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ロック ユー

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2009年3月31日 (火)

アエロフロートでウオッカを4杯

Rimg6342 ★御礼。3月30日の「終日仰臥」はアクセス数が4,579でした。「お見舞い」ありがとうございます。 @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@ これはあまり世の中には知られてもらいたくないのだが、70年代のSU時代のアエロフローートと今のそれとはまったく別物であるということだ。

東京から欧州に行くには便利である。以前、LHの仕事をしていたから、まずFRAまでいってそれからLISとかVIEとかCDGやPRGなど用のある都会に乗り継いだ。FRAからLISなら飛行距離が損にならないけど、いったん欧州の真ん中に下りて、そこから東に戻るというには、自分のようなせっかちにはなかなか許せないところがある。

今、ヒルズから佃に戻るのに、いったん八王子まで行って佃に戻るようなわけだ。

金曜のプラハでは、やけに中国人のお客さんが多かった。これはモスクワから北京、あるいは上海に戻るのである。それでYクラスがオーバーブッキングのようで、あたしは座席が4aにアップグレードされた。

実に迷惑なことであるが、運行責任者の都合を一ツーリストが文句をいう筋のものでもない。

飛行中に2ユーロ握ってギャレーにいって、ウオッカのロシアンスタンダードを買ってそこで立ち飲みする楽しみは失われたわけである。座っているとまるで執事のような立派なロシアの紳士が来て、前菜の時、あぺりちーふはいかがいたしましょうと慇懃に聞くので、まるで気分は「さかしま」である。ウオッカを頼んだら、相手はうれしそうだった。ロシアといえばウオッカである。

Yクラスのギャレーで買うのは常温であって、これが口に合うのだが、Cクラスのは一応冷やしてあるのが面白くない。さらに無料というのが気に食わない。もともとフルプライスを払ったお客なら堂々としていてよいのである。それは無料ではなく運賃に込みになっているからだ。

あたしの場合にはアップグレードだから、やはりただ酒の感じは否めない。

それでも新デザインのグラスに満たされたウオッカを窓越しの逆光で見るときれいなので、おかわりをしたら、執事風の男性が「こちらの紳士にはウオッカがお気に召しましたようで」という感じになった。それで2杯目を飲み干し、三杯目を目でお願いしたら、「これは立派な人物だ」ということになった。 露西亜ではアル中も露西亜大統領も同系列の立派な人であるからだ。3杯を飲んだら、こうなれば3杯も4杯も同じことだから、つでに4杯目もお願いした。

それで夕暮れの静かなモスクワ郊外が見えてくるころには、幸せで、サテライトが満杯で、バスでのピックアップになったというアナウンスも一向に気にならなくなった。Rimg6357

2009年3月30日 (月)

終日仰臥

日曜。

発症したのは時差ではなく、頭痛、熱、発汗と下痢ならびに
筋肉痛のフルコースにて1月以来の疲労を精算した形になる。
上厠10回以上。

終日仰臥。

たまったメール、封書など開封する元気もなし。
正直なもので、水は欲しいが酒は欲しくない。

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Dsc_0091 月曜。

午前9時におき、「出社」。

久しぶりのヒルズ。快晴の東京の空。

たまったメールをかたっぱしから開封。返事をかく。

土曜のシドニー寄席の画像。これは1945年の「解放」と1968年の「侵攻」をコントラストさせた写真集である。昨年、大きな展覧会がプラハであった。

アローカメラの「土曜寄席」は毎回、カメラ馬鹿の話ばかりしているのだが、この前の土曜は会場は静寂となりまじめな文化講演会の感あり。

撮影はMP突撃隊長 桜木による。

2009年3月29日 (日)

プラハより寒い東京

プラハモスクワ、飛行時間2時間20分。モスクワ東京飛行時間9時間20分。
2月の時とは大違いにてモスクワへの着陸には雪が見えない。モスクワ成田も飛行で飛行の後半ではやや乱気流あり。だが見える星座はすでに春である。

高度は39000ftの好位置を確保していたので、「渋滞」もなし。
下の方を同じ方向に飛行中の他機がよく見えた。
最初は定刻より20分ほど早い到着の予定が着陸寸前にホールドがあったりして、午前10時45分の到着となる。

空港に野の宮BMWあり。リムジンサービスというわけだ。
銀座京橋にてさぬきうどん食べる。

午後2時半寄り、恒例のシドニーあり。今回持参した1945年と1968年をテーマにした昨年発行のプラハの写真集を持参してそれを「教材」にして90分話をする。

午後七時半より、あの写真部の月例の「写真反省会」あり。

銀座のおでん。ゆばとはんぺん。そのつゆが白鹿に合う。こういうのはモラビアのワインには合わないだろうな。

最近の福田和也同志のen-taxiの記事のご自身で撮影した写真がいい。画像が事実認識ではなく、存在学に肉薄している。

東京は非常に寒い。1月にプラハで着た皮ジャンをまた着ていったほどだ。
寒さの銀座通りを帰宅。

時差じょじょに発症する。

2009年3月28日 (土)

新潮文庫「一千一秒物語」稲垣足穂

本日、PRGSVONRTと移動。
飛行中には以前は原稿を書いていたものだが、これはCクラスの話であってYではテーブルが狭すぎる。だから文庫を読み、3時間ごとにキャビンの後ろに行ってギャレーでアルコールを買い、その場で立って飲みつつ30分ほどを過ごす。これは、マンハッタンのバーより気が利いている。
ここで重要なのは、ちゃんとお金を払ってアルコールを受け取ることにある。まず東京プラハで10ユーロ使い、帰りのプラハ東京で10ユーロ使う。ゆえに行く時に成田の両替で「20ユーロでいいんですが」と両替するのが常だ。
アエロフロートではビールでもウオッカでも2ユーロだから酒代が10ユーロを超えることはない。20年前にはアエロフロートのFクラスでキャビアにウオッカが「タダ」であった当時は実に帝国主義的な行動であったな、と反省している。
もっとも露西亜は分からないところで、アルコール中毒の大統領が「やつらはコミュニストだ!」と言うような国柄なのだ。ご本人がもともと生え抜きのコミュニストであったことは棚に上げているのが露西亜の良さである。

飛行中の文庫は新潮文庫の足穂の1001秒物語。
この文庫はウイーンに居た1973年当時、日本人会の文庫から借りてきた。それはもう廃棄するとかで返却せずに自分の貴重な日本語の書物となったのである。これが20代の後半だからそれから40年近くの足穂ファンなのだ。
もっとも自分の興味は少年愛方面ではなく、機械学と形而上学の方だ。
もうひとつ、足穂の横寺町の身辺無一物時代をウイーンの清貧生活と重ね併せておたこともある。
ただ最大の違いは足穂は独身者でアル中、あたしは別にアル中ではなく同時にウイーンに音楽留学中の配偶者まで居たということだ。R1159255

2009年3月27日 (金)

プラハの空港にて

1月と2月と、そして今日は3月27日であるが、プラハの空港の同じラウンジからランウエイを視ると、たしかに季節が進んでいることが分かる。
1月も2月も雪景色であったのが、今は春の天候不順とはいえ、雪はない。
それが定期的に同じ場所から観察するときのおもしろさだ。

1月に気がついたのは、出国した後のセクションに本格的な鮨バーが出来ていたことで、この前2月にも時間がなくてよれなかった。それで今日は是非ともというもで、そこに行ってみたら[for rent]の札が出ていた。どうもつぶれてしまったようである。
無残。

これから搭乗するモスクワ行きのSU機がちょうど到着したところだ。Rimg6330 この画像は新しいリコーのCX-1で撮影。
かなりレスポンスが速い。
こういうカメラがあれば、もう他には何も必要ないという気分だ。

晴れ曇り雨あられみぞれ雪、吹雪

R1159254 春の天候は不順とはいいながら、月曜から三日間のプラハの天気はひどかった。もっぱらアトリエで仕事していたのだから良いようなものの、カレル橋を渡っていた観光団はたまったものではない。

快晴と思うといきなり黒雲がきて、雨あられみぞれ雪の果てが吹雪になる、あまりのすごい吹雪なので、アトリエの窓から見たら向かいの建物の姿も判別できないほどであった。

今回のプラハ暮らしで町中を歩行中にツーリストさんの持っているカメラを観察したが、フィルムカメラはついに一台も見なかった。一番、ゴージャスなのはライカM8とイオスの最高モデルを2台首からさげた東洋人(もう中国人も日本人も韓国人もここでは同族に見える)であって、もっともシンプルなのはリコーのコンパクトデジカメを尻のポケットに突っ込んだ東洋人(あたし)であった。

まず、デジカメの選び方というのも、これだけ性能が高級になってくると、どれを取っても同じであって、逆にミノックススパイデジカメなどの写りが個性的に見える時代だ。

昨日(水曜)は実に10年ぶりにNGに行った。NGとは変な言い方ながらナショナルギャラリーのことだ。プラハの北の方角にある、もともと一大工場か、政府の建物のような真四角な作りで、まさか中にゴッホとかルノワールがあるとは思えない。

お目当ては、展覧会が始まったばかりのTHE BATA PHENOMENON /ZULIN ARCHITECTURE 1910-1960 というので東モラビアの小さな村に大手の靴メーカーのbataが巨大な工場とそれの付帯設備と労働者の住宅と都市施設を作る一大叙事詩とでも言えよう。

立派なカタログが出版されたのは欧州では普通のことだが、その中の図録で、ヨセフ・スデクが1936年にこのZULINを撮影した作品が見開きで多数掲載されている。

なにか拾いものをした気分だ。

本日、プラハから東京に移動。最近、本ブログのアクセス数が増えて3千半ばから4千あたりを推移している。これもありがたし。

2009年3月26日 (木)

Butter DOSE(バター容器)

日本の朝の食卓に重要な食器が「味噌汁のお椀」であるとするのなら欧州のそれに相当するのは、Butter DOSE(バター容器)ではないかと思う。毎朝の欧州の他人の家の食卓(そういう場所に寄寓していたこともある)では、まず、バターケースが目に入る。これがちゃんとした欧州の家庭であれば、まずバター容器はそれぞれに高価でそれぞれに家庭の主婦の見栄の張りところと言えよう。

思えば1973−80年のウイーン暮らしでは、あれは思い出すも楽しい、伝説の清貧時代であったからドナウ運河を見下ろす百年前の家ではあったが、バターケースなどとんでもない話で、バターケースを買う以前にその中にいれるべきバターの購入にもっぱら苦労した。

あれから30数年が経過してさすがにバターの購入には苦労はしなくなった。25年ほど前であったか、すでに暮らしは東京がメーンだったが、かつてのウイーンのアパートの裏手にアルガルテンという巨大な公園があり、そこをもっぱらうちの庭と称して家人と暇があれば散歩していた。こういう錯覚を市民に起こさせるのだから、ウイーンの文化程度が東京のそれに比べて比較にならないことがわかる。

いや、暇しかなくて金はないのだから、散歩は生活の重要な一部である。その当時の暮らしのパターンが今に保存されているから、佃から板橋の焼鳥屋「浜出屋」まで徒歩で出かけたりするわけであたしの脳内はまず西鶴かアマデウスの時代だ。

アウガルテンにはウイーン少年合唱団の寄宿舎があった。そこのOBなども知っていた関係で寄宿舎を取材した。ついでにその裏手のこれも有名な陶器の窯元も取材した。その記念というわけでもないが、そこでバターケースを買ったのである。

これは家人のリクエストにて、なにも装飾のないシンプルなのがいい、と言われていたからだ。真っ白でなにの衒いもないバターケースはそのままヴィトゲンシュタインの3区の建物(以前のルーマニア大使館文化部)とか、プラハのロースの四角い白い家を思い出した。例のアウガルテンの印は裏についているだけ。

しかしそのバターケースも最近では使わずにキャビネットに入ったままである。言うまでもなく代表的メタボリスム建築ファンのあたしは、バターはとらない方がいい。そうなるとラーマでは、最初からプラケースに入っているから、それをわざわざアウガルテン陶器に移動させるほどの手間と時間は東京にはない。

プラハでは修行僧のような生活なので、食は地味だが、せめてもの贅沢でバターの125グラムを買う。これを10日の滞在中にほぼ消費する。一日12,5グラムである。この一文が共同ビルクリニックの主治医の櫻井先生父子に見られる可能性があるので弁解しておけば、無論、東京ではバターはとらない。

R1158859

2009年3月25日 (水)

春のモルダウ

R1158922 R1158935 プラハの春の気候は変わりやすい。
uk weatherなどで予報を見ていると今の天候は(24日ローカルタイム朝8時30分)晴れ場所により曇りで、気温はプラス2度で体感気温はマイナス3度だ。日本ではなぜ体感気温を表示しないのであろう。

これがこの数日の天候だが、実際にどのような天気かと言うと快晴と想ったのがにわかにかき曇り、大雨が降る。
降ると想うとまた春の太陽が顔を出す。しかしその雨の勢いはすごく、ノアの体験したのもかくやと想うほどの降りなのである。

深夜に天窓を叩く大音量に目を覚ましたら雹が降っていた。

21日はそれでも好天の日曜であって、地下鉄の終点に行ったり、モルダウをぶらぶらした。まさに春光がボヘミアンの野原に満ちるという感覚で、これは深呼吸ができる。
逆光でモルダウがきらきら光るなどは、デジカメの格好な題材である。
モルダウの上流(ここでは川は南から北に流れる)の鉄道の鉄橋の脇に人間がわたれる通路があることを30年ぶりに「発見」した。
それで橋の上から春うららなモルダウとその先のお城などを撮影したのだが、こういう予定調和の風景は自分はやはり苦手なのだ。

最新型のリコーCX1は18日、成田に出発する直前に到着したのだが、多忙なのでそのままプラハに持参してまだ箱も開けていない。そのまま、東京に持ち帰るのも変だから、プラハのアトリエカメラにしようと想う。
プラハにちゃんと使えるデジカメが常備されているのは、常備薬みたいで心強いことだ。

2009年3月24日 (火)

moleskin

R1158989 http://www.moleskinerie.jp/2009/02/index.html

1月ほど前、MOLESKINの会社のウエブから、拙ブログにリンクするお話がきた。上のがそのリンクであるが、世界ではMOLESKINをいろいろな方法で使っているのが理解できて、これはなかなかのブログである。もっともMOLESKINの値段というのはちょっとした単行本の価格であって、なかなか買うのに決心がいるのである。

しかし、本のプロットを書くときにはこれがないとなかなか進行しないという癖がついてしまった。佃のデスクの上には過去10年ほどのMOLESKINが積んである。

数年前にどのような馬鹿を考えていたかそれを調べるのには便利だが、原稿はパワーブックで書くのが普通だから、MOLESKINにはプロットを絵文字とか記号で書くような程度である。

あと、インタビューの時などに最低限のデータを書く。これも原稿を書く時に参照するわけではない。第一、自分は悪筆なので、何が書いてあるのか分からない。

それでもMOLESKINというのは使わないライカを持っているのとどこか似たようなところがある。

22日は終日、某誌の原稿書き。30枚。朝4時半から開始して午後5時には脱稿した。まず速い方ではないかと思う。これは原稿の内容ではない。自分の雑文はまずファーストフードというところだ。

プラハは荒天にて、突風が吹く、前線の通過とともに暴雨が降るという具合だ。向こう3日間も雪とかで、最低はマイナス5度。R1158990

2009年3月23日 (月)

FEDEX貨物機の事故

プラハと東京の時差はまだ8時間ある。

原稿書きで現地時間の午前4時半に起きたら、東京の家人から成田のfedex機の着陸失敗の事故の一報がはいる。
それでウエブニュースに「くぎづけ」となる。

この事故機をあたしは先週の水曜に成田のオブザベーションデッキからその離陸を観察しているのである。もう時代遅れのMD11の三発機であるのと、案外の短い距離で離陸したのが印象に残った。
その後にSQのA380の離陸を見て、これは滑走路からなかなか離陸できない感じがしたので、MD11はまるで小型機のように見えたのである。

その後、あたしの搭乗したSUのA330が190の滑走路で離陸したが、高度3000あたりでかなり風にあおられた。
2月21日の成田着の時はこれは日記に書いたけど、今までの成田着陸で二番目に怖かった。

あたしの狭い体験でもNRTはなかなかスリルのある空港である。しかも遠いし滑走路は足りないからすぐに閉鎖。

事故機で亡くなった2名のパイロットは実にお気の毒だが、一方、貨物機であったから犠牲者が最小で済んだ。
しかし、fedexはあたしもアメリカからかなりカメラを運んでもらっている。そういう大事な貨物が消失してしまったのだ。
データはオンラインで送れるが、人間と物体は「電送」するわけにはゆかない。

コンタフレックスで遊ぶ

Dsc_7664_2 「ライカには人と人とを結びつける不思議な力がある」
とは、二昔前に教わったことだけど、これはライカに限らない。坂崎幸之助さんとはライカならぬ、ドルカとそれについているニッコールならぬ、ニッポールの話で盛り上がったりする。
コンタフレックスは1930年代の殿様カメラであるが、これで実際に撮影をしたという人の話は聞いたことがない。
当時はもっぱらただただそれを持つことがステータスであったのだ。

10年前、モノマガジンの連載のお隣同志に作家のいしいしんじさんがいた。お目にかかったことはないのだが、モノマガジンのいしいさんのエッセイが面白いので、自分の連載よりもいつも先に読んでいた。
そのいしいさんは2001年に浅草から三崎に移動して、この2月から今度は京都に移動した。こういう移動感覚は好きだ。いしいさんは大阪のご出身だが、あたしはべたべたの大阪言葉がきらいじゃないのは、自分のドイツ語がやはりべたべたのウイーン弁であるせいだろう。その前に大阪が好きなのは、そこが足穂が生まれた土地であるせいだ。
足穂の世界線は大阪、明石、東京の横寺町、京都と点線してゆくわけである。

そのいしいしんじさんがコンタフレックスに興味を示しているという話を、新潮の矢野編集長から聞いた。なんでも「真夜中」(リトルモア刊)という名前の文芸誌の新連載の長編小説「雪」でしんじさんと同じ名前の慎二という少年がメーンで出てくるのだが、その慎二がおばさんからもらったカメラがコンタフレックスで、主人公はそのカメラの二眼レフのファインダーレンズから中にはいってゆくと、そこには戦前の中国奉天が登場するらしい。

いしいしんじさんのこれは連載「雪」の4回目なのであるが、その前の回ではブルーノ・タウトが横手の山中で雪で難渋したりする。タウトの撮影した日本の写真を見たが、なかなかうまい。しかしタウトは不遇な建築家であったからコンタフレックスは持っていなかったであろう。
コンタフレックスの登場は連載の4回目なのであるが、文学史上コンタフレックスがテーマになるのは最初かもしれない。(と、つまらないことを言っている)
いしいさんは東京の檸檬社にあるコンタフレックスを買おうと思い、弟さん(気鋭の写真家であって、あたしは2度ほど雑誌の取材で写してもらった)に頼んで檸檬社に見に行ったら、すでにどっかのカメラばっかり買って撮影もしない還暦すぎのじじいに買われてしまったとのことだった。
そのじじいがあたしなのである。
これはいかんということになって、自分のもっている同型のコンタフレックスを執筆参考用にお送りしたのである。

それで今、プラハであるが、いしいさんが操作がわからなくなったときの用心に一台、同型のカメラを持参した。PCのサポートデスクみたいに、同じ機種が手元にあれば説明がしやすい。
もちろん、実際に撮影もできるから、カラーネガで撮影もした。

土曜はプラハの本格的なJAROであって、市民が政治色ぬきで陽光を楽しんでいるモルダウ川の周囲などを撮影した。もともとこのカメラが現役の頃はアドルフがプラハを制圧して、その後の1945年に赤軍がプラハを「解放」し、1968年にまたソ連軍がプラハにちょっかいを出してきたわけだが、コンタフレックスが現役であった時代がプラハの暗い春の始まりだった。もっともその前にハプスブルクやらなんやらの時代があったわけだが、ここではカメラを軸にして歴史を見ているつもりなのである。

プラハの春光をコンタフレックスで撮影するのはその意味でなにかユニークだと思った。

この画像は同志社の2年生でカレル大学に留学中の菅野さんの撮影になる。
自分の記憶をたどっても、人間がコンタフレックスを手にしている画像というのは今まで見たことがない。その意味でも「快挙」かもしれない。

あ、カメラはニコンD200でレンズは小林さんちで作った、50ミリのマクロであった。こういうモダンレンズには往年のコンタフレックスについている、ゾナー50ミリF1,5も太刀打ちできない。

2009年3月22日 (日)

RUDOLF JELINEK VODKA since1894

R1158878 土曜日。

天候めまぐるしく変わる。あれは何と言う鳥なのか、ウイーンの春の浅い時に「ヒコヒコヒコヒコ」と鳴く鳥の声がする。うちではそれで「ひこひこ鳥」と呼んでいた。

アトリエの窓から首を突き出して見るに、春の雲がぽかん、ぽかんと浮かぶ。これで安心しているとまた午後からかきくもって、雪が舞ったりするわけだ。まずプラハのJAROとはそういう気候である。

毎回、モスクワの乗り換えでストリチナーヤを買うのだが、ショートコネクションゆえ、ラウンジで一杯やっていると、その買い物ができない。だいたい、モスクワの午後6時すぎに到着して、6時半にはプラハ行きの飛行機に乗る必要がある。それで今回は考えをかえて、免税では買わなかった。この前の2月の時に泡くって買ったストリチナーヤの瓶をよく見たら、SINCE 1938とある。つまりアドルフがウイーンの入城した当時の「ごく最近」のマークなのである。

アトリエのそばのスーパーBILLAは一昨年の11月以来、この巨大チエーンになったが、その前はもっとローカルなスーパーだった。その当時、常飲していたのが、このマークである。それが巨大スーパーになったらこういうローカルなうまいウオッカが最初に撤去された。

それに腹をたてて、わざわざメトロのC線の西の終点である、ズリチン(この音感が人工甘味料みたいで好き)の他の店に買いに行った。これは結構な距離であって、佃の下のスーパーに気に入った酒がないから、八王子まで買い出しにゆくようなものだ。

それが最近になって、やはりプラハ市民の「怨嗟」の声が届いたのか、ようやくまた棚に並ぶようになった。

ただし品切れのことが多い。

R1158858

2009年3月21日 (土)

JONAS

R1158842 R1158843jonasはドイツ語読みでヨナスだ。リトアニアのメカスのファーストネームもヨナスと思っていたら、これは米語だとジョナスになるらしい。

アトリエの向かいは広場に面してその向かい建物の上の煙突の脇のアンテナとかなにか使用法のわからない棒の先に鳥がとまるのである。鳥は、うちのライカインコが一番身近であるが、こういう狭い場所では時々そのとまる向きを変える。

やはり肩がこるのかどうか知らないが、片方の羽を後ろにつきだしてその方の足も突き出して、「奴凧」が電線にひかかったのを、下の方から子供が糸を引いているような格好をする。これはインコだけの癖と思っていたら、上野動物園の巨大ないぬわしも同じ動きをするのだ。

これを佃言葉で「ライカインコがやっこだこになっている」と言っている。これはすでに25年来の言い方であるが、そのうちに「佃なまり」が加わって、これが変化して「やっきだき」となった。

この手の「佃国内」でしか通じない言葉はいくつかある。里言葉ならぬ佃言葉というべきか。

もっともこういうのはありがちなことにて、ウイーンからベルリンに行った時、ドイツ語があまりにも異なるので困った。曜日の呼び方にしてもまったく違う。土曜日というのは、ウイーンではザムスタークだけどベルリンではゾナベントと言ったりする。

スイスドイツ語はさらにすごくて、いつだったかジナー社(有名な大型カメラメーカー)にある、ライン川の上流、シャフハウゼンに行った時、なかなか言葉がわかりにくいので困った。もっともジナー社の跡継ぎのコッホ氏は外人のあたしに親切だからちゃんと「高地ドイツ語」で話しをしてくれたが、町中の店でなにか注文するときがだめなのだ。

それで、この棒の上に立っている左頭の(頭が左を向いているのを示す里言葉)カラスに似た鳥だがこれは露西亜から欧州でよく見かけるのだけどその名前はわからない。なかなか人間的な愛嬌のある鳥だ。

今は昔、ベルリンの東ベルリン人だった夫妻がこのカラスが迷ってきたのを一時飼っていた。その名前を「ヨナス」と命名したのである。
それで佃言葉ではこれを「ヨナス」と呼んでいる。そのヨナスが棒の上で「やっきだき」をして、座る方向を変えたりするのをアトリエから双眼鏡(アトリエの常備はキヤノンの10X30スタビライザー付き)で見ていると、これはいかにも春のお彼岸の中日という感じがする。

ただし、気温はマイナス2度。

2009年3月20日 (金)

JARO

R1158819 JAROはやろと読む。
春の意味だ。
HARUははると読む。
JAROという意味だ。

ほかの春を意味する言語がフリューリングとか、プリマベーラとかながったらしいのに比較して
JAROは直接的な言葉だ。
二音節という意味で、なにか日本語に近い。

朝は6時ころまで起きていて、それからうとうとと10時頃まで寝た。
妙に静かなのでアトリエの外を見たら、春雪であった。R1158805

お昼前に出かけるのでまた外を見たら、雪はあがって春光である。
例によって市内の定常ルートを巡回。
フォトシュコダにカレル大学に留学中の某君に声をかけられる。本、ブログの読者さんでもある。午後にまたフォトシュコダに行ったら写真を勉強している某さん(女子)に声をかけられる。陳腐な言い方だがみんな、日本の人、がんばっている。
皆さんチエコ語がうまい、あたしはチエコ語はついにものにならなかった。

R1158836 時差にて早めにアトリエに戻る。窓から見る雲もJAROである。

2009年3月19日 (木)

3,16東京大周遊日誌

R1158765 先週の東京の記憶というのは、遙か彼方の事実にように思い起こされる。プラハから眺めると極東の大都はやはり夢の都である。3/16東京大周遊はこの前の月曜に実際に起こったことなのだけど、9000キロの東、それ平壌よりもずっと東の北大西洋の深海溝に近い列島での体験なのだから、なにやら怪しい。

あの日は花粉飛び黄砂まう極東の典型的な春の陽気だった。

急に徒歩で例の板橋の浜出屋までゆきたくなった。例によって、新川のインド料理店「ナバブ」に入る。ここは辛さを追加料金なしで選べるのがよい。一番辛い、スーパードライのチキンカレーとナンで、900円ぽっきり。これにサラダがつく。それを食っていたらインド人の店員さんが「素人があんなに辛いのを食えるだろうか」と何度か確かめにきたのが愉快。

事実、3年前のインドはデリーのカレー武者修行では、本場のほうが日本のよりも甘かった。あたしはカレーの自称有段者のつもりだ。

そこから東京駅(改装中でまるでプラハの鏡の迷路みたいな)の中を突っ切り、大手門からマラソンコースを北に歩行。「南蛮同盟」と黒いTシャツの短パンのワスプの女性が追い越してゆく。

わけのきよまろ像の先で、本ウエブの愛読者さんに声をかけられる。石塚さんというカメラ人類さんで、ライカ3Bにエルマー。最新のテンバのバッグの中にはローライ3,5Fが入っていた。なんでも昨年、ルフトハンザでローライもってスイスのツエルマットにマッターホルンんを観測にいったそうだ。こういう高等カメラ人類がこれから増加するであろう。ついでに今度出す、「二眼レフワークショップ」(えい出版社)の宣伝をする。

R1158654 飯田橋から茗荷谷の裏手、昔、「月光仮面」の撮影をしたコンクリート打ちっ放しのまるでキリコの夢に出てきそうな、距離感のある道を行く。

そこから拓殖大学の前を通り、光文社の奥さん(昼酒評論家)のご推薦の中華屋の前まできた。向かいからあたしより数歳上とおぼしき、男性がシニア帽でなにかつぶやきつつすれ違う。その男性がいきなり「おはようございます」という。こっちも「おはようございます」

なんのことはない、徘徊老人さんが散歩中に自分と同族を路上に発見した「連帯の挨拶」なのだ。こういうのはいい。

大塚の江戸一前で開店時間をチエック。土曜も開店していたことを初めて知る。これは大発見。足穂が酔って戻った巣鴨新田の前で荒川線が大きく屈曲するのを知る。これは地理学上の大発見。

R1158711 西巣鴨の路地裏に「ローマの真実の口の出店」あり。これに手をいれて食いつかれたくなる。R1158729 旧中山道の掘割名物のパチンコ「天国」は今日は休みだった。中山道をひたすら北上した。

蓮沼に到着。12時に佃を出てちょっと遠回りをしたのであるが、それでも開店の40分前についてしまう。それで「ちかんもでない寂しさのトプコン通り」を徘徊。その近くの公園で午後5時まで過ごすつもりが、公園のそばの鉄棒で小学校高学年の女子3名が放歌高吟。「桃か、桃か、桃の木の子、、」っていうのは「ぽにょ」の替え歌なのであろうが、うるさくてしたなない。この周辺のアパートの寝たきり老人の迷惑を想像する。ここであたしが何かたしためたら、「変なおじいさんに声をかけられた」というので、即、警察に身柄拘束であろう。放歌高吟が帝大生の特許であった時代は遠い。石原さんにこういうのは取り締まってもらいたいほどだ。

今の日本は昔の東欧より怖い。

公園を早々に立ち去り、小豆沢のパノンカメラの前を通過する。午後5時15分に浜出屋着。

白波、ソーダ、ぶつ、肉豆腐、やきとり。歩行距離25キロ。R1158770 戻りの三田線でこういう女性に出会った。これは楽器であろうか、ウイーンなどでビオラのケースを背負った女性などは格好なスナップのモチーフだけど、これは何を運んでいるのであろう。運搬式ミサイルか?

R1158628

2009年3月18日 (水)

モスクワトランジット

R1158791 R1158792 例によって、飛行時間9時間50分でモスクワ空港。
今、プラハ行きの飛行機待ち。
モスクワは1月前に比べて昼が長くなった。
すばらしい着陸だった。
また、ダイナーズのラウンジ。
外人のビジネスマンがケータイでなにか話つつ、一人いるのみ。外貨の交換レートがどうとか言っている。
先月と変わりなし。

地方時の午後6時なのに、まるで真夜中のようだ。

トリプル7

R1158599

プラハに居ても、東京に居ても、天候と気温と体感温度などは、uk weatherで見ている。
1月はプラハはマイナス15℃で東京は5℃くらい。それが今、比較したらトリプル7である。数日前はプラハよりも東京の方が低いこともあった。先週、家人が4泊6日で出かけたウイーンも東京よりも暖かだった。
気温のシーソーゲームはなかなか痛快だ。

777といえば、今、主流のボーイングである。4発のジャンボが主力だったのは、30年前は800マイル規定とかいって、双発機は海上を飛行する時に800マイル以上はダメであった。エンジンの高性能化でそれが双発機にとって代わったのである。
その代表が777だ。
このシリーズはダッシュ300よりも200の方が新鋭であって、これは数年前からエア仏蘭西とか、KLMで乗るようになった。最近ではYを愛用するようになったが、唯一の問題は777の場合、Yのバルクヘッド(一番前の席)には窓がないのがたまに傷である。
フットスペースをとるか、窓をとるかで悩むところだ。

最近、アエロフロートに恋している理由は、777でなく、エアバスA330を運用することになった点だ。昨年の12月22日からだ。その前は窮屈な767だった。この330は機体はYの窓側の列が2席で777のように3列ではない。だから楽である。
オーストリア航空は前はこのうえの機種の四発のA340を使っていたのでもしYに乗る時にはこれを使おうと思っていた。(AUAではたまたまCばかりでYに乗った経験なし)

ところが、家人の最近のウイーンの往復を見たら、機種がA340からB777-200に変更されていた、そうなるとYに乗る場合オーストリア航空でYクラスを使う可能性が減ってしまった。
それが残念だ。と、まあ、どうでもいい話だが。

ウイーンから戻った家人の話では、やはり777のYの3席の真ん中は左右は知り合いであったにかかわらず、窮屈であったよし。

もうひとつ、オーストリア航空のCクラスは以前はシートピッチが125センチくらいしかなかった。そうなるとY座席の非常口の方が楽である。今のアエロフロートもCのシートピッチはあまり広くはない。もう存在しないがかつてのサベナのFがなくなった後のCクラスは100インチとは言わないが、なかなか足もとが広かった。
七という文字のつくカメラには何があるだろう。 アルパアルネア7。アトーンLTR7、キヤノン7、マミヤ67(6が付くのはちょっと弱いが)などなど。

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成田のダイナーズのラウンジ。恵比寿ビール1杯。(無料)

プラハの天候調査。

水曜は強風。木曜は雪。金曜も雪。土曜は霧。気温は低いほうはマイナス4度。

ということはもうJARO(春)だ。これよりSU576に搭乗。モスクワまでの飛行時間10時間20分。

2009年3月17日 (火)

ぼけコッコ

R1158588家人。ウイーンから戻る。
なんでもウイーンで大人気の同性愛者がシエフの人気レストランに古いウイーンの友人知人を招待して「大宴会」を開催したそうだ。それが土曜の夜のことなのである。

これは昔、お世話になった皆さんにせめてものご挨拶という意味で、あたしが企画したのだ。

今回のプラハ行きで、当初は取材をかねてプラハからウイーンに行くつもりであったのだが、日程を調べると車で行くとして行きと戻りに2日。それにウイーンには最低2泊せねばならないから、そうなるとプラハの時間が大幅に削られてしまう。それでウイーン行きを断念して、その代わりウイーンの皆様を大晩餐会にご招待したのだ。その費用がどれだけかかったものか訊くのも恐ろしいことである。

先週はそういうわけで、早朝にライカインコと遊んで、午前中から夕刻までヒルズで仕事をした。佃で仕事をすることは不可能である。ライカインコはあたしを「手下」と思っているから邪魔ばかりするので、とても仕事にならない。

朝のまだ8時台に佃島小学校の前を通過すると、この「ぼけコッコ」がよい声で鳴くのが聞ける。ぼけコッコとは鶏に失礼な命名だが、以前から時無し鶏でとんでもない時間に鳴くので家人がそう命名した。

その先では小学校の児童が相変わらずの体操である。なにか昔が今になったような感じがした。R1158589

2009年3月16日 (月)

プラハに持って行くカメラ(今年三回目)

R1158595月曜に家人がウイーンから戻り、バトンタッチであたしはプラハに行く。

ライカインコがおるので、どっちかが佃に駐屯する必要あり。
初代のライカインコのころは知人にあずけてウイーンに2月行ったりしていたのだが、それはライカインコに申し訳ないと気がつき、この20年来はそのようなシステムである。

前回(2月10日ー21日)の場合、スピードグラフィックにテレローライにデジカメ一式という「重装備」だったが、今回はごらんのように、フィルムカメラはコンタフレックスのみ。これに交換レンズがないとかいうのは素人であって、コンタフレックスはレンズ交換をしないところに妙味がある。
このカメラにはゾナー50ミリに明るさはf2とf1,5とがある。ユニバーサルなレンズはいうまでもなく、f2のゾナーである。このレンズには絞りがf22まであるが、f1.5のゾナーの最小絞りがf11なのだ。つまりツアイスはこの高速レンズを闇を制圧する、目的で製作したのである。

この絞りf11の伝統とでもいえるやりかたは、戦前のツアイスだけではなく戦後の西のツアイスにも継承されているのが妙である。
あたしの持っているプロ用映画撮影レンズ(ようするに新品の価格がほとんど1万ドルしたような)にデイスタゴン12ミリt1,2というのがある。この最小絞りがやはりf11なのだ。

コンタフレックスの隣はリコーR7である。リコーのF森さんに「みっともないからズームの壊れたR7など使わないように」とのイエローカードが出たので、これは水曜までにテスト機が間に合えば新型のリコーCX-1を持参する。しかし間に合わない場合には、この画像を撮影した、GR10を持参の予定。R7はまだまだ使えるから、修理に出す。

その隣はデジタルミノックスだ。長年、ミノックスA型を持ち歩いていたのだけど、今回からデジタルミノックスに切り替えた。なにしろ、フィルムのミノックスの場合、プリントが1週間かかるので、そのまま現像に出したことを忘れてしまうのである。

上の小型双眼鏡は1月のプラハで買った「最大の買い物」である。

1920年ころのCP GOERZ BERLIN のもので、6Xだ。勝間光学の双眼鏡もいいけど、飛行中に使うのは、レンズが離れすぎているので小さな飛行機の窓から観察するのは不都合だ。このプリズム双眼鏡は目の感覚が同じなのがよい。

それよりも魅力なのは実に優雅な皮ケース(ここでは展示していない)が付属していたこと。それで価格は1500円ほどだった。こういう買い物はうれしい。

それで皮ケースを首からぶら下げてその中にこの双眼鏡を入れて旅行した。空港のラウンジで、出発案内を離れた箇所から見るのにも便利だ。

問題は双眼鏡にストラップをこのようにつけると、皮ケースに入らなくなる点だ。

あまりにきっちりと皮ケースが作られているのである。こうして並べてみると、双眼鏡は1920年代、フィルムカメラは30年代で使うのも楽しむのも十分であることが理解できる。

R1158596

2009年3月15日 (日)

月刊ココセレブ

月間ココセレブ というのがある。
http://celeb.cocolog-nifty.com/select/2009/03/post-a9a9.html#

右のココセレブをクリック。

その編集部からお花見の特集をやるというので快諾。
登場した桜の画像はいかにも、いかにもという感じなので、これはどっかから拾ってきた画像だと思っていたのだが、リンクをたどって驚いた。
昨年の4月初めのKCチョートクカメラ日記なのである。

われわれ、カメラマン業界では、タイムリーな桜の写真というのは最低でも1年前のやつであるのだからそれはそれでよいわけだ。

ただ、驚いたのはこの画像を撮影したのが、大昔のニッコール135ミリのライカマウントなのだ。
これは「安保反対!!国会解散!!」などよりもさらに以前のレンズなのである。

デジカメの進化だって!?
そんなのおかしくって、、、、という次第なのだ。

コンタフレックス+ゾナー50ミリf1,5

先週、月曜に檸檬社にて12カメラ円(1カメラ円=旧10000jap yen)で手に入れた、コンタフレックス+ゾナーの「実写」(この言い方がいいねえ)テストである。露光はカンで、絞りは開放(ライカインコ)からF11(煉瓦をまねるクーラーの室外機)まで多様。フィルムは10本で2100円の安いカラーネガ。現像とCDはヒルズの下、6Fにあるゴーゴーステーション。戦前の光が写っているというのは、「詭弁」であることはいうまでもなし。「新花鳥風月」というところ。フォトショップは使わず。Fh000012一番上の画像だけは、前から持っているコンタフレックス+ゾナー50ミリF2で撮影。

このカメラのほうは5−6年前にイスタンブール経由でプラハに持参した。

昭和15年、紀元は二千六百年に、内務省のお役人が当時のお金で2000円を出して手にいれたのを、そのお孫さんがゆずってくれた。これはもう10年以上前の話。Fh010025_2 Fh010026_2 Fh010004 Fh010030

BS番組の森山大道さん

R1158586 家人がウイーンにいっているので、その隙に「勝手」に家人の部屋にはいって、TVを視た。

昨年の夏、BSであたしがちょっと登場する番組があったので、家人に脅迫されて地デジというのを買ったのである。録画をHDでできるなんとかいうチューナーも買った。
そういう一般向けの商品は非常に安価なのでびっくりした。
ライカM3の美品などは時間が経過しても、価格の崩れがないからこれは例外なのかも知れない。

BSで午後8時から森山大道さんをテーマにした90分番組あり。
日本のような多忙な時間を送っている日本人を90分拘束しておくのはなかなか大変であろうが、録画しつつ90分のうちの最初の45分ばかりを視た。
個人的に知る森山さんのことで、新しい話はなかったけど、興味を持ったのは、森山さんが2台のGRを使って三河島あたりを撮影していたことである。
むろん、彼のGRはGRDではなく、フイルムを使うGR1とGR21である。それを2台、つまり1台は胸にぶらさげて、もう一台は肩にかけている。
なにか変だなと思った。「本物」の森山さんなら1台のカメラだけで仕事をする。いや2台のGRは持っていてもそれを同時に出して撮影するようなことはない。

それはともかく、森山大道の撮影作法は同業者としてなかなか参考になった。暗い場所ではちゃんとストロボを光らせているのだ。そこらが「素人」っぽくてよかった。

あたしも真似をして、GR21のほこりをはらって使ってみよう。

2009年3月14日 (土)

銘木「隅田川鍵型桜」

R1158582今年の桜は、東京ではちょっと見ることができないかも知れない。

なんでも今年の桜の開花時期は東京はかなり早いようだ。

月末までプラハなので案外に花の盛りを東京で逃しかねない。

別に花見への興味はない。

「花よりお酒」の心情であるからだ。10年前に「東京さんぽカメラ」という写真集を出した。これは何の役にもたたない東京案内である。ただその道の数寄者にはそれなりの好評を得た。その数多くの過去の東京のシーンの中で、桜のころになると思い出すのは「銘木 隅田川鍵型桜」だ。

新川2丁目26番地先に実存した桜の古木であって、その形が鍵型になっていた。相当の苦労をしてこのように、伸びる方向を定めてここまで成長したのであろう。

毎年、その桜の枝ぶりを見て、桜の花を楽しみにしていた。うちの下の川べりは毎年、桜の名所というので大勢の人が宴をはるが、あれは「大勢の桜」なので面白くない。

桜はやはり「ひとり立ち」に限る。毎年、きれいにさいていた鍵型桜、その周囲の空き地がどんどんマンションになったのに、かろうじて、そこだけが最後まで無事であった。なにかそこに永遠にあるような気になっていた。

ある年の夏。プラハかの戻りでTcatからタクシーで戻るとき、桜の死を知ったのである。その枝ぶりを内包したスカイラインが「空」になっていた。

家について荷物をほうりだして、中央大橋を走ってわたり、犯行現場を見に行った。桜は根元から切り倒されてしまっていた。

無残。

しかしその切り株はそのまま2年ほどそこに残って、春にはまた新しい枝を切り株殻伸ばして花を咲かせたのである。

その翌年だったか、ついに根こそぎになって、そこにマンションが建った。

そのマンションの住民が桜の精の夢を見るのは必定である。

桜の木の下に死体が埋まっているのではなく、マンションの下に桜の死体が埋まっていることになるからだ。

2009年3月13日 (金)

「日本滞在」もあとわずか

東京。木曜。快晴。
2月21日に「来日」したわけで「日本滞在」もあとわずかになった。
東京の時間経過というのは実に速いので、すでに2週間以上「滞在」しているにもかかわらず、それぞれの日になにをしたのかすでに記憶にない。
遊ぶ暇などないから、かたっぱしから仕事をしているのだけど、その仕事が身に付かないのである。
そういう東京のストレスに耐えかねてまた「プラハに逃げ帰る」という恰好だ。
ただしいったんプラハに戻って、また3月後半には「東京出張」がはいっている。

家人は3月11日からHISの個人旅行で5泊6日のウイーン行き。ただし一人ではなく、隅田川の向かいにお住まいのピアニストの大塚美智子さんとその二人のお子さんとの4人の大デレゲーション。

なんでもHISは銀座の檸檬社、つまり銀座教会の建物で檸檬は8fだがその1f下の7fにHISの個人旅行専門の店舗があり、そこでツアーを仕立ててもらった。
HISと言えば、90年代に財界(経済誌)の表紙を担当していた当時、普段なお目にかかれないトップの皆さんんを撮影したが、そのシリーズの最初の人がHISの澤田さんだった。撮影の後でお互いに「メタボ」の話題で盛り上がるという気さくな経営者さんだった。まず当時にはまだメタボという用語はなかったから会話の中では
「肥りすぎ」である。当時の澤田さんとあたしには体型の共通点があったのも今はなつかしい想い出だ。

2009年3月12日 (木)

KCチョートクカメラコラム

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★KCチョートクカメラコラム
二眼レフカメラの復活=銀塩クラシックカメラ

一昨年に企画した「二眼レフワークショップ」(えい出版)は、遅れたけれどこの前のプラハ行きでは、ローライでなかなかの出来の写真を沢山撮影してきた。それでハードカバーでいよいよ本になる。(その前にぶつの写真と残りの原稿を書かねば本にならないのは当然であるが)

二眼レフといえば、6X6サイズのカメラであるというのが一般常識だが、我々のように「甲羅を経たカメラ人類」ともなると、35ミリ二眼レフなどに興味が行くようになる。
その代表的なカメラが1935年製の世界で最初の電気メーター内蔵のコンタフレックスだ。このカメラはその他にもコンタックスのシリーズ(というよりもツアイスの35ミリカメラで)最初のクローム仕上げでもある。そういわれて見れば、その前のコンタックスは全部がブラックエナメルであった。

あたしのように「普通の35ミリ二眼レフファン」はそれで満足しているが、坂崎さんのようにもっと進化したカメラ人類になると、レアモデルに手をだす。イタリアにはラッキーフレックスというレアな35ミリ二眼レフがある。それより数段うえなのが、日本の戦後にアイレスというカメラメーカーが存在したが、そこがごく少数作ったヤルーフレックスである。国産35ミリ二眼レフだ。これは幻のカメラといわれている。

坂崎さんは以前、この超珍品カメラで、坂崎取材の報道陣を逆に「撮り返し」たりして話題になった。これはブラピが彼のM6で報道人に逆襲するよりも数段高等な技であると思う。
自分もヤルーフレックスは欲しいけど、値段が値段なので本家のコンタフレックスで「我慢」しているのだけど、これとてもびっくりする程高価だ。
この広告などは1935年当時のものだが、実によい味が出ている。

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★KCチョートクカメラコラム
デジタルな二眼レフ

昨年の今頃であったか、ちょうど1年前、NYKのコンテナ船ライラに便乗して、千頁本「チョートク海をゆく」の撮影で、このローライミニデジカメをつかった。普通のデジカメで撮影したセクションは「文字通りのシャープさ」であるのだが、一方このローライミニデジカメには、その描写に個性があって、ちょっと違う。それは画像というのは普通はその場の記録であるのだけど、このミニデジカメは「その場の記憶の記録」みたいな感じがあるのだ。

ありていにいえば、「ややシャープさに欠ける」のであるが、世の中のデジカメがシャープさ競争ばかりしている中で、逆にそのゆったりした描写がリアルなのである。

それで千頁の写真集の中では、ローライミニデジカメで撮影したセクションの20頁ほどを別建てにして効果を狙った。それはそれで成功したと思う。

このカメラは女子のアクセサリーとしても完璧なので、仕事仲間の博報堂のA部さんなどは、最初からその魅力を発見して常用しているようだ。しかも女子がこれを首からぶら下げるとなかなかお洒落。

またアメリカの本家の男性のライフスタイル雑誌「GQ」あたりでもかなり大きく紹介されていたが、それはこの小さなカメラが雑誌の1頁大の写真で掲載されていてので、知らない人はこの記事をみて、普通のローライの二眼レフと同じサイズなのではと勘違いするのではないか、などと「いらん心配」をしたこともある。
実物のサイズは以下の通り。

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コンタフレックスのセットケース

114514パシフィックリムカメラはあたしが最初に接触したカメラ店のサイトである。
ここにアメリカの伝統が保存されているなと思うのは、そのスタートページにドイツのクラップカメラのイラストが掲載されていて、これがすでに15年間不変であることだ。Smcamera
高いものは買っていないが、変なものが出るので時々利用する。

その一例をあげればastro berlin製のIDENTSCOPEのミラーボックスがある。こういうレアなアクセサリーが「業者さんの手に渡ってその価格にゼロが一個加えられる前」の状況で手に入るのであるから、これはうれしい。

この前、銀座の檸檬で4台目のコンタフレックスを買って、(数日前のカメラは前から持っている方)そのついでに同カメラのことについて、「ぐぐって」いたら。上のパシフィックリムカメラのコンタフレックスのセットケースに行き当たった。
本物は天文学的な価格であるうえに、戦前の作だからすでに皮が風化し、縫い目がほつれているのだが、これはアフターマーケットのやつだから、画像で見た限りでは大丈夫そうである。それを48ドルだかで落札した。
中国あたりがこういうものを作るはずはなくて、あそこはロレックスの偽の元箱は大量に作るが、ライカM6のそれは作らないそうである。要するに数が出ないからご商売にならないのは作らないそうだ。

それでこのセットケースだが、カメラ本体とレンズ数本、説明によれば35ミリ、50ミリ、85ミリのセットを格納するケースだそうである。
そうなると、これを手にいれた以上、今度は上のレンズを手にいれることが、今後のハリケーンの進路になるのは必定なので、実に困ったことになった。

2009年3月11日 (水)

新川のギャラリーノットイコールギャラリー

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新川のギャラリーノットイコールギャラリーの画廊男が昇天してすでに14か月目になる。
6週間ごとに、茅場町クリニックに投薬を受けに行く時、運河に面したその古ビルの前を通過する。
通過するだけではなく、橋の中央に立ち止まって水面を見て、そこに係留されている小型ボートを見て、それから視線をそのギャラリーのあった古ビルに移動させる。
その2fのオフィスの窓から、画廊男と眼下の水を眺めつつ「ここはベニスのキャナルグランデだなあ、」などと「よた」を飛ばしつつ、ういすきのストレートを何杯も飲み干した。

画廊男とはそれまでまったく面識がなかったけど、ここでギャラリーを彼がやってた2年ほどの間は「ういすき友だち」であった。画廊男は感心なことに、オフィスの奥のレフリジレータには、ちゃんと安物のワンショットグラスを冷凍してある。
ただし「飲みしろ」はないから、あたしが近くのポポロッカにて、さんとりの安ういすき「北ト」を買ってゆく。当時は980円で買えた。それが2時間弱にて大体空になるような案配だった。

香港が復帰するずっと前、九龍のいきつけの飯屋のおやじと親しくなった。毎朝、おかゆを食べに行くので、そのあたしの風貌からして「なみの商社員ではない」と判断したので、そのおやじはシャツをめくって自分の癌の手術痕まで見せてくれた。

それで東京に戻るとき、本土から密輸した強い高粱酒を向こうのスポーツドリンクのペットボトルに詰めたのをくれた。それが10年以上佃のキッチンに保管されていたのを、画廊のレセプションに持参して飲んだ。ひどい酒で密造がいい加減だから、液体の中の藁がまじっていたが、それだけ話題性はある。その酒をくれた親父はもういないし、画廊男ももういない。

もういない男からもらった酒をもういない男に飲ませ、その運搬をした男は、まだここにいるというのはどういう次第なのか。考えるほどにこの世は不思議だ。

画廊男との会話は談論活発で実に話題がつぎつぎと展開して実に痛快だったが、ビッグバンの数カ月前から「自分と大杉栄は似ている」などとい言い出したのでちょっと気になった。彼本人の個展では「矛」がテーマで、古ビルの屋上の溶鉱炉で製作した「矛」を画廊の天井からぶら下げた。その自由落下がかろうじてスリングで停止されている状況は上野の博物館のフーコーのふりこを思い出した。
大杉の話はちょっと気になったのだが、あたしは野枝さんの前のだんなのファンだしあまり気にとめずに話題が展開した。その当時、ICレコーダを持っていて、興に任せてその会話の一部始終を録音したのだけど、後で操作ミスでそれを消去してしまったのは残念だ。

一方で9年前に坂崎さんが佃の我が家に対談できたとき、座興でナグラのプロ用録音機で7インチリールに収録した対談はちゃんと残っている。アナログでデジタルとを比較するなら、アナログの方が不滅なのだ。

実に久しぶりに、そのビルの2fに急な階だんを登った。ギャラリーのあったドアはグレーの普通のドアになっていたが、それはそれで画廊男の意図した展示のような気がした。

2009年3月10日 (火)

コンタフレックスに訊け!

R1158546 思えば、コンタフレックスで「真面目に写真を撮影」したのは、もう10年近く前である。その重量が半端ではないので、「今日はこれで撮影するぞ!」と決心しないとなかなか持ち出せない。にもかかわわらず、今まで3台のコンタフレックスを手にいれた。それで今、またよせば良いのに4台目を買おうと思っている。このカメラの良さを一点だけあげるのなら、重いのとカメラのデザインの関係で重心が低いからぶれにくいこと。それとアルバダ式の透視ファインダーの不正確さがあげられる。これがライカM3ならそのうっとりするようなブライトフレームに魅了されて「構図」とか「作画」というような意味不明のことをやってしまうから、スナップの本質が逃げて行ってしまう。それに比べて、この不正確極まるファインダーは無手勝流だかから、現実の移り変わりと時間経過の尻尾をなんとか捕まることが可能だ。

このカメラの交換レンズは非常に高価なのでまず手に入らない。あったとしても長期の経済計画を建てなければならないほどの値段である。

だから、交換レンズはあるけど、交換が出来ないというパラドックスがあり、まずそれがこのカメラの長所と同時に楽しみになっている。カメラ人類には誰でも経験があるが、ライカのレンズを21ミリのスーパー暗愚論から、135ミリのエルマーまで揃えて「さあ!お道具は揃った!あとは撮るだけだ!」となって、その場所で挫折してしまうカメラ人類のいかに多いことか。

世界最初の電気露出計の内蔵カメラがこのカメラということになっている。このネームカバーを跳ね上げるとまるでバカラのクリスタルみたいなカット面が現れる。

R1158545

今まで、4台のコンタフレックスを買ったが、これが頭痛のもとである。 レンズ交換が可能だから、レンズを欲しくなるのが問題だ。 35ミリも85ミリも、135ミリもコンタックスRF用は沢山手許にあるのだが。 1936年のツアイスのカタログでは、コンタックス用のレンズをコンタフレックス用に改造するサービスがあった。ただしもう一度、コンタックス用レンズのは戻せませんと断ってある。 4lenses

2009年3月 9日 (月)

JUNGHANS OLYMPIC

Junghansbullhead1ユンハンス オリンピックは1972年の登場だから、まさにミュンヘン五輪の時の記念ウオッチだ。

この間、佃の引き出しの中から「出土」したのである。
どこで買ったのかすでに記憶にないが、外国のどこかのガラクタ屋のなにもかもごったにされている箱の様子だけはよく記憶している。
これは視覚的な記憶だけどその視覚の記憶をズームバックしようとしても、全景にまで画面がひききれない。
その価格は「均一の箱」であろうから、10ユーロよりはしなかったと思う。
この時計はリューズが頭の方にあるので、実に手巻きでの操作が面倒だ。クロノグラフの角が牛のように見えるので、ブルズヘッドという。アメリカ方面のニックネームは単純明快だけど、その奥行きというものがない。コンタレックスの愛称だって、ブルズアイなのだけど、なんとなくいやになる。

上の画像は自分の時計ではない、ebayに出ていた画像で、1250ドルの値札がついている。
あたしのは、クリスタルの傷がすごい。
これだけサファイヤクリスタルに傷がつくのは、ウオッチにどのような「八つ当たり」をしたのかそれが気になる。
サファイヤクルスタルがどんなに傷がつきにくいものか。それは社会通念である。

それで、あたしの同じウオッチを撮影したのがこれ。このアングルでは傷は良く見えない。それで逆光ぎみにしてクリスタルの反射だけ撮影したのが、この写真だ。ライカでもウオッチでも傷物が美しい。R1158544

R1158543

2009年3月 8日 (日)

最新刊「カメラに訊け!」3月9日全国一斉発売!

カメラに訊け!―知的に遊ぶ写真生活 (ちくま新書 771) Book カメラに訊け!―知的に遊ぶ写真生活 (ちくま新書 771)

著者:田中 長徳
販売元:筑摩書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

まだ見本が数冊しかないのだが、その最後の1冊を、日曜出勤にて佃からヒルズに来る間に読んだ。

まず、その内容よりも「通勤電車の中での格好な読み物」というのが第一印象である。

本書99ページの坂崎幸之助さんとの「ニッポール立ち話」には笑ってしまった。

上の画像は「裸本」だから見えないけど、その腰巻(帯)に「カメラ選びは生き方選び」とあるのは、無論、あたしの作ではない。これは担当編集者松本良二さんの作である。こういう「陳腐で深く強烈な演歌みたいなコピー」というのは著者は考えつかないものだ。
言葉のアクロバット。

本書にはョートク独断ブランドカメラ30選」というのがある。腰巻の裏の方にその機種が出ているが、デジカメは1台もない。それでいて、本書の内容はデジカメの最新の使い方と、デジカメメーカーさんへの「苦情と提言」なのである。

まず、カメラ人類さん(これを読んでいるあなたのこと)は第一として、デジカメメーカーさんに読んでいただきたい、一書である。

その30選のカメラリストは思いつきで決めたものだが、30台のカメラは手元にある「カメラジャングルの表皮」をなすったら、出たのである。
単純計算で、その佃の在庫がその10倍などは甘い予測であるから、その100倍とすれば、不良在庫は目下推定3000台。

後宮三千台。

中古カメラ(フィルム)は、今が底値だから買いである。先週金曜、坂崎商店で会った幸之助さんとも、もっぱら「今何がほしいか」という話題で沸騰であった。
坂崎さんのほしいのは「ヤルーフレックス」(35ミリサイズの二眼レフ)。
あたしの愛機はコンタフレックス。
こういう変なカメラ好きも、「カメラ選びは生き方選び」のうちに入るのであろうか。

いや、坂崎、あたしレベルだともう「カメラは病気」だから「生き方選び」にはならないようだ。

墨田区立花の坂崎商店

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金曜。
寒冷。豪雨。強風。
en-taxiの連載「東京大周遊日誌」の取材で、午後4時半に小村井駅集合。福田和也さん、田中陽子編集長。駅で待っているとき、坂崎王子が電車でくるか、それともゲレンデワーゲンかで福田さんと賭をしようかということになった。そうこうしているうちに、坂崎王子が車で到着。
博打はする暇なし。

東吾妻の坂崎酒店。家族だんらんのひとときを撮影。
坂崎酒店の前の信号の表示が橘工高前とかに変わっているので、坂崎さん驚く。この元日にご実家に戻った時にはそのような信号の表示はなかったという。
幸之助さんがお兄さんに聞いている。学校の呼称が変わったらしい。

家族の皆さんといろいろお話をする。名物のわんちゃんは昨年だかに12歳で昇天したよし。その後継者の若いゴールデンリトリバー君がいた。玩具の骨を一日でがりがり小さくしてしまう、「歯丈夫」である。

東京大周遊「武蔵屋酒店を目指す」は3月末のen-taxiにて。

土曜。
早朝は怪しい雲があったが、一応、はれる。
リンコスに買い物。と、言っても昼に食べる「焼きうどん」の材料を買いに行くのみ。ねぎを沢山入れて、オイイスターソースのやつに最近凝っている。
タワーに戻る前に、下のベンチにてなごむ。「れんぎょう」の黄色い花が枝についている。ウイーン時代にはこの黄色が咲き出すと、ドナウ運河に春がきたと感じたものだった、

幸せな老後がすごせそうだ、と思って冷静に考えたら、その老後とは実は「今の今」ではないのか。

タワーに戻って、クッキング。
具は、昨夕、坂崎商店で買った、180円の魚肉ハム。「怠兵記」(ハナモゲラ島の戦記)の著者、坂崎さんの父上が「これうまいんだよ!」というので買った。父上からリヤカーを引いて、築地に仕入れに行った当時のお話など承る。魚肉ハム、味わうになるほど味よし。

安息日。R1158449

2009年3月 7日 (土)

YAHOOオークションに入札できない

この頃、yahooのオークションに入札できない。オークションが便利になって、「入札はこちらから」というラジオボタンが画面につくようになってから、それがリンクを受け付けなくなった。
だから、佃ではyahooは「見るだけ」だ。

なんでこんなことになったのか。佃のPowerBookは10年落ちの最初期のG4だ。それでまだシステムが9-2-2
なのである。古いOSでオンラインの予約ができない航空会社よりも予約のできる会社の方が自分は立派だと思う。
エリートメンバーである、フライングブルー(AFとKM)は古いシステムだと予約が出来ない。「最新のブラウザーを使え!」と脅迫してくる。
オークション、大手のebayはすでに10年のユーザーだが、こっちは佃の古いシステムでもビッドできる。
楽天も大丈夫だ。
最近は欧州行きはアエロフロートであるが、このサイトは旧式のOSでも予約が可能なのである。

自分など、えんため性の高い画面などいらない。確実に使える方がいい。古いOSが大丈夫なサイトはそのまま年寄りに優しいという感じがして、最近のアエロフロートの自己の評価は高い。

昨夜、ういすきの酔いにまかせて、「最近、新しいG4ノートを買っていないなあ」というのでyahooオークションを覗いた。最新式のモデルが14万ほど。しかも締めきり1分前。こういう場合、BMW野の宮などはいつも、興奮してビッドして「いらないもの」を買ってしまう。
福田和也同志の場合も、新刊の「東京の流儀」(光文社)の中で、ほろよいで入札して恐ろしいワインがいえに届いた話が書いてある。

ヤフオクであたしの旧式のPowerBookから入札が出来ないのは、その意味、ある種の福音だ。これは一種のチャイルドプルーフなのである。

ただし困るのは本当に必要なものを買う時には、ヒルズの仕事場に行く必要がある点だ。
仕事場は24時間開いているからよいけど、たいていのオークションは深夜に閉め切る。
それでわざわざ、佃からヒルズまでタクシーで往復もばかな話だ。

2009年3月 6日 (金)

北千住の公園で仕事

水曜。
雨。寒冷。気温は東京の方がプラハより寒いという逆転現象。

午前10時半、えい出版の清水編集長來。懸案の「ローライフレックスワークショップ」の打ち合わせ。
この前、プラハで撮影した、120フィルム20本余りと、4X5フィルム99枚のあがりを見る。ちゃんと写っていた。一安心。
デジカメに比較して、フィルムカメラは現像結果が先になるので結果が不明で、どきどきするがそれだけ生き甲斐があるというべきか。新スタントに外れが分かるスクラッチ籤ではない。

12時から午後8時まで、ワークスペース1にて某誌の原稿30枚。
一気書き。1万2千字。
目が疲労する。これは持ち前の乱視のせい。
午後9時にはヒルズを出る。
雨あがりの銀座の路面の濡れているのが綺麗であろうと思い、日比谷で乗り換えずに、銀座を漫歩。なかなかの極東の夜。

木曜。
快晴。まるで春だ。まあ、春分が近いのだから当然だが。
北千住の千住柳町公園にゆく。
いつも、仕事のプロットを考える時にはここに来る。午後1時から公園の北側のみっつあるベンチのまん中に坐って仕事をmoleskinを出してひねくる。

頭上の桜の蕾みがかなり膨らんでいる。
桜の枝の真上、雀に似た格好のしかし連続して「ひよひよ、ほよそよ、ぴぴぷぷ、はっひっひ」というようなフレーズをずっと継続して良い声でなく小鳥が自分のベンチの頭上で鳴く。鳥の国籍、姓名、信仰は不明。
その位置関係がそこで「ふん」をすると、自分のレザーのパンツの上に落ちてくるのではないかと思っていた。
果たして然り。
幸運。
この「ネーチャーフォト」だけど、クラシックなリコーR7でデジタルズーム。なかなかに使える。
リコーは新型のCX1というのを出したようだ。そのことは先週末にアローカメラの「シドニー」(月一最終土曜の午後2時に開始のあたしの独演会、入場無料)の参加者さんから聞いた。

日比谷線にてヒルズ。ライブラリでイスラムの科学と技術の本を読む。PCから離れていたので、夕刻まで良い時間が過ごせた。R1158323
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さきほど、見たらAMAZONで「カメラに訊け!」の予約頁がアップされていた。詳しくは下の水曜日のKCチョートクカメラ日記をご参照。

2009年3月 5日 (木)

ズノー似なヤシカペンタマチック

デザイン誌AXISの次号で取り上げたのは、ヤシカペンタマチックである。このカメラに関しては前々から「怪しい」と思っていた一事があった。

それは1960年登場のカメラなのに、そのデザインが進化し過ぎている点にあった。

PC画面の中のカメラは幻の一眼レフ「ZNOW」である。

1957年の登場のこの未来カメラはそのデザインはGKインダストリアル研究所によるものだ。カメラ本体の上面とペンタプリズムの直線的なデザイン処理。シャッターレリーズボタンの位置、さらにレンズのまじめくさったフォーカシングリングの直線で構成された、ローレット。こうして共通点をたどって見ると、ヤシカペンタマチックはズノーと同じデザイナーなのでは、という推理が頭を持ち上げてくる。

もとより、すでに設計者さんは探しようもないけど、初期の国産二眼レフのデザインには魅力がある。現代のデジタル一眼レフのデザインが「どれもロゴを見ないとその区別がつかない」という不幸な時代とはまったく正反対に状況がここにある。

今のデジカメが似ているから、デザイン事務所が同じなのではないか、などは冗談にも出てこない言葉である。

やはり一眼レフデザインには偉大なクラシックが存在する。

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2009年3月 4日 (水)

カメラに訊け!ー知的に遊ぶ写真生活

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3月9日に筑摩新書から最新刊「カメラに訊け!」が出る。(まだamazonのリンクなし)
これはこの数年の知的なデジカメフィルムカメラ使い分けシリーズの完結編だ。

2007年に「晴れたらライカ、雨ならデジカメ」(岩波書店)を出した。
この本では、目的に応じてデジカメとフィルムカメラをスマートに使い分ける技とアイデアを論じた。

カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51) (アスキー新書) Book カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51) (アスキー新書)

著者:田中 長徳
販売元:アスキー
Amazon.co.jpで詳細を確認する

晴れたらライカ、雨ならデジカメ Book 晴れたらライカ、雨ならデジカメ

著者:田中 長徳
販売元:岩波書店
Amazon.co.jpで詳細を確認する

2008年に、「カメラは知的な遊びなのだ。」が出た。この新書では晴れたらライカで洗い出した問題点を実際の場に即して、撮影のハウツーとノウハウを展開している。
おかげさまで、6刷りとなった。

その後、9日に出る、「カメラに訊け! 知的に遊ぶ写真生活」は、前2冊の後を受けた完結編というポジションだ。
三部作というわけだが、完結編では実用のデジカメも趣味のフィルムカメラもただもっているだけではつまらない。そこにライフスタイルを加味して。もっと人生を楽しくやろうというアイデアを盛り込んである。

追記。6日の土曜の午後にAMAZONを見たら、すでに予約頁になっている。 手にとりたい方は、アマゾンから「カメラに訊け!」で。リンクはちょっと長いけど。 http://www.amazon.co.jp/%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%81%AB%E8%A8%8A%E3%81% 91-%E7%9F%A5%E7%9A%84%E3%81%AB%E9%81%8A%E3%81%B6%E5%86%99%E7%9C%9F%E7%94%9F% E6%B4%BB-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E9%95%B7%E5%BE%B3/dp/4480064737/ref=sr_1_1?ie=U TF8&s=books&qid=1236310224&sr=1-1 書影も入っている。

最近、横行している「こんな時代だから、、、、」は嫌いな言葉だ。
最初から時代を無節操に受け入れているからだ。

われわれ、写真労働者からすると、このフレーズは「ギャラの値下げ」をクライアントが言い出す決まり文句の一撃なのである。まさに防ぎようがない。

でも「こんな時代」というフレーズを、「こんなカメラ」
に置き換えると、カメラ人類のデジカメに対する不満と未来への夢がその先に見えてくる。

一方で、フィルムカメラの地位は安値安定傾向にあって、カメラ人類としては実に天国のような時代になった。フィルムカメラはすでに「進化を断念」しているので、そこには以前には想像もできなかった、新しいフィルムカメラの地平が見えてきた。これが発見だ。
そこらの新風景を「カメラに訊いた」のが本書である。

筑摩のPR誌「ちくま」にも本書は紹介されるであろうが、ありがたいのは岩波書店の山口社長がその一文を書いてくださることだ。
これをカメラ界に置き換えてみれば、ありえないことなのである。

ニコンのPR誌にキヤノンの社長さんが「ニコンについて語る」ことはない。
もっとも、キヤノンでもニコンでもその関係者さんは競争相手のメーカーのカメラが好きでそれを所持していたりするのは事実だ。

敵を知り、おのれを知れば、、、、
の意味で、という風に言い訳をすれば会社内での立場は守れるけど、そういう競合他社カメラを好きな社員さんは案外にいるという事実は特記すべきだ。

2009年3月 3日 (火)

ローマ ノ ヒカリ

2月21日にプラハから成田に到着したとき、快晴であって、まるで2月のナポリかアテネに到着したような気分だった。

アテネの空などは、まるで空の上で青ペンキの巨大な缶がひっくり返ったような青さである。そういうアテネなり、ナポリに10日もいると、今日と昨日とおとといの区別がつかなくなる。

マンの「魔の山」であったか、スイスのサナトリウムの様子が書かれていて、毎日のランチがきまったようにやってきて、それがあまりに「同じような状況なので今日と昨日の区別がつかない」という意味のことが出ていたが、まさにあの「日々は繰り返す」の状況だ。

東京のこの10日間の天候はほとんど雨か曇りであって、おかげでプラハからきた自分などは、「故郷のプラハの冬の光」というのをそのまま、極東にもってきたような錯覚があってそれはそれでよかった。

今朝、月曜の暴力的な快晴は、これこそ「北太平洋に面した極東の午前の光」である。それに蒼い空。これをブルーマンデイというのであろうか。

仕事。

最近、ランチは例の190円のサンドイッチから一転して、おにぎりの「づけまぐろ」である。これは下のコンビニに早めに行かないと売り切れてしまう。2個で270円。

その戻りにそのままエレベータに乗ってしまうのは惜しいので、ヒルズ内で下のアーケードを歩行した。

そのときの光の状態が、まるでローマの旧市街の春の光なので、世界には似たような場所が少なくとも2か所はあるのだと感心した。

これは左右の建物が迫っていて、しかも逆光ぎみのトップライトが上から降り注ぐせいである。

極東の神秘の光だとばかり思っていたら同時に春のローマの光でもあるのが発見だ。

そういえば、今年の復活祭がいつなのかまだわからない。これには毎年変化するという面倒がある。いっそのこと、日にちを決めてもらいたいが、(緑の日みたいに)そういう安直なことはやはりできないのであろう。

ローマ法王の「ふっかつさいおめでとう!」の日本語のコメントを久しぶりに聞いてみたい。

午後2時。新潮の矢野編集長来。打ち合わせ。

プラハにいた時、福田和也さんが矢野さんと北千住で工作をした時、ルミックスG1で撮影した矢野さんの横顔のメールが届く。それがまるで監視カメラで偶然撮影した「実行犯」の映像のように見えたのがよかった。

有史以来、肖像の普遍的伝統、もっと最近で見ればレンブラント以来の肖像画、あるいは肖像写真の伝統は、監視カメラの前を通過してゆく、無数の人物の記録映像にとって代わりつつある。

そこらの話を、2時間40分。

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2009年3月 2日 (月)

稲越功一さん

日曜日。
持ち越しの原稿をかく。
デザイン誌AXISの連載のカメラデザイン論を書く。10枚。
それを終わらせたら、家人から稲越功一さんの訃報。

写真稲越功一さん

 稲越 功一さん(いなこし・こういち=写真家、本名稲越幸一〈こういち〉)が25日、肺がんで死去、68歳。(アサヒコム)

あたしは稲越さんがモスアドバタイジングのデザイナーだった当時、カメラマンとして組んで仕事をしたことがある。
彼の処女写真集「Maybe maybe」はそれまでの象徴主義的な日本の写真集出版から一線を画していた。これは60年代のマンハッタンの写真集なのである。

まだ稲越さんにお嬢さんが生まれたばかりで、東池袋にお住まいを訪問したとき、あかちゃんをあやす奥さんのマニキュアが黄色であったこと、それと子守唄に「からすのあかちゃん」を歌っておられたのを思い出す。

ウイーンに棲んでの7年半の間に、稲越さんはよくエアメールの手紙をくれた。
たいていは達筆の青鉛筆の走り書きであって、よく内容は読めなかった。
その中に、バラの花びらが入っていた。

そういえば、1971年12月14日の東京カテドラルでのあたしの結婚式の時、稲越さんは白いスーツに月星のヨットシューズで、カーラーの大きな花束を持って参列してくれた。
そのスタイルがあまりにも超絶的なかっこよさなので、今でも家人とそのときの話をするほどである。

その前、稲越さんはデザイナーから写真家に転向するので、どのようなカメラをそろえたらよいでしょうか、と銀座のNDCにたずねてこられてたことがある。
後で、稲越さんは「田中長徳さんはずいぶん寡黙な人ですね」と共通の友人にもらしていたが、とんでもない。
あたしはNDCの斜め向かいの小島歯科医院の治療で抜歯した後で、麻酔のせいで口が動かなかっただけの話である。

原宿のアパート、まだ竹下通りが流行以前の時代に、YELLOWというオフィスを構えた。
当時は、事務所に医療用の白いガラスケースを備えるのは流行で、稲越さんにそれがどこで買えるのか、「指導」したことがあった。
事務所はモダンな空気が流れていたが、昔のアパートであるから、鴨居がある。
そこに手をかけて稲越さんはソフトな話し方で、マンハッタンとかパリの話をした。

その鴨居がなにか変だと思ったが、訃報で知ったのは稲越さんのお生まれが飛騨高山であることだ。今まで、名古屋だとばかり思っていたのだ。
それなら、理解できる。合掌造りとアパートの鴨居は無関係というわけではないからだ。

平木収さん

土曜日。
恒例のシドニー。
1時間30分、麦酒箱の上で熱弁する。
これで箱の上の演説は昨年以来、ちょうど12回が経過。
以前のような普通に椅子に坐ってする講演会よりも、この方がボルテージがあがるので、団塊世代向きではある。
往年の「アジ演説」の名残りだ。

帰宅して翌早朝に、家人が「平木さんが亡くなったの、しってる」という。
朝日の夕刊に平木の訃報が出ていた。
写真評論家。九州産業大学教授。24日に59才で卒。

先週、プラハの王宮の裏、ホテルサボイの前を通った時、平木の事を思いだしたばかりである。あれは1978年頃であったか、プラハに居た時、平木がプラハに来遊した。

当時は、あたしはまだプラハのアトリエ住まいではなかった。
そのホテルサボイに泊まっていたのである。
駅まで平木を迎えにいった。
降り立った平木は、実に東洋の神秘という風貌だった。

古都、プラハをあたしと平木が散策しているショットをプラハのPが撮影した。そのスナップショットはかなり後になって、プラハのPから見せてもらったが、東洋人という存在はまだ東欧だったプラハという街で見ると実にエキゾチックであった。

その時はプラハの街はまだボルシエビキの天下だからモノトーンの風景に赤旗翻るというシンプルな色彩だったのをなにか懐かしく思い出す。

今では五つ星ホテルになっているホテルサボイだが、当時は王宮の裏の忘れられたホテルだった。
平木とホテルのがらんとした荒れ果てたダイニングで麦酒をやっていると、そこのウエイトレスが「コルナが必要なら交換するわよ」と寄ってきた。闇両替である。その彼女はすごく短い黒のミニスカートなのである。
これは70年代にすでに途絶えたミニスカートがまだ「鉄のカーテンの向こう」では健在である一症例であった。プラハは遅れているなあと感心した。

数日のプラハ滞在の後、平木と共に、あたしはウイーンのアパートに戻った。そのアパートで平木が数日を過ごしたのか、それともすぐにパリとか他の街に旅立ったのか、それは記憶にない。

後年、東京で平木にあったら、その欧州行きのことを懐かしく語ってくれてうれしかった。しかしこっちはあの70年代には似たような客は日本から2ダースは来ていたので、どうも記憶にないのである。

いずれにしても、70年代終わりのプラハのサボイホテルにそんな日本人が泊まっていたと思うと30年も前のことながらなにかいまさらながら不思議な感がある。Dsc09081

2009年3月 1日 (日)

トラビ

Dsc09069

トラバントは東ドイツはツビッカウ製の「ボール紙でできている」と揶揄されていた東ドイツのVWと言われた小型乗用車である。
東ドイツの友人も中古で買った。

中古だと新品よりも高いが、新品は10年待ちなので仕方なく空色のトラビを買ったのだ。1988年頃のことであったか、日本のグラフ雑誌の仕事で、東ベルリンの工場街を撮影した。
むろん、東ドイツの生え抜きの秘密警察のおひざもとだから、変な東洋人が4x5カメラをもってうろうろしているのは「危険」である。

それで友人のトラビを@50マルク(これは当時としいぇは破格の価格だった)でチャーターして撮影をした。なかなか走行性の良い車で、とくに下り坂などは怖いほどの速度である。
だからトラビには愛着がある。

東西ベルリンが総合された時、路上の売店でこのトラビのモデルが多数売られていた。それが懐かしくて1台買って、そのまま20年近く、NeXT CUBEの上に置いてある。

この前、プラハの旧市街をローライを持って歩行していたら、市庁舎の前を勢いよく眼前、右から左に走りぬけたのは、空色のトラビであった。
それもあたしが東ベルリンで乗ったセダンではなく、こっちは奥行きのあるバンタイプなのである。こういう車は今や、実にかっこいい。
モスクワなどでみたカイエンポルシエなどよりもその「車格」はずっと上であると思う。

車には乗らないけど、空色のトラビなら欲しいと思う。
このモデルの方はトラビはファイバー製なのに対して、金属製なのである。まずそれが不満というところだ。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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