9歳差は「無限大の大人」に見えるのであった。
草森さんとなにか仕事をしたような経験はない。その後の足跡も知らないままに30年が経過して、昨年の春からen-Taxiで「東京大周遊」を連載開始したのと前後して草森さんの「永代橋のベーコン」が休載になったのを知った。草森さんの急逝を知ったのはその直後だ。
en-Taxiで坪内さんが草森さんのことを書いていて、自分の心の中の「草森ネオン」が点灯したのである。
佃の部屋から荷風がよく通っていた「土州病院」の跡のマンションが見える。その荷風と永代橋の関係を書いた草森さんの仕事場はその永代橋の東詰めなのである。これは舞台の構成としては最高の出来だ。ただし、この赤い煉瓦の草森さんの仕事場(4万冊の本があったので、壁が広いということが、部屋を選択するキーポイントであったそうだ)は、河向きにはまったく窓がない。これは実に不思議なことに思えるが、大川端リバーシテイ21計画の以前には河向きがトレンドなどではなかったことが分かる。このマンションには知り合いの写真家、平野多聞がスタジオを持っている。四半世紀前には何度か遊びに行ったことがあるが、やはり窓の少ない部屋だった。これはスタジオとか書庫は壁の多い方がいいという目的にあっている。
草森さんは雪の日に部屋から、眼下の永代橋を撮影していると思ったのはそうではなく、隅田川方向は壁である。草森さんはベランダからか、あるいは非常階段からの撮影であったようだ。
あるカメラのスタンドポイントから撮影してそのポイントから今度は最初のショットがなされたポイントを見返すというやり方は、かなりコンセプチュアルな写真の撮影方法なのである。その言い方からすれば、もの2点の画像は草森さんとあたしの競作であるとも言える。
草森紳一はベラ・バルトークみたいだな。と思った。プラハの南部のビシュハラトの丘の上にはモルダウを見下ろす位置にプラハの著名な 文化人の墓がある。その中でバルトークの墓は、モルダウにそっぽを向いて、つまりモルダウに背中を向けているのである。その感じが永代橋に背中を向ける草森紳一と共通項を感じた。
永代橋をあたしのように「直に見てしまう」のは、これは慰安になって駄目だ。九草森さんのように、その橋の存在を背中に感じて執筆をして、時折、その橋の実存に触れるというのが本道のようである。
ご近所にお住まいの詩人に吉増剛三さんがおられる。これは彼のお正月の2日に撮影された真冬の虹のSX70作品が何かの雑誌に掲載されていたので、吉増さんのカメラの立ち位置が知れた。
これは怖いことなのである。浮気の相手の部屋から何気なく撮影したSX70の画像で家人にその場所を特定されたこともある。その話しはまた今度。