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ロック ユー

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2009年4月30日 (木)

巴里を食らう

R1160471R1160920 パリで食っているもの。

ゆでたエビ。これは近所のマルシュで買う。500グラムが7,5ユーロ。なかなか味よし。日本のそれとは比較にならない。

1970年代のウイーン暮らしでは、パリに撮影に来ると、帰りはウイーン行きの夜行列車で戻るのだが、ウイーンの家人へのおみやげにこのエビを買い、さらに東駅のそばのパン屋で名物のクロワッサンを買ったものだった。

栄光あるハプスブルグ家は魚を食う食う習慣がなかったのか、当時のウイーンには新鮮な海産物はなかった。同様にトルコ戦争時に「トルコの三日月を食う」という意気で生まれたという、「三日月パン」(キュッペル)はアントワネットが持参してフランスに行ったという話になっているが、その本家のはずのウイーンの

三日月パンはひどくまずいのである。

チーズ。これも近所の市場で買う。非常に安価で味よし。日本の輸入チーズ屋さんがもうけていることがよく分かる。

バターがたっぷり入ったクロワッサン。これはホテルの朝食。カフェオレとフレッシュオレンジジュースと込みで、6ユーロ。
リッツの四分の一以下だが、このホテルのインターネットのレビューでは高いと評判が悪い。でもこれは北駅界隈の軒並みのカフェの「朝食代」に価格を揃えてあるのだ。つまり外に出ないだけ「得」なのである。

中学時代に食った、中村屋のクロワッサンであるが、その包みにはこんなことが書かれていた。
「寝床でのむ牛乳入りコーヒー。お菓子も暖かい。クロワッサンも一緒だ。ああ、なんてうまいんだろう。こんちくしょう!)というのである。その仏文もそのままに並んで印刷され、戦争中、毎朝フランスで放送されていた歌、と説明がついていた。この訳文では、クロワッサンの他にお菓子があるのを不審に思った中学生があたしだった。

アーテイショーク。これは市場で見ると、静物画の題材によさそうだ。ウイーン時代、これをゆでて食おうとしたが、素人には難しい。この缶詰はエクアドル製なのである。ベルギーの名産のフォアグラを取材に行った時、さぞかしたくさんの鳥が居るのであろうと想ったら、一羽もいなかった。原料は遠くハンガリーから輸入しているのである。
なにやら最近のカメラの製造過程にも似ている。

ハモンセラーノ。これは本場ものには及ばないが、フランス製であるのが珍しい。

ウオッカ。これはフランス製なのだ。ナポレオンがモスクワの焼き討ちで覚えたか、あるいは1814年ロシアがパリに入城した時に製法が伝わったか。得難い酒。

鰯の缶詰。例のうすべったい格好のマックス・エルンスト好みのデザインのやつだ。鰯の缶詰はうまい。そのことを日本に居ると忘れている。

トマト。実際、かなりうまい。これは市場で買ってくる。

鳥の丸焼き。今回はうまいのに当たった。世界中、ブダペスト、マンハッタン、フランクフルト、プラハ、イスタンブールなどでうまい鳥のグリルを食ったことがない。しかも旅先でかならず「明日は鳥の丸焼きを食ってやる!」と精神を高揚させて、その後落胆するのがこれであった。鳥の丸焼きは食欲ではなく、すでに政治信条なのである。
自分の言う意味は路上で売っている例の安物のことだが、そうじて塩を使いすぎだ。パリの焼き鳥は今までの最高クラス。しっとりした肉質で味わい深い。しかも辛くない。値段はちょっと安すぎてここに書くと日本経済が混乱するから控える。

りんご。これは毎朝の朝食の時に、食堂から一個ずつ持ってくる。

上のような物品をとっかえひっかえこれらを日替わりにて窓際にテーブルクロスを敷いて食っている。ワインはボルドーの赤(ただし10ユーロ)である。ただし宴会にしてはいけないから、時間は15分程度に抑える。

ミシュラハモウアキタ。

これが実感だ。

以前、2週間のフランスの取材で毎日が「星付きレストラン」という悪夢のような体験があった。それは仕事だから仕方ないが、当のフランス人だってそんな馬鹿はしているわけがない。

勤め人もワーカーもカフェで昼などに食っているものを通りがかりにみれば、これは日本と同じである。自分はホテルに歩いて戻れる時間があるから、部屋で食う。仕事でそういう店を回ったのはこれは仕事だから仕方ない。友人を接待するのでそういう店に入ることもあった。これはおつきあいで詩仕方ない。

でも食い物はホテルでの一人宴会が最高である。

フランスでは100フラン出せばちゃんとしたワインが飲めるからレストランではやめにした方が良いと昔、その方面の人から聞いた。今なら15ユーロである。これは今でも通用する掟であろう。

ヨナス・メカスがどっかのフランス語圏のホテルでワインとチーズで一人宴会をしているムービーがあってこれは実によかった。あれは白ワインであった。

カフェで通りに向かって椅子に座りトラフィックの埃を吸っているのも感心しない。あたしが歩行中にカフェに入るのは、カウンターでカフェかワインを立ち飲 みする為である。椅子には座らない。もっとも北駅近辺で一日、カフェの同じ椅子に座っているのは、失業中のムッシュであるから、これはこれで風情あり。ただし東洋の失業中のムッシュである自分は、時間が限られているからやはりカメラを手に歩き回っている。

2009年4月29日 (水)

巴里の水

R1160668 1974年にはじめて巴里に来た時、その水道の水には驚いた。

うがいをすることも出来ないほどのカルキ臭さであった。当然ながら一番近くの食品店にミネラルを買いに行くのだ。

今回、アサヒカメラの1980年10月に発表した「パリの地下鉄」というモノクロ8ページもののコピーを持参した。このメトロのシリーズは、1980年の1月か2月に撮影しているのだ。当時、パリ5区のムフタール街のホテルが定宿だった。一泊23フランという格安のホテルであるが、当時、自分の興味は「まずいパリの水を味わう」ことにあったのだ。無論、飲み込みなんてしない。うがいをするときに、口中での異味が「ああ、パリだなあ」と感じさせるのである。

もっともラテン系の水道水はなかなか個性的でミラノの水もすごい味だったし、ローマのは飲めたが、マドリードの1980年代のホテルリッツの朝のコーヒーの味は忘れられない。ひどい塩味が水道水についている。それでコーヒーを煎れるから、同然塩湯である。それに砂糖を入れると、「老舗のおしるこ」みたいな味だった。

あれをもう一度飲みたい。

たしか1990年代の半ば、あれはカメラジャーナルのパリカメラ買い荒らしツアーでオペラの近くのホテルに泊まった時に、我が舌を疑った。パリの水はちゃんと飲み込めるような無味に変貌していたのだ。

以来、パリ滞在では、ミネラルは買わない。ツーリストがマルシュから持ち帰れる液体の重さには限界があるから、ミネラル水を買うなら、もう一本、ワインを買った方が自分の思想にあっている。

2009年4月28日 (火)

巴里大周遊

R1160032 土曜日。
曇り。
北駅のホテルから北駅に入る。
構内のTGVの倫敦行周辺はさすがに迷彩服の兵士が多数いて警戒厳重だ。
くりにゃンクールに行くつもりでメトロのチケットを買うつもりが、さっき列車で巴里についたばかりの大観光団で切符買いは30メーターの列。
それではというので、東駅まで徒歩してそこのメトロのチケット売り場に。ところがここも今、巴里に着いたばかりの大観光団がチケットを買うので20メーターの列。
それではというので、そのまま歩いて、サンマルタン運河を徘徊。ここは最初に行った1974年当時とほとんど変わっていない。ちょうどマロニエの盛りで、運河の左右は例の灯籠のような白い花で埋められている。この時期はやはりいいな。

リュパブリックからカメラ屋街を散策。今日は土曜なので、メゾンライカもシャッターが閉まっている。「二重写し」という変な名前のカメラ店も休みだ。東洋人経営のEURO FOTOとODEONは開店。
バスチーユからメトロで北駅にもどる。駅の数からするとそれなりに巴里のかなりの部分を歩行したことになる。

3年ぶりに目についたのは、自転車の専用レーンが完備して、そこここには乗り捨ての公共自転車(と思われる)の駐輪場あり。その自転車はフレームを樹脂でカバーしてちょっと見ると、ヴェスパのようなスタイルでなかなかのデザイン。

午後ホテルで仕事。

日曜。
雨のち曇り。
思い立って、ピガールから47番のバスにのって、はるか南に行こうと思った。ところがバス亭は、どっかの老人クラブの連中が40名ほど並んでバスを待っている。とうてい東洋人のツーリストの乗れるスペースはないと判断して、またメトロ。
ピガールで7年前に長逗留したホテルシャノアは大改装で立派になった。場末の二つ★とは思えないような料金になる。
ピガールのセックス一大三業地の大通りの真ん中のコンコースは以前は爆撃直後のガザ地区みたいな感じで道路でこぼこでなかなか良かったのが、立派な緑地になっている。それがピガールらしくなくて不釣り合いだ。

メトロでエトワール。アベニューフォシュの大金持ちの家(1970年代にザルツブルクで知り合ったアンドレという人。当人はすでに昇天したのは間違いなし)の跡見に行くつもりが、エトワールの乗り換えの長さに嫌気がさしてそのまま、チュイルリーニに出て、サントノーレを横断して、3年前に泊まったホテルの前を検索する。こういう以前宿泊した場所に立ち戻るのはなにやら犯罪者の気分だ。
オペラの前に人影なし。東洋人ツーリストばかり。
42番のバスで北駅に行くつもりが、日曜ダイヤでなかなか来ないことが分かり、メトロで東駅に降りる。その角のマルシエは日曜にも開いてるのを発見して、買い物。
ホテルに帰来。
午後仕事。

2009年4月27日 (月)

仕事の場所を確保する

パリ。

日曜。雨。気温8度。

パリであろうが、プラハであろうが、東京であろうが、仕事のやり方に変わりある筈もなく、まずはWIFiの感度設定と光線の採集状態と仕事机の場所の設定が肝心である。この55ユーロのスイートルームはなかなか仕事がしやすい。ホテルの中には四つ星なのに書き物机がない(リスボンの貴族の館を改造したホテルの屋根裏部屋)とか、立派な仕事机があるのに、その置かれた位置の室内照明がわるく、しかも重くて室内を30センチも移動できない(マドリードの五つ星ホテル)などのように、大抵はそういう場所に泊まる人は観光で来ているから、寝るだけで良いのだという考えが泊まる側にも部屋を貸す側にもあるようだ。今回のパリ北駅の一つ星での自分の仕事でありがたいのは、書き物机(これが一つ星ホテルに存在するだけで奇跡!!)が軽く移動可能なことだ。3年前のパリのバンドーム広場のRITZから徒歩3分ほどの三つ星ホテルには机はロココ調のがあったが、中庭に面した部屋は最低の採光で本を読む時には、ベッドそのものを窓際に移動させたのである。

この55ユーロの部屋はプラハと同様な天窓採光なのがありがたい。

こういう贅沢をしていると、思い出すのは稲垣足穂の横寺町の昭和18−19年当時の東京高等数学塾の1階の3畳のことだ。足穂自身が説明しているが、そこの凹んだ空間(そこはもとは便所の跡だったらしいとある)に腰掛けて、火鉢の中に新聞紙を燃やした燃えがらで「股火」をしながら仕事をしたらしい。中上健次の「集計用紙に延々と書き込む細かい字」もそうだが、いずれも前ワープロ期の作家の仕事ぶりには「仕事の実態」がある。

この部屋の格好は実に不思議であって、この写真のように二間つずきと書くといかにも!と思われるが、実際には最上階の余った空間に無理に4部屋を作ったのだが、そのうちの4部屋目は通路の長さに限界があってドアをつける空間がないので仕方なく2部屋つづきにしたというような構造だ。ゆえにこの62号室のプロパテイはちょうど漫画のせりふの吹き出しのような格好で、その人物の台詞と人物をつなぐ、長い三角形のようなあの場所が、そのままバスルームになっている。今、実測したらこれは不等辺九角形でなにか高度な幾何学めいた存在である。しかも偽大理石張り。バスタブとかその内装は少なくとも10年前の改装と見えるが、一つ星ホテルには奇跡のようなバスタブだ。そこのスペースだけ「目もくらむような最新のハロゲンランプで、居室には10Wのランプだけどそのいくつかは最初から電球がない。しかし今のパリの長い日照時間では午後9時頃まで仕事が出来るから、ホテル側の「なるべく客に電気代を使わせないように」との配慮に協力しているわけだ。

その後の時間は居室は真っ暗である。思案をめぐらして書き物机をバスルームに移動しようと試みたが、これはドアの幅をデスクがクリアできなかった。

R1160299 R1160298

2009年4月26日 (日)

パリに着くまでのお楽しみ

R1160007 パリ。晴れ。快適な気候。北駅の真向かいのローンスターホテルの屋根裏部屋。
今回のNRTSVOCDGで面白かったポイントを何点か。

その1
佃からT−キャットにゆくタクシーのドライバーさんに新車なのだから、トランクに入れる時にはトランク内に傷をつけないようにと、叱られた。
こういう理不尽は以前にも経験あり。大学時代にホンダN360を買った友人のMは、新車の内装のビニールを貼ったままで、便乗する時には靴を脱ぐように指示された。なにか汐留の陸蒸気の時代の再来と思った。これは1960年代の話。

その2
アエロフロートのチエックインの時に、いれゆるアレルギー対策の機内食、つまり牛乳とか卵とか大豆などのない食品をあたしがリクエストしたことになっていた。これは今回のe-ticketをプラハのアトリエから予約した時、おもしろ半分にかなりのバリエーションの機内食があるのを、プルダウンメニューで見ていて、ミスタッチでそれを選択してしまったようだ。
しかし、NRTSVOではホタテと野菜のサラダ。メーンは白身魚でなかなかの美食である。どうも一般のYクラスの食事よりずっとコストがかかっているのは確かだ。しかも健康に良いのは、Cクラスの食い物の比ではない。SVOCDGでもパーサーが最初に持ってきてくれた。理由がないのにそういう特別食を頼むのは案外にあたりかも知れないがそのうち、医師の診断書が必須になるかも知れない。

その3
SVOからSGDへの飛行のルートはラトビアのリガからアムステルダム経由である。メルカトール図法で考えると遠回りな気がして、なにか最初は不思議に思った。というのはプラハに行くのなら、ずっと南、ミンスクの上空を飛行するのである。それがモスクワパリの大圏コースだとこうなるのであろう。おかげでヨナス メカスの出身地、リトアニアのセメニシュケイ方面を「遙拝」することができた。
BMW野々宮によれば、メカスの生地はラトビアのリガから陸路行った方が近いような僻地なのである。アエロフロートは5月15日からモスクワービリュニスに週3回飛ばすのだが、今回の「遙拝」でメカスの生地詣では代用としよう。

その4
今回のパリ暮らしはパリの北駅真ん前のホテルだが、これをGOOGLE MAPで捜索したら発見できなかったのである。ただしそのホテルの場所を探して、GOOGLE 上で何度もこの界隈を徘徊したので、おかげで周囲の環境に「バーチャル土地勘」が出来てしまった。実際には一度も入ったことのない、角のcafeを懐かしく感じたりするのだ。
くだんのホテルはGOOGLEカメラが観光バスかなにかを前景にしていたので写らなかったらしい。GOOGLEストリートビューは知り合いの女性のお母さんが洗濯物を庭で干しているのがそのまま世界に発信されたりしているのに、これではだめである。

昨夜、午後10時過ぎにやはりくだんのホテルを捜索するので苦労した。理由はなんとホテルの電飾が消されていたのだ。
そういう看板の明かりをつけないような一つ星ホテルに泊まるのが趣味なのかと言われれば、そういうことだと肯定するしかない。JALのFの客なのに、わざわざピガールの安宿に泊まるような自虐的なことが好きなのだ。今回はSUのYだから身の程に釣り合っていることになる。
しかしこのホテルは55ユーロのわりにはなかなか良くて、画像でおわかりのように室内には「ちゃんとスーツケースを開けるだけのスペース」があるのだ。10余年前、フェルメールを訪ねる企画でローマからウイーン、パリ、アムステルダムを旅したことがあった。その時のパリの三つ星ホテルはまるでクローゼットの中にもう一部屋こしらえたのではと思えるほどの「広さ」でトランクが開かないのである。

ここの6fの屋根裏はミニスイート風である。しかもパリの空が無料で「見放題」のWIFIは使い放題。プラハといい、パリといい、このところ屋根裏に関係がある。「パリの屋根の下」だと風流だが「プラハの屋根の下」とはこれ如何に?

2009年4月25日 (土)

子犬EUROの冒険

R11597582002年の2月の第一週だったと思うが、記憶違いでなければあの時、紙幣のユーロが通用するようになった。
その時、自分はパリはピガールのHOTEL DE CHATNOIRという安ホテルにいて、向かいのスーパーにワインの栓抜きと安手のガラスコップを買いに行ったら、前の客が黄色い新紙幣をキャッシャーに出していたのである。
それが200ユーロ札で、キャッシャーは初めて受け取った札なので「見本表」を出して真贋鑑定をしていた。自分は少額紙幣で支払ったから問題はなかったが、その時に「ユーロ」という名前の子犬のキャラクターを誕生させたのである。ホテルは同名のキャバレーがしたにあって、かつては有名なスポットだったそうだが、その当時は落ちぶれていた。隣はセックスミュージアムだし、最初にホテルに着いた時には、おねえさんに「拉致」されそうになるような環境の良い地区なのである。

5ユーロとか10ユーロにこういう感じのわんころを描いてそれを買い物に使った。これを「ユーロの旅」と称して、当時、モノマガジンで連載していた記事のねたにするつもりだった。そのユーロというのはリスボンの犬であって、これがアンダルシア経由で中央から東欧州を経由して最後にまだ返還前のマカオまで行き、そこでこのわんころの親戚のわん連と会合して、「犬族大夜会」を挙行しさらに極東の長崎に行くという話なのである。
その「取材」のためにリスボンからアンダルシア、パリは無事に終わり、マカオも取材を終わらせたのだがそのままマカオから長崎に「子犬のユーロ」が行くに15年かかってしまった。
だからユーロは子犬などとは言えなくてもうすでに立派な「老犬」である。

この前、東京でヒルズの6Fにある外貨ショップで5ユーロ札を何枚か買った時、そのユーロ犬のことを思い出して記憶にたよって描いたのが上の「ユーロの似顔絵」である。
あの時のユーロは今、どこを旅しているのか。

2009年4月24日 (金)

NRTSVOCDG

今日からパリ。
1月、2月、3月とプラハであったが、今回はプラハではない。でも極東からみれば同じPで始まる都市だから似たようなものである。
パリは3年前の4月が最後の訪問だ。あの時は、その後パリからミラノに飛んだ。モンブランだかマッターホルンだかアルプスが眼下に見えた。昔の人はあんなに険しい山を徒歩で越えたのだと思うとなにか尊敬の念を感じた。

今回のパリは、相変わらずでカメラ屋歩きのマルシュ巡り。メトロに乗り尽くし、サンマルタン運河のあたりを歩き尽くそうという計画(これでは計画にもなってないが)である。

実は今回の本当の任務は今年の前半でアエロフロートのエリートプラス会員になろうという「邪な計画」があるのだ。ゆえにプラハ以遠に飛行してなるべくマイルを稼ごうというのである。
20年前のSUは週二回、LISに飛んでいた。それがなくなってモスクワから欧州圏で一番遠いのは、マラガなのである。大学の「南方郵便機」で「マラガではお祭りだ」という1フレーズがあったのを思い出し、それが犯行の動機でアンダルシアに行くことにきめた。「アンダルシアの犬」だが、これは5月の旅程である。
それで実飛行マイルが1月から累積して5万マイルを超えるので、エリートメンバーの上級になれるわけだ。
日本とかニュージーランドは「向こうの視点」から見れば「世界の果て」に存在するので、マイルが貯めやすい環境にある。
知り合いのバーゼルのバイオリニストは公演でスイスからプラハによく来るけど「あたしなんてエリートメンバーなんて夢のまた夢」と嘆いていた。片道が300マイルもないのである。
世界の果てのわれわれは飛行時間の長さの退屈と不満をこういうところで中和させねばならない。

★お知らせ★
ご愛読ありがとうございます。
パリではWIFI環境のホテルを予約しましたが、例によって通信手段に問題がある可能性もあります。更新はまめにチエックしてくださるようお願いします。
例によってパリの中古カメラ店をレポート予定です。

★現在、NRTのDCのラウンジ。珍しく非常口座席をリクエストしたら、職員さんに「英語、露西亜語は大丈夫ですか?」と聞かれる。なにか懐かしい。

最近では競合他社はその座席を50ユーロで販売したりしているからだ。ラウンジで「うまいビール」を飲んでいる。この1月から3月までは毎月、プラハであったから、これからうまいビールを飲むと思うと成田のビールはまずく感じるが、今回はこれからパリのカフェでまずいビールを飲まねばならないと思うと、その心理的な背景で日本のビールがうまく感じるのは妙である。

2009年4月23日 (木)

ツポレフ134

2216 Tupolev20tu20134 ツポレフ134の方が154よりは好きである。154よりも小型であるから、なにかプライベートジエットの感覚がある。その後退翼には音速の予感がある。

ビロード革命の数年後まで、モスクワプラハのアエロフロートはこの機種であった。

ハベル大統領の政府機は154であった。日本へ阿部公房に会いにいった「公式訪問」はツポレフ154だったのか?モスクワで燃料補給しても日本へはぎりぎりの航続距離である。まづ一度はノボシビルツクあたりに燃料補給に降りねばならないだろう。

ツポレフ154はクラスはFとYでCはなかった。Fは2列しかなくて、そのテーブルは木製であったのが珍しかった。機内をずっと通って、機体の一番最後にWCがあるのは普通だけどそのキャビンはなんと空が見えるのである。数多くの飛行機に乗っているがWCに「天測窓」があるのは自分の経験ではこれだけだ。

TU134の窓はほかの機種と異なり、完全な円形なのである。その関係の記憶のせいか、銀座8丁目の「銀座八丁庵」(中銀カプセルタワー)の10Fに部屋を借りていた当時、窓から見える風景が飛行機の中からのそれに思えて仕方なかった。

wikiに以下の記事あり。

チェコ [編集]

チェコの政府専用機としてチェコ空軍は2機のエアバスA319、1機のボンバルディアチャレンジャー600、2機のTu-154、2機のYak-40をオペレートしている。

2009年4月22日 (水)

巴里の灯

R1159613

これはチャールズ リンドバーグの「翼よ、あれがパリの灯だ」を意味するのではない。
この前3年だか4年だか前のパリのホテルはホテルリッツから徒歩で数分の好立地な場所であった。一応は三ツ星ホテルなのであるが、そこでもパリの100年来の良き伝統がしっかりと守られていて、電気代を極端に倹約している。それでPowerBookの場合は液晶だからまず問題ないが、文庫本を讀もうとすると手持ちが困るのである。
部屋に1つしかない10燭光の明かりでは、真の闇ではないというだけで、実際にはなにも見えない。

策を巡らして、これが辻潤であれば、勧工場でコンセントとスペアの電球を買ってきて(これはあの有名なホテルバッファローで結局、辻はマダムにその違法なランプを取り上げられてしまう)それで読み書きをした。
自分の場合はそういう才覚がないから、近所でこういうクラシックなランプを買ってくる。まるでパリのレジスタンスのお下がりである。こういうクラシックなランプを今でも売っていることと、辻とかむさうあんの時代を昨年のことのように至近に感じられると言う意味では、パリは文化的である。
速達で編集部(のあさみさん)から届いた「新潮45」にむさうさんと文子の話しが出ているので、ますますパリの1920年代がすぐそこにあるような気持ちになった。

こんなランプでもこれを胸の上に乗せて、ベッドに仰向けになって文庫くらいは読めるし、moleskinだってメモはとれる。だたしこの電池は5Vとかの旧式なやつで、30分ももたない。そういう電池がまだあるパリはたいしたものだ。辻潤はパリ日記で「いまでもガス灯がありひどく古めかしい感じがした」とある。そういうのが文化なのであろう。

2009年4月21日 (火)

フォカの憂鬱

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R1159689

この前の日曜は福田和也一味の「あの写真部」の部活だった。その話は別に書く。
今週からパリ行きである。それで持参のカメラをきめるのでまた一悩みした。デジカメの方は決まっているからこれは問題無しとして、問題なのはフイルムカメラの方だ。
新書の「カメラは知的な遊びなのだ」(アスキー出版)と、最新刊の「カメラに訊け!」(ちくま新書)でもあたしのカメラ武装論は、コンパクトデジカメとフイルムカメラの「二刀流」がこの世界を認識する基本なのであるという思想だ。

アサヒカメラ1980年10月号にパリのメトロのシリーズを8頁ほど掲載している。カメラはライカである。29年前の撮影がライカであったが今でも撮影はライカなのだから、あの当時のライツ社が経済的に問題が起きるのは当然である。
今回のパリは新基軸を出そうと思って、フォカを持参する。
これは仏蘭西製のライカである。
やはりパリなのだから仏蘭西のエスプリがあるカメラにしようと思うのは、そのエスプリに騙されているのは間違いない。これを我が国モードに変換すれば、日本を撮影するのだから「やまとだましい」の宿る日本のカメラと言っているのと同様でこういう自分の精神主義はもとより上げ底で信用できないが、いざとなるとそういうわずかな気分の相違が撮影のパワーになるのもまた事実なのだ。

日曜には数台あるフォカの中の一番シャッターが具合よさそうなのを1台だけ選んでそれで撮影をした。福田和也さんは紳士だから「これはシャッター音がコンタックスみたいでいいですねえ」と誉めてくれた。
その1台を月曜の朝にヒルズに持参しようと思ったらどうもシャッターの具合が悪い。後幕がちゃんと走らないのである。それで手許にある数台を調べたら、どれもこれもどこかしらが具合が悪い。
ちょうどどっかが病気とか不健康になっている、われわれ世代のようだ。しかもこのカメラは本当に自分たちと同世代なのである。
パリ行きが迫ってきて、1台だけ持参するとしたら、どれが一番安全なのか思案中という状態だがそれをまた楽しんでいるわけだ。

2009年4月20日 (月)

ブラックなニコンS2のこと

R1159489 ブラックのニコンS2と言えば、そのカメラで撮影した東松照明さんの名作で1960年の9月号に「占領」がある。これは横須賀でブラックのS2に25ミリのニッコールで撮影された。

そのS2を森山大道さんが借りて「日本劇場写真帳」などを撮影しその後に返却しないで「呑んで」しまったのである。これはすでに伝説の域に達している。

そのS2ブラックは今でも誰かが持っているわけだ。

自分の場合、S2ブラックは二度買うチャンスがあったのだがそれを逃した。最初は1970年代のパリであって、オデオン座のそばのメトロのオデオンの近くのフォトオデオンのウインドウにブラックのS2があった。その後、1984年ころ、大阪の南で、ちょうど「アマデウス」が公開中の当時、その映画館の向かいの小さいカメラ店にS2のブラックがあった。これはたしか68000円だったが1980年代には大変高価なプライスタグである。

S2のブラックに引かれるのは、やはりNikonのNの字の「ぐりゃり感」がニコンSの伝統を引きそれが立っていること。さらにブラック仕上げの背景でいっそう先鋭的に見える点であろう。60年代にはまだ報道写真に力があると、社会が誤解していた時期なので、報道写真家は意識過剰で、「われわれは社会をカメラで告発するために、ブラック仕上げのカメラで街に潜む必要がある」と、なかば本気で考えていたのである。ゆえに、巨匠ユージン・スミスはニューヨークの5番街でブラックのカメラを構えて渋面を作ったりしていた。今にして思えば幸せ時代だった。

このカメラは数年前に買ったリペイントであるが、それはそれで一向に構わない。ただ、このニコンを買うときに、それが本物の焼付け塗装であるか、それに注意した。これは重要であって、気をつけないとただのクロームの上にブラックの塗装をしただけだと、下地に普通のクロームが出てくる。それは困るのである。なにが困るのはそれを自問してもよくわからないのだけどやはり困る。

このカメラを買うときには、高倍率のルーペを持参して、ほんの一箇所だけペイントがはげているところを仔細に観察して、地金が真鍮であることを確認した。実につまらないことに気を使っているわけだが、それはそれでブラックニコンの楽しみなのだ。

R1159490 このレンズはelcanつまりエルンストライツカナダ製である。もともとは50ミリのCマウントの無限に固定されたレンズであったのを修理名人の良元堂さんにコンタックスマウントに改造してもらったのだ。

ただし、もともと16ミリのフィルムサイズなので、24x36だと周囲まで光がこない。つまりクラシックな言い方だと「アジエる」わけである。

ブラックニコンS2にはブラックのレンズが似合う。戦前のツアイスのゾナー135ミリのコンタックス1型当時のレンズをこのニコンに装着したら、似合いすぎで怖いほどであった。

2009年4月19日 (日)

ブラックなコンタックスの皮をかぶったキエフのこと

R1159532 以前からその存在は知っていたが、まだ手を出していないものにこの手のカメラがある。

これを偽のコンタックスであるというつもりは毛頭なくて、第一コンタックスそのものがすでに新品のカメラとしては地上から消えてしまった現代であるから、こういうジョーク製品には逆に面白い。

これはキエフ4Aをベースにしたブラック仕上げのコンタックスという格好だが、ロシア人のユーモアはなかなかのもので、以前はライカコピーのフェドがベースのタナックなども存在してそのロシアの冗談のきれの良さに拍手したものだった。このコンタックスがほしいのは物欲ではなく、これで撮影したらよい写真が撮れるであろうと思うからだ。その土台になったキエフは1970年代のウイーンで愛用したのだが、戦前のコンタックスよりもすぐれているのは、そのシャッターが「最近に作られた」という点に尽きる。しかもゾナー50ミリf2のコピーである、ジュピターは優秀レンズである。

戦前のコンタックス3型ならそのメーターは生きているはずはないが、このモデルならメーターはびんびんと元気そうだ。

それにカールツアイスイエナの勲章が肩についているのも偉い。戦前のツアイスのコンタックスのカタログでは確かに、このようにツアイスマークがついていたのだが、それはカタログ上でのグラフィック上の処理の話なのである。戦後の西ドイツ製のコンタックスにはこのように実際にその肩の部分にマークの入ったカメラもある。

ツアイスイエナ製の珍品に俗にイエナコンタックスというモデルがあって、これは戦後にわずかにドレスデンではなく、イエナで生産されたコンタックス2型なのだ。でもその価格はとんでもない値段だからそういうカメラよりもこういうカメラの方が実用性はある。

2009年4月18日 (土)

五輪ピック

高校生の時に、オリンピックを見た。

あの五つの輪の黄色いのがわが大陸と列島であると教えられて納得をしたのである。

当時は遊びに乏しかったから、「東京オリンピック」は国家的イヴェントだった。そのあとの自分の国家的イヴェントはその4年後の10.21国際反戦デーである。

高校生であるから、たいした試合は見られなかった。開会式の時に国立競技場の上で開いた戦闘機がこしらえた五輪が南風をうけて、志村の丘の上まで流されてきたのをみた。それでも十分に興奮した。

試合を見に行ったのは、戸田のボート競技であるが、人気がないので誰もいない状況だった。しかも寒いし、夜はまっくらでまだ江戸の闇というか、戸田の闇が支配していた。市川監督がすでに真の闇になったボート競技を無理に35ミリのアリフレックスで撮影し、フィルムをプッシュしたけど何も映っていなかったとあるが、そういう時代だった。今ならカメラのゲインをあげるだけだから実につまらないものだ。

この数日来、ヒルズのスペースが使えないので何事と、と思ったらその五輪招致委員会のプレスセンターになっている。年寄り(あたし)は最近、朝が早いので午前8時に下からエレベータに乗ったら外国の記者さんと関係者の日本の人とが話をしているのを立ち聞き。昨夜のデイナーは素晴らしかった、、、今日は一体何時に終わるのかなあ、、見当もつかないとねえ、、、その外人記者さん。今朝のニュースでもやっていたが、インスペクションの人々は27か所だかの施設を一日で視察するのだそうである。

昔、坂崎幸之助さんと東京のカメラ店クルージングで一日かけても、カメラ店が5つが限界だった。しかも今日(金曜)のどんよりした天気は視察団に東京のいいところを見せるには不利である。

目下、アカデミーヒルズのギャラリーにて1964年の東京オリンピックの当時の偉い人の所持していた各種の記念品とか書籍とかの展示がある。その中で、公式のランチのメニューが面白い。全部フランス語でワインなどは1950年代後半のやつである。今の皇室の晩餐会などよりちょっと皿数は多いようだ。それでもプログラムとかの紙の質はすっかり色あせてなにか戦前の戦争関係の資料を見る感じがしたのは、もともと五輪は一種の「代理戦争」という認識が自分にあるせいであろう。

面白かったのは、メニューの文字列の下の方に「ヤマハエレクトン」とあったことだ。公式の昼餐でVIP連中は電子音を聞きつつまじめな顔して食事をしたと思うとなにか微笑ましい。

自分などは1964を経験しているからもう五輪不要と思っている方だが、周囲の皆さんは「五輪がくればよいですねえ」と、なかなかに熱心なのである。考えてみると自分などより皆さん年齢が一回り下である。だから1964は幼年でご存じないのである。まだ知らない2016年の五輪に期待するその気持ちはよく理解できる。

訂正。 上の記述のエレベータの中であった外人ジャーナリストと見たのはそうではなく、IOC評価委員のお1人だった。朝日新聞朝刊の左から2番目の外人さんと左の日本人さんとエレベータで一緒だったのである。 その外人さんがだれであるかは不明だが、同じ朝日新聞の朝刊の記事によれば、まず人種的特徴からすれば、英国人に違いなくそうなると世界アンチドービング機構理事であろう。 この人が先にエレベータの中に居たあたしに軽く眼で挨拶したのは、向こうのパブリックな場ではごく普通なので、昔経験した欧州のプレスクラブを思いだしたのである。 もっともアカデミーヒルズのエレベータは、小泉さんが出てきたり、MoMAの館長に同じエレベータの中に乗り合わせたりするから、それがどうこう言う話でもない。 R1159536

2009年4月17日 (金)

狭い浮世

先週の土曜の朝、今年初めての魚河岸に行った。買ったのはいつものマグロのパック(本マグロの赤身、中とろが満載で650円)と、小ぶりのムキホ(これは魚河岸言葉でホタテの貝柱)と、「たいのこお」である。たいのこお、とは錦市場あたりのローカルな言葉で、たいの卵だ。子規が「鯛の粟子は白子に如かず」と明治時代に指摘してあるとおり、白子も卵も同じ値段なのだけど、白子はたしかに味わいはいいが、飽きがくる。ライカブラックペイントにライカビットMPをつけたようなもので、味わいはあるが日常にはその味わいがちょっと重く感られる。それで粟子(鯛の卵)の方を買った。しょうゆと酒で薄味に煮付けてもうない。

その魚河岸で偶然、声をかけられたのが、御徒町の吉池の鮮魚の部長さん(これは現職で、あれから10余年経過しているからもっとえらいのかも知れない)である。なんでも土曜は休みなのだが、それが例外的に土曜に魚河岸にきてあたしに遭遇したわけだ。

魚河岸は広い場所でしかも混んでいる。よく遭遇したものだと感心した。もっともこういうことはありがちかも知れなくて、1970年代、パリの夕刻のシャトレ駅の乗り換えの通路で、ウイーンに住んでいたユダヤ人でその当時、日本でジャック先生という「源氏名」で英語の教師をしていたやつに遭遇した。パリでユダヤ人は珍しくもないが、パリで東洋人(の日本人)はまだ数は多くなかったときだから、向こうから声をかけてきたのである。

今朝(2009年4月15日)ヒルズに行くので六本木とおりを歩行していたら、向こうから来たのがカメラ人類の武田さんという人だ。この人は10余年前に丸の内線の混雑した車内であたしのことを「盗撮」してくれた。ミノックスを新聞の下に隠して撮影するので、これは知らないふりをしないと失礼であろうというので、しらんふりをしていた。それから3年後に東京のどっかで遭遇してその話になり、後でそのときの証拠写真を送ってもらった。

ミノックスで写真は撮る自分であるが、ミノックスで自分の写真を撮られたことはないので、これはうれしかった。今なら、デジタルミノックスがあるのでフィルムのミノックスよりだいぶ楽になった。

武田さんは放送局関係の人であるから、森タワーの16階だかに仕事場があるという。タワーの上と下でもエレベータは共通ではないからこういう遭遇は稀なのである。

2009年4月16日 (木)

青柳

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欧州にいると待たれるのは復活祭の月曜(オースターモンターク)である。

別に耶蘇教であるというのではない。いや耶蘇教ならそのありがたさがもっとよくわかるであろう。

戦前もかなり押し詰まったころに、足穂が関口教会の公教要理にかよっていた、冬から春にかけてのあの界隈の描写が好きである。

たたし足穂はさくらに関しては書いていないのが手柄であると思う。

画像の下、ふたつは毎年の家のベランダから見える桜だが、こういうのは視神経がなれてしまうと少しもありがたみがない。今は葉桜になってほっとしているのだ。

それより一番上の画像の桜が散り終わった後の、青柳が好きだ。その色彩に日本の美を感じてしまうほど、自分はまだ年齢が行っているつもりはなく、復活祭の後の欧州の新緑をそこに感じるのだ。

プラハのPからのメールによれば、復活祭の月曜日のプラハは気温が26度とかにて、これは過去250年の記録であるという。アトリエで2週間前に吹雪を見ていたのだから、気候はわからないものだ。モーツアルトもびっくりであろうというのではない。そんな以前の気温の記録がちゃんとあるのが、さすがにマニエリスムの本場だと思うのだ。

2009年4月15日 (水)

ハリネズミのブックカバー

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ハリネズミのブックカバーである。家人がお弟子さんんからもらったのをテーブルの上に置いてあって、部屋の行き帰りにそれを見て、それがハリネズミのマークがついていることは理解できるが、一体何に使うものか皆目見当がつかなかった。
家人に聞いて、それがブックカバーであることがはじめて分かった。

ブックカバーは不思議な物体であって、どうも主婦の工作という感じが強い。また、電車の中で向かいで文庫を読んでいる人がブックカバーをかけていると、その人の記憶というのが、後で思い出してみると、ブックカバーの本を持っていた乗客という印象しかないので、このブックカバーと言う存在がどうにもへんてこなものであるという証明にもなる。

たとえば、最近はTVは見ないが10年前、まだTVを見る習慣があった当時、歳末の年賀はがきの売り出しで、その中央郵便局の長い列などをカメラが写していると、かならずその中にシニア帽をかぶった(あたしが常用する例の帽子)じいさんが週刊誌かなにかで顔を隠していたりする。この「意識過剰な匿名志向」というのは、最近では個人情報なんとかでますます変な道に踏み込んだので、その行方を見るのは楽しみなのだけど、そういう「どうでもよい匿名性」に似たものをブックカバーには感じるのだ。

それはまた、30年ほど前の家庭の主婦がなにか家庭内のすべての物体をまるで、クリストの現代作品みたいに、ドアのノブからダイヤルの電話から、ちり紙の箱からなにからなにまで、花模様のカバーで覆ってしまったあの、ヒステリックなデコにも似ている。

個人的に見れば、このハリネズミの意匠というのは、あたしがはりねを飼っていた、1980年代には実にレアなデザインであって、家人はその当時、ハリネズミのその手のデザインの物件を集めていたりもした。

ブックカバーは自分の日常生活の中で浮遊する「なずけえぬもの」なのだ。ライカとかアリフレックスやら機械式クロノメーターなら、それらは精密機械であり、実用性があり。、同時にオブジエでもあるわけで、理解がしやすいのだけど、こと、ブックカバーに関してはその存在の属性とそのオブジエの在りどころが不明なのである。

1月前、新潮の4月号を神保町の書店で買った。年配の女主人とも見えるひとが丁寧にその新潮を紙のカバーで包んでくれた。こういうのはそこにクリストを感じるのだが、布製のブックカバーというのは、それが皮膜でなく、厚さのある素材であるがゆえに、アート的なただずまいよりも、むしろ工芸品をそこに感じてしまうのが面白くない。文庫とか文字だけの文芸誌は物体性から一番、浮遊したところに存在する、いわば言葉がかりに紙の上に仮寓している感が面白いのに、それにブックカバーがかぶさるとなにか、言葉がその紙の上から離陸できなくなる感がある。

ファインアートと工芸美術の違いはここで言うまでもないけど、ウイーンなどに長くすんでいると、ビルデンデンクンストとアンゲバンデクンストとはもとより異なるものであることが認識の奥の方まで理解できることになる。だからエゴン・シーレと、ヨセフ・ホフマンのいずれをとるかと詰問されれば、それはシーレであるのは疑いがなくて、その理由はホフマンのウイーン工房あたりなら、なにかブックカバーで宝飾を施した一種豪華な装飾のがありそうだけど、シーレの上にはそのような「ブックカバーくささ」は感じられない。

おととしの六本木ヒルズの森ミュージアムでのコルビジエの展覧会で面白かったのは、彼のパリのアトリエの再現があって、そのアトリエのレプリカの真ん中に立ってみて、それがプラハのアトリエよりは広いけど、室内はずっとクラシックであることが面白かった。

そのことよりも、自分の興味を引いたのは、大建築家の愛犬の皮をそのままブックカバーにしたやつの展示だった。これを進化させれば、さしずめ澁澤文学で、愛人の皮膚で装丁した古書というところまではあと一歩である。

でも愛ハリネズミのはりはりの皮で自分はブックカバーを作りたいとは思わなかった。しかしはりねの健康が悪化した当時、ひそかに神田方面の剥製屋が頭にあったのは事実である。

ソ連のガガーリンの半世紀の偉業関係で、宇宙博物館がモスクワに出来たそうだが、これはぜひ、行きたい。その中に2匹のライカ犬の剥製も展示されているそうだ。

ライカ犬のライカは、LEICAではなく、LAIKAである。このポストカードを見ると、ライカ犬はヒロイックかつ、悲劇的な表情だ。

マンハッタン在住の佐々木けんじろう画伯の愛猫「おにいさん」が亡くなったとき、獣医は「皮はいるか」と聞いたそうである。それで佐々木画伯の奥様は「いりません」と言ったそうだが、欧米の皮膚感覚はもとより、日本のそれとはかなり異なっていることがわかる。

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2009年4月14日 (火)

佐々木崑先生

R1159289佐々木崑先生に最後にお目にかかったのは、3年弱前のアサヒカメラ主催の米寿のお祝いの席でであった。

ダンデイな崑さんは、ステージ上でお孫さんから花束を受けられて実に良い笑顔をされていた。

崑先生とは、東京の路上で実によくお目にかかる機会があった。そこでの立ち話は最新式のカメラの話ではなく、ドイツの話とかプラハのビールの話なのである。もともとお師匠さんの木村伊兵衛先生から「プラハの様子を見てきてくれないか。プラハの黒ビールはうまいぞ。」と「そそのかされて」の崑先生の外遊がこれもすでに1960年代なのである。

そのうまいプラハの黒ビールの店というのは、モルダウ川の近くの「ウ・フレク」というビアホールだ。1970年代でもプラハはガストロノミーに乏しくて、黒ビールならここだった。大ジョッキ一杯が当時は5コルナであった。日本円で5円が1コルナである。今は30コルナ。

崑先生は家人の歌曲のリサイタルにも良く来てくださった。家人に向かって「シャリアピン以来の美声を聞いた」などとスマートなお世辞で褒めてくださるのである。そのシャリアピンはCDで聞いたのではなく、戦前の日比谷公会堂で聞いたのであるから、本物の耳をお持ちだった。

言うまでもなく、崑先生は昆虫写真の第一人者である。ゴキブリの子供が卵から孵化するのが実にかわいいと目を細められたのも忘れられない。

何年前か、電話で「今度欧州に行くことになったので」といろいろな質問をされたのが、電話ではあるが親しくお話をさせていただいたのが最後になった。

でも銀座のカメラ店の角などでまたお目にかかりそうな感じがする。

崑先生のお弟子さんが平カズオさんである。80年代にオリンパスのカメラ雑誌の名広告で写真家とその弟子のシリーズというのがあって、崑先生と平さんとが見開きのカラーページに登場したのも今は昔だ。昨日、平さんの写真集計画の件で平さんの奥様とメールを交わしたばかりでの今朝の朝日新聞の訃報である。

蜂鳥時代のカメラ

18434aコリブリと聞くと、日本語環境ではごきぶりと勘違いするが、これはドイツ語でハチドリの意味である。

同属には我が家のライカインコなどもおるが、鳥という存在はそれが飛行機の素であるだけ、なにか人間さまなどより進化した存在であるような気になる。

この前、アエロフロートの機内誌がそのコリブリ特集(無論、カメラではなく、鳥の方の)であったので、その画像が珍しいので機内誌を持ち帰った。

さて、カメラの方のコリブリの話だが、これに使う127というフィルムはかなり前に生産中止になり、最近では好事家が120フィルムから切り出して使っているそうである。自分も10年近く前に、季刊クラシックカメラマガジンの責任編集長時代に、編集部のタカザワケンジさんらとお金を出し合ってそれ専用のカッターを買ったりしたのも懐かしい。

ベストサイズというのだが、考えたらそれはbestではなくvestなのである。昔の人の洋服の隠しは大きかったようで、これをそのまま胸ポケットに入れるのは今の洋服の常識からするとかなり困難である。

もっとすごいのは当時のポケットコダックであって、これ大きいのは週刊誌の半分ほどのサイズだから今なら絶対にポケットには入らない。前世紀の紳士のポケットは実に大きかった。コリブリの場合、127フィルムを半分にした画面サイズで撮影をする。この場合、それ用の赤窓の表示というのは存在しないので、カメラの背面には赤窓が2つあって、同じ数字を二回見て巻くのである。

小学校の臨海学校の時にもたされたのが小西六のベビーパールであった。父からその「同じ数字を右と左の赤窓に交互に出しておく」という操作方法を教わった。

今回の撮影ではその半世紀以上前の父親の記憶がよみがえった。

撮影したテストネガはクロアチア製のモノクロフィルムであったが、かぶりもなくしっかり写っていた。これはプリントではなく、スキャンした画像を取り扱うのがよさそうだ。

野々宮BMWが最近、フィルムスキャナーを「新調」して(大昔のモデル)彼のエジプト旅行のワイドローライでの撮影のスキャンがなかなかだったので、野々宮にスキャンを依頼するちもりだ。

2009年4月13日 (月)

LACOウオッチのハンドに金をいれる

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手にいれたソ連製のドイツの軍用時計をそのままコピーしたLACOモデルであるが、この生産地がチエリアビンスクといって、ウラル山脈の東側の南方向にある。
エカチエリンブルクよりちょっと南の工場都市だ。
こういう知識は昨年の秋のJTBの取材でロシアに行ったので、ロシア方面がかなり親しく感じられるようになったおかげである。ゆえにRR製のエンジンのついたエアバス330で空を飛んでいても、ウラルをこえればそのたびにチエリアビンスクを思いだすのは嬉しい。
とは言っても、時計の生産地というのは概して「陰気な土地柄」が多く、まあ、そういう土地でないと時計のメカなどは生産していられないのであろうが、スイスのシャフハウゼンもドイツのチエコ国境のグラスヒュッテも陰気な街だった。その意味で、フィレンツエのパネライなど、実に脳天気な場所で高級時計にふさわしくないが、あそこでメカを作っているのではないから、これはそれでよい。10年前、そのパネライを飛び込みで取材したら、なかなかの対応で感激した記憶あり。ただしフィレンツエの本店には本部がないので、電話でミラノのプレス担当に「変な東洋人がきたが対応してよいか」と問い合わせてオーケーになった模様だ。あとで、帰国してからモノマガジンの連載にその記事を掲載して、パネライの日本総代理店の広報さんからお礼メールなどがきた。

先週、手に入れたLACOをコピーしたウオッチは15石で巻くと変な音がするが、機械のあたりがよかったようで、うちのシャフハウゼンのクロノメーター並みの正確さだが、いかんせん、針が「プロ仕様のマットブラックのロービジ」なのでこれで実際にパイロットが飛行したら、即、事故りそうである。
それで油性マーカーを探したが、つい最近マーカーで焼酎のボトルに「トプコンファン チョウトク」と描いたのは、記憶しているがそれは佃の我が家ではなく、どっかの飲み屋でだった。

それで土曜の昼過ぎにわざわざ、銀座のいとうやまで、マーカーを買いに行った。
銀座はほこてんなので眼がまわった。
金色のマーカーは220円。いとうやには数年ぶりで行ったが、メルシー券はなくなって、普通のカードシステムになっていた。

帰宅して、スイスの時計職人とまでは行かないけど、時計の風防を外して針に金を入れたので、素人仕事ながら、ちゃんと時間が読めるようになった。
、、

2009年4月12日 (日)

新しい定期いれ

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MP突撃隊長とは、その命名は本人であるから文句をいう筋のものではない。アローカメラのシドニーの常連の若い人だ。この人はオンラインカタログの物品の撮影を膨大にこなしているそうで、あたしがこの人が本もののプロだなあ、と思ったのは彼がオンラインカタログを撮影するときの、画像サイズの「小ささ」を知って以来だ。大手の広告代理店さんでも「なるべくフルサイズのデジタル一眼レフでお願いします」というようなリクエストがあるのは、そういう人は営業のプロであっても、デジカメにはあまり縁のないせいでもあろうが、こういう突撃隊長のような現場の人はその事情をよくしっている。
ゆえに本物のプロは小さな画面で撮影し、アマチュアさんは「いつかのため」にRAWでしか撮影しないという本末転倒なことになる。こういう画面サイズの話しはまた別の時にする。

さて、それはさておき、突撃隊長が「つまらないプレゼントがあるので、マンションのポストに投函します」というメールがあったので、「このタワーの郵便受けは外部からアクセスできません。また、受け付けに荷物をあずけることもできません。セキュリテイの理由です」と返信した。外部から郵便とか、宅配ならアクセスできるがそれ以外に物品を受け取る方法はこのタワーにはない。

この1月にもと某有名週刊誌で皇太子さま番をしていた記者さんで、今は亜細亜を放浪して悠々自適な某さんが、それを知らずにタワーの受け付けにみえて、タイの小海老の干したのを渡そうとして、それが受けられないというので、フロントと一悶着あったそうだ。その時には「例外的」に手紙だけは伝達された。
まあ、サービスとかいう以前に最近のマンションの管理の進んでいるところ(かどうかはひとまず置くが)はこんなものであろう。1f下にTVで有名なジャーナリストさんが居たりしてその人はときどき発言が物議をかもしだしたりするから、受け付けで品物など受けていたら、何が届くか分からないような状況もある。
集合住宅の安全対策というやつだ。

それで突撃隊長には郵便で品物を送ってもらった。中から剃刀の刃とか、銃弾が出るかと思っていたら、カラフルな定期いれである。この数年来、いつもカードとか、現地通貨を入れて便利につかっている、定期いれ(画面左)は300円ショップで家人が買ってきたものだが、そのバックアップ用ということで、これはありがたい。
ただ、セサミストリートのキャラクターは、クッキーモンスターの方が好きなのである。

2009年4月11日 (土)

東陽町の犬

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プラハから戻って、2週間である。2週間後にはパリに出発するのである。
その理由は、この前のプラハ滞在で、たまたまプラハの老舗で「paris praha」というのがまだ存在することに気が付いてこれはパリに行かねばならないと、プラハのアトリエのオンラインで4月24日発のパリ行きのチケットを予約したのだ。プラハとパリとはこの100年を見てもなかなか深いきずながある。それを確認するためにパリに行く。

これが戦前の日本だと仏蘭西に行くというそのことだけで、まだ行かない前からその仏蘭西行きを題材にした男女の物語りで、それだけで小説が一本書けてしまう時代というのもあった。それに比較すると、今は思い付きで、パリ行きのチケットを買えるわけだが果たしてそれは幸せなことなのか、それとも不幸せなことなのか。それは実際にパリに行ってみないと分からないので、今月の後半の宿題にしよう。

さて東京大周遊。
金曜の朝の快晴の東京はこれはまぎれもない「東洋の神秘」であるから、この場合、ヒルズに原稿書きに行くような気分はおきずに、いや、本当は3年ごしの二眼レフの本のラストスパートとか、これも昨年来懸案の「チョートク佃七年日記」(仮題)の仕上げをせねばならないのだが、実にその意味ではえい出版の清水編集長とen-taxiの田中陽子編集長には会す顔がない。さらにこの日記の出版のアイデアを出してくれた、偽ライカ同盟の福田和也同志にも申し訳がないと、こう書いてしまうとそれで一種免罪符を得たような気分で安心して、ヒルズとは反対方面、月島駅9時50分の清澄白川止りの電車に乗った。
まずはロケハンの町歩き。これが雜文書きの素にもなると、言い訳。

ところで、4、10東京大周遊では、20年ぶりに東京フリー切符を買った。価格1580円なり。1980年代にはこれの御世話になっていたのだが、その存在を久しく忘れていたのだ。このフリー切符は東京メトロ、都営全交通機関に加えて、JRものり放題なのでその行動半径はまさに無限大になる。紙面がないので詳しい経路は書かないが、今日は佃ー錦糸町ー東京駅ー中野ー飯田橋ー駒込ー西日暮里ー舎人線の往復ー日暮里ー京島ー泪橋ー東京駅ー月島と言う巡回順路であった。統合14回乗物に乗ったのである。こういう馬鹿な動きをする人間は多くはなかろう。

カメラはライカMDにスーパー暗愚論21ミリ。それにリコーのCXー1。
上のアンダルシアンの犬ならぬ、東陽町の犬を見たのは、これは錦糸町から都バスで東京駅北口に向う時に、東陽町交差点の手前で、進行方向右手にこいつが通過した。やけに元気な小型のワン公であって、飼い主のおっさんをぐんぐんと引っ張って行くのがなにか「犬の元気塾」であった。

こういう時にはデジカメの立ち上がりを待っていてはもうワン公はタバコ屋の角をまがってしまう。CX1はR10に比較してかなり速写性能は増したのだが、これはカメラの責任ではない。その犬が角の先に消えた後で、「ああ、あいつを撮影しておけばよかった」と思いだしたのだ。こういう場合には記憶にたよって大体の恰好をラフに描くしかない。ところが今日に限って、MOLESKINの手帳を忘れてきた。モンブランの万年筆はちゃんと持っているのにだ。仕方なく、昨日のスーパーのレシートの裏にこれを描いたのである。いい加減な絵であるが、自分の見たワン公の記憶を保全するにはこれで十分だ。、

その後、中野を徘徊して、駒込経由で舎人ライナーの終点まで行き、日暮里に戻って、ニッポールの旧跡を訪問し、京島を徘徊した。明治通りのこの岩下写真店の存在に今まで気が付かなかったのは、その店の前を歩いていたからだ。あまりに至近距離であったので、ファサードに眼が行かなかった。こういう昔のカメラ店はなにか古代ローマの遺跡、それもローマ帝国の辺境のそれを見る思いがする。さしずめ、ウイーン近郊のカルヌントウムの遺跡めいているのがいい。
また白髭橋を西に超えて、大林に行く。1月20日以来だ。、あわもりを2杯で止めにして、都バスを乗りついで佃に戻るに、午後5時半。
ライカインコよろこぶ。

2009年4月10日 (金)

kolibriとefke

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東京の時差がもどった、この前の日曜に、例のごとく野の宮BMWにて都内のカメラ店徘徊。
目黒の散歩カメラにて、コリブリを買う。価格1万1千6百圓ほど。1973年当時のウイーンで、町外れのカメラ店のほこりっぽいウインドウの中に、高価な値札をつけて陳列されていた、この黒皮ばりの石鹸箱の古都を思いだす。

127フイルムが最近では手にはいらないというので、この手のカメラは「捨て値」である。10年前、やはりコリブリを持参して、京都は俵屋の前を撮影し、それをアサヒカメラの連載で掲載したとき、そのベスト半裁の画質の良さに驚いたものだった。
これからのこういうカメラの使い方は、暗室でモノクロプリントではなく(すでにクロアチア製のモノクロしか存在しない)ネガをスキャンしてデータを使うことになりそうだ。
ライカに比較すれば、ロールフィルムであるのがマイナスだけど、その有効画面はライカよりも大きい。しかもテッサーの50ミリ付である。10年前に撮影したのは、テッサーではなく、ノバー50ミリであったが、これも優秀なレンズだ。

フイルムは今、ブームのクロアチア方面の出身だ。五年ほど前、まだ白金の松坂屋カメラが存在した当時、まとめて買ったのである。すでに期限切れから5年経過しているが、スデク好みのトーンカーブの「寝た」いい感じのトーンが期待できる。こういう年月をフイルムに感じることができるのは、ワインなみの楽しみである。
デジカメのメモリーには期待できない技だ。

さっそく、1本撮って、現像を有楽町のビックカメラに持参したら、店員さんがなれていて、こっちはスプールの返却を頼んだのに、バックペーパーはどうしますか、と訊かれた。ようするにそこそこのお客さんが127フィルムを現像依頼に出しているわけだ。しかも裏紙えを要返却というのは、自家製の127フィルムを120から切り出してそれをリメークしている証拠である。

こういう話はうれしい。

2009年4月 9日 (木)

時計の針が読めない

R1159288戦前のパイロット時計はブームであって、これがオリジナルの第三帝国製だったりすると、その買い物に綿密な経済計画を建ねばならない。
そういう戦前のパイロット時計は精度がどうも、というので似たようなデザインのをスイスのラインの源流の赤煉瓦の建物の時計工場が生産したりすると、これはもう綿密な経済計画ではなく、時計を人工衛星の軌道に乗せるよりも難しい。日本円で下に6桁のゼロがついて、しかも最初のデジットは1ではないからだ。
そうなると、われわれ、清貧党の経済防衛はおのずと、旧ソ連のウオッチにゆくわけである。これはウクライナから55ドルで買ったものだ(送料15ドル)が、15石の石が入ってその正確さは、自分の所持しているクロノメーターと変わらない。これはドイツ軍の航空時計LACOのコピーである。コンタックスがキエフになったのと同じ事情がありそうだ。

以前、スイス製の表面が裏表に回転する時計のゴムバンドを交換しに、三田にある代理店に行った。たかがゴムバンドがこの時計の4倍の価格なので、驚愕した。上野のカメラ兼、時計やさんが「クラシックカメラよりウオッチの方がなんぼでももうかりますな」と言っていたのを思い出す。
クラシックカメラは会社に持参したら、即くびかも知れないが、クラシックウオッチはそういうことはあるまい。
それで満足のソ連製フリーガーなのだが、これは文字盤はリメークしてあるのはありがたいとはいえ、時計の針がマットブラックの上のマットブラックなので、時間がまったく分からない。
スイスにクレージーアワーというすてきに高価な時計が存在するが、こっちはそれほどにクレージーではないにせよ、精神を統一しないと時刻が判断できないのだ。マットブラックにマットブラックの針であるから、まじめに見ても時間はわからない。それで文字盤の反射で見るのである。こういう「おばか」なところが、ソ連製の機械のよさだ。
まあ、それがそれで気に入っているのであるが。今度、プラハに行ったら、ゆきつけのクラシックウオッチ屋で、ハンドだけ、蛍光色にペイントしてもらおう。

2009年4月 8日 (水)

さくらちゃん

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この船に気がついたのは割合最近だ。このタワーの住民で一番、川面を観察しているのが自分ではないかと自負している。ようするに暇なわけである。川面を観察するにはこの角部屋は好都合だ。隅田川は新大橋で屈曲するが、そこから中央大橋までは、隅田川の流れの延長線上に部屋のある恰好になる。ゆえに川の上の船舶は横切るのではなく、こちらに向ってくることになる。

この小舟を最祖に見たのは一昨年の夏の午前だった。ただし色はこれではなく、ブルー系統である。永代橋の下を超えようとしている、その姿が小さくかわいらしいので双眼鏡で追尾したが、佃に常備の勝間の6x30では遠方過ぎて見えない。もっと高倍率のが必要と思っていて、昨年末に手にいれたのが、伊太利はガリレオ製の36x50という途方もなく長い双眼鏡である。これは軍用ということだが、こういう双眼鏡で遊んでいる伊太利の軍隊は戦争は強いわけがない。それでまた伊太利を信頼する気持ちになった。もっともこの双眼鏡でこの船を観察するようになったにはずっと後のことだ。

その船に「色違い」のあるのをしったのも最近のことである。最初に見た方のブルーの船体はなにかベニスのキャナルグランデを想起させたが、このえんじ色は春のうららの季節にこれで「ぷかぷか」したら似合うであろうと思って、伊太利の高倍率双眼鏡で見て、驚いた。その船名は「さくら」であったからだ。

前はこの船を「エンテふね」と呼んでいた。その「ぷかぷかぶり」がいかにもキャナルに浮かぶ鴨に似ていたからだ。でも本名を確認して以来、これを「さくらちゃん」と命名した。
双眼鏡で見ると、船尾に千代田区の旗がついている。まず七人乗りというところで、操舵は船の最後尾のキャビンの中でするのがなにか奥ゆかしいところがある。
しかも小さいので、脇をバトームッシュが通っただけで、横波で転覆しそうになるのも、なかなかである。ようするに「隅田川のおみそ」というその存在感がいい。
これに乗って、川面からうちのタワーを見上げてみたいものだ。

2009年4月 7日 (火)

ライカM2の60年代的使い方

R1159289先週末に野々宮BMWで久しぶりに東京の西の部分のカメラハンテイングをしたわけだが、その時持参したのがこのM2である。想えば1967年からM2のお世話になっている。すでに40年以上。
当時はライツ製のレンズなど高価で買えなかったから、もっぱら安価なキヤノンとニッコールのライカマウントのお世話になった。この35ミリニッコールf3,5というのは、あたしの最近のマイブームレンズである。その広告の話は好評発売中の「カメラに訊け!」(ちくま新書)に書いてあるが、それは六本木駅の地下鉄構内のマンハッタンの有名宝飾店の広告であって、その理由は不明ながら、ライカ3fにこのレンズをつけたモデルさんが写っているのである。それで良く視ると、その広告には指輪とかブレスレットも写り込んでいるのであるが、そういう高級宝飾品よりも、使い旧しのライカとニッコールの方が存在感のあるのが痛快である。それでなぜ、このような一見してどっかの中古カメラ店の広告のようなコンセプトの広告がヒルズのお膝元に掲示されているのかについて思索したのが、ちくま新書の一章なのである。

このライカスタイルがなぜ、1960年代的であるのか、これは説明しないと2009年のライカ人類には分からないであろう。種を説明してしまえば、まずストラップは当時のライツのストラップを精密に復刻したものであって、(それにchotoku tanakaのエンボスを入れたのを少数生産した)その点でも1960年代のライツが最高の品質であった(今のライカ社のライカの品質を批判しているのではない。念のため)時代の品質の高さはストラップにすら「滲み出して」いたのである。
交換レンズは国産以外に選択しがなかったから、バヨネットマウントアダプターのお世話になったわけだが、当時は国産のそれがなくて、舶来(ライツ製)ばかりである。そういう高価なアダプターは1個かっただけで「息切れ」してしまう。それで、まず90ミリ用のアダプターーを1個だけ買って、50ミリとか35ミリレンズを使う時には、このようにセロファンテープで「引っ張って」適当なフレームを出して使っていた。
これは案外に役立つのでお試しあれ。

カメラに訊け!—知的に遊ぶ写真生活 (ちくま新書) Book カメラに訊け!—知的に遊ぶ写真生活 (ちくま新書)

著者:田中 長徳
販売元:筑摩書房
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2009年4月 6日 (月)

カメラケース二つの道

R1159270

フイルムカメラはデジカメと異なり「耐久消費材」であるから、戦前のコンタックスでも戦後のニコンSでもその動作には問題がないが、問題なのはその当時発売された皮ケースがすでに風化劣化して使い物にならない点だ。
しかし戦前、戦後の皮ケースの中で例外的にまだ使えるのは、1930年代のコンタックスRFのケースと、それ用の交換レンズのケース、それに戦後(1947)のイタリアのレクタフレックスのケースだ。
とくにレクタフレックスのケースは不思議なことに、先月作られたと言っても信用できる「柔らかさ」なのだ。
むろん、数多く生産された(と、言っても総計で1万台)の中にはダメなレクタフレックスのケースもあるわけだが、レクタフレックスローター用の皮のストラップは実にエージレスである。

しかしながら、そういう大昔の皮製品もいいけど、実用という意味では問題なのである。ありがたいのは「田中長徳研究家」である、供花沼のブレッソン氏がこの数年にわたって、本物のプロの腕で、皮のストラップとかケースを製作して供給してくれることだ。
もっとも若いころは、皮ケース入りのライカM3を使う木村いへい名人を見て、皮ケースなんて恰好が悪いなと思っていたのだが、40を越したころからその皮ケースが好きになった。

ロバートキャパの昔のポートレートなど見ると、カメラはちゃんと皮ケースにいれて、フロントのフラップをぶらぶらさせている所にキャメラマンのダンデイズムを感じたりしたものだ。この場合、ケースのレンズを保護するフラップは取り外しが出来ない方が粋なのである。
キャパと同時代のこれも著名な戦争写真家は戦場でブラックコンタックスに135ミリのゾナーレンズで、しかも、カメラのケースのフロントはぶらぶらさせている。

カメラケース、二つの道、とは大袈裟だけど、つまりオリジナルの皮ケースに固執するよりも、モダンな皮ケースでクラシックカメラを包んだ方が実際の撮影の助けになるという、選択肢があるという意味だ。

2009年4月 5日 (日)

2009年 最も汚いホテル トップ10

2009年 最も汚いホテル トップ10

http://www.tripadvisor.jp/DirtyHotels

というのである。きれいなトップホテルなど何の努力もいらずに作れるであろうが、汚いほうは、なかなか苦労がいると思う。こういうのは人間の怠惰の結晶であるからだ。

あたしは以前から、観光の仕事のルームインスペクションでいわゆる、五つ星のホテルは数見てきた。それはよくて当たり前。その逆の方向のホテルにこそ、観光のダイナミズムがありそうだ。

まず、南京虫は困るけど。

それで世界のワーストリストを見ると、ありがたいことに、香港のインペリアル、デリーのコンノート、それにパリのハイビスカスに宿泊経験あり。つまり三冠王達成だ。

香港のインペリアルは6日ほど(写真集の印刷立会い)いたが、初日の部屋は変えてもらった。なにか低周波を発生する機器が近所にあって、眠れないのである。ここの窓から見た、ペニンシュラのビューは最高だ。ようするにここに泊まって、ペニンシュラに遊びに行くのもアイデアである。

あたしのような変人がこういうランキングを尊敬して押し寄せる可能性は高い。 あたしは、むさうあん、が、大正時代に宿泊していた、マルセーユのワーストホテルに憧れている。

2009年4月 4日 (土)

サクラサク

R1146397お花見の名所が日本ではなく、ニュージャージーのニューアークであることを知ったのは、1983年の春のことだった。
なんでも日本から持っていった、そめいよしのであるそうだが、一面の桜の下で、「外人」がピクニックをしているのを視て、これは本当の世界レベルでの「花見」であると感心した。

しかも、その桜の名所の近くに「のびる」が自生していて、これを摘んで、酢味噌にしたらなかなかいけた。
酒は日本酒はなくて、アメリカビールであったけど、それはそれで構わない。

上の画像はまだほとんど咲いていない、うちの下の遊歩道の桜を撮るつもりで、いざ、撮影するとなると、やはり枝振りのよい、ちゃんと咲いている花を撮影してしまう。しかし実際にはプラハよりも寒い寒波のために、ほとんど「0.5分咲き」というあんばいである。

欧州の桜で記憶に残るのは、ウイーンのドナウ運河の山桜である。これはアウガルテン橋の左岸にある一本立ちの桜で、その花色はほとんど白である。
この桜が春まだ浅いウイーンの早春と言ってよいような、寒気の夕暮れの中にすっと立っているのをあしかけ8年毎年視てきたわけだ。
そういう桜はいい。

2009年4月 3日 (金)

いながきさんといしいさん

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火曜日。
ヒルズで仕事。
午後6時、いしいしんじさん來。初対面。もっともモノマガジンで連載のお隣同志だったから「フレムデン」という感じはなし。
三崎のまるいちの海鮮をいただく。手描きの解凍マニュアル付き。
いしいさんの2月以来の新しい拠点の京都の話になる。あたしは五条楽園が好きなのだが、その上に二条新地とかいうところがあるそうで、そこの「四合院の町屋」にお住まいという。
コンタフレックスの話題となる。
新潮の矢野編集長の話題となる。
京都の大学でこのお二方はほとんど同じ年代であったそうだが、その当時は面識はなかったという。それが三崎からみでカマラードとかタワーリシチになったわけで、土地柄が人間関係と構築し、人間をすくうのは本当である。

いしいさんの浅草時代は「うさぎの着ぐるみ」がユニフォームで、それでコンビニで買いものもしていたそうだ。当時、浅草でレッサーパンダの着ぐるみの殺人事件があって、それでどうこうした話を当時のモノマガジンでいしいさんが書いていたのを思い出す。

それと中原さんの「作業日誌」の読者であるわけだが、その中原さんも同時代に、ものマガジンで連載をしていたという話をいしいさんから聞く。自分は何を見ていたのか。

いながき彗星、いしい彗星の軌道は関西から東京に飛来してまた関西に戻ってゆくのが似ている、それでいながきはがきを出してきて、いしいはがきと「比較人類学」をしてみた。なにか字体が似ているのも妙。

2009年4月 2日 (木)

大根とチキン

R1146398 一昨年の11月にインドのデリーにカレー武者修行、あるいは武者授業に行って判明したのは、「インドのカレーよりも日本のカレーの方が辛い」という一事だった。
日本はなにかにつけて、ギネスブックが好きで、わけの分からないものを世界最高というので、登録したがる変な国だ。一例を挙げれば「ギネスブックものの流しそうめん」とか「ギネスブックものの、ながいーーーーーい鉄火巻き」など。こういうのを地元の青年会議所あたりの若いのが、冗談じゃなくて本気になって「世界一」めざしたりするから、実に怖い国だと思う。アドルフのミュンヘン蜂起も、我らのながーーーいソーセージを作ろう!あたりからの思いが最初にあったのではなかろうか。

デリーの繁華街のチャンドニチョークでカレーをかなりの数、食ったがあっちの普通のカレーは野菜の入ったのがカレーであって、チキンとかマトンのカレーは、あれは「ノンベジタブル」というので「隔離」されているのが面白い。そういえば、ヤニオカヤスジの「タゴー」めいたきせるをくわえた牛がそこここに「駐牛」していたが、ビーフカレーなんて牛神様の国だから、それを想像しただけで、地獄に堕ちそうだ。

デリーのビジネスマンは「ちょっと打ち合わせで一杯」と言っても、お酒を飲む習慣はないから、そこらのカレー屋(っていうかターリー屋)で、例の銀色の膿盆みたいのに、数種のカレーを盛ってチャパテイ食いつつ商談かなにかしている。
アルコールがはいらないから、大言壮語はないかわりに、商談の中身には実がありそうだ。

インドは以前は外国人のための「飲酒ライセンス」があった。殺しのライセンスは迷惑だけど、自分を緩慢に殺すことを政府が外国人に許可する、飲酒ライセンスはなかなかインド哲学だ。
これを九段坂上の印度大使館にもらいに行ったら、最近は興味本位で申請するやつが多いのかどうか知らないが、やめになっていた。

チャンドニチョークには一軒だけ「外人にアルコールを売る酒屋」がある。東洋系の顔をした、あれはタンガット人であろうか、酒瓶をピラミッド状に積み上げた上の銭湯の番台のようなところで酒を売っている。しかし印度人が金を持ってきても売らない。無理に印度人が買おうとすると、六尺棒でぶんなぐる。とんでもない接客マニュアルである。その印度ういすきを1本買ってその実存主義的な味に辟易した。まずいから半年も佃にあった。ああいうのはまた是非買いにゆきたい。

一昨日、四谷のアローカメラに用事があって出かける前に、曙橋のジダークに行った。お目当てはそこのマトンカレー。680円。店の印度人かパキスタン人か分からない外人の青年が、ちょうど今日のランチの看板をチョークで書いていた。日本の@「土人」(地元民の意味)が来たので、ちょっと大根とチキンと黒板に書いてくれ、と頼まれた。
おやすいご用とチョークを持ったのだが、さて、だいこんってだいは「大」であるのは分かるが、こん、が分からない。それでちょっと頭の中を探ってようやく書くことが出来た。
ATOKのお世話になってばかり居るとこういう老人力がつくことが分かった。

2009年4月 1日 (水)

にっぽんのはる

R1146391 R1146393 R1146394 36時間。プラハのアトリエにて炭酸水とりんごジュースで生存していたら、体重が2,5キロ減少して良いダイエットになった。
体調がようよう戻ったので、月曜には佃でまだ咲いていない桜を眼下にみながら、日本の三流料亭のまねをしてみた。
酒は秋田の辛口。なかなかやれた。煮物の器は、昨年の9月にモスクワのグム百貨店で買ったやつであるが、桃山時代という気分だ。
おうちで料亭のまねをするのなら、まず仲居さんがあんどんをもってきて「お足もとを、」とかなんとか言って案内してくれる。これを真似するには昔、MUJIで買ったあんどん型の蛍光灯がある。家人は還暦すぎのばばあだから、仲居頭という格好でここらの演技は完璧である。
「大病」をすると、さしみとかの味よりも、菠薐草のおしたしの味とか、にんじんや椎茸の煮物(椎茸は浅田恵里子の嫌いなもの)の味が良く分かる。これは還暦すぎになって、しかも体力低下して初めて分かる味覚である。これからは冬瓜とか慈姑などの味も分かるようになると思うと楽しみだ。

しかし人間の高齢者よりも味覚が研ぎ済まされていると思うのは、ライカインコの方だ。胡麻とか、青物が好きというのは鳥の初心者であるが、グレープフルーツの皮が好きというのは、なにか苦いだけで、ライカインコの気持ちが分からない。こういう味覚はライカインコの枯淡の極みである。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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