10日ぶりの東京
プラハ空港でラウンジに入る。
ダイナースのカードをスキャンするのではなく、例のおろし金のような板でプリントしてくれた。こういうクラシックな印刷術は5年前のマンハッタンで、チャーターしたフルストレッチのリムジンの料金をアメックスで支払った時、以来だ。
その時は400ドルほどの代金をシエーファー氏はリンカーンのボデイにセールススリップを押し付けて、ボールペンの軸で擦って文字を浮き出させたのだ。これは粋だった。
グーテンベルクの遺風が今に残されているのである。
以前はブルゴーニュの小さなレストランの食事なんかがそのセールススリップのオリジナルがまとめて封書で到着したものだった。思えばあの当時がもっともカードに夢と旅の感動のあった時代だった。
プラハからモスクワ行きの土曜の午後のアエロフロートは、機内はロシア人で満員。まあ、JALが日本人で満員なのと同じだから、驚くことはない。
モスクワ空港のターミナル1に到着する。面倒なことになったと思った。ターミナル2ならそのまま乗り換えられるが、1から2への乗り換えは「ラーゲリ」みたいな場所の迷路を通過する必要があるのだ。
ターミナル1は昔からあった方の空港だ。ウイーンを引き上げる時、この空港のトランジットで、アエロフロートの売店で買った、ソ連製の35ミリレンズを持参のライカに装着しようとしたら、KGBが来てここは撮影禁止だ、という。一体どこから監視しているのか、その迅速さに感心した。これが1980年の話し。
例によってプラハからの到着便はサテライトではなく、雪の野原に駐機して移動式のタラップがなかなか来ない。そこからバス。
モスクワからの東京便は午後6持20分の案内だが、その時点ですでに午後6時を廻っていた。
昔のインツーリストの名誉職員のような、おばあさんに案内されて幾つもの関門を突破いて、バンで20分ほど雪の荒野を倉皇と走行して、ターミナル2につく。このプラハからの到着客のトランジットは、上海行きが2名、バンコックが1名。東京も1名。これがあたし。
ターミナル2では若いグランドホステスが待機していて、一緒に全速力で走る。現世で一番速い乗物に乗るのに、なぜ人間が走らねばならないのか、という不思議なパラドックスを味わう。
走る61才翁。
乗り込んだら、すぐにプッシュバック。
このエアバス330の新鋭機はまだアエロフロートに2機しかない。
その名をロシアの作曲家「E. スベトラーノフ」という。エアバスは静かである。777ー200よりも快適だ。
極東方面に飛行時間は9時間ほどで、成田。
はやいな。
シベリア上空で、なにやらちょうちんのようなものが上がってきたなとよく見たら、それは明け方の月であった。下弦の月なんて久しぶりに見た。これは逆立ちしているハリネズミなのである。
10日前のプラハ行きでは、ちゃんと荷物に「ショートコネクション」とタグを付けたにもかかわらず、荷物は1日遅れた。帰りは乗り換えが20分もなかったのだから、絶対にモスクワに積み残しであろうと思って、成田の荷物のピックアップでは最初からバゲッジクライムに行った。それによると積み残しの連絡は来ていないという。
果たして、荷物はちゃんと到着した。SUの仕事はなかなか奥が深いというか分からない。グランドホステスとあれだけ息をきらして走った20分ほどのショートコネクションで、荷物はターミナル1からターミナル2に積み換えられたのだ。昔なら「赤色労働英雄」として関係者は表彰されそうだ。
成田からリムジンでTCATに到着するまでの、無味乾燥な謎の東洋の都会の不思議さにあらためて感嘆する。
これが本当の日本なのだ。
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