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ロック ユー

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2009年1月31日 (土)

本を100kg捨てる

クーラーのフィルターの交換で、半年に一回、室内のサービスがある。このタワーはサービスアパートメントというわけでもないが、管理はしっかりしている。
それはありがたいのだけど、佃の寓居の仕事机の廻りは常に乱雑を極めている。

その理由は単に整理ができないだけで、言い訳もできないのだけど、なんでも噂では1階下の田原総一郎さんの仕事場もかなりのラビリンスなのだそうである。

田原先生とはホールのエレベータの前で、「今日はエレベータが遅いですねえ」などと言い合う「垂直長屋」の間柄だ。仕事においでの時は実に仕立てのよいしスーツをお召しだが、普段は綿入れ半纏にサンダルばきのお姿を拝見した。

それで自分の場合、仕事のできる人間はそういうラビリンス環境でないとダメなのだ、とも言い訳が出来ないのは辛いところだ。

そのクーラーのフィルター交換は前日に対応策を講じる。つまり仕事机の脇のスペースのサービスの人が踏み台を置くだけのスペースを確保するのが一大問題なのだ。
これが12か月に二度やってくるのだ。

それでこの前の火曜は終日、家に居て、5回ほどB2にまで本と雑誌を捨てに行った。
一回の運搬がまず古本と雑誌、無慮20キロとすれば、全部で100キロである。少しはカーペットが見えるようになって、「部屋らしく」なった。

チエコの大写真家スデクは1924年に新築のプラハ旧市街のガーデンハウスのアトリエに入居して、1970年代後半の彼の死までそこで作品を撮影した。

実際にはあまりに物が集積してしまい、その後には王宮の近くのゴシック建築の一室も借りていたが、(ここも今はスデクギャラリーになった)左岸のアトリエはすでにそこにモデルさんを招じて撮影をするスペースがないほどの物の山であった。

それで、彼の妹さんの話では、スデクが亡くなるまで、彼のアトリエの窓のところまで、あまりに物がバリケードを構築しているので、近付くことができなかったそうだ。スデクは独身だったが、妹さんが手伝っていたというのは、なにか子規と律を思い出す。

物質放射線満載。本物のアトリエはこうありたい。

コルビュジエのアトリエの実物大のレプリカがおととし森ミュージアムに構築された。それがパリの建物の屋根裏であることはよくわかり、なかなかの展示だったが、惜しむらくは、がらんとしていたのである。愛犬の皮もて作ったブックカバーはよいとして、品物が少ないから、空間が遊んでる。これが本物とレプリカの違いだ。

100キロの本を捨てたので、ようやく絨毯(の一部)が見えた。捨てた本は最近にアマゾンで買った本ばかりだ。昭和20年のまだ「表紙に絵のない新潮」とか、辻潤の「ですぺら」とか足穂の「弥勒」などは捨てるわけには行かない。むさうあんものがたりも無論捨てず。

2009年1月30日 (金)

自分の体内写真展

Dscn0374 Dscn0376 茅場町の共同ビルクリニックには20年近く御世話になっている。

きっかけは最初の読者である野々宮BMW(当時は野々宮ジャガー)の奥様がここのナースさんであったことだ。

桜井院長と桜井若先生にはずっと「命の管理」をしていただいている。

この前の定期健診の内容を拝聴にいった。

お医者さんの前で、なにか非常に「威張る」人がいるらしいが、あたしのお医者さんへの態度はまじめである。

内田百鬼園と同じだ。百鬼園は主治医の先生の診察をうけて、その結果が悪いとなによりも先生に申しわけがないと恐縮しているのである。

あたしも同様だが、今回はそれぞれの数値が改善されているので、桜井院長に申し訳がたった。

61歳で例のガンマGPなんとかの数値は基準内にて問題にならないのはまず同業他者さんと話ができないのはちょっと問題だ。

だって、周囲の酒飲みはその数値がいかに基準値をオーバーしているかが「自慢話」になっているからだ。全共闘の世代はいけませんね。

あたしはナーバスなので白衣を見るといきなり血圧があがるのである。家ではなんともなくても、ここで血圧を測るとかなりのレコードになる。

17年ほど前、腰痛で順天堂の個室にいたとき、夜の8時半ころ、いきなり白衣のえらそうな先生が入ってきた。すわっ!と思った。エアバスのVR時の機長の血圧になったのである。

この方が順天堂の膠原病の名医の某先生だった。ナースステーションで「田中長徳」という名札を見たので、花をたずさえてごあいさつに見えたという。

某先生とはその後、何回かなぜか荻窪のオリエンタルグリーン(今はもうない)というレストランで会食してライカ話。

「チョートクさんが膠原病になったら、あたしが面倒みます」とありがたいお言葉であったが、今のところその予定はありません、と申しあげた。

話が今に戻ると、桜井院長があたしのために「田中長徳の体内ランドスケープ」の写真展を開催してくれているわけで、これはなかなか見れない個展である。

しかもヨセフ・スデクも愛用の11x14インチの銀塩フィルムのコンタクトプリントというのが渋い。体内写真展の撮影は11x14インチ、コンタクトプリントにかぎる。

そうそう、一高さんがかなり前、ご自身の診断画像を発表されたことがあったな。

てもとには各種医療材料のコレクションがある。義父の亡くなったときに回収したペースメーカーは高価なアメリカ製。すべすべしたチタン製。

野々宮BMWが腰痛の手術で腰椎にねじ込んだチタンのねじ釘は2本わけてもらった。これもアメリカ製。

リコーのY浅プレジデントも北海道で足を骨折したときのチタンの骨を大事にしているそうだ。皆さん、人造人間ごっこをしているのがなんともクールである。

2009年1月29日 (木)

エリナセウス オイロペウス 

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日本のハリネズミ飼育としてはかなり初期ではないかと思うが、1986年から88年までハリネズミを飼っていた。その学名はをエリナセウス オイロペウス という。
オイロペウスというあたりが、いかにも「格調」が高い。欧州系ですね。欧風カレーなどよりも本当の欧州の香りがする。実際、針ねはかなりハリネズミ臭いのである。

この小動物は欧州からユーラシア大陸に分布しているが、なぜか朝鮮半島まででその先には来ないのである。

その針ねが、病気になって獣医さんに連れていったら、先生は「へえ、ハリネズミですか、、、もっとよく見せてください」というくらいで、当時(80年代なかば)は珍獣のうちであった。

最近ではMIXIなどで「うちの子自慢」があるほどだから針ねも一般的になった。

以前、羽仁進監督にお目にかかったとき、なんとなく話題がハリネズミの話しになり、監督も以前飼っておられたとかで「あの人はねえ、、」ということになった。人称で呼ぶ所に監督の針ねへの「愛」が感じられた。
坂崎幸之助さんは、「あの針ねの左右の耳がラッパのようになってるとこが、可愛いですねえ」と言う。
まさに然り。

その針ねに、大枚2万5千圓で我が家に来ていただいたのだけど、同じ「商品」が家族連れで夜更けのプラハの郊外の丘陵地を歩いているのは、なかなか可愛いものだ。
それでプラハの住民は夜、お皿にミルクを出しておく。

その「恩返し」に針ねが針にりんごを刺して届けにくるのであって、これは民芸品のモチーフにもある。
まず、「鶴の恩返し」よりも現実的だな。

個人カメラ雑誌「カメラジャーナル」を10年やったけど、針ねのマーク入りの限定のリコーカメラとか、英国製のカメラバッグなどを限定販売してこれがなかなか好評だった。

だからカメラジャーナルの読者さんには、その動物が何であるのか周知されていたが、銀座の松屋のカメラショーでの自著のサイン会などでは、知らない人には「イグアナ」とか「針千本」とか「おこぜ」を本に描いてください、とか言われた。これはひとえにあたしのイラストが下手なので針ねには多大なご迷惑をかけた。

1988年だかに、動物学の分類法がかわって、それまでハリネズミ目とかいうのがあったのが、もぐら目に変更になった。それでプライドの高い、我が家の針ねは憤慨して「自死」したのではないかと考えている。

我が家のハリネズミ「ハー君」の昇天日は1988年12月24日。
すでに20年余が経過しているのだ。

2009年1月28日 (水)

嗚呼、デジタル一眼レフの似合わない我が同胞よ!

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デジタル一眼レフはカメラメーカーにとって「ドル箱」らしい。かなりの採算価格ぎりぎりで売っても買い手はなんだかんだと、アクセサリーとか交換レンズを買ってくれるからあとでそこそこに儲かる仕組みだ。
一方で、コンパクトデジカメはそれこそ「売りっぱなし」であるから儲けにはあまりならないのであろうか。

毎日、佃の寓居からヒルズへの旅の途中、佃の出発が昼前で、休日ならそれこそ駅に行くまでに2ダースほどのデジタル一眼レフの隊列に会うことができる。
まず遠方からは「みんな同じカメラ」に見えるから、そのストラップの巨大ロゴで判断するほかない。
まず一位と二位を争っているのは、大井町と下丸子。それについて前野町と、品川というところだ。

今度でる、筑摩新書「カメラに訊け!」でもそのことに一章を使ってかいたのだが、われら、団塊の世代が数十年、頑張って仕事したその「御褒美」として自分に買い与えたのが、これがカメラ好きなら「フルサイズデジタル一眼レフ」なのである。

v団塊の世代はパワーを信じる世代だから、そういうなんでもできるスーパー一眼レフに惹かれるのであるが、周囲の臨床報告ではたいていは10日ほどでその重さに辟易して、ほうり出してしまうのが常である。(脚注前の文章の冒頭の「チョン」はライカインコが邪魔をしに来たときのタイプだ。親ばかなのでそのママにしてある)

それで軽いコンパクトをまた買ったりするのである。しかし、自分と同世代の皆さんはモノへの信仰があついからフルサイズデジタル一眼レフはむろん、売ることはしないでそのまま手許に置いておくことがおおい。
なぜならその最高級機は自分の過去の労働の成果の証であるからだ。

それはよいのだけど、そういう最高級デジタルカメラには「資産としての目減り」が著しいのも事実だ。
だから周囲の団塊の皆さんで「退職記念になにかカメラを買いたい」という相談には、ライカの1960年代のやつで程度のよいのを数本のライツレンズと一緒にお求めになるようにお勧めしている。これで約60ー80万円の出費というところであろうが、その時代の最高級のデジタル一眼レフを手にいれるよりもそのカメラの資産価値は長続きする。
10年前に90万で買った最高級のデジタル一眼レフの買価が1万圓という悲劇はここには起こらない。

それはともかく、我が同胞は(自分も含めて)なかなかデジタル一眼レフの似合わない人種であると思う。
それが亜細亜人の特色と言うわけではない。

先日、プラハのカフェに韓国語のガイドブックを持って入ってきた男性の二人連れは別にデジタル一眼レフが似合わないわけではなかった。

ようするに趣味の向上というスタンスのもとに、我々がデジタル一眼レフを持つとどういうわけか、デジカメが「お稽古ごと」に見えてしまうのである。お稽古は予定調和であって、そこに創造的なブレークはない。せいぜいがフォトショップのお絵描きである。これが損なのだ。

上の画像などは、欧州の観光地で入門機(α100か??)を手にした単なるツーリストさんなのだけど、どっかの文化人類学者のように見えてしまう。

もっとも、こういう「ひがみ根性」をあたしが持っているのは、永年のウイーン暮らしでリング通りの「民俗学博物館」の展示の第三帝国時代の「アーリア人種に比較して劣等な世界の果ての民族」という勝手な思い込みが頭脳に形成されてしまったせいであろうか。

2009年1月27日 (火)

他人の日記っておもしろい

この前、新潮の矢野編集長からきいた作家の日記をアマゾンで買った。

あたしは日記文学が好きだ。断腸亭の花柳界文学は嫌いだけど、日乗は面白い。大昔、新宿の喫茶店でまだ「売り出し前」のアラーキーさんと日乗について談論したことあり。まだアラーキーさんが「がばがばの兵隊服」を着ていた時代の話だ。

その日記を注文したら翌日にはもう届いた。最近のアマゾンは送付が遅いのにこれはえらい。
それが

中原昌也作業日誌 中原昌也作業日誌

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である。
他人の日記が面白いのは世の中の常である。
今まで、あたしの見ていた日記は断腸亭にしても百鬼園にしても、すべて大昔の東京の話だからリアル感というよりも、考古学的な考証の方から興味があったわけなのだ。

一方、中原さんの作業日記の場合、この数年の話だからリアル感が異なる。
それで二段の横組という読みにくさが功を奏してベッドで読んでしまった。

この人は生きるパワーをCDの買い出しでもらっている点が非常に数学的であり、哲学的な思考である。あたしのカメラのバカ買いにも通じるけど、カメラの場合、その欲望はアナログ的なのに対して、中原さんのそれはデジタル的な欲望だ。

この人の生活はすごいスピード感覚であって、自分などはとうていついてゆけない。あたしなどは映画は見ない、CDは聞かない買わない、wowwowは見ないというのを「国是」にしているので、中原さんの行動の速度にはただただ驚愕するのみだ。

switchの取材とかで4泊5日で欧州のイビサに行くくだりはすごい。なんで日本の取材陣はまるで「親の仇みたいな」速度でトンボ帰りをするのであろう。カミカゼ取材である。
日本の若い衆はみんなこういう運動速度なのであろうか。

日誌中、この本を紹介してくれた新潮の矢野編集長はじめ。福田和也さんとかen-taxiの田中編集長とか実名で出てくるのが面白い。
文中登場のspa!の生田君というのは、今のen-taxiの生田編集部員だな。

本書の面白さはその健康な「金のない話」にある。これは貧乏話ではないのだ。中原さんはいつもにこにこ、現金決済なので、所持金が500円をきったときに、CDを売りに行く作戦などは、高度な軍事戦略である。それで作業日誌。
貧乏話のオベリスク、金字塔はいままで内田百鬼園の「大貧帳」が第一だと思っていたが、その「現代語訳」がここに登場したわけだ。

2009年1月26日 (月)

キヤノンVI-Tを貸してくれた高校生

土曜日。
例のごとく、四谷のアローカメラのシドニー寄席。
ライブなので、麦酒箱の上にのってセコハンカメラの自由民権について演説を試みる。

通常は90分1本勝負のところ、ついつい「芸」に力がはいって20分の自動延長で、総計1時間50分になる。
参加者の皆さんも立ったままだから、ご苦労なことだが60年代の日大闘争、芸闘委時代を思えばなんでもない。

平均年齢異常に高い中に、実は参加者の中に高校生(3年生)が2名いるのである。こういう弱体化、じゃなかった、若年化は望むところなのである。
一人はお若いのに偽ライカ狂いでしかも中野の日東カメラに徒歩で行けるような場所に産まれた某君で、今年は日大豊山から日大写真学科に進学。

もう一人は江東区在住の某2君で彼は「カリスマカメラ修理師」なのである。なんでも海の男を目指してこの春、名古屋だか静岡だかの商船学校にはいるとのこと。
その某2君にこの前、あたしの持っているライカM2ーMが故障したと告げたのである。別に何の意味もなかったのだけど、「そのM2Mの修理があがるまで不便でしょうから」というので、キヤノンVI-Tを貸してくれた。

レンズは「ヘド50ミリf3、5」(これ坂崎風の言い方)である。

まさかあたしがほかに使えるカメラがないという「窮状」にあるとも思っていないであろうが、その「親孝行ぶり」が実にありがたい。カメラ版本朝二十四孝だな。

久しぶりにキヤノンVI-Tを手にとってみて、そのクロームの仕上げの良さを再認識する。
この時代のキヤノンは実に輝いている。

_dsc0080 2時間に10分足りない講演時間に、そうそう、今度ICSのカタログと筑摩新書のカメラに訊け!——知的に遊ぶカメラ生活 のために小さいカットの顔写真が必要なことを思い出す。

それで参加者の左翼にいたニックネーム「ライカMP突撃隊長」がどっかで買った、4万圓のかつてのニコンの高級デジタル一眼レフを持っていたので(画素400万画素)頼んであたしの顔を撮影してもらう。

これからはデジタル一眼レフは400万画素の時代か?

しかし棒立ちではつまらないので、最前列でブロニカDを持っていた「自称皇室写真家」さん(その意味はブロニカ持って半蔵門に張り番していて、美智子さまとか雅子さまを撮影する人)のカメラを貸してもらってそれを構えた。

これでなんとなく、ICS気分が出た。次回のICSの会期はあたしのプラハ行きとかぶってしまうのだが、それでも最終日には駆けつける所存だ。

2009年1月25日 (日)

帰国後一週間経過

この前の日曜の帰国以来、実にあわただしい一週間だった。

自分としてはそれなりのペースで仕事をしたつもりだが、2月10日からまたプラハなのでそれまでに東京滞在の間に済ませる仕事を箇条書きにする必要がある。

近刊の  カメラに訊け!——知的に遊ぶカメラ生活 (筑摩新書)は定価770円で3月刊行予定。

この本は「カメラは知的な遊びなのだ」(アスキー新書)の続刊という方向の本である。
おかげさまで、カメラは知的な遊び、、、は、すでに5刷だがその内容の続きが本書である。
自分としては、少年時代の御世話になった、黄金バットの紙芝居のようなつもりである。

その後には相次いで「二眼カメラワークショップ」(えい出版)と
「チョートク佃日記 2001ー2007」(仮題)(扶桑社)が春に出る。

その後がタイトル未定の書き下ろし単行本が徳間書店から計画されている。

金曜。
午後6時から銀座四丁目のリングキューブで森山大道さんの「銀座」を見る。
3年前の今ごろ、大道さんははじめてGRDを使ったのだから、デジタル写真家としては「生長いちじるしい」と言えそうだ。

円形のギャラリーはそれなりの展示が必要だが、初回、今回といずれも森山イメージは全開でうまく行っている。自分もこのギャラリーなら展示してみたい。
テーマはやはり「プラハ」だな。

その後、リコーのトップの紳士連と会食。
話題はもっぱら昭和30年代の志賀昆虫社のことになる。あの当時はまさに昆虫が我が世界であった。撮影なんてどんでもない。そんな機材などもっていない。もっぱら、ネットで蝶は甲虫をおっかけた方である。

散会後、春の宵のような暖かさにつられて、酔いにまかせて新橋から佃まで漫歩。

2009年1月24日 (土)

6時間45分

木曜日。

午前中、えい出版の清水編集長、佐藤ADさんらと打ち合わせ。

今度出る、二眼レフの本の件。これは単行本サイズでハードカバーになる。

タイトル「二眼レフカメラワークショップ」

作品もたくさん掲載する。うれしいのは80年代の東京を撮影したモノクロシリーズが1折掲載されること。このシリーズは80年に帰国して、当時の調布の棲家(近所がつげ義春さんだったので、団地中央のたそがれた喫茶店でよくカメラ談義をした)から、渋谷まで歩行したときに主に撮影したものである。今回、初めてプリントした。

年齢の距離感のせいだが、30年前の80年代は61歳翁のあたしから見ると、まず7年前の感覚である。当時の東京はそれなりにモダンな街と思って撮影していたのだが、2008年に見たら、なにか夢の街という感じがした。

ほかにはそれぞれ、おととしのインドはデリー。昨年の常滑、名古屋などが掲載される。これらはカラーだ。

あ、アムステルダムで撮影したモノクロのショットも掲載。

午後3時、新潮の矢野編集長来。

別に意図したわけではないが、会議室が満席だったので、51fのクラブで話をする。午後7時までPIVOを4杯づつ摂取。まるでプラハの「文学カフェ」にいるようだ。

矢野さんとは昨年、四谷三丁目のPIVOバー、「いぬっころ」にて「あの写真部」の無届集会の時、福田和也さんに紹介していただいた。

二度目は歌舞伎座の「あかめだか師匠」の親子会の時。わざわざ挨拶にきてくださったので恐縮した。

この「矢来町三つ星老舗レストランのカリスマシエフ」は痩身で年の割りには非常に若く見える。ヨーテボリのハッセルブラッドの社長はハイスクールのバスケット選手にしか見えないが、これは世界の東西の「大関」である。

最初あたしのプラハの話を聞いていただいた。大学ノートを出してメモをとる矢野さんのその姿勢の背筋が伸びている。

それから欧州の記録映画作家の話になった。あたしはメカスを第一にあげる者だが、メカスは彼のカメラはアマチュア向けのボレックスだからそれがちょっと残念だ。せめて記録映画作家のヨーリス・イヴェンスのカメフレックスくらいは欲しい。それから映画作家のカメラテストというのは本編よりはるかに、リアルさがあるのではという話になった。

席を49fに移して、この前、福田和也「あの写真部部長代理」ですら飲み残した、ポーランド製の98パーセントのウオッカの底を空ける。福田同士はこれを2杯飲んでその後の記憶がなくなったという危険な飲み物。

福田和也さんのen-taxi掲載のリスボンの写真がうまくなったという点で意見の一致を見る。この福田さんの写真術の向上はそのen-taxiの号を手にした家人も最初に指摘した点であった。つまり写真の「図」と「地」の位置関係が写真芸術の本来の黄金分割の比率になっているのだ。

これは写真の上達としてはうれしいことなのだけど、もともと「あの写真部」の「国是」は「向上心を捨てること」にある。

「核兵器を持たない」とか「向上心を持たない」とかはなかなかやっかいな問題である。

矢野さんと対談雑談笑談。

6時間45分。実に面白かった。

下の矢野編集長のREAL TOKYOで魚屋さんでパワーブックを広げているショットと、ご本人を拝見していて誰かに似ていると思ったら、1968年に北鎌倉でお目にかかった澁澤龍彦さんである。澁澤さん当時40歳。あの時はサントリーのだるまをあけたので、一晩、ごやっかいになった。

顔立ちが似ているのか、シガレットに着火するときの表情が似ているのか、それはわからない。渋沢さんのショットは写真集「東京ニコン日記」の後半に出てくる・

http://www.realtokyo.co.jp/docs/ja/column/tokyoeditor/yano/bn/yano_014/

2009年1月23日 (金)

1.21東京大周遊

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東京の時差ボケ三日目。

ヒルズにゆくつもりで、時差のまま午後1時過ぎに佃を出る。

住吉さまの裏手の掘り割りに浮かんでいる釣り舟を見て、これはベニスだと思った。

極東の湾岸の中の砂州がベニスに酷似しているなどとは、時差ぼけの極みだが、これはプラハとの比較なのである。
プラハは「北のベニス」などと呼称されているが、あれは観光局が苦し紛れに造った言葉で誰も本気で信じてはいまい。

「北のベニス」に対して「佃のベニス」が現実味を帯びているのは、水面が干満することだ。
モルダウは北に開けているのが、気に食わないし、数百年ぶりの洪水はあったけど、海の呼吸はないわけであるから、その意味でベニスを呼称する「資格」に関しては、佃の狭い泥臭いキャナルの方が一段も二段も上である。

突然、「天啓」が兆して、「東京大周遊」の発作。
進路を320度にとる。
すなわち、20キロかなたの板橋区は真言宗豊山派 長徳寺方面を目指す。

東京駅が東京駅に見えない。
空が開いているので、まるで北辺の地方都市か、昭和20年である。
なんのことはない。大改造のための巨大な布がかかっているだけなのだが。
いや、これはやはり、かのクリストの仕業か?

大手町で知り合いのADさんに路上で遭遇。彼は本ブログの大愛読者さんなのだ。
どちらへ?
と聞かれたので、これから「板橋方面へ」と答えた。これが江戸時代ならかならず徒歩で行くわけだから、説明の必要もないが、今は平成の世だからそれに「歩いて」と付け加えた。飲み屋に行くためとは言わなかった。
相手はあたしがよほど重要な任務を帯びているのであろうと、深くうなずいた。

神田橋、神保町。神保町のグリューネアレーは厭なアーケードが取り払われて、すっきりとそらが見えるのはいい。

ウンターデンリンデンだって、シャンデリゼだって、世界の一流の通りはアーケードになんかなってない。ミラノの中心部が嫌いなのは、その理由による。

そこから、水道橋、春日町。
春日で白山通りの渋滞状況を道路の表示で確認。「巣鴨まで15分。板橋まで30分。戸田橋まで45分」とある。これを3倍すればほぼ人間の徒歩の時間のめやすとなる。

白山界隈で、警察の機動捜査の面々がビニール袋に入った「凶器」について、その中の私服さんが本部とけーたいで連絡している。
「はい、そうです。長さは約20センチ。いわゆる文化包丁です」

いやはやごくろうさま。
でも、そんな「なまくら」は「木屋」には売っていないな。

白山通り。
平凡社の前を通過。おう、ここであったか。
通過記念に看板を撮影。

巣鴨の原宿にて家人のおみやげに「あんこだま」を買う。600圓。

それを持参の○×△号(α200のこと)のストラップにぶら下げてふりわけにする。プラハに持参のR10は、あっちの著名写真家プラハのP(GR1のユーザー)に貸与してしまったので、代打で一眼レフをひっぱり出したわけである。

板橋の旧中仙道で日が暮れる。山手通り手前右側のたそがれパチンコ店「天国」は、いまにもつぶれそうでまだ存在した。ネオンは相変わらず壊れている。本日開店の札もそのまま変わらず。

六本木のWAVEとかベルリンの壁の方が未来永劫にありそうな感じがしたのに、ものごとはわからないものだ。
そのまま旧道を選んで歩行する。

午後5時25分。

浜出屋着。
距離20キロ弱。時間は3時間25分。撮影は500カット。

問題は運動をすると、酒が飲めなくなり食欲のなくなる点だ。
それでお勘定は880円。

帰りは近代的な交通手段を使ったので、あっという間に佃着。

2009年1月22日 (木)

FOTO 1948

Dscn0364 Dscn0356 Dscn0358 5年ほど前であったか、ハッセルブラッドさんの100年の誕生日を祝うセレモニーで、スエーデンのヨーテボリに行った。
その時、ハッセルブラッドの会社の人から記念に(個人的な意味で)1948年のスエーデンのカメラ雑誌FOTOを頂戴した。

1948年という年がどういう年であったのか。日本のカメラ雑誌はまだ敗戦の灰燼の中にあり。アサヒカメラ復刊第一号だって、わら半紙で表紙もモノクロ。それではというのでタイトルだけは赤を使ったりしている。
当時の北欧はまさに超先進国であるのは、まず雑誌の紙質がすばらしいし、印刷もすばらしい。

掲載の作品はまずあまり面白くはないが、要するに欧州の当時の芸術写真、あるいはサロン写真でこれはそれで立派なものだ。

面白いのはカメラの広告である。
アルパレフレックスが出たばかりで、これは毎月、広告が出ている。そのアルパをあたしの場合、現役カメラで愛用しているのだから、まず変な感じだ。

当時のカメラ店のカメラの価格の出ているのも面白い。アルパレフレックスは1000スエーデンクローネなのに対して。アメリカの軍用ライカ、カードンは1300クローネ。ただし物価の基準となるデータがないのでいかほどの価値なのか、不明。

あたしの好きな映画撮影機ではカメフレックスが登場したばかりでその紹介記事もある。これは3本ターレットの状態を紹介するために、レンズを引き出してある。そのカメラについているフィルムマガジンは珍しい100ftの小型のやつだ。
手元には3台のカメがあるのだが、この小型のマガジンを探してebay上で苦労した記憶がある。3年目だかにようやく1個手にいれたのである。

その紹介記事に呼応したというわけでもなかろうが、その2月後にはカメフレックスの広告が出ている。その価格が表記されていないのは残念だけど、非常に高価であったことだけは間違いがない。

2009年1月21日 (水)

大道さんのカメラ

Dscn0366 東京滞在2日目。

時差ぼけのまま、ヒルズに仕事にきたら、青弓社からメール。

なんでも、あたしと森山大道さんとの日本カメラの対談を今度、森山さんんの対談本に掲載するので、その許可をというのである。

実に名誉なことだが、さて、大道さんと対談などした覚えはない。記憶にありませんというと、こっちの老人ぼけが判明してしまうので、「その記事のスキャンを送ってください」とリクエストした。

記事が送られてきて、はてこんなのがあったかな。と思い、記憶にないのは実際、かなりやばいなあと思っていたのだが、その対談写真の背景を見て「ああ、ゴールデン街のあの天井の低い二階だ」と思い出した。やはりあたしも視神経人間なので、対談内容よりもその場所の写真で、うせた記憶の糸が結線されたのである。

その森山さんの対談集は青弓社から『森山大道、写真を語る』として
2月に出るようである。400ページを超える上製本だ。

大道さんとのそのときの記憶がだんだん明らかになってきた。今度、扶桑社から出る「チョートク佃日記」(仮題)はこの7年半の全日記だからそれを調べれれば、たちどころにその前後の事情は判明するのであるが、あの時は対談の前、大道さんはフランスのアパレル関係の外人さんと待ち合わせ場所に登場した。なんでも今さっき、学習院の構内でGR1とGD21で「ファッション」の撮影をしてきたそうだ。すごいなあ。と思った。

ファッション写真といえば、ハッセルブラッドが普通だ。それがアマチュアめいたコンパクトカメラというのがいかにも「世界のDAIDOH」である。

その「世界の」という意味は名古屋にあるという「世界のヤマちゃん」という名前の手羽先焼き屋さんと同じ意味で使っているのである。つまり本物の大道さんはなにも世界のなどという前置詞をつける必要もない。 「世界」というのを前におくと、「世界のたけし」もそうだがなにかスポーツ新聞の見出しめいてくるのは取り柄である。

その「世界」の大道さんは70年代にはオリンパスペンWとペンタックスのSVのブラックで撮影していて、これがかっこよかった。その前は東松照明さんから借りた25ミリニッコール付のニコンS2のブラックであって、これは写真撮影の後、飲んでしまったという伝説もある。

カメラにこらないのは、実に本物の表現者であるわけで、そのまねっこをしたいわれわれ、後続集団は中古カメラ市場で大道好みのカメラの市価を高からしめたわけだ。

その大道さんも最近ではGRD2とかGX200というような、コンパクトデジカメの愛用者になり、銀座のリコーのキューブで写真展をするようになったのは、3年前と今の圧倒的な位相の変化である。

2009年1月20日 (火)

東京の実景 スデクの真実

時差があるのだけど、帰りの乗り継ぎで時間がなかったので、アサヒカメラの連載やら、締め切りのきているのを、ヒルズに行って書く。

連日、曇り日の光になれてしまっているので、東京の晴れた空の光というのが、どうも安心できない。ようするに、観光写真におきまりのブルースカイにゴールデンサンシャインというのがあまり好きではないのだ。

Rimg2008 今回、プラハで手にいれた4冊のスデクの写真集のトーンが例のスデク調子であって、深く散光されたグレーの中に微妙な快調が息づいている。そういうトーンの前では晴れた明るいトーンなどは「脳天気」であまり知性がないともいえそうだ。

ところで、今回の発見はアンナ ファロバ女史のスデクの評伝での新事実。スデクのイタリア戦線での負傷は友軍の砲撃によるものであったこと。右腕を失ったのがグラーツの病院であったこと。

スデクのエステートには2万を超えるオリジナルプリントと、5万を超えるネガがあったこと。

画像はスデクのアトリエ(の、複製)。

今度のプラハで痛感したのは、その光線の微妙なありようだ。こんなことは以前には気が付かなかった。ようするに曇り空とかデイフィーズされた光りというのは、肉眼よりも写真、それもモノクロ画面の方がよく理解できるのが我々、カメラ人類の視神経の構造なのである。そういう「風変わり」の視神経は飛行機の中でエンターテイメントの映画を見て笑っている皆さんには気が付かない事実なのだが、そういう「へんへこ」な視神経にはならない方が良いのかも知れない。 プラハの不思議さは実はここらに存するのであって、国民的なレベルでスデクの半世紀以前前に製作されたあまりはっきりしない「ゆるいトーンの旧印画」を尊敬しているようなところがある。これは自分が思うに、ルーベンスの八畳敷サイズの油絵を好む人より、デユーラーの小さい単色のグラフィックを好む人の方が「視神経が上」であるのと同じ理由だ。それゆえ、スデクのパノラマシリーズをプラハの王宮の美術館が展示したりするわけで、プラハ市民はモノクロへの理解があるといえそうだ。 ヒルズでアースナビの吉田さんから、高梨豊さんの国立近代美術館での回顧展のちらしをもらう。今日がレセプションではないか、と吉田さんは言ったが、帰宅したら果たして留守中の手紙の山の中に招待状を発見した。一昨年のブレッソン展の時の同様な失敗あり。メールも手紙のよく見落とすので、肝心の用事を失念することあり。これは年のせいではなく、自分の不注意という性癖のためだ。

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2009年1月19日 (月)

KCチョートクカメラコラム

KCチョートクカメラコラム

デジタルカメラ

デジカメの撮影カット数@プラハ

今回の撮影カットが多いか少ないかは、ちょっと判断ができない。持参したのはコンパクトデジカメ(R10)とデジタル一眼レフ(α200)で前者の撮影カットが1980で後者は1523だった。

10日の滞在でその全期間をコンパクトデジカメで撮影して、1日だけデジタル一眼レフで撮影した。だから1523というのは一日の撮影カット数だ。

まず通常に比較すると自分では撮影カットは少ない方だ。

普通はコンパクトデジカメの方がスナップ用で、デジタル一眼レフは「作品用」の考えがあるが、自分の場合には逆で、R10はファインで3メガのファイルで、α200は1メガに設定してある。デジタル一眼レフをスナップ用にという考えだ。これには一理あって、R10の撮影速度が遅いなどと批判するのではなく、あれはもともと入門機だけどよく映るし、作品用というと大袈裟だけど急がない風景写真などにはかえって向いている。

α200だって、入門機であるがスナップには当然ながらR10よりも速度は速い。

総計3503カットというわけだが、あとのセレクションを考えれば、これは撮影のしすぎであると思う。

SDメモリは上海市場で買った4GBと同様に入手した8GBCFカードである。

銀塩クラシックカメラ

フィルムカメラの撮影カット数@プラハ

この数年来の拙著にもたびたび書いているけど、フィルムカメラ時代にメモ代わりにフィルムを使ったのは実に資源の無駄使いであったわけで、当時は電話の度数を測るのも、特殊なライカで電話交換所でメーターを複写したのである。これをマイクロフィルムのリーダーでいちいち人間がう読んでそれを手書きで勘定したわけだ。

そういう実用目的のために使われたフィルムカメラは、今は「自由の身」になって自分の気分の赴くままに「芸術写真」が撮れるのはありがたい。

今回のフィルムカメラの撮影カットをおさらいするに、まずフィルムカメラで東京から持参したのは1台のミノックスであってこれで30枚。このカット数はキングから出ているフジカラーのネガの400の1本分なのだ。もともとはミノックスはモノクロで50枚撮りであったのだ。

これだけでフィルムカメラは済ますつもりだったのが、あいにくと、プラハでハッセルブラッドの前身と言われているクルトベンジン製のプリマーフレックス1型を手にいれた。

もともとビクターハッセルブラッドは若いころ、ドレスデンに住んでいてこのカメラの愛用者でこれが後年、ハッセルブラッドにインスピレーションを与えたとは、ビクターさん本人が認めている。そういう珍品カメラを安価に手にいれたので、その記念に120のエクタクロームを1本だけ買ってそれで12枚撮影。

もうひとつは、フォトスナイパーである。これは300ミリ望遠レンズ付きのガンカメラだが、手頃なのがあったので金属ケース入りのセットを買った。

これはプラハのアトリエから向いのスターリン建築の塔を撮影するのに使った。このほうは135のエクタクローム36枚撮りで15枚だけ撮影した。

合計してミノックスで30枚。6x6で12枚。35ミリサイズで15枚である。

この程度のカット数の方がフィルム撮影は楽である。今、有楽町のビックカメラにその現像を依頼してつくずくプラハで「良い仕事」をしたという気分だ。

10日ぶりの東京

プラハ空港でラウンジに入る。

ダイナースのカードをスキャンするのではなく、例のおろし金のような板でプリントしてくれた。こういうクラシックな印刷術は5年前のマンハッタンで、チャーターしたフルストレッチのリムジンの料金をアメックスで支払った時、以来だ。
その時は400ドルほどの代金をシエーファー氏はリンカーンのボデイにセールススリップを押し付けて、ボールペンの軸で擦って文字を浮き出させたのだ。これは粋だった。
グーテンベルクの遺風が今に残されているのである。

以前はブルゴーニュの小さなレストランの食事なんかがそのセールススリップのオリジナルがまとめて封書で到着したものだった。思えばあの当時がもっともカードに夢と旅の感動のあった時代だった。

プラハからモスクワ行きの土曜の午後のアエロフロートは、機内はロシア人で満員。まあ、JALが日本人で満員なのと同じだから、驚くことはない。

モスクワ空港のターミナル1に到着する。面倒なことになったと思った。ターミナル2ならそのまま乗り換えられるが、1から2への乗り換えは「ラーゲリ」みたいな場所の迷路を通過する必要があるのだ。
ターミナル1は昔からあった方の空港だ。ウイーンを引き上げる時、この空港のトランジットで、アエロフロートの売店で買った、ソ連製の35ミリレンズを持参のライカに装着しようとしたら、KGBが来てここは撮影禁止だ、という。一体どこから監視しているのか、その迅速さに感心した。これが1980年の話し。
例によってプラハからの到着便はサテライトではなく、雪の野原に駐機して移動式のタラップがなかなか来ない。そこからバス。

モスクワからの東京便は午後6持20分の案内だが、その時点ですでに午後6時を廻っていた。
昔のインツーリストの名誉職員のような、おばあさんに案内されて幾つもの関門を突破いて、バンで20分ほど雪の荒野を倉皇と走行して、ターミナル2につく。このプラハからの到着客のトランジットは、上海行きが2名、バンコックが1名。東京も1名。これがあたし。

ターミナル2では若いグランドホステスが待機していて、一緒に全速力で走る。現世で一番速い乗物に乗るのに、なぜ人間が走らねばならないのか、という不思議なパラドックスを味わう。
走る61才翁。

乗り込んだら、すぐにプッシュバック。
このエアバス330の新鋭機はまだアエロフロートに2機しかない。
その名をロシアの作曲家「E. スベトラーノフ」という。エアバスは静かである。777ー200よりも快適だ。

極東方面に飛行時間は9時間ほどで、成田。
はやいな。
シベリア上空で、なにやらちょうちんのようなものが上がってきたなとよく見たら、それは明け方の月であった。下弦の月なんて久しぶりに見た。これは逆立ちしているハリネズミなのである。

10日前のプラハ行きでは、ちゃんと荷物に「ショートコネクション」とタグを付けたにもかかわらず、荷物は1日遅れた。帰りは乗り換えが20分もなかったのだから、絶対にモスクワに積み残しであろうと思って、成田の荷物のピックアップでは最初からバゲッジクライムに行った。それによると積み残しの連絡は来ていないという。
果たして、荷物はちゃんと到着した。SUの仕事はなかなか奥が深いというか分からない。グランドホステスとあれだけ息をきらして走った20分ほどのショートコネクションで、荷物はターミナル1からターミナル2に積み換えられたのだ。昔なら「赤色労働英雄」として関係者は表彰されそうだ。

成田からリムジンでTCATに到着するまでの、無味乾燥な謎の東洋の都会の不思議さにあらためて感嘆する。
これが本当の日本なのだ。

10日ぶりに佃。
ライカインコ喜ぶ。Dsc08584
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2009年1月18日 (日)

PRGSVONRT

Rimg1991 プラハ。
今回の滞在の最終日。
日本人の悪い意味での向上心で、10日の最後になにか「ためになること」をしようと思う。

まず、書店でスデクの4部作の写真集を買う。
4冊で3000クローネの大盤振る舞いだが、邦貨1、5万。どうも写真集にお金をセーブするというのは悪習である。
フォトシュコダにてコンタックス1型を買うつもりが、シャッターの調子が悪かったので、この買い物になる。コンタックス1などは、佃にそれこそ売るほどあるのだから、これは良い買い物だった。写真集にはお金を使いすぎるということはない。

このシリーズは昨年、ニューヨークでも出版されている本だが、そのプラハの版元には10年前に訪問したことがある。
若い人(10年前だから今はもう40代半であろうが)で、真面目な出版家だ。その時にはスデクの厚い、重い写真集を買って、その関係でインタビューした。
真面目な出版社(一人出版社)がなんとか継続できるプラハの環境は「秀」であろう。

一昨年以来、気に入っている文学カフェに顔を出す。
ついでに数日前に記載のケルナーの女の子を撮影。周囲はじじいの客ばかりなので、ここだけぱっと明るい感じがする。しかし、若い連中にはこういう文学カフェは仕事とは言え、なかなか退屈であろう。いや、仕事なのだから仕方ないか。

稲垣足穂の「方南の人」に登場する、横寺町の飯塚酒店の「おとし」のことを思い出して会話を試みる。最近の若い人はそこそこ英語が話すからよい。革命前にはこういう場合、ロシア語が必須だった。その前の時代にはドイツ語。

毎週、金曜にはカフェの奥で、プラハの文人墨客のランチ会がある。この前、通りで遭遇した前プラハ市長さんもそのメンバーだ。Rimg1980 表紙に登場のこの帽子の紳士がその人。

店主は出版家でもあるが、最近、出版されたペーパーバックを示す。その文人墨客のことを紹介した本だ。表紙の前プラハ市長など実にそっくりだ。
カリカチュアの面白さはやはり、外人をモデルにした方が面白い。(こっちが外人なわけだが)

その足で、改修中のカレル橋を渡り、1992年に操業の「洗濯やとカフェ」がハイブリッド状態になっている「カフェランドリー」に行く。

さらに、スデクのスタジオ詣でをする。
Rimg2015 あたしの表情が浮かないのは、展示中の作品が面白くもなかったことだ。

目下、計画中のプラハでの写真展(三人展)だが、バベル元大統領の父上の設計の「ラテルナ」ではなく、こっちでするべきなのではなどと考える。

気温はマイナス1度なので、雪解けで路面は滑りやすい。
早めに帰宅。

17日の午前10時(欧州時間)にはプラハ空港でチエックインして、ダイナースラウンジにて連載ものの原稿を書く。

2009年1月17日 (土)

プラハは風弱く快晴

Rimg1298 プラハは風弱く快晴。気温マイナス1度。

今回のプラハは実に理想的な天候であった。
ようするに、スデクの好んで撮影したダークトーンの中に階調を内包したモノクロームの街である。
これをデジカメで撮影すると、なかなかの色調になる。
試みにこれをフォトショップで補正してみたら実につまらない当たり前の絵になってしまった。
色調の補正は仕事には必須だが、自分の写真に使うのは考えものである。

明日、土曜には東京に一時帰国だが、今日は金曜だ。
今回はまだ、スデク詣でをしていないので、モルダウの左岸の彼のスタジオを訪問する予定。
しかし残念なのは朝から快晴のブルースカイであることだ。
アトリエの北側の窓からはプラハ空港にアプローチする飛行機が見える。快晴のおかげで、それが良く見えるのはありがたい。
たった今、パリ発のAFのエアバスがアプローチしたところだ。左側の席の窓際のゲストはさぞかし、すがすがしい朝のプラハとモルダウを機上から見たことであろう。Rimg0681

しかし、自分のようなスデクトーンを信奉する視神経の持ち主からすると、この快晴の朝は実にチエコ共和国観光局なみで嫌いである。

昨日は、GR10には休暇を与えて、α200を持参。約1000カット撮影。コンパクトデジカメに比較するとその瞬時に撮影できるのは長所であるが、これでもっと小型化されたら良いと思う。
あるいは、GRD2とかR10の撮影速度がせめて入門用のデジタル一眼レフなみになれば問題は解消するわけだ。

日本で売れ筋のパナソニックのG1だが、こっちでは「あそばせ一眼」で、売っていないのは当然である。いくら女性向けのターゲットとは言え、あまりにもピンポイント広告なのが国内のやりかたでこれは情けない。

帰国早々に「目つきの悪い長髪の東洋人」がニコンを持っている広告が変に見えるのと同様なこれは次第である。

これより快晴のプラハを「仕方なく」撮影。

2009年1月16日 (金)

プラハ生活

プラハ。1月14日。気温マイナス8度。霧。

今ころ、一番気になるのは、霧である。
1989年2月にモスクワからウイーン行きのアエロフロートが霧のためにプラハにダイバートした。その関係でプラハに1泊できて、「燃えるプラハの熱い冬」を体験でき、その11月にビロード革命になった。
霧で飛行機が遅れるのは上のような場合には大歓迎だが、今週末に東京に行く(その意味は2月にまたこっちに戻る予定)のに、飛行予定が変わるのは困るのである。そう言えば、80年台にはいつもこっち発の往復チケットであった。

今回は生活を見直して、プラハ時間をもっと作ることにした。ここに居ると、呼吸が深くなり、脈拍も60になる。東京だと追いまくられているから脈拍が75を下ることはない。

思えば、このアトリエには20年。これは佃の寓居よりもその時間は長いのである。
だからアトリエの生活の癖、たとえばバスルームのお湯の出方の癖とか、キッチンのコンロを支える金具は倒れる危険があるから注意とか、そういう細かいことに眼が行きとどく。

キッチンで料理中にそのコンロの金具がずれて手の甲にやけどを負ったことがあった。そういう家内事故は体が記憶しているので、毎朝のコーヒー沸かしの時にそのやけどを思い出す。
それで自分の手の甲をみたら、そのやけどの後はまったく消えていた。それほどにプラハ暮らしも古くなったのだ。

思えば、ヒルズに仕事場を持つようになる前は、もっぱらプラハで仕事をしていた。
それが今では佃と六本木の往復運動になってしまった。
仮に、10日プラハに居るとして、飛行機ならその移動時間は往復で24時間強ほど。佃からヒルズだって、10日でその移動時間だけは20時間ほどになろう。
その意味では六本木もプラハも佃からは「等距離」というロジックになる。

プラハの生活はシンプルだ。この画像は安手のデザイナーズマンションみたいだが、実際はもっとスラブ色が濃厚である。これがデジタル画像の悪さである。

ビールはアトリエには置かない。PIVOは市内のカフェで飲むものである。
朝から半リッターのジョッキを前にして、これを偽ライカ同盟の福田和也同士が見たら、うらやましく思うかも知れないが、ビールは普通の飲みもので、むろん、飲酒運転は厳禁だが、これを飲んで酔うというものでもない。
ピルズナーより、ガンブリヌスを飲むのが、これは「地元民」の矜持なのである。
ピルゼンビールの本場は「銀座のピルゼン」にあったわけで、わざわざプラハで飲むまでもない。世界点の勘違いと批判されようがかまったことではない。

そう言えば、昨年の春だったか、四谷荒木町に「犬っころ」という名前のプラハのビアホールが出来た。「あの写真部」の福田和也代表代理とか、新潮の矢野編集長などが顔を会わせてそこでPIVOをやった。これは良かったけど、何しろ、 日本価格であるから1本が日本金で1壱阡圓はする。これは精神衛生上はなはだよろしくない。
こっちのジョッキは邦貨150円。革命前、遠い昔だが当時はジョッキが50円ほどであった。
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2009年1月15日 (木)

1月13日 プラハ。

Rimg1166 1月13日 プラハ。
気温マイナス12度。最高はマイナス8度。

思えば、12日が寒い日だった。マイナス15度ほどだが、歩行していても寒さは感じない。
ただ一種の快感があるのみだ。これはまずいので、あわててカフェに飛び込む。
カフェの中は快適な気温というよりも、暑いほどだ。
一息ついてからまたまちを歩く。

春には7年半分の佃日記が扶桑社から本になるのである。全部印刷してしまうと持ち上がらない可能性があるので、その中の抜粋を印刷して、全日記はCDにする計画である。
その日記のセレクションをするつもりにて、仕事をプラハに持ってきたのだが、最初の6日はほとんどインターネットにアクセスできない状態だったので、日記の更新の時にゆくカフェ(ついでに食事もする)でその名前をセラピーというのであるが、そこでサーバーから日記をダウンロードした。
これは便利であるが同時にサーバーにアクセスできないとそれは存在しないも同様である。ここらがデジタルデータの不思議さだ。

毎日、市電の終点とメトロの終点にばかり行く、変はツーリストがあたしである。
この性癖がこの10年来のものだ。場末にこそ、都会の本質が開示している。しかもその先が真っ白なボヘミアの平原であり、モルダウである。
すなわち「我が祖国」である。バイオリニストのユラに久しぶりに会う。2001年9月以来。今、彼女はスイスに住んでいる。スイスに税金を払っているがスイス国籍はなかなか取得が困難という。
学生オーケストラのソリストとして来日したのは20年ほど、前だった。日本のバイオリニストとも共演する。週末にスイスでレコーデイングがある。

この前、アメリカ公演で「そこはシカゴから3時間も行った田舎なの、、、」古都プラハで会うとチエコ人と日本人で目一杯、アメリカは歴史が浅いから、、、という文化論になってしまう。他国の悪口は快感である。

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昨日から1年3月ぶりにニコリテスリーのアトリエに入る。
一昨年の10月末以来、ここは変わったこともなし。
アトリエに存在する物品はなかなかの歴史的なもので、ビドーロ革命(すでに1989年から20年が経過)当時のシャンプーがバスルームにあったりする。

産まれた子供がいい若い衆になっている時間経過だ。
田山花袋の「東京の30年」にならって、プラハの30年を書こうと腹案をひねくる。
思えば自分の場合、「プラハの35年」なわけだ。

ビロード革命もいいが、その前のグレー一色の町並みに赤旗翻るプラハも今にして思えば、なかなかのカラーバランスだった。
カレル橋の上で、ソ連兵の観光で、彼らの持参したソ連製のカメラのシャッターを押してあげたことは数知れず。

到着以来、使っているのはR10のみという状態だ。今回は思うところあって、フィルムカメラはミノックス一台にとどめた。
α200にタムロンのズーム付きも持参したが、まだ一枚も撮影していない。
デジタル一眼レフはポケットに入らないのがその理由だ。
それでもデジカメは寒さに強いらしく、マイナス15度くらいまでは平気のようだ。

連日のカメラ店参拝にてまたクラシックカメラが増加しそうな怪しい雲行きだ。
しかし佃のカメラ倉庫はすでに満杯だし、アトリエに置くことにしよう。

2009年1月14日 (水)

1月12日 プラハ。

Oraha09131 1月12日 プラハ。
気温マイナス10度。

修道院のホテルは中庭に面している。眼前には小さなチャペルのような建物がある。自分のいる建物はその南東にあって、すぐに南は隣の建物の壁である。
今は葉を落としているが、その壁には蔦がいっぱいに根を張っている。
「蔦のからまるチャペルで、、、」では、俗曲になってしまうが、ウイーンの3区、昔のアパートの近くがウイーンアカデミーでそこはもとは宰相メッテルニッヒの館であった。
そのバスルームはそのまま声楽のレッスン室になっていた。
日本人の留学生の間では「お風呂場」と呼ばれていたが、銭湯で歌を歌うと上手に聞こえるのと同様に、ここで歌うと響きすぎて、自分は天才声楽家ではないか、と往々に自信過剰になる危険な部屋だった。

メッテルニッヒはピュートル大帝のような大男ではないはずだが、その浴室はピアノを2台入れてもまだゆとりがある。
部屋の隅には、クラシックなバスタブに木のふたがかぶせてあった。

その館であるが、むろん、バロック時代のウイーンだから実に建て込んだ環境である。だから建物の隣は隣の館の壁である。
ここにも蔦をはわせて、さらに木をつかって、遠近感を出して並木道のモザイクめいた「だまし絵」になっていた。
それを見たいので、家人のウイーンアカデミーのレッスンについていったこともあった。

プラハ。徘徊。
パブロナメステイから9番のトラムでモルダクを西に超してアンデレに行く。
そこから12番でスデクのアトリエの前を追加して、そのままマロストランスカから丘を登って、新世界に行くつもりだったが、それが20番の電車であった。12番はそのまま東に進んで、さらにもう一度、モルダウを超える。
妙に殺風景なところが気に入っている。パルムロバまで行き、メトロのB線にてまた中心地のムステクまで戻る。

カメラ店を何件か見る。
スデク広告写真をまとめた写真集あり。これは新機軸である。

また12番に乗って、今度は南西の山の奥まで行く。カルスト大地というのか、巨大な岩山があって、そこはスデクがパノラマ写真を沢山撮っている名所である。
その先の新興住宅地は路面電車は登山電車のようになって、急斜面を登って行くのだ。そこからの右手の風景は絶景である。Praha0913
100年前に出来た水道橋のようなスタイルの帝政時代の高架線があって、今でもそこをローカル列車が通るのである。
まるで、鉄道模型をそのまま実物大にしたようだ。

また市内に戻り、マラストランスカにてランチ。
思い出のカフェであった、昔のカフェマラストランスカの前を通ったら、スタバになっていた。感じ悪し。

カレル橋のそばのランドリーカフェに行く。モルダウの大洪水の時に水にやれらてしばらく休業していたが、また再開。
ここは店の半分が洗濯屋で半分がカフェという世界でも珍しいカフェだ。
パリの洗濯船、あれは例えであるが、こっちは本物である。

カレル橋をわたる。
橋の半分は工事中。あまりにも大勢のツーリストが踏んだので、橋は10インチほどすり減ったものと見られる。
ここを観光客に歩かせることで、銭をとっているのだから、修復は重要だ。

アイスクリームカメラ店(中古カメラ店だが、夏期にはアイスも売る店)にて、この前予約したプリマーフレックス用の105ミリテッサーを求める。

ムステクに出ればすでに3時半にて、天空は暗くなっていた。
やはり日が短いのだ。

2009年1月13日 (火)

プラハで修道院に入る

1月11日。プラハ。気温マイナス11度。
Praha09111
プラハで修道院に入る

この画像がホテルである。
st JANAという著名な修道院だ。
正確には左側のが司祭かなにかの宿舎であって、それがビロード革命の時に出版社になり、数年前にはホテルになった。客室数たったの14。
理想の隠れ家だと書くと日本の雑誌のタイトルで実もふたもない。
ただしあたしは誰から隠れる必要もないので、それがもったいない。
プラハで隠遁生活に入るのなら、理想だけど来週からまた極東の錬獄。

この向こうの建物との間は切り通しになって、そこに市電が通っている。だから湯島の切り通しとか、谷中の寺町の古刹の離れに住んでいる気分だ。
それでいて、最寄りのメトロまで徒歩3分。
これは佃の部屋から月島駅に行くよりも短い。

土曜日。
例によって路地裏調査。市内徘徊。
9番の市電で、スデクの名作、子供の墓石のあるベルトラムカの墓地を見る。雪が良い感じにつもっている。
それからやはり9番の市電でその先のモトフのクレマトリウム(火葬場)を見に行く。別に藤原新也のまねではない。
プラハに火葬場は2つある。もうひとつは市の東にある。こっちは近代消却場の感じがして到底「死を思え!」の感覚なし。

日記の更新をいつものカフェで行う。素人考えだけどWIFIにも二種あって、常連のカフェでは無線が通じるが、ほかでは全部だめだ。要するにwindowsにしか対応していないらしい。
AIRMACとは規格が異なるようなのだ。
もう仕方ないから窓屋のマシンを買う必要があるが、やはり商品としての魅力がない。
だいたい、「春向けパソコン」などと銘打って商売をするのが面白くない。
電子計算機は耐久消費財ではないのか。
(後に記す。なんとかネットにはつながったが実用にならない遅さだ。忍耐を訓練するプログラムだ。)

昨日、ホテルプラハからリムジン。ドライバーの若者をビロード革命の頃の話をしようとしたら「すみなせん、僕はあのとき、6歳でした」
ビロード革命の直後のプラハ市長に一昨日遭遇したので、革命はつい最近のことだと思っていたのは、老人の時間の距離感覚のせいだ。
ボリシエビキ痔代のプラハを知っているなんて、老人趣味なのである。

リムジンを降りて、石段を昇って、このネオバロックの宿舎の雪のつもった中庭のドアを押して中に入ろうとしたら、中からコンシエルジエの服装をしたじいさんが出てきた。
荷物を運んでもらおうと声をかけたら、人違い。これは普通の客なのである。
その服装はウイーンのインペリアルホテルのコンシエルジエの服装に酷似しているのだ。エアラインのキャプテンのコスプレがあるそうだが、プラハではコンシエルジエの服装のコスプレがあるのだろうか。

フロントにはGAPを着た青年がいる。この人が本物のホテルマン。見かけは宮殿だけど(そのサイズはサンクトペテルブルクのピュートル大帝の夏の宮殿サイズ)普通のホテルだからポーターもいない。
ネオバロック宮殿の、大理石の立派な階段を自分で荷物を運ぶのである。
気兼ねしなくてよい。

Praha09112 深夜12時前、窓で鳩が鳴いているような断続的な音に眼をさました、
鳩ではなく、隣室で男女が一戦交わしているのであった、
マンハッタンのヒルトンはその隔壁が薄いので、室内で話をする声より、隣室の声の方が良く聞こえるのが名物だが、このホテルも隔壁の薄さは名物になる。
ただし、天井はモスクワのメトロポールなみの高さ。約、5メータか?

ウイーンの18世紀に建てられた部屋に居た時、隣の壁ごしに毎夜、夫婦喧嘩が聞こえたのは面白かった。その論争点は5年前のクリスマスにまでさかのぼるのである。これは生きたドイツ語の勉強になった。
上の隣室の男女の交歓だが、断腸亭なら早速、待合「幾代」の仕掛けのある部屋から隣室を覗くのであろう。

丸山薫や稲垣足穂の寄宿した蝙蝠館(滝野川の中野アパート)では、好き者が深夜、天井裏を徘徊したそうだが、元気なことだ。

今朝、地下の食堂に降りて行く時、食堂から上がってきたじいさんは昨日、あたしがコンシエルジエと間違えた人である。赤いセータの若い女と一緒だった。それが隣室の昨夜の声の関係者かどうか、それは不明だ。

1967年か、寺山修司の「書を捨てよ街に出よう」の新宿厚生年金会館の公演で「京王線初台駅に降り立つ。雨嵐の夕べ。昨夜も隣の新婚さん、3回戦わす。所属はワルだけど悪者ゆえに悪者ずらせず。ああ、今日も渋谷に1000圓溶かしちゃったなあ」の大昔の寺山フレーズが頭に浮かんだ。

2009年1月12日 (月)

マイナス10度の暖かさ

http://uk.weather.com/weather/today-Prague-EZXX0012?fromSearch=true

東京にいた時には、厳寒のプラハに行くのが嬉しくて、毎時に気温を観測していたものだった。
また、ライブカメラは右をクリックすると見られるので、暖冬の日本の皆さんは、是非、これを見て寒さを感じてもらいたい。

この数日、どうも寒いと思ったら、最低14度。最高が10度。ただしマイナス。

しかし風がないのはありがたい。

とはいいながら、慣れてしまうとこれが案外快適なものである。

自分の体感温度計では、鼻のひげが凍ってもりもり言い出すと、これがだいたい、マイナス10度である。今のプラハの気温がちょうどそのくらいだ。

寒さは慣れの問題ながら、凍った道を歩くのも楽しみだ。
すなわち、SUDEKの愛した冬のプラハだ。

一昨年の冬は暖冬でプラハでは雪を見なかった。
その分だけ冬を楽しめる。

数日前に、プリマーフレックス(奇跡的にシャッターも動いている)を手にいれた。

戦前の6X6一眼レフである。

テスト撮影で、ホテルプラハのバルコニーから、お城を撮影しようと思ったが、霧でどうにもならない。この霧のせいで、よく飛行機が欠航するのだ。

ビロード革命の年、1989年2月には、その逆でモスクワーウイーン行きのアエロフロートがウイーンが霧で、プラハに到着した。

ちょうど自由化の嵐が吹き荒れて、連日、デモと警察の衝突があった。

まっ暗な夜道を友人の運転する、ポーランド製のフィアット500に乗って、モルダウ川ぞいのペンクラブで真夜中にビールを飲んだ。

ビザがなかったからこれは本来、禁止事項なのだった。Rimg0217

2009年1月11日 (日)

1月10日。

Praha09101 1月10日
プラハ。

昨日の行動。

例によって午前中から市内徘徊。
このホテルはプラハを一望する丘の上にあるから、眺望は良いけどもともと外国のゲストが高級車で乗り付けるホテルである。
昔の迎賓館の面影を残しているのは、頑丈は鉄の柵と扉。それに守衛場のスモークガラスの大きな建物である。
その厳めしさは、近くのイスラエル大使館をしのぐ。ただし今は「一般ホテル」なので武装警官は立っていない。
実に静かなものだ。

お客は自分のほかに果たして何人いるかというほどの静けさだし、インターネットも普通だし、日本からのメールは見るのは不可能という「好立地」だ。

12時に旧市内の行き着けの、セラピーカフェに行って、そこで日記を更新。KFCとか、FREE WIFI のステッカーの貼ってある店は多いが、なかなかネットにつながらない。それでこのカフェは簡単につながるので、愛用、アトリエでも2年前だったか、日本語環境がつかえないので、ローマ字で日記をつけたことあり。

要するにホテルではインターネットはだめなので、PowerBookをかついて歩いているのだ。
実にプラハらしい気分である。プラハインターネット難民。

カフェセラピーで、ランチでは前の日と同じでつまらないので、一昨年の秋に贔屓にするようになった、文学カフェの方に行く。
残念ながら一昨年のスタッフは総入れ替えだが、若い男女のケルナーが入った。

女の子の方は、なかなかの美貌でアルフォンスムハの絵の中にでも出てきそうな人だ。
外はマイナス11度というのに、ノースリーブでパンツを出しているのは、万国共通のファッションでもあろうが、自分が父親だったら、母体に悪いと注意したいところだ。

顔見知りの紳士がカフェに入ってきて、あたしと握手。
さて、誰であったかと思案して、前のプラハ市長さんであった。ビロード革命当時に彼をインタビューしたことがあった。市長はコンタックスT2のゴールド仕上げを持っていたので、それをネタにしてエッセイを書いた記憶あり。
今では出版社経営らしい。彼は近くのビアホール(ライオンだか虎だかのレリーフのある店)の常連だからここらは「しま」なのである。

プラハは寒いがカフェでもどこでも中はTシャツで大丈夫だ。
4年前、寒冷のスエーデンはヨーテボリで会った、ハッセルブラッドの広報の紳士は「世界で一番寒いのは東京だ。あの隙間風と空っ風がだめだ」と文句を言っていた。

ホテルプラハのバルコニーから今朝はプラハ城も見えない。
霧。

午後から、モルダウに近い、ネオバロック様式のホテルに移動。

日記を書くときだけ、日本語が戻ってくる。室内の観光ガイドなど読み散らして、英語とドイツ語の半分、半分が頭の中を行き交っている。

画像はホテルプラハのバスルーム。
10年前、モスクワの赤の広場の脇のホテルナショナルで、同じようなカットを撮影した。その10年前のホテルはかのレーニンの住んでいたホテルだ。
今回のホテルはかのブレジネフの宿泊所。
なにか、赤いロシアの名所旧跡を求める旅と勘違いされそうだ。
その10年前のホテルナショナルのじセルフポートレートは今度の筑摩新書の中で、編集者さんのリクエストで登場するのである。Praha0910

しかし10年は10年である。実にじじいになったものだ。

2009年1月10日 (土)

プラハ路地裏調査は厳冬にかぎる

Praha01091 Praha0109_2 Praha01092 1月9日

プラハ路地裏調査は厳冬にかぎる

曇り。雪模様。
インタネットがつながらないので気温が分からないのであるが、感じとしてはマイナス5度くらいか。

自分は静電気に弱い方だ。
一昨日、空港からホテルまでリムジンのドライバーにチップを渡す時、パチッと火花が散った。
昨日の朝、ホテルのシャトルで、最寄りの地下鉄の駅に送ってもらって、シャトルのドアに手をかけたら、ビシッときた。

10数年前、アトリエ住まいも退屈なので、すぐそばのこれは世界でも珍しいスターリン建築様式のホテルインターナショナルに宿泊した時、最上階の部屋に入る時にやはりバチッときた。

20数年前を思い出すに、タイムススクエアのホテルでこれは化繊の絨毯のおかげで、高電圧が発生し、ドアに手をかけると青い火花が散った。エレキテルのことを知らないから、厚い手袋をはめてドアの金具に手をかけたが、放電は同じことである。
最近ではやや利口になって、まず金属のキーで金具を触ってアースしてから入室するが、ホテルプラハは5つ★なので、非接触式のキーなのでこれも出来ない。
アースの取りようがないのだ。

ここホテルプラハの賓客はブレジネフ第一書記である。
かれの宿泊したプレジデンシャルスイートだかロイヤルスイートだかには直通のエレベータが地下まで通じているそうだ。

チエックインの時、フロントがどこだか分からなかった。エントランスの脇に小さな、ベルキャプテンの詰め所のようなのが、フロントだった。部屋数は100超しかないのであるからこれで良いのである。
もっとも第一書記にパスポート検査とかはないであろうし、宿帳の記入もなかっただろうから、一般向けになったから急場でこしらえたフロントかも知れない。
その奥の大シャンデリア(ソ連の最高会議の議場はウイーンのロブマイヤのシャンデリアだが、ここのはまさかプラハ製であろう。

ビロード革命の直後、大統領報道官のミハエル ジャントフスキーもここに住んでいた。彼の仕事場、つまりプラハ王宮に水曜の午前10時からの記者会見(彼は元ロイターの記者だったから英語堪能)を見学して、それから彼の執務室に行ったら、王宮の上の方だから、プラハ市内が良く見えた。
ははあ、為政者はこういう場所にいるからだめになって行くのだな、と思った。ここから、プラハ城まで車で往復するのでは退屈の極みであろう。

ミハエルの吸っていたシガレットがスパルタ(日本の新生のような労働者のタバコ)なので、そのことをインタビューの中で肯定的に書いたことがあるも今は昔。
今なら喫煙者というだけで、大統領報道官としてはまず失格だろう。
ミハエルは背が低いので、パベル大統領は外国に行った時、自分の見栄えを良くするために、旧知のミハエルを起用したとは、口さがないプラハっ子のゴシップだったがまさかそんなことはあるまい。

ハベル大統領の当時の政府専用機があたしの好きなツポレフ154であったのも、隔世の感あり。
今回は荷物は遅延したが、飛行機はアエロフロートがおろしたての新品のエアバス330でエンジンはRR。つまりロールスロイスの時代である。
新品の飛行機はかつてライカの新品を開封した時に感じたのと同じ、新しい機械のにおいがした。
しかし、アエロフロートなら、マシンはTU154に限るし、エンジンは何と言ってもクズネツオフがいい。
アエロフロートがRR(ロールスロイスの)エンジンなんて帝国主義的である。
いや、もうアメリカ以上の帝国主義なのだかからこれで良いのか。

@@@@@@

日本路地裏学会プラハ調査を執行。
ついでに
プラハのカメラ店のゴールデントライアングルを歩く。
買ったのはウオーカーエバンスも持っていた、ゲルリッツのプリマフレックス。これはドイツ語の取り説付き。これをハッセルブラッドがコピーしたというのは、かのビクターさんも「そのデザインに影響を受けた」と、暗に認めている。

もう一台は70年代のフォトスナイパー。
これはかのチエ ゲバラの好きだった、300ミリ付きのタイルレンズをスタート(ソ連製のプロ用一眼レフ)に付けていたのを思い出して。ゲバラ好み。ゲバラを偲んで買った。
プラハの町中でもチエのポスターあり。
ただしこれはカフカと同様に、商業主義の道具に成り果てているのである。
ちょうどヴォルフガングがモーツアルト玉のチョコレットの商標に「無断で使用」されているのと同様。

ゲバラが生きていた時代、まだフォトスナイパーはなかった。
カメラ好きのニキタ フルシュチョフはその前身のFS1という300ミリレンズ付きのミラーボックスの付いたフェドが愛機だった。

これは赤軍用であり、ソ連の要人にプレゼントされた300台ほどが存在するが、その第一書記がFS1が製造中止になったのを問題だというので、「政治」を発動してこのカメラを生産させた。
ガガーリンやライカ犬を打ち上げたり、キューバ危機を発生させたのソ連なのだから、フォトスナイパーを発生させるなどは朝飯前なのである。

2009年1月 9日 (金)

荷物の事故率100パーセント!

1月8日
荷物の事故率100パーセント!
Praha01081
プラハ。
曇り。雪、残る。

昨夜、モスクワからプラハに到着。
SU(アエロフロート)はモスクワで乗り換え時間が30分しかなかったので、いやな予感がしたが、案の定、荷物積み残される。

この飛行機のメーンの日本人客はパリ行きである。バルクヘッドの11Aに座っていたのだが、脇のおばさん3人組が「おばさん会話」をしているのがいやな感じであるなあと思っていたのだが、その「たたり」が荷物遅れという形に出た。
心の中でもそういうことを思うのは「罪」になるらしい。

モスクワで乗り換えてプラハに来るなどというマイナーな客はあたしのほかに日本人青年が一人いたのみ。
もっとも大半のお客はJTBとHISの団体さんだし、パリには乗り換え時間が90分あるからそういう団体さんの荷物はちゃんと届くのである。
HISよりもスカイチームエリートのあたしが切り捨てられるのは当然の理だ。

荷物のクレームで時間が経過したので、空港の待ち合わせポイントに出たら、リムジンの若いドライバーさんがまだあたしの名札、すなわちNAGANORI TANAKA
を持って不動の姿勢で立っていた。
ご苦労さんというのでチップをはずむ。

ホテルプラハ着。
ナイトポーターのお兄さんに「届いたら、部屋にとどけてね」とチップをはずむ。
アエロフロートのちゃんとした仕事ぶりのおかげでよけいな銭がかかる。

荷物はモスクワから到着次第、ここに送らせることになっているが、実に不思議なのはこのところの欧州行きで3回が3回とも荷物のトラブルあり。(日本時間8日の16時40分現在荷物は未着)

一昨年の10月末にプラハパリセントレアはエアフランスのビスネスだったが、荷物の到着が3日遅れ。スカイチームはがんばるなあ。

昨年、秋のロシアでも帰りのアエロフロートで荷物がこじあけられ(セキュリテイチエックと思われる)バッグが壊れた状態で到着。忙しいので、保険の請求もせず。
それで今回また未着。
事故率、100パーセント。
飛行機の事故だったら、飛行の度ごとに墜落か行方不明になっているわけで、命がいくつあっても足りない。

それだけはない。
ホテルプラハは豪華5つ★なので、その高級ホテルの伝統に従い、インターネットがうまく接続できない。
LANケーブルはあるし、インデックスでは接続中になっているのに、ブラウザーはエラーになる。

数年前、プラハのアトリエでもLANで同じことがおこった。
歩いてアトリエまで行って、インターネットというのもしゃくである。

そんなこんなで、来たきり雀である。ただしショルダー一個だけなので快適でもある。
パンツとシャツは着ているのがあるだけだが、ホテルの暖房が優秀なので、30分でバスルームで乾いてしまう。
これは一大発見だ。
アエロフロートの荷物の未着の件で、いろいろ楽しめる。

画像はホテルプラハの部屋から。眼前が王宮。スデク好みの冬の雪曇り。
次のは事故レポート。もう届かなくても大丈夫な気分。
この日記を更新しに、市内のカフェにゆかねばならぬ。

プラハ市内のレストランで、これを書く。

2009年1月 8日 (木)

勝間6x30+ミノックス

プラハ。雪。マイナス5度から−11度。

ホテルプラハに滞在。

プラハに持参したカメラは今回は最低限の数である。
トラベルライトである。こういうのは嬉しい。自分が旅慣れているような錯覚を持つ。

デジカメ2台+ミノックスだ。デジカメはR10。それにレンズ交換のできるのが一台。
だいたいが、出発前、5分までこれで一番、もめるのである。

プラハのアトリエに置いてあるカメラを「かぶる」のは極力さける。

今回はアトリエにはほとんど行かずに、まずかつての(社会主義時代の)元迎賓館(アトリエから歩いてゆける距離)に泊まり、それからネオバロックの「宮殿」(ではないが日の本にはそういう建築はないからまずこういう言い方も可能であろう)が旧市街で、最近ホテルになったのでそこで1週間。
なにしろ、プラハのアトリエは佃の時間より長いので、最近、ちょっと飽きてきた。
それはラボエームクラス屋根裏部屋よりも、迎賓館の方が快適なのは言うまでもない。

プラハに持参のカメラは何時もポケットに入っているミノックスとR10である。それと勝間の双眼鏡はヒルズには10X40、佃には6X30が置いてあるが、その6X30のを持参した。

こうなると、双眼鏡とミノックスの間にこのアダプターを付けると即望遠カメラになる。
このアダプターは中野のフジヤカメラで昨年1月に買った。価格、1050円、ちょっと見たら単なる壊れたカメラの部品にしか見えない。

本職のスパイさんがこういう道具を使ったかどうか、それは不明だが、本職のスパイでも撮影などはアマチュアレベルであるのだからこういう組み合わせはあり得る。

西ドイツの内務省のエージエントの方はcambinoxという、プリズム双眼鏡にカメラを組み込んだのを「諜報」に使っていたが、これは写せる双眼鏡ではあるが、近くの書類などの複写はできない。

一方でこの組み合わせなら、近くも遠くも自由自在だから使い勝手はよいであろう。

ミノックスの30枚撮りのカラーネガのストックの手持ちが大量にあるので、それを消費する意味で持参したわけだ。

こういう組み合わせは子供だまし、という向きもあろうが、案外、見かけよりちゃんと写るものだ。問題は勝間の双眼鏡はオキュラーがピントあわせで回転してしまうので(kernのスイス軍用の双眼鏡もそうだが)撮影時には注意が必要。

プラハはかなり寒い。気温と気候はこちら。http://uk.weather.com/weather/today-Prague-EZXX0012

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2009年1月 7日 (水)

NRTSVOPRG

Bd4f_1 Aerofl Fe14_1 Dsc02840 Img849 本日より、SU便にて

プラハ。

昨年の12月後半から、NRTAVOはそれまでのB767からエアバス330になった。(絵葉書参照のこと)

この前のロシア行きでは、ウインドウ側の3列の狭さで参ったが(これはYクラスのことを言っているのだ)エアバスはYでも2列だから実に楽である。

しかもSUのサービスは社会主義国時代の伝統的な方法、つまり「赤色労働英雄」のおばさんがアテンダントであって、ギャレーから登場すると、通路いっぱいになって、何者もそこをとおりぬけることができないというような、社会主義時代革命精神の伝統は打ち壊され、今ではなかなか美貌の若い人が勤務しているのである。

こりゃ修正主義だな。

革命は実に遠い時代になったものだ。

NRTSVO飛行時間10時間20分、SVOPRG飛行時間2時間50分。

速い、速い。

@@@@@@@@@

成田でチエックイン。

気が早いので、ビジネスクラスの先頭に並んだ。

行列好きではないけど。とんでもない早い時間に空港に着くのが例だ。

ダイナースのラウンジが発見できないのでアメックスのラウンジにおちついてこれからダイナースのラウンゾを捜索に行く。(日本時間10:55)

2009年1月 6日 (火)

「腰巻」用の画像を撮る

腰巻きというのは、本の下半分に巻いてある帯のことである。これは古書店などではその本の価値を左右する重要な要素であるから、大切らしい。

今度出す、筑摩新書の腰巻きを休み明けまでに入稿する約束なので、1月3日の朝にこれを撮影した。

まずデザイナーさんがどのように切り刻んでも大丈夫なように、「ずるいカメラの並べ方」をしてある。ここに登場のカメラ連は別に意味があるのではなく、偶然に手元にあるのを適当に並べたらこうなった。撮影時には全部で6台か、銀塩カメラが4台で、デジカメが2台だなと思っていた。それを今、改めて見たら勢力は半々なのである。

エプソンR−D1Sをフィルムカメラと勘違いしたのであった。こうして展覧すると、やはり美麗なのはライカであったり、マキナであるわけで、二個の巣は(この変換間違いが気に入っている)まだ良いけど、デジカメはまだなかなかという感がある。

それに今週の水曜からプラハに移動するわけだが、それに持参する機材をまだ決めていないのが気になる。というか、それを決定するのが楽しみである。

まず大抵の機材はプラハのアトリエにあるので持参する必要はない。ただ今回は最初の数泊は話のねたにプラハの以前の迎賓館に泊まるのである。

こういう場合、カメラマナーが大事うだからなるべく身軽に、例えば、フィルムカメラはミノックス、デジカメはR10だけにしたら快適であろう。これは通勤の時のカメラスタイルである。

もっとも、その迎賓館でなにか忘れたカメラがあったとしても、プラハのアトリエまでは歩いて10分程度であるから心配はない。

今、(午前0時過ぎ)プラハのウエブカメラを見たら雪だ。 プラハの雪景色は20年来、期待しているのだが、まだ出くわしたことがない。 明後日は雪景色が期待できる。ちなみに今夜(時差8時間あり)は、マイナス15度という。

Rimg0255_2

1182187888 プラハのお昼のウエブカメラを見たら、王宮へのつずれ折りの坂道の良い具合の雪景色だ。 これは楽しみである。 1215682251

2009年1月 5日 (月)

まるで為替トレーダーの部屋みたいですが

Rimg13393台の「端末」(この言葉はクラシックでいいねえ)を前にしてこいういう感じで仕事をしているのである。

7日から久しぶりにプラハに行って、自分の写真など撮影してくるつもりなので、その前に新年早々にそれなりの仕事をかてづけておく必要あり。

PCは右はヒルズの借り物のdellであって、左の二台はかなり型落ちのパワーブックだ。

画像の整理と原稿書きとなるとまず3台は必要なのは、マルチタスクでやると時間が追いつかないからだが、左の2台のパワーブックはさすがに遅い。

以前から「インテルインサイド」など使いたくない、という宗教上の理由で、窓屋のPCなど使わなかったのだけど、そういう身勝手もいっていられない状況だ。

ヒルズの7年目に入って、ウインドウもなんとか使えるようになったけど、PCというのはパブリックな存在なので、自分用のがほしいとは思わない。

一方で、パワーブックの場合、個人で持ちたいと思うが、マックブックという名前はなにかヨックモックみたいで嫌いである。

2009年1月 4日 (日)

マキナ1型とワイドラックス1500で「初写し」

Rimg0248

1月2日。

今日もヒルズに行こうとしたが、それでは「平日」と変わらないと気が付いて、中止。

午前はワイドワックス1500をもって、佃を撮影。もう一台の120フイルムを使うノブレックス120の方はプラハのアトリエに置いてある。これはプラハ撮影専用である。

住吉さまは昨日、氷川丸から戻ってきたときには、さい銭箱の前から、鳥居まで長い列が出来ていたが、今朝は誰もいない。
越天楽が流れているが、あの曲の息が変わるところで、音程がフラットにかわるのを聞いて、つくずく極東を感じる。東儀秀樹さんを思いだした。

この旋律の東洋的な激変変化はトルコから始まるのである。
イスタンブールのホテルの向いのブルーモスクの脇、トルコのライブハウスあり。そこで毎夜の演奏が聞こえてくるのだが、これはまるで演歌そのものであった。

その足で、ナチュラルローソンにてチリ産の赤を買って、戻る。

シエスタ。

午後はマキナ1型を持って撮影。
マキナは普段使いのは、人形町のムンカッチこと、昨年の1月に昇天した佐藤マスターの3型である。それにダゴール75ミリで撮影した作品は、一昨年のギャラリーバウハウスで個展をした。

想像以上の売れ行きでびっくりしたのであった。ファイバーペーパーの11x14インチでそれぞれの画像は限定の5点なのである。そのくらいの大きさに伸ばすと、戦前のレンズのよさ(というか収差をいってもよい)が、浮き出してくる。

この事実がモダンレンズと異なる魅力なのだが、今度出す筑摩新書の中ではそのことにかなりページを割いている。

現代のモダンレンズメーカーなどはそのような「時代遅れのレンズ」などは製作不可能だから、そこで昔のクラシックレンズが生きてくる。

その後、もっとシンプルなマキナが欲しくなって、ドイツから1台買った。それがこのカメラだ。
変な美学に固執しているから、1型はダイヤルセットコンパーで無いと満足できないのだ。

2009年1月 3日 (土)

牛の年賀状

Rimg0240


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諸方面から年賀状をいただく。
感謝。
なかなかお返事ができないのが残念。ここでお礼申し上げます。

牛年なので、それぞれに牛がテーマになっている。牛に対するイメージがこれほど多岐にわたるというのは吃驚だ。自分の「牛」のイメージはスイスのチョコレート「Milca」である。紫色の模様の牛がアルプスの斜面にいる意匠で有名だ。

ウイーンの8年の生活の最後の方で、毎日散歩していたアパートの裏の広大な庭園、アウガルテンの路上でかなり大きい幼児の書いたクレヨン画を拾った。そのサイズ、60x120はある。
数匹の牛の図柄で、模様は白黒、眼が金目、角が紫なのである。
これを「金目紫角牛」(きんねむらさきずのうし)と命名してトイレに貼っておいた。

ウイーンを引き上げる時、それを荷物の中に入れたのだが、見失った。

数多い年賀状の中で傑作なのは、くげぬまのブレッソンから届いた「肉筆画」で、なんとあたしが牛に乗ってアサルトライフルを手にしている図である。
ライフルは、ソ連製のFS1である。これはフルシュチョフ第一書記の愛機であった。
牛の腰の部分に市場篭がぶら下がっているのが愉快だ。

2009年1月 2日 (金)

参百圓店鋪

Rimg1336新年早々に300円ショップに行きたいのであるが、うちの近所そこらにはないみたいだ。

昨年、西安にいったら、広大な商業施設が完成したのが、そのままになっていて、その1fの広いスペースに100円ショップがあった。

もっとも中国であるから、あれは何といったか、「三元均一店」みたいな看板が出ていた。

撮影の途中で、ニコンD3の重い荷物があるので、そこでの買いものは手控えた。

西安滞在中にまた行こうと思っていたが、西安はそれなりに広いから、もっぱら市城を歩行し、街をぐるりと取り囲む城壁を歩いているうちにタイムアウトになってしまった。

上の画像のパスケースはすでに5-6年来持ち古したものであるが、気に入っている。

お世辞でほめてくれる人もいるので、気分がよい。それで家人は東京駅の近所にあるその300円ショップに行くときに、同じようなパスケースがあったら買うように「指示」を出しているのであるが、数年来、同じ商品の入荷はないようである。

最低限にもっている品物は真ん中のミノックスAと左のスペースペン。ミノックスはebayでアメリカから買ったのは10年前。ペンは知り合いからのもらい物。その知り合いは佃の建築事務所に居る人だ。

2009年1月 1日 (木)

一富士 二鷹 三なんとか

Rimg0125 Rimg0230 あけましておめでとうございます。

本年もKCチョートクカメラ日記、よろしく、ごひいきにお願いいたします。

@@@@@@@@@@

昨夜は午後9時までヒルズで仕事して横浜日本郵船氷川丸。

年越しのカウントダウン。2008年の新年は金谷キャプテンと数人の人々でちょっとさびしかったが、今回はNHKの行く年来る年と、TVKのライブなどの取材が入って、大賑わい。

金谷船長の吹鳴する氷川丸の汽笛、横浜周辺だけではなく、日本から世界に響きわたる。

それから午前3時半ころまで、新年宴会。

朝、7時半におきて、金谷船長の旗を揚げるのを撮影する。昨年とまったく同じ快晴の空にへんぽんと旗翻る。

それから、ヒルズに午前9時には到着して、これを書く。

富士山が丸見えなので、勝間の10x40にR10をくっつけて撮影。

まずは快適な元旦である。

元旦にNYK氷川丸で「最後の冒険家」石川直樹著を読む

仕事の合間に、ヒルズのタワーの下の書店から石川直樹著「最後の冒険家」(集英社)を買ってきた。

1600円+税。DINERSカードでちゃんと払った。何度も、たまったマイルを失効させているので、これに入ったのだ。細かい買い物でもカードで支払う。それで10月に入会して(プロパーなDINERSの方はすでに25年選手)すでに1万マイルになった。

その本を持って、今年のNYKの氷川丸のカウントダウンに来たのである。本は氷川丸の金谷キャプテンに進呈した。その本の内容は金谷キャプテンが愛した北太平洋に関連のあることが述べられていたからだ。

「最後の冒険家」は2008年1月末にアメリカ西海岸に向けて出発し消息を絶った、熱気球スターライト号の話である。

これは冒険家神田道夫さんが搭乗していた。その4年前のトライアルで、石川直樹さんは神田さんとクルーを組んでいたが、この飛行も着水して失敗に終わった。写真家石川直樹のことは知っていたけど、その石川が4年前のバルーンの相棒であることは知らなかった。

NYKの仕事の関係で、博報堂の人から以下のような話を聞いていたのであるが、それが石川であるとは思わなかったのである。

http://www.nykline.co.jp/news/2007/1119/index.htm

しばらく前、石川は朝日新聞の広告面のインタビューで「自分は冒険家ではなく、写真家である」という意味のことを言っている。

商業関係の短いインタビューであるから、その話の真意は完全にはわからないが、あたしにとってうれしいのは、現今はすでに「写真家という商売はその旗を巻く時代」になっていると思っていたら、31歳の青年がその倒れかけている旗をまた押し立てたということだ。

数年前、西海岸でヘルムート ニュートンが事故死し、リチャード アベドンがテキサスで仕事中に客死した時、それを伝えるニューヨークタイムスの記事を使って、某誌に「写真家の死と写真家という表現者の終焉」を書いた。

それで、世の中そういうものだと思っていたのである。

今度の熱気球の話になぞらえていえば、一度、海洋に着水しそうになった熱気球「真面目な写真家」号は、またバーナーの火を燃え立たせて高度を上げていることになる。

今の写真界のシーンもそれほど捨てたものではないな、ということで、元旦早々から気分がよい。

石川直樹の仕事は昨年の「ニューデイメンション」が気に入って2冊買った。

石川にその2冊にサインを求めたのだが、彼はサインを黒のマーカーで書いて送ってきた。その普通感覚がすきになった。芸術志向方面の写真家だと、青鉛筆をアシスタントに持たせたりしてそれでサインをするという面倒なことをするのである。

この本のラストにある「振り返る牛」にしびれた逸話はいつか書いたのでここでは触れない。

石川の仕事が痛快なのは、それが「世界の果てで撮られているにもかかわらず、そのシーンが非常に都会的」なある感覚を画面に漂わせている点なのである。

昨年の末に出たばかりの写真集。富士山のともう一冊の写真集を石川は佃に送ってくれた。そのお礼はメールしたのだが、実はまだ封を切っていないのだ。

こういう楽しみはワインのいいのをあけるのに似ているから、すぐに開けるのはもったいない。それで部屋の一番よい場所、フィルムを装てんして廻すばかりになっている、アリフレックスSR2の脇に「飾って」ある。

Rimg0084 石川直樹とカメラの話をしてみたいのである。

「最後の冒険家」のラストには数葉のカラー写真が掲載されている。それは2004年に太平洋で着水して、NYKのコンテナ船に救助された時に、廃棄した気球のゴンドラなのである。4年半、海流を旅してそのゴンドラはブーメランのように戻ってきた。

場所はトカラ列島の悪石島。そのゴンドラの中から発見された、EOS KISSの姿写真がいい。あたしは大活躍していた当時のヨセフ ボイスの熱烈なファンであったが、この4年半漂流した「天の川2号」のゴンドラは瞥見したところ、どうもボイスのオブジエの存在を超越しているようなのだ。

発見されたEOS KISSは実にアートな物体にジャンプしている。

同時に発見された、フジクロームのカセットと現像されたフィルムのストリップがすごい。

最後の冒険家 Book 最後の冒険家

著者:石川 直樹
販売元:集英社
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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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