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2009年2月28日 (土)

佃の窓から

Rimg0246_2

木曜。
雨。
プラハより寒く感じる。
終日、佃の部屋で仕事。

デスクトップ上に1月2日の撮影の部屋から北を見た画像があった。それがうえのやつである。
この部屋は北から東まで、ガラス窓が連続しているので、採光は最高である。
デスクは北を向いているので、必然的に北側の空に注意する。手許にイタリアのガリレオ社製の37x50という非常に高倍率の双眼鏡(これは軍用)がある。

それで仕事に飽きたり、空域を不審な飛行物体がみえたりすると、すぐにこれで観察する。もう一台の双眼鏡は勝間の6x30である。この2台はなかなかのコンビだ。
今朝、朝食の時、眼下の隅田川を「あひる船」が通った。これは我が家で勝手に命名しているので、本当の名前は知らない。
ようするに丸っこい小型のボートであって、日よけがついていて、まさか人力ではなかろうが、ようするに進行速度は非常に遅く、なかなか可愛い船なのだ。
この船の存在に最初に気がついたのは昨年の夏だった。

それはブルーの船体で白い日よけがかかって、なにかベニスの船遊びという印象がよかった。それで今朝、見たのは同じスタイルながら、色はベージュ系なのである。つまり別の固体である。
ガリレオの高倍率の方で見たら、その船名を「さくら」というのである。
なにか不似合いな名称なのがまた可愛い。

船の名前はアンバランスで気にくわない場合と、それゆえに良い感じを与える場合とがある。眼下の隅田川で一番、変な名前の船は、これはどこがやっているのか、一連の観光船で「アワータウン」「ユアータウン」「リバータウン」と他にもあったが、まるで中学生の英語の丸暗記である。

他に、あまり嬉しくないのは、東京都がチャーターしているらしい、中途半端な大きさのボートでその名前を「はと」というのである。東海道線の特急ならともかく、水の上の名前としてはなにか変。
お役人がおざなりに付けた感じ。

そうそう中央大橋はまたライトアップされたのだけど、電力節約のせいで、なにか勢いがない。しかも以前は午後10時までしっかりついていたのに、最近ではその10分前くらいに消えてしまう。これもつまんない。

2009年2月27日 (金)

速報!新エプソンR-D1

Rd1x___ 以前のMJチョートクカメラ日記時代、あれは2004年であったが、エプソンはライカより前に「世界初のデジタルRFカメラ」を発表した。
その時には、ページビューアクセスが一日、5万になったので、最初はカウンターが壊れたと思った。
それほど、世界はデジタルRF機を待っていたのだ。その直後に、ライカ社は主に株主向けのニュースレターで「当社はライカのRFデジタル機を準備中」と発表したのは、やはりエプソンをけん制するためであったのだろう。

今日、27日に新型のエプソンR-D1xGが発表になった。
これを安心してみていられるのは、従来のR-D1の開発の延長線上にあることだ。

世の中のデジカメなら、最初のモデルからすでに5年も経過しているようなデジカメはほとんど問題にならないのであるが、R-D1の場合にはその歩みは「銀塩カメラの進化めいて」いるのがよい感じである。

詳しくはこのPDFを、クリック。「090227_R-D1xG.pdf」をダウンロード

RD-1に関しては「もう生産しない」との風説がたっていた。

いや、広報の人がそう言っていたのと、この銘機を開発した枝常さんが、カメラ部門から別の部門に栄転したので、RD-1もこれで打ち止めと思ったのはまったくフェイントであった。

周りで、RD-1を買いたいという人が少なくはないのでこれはありがたい。しかもライカM8を手にしている高級ライカ人類がエプソンに興味を示しているのだ。

問題点は、例のエプソンらしい、液晶回転技が新型ではなくなったこと。これで幾分かの価格下げになるのなら、評価するが、あの回転する液晶は裏返すと、完全にフィルムカメラの背面になるのが魅力であった。

KCチョートクカメラコラム

KCチョートクカメラコラム
銀塩クラシックカメラ

★空港の荷物検査のX線にどきどきする

1月のプラハ行で、どうも府に落ちないことがあった。この時は、撮影はほとんどがデジカメであったが、連載もので、これはフイルムで撮影する必要があったカットが若干あってプラハで2本だけカラーフイルムを買い、撮影したのだ。

今回、2月の戻りのプラハの空港で、チエックインするときに、カウンターのステッカーになにやらチエコ語と英語で「怪しいこと」が書いてある。すなわち、あずけた荷物はチエックのため、X線をかけるが、これはフイルムに影響するから、カメラはキャリーオンで持ち込めとある。
そう言えば、1月の戻りのプラハ空港ではチエックドバゲッジの中に2本の撮影済みフイルムを入れたのである。これを東京で現像したら、何となくかぶりっぽい感じの絵が上がったので、不審に思っていた。

我が、日本写真家協会では、1970年代にもっぱら写真表現のなんたるかよりも、空港でのX線対策に大童であった時代があった。DONT X-RAYという巨大ステッカーを鞄に貼ったり、はたまた鉛の袋にフイルムをいれたりした。まるで十字軍なみの重装備であった。

この2001年以来、そういう写真家の勝手は許されなくなり、さらに空港の機材がよくなったから、X線のかぶりなど過去の話しであると思っていたのに、プラハ空港でその「20世紀の亡霊」に再会できるとは思わなかった。

それで危険負担をなくすために、トランクを開けて、撮影済みの100枚に1枚足りない4x4フイルムを20数本の120フイルムはキャリーオンにした。その撮影済みフイルムは今、現像に出してあってまだ上がっていないので非常に気になる。昔は、フイルムの仕事というのは撮影した後で、現像があがってくるまで、実際のところ、海のものとも山のものとも分からなかった。

そういう時代は過去のものになった筈だけど、フイルムで撮影すると、そういう20世紀的な危険感情を覚えることになって、それは一種のフイルムノスタルジーなのである。
この気分は悪くない。

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KCチョートクカメラコラム
デジタルカメラ

★カメラに訊け!

カメラに訊け! とは、3月9日に筑摩新書として出るあたしの最新刊である。

この3年のカメラ噺三部作というわけで、一昨年の「晴れたらライカ 雨ならデジカメ」(岩波書店)次ぎに昨年だした「カメラは知的な遊びなのだ。」(アスキー新書)そして今度出る、「カメラに訊け!」(筑摩新書)ということで、出版社はそれぞれに異なるけど、これはデジカメとフイルムカメラとそれを使いこなすカメラ人類の「三位一体のカメラ福音書」というつもりなのである。

この3年間(実際にはもっと前から)あたしはデジカメとフイルムカメラは写真の楽しみの車輪の両輪のようなもので、どちらが欠けてもカメラ人類を自ら名乗ることは失格なのであるという話しをしてきた。
その福音がきいたわけでもあるまいが、最近ではレオタックスを持った高校生とか、ローライに眼レフをもった女子などが闊歩するようになった。
実際問題として、現代はフイルムしかカメラの選択肢の無かった20世紀の時代に比較すると、格段に便利になっている。

あたしの父などは、音羽の家から、新宿に向うパスの時刻表をミノックスで撮影してそれを自分でプリントしたのを定期入れに挟んでいた。今の時代とは格段の相違がそこにあるのだけど、ミノックスでバス停留所の時刻表を撮影するのは、それが父のように趣味ならば問題は無いけど、自分の場合、そういう面倒はごめんである。

そういう実用で必要な画像は全部、デジカメにまかせて(これは自分が職業がら撮影する仕事の写真も同様)本命の写真というべきか、楽しみの写真の方がフイルムで撮影すれば良いのである。
ようするに、フイルムカメラの進化の先にデジカメがあると思うのは、大いなるカメラの進化の認識不足であると思うのだ。

そこら辺のデジカメとフイルムカメラのそれぞれの意見を直接、カメラにインタビューしたのが今回の筑摩新書である。


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戦前ドイツの飛行機のシガレットカード

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Dsc09044

カナダから20本の映画フイルムが届いたので、「本編」を撮影しようということになった。キャメラ(この言い方かたがいいねえ)は、数日前にセットアップしたエクレールだ。それにつける、アンジエニュー16ー44f1、1という、ズームレンズでは世界一明るいのを持っていたのを思いだし、それを発掘した。
これはズーム比はたった2、8倍しかないが、つまり単体の明るいレンズがズーム化しているわけだ。1970年代にアメリカで8000ドルにちょっと欠ける、超高級レンズだった。

それを発見したら、ついでに「副葬品」というわけでもないが、昔、ベルリンのクーダムの古書店で買った、シガレットカードをアルバムにした上下2冊本が「出土」した。これはつまり、人類の飛行機の歴史をそれぞれに色彩色のカードにして、その裏に、こまかいデータを印刷した、ベースボールカードの飛行機版である。

レシートを見たら、1994年10月3日に価格120マルクである。ベルリンのクーダムの古本屋で買った。あの当時はベルリンによく行った、15年前のことだ。東西統合後まだ4年しか経過していない。
当時は120マルクはかなり高いような気持ちがしたが、これは買っておいてよかったと満足する。買って15年が経過て満足するのは本物の買い物であろう。
それで書庫から出してきて、ウイスキの水割り(この倍アは薄いの)を相手に頁を開いて楽しんでいる。

この右ページに見える、22番のメッサーシュミットが好きである。これは両翼が後ろにたためるのである。艦載機などだと手を上げるような格好で翼の中ほどが上に上がるのであるが、このメッサーシュミットのスタイルは、まるで甲虫のそれである。そこが気に入った。

古本とライカには共通点がある。これがライカなら、買ってから15年経過しても楽しめるけど、これが今買ったデジカメであったのなら、15年後を想像するのは恐ろしい。産業廃棄物にもならない怖い未来がそこにはある。

このカードアルバムをめくると、シガレットのよい薫りがするのである。
1938年頃の本だと思うが、大昔、P缶の薫りにうっとりしたのを同じである。
むろん、あたしはニヒトラウハー(禁煙)だけど、この薫りは好きだ。
足穂言うところの「サスタンスのお月さま」のシガリロをそこに感じる。

家人は3月のウイーン行きの準備にて、なぜか東上線の志木まで旅行ケースを買いに行く。
終日佃で仕事。

2009年2月26日 (木)

新宿で無届け集会。3名で合計年齢188歳

火曜の夕刻。
新宿。
毎月、プラハに行ってるのに、新宿には3か月ぶりである。

午後6時。人気雑誌 団塊パンチ(飛鳥新社)の次号の座談会。
お相手は中川五郎さんと坂崎重盛さん。
先週、プラハに居たときに、坂崎幸之助さんからメールがきた。
坂崎さんは五郎さんとはライブを何度もご一緒だったそうだし、
重盛さんはいわずもがな、幸之助さんのおじさまである。
それで「お二人によろしくお伝えください」とのことだった。

座談会の会場は新宿東口コマ劇場方面のビルの5Fである。
午後6時からゴングで、かなり盛り上がった。
というのは、次回の団塊パンチは「老人とsea」ならぬ「老人とsex」なのである。
単に一字違いですね。
これは全国で売り切れ続出当然確実。
謝こっけん(ごめん、字が分らん)先生の「性生活の知恵」以来の大ヒット間違いなし。
団塊パンチは前から認めていたのは、モーツアルトとかフェルメーアの特集を展開するので、これはかなり知的な雑誌と評価が高かった。
それで座談会に呼ばれたら、その御題が「老人とsex」と聞いてますますそのレベルの高さを尊敬した。

なんでも五郎さんと、重盛さんは初対面なのだそうだ。あたしもお二方のご高名は知っていたが、無論「一見さん」なのである。
こういう人間を引き合わせる力になるのは、やはり編集者の魔法の杖である。その意味でこれを企画した編集部の蓑さんという人は隠れてはいるが、大したものだ。

どうも、編集部はこの三名はいかにも「昨夜も2人のおんなやっちまったよ!へっつへい!」みたいなタイプなので、そのあたりの性豪伝説を期待していたらしい。
ところが案に反して、団塊の世代は精神主義者でストイックだから、まったく禅寺の坊主のような話(禅寺が一番わいせつなのだけど、30代の編集者さんにはこれは理解できない)に終始して、どうも予定稿とはかなり異なる方向の展開になった。

その修正主義の話をライターの山村さんはうまく書いてくれるであろうから、まず心配はない。
カメラマンの上條さんの「15歳の時に飛田遊郭に遊んだ話」がど迫力なので、五郎さん、重盛さん、あたしが思わず身を乗り出して拝聴することになった。

この7頁とかの座談会はもう今日が稿了なのである。
あたしがプラハでうだうだしていたので、皆さんにご迷惑をおかけした。

団塊パンチでは企画で是非「中古カメラの千人斬り」もやっていただきたいものだ。その時はカメラ人類がらみという意味で、五郎さん役に拓郎さん。重盛さん役に幸之助さんをお願いしたいものだ。

今回の売りは、三名さまで188歳である。長生きしてよかった、、、、
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2009年2月25日 (水)

キュビズム建築に棲みたかった

プラハといえば、自分の価値観では、キュビスム建築だ。キュビスムなどは絵画と立体の上に存在するものだとばかり思っていたから、最初に「人間がその中に入ることが可能」なキュビスムの立体が建築として存在することに驚いた。

ただし、自分の最初に見たのは、1970年代の半ばにプラハの都心のいわゆる外貨ショップTUZEXで見たのだ。その建築がいわゆるキュビスム様式なわけであったが、オーナメントにダイヤモンドのモチーフを使ってあって、あまり好きになれなかった。

プラハのツーリストで「上級」クラスの人なら、カレル橋より、火薬庫のそばの「ブラックマドンナ」の家、今のキュビスム博物館の方に興味が行くわけだが、この建物も自分は好きではない。その2fにもともと存在していたカフェが再開したので、ちょっと休憩するには便利だが、建物の塗装が臙脂系とか暗色系なので、立体派らしさがそこに欠如している。

モルダウを電車で右岸を南下したビシュハラドの手前に、根暗通りというのがある。ネクラ

なんて暗合とは言え、なかなか気が利いている。その根暗通りにある、ホホールの普通のミーテハウス(賃貸住宅)がベストである。

ようするにちょっと黄昏れた小建築であって、20年前にここに住む方策はないものか真剣に考えたこともあった。

内部を調査したが、階段部分はややキュビスムの要素があるものの、室内は別段、そういうわけでもない。もっとも室内から家具からなにから、キュビスム様式であったら、そのうち、自分の体も変な風にかくかくしてきそうだ。

やはり立体派はそのファサードにあこがれるのが一番だ。

ところでこの建物は過去30年にわたって撮影しているのだけど、いまさらながら、決定的なアングルというのがない。

おととしの神田明神の隣のギャラリーバウハウスで開催した写真展「PRAHA」でもこの建物をプラウベルマキナで撮影した作品を展示した。このマキナは今にして思えば、人形町の喫茶去快生軒のマスター、佐藤さんの遺愛のカメラなのである。

75ミリのダゴールをつけて撮影したアングルはこの画像より、やや斜めから撮影したものだった。それはそれで建物の構造はよくわかるのだけど、一方でボール紙細工めく、まるで「一夜にして出来上がったような建物」の感覚は、ファサードを真正面から見たアングルに明確に表現されている。

建築の撮影は人物の撮影同様に、なかなか困難である。

R1090445

2009年2月24日 (火)

東京の月曜のエクレール

悪天候の東京。
気温は8度程なのにプラハよりも寒く感じる。
ライカインコは抱卵中にて段ボールにこの2週間はいったきりなのでそれを観察しつつ、連載ものなどを書く。

昼。
家人と徒歩4分のところにある、麗江にゆく。ランチ。@1000円。
ポークとピーマンとポテトとをいためたカレー味の家常菜がよかった。

雨なので人通りもなし。
住吉さまの裏手のクリークは1月に帰国した時にも、その水位に干満がないのを注意してみていたが、あらためて、この隅田川の引き込みクリークの水位に注意する。
住吉さまの境内にて紅梅白梅が雨に濡れている。それを日本的な情緒とは、これはちょっと異なっているのではないのかという、ちょっと時差でずれた感覚で眺める。

昨年の12月末にEBAYで落札した、映画用のエクタクロームの100ft巻きがカナダから20本届いている。

しばらく前までは「プロ」ぶってイーストマンカラーの400FTで撮影していた。
アリフレックスSR用の特殊なマガジンで1200FTを収納できるのも買った。これはアメリカ製なのである。これで32分の長さのショットが途中カット切り替えせずに撮影できる。
しかし、そんな長いショットなどは撮影するはずもない。

プラハのルドルフィーノでウオーホールの映画ばかりを集めた特別展あり。
今回は撮影と長いものを書くための準備で、見る時間がなかった。次回の3月のプラハ行でみることにしよう。
プラハ人の感想では「退屈きわまりないロングショット」であると酷評しているが、これはビデオのない時代にバッハオーリコン1200を何台も使って撮影したのだ。
エンパイヤだってイートだってもともと長廻しの退屈さが「宝物」なのである。
アカデミー賞などの「ご商売」などと100万マイル離れているのだ。

フイルム時代の長いショットにはそれなりの「決意」が存在する。今の家庭用ハイビジョンで親が子供の卒業式(それも個人情報とかで御遠慮の時代らしいが)撮るのとはわけが違う。デジタル時代の長いショットには「退屈」あるいは「日常」が存在する。
1200FTマガジン付のオーリコン1200を前にした、アンデイは映画に殉教する十字軍のようだ。

自分の映画の時間の長さには100FTの3分弱が相応しい。
180秒は永遠の時間の長さだ。金曜のモスクワー成田だって、330は離陸に70秒かかったけど、180秒後にはすでにかなりの高度と速度を獲得していた。第一、息を180秒もとめていられるものではない。
つまり100FTの長さの16ミリフイルムは永遠に等しい。

その2000ほどのローストックをどのカメラで撮影しようと考えて、仏蘭西のエクエール(1ダースも、持っている)の中で、オースト(ラ)リアの放送局が使っていたACLを選ぶ。
これは改造がなされていて、アトーンのバッテリーとグリップとオンボードバッテリーが使える。

レンズは通常のズームレンズだと大変な大きさになるので、Cマウントの スイター10ミリ(ヨナス メカスの愛したレンズ)と、アンジエニュー25ミリF0、95を用意する。こうすると驚くほどの小型なコンフィギュレーションになる。恐らく、アリSR2やアトーンよりも小型であろう。
ただし、マガジンは200FTのではなく、400FTのをつける。この方が肩に乗せた時のバランスがよい。

ちょうどゴダールの夢見た「8/35」というアトーン社製の35ミリ小型キャメラみたいな感じがする。

本日、火曜には、団塊パンチ(飛鳥新社)の座談会あり。
お相手は中川五郎さん、坂崎重盛さん。Dsc09039

2009年2月23日 (月)

プラハのアトリエの天窓に貼ってある白い紙

R1158236R1090455 東京。
晴れ。
例によって佃のタワーの朝は、プラハのアトリエよりも寒い。
戸外はプラハの方が比較にならないほどに寒いのだけど、室内は佃が寒い。
とは言え、ライカインコの部屋はちゃんと暖房がしてある。全室空調埋め込みの部屋が寒く、プラハの1930年代に出来た古いビルで、ストーブは1960年代の瓦斯暖炉の方が快適なのである。

一昨年にアトリエの大改造の前には、ここは冬などは寒くて宿泊などできなかった。
それが窓が二重になったら、ずっと暖かになったのである。
佃のタワー建築20年なのであるが、当時はバブルの後期で、都内で唯一、最初のモダンなタワーであったので、「投機的な動きを防止」するために、全室賃貸というものであった。
上階の方は法人しか貸さなかった。 それで、前のNYKの会長さんなどが「社宅」としてお住まいで、そのことでお話があったりしたのである。
しかし20年前は二昔である。
かのビロード革命の起こった年である。
だから、建物が古くなるのは仕方ない。 br />10年前だったか、キムタクが何かのTVドラマで、このタワーに棲むという設定でえあった。そのロケを中央大橋でやっていた。たまたま家人が東京駅行きのバスに乗っていたら、そのロケを見つけた母と娘がいて、「おかあさん、キムタクだから、あたし次で降りるからね」とバスを降りたそうである。
ニコンのデジカメの広告のキャラ、恐るべし。

プラハにはまた来月、行くのだけど、アトリエの8枚あるガラスの一番西の窓に貼ってある、A4サイズの紙が見たくなって、google mapを開いた。
この白っぽいのがそうだ。
民間用の地図ですら、こんなにシャープに見えるのだから、軍事用のその解像度は想像できる。
自分の寝床の位置(画面の白手袋の位置)を確認したら、
50 06 19 10N  14 23 37 30E
と出た。
この位置をピンポイント攻撃すれば、フェドの将軍様に命中するわけだ。

2009年2月22日 (日)

東京プラハの午後の不思議

R1158220

アエロフロートの東京便はNRTアプローチでかなり、揺れた。
到着直前、機長から「成田はちょっと風が強いです」とのアナウンスがあったが、ウインドシエアで機種が振られたりなかなかのものだった。

プロの操縦士だから、あのくらいの風でも「ちょっと強い」という程度なのであろう。
今までの成田のアプローチでは「二番目」にひやりとした。
一番、怖かったのは10年以上前にLH便で成田に到着した時、機体に損傷があるとかで、下で消防隊が待機していたことがあった。
ジャンボがタッチダウンしてまだ滑走しているとき、並んで走る消防車よりジャンボの方がずっと速度が速いのに、いまさらながら感心したことがあった。

今日はモスクワ空港のラウンジで家人のショートメールにて、NW便の乱気流のインシデントは聞いていたのだが、成田というのは世界でもっとも気流の悪い場所を選んで空港を作ったようなものか。

成田の乱気流はともかくとして、外国にいて、日本の家人からの連絡というのは、自分にとっては「世界の変革を告げるメッセージ」と思えるのが妙である。

90年代、アトリエに当時は電話があったので、東京の家人から電話にて「ソ連邦の崩潰」の知らせを受けたのもプラハでであった。西側のTVでしか分からないので、そのまま、メトロでインターコンチネンタルホテルに向った。
当時はそこでしかCNNを見ることが出来なかった。

成田空港で野の宮BMWが居たので驚く。空港で張り込み中の捜査員に身柄拘束された恰好となる。
その数日前に銀座の中古カメラ市に一緒に行く約束であったのが、プラハのアトリエのインターネット不通事件で待ち合わせ場所などを決められなかったのだ。

快晴の謎めいた極東の大都はやはり不思議な存在だ。
問う狂人(これ、変換間違いで最初に出た語句)の眼に写る東京は本物ではない。東京の最初の印象、それも本当の姿を見るには、時差ぼけに限るのである。時差ボケ東京というmasaさんの写真集もある。

新川のデリーでカシミールカレー。
銀座にでる。
ICS中古カメラ市にて見知った顔に挨拶したりで、時差ぼけを解消しつつカメラを見る。いや、挨拶に忙しくて、なかなかカメラは見ることが出来なかった。

本ブログの読者さんが「モスクワからいらしたんですよね」というので何で知っているのかと思えば、モスクワで自分で日記を更新しているのだから当然なことなのだが、自分で書いた日記の内容に自分の行動が追い付いたの感覚がある。
サンテクスの文章に「飛行というのは離陸して見失った自分の搭乗する飛行機の影に追い付くことだ」とあったが、まさにしかり。

昨年の12月3日以来の山谷の大林によって、あわもり1杯。
そうそうに佃にもどる。ライカインコは巣箱にて「抱卵中」にて挨拶もせず。

上は今日の東京。下は一昨日のプラハの画像。
都会というやつにはどうも共通の識別コードというのがありそうだ。


R1090469

2009年2月21日 (土)

PRGSVONRT

R1158205_2 20日。
プラハ=モスクワ〜成田。
移動日。

プラハは朝から雪。
思いついて4x5の撮影の最後に残った3枚で、アトリエの内部を撮影する。
30数年前、ウイーンにいた当時、やはり4x5のフィルムのあまりで、ウイーンのアパートの室内を撮影した記憶あり。
こういうのが後々に案外に大事な記録になったりするのだ。

昨日、19日も終日4x5にて撮影。
グラフマチックホルダーが不調なので、3枚のホルダーを使って、6カットごとにどっかのベンチを捜してダークバッグでフィルム交換。
最初のフィルム交換はかつてスデクのアトリエのあった、王宮に行く途中の坂の脇である。
向かいは今ではスデクギャラリーとなっている。
なにか昔の偉大な写真家と今、その精神をともにしているような錯覚がもたらされる。
午後になって街を一巡して旧市街の古書店でスデクのプラハ(1948年刊行)を発見する。これどうもスデクが「呼んだ」のではないか。

プラハのPと日本大使館の脇のギャラリーVIVOにてそのの女性オーナー芸術談義。
3軒先が日本大使館なので大使館関係のお客さんもくるとのこと。

そのとなりにあるバーにPと昼酒。
ここは知らなかったのだが、実に良いバーで、福田和也同士向けだ。
午後2時半から午後5時までPとワイン2杯半。

画像はこれを更新中のプラハ空港のラウンジ。
脇に赤ワインもあり、「危険な状況」である。
モスクワ行きの飛行機に乗り遅れないようにせねば。

モスクワ着。
サテライトではなく、バスなのでプラハから観光帰りのジョージア出身の男性と話題が盛り上がる。というのも、彼はウオッカのにおいぷんぷん。
昨年の9月のモスクワ、STペテルブルクで覚えた「GREEN MARK] のウオッカがいいと言ったら、いきなり親友になる。
例のごとく、モスクワのラウンジ。
これより9時間の飛行でNRT。R1158213

2009年2月20日 (金)

プラハ2月18日

R1158208 プラハ。2月18日 水曜。
4X5で撮影行。
カレル橋の周辺を再度撮影する。2年前、ここをプラウベルマキナでモノクロで撮影した。その時にはギャラリーバウハウスでの展覧会でそのプリントを5点の限定で売ったのだけど、最初に売り切れたのがここからの構図のやつである。

以前、MoMAでウエストンのプリントを調査していたとき、何かの資料でウエストンの数多くの作品の中で一番売れているのは例の「ピーマン」であることが判明した。
これは芸術的なレベルの問題ではなく、「客間やオフィスにぶらさげるのに適当な構図」ということであったらしい。しかしそれも写真の重要な要素ではある。

12枚のフィルムを撮り尽くして、マラストランスカのスタバの地下に行く。ここではWIFIが通じる。奥の席でアメリカ人の男性が、ここの女性を外資系の会社にこないかと、ヘッドハンテイング中だ。世界中、どこでも似たようなリクルートが行われているわけだ。

スデクのアトリエの前を「素通り」して、モルダウを渡って、右岸に出る。
珍しく青い空でプラハ城がジオラマのように起立している。
自分好みではないけど、サービスカットというので数枚ショット。

ここで二度目のフィルム交換をフォトシュコダの例のテーブルの上にて行う。

郊外が撮影したくなって、(その意味は市電の終点ということ)ムステクから最初に来た17番のトラムでモルダウを超えて、はるか東の丘の上にある、鄙びた村のようなところ(名前失念)に行く。

さらに24番に乗り着いてその線の一番終点まで行く。市電はループをなしてまた戻ってくるわけだ。ここだは大規模な集合住宅になっている。
市電のどこの終点でもそうであって、終点のちょっと前には昔の村があり、その先は無人地帯でさらにその先に、巨大集合住宅があるという次第だ。

いったん市内方面にもどって、行く時にロケハンしておいた、インバリドヴァ(廃兵院)のそばにある19世紀に出来たと思われるなかなか美麗な街区のところで降りる、ここはプラハ8区なのだ、
その美麗な市街がなんとなく時間の経過で退廃した感じが午後の光をあいまってなかなかのものだった。ここで数カット。

読者サービスでもないけど、旧市街の天文時計あたりの夕暮れもよかろうというので、市内に戻る。ここで撮影中のグラフマチックフィルムホルダーの具合が悪くなる。フィルムを送れないのだ。
それで撮影を断念した。

前の日にBSフォトで買った、ゼニットが4台あずけてあるのを思い出し、カメラ店に行って4台のゼニットを受け取る。
それは2個の黒いビニール袋に入っていた。なかなか重い。

その黒いビニール袋がなんとなく記憶に残っていたら、今朝の夢に出てきた。
舞台は日本のどっかのお金持ちの豪邸に招待されている。そこで東儀秀樹さんが特別に自慢の魚料理を披露してくれるのである。周囲には数人のゲストが居て、福田和也同志もいる。
あたしの家人も陪席している。そこに家人に手紙が届く。その豪邸の執事が持参してくれたのだ。 その情景は30年前、パリ16区のお金持ちの家に食事に招かれた時のそのままの舞台なのだ。
家人に届けられた2通の手紙は黒い繻子の封筒に入っている。そう思ったのは眼の錯覚で、黒いビニール袋の素材で出来ているのだ。

変な夢を見たせいか、朝からサーバーに接続できなくなった。
この1月にプラハの旧迎賓館でも同じ問題あり。このアトリエでも3年前に同じトラブルあり。インターネットには接続中のアナウンスが出るのだけど、接続できないのだ。

ゆえに金曜に更新予定の日記は、金曜に空港のラウンジで更新予定。

2009年2月19日 (木)

4x5フィルムでプラハを撮る

火曜日。
グレー一色の風景。これはおあつらえ向きの景色だ。
それをカラーで撮影するわけであって、20年前の観光写真を撮影する、いわゆる「エージエントカメラマン」なら「天気が悪いんですよ」ということで商売にはならない。

当時の観光パンフ(まだインターネットがないので印刷媒体がすべてだった)では、あこがれの欧州の空は透明に近いブルーであらねばならず、黄金の太陽が輝いていなければならない。

いや、最近のことではなくかの「ぎょえて」ですら、カルロビバリがいやになって、かの雪深い温泉からアルプスを超えて伊太利亜に逃げたわけである。

アルプスの北側の人間はその南に超えたがる「帰巣本能」があるのであろうが、自分は日本アルプスの南側、つまり冬はねんがら年中、空っ風で快晴の冬に飽き飽きしているので、プラハのような冬のモノトーンはそれなりに魅力に感じている一人である。

撮影。

スーパーグラフィックに90ミリ広角レンズ。フィルムを100枚とダークバッグを持つのは昨日と同じ。
フィルムホルダーは12枚分しかない。それで12枚ことにフィルムを交換するのだけど、公園のベンチは雪がつもっているので腰をおろすことができない。
しかも気温は体感でマイナス8−10度だから、どっかのカフェでフィルム交換をする必要がある。

「日本人カメラマンフィルム交換中に凍死か、、?」では格好がつかない。

思いついて、毎日在庫を調べている、中心のカメラ店、フォトシュコダの店のなかほどに高めの位置にテーブル状のでっぱりがあり、その前にバーにあるようなスツールがあったことを思い出した。
12枚を旧市街の天文時計の撮影後にその店に行ってみたら果たして、好都合である。これでフィルム交換の為の基地ができた。
もうスタバで飲みたくないホットチョコレートを飲みフィルム交換をする必要もなし。

バーゼル在住のバイオリニスト、ユラに会う。日本で公演した時のプログラムで自分のことが書いてあるのだが、日本語なので分からない。そこの部分を口頭で訳してくれとのこと。彼女は1980年生まれだが、作曲家としも活動を開始してるのをその経歴で初めて知った。

木曜にはまたバーゼルに戻るよし。ようするに月一のあたしのプラハ訪問と同じく月一のユラの訪問がたまたまシンクロしているのだ。

午後からは、街の南部の立体派の建築建築家ホホールの集合住宅の撮影に行く。例によってカメラアングル困難を極める。
総計で24カット。まずこんなところであろう。

モルダウ河から市電の17番に乗ったら、モルダウの屈曲しているかなり奥の方にまでゆける。それで4x5の撮影はそこで上がりにして郊外の流れ去る風景を楽しむ。

現地時間の午後5時にアトリエに戻る。

2009年2月18日 (水)

ROLL UP TO OPEN

Rimg0107 プラハ。
月曜日。目覚めたら天窓になにかかぶさっている。
雪であった。日本なら界隈が静寂になると朝、雪が積んでいるのが聴覚からきた降雪のサインであるが、このアトリエはサウンドプルーフであるから外の音はあまり聞こえない。
天窓を開けたらまだ降っている。

以前からプラハの雪景色を撮影したいという念願があったので、これは格好のチャンスとばかり、スーパーグラフィクとフィルムホルダー、それに交換用のダークバッグをデイパックにいれてアトリエを出る。

20番でプラハ城の前まで行き、王宮の北の問から入る。
プラハ城の中の広場は数人の男性が雪かきをしている。
まばらな観光客の為のサービスかと思えるがそうではない。広場の東側に小さなドアがあり、その上にはブロンズの蝙蝠の彫刻がある。これは大統領府への入り口なのだ。
フランスの大手出版社ガリマール社もその入り口は普通の木製のドアである。なにかの共通点がそこにありそうだ。そう言えば、以前の筑摩書房は木造のお化け屋敷のような造りだった。これはもと、医院だったのである。
最近の筑摩の人、たとえば新書のあたしの担当の某君などは昔の筑摩を知らない。

王宮の衛兵をかなりの距離からスピグラで1ショット。それから雪のプラハの全景を王宮前のテラスから撮影しようとしたら、変な50がらみの男が寄ってくる。英語らしい言葉で何か言っているが意味がまったく分からない。
無視したら向こうに行ってしまう。
ご維新以前ならこういう手合いは「秘密警察」であって、ちゃんとしたドイツ語で話しかけてきた往時を思い出す。

旧市街にくだるスイッチバックの箇所で、数カット。ここは巨匠スデクも撮影したプラハの名所の撮影ポイントなのである。
そこからさらに下り坂を降りて、カレル橋の北側の左岸から数カット。

ワーレンシュタイン城の庭園に入る。その庭園の奥の階段の上から今来た道と左右の雪景色を1カット。元に歩行して行ったら、庭の入り口の壁の内側のバロック風の装飾の龕のところに例のごとく、ホームレスの人。その本来はマリア像の飾ってある場所にはテデイベアがお守りのように置いてあるのが良い感じだ。

ここで12枚のフィルムを撮り尽くす。
用意のダークバッグを遣ってフィルム交換をせねばならない。
アトリエには10年以上前に数十のカットフィルムホルダーとダークバッグを用意してあるのに、それが発見できないのでこの面倒あり。
日本から持参した3枚のカットホルダー(これで6枚分の撮影ができる)と、1枚のグラフマチックフィルムホルダー(これは紙芝居式に6枚のフィルムを順次撮影できる)に救われているのだ。

親の遺言で絶対に入らないスタバに入る。
今まで親の遺言を破ってスタバに入ったのは16年前、JFKのサテライトでほかにコーヒーショップがなかったので緊急退避として入ったのと、7年前、アテネの議事堂前で持参の4x5の撮影のフィルム交換でほかに適当な場所がなかってのでスタバに入った二度しかない。
今回がスタバ入りの三度目。
70年代にはよく通った、旧市街のカフェマラストランスカがスタバになったのだ。
そこで95コルナでホットチョコレート。
フィルム交換。

モルダウの左岸の雪景色を撮影してさらに12カットの予定が持参の紙芝居式のグラフマチックフィルムホルダーが不調にて4枚目でスタックしてしまう、
開けてみたら未露光の4x5のフィルムが見えている。
エマルジョンを見てしまうのは、自分の網膜を見たような感じがする。

そこで撮影を中止した。
4x5の手持ち撮影なので、首からぶらさげているセコニックのスタジオメーター(最近ではフィリッピン製)が絞りf8で1/30以下の表示になったら、手ぶれ防止の為に撮影を中止することになっている。

アトリエに戻る。
途中、スーパーでのみ付けの赤ワイン、フランコフカの2004年ものを買う。

このカメラの本体にはROOL  UP  TO OPENとある。
日大の写真学科の1年生の時、最初の写真基礎技術の授業で沢本玲子先生が持ってきたのが、このカメラだった。この後期のスピグラはフロントボードを開けるのにちょっとしたこつが必要なのだ。
その授業では学生は誰もフロントボードを開けることが出来なかった。手持ちで撮影できる4x5カメラがすごいのではない。

以前は4x5はもともと手持ちで撮影するカメラであった。ウイージーの気分を味わうが、なにか欠けていると思ったら、葉巻がないのだった。

Rimg0076

2009年2月17日 (火)

プラハのラビリンス

Rimg0129プラハ。
日曜日。
曇り。雪舞い非常に寒し。

今日から4x5のスピグラで撮影しようと思っていたのだが、持参の120フィルムに数本の残があるので、それを消費すべく出かける。
ここらがデジカメとフィルムカメラの撮影の欲望の違いであって、まさかデジカメでは持っているメモリの全部を撮影し尽さないと安心できないなどということはない。フィルムの場合、持っているフィルムの総量はそのまま「世界認識のバリアのサイズ」なのである。それを全部撮影してしまえば、なにか安心立命があるが、デジタルはそうはゆかない。
フィルムには命の有限があるが、デジタルにはそれがない。デジタルカメラがなにか高性能にも関わらず殺伐とした感じがするのは「有限の命の時間に対応する記憶の容量が欠如」しているためか。

数日前に120のフィルムきれになった、王宮の裏のそのまた裏の「新世界」NOVISVETを撮影。プラハの丘の尾根ずたいに行く。
この尾根から見たプラハの遠望はすでに、スデクの名作で世に知られているが、その季節は冬に限る。
一面の木々のせいで、観光シーズンには王宮の教会がまったく見えなくなるのだ。

19世紀末のエキスポに建てられたエッフェッルタワーならぬ、プラハタワーの前まで行く。
これは螺旋階段で上まで登って料金は70コルナ。登らず。
たしかビロード革命の直後にここが登頂可能になった当時、一度だけ登った記憶あり。
ボルシエビキ時代には完全に封鎖されていたのは教会と同じ。

そのとなりにラビリンスがある。例のルナパークにつきものの鏡の迷宮である。ここも20年ぶりに入る。19世紀の構造だから電力など遣わずに、上から自然光で照明されている。

カレイドスコープの中に人間が入ったことになる。

これはなかなかのものだ。プラハはもともと迷宮めいているからその迷宮が二重の鍵括弧になってここに展示されているわけだ。

ここは丘の上なので、下のモルダウまで登山電車がある。19世紀のエキスポだからフニクラとラビリンスとエッフェル塔は三種の神器だ。
水晶宮の方は街の北方にあって、これは今でも使用されている。

たかだか100余年の新しさのものだから、ほかのバロックや、ルネサンスの建物に比較すれば「新品」に見える。
時間の距離感の問題。

下に降りて、市電の24番にて1970年代に撮影した「建物を分断するジッパー」の遺構を撮影。
市内にもどる。非常に寒い。
早めにアトリエに帰還。

2009年2月16日 (月)

KCチョートクカメラコラム

Dscn0551★KCチョートクカメラコラム
デジタルカメラ

「デジタルなミノックス」
ニューモデルのデジタルミノックスは確か、本日16日にいっせい発売の筈である。

ミノックスのオリジナルモデルはラトビアのリガで1930年代も終ろうとするころ登場した。
第二次大戦時は連合軍も枢軸国もミノックスは重要な諜報の眼であった。
あたしは普段、カメラを持っていない時でも、一台のミノックスAをポケットに入れている。コンパクトデジカメすら持っていない場合、これが役にたつのである。
それならカメラ付きのケータイでいいいではないか、と皆さんから聞かれるのだけど、カメラ付きケータイというのは、自分の場合、まず通話機能がついているのが否なのだ。

以前、何かの対談のときに、ケータイで通話機能のない、カメラだけの機能があるやつだったら欲しいなどと発言して、周囲を黙らせてしまい変なムードになったことがある。

このデジタルミノックスは自分の考えていた「常時携帯できる超小型カメラ」としてはまず理想のものだ。
秋葉などではいわゆる「隠し撮り」用のもっと小さいカメラのあるらしいが、そういうのは品性に欠ける。ミノックスは銀塩であろうと、デジタルであろうと、チャーチルはじめ世界の匆々たる有名人が愛用した「個人の眼」である。

その画質に関して言えば下に示したこの位の画質で満足だ。
デジカメおたくさんはすぐに「デジタルミノックスはフルサイズデジカメに比較して画質が劣る」などとばかを言い出しそうだが、そういう連中には発言させておけばよろしい。

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Icam0018 ★KCチョートクカメラコラム

銀塩クラシックカメラ

「アナログなミノックス」

プラハから特殊任務を帯びて日本に潜入して撮影した「セルフポートレート」がこの画像である。これはデジタルミノックスで撮影したものだ。同じショットをミノックスAでも撮影しているのであるが、プラハのアジトに戻ったのだけど、フィルムで撮影した分はまだ現像を依頼していない。

銀塩ミノックスはその手触りといい、小型なサイズといい、まことにクラシックなカメラとしては最高級なのだけど、これが発明された当時にはまだデジタル写真などはこの世に存在していなかったのであるからそれが致し方ない。

いつだったか、数台もっているミノックスの中でブラッック仕上げのB型にフィルムが入っていたので、それで残りを撮影して現像に出した。これは同時プリントなのであるが、最初の1枚に夜のパルテノン神殿が写っている。

これはほかの人の撮影したフィルムと取り違えたのかと思った。しかし2枚目以降は自分の撮影した記憶にあるショットだ。

7年ほど前にアテネに行ったことを思い出した。多分その時ミノックスも持参したのである。いや持参したからパルテノン神殿の夜景がここに存在するわけである。しかしミノックスを持っていった記憶はない。あの時は4X5のエボニーワイドには75ミリのフジノンSWでライカM4(オリーブ色のやつ)にはプラナー80ミリとタンバール90ミリを持参した。

ミノックスは軽いので持っていった記憶もない。これがスパイカメラの真骨頂なのだ。Icam0015 Icam0016

プラハの市電で初めて席をゆずられる

Rimg0043Rimg0080 プラハ。
土曜日。
晴れたり曇ったり。
気温マイナス2度。体感気温マイナス8度。

バレンタインズデー。

撮影。
2年前の日記(目下、扶桑社から出す「チョートク佃日記」を編集中)を見ていたら、日記中、えい出版から出す予定の「ローライフレックスワークショップ」の原稿書きで云々とあった。
2年前の企画が本にならないのは自分の場合、なかなかのことでその理由を思い出すに、一昨年の暮れから昨年の初夏にかけて1000ページの氷川丸本「チョートク海をゆく」と格闘していたので、なかなか時間がとれなかったのである。

このローライフレックスワークショップはハードカバーの愛蔵版の予定で、基本的なローライの使い方を押さえた上で、過去30年間のローライによる自作(国産二眼レフもふくむ)を多数収録している。
その中でアムステルダムの2年前の1月に撮影した作品を掲載の予定であったが、佃のカメラジャングルにまぎれてプリントが発見できず、それで新たにプラハを撮影することにした。

ほかの作品のセクションはデリー(インド)がワイドローライ、名古屋と豊田と常滑が3、5f、それに1980年代の作品はテレローライやら、ローライスタンダードやらであるが、今度のプラハはテレローライで撮ることにした。

土曜は地下鉄の黄色いラインの一番西の終点まで行く。

zulitinという駅名は東京の古老には人工甘味料のズルチンを想起させてなかなかのものである。
その駅前にある、ジーメンスの真四角なビルと背景に遥かに見える3本の紅い縞のある白い煙突を撮影した。
プラハは30年来なので、それぞれの方向の「撮影すべき風景」はすでに頭に入っている。それらはメモに書き出すと逆に思い出すのが困難なのであって、思考の無意識状態の領域に浮遊させているのである。

そのランドマークを撮って、市内に戻り、20番のこんだ電車に乗ったら、いきなり席を譲られた。こんなことはプラハで初めて(というより自分の人生で)である。

譲ってくれた相手の人はごく普通の50代のプラハの紳士であった、その着衣もよく記憶しているがそれを書くとその人の風貌が自分の視神経の記憶の領域から逃げて行くので書かない。
でも2009年2月14日の午後のことは自分の記憶に書き込んでおこう。

これは30余年プラハの町並みをほっつき歩いていて、その「成果」をプラハそのものが受け入れてくれたことになるからだ。この事実はこの1月に前プラハ市長と偶然に会ったことよりずっと嬉しい。

20番の市電はモルダウの左岸を北に向かう。ヨセフ スデクのアトリエのある建物が後方に流れてゆくのが見える。スデクと同じ年齢まで生きられるのなら、自分にはあと20年ほどの持ち時間があるわけだ。

62歳の人生のその50パーセントの年代をプラハがらみになっていて、その結果、初めて席を譲られたことを自分は忘れまい。

こりゃバレンタインの素敵な贈り物なのである。

後でマロストランスカのメトロの駅のきっぷ売り場で調べたら、プラハ交通局では60歳はすでシニア料金なのである。

納得した。

2009年2月15日 (日)

プラハでパリジャン

Rimg0070 金曜日。
雪から晴れ間が出るようになった。気温なマイナス4度。関東なみの空っ風も手伝って、体感気温はマイナス7度(uk weatherによる)

テレローライを持ってアトリエを出る。
アトリエの前の停留所から20番の電車にのる。この路線はプラハの北辺のスターリン様式の建物、以前のホテルインターナショナルから出て、丘をくだってモルダウの左岸に出てさらに南下、スデクの旧居(今はギャラリーと記念館)の前を通り、モルダウの右岸ぞいに南下して、南の町外れからいきなり西方の山に入る。
その山というのは峻烈な岩山なのである。スデクがそこをモチーフにしてパノラマ作品を撮影したので我々には「聖地」みたいなとこだ。

電車は路面から隆起して、専用軌道にそってまるで登山電車のモードになって、新開地に入る。その高架線から右を見下ろす絶景は、19世紀末の鉄道の煉瓦造りのまるでローマの水道橋のようなクラシックな鉄道橋がはるかに見える。
タイミングがよければそこを実際に6両連結のローカル線が通るのも見ることが出来る。

その先の上昇する軌道の先にはモダンな集合住宅とか総合病院がある。

つまり20番はプラハの北西から中央を通り、モルダウを遡り、さらに南西の大地に駆け上るわけで、その高低差が楽しめる。

ところで、アトリエから電車が南下して最初の谷に入るところから、線路は左折して街にくだるのであるが、目下、その谷に巨大なビルを建設中だ。この前、1月のプラハではその工事の脇をかろうじて路面電車は通過していたが、2月に来てみたら、その線路は閉鎖されていた。
それで20番は今言った左折の場所を左折せずに逆に右折して、プラハの丘に登りすぐにまた左折する。
この臨時の回り道があたしにとって有り難いのであって、この臨時ルートだとプラハ城のちょうど北の城壁の前に出ることが出来るのだ。

そこで下車して、王宮の中に入った。
ちょうど、12時前で王宮の衛兵の交代の時間だった。この前の1月は音楽なしの「ただの交代」であったのだが、この日はなにかの特別な日なのか、それとも観光客相手のアトラクションなのか、王宮の広場の二階の窓は全部あけられて、軍楽隊の華々しいブラスの音色で衛兵の交代が行われた。
そういうのに興味はないのだけど、おつきあいにて1本ほどローライで撮影する。

王宮の裏手の小路を撮影して、持参のフィルム5本撮り尽くす。
もうフィルムがないとカメラマンではない。気楽な気分で新世界(プラハで一番古い街区)をぶらぶらする。
ここは王宮の敷地と庭と修道院の敷地に挟まれたその間の間隙で、そこを「しもじも」が通行できるようにした小路だ。
日本路地裏学会の格好のテーマでもある。

新世界を一巡してマラストラーナに降りる急な階段でまるでジャンギャバンという格好の紳士とその連れ合いに声をかけられる。
あたしのテレローライを誉めているのだ。パリから来たツーリストなのである。もっぱらカメラ談義になる。
あたしはフランス製カメラのコレクターであることを明かして、フランス製のカメラの名前を5−6種類口に登らせたら、もうそれだけで意気投合。
カメラには(これは銀塩カメラに限る)人間のきずなを作る力がある。

「プラハはどうだい?」と聞いたら
「初めて来たけどプラハは丘の上に王宮があるんだね、モンマルトルの丘はお寺と風車ばかりだけど」
なるほど、パリのエリゼも確かに平地に存在する。

Rimg0061 カレル橋の手前にて、右の広場に降りて、その先を右折。ランドリーカフェに行ったら1時すぎというのに、洗濯屋はしまっている。1月にはお昼12時から開いていたのに、大変ななまけものである。
カレル橋を渡る。
向こうから歩行してくるツーリストの持っているカメラに注意する。
全員がデジカメなのでがっかりしていたら、長さ550メータ−の橋の最後のところで男性がロシア製のパノラマカメラを持っていた。
思わず声をかけたくなったけど、また話が長くなりそうで、そのままにした。

日がかげるまで撮影。

2009年2月14日 (土)

テレローライでプラハを撮る

Rimg0008
プラハ。雪。
例のごとく、カメラ店の定期検診。
フォトシュコダにかなり昔のツアイスの6X6の蛇腹カメラあり。その革ケースが「がまぐち状」でいかにも面白かった。
価格は500コルナ。買わず。

雪は小降りになって、明るくなる。
例のごとく、旧市街の文学カフェでランチ。ポークのボヘミア風(というよりも、ウイーンのシュバインブラーテン)にほうれん草にじゃがいものクネドリーキ。
ビール、エスプレッソ。

テレローライを持って、市内を撮影。120フィルムにて5本。

テレローライと言うけど、望遠効果はない。たかだかゾナーの135ミリにすぎない。このカメラの特色は距離感が自然に出ることだ。旧市街の教会があってその向こうからもうひとつの教会の尖塔が覗いているというような、眼で注視するような距離感の撮影は、75ミリや80ミリの普通のローライだと広角に過ぎる。

それを自然な距離感で建物のボリュームをうまくつかまえるのが、テレローライの仕事だ。

撮影が終って、急に午前中に見た、がまぐち状のケースのカメラ(ツアイス)が欲しくなり、店に行ったら、そのカメラの部分だけが空の空間になっていた。
いまさらながら、カメラには出会いがあることを実感。
そのタイミングを逸してしまったのだ。

アトリエは隣の家(同じ住まいではなく、隣接する隣の建物)の屋根裏で大改修工事が開始されたらしく、ものすごい音がする。人間の仕事している槌音である。
落語の長屋噺ではないけど、壁の向こうから釘が出てきて、こっちの家の中に隣の人が「ほうき」を釘にかけにくるのではと思うほどの音である。
まさか、プラハの静寂の中で、これほどのエンタメが用意されているとは思わなかった。これだからプラハ暮らしは面白い。

撮影の戻りに隣の建物の入り口をみたら、メルセデスのゲレンデワーゲンが巨大な荷台のあるトレーラーを牽引している。中にはバスタブとかパイプが山になっていた。これが騒音の成果なのであろうが、こういうのをプロの人でなく、その住人がやってしまうことがあるので、欧州は時間があることが分かる。

電車のパスを買うので、価格を調べたらいつも買っている、3日のつまり72時間有効なチケットは逆に損であることが判明した。
というのは、1日のパス(24時間有効)が100コルナ。5日はその5倍の500コルナは分かるけど、いつも買っている3日有効のは、なぜか330コルナなのである。
これが理由が不明だ。毎日、100コルナで1日有効のチケットを買った方が便利だし、有効に使える。

2009年2月13日 (金)

プラハの三十年

Rimg0016 プラハ。幸先の良い、13日の金曜。

雪。のち晴れ間あり。
終日部屋で仕事。

今回はプラハのことをちょっと長めに書こうと思って、その下調べにきたのだ。来月もその用事でプラハに来る予定だ。

前世紀、1989年であったか、「ウイーン古都物語」(グラフィック社)が出た。これはA4サイズのカラー写真集でテキストも相当量掲載されている。
異例の売り上げで版を重ねて、後にはその縮刷版もでた。なにしろ、A4では、これをガイドブックにすることが出来ない。携帯に大きすぎるのである。
その不便を解消するために、後年小さいサイズの本も出たわけだ。この本はガイドブックとしてはからきし役にたたないが、道に迷う楽しみを知っている「高踏遊民」にはなかなか好評であった。

1989年当時「第一次ウイーンブーム」があった。世界を巡回した「ウイーン夢と現実」展でこれは夢判断の先生が「国際的に認知」された最初の時期でもあった。なにしろシグムント フロイト公園という名前はその名前の持ち主がロンドンに客死して以来、実に半世紀近い時間がそこに経過していたのだ。

「ウイーン古都物語」は日本の女性月刊誌などの取材でクルーが数冊を資料として持参とたという噺もきいた。
この本はウイーン、プラハ、ブダペストの「三都物語」なのである。

ウイーンは20年前当時とあまり変わっていないが、プラハとブダペストは大変革である。「もうひとつの国」から「こっち側の国」になったからだが、20年前の取材のこの本をひっくり返して懐かしく思うのは、当時の「東欧州」がまぎれもなくそこに記録されているからだ。
あれから10年後にビロード革命が起こるとは、自分の近視眼的な歴史の視座などでは、実に想像の外であった。

プラハは89年以前と以降ではまったく異なる街になってしまった。

その前に彼の、偉大な1968年があったわけだが、プラハ人のコメントを聞くと、68を180度回転させると89になるというのである。だからこれは歴史的必然だと。

こういう数字遊びを自分は信用しないけど、なにかのサブリミナル効果がそこに存在することは否定できない。

自分はビロード革命は言うに面倒なので、もっぱらこれを「ご維新」と呼んでいるのだ。そのご維新から20年が経過したのが今年、2009年である。

1月にプラハに14か月ぶりに来て、かつて東方世界の「王」であった、かのブレジネフも宿泊した旧迎賓館に3泊した。

インターネットがうまく接続できないのは、このホテルは五つ星であって、そういう高級ホテルではメールなどという「下賎」な通信手段は低く見られているせいであろう。それでホテルの金色のレターヘッドのある用箋でインクをいれた万年筆で手紙を書いた。広大なバルコニーからはピトレスクなプラハの古城と市街が一望できた。東欧の大将としてここに宿泊したブレジネフはいかに満足であったろうと想像した。これは単なる想像ではない。1979年代後半、ジミーカーターとの会談でウイーンに来たブレジネフの蝋人形のような横顔を自分は3メーターから見ている。
しかし旧迎賓館は、やはり不便なので3泊でやめにして、20年来住み古しのアトリエに戻った。

プラハの過去20年をここらでまとめておくつもりになったのは、1月10日の夕刻、空港到着時にモスクワ経由の自分の荷物が未着になり、それで40分ほど、空港の出口に出るのが遅れたのが直接のきっかけになっている。
仕事上当然とはいいながら、ブロンドに黒服の黒いリムジン(なぜかメルセデスや、BMWではなくAUDIというのが良い感じだ)のドライバーが待っていた。

ホテルプラハに行くまでたかだか20分ほどなのだけど、200クローネの大盤振る舞いのチップに渡した。夜のオレンジ色に照明された街路を疾走するリムジンの中で、ドライバーに「ご維新から20年だねえ、、、」と言ったら「すみません、、、、ぼくはご維新の時、まだ6歳だったので何も覚えていないんです、、、」と答えがかえってきた。

プラハでかつてそういうことがあったこと自体がすでに古参党員や教科書の中の記憶や記載になってしまったのだ。

ここでのメーンの狂言回しの役は「プラハのP」という男性である。ハベル大統領の友人、ミランクンデラの教え子でもある。写真家にしてジャーナリスト。プラハの1968年8月のバーツラフ広場を見ている人間だし、ミッレミリアに出場したこともある。彼の過去30余年の暮らしを結果として自分は動物の飼育日記めいて観察したことになる。これを土台にして何か書けると思った。

唯一の彼、プラハのPの欠点は彼が「知識人」であることだが、これは人間の誕生にかかわることだから、今更文句を言っても始まらないから我慢しよう。

1989年プラハのご維新から20年。

自分はさらにその15年前からのプラハを知っていることになる。でも「プラハの35年」ではそれが仮題であるにせよ「ペキンの55日」みたいでどうも言葉の座りが悪い。

自分はときどきしかプラハに着陸しない。
しかし岩波映画の雪の結晶の微速度撮影のフィルムのように、この30年来自分が見てきたことはそのままに覚えているつもりだ。

田山花袋の作の中に「東京の30年」がある。花袋が渋谷村に独歩を訪ねるあたりなど、信じられない明治の往時が語られている。
その真似をして「プラハの30年」というフレーズが頭に浮かんだ。

2009年2月12日 (木)

空気枕関連

R115809620年来、飛行機はCクラス、ときどきFクラスと決めていた。

こう書くと、いやみであるが、仕事関係でCクラスに乗っていたのとマイレージでFに乗っていたのだから別に不思議はない。

それが4年前にスエーデンのハッセルブラッドのプレスツアーに招待されて、実に久しぶりにYクラスに乗った。

もともと飛行機というのは変な乗り物であって、仮想の階級社会をそこに現出させているのである。

民主義が一応建前になっているこの現代だから、逆にそれが面白い。

業務でJLなどに乗っていた当時、業務用のチケットだから、言い方は悪いが「タダ券」である。そういう業務で乗る人に注意をうながすチラシがチケットと一緒に送られてきた。まだEticket以前の話であるのが懐かしい。曰く、ちゃんとネクタイをしろとか周囲のお客さんに自分が「ただのり」をしていることを言いふらさないように、とか業務上の注意事項が沢山ある。今でもあの注意の紙というのは存在するのだろうか。

そういえば、日本を代表する音楽写真家さんで、これは四半世紀前のことだが、日本にもどるその朝に何かの用事でホテルに行ったら、チケットがないというので大騒ぎになっていた。通訳兼、スタイリストさんがごみ箱をひっくり返して中身を調査したら、その中に入っていた。いかにも貧相なチケットなので、ごみ箱に誤って捨てられたのである。

福田和也さんの帝国ホテルのかんずめの話しで、重要なメモをホテルの人がごみばこから発掘した話しみたいだ。

KLMで乗ったYクラスが縁になり、それ以来、Yにも乗るようになった。以前のKLMのCクラスは食い物はいうに及ばず、ワインのセレクションがかなりオランダ人好みであって「オーストラリアのオークの樽でかもした脂の香りのする赤ワイン」というようにかなり個性的ワインリストであったが、こういうのは一般受けしない。それは別の問題だ。

Yクラスの必携は空気枕である。これは重要だ。数年前にスエーデン行きの時、NRTで買ったのは、ストローで空気を吹き込むという変なモデルで、これは万一、ストローを紛失すると使えない。

この1月には思いきってNRTにて日本圓1700金を投じて、上のような空気枕を新調した。さてシベリア上空でこれを膨らませようとしたが、ものすごい肺活量とパワーがいるのである。1万メートルの上空は富士山の山頂と同じ空気圧であるから、心臓がばくばくした。

ようやく膨らませて、今度はモスクワ到着前に空気が抜けないのである。

それでトランジットの時、膨らんだ空気枕をかかえて乗り換えの荷物検査を受けた。小さい子供がぬいぐるみのくまを持っているのは許せるが、還暦の東洋人が空気枕持参というのはやはりロシア人に怪しまれる。

不良品の空気枕を買ったと思った。というのは自分は機械ものについていないのである。この前のエプソンのP5000という画像保管装置も、インデックスが読めなくなって、目下、エプソンに入院中である。めったに起きない機械ものの事故に遭遇したりするのである。

3週間の東京滞在でBMW野々宮と東京のカメラクルーズをしたとき、その話をしたら、野々宮は空気枕に関する驚くべき、秘密を暴露した。

なんでも最近の空気枕には弁があってそこを指で押さえて弁を開放してから膨らませるのだそうだ。

自分が前に空気枕を使ったのは小学校の林間学校の時である。1950年代。あの当時には空気枕の中にそんな弁はついていなかった。世界の変貌はインターネットやデジカメやモスクワから赤旗の降りただけなのではなかった。

空気枕にも世界同時革命があったのである。

http://webcam.pis.cz/en/petrin-hrad.html

Rimg2027 ★プラハ日記
2月10日。雪。

ナリターモスクワープラハ。
この前はshort connectionというタグがついていたのに、荷物は到着が翌日になった。前回は「迎賓館」に泊まっていたから良いけど、万一、前のようにラゲッジが遅れたら、アトリエは6Fだし階段しかないし、クーリエがここに届けに来たら面倒だなと思っていた。

今回は運良く、最初から3番目に荷物が出た。そのかわり、税関でしっかり調べられた。

今回は空港でホテルのリムジンが迎えにくるのではない。プラハのPが迎えにくるのである。最初から25ユーロのリモサービスを頼めば良いのだが、そうなると「友情にひびが入る」ことになる。なにしろ40年近くの付き合いになるのだから、仕方なし。

思えば、プラハのPを最初に知ったのは長年連れ添っている家人よりやや古いのである。その訳は1967年にアメリカで開催された写真展にプラハのPも名前を連ねていて、その作品を見ていたからだ。

3週間ぶりにアトリエ。
気温は4度もある暖かさでこれは異常だ。今朝降ったという雪も全部溶けてしまった。
アトリエで置いてあるはずの4x5のフィルムホルダーが見つからない。某カメラ雑誌の特写で4x5のスピグラを持参したのであるが、10年前のアトリエの記憶が定めでない。危険防止の為に12枚分のホルダーを持ってきてよかった。

ダークバッグも持参した。アトリエには暗室があるが、フィルムホルダーが12枚分では足りない。だから撮影中に路上でフィルム交換をする必要あり。だから携帯暗室は役にたつ。

巨匠sudekは彼の代表作のパノラマシリーズでフィルム交換の為に自身がすっぽり入れる巨大なフィルム交換袋を作った。彼は右腕がないから、その中に入って作業をする。
彼のパノラマカメラはもともと104というロールフィルム(1947年にコダックは生産を中止)を使うのだが、それはないから、カットフィルムを暗室で装填するのである。いちいち、暗室にもどるのは面倒なので、フィルム交換を野外で出来るようにした。
それで便利なのだけど、人の大きさの黒い巨大な袋が路上でうごめいているのだから、農家のかみさんが「悪魔が出現した!」とパニッックになっても仕方ない状況なのである。

プラハの巨匠にならって、フィルム交換は屋外ですることにしよう。

2009年2月11日 (水)

中央大橋のリニューアル

R1158121昨年の秋から眼前の中央大橋の10数年ぶりの大改修である。

もともとここは名前は中央区だが陸の孤島であって(人足寄場)があったのだから当然だが)東京駅からすぐのところにもかかわらず不便だった。

以前は「中央区のチベット」と言ったら、それはけしからんから使わないようにと叱られた。

そこにこのようなモダンな橋のかかったのが90年代の半ばであって、それまでは旧ベルリンのシュプレー川みたいに道はあってもその先は断崖になっていた。

ベルリンの場合、最初からあった橋が封鎖されたのに対して、中央大橋の場合にはこれから落成する橋がまだブロックされていたわけだが、でも一見事情を知らない者が見たら、現象としては同じに見える。

落成式はタワーの部屋から見た。相変わらず、親子孫三代わたりぞめというのが式典に組み込まれていて、これが明治時代からの伝統なのであろうか、実に古臭い感じがした。それからの連想で橋脚には「人柱」が埋められているのではと思った。

落成してしばらく経過してから、TVの撮影で元気すぎる若者が数人、ここから飛び込んで死亡したこともあった。だから「人柱」というのはありえないことではない。

昨年の秋からペンキの塗りなおしでライトが消されていたのが実にさびしかった。仕事で遅く、ヒルズから戻ってくると、まず家人の部屋の窓いっぱいに明かりのともったキャンドルのような(というよりも音叉ににている)ライトアップの橋が見え、そのまま廊下を歩いて、自分寝室の窓からまたライトアップされた橋が見え、さらに角部屋の大ガラスの部屋でもライトアップされた橋が見えて、ちょうど3つの橋があるように見える。

それがゴージャスである。

ここは15fで橋を見るバランスとしてはなかなかよい。これが30階以上だと橋は「頭でっかち」に見えてしまう。このタワーの部屋選びで以前、上の方の部屋を見学したとき、自分の調査事項は室内の装備よりも、窓から中央大橋がどのように見えるかであった。

そういう窓からの風景だけを気にする変な客があたしである。

また夕刻から午後10時まで光の橋が楽しめるのはよいが、問題はどうも、ライトの明るさが弱くなったことだ。あたしは写真家だからその光のバリューは読めるのである。どうも電気代の節約のようである。これは石原さんが管理しているのであろうか?

ーーーーーーーーー
プラハへ通勤中。
飛行時間、9時間50分。
モスクワ空港はランウエイまで雲が低くたれこめていた。
これより、プラハ行きに乗り換え。
ダイナースのラウンジ、静まり返る。
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2009年2月10日 (火)

プラハ(今年二度目)に持参のカメラたち

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今回、プラハに持参のカメラたち。
まず、新鋭のミノックスデジタルカメラ(2月なかばに発売)とクラシックミノックス。
このミノックスDSC(デジタルスパイって名前が生でいいな)は付属のチエーンを付けない方が使いやすい。
最初のモデル、ラトビアミノックスにはチエーンは付いていない。

それにクラシックなミノックスAも持参。これを胸ポケットの両側にいれて「諜報活動」の予定。

下敷きになっている、テレローライも持参。もともとこのカメラはヘルムート ミュートンの愛機で有名になった。モデルさんのプロポーションを「正しく」撮影するためのプロ機材である。
一方のワイドローライの方が英国の観光客船で、ツーリストさんと狭い甲板で一度に撮影する必要から生じた記念撮影用カメラなのである。

他にはスーパーグラフィック4X5に90ミリ広角レンズ付。フイルム120枚。ホルダーはプラハのアトリエに売るほどあるので持参せず。
それとこの画像を撮影したリコーR10である。

今回はプラハについてちょっと文章をひねくるので、その下調べもある。
それで、モレスキンの手帳を用意した。
銀座に買いに行こうと思っていたら、昨年、リコーの何かのプレス発表の時に報道関係に配付した、RICOHのエンボス入りの,MOLESKINを発見した。
表紙を見たら、CANDID PHOTO PROJEKTとある。キャンデイットフォトとは懐かしい名前である。シカゴのニューバウハウス流れという感覚で、よい感じだ。

文章をひねくると言っても、文字はかかない。希代の悪筆なので、メモをとっても後で本人が読めないのである。それで、絵文字とかストーリーの構造図を描く。それと単純なキーワードを書いておくのである。
これでなんとか、そのシーンを思いだそうというやり方なのだ。
まず、文字発明以前のテクニック。

10時すぎにNRT到着。先月にモスクワで荷物が積み残された件で、クレームを入れdinersのラウンジ(出国エリアの外にあるので不便)にて麦酒を一杯。やはり日本の麦酒はこれから本場に行くと思うと不味く感じる。

これより、搭乗。 Rimg8180

2009年2月 9日 (月)

悶々ホルモン 佐藤和歌子

1月31日には、あの写真部の活動工作があって、横浜反町(そりまちではない、たんまちと読む)を徘徊してわけだが、その時の指導者が佐藤和歌子である。福田和也教授によれば、おれのゼミの教え子の和歌子がおれの数多い著作のベストセラーの部数を抜いて「間取りの手帳」で売れに売れたのはけしからん、というコメントであるが、これは恩師の照れ隠しである。

横浜反町工作では完全狭小違法建築の弐階と言う絶好のロケーションでぶたのしっぽなどを食って満足した。
和歌子の出した「悶々ホルモン」はマンガ週刊誌の連載であったようだが、それが新潮社から本になった。
この前、筑摩新書の編集の人がヒルズに打ち合わせに見えた時、その話題になったらその人は鞄からあたしの三校のゲラと一緒に「悶々ホルモン」を取り出した。それでゲラを見るよりそっちを熟読してしまった。

この悶々ホリモニストに、直接、ホルモン屋さんを案内してもらったのは光栄であるが、この人の魅力は「思想が正しい」ことにある。あるいは思想が正しいように見えることにある。
この撮影に同行した石丸元章さんはピョンヤンツアーの名士だけど、和歌子みたいな、思想正しい美貌ガイドさんにピョンヤンなど案内してもらったら嬉しい。中学生当時、池袋の文芸座で「千里馬」を見たのを思いだした。これは学校のプログラムであったのだ。、

思うに、和歌子のような新人「ホルモニスト」が登場してくると、我々のようなこの道40年と自称する「老ホルモニスト」は居場所がなくなる。コミュニストもホルモニストももともとは路地裏の店で気炎をあげていたものであるが、世代交代は確実な事実となった。

今月末に坂崎幸之助さんの叔父さま、坂崎重盛さんと某雑誌でお話をする機会がある。重盛さんは老ホルモニストである。テーマは「性ホルモン」なのだが、これは「悶々ホルモン」と同義である。

今朝(日曜)の朝日新聞は満載であって「ヒロシマモナムール」の主演女優が1950年代にロケ地広島で撮影したリコーフレックスでのスナップが写真集になった話しもある。その展覧会は昨年、ニコンサロンで開催されたのだが見落としていた。こういうのは本当は三愛ビルのリコーキューブで見たかった。

さて、佐藤和歌子であるが、そのめがねっ子の美貌が何となく、宇野千代に似ているのではないかと思い、さて宇野千代の風貌はと新聞をめくったら、なにかの広告で宇野先生の顔写真に遭遇。
今朝の朝日新聞はよく出来ている。

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2009年2月 8日 (日)

タワーのたけのこ、伸びる

R1158112長い間、空き地のままだった、向かいの地面にいよいよタワーが建設中だ。

この基礎工事が始まったのは3年くらい前である。それをよく記憶しているのは、ここが塀で囲われて、その塀が白でなかなか写真的であったので、コンタレックスSPにビオゴン21ミリ付きでその壁をノーファインファーで撮影した記憶があるからだ。

基礎工事というのは実に長い時間がかかるものらしい。

なにか本つくりに、似ているなと思うのは、原稿を入れて、それが校正、校正、また校正で、著者の手を離れると、一気に本になってしまう不思議である。

本というのは実に99パーセントが人力であって、残りの1パーセントは極度にオートメーション化されている。

基礎工事が手作業で、その上にタワーを建てる工程が自動であるなどというつもりはないけど、実際、基礎が終わってからの上ものの建築速度は驚異的な速さである。

10年ほど前まで、この界隈はタワーラッシュであったが、欧州に2週間行って、Tcatからタクシーで戻ってくるとき、中央大橋を超えるときに見ると、建設中のタワーの高さが2週間前よりも目だって育っているのがよくわかった。

雨後のたけのことは、俗な例えながら、毎日、1階ずつ階層が増加するような勢いなのだ。

5年前に出したchotoku  x roppongi hills(東京きらら社)では、50fから見た東側の空き地はまだなにもなかった。樹木がそのままに残されているので、再開発もなかなか粋なことをするなあ、と感心していたら、ある日、その木々は一挙に切り倒された。

デペロッパーの人間性を過信したのは当方の迂闊だった。

それでばたばたとタワーが建って、それがミッドタウンになったわけだ。

2009年2月 7日 (土)

プラハの「新」ウエブカメラ

http://webcam.pis.cz/en/petrin-hrad.html

3週間の「日本滞在」が終わりにちかずいて、10日にプラハに「戻る」ことになる。

「東京滞在中」に、よく見ているのは、ブログにもリンクのある、カレル橋からのあまりにもHIS的な眺めである。このウエブカメラは橋の上のタワーのどこかに設置されているはずだが、その位置が特定できない。今度のプラハ帰りの時は、双眼鏡で場所を特定する必要がある。

上のリンクはウエブカメラのニューカマーであって、その鳥観図的視点にはマニエリスムの歪みがあることに気がついた。

オスカーココシュカの50号ほどの油絵(個人的にはココシュカのスケッチの方がすきだが)に、カレル橋上、100メーターほどの空中からモルダウ川越しに、王宮を見たのがある。その絵の色合いは印象派的に色分解を起こしているのが気にくわないけど、ココシュカの「カメラアングル」は秀逸だ。

そんな100メーターの空中には実際には何もないから、これはココシュカの想像の産物なのだが、このリンクのカメラの方はいうまでもなく実存である。

これは19世紀末のエキスポ記念の「偽エッフェル塔」の上からの撮影なのだ。そのカメラアングルにナダールめいた熱気球の落下の予感があるのがよい。

プラハのウエブカメラを見ていて実に不思議に思うことは、東京で見ているとそこに時差を感じるのに対してこれをプラハで見ると、時差がないという、まことに当たり前すぎる事実、そのもののことである。 9000キロの距離などは最初からもはや問題にはならなくて、プラハで日があたっているときに、東京が深夜という事実は、単にバスケットボールの向こう側に日が当たり、こっちは影になっているという単純な事実に過ぎない。それが当たり前ゆえに、不思議なのだ。 この地球という「ごむ鞠」のあっちとこちら側の問題は、JFKの葬儀の生中継に日本人が最初に体感した時間間隔なのである。自分はあの時、中学生だった。

2009年2月 6日 (金)

銀座一丁目 タイガー食堂

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古生代の話しであるが、銀座一丁目の日本デザインセンターに倍率200倍で合格。初任給35000円で就職して、3年間勤務した。当時は電通、博報堂、ライトパブリシテイと並ぶ名門であった。
その当時、中央大和ビルの向いが銀座トルコであって、アシスタント時代には中古カメラ屋めぐりが多忙であったが、そうでない時には眼下のお店のお客さんの出入りを現象学的に調査したりもした。

毎日のランチはそこら、ここらの曖昧な店で食っていたが、当時のランチの価格は350円ほどではなかったか。今の物価に比較してあまり変わらないような気がする。

センター勤務の2年目だったと思うが、一本、昭和通り寄りの平行な小路に「タイガー」という食堂が出来た。荷風のよく通った「大雅」とは音は似ているが、かなり性質はことなる。

無芸大食の我ら、アシスタントにはこのタイガー食堂は実に有り難かった。
名物はメンチ定食であったか。

ニューヨークから戻ってきたのは1983年の暮れであったが、10年ぶりに銀座にもどって、まだタイガー食堂は健在だったのが嬉しかった。
ここは夜、呑むこともできるのだけど、そういう体験は1度しかしていない。

昨日、堀内カラーに120の現像をだして、久しぶりにランチでもと思って行ったら、こういう札が出ていた。
最後に行ったのは、昨年、アサヒカメラの連載の関連で、ここでランチを食べたのが良い記念になった。まず、40年近く頑張っていたことになる。

2009年2月 5日 (木)

二眼レフは女性には合わない、っていうはなし

R1158097 日曜日。 野のみやBMWで、東京周遊。 カメラ店クルーズでなかなか行けないのが、目黒の散歩カメラ、ことサンポーカメラ。

行くとたいてい休みというジンクスがある。この日は開いていた。何時もオンラインのカメラ店しか見ていないので、実体のあるカメラ店はいい。

お父さんと小学校高学年とおぼしき女の子がニコンのウインドウを見ていて「お父さん、綺麗なカメラが沢山あるね。にこんえふ、、、、とか声に出してプライスタグを読んでいる。

それがきわめて自然な感じで、女の子が可愛いし、お父さんもおやじではないから、はたで見ていて気持ちが酔い。 これからはこういうシーンはドラマに使えるのでは。

Wishlistで各種のカメラとレンズをチエックしたわりには何も買わなかったのは、日本円をドル換算するとかなり高価であるからだ。 そこから、ひたすら環七を走行して、小岩のカメラ店に。 以前、ただただそのカメラを見る為だけに、小岩まで行く理由をつけていたトヨフィールド金1万2千圓はすでに売れた後だった。

小岩の中華小吃にて小食。あたし麦酒。ののみやはうーろん。 方向を転じて、本所二丁目の牧野。小上がりに大宴会あり。それが散会するとき、お客さんがののみや持参のワイドローライを誉めていた。顔なじみの年輩の女性が「二眼レフは女性には向かないのよね」という話しをする。

これは恐らく三丁目の夕日時代のカメラの知識なのである。ようするに、男性は複式呼吸。女性は胸式呼吸だから、胸の高さに二眼レフを構えると呼吸でカメラが動いてぶれる、という意味のようだ。当時はフイルムの感度など、10だからこの論理は外れてはいない。

ダイアン アーバスは偉かったな、と、ひとしきり感心する。

2009年2月 4日 (水)

KCチョートクカメラコラム

★銀塩クラシックカメラ

カメラジャーナルの愛読者さんは健在だ。

銀座のすっぱい店というニックネームで知られる、レモン社に行った。数日前、目黒の散歩カメラにて、テレローライを買ったので、(’三台目)そのアクセサリーを捜索に行った。

あいにくと、ローライ関係のアクセサリーはお目当てのはなかったが、「チョートクさん」と声をかけてくれた紳士がいらして、例によってレモン社にてカメラ立ち話。

聞けば、カメラジャーナルの「100円時代からの」読者さんであって、昔、あたしが書き散らしてもう忘れたことを、そのまま諳んじているので感激した。

その紳士は78歳と言われるのだがとてもそうは見えない。小型のキャリーバッグを引いてらして、その中からライカM3のクロームにアポランサーのレンズが付いている。

これから浅草寺に節分の撮影に行くそうだ。それで松田二三男先生のクラシックカメラクラブは創立当時からの会員というので、その当時の懐かしい画像をキヤノンのパワーショットに入っているのを見せてくれた。

ついでにあたしに遭遇記念(まず節分で鬼にあったようなものだな)にツーショットというので、レモンの店員さんに撮影依頼。

つまりこの紳士はライカの銀塩とデジカメの使い分けをあたしよりも高度に自由自在に使いわけているわけだ。

そういうカメラ人類がこらからのテーマになるのでは。
要するに、銀塩とデジタルのハイブリッドな楽しみが大事なのだ。


★デジタルカメラ

理想のスパイカメラ、デジタルミノックスついに供給さる

http://www.komamura.co.jp/minox/DSC.html

常に、Gパンの前ポケットに入っているのが、ミノックスA型である。これは第二次大戦時から、冷戦時、そしてつい最近まえではCIAで本物のスパイカメラとして使われていた。

ミノックスの注意事項は「間違って洗濯しないように」という一項に尽きる。
現代でミノックスはそのプライベートアイとしての存在感はますまず注目されているのであるが、問題はいったん撮影したら、その現像には1週間かかる点だ。

1月のプラハでもあたしは盛んに「諜報活動」をしたのだけど、その撮影済みフィルムはまだ現像していない。だからミノックスのデジタル化はスパイの諜報活動に必須であると、前から声を大にして訴えていた。

別に知り合いにスパイさんは居ないのだからどうでも良いわけだが、「ワナビースパイ」さんが周囲にごまんと居るのである。

本ブログの冠スポンサーである、駒村商会の駒村社長が先日、ヒルズに見えてこの「トップシークレット」を見せてくれた。

思うに、各国に諜報関係はすでにこのデジカメミノックスを仕事に使っているのではないか。
本家のミノックスよりはわずかに大きいけど、まずその性能は実に本物である。

映画の中の諜報部員は敵陣のオフィスでテーブルの真ん中の引きだしから取り出した機密書類をフィルムのミノックスで複写するわけだが、あの当時はフィルムの感度が低いからポンボケやブレで大苦労であったことだろう。

新製品のデジタルミノックスでスパイさんの業務は大幅に楽になったわけである。
むろん、我々、スパイ志願者も楽しく使える。

おっと、これはトップシークレット。詳しくは右の駒村商会をクリック。

ランプシエード

http://www.gizmodo.jp/2009/01/xray_lamp.html

電気スタンドを初めて見たのは、母親の実家でだった。

座り机の上に奇麗なシエードのスタンドが置いてある。それを点灯するとちょうど座り机の机上だけが照明され、周囲はシエードの明かりが散光されて室内もほど良いほのぐらさになる。

幼年ながら、これはしゃれていると思った。卓上スタンドに夢があることを発見した、これは最初のすばらしい体験だった。あたしは6歳くらいであったろうか。

上のリンクのスタンドは数日前、共同ビルクリニックの項目であたしの内臓関係の写真展の開催を受けた感じになる。こういうのはほしい。

このスタンドが超越しているのは、そこに通常の美意識などは微塵も入り込む余裕がない点にある。

性的な評価がもっぱら人体の表皮とそのちょっと奥の粘膜の問題であるのに対して、こっちの方は究極のエロチックなのであろうが、それでそのように思わないのは、自分の場合、これが61歳のじじいの内蔵であるからだが、20代の女性の(あたしはストレートであることを嘆いているのだ)X線画像で果たして興奮するものであろうか。

究極の人体最深部の骨格をエロチックな主体としてとらえているのは、ただ、落語の「のざらし」があるばかりだ。

「骨に供養のために酒をかけると、骨がぽーっと紅くなるよ」と演題中の人物は語る。ここがエロチックである。

気の効いたシエードがあるものなら欲しい。子規は試験勉強の時、勉強のじゃまになる、俳句の本や手帳を全部かたづけてしまう。

それで、勉強に必要な教科書とノートだけを机上にならべて勉強をはじめると、俳句が頭をもたげてくる。書く場がないので、それをランプの傘に書き付ける。

こうしてランプの傘を書きうふさぐほどに俳句ができて、試験は落第したそうだ。

2009年2月 3日 (火)

1/31国際反写真集会 「あの写真部」報告

あの写真部の1月末日無届け集会。
今回は、間取りスト和歌子の指導、案内による、反町(そりまちではない。たんまち、と読む)から山越えして横浜に抜ける難コースだ。

本日の構成員は福田和也総統兼、部長代理職。佐藤和歌子ガイド兼せっこう兵、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%AD%90 石丸元章閣下、氷川丸少女ゴコー。それに1万円のイオス10所有者にしてサッカー部員。
傍から見たら、まったく無関係な世代と性別とみてくれである。この皆さんが「あの写真部」の旗のもとに集結するから、世の中に害毒を流すわけだ。

午前11時30分に反町集合。反町は旧友のデザイナー、浅田恵理子の地元でもある。反町界隈は実に不思議空間であって、浅田が小学校の頃、通ったそろばん塾が今に盛業している。神奈川区には電子計算機は渡来していないのか。この界隈は生きた「三丁目の夕日空間」である。
福田総統はのっけから、反町横断歩道橋上にて、日本の2009年の元風景に感動して、フジの645で撮影しているうちに、本隊から離れ、行方不明となる。
スタートから乱拍子だ。

反町歩道橋をわたって、まっすぐ行くと浅田邸なのだがいきなり左折。その右に鄙びた上海小吃あり。そこでいきなり酒保大休止となる。横断歩道をわたっただけで、いきなり酒盛りというのは向上心がなくて非常によろしい。
ビール数本、紹興酒3本。ぴーたん、餃子、などなど。ここのピータンのカウント高し。

そこからさびれ商店街を闊歩する。引っ越し中の数人の若者に「おっ!反町撮影隊!!」と連帯の挨拶をおくれらる。芸闘委の気骨、いまだ衰えず。いきなり山にかかる。福田総統はその日の朝3時までのアルコール修行のせいで、不平をもらす。
丘の上に来るまでの道は実に野趣にとんでいる。 その丘の上に高校あり。これが間取りストの母校、横浜県立翠嵐(すいらん)高校。浅田恵理子も地元民だからここの出なのだが、10歳ほど先輩だな。他に卒業生で写真関係の著名人は土門拳先生(先週築地の土門さんのいた四軒長屋をカレーを食うついでに見に行ったら更地になっていた)。間取りストはここの独り写真部を守っていた。浅田はテニス部であった。まあ、実に秀逸な環境で、その近辺の地名は「北軽井沢」なのだ。もう横浜市民は軽井沢に行く必要がないな。

その高校から一挙に横浜駅方面にくだる「一気降り階段」がよかった。チベットからカシミールに下る急な石段ではかの河口彗海も苦労しているが、ここの階段の方がきついのではないか。

階段を降りきった所に大竹伸朗のモダンアートではないかと勘違いするほどの、見事な廃棄物のインスタレーションあり。これは絶対にみのがせない。森ミュージアムの「ちゃろーいんでいあ」などよりすごい。

横浜西口の酒の肴になるてんぷらを出す店にて小休止。あたしは天もり。福田総統は「天もりぬき」(こういう言葉はないな。天ぬきならあるけど)

横浜はもっぱら氷川丸しか知らないので今回のゲリラ工作は新段階だ。

それから地下街を間取りストの手引きで抜けて(その途中に大阪は梅田の地下街のような場所あり。やはり横浜の空間はねじれて大阪と短絡しているのだ)味わい深い、違法建築正真正銘の狭い狭い台湾料理(昔、アラーキーさんの撮影した新宿駅南口の雑居クモの巣城に似ている)の2階にて、ぶたのしっぽとか食べる。美味。焼酎2杯。

階段を降りたら、となりのバーから美女が出てきて、危うく連れ込まれそうになる。「ごめんなさい!今から東京に行くもんで、、、」と断ったが、後で思えばこの断りはなにか変だ。反省。

午後6時34分の東海道線の登りのグリーン車に駆け込む。缶ビール各自1本。
反省会のある、銀座の「あじと」に到着したら、サッカー部員は試合があり、元章さんは私用があり、落伍して人数激減。おでんで燗酒をやっていたら、en-taxiの田中陽子編集長など「幹部委員」が合流。
そこで反省会と部員持参の写真の天地人をつける。

Dscn0421 Dscn0430 Dscn0435 Dscn0447 Dscn0450 Dscn0454 Dscn0474 やはり気になるのは、この「交通安全看板」である。

地元の交通安全協会(例の春と秋に交差点にテントを張って、中でお茶会をして、交差点の視野を狭くするあの風物詩)の絵心のある会長さんが描いたのではないか。

年代測定の結果、30年は経過していると思われる。

おとうさんとぼくとままの顔が茶色なのは、これは錆色なのである。

越南のダナンの峠に統一鉄道の踏み切りがあって、その踏み切りが「踏み切り」であることを表現した、実に素朴なペンキ絵があった。

それがよい感じなので、3000ドルくらいならほしいなと思ったのであるが、この交通安全の図も類似の存在感だ。

2009年2月 2日 (月)

カメフレックスのマニュアル

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カメフレックスは、50年代から60年代に一世風靡した、仏蘭西はエクレール社のプロ用キャメラだ。 ヌーベルバーグの旋風もこのカメラがなければ発生しなかった。 1948年のスエーデンのカメラ雑誌にその紹介があったのはこの前、とりあげたけど今まで1950年になってから登場したと思っていたこのキャメラが実は40年代の後半には存在したというのは新事実であった。 ここらは、当時の雑誌で考証するのが一番だ。 ウイリアム クラインの仕事を紹介する厚い本の表紙はカメフレックスを手にしているショットで、これは2年前にブレッソンの大回顧展の時、竹橋の国立近代美術館で講演したとき、売店で発見した。その時は忙しくて買う時間もなかったが、数カ月後にいったらすでに売店のウインドウにはなかった。 おしいことをした。 このカメフレックスのマニュアルのイラストはなにかマチスが戯れに描いたような、おおらかさがある。 これは仏蘭西のその手のカメラのマニュアルをオンラインで販売しているサイトから五ドルで手にいれた。 この表紙の後には20頁ほどのキャメラ操作の詳しい説明がある。

2009年2月 1日 (日)

1999年と2009年

Gview 尊敬する写真家ウオーカーエバンスの晩年の写真集に「エバンス ファースト アンド ラースト」というのがある。

有名写真家の視神経が生涯かけて観察した「一代記」なわけであるが、そのカバーに掲載された小さなポートレートが興味をひいた。

それはエバンスの20歳そこそこの若造時代のポートレートと70代を超えた翁の肖像が並んで掲載されているのである。

そういう有名人のポートレートで昔と今というのはよくある作例なのだが、それがこと、写真家の肖像となるとちょっとそのニュアンスが変わってくる。

一言でいえば「モチーフの時間変化を追い求める写真家も彼自身がそのモチーフになるときもありえる」ということだ。

この画像は、3月に出る、「カメラに訊け!」(筑摩新書)の中の1ページだ。

1999年にモスクワのホテルナショナルのバスルームで撮影したカットだ。50歳になったばかりのショットであって、カメラはニコンクールピクスである。

10年後のショットは、先月、プラハの「元迎賓館」こと、ホテルプラハでの同様な撮影である。その10年という時間の変化はこのようになるわけだ。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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