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チョートクカメラ塾ブログ

Chotokuぶらり パチ塾

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2009年6月30日 (火)

終日、移転中、面会謝絶

本日、終日、移転中、面会謝絶。

-----------と、昨日書いたのであるが、それではあまりに面白くないので、追加。

昨日は、知人に「届けもの」があるので、午後1時にテレ朝にゆく。
アトリウムというのが、どこだか分からないので、入り口のセキュリテイの人にきいて、はじめてわかった。
この界隈には7年いるのに、いつも地下鉄からヒルズの49fまでの直行だから、始末がわるい。

10日ぶりに49fのゲストルームで知人とカメラと映画撮影機と時計にかんして、閑談というよりかなり深い話しになる。映画撮影機は同好の同志がいないので意を強くした。

午後3時に佃にもどって段ボールと格闘継続。
午後6時に終了して佃小橋のそばの「麗江」。

火曜は目覚めれば、冷涼にて恰好の移転日和。

2009年6月29日 (月)

オムライスの「最多価格帯」

R1179916

引っ越し作業の最中に段ボールを背景にして、手許にある新着の写真集をめくる。これは大した愉しみだ。
片岡義男さんと最近東京の町歩きをしていないことに気が付いたのは、片岡さんの新刊の写真集「名残りの東京」をめくっていた時だ。(発行東京きらら社 発売河出書房新社1980YEN)

五年ほど前には、片岡さんと東京の周辺部をよく徘徊したものである。東京の徘徊には最近では福田和也部長代理率いる、「あの写真部」もあるが、あの写真部の場合には「撮影の行楽と飲酒の快楽」とが半半になっていて、そこには向上心のかけらも存在しない。一方、片岡さんの撮影行は秘境のキリスト教の信徒めいていて、撮影の鉛筆の先をさらに研ぐという一種、苦行への快楽の感じがある。

まあ、主義主張信仰の自由であるから、いずれがどうのこうのという話しでもない。

この写真集を見ていてよく理解できたのは、撮影中の片岡さんはこんなものを撮影していたのか、という事実である。写真家の仕事はこのように写真集にしてそれを第三者に向って、ぽーんと放ってやるのが正しい理解のプロセスであるから、たとえば有名写真家(この場合には世界的にという意味で)と、一緒に撮影旅行をしたとか、彼の別荘に泊めてもらってそこで「薪割り」をしたとかいうような「著名写真家とのゴシップの話し」ではない。
ただ、片岡さんとの場合にはたしかに、同じ場所をカメラを持って徘徊したのだけど、正直いって自分は町を駆け抜ける方だし、片岡さんは一ケ所にずっと停滞するタイプであるから、同行の相手としては不向きなのである。
だから、片岡さんとは同行撮影よりも、こうして最終結果を拝見するのがはるかにためになる。

それで気が付いたのはこの本にはやたら見開きの「オムライスの肖像」(正確にはそのサンプル)がおおい点だ。オムライスというものは食べたことがなかったが、この前、「あの写真部」で浅草の神谷バーにいって、福田部長代理からごちそうになった。
しかしオムライスというのは、こういう比喩は、また誤解を招くのを承知でいえば、それはなにかフェルメールの絵みたいな存在感で、それに憧れているのは良いけど、欧州の多くの美術館を行脚して、実際にその絵の前に立つと、ちょっと想像の他の印象で「こんなはずではなかった!」と思うものである。
この本は20世紀末から21世紀初頭の極東の日本、東京の「オムライスの小売り価格帯」の資料として後世に残るのは必定だ。
それがまた絵の観賞のフェイントなわけだが、思うに片岡さんの「オムライス行脚」というのも、欧州の名画行脚のように思えてきた。それは、20余年前に、自分はイタリアから北欧までフェルメールを求めて旅した(と書くとかっこいいが、取材である)時に、この片岡さんの本で東京のクラシックな町が延々と継続してその間、間に、フェルメールが存在したことに、なにかオムライスの間に「名残りの東京」が挟まっているのと似た空間感覚を感じたのだ。


2009年6月28日 (日)

GRDストラップレスアナーキスト

R1179836 コンパクトデジカメにはストラップを付けないでそのままポケットにいれることを、内輪の戯れ言でこのようにGRDストラップレスアナーキストと言うのであるが、一昨年の晩秋、福田和也さんに初めてお目にかかったとき、すでにその「思想」を実行されていたので頭が下がった。

コンパクトデジカメは何も付けない方が実は操作が楽なのであるが、それでは実用の意味だけで面白くもないのでちょっと政治的なニュアンスを加えただけのことだ。
TVで拝見する将軍さまの場合、なにかの決定事項を審議するとき、GRDサイズの黒い物体を手にしてそれで賛成の意志を示しておられるようで、あれは党員証であろうが、その意味からすればGRDは党員証の一種であろうか。

この前の銀座で開催された「GR女子部」の大茶会には、会長という重責をになって参加させていただいたわけだが、やはりドレスコードというものがあるから(あたしの着ているものではなく、GRDの)一考して、アメックスPTのバースデーでもらったスワロスフキーの携帯のストラップである。これをGRDにつけて行ったがGRDストラップレスアナーキスト同盟の政治信条上のこともあり、くだんのストラップは当日参加の女子GRD部の構成員の方の中から「抽選」で進呈することになった。

さて、移転前のカメラ小物の「砂金探し」みたいなものだが、カメラトランクの中から、非常に小さい部品が見つかった。

我が家のハウスホールドの方針として、家人などは、床に落下している「カメラ部品」は修得したモノはライカインコのダイニングテーブルの上に載せておいてくれるので、安心である。

何時であったか、どうしてもカメラ部品のようだが、思い当たらないゴム製品があって、よく考えたらそれは何かの電気用品の部品であった。

この小さい金属の部品はすぐに判明したのである。ミノッックスは1939年のラトビア製のオリジナルではネックストラップは一切ついていない。それが戦後の民生品になってそれでは使いにくいであろうとネックストラップアイレットがついた。これは取り外し式なのがなかなかのアイデアなのである。ミノックスAは何時も携帯しているが、携帯していることを忘却するので肝心な時に写真を撮ったためしがない。

でも本職のスパイさんが、仕事カメラであるミノックスに金属のチエーンを付けていては、即、ばれてしまいそうだ。やはりサブミニチュアカメラにはストラップは要らないと思う。

いつだったが、数台のミノックスの一台にフィルムが入っていたので、それを同時プリントして驚愕した。最初の一枚は見知らぬ外国の遺跡が写っている。心霊写真ではないのだから、冷静に考えみたら、この前のアテネ五輪の前の年にアテネに行った時、ミノックスで撮影したものらしい。

2009年6月27日 (土)

浜出屋メモ

R1179884 整理をしていると、なかなか笑えるメモが出てくる。
家人との連絡はもっぱらメールであるが、時にはこのような手書きの象形文字のようなメモの場合もある。
さしずめ、先住民の「のろし」であろうか。

上の絵文字は、ライカインコと針鼠が板橋区大原町の浜出屋に鳥は焼き鳥に惹かれて、針ねはお酒に惹かれて行くわけだが、この2つの動物は自分のシンボルだからそのまま、あたしの行き先を示している。つまり家人がレッスンかなにかで遅くなって、あたしが居ないわけでその行き先を明示した象形文字というわけだ。

家人の言によればインコと針鼠の目がよいそうである。まさに自分が飲み屋に行く時の眼はこんな感じであろう。

残念なのは日時が不明なことだ。

6時15分という時間だけ読み取れる。針鼠にお酒を飲ましたことはないが、三代目のライカインコは卓上を走り回る癖があり、カレーライスの上を「火渡りの行者」めいて駆け抜けたりした。その勢いでグラスのビールに口をつけて、酔っぱらってからんできた。

インコにも酒癖の良いのとそうでないのとがいることが、初めて判明した。

2009年6月26日 (金)

さかなつり

久しぶりにYAHOOで買い物をして、送金した翌日にこういうメールがきた。
実にタイミングがわるい。

以下、引用。

To: aXXX@yahoo.co.jp
From: "オークション 出品者"<tkxxxxv@ru.mods.jp>   
Date: Sun, 21 Jun 2009 15:29:18 +0900
Subject: ●取引の件● 超希少キャノン�−T(6−T)ブラックペイント オリジナル

●取引の件● 超希少キャノン�−T(6−T)ブラックペイント オリジナル

お世話になっております。
すみませんが、急ぎの件なのでメールで失礼します。
代金の支払方法についてご連絡させて頂きたいのですが、
メールが届いておりましたら、こちらのアドレスへ返信して頂けますでしょうか

お手数ですがその際はこちらにも配送先をご連絡下さい。
返信は明日の午前中にしますので【必ずメール確認】をお願い致します。
お仕事などで確認することが難しいようでしたら携帯のアドレスをお知らせ頂け
れば、
そちらへ返信させて頂きますので宜しくお願い致します。

※当方が連絡するまでお支払いは待って下さい。

------------以上、引用。

上の件はさっそく、yahooに報告をしたが、その前にかんたん決済で本物の売り手には送金した後であった。さかなつりとしては初心者である。

あたしは、長年のebayでの経験があるがこの手の「さかなつり」はある意味、実に鑑賞の価値がある。
この手のメールは「自動配信」なのであろうが、何時であったかebay USAで5000ドルほどのカメラ(世界で2千台ほどの)のセカンドハイビッダーになった。そしたら「同じものを10個持っているが、一台買わないか」というさそいのメールがきた。
これは大笑い。

ebayはいまはpaypalがあるので安全であるが、以前はbidpayなどの送金システムでは、western unionの為替をなんと普通郵便で送るのだ。これはアメリカならまあいいが、同じことを世界共通にやるのだから始末が悪い。カメラの代金で700ドルほどの送金をしたのはワルシャワであったが、その為替が届かないというので、もう一度同じ為替をbidpayで送ったこともある。実にお笑いの話だ。これなどは個人レベルのODAと思えば腹もたたない。

まず、おさかなつりには、お互い注意しましょう。

2009年6月25日 (木)

「デジカメ風雲帳」連載88回リニューアル

インプレスのデジタルカメラマガジンの連載「デジカメ風雲帳」はこの8月号で88回を迎える。
これは巻末の連載である。
それで編集部の意向で、その月の編集とゆるくシンクロしてゆくことになった。むろん、編集とシンクロせずに、独自路線で行く号もあるが、ここではちょっとリニューアルをはかったのである。おそらくデザインも変わると思うが、楽しみである。

自分にとってありがたいのは、本誌とシンクロすると、今まで「手許の機材」でやっていた、その機材の内容がもっと豊かになって、サンプル機も貸し出してもらえる点にある。ただし新製品レビューではないから、そこのあたりを深く考えて行くことができる。アサヒカメラの「カンレキからの写真楽宣言」と日本カメラの「一眼レフの王国」と、本連載が自分のカメラを思索する「連載3本柱」である。

その第一陣として、デジタルカメラマガジン8月号の「デジカメ風雲帳」では、オリンパスのペンデジをやる。半世紀前のオリンパスのペンのデジタル化というので周囲のカメラすずめも鳴き交わしている。自分もそのうつの一匹である。
今朝、そのサンプルが届く。なかなかの発見ありだが、そのことは当然ながらここには書かない。8月号のデジタルカメラマガジンの連載にて。

デジタルカメラマガジンは思えば、創刊号の巻頭に「デジカメはフイルムに勝てない」などと宣言したのが10年以上前だ。そのあたしの予想ははるかに外れて、今のデジカメの全盛であるが同時に、フイルムカメラの魅力が再認識されている。
しかもこの「ペンデジ」みたいに銀塩みたいなデジカメが物欲を刺激するようになるとは、まさに想像外であった。
画像はそのペンデジと、40数年使っている、オリンパスワイド。ペンデジに付いている、ファインダーは1936年製のアストロベルリン。


R1179891

2009年6月24日 (水)

アリフレックスのボデイキャップ

R1179835 ガラクタをより分けていて、そこそこの発見あり。
これは西ドイツ製のプロ用16ミリカメラ、アリフレックスの本体のキャップである。ただし1960年代のそれであって、材質は立派な金属だ、
別に金属キャップを尊敬しているのではない。金属製のキャップは最近では全部、プラスチック製のキャップに代替わりしてしまった。ライカの純正キャップですらプラ製なのは語るに落ちたわけである。補足すればライツ時代のMマウントの本体のキャップはプラではあるが、バヨネットの部分はちゃんとした金属である。これは良い感じだった。それに対してのそれ以降のライカのキャップは「ライカ以外の百凡のカメラと同じ」になってしまった。4月にメゾンライカで「ライカM8が売れる瞬間」を目撃したが、M8のキャップもプラである。

この金属製のアリフレックス用キャップを何時、手にいれたのかちゃんと記憶しているのは愉快だ。1980年代の後半にリスボンに行った時、ロッシオ駅の裏手の急な坂道のその周囲には安食堂が並んで、路上でいわしを焼く煙がもうもうとしている坂の上のちょうど別れ小路になっている一角の中古カメラ店で買った。このお店はその立地があまりにドラマチックなので、時々夢に出てくるほどである。キャップは西ドイツの放送局の放出であるアリフレックスのフルセットに付属していたのであった。1947年から(これは自分の生年である)そこで中古カメラ店をやっている、老主人がもう店を閉めるので、割引してもらって手にいれた。価格はエスクドスであるからすでに失念している。
そのアウトフィットをすぐ側のホテルに持ち帰って、なにしろ10年もウインドウに店ざらしになっていたカメラであるから、バスタオルを濡らして掃除をしたらタオルは真っ黒になった。これはパソア好みのリスボンの埃なのである。
昔のアリフレックスはターレットカメラであるから、レンズの取り付けマウントは3つである。
ひとつはズームレンズをつけて、あとの2つにレンズキャップというのが、当時の普通のカメラの使い方であった。
その金属のレンズキャップを手にとって、1980年代の古き良きリスボンに思いを馳せるような気分(実際にそんなことをしていたらタイムアウトになってしまう)に浸るのである。

2009年6月23日 (火)

鈴木活字の活字

R1179834 移転を前に、5年間、一度も開けなかった「聖域」を開封して面白がっている。もっともそっちの方にかかりきりになると、作業が進行しないのでこれはほどほどにしておく。
思うに、日常に必要な物品はスーツケースにはいるだけで十分なのは、むさうあんが大正時代の巴里くらしで1個のトランクを持ち歩いて巴里からマルセーユ、ベルリンから日本まで旅をしていたことからも明らかで、現代生活に必要な資材とか機材というのは実に少ない。それはこの前のアンダルシアでも体験済みであって、生活には実になにも要らないのである。
自分は書籍はどんどん廃棄する方だし、カメラも燃えないゴミに出してしまう。
まさに生活改善が必要だ。

古い地質から、黄色い電話帳の紙に包まれた、なにか金属の物体のあることに気が付いた。開いてみたら、このような活字である。4年前に銀座の中村活字で1000枚の名刺を作った時、おまけでもらったのだ。1000枚の名刺は配布してもうほとんど手元にない。活版印刷は昔は普通であったのが最近では珍しいというので、諸方面からリクエストがある。これはあたしの名刺が欲しいのではなく、活版刷りの名刺が欲しいのであるから、正しい欲望である。

小学校の行き帰りに、その場所は小石川界隈であるから、印刷工場かなにかの路地裏に鉛の活字が落ちていて、それを大事にしていたこともある。
ユリイカの伊達得男は、少年時代に路上で活字を拾った。その活字の意味が分からないので、父にきいたら、その文字は「すべてを否定する意味だ」と教わった。
伊達はその後、すばらしい詩集を出す出版社を起こしたが、結局は自分自身にその活字「否」という文字を押しまくってそうそうに人生から退場してしまった、、、とは、稲垣足穗のコメントである。

2009年6月22日 (月)

御礼 記事数800!

KCチョートクカメラ日記は、2007年10月1日のスタート以来、今日でその記事数が800になりました。これも皆様のご愛顧のおかげです。

八百とは嘘八百とか、大江戸八百八町てなわけで、、、、
今後もKCチョートクカメラ日記ご愛読をすみからすみまで、ずずいっと、、、、、
ご愛顧オン願い奉ります。(チョン!と拍子木)

★重ねて御礼!
おかげさまで6月23日の一日のアクセス数は5347に達しました。

東京大周遊。立石でグラサンを発見す。

R1179787 移転を前にして、アポなどは一切入れない。
精神が「ゆれるから」ではなく、時間がないのでヒルズにも行かずに、佃の生息地でごみのよりわけをしている。落語でかみくずや、が仕分けをするのがあって、あれは面白いがまさにその通りである。
時計が余剰なので、それはYAHOOでオークションで売った。ただし腕時計はかさがないから、あまり引っ越しの荷物減らしには寄与しないが、引っ越し代の助けにはなる。

忙中閑ありというので、久々に四つ木を超えて、京成立石に遠征した。BMW野々宮は十数年前に日本で最初の例になる最新の腰痛の手術で全快したのだが、その発病はあたしは順天堂大学に入院中に見舞いにきてくれて「空気感染」で発病した。腰痛は空気感染、カメラ病とか腕時計病の場合には、インターネット感染で発病するから危険である。
この前、六本木のレストランで匿名希望さんと会食した時、この人物は腰痛になったということであったが、潜伏期間を経てこっちも数年ぶりに軽い腰痛が出た。マスクをちゃんとしなかったせいだ。内田百間の日記では、大正9年当時の員流布円座で、友人知人がばたばた死んでいる。それの対抗策として「呼吸器」を付けるとあった。これはマスクのことなのだ。
こういう今では普通の言葉が以前はその言葉がなかった当時に、表現者はその言葉を探って苦労する。吉田健一が昭和30年代の食い物の話しで、わんたんの具をもっと大きくして中に肉が入っていて、その皮の腹のあたりが透けていていかにも食欲をそそるもの」と書いているのは、これは餃子のことなのだ。

さて、立石に来たのだから、駅前の栄寿司にゆかねばならない。たしか11時半から開店を思って、立石銀座の脇の小公園に行った。ここも数年ぶりだ。向かいに自転車にのったおっさんがいて、何か飲んでるのが見える。これは焼酎のワンカップである。それを飲み干して、おっさんはその空きカップをまた自転車のかごにいれて「素面」な顔して自転車で出発。その後にはカラスが来て、ベンチで毛つくろい。
自分の居たベンチは横倒し禁止の柵の半分は、弁当の食い散らかしである。そのベンチの背もたれにグラサンが挟んである。思い立って自分に似合うかどうか、かけてみたのがグラサン前、グラサン後のこの2枚の画像である。かなり怪しい。これだけ「変装」すれば銀座のカメラ屋さんでもまず面が割れるまい。
Tシャツはダラスの坂崎ファンさんからのいただきもの。東洋人がパナマをかぶると、どうしても南米移民の草分けのように見えるのは不思議である。それはパナマ帽が複数になるとそうなるのであって、ワイハー帰りのBMW野々宮が当地でパナマを買おうというのを止めさせたのである。欧米人のパナマは「植民地ののらくらモノ」に見える。ウオーカー・エバンスの撮影したキューバの有名な写真、パナマをかぶった男性を見れば納得する。東洋人のパナマの方はそこに「労働」の影が射している。R1179788

界隈を何度も周回して時間をかせぎ、栄寿司に行ったら、行列ができている。初めてのれんをかけるところをじっくり見た。ようするにのれんの布の先にゴム輪を付けておいて、それでのれんがよれたり、まとまったりするのを防止するのである。
ビール小瓶1本と寿司で2030円は安い。
親方に「まいど!」と挨拶される。ここの親方はなかなかのハッセル遣いであって、お店の奥にミニギャラリーあり。

立石を漫歩して都営浅草線で宝町まで戻り、徒歩で帰宅する。午睡。

2009年6月21日 (日)

前世紀の旅券

部屋の大整理中である。今の場所がまるまる5年が経過して6年目にはいったので、宿替えをするのだ。ただし同じタワーの別の階であって、三方にベランダのある部屋で間取りなどまったく同じである。内田百間(戦前の著作はこの名前になっているのでそれに従う)が、数年に一度宿替えをしないと、日常の雑多な鬱屈した物体がたまって、それが日常の懊悩になってくると書いている。それで数年ごとに今いる家からそのまま別の家に引越して、家財などもそのままにして、それは泥棒がとるのにまかせる。新居で必要なものはだんだんに買い足して行けばよいが、今の時代にはそれは許されない、という意味のことを書いている。

そりゃそうだ。それでは法治国家ではない。

自分の場合、カメラというのは、あたしが寝ている間に自己増殖をするから、まる5年も経過するとかなり増えてくる。新型インフルのようなものだ。

この前、5年前にここにきたときに運び込んだ荷物で引越し業者さんのダンボールを一度も開封していないのがかなりある。それをものいれに何か入れて、その前にものを置いたままに5年経過してしまった未知の秘境もある。

こうなると、アンダルシアより、その自分の寝室のクローゼットに旅をするほうがよほど遥かなたびということになる。その中から忘れていた1947年製のフォトン(BH製の35ミリモータードライブカメラ)が2台もセットケース入りで発見されたので、喜んでいる。

自分の「居所の記憶」はそれから見ると、プラハのアトリエが一番長い。すでに20年だ。つぎが六本木ヒルズの仕事場であしかけ7年。佃の寓居はあしかけ6年である。しかしまったく同じの間取りに移転するのだからこれは階数が異なるだけで、「同じ部屋」であるとも言える。

捨てるごみと持って行くごみとを区分していたら、これも忘れたハリバートンのケースの底から変な縦横比率のパスポートが出てきた。それで思い出したのは、もともと旅券はこのサイズであったのをアメリカに「追従」して今のサイズになったことである。これも10年以上前のことだ。

自分の所持する一番古い、青い旅券は一般向けで、当時の外交官の旅券は今の「民草旅券」のような赤い色だった。1973年5月に発行の旅券の中を見ると、東ドイツと北ベトナムと北朝鮮には行けないと特記してある。その旅券で東ドイツがまだあった当時、かの国にいったのであるから、その部分はウイーンの大使館で、線をひいてもらった記憶がある。

しかし、この所持人の写真は若い。25才当時の青二才である。この当時、ウイーンで山下洋輔トリオに出会った。その話は山下さんの「ピアノ弾き跳んだ」(タイトルが間違っているかも知れない)の、タモリのデビューの1章前にちょっとふれてある。山下さんがあたしに初めて会ったときに、どんな感じがしたのか、そのことが書いてある。やはり目つきが悪いので、トリオの全員に「戦慄が走った」とあった。

ようするに、この目つきのわるい東洋人は、今の自分ではなく、ほかの時代の自分であるからこれは自分ではないと認識することもできる。体を構成する細胞だって、この当時からみれば、すでに何十回も変わっているであろうから、これを20代当時のあたしであると認定するのは困難だ。時間が経過するということは、昔の自分の証明写真を「古い風景」を見るように鑑賞できることに意味がある。

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2009年6月20日 (土)

オムロン万歩計のバッテリー交換

万歩計というのは、若い頃はじじいの専売特許であると思っていたのが、30代の半ばにこれを愛用するようになったのは、ライカを肩にしてもっぱら歩行することが自分のライフスタイルになっているので、撮影時のパワーの配分とか、今日の大体のライカ向けエネルギーの使用状態を振り返ったりとか、何歩歩行したら酒にありつけるなどの重要事項を計測するには、便利な機械である。
思うに、昔はあれは機械式であって、歩行につれて内部にある機械式のカムがかちかちと歩数を数えていたのである。

最近のモデルはそういうことはなく、静粛で便利であるが、唯一の問題点はこれが電池で駆動されていることだ。
大体、10ヶ月ほどでバッテリーがなくなる。その交換をするのに、いちいち量販店に行ってまず店員さんにプラスドライバーを借りて、ふたをはずして中の電池の型番を確かめてそれを買うわけであるが、似たような電池でしかも番号が一番違いとういうのがあったりして実に面倒だ。
この前も、なにか表示がおかしくなったと思ったら、電池がアウトになっていた。最近ではちょっと利口になったので、万歩計の背部の電池室はねじで固定しないで、セロテープで仮に留めてあるだけである。

バッテリーを交換した後に、日付をセットし、歩幅をセットし、体重をセットする面倒はあるのだが、すでに5年ほど使っているモデルなのでそれはすでに慣れた。

目下、万歩計はオムロンのこれだけを使っているのだけど、思うにライカとかニコンとかが万歩計を作ったら売れると思う。カメラはもともと行動のツールであるから、それにマッチしたツアイスの万歩計などもまことに結構だと思うが、どこかのメーカーで出さないかな。
いや、すでに市販されているかも知れないが。
しかしその日の気分によって、万歩計のブランドを変えて行くというのも、ちょっと面倒な気もする。R1179721

2009年6月19日 (金)

セレナーの力

R1179720 なんとかの力、というタイトルの新書が嫌いである。

思うに「力」関係のタイトルで本当の「力」を持っていたのは、赤瀬川原平さんの「老人力」が最後であったろう。もっともあれも「老人の力」であっては少しも面白くないわけだ。原平さんがあの長島監督と対談したとき、長島さんは老人力を「老人パワー」と勘違いして「ぼくなんかそんなのじゃないです」と謙遜せられたことを、また原平さんがなにかに書いておれらたけど、これこそ長島さんの「老人力」の所以で実に謙遜の美徳であり、かつ奥ゆかしい。

ここで言う「セレナーの力」とは、世間で流行のなんとかの力の意味ではなく、まず「描写力」という程度の話である。別段に大げさな話題ではない。
セレナーはキヤノンレンズになる前の同社のブランドであるが、セイキ光学であるから「セ」で始まるのは良いとして、「レナー」というのは何の接尾語なのかは不明だ。ライツ社だと、レンズ設計者の愛犬の名前であったりするわけだが、このセレナーとは何か意味がその背後にあるのであろうか。キヤノンの歴史関連の文献をあさったけど、分からなかった。

セレナー集めと、講和条約発効以前のメイドインオキュパイトジャパンのカメラとレンズをありがたがるのは時代錯誤である。自分でそういうことを実際にやっているわけだからそこらへんの事情はよく理解できる。
セレナーレンズにはそのメイドインオキュパイトジャパンの刻印が付いているけど、それはレンズ本体ではなく、レンズのリアキャップに刻印されている。ここらへんが「うまい手」というものであって、真面目な日本光学などは、同じレンズでも眼に見えないように、レンズの背面に刻印してある。レンズキャップは外してしまえば、分からなくなる道理である。
ゆえに、メイドインオキュパイトジャパンモノのセレナーレンズは、JAPANの刻印のないレンズがこれに該当すると考えるわけである。

セレナーレンズで好きなのは、この沈胴レンズの50ミリF1,9である。なにかズミタールのコピーのように見えるが、フィルター径は後年のキヤノンの伝統で40ミリだ。このレンズは無理なく良く映るので、大好きだ。そのコントラストが後年のキヤノンよりソフトなのもよい。
100ミリ、135ミリもあるが、真鍮製の真面目な造りであるから実に重い。そこがまたありがたさが倍加するわけである。キヤノン2Bにこのレンズをつけて、銀座の和光に入り、いにしえのTOKYO PXに入った米国佐官の気分を追体験するのも一興である。

しかし「気分」だけではない。この前の土曜は月いちの東急BEの「ライカ愛好会」であった。その前、5月に京島で撮影した作品の「批評会」があった。参加者の女性でキヤノン2Dにセレナー50ミリf3,5で撮影した作品があって、これはなかなかシャープなのだ。もっとも明るさがf1,9よりもf3,5の方が安くてシャープというのはカメラ人類の常識であるのだが、実例を見せられるとやはり納得するわけである。

2009年6月18日 (木)

PAUL BUHREというロシア皇帝好みの腕時計

R1179719昨年の9月末にJTBの仕事でサンクトペテルブルグに行ったのである。
フィンランド湾に面した水の大都であって、まさに欧州を蒸留したようなロシアの美都だった。
以来、サンクトペテルブルグに関連のある品物を手にいれることが多い。もっともカメラに関しては、すでにレニングラード製のレニングラードカメラがあり、これは昨年の秋に現地に持参した。レニングラードの里帰りである。

それで、サンクトペテルブルグゆっかりの時計などまさか、なかろうと思っていたらそれがちゃんと存在したの驚いた。しかし後で調べたら時計のロゴはロシア文字だけど、スイス製らしい。
これは歴代ロシア皇帝ならびにニコライ2世の御用達であったスイス時計メーカーでPAUL BUHREというのである。金時計のロシア皇帝なきあとは、スターリンの銀時計もPAUL BUHREであったそうだ。このあたしのウオッチは1920年代の作だけど、なかなか正確で週一に一回時刻を合わせれば良い。大したものだ。
こういう伝説はその真偽にかかわらず、ウオッチ人類にはわくわくするゴシップなのである。
ロシア製時計で「クレムリンの塔の大時計を制作したメーカー」のウオッチというのもある。
スイス製のRolexもIWCも結構だけど、帝政ロシア、そしてかのスターリンも愛用のウオッチも捨てがたい。

この前の土曜、あの写真部の「反省会」で、福田和也さんに会った時、彼の時計もソ連製であって、その意を強くした。カメラも時計もロシア製に限ると思っているのは、あたしも考え違いのようであることはよく分かっている。福田さんが言うには、なんでもなにかの小説で、誰か人物の所持品を調べていて「なんだソ連の時計か」とそれを脇に捨てるけしからんシーンがあるそうである。それは知らないが、ソ連製ウオッチは安くて実用でシックであると思う。
ただしこのPAUL BUHREはシルバー側で無論、安いものではない。サイズはFMの大型くらいだ。
誰も持っていないブランドの時計を持つというのは、わがままの行き止まりである。

2009年6月17日 (水)

隅田川で「はと」を待つ

R1159280 一日に眼下の隅田川を行き来する船は、あれは思いつきではなく、ちゃんとスケジュールで運行しているのは、ここ隅田川河畔にちょっと棲んでみればすぐに分かることである。

まず早朝の4時半頃に「登り」の小さなタンカーがきて、これを筆頭に数隻のタンカーが遡上してゆく。もとより隅田川の上流の工場かなにかに油を届けにゆく通い船であるから、上から見ると実に小さいものである。ところがこの船を地面の高さでみると、それなりに立派な船舶であることがわかって、驚くと同時にまたそれが面白い。
他は、普段は中央大橋の向かいの係船所に停泊しているのに、東京都水辺公社の「あじさい」と「こすもす」がいる。居るとは人間みたいな言い方だけど、あたしはこの2艘の船を擬人化して我が家の2人の娘だと思っている。その船の父親が自分であると「創作」すると、二人の娘はどっかにおつとめしているわけだが、残業あり早出ありでなかなか大変な仕事のようだ。ただし「外泊」してきたことは一度もない。

この2人の船の「あじさい」の方は、以前出した「チョートクぼくのカメラたち」という1000ページ本の中の巻頭カラーページに出てくる。あの時は「あじさい」に越中島から乗船して、赤羽経由で新河岸川の先の小豆沢まで行ったのである。この路線はなかなか長くて、しかも赤羽から先の乗客は自分一人であった。
今はこの航路は廃止されたようだ。

これも定刻にきっちり登場するのは、「HIMIKO」である。例の宇宙戦艦めいた銀色の未来的な船体で実に人目を惹く。ただし、窓が開閉できないから、仮に乗ってもその逼塞感が面白くなかろう。やはり河船は川風をうけて行くのがよい。

隅田川で一度だけ見た船で実に不思議な船名だなと思ったのは「はと」である。これは東京都の関係の船らしいのだが、はとは隅田川にもいるけど、水上に降りることはないから、なんとなくその名前がしっくりしない。
東海道線のかつての特急「はと」なら納得がゆくが、こっちはいかにもお役人が「思いつき」で付けたような名称だ。その点、警察のボートは「いそちどち」とかなんとかこれは水鳥に関係がある。

しかし、こういうのは「変な名前」の方が一般に記憶にのこるようで、最近「文芸誌」をよく見るようになったけど、「なんとかなおコーラ」さんていう作家の人がいてこれは凄いと思った。こういうのは絶対に記憶に残る。
その意味で東京都の船である「はと」も記憶に残る。ただしそのはとはこの5年ほどで1度しか見ていない。そのはとを待っているがなかなかこない。

ゴドーを待っているようなものか。

と、ここまで、書いて間違って 16日の日記にアップしてしまった。すみませんねえ。

さて、河面を観察するには双眼鏡とカメラが必須である。双眼鏡は6x30,10x50,それと34x50の3種をベランダのそばに常に置いてある。普通は6x30(勝間製)で「索敵」をしてその細かい部分は伊太利亜はガリレオ製の34x50で見る。隅田川の永代橋よろも上流の「策敵」には、10x50を使うがこれは仏蘭西海軍の双眼鏡で「1932」などと刻印されている。

デジカメはリコーCX1みたいな高倍率ズーム付き(GRDは広角だから使えない)と、エプソンRD-1sに640ミリのノボフレックス付きは遠方の撮影にかなり効果がある。

いぜん、「2ちゃんねる」で、ベランダ写真家の称号をもらったこともあるが、住居の中からの撮影というのは、これは写真家の伝統芸能なのである。エドワード・酢体験(この誤変換は最高!)は晩年、自宅の庭の巨木を35ミリアリフレックスで撮影していたりした。アンドレ・ケルテスはマンハッタンの5番街1番地の上の方から撮影してるし、ユージン・スミスの場合は6番街のミッドタウンのそれほど高層階ではないところから撮影している。このスミスの撮影法は、ブラインドカーテンが古くなっているその隙間に400ミリのキヤノンレンズを突っ込んでちょっとハードボイルドなのも好きだ。

ケルテスは時代が時代だから、コンタックスDにキラー400ミリ。この当時の初期の一眼レフを使う写真家には「凛」 としたところがあった。今のフルサイズデジカメおやじとは比較にならない。
スミスの場合には、各種のライカやらキヤノン6tならであって、レンズはミラーボックス付きの400ミリだ。初期5ミリカメラのユーザーはなぜこうかっこいいのであろうか。

2009年6月16日 (火)

オリンパス「E-P1」の肩の部分がいい

本日発表のオリンパス「E-P1」のペンという、その名称が気になる。

最初のペンが出て半世紀プラス1年後に登場というのが実にタイムリーだ。自分はオリンパスハーフサイズのペンの誕生とその発展を見ている、土地の古老であるからだ。

この新製品はまだオンラインで見ているだけで、実機の様子は分からないが、惹かれたのはそのフロントのラインがペンFに似ているのが懐かしい。本体から見てレンズ右の上の肩が「ゆるっと」下がっているのが魅力である。
パナソニックのG1がデザインで「一眼レフぶって」いるのと比較すると、こっちの方が肩の力が抜けているのが魅力だ。ここらは「後発組」の強みだ。

画像から見た限りでは、魅力的であるけどこれが金属外装のボデイだと言うけど、どのクラスの金属感覚であろうか。ライカM4当時の金属クラスは希望しても無理であろうが、これがコンパクトデジカメ一般の金属クラスだと、ちょっと凹むであろう。

実機がサービスセンターに出たらさわりに行こう。

ところで、あたしの周囲では皆さん、G1などにアダプターでオールドレンズを付けて「遊んで」いるようだけど、それは自分はあまり興味がない。
フォーサーズだと、レンズアダプターでは「焦点距離が長く」なり過ぎて「望遠効果出過ぎ」なのである。

http://olympus-imaging.jp/product/dslr/ep1/

ライカインコ、PowerBookを占拠

R1179710インターネットの接続で佃のタワーに問題あり。ここは前からフレッツというのしか契約できないようで、それを使っているのだが、マンションの「光」であるので遅い。

その遅いのは問題ないのだけど、問題は間にサーバーだかなんかが入っているので、常時接続ではなくクリックしないと接続できない。

今、これを書いているのは、居室ではなく1fのロビーのwifiを使っているのである。どういうことかと言えば、3台あるPowerBookの中で「最新型」(とはいえ、すでに6年おち)のHDがクラッシュしたのが昨年であったが、フレッツはいちいち、CDを入れて接続の為のソフトをいれないといけない。ところがHDのクラッシュと、そのCDは当然紛失しているので、方策がなく仕方なく、10年落ちの最初期PowerBookを代打として使っている。これは懐かしのシステム9-2-2なのである。だから不便であって、まずオンラインでの「商取引」では出来ないサイトもある。幸い、アエロフロートなどは大したもので、途上国向けの「型遅れのシステム」でも対応しているが、エールフランスとかKLMなんかでは、あたしの古いシステムではe-ticketは買えないのだ。その他にもいろいろ不便を感じていた。ところがある日、マンションの1fのロビーで最近ではwifiが使えるようになったことが判明したので、もっぱらそれを利用している。それでヒルズに行くのには、メトロに乗って六本木の町を歩行してそえからエレベーターに乗って49fにまであがるのであるが、こっちは通勤住一致のなので時間は有効に使える。ただし家人の指摘するように、運動不足になるのが問題である。ヒルズだと窓の外は東京の大パノラマでそれはそれで結構だが、住まいのロビーだと目の前に一対一で薔薇が咲いていたりしてそれが不思議なものに思える。R1179711

フレッツが不便なのは、旅先の世界中のあらゆるところで無線LANで自由に接続ができるのに、生活の中心たる自分の部屋でその接続ができない点だ。今度は、フレッツは解約して、家での通信は1fロビーを使おうと考えている。

と、ここまで前書きを書かないと、ライカインコがPowerBook上を占拠した話題にまで到達できない。この3年間、ライカインコは「たまご産みギネスブック」に挑戦してその栄冠を得たのであるが、最近はゆっくりモードにはいって、PowerBookの上で遊んだりしている。がきの頃は足が小さかったのでキーの間に足を突っ込んでとれなくなって大騒ぎしたものである。当然キーボードの上を占拠するので、以前は本ブログでいきなり「L]とか「I」とか不明のローマ字文字列が日記中に登場したことがあるが、あれはライカインコの「お筆先」なのだ。

しかしあまり強制排除も出来ないので、あたしは1fに避難して、10年落ちのPowerBookはライカインコの管理下になった。

目下、使っているのはこの1台ともう1台のPowerBook G4、それと予備のPowerBook G3である。ヒルズの仕事場では最近では「堕落」してdellなど使っているのであるが最近のwinはかなり高速であることも分かった。不思議なのはwinというのは、どうもPCという感じがしなくて、ホッチキスとかセロファンテープのホルダーのような存在感のあることだ。ようするに物欲を刺激しないわけだ。それが問題なのか、そうではないのかは良く分からない。

カメラとレンズばかり買っていて、仕事道具のPowerBookをこの数年買っていないのは問題である。文芸誌「新潮」の8月号からプラハをテーマにしたエッセイを連載開始するので、これは良い機会だからPowerBookを新調しようと思う。ところが意志薄弱なので、同じことが十数年前にもあって、当時はまだPowerBookの全盛期ではなく、デスクトップの時代であったが、「どうせすぐに過去のモノ」になるであろうというので、PowerBookにはお金をかけずにそのお金でライカを買ったりしていた。2009年の今にして思うと、これは案外に正解であったようだ。

だから新潮の連載開始を自分で記念してPowerBookを買うのではなく、クラシックライカのいいいのを1台買う方がのちのちには良いかも知れない。

古いパソコンが問題なのは、捨てるにもお金がかかることだ。5年前の引っ越しの時、NeXTを捨てるのに、本体に1万、モニタに1万かかって吃驚したことがある。ライカは捨てることはない。これはいざと言う時換金できる。自分のような古い古いNeXT所有者はそうは行かないのが面倒だ。

2009年6月15日 (月)

GR女子部スタートす!

R117972513日の土曜日。
午後2時、銀座三愛ビル9fのリコーキューブにて、リコーのGR女子部設立記念平成大茶会開催さる。

あたしは午後2時の和光の鐘の鳴る時、三愛ビルに駆け込もうとしたら、ライカMP突撃隊長の桜井某に「職質」される。
今日は男性禁制であるといって、帰らせる。

女子GR部の設立総会にはせ参じたのは、全世界から無慮3000名(主催者側発表)実数は30名以上(警察代表の4丁目交番発表)で、大盛会であった。

ここが「女子GR部」なら、「レストオブザワールド」は「男子GR部」であることが、今回の大発見だった。男子GR部はもっぱらカメラ物欲にうつつを抜かしてライカM2のブラックペイントがどうの、ライカビットMPがこうのなどと「寝言」を言っているのに対し、女子GR部はまずは生活に確実に「軸足」がかかっているから、これはなかなか強靭な視神経の持ち主ばかりである。下の組み合わせはその「悪い例」である。櫻Xライカ突撃隊長が、この前の三愛ビルの女子GR部に突撃しようとして、官憲に確保された時の所持品がこれ。007

聖者を理解するのは女性のみ。

GRを理解するのは女性のみ。ということか、、、、、?

主催者側の、えみっしー(ハンドル名、坂崎さんの下町言葉)と、同、ちっちさんもその大集会に感激。最初は「誰もこなかったらどうしよう、、、」と心配していたが。

ともかく向上心が旺盛なので、これから「体と精神とによいことをたくさんやろう」ということになったようである。あたしは会長職なので、その権限でオブサーバーとして参加させてもらった。長生きはするものだ。

あたしがどっかのカメラ雑誌に書いた「正方形の画面は宇宙的な郷愁である」(というような意味のことだが、詳しい文言は忘れた)をメモに書き出してきたGR女子部員もいて、なかなかのデジタル映像研究会になった。
このところ、この前のアンダルシアも、その前のパリも、持参はCX1ばっかりだったので、ちょっと視神経をまじめに研ぎ澄まして、今日はGRD2を持参。それにアメックスのプラチナカードの誕生祝の携帯用ストラップ(スワロフスキーのクリルタル)をつけて行ったが、自分はGRDストラップレスアナキスト同盟であったことを思い出し、そのアクセサリーは設立大茶会の「ふくびき」に提供した。

この前、紹介したGRDカスタムブックの編集担当で、GRDヘビーユーザーの中島女史も駆けつける。大茶会で「GRDカスタムブック」の紹介。などなど。

2009年6月14日 (日)

越後屋枝村酒店

R1159372

月島とか佃は、学生時代に文京区の音羽にいた自分の地理感覚からすると、それこそ海の近くという感じがした。晴海に例の集合建築の歴史で有名な晴海団地がたって、その脇にはあれは何と言ったかドーム型の展示センターがあって、そこに「アメリカンフードフェア」などを見に行ったのは、当時のアメリカのフードはフライドチキンでもコカ・コーラでもチップスでもそれらは、栄養価満点の好ましい食品であったからだ。ジャンクフードなどという言葉はまだ存在しなかった。 月島の交差点は銀座から来る都電と、深川から来る都電の交差点になっていて実に交通が激しかった。その交差点の脇には、火の見やぐらがたっていた。この火の見やぐらは写真学生として、この界隈をライカで撮影していた当時だけではなく、自分が日本デザインセンターに勤務していた3年間にもあったようである。その後、ウイーンに8年いて日本にもどった時にはさすがに消えていた。 清澄通りを佃方面に向って左側にある、越後屋酒店は当時から珍しい木造2階建てであったが、それが今に健在である。自分の生家の向いの音羽通りにやはり木造の二階建てがあって、これは魚屋さんなのでが、月島の越後屋さんと、音羽のその屋号を知らない魚屋さんとは、自分の記憶中に残っていて、しかも現在にも生きている稀な存在の木造建築の商家である。 ここは立ち呑みができるので、地元の面々でいつもにぎわっている。自分がこの店に通うようになったのはかなり最近のことで、4年ほどのことだがここにはウイーンとかアンダルシアにあるような、普通の暮らしと界隈のうわさと、同時に外国人も楽にうけいれる国際性が同居している。 不思議なのは、たとえば、宝焼酎を呑んで貝柱のかんずめを開けて、ソーダを呑むにしても、これを自宅のマンションのベランダで以前やってみたが、まったく興が乗らないことである。 やはりああいう濃密な空間があって、常連とかまったくそうでない人が自由に出入りしてそこで酒を立ち飲みしているのが大事な「つまみ」になっている。 このところ、毎月の欧州行きで向こうにゆけば、プラハにもパリにもマラガにも、同じようなネイバーフッズバーがあるからそういう店に行っているわけだが、東京に戻ってひさしぶりに越後屋さんを思いだして、ぶらりと行ってみた。なかなか良かった。 思えば、2年前には午後3時前にはヒルズを出て、大江戸線をかちどきで降りてそのままこの店に行ったものだったが、最近はまっすぐに佃に戻っている。それだけ多忙と言うか、時間の使い方が下手になったのであって、これは良くないことだと反省している。

2009年6月13日 (土)

プラットホームニパナマヲオトス

水曜日。
朝、9時半ころのことだ。月島駅で銀座方面の電車を待っていたら、反対側の新木場行きの電車が来た。その風圧でかぶっていたパナマ帽がホームの下、レールの上に落ちた。
落ちついて階段を上って、駅員さんにそのことを告げた。落ちついで報告に行ったのは、自分が落下したからではなく、自分の帽子が落下したからであるが、同時にその帽子の中には自分の頭が入っていたわけであるから、階段をのぼりながら、何とはなくまだあの帽子の内側に自分の意識の思考の断片が残っているような気になった。その上を電車が通過すると自分の意識はまさか消滅することはあるまいが、なんとなく何が起こるのか不安だった。

改札の駅員さんに伝えたら、すぐに赤い筋の帽子をかぶった益鳥、じゃない駅長さんが「おっとり刀」で現れた。実際には刀なんて持っていないで、あれは何というのか線路に落ちた物を拾うマジックハンドを持って登場したのであるが、さすがに駅長さんは階段を駆け下りるのはプロである。後をついて行きながら「ここに駅が出来て以来住んでますが、こんなことは初めてです」と言った。駅長さんはのぼりの電車の風圧で自分の駅長の帽子が飛ばされそうになるのを押さえつつ「ここは風が強いですからね」といいつつ、すでにホームの上である。「あ、あった、あった」とすぐに拾ってくれた。「多少汚れてしまって申し訳ありません」と実に丁寧。こっちも最敬礼してそのパナマを受け取った。

この間にすでに電車はひとつ通過したのであるが、パナマは軽いから「轢死」せずにほとんどその最初の落下位置に「停止」したいた。これは不思議である。最初にパナマを飛ばされた時よりずっと強い風がレール上に吹いていたはずだが、軽い物体なので逆にこのような場合には飛ばされないようである。駅長さんは「風でずっと遠くに飛ぶこともあるんですが」と言ったのでこのパナマの場合、駅長さんの経験からしてあまり飛ばなかったようである。

ドイツ語でこういうホームの突風を「ZUG LUFT」と言ったのを思いだした。
電車に乗ってから、最初にパナマの落下を改札に報告にいったときの駅員さんとの会話を思い出した。
「すみません、ホームの下に帽子を風で落としてしまったのですが、、、」
「ああ、ホームの上ですね。どっち側のホームですか?」
これである。
どう運輸関係では、われわれが立っているあの場所はホームではなく、レールのある場所がホームの上であるらしい。ということは、われわれが電車待ちしている場所は「ホームの上の上」でよいのであろうか。

それはともかく、帽子を拾う時に使った、あのマジックハンドはかっこよかった。手許に似たような道具なら、写真用のモノポッドがあるが、それとも異なるプロフェショナルな存在感である。あれを購入する為には、警察で銃砲のように講習会をうけないと手に入らないような気がした。R1159364

2009年6月12日 (金)

マラガでパナマ

この前のスペイン行きで、街中を歩行して感じたのは、スペインのじじいにはパナマが似合うということだ。パナマ帽に関しては、伊丹十三さんが「退屈日記」かなにかで書いているが、これは若者に対して、じじいが「優先権」を持つ、唯一のファッションと言ってもよい。
マラガでもファッショナブルな若い衆が、パナマ帽を頭に乗っけているのを見かけたが、それは身につかないようである。なにかひよこが殻をかぶっているように見える。

一念発起して、マラガでパナマを買おうと思った。もとより狭い町であるから、旧市街に数店ある帽子屋さんのうちの一軒を心つもりしておいた。
その犯行の動機は、マラガにはカメラ屋はあるけど、デジカメしか売っていないからその反動でパナマを買う暴挙に出たのである。もっともその価格が37ユーロであったから財布は傷まない。カメラは何千も持っているのに、パナマは一個も持っていないのは理不尽だと思った。、
暑いアンダルシアの午後に店に入って、「パナマをちょうだい!」と言ったら、店主はあたしの頭を実に不思議な感じで見たのである。ようするに、あたしの頭のサイズを彼の視神経でスキャンしたのである。そのスキャンの方法は前後左右に及ぶものであるが、面白いことに似た様な視神経のスキャニングを自分もライカで撮影するときにやっているのだ。それは35ミリなり、50ミリなりの撮影画面を実際にライカを構えてファインダーをのぞくのではなく、空間を視神経でスキャンしてそこに空想のフレームを作るのである。
そういう変な視線を這わせるのは、われわれ、写真家だけと思っていたら、帽子屋さんも似たような目の使い方をすることが分かって、実に面白かった。

選んだパナマは実にジャストフィットであった。まるでアンダルシアの空気を頭の上に載せているような軽さなのである。タグを見たら、これはパナマ製ではなく、エクアドル製なのである。それが「本物」らしい。

実は戦前の話だが、あたしのじいさんは「町の発明家」であって、万年筆屋を倒産させたりしたが、その前には「かんじより」で編んだ「偽パナマ帽」で、一山当てた人であった。かんじより、とは最近では一般化していないが、正岡子規が自分の原稿を綴じるのに使った、和紙をひも状にしたものだ。

この古典的方式を守っているのは、自分の知る限り、岩波書店の編集部である。デジタルカメラとライカの本のゲラ刷りが、そういう江戸時代以来の伝統のかんじより、で綴じられて送られてきた。

あたしのじいさんは当時、輸入品で高価だった、パナマの繊維を和紙で作ったわけである。そのサンプルがいくつかあたしの子供時代には家にころがっていたが、子供の自分の目から見ても、それはパナマ帽子ではなく、かんじよりで作った紙の帽子であった。

スペイン土産のパナマ帽子はアカデミーヒルズの受付のお嬢さん連にほめられたりで、当方は得意になっているのであるが、日本の特殊事情として面白いのは、かんかん帽とかパナマは、これは真夏の羽織とか浴衣などの和風の服装にも似合うという事実だ。戦前の木村名人の東京のスナップなどでもそういう人物が出てくる。昔の映画でも出てくる。実に和洋折衷なのであるが、その混交ぶりは逆にユニークでよい感じだ。

Epsn3562

2009年6月11日 (木)

雑色を南に行軍して多摩川

例の「あの写真部」の最近の活動であるが、(6月号のアサヒカメラと日本カメラにその活動報告あり)諸氏多忙にもかかわらず、毎月一度の部活を開催しているのは立派だ。
もっとも、これは撮影ではなく飲酒の方に「軸足」がかかっているので長続きするのであろう。それと「写真の向上心のなさ」これが強いから長続きする。

最近は一人焼き肉道の北総本家猫背庵佐藤和歌子女史の活躍で、早朝から開いている酒保を捜索してあるのが、福田部長代理の心証をよくしているところがある。
行軍に酒保は大事だ。これで戦闘員の士気が奮うのである。

それで、13日に大田区雑色で、夏期屋外大演習があるのだが、折悪しくこの日は銀座4丁目の三愛ビル9Fのリコーキューブにて、第一回GRD女子部のお茶会がある。これは後年、ボストンテイパーテイの如き、歴史的な集会になりそうなので、顧問を務めているあたしは(森山大道さんも顧問職)は、ぜひとも参加せねばならぬ。
残念ながら、猫背庵佐藤和歌子女史の雑色火器大演習は不参加であるが、その前に演習場所の雑色にロケハンにいった。これが6月9日のことだ。

雑色はまず、その名前がシュールに「変」である。ブルトンとかが命名しそうな、不思議な地名だ。京急とJRの2本のレールの間に挟まれている狭い商店街がぞうしき商店街であるが、例のごとく、アーケードに象のキャラクターが登場する「だじゃれ系」なのがよい。小僧ずしのキャラが子象であるのと同じで、こういう開き直りはなかなか出来るものではない。阿修羅とか、フェルメールを何時間もかけて並んで見る大市民よりも、ここの方が文化程度が高い証拠だ。

この界隈を歩行して感じる不思議さは、進行の方位90から275度のどの方向に行っても多摩川に出てしまうことだ。多摩川が屈曲しているのだ。それが土地感覚を混乱させるのである。「魔の雑色トライアングル」なのである。

歩行してそのように、多摩川土手にでてしまった。芝生に座って周囲を観察するに、すずめが小さいクラッカーをくわえてそれをかみ砕くのに大わらわである。次にむくどりも同じクラッカーをくわえてきた。カラスもはとも同じのを加えてランチである。誰かがクラッカーの袋を落としたものと見える。

多摩川沿いに歩行して、六郷土手駅に着く。日本にまだこんなに鄙びた街があるのかと思った。普通の銭湯がすでに湯治場の感を呈している。

下に紹介した、GRブックの影響からか、今日のカメラはGRD-2の正方形モード。

品川に出て、久しぶりに松坂やカメラ。店主さんと歓談。キヤノン2bのセレナーレンズ付き、メイドイン オキュパイド ジャパンものを手に入れる。

銀座を経て、帰宅。

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2009年6月10日 (水)

琵琶の季節、ふたたび

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先週の土曜、用事で四ッ谷荒木町のアローカメラにいった。
そこから戻るのに、タクシーをよく使うのは贅沢というよりも、地下鉄だと時間がかかるせいだ。しかしこういう御時世だからあまりタクシーもどうかとおもい、新宿発で品川行きの都バスがこの角をまがって、南に行くのでその停留所の時刻表を持参のCX1で薩英(これが馬鹿ことえりの最初の選択文字)じゃなく、撮影した。
1時間に3本しかない。地方のバスでもこれはかなりのへき地である。

それで、買い取り名人が買い取ったばかりの大コレクションを拝見したりするうちに、バスの時間に10分前になったので、四ッ谷三丁目方面に歩行したら、交差点のずっと前にすでにバスが止っている。これを逃してはならないとおもい、久しぶりに「蒼惶と走行」した。
そしたら、バスは予定時間の5分前に発車したのである。前のバスがつかえていたのか、それとも時間を守らないのか、それは分からない。

霞町の交差点(今は麻布何丁目かだか、その名称は忘れた)で、降りて、大坂ずしの前からヒルズの坂を登った。通りにでる手前の角の蕎麦やは、交通の繁華な場所だがその狭い敷地の張り付くように、琵琶の木があり、それに実がなっている。こういう場でも琵琶は実をつけるのかと感心した。

それでその日、帰宅したら今年も安房鴨川方面から琵琶の贈り物があり。
その包装された古新聞を読むのが結構な楽しみだ。アメリカから中古カメラが届いて、地方都市の新聞を読む愉しみにも似ている。
ただし、琵琶の方がこんなにあっても家人が全部、食ってしまう。

2009年6月 9日 (火)

イベリコとセラーノ

Bellotabl002 先週のアンダルシアで、一番勉強になったのは、ハモンイベリコとハモンセラーノの「違い」が明らかになったことである。
日曜に、マラガの町を散策していたら。ハモン屋のシャッターを閉めているのが目にはいった。その看板を見るに、ハモンイベリコとハモンセラーノの専門店である。

バルセロナ五輪の前の年の夏、スペインに2月ほどいて、各種、食品と食堂の取材をしたのを思い出した。そのハモンイベリコの村に取材に行こうと思ったが、なにしろ四輪駆動車で2日がかりの行程と聞き、あきらめたことがある。

そのかわり、マドリのハモンムゼオという、生ハムのミュージアムという名前のレストランで、各種のハモンを食い狂った。

日本で超有名なハモンイベリコは、アンダルシアの奥のそのまた奥にある寒村で、ぶたにどんぐりを食わせて育てたぶたさんの逸品というわけで、その価格はまるでダイヤモンドである。一方、ハモンセラーノの方はそこらの市場でも普通に売っている。

前々から本物のハモンイベリコを賞味したいと思っていた。しかし日本では天文学的な高値である。いや、物価の安いアンダルシアの地元でも、非常に高い。100グラムが15ユーロもするのだ。しかし清水の舞台はここにはないから、ムーア人の砦から飛び降りた気持ちで伊部利己(この変換ミスはなにかありがたい感じがするな)を買った。
ついでに比較の意味で、近所の市場で100gが2ユーロのハモンセラーノも買った。
7ユーロの赤ワインも奮発して、さて食べ比べてみれば、何のこともない。
もしかして、あたしの舌がだめになっているのかも知れないけど、それならそれで結構である。つまり安いほうのハモンの方が口にあって、高いほうのイベリコの方は、なんとなく油が多くて体に悪いような感じがした。
まあ、ブランドというのはそういうものである。子品のレンズより、津アイスのレンズの方が高級ブランドだから、高いプライスタグがつくようなものだ。

2009年6月 8日 (月)

GRカスタムブック

GR DIGITAL カスタムブック クラシックカメラへと続くドレスアップの誘い

      

買ったきっかけ:
荒木町のアローカメラに行ったら、平積みになっていたので、即、ゲットしました。同時に我楽多屋さんで、GRDにつける、小物を捜索しました。

感想:
GRDをアドオンして、銀塩(これはぎんえん、ではなく、最近の流行では、ぎんしお、と読む)クラシックカメラファッションにコスプレさせる「奇跡の書」であります。

おすすめポイント:
個人的にはP83のSWCのファインダーをGRDに装着するのと、P150のメークボックスでカスタムパーツを整理整頓というのを、まねしてみたいです。
カメラのぶつ写真がよいので、ますます物欲刺激。これ、発禁本になるかも。

GR DIGITAL カスタムブック クラシックカメラへと続くドレスアップの誘い

著者:澤村 徹

GR DIGITAL カスタムブック クラシックカメラへと続くドレスアップの誘い

しののめ

R1169687 アンダルシアから戻って1週間が経過した。
モスクワを地方時の午後7時にでて、成田に午前10時前に到着した。その飛行はシベリアは珍しく揺れる環境であって、日本海に出てからようやく気流は安定した。あるいはその逆の場合もあるわけだが、自分の場合、どんなに乱気流でも平気である。それは20数年前にまだアンカレッジ経由の当時、北大西洋でひどいタービュランスを経験したからだ。その揺れは一級品であった。
数年後であったか、JALの機長の回顧録があって、「自分の機長経験であれほど揺れたことはなかった」とあった。どうも年代をたどっていくとそれが自分の搭乗した便のようであった。

もうシベリアは初夏であるから、一種の白夜状態であって、太陽が地平線に接近するとそのまま沈没しないで東方面にするすると移動して、また上昇してくる。太陽の手品の感あり。
この5か月、毎月だいたい同じような日付で向こう(欧州)に行っているので、1月は飛行中は完全な闇の世界であったのが、2月もまず同様な真っ暗闇であり、それが3月の欧州往復ではかなり航路に光が見えてきた。4月のパリ往復ではエールフランスの遅れで帰りの便のモスクワ東京に乗り遅れてモスクワに一泊したわけだが、すでにモスクワ東京の「夜間飛行」のセクションでの「夜」は減退していた。それで今回はさらに季節が進んで、太陽が回り道をするような夏の光りになった。

アンダルシアの戻りで忘れられないのは、伊太利亜上空で見た星空の見事さである。オリオンのみつ星が進行右手の空間の眼前を占領していて、その上には巨大な樹枝状の天の川がアーチを作っている。
眼下には光の花束めいた伊太利亜の街々がだんだんに運ばれてくる。そして右手のはるか奥、伊太利亜半島の中頃と思われるあたりに、非常に活発な雷光がフラッシュしている。なにかCGの合成風景を実際の風景が真似をしているような感じがあった。

日曜の朝。家人が見よ、というので窓から見たら、まだしののめの東京の陰のその先に、筑波山が見事だ。こんなにドラマチックな光景は久しぶりである。
やはり富士より筑波だ。

富士山はその有名度が過ぎて、どうも俗な存在だ。

2009年6月 7日 (日)

マラガ=モスクワ日誌5月29、30日

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東京日誌。6月6日。
またも小学校の頃の「お絵書き歌」つまり「六月六日に雨ざあざあ降って来て」を思いだす。毎年同じことを思いだすのは精神膠着の証拠である。

土曜日。アローカメラに行き、買い取り名人と二代目さんと歓談。バスにてヒルズ。霞町で降りて徒歩。前を歩行していたスーパー帰りの「外人の男女」はルーマニア大使館の鉄の門を外側から鍵で開けて中に入ったのを前を歩行しつつ確認する。国家は人間の構成で出来ているという単純な事実を再確認する。
ヒルズのウエストウオークの方向にプロラボがあるのを初めて知った。7年も界隈にいるのにそれに気がつかなかったことになる。

家人からメールで、朝日新聞夕刊に出ている写真家石元泰博さんの80才後半の近況の記事を知らされる。それをヒルズのライブラリで読む。昨年脳硬塞でそれを機会にほとんどのカメラを売り払い、作家活動を休止したという。これはまさに武士道である。

午後五時半、浅田恵理子が11か月ぶりに来訪。
歓談後、上のクラブに行った。様子が普通とことなるので何かと思えば、今日は年に一度の六本木ヒルズクラブのメンバーズパーテイであった。マラガでその申し込みのメールをもらっていたが、そのまますっかり失念していたのだ。シャンパンを2杯ずつ空にして六本木の町に出る。知らない町はまるで外国である。

浅田に「新潮1946年8月号」を示す。その号は内田百間(この頃はこの名前で正しいらしい)の「夏の小袖」と稲垣足穂の「新生の記」などが掲載されている。当時の新潮はまだ表紙に絵がないことシャープな印象を与えるという話題になる。浅田には20年来あたしの写真集の装幀など頼んでいるのだ。確か新潮の表紙に絵が入ったのは、1947年5月号からか。

六本木は土曜の夜の極東の一大歓楽街だが、すぐ裏手に「狸の穴」とか「狐の巣」とか「お化け榎」とかがいまでもあるような気がしてならない。

2009年6月 6日 (土)

マラガ日誌最終日

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R1170707東京の金曜。

梅雨入りしたと思われるような天候だが、先週のマラガでコバルトブルーの空に飽きているので、それなりに楽しんでいる。

木曜の「東京大周遊」の時もそうであったが、朝の高曇りの空というのは、グレーのモノトーンが基調になってその下に風景がおだやかに広がっているのが好きだ。

「この道は何時か来た道、、、」という歌があるが、あのシーンは初夏の高曇りなのではないかと少年時代から思っていた。それで木曜も、そして今朝、土曜もそうだが曇り空は好きである。

昨日は部屋のネットの具合が悪いので(これを説明すると長くなるので今は省略)タワー1Fのロビーでパワーブック持参で仕事していた。

午後3時頃、脇に女性がたった。それは高校の同級生であった。このタワーの30Fのお琴の先生のところにレッスンにかよっているとのこと。彼女からすれば自分は「田中くん」なのであるが、思うにあたしの体重が57キロ台であった時代を知っている数少ない「証人」なのである。

カメラ本の著者としての田中長徳はすでに身体細胞が膨張してしまった後の姿だから、これは貴重なわけである。

終日、1Fのロビーで仕事。R1159298

2009年6月 5日 (金)

マラガ日誌5月29日

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R1170703金曜の東京。

昨日はen-taxiの「東京大周遊」の撮影。

その前に、茅場町の共同ビルクリニックにて投薬をうける。

櫻井先生(若)と歓談。短い時間だがこういう会話はなかなか楽しみだ。

銀座線に日本橋で乗り換えたら、東京カメラ倶楽部の田村代表に遭遇。並んでシルバーシートに座る。

山崎博さんの個展を学生と一緒に見に行くのだという。

田村さんとは19歳の歳に入谷の鍵屋にいったし、29歳の時には、現代日本写真家展(1976−77に欧州の美術館を巡回した32人のメンバーの展覧会)の準備であたしが「来日」した時、飲み歩いた。

それが一緒にシルバーシートに座るようになったのは「人生の幸せ」である。長生きはするものだ。

2009年6月 4日 (木)

マラガ日誌5月28日

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R1170701東京日誌。

本日はen-taxiの連載「東京大周遊」のロケ。

午後から福田和也さんらと東京大周遊。マラガは小さい町であったから、東京歩きは楽しみ。

昨日はN/E社の紳士お二方来。TV番組方面の打ち合わせ。

打ち合わせの後、六本木ヒルズクラブにて雑談。

そのうちのお一人は写真家山崎博さんの教え子とか。山崎とは長いつきあいだが、こういう立派な社会人が育っているのだから、彼は立派な教師である。

もっとも本人は無欲にて自分の視神経の冒険と何十年来遊んでいるわけだ。昨日の朝日新聞に久しぶりに山崎の写真展の紹介記事を見たらその同じ日にその教え子さんが登場したわけである。こういうのを奇遇というのであろう。

もう一人の5月入社のニューカマー氏と、折りからエアー仏蘭西の事故の話題になったら、なんとこの人は幼児の時、日航ジャンボ機の事故機に2歳上のお兄さんと「むずがって」乗らずにその次の飛行機に乗ったので、惨事を免れたそうだ。

人生はまさに不思議そのものだ。大韓航空機の撃墜事件で知り合いの女性が、なにかの都合で出発を1日のばしたので、難を逃れた例もあった。

2009年6月 3日 (水)

マラガ日誌5月27日

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2009年6月 2日 (火)

マラガ日誌5月26日

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パワーブックの電源アダプタの故障で、入力できなかった日記の「手入力」セクションである。

2009年6月 1日 (月)

COUSCOUS

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COUSCCOUSをはじめて食ったのは、1970年。場所は池袋のパルコだった。そういうアラブ系の店があって、向こうのカレーライスのようなものだと思った。

パリで、ピガールに宿泊していたときには、近所の怪しい店で、クスクスロイヤルというのが定番であったが、これは量がおおいので店のカウンターで食うには不利である。持ち帰りにしてホテルで2食にわけた。
マラガのテアトロロマーノの発掘現場を見て、裏町を歩行していたら、クスクスが6ユーロというので、食いたくなった。
煮野菜の沢山入った、体によさそうな料理。すいかがおまけでついてきたが、その代金をチップに上乗せしたのは言うまでもなし。

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モスクワで出発時に、AFの機体を見て、成田でまた同じマークを見た。
そこでこのニュースに接した。
機材がSUのSVONTRと同型機なので気になる。


Missing Air France plane is an Airbus 330-200
Mon Jun 1, 2009 6:14am EDT


PARIS (Reuters) - An Air France plane that has gone missing on its way from Rio to Paris is an Airbus 330-200, according to the French airports authority website.

Air France earlier said it had no news from flight AF 447, which left Brazil on Sunday with 228 people on board including 12 crew.

(Reporting by Astrid Wendlandt)

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