フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月31日 (土)

太陽野郎

Img_0069 東京カメラクラブでは毎年、写真文化勲章を実施しているが、10年ほど前であったか、オートボーイSEに写真文化勲章を授与したことがあった。このカメラに関しては、あたしも紙媒体の当時のカメラジャーナル誌で特集をやったことがある。

当時としては、ソーラーパネルで電力を得てカメラを動かすのはかなりの冒険であった。授賞式で開発者の方に話しをお聞きしたらなんでも、ソーラーパネルの安いのがなかなか入手できない時代で、この製品ではなんでもメキシコから輸入したそうである。

太陽に向けてチャージするというのは、普通のカメラはなるべく直射日光から遠ざけるというのとまったくセオリーが逆なのでそれが痛快である。この前、我楽多屋さんに行ったら、その「太陽野郎」の中古があった。あたしの持っている個体はすでに電池をチャージしなくなっているが、この個体はチャージの速度は遅いものの、まだ動いて、ちゃんとフィルムも巻き上げる。

太陽野郎コレクターとして凄いと思ったのは、この個体には元箱と取説た付属していたことである。我楽多屋さんにたまたま当時のカメラジャーナルのこのカメラの特集号があったので、見たらなかなかの描写をする。2枚の作例は左が銀座の天賞堂の天使のブロンズ像を前から撮影したものと、RC21のセンチュリーパークタワーが建設中のカットであった。

それに加えて驚いたのは、表紙に登場の当時のあたしの顔写真がまだ髭が真っ黒であったことだ。これが10年の時間の経過である。

2009年10月30日 (金)

ベークライト

Pa231438 最近では、新宿というのはヒルズの先にある。だから仕事が終わって、新宿のゴールデン街などはとんでもない。方向が逆というのは歳をとるとなかなか決心がつかないのだ。吉田健一がくいものの本の中で「以前はよく行った烏森の飲み屋が、その後、牛込に引っ越してから順序が逆になったので最近は行かない」という意味のことを書いている。
数日前、好天に誘われて、ヒルズに行くのは止めにしてそれが朝のラッシュの時間であったので、大江戸線外回りにて新宿に出た。久しぶりにカメラの「キ(タ)ムラ」に行った。数点、面白いものがあったがそういう場合、その面白いモノ数点はすべて以前に買ったことがあるか、あるいは現在、持っているものである。そういう品物なウイッシュリストから外して行くと、まだ買ったことはなくしかも今回、ここで初めて出会ったものというのに、自然に絞り込まれて行くものだ。
その二眼レフがこれである。昨年の今頃、青山達夫と名古屋のカメラ店を徘徊して、そこで買ったドイツ製の二眼レフの場合にはすでに同じものを持っていたが、カメラの背部の輸入代理店の金属プレートに、テヘランとかバグダッドとかあったので手に入れた。今回のこのカメラの場合、そのネームプレートが恐らく、6x6サイズの二眼レフの中では世界一大きいであろうということから手に入れた。こういうことは忘れないものだ。ちなみにリスボンの貴族の館をもとにした、ホテルの鍵についているタグでこれが新書サイズより大きいのがあった。こういうことは案外に忘れない。
Nikono Flexに惹かれるのは本体がベークライトで出来ていることだ。

ベークランドさんが石炭酸とホルマリンで生成した、世界最初の人工の樹脂であることは、wikiで知ったが、この二つの薬品は少年時代、昆虫採集で必要であったから音羽の角の薬屋でも買うことが出来た。その液体がこのような、立派なしっかりした重い物質になるのは不思議だ。

このカメラのデザインはアールデコである。あるいはデコ風である。最近の金属製の高級カメラより、さらに重厚感があるのが痛快だ。カメラの棚のこやしにせずにこれで撮影をしようと思う。

2009年10月29日 (木)

「繁盛」のお守り

R8110295 大昔のデジカメ本では、「メモリは256を2枚持つのが正しい」などと書いたものであったが、数年前に秋葉で1GBのSDが900円になったときには驚いた。その数年前、オリンパスがE1を出した時には、六本木ヒルズの49Fで豪華な発表会。たまたま仕事場が同じフロアなので、そのF1を展示した豪華スペースに感心した。F1をどのようにエレベータで上に上げたのであろうかと考えた。
その直後に三井綱町クラブで記念イベントの大宴会があり、お土産は1GBのCFカードだった。他に同じようなサイズのチョコレートももらった。カメラマン仲間でその豪華さが話題になったのは、当時、1GBのメモリは3カメラ円(1カメラ円は邦貨1万円)はしたからだ。

時代が変わって、最近ではメモリは「使い捨て」である。画像がいっぱいになったらそのまま保管する。その表面にデータを書きたいのだけど、小さすぎて書けないから、透明なフィルムの袋に入れるのがいい。写真家を40年以上やっていると、ネガの容積が生活を脅かすようになる。その意味で写真がメモリになったのは有り難い。
バルク品は使わないようにするというのが、一昔前までのプロの常識であったが最近ではそのバルク品を積極的に使っている。これなどは「お守り」であるが同時にカメラに入れるとメモリにも使えるという、「王様のアイデア」でもある。

2009年10月28日 (水)

BIOGON 21MM F4,5

Img_0048 ツアイスの広告によれば、原子力の平和利用、ペニシリンの登場、そしてビオゴン21ミリ超広角レンズ出現の3つが20世紀の偉大な三大大発明であるという。すでに半世紀以上経過してこの文案を考えて見るに、納得することも多い。

1960年代、銀座にまだ明裕国際会館があった当時、そこの図書館はよく利用した。英文の本だか雑誌だかの拾い読みでは、1950年代初期にシカゴの有名写真家ハリー・キャラハンがそれまでは大型カメラで革新的な仕事をしていたのが、ビオゴン21ミリの発表を受けてコンタックス2a(アマチュア向けのメーター内蔵の3aを嫌ったのが偉いと当時、思った)とこのレンズを買って、以来、彼の作風が一新したというのが忘れられない。その理由というのは、キャラハンの場合、これが超広角レンズで広い角度が撮影するのが目的ではなく、このレンズの極めて深い焦点深度に惚れてのことであった。

一方で60年代の社会派カメラマンで公民権運動のドキュメントを残している、アメリカの報道写真家ケン・ハイマンはライカM2のブラックペイントに、クローム仕上げのライカビットMPを付けて、なかなかのセルフポートレートをカメラ雑誌に出しているが、そのレンズもこの21ミリビオゴンなのである。当時はライカのSA庵愚論よりもその描写が優秀という噂がもっぱらであった。ハイマンの場合、このレンズをアダプターでライカに付けていたのだ。無論、撮影は目測である。

数年前にツアイスが新Mレンズのラインナップを出した時、あたしはシステムを全部ZMレンズに入れ替えたのだが、その優秀さは「蒸留水」を飲むようであることにきがついて、このところ、また旧ツアイスビオゴン21とか、SA庵愚論21などに回帰しているようなのだ。ゴーストが出たり、色がおかしかったりするのに、酒の癖みたいな魅力を感じているるのである。

ただし、これは一部の好事家の好みだから、ちゃんとした写真を撮りたい人は、ッアイスのZMレンズがいい。というのは、あれは10年ほど前だったか、KLMで飛んでいた当時、ワインリストのセレクションがいかにも、オランダの通好みはいとして、オーストラリアの赤で、カスクの木の香りがあまりに強すぎるのがあった。かなり癖のあるワインでも大丈夫なあたしも吃驚した。普通の乗客が乗る飛行機のワインセレクションはごく普通であるべきだ。レンズ選びも然り。

2009年10月27日 (火)

MK ll

R8110294 MK ll(マークツー)と言えば、真っ先に脳裏に浮かぶのは、コロナMK llである。1970年頃、愛知県は挙母市の外山スタジオでこのクルマを磨いていたからだ。これはトヨタの海外宣伝の仕事だった。
自分のMK llと言えば、映画撮影機のMITCHEL MK ll である。70年代に銀座のサクラやのウインドウに飾ってあってため息をついた。その勇姿は、写真集「東京ニコン日記」の1頁に掲載してある。

MITCHELは好きで何台か持っているが、MK llは手にしたことはない。それでせめて気分だけでも味わおうと、カメラドアーとスラントマガジンを手にいれた。カメラドアには巨大なアイピースが付き、いかにも巨匠映画監督が覗くのに相応しい貫禄だし、スラントマガジンは本体の斜め下に、裏返しに付ける400FTマガジンでこれはカメラマンが肩で、マガジンの一部を押し当てて、重い機材での撮影を楽にする、まあ、アメリカ人の考えついたデザインとしてはかなり前衛的だ。もともとMITCHELはアメリカ軍に採用されたくらいだから「ださい」デザインなのであるが、MK llは大したものだ。

この画像は三段重ねの一番下にあるのが、ライカMK llであって、レンズはスーパー案愚論MK llである。その上のが英国軍用時計のMK llである。ブランドはIWCと言いたいが無銘。背面には例のブロードアローとMK llの刻印と認識番号がスタンプされている。英国の軍用時計は今はMK XVくらいまで進化したようだが、この大型のウオッチはもともとポケットウオッチからの進化の途中であって、それにバンドを付けてある。だから竜頭は斜めになっているが、これが本来のもっとも時間を読むには格好な角度に思える。老眼にはぴったりの文字盤だ。初期の腕時計で「自動車運転者用」とあるのも、文字盤はこの角度だ。

2009年10月26日 (月)

埃及古代王朝時代のスピーカー

R8310149 埃及から戻って1月が経過しようとしている。回路での収穫はあの迷路のような町並みが自分のものになったことだ。最初、GOOGLE MAPで見ていて実にICめいた路地と路地裏に手をこまねいていたのが、2週間の回路歩きで、もうガイド役ができるほどになった。路地裏歩きは実に学習以外の方法では上達しないのである。こんがらかった糸の玉は端から順番に解いて行く以外に方法などありはしない。もっともストリートビューというのがあるが、あれはせいぜいがパリ止まりであって、回路の路地にはクルマの入る幅員すらない。駱駝にカメラを付けるしか方法はないのだ。
埃及で面白かったのは、自分がアラビア語が読めないので、ありとあらゆる街のサインが一種まか不思議なサインとしてのみ自分の意識視野に反映されることだ。しかしこれは表音文字なのである。この伝で行けば、非漢字圏のツーリストが漢字圏に来て一体どのような刺激を受けるかは想像できる。
それでもっぱらその読めない文字の魅力を堪能したわけだ。
このスピーカーのイラストは、回路南部のオールド回路で撮影した。まず回路の秋葉というわけだが、この店はちゃんと開店しているのである。注目すべきはこの右側のイラストの感覚である。まるでラスコーの壁画めいた良い感じがそこに見える。古代エジプト時代の音響セットのイラストと見てもよい。

木村伊兵衛さんが1954年に初めて渡欧した時、ローマーの下町でたむろっている若者が全員、ケータイ電話を持っている木村さん撮影のスナップがあった。へえ、1950年代にはイタリアだけは特例的に「神が携帯をお許しになった」のかと思った。よくよく見れば、若者連は「アイスバー」を手にしているのである。それがケータイに見えたのであるが、その見間違いを非常に面白く思った。

2009年10月25日 (日)

ペンを使う人。ペンを使わない人。

R8110050 ペンと言ってもこれは雑誌の名前でもカメラの名前でもない。本来の万年筆のことだ。周囲の編集長でペンを使う人と使わない人がいる。「趣味の文具箱」の清水編集長はカメラのムックでも知られているが、この人の作る万年筆の本はいい。もともと現代なら万年筆など不要である。筆記用具はボールポイントペンとマーカーと鉛筆で用が足りるし、手紙も原稿もPowerBookで書いている。そこで万年筆を「大流行」させるのには、この「時代遅れの筆記用具」が人生に必須という「錯覚」を持たせる必要がある。錯覚は錯覚であるが、それはそれぞれに万年筆の使い手には「真実の価値感」である。
人生には無駄な部分が必要だ。酒もそうだし、路地裏歩きも、習い事もそうであろう。ギャンブルも人生の無駄の部分であろうが、あたしの場合には「人生そのものがギャンブル状態」がこの半世紀継続しているので、ギャンブルはやる必要はなし。

万年筆は昔、実家が零細万年筆屋でスプリング万年筆という屋号であったことは前に書いたが、その家伝の万年筆は一本も残っていない。今使っているのは、もらいもののラミーともらいもののモンブランだ。後者は家人の父の遺品である。役人であったから真面目な文字を書いた人で、そのモンブランはやや細書きのようだ。それで自分などは太書きが好きなので、最初は使わなかった。数年して使ってみたらだんだんと手にあってきた。こちらの意思がペンに届いたのであろうか。モンブランの例の平たい格好のインキ瓶からインキを注入するのも楽しい。これはライカにフィルムを装填する楽しみと同類項であることに気がついた。万年筆を原稿書きに使うことは皆無だ。
本のプロットをたてる時、大きめの紙にアイデアを次々に書く時に、万年筆が役にたつ。これがボールポイントペンとかマーカーでは気分が出ない。

一方の万年筆を使わない方の「総統」が新潮の矢野編集長だ。矢野さんに連載中の「屋根裏プラハ」の原稿を直してもらうのをあたしは「矢野文章塾」と呼んでいる。ヒルズの49Fにてゲラを前に赤ボールポイントペンを持った矢野さんには近づきがたい威厳がある。この赤い筆記具であたしの劣文誤字脱字意味不明をばったばったと伐採してくれる。その感じはブラジルの開拓移民団というところだ。矢野編集長の持っている筆箱の中には各種の秘密兵器が入っているようだが、ご自身では、万年筆は持っていないと言っていた。考えてみれば当然な話で、われわれがインキの万年筆でなにやら手紙などしたためて居る時には、そこにつかの間の「文学的な叙情」を味わいたいのである。一方で矢野さんの場合には、本物の文学の戦場のまっただ中にいて、芥川賞作家を突撃させたりしている「司令官」である。ゆえに彼の「軍刀」は万年筆ではなく一本の赤ボールであることは納得が行く。

考えれば、カメラにも、万年筆とキーボードの分類が出来そうだ。万年筆組はフィルムを入れるクラシックライカであり、キーボード組はライカM9などがデジカメ軍団の総司令官になるわけだ。

★画像は回路のホテルの16Fのバルコニーから撮影。

2009年10月24日 (土)

5年前

R8110271 中越地震から10月23日で5年か。
5年前のこの日にはベルリンにいた。ペンションのTVで被害状況が繰り返し放映されていたが、BBCの映像は同じものばっかりを繰り返し見せるので、逆に不安になった。それで家人に電話して被害状況などを聞いた。
ペンションで働いているロシア人のおばちゃんと地震のこわさについて話し合った。このおばちゃんの出身地はロシアの地震のある地域なのである。
欧州に居ると、日本のニュースはもっぱら大地震ばかりが起きている極東の神秘の国なのだ。
5年前には、腰名の仕事でベルリンからナポリに行った。ナポリで後からつけてきた「イケメンナポリタン」に腕時計を奪取されたのも懐かしい。それで「ナポリの仇を討ってやる」と勢い込んで、アリフレックスSRをEBAYで落札したのである。
この5年前に、腰名が津アイスのレンズを協業して製造するようになったので、思い出は深い。それで5年前に使っていたライカの記憶が今に変わらないのは、同じ機種、つまりM2,M3,M4,M5を使っているからだ。はて、5年前にどういうデジカメを使っていたか?エプソンRD1以外にはまったく記憶にないのだ。
ライカM9も出たことだし、エプソンでフルサイズなど出してもらいたいものだが。
そうそう、今日から二子玉川にライカのショップがオープン。時間を見て行ってみよう。

2009年10月23日 (金)

TimさんとTimさん

R8110274 1980年の秋にウイーンから初めてリスボンに行った。そこでカリフォルニアの絵描きのTimさんと遭遇したのは、ライカが縁なのであるが、彼と北に向かって旅をして、同じ列車のコンパートメントに20歳後半の若者が乗ってきた。絵描きのTimさんは南仏の国境で降りたが、その青年とパリまで一緒だった。お互いに「ヨーロッパ1日10ドル」組だから、パンテオンの裏手のホテルに宿をとった。その青年とはそこで分かれた。それから10年後かに[ 10 on Tokyo]の写真展の写真集を送り、彼から近況が「紙の手紙」で届いたりしてそのままになった。地球上の人類の連絡などまずそういうものであるが、この4月にパリに行った時にも、パンテオンの前で例の1954年にHCBが木村伊兵衛兵に向かって出たばかりのライカM3を構えていた「歴史ポイント」とかを見て、往時を偲んでいた。その29年前の安ホテルの内部は良く記憶しているけど、その場所には尋ね当たらなかった。

1週間前の水曜に大阪芸大のライカシンポジウムで「ライカには人と人とを結びつける不思議な力がある」と言ったのであったが、その1週間後にNWのアテンダントの日本人女性が、その1980年秋のシンプロン特急で一緒だった、絵描きさんではない方の人があたしに会いたがっているとのメールを転送してくれたのである。その青年は当然ながらもう50歳すぎになっていたが、NWでアテンダント(恐らく年齢からしてチーフパーサーであろう)をしていて、日本にも良く来るそうだ。今度、成田に出向いてみようと思う。

リスボンでTIMさんに会って、彼が1945年の8月の長崎の原子爆弾投下直後の街の様子を知っているという話しは「名機礼讃1」に書いた。その後、こういうツルーストーリーは並の台本作家には書けないであろう、などとうそぶいていたのだが、29年後になって新局面が展開した。壮大な人間のドラマの幕が開いたという感じである。

その特急列車で一緒だった青年の名前がやはりTimさんであったことは昨日知ったのである。だからシンプロン特急であたしは二人のTimさんと話しをしたわけだ。その時、あたしが撮影して進呈したsx70のプリントを、若い方のTimさんは大事に枯れの「バイブル」に保存してあるそうだ。

上の魚の「文鎮」がは29年前にリスボンの東の丘にある泥棒市で買った。

2009年10月22日 (木)

いふぉんの圏外問題について

R8110273 7月から使い始めた「いふぉん」であるが、いくら定額のパケット代を払っているのかは分からないが、払っている以上は通信をしないと、損だと思った。これは当然の経済感覚である。それで昨日、リセットをしたら電波のバーが5本たったのだが、それにバックアップのデータを流し込んだらまた「圏外」になった。思うにバックアップデータは圏外も記憶に読み込んでいるのであろうと愚考した。
それで再度全部のデータをリセットしたら、また通信が出来るようになった。この数ヶ月の画像データとか音声メモは全部クリアされて、なにやらすがすがしい。たまった新聞とか雑誌を全部捨てた気分だ。

テストのため、家の固定と家人のケータイにかけたら果たして通じた。しかし別に通話はしない。この前の回路で家人に電話したら、メールで返信あり、曰く「ぞれぞれにその時間帯の生活があるのだから、電話はしないように」とあった。これはまことに正論だ。以前、まだ通信が不十分であった当時、夜中の2時頃に電話が鳴り、留守番モードの向こうに「アロー、アロー」の外人の声が聞こえた。プラハのPである。プラハのPのことは発売中の「新潮」に30枚書いてある。

その時には電話をとって、「あんたは、日本はウイーンの隣にあると思っているようだが、こっちは8時間時差がある」と説明したらそれ以来、用件はファックスになった。今はメールだからお互いの生活時間を壊す心配はない。

その意味で、あたしの無線電話は家人との連絡用に買ったのだけど、それも不要になっている。それで今までよくカメラエッセイに書いた、「電話機能のない理想のケータイ」に近づきつつあるわけだ。これで雑誌の仕事をし、無線LANでメールを書き、縦パノラマ360度で撮った「自分の周囲の環境」をYOUTUBEにアップしている。今度、プラハに行ってまた成田に戻った時、家人に到着の電話をしようとしたら(この前は9月30日、その前には8月13日)いきなり「圏外」にまたなるのであろう。脇で荷物をピックアップした、おばあさんが「もしもし、あたし、今、ついたとこ」なんて通話しているのに、こっちは圏外。もともと機械モノにはついていない星の下に生まれたので、今更悔やんでも仕方ないが。

2009年10月21日 (水)

f0,85!!

116203 アサヒカメラの11月号の連載「かんれきからの写真楽宣言」で、「プアマンズノクチルックス」をテーマにしたが、これなどもノクチのF0,95より0,1明るいし、さらに75ミリだから、その候補にはなりそうだ。以前、慌てて問い合わせたが、M3とは「ただ付いているだけ」で、距離計連動はしないという。もとよりこういうレンズはライカ人類が趣味で持つものではなく、計測の為の目的であろうから、普通は絞りなども付いていないものである。そういう単純な目的のカメラが特殊カメラというものである。ある意味、万能カメラよりも特殊カメラの方がその「カメラ格」は上であると見ることが出来る。

このレンズは最初からM3に作り付けになっていて、交換は出来ない。でももともとバヨネットマウントであろうから、これを外して4/3あたりのカメラに付けたら、何しろ明るさが0,85なのだから「見えないものが見える」ことになりそうだ。

実はこのレンズはドイツのフォトアルゼナールで4000ユーロであるが、24日まで特別割引でさらに25パーセント割引になるそうだ。買う買わないの問題より、ライツ社がノクチルックスf0,95以前にそれより0,1明るいレンズを出していたということが驚異だ。

2009年10月20日 (火)

プラハ暮らし

Fh040022 奈良から戻って、マック上で画像を見ていたら、その隣のホルダーがこの2月にプラハで撮影した画像であった。この画像はツアイスのコンタフレックスの二眼レフで撮影している。
このカメラは今、作家のいしいしんじさんの手元にあって、連載中の「雪」で重要な役割を果たすキーカメラになっている。
この9月はカイロに行ってしまったので、すでに8月以来、プラハには行っていない。アル中というのはあるが、この場合は「プラ中」というのであろうか。この画像は毎日、ランチを食べに行く、プラハ旧市街の「文学カフェ」という(本当にそういう名前なのだ)で、うまい麦酒が飲める。この男性の座っている場所にあたしも座った。この前は8月であったから、背後の窓は開け放されていて、そこには小さな小さな中庭がある。その中庭にはイタリア風の「だまし絵」の窓が描かれているという具合である。
毎日、はんで押したように同じカフェの同じテーブルに座るというのは、これは生活というより、むしろ「快感」に近いものだ。その時間感覚は、ああ、今日も昨日から一日だけ生き延びられたという実感である。
新潮の連載のエッセイ「屋根裏プラハ」は12月号で連載も早、5回目を数える。12月号ではプラハと国境と旅券の話しを書いたが、30枚の予定が筆が滑って40枚余になってしまった。なにしろ、慣れない随筆家なのでそこらへんがなかなか難しい。矢野編集長に「大鉈」をふるってもらっているところだ。

この画像は古いゾナーのF1,5で撮影した。開放でこのような不完全な描写は、当時(1930年代)には「絞るにつれてシャープさを増し」という形容詞で逃げていたわけだが、現代では「癖玉」が礼賛される時代だから、そのレンズ価値のスケールで見ると、これはこれで優秀な描写だ。これを「空気が写る」というのである。

2009年10月19日 (月)

法隆寺と金字塔

Img_0684 飛行時間45分で東京に戻り、今、一昨日の法隆寺のエンタシス様式の柱のふくらみを見て考えているわけである。あたしは歴史も美術史も知らないので、それぞれの観光地で名所にも行かないし、美術館も見ない。この前、回路で最終日に考古学博物館に行かないと「馬鹿にされる」のではという見栄で入ったが、館内は暑いし、HISの徹夜で日本から運ばれて来た団体さんが眠そうにしているのを見て、こっちも眠くなった。
東大寺は四半世紀前に行った時には、すでにお寺は閉まっていて、入れなかった。だからその前にここに来たのは、半世紀近くの昔になるわけで、やはりバスガイドさんから「エンタシス様式の柱」の話しは聞いていたのであろうが、記憶にないのは当然だ。それが今回は脇に修学旅行生が居たので、定番の「エンタシス」が耳に入って、見ればこれが木造の列柱なので実に驚いた。
この前の回路のミュージアムでも感じたのだが、古代王朝時代の木製の調度品が残っていたりするのは実に驚く。石碑ですら残らないのに、風化の早い木製の品物が時間の流れに棹さして今に存在するのは凄い。
アテネに行った時に、面白くかんじたのはそういうアテネ時代の「本物の列柱」がパルテノン神殿の周囲にうち捨てられているのを見て、それが本物には見えずにテーマパークのレプリカに見えたことだ。この前の回路のこの風景も同様で、なにかシーサーズパレスの最新のジオラマに見えてしまう。R8310091

2009年10月18日 (日)

大和西大寺ーきゃうとー奈良

R8110248_2 旅館は大和西大寺から徒歩5分の、平城京の跡の北西にある。9時半には旅館を出て、10時半までに奈良駅前のMacのエッグマフィン(これはこの7月に家人と千葉県の銚子駅前で喰ったので反復性あり)を喰うつもりが、大和西大寺で10時5分の特急京都行きがあるのでそれに飛び込む。
自分のこの地域の空間時間認識は京都、奈良、大阪がそれぞれ独立した歴史の時間帯の中に存在しているわけだが、実はこれが特急で30分かそこらの通勤圏なので毎度驚いている。通勤客はそんなことを意識していたら仕事にならないであろうが、我々、外人ツーリストから見れば、奈良きゃうとの通勤客などは、歴史を自由に行き来する時間の旅人である。人間タイムマシンである。天狗であり山人である。すごい。

ただし、きゃうと駅前には5分も居なかった。観光本番の週末の駅前は朝の新宿駅より混雑している。「TVの京都観光をそのままなぞる家族ずれ」とか「ミシュラン三つ星一番乗り決死隊」とか「あたしだけの自分探しの京都の旅」の女の子など欲と見栄と自分探しの観光アルカイダが右往左往しているので、実に危険極まりない。あたしのような還暦プラスの歩行する道はない。
あわてて次の特急で奈良に待避。
奈良に着いたら大雨。100円傘ゲットナウ。

駅前のなんとか言うお寺で「阿修羅」の展示をしているので、異常に長い列が出来ている。こういう長い列は1982年にポーランドの戒厳令直後のワルシャワでの食料品の行列を見た時以来だ。だから、食い物を求めるポーランド人より、阿修羅を見るのに列を作る、日本の人の方が教養が高いのか?
どうもそうではないようだ。大体、阿修羅なんて誰も来ない古寺で閑散として見るのが本当であろう。
ウイーンの美術館でなんどか、フェルメールを見たが、あの時の気分は「今日は退屈だから退屈しのぎにフェアメーア(これがウイーン訛り)でも見るか、、、」と言う程度の欲求だった。何時間も待って見るフェルメールはどうも他の行為である。つまり美術鑑賞というよりも、自衛隊の体験入隊とかで日本人の根性を磨く方に近い。
蒼惶として、氷室神社の前から、奈良バスの環状線外回りに飛び乗って、南部の田中町(これはたなかまちではなく、たなかちょうと呼ぶ)で下車。
渋い、田中自転車店を見て、ほっとする。ライカで3本撮影。

R8110262_2

2009年10月17日 (土)

奈良の中古カメラ店

Img_0690 以前はJR奈良駅前に寂れた中古カメラ店があり、これは奈良時代のではないかと本気に思えてしまう良い店であったが、21世紀も10分の一が経過するとそういう店が今にあると思う方が変である。
ライカM2のブラックペイントで104万台のは、1962年の6月製で200台のロットのうちの一台だ。最初に手にした113万台のはそのずっと後の生産で、300台のロットであったが、これはペイントの質が悪く、手にして1週間で軍艦部分のペイントが剥離して、1月後には巻き上げレバーのオタマジャクシのような形がそのままペイントが剥がれた。それで「ぼろ金M2」などとニックネームで呼んでいた。
この猿沢池のそばのカメラ店がまだ存在したのは脅威である。いや、驚異である。
ドイツ製とかBEAUTUY製のカメラを揃え、赤字をつけて頑張っている。
お店は北向きなので、ドイツ風の精密機械を売る店の必須要素をクリアしているのも大したもんだ。

2009年10月16日 (金)

草の上のライカ

Img_0662 前のパワーブックの古いやつは、ATOKの古いのが入っていた。いや、いまでもこのシステム922は動いている。ただし問題なのは、「き」と入力するとシステムがリーズするという変な癖がある。

それで文章を書く時には「き抜き」にする。
キムタク、きむじょんいる、きちがい、きんきにほんてつどう、などは入力できない。かなり前の日記の文字列で「き」がないのはこの古いパワーブックで書いたやつだ。
それで古いシステムでは、そのきんきにほんてつどう。つまり近畿日本鉄道であるが、これが書けなかった。今のシステムは大丈夫。その近畿日本鉄道に乗って、大和西大寺から奈良に向かうとこれが平城京遺跡の真ん中を通過するのである。四半世紀前からその体験をしていたが、今回は先月は埃及の金字塔も見たし、次はここを訪問という次第になった。
2時間ほど草の中を歩行した。撮影5本。少年時代に草原を歩くと、東京あたりでは「オート」というバッタが飛び出した。どうも時代は奈良時代よりも、昭和20年に偏倚しているらしい。それから大極殿の跡地の上で「大の字」になって、飛行機雲みたり、鳥の声聞いたりした。
ライカを草の上に置いてみて、ああ、1973年にもウイーンでこういうことがあったなあ。と草の上のライカの感触を思い出した。つまり1973年以来、ライカを草の上に置いていないのである。これは良くない。
かのメカスの場合も、ムービーはボレックスでスチルは古いライカと言いたいが、実際には彼のかみさんが持っている古いペンタックス(しかも普通のクローム)なのである。そのペンタックスはメカスのムービーに良く登場する。まあ、それはそれでいいが。

2009年10月15日 (木)

びっくりドンキー

Img_0624 もうかなり前になるが、小学館の大人の少年誌「ラピタ」で食い物の連載をやっていた。タイトルはすでに忘れた。その内容は下町の露店からミシュランの星付きレストランまで多岐にわたる。無論、編集部がそんな取材費を出す心配はないから、これは以前、あたしが仏蘭西政府観光局に呼ばれて仕事した時などの「余り」なのである。
最近はなかなか出版諸方面の取材費は厳しい状況で「大手」でもなかなか取材費は潤沢ではない。ただ、良くライターサイドでは「金を使わないと良い取材は出来ない」などと言うけどあれは半分だけ真実で半分は嘘である。
金を使わないでも良い取材はできた。
あたしは根性なしだから、こういう店に一人で入る勇気はない。それで友人を拉致して入った。場所は茨城のどっっかだった。
メニューが実に立派であって、ルーブル美術館の宗教画みたいに、三枚の折りたたみ式になっているので感激した。
このチエーン店の第一号店が北日本の地方都市にあるそうで、そこにも行ってみたいと思った。まずはメッカ巡礼のようなものであろう。
「!」が空中に浮かんでいるのは、まさにアートである。
ドクメンタあたりに出しても少しもおかしくはない。
例によって同行者が居ないので根性なしだから、ここには入らなかった。そのまま、閉園している天王寺動物園の脇を通って、北から南に通天閣を目指した。ところが25年前とは大違いにて、なにか綺麗な気の抜けた観光地になってしまった。最近のマンハッタンのばわりーと同じ綺麗さである。その先のジャンジャン横町も安部公房が書いた時代の活気はすでになし。
がっかりして、そこらのお店にも入らずに、動物園の南を歩いてホテルに戻った。
ただ昔と変わらないのは「ソースの二度づけ禁止」の張り紙のみ。時代はかわりまんな。

2009年10月14日 (水)

名残の回路

R8110167 回路から戻って2週間。その時間経過は上弦の月が下弦の月になったことで分かる。その10日前には、イスラムの長老が新月であると認めて、その土曜にラマダンが開けたのであった。回路の成果はひとえに月の満ち欠けと木星の動きを観察することが出来た点だ。あ、それとヴィーナス。
回路を出る時に、お札は回路の友人知人にあげて、1枚の1£札だけをカムフラージュジャケットに入れてきた。それとスペースペン。ペンデジタルのライカMアダプターの方は荷物に入れたのは記憶しているが、それがまだ発見できない。まあ、そのうちに出てくるであろう。
回路で困ったのは、やはり自分がアラビア語が出来ないことだ。ドイツならどんな「奥地」に行こうが大丈夫であるが、せめて数字が読めないと駄目であることを痛感した。ラムセスヒルトンの前のバスターミナルで、金字塔行きのバスの系統番号ですら、全部がアラビア数字なのである。これはイスラム原理主義かどうか知らないがアラビア数字だから読めない。それで通行人で英語の分かる人をつかまえて聞いたりした。パッケージではなく、個人旅行だからこの面倒あり。
1£札をしみじみ見て、なかなか高貴な存在感なので感心した。ガイドブックによればこの建物は街の東の「死者の街」(北の墓地)の廟であるという。

土曜の夜、野々宮BMWと回路埃及帰朝報告会を、大林で開催。野々宮の話では、アスワンハイダムはその音感からして、黒部ダムのような断崖絶壁にあると思ったら、実に普通の湖であって、拍子ぬけしたという。回路の午後にKERN 8X30でモハメッドアリ廟方面を観察した結果、その先の砂漠の高さは市内よりはるかに高いということが分かってなにか秘密を見た印象あり。回路市外はナイルに削られた河岸段丘の底にあったのだ。

2009年10月13日 (火)

バルカナイト爆発す

R8110165 本日移動日。

HNDITM。

最初に買ったライカM2のブラックペイントは20歳の時。それから10数台の同じブラックM2を買って、還暦を2歳経過してもうここららでM2のブラック買いは止めにしようと言うので買ったのが、このカメラである。5パーセントの税金は覚悟で1万円札を2枚用意してEMS待っていたら、税は1400円であった。やれやれ。
数日前の拙ブログでご覧のように、このM2はレンズマウント基部のバルカナイトが剥がれている。半世紀以上経過したライカだからそれは当然だ。ただし不思議なのは、キヤノン2Bなどはこのライカよりずっと古いけどいまだにバルカナイトはしっかりしていていささかの欠落もない。
当面はブラックのビニールテープを貼って使うつもりで、机上に置いて原稿書きをしていたら、いきなり静寂の部屋の中で「ぱん!」と音がした。見ると、バルカナイトが小爆発。さらに剥がれて細かい切片が机上に散乱していた。けが人なし。
バルカナイトが剥がれる経験は沢山あるけど、音がしてライカの表面から爆発のような感じで吹き飛ぶ現場に居たのは初めてのことだ。
長くライカとつきあっていると、いろいろな珍事あり。

2009年10月12日 (月)

握り心地も暖かく快い

R8110164 1967年頃だったと思うが、アサヒカメラにライカM2のブラック仕上げの1頁の広告が出た。広告主はシュミット紹介。
手元にその広告はないが、良く記憶している。ライカM2のブラックのこれはイラストであって、上からカメラを見たところだが、レンズはブラックのズミクロン90ミリが付いている。細かいコピーは忘れたが、短いテキストであって「目立たぬ渋い装いのライカ、、、」とあり、結句は「握り心地も暖かく快い」である。
当時はライカはクローム仕上げが美学であったわけで、そこにブラックペイントのライカは実に異質な存在であった。
歴史上、ブラック仕上げのカメラのそれだけの広告というのは、この前後にはないのではなかろうか。
後年、カメラは黒いプラスチックの表面になってしまい、つまらない世の中になってしまったが、この時代のライカの仕上げはそのアピアランスに「尋常ならざる所」があってわけで、今のカメラ人類はカメラを買う時にすぐに「白か黒か」と悩んだりするけど、そういう選択肢は昔はなかった。白だけがカメラの仕上げの選択肢であった時代というのはすでに忘却されている。
そういう時代だったから、HCBがブラックのM3を使って、それが「尊敬」されたわけである。

最近のカメラの仕上げは、ペンデジタルが一線を画した、ホワイト仕上げが有名であるがペンデジタルの購入予備軍は次に出るであろう、ペンデジタルダッシュのブラック仕上げを狙っているようである。

2009年10月11日 (日)

TWITTER 伝言板。三時間以上経過した場合は消すことがあります。

  1. このYOUTUBEにアップロードの「名も無きコロッケ屋」の牡蠣フライはなかなか味よし。@50円。            
    •            
     
  2.                 
           
            I uploaded a YouTube video -- IMG_0498.MOV http://www.youtube.com/watc...            
    •            
     
  3.                 
           
            I uploaded a YouTube video -- IMG_0398.MOV http://www.youtube.com/watc...            
    •            
     
  4.                 
           
            夕食後から寝たので深夜1時に目が醒める。大ガラスの部屋に行ったら、17度。寒い。暖房をいれる。スエーデンはハッセルの本社で、向こうの人が「東京に出張に行ったが、あそこは世界で一番寒い」と言ってた。室内に関してはそうであろうな。            
    •            
     
  5.                 
           
            越後屋の戻りに茶月でパックの寿司@880ENを買ってきた。家人に好評。食い物の振幅って、数寄屋橋でも茶月でもそれらは常数の中の話し。            
    •            
     
  6.                 
           
            越後屋。ハイボールなし。それで角瓶を頼んで、サントリーソーダ。これでいいわけだ。濃くも薄くも自由自在。            
    •            
     
  7.                 
           
            池袋の名も無きコロッケ屋の牡蠣フライを持ち歩いている  さぞかし味が良くなったであろう  大江戸線内にて            
    •            
     
  8.                 
           
            大林を方向変換して越後屋に  あそこにハイボールあったかな            
    •            
     
  9.                 
           
            ヒルズ着  シエスタ  まるでデイケアであるが年齢から見れば不思議はない   羊雲が流れて千葉の方には日が差してる            
    •            
     
  10.                 
           
            東池袋のグエル公園で すごく太った猫が仁義を切って通り過ぎる            
    •            
     
  11.                 
           
          
    東池袋の名前のないコロッケ屋の哲学親父と歓談する 彼は精進揚げをあげつつ話す            
    •            
     
  12.                 
           

  13.                 
           

  14.                 
           
            東京大周遊中  豊島区日ノ出町のラビリンスにあり  日射し暖か 頭上にカラスとヘリの音す            
    •            
     
  15.                 
           
            この前の回路で、至近距離からポリスのAK47を観察。まず本日はライカMP に36だけ装弾して市街戦だ。レンズは無論、ジュピター50MMマグナムである。            
    •            
     
  16.                 
           
            来週からかなり多忙になりそうな「週間予報」である。水曜に引き続き、本日も東京大周遊。ただし恵方はまだ未定。            
    •            
     
  17.                 
           
            ブログの今日午前1時から2時の間に346アクセスあり。この時間帯では凄い。感謝。            
    •            
     
  18.                 
           
            佃の朝。快晴。眼前の中央大橋が朝日を反射して眩しい。空樹は「マンハッタン」みたいに見える。            
    •            
     
  19.                 
           
            AK47は持っていないが、その型録は持ってい る。今、調べたらその装弾数は30発であった。デジタルカメラに比べてライカが銃器と共通の感じがあるのは、そのショット数が限られているせいだ。MPは 30数ショットで終わりなのに、M9はカードを入れただけ千枚でも撮れる。これがつまらんわけだ。            
    •            
     
  20.                 
           
            ライカに付ける軽いレンズなら、アルミ製。そう なると一番手はソ連製のジュピター50ミリF2(ゾナーのコピー)になる。つまり70年代のウイーン時代と何もかわらないライカとレンズの組み合わせ。ズ ミクロン50ミリとこのレンズとを同一条件で撮影して、11X14に伸ばしたらプロも見分けつかず            
    •            
     
  21.                 
           
            ライカビットMPをライカM2に付けたり、MP に付けたり、M2−Mに付けたりして遊んでいる。やはりライカビットを付けた時には、軽いレンズがいい。回路では腰名の21ミリを常用したがよかった。ボ デイキャップよりちょっと重いくらいだ。腰名の25ミリのスナップショットレンズもいい。            
    •            
     
  22.                 
           
            I uploaded a YouTube video -- IMG_0397.MOV http://www.youtube.com/watc...            
    •            
     
  23.                 
           
            湯から上がって、大ガラスの部屋から向かいの中央大橋をしみじみ観察。昨年の塗り直し以来、電気代の節約にて、橋の白が白に見えない。うすぼんやりした肌色に見える。これじゃなあ、、あ、もうオリンピック委員会の外人に見せるんじゃないからこれでいいわけだ。            
    •            
     
  24.                 
           
            夢二の影響で月末から1週間岡山。ついでにGXRの本も制作。            
    •            
     
  25.                 
           
            ひるずから佃。真っ暗な天候。銀1のyzkmyに行く。とりわさ、おかん、冷や、かけ。              
  26.                 
           
            ブログに「夢二の墓」のことを書いたら、ブログ広告は「霊園」ばかりが並んでいる。まったくねえ、、。            
    •            
     
  27.                 
           
            デジタルカメラマガジンの上田副編集長との長崎 と東京の往復書簡でペンデジタル2の「ジオラマ」は「都市模型の画像化」にあることで同意。来年のプラハの個展[PRAHA1985 TOKYO2010]の東京分はこれで撮影しよう。「田中長徳ペンデジタルの本2」は本日発売の同誌の付録にあり。        

レオタックスGはライカを超える

R8110163 ライカを一通りやって、ここを「卒業」するとライカタイプのカメラ、つまり偽ライカとか「らいか」方面に行くのが病気の通常の進行である。
レオタックスGは国産ライカコピーの中では珍しい方だ。ライカと同じ格好でしかも安いというので1950年代には人気の国産RFカメラであったが、その経営がおかしくなったレオタックスカメラ(その前は昭和光機と言ったっけ)が倒産したかその後かに500台ほど生産したと言われる。
これはユニークなカメラで、ライカがA型からM7型まで延々と保守してきた、裏蓋を完全に外してフィルム交換をするという方式ではない。と言って裏蓋が蝶番で開くのでもなく、本体下部のキーを回すと最初に底蓋の1/3ほどが開いて、スペースが出来、そこで二段階目で裏蓋が開くという二段式になっている。なんでこういう面倒な方式になったのかは不明だが、操作は楽しめる。
レオタックスGは2台持っていた。そのうちの1台は金ぴかで赤レザー張りで、トプコールレンズも金仕上げだった。あまりに派手なのでスナップには向かないとわかり、手放した。今ある方は「ユーザー」である。これがトップカバーにサンドペーパーでこすったような跡がある。誰かがブラック仕上げにしようと素人考えで砂摺をしたらしい。一度7^8年前にオーバーホールしてからシャッターは好調である。
よく見るとそのファインダー周りのデザインは何かニコンSPに似ている。ファインダーは50,100ミリのブライトフレームはM3みたいにパララックスが自動補正される。その隣に35ミリ視野のブライトフレームのアイピースが並んでいるのが、ニコンSP風だ。
巻き上げレバーの真ん中にシャッターレリーズボタンのあるのは、ライカM風だが巻き戻しクランクが付いている。これは1967年のライカM4より10年近く早い。
火曜からの大阪芸大のライカ講演巡業で話の時にライカの実機を見せて話しをするわけであるが、大阪芸大には中川一夫先生の膨大なライカコレクションがある。
だから、わざわざ自分の持っているライカの「業物」とか「際物」を持参することもない。そこで偽ライカである「レオタックスG」を持参しようと思い附いた。

大阪芸大のライカ講演会(正式の名称は不明)では、東京都写真美術館の金子隆一さんも見えるから、そこらはアカデミックにちゃんとしているので安心だ。それで企画の森川先生から「自由なお話で結構です」と言われた。実に有り難い次第だが、そう言われる逆に真面目な話しをせねばと思ってしまう。

2009年10月10日 (土)

optonの遺恨多

R8110157 R8110158 スーパー遺恨多は高級カメラであった。第二次大戦当時のドイツ軍も使っていた。単に本体に刻印を打っただけであるが、ある意味では軍用ライカなどよりその存在レベルが高そうだ。
この前、夏の終わりに石川直樹さんと新宿からずっと東に向けて歩行した時、あたしはいふぉんで仕事してしまったが、石川さんはちゃんと仕事用のマキナ670であった。それで撮影してくれたのだがその撮影したネガとプリントをどっかに無くしたとen-taxiの最新号に書いてある。こういうのは凄い。

昨日、新潮の矢野編集長と打ち合わせの後、51fのクラブでもっぱらその話題になった。撮影した写真を紛失するなどはあたしのようなクラシック写真家にとっては命取りであるが、石川さんはそれ自体を「題材」にしてしまうところが柔軟過ぎる。
それはともかく、石川さんのマキナを観察するに、やはりごろごろしているのではないかと思った。それはあたしの連載「東京大周遊」の石川さんと福田さんとあたしが歩行しているのを編集の生田さんが撮影したのだが、そのカットでいかにもマキナにはボリュームがあるのだ。
それで、というわけではないが、スーパー遺恨多に思い当たった。1982年ころ、ゴールデン街でアラーキーさんから「なつかしのイコンタ」という写真集をもらった。しかもサイン入り。これはアラーキー世界が展開する新宿女物であるが、それでところどころにイコンタのコンタクトプリントも掲載されている。このイコンタは戦前のもので、アラーキーさんによると父親の形見であるという。戦前のイコンタは120フィルムでなぜか11枚しか撮影が出来ない。それが戦後になって12枚撮影できるようになった。巻き上げの精度の問題であろうが、その理由は不明。
戦後の遺恨多であるが、アクセサリーシューにシュツッツトガルと刻印されているのが、いかにも西ドイツの製品という感じである。これはドレスデン製、つまり東ドイツ製ではないのだ。そのオプトンテッサーのコーテイングの色合いはなにか砡を見るようで、その深いブルーに痺れるのである。1992年であったか、フォトキナの後にそのイエナに行った。世界最初のプラネタリウムを見たりした。晩秋のイエナは周囲に山が迫り、紅葉してまるで京都に居るようだった。

2009年10月 9日 (金)

関式露光計算尺のレプリカ

R8110150 20年来、ありそうでなさそうなのが、この関式露光計算尺だ。本当は違う名前なのかも知れないが、この計算尺を欲しいと思ったことは若い頃はなかった。その材質は日本の高度成長期という見た目であって、そこには文化包丁とか握り矢印のアルマイト鍋とか、アルミの弁当箱を加えてもよい。ようするに「文化的金属存在」であって、金物店とか荒物店に似合うのである。
知り合いのタムロンの前田さんという人がいて、彼には以前は中古カメラ市で「本日の買い物」の案内人をお願いしたこともある。実に博学多才な歩くカメラ博物館のような人で、その風貌は黄色いジャンパーに黄色いキャップに軍手で、地下鉄のラッシュの交通整理をするボランテイアさんという趣きがある。
その前田さんの常に持っているのがショルダーバッグの折りたたみ傘と、関式露出計なのだ。その「備えよ!常に!」精神に痺れてすでに四半世紀か。
その話しをどっかでしたらしい。佃のうちの近くで仕事しているカメラ人類さんが、そのレプリカを作ったのをこの間、送ってくれたのである。
本物のアルミの板の存在感よりも、このような「精密機器」をよくゼロックスコピーとラミネートのパウチで作ったなと、その「飛騨の巧」の能力の方を先に尊敬してしまう。
計算版に現れた光景はこれは昭和20年代後半か、30年代初頭であろう。実に味わいが深い。
関式の生産発売もとは、川崎市の木月というところだ。なんでそのアドレスを知っているのか。同社の引き伸ばし用の計算尺を持っているからだ。そこに愛用者はがきが入っていた。これは「恐れ入りますが5円切手をお貼りください」の時代のものだ。

2009年10月 8日 (木)

雲を見ている

R8110156 本日、台風18号のため、佃に「自主避難」
ライカで遊んでいたら、眼前がドラマチック。
これは今日はここで雲鑑賞が最高だ。シュテイグリッツの名作、「エキュバレント」は、スーパーグラフレックスの4X5で撮影されたが、こっちはお手軽なCX2で撮影。15時30分。天候回復。快晴。空樹も筑波山も丸見えになる。まるで手に取れるような至近距離だ。まるで広重の版画みたいな風景。R8110162

R8110159

高速レンズトリオ

R8110149 アサヒカメラ11月号の連載「還暦からの写真楽宣言」では「プアマンズノクチルックス」と称して、100万円プラスのノクチの代用になるレンズ群を紹介している。
ただし、ここに並んだレンズトリオはその「代用レンズ」ではない。ちゃんとした本格的な高級高速レンズである。
日本だと「明るいレンズ」といい、英語圏では「高速レンズ」といい、ドイツ語圏では「光強大レンズ」と呼ぶのもそれぞれの言語の感覚が分かっておもしろい。
レンズトリオは左からヘクトール73mm f1,9  ズマレックス85mm f1,5  ズミクロン90mm f2 である。ヘクトール73mm f1,9は戦前の日本工房で木村名人が世に残る文人墨客の肖像をこの玉で撮影している。ズマレックス85mm f1,5はこのトリオの中では一番に生産本数が少ない。かのHCBはこのレンズをライカM3に付けたセルフポートレートを残している。HCBと言えば、一生沈胴のズミクロン50ミリを使い続けたじじいとばかり思っていたのでこれが意外だった。しかもHCBはライカM3にこともあろうに、戦前の逆像ビドムを付けているのである。
ライカ趣味としてはかなりひねってあるのが面白い。M9にノクチの0,95もよかろうが、ライカの神様は天上界にある。

一番、使われたのは右のズミクロン90mm f2である。60年代初頭には報道写真家必携のレンズであった。これは重いレンズだが(ズマレックス85mm f1,5も重いけど)日中に明るい場所でもこのレンズを持ち歩くのが、ライカ人類の見栄でもあった。
本当は軽いエルマー90mmf4で十分なのに面倒なことであった。
この玉は中距離から長距離で人物を主体にした狙い撃ち的な構成画面を撮影するのに向いている。本来の普通の使い方は「ポートレート用」なのだが、あたしの使い方は異なる。
その作例は以前、東京きらら社の出した「ウイーンモノクローム70s」に掲載されている。1冊1万円の本で限定千部。書店は通さなかった。この写真集はすでに稀覯本レベルか?

2009年10月 7日 (水)

カイロのライカ。朝の点検。

Img_0457 すでに先週のことになってしまったが、カイロ滞在の後半は毎朝撮影に出かける前に机上にライカを並べ、レンズを並べ動作を確認してその日に必要なフィルムの本数を並べたものであった。
デジカメの撮影に行く時にも、ポリスが拳銃の装弾を確かめるようにスロットを開いて中のSDメモリを確認することはするが、フィルムライカに比較するとなにか「精神的に大事な部分」が欠けているようである。

ライカ使いに精神主義など最初からないことは分かっているのに、往年のライカ使いの名人ぶりを見ていると、HCBにせよ、フリードランダーにせよ、岡村昭彦にせよ、彼らのライカを手にしている時のその表情にはなにか決死隊というか、殉教団めいた表情が感じられるのは、これは自分の考え過ぎだと思いたいのだけど、やはりそれらのライカ使いにはそれぞれの撮影の瞬間をライカで切り結ぶ時に、それこそ自分の命を引き替えに何者かを奪取しているのだと考えないわけには行かない瞬間が感じられる。

ライカ、それもフィルムを装填するライカで撮影することの意味は、ここでM9が登場したので改めて考えてみたいテーマではある。向こうがフルサイズデジタルでくるになら、こっちはフルサイズ銀しおだぞ!文句あるか!というのがこの場合の論点になろう。
ようするに、M9でも既存のデジカメでも4GBのメモリを入れると撮影者は扱いに困るほどの大量の撮影が出来てしまう。これが問題である。世の中一般はそれを有効なこと、便利なこととと考えているようであるが、あたしはこれに脅威を感じる。カラシニコフの装弾数を比較するわけではないが、マガジンのあれは30発である。ライカは36発である。大体その位の数の方が市街戦では適度なのでは(その何が適度なのか目下、目下不明なのがいらだたしいが)と考える。

40年+フィルムライカで撮影して感じることは、ショット数が25枚を超えてくると、そこにありありと「人生の午後」を感じることである。後の10ショットくらいで自分の命が終わるという感触である。実際に還暦を過ぎてその感覚がある。それで撮影に慎重というか、それぞれのショットを大事にしたくなる。デジカメ一般に対して、フィルムライカが持っている魅力で、デジカメに欠落しているのはこの「フィルムカウンターの人生の午後感覚」の欠如にありそうだ。これがデジカメの魅力を多少なりとも削いでいるのではと思う。

装弾が切れたら、命はない。フィルムが切れたら殺される。そういうフィルムカメラの危機感はそれが実態ではなくても、何かを駆り立ててくれる。フィルムカメラの裏返しの魅力というやつだ。

2009年10月 6日 (火)

パナマ帽のほつれと、眠蚕フレックスの剥落

R8110147 回路土産など別にない。持って帰ったのは、路地裏で拾った琺瑯の茶碗と、アラビア語の表記のあるマッチ箱(ただし空)それをツタンカーメンの1£コイン。
旅の記憶としては、持参した眠蚕フレックスのネームプレートの黒い塗料が剥落したことだ。回路到着時にはちゃんとしていたのだが、1週間ほど経過して撮影中にカメラを見たら地金の真鍮が見えていた。そればかりではなく、このカメラは本物のモロッコ革であるから、指の当たる所が下の革の色の茶色が出てきた。これはこれで感じは悪くない。中学時代のコンサイス英和と和英はビニール装ではなく、モロッコ革であった。父がそういことに凝るので、高い方の中学生には不釣り合いな辞書を手にしたわけである。

このカメラは1938年製。砂漠の狐の活躍は1942年だから、このカメラの同型機がエルアラメインの砂漠を撮影したかも知れない。

R8110148 この5月にマラガで40ユーロで買ったパナマはさすが本場のものだけあって、この夏はパナマが流行らしいが、通行のパナマ帽子の人をやはり見てしまう。2−30代の子供がかぶっているのはみんな麦わら帽子である。7月3日の朝に、佃のタワーから下に降りるエレベータの中、上から来た女性にあたしのパナマを褒められた。これは嬉しかった。「日本ではお高いのですよね」のコメントも満足した。

その日の午後2時半に家人からライカインコ危篤の一報が入り、救急隊によって近所のクリニックに搬送されたが、午後5時すぎに「不帰の鳥」となったわけである。生前ライカインコはこの帽子にかりかり噛みつきたがるので、別の部屋に仕舞っておいた。そのライカインコの念であろうか、ある日見たらパナマの角に鳥が食いちぎったような痕跡がある。これがカソリックだったら、死後の奇跡というやつで「列聖」されそうな勢いである。回路に行く時にそのまま広がっては困るので、セロファンテープで補修した。これが我がライカインコの「お筆先」なのである。

2009年10月 5日 (月)

ちょうしたの秋刀魚蒲焼き

R8110146 ちょうしたの秋刀魚蒲焼きの缶詰を見て、直感的に連結する記憶はウイーンとかニューヨークの日本食品店である。だからこの実に日本的なオブジエを見ると外国を連想するのが常だ。
ウイーンの音楽留学生の中でも「簡単でうまい日本を思い出すめし」というので、炊きたてのご飯にこれを載せて常食していた学生がいた。モーツアルトとかシューベルトを演奏するエネルギーがちょうしたであるのは痛快だ。
7月にライカインコ追悼ツアーで銚子に家人と行って、シャッター街を散歩中、田中町というシャッター街のメッカの先に、川口の鋳物工場のようなのがあり、かんばんを見たらそれが「ちょうした」の本社工場であった。
これが今年の最初の銚子行き(というか25年ぶりの)で、その次には8月に銚子に行ったのだが、銚子のセブンイレブンなどでは、ちょうしたは扱ってなくて、もっぱら大手のあけぼのとかニチレイであった。その缶詰を数缶買って、喰わずに東京に戻り、回路に持参した。ちょうどラマダンの後半であったので、この毎日一缶づつの秋刀魚に埃及のパンで露命をつないだ。
帰国したら、家人がちょうしたの秋刀魚の缶詰と同いわしの缶詰を買ってきた。カメラはライカ、秋刀魚の蒲焼きはちょうした、野球は巨人軍、ピストルはコルト45と決まっている。それで大喜び。
回路でこういう缶詰をぼつぼつ喰っていると、中東戦争の兵士のような気分であった。

2009年10月 4日 (日)

トルコ桔梗の葉っぱ

R8110145 7月3日がライカインコ4世の昇天で、それから3か月経過して最近ではライカインコと「同行二人」で外遊をしたりしている。(と書くと、じいさん、ぼけとるのとちゃうか、と言われそうだが、これ真実)
それで昨日、社会復帰で下のリンコスに行ったら、同行のライカインコが「これ買ってくんなまし」というので、トルコ桔梗を買った。仏花なら480円なのだが、こっちは770円もする。鳥の仏のくせに贅沢な鳥である。ちなみにライカインコの時価は4年前に2800円だったのだから、自分の身代金のクオーターの金額だ。
しかしトルコ桔梗は、ライカインコ3世が昇天時にこの花を供えたら、ぱっぱがからからに乾燥してから、ライカインコ4世がこの葉を好んで食べていたので、(最後の一葉まで喰った)いささかの感慨あり。
7月の引っ越し宴会の時に、福田和也ご一行さまがこの大きな花束を持ってきてくれた。その時もその花の名前は知らなかったが、本ブログの愛読者の花屋さんが教えてくれたのである。その記念写真は発売中の「田中長徳ペンの本」に掲載されている。
今朝、トルコ桔梗の葉っぱが一枚だけ落ちたので、それを家人が別のコップに移植したのをCX2で撮影したのがこのショットである。

この葉っぱの格好は何かに似ているのであるが、それが思い出せない。

2009年10月 3日 (土)

草森紳一さんの仕事場

Img_0534 Img_0542 何時も、佃のタワーマンションの北東の部屋から隅田川の光景を見ている。
最近では「空樹」も加わって、その「朝顔日記」が楽しみである。
ここに新しい興味のポイントが加わった。草森紳一さんの仕事場がここにあったことだ。草森さんはあたしがカメラ毎日にデビューした当時には、売り出し中の万能人間であった。今にして年譜を調べたらあたしよりも9歳年上なだけだ。20歳の時、草森さんは29歳であったわけだが、この若い当時の9歳差は「無限大の大人」に見えるのであった。

草森さんとなにか仕事をしたような経験はない。その後の足跡も知らないままに30年が経過して、昨年の春からen-Taxiで「東京大周遊」を連載開始したのと前後して草森さんの「永代橋のベーコン」が休載になったのを知った。草森さんの急逝を知ったのはその直後だ。

en-Taxiで坪内さんが草森さんのことを書いていて、自分の心の中の「草森ネオン」が点灯したのである。

佃の部屋から荷風がよく通っていた「土州病院」の跡のマンションが見える。その荷風と永代橋の関係を書いた草森さんの仕事場はその永代橋の東詰めなのである。これは舞台の構成としては最高の出来だ。ただし、この赤い煉瓦の草森さんの仕事場(4万冊の本があったので、壁が広いということが、部屋を選択するキーポイントであったそうだ)は、河向きにはまったく窓がない。これは実に不思議なことに思えるが、大川端リバーシテイ21計画の以前には河向きがトレンドなどではなかったことが分かる。このマンションには知り合いの写真家、平野多聞がスタジオを持っている。四半世紀前には何度か遊びに行ったことがあるが、やはり窓の少ない部屋だった。これはスタジオとか書庫は壁の多い方がいいという目的にあっている。

草森さんは雪の日に部屋から、眼下の永代橋を撮影していると思ったのはそうではなく、隅田川方向は壁である。草森さんはベランダからか、あるいは非常階段からの撮影であったようだ。

あるカメラのスタンドポイントから撮影してそのポイントから今度は最初のショットがなされたポイントを見返すというやり方は、かなりコンセプチュアルな写真の撮影方法なのである。その言い方からすれば、もの2点の画像は草森さんとあたしの競作であるとも言える。

草森紳一はベラ・バルトークみたいだな。と思った。プラハの南部のビシュハラトの丘の上にはモルダウを見下ろす位置にプラハの著名な 文化人の墓がある。その中でバルトークの墓は、モルダウにそっぽを向いて、つまりモルダウに背中を向けているのである。その感じが永代橋に背中を向ける草森紳一と共通項を感じた。

永代橋をあたしのように「直に見てしまう」のは、これは慰安になって駄目だ。九草森さんのように、その橋の存在を背中に感じて執筆をして、時折、その橋の実存に触れるというのが本道のようである。

ご近所にお住まいの詩人に吉増剛三さんがおられる。これは彼のお正月の2日に撮影された真冬の虹のSX70作品が何かの雑誌に掲載されていたので、吉増さんのカメラの立ち位置が知れた。

これは怖いことなのである。浮気の相手の部屋から何気なく撮影したSX70の画像で家人にその場所を特定されたこともある。その話しはまた今度。

M9より、M2(ブラックペイント+ライカビットMP)

Leicam2black 回路で使った経費は、ホテル代が12泊で3,4カメラ円。それに40ドルほどだった。往復のCクラスはマイレージ。これでは世界の消費が低迷すると思い、なにか「景気てこ入れ」の要素はないかと見ていたら、EBAYでこういうモノがあったので、ゲット。
M9も結構ではあるが、10年後に使っているかどうかはかなり怪しい。まず駄目であろう。一方M2が古くならない(もう古すぎて)のは事実で20歳の時に買ったM2もいまだ現役である。以来、ブラックペイントのM2は1ダース以上買ったが、今回の買い物で一応打ち止めとする。まだ品物は届いていない。ぶつはカリフォルニアにあるのだ。
グッタペルカの剥がれが良い感じ。裏蓋はクロームのそれに交換されている。ネックトラップアイレットも交換されているがかまうことではない。
ライカビットMPは再度、スプレーをかけてしまったので、大事なLeicavit MPというロゴの見えないところなどは「粋の極み」である。このLeicavit MPのロゴが最近のライカビットには刻印されていないというので、岸本マーシーが当時のライカ社の社長のコーンさんに直談判したこともあったな。当時、ライカ社はまだ銀しおMカメラの時代であった。

無理してM9を手に入れようと思って、これになってしまったが、これはこれで正しい選択だと思う。M9が「フルサイズのデジタルカメラだぞ!」というのなら、こっちは「フィルサイズのフィルムカメラだ!参ったか!」というわけだ。

十数年前だが、新しいMACを買おうと思って秋葉に行き、売り場で「これを買っても5年後にはごみになるのだから」と思い直して、そのまま銀座のカメラ店でライカを買った記憶がよみがえる。
M9が5年後に「ごみ」になるようなことは名機であるから絶対にないと思うが、(しかしM9はコンピュータである)それでも銀塩ライカの永い命に比較すれば「デジカメの命短し、恋せよ乙女」なのである。

ローマで出会ったドイツの金髪の若い女性は「ひいおじいさんのライカ」というので戦前のライカ3aを見せてくれた。それで撮影もしていた。ライカは代々、伝えられる家伝であった。こういうのが本来のごく普通なライカの存在であった。今のライカMの場合、3年ごとの買い換え需要におぶさっている。家電だって10年は持つ。これは当然なことで、ライツ社は子孫に伝えられるような真面目なカメラを作ってきたから「ああいうことになって」しまったわけだ。

その意味でも現在のライカ社の経営方針は正しいのである。

2009年10月 2日 (金)

モルヘーア

Img_0508 1970年代の半ばに「こまっちゃん」という人がウイーンにやってきた。当時は今と事情が大幅に異なるから、「エージエントカメラマン」という職業があった。ペンタックスの67で観光地を撮影して、これが観光のちらしに売れると「べろり、5万円」になるという。そういう世界があるのは知らなかった。この職業はなかなか当時は隆盛であったようで、そのこまっちゃんも、湘南かどっかに自分のボートを所有していたりしたのである。
その後も彼は世界中の人間の暮らしを撮影し、30年経ったら今は大御所だ。「新潮45」にカラーの連載をしている、小松義夫氏がその人である。
その小松さんが回路からウイーンに来た時におみやげにくれたのが、埃及の国民食のモルヘーア(の乾燥したの)であった。その料理の仕方も教わった。それから30年経過してくだんのモルヘーアは最近ではJA埼玉あたりでも栽培している。それでたまに喰っている。
R8310159 今回は「本場物」を欲しいというので、オールド回路に買いに行った。露天のおばちゃんから一束買った。値段を聞こうとしたらたまたま通りかがりの英語の分かる紳士(この画像の人)が居たので聞けば、一束が50ピアストルという。約10円だ。ついでにその紳士に日本でも最近ではモルヘーアが栽培されていて、それが自分の好物であることを通訳してもらった。売り手のおばちゃんは「あんれ、たまげたもんだ。ほなら、おきゃくさんこのカゴの中の全部をかっておくれでないかえ」と言った。(通訳氏の意訳)全部買ってもいいけど、大変な「かさ」である。R8310160
メトロのギルギス駅から都心に戻るので、貞人駅まで来たら、下車する埃及人の黒いTシャツのイケメンが、にこにこしながらあたしの肩を叩いて降りて行った。思うに「お、この東洋人のじいさん、なかなか味が分かってるな」という意味だったのかも知れない。透明な袋に入ったモルヘーアは車内でなかなか視線の的であったからだ。

この一番、上の束を調理したのが冒頭の画像である。無論、もう食べてしまったので今はなし。

2009年10月 1日 (木)

「空樹」の成長日記

R8110138 東京。佃。

回路滞在中に、東京のシーンで楽しみにしていたのは「夢見櫓」(このふやけた名前も、候補になっていた。いいねえ)の成長ぶりである。
半月ぶりに見たらかなり伸びていた。以前はライカインコの幼鳥から成鳥への成長ぶりが海外から戻って来るときには楽しみであったものだが、それと同じような高度な高速な成長ぶりだ。
恐らく目視でこの3倍強の高さになるであろうから、出来たら出来たで目障りなことであろう。
回路にもTV塔がある。高さは200メーターほどだが、ホテルの最上階からも良く見えた。話しの種にと思って、ホテルからナイル渡って公園のような所に行った。目分量でタワーの一番近い場所の入り口から入ろうとしたら、ポリスに阻止された。正門から入れというのである。それでまた公園のような場所を大回りして、厳重なセキュリテイチエックを受けた。チケット売り場で見ると、英語で65£とある。アラブ人はずっと安く入っているので、これは外人値段なのだ。その金額を持っていなかった。50£ほどしか手持ちがないのでまっすぐにナイルの右岸に戻った。
日本のツーリストで所持金不足で入場しなかったおそらく最初の例であろう。

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30