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2009年7月31日 (金)

号外!昨日のペン「悪口座談会」の様子

「悪口座談会」というのはそのカメラを認めているから出来るのである。

10年前のデジカメは悪口を言う気もしなかった。

まるでATGの1960年代の予算のないムービーみたいとは、映画評論家の福田教授のコメント。なかなかいいとこを突いている。

坂崎さんはもっぱら、レンズマウントアダプターの交換に多忙であった。レンズの撮り違いがあったりした。自分のレンズには全部名札をつけた方がいい。

P7300053

動画は以下のアドレス。

http://www.youtube.com/watch?v=1SKjHf1l6yo

米谷美久さん

R1180537 米谷さんって、なんて読むんですかと、若い編集者にきかれる。オリンパスペン、ペンF、M1などの独創的なカメラで世界的に有名な開発者が7月30日に亡くなった。76歳。

1978年の秋、ケルンのフォトキナで、プレスクラブにいたらそこに、スイスカメラのアランポーター氏が駆け込んできた。スイスカメラは往時、世界最高クラスのカメラ雑誌である。
今、フォトキナで発表されたばかりのオリンパスXAについて知りたいので、オリンパスのMr Maitaniを紹介してほしいと、息せき切っていう。
ポーターさんは「外人」だから、米谷さんをKometaniなんて言わない。
その場でポーターさんをオリンパスのブースにお連れして米谷さんにご紹介した。
70年代から80年代まで毎回フォトキナに取材に行っての数々の人間の出会いの中でこのシーンは今でも鮮烈に記憶している。
OM-1ではなく、M1に惚れて、それを何台も中古で探して、M1の山を自分で作って満足したこともあるし、XAでコニーアイランドの真冬を歩き回ったこと、さらにペン(まだフィルム時代の)を持ってウイーンの裏町を撮影した記憶もある。そのペンが半世紀ぶりにデジタルになって、そのペンを持ってプラハに行くことになった。
今日、31日にはその「ペン」の対談をオリンパスの関係者さんとするのである。
座談会の冒頭には黙祷しよう。

佃のお昼

R1180518 以前、岡山の壱拾銭銀水と軽自動車で丸亀に行き、界隈のうどんやを攻略した。それで思ったのは、地元のうどんやの渋いのは、それぞれが自分でうどんを茹でたりするのであって、なにか外に居ながら家に居る感覚があった。
ネギなどは、ゴムバンドでつるした鋏があってそれで勝手に切るのである。それでここが大事なのだけどそういううどんは「あまりうまく」はなかった。これは当然な話で、ライカインコなどが毎日食った豆(例のインコの餌)などは、あれは実はあまりうまくないからこそ、毎日食っても飽きないのであろうと考えた。
以前、月島の西仲にあった「たまや」という焼きトンとさぬきの店のうどんは、これはすばらしくうまいのである。それは結構であるがあれでは毎日食う気がしないのではと思った。
岡山からお中元に届いた麦紉を茹でた。以前は12分ほどかかったのであるが、最近では改良されてゆで時間は6分である。都会生活では12分ではちょっと待ちきれない。
それで昼餉にこんなものを食って、午後、ずっと仕事をして夕方にちょっといっぱいやってそれで寝てしまうなどは、まず理想のかんれき生活に思える。もっとも、来週からのプラハでこそ、真のかんれき生活が開始されるのだが。

2009年7月30日 (木)

アエロフロートの機材変更

R1180476 昨年の9月にほぼ20年ぶりにSUに乗って、しかもYクラスが案外によかったし、それ以前はKLとかAFを常用していたのだけどあれは、いったん西欧に行ってから、またプラハに戻るので、なにか回り道をしたような、損をした気分になる。佃から新宿に行くのに、吉祥寺経由で行くみたいなものだ。2m9q0906

それでこの1年弱はSUのお世話になっているが、今年になって1月から月一度のペースで都合、5回欧州に行ったので、マイレージが貯まっていきなりスカイチームのエリートプラス会員になった。それほどに我が極東は世界の中心から遠いことが分かる。(SUでこれ以上のクラスは目下なし)

これはラゲッジに付けるタグであるが、さすがロシアは渋い。このカードの金色はまるで、クレムリンの秘宝色である。

ところで昨年の12月の23日から、SUは会社に3機しかないエアバス330を東京便に投入したので、新品のRRのエンジン搭載のエアバスに乗るのが楽しみであった。

8月2日に欧州にまた行くのだが、そのモスクワ行きの機材を見たら、また以前のB767に戻っている。吃驚してSUの予約の人に電話で聞いたのだが(自分で電話をするのは今年初めてだが、機材変更で電話をかけてくる客の自分もかなり変)なんでも330はモスクワ中国線に「とられた」そうである。それだけ中国から欧州に行く人がおおいわけだ。

それはそれで良いのだけど、日本語のSUのNewsの書き方は以下のような文章である。

なにか昔の「今日のソ連邦」の文章を思い出したのである。

以下、引用------------

アエロフロートは、現在、東京線、ハバナ線、ウラジオストク線で運用されているA330型機を国際線とロシア国内線で運用する予定です。 さらに、2010年4月までに、2機のA330-200型と5機のA330-300型を含むA330系7機の導入が予定されています。

---------引用終わり

ここでの鑑賞のポイントは最初の2行である。

つまり「透かし読み」すれば、東京線、ハバナ線、ウラジオストク線はお客がいないから、小さいキャパの機材にして、330は他の路線に回すぞ、と言っているのである。

本当はイリューシンとか、ツポレフに乗りたいのだけど、まず日本着発だと、ソ連製カメラとか、ロシア製飛行機などは駄目なのであろう。

2009年7月29日 (水)

田中長徳のペンの本 vs GRD3

P7260802 「田中長徳のペンの本」というタイトルなのである。
その件で、このところデジタルカメラマガジンの編集長、副編集長、編集部員さんが頻繁にヒルズに来てくれるので、なにやら若返った気分である。

虎屋の水ようかんも来てくれた。
40年前に仕事をしていた時、周囲は皆さん、自分よりもずっと年長であってその中に混じってなにか大人になった気分であったが、今になってみると周囲が若いので、自分も若くなったような気分で、これは快適である。
P7230567 先週のNHKの「美の壺」の撮影でも、撮影隊はモニタを持参しているので撮影前に、そのモニタをこっちに向けて見せてもらったらモニタ上に白髪のおじいさんが写っている。それが自分であった。見ない方がよかったと思い、いやいや、見たからちゃんと仕事に気合いをいれて出来るのだとも考え直した。

「田中長徳のペンの本」とは台割りの時につけた仮の題なのだけど、どうもそれで行ことになるらしい。10年前にモノマガジンから「チョートクカメラ」というムックを出したこともある。
その「田中長徳のペンの本」であるが、発売が9月5日である。かなりタイトなスケジュールのようにも感じられるし、なにか非常に時間があるような感じもある。
それでその執筆を今日から土石流の勢いで開始。
佃に自主缶詰。

木曜に坂崎さんと福田さんを交えての「ペン悪口座談会」をヒルズで開催。感激するのは、ついにデジカメで悪口が言えるような時代になったか、という感慨である。
20年前はデジカメなど最初から仕事の道具ではないと思っていたのである。悪口が言えるのはそれだけ実力があるのだ。
思えば8年前、2001年の9月にパナソニックルミックスLC5で、まずは「動くもの」が撮影できるようになった。
2005年にリコーのGR-1がデジカメのGRDになって、これをポケットに入れて世界のどこにでも行くようになった。それでこの間の27日であるが、GR3が馬込で発表になった。
R1180498 そこで細江英公さんに実に久しぶりでお目にかかり、30年前のザルツブルグでお目にかかったときの話しとか、27年前にマンハッタンでお目にかかった時の話しになった。ようするにカメラがまだデジタルなどは思いもよらない過去にもちゃんと確固とした写真は存在したのだ。
英公さんが稲垣足穂を撮影した時の話しをお伺いした。これは超絶であった。
当時の英公さんはニコンFにニッコール21ミリレンズである。今はリコーCX1で、パリのロダンミュージアムを撮影しているそうだ。やはりカメラの進化は重要だけど、カメラの進化がすべてではないことがわかる。

今度のGRD3は明るいレンズが売りである。自分のような明るい場所しか撮影しない人間はそれでかまわないが、文壇バーなどを仕事場にしている有名雑誌の編集長からは業務連絡メールの最後に以下のコメントあり。-------

p.s.
GR3の28mm、F1.9レンズには物欲を刺激
されました。職業上の重要任務として、<薄暗い
作家酒場での文学史的な泥酔、乱闘など>を
記録するツールとしてはベストなような。----------

確かに確かに、そういう「闇の部分」の現場は暗いものである。それにストロボは使えないし、あまりゲインも上げたくはない。高速レンズはそういう現場取材に切り札になりそうだ。

マンハッタンの怪人のRedとGRDのカメラサイズの比較画像は貴重。

あたしのRedは「2つ」持っている。正規品でオンラインショップで求めた。ただしTシャツですけど。

http://funahara.com/blog/

2009年7月28日 (火)

おからでシャムパン

P7240646 おからでシャムパン、というのは百鬼園の随筆のタイトルである。

おからを肴にシャンペンを飲む話であって、それは戦前の国産のシャンペンである。その国産のシャンペンがまあまあ飲めるけど、そのさらに昔、法政大の航空部時代に「進空式」に飛行機に振りかけた、シャンペンはひどい味でまるで「サイダーをギャソリンで割ったような味」であったと回想している。

シャンペンは、普段の生活では飲むような機会がないのは当然のことだ。以前は欧州行きの飛行機の上で飲むことが多かったが、最近はそのような高い飛行機に乗ることはなくなったので、もっぱら、機内の一番後ろに行って、ギャレーでロシアンスタンダードの小瓶を買って、クリューを相手に立ち飲みしている。高度1万メーターの立ち飲み屋だ。1本が2ユーロ。

ホテルも5つ星だと、朝食にシャンペンがついている。これは危険な飲み物であって、朝食というのは、えいやっ!というので気合いを入れて、ヒルズなり、南千住なり、プラハなり、どこなりに仕事に行くための準備運動である。それが朝にシャンペンを飲んでしまうと、その生活感覚が「働かなくても食える人」になってしまう。実際には「働いても働いても食えない人」であるのだから、最近では朝食のシャンペンは控えている。もっとも、5つ星のホテルに泊まることも最近はあまりないから、その点は心配なし。

この頃はもっぱらシャンペンから遠くなっていたのが、この前の「7,20人類月面歩行40周年記念立ち飲み示威行動」の時に、おみやげでいただいた。一挙に3本。なにか世界の富が一度に自分のもとに集合したような気分だ。

それでいただいたシャンペンだからそのうち1本はバルコニーで開けて、皆で飲んだ。しかし正直言って1本のシャンペンを6名で飲むと、それはわずかなものである。シャンペンはうまいから、会話をしつつ飲むなどはもったいない話しである。ひとりで飲みたい。

それで残りの2本は「自分だけで飲もう」という「邪な考え」が兆して、それは隠匿しておいた。

この間、そのよく冷えたシャンペンを出して、2000年のミレニアム以来使ったことのなかった安物のシャンペングラスも出して、夕餉にこれをやったら、いだたいたシャンペンがいいクラスであったこともあって、実にいい暮らしをしているような錯覚がそこにもたらされた。ただし、こういう生活上の錯覚は実は大切なのであって、シャンペンの泡の酔いに浮かんでいると「こんな贅沢な暮らしをしていてよいのであろうか」という気分になれるから大したものである。

もっとも、シャンパーニュ地方でできたのではない、SEKTとかスペイン製のCAVAのような泡の出るワインなら、安いから普通に飲んでいる。この1月のプラハでは最初はプラハの元迎賓館に3泊、その後にネオバロックの屋敷が今はホテルになっているところに3泊泊した。その後でプラハのアトリエに行くはずであったが、そのホテルでワイン抜きを持って来ていないことに気がついた。そこらのスーパーでワイン抜きが買えるであろうと思うのは思慮が浅いのであって、プラハなどはあまりにワインは身近な存在だから、逆にそういうモノは売っていないのだ。それで仕方なく、ロシア製のSEKTを買って飲んだ。これならワイン抜きがなくても瓶があくのでまず、緊急退避ということだ。

シャンペンサーベラージュという、瓶をサーベルで切り下ろして開栓する古式のやり方があるらしい。それは知らないがその話は百鬼園のエッセイにも出てくる。ただし、戦艦の中で戦勝を祝うのに、ワイン抜きがないので短剣で瓶を叩き切ったということになっている。

2009年7月27日 (月)

篭風防って何?

R1180467 9月11日放映予定の「美の壺」の撮影が7月23日午後に佃であった。

午後5時にデイレクターの上原さん来。彼は山崎博に大学で教わったそうだ。そういう人が「社会の中枢」になるほど時間は未来に進行しているのである。

最初に佃の路地裏で(なにしろ日本路地裏学会だからこのショットは欠かせない)ライカM3のブンデスアイゲンツム(これはBMW野々宮からの借り物)を持ち歩いて路地裏スナップ。上原さんは「フィルムはいれなくていいです」と言ったけど、いえいえ、それでは「やらせ」になる可能性がある。

Afd269da00d843168675bc39251fc069 日食の日、午前11時半に「寿司の後藤」に寿司食いに、ヒルズのタワーの外に出たら、折良く、5分ほど日食が見えたのである。しかも雲がサングラス代わりになって、6割欠けた太陽がいい具合に見えた。

そう言えば、悪石島に観測に行くと言っていた、石川直樹さんは果たして観測ができたのかどうか、それが気になるが、寿司の後藤から戻ってオフィスに入ろうとしたら、若い通信社系のカメラマンさんがそこらに居る子供に頼んで、日食のめがねをかけて全員昊を見ているのを撮影していた。ただしすでに太陽は雲に隠れているのである。これを「やらせ」とは言わないにせよ、やはり気になる。日食を観測しているパリ市民を撮影した、有名なアジエの作品があるが、あれも「やらせ」なのであろうか?上の画像はhttp://blog.goo.ne.jp/goldenbough/2からの借り物。

そういう環境を考えていたので、路地裏を撮影の時にはちゃんとフィルムを装填した。ハイビジョンカメラはあたしがライカを構えている正面を撮影したがるから、そのリクエストで自分のライカがハイビジョンカメラの方を向けば、自然と撮影スタッフが自分のライカに写ることになる。

それで子細に観察すると、録音さんは女子である。以前は映画の撮影なら、まずNAGRAのテープレコーダーにセンハイザーのマイクにツエッペリンが付いて、それにライコスのウインドジャマーをかぶせるというのが欧米のサウンドマンの定番で、自分の所有のナグラにもそういう用意がしてある。

その録音女子はショットガンマイクを裸で使っているのである。なにか妙に「露わな感じ」がしたのは、巷間の女子がほぼ裸体のような格好で町を闊歩している光景などよりも、この「裸のマイク」は自分にはよほど「セクシー」に見えたことだ。

映画「リスボン物語」はサウンドマンが失踪した映画監督を探してはるばるベルリンからリスボンに行く話だ。その時のサウンドマンの機材はすでにテープレコーダーではなく、DATであったが、マイクは依然、トラッドなセンハイザーショットガンなのである。アナログの入口はやはりアナログの方が良いというこれはある種の証明であろう。

その女子サウンドマン(というより、サウンドウーマンか、、、)に、ツエッペリンは使わないの、、、と聞いたら、最初の数秒、その意味が分からなかった。それでその形状を説明したら「ああ、籠風防」(かごふうぼう)ですか、と言った。あたしは日本のこの業界用語はなかなか気に入ったのである。

その後、佃の室内で3時間ほど撮影した。そのショットがこれである。サウンドウーマンに自分の「フィッシュポール」を見せたら笑っていた。これはマイクを付ける伸縮式の棒のことなのである。グラスファイバーでできている軽量な竿だけど、これを屋外で強風の時に扱うのはなかなかの重労働だ。そのフィッシュポールを日本の業界用語で何と言うのか聞き漏らしたのは残念である。

ウインドジャマーが「籠風防」なら、フィッシュポールポールは恐らく「物干竿」とでも言うのであろうか。

「美の壷」のクラシックカメラ特集の放映は9月11日。

2009年7月26日 (日)

薄暮のバルヴォ

P7210448 この間、引っ越し検分で、親しい友人数人が来て夏の夕刻を歓談。

これを「7,20人類月面歩行記念ベランダ立ち飲み示威行動」と命名した。
思えば、ウイーン時代には、よく家でお客をしたものだが、東京では絶えてそれをしたことがなかった。それが「生活防衛引っ越し」を機にお客をしたわけだ。その佃もすでに棲み古して足かけ20年になる。
佃亭のお品書きは、10年ほど前のが保存してあるが、それ以降にお品書きのないところを見るとやはり長い間、ゲストは来ていなかったことになる。
昨日のお客さんの後、今日の夕刻に見ると、(これは7月21日に記載)ちょうどパルヴォのファインダーチエックであったので、それを色温度をずらしてペンデジタルで撮影したら、妙に回想場面のような画像になった。
R1180463 R1180464 左の白と黄色の花は昨日いただいたものである。不思議なのはその中にある緑の葉っぱと薄い紅色の実のある植物のことだ。 2005年の8月、三代目のライカインコが昇天した直後に、この植物を飾っておいたら、四代目のライカインコがその植物が枯れても、それを食べていたことだ。

それは最後の一葉まで食べ尽くしたのである。それで「ライカインコの好きな葉っぱ」というので、この4年間、佃の近所を探したけど発見できなかった。それで家人などは「良い供養になった」と感謝しているのである。

薄暮の中のパルヴォ撮影機が感心するのは、これにフィルムをかけると、そのまま映画が撮れることだ。
そしてその機材は75年前のものなのである。これがビデオではそうは行かない。すでにVHSだって機械がないのである。

2009年7月25日 (土)

DEFAのパルヴォ

P7170036 P7170037 P7170038 生活防衛引越で「出土」した機材は数多いが、その中の白眉は、DEFA(東ドイツの国営フィルム製作所)で、東西ドイツ統合の直前まで使われて(実際には1975年当時までだが、これはその気分をいっている)いた、仏蘭西製のパルヴォ35ミリ撮影機だ。http://en.wikipedia.org/wiki/Deutsche_Film-Aktiengesellschaft
ドイツにはプロ用35ミリ撮影機は戦前からエルネマンとかアリとか、アスカニアとか各種あったが、レニ・リーフェンシュタールなどは、仏蘭西製のパルヴォを好んだという。まさか女性だから「お仏蘭西」のキャメラが好きというわけではなく、そこにはちゃんとした理由があったのであろう。

このパルヴォは1920年代のものであるが、ずっとベルリンで使われていた。輸入代理店のエンブレムを見ると、そのベルリンの会社はドイツとロシアの総代理店なのである。

レニがこのキャメラを使ったのではと思うのは、ベルリンオリンピックの時の撮影では複数のキャメラが使われたであろうから、そういうことがあったかも知れないという妄想である。戦後になってこのキャメラは東ドイツのドイツ映画協会の所有になったわけだ。この品物をドイツのオークションで入手した時には1975年までベルリンのスタジオで使われていたと説明にはあった。

ロシア映画「キャメラを持った男」の中では戦前のこの手の手回しの撮影機が主役になっていた。その映画を今見ると、なんと時代遅れなという印象を受けるが、その映画が製作された時間ではそれらは「最新式の撮影機」であった点に注意する必要がある。

これは、リトアニアの演劇映画ミュージアムを記念のパルヴォの切手である。

千両箱めいた四角な撮影機には、映画の栄光の時代が見える。

ところで、この切手の画像を見ると手提げの革バンドの後方が折れ曲がっているのがわかるが、これはこの撮影機の美学からはふさわしくない。おそらくこの撮影機をイラスト参考用に撮影した時にそうなっていたのだろうが、長く保存されたパルヴォは往々にしてそういう「癖」が出るものである。

Lt00906

2009年7月24日 (金)

ローライマリン

R1180465 生活防衛引越でこの10余年開封しなかったカメラの箱が開封された。まさにパンドラの箱である。そこからころがり出たのは、ローライマリンであった。

これを買った時期と値段は案外によく記憶しているのは、ライカとかニコンとかアリフレックスなどは今までに何ダースも買っているけど、これは唯一のローライマリンの購入例であるからだ。それは1984年であり、場所は高輪のマックカメラであって価格は6,5カメラ円だった。酔狂で当時飼っていたメダカのお家にしようと思ったのである。しかし手にとってみるに、なかなかの精密機械なので思い直して、そのまま死蔵してしまった。一回、何かの雑誌の小道具に登場したことがある。

こうして見るとその大げさな感じは、甲冑の武者という印象だがそれが時代遅れという感じはなくて上質な美術品の印象だ。ちょうどウイーンの歴史美術館でバロック時代の込み入った造りの工芸品を見る思いがある。

この水中ケースの見所はやはり全面のオプチカルフラットの周辺のロゴであろう。そこに刻印されたHans Hassという名前の由来は知らないけど、なにか由来がありそうだ。こういうプロ向けの品物を生産している小規模な会社というのは、誰も知らないけど「知る人ぞ知る」というのが良いのである。NASAの宇宙探査用のスペクトログラフ用の白くエナメル塗装された70ミリハイスピードカメラをもっているが、その会社の名前、フォトソニック社など誰も知らない。この会社もほんのわずかな人の知る、その手の専門器機では最大手の会社なのだ。

ストラップはマニラロープにゴムホースのようなのがかぶせてある。こういう素材は大抵が風化してぼろぼろになるものであるが、まだしなやかなのも評価できる。

いったん水中に入ったら、撮影カットはたったの12枚しかない。

その潔さがまた60年代でいいと思う。

2009年7月23日 (木)

kokoro こころ

Fh030036

こういう体験は外国を歩行していて、案外によくあることなのであるが、その度にその看板の前で立ち止まってしまうのは、非日本語環境で見る、日本語の理解度合いがネイテイブである、その自分の不思議さにある。

この冬にプラハをあっちこっち徘徊していた時に出会った看板だ。外国の日本語といえば、パリなどでよく見かける、日本レストランの入口にある「日本語話せます」というのは一番実用的である。ただし風景として見るのならそういうレストランのお知らせよりも、街角に見かけるこういう看板の方が「おもむき」がある。

海外で見る日本語なら、すれ違う「外人」の着ている「一番」とか「親不孝」などもおもしろいが、日本語にも中国語にもなっていない不思議な文字のTシャツもモダンアートの観察としては興がある。

海外で見る、日本的な存在で忘れられないのは、ミシガン州のスーサンマリーという運河の町(これはミシガン湖とエリー湖だかを結ぶ運河)で、その水門の脇に日本の神道の鳥居があった。これは古いものだが、戦争中にも破壊されなかったと聞いて感心したことがある。22年前の話し。

もう一つは、フランクフルトからケルンに向けて、早朝にライン川の岸辺を列車で走っていた時、川のそばに日の丸を見た。その日の丸は白地に赤ではなく、緑地に赤なのである。最初は自分の視神経がおかしくなったのかと思った。

この旗は言うまでもなく、アジアの某国の旗なのである。

2009年7月22日 (水)

JPS

R1179993 JPSと言ってもあたしが30数年加盟している日本写真家協会のことではない。これは西洋たばこのそれであるが、実はソ連製のスパイカメラでもある。

16ミリの小型カメラがそのまま偽装されたJPSのパッケージに入っている。撮影者はシガレットを押すとシャッターがチャージされてシャッターがきれる仕組みだ。

実際にこういうカメラがスパイカメラとして活躍したのかと問えば、それはどうも眉唾である。本物のソ連のスパイカメラをウイーンのソ連カメラのコレクターである、ムラデック博士に多数見せてもらったことがある。本物のスパイカメラはその存在が実に地味であって、たとえば真っ黒に塗装されたミノックスのコピーカメラなのであるが、これをシャツの下からぶら下げての撮影は赤軍兵士の制服の真鍮のボタンの部分は金網というか透かし彫りになっていて、その奥からレンズを覗かせて撮影をするというインテリジエンスなのだ。

いかに、冷戦の1950年代は喫煙におおらかであったとは言え、スパイがここ一番というところで、おもむろにJPSからシガレットを抜き出し、それに点火しないで、またたばこの箱の中に戻すという行為は実に不自然である。結局、このカメラは西側の007に憧れる脳天気の為に制作した観光客向けの高価な玩具なのであろう。

それにしては、その取説が露西亜語というのはまた今ひとつ、理解に苦しむ。

このカメラは10年ほど前に厳冬のモスクワの有名なのみの市、イズマイルスカヤパークで買った。値段はすでに忘れたが、支払いはドル札であったことは鮮明に記憶している。

その同じ時、通りすがりの黒ずくめの青年が「MR TANAKA,,,KGBの隠し撮りの16ミリ撮影機を買いませんか」と寄ってきたのは未だに謎である。自分はホテルから一人でその蚤の市に来たのだから、誰も自分の名前を知っている筈はない。ここはモスクワで、東京は松屋の中古カメラ市ではないからだ。

それがどういう次第であったのか、それは拙著「ロシアカメラがむせぶ夜は」に一章を使って書いてある。

2009年7月21日 (火)

サンダーソン

R1179995 4X5カメラの重さは相当なものであると思うのは、これは戦後カメラ人類の勘違いであって、もともと4X5カメラは軽量で携帯に向いたカメラであった。

アメリカサイズが4x5で、欧州サイズは9x12だから、欧州サイズの方がちょっと小さい。

よく、欧州でリンホフの中古のセットを買って、あとで遣う時になってそれが9X12であったので4X5のフィルムがつかえないという滑稽談は良く聞く話である。無論、本人にとっては滑稽ではなく、悲劇なわけである。同様なことは大昔にウイーンでリンホフ5X7インチのカメラを手にいれて、ホルダーも付いていたので、アグファカラーフィルムを買ったら、それは5x7インチであるが、ホルダーは13x18であった。記憶違いでその逆であったかも知れないが、いずれにしてもホルダーよりフィルムが少し大きいのだ。もったいないので、暗室でフィルムを切って小さくしようと思ったが、暗闇で素人が数ミリだけフィルムをカットするのなどは最初から無理な話である。

英国のフィルムのサイズはまた未だに謎であって、自分にはフルプレートとかハーフプレートというのがいまだにどういう大きさなのか分からない。倫敦で手にいれたこのサンダーソンはなぜかフィルムサイズは4X5インチであった。しかももともとガラス乾板のホルダーにフィルムが使用可能なシースがついていたので購入した。

帰国して荒木町のアローカメラに同じものが出ていたので、もう一台買った。こっちにはホルダーは付いていなかった。

このカメラの凄いのはライズとシフトが自由に出来る点だ。設計者のサンダーソンという人はもとは建築家であったそうだから、撮影現場でのライズの苦労を良く知っていたものと思われる。

それにしても、こういう赤蛇腹で、ブラスの部品が金ニス仕上げというのは、偉大なクラシックだ。最近の4x5カメラは手元にある、カーボンインフィニテイもそうであるが、頑丈堅牢が目的で金属部分をステンレスにしてある。それはそれで結構だけど、優雅という観点からはこういうカメラの方がいい。

2009年7月20日 (月)

ライカ平民連合

R1179994 岡山の壱拾文銭銀水が座興で「ライカ平民連合」のボデイキャップを送ってくれたのは10年前ではないにせよ、5年以上の昔である。

地方では時々、このような「ライカののろし」が上がるのだがそれは長続きはしないようである。その理由は「一点突破主義」とでも言うべきか、別の言い方をするのならそこに遊びの要素が強すぎてそこから先にゆけない。投げた球がまた自分の場所に戻ってしまう。

それで、そういうことが悪いかと言えば、別にその方が望ましいとうことであって、ライカで遊ぶというのは日常の中に非日常を見ようとする我々の試みである。

残念ながらライカというカメラはその実用の座はとっくに降りているから、逆に我々のイリュージョンをのせて飛んでくれる紙飛行機のようなものだ。

ライカ平民連合とは、戦前ならその名前だけで危険な政治結社と思われそうである。

岡山の壱拾文銭銀水がこの材料を使い過ぎのベビメタのボデイキャップを何個作ったか知らないが、そのうちの1番と2番がうちに来た。もっとあったかも知れないが、今手元にあるのはその2個であって、7月1日の「生活防衛引っ越し」の時に発見された1個はアイデアの元に返送した。

このM2Mに普段付いているのは、その岡山のペンタハウスで昨年の秋に買った、ライツのズミタール50ミリである。それをちょっとだけ外して、名物のキャップを付けて撮影したのがこのカットだ。

ライカの蓋よりもレンズを付ける方が「ライカ平民連合」の趣旨ではあろうが、このライカM2Mは目下、シャッターのリボンが切れている。ほかにもシャッターのリボンの切れていないライカは沢山あるので、なかなかに修理の手が回らない。

2009年7月19日 (日)

角川俳句歳時記for ATOK

R1180438 今回の生活防衛引っ越しで、最大の悲しみ、マイナス点は移転3日目のライカインコ四世の逝去があったが、一方でそれをだんだん忘れさせてくれるプラス要因も多い。5年という時間経過の間に、通信環境が大進化したのを完全に忘れていたのだ。
それで移転を機に、WIFIになったし、ATOKも2009にした。マック使いは昔からFEPには神経質であるが、ウインドウユーザーはあまり気にしないようだ。これはマックのFEPが伝統的に「おばか」なことえりであるせいであろうか。
そういえば、大昔にNeXTを使って、キューブでモノクロモニターで本を書いていた時代あったが、あの変換のたまづさというのは当時は結構使えた。そのブラックネクストは結局は捨てられずに(これを捨てるのには実費200ドル以上取られる)デスクの上にある。
ATOKのアップグレードのパックを19800円で買ったら、中に角川俳句歳時記for ATOKというのが、おまけというか付録という感じで入っていた。
季語から句の例がずらずらと「横書き」で出てくるのは面白くもあり、なにかへんてこな感じもする。
試しに牡丹と入力したら、「ぼうたん」の句例がかなり出て驚いた。
ぼたんを「ぼうたん」と詠む句はあまり例がない、唯一の例は「ぼうたんや しろがねの猫 こがねの蝶」というかなり風変わりな句であるとは明治末期の子規の意見であって、ぼうたんの使用を子規は禁じている。自分はその当時の事情しか知らないので、あれから100年が経過して、ぼたんが「ぼうたん」と普通に詠むことになったのを知った。新時代である。
そういう意味で飛行機の中などで、この角川俳句歳時記for ATOKは楽しめそうだ。

2009年7月18日 (土)

ガンドルフィ

Gandolfi_brothers_thumbnail 1970年代の後半ころ、ウイーンに居たのだけどそこに短期滞在した写真家にKがいた。その前、1976年に日本に「現代日本写真家展」の準備で夏の暑いさなか、Kが接近してきた。前後の事情は忘れたが彼の家にいった。世田谷あたりの雑木林の奥で、5X7のデイアドルフを持っていた。他にもハッセルブラッドを持っていて、250ミリのゾナーは化学実験用のデジケーターに入れるような男だった。

そのKが英京倫敦にガンドルフィというフィールドカメラがあって、なんでも数年のバックオーダーを抱えているのだが、それを注文にゆきたいのだけど、英語が分からないのでついてきてきれと言うのである。さっそくオペラ座前のBAのオフィスにチケットの値段をKと調査しに行ったが想像を超える価格であったので、その倫敦行きは沙汰止みとなった。

21世紀になって、東京カメラクラブのYさんからそのガンドルフィを買った。ただしこれは美しい木製のカメラであるが、フォーマットが英国式なので、フィルムがない。
R1180435 昨日、銀座の檸檬で、ガンドルフィバリアントの真っ黒なボデイに135ミリテッサーの付いたのがあった。これが安価(3,9カメラ円)なので買った。
このところ、英国関係の組み立てカメラの購入が続いている。先週の銚子に英国はイルフォードの白いカメラを持参したのが利いているらしい。

このカメラはガンドルフィの後継者が作ったカメラだ。マットブラックというのがどのようなカメラ美学なのかまだ分からないが、下は純粋な木材ではなく、ベニアみたいに繊維を樹脂で固めた本体のようである。調べたら、ガンドルフィバリアントには1型、2型、3型の「バリアント」があるらしい。リアのムーブメントからすると、どうも3型のようである。もともと向こうで2000ドルのプライスタグのカメラが、3,9カメラ円は、やはり銀塩(ぎんしお)カメラは今が買いということだ。このアウトフィットには135ミリレンズのほかにコダックのパケットフィルムホルダーが付いている。だから20枚の4x5の撮影では(英国風に言うのなら5x4)10枚のダブルダークスライドを持参ではなく、パケットフィルムホルダにパケットフィルムを持参するのが正しい。

R1180436 ガンドルフィの木製三脚は数年前に英国で買ったのがあるので、それを使えば日本人の好きな「純正の組み合わせ」になる。レンズはやはりツアイスではなく、ダルメヤーあたりが必要だ。

2009年7月17日 (金)

銚子=伊太利亜

この前の週末に二泊三日で千葉県の銚子に行った。

過去24年間、代々ライカインコを飼っていたので、家ではどちらか一人は家に居る必要があった。その4代目のライカインコ4世が昇天して、マルクスレーニンライカインコ独裁体制が崩壊したので、解放された人民の我々は国内の旅に出ようと家人と出かけたのである。 24年は足掛け25年である。25年は四半世紀である。ソ連邦の崩壊だって、80年に満たないのだから、ライカインコ独裁帝国はかなり長く継続していたと言える。
偽ライカ同盟共和国ではその市民家族は同時に国外に旅行できなかった。なにか旧東ドイツで西側の国に旅行に出ることができなかったのを思い出す。指導者ライカインコはわれわれ臣民に圧政を敷いていたとは思えないが、それに気が付かないこと、それが本物の圧政独裁体制というものなのであろう。思えば、人間二匹で旅をするなど。1973年−1980年の「七年半のハネムーンのウイーン」以来である。

家人の後輩の園ちゃんという20代女子がいて、以前、家人の伊太利亜行の音楽レッスンで知りあったらしいが、その久野ちゃんという女子はなかなか写真が上手なので、あたしもその才能を認めているのだ。その園ちゃんなる女子が出身地の銚子で声楽の発表会をするのである。
それで八重洲からバスで出かけた。片道2500円。近いのか遠いのかさっぱり分からない。その場所の名前が「風のアトリエ」というので、これは陳腐な名前のカフェであるなあと最初から期待などしていなかったのが、行ってみて驚いた。

銚子の岬の先は三方が海であって、その丘の上にあるので、視界は非常に良い。まず伊太利亜のシシリーのシラクーサという感じがする。シラクーサはギリシャの残り香があって、ちょっとやりきれないとこともあるが、こっちはヒゲタの醤油の香りがする。ヒゲタは家で使っている醤油である。
その家系のことは良く知らないが、なんでも世が世なら、自分はヒゲタの醤油屋になっていたらしい。家にはまだ古い古いヒゲタ醤油ののれんと、巨大な位牌がある。そこらの後継者のお家騒動を父に聞いておけばよかった。父が昇天してそういう次第はまったく分からなくなった。
そういう「暗い過去」があるので、銚子は欧州からの帰りにNRTアプローチの時、最終着陸態勢になって鹿島から利根川を超えて犬吠埼から、九十九里浜を見るのが常であったが、陸路、銚子に行ったのは小学校低学年の時、中学の時、それに25年ほど前に古い巨大な墓地になにかの用事で両親と行ったきりであった。ゆえに今回の2泊3日は4度目の銚子。62年で4度目の銚子。一方でプラハは今年はすでに3度は行ってるし、8月もプラハ行きだ。つまり1万キロのお隣のプラハより、120キロも遥かなチョーシの方がずっと遠い。

そのコンサートカフェのある、天王台という丘の上からの眺めがすばらしかった。これは銚子に戻ってくるよい動機ができた。
自分はポルトガルのサグレス岬には何度も足を運んだが、「犬吠え崎」の良さは知らなかった。戦前の百鬼園の随筆で銚子に行って、宿屋の座敷に犬のいるちょっと怪奇な話がある。
それで、東京に居るときの空間感覚が西の方はずっと開けていたのであるが、東の方も空間認知が解放されて、今週は実に快適である。
八重洲口からバスで2時間半の場所にこういう「異界」があるのが大発見。
しかも往復とも成田を経由するので、なにか遠い外国から戻った気分である。R1180174
R1180171

2009年7月16日 (木)

ペンデジの箱

R1180428 ペンデジタルの箱が届く。
無論、中にはペンデジタルが入っているのである。今回の発売以来のバックオーダーを抱えた大人気は社会現象化しているようだ。カメラ人類だけではなく、一般市民「非カメラ戦闘員」も会うとその話題になっている。TVの広告の女の子の出るのが利いているのであろうか。もっともそれは自分は見ていない。部屋にTVがないからだ。

到着したペンデジタルはこの前、本ブログでも登場した、30分のテストとはことなり、この夏にはペンデジタルのメデイアの仕事をするので、その機材としてオリンパスから拝借したものだ。これは1泊2日ではなくもう少し長く手元にある予定だ。
それでこの前のテストカメラの時には良く観察する時間がなかった元箱をしみじみと見た。
最初は本体のみが入っているのかと思ったら、TWO LENS KITとある。2本のレンズが入っているのである。
レンズの二本組というのに、自分があまり良い印象を持たなかったのは、スポーツ新聞とかで高年齢者向けにダブルズームセットというのを安く売っていて、それがいかにも「大衆向け」の印象を与えたからだ。
20数年ほど前にミノルタα7000が大ブームで売れに売れて、スポーツ新聞のねたにまでなった。そのα7000のダブルズームセット(ここはWズームと書くと気分が出る)をこの前、大森のカメラ店で千円で買ったのである。立派なセットケース付き。でもちゃんと写った。
2009年の夏の一番人気のオリンパスペンデジタルが3年後、10年後にどのようになるか。それは未来だけが知ることであるから、今、予想はすべきではない。

感心したのはその箱が小さいことだ。フルサイズのデジタル一眼レフの箱だと、部屋いっぱいになってしまい、生活圏を脅かす。ペンデジタルの箱はコンパクトデジカメに比較すれば大きいけど、その中に本体と2本のレンズが入っているのはありがたい。まず地球上を移動し続ける自分のようなカメラ人類には格好のサイズと思われる。

箱の脇には6400 ISO 超高感度とか、1230万画素とか、ボデイ内手ぶれ補正とか、そのほか、自分には何のことか分からないのも含めて、そういうエンブレムが沢山並んでいる。数えてみたら17個あった。
箱の底部にはFor use Japan only. とある。これはグレーマーケットの問題防止という意味だけであろう。洗濯機とかエアコンではないのだから、電圧がことなるとか、サイクルが違うということはあり得ない。

巷間、この人気カメラが腰名で生産されているという噂があった。箱の底部を見ると、MADE IN CHINAとある。あれは単なる噂であったわけだ。

箱を手にとってみると、実に軽い。中には何も入っていないのではないかと思えるほどに軽い。すぐに箱を開けたい気分もあるが、今しばらくこのままで、外から眺めていようと思う。

隣のカメラは英国イルフォードのADVOCATEである。エナメルの白い仕上げでなかなかお洒落なカメラだ。

オリンパスのペンデジタルはそのような「ぎんしお写真機」(自分は銀塩をこう呼んでいる)と何か共通項がありそうだ。無論、デザインのことなのだが今まで気にならなかったフォーサーズが案外に新しい局面を拓くような気がしている。

2009年7月15日 (水)

1998

R1179998 しばらく前にEBAYを見ていたら、ドイツのアリフレックスの会社のカレンダーがオークションに出ていた。
そのカレンダーは1998年のものなのである。こういう古いカレンダーは誰もビッドする人間などはいないだろうと思っていたら、世界に2人だけそういうもの好きがいた。それがあたしとどっかのドイツ人だった。

オークションで2人だけ「おろかもの」が居るとそこにどうでも良い意地のような闘争心が兆して、そのモノのマーケット価格を遙かに凌いでしまうことのあるのは危険なことである。このオークションでもたかが「11年前の古カレンダー」とは思えないような高値がついた。それを送ってくれたセラーはこれまた古カレンダーとは思えないような完璧な梱包をしてくれたのは、これは郵送料が高くついたと恨みごとを言うのではなく、人類の文化遺産をちゃんと送ってくれたのだから実にありがたい。

表紙はご覧のようなアリ35−2である。これは代表的なキャメラだから、まず表紙は文句なしだ。他にはアリSRとか、最近のアリカムなどもスターなみの登場だ。ちょっと残念なのは、アリの照明器具が登場していることで、キャメラフェチとしてはやはりキャメラで12か月とプラス表紙としてもらいたかった。

表紙のアリ35は1型も2型も持っているが、やはりアリ精神が如実に現れているのは、1938年製の1型ということになる。これにスチル用のカラーフィルムを装填して、廻すと5秒ほどのショートテークが撮れる。それを棒焼きにして、数年前の日本カメラの「一眼レフの王国」の連載に掲載したこともあった。思えば、スチルカメラの一眼レフの歴史よりもこっちの方が案外に古いかも知れない。アリ35のファインダーの見え方というのは、これは知っている人だけが知っているのであるが、迷光防止の為であろうと思われるのだが、ファインダーの視野に縦にすだれが入っているのである。つまりすだれの間から見た隣の風景のような感じで黒い縞が見えるのだ。これを不快に思っているようではまだアリ使いにはなっていないのである。

2009年7月14日 (火)

珠江

R1180421 前々からなにかにつけて書いているが、漢字のカメラ名はお洒落であるし、夏などはなんとなく涼しげである。
珠江という一眼レフは10数年前にたしか東京で買ったのだ。その店がどこか失念したが、そのカメラは中国の旅行者さんが売りにきたようで、元箱から取説からなにから揃っていた。しかも値段は1万もしなかった。

なにかカメラの思想が感じられますね。いえ、この時代の一眼レフには「思想」があるように思えるのは錯覚かも知れないが、カメラに思想が宿ると錯覚するのは、悪い錯覚ではないと思う。
最近のデジカメはもっぱら思想の片鱗などもなくて、ただただ便利で速く、しかも実によく写るし、また旧型になるの実に迅速であるというのみで、それはそれで結構であるがカメラの存在になにか奥行きのないのは残念だ。

もともと思想などというものは何の役にも立たないから思想なのであって、そのあってもなくてもあまり意味がないという点がありがたいわけである。

その意味でこの20年前の照相机である珠江には思想がある。この漢字も毛主席の筆になるものであろうか。
このカメラの良さはそのレンズの反射の色合いがいかにもクラシックなブルーとバイオレットであってその微妙な色合いがまた良い感じだ。

しかもその仕上げはブラックのペイントではなく、ブラックの鍍金なのである。この間、幻のブラック仕上げと言われている、キヤノン6Tをを偶然に手に入れたのだが、そのブラック仕上げはまだ見たことがなかった。珠江もブラックペイントではなく、ブラックの鍍金なのである。製造は四川省のどっかの兵器工敞なのである。それでシャッターの操作感覚とか巻き上げの感覚にはなにか兵器感覚がある。

珠江をひさしぶりに発掘したので、58ミリf2の付いた思想の正しいレンズを1本だけつけて(他の交換レンズはもたずに)どっかに旅をしてみたい。
その時にデジカメは一台ももたないで出かけられれば今度こそ、本物の写真家になれるかも知れない。

2009年7月13日 (月)

鳩サブレー

R1179885鳩サブレーというお菓子がある。

今はどうか知らないが、これは1970年代から80年代にかけてはなかなかに「文化的な香り」のするお菓子であった。

日大写真学科に知り合いの大学の先生がいて、彼は荒川区の尾久の旧家の出であって、キヤノン7のブラックなどで写真の王道を行っている人であるが、そのK先生からの贈り物が鳩サブレーであって、これははんこに押したように常に鳩サブレーなのである。そのまねをして我が家は旧家ではないけど、先様には鳩サブレーを贈ることに一時凝ったことがある。

先日、NHKのデイレクターさんが我が家に見えた時、阿佐ヶ谷のうさぎやのどらやきをいただいた。あるいは以前、講談社の編集者さんとヒルズであったときには、音羽の群林堂の豆大福をいただいた。自分は酒飲みであるが、甘いのもいけるのでこういうのはありがたい。日本酒に大福は試したことはないが、ワインにチョコレートは、ウイスキにチョコレートよりもいける場合がある。

移転の反古の中から島尾あぷちゃんの鳩サブレーのお礼のはがきが発見された。この手のお礼のはがきで一番手元にあるのは、赤瀬川原平さんからのはがきである。原平さんのお礼はがきは手書きの貴重なものだから、エビで鯛を釣る感じがあって、ちょっと申し訳ない。

島尾あぷちゃんの愛猫が最近、十何歳でなくなったと聞いたのは、誰からであったか。つまり数日前の島尾家の記念写真の1981年2月以来、それだけ時間が経過したことになる。

2009年7月12日 (日)

東松さん

移転で発見された昔のカメラ雑誌には見るべきものが多い。特に1970年代とか60年代の写真家の「社会への影響力」というのは今とは比較にならないほどというか、それを往事と今とを比較するのも滑稽なほどである。

これはキヤノンの一眼レフの広告であって、それぞれの写真家に見開きの2ページで展開している。ほかの写真家とは長野重一さんと、大倉瞬二さんだ。その中で東松さんの姿にあこがれたのは、当時、こういう「黒めがね」をかけている人はいなかった点だ。タモリなどよりずっと昔のこれは「黒めがねおやじ」の元祖である。当時のサングラスには、世の中を批判しているような、世の中を斜めい見ているような感覚があった。

東松さんのカメラのレンズは当時は驚異的な19ミリのレトロフォーカスである。先がラッパ型のやつで当時の光学設計技術はまだ未熟であったから、こういう格好になったのであるがそれがエキセントリックで良い感じだ。同時代の映画用の超口角レンズもどうように先端のレンズのエレメントの大きなかっこよさであった。

当時の東松さんの仕事で忘れられないのは「東松照明日録」であってこれは彼の日常をつずった日記風写真群なのである。カメラ毎日で40ページほどの大特集であった。東松さんのカメラは確か、キヤノンペリックスで交換レンズ一式を駆使していた。

真夏の午後の熱風の中、東新宿の興亜ビルの事務所に行ったら、キヤノンから届いたばかりの段ボールの中に各種の交換レンズが山になっていた。今の時代にカメラメカライターさんのもとに貸し出し機材が届いて、カメラ会社の広報さんがその返却期限をチエックするという、現代に比べればその優雅さは比較にもならない。カメラメーカーというものが文化的なことに鷹揚であったという夢の時代である。

同時に写真家が特定のメーカーのカメラを手にすることが、それなりの広告効果を生むとまだ信じられていた罪のない時代でもあった。この当時のキヤノンはニコンに全面的に負けていたのでその負けを取り返そうとなかなかのがんばりであった。今のカメラが面白くもないのは、どのメーカーのカメラでもその写りには変わりがない点である。だからフィルム時代にライカとコンタックスとの競争の中に見る異質な存在とそのブランドの戦いというのはもはや存在しない。

どのカメラで撮影しても同じなのは今も昔も同様なのかも知れないが、カメラファンはやはりメーカーの個性に騙されてみたいものなのである。

その個性的な時代は過去のものになり、今のカメラは価格ドットコムで1円でも安いのが「良い」という時代である。

まず、落胆しても仕方ない。元気なカメラブランドの登場を待つのみだ。

R1179873

2009年7月11日 (土)

20年前

別に自慢にもならないけど、人間は20年が経過するとかくも変身するという、これは格好の実例である。

場所はウイーンのシエーンブルン宮殿の庭のグロリエッタである。今回、出土した古写真だ。田山花袋のなにかの雑文の中に「写真箱」というのが出てくる。明治末期に硯友社ながれの文士が集まって、花袋の家で飲み会をした。R1179883 その時撮影した写真が「写真箱」の中から発見されて、それを題材にしって花袋は一文を書いている。集まった文士の記念写真が出来たら、それぞれの顔の後ろに物干し竿が貫通している。それでこの写真は「文士の目刺」の写真だというのである。

当時の日本には「写真箱」という便利なものがあった。我が家には仕事の写真を保管するキャビネットとか、オリジナルプリントを保管する箱はないことはないが、記念写真を保管する、つまり花袋の言うところの「正式な写真箱」というのはない。ゆえにこういう記念写真はいったん見失うと、それから5年後とか10年後にふたたび、海岸線に打ち上げられるまで気長に待つ必要がある。

ちょうど、石川さんと神田さんが遭難した熱気球がトカラ列島の悪石島に何年後かに漂着したのと似ている。

この時間をくぐってきた写真は89年10月と書かれ、撮影はJPSの重鎮の熊切さんである。

写真を撮影した経緯に関しては、これは浅田恵理子のご両親を案内してウイーン見物をしていたときに、偶然に取材中の熊切さんが声をかけてくれたのだ。

家人が言うには、せめてこのくらいまでやせないといけないとの指導なのであるが、20年前の自分はなにか頼りなく見える。

48400016 これはこの6月の初旬に福田和也さんが撮影してくれた、文京区の音羽の裏通りで崖の様子をまるで嘆きの壁を見るような感じで触っている様子である。

ウイーンの20年前の自分より、東京の今の自分の方が信用できるのは言うまでもない。

あの当時の自分はいったい何を考えていたのだろう。この撮影の翌月11月にはプラハのビロード革命があり自分はプラハにいた。その翌年に東西ドイツが統合された。自分の風貌のこの20年の変化から推定しても、あれらはすでに遠い前世紀の革命であったことになる。そこらへんの距離感をしっかり把握したいものだ。

2009年7月10日 (金)

トプコン印のドアストッパー

R1180096 我が家は15Fの角部屋からまったく同じ間取りの3F下の部屋に移転したわけであるが、ノイバウであるからドアなどは実に軽量なものだ。しかもこの「三方向がバルコニー」の部屋は隅田川に面しているので、実に風の通りがよい。
そうなると、吹き抜ける風がドアをバタンと閉じて、その音に驚愕することがしばしばである。

以前、37Fに居住していた時には、ドアストッパーの代用に、アメリカの35ミリ撮影機、シネフレックスのボデイを代用していた。これはアメリカの軍用映画撮影機で、アリフレックス35のコピーなのである。そのシネフレックスは岡山の「チョートク固執堂」の方に数年来あるので、この5年間は、コダックレフレックススペシャルの1200FTマガジンをもっぱら使っていた。これは16ミリフィルムを連続で32分ほど撮影可能な巨大なフィルムマガジンで、例のウオーホールがこのマガジンをつけた映画キャメラの後ろにたっていたスナップショットなどが、「ファクトリー」の写真集に出ていたりする。
今回、引っ越しを機に、それをやめて、新ドアストッパーが就任した。これはアメリカ海軍用のトプコンスーパーDと250コマのフィルムマガジン付きだ。コダックの1200ftの方は巨大すぎてけつまずくと大けがをしそうだ。老人は室内で転ぶものである。だから止めにした。
軍用トプコンはそれより小型であるが、風の抑止力はある。まずこれで大抵の風でも、ドアがバタンと閉まる心配はない。

2009年7月 9日 (木)

島尾伸三の「偏奇館」SX70プリント 1981

R1180094 移転を機に、古文書が続々と発掘。

ウイーンから帰国したのが1980年の11月。その翌年の1981年2月に豪徳寺の島尾邸を訪問した。

荷風の偏奇館めいた洋館の1fと2fの数室にぞれぞれが雑居しているモダンクラシックなアパートである。

天井の高い部屋で島尾伸三は「ゆうパック」の箱を天井まで積み上げてそこに各種の「中国物品」を整然と整理してあり、それを学芸員めいた、同時に香港の偽ロレックス売りめいた「押し出し」で各種見せてくれた。その島尾の[中国学]に刺激されて、1983年の春には島尾夫妻、それと家人とあたしで香港から広州に遊んだ。

それはともかく、その数年後に針鼠を飼うことになったその最初の日、ケージの中に敷く新聞紙がないので困った。うちは変人であるから、新聞はとっていなかったのである。あわてて駅前のニューススタンドに走って朝日新聞を買った。その新聞で島尾敏雄さんの訃報に接したのである。

その記事はとりのけておいて、残りの紙面はそのまま針鼠の敷わらになったのである。

島尾敏雄さんは伸三がやっていた青山かどこかの自動車工場の2fにあった個人ギャラリーで個展を開いた時にお目にかかった。島尾敏雄夫妻で息子の授業観覧にきたわけである。文豪はちゃんとしたスーツにソフト帽。奥様は和服であった。奥様は「どれが伸三の写真なの?」と聞いた。個展という観念よりも一点写真の傑作という認識があったから息子の作品がどれか聞いたのであろう。そして「え。これ全部?」とちょっとうれしそうな反応だった。それが写真展を雅な感じにした。

昔の島尾一家のSX70プリントは1980年のフォトキナでポラロイドの重役から、カメラと大量のピクチャーロールを持たされて、仏蘭西からポルトガルを徘徊した時のその「名残」なのである。

この当時のSX70のアーカイバル性は大したものだと思う。しかも1点主義。

この前、土曜のBMW野々宮との東京クルージングの後、久しぶりに山谷の大林に行った。数十枚のSX70を持参してその中から野々宮の4点をセレクトしてもらい、それを進呈したのである。

なんでも野々宮は一昨年開催した、ギャラリーバウハウスで展示してあったSX70のプリントを購入しようとバンクで日本円を用意してギャラリーに行ったら、そのプリントはすでに売れた後であった。そのお金でライカか何かを買ったらしい。

2009年7月 8日 (水)

英国製フィールドカメラ

R1180078 この前の土曜にBMW野々宮と東京カメラクルーズ。
前田司郎さんの脚本のNHKのドラマで中古カメラ市のショットを撮影したロケ地である、目黒のサンポーカメラ。ここでこの1月に購入したテレローライで撮影した冬のプラハが、今度でる、えい出版の「二眼レフワークショップ」に掲載されている。一昨年からの仕事で遅れ遅れになっていたが、これは9月にでる。
サンポーカメラに、2200円だかで、ホースマンブランドのエルグの雲台あり。(この名前の不思議さよ)野々宮とこれは絶対に買いだなと会話して10分後に行ったらもうなかった。
ファーストカムファーストサーブベイシスである。

ひさしぶりに今川橋のカメラのキ(タ)ムラに行く。店長のさがみさんのおすすめのブランド国籍不明のフィールドカメラを見る。そのマホガニーの仕上げは、うちにあるロンドン製のガンドルフィーとほぼ同じ、非常にハイクリオリテイな造りだ。塗りなどテラテラしている。レンズはテッサー300ミリとフジナー190ミリの2本。ハンザ製のシルントンシャッター付き。
折りたたみ式の木製三脚(英国スタイルの例のやつ)もついている。木製取り枠のダブルダークスライド(という風に英国ではいう)が3枚。不思議なのは、このカメラはつい数ヶ月前までどこかで実際に使用されていた形跡があるてんだ。
すなわち購入する。
かなり軽量なフィールドカメラなので、30代にデイアドルフでマンハッタンを撮影した例にならって、プラハを10X12で撮影するのも面白そうだ。
フィルムは四つ切りであるから、レントゲンフィルムがそのまま流用できそうだ。

2009年7月 7日 (火)

荷風がローライで撮影した偏奇館の室内

R1180080 移転してだんだん本を荷ほどきして、この5年間に失われたと思っていた本が再度発掘されるのは嬉しい。

断腸亭の戦前に撮影されたローライスタンダードの「作品」には、ストレートフォトグラフィの影が射している。その小さい画像に「空間の真実」が見え隠れしているのが面白いといつか福田和也さんと興に任せて話をした記憶がある。
その写真が掲載されている、岩波書店の「おもかげ」は昭和13年の刊行であるが、その中に荷風自身の撮影と思われる写真が多数収録されて全部で24葉。
その中で、この偏奇館の室内の写真は特に良い。

ウオーカー・エバンス撮影のインテリア写真となにかの共通項を感じるのみならず、そのシーンが荷風その人の生活空間であることが、さらに空気感を濃密にしている。
この小さいテーブルに籐の椅子というのは、まさにリヨン風である。そこにワイングラスとボトルが見える。こういうのを生きた生活の写真というのであろう。そのまま生活の段階で停止してしまうのではなく、生活が記録を超越して永遠の時間に通底しているようなのだ。そういう言い方が持って回った表現というのなら、ライフスタイルがそこにちゃんと出ていると言ってもよい。

当時のフィルムの感度は低かったし、夜間の室内だから、照明も十分ではない。おそらく感度10のフィルムで絞りはf3,5で一秒くらいであろう。これは三脚を使わずに、他のテーブルの上にローライを固定して撮影したのかもしれない。

断腸亭日乗の数巻の書物より、ただ1枚の写真の方が理解をより生むのも事実である。

2009年7月 6日 (月)

新潮に新連載エッセイ掲載開始!

R1180081 自分の生まれた前後の1947年頃の「新潮」は機会があると買っている。案外に保存状態の良いものもある。

右はあたしの生まれる3月前、1947年3月号で、稲垣足穗が「熊野」を掲載しているので入手。ちなみにこの号の執筆者は谷崎潤一郎、太宰治、坂口安吾というのだからスーパーだ。
左は62年後の2009年8月号で、辻邦生、北杜夫のパリ東京往復書簡全38通という特集が白眉だ。最近の通信事情の進化しすぎのつまらなさは今更言うまでもない。

辻潤やむさうあんの時代のパリ東京の手紙のやりとりに比較すれば、辻、北の時代は格段に速くなったであろうが、それでも伝書鳩を空中に放してやってその鳩が向こうに飛んで行き、その返事を持って戻ってくるまでの「間」がなにか大切なものなわけである。

新潮新連載では島尾敏雄の」終戦後日記(未発表)がある。これは島尾伸三が新たに発見した。日記文学は時間をシャープにカットし、それを鮮やかに保存する「採集ナイフと野冊」のようなものだ。ゆえに日記は面白いのである。

8月号であたしは「屋根裏プラハ」を連載開始。

紙数30枚余り。写真家で一枚も写真を使わないテキストだけというのがこの連載開始のキーになる。最初は写真を使用するつもりでいた。その件につき、矢野優編集長とプラハ東京で何度かのメールのやりとりがあって、結局ベストな選択になった。
目次には「新連載エッセイ」と赤で宣伝の入っているのも嬉しい。
ともかく「真剣勝負」でこの連載エッセイを展開する。R1180082

新潮8月号は7月7日世界同時発売。950円。最寄りの書店にゴー!

前世紀の極地探検隊の居室にあこがれる

R1180022 引っ越しから1週間が経過しようとしているが、室内は相変わらずの倉庫状態である。
日本の著名写真家の家に行ったら、立派な応接セットのブラックレザーのソファに座らされて落ち着かないことがあった。
仕事場のヒルズのゲストルームも「身過ぎ」の感じがあって、どうも革のソファというのは、そこに美女のおしりがのるのなら許せるが、そういう場所でお金のやりとりの打ち合わせをするのは、性に合わない。

狭い質素でしかも頑丈な室内でそこに積み上げられた、トランクや19世紀的な観測用具に取りかこまれた探検隊員の古い写真は、あれは南極か北極かは分からないが、」大きめのトランクを机にして何かものを書いているところであった。そういうのがダンデイの極地というのであろう。
そういう理想の探検の環境にはかなわないが、この極東に越年してきたわれわれは確かにそれぞれ、一人一人が「勇敢」な冒険家には違いない。
我が家がそのような探検のシエルターであると認識するのは、なかなか都市を歩行する者としてわくわくすることなのである。

さしずめ、まだ金属のハードケースとか、雑多な雑嚢などが高く積まれている間に、その探検家気分を味わうつもりだ。あるいはアメリカの都市部には、ぞの実態は知らないが、引っ越パーテイなるものがあって、まだ荷ときをする前に親しい友人を招いて缶ビールなんかやるのも、気が利いている。

R1180021 この季節なら新居(というのもおこがましいが、前とまったく同じの間取りの川向きの角部屋)でバルコニーから隅田川を見ての一献も興がある。

そう言えば、10年以上前には、「名月やここ月島の佃亭」などと、其角を真似た色紙を書いてそれを看板にして、気のおけない友人を招いたこともあった。坂崎さんなどとその勢いで近所に飲み直しに行ったりもした。

2009年7月 5日 (日)

AirMac Extrereme Base Staionで苦労

なにしろ、佃のネット環境は5年遅れていて、その指摘はしばらく前にブログの書き込みでもご指摘を受けた通りだ。それで移転に伴い、AirMac Extrereme Base Staionを手にいれ、昨日は苦労しつつなんとか設定した。

すべてAirMacは正常に作動していると、接続アシスタントは言っているのだが、インターネットに接続できない。
システムはOS X 10,4,11
現在の状況はAirmac  AirMac設定、ネットワーク設定、ISPは全部グリーン。
インターネット、サーバー は赤になっている。

なお、フレッツのマンションタイプで、ケーブルでは問題なく接続されている。
なにか大事な設定がかけているのかも知れないが、素人なので不明。

AirMacに詳しい方のご教示をお願いします。

★情報ありがとうございます。おかげさまで接続できました。これでMacAirも使えます。

七月四日に生まれて

R1179999 7月3日の午前10時頃に、PowerBookAirをオンラインで注文した。
その日の夕刻にライカインコが急逝して、翌、7月4日の午前中にPowerBookAirが到着した。
思えば、いままで18年ほどPowerBookを愛用してきたが、最初のモデルは新品で求めたけど、それ以降はずっと秋葉で中古で買っていた。
それでも歴代のPowerBookはG3にせよ、G4の最初のモデルにせよ、その中古価格は25万はした記憶がある。今度の最新モデルの速さにはかなり驚いた。しかも18万円。家で使っているのは初代のPowerBookG4であるのだから無理もない。
昨日の午前中にPowerBookAirを注文した時には、まさかその夕刻のライカインコ急逝事件は想像の他であった。
それで今朝PowerBookAirが到着した時に、セットアップをして、これは実にPowerBookのセットアップらしいのであるが、システムがそのコンピュータの名前を聞いてくるのである。
それで迷わず、Leica Inkoと命名した。

カメラのライカは1967年以来のおつきあいですでに42年間。
ライカインコの方は1985年以来、歴代4匹だからこれも通算で24年間。

人間の方だってすでに残り時間はあまりないので、これからはライカインコは永久欠番と決定した。まず、4代目はもう2-3年は生きると思っていたが、逆にライカインコがわれわれに2−3年の余分の時間をくれたことになる。これはありがたい。

思えば、1970年代の7年半の長い永いウイーンでの「新婚旅行」はあったにせよ、この四半世紀、家人と外国には行っていなかった。いつも家人が欧州から戻って、バトンタッチしてあたしが行く(この3月の家人のウイーン、あたしのプラハ行きなど)というパターンが常識化していた。

欧州の友人に「なぜフラウをつれてこないのか」と詰問されて「家にペットがいるので、、、」と、この20年間答えていたが、相手はどうもライオンとか象とか、にしき蛇とか、ハナモヘラトカゲとか、そういう「手の抜けないペット」がいると思い込んでいたようである。第一、日本ではかなり最初の飼育例になる、ハリネズミ(この針ねについて坂崎幸之助さんと談論したのも懐かしい)だって、かのプラハなら普通に夜の郊外の道を「家族ずれ」で歩行している。そういう背景があるので、まさか黄色いバジエリガーの為に家を無人にできないとはちょっと言えなかった。

R1180018 ところでこの24年間という決して短いとは言えない年月で、4匹のインコにつぎ込んだその総エネルギーを、そのまま写真のパワーなり、エッセイなり、はたまた家人の声楽のパワーにそれを転化すれば、今よりよほど良い仕事と結果が生まれたのではと思うかも知れないが、自分はそこはちょっと違う考えを持っている。それはそれで良いと思う。

ただ、この場合、過去から昨日までの24年間の後に来る「ロストライカインコの波」がちょっと怖いのでその対策をそれなりにこうじることにした。

それで新PowerBookは「ライカインコメモリアルPowerBook」と命名したのだ。よくニューヨークの古い建物などに「なんとかかんとかメモリアルホール」というのがよくある。それを冗談で真似てみた。
昨日、勝ちどきのクリニックで計った最後の日のライカインコの体重は45グラム。一方、7月4日のPowerBookAirの体重は1300グラム。そのままでは比較にはならないけど「同族」の中ではどっちもその軽さは「Airクラス」であると思う。

2009年7月 4日 (土)

カメの背中

R1179984 移転して必要なモノは、例の市場篭とかリコーGRのブラックのトートバッグと、東京外人記者クラブのトートバッグ(印度製の青いの)に分散していれてあるので、それは迷うことはない。
一方で、仕事に必要なカメラの方は、段ボールの上に書いてあるのでそれも問題なし。
問題なのは「それ以外の記録されていないカメラ」の方である。これはパンドラの箱を開けない限り分からない。しかしこの5年の経験では、引っ越し後に開けなかった箱が沢山ある。
たとえば、デイアドルフノ8x10は何回も使っているので、それは問題なしとして、アルカスイスの8x10の方はこの五年間、見かけなかった。
くろねこさんに移動してもらって、それが一番下の方の箱に入っていたのを発見。最近の「お若い方」のステータスはデイアドルフのようだが、それより格上のジナー8x10(これは岡山のちょうとく固執堂に置いてある)があり、さらにそれよりずっとお洒落なアスカスイスの8x10もある。このアスカスイスが新たに出土したのでうれしい。

16ミリと35ミリの映画撮影機の方は、箱に入れずにそのまま運搬したのでそれはそれですぐに分かる。
この画像は仏蘭西のカメフレックスである。巨匠ウイリアム・クラインはこの撮影機を持っている姿が彼の本に出ていて、そのかっこよさに惚れ直した。

これが亀で、独逸のアリフレックスの方は蟻なのであるが、カメの魅力はダイレクトに交換できるマガジンが見所である。そのフィルムのゲートにしびれるのである。このカメは16ミリと35ミリの兼用モデルである。今は16ミリのゲートが差し込んであるが、それを撤去するとそのまま35ミリの映画が撮影できるという天才キャメラだ。
この月曜にテレ朝であったカメラ人類さんが「撮影機人間」なので、自分は同好の同志を得た気分であった。
ビデオの場合、アパチュアゲートにはCCDが邪魔しているわけだが、フィルムカメラ(こういうのはぎんしおカメラと呼称することに最近、偽ライカ共和国カメラ国語委員会で決定した)の場合は、それは「世界を区切る窓」であることが分かる。

2009年7月 3日 (金)

懐かしの七月 四世ライカインコ急逝す

R1179900 偽ライカ同盟共和国、第四代「国鳥」の四世ライカインコは2009年7月3日午後5時10分急逝。行年4歳。

第四代ライカインコ(俗称オイチ)は西暦2005年7月に池袋西武百貨店ペット売り場に生まれた。価格2900円。
もっぱら生涯にわたり玉子の生産をアートライフワークとして行い、生涯に200個近くの「作品」を制作した。ひいおばあさんは白色レグフォンではないかと噂されるほどの多産系だった。その成果は本ブログで紹介されたこともある。

R1179992 ライカインコ4世はこの2週間ほど体調を崩していた。付属の医師団のソナー検査によれば、産道のに腫瘍があることが確認されていた。
7月3日のお昼まで、「あさりごはん」など食べて元気であったが、午後2時半に容体急変。実におだやかな突然の死であった。

上の画像は7月3日午前9時50分撮影。(代表取材)

偽ライカ同盟共和国は4代目ライカインコの長逝を哀悼し、3日間の服喪に入ります。
偽ライカ同盟共和国人民は偽ライカ共和国の国旗を半旗にして、哀悼の意を表されることを希望します。

2009年7月3日 偽ライカ同盟共和国葬儀典礼委員長代理 田中長徳

七月の驟雨

宿替えして、家人の方はモノに固執しない性格なので、モノは少ない。家人の部屋はすでに新生活が開始しているが、こっちは広い部屋の真ん中に段ボールの砦が出来ていて、その中に籠城している格好だ。なにか人民戦線のヒロイックな感覚がそこに感じられるのは先月のアンダルシアが利いているわけだ。

日本カメラの前田編集長から8月号の締め切りの到来を聞かされる。日本カメラの「一眼レフの王国」は毎回、はやめ、早めに入稿しているのだけど、今回のように向こうから督促を受けるのは珍しい。
ところが、数あるカメラは全部、段ボールの山の中だしせっかく引っ越しのプロが築いてくれた箱の山を壊すのはちょっともったいない。
昔、アンダルシアのヘレスでシエリーの酒蔵を取材して、あれは何というのか、グラスを山形に沢山積んだのに上からお酒を注ぎ、それぞれのグラスを満たすという伝統古典芸能があったが、今回の段ボールの山系もそれに遣い存在である。

それで一眼レフの王国用のカメラを探したら、ここに一台だけ発見した。それがローライ6008なのだが、このカメラは過去5年間、常にこの机上にあった。その細かい内容は日本カメラの8月号に書いたのでここでは紹介はしない。
R1179980 バッテリーをチャージして、さてフィルムをと思ったのだが、フィルムは他の100個の段ボールの中である。あわてて銀座にフィルムの1本買いをしに行こうと思って、ロビーまで降りてきたら七月の驟雨である。それで小一時間、ロビーで仕事してから、ビックカメラにカラーフィルムを1本だけ買いに行く。530円なり。

あわてて撮影をするには、6008はモータードライブだし、オートだし便利だ。
撮影済みフィルムを京橋の堀内に持参したら、お昼前なのに仕上がりは午後6地45分という。以前なら90分待ちで、その間、銀座のカメラ店を散策してまた余計な出費をしたものだが、そういう人生の危機は今は遠のいたことになる。
佃に戻り、もっぱら段ボールの廃棄作業に従事。

モスクワから、アエロフロートのエリートプラスの会員カード届く。そのダークなゴールドカラーのカードは今時の日本では存在しないような色合いである。まさにクレムリンの秘宝の黄金色。

2009年7月 2日 (木)

6月30日の宿替え+ヘリコプター

R1179969 30日、火曜。
冷涼多湿だが、引越しの好天日。同じタワー内のまったく同じ部屋の15fから12fへの移転。今回の作戦はこれを「2009,6,30生活防衛引越し」と命名した。なにか気象庁の大地震の命名みたいで大げさでばかばかしいのがよい。
つまり、今までの賃料の10月分が今度の1年分の賃料になる。

野々宮MBWの会社も最近、赤坂から麻布十番に引っ越したそうで、そのダンボールの開梱作業で多忙のようだが、あっと言う間に朝9時の作業開始で、息つく暇もなく昼休みになり、午後5時の作業完了になった。

部屋から荷物がなくなり、新しい部屋にどんどん荷物が運びこまれてあっという間に、どっかのマンションの引越し直後のような室内の光景の中にいすに腰掛けている自分を発見した。
くろねこ大和の引っ越しのクリューはプロだから仕事は速い。そのスタッフの中の「おねえさん」は5年前、うちの引越しをやってくれた人で、前の引越しを記憶していたので「旧交を温め」た。プロの引っ越しやさんは毎日が引っ越しなのだから、これを生活にしてその記憶を綿密に組み立てたら、新しい「引越し文学」が生まれそうだ。

いかにハイテクの時代であっても、最後には「人力」が勝利を収めるという「一事」がなにか真理であると思わせるのが引っ越しのパワーである。

午後6時にあわててシャワー浴びて、7時すぎには品川区東五反田の「ヘリコプター」に行く。前田司郎さんの「三島由紀夫賞」受賞記念の大宴会。

住居表示のメモだけ頼りに、五反田駅から夜の街を歩いて、知らない場所に一発で到着したのは、われながら びっくりした。犬の土地勘だ。

会場満員。en-taxiの田中陽子編集長、福田和也さんら。福田さんはパナソニックのG1にズミルックス35ミリf1,4で会場を連射。そこに前田司郎さんが登場して、さて三島賞の賞金でどういうカメラを買おうかという、こういうのは楽しい話題だ。

前田さんの劇場はもと鉄工場の広大な建物の一室である。父上が設計した「トラス」の構造を見る。実はあたしは一種「トラスフェチ」であって、その種の鉄骨構造を見学するのが好きだ。東京なら、富岡八幡のそばの日本最初のトラス橋がいい。たしか八幡橋といったか。

大宴会は大盛会であった。どうもあたしが一番年長のようである。
前田さんが最近脚本を書いた、NHKドラマで、それを自分は見ていないが、なんでも老人が東京に中古カメラ市に来るという筋書きというのは聞いていたので、作家自身からその細かい内容を聞いた。
それによると、そのほしいカメラは「コンタックス 2a」である。天皇陛下が皇太子時代に訪欧したとき、たしかカメラはそのコンタックスであったことを思い出した。
前田さんに聞きたかったのは、ドラマの撮影で「中古カメラ市」のセットをどのように組んだかという話であった。なんでも目黒のサンポーカメラでロケをしたそうである。

最近文芸誌「新潮」などを見ていると、フィルムカメラを使っての撮影行とか、ライカの出てくる小説がありそれが面白い。ポートレートを撮影するくだりで、ライカが登場してくる。そのライカのシャッター音が普通の擬態語よりかなりデシベルが高いので、これは作家の人がライカを知らないのかと思って、読み進めて行くと、そのライカはライカフレックスSLであることが分かったりする。ライカのシャッター音のトリック文学だ。

R1179965 福田さんが前田さんに対して「この際だから、三島賞の賞金で4x5カメラを買ってはどうか」と提案している。賞金は振込みだというが、それがどうも面白くない。こういうのは「とっぱらい」でその現金をもって中古カメラ店を徘徊するのが「正しいカメラクルージング」であろう。

引越し疲れで、ダンボールを枕にして眠る。

2009年7月 1日 (水)

5年ぶり

この宿替えの数日間はまさに夢のようだ。

本当は、28日にアローカメラでシドニーがあって、29日にはカイロに行く予定であった。
YAHOOのリマインダーで、NARITA-CAIROと、かなり前に入れた予定が、更新されないままに出てきて、びっくりした。
思えば、この12日間は毎日、段ボールを風景として暮らしていたのである。カイロは段ボール色の大地であろうから、その意味では共通点はある。

引っ越しの前後には、好きな本は全部、段ボールにはいっているから、それは自由にならない。そのかわり、5年ぶりの再会の本もある。つまり前の引っ越しから一度も開封しなかった、箱があるわけでその中に入っていた、紅い表紙の本は1Q84年のピョンヤン発行の画集である。右の方は、
1Q88年発行のレクタフレックスの本である。この本が出たので、世界のレクタフレックスの価格は急騰したのだった。

この本が発見できないので、同じ本を注文したら、それはイタリア語のバージョンであったので、不便をした。こっちは英語版なので助かる。R1179954

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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