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ロック ユー

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2009年5月31日 (日)

31 May My Birthday SVONRT

Tashika 40 sai no Tanjoubi ha Michigan no Makinar Island to iu tokoroni ita.

koko ha tiisai shima de ichidai no Kuruma mo Nai no de aru.

sakuzitu made Malaga no Hotel de heya kara UMA no Hizume no oto ga suruto

mado kara noridashite mita.

Uma ga mezurasii Zidai nanoda. tui  200 nen mae madeha Uma ha  sekai de itiban

hayai Norimono deatta no ga fusigi de aru.

Aeroflot no A330 ha zisoku 1000KM/h de NRT ni Hikou.

Nihon go kankyo ga nainode siturei shimasu.

都合、機内で「2泊」して、東京着。 ロシア上空は気流悪し。これは何時ものことだが、ロシアの気流の悪い時には、日本の気流はいい。 しかし、NRTの雲高は、非常に低く、1000ftくらいか。 成田の検疫はこんでいない。例の赤外線の体温測定装置もなし。昨年夏に福田和也さんとの香港空港ではこれにあたしはひっかかった。機内で焼酎を呑んだのでそれが体温を上げたのだった。 リムジンでTCAT。何時も、最初の日本の印象というのはこの無機質で乱雑な東京の風景である。 その不思議な東京のドミンゴの朝を楽しむ。 9日ぶりに佃。ライカインコよろこぶ。 誕生日の晩餐は、マラガで呑んでいた1本2ユーロの赤。これがなかなかいける。それとメルカードで買ってきたpurpo cosidasである。R1170673

2009年5月30日 (土)

@SVO AIRPORT

MALAGA wo sakuya deta 5 zikan hikou. MOscow no Kuukou ni tuku.

kokode 12zikjan no machi.

Lounge de moppara Beer (Pivo) to Note ni Pen de Malaga-kikou wo kaku.

Kore ha Lounge ni aru VISTA de kaite iru.

2009年5月27日 (水)

カードキーで苦労する

マラガ。
快晴。悲しくなるようなウルトラマリーノの空。無数のつばめが鳴き交わしながら、高く低く飛ぶ。
つばめ達は自分に「阿弗利加が近いぞ!」と言っているのだ。なぜか分からない。

ホテルに6泊しているわけであるが、土曜の到着の晩以来、カードキーの具合が悪い。
この前のパリのローンスターホテルでもカードキーの調子が悪かったが、これはレセプションのミスで、新らしいコードをカードに入力するのを忘れたのである。

今回のマラガのホテルのはもっとシリアスで、何度もカードキーを交換してもらったが、カードを差し込むといつもレッドライトで部屋に入れない。そのたびに、通りがかりのハウスキーパーをつかまえて、彼女のマスターで入れてもらうような案配だ。
今朝、レセプションを部屋まで連れてきて、彼はコードを入力するマシンを鍵の下に差し込んでなにやら作業していたが、埒があかない。なんでも鍵の業者を呼ぶそうだ。

1974年当時のマドリッドのホテルではまだあれはフランコ体制の名残であったのか、夜遅くホテルにもどると、建物の前の自警団めいたおやじが鍵を開けてくれたものである。

安ホテルの鍵はこれを開けるのに、それぞれの癖があるもので、1週間も滞在してその部屋の鍵の癖になれてくると、もうホテルを出発するのも懐かしい。デジタルよりもアナログがいい。
これも大昔、知り合いの絵描きの娘さん(当時小学校か)に、欧州のお土産に向こうの古い鍵を所望された。鍵の魅力はそれを開けること以上にそれを所有することにある。カードキーはその点で失格だ。

ウイーンのアパートにはzeiss ikonの鍵がついていた。ツアイスとはレンズの名前以上にドイツ人には鍵の名前なのである。それで立派なツアイス製の鍵をフランクフルトで買った記憶もある。

2009年5月26日 (火)

急告!!!

パワーブックのACアダプターのショートで、使えなくなりました。
小さい町、マラガでアダプターを捜索するより、ピカソミュージアムで傑作を見ている方が
時間の使い方としては有効と思います。

よって、日記の更新は日曜の昼に東京に到着してからになります。
メール連絡もできませんので、関係方面にはご不便をおかけします。

もうバッテリーの残量がないので、これが最後の通信です。

田中長徳

LOST BIRD

Epsn2806 日曜のマラガ大周遊。
自分は例のごとく、観光地ではない方向を目指す。とりあえず、北の方向を踏破。
ホテルのすぐ向かいには市営の市場(これは改装中で休み)があり、ホテルの建物の下にはスーパーがあるのだが、ドミンゴ(日曜)なので、すべておやすみ。
ここらはカトリックのまじめな生活習慣で逆に尊敬に値する。
ウイーン時代、すべての店は土曜の12時で店をしめる。だから日曜は繁華街でも1軒も店は開いていない。これがまじめな欧州の生活というものだ。
それは旅行者でも同じだから、食品を買う店と言えば、町中の小さいパン屋くらいしかない。
それで、日曜はハンガーストライキにした。

旧市街の北部にクラシックな市場あり。
その閉じた市場の前で、男性が「探し鳥」のちらしを貼っている。
LOST DOG LOST CATのちらしはストリートスナップの好材料にてよく撮影する。倫敦で撮影したLOST DOGのちらしは、あたしのカラー写真集「3weeks」にも出ていたと思う。
しかし、そのちらしを貼っている現場に立ち会ったのは、今日が初めてだ。
こういうシーンが心が痛むのは、それが人間のペットに向かう「一方的な恋」であることが悲惨なのである。Epsn2812

マラガの教会は広場の前にあるのではなく、いきなり登場するのはなんとも粋であると思った。
そのひとつの教会で、ローズ色とグレーとが縞模様になっているのを撮影した。
マラガの路上は、ホテルと同様に大理石の敷石が多い。完全な平面である。
エプソンRD−1Sを構えてアングルをとっていたら、右足の外側が小石を踏んだのである。
それで完全に転倒した。自分の右足の外側は10数年前の腰痛の後遺症にて、やや感覚がにぶい。それで年に1度ほど転倒する。昨年は西安でニコンD3と転倒、9月にはレニングラードでニコンD700とソニーα200と一緒に転倒。撮影中には周囲に不注意になっている証拠である。数年前にあれは東池袋だったと思うが、小さい公園で転倒した。その時には自分が踏んだ小石を記念に持ち帰った。表面に転倒の記録年月日を書いておく。今回もその小石を採取した。これは良い記念になる。

今日の転倒は柔道の受け身の感じで完全に体を一回転させてので、打撲もなし。どこも痛くない。ただし、向こうから新聞を読みつつ歩行していた、マラガ人がびっくりして駆け寄ってきた。それを謝してまた撮影開始。
6年前、羅馬のサンタンジエロ城で、やはりエプソンRD1を持って、アングルを決めようとして、右に一歩ステップを踏んだら、そこには地面がなかった。あの時は酷い打撲症を負った。転倒慣れしているのは、サッカーの選手と同じことだが、それを見たマラガ人は東洋人の老人がいきなり一回転してころんだのだから、かなりびっくりしたであろう。コンコルドのCDGでの墜落並みのニュースだ。
家に戻って家族に話しているかも知れない。Epsn2631

2009年5月25日 (月)

アンダルシア行きの猫とアンダルシアの猫

モスクワマラガのSU291便のYは、これは最後部のトイレに行く時に確認したのだが、3席に空きがあるだけで、満席状態。お客で東洋人はただひとり(自分のこと)で、あと猫も只一人。スペイン人の数も非常に少ない。ようするに、週末からのここらの観光地めあての、ロシア人ツーリストばかり。まるで「リゾッチャ」であるが、ロシアのフラッグシップなのだから当然か。
自分はYの最前列の右のウインドウ。猫はYの最後尾の右のウインドウ。おつきの人は、黒いドレスのなかなかの美人で、脇には赤いプラスチックの篭を置いている。トイレが混んでいて(なにしろ欧州で飛行時間5時間は彼らには世界の果てへの飛行)その列に加わっている時に、くだんの猫のお姿を見たのである。まだ生後まもない子猫で茶とらであったが、おつきの人は大事にして、頭以外をタオルでくるんでいるので、まるで猫のミイラみたい。
それで機内では大人気であった。

今回は「アンダルシアの犬」(ルイス ブニュエルの名作映画のタイトル)がテーマであったが、その前に、「アンダルシア行きの猫」の洗礼をうけた。

日曜の朝のマラガは快晴。気温13度。寒いほどだ。

例のごとく、ホテルの床は大理石張りである。1974年に家人とスペイン大周遊をしたとき、マドリッドのホテルは忘れたけど、バルセロナの安ホテルは床が石だった。真夏でしかも乾燥しているので、家人は毎朝、ホテルの床に水をまいていた。

バルセロナ五輪の前の年に、アンダルシアはセビリアに行った。あのホテルはアルフォンソ13世だったから、さすがに高級すぎて床に水をまこうなどとは考えなかった。

でもこのホテルで午後に酷暑ならちょっと床に水くらいまいてみたい気がする。

この猫は、上のモスクワアンダルシアの機内の猫とは別猫の、マラガの猫である。こっちが本物の「アンダルシアの猫」である。

Epsn2735

2009年5月24日 (日)

マラガの朝、ヒルズのトイレ内で携帯で話してる男を思い出した

R1169762 移動日。3週間の日本滞在を終えて、スペインのアンダルシアに飛行してスペインはアンダルシアに到着。それでこの3週間の東京滞在を思い出すに、以下の事実が一番に印象が深い。

ヒルズのライブリーメンバーというのは、月額10万円弱で24時間、森タワーの49階が使えるはななだ便利なシステムだ。

小さい事務所だと、自分でごみは捨てねばならず、飛び込みのセールスを断る必要もあるし、なかなか仕事に熱中できない。

ライブラリのメンバーになって実に快適になった。すでにあしかけ7年になるか。

当初はオフィスメンバーの専用フロアは49fと50fであって、その2フロアの間を階段が結んでいた。それでトイレは50fにあった。だから49fで仕事していて、トイレの用事のあるときには、その階段を上る必要がある。これが運動にもなりなかなかよかった。

創立当時のメンバーの間ではこの階段を「天国への階段」と呼んでいた。一種の精神的な高揚感が得られるのである。それで50fに2か所トイレがあった。

それはそれでよかったが、3年前に50fのオフィスゾーンは廃止になって、49fだけになった。そうなるとライブラリのドアを出て、森タワーの共用スペースにある「一般用トイレ」に行くことになる。これはこれで運動になって、森タワーの内部の通行可能なセクション全部歩けばかなりの運動量になる。佃からヒルズに行き、オフィスで仕事して万歩計が8000歩になるというのはたいしたものであると思った。

いつだったか、そのトイレにはいったら、キャビネットの中で声がしている。ようするにうんこしながらビジネスの話をしているのである。ビジネスチャンスが最優先であるのなら、どこで携帯を使おうが自由であるのはいまさら言うまでもないが、トイレという禅寺ではもともと沈黙の厳粛な場であるところで、まじめにビジネスの話をされるとなんなくしらけるのだ。

これはライブラリメンバーではなく、テンポラリーに49fの施設を使っているビジネスマンであろうが、トイレのセクションは人間の声がよく通るから機密は筒抜けである。そういうトイレットスピーカーが1月に一人ほどいるので、トイレに行くのにエンターテイメント性が加わるわけだ。そういうトイレをあけてみたら誰もいなかったとなればこれは麻布日ヶ窪怪談になる。

それはそれでいいとして、先週、さらにびっくりしたのは、トイレでおしっこしながらメールを打っている若い人を見たことだ。まるで上海雑技団だ。これは超えているな。

^^^^^^^^^^

上は予定校でこれからが本物のアンダルシアの朝である。

ホテルの天井は異常に高い。と、言ってもウイーン時代(1973−80)に住んだ住居のスタンダードの天井高だ。これが日本にいると、2メーター65センチでもう安心してしまうのだから問題だ。

今、地方時の7時45分だ。ドミンゴなので、日曜は午前8時半から朝食なので、空腹。

それで昨日のSUの機内食のパンとか、佃のスーパーで買ったキンミヤ焼酎とウインナーと、トートバッグの底に残っていた、ヒルズのチョコレートで朝から宴会である。

このホテルの最初の朝に、機内食の小さなパンにこれも機内食の小さなバターをつけて、食べるのは、毎度そう思うのだけど一種の「聖体拝受」の感がある。

今朝はまずホテルの部屋から見えるカテドラルに行く。マラガ到着の「仁義」をきりに行くのだ。東京は「神無きカテドラル」すらない宣教区だな。R1169765

2009年5月23日 (土)

タックスペイヤーの道

R1169646 本日からアンダルシアである。

NRTSVOAGT。

これで、SUのマイレージ+の会員になるという「偉業」が達成される。

その前に消費税を納付せねばならないので、現金を用意して手近の金融機関に出かけた。この10年来、佃の界隈のバンクはすべて撤退してしまったので、唯一の金融機関は郵便局である。佃島には最寄りの交番というのもなくてここは駐在所なのである。佃の駐在さんである。なにか非常に山深い場所に住んでいる気分がしてそれはそれで快適だ。

消費税は国民の義務であるから、納入に行くのはやぶさかではないが、せめてその間の道は「優雅」であって欲しい。こういうバラに咲く小道はその点、精神衛生上よろしい。
納税者と書くと「年貢をお上に納める」という封建的な感じがあるが、タックスペイヤーと言えばなにか自身が社会に貢献しているような欧州的主体的錯覚がそこにもたらされる。

19世紀の倫敦に地元の人しかそれを知らないバラの小道があって、その小道はそれを知る倫敦心の心そのものであるという断片はあれは何で読んだのであったか。

そういう小道に咲いたバラの花を見つつ「年貢」を支払いに行けば、いささか倫敦のタックスペイヤーの気分が味わえるようだ。

ーーーー

朝5時に起きる。ライカインコはこの数ヶ月、段ボールの中で抱卵していたので、昨日から篭に入って小休止。

午前7時35分のTCatのリムジン。すぐ後ろの外人男性の会話を聞くともなく聞いていて、最初はアムスの人だと思った。ドイツ語とオランダ語は似ていて、肝心なところが不明であるからだ。それが10分ほどで、彼らがドイツ語で話しているのが判明した。ようするにこっちの耳が慣れてきたのである。

そうなると、空港に行くバスの中の会話だから、大した内容ではないので、それが耳について逆に困った。

2009年5月22日 (金)

花粉症の自分史

自分の花粉症はニューヨーク仕込みである。こう言うとみんな笑って信用ないがこれは真実だ。

1983年の5月末にマンハッタンのお金持ち、シーモア・ワインシュトック氏の招きでマンハッタンの北の森林地帯に撮影にいった。カメラは彼のハッセルブラッドである。一日、なかなかのショットをこなして、夕暮れのタイムススクエアのネオンが滲む頃に、シーモアさんにプレジデントホテルまで彼のキャデラックで送ってもらった。車がスクエアに接近したら、その赤いネオンの滲み方が尋常ではない。

ホテルの自室に戻ってバスルームのミラーを見たら「目が真っ赤」であった。それからマンハッタン仕込みの花粉症のドラマチックな幕が切って落とされた。

その夏は家人と一緒にマンハッタンからウイーンに行った。ベルベデーレ宮殿の南のヨセフ・ホフマンが1956年まで住んだアパートの最上階に住んだ。毎朝の重要な仕事は「目やにでバリケード封鎖された自分の両眼を指で押し開いてそれから洗顔に行く」ことであった。

その翌年の夏だかに、プラハから用事でシュツットガルトに行った時、一晩の夜行列車の旅でクリネックスの大箱を一個消費したのである。あまりに液体が鼻から出るので、これは脳が溶解しているのではないかと思った。

あたしのマンハッタン仕込みの花粉症は21世紀になってようやく沈静化した。しかし毎年、5月になると別の花粉にやられるようで、この1月弱は厚いタオルが手放せない。

困ったのは、鼻から耳にかけての耳道が閉塞しているから、自然に自分の話す声が大きくなる。

ガキの当時、異常に大声なじじいがいたものだが、自分がそれになったと思うといささかの感慨あり。

それはそれで良いけど、困るのは大好物のデリーのカシミールカレーの風味がまったく分からなくなることだ。香りのないカシミールカレーほど、味気ないものはない。

2009年5月21日 (木)

前田司郎さんのライカ

R1169654 朝日新聞の水曜日の「ひと」欄に、三島由紀夫賞の前田司郎さんが出ている。
この前、石川直樹さんにお目にかかったとき、なんでも前田さんと対談をされたというお話を聞いた。
「ひと」を読むに前田さんは石川さんと同い年の32歳なのである。それがちょっとした発見だ。

前田司郎さんとは昨年の2月にen-taxiの取材で福田和也、田中陽子編集長と荷風散人の遊行散策の跡見ツアーにてご一緒した。
前田さんはかなりのカメラ好きにて、福田さんを中心に銀塩カメラで話しがはずんだ。前田さんの持参のライカは1Cにライカビット付きで、ビオゴン21ミリ(コシナツアイスではなく、オーバーコッヘン製)にマウントアダプタを付けてライカに装着している。これは60年代の有名写真家ケン・ハイマンと同じレンズ使いである。

前田さんは他にはフジのセミ判カメラも持参していたようだが、それはあまり重要な記憶にはなっていない。やはりカメラはライカだ。

前田さんの撮影方法を見ていると、なにか非常にゆっくりしている。つまり、通行人が気を遣って前田さんのカメラの包括領域に入らずに待っているのである。こういうやり方は自分のスナップ流儀とは異なるけど、演出家としては有用な才能なのであろうと思った。

彼の劇団「五反田団」の名前はすぐに記憶した。CBSイブニングニュースのキャスター、ダン・ラダーを我が家ではダン・ダダンと呼んでいた。それの連想からの「ごたんだだん」なのだ。

寺山修司の演出中の後ろ姿を撮影したことがある。フォルカー・シュレンドルフの映画監督中の後ろ姿を撮影したこともある。それはいずれも彼らが30台の時の撮影なのだが、演出家は後ろ姿が勝負だなと、いきなり思い出したのは、昨年の2月の下町の撮影であたしはもっぱら前田さんの後ろ姿を無意識のうちに観察していて判明したその結果のようだ。

2009年5月20日 (水)

ソニー入門機α230に興味

R1169632 朝日新聞の19日の朝刊にソニーのαシリーズの新製品の記事が出ている。

もう3年前であったか、あれは6月だった。ソニーのα100の発表会で、ヒルズから表参道ヒルズに徒歩で出かけた。

その直後からα100を仕事に使うようになり、昨年の春にはα200を買ったのである。それも仕事に使って、今、新型のデジタル一眼レフはもう十分という感じであった。当初は「そんなアマチュアのカメラで大丈夫ですか」と心配してくれた広告代理店さんも最近はあきらめたのか何も言わなくなった。

最近の周囲の「プロフェッショナルフォトグラファー」の共通した意見が「デジタル一眼レフはフルサイズはいらない」なのである。

一方で、優雅な定年退職組でお金と時間のあまっている皆さんは「やはりデジタル一眼レフはフルサイズでないと、撮った気がしまへんな」なのだ。

しかし自分のような、雑誌A4変形の仕事の世界に住んでいる人間では、まず画面はフルサイズである必要はない。

そのあたりの話を3月に出した「カメラに訊け!」に書いたので、またここで「広告」をうっておく。

さて、ソニーαの新製品だけど、3機種ある。α380と同330とα230だ。このうち、自分の興味あるのは、価格5万円台の230である。α200ではかなり仕事で稼いだので、あたらしいのを導入するのも一考だ。年間、デジタル一眼レフを5万円で買い換える方が、100万のフラッグシップを買って6年ローンを組むより利口かも知れない。しかも余分な機構がついていないし、安いし軽い。

追記、上の意見を持っているカメラマンさんから以下の書き込みあり。

ーーーーーーーーーー

先生、おはようございます。
今日のブログ読みました。
自分は今だに、この前お見せしたアルファ100で外部の仕事を
しています。全くクレームは起きていません。
だいたい、本体とバッテリー二個で13000円でしたので、
わたしの様な、底辺カメラマンでも、撮影のギャラでペイできます!

事実、わたしの周りのカメラマンも二世代前くらいのカメラ
仕事してますしね!

MP突撃隊長  桜木
ーーーーーーー
なるほど、、、大工さんや職人さんと同じだ。気に入った道具という認識がある。
これからは「入門機」を持ったのが「達人」で、フラッグシップ機を持ったのが入門者という認識になるか。

 

カメラに訊け!—知的に遊ぶ写真生活 (ちくま新書)

      

買ったきっかけ:
自分の本だから。著者購入でちくまから50冊買った。友人知人に配ってもう手元にない。

感想:
あたしのデジカメ本三部作の完結編。

おすすめポイント:
デジカメを欲しくなる気分とライカが欲しくなる気分の精神分析学的考察。
もっともっとカメラが欲しくなる危険な「焚書」である。

カメラに訊け!—知的に遊ぶ写真生活 (ちくま新書)

著者:田中 長徳

カメラに訊け!—知的に遊ぶ写真生活 (ちくま新書)

2009年5月19日 (火)

だいじょうぶですか?

この数年来、日本の若い連中の言葉で、興味があるのがこの表題の「だいじょうぶですか」である。

だいじょうぶ、とは大丈夫と書くが、これが会話で発音されている場合には、まさか漢字で話されている感じはなくて、ひらがなで会話されているのである。

たとえば、森タワーの4fのコンビニで買い物をする。お手拭きをご利用になりますか、と若い店員さんに聞かれて「はい、お願いします」があたしの答えだが、その次の若い男性は「いりません」と答えた。その答えを受けて店員さんは「だいじょうぶですか?」と聞く。若い男性は大丈夫です。と答える。

同じようなことがアカデミーヒルズの受付でなにか文房具をあたしが借り出すことがあって、いや、文房具ではなくコピーカードであったが、度数の多いのと少ないのとのうち、度数の少ないのをあたしが選んだら、受付の女性に「大丈夫ですか」と聞かれた。

大丈夫の用法が時代によって変化しているのである。

自分の記憶に残る「大丈夫」の用法は40年前の話にて恐縮であるが、護国寺の電停から17番の都電で池袋経由で、都立志村高校に通学していた朝である。電停というのは今にして思えば危険極まりない「安全地帯」とは名ばかりの「非安全地帯」である。その島にゆこうとして中年の女性が車にはねられて3メーターほど飛ばされた。女性を救助して119番に通報するように電停前の書店に指示した。自分は臆病なのに、一方で眼前で事件が起こると冷静に対応できるのである。

その女性を助け起こす時の自分の第一声が「大丈夫ですか」である。女性は「大丈夫です」と答えて立ち上がろうとしたので、動いてはいけませんよ、と路上にそのまま寝かせて救急車の到着を待った。

後で関係者に聞いたら、なんでも肋骨を骨折する重傷であったそうだ。

大丈夫ですか?の用法はそういうのが通常の用法と思っている。だから今の「だいじょうぶ」は新日本語であると思う。

正しい「大丈夫」の用法を見たければ子規の「初夢」を参照するとよい。子規が初夢で病が一夜にして完治して、新年のあいさつにゆくシーンがある。そこで子規の話す夢の中での「大丈夫」の用法が正しい日本語の大丈夫の用法だと思う。

最近の「だいじょうぶ」の使い方はかなり変わった。こんなに変わってはたして

だいじょうぶなのか?

2009年5月18日 (月)

ロシア大使館領事部二回目

R1169688 この前の月曜に狸穴のロシア大使館にいったら、それは11日でロシアの祝日だった。

それで木曜の14日に朝、佃から南北線で直接ロシア大使館領事部に行った。

領事部の鉄製のグレーの格子は閉じたままだ。

角の立ち番のポリスに聞いたら、朝には沢山人がお待ちのようでしたが、、、という。

そこに外人の女性がきて、アポイントが領事部であるので来たという。鉄の格子は閉じたままだ。角の立ち番のポリスは、かなり離れた大使館正門のポリスになにか合図をおくった。そうしたら、正門のポリスは、ゆっくりしたジエスチャーで、ドアを押す動作をした。果たしてドアは押すと内側に開くのである。まるでマジックだ。

それにしても領事部の角での立ち番のポリスはその鉄製の格子がどのように開くのか、知らないというのも、びっくりである。まあ「ここの所轄はロシアのモスクワのKGBなので本官は知りません」ですんでしまうのであろう。

領事館の内部に入る。待合の番号札を引くようになっている。部屋の奥の方はビザの用紙に書き込みができるように、ちゃんとデスクがある。その奥には飲みものの自販機もある。

どうもきている人は、全員がKGBエージエトじゃなかった、つまり旅行エージエントとかビザの代行会社の人のようである。目の前にこのようなパスポートの山ができているのだ。こんなに沢山の日本の旅券を見たのは初めてのことだ。

それでいったい何分ごとに事務が進行するのかに注意した。自分が入室してから10分以上経過して、次の番号が呼ばれた。窓口は2つあるのだが、自分の待ち番号まであと20ほどある。1つの番号が10分の待ちとして、200分である。モスクワパリの飛行時間である。

それでこのような場所で、プロの人たちと一緒にビザの申請をするのには自分は向いていないことを判定して、すぐに外に出た。

来週からのアンダルシア行きで、帰りの飛行機はマラガからの「夜行」であって、モスクワには朝の6時半につく。それで成田行きが午後7時発なので、その12時間を利用して市内にいって、アルバート通りのカメラ店でもぶらつこうと思ったのだが、市内へ往復の2時間と、出入国の窓口の2時間を考えると、空港内でラウンジで仕事してあとはウオッカ飲んで、ラウンジで休憩していたほうがよほど効率が良いことに気がついたのである。それでモスクワツーリズムは中止。

徒歩で、ヒルズに帰ってきた。

2009年5月17日 (日)

グレフルジュースの作り方

R1169687_2 毎朝、フリューシュトックに、ジュースをぐっと一杯やる。普段は野菜ジュースであるが、先週あたりからこれがグレープフルーツにかわった。これは季節ものである。普通のグレフルジュースは、なんとなく苦いのでそれが気にくわない。家人が制作したのは、なかなか飲めるのでどういうテクニックかと思って調査した。

何のテクニックもない。1983年の夏にマンハッタンからメキシコ市に遊んだ時に、メルカードで買ったジュース絞り器を使っているだけだった。「ちゃんとしたミキサー」でジュースを作るとやはり苦くなるので、こういうクラシックな方法が一番良いのである。ジュース用のグレフルは向かいのスーパーメルカードで1個135円でいくらでも手に入る。

1983年のメキシコは異才画家、原田映爾画伯と10日ほど行ったのである。まだメキシコ大地震の前であった。マンハッタンから行って一番、エキゾチックに感じたのは「ラテンアメリカタワー」だった。浅草の仁丹塔のようなもので、これは地震にあったら即倒壊かと思ってなさけない気分で見ていたが、実際の大地震では別に倒壊もしなかった。大したものだ。

メルカードで飲ませるフレッシュジュースがなかなかであったから、それにつられてこのようなジュース絞りを買ったのである。その頑丈さからして一生ものである。値段は1ドルもしなかった。四半世紀経過するとなかなかよい道具の味がそこに出てくる。

この1983年夏のメキシコ滞在中に原田画伯のロングインタビューを行った。カメラはまだ本体とカメラがケーブルで結ばれているビデオである。オリンパスと契約してこれを1年間かり出したのだ。こういう自由さは今のカメラメーカーさんの機材貸し出しには欠如している。そのインタビューは延々と長いのだが、原田画伯の声が聞こえるだけで、自分のカメラはホテルの窓から下の通りへの視線縦横に走って、向かいのコカコーラの広告のネオンを撮影したり、カメラはアングルアップして、メキシコの月の出を撮ったりしている。そのVHSのビデオカセットはまだ手元にあるが、それを再生する機材はすでにない。これがたかだか26年前の画像なのに再生できない。

デジカメのJPGもあまり将来に期待はできないような気がする。

ライカで撮影した画像はその意味で、火事にあわねばまず大丈夫だ。


2009年5月16日 (土)

美人のente姉妹

R1169685enteというのは、ドイツ語で鴨のことだ。4月のお釈迦様の誕生日に、矢来の閻魔様では、そのエンテのゆで卵を売っていた。

母親が買ってきたのか、一緒にいったのかそこらは記憶にないが、大きな卵であった。

味は鶏よりくせがあって、それをうまいとおもった幼年時代だった。

その閻魔様を昨年、横寺町から歩行して矢来下にでてくまなく捜索したのであるが発見できなかった。

普通の寺院はあったのでそれと取り違えたのかと思ったが、普通の寺院で縁日にあひるの卵を売るのも考えにくい。

よってenteの卵問題はいまだに未解決だ。

それより時代がぐっと新しくなって、ウイーン時代に町の南方の10区の市場に出かけたら、エンテの卵を売っていた。それを買ってしばらく愛用したが、そのうちに売らなくなった。卵にはゴム印にてドイツ語で「アヒルの卵につき注意!」とあった。なぜ注意なのか、いまだにわからない。

このエンテはタワーの下の噴水にいる「美人姉妹」さんである。しばらく前からここに住んでいる。最初はお一人さまであったのが、しばらくしてもうお一方が住むようになった。それが引越しの車の騒音などでいなくなって、捜索したら佃小橋の近くに避難していたのが、最近になってまたここに住むようになった。

4月からタワーの下の広場に郵便ポストができて、そこに郵便を投函するのは今までのポスト(これは廃止になった)より、やや遠回りなのであるが、エンテ姉妹は今日はいるかなというので、その遠回りが気にならなくなった。無論、エンテ姉妹のいるかいないかは、自分の部屋のバルコニーから確認できる。

部屋を整理していたら、以前に買った仏蘭西海軍の7x50の双眼鏡が出土した。もっぱらその双眼鏡を脇において、美人エンテの在非確認用にしている。仏蘭西海軍でこの双眼鏡が実戦(1933モデルとある)で使われていた当時は、Uボートは見たであろうが、きゃなーるは見てはいなかろう。それで最近ではその双眼鏡はちょっと「鴨の香り」がするようだ。

2009年5月15日 (金)

石川直樹さんと75分対談した

えい出版社の「カメラマガジン」の次号(6月19日発売)の巻頭企画の対談を石川直樹さんと水曜の夕刻に挙行した。その前の週の金曜にヒルズで会っているので、遭遇は2回目である。前回のウオーミングアップがあったので話はかなり進行して深くなり興味津々であった。きっかり75分。あまりに面白いのでお茶を出すのも忘れたまま石川さん午後6時半に去る。

こちらはもっぱら聞き役であるが、石川直樹の取り柄は「体育会系存在感」がまったく感じられないことにある。

それと動物と目が合う視線で写真を撮影していること。動物写真家というのではない。南米の果ての振り返る牛とか、トカラ列島の流し目のヤギなどを一対一の関係で撮影しているのが取り柄だ。

野生の動物とか先史時代の壁画とか、富士山とか、横浜の「どや」などと信頼関係を構築できる才能に恵まれているというわけなのである。

先史時代の壁画を撮影してそれが一昨日に撮影されたかのようなアピアランスである。先週の金曜に観察した限りでは、石川直樹の視線(彼の目ちから)に「何をするのか分からないようなところがある」と書いたけど、水曜の夕刻に1時間15分ほど至近距離真正面で石川の目を継続して観察した結果、判明したのは、これは「千日廻峰行者」の目であるということ。

しかも同時に石川直樹はヒルズの49fに配達にきたピザ屋のおにいさんでもある。別れ際に持参の白いスポーツバッグをリュックのように背中にしょったところは、黄桜のキャラクターの若い河童のようにも見えた。

石川さん愛用のカメラの話がこのインタビューの主役なのであるが、彼の二台のプラウベルに金属のレンズフードは1個しかもっていないことが判明。それで冒険撮影から戻ると、そのゆがんだレンズフードをハンマーとペンチで補修するとのこと。

不思議な存在感のある人と書くと分かりやすいのだが、その存在感のないところに存在感があるとも言えそうだ。すでに何事か成し遂げてしまった後の何も手にもっていない開放感みたいなのが、32歳にただよっているのが実に不思議なのである。

帰宅してバスルームでぬるい湯につかって、石川直樹を何にたとえようと考えた。

眼前に浮上したのは、「素焼きの大きな甕」である。その真ん中に斜めに長い割れ目が出来ていて、そこから中に満たされた清水がゆっくりと滲んでくる。

これが自分の石川直樹像だ。そういうのに比較すると自分などはそこらの「猫の茶碗のかけら」であることも分かった。

例によって、対談にはライカと1929年製のプラウベルの1型を持参した。出掛けにまたもデジカメを忘れたので、今回も石川さんのショットはなし。ポケットの中に忘れていたミノックスA型で真正面から石川さんを撮影した。まだ現像に出していない。

これはメスナーの真似なのである。

2009年5月14日 (木)

銀時計の秒針を飛行中に紛失する

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30代の後半になって、40半ばを過ぎたら「金時計」が欲しいと思った。
40代には多忙でそのことを忘れていて、50になって金時計を手にいれた。ただし金無垢ではなく、金メッキである。荷風は父から受け継いだ財産の中にあった、欧州製の金時計のケースを、時計屋に売り、ニッケルメッキの鉄のケースに交換したことが「日乗」に見える。

百鬼園は、少年時代に漱石が岡山に講演にきたとき、その内容を聞く。講演の冒頭で漱石は懐中から時計を取り出して「自分の時計はニッケルです」とやったそうである。それを百鬼園少年は「田舎なので、漱石先生は話題のレベルを落として話しをしているのではないか」と後あとまでそのことを気にするのである。

自分の場合、ステンレススチールのウオッチと金メッキのウオッチをもって長い時間が経過した。それで最近になってようやく銀時計の良さに気が付いた。銀時計は柔らかいので腕にやさしい。それにステンレスの側のウオッチに比較して軽いのである。要するに、いぶし銀を自称する、いやみな年寄り向けである。

これはシャフハウゼン製の時計だ。シャフハウゼンだとIWCが有名だがこういうブランドもあった。
一日にちょっと狂うのであるが、その誤差がはじめから分かっているから一日の最初に時計の針を合わせるのがいかにも今日も活動するぞ、という気分を高揚させてくれる。

この前、モスクワから成田に向けエアバス330が離陸するときに、離陸時間を計測した。40秒ほどだった。330はフルロードだと、離陸に1分15秒ほどかかる。それが半分の時間なのは、この前のモスクワ東京がからがらであったからだ。これは連休混雑の中休みの時期だった。
その時間を計測して、東シベリアで退屈しのぎに何となく、この時計の風防をあけた。これはもともとポケットウオッチだからそんなことができるのだ。
佃に戻って、時計の文字盤を見たら、秒針が紛失していた。針を落とした場所で、思い当たる所は機内しかない。機内といえば、この2週間はもっぱら、ブタインフルの話題で沸騰だ。パリモスクワ間では、ロシア人が検疫に入ってきた。

しかしぶたインフルではなく、時計の秒針を落として狼狽える人間も乗客の中には、いるのである。

針のない時計には変な存在感がある。1989年2月、プラハ空港で会ったこれからハバナに戻るというキューバ人男性のロレックスは分針が時計の中で踊っていた。ハバナではこれを修理出来ないのだと説明があった。1985年、ウイーンのシュタインホーフ(精神病院)のある西の郊外オッタークリングにワグナーの建築を見に行った、ここは開放病棟なのである。公園に坐っていたら、男性が「この時計、いいだろう!」と見せにきた。そのウオッチには長針と短針のいずれも付いていなかった。FMはクレージーアワーを作ったけど、その次ぎの段階は針のないウオッチであろう。これは確かだ。
自分の紛失した秒針は飛行機の離陸を計測するのに不便だから、次回、プラハの古い時計屋さんで秒針をつけてもらおう。

2009年5月13日 (水)

ロシアの銀色のきゅうり

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このところ、毎月の欧州行きなので飛行機のマイレージがたまる。だいたい、25000マイルで普通のエリートになり、50000マイル飛ぶと上級エリート(これをエリートプラスという)になれる。あたしは25000マイル越えの普通エリート階級である。
エリートと言う言葉はこれを現実に使うと時代錯誤である。だからわざとエアラインのこういう用語に使用するのは適格な用法だと思う。

自分はせっかちだから、空港でYクラスの長い列に並ぶのがいやである。すでにシルバー会員(還暦すぎにこれは実に適格な資格)なのだが、その再来年まで有効なパスをSUが送ってきた。名実の文字どおりのシルバー会員。
そのレターのレターヘッドであたしはアエロフロートをちょっと見直した。
レターヘッドは「銀色のきゅうりのさがるシルエット」であった。

そのデザインはロシア離れしている。どこか外国のデザイン事務所に依頼したのであろうか。

似たようなレターヘッドのデザインで優れていたのは、フランスのグルノーブルのプロ用映画機材の会社AATONであった。ここのシンボルは「ひいらぎ」なのである。
でも、ひいらぎよりもこの「きゅうりぶらーり」の方が格段によい。
根岸の子規庵のスケッチで、子規自身が棚のへちま、を描いている。ここまで書いて、これはきゅうりではなくへちまではないかと気が付いた。
子規先生に誤りを教えてもらった。

2009年5月12日 (火)

狸穴のロシア大使館領事部

R1169680 旅に出るのは、その国の在日大使館に行くに限る。以前は、麻布のチエコ大使館にビザをとりにいった。それがビザの相互免除が発効になって以来もう何年もあの方面には行っていない。

今月末はスペインのアンダルシアであるが、帰りのアエロフロートの乗り継ぎで12時間ほど時間がある。この前のモスクワ空港では、飛行機の乗り遅れて翌日の便になったので、ノブテルに収容されたわけだが、20時間ほど窓からモスクワ空港の出入り口を見てばかりいて、ついでに最近できたという市内への連絡電車の駅の看板ばかり見ていたので、なにやら欧州の飼い猫になった気分であった。あっちの都会派の猫は一生、部屋暮らしなので、窓から眼下の町をみることが、猫の生活の重要な一部分になっているのである。

しかし自分は猫ではないので、次回のスペインの戻りのモスクワでは市内にいって、タス通信の近くのプーシキンカフェあたりでランチとウオッカでもやりたくなった。

そのためにはヴィザが入用である。ロシアビザはなんでも2週間前なら無料なのだけど、それが1週間前だと5000円のヴィザ代がかかり、さらに数日前だと、その価格が幾何学級数的にアップするしくみになっている。

すでにスペインへの出発まで2週間をきっているので、まあ、5000円の出費は仕方ないと思った。それで5月11日の月曜の朝に狸穴のロシア大使館まで徒歩で、ヒルズから出かけた。こっち方面には何の用件もないから、この領事部に行くのは実にソ連邦崩壊以来である。ロシア大使館の交差点の手前あたりからポリスの姿が多くなる。しかも例の昔の機動隊の乱闘服ではなく、モダンは制服のポリスはなにかサイボーグめいている。最後の大使館につづく角には、通行人にも検問をする旨の看板がある。

若いころは職質でポリスと会話するのは楽しみなものであったが、この20年絶えてそういうことはないので、ポリスとの会話を楽しむ。「どうも今日は領事部はしまってるようですよ」とのポリスの言葉にそのドアの前に行ったら、本当にしまっていた。「急用につき、本日閉店です」などという張り紙もない。よく記憶をたどったら、例の対独戦勝記念日の一連の連休で11日もお休みであったことを思い出した。

それで大使館前で、右翼めいた男性がでかい声でなにか抗議しているのを拝聴してそのままヒルズに戻ってきた。まずよい散歩になった。せっかくの記念なのでAXISの前で記念撮影をした。あとでなぜ、ロシア大使館前がにぎやかであったのかについて、今日、この下の写真の左はしのゼニットを持ったツーリストさんが来日することを思いだした。

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2009年5月11日 (月)

そらまめ

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家人のお弟子さんで、千葉出身の人の御実家が花の栽培家で季節に花を送ってくれる。これはこの20年来のことである。ただでさえ狭い家の中がお花でさらに狭くなると思っていたら、実はその逆であって、お花があるとその分、狭い空間が拡張することが分かった。
あたしの写真集(チョートク ぼくのカメラたちという1000頁本)などで室内に高価な花が写っているが、これがそのスポンサーさんなのだ。

この家はお花ばかりか、時々、他の「食品」もくれる。
正岡子規の病床日記でいただきものが細かく描かれている。別に自分は横臥する人ではないが、いただきものはやはり嬉しい。ただしそのうれしさを分析するに、家で栽培したとか、近所の海で自ら採ったという品々である。これがうれしさの素のようなのだ。このお弟子さんの父上は漁業権をお持ちだから、時々南房総の海であわびなどを採取したのをいただくこともある。その娘である、家人のお弟子さんは、子供のころからあわびは食べ飽きているからもう沢山なのだそうだ。うらやましい環境である。

また、有線放送で「くじらがあがったから、ポリバケツを持って集合するように」の放送があるそうだ。そのおすそわけの「くじら」をいただいたこともある。これはその味付けが砂糖を使っていないので本物であった。すなわち酒の肴になるのだ。これはお弟子さんの母上の味付けのようである。たいしたものだ。
この前、いただいたのは、鹿の肉の煮付けであった。これも砂糖を使っていないちゃんとしたものだった。なんでも鹿は増え過ぎると害をおよぼすので、ときどき駆除があってその肉なのだ。百鬼園のエッセイに「鹿のみならず」というので馬と鹿を同時にだして客を歓待する話しがある。
鹿はウイーン等では季節ものでよくレストランに行ったが、ジヴィエの場合、脇にママレードが付いたりするのが苦手である。その点、南房総の鹿の味は「凛」としている。甘さのないのが評価できる。

それで言い忘れたが、そら豆をもらったのである。
小学校のころ、東京は中野区江原町にはまだ麦畑と野川があった。夏休みだったか、その田園で昆虫採集をして、ついでに畑のそら豆をかじったことがある。青臭い、それでいて忘れがたい味だった。
到来のそら豆は家人が茹でたが、どうも時間をかけすぎたようで、柔らかになってしまった。
しかしその味はなかなかである。

2009年5月10日 (日)

虹の写真

金曜の午後、曙橋のアローカメラ。
ここは代々、看板娘がお店番をしている。今は女子大生の二人組である。この前、ここでのトークの時に「南洋」という言葉をあたしが使ったら、分からなかった口である。そこでグアムやサイパンのリゾート地の「戦前の言い方」であると説明した。
石川直樹さんは、南洋はわかるであろうが、あたしとはちょうど30年の差がある。だから同じ日本語は共有できないかも知れない。あたしの場合には読書が狭いので、まず明治から大正。一番新しくて、昭和22年というところだ。だから視点がどうしてもその方向にいってしまう。

アローカメラでは重要な買い物をする、58ミリ径のフィルターである。女子大生二人組にUVフィルターを探してもらったが、在庫はスカイライトばかり。あたしの少年の頃にはまだスカイライトフィルターは存在しなかった。UVフィルターのかすかなイエローに写真を感じたのである。スカイライトのかすかなマゼンタにはちょっと反応しにくい。
数十枚のフィルターの在庫の中に1枚だけUVフィルターがあった。すでに1枚のスカイライトを買ったのだけど、そのUVフィルターと交換してもらった。これは先週にパリで買った、85ミリズマレックスにつけるのである。パリではフィルターの中古が手に入らないので、東京まで持ち越したわけだ。

買い取り名人と彼のクラウンで、地元の飲食店にゆく。コインパークに停めてその飲食店で夕食をして、翌日そのコインパークから出社というのが最近の名人の行動である。そのコインンパークにクラウンを停めたら、眼の前に未見事な虹のアーチ。名人はそれをカメラ付き携帯で撮影する。あたしはデジカメを持っていないので、ただただ虹を観察する。思えば、虹は人類の歴史で本来、撮影するものではなく見るものであったはずだ。

見事な虹で根元がしっかりしているのと、「藍色」が見えたのがよかった。自分は撮影しないが、誰かが撮影しているであろうと思い、今朝の朝刊をみたら、朝日新聞の一面に掲載されている。ただし「空に折り目」がついているのが残念。R1169501

2009年5月 9日 (土)

石川直樹さんに会う

金曜。東京。くもり。やや蒸し暑し。

七大陸の最高峰を踏破した、石川直樹さんにヒルズで会う。

同じ、ライブラリメンバーの「カリスマヘッドハンター」の佐藤さんのご紹介である。佐藤さんが昨年、石川さんの写真展でカタログを買ってきて、それをヒルズであたしに見せてくれたのが最初のきっかけだ。それでその写真集を2冊買ったのである。

32歳の石川さんは非常に落ち着いてみえる。そのまなざしが良い。

七大陸を登頂したまなざしというと変だが、彼の作品集のある巻で南米プンタアレナスで撮影した「振り返る牛」の写真がある。あの牛が振り返りざまに見た東洋人の視線がこれであったのか、、、と、南米最南端の牛の視覚の記憶を追体験できたことになる。

プンタアレナスについて、自分の知っていた唯一の情報は、サンテクスが「人間の土地」で書いた同地の描写だ。「活火山の溶岩の台地の上にかりそめにできた土地」という意味のことをサンテクスは書いている。これはかなり詩人の表現である。しかし仏蘭西の一詩人の言葉を日本の一詩人が翻訳するよりも、石川直樹の振り返る牛の方にあの土地の真実は結晶しているようなのだ。

今朝の文芸四誌の広告で知ったのだが、石川さんは「すばる」で、横浜の「どや」に潜入取材しているのである。これが連載なのでぜひ読んでみよう。

その石川さんに「どやに潜入して面がわれてませんか」と聞いたら、石川さんは変な顔をした。以前、なぎらさんと対談した時に、なぎらさんが山谷のどっかの立ち飲み屋で「身分を隠して」飲んでいたら、周囲のおっちゃんに、「あんた、どっかで見たことがあるな」と言われて、TVで指名手配なのが危うくばれそうになり、「ほら、あそこの山谷なんとかセンターでの求人の時あそこにおれ、居たんだ、、、、」と、ごまかした話をしてくれたのを記憶していたのである。

石川さんとカメラの話をしてみたいというのが、宿願であったわけだが、お使いのカメラはマキナ670が2台と、マミヤ7.ほかにはライカM7(ノクチルックス付き)もある。アタックの時には「写るンデス」をもってゆくという。GRDユーザーでもある。

石川さんの話ではラインハルト・メスナーのアタック機材はフィルムのミノックスであるそうだ。ああいう高所では重さを軽減するために、消しゴムすら半分に切って持参するのだそうである。そのミノックスで撮影した頂上からの風景は「荒れて」いるので、それがかっこいい、と石川さんは言った。

2時間ほどで石川さんと別れたが、ヒルズに戻ったら某カメラ雑誌から、石川さんとカメラ対談をしないかというメールあり。

これは面白そうだ。

せっかく「なにをするかわからない視線の石川さんのショット」を撮影しようと思ったのだが、今日は時差のために、デスク上のデジカメを1台も持ってこなかった。昨日はヒルズに2台のCX-1を持参したのに、このざまである。

せめて石川さんをまねて、写るんデス、でもメスナーを真似てミノックスでも持参すればよかったのだけど、それもなし。

それで画像はなし。

2009年5月 8日 (金)

パリのARRICAM

R1160895 町歩きの楽しみで、すでに半世紀以来、自分の趣味で変わらないのは、町中で偶然に見かけた映画の撮影の現場をわきで見物することだ。

もっとも29歳の歳に、フォルカー・シュレンドルフ監督がまだ有名になる前の「本編」の撮影をウイーンの近郊で真冬の2月に手伝ったことがあり、その時にはシュレンドルフ監督のあまりの「人遣いの荒さ」に、35ミリのアリフレックスを見るのもいやになったこともあった。

やはり、ロケ現場は周囲から「野次馬」として観察するのが無理がなくてよい。ただし自分の場合にはその現場に有名な俳優がいるかどうかが問題なのではなく、その映画を撮影するためのキャメラに興味があるのだ。人間学ではなく、機会学への興味である。
この撮影は散歩の途中に通りすがった、ピガールのレッドランタン街でのロケ現場である。三脚上に固定されたキャメラではなく、肩載せ式のコンフィギュレーションになっているのも好みである。最近のプロ用キャメラは大きな1000ftマガジンを付けて三脚に載せた場合にはそのマガジンはキャメラの上部に付き、このような手持ち撮影の場合には、キャメラの後部に400ftマガジンがつく。

デジカメの場合、そのスタイルは最初から決まっているわけだが、プロの撮影機ではそのカメラスタイルには定番というものがなく、撮影の現場と状況によってかなりそのスタイルが異なる。

ついでに説明しておくと、自分の興味のあるのはこのようなフィルムで撮影する映画の場合だけだ。最近のビデオの撮影では「萌えない」のである。
東京の拙宅の川岸でもよくロケをしているけど、そのほとんどはビデオであるから一向に思い白くはない。駆け出しタレントが下手な演技をしているようにしか見えない。
まあ、このピガールのロケも三流のラブストーリー映画には違いないのだけど、撮影が銀塩であることがせめてもの救いというわけだ。

2009年5月 7日 (木)

velib

R1160207 R1160206 今回のパリで一番気に入ったのは、これ、velibである。
仏蘭西語がだめなので、さっぱり見当がつかないけどこれは一種の公共自転車で町中にこういう「ポスト」がある。よく見るとICカードを読み込む端末があるから、あらかじめ登録したパリ人がこれを利用するのであろう。無論、国籍の違うツーリストでもちゃんと手続きをすれば乗れるに違いない。
veibとは何の略であるのか知る由もないが、日本だとこういう公共の乗り物に「ちーばす」(ヒルズの下を走行しているバス)とか、「ハムラン」(羽村のローカルバス)みたいに思いつきの名前をつけてそれがどうも不愉快である。このveibも変な語呂合わせでないことを念じている。

この自転車ポストはパリ11区、すなわち数年前に宿泊していた「ホテルで眠むーる」のおやじギャグの近くで見つけた。もっともこのプラスチックで覆われた自転車に乗っている人はその前にパリのあちこちで散見している。その時にはこういうシステムは知らないから、「おっ!パリの自転車は粋だなあ」と思っただけだ。
ウイーンなどでも、またドイツ各地でも旧市街の自転車専用レーンは20世紀末からあるが、ウイーンのような町だと、旧市街には路面電車が走り、観光馬車のフィアカーが走り、犬のおさんぽがあり、そこに日本の団体さんまでが交錯してくるから、自転車専用レーンで逆に事故が起きたりした。専用レーンを走行中の自転車乗りは逆に優先感覚が出てくるから、周囲を注意しなくなるのである。
その問題はパリでも同様であろうが、こういう規格の自転車を用意してあるのが、やはり凄い、偉いと思う。自転車が見える都市風景というのは、たとえば駅周辺の放置自転車のカオスというのがわれわれ日本の自転車の原風景であるが、こういう風にお洒落に並んでいれば、放置自転車とは1万キロも距離がある。

ただし、やはりこういう自転車システムはパリのような「小さい都会」だから可能なことも事実だ。それとこのシステムを使用する、人間のマナーが必要なのは言うまでもない。

2009年5月 6日 (水)

先週の水曜日パリで

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パリから戻って、パリの記憶が先週のものになってみると、やはり先週に自分はパリにいたのだという実感がわいてくる。これは外国人ツーリストだけにうまれる感情であるのはたしかで、本物の巴里人はすでにバカンスでパリから脱出する夢ばかりを描いていることであろう。

パリを撮影した写真家はそれこそ「路上に落ちている犬のうんこもパリはやはり別格」という数ほど、つまり数えきれないわけであるが、画家のアトリエを訪問したり、高級ホテルの室内を撮影したりして写真集を出すのは、その方面には受けるであろうが、自分からみればそれはやはりつまらない。パリは人間にとって平等の視線を得ることを保証しているとするのなら、路上の光景こそが我らが享受すべき「真実のパリ」なのである。
などと、日本路地裏学会の方針をちょっと開陳したりする。

パリの視線を時間を超えて共有ファイル化してくれるのは、偉大なアジエしか居ない。HCBだってだめである。あまりにスノッブであることが「良家のお子」の視点なのだ。

アジエのプリントは、HCBのプリンターのPGが製作したのを一点持っている。これは1980年当時、日本橋にあった(今は京橋に移動)ZEIT FOTOで個展をしたとき、石原悦郎さんと自分のプリント数点を交換したのである。まずお得な交換レートであった。

縦位置の18X24センチ(8X10インチでないところが手柄である)の密着プリントでパリのレストランかなにかのドアが写って、店の中の人が路上の写真師をいぶかしそうに見ていて、その怪しい写真師の姿がドアの硝子に反射して、そのドアの硝子はまだ、機械で板ガラスが大量生産される前の時代だから、こまかに波打った表面で、その不規則な表面がパリの路上を不連続に反射している。

撮影されている空間は非常に狭いのだけど、そのショットには無限と言っても誇張ではない、時空間の自由がある。
先週、パリを歩行していて、ワイン屋のウインドウに写った正午の光を、これは何時か見たことがあるなと前頭葉を探っていたら、あ、アジエだ!と思いだした。
それで上の画像の色彩をカッとしたら、時代はかなり20世紀初頭に接近した。

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2009年5月 5日 (火)

時差ぼけで、ドイツ製からイタリア製に

R1169492 今回はモスクワに1泊したおかげか、時差は少ない。
普段なら夜中に起きていて、昼間に寝ているものだが、モスクワで欧州の7時間の時差が5時間に短縮されたせいか実に楽である。
早朝からヒルズで仕事だが、なにか精神的な活力剤が欲しいので、デスクの上のカメラの山の中から久しぶりに伊太利亜の羅馬のガンマを取り出した。レンズはC−Lアダプタで、これにツアイスのゾナー50ミリF1,5をつけた。3月にはプラハで同じレンズである、こんたフレックスの二眼レフ用の50ミリF1,5で撮影して、それを次号のデジタルカメラマガジンに掲載するのであるが、戦前のノンコートのゾナーでもあれだけ写るのだから、戦後のオーバーコッヘンのゾナーが写らないわけはない。

その同じレンズブランドが伊太利亜の羅馬のレンジファインダーカメラに付いているのは、「思想」が枢軸国的でそれなりにいい感じである。

ガンマには1型と2型、3型がある。1型は以前は持っていたが、なにしろ特殊なバヨネットマウントでしかも、55ミリの標準レンズしかなくて、交換レンズはついに発売にはならなかった。しかもその画面は24X32であって、ライカより短いのである。
2型以降はライカマウントでライカサイズになった。
従って、このモデルの方が実用性は高い。

それにしても、このカメラの魅力はMADE IN ITALY の刻印よりも軍艦部のRomaの文字にある。まあ、時差ぼけのおかげで「パリでウエッツラー製のカメラを使う」というシステムから「東京で羅馬製のカメラを使う」という状況に移行していることになる。

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2009年5月 4日 (月)

坂崎幸太郎さん

R1158431 東京。
早朝から仕事。

ヒルズで「チョートクカメラ日記」(6月に扶桑社刊)に使う、日記用の画像をセレクトしていた。

ちょうどパワーブックで坂崎幸之助さんが「フェドの鉄砲を構えている画像」を見ている時、もう一台のPCに偽ライカ同盟路地猫部のにゃろめさんからメールあり。

坂崎幸之助さんの御尊父幸太郎さんが2日午後10時ころ85歳でご逝去の報。

この3月はじめのen-taxiの取材の時に、坂崎商店にお邪魔し、お元気そうなお姿を拝見したばかりなので驚愕した。
坂崎さんの父上といえば、自伝「怠兵記」(アルファベータ刊)を数年前に出版されて、その南洋での生死を分かつ強烈な体験を讀ませていただいたのが忘れられない。

坂崎さんが「あれで、おやじが戻れなかったら、僕なんか今、居ないわけっすからねえ」と言っていたのが忘れられない。

合掌。

空飛ぶバゲット

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仏蘭西航空のパリモスクワのモスクワ到着が、遅れたのでモスクワに一泊したわけだが、そのおかげでパリから直送したバゲットもモスクワに一泊することになった。バゲッジには仏蘭西航空のプライオリテイハンドリングのタグがついていたが、だからと言ってそれだけ早く到着するわけでもない。

モスクワのホテルから空港には午後5時にマイクロバスが迎えに来た。何か日本の空港での東洋人の強制送還のようにも見えるし、見方によっては出国検査などないのだから、VIP並みの待遇のようにも見える。ここらは考え方である。

機内でアエロフロートの機内誌がパリに行く時には4月号であったのが、帰国時には5月号になっていた。巻末の保有機材の一覧を見たら、A330は先月の2機保有から3機保有になっている。なかなかアエロフロートもやるものである。
それで定刻に成田に着陸した。RUNWAYのアプローチは、冬のような北にむかってのランドではなく、南にむかっての着陸なので、そこに初夏の季節感を感じた。
到着したら検疫の人から入国のひとから、税関の人から、麻薬探知犬まで全員、ぶたウイルスの対応でマスクをしていたのでかなり驚いた。東洋の神秘である。もっともその前に機内で見たJAPAN TIMESでは世界中のマスクの人の個性的なのをずらりと並べていて、それは面白かった。単なる無地のマスクではなく、例えば税関なら「許しません!薬物密輸」名度とマスクにスローガンを入れるとかすれば、お役所の意志徹底になってよいと思う。

モスクワの1泊のおまけがついて10日ぶりに佃。家人もライカインコも元気。ライカインコはあたしの出発以来、ずっと6個の卵をあたためているのである。根気だなあ。

パリから時差のバゲットがこれだ。つまりツエッペリンタイプの「空とぶバゲット」である。パリで金曜の早朝、クロワッサンとバゲットと買うので、ホテルの近辺を徘徊した。店はまだ全部しまっているのであるが、東駅のそばに開いているパンヤがあってそこで買った。
そのバゲットが空を飛んで佃に来た。
モスクワせ1泊と、シベリア上空で1泊しているので多少堅くなっているが、やはり味はよい。
これを抱えてパン屋からホテルに戻る時、なにやら気分はパリの労働者である。

2009年5月 3日 (日)

モスクワトランジットホテル

R1160917 モスクワのノボテルに滞在。
10年前にここに泊まって毎日、マイクロバスで市内にかよい、モスクワのモノクロ写真集を出したのも懐かしい。

このホテルにはいるのに、一悶着あり。昨日のAFで偶然、カメラマンの世利さんと言う人と隣り合わせ。この方があたしの読者さんであった。世の中はせまい。それで飛行中、世利さんが今回取材したミラノの話とか昨年行ったというボスニアの話で盛り上がる。
これはモスクワでもう一泊したいな、などと冗談を言っていたら、AFは1時間半おくれで、SUのNRTはすでに出発した後だった。
それで夢が現実になり、トランジットホテルということになったが、例によって男二人をダブルの部屋に入れようとするのでちょっと芝居をうった。
「自分は仏教徒で、こいつは神道だ。こんなけがらわしい異教徒と同じ部屋には泊まることが出来ない。仏様に申し訳がたたない。自分はホテルの廊下で寝る!」とやったのである。あたしは日本語は理性的に話しをするが、英語はブロークンだから感情をもろに出す。
それで、SUのマネジャーに談判したら効果はてきめんであった。

しかし後で考えれば世利さんは丸坊主であたしは変な白髪の長髪だから、神道は自分の方である。役がらを取り違えた。

ノボテルから見えるのが、80年代のトランジットホテルだ。ここには以前、よく泊まった。いや、泊まらされた。ロシア構成主義建築といえばそう思えるが、醜悪なブルーである。これは最近の塗り替えだ。
また新しい交通網の建設中で、その労働者の服の色、ショッキングオレンジが目にしみる。

快晴のモスクワ。
無論、トランジットなので、外出禁止。ソ連時代にはトランジットホテルから「闇」で、一人、20ドルでバスツアーに連れていってくれたものだが、今はそういうのも昔話だ。
インターネットカード(1時間10ドル)を下のフロントに買いに行くにも、トランシーバーを持ったセキュリテイの「護衛」が同行するのだから、まるでプーチンさん気分。

2009年5月 2日 (土)

モスクワで乗り遅れる

パリ発のAF便は、機材がA321だが、オリジンはリスボン。
これがCDGにおくれて到着し、そのしわよせでモスクワ着は1時間半おくれ。
当然、東京便は出発の後。
それでAFの「おごり」でモスクワに一泊となる。
こういうのはなかないのでモスクワを楽しむ予定。

La Maison du Leica

R1161347 読者の方からgoogle street viewで見るとLa Maison du Leicaが変わったようだとの情報なので、30日の朝に路地裏調査のかたわら、調査にいった。
4月30日の巴里は快晴。

R1161291 最初に行ったのは11区の昔宿泊した、ホテル・デ・ネムールである。その界隈を撮影。レンズは21ミリスーパー案愚論。ホテルで眠るという親父ギャグ発祥の地。

なるほど、行ってみると、La Maison du Leicaかなりお洒落になっている。顔見知りの店長さんに聞いたら、2年前に改装というので、あたしの行ったのは3年前だからなるほどと思った。
以前は外からウインドウの在庫が観察できたのだけど、お洒落になってからは中に入らないと在庫がみれない。そこらはなかなか接客上手である。買う気にさせてくれるわけだ。もともと、ライカもフォカも生活に必須なものではない。不要不急の品物だからそこがアートしているのである。デジカメは必要なモノだから、やはりアートの領域からは外れる。

品物を見ていたら、ライカを首からぶらさげた長身のパリジャンがはいってきた。その人の持っているレンズは、ちらっと観察するに例の偽ライカ同盟の坂崎幸之助さん愛用の、仏蘭西製angenieux 35mmなので、やはり巴里はすごいと思った。
そのパリジャンが流暢な日本語で「田中長徳さんですか」と言われたのでさらに驚いた。改めて見れば立派な同胞の紳士なのである。

朝比奈さんといって絵描きさんだ。もう巴里に30年以上お住まいの方だ。その朝比奈画伯があたしの読者ですというのである。実にありがたい。
朝比奈さんは日本でも頻繁に個展を開いているらしい。巴里の町がテーマで、お好きな場所はマレ区というのである。巴里の風景というので、自分は勝手にオギスとかユトリロを想像した。巴里は写真に撮影するATGETもいいけど、やはり絵画にするに限ると思った。

R1161341_2 そういう巴里の話はさておき、朝比奈さんとライカとレンズの話になった。朝比奈さんは先日旅行したバルセロナのあがったばかりの写真を見せてくれた。レンズはヘクトール28ミリというのである。多分、その旅行のDPの仕上げをピックアップして、その足でLa Maison du Leicaに寄りそこで田中長徳に遭遇という「惨事」にあったわけだ。

巴里在住の日本の方とお話する機会は自分の場合実に稀で、70年代に田原桂一さんとか白岡順さんとお話した以来かも知れない。だからこれは邂逅といってよかった。
やはりライカには人と人とを結びつける不思議な力がある。

そばのカフェで朝比奈さんとお話をした。
自分はこれも原因不明なのだが「朝比奈の蘇我を訪う日や初鰹」という古句が巴里で浮かんだのが実に不思議であった。

昨日、カフェでは立ち飲みだけで、絶対に椅子には座らないのを「国是」としていると書いたけど、その国是を20年ぶりに破った。この前、巴里でカフェに座ったのは、平成元年の春に美術評論家の瀬木慎一先生とご一緒した(行きの飛行機の中で遭遇)時、その日の夕方にシャンデリゼあたりのカフェ以来である。あの時も「ばん、おわーじゅ」を頼んだ。今朝も同じである。この発音は辻潤に「パリ便り」(と言ったと思う)の中で教えてもらったのである。

辻は他にもパリの心得として「下駄は滑って歩けない」と記している。しかし林芙美子は神楽坂でバナナのたたき売りで稼いで、パリに来て下駄で歩いたのではなかったか?

朝比奈さんと別れて、いったんLa Maison du Leicaに戻る。朝比奈さんの愛用のレンズはマックスベレクの愛犬の名前である。ベレクはにはもうヘクトールの他にもう一匹愛犬がいた。その名をREXというのだ。
その言葉で終わる85ミリのレンズを記念に買った。このレンズを携えてアンダルシアに行けば本モノの「アンダルシアの犬」だ。
マレ区を徘徊し、7番のメトロで1970年代によく宿泊した5区のムフタール街を撮影。

ここではアスパラガスが実に「元気」である。R1161402

2009年5月 1日 (金)

巴里でフォカを買う

R1160930本日移動日。

パリ=モスクワ=東京。

日本を出る時には、フランス製のフォカを持参する予定であった。それが直前のきまぐれでライカになってしまった。こういう直前の心変わりはよくあるので不思議ではない。
パリの中古カメラ屋街は相変わらずの繁盛であるが、今回は北駅周辺から北側になじんでしまって、まだシャンデリゼもノートルダムも見ていない。
火曜に、ホテルからピガールまで歩き、ついでにサクレクールの丘にのぼったのだが、そこからは手前にマンションがあるので、エッフェル塔は見えなかった。そのかわり、モンパルナスタワーは見えた。

部屋では、6月末に出る、「チョートクカメラ日記2001−2009」扶桑社刊(仮題)の編集と取っ組み合っている。これはen-taxiの編集長田中陽子同志からの指示である。それで福田和也同志にその本の解説をお願いしたのである。

カメラ買いはもっぱら、ebay Franceで行っている。フォカではなくライカを持参したので、その反動にてフォカとその付属品と交換レンズの大人買いをしている。もっぱらフランス語のHPから入って行くのだが、なかなか痛快だ。珍品のフォカ200ミリf6,3というのを買った。
送料込みで198ドル程度だから「フォカ天国」である。そのカメラはDijonの近くの歴史ある町のカメラ店から買ったのである。Dijonと言えばカサノバが座ったという石のベンチがあって取材で名物の「からし屋」を撮影後、休憩の意味でそのベンチに座ったことがあったが、幸か不幸か「カサノバ効果」は生じなかった。

ところでフォカというカメラは19世紀生まれのある貴族が隣国ドイツへのライバル心からこしらえた光学会社で当然ながら、軍用の機器の製作をしていた。それが1945にフリッツを撃退した後に、愛国心から35ミリRFカメラを作りだしたのである。どうせなら、もっとライバル心をしっかり持って、かのブレッソンにも使ってもらえるようなカメラを作って欲しかった。でも有名写真家でフォカを使った人はいないけど、仏海軍の公式カメラであったのだからまずよし、としよう。
このフォカの一連のレンズは非常に優秀である。

このホテルには二つの部屋の間にちゃんと「カメラ置き台」がしつらえられているのが妙である。そこにライカとCX-1とを並べてみた。

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