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2008年11月30日 (日)

阿蘭陀坂としめ鯖

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ハウステンボス見学の後、福田和也さんと長崎に遊んだ。
福田さんはしばらく前に立川談春さんの名人会で長崎に来て詳しいので、案内していただいた。福田さんは長崎通なのである。

ながらく、リスボンで市電に乗っていないので、その欲求不満はこの長崎の市電で幾分、満足した。市電が市民の足になっているのがよい。本場のリスボンでは、市電は主にドイツ人とアメリカ人と日本人のツーリストに占領されているので、それにくらべると長崎の市電はよい。
長崎は、あたしの銘機礼讃にも出てくるけど、原爆投下直後にアメリカ人の軍属として当時、23才のテイム プラウエルがその惨状を目のあたりにしている。
その人に、1980年の秋にリスボンで会ったのであるが、それ以来、長崎に来るのが夢であった。思えば、28年が経過しているわけだ。

長崎は山の迫っている土地と聞いていたが、これほどとは思わなかった。
観光通りというのがあって、その先が思案橋である。その一本裏の通りが実に感じのよい路地裏であったので、これはうなった。日本路地裏学会長崎調査は大収穫だ。

思案橋の先の商店街に「田中酒店」という間口弐間の酒屋があった。店の前に旧式自転車が停めてあり、色褪せた飯台があって、昭和初期と言っても通じるような店だ、ここで立ち飲みができたなら、どんなに良いであろうと、福田さんと話しつつその先の「吉宗」という蒸しずしと茶わんむしの店に、案内してもらった。
運動神経がよくて、気がきく下足番さんがいる。そのサービスぶりはなにかマンハッタンのウオルドルフアストリアのベルキャプテンを思わせる。こういういなせなサービス業は最近、減少しているがこういうプロにあえるのは嬉しい。

そこでしめさばで酒を呑んだ。これがよかった。しめ鯖のおかわりは、小笠原流では御法度であろうがかまうことはない。昼間からウイーンのレストランのように、普通のお酒が飲めるのは、文化程度の高い証である。

それから長崎に永住しているような、良い気分で市電に乗って阿蘭陀坂に行った。これほどの急は坂はリスボンにもない。無論、阿蘭陀は平地であるから、あるはずもない。
阿蘭陀坂ではなく、葡萄牙坂の方がしっくり来る。

時間の関係で、出島には行かず。
午後7時05分のjALで帰京。

2008年11月29日 (土)

KCチョートクカメラコラム

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★デジタルカメラ
朝日新聞のフルサイズデジ一眼の記事

土曜の朝日新聞朝刊の家庭欄に「高画質一眼レフ 値頃に」という記事がある。
てくの生活入門というシリーズであって、左からキヤノン5D、ニコンd700,ソニーα900が並んでいる。下に撮像素子の大きさが図式化されている。これで見ると、aps-Cサイズとフルサイズではかなりその大きさが異なるのがわかる。

その記事のライターさんはなかなか1500W程度の記事内容で消費者にフルサイズデジカメを伝えているもはさすがである。デジカメ専門誌とかカメラ雑誌ではその解説が、これは自分にも経験があるのだが、まずカメラのスペックをコピーしておき、それをペーストして、それぞれにポイントに「肉つけ」をして行き、「今後の展開が楽しみである」とか最後に加えれば、まずメーカーさんの喜ぶほぼ理想的なメカ記事になる。

価格がどれも30万円だいというのは、魅力的であって、周囲のカメラ人類さんとかMIXI友達さんで、ボーナスの支払いを見込んで、フルサイズデジカメを買った人がちらほら居る。
皆さん、すでにデジカメの「手だれ」であるからその高感度での撮影でも「粒子」の乱れないのに感激している。しかしその撮影用途が「友人から依頼されたライブ」の撮影というのはちょっともったいない。もっと夜の街とか夜のスナップでがんがん使ってほしい。

仕事で神戸の造船所に行った。同行のADさんはEOS20Dで、同行のクライアントさんはα100である。そのα100はヤマダ電機とかで2,9万なのである。自分も1台欲しくなった。実は仕事はα100で充分なのであるが、そうなると、誰がカメラマンであるのか分からなくなる。それで今回もニコンD700を持っていった。ニッコール14−24ミリでダイナミックな撮影ができた。

それにしてもプロ用のフルサイズデジカメの価格は安い。昨年、駒村商会も出品している国際放送機材展でソニーのデジタルムービーを見た。これは純然たるプロ用だから価格も高い。それに比較してデジタル一眼レフのフルサイズはアマチュア価格なのが有り難いような、情けないような気分だ。

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★コンタックとコンタックスは違うぞ!!

今度出る、筑摩新書はもうゲラが出かかっているから、もうすぐに発売になると思う。そのタイトルは目下、編集会議で最終決定の模様だが、びっくりするようなタイトルになるようだ。10年前の「ロシアカメラがむせぶ夜は」以来のタイトルになりそうだ。
その筑摩新書では、コンタックスとコンタックは違うのだ!ということをあたしは強調している。ライカは世界の果てまで有名になって、高校生の間だでも知られるブランドであるが、コンタックスはその知名度がいまいち、低いのである。
それは3年前にその名跡の継承者たる京セラがその名前をカメラを「粛正」してしまったせいだ。これはカメラ人類の大変な財産の損失である。

コンタックは世の中に知られていても、コンタックスは日々、我々の記憶から遠くなって行く。それで、コンタックスを忘れてはならない、というので数日前、銀座で一台のブラックコンタックスを手にいれた。価格は往年の半額に近いのは実にありがたい。しかもシャッターがちゃんと作動するし、状態もよい。

レンズはテッサー50ミリF2,8付きだが、まるで栗饅頭のような、つやつやなケースに入っている。これは優秀なレンズだ。
そのコンタックスで「レンズコスプレ」をするので、ニコンSPに付いたいた、ニッコール50ミリF1,1を付けてみたら、これはまた格好いい。
コンタックス1型には、同じ東独逸のトポゴン25ミリは巻き上げノブが当たって装着できないのは、コンタックス人類のよく知る所である。(ビオゴン21ミリはつかえる)
ところが「縁もゆかりもないニッコール50ミリF1,1」がそのままブラックコンタックスに付くのは大したものだと思う。

PARIS MON AMOUR

Rimg0449この前、yahooオークションを見ていたら、マイレージでゲットしたAFのビジネスの往復チケットが売りに出ていた。
12月16日出国。
23日帰国のNRTCDGNRTである。
これはいい、と思ったのは価格が15万なのである。
それでそのビッドの決心をした。オークションに関して自分は締め切り1秒前に入札する「その道のプロ」なのである。そのオークションはすでに1件の入札があったので、それをアウトビッドしてやろうという計画で、1秒前に入札しようとしたら、何としたことか!
PowerBookの脇のカメラジャングルで、望遠レンズ付きのカメラが手に触れてそれが転倒したのだ。
それで入札はおじゃんになってしまった。

しかし冷静に考えるに、これからもう1月しかない日本の12月をパリくんだりで、中古カメラ店巡りをしているのは、仕事の土石流を処理する自分の任務からすれば不可能は眼に見えている。

すっぱり、パリ行は中止して、ヒルズでせいぜい東京の晩秋の快晴の空と雲(ずず灰色に曇ってその先に仏蘭西青の空がちょっとだけ見える、詩人金子光晴の褒めた冬のパリの空が最高だが)と偽エッフェルタワーを撮影し、ついでに4fの青山ブックセンターで1980円で買ったパリの写真集を見て、パリ気分を満足させることにした。

「仏蘭西に行きたしと思えども仏蘭西はあまりにも遠し」

の時代が思えばやはり最高だったのであって、こうパリが大阪難波の先まで接近しているのも考えものである。この錯覚は自分にとって確かな地理感覚であって、パリにバーゲンの時に行くのが悪いのであるが、行き交う東洋人の女性は皆、関西弁でしかもセールの話ばかりがすれ違いに聞こえる。パリは恐らく大阪の西、ま神戸あたりに本当は存在するのだと思える。

さらにまずいことには、実際にモンマルトルの坂を登っていると、向こうから来た「紅衛兵」の一個師団に蹴散らされたこともある。その師団の軍旗には「HIS」とあった。
だから現実のパリを見ずして、空想のパリに遊ぶ方がパリをよく楽しめるわけで、その意味からすると、この写真集を見ている方が良い。

その逆にパリにいる人間が外国に興奮する例は「さかしま」で例の貴族さんが、思い立ってロンドンに旅立つ直前、パリの英国風バブで列車の出る時間の前にロンドン式の夕食をとって、もうそれで満足して旅行を中止するというのもある。
これなどは、達人のツーリスムであろう。見開きの左はラルフ ギブソン。右はジャンルーシーフ。

シーフは会ったことなし。でもこれはライカM4(の、ブラック)に21ミリスーパーアングロンで撮影したのは知っている。

ギブゾンは一緒に銀座を100メータほど歩いて、彼があたしのライカビットMPを買いたいと言ったことあり。無論、銀座通りで偶然に会ったのだ。このギャルソンの写真は1986とあるから、M3ではなく、M6であろう。レンズは35ミリか?

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2008年11月28日 (金)

前世紀のパリで発行されたフォカ永代売渡証書

Facture_opl 最近のカメラのコレクションで、価値のあるのは、その最初のオーナー^が支払った領収書つきのクラシックカメラである。

思えば、最近ではカメラを買っても、淀とかビックのポイントばかり気にしていて、領収書の方は完全にお留守になっている。だいたい、あのレジスターから吐き出される幅のない薄い紙ではカメラを買った証明としては、なにか頼りない。

これは1950年にフォカの製作会社OPLが発行した「カメラ売り渡り証」である。なかなか重みがあってよい。

品物はフォカスタンダードというから、35ミリレンズの固定されたやつだ。以前、このフォカをもって、パリに行った。クリニャンクールの蚤の市を撮影したのだが、実によく写った。

値段はケースも含めて17000フランとあるが、これは旧フランだから、今の時代にいくらになるのかちょっと見当がつかない。

こういうトラッドな領収書はあたしももらったことがある。70年代のウイーンで、ライカM2のブラックをウイーンのオペラの向かいのカメラ店で買った時、やはりこういうタイプで打った書類であった。

ベートーベンの住まいのある、ウイーンのライツオーストリアでも同じ書式であったが、そこはライツの赤いロゴがレターヘッドに入っているのがお洒落であった。

ライツ社時代がやはりよいのであって、今のライカ社時代はどうもね、、、。

2008年11月27日 (木)

まさか、石入ってませんよね、、、

7130a4507305b6a81fbeb0bf3efaccb3da0 ウイーンのペーターがやっているウエストリヒトのオークションがもうじきだ。いや、もう終了したか。

以前はこのオークションでよく買った(ただし安いのばかり)ものであったが、この数年の空前のユーロ独歩高で敬遠していた。

それがこの空前の円高でまたぞろ、カメラの虫が動いている。

しかし、ペーターのところもそうだが、手数料が馬鹿高いからなあ、、、。

オンラインカタログで見ると、このオークションはレベルがかなり高いことがわかる。こういうライカがそのまま未開封で出品されることが「ライカ道」から見た場合、果たして正義なのか非道なのかはさておき。こういう珍品を求めるライカコレクターがいるのもまた事実なのだ。この中にはライツが最高であった時代のウエッツラーの空気もまだこめられているのであろうか。いや、空気はもう入っていないか。

この手のライカのオリジナル包装の場合、その封印をきると価値が減ってしまう。しかしワインなら、コルクをあけたときに価値は消滅するのだけど、ライカの場合「お気に召したら写真を撮ることも可能」というのが親切である。こういう未開封箱物で、レントゲン写真の付属している売り物があったな。

東京のプロの業者さんから聞いた話。

ミントで箱入りのM6とかM7とかは、お隣の国の業者さんがどんどん買いつけに来るそうだ。嘘か本当か知らないけど、それらは「賄賂」に使われるそうである。まず4000年の歴史があるから、そういうのはなんとなく納得できる。

スイス製の偽時計など、その箱の偽物まであるので、我が偽ライカ同盟など尊敬してしまうわけだ。

なぜ、向こうで偽のM6なりの箱を生産しないのであろう?これは単純な疑問だが、なんでもロットが小さいのでご商売にはならないのだという。

その商業主義にますます感心した。

2008年11月26日 (水)

セコハンカメラ国際テロ旅団

このところ、お仏蘭西のfocaに熱を上げている。
このカメラは最近ではあまりebayに顔を出さなくなった。50年代にはアメリカにかなり輸出されたのであろうが、それもすでに数世代が経過して、売りつくされたと見るべきである。

そうなると、本家、仏蘭西の在庫を探すことになる。
先週、アテネから1台買ったが、今週はパリから一台手にいれた。これはユニバーサルRのオプラレックス50ミリf1、9付だ。すなわち、偽ライカ同盟の黒田会員のお好みの「玉」である。

実際、オプラレックス50ミリf1、9はその奥が深い。光学大国仏蘭西は、映画産業のangenieuxの方では、f0、95というような明るい玉を出しているが、仏蘭西を代表する偽ライカの方面では、その明るさがf1、9というのはこれはパリのエスプリかどうかは知らないが、或種の見識であるのは確かだ。
しかも、御手軽にこれをライカM8とか、エプソンRーD1に付けようにも、そのレンズマウントがあまりに特殊なので、装着は不可能だ。それで、オプラレックス50ミリf1、9はfocaにしか着かないということになり、デジカメは拒否して、フイルムでしかその光りを記録できないというわけだ。
これは偉い。

ものごと、すべてが便利な現代に、こういう不便はあってよい。

偽ライカ同盟の福田和也同志は、新刊「東京の流儀」(同行した長崎で、仁義と間違えて、破顔一笑)光文社刊で、かなり男を上げているが一緒に旅している間に、レンズ交換のできないライカへの固執度が極度に高まったようだ。オランダの飛び地から帰国匆々に銀座に走って4000番代のライカAをゲットしたそうだ。

その進行度合いからすると、まず福田さんは仏蘭西文学でもあるし、foca に行くのは時間の問題とみた。

このカメラはもっぱらebayで買っている。
世界じゅうにebayサイトはあるのに、日本だけは「せかいもん」とか言って、日本語環境で入札して中間で会社がマージンをとるのはビジネスとしては立派だけど、日本語環境はもともと、ebayには向かない。

最近では、アメリカでfocaを買い尽したので、もっぱら仏蘭西のebayでビッドしている。さらにスイスのebayからドイツのebay,さらに、イタリア、英国、スエーデン方面のebayを荒らしに行くので、まずセコハンカメラ国際テロ旅団というところであるが、まだこういう行為は規制の対象にはなっていないようである。

これが本場、お仏蘭西からゲットしたfoca である。価格は200ユーロ。以前だったら200ユーロは大金だ。ウイーンの宮殿ホテルシュワルツエンベルクに一泊できる。

円高になったので、これは「我が円高還元セール」のつもり。つまり「我がフォカ闘争」だ。A007_1

2008年11月25日 (火)

AMSのパノラマ

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アムステルダムには、パノラマカメラがよく似合う。
風景の横の広がりが画面構成のキーになるからだ。
一方、ニューアムステルダムである、マンハッタンの方は、同じカメラを縦位置で撮影する必要がある。ソ連製のパノラマカメラ、ホリゾントでアムステルダムを撮影したのは1977年であった。この時はほとんど横位置の撮影だった。
その5年後にマンハッタンに行った時には、ほとんど縦位置で撮影した。

パノラマ写真の「始祖」にはプラハのスデクがいる。彼の「格闘」した町は言うまでもなく、プラハであるから、その作品は圧倒的に横位置画面だ。
東京の光景は縦か横かと議論の分かれるところだが、自分はコンポラの残党だから、東京は横位置の撮影がただしと思っていた。

それをくつがえしたのは、我が偽ライカ同盟会長の片岡義男さんだ。
「東京縦画面」という名作が片岡さんにはある。これはパノラマカメラではなく、ペンタックスに55ミリの一本勝負だ。

スデクのパノラマカメラは1899年製のコダックであるが、その遺髪をついたのが、偽ライカ同盟の土浦の酒井さんであって、彼は地元、土浦界隈を延々と100年以上前のコダックで撮影している。
その中には縦位置の作品もあって、それがプラハを撮影したスデクの縦画面にそっくりなのだ。
パノラマカメラには不思議な魅力がある。
それは写真家の「美意識」などは鼻で笑って、写真の光学的な要素をカメラが全面に出してくる点だ。
だから、本当にカメラが好きで、カメラの紡ぐ写真の妙味が分からないと使えない。これはカメラ人類の楽しみではあるが、同時に「写真表現」などという観念とは正反対の存在なのである。

MoMAの写真部長、シャカフフキー氏を70年代、ウイーンで案内したとき、あたしの撮影したウイーンのパノラマ写真を見せたら、その反応は「これじゃ、つまんないから、撮影中にカメラを動かして画像をデフォルメしてみたらどう?」と言われた。ジョンは世界的な写真評論家ではあったが、写真とカメラで楽しむというカメラ人類の楽しみの根幹にある部分は、なかなか理解できなかったようである。まあ、当然であってそんな些細なことに共感していたら、仕事にならない。

パノラマ写真は通常の「写真芸術」とは対岸にあるから、その意味でなかなか怖い存在だ。
ワイドラックスの創始者に、1981年にロングインタビューしたとき、最初のパノラマカメラ、ワイドラックスの製作の目的は戦前の「中ソ国境」の撮影で、ライカでは狭いので、全部が写るように、パノラマカメラを製作したとのことだった。それは諜報軍事目的なのであるが、その国境のパノラマ写真は案外に、アートしていたのではないか。

365度の全周回パノラマカメラ、アルパロトを買ったのは10年前だ。2台も買ったのである。それを持って、ラサに行こうと思っていたのだが、これはまだ実行されていない。その試験で、野の宮ジャガー(当時の)と、彼の出身地の茨城の竜ヶ崎とか、界隈を徘徊して、テスト撮影をしたことがある。

おっと、このパノラマはローライのピンクパンサーの9:16のパノラマモードで、AMSを撮影したものだ。この方が一般的な分かりやすいパノラマ写真である。

2008年11月24日 (月)

インターネットがない環境

13bf416667061d09a87762f0de0fdadc ハウステンボスでは、ホテルヨーロッパに泊まった。ここはwifiもなければ、ランケーブルも室内にはない。

それで、最初は不便であるなあ、と思ったのだけどその考えは間違っていると考えなおした。リゾート型のホテルに行って、通信環境が同じであったら、それはリゾートにはならない。リゾート先のホテルのデスクの上がオフィスのデスクなわけで、これは無粋きわまる。

それゆえに、この通信環境の遅れはそうではなく、逆に進化しているのだと理解するのが正しい。せっかく、オランダ界隈にきて、日本の雑多な通信がじゃんじゃん入って来てはたまらない。

ハウステンボスのホテルヨーロッパでもLANケーブルがあって使えるパブリックな部屋を最初に教えてもらったのであるが、それはわざと使わないようにしようと、滞在中に決意したのである。同行の福田同士は「そんな流暢なことを言っていられる環境」にはないので、ちゃんと、原稿を何本か送っていた。それはそれでえらいと思う。

あたしの場合、そのために、日記の更新がちょっと遅れたのであるが、それはそれで仕方のないことだと考えている。

思えば、インターネットのない環境など、以前はそれが普通であった。

その前にはファックスがあり、さらにその前にはテレックスがあった。テレックスはなかなかにプロフェッショナルな感覚のマシンであって、専門のオペレータさんがいたりする。

1980年代にアメリカからカメラ雑誌のボスが来た時などは、あれは何というのか、文書の幅の狭い、旅行用のタイプがあって、京都の俵屋さんの庭を見晴らす広い座敷きで、そのタイプでケプラーさんは仕事していた。かの、アーニー パイルは沖縄で「戦死」したが、やはり現場でタイプだったのだろうか、と考えた。それを東京のエージエントから、ニューヨークにテレックスで送信していた。

まさに国際通信というプロの感覚があった。

電送写真についてもそうである。ともかくノイズが多いので、受け手の方は電送写真はどの部分が画像で、どの部分がホワイトノイズであるかを、経験から判断する必要があった。見るほうが知的訓練を要求されるのである。

小学生の時代に見た、ソ連のロケットの撮影した「月の裏側」などはそうだった。その月の裏側が新聞の号外全紙の大きさに印刷されて、小学校帰りの通学路の魚屋の店先に掲示されたときの驚きは今でも忘れない。これは魚屋さんの大将の好意だったのだろうか。

普段は帰りに「あんこうの吊るし切り」を見ていたお店なのである。

そのように通信手段は進化して行くものである。

2008年11月23日 (日)

ボジョレヌーボー

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ボジョレヌーボーが何時、日本に「伝来」したのかはよく知らない。
ただ、下のスーパーなどでそれ用に売られるボトルを買って、「値段は高いのにまずい」と失望した記憶はある。
それで数年来、ボジョレヌーボーとは縁がなかった。

ハウステンボスで11月19日の夕刻に、同行の福田さんがホテルヨーロッパのメインバーのバーテンダーさんとなにやら立話ししている。
きけば、明日、20日がボジョレヌーボーの解禁日であるという。

それで、深夜0時を期して、メーンバーに集合して、その解禁にあずかった。
これはなかなかの「良い若いワイン」だった。

あたしの知っている、新酒はウイーンのホイリゲで呑ませる、新酒である。日本の「さかばやし」めいた、常緑の葉がウイーン郊外の酒屋に掲げられると、新酒気分は横溢する。
思えば、ウイーンでは新酒の解禁という認識はなくて、普通に呑んでいたが、思えばあれが「ホイリゲ ヌーボー」の解禁であったわけだ。

ハウステンボスでの今回の大収穫は、それゆえ、サンタクロースさんとの遭遇と、本件である。
それが同じ、11月20日に起こったというのもすごい。

「オランダ」から戻ってまだ2日なので、まだ「時差」から抜けだせないでいる。
それで深夜の3時にこうしているのだ。

2008年11月22日 (土)

Off Dutyのサンタクロースにインタビュー

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ハウステンボスのオランダの染色体は本物である。運河を歩行していて、傾いた建物などもあって、実はこの「かしいだ建物」というのがアムステルダムをもっともオランダらしく感じる瞬間なのだけど、ハウステンボスでも赤れんがの建物がちゃんと傾いているので「安心」したのである。ただ、贅沢を言わせてもらえばその傾きがちょっと足りないので、もう「一傾き」(ひとかたむき)してもらいたかった。
まあ、傾いた建物が見られるだけで、有り難いと言うべきであろう。

オランダはオールドデルフトのレンズをアルパに付けて持参して、それで撮影したのは良いが、本場のオランダは今の時期は曇りの暗い日が多い。1月には気温はマイナス10度にもなる。
極東のオランダは日本晴れの良い天気である。それは観光地としては最上の条件で、修学旅行のバスが沢山来ていたが、この時期のオランダの光りはやはり「レンブランド風」でなければならない。
オランダなのだけど、気候と光りはまるで南イタリアのようなのが、これがハウステンボスの売りであると理解することも可能だ。

ハウステンボスのグランカフェで福田同志と呑んでいた。ここは酒の在庫が非常に幅広く、ワインからリキュールから、麦酒から焼酎まで、お望みのままなのである。
福田同志はポートワインのなんとか言うのを発見して御機嫌であった。

その脇のカウンターに「本物のサンタクロース」が登場したのである。サンタクロースはやはりここではオランダ人でないといけない。そのお名前をテオ ファンダイクさんというのも、いかにも降誕祭に相応しい。いえ、大工と<ダイクの洒落のつもりなのである。

あたしはウイーンが長いので、カソリックの風下にいたから、サンタクロースではなく、セントニコラウスなのである。本物のサンタクロースさんはオランダだからエヴァンゲリッシュなわけである。
これから1月の12日まで、サンタクロースさんは大忙しになるという。

あたしもサンタクロースみたいと言われるが、まだまだ修行が足りないのを痛感した。撮影は福田和也同志。

2008年11月21日 (金)

アムステルダムの五月の朝

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KLMでスキポールにアプローチするとき、長い砂州が見えてそれからヨットハーバーが見える。
長崎空港へのアプローチはあれは諫早湾であろうか、砂州では無いが平たんな海岸線が見えるから、そこだけ見ればスキポールへの着陸のようにも思える。
しかし、その後、飛行機が周回すると周囲は緑の濃い山岳である。それで、まるでナポリかパレルモに着陸するような錯覚がもたらされた。

飛行機が30分程長崎空港に延着したので、ハウステンボス行きの汽船は出た後だった。それでバスで向ったのであるが、何しろ、61歳の人生でこれが三度目の九州なのである。一度めは1970年に鹿児島。二回目は1986年の博多。今回が参度目の正直の長崎というわけだ。一方、オランダには30回ではきかないほどの渡航歴があるから、オランダ=ハウステンボスという関係よりも、その前に極東の長崎の郊外の夕暮れの光景をバスから見るという点に、エキゾチックな魅力とノスタルジーを感じてしまった。

その「極東の謎の夕暮れ」がバスの車窓に1時間弱現われて、それからアムステルダムかどこか分からないが、お馴染みのオランダ環境の中に投げ込まれたという感じがした。それでオランダに戻ってほっとしたのである。
この不思議な体験を分析するに、オランダよりも長崎の方が自分には経験が乏しいという単純な時間の差ということになりそうだ。

これなどは、典型的なオランダの風景に見えるのだが、それよりも自分にとって不思議なのは、11月20日という今日の日にちでは、もう本国は真冬である。
それがこの光景はアムステルダムの郊外の五月の朝という感じがするのだ。それは快晴でしかも気温が13度ほどであって、そのような明るい澄んだ光りがよく見られるのである。

時差がないので、なにかオーストラリアあたりに居るような気分でもある。

「周囲を極東に包囲されたオランダ」
このトリックが自分の感じたハウステンボスの面白さなのだが、これをなかなか説明して納得してもらうのは困難なことではある。

2008年11月20日 (木)

ナガサキからokowaが来る、アテネからfocaがくる

8960_1「長崎からおこわがくるよ」

これは戦前の誰かの文豪の文章でよく記憶しているフレーズである。

ようするに、ありもしないこと。

というような意味合いであるらしい。このごろでは、世界中から各種の物品が到来するのはいまさらのことだが、それが普通になってしまって、あらためて、家で食っている食品の生産地を見ると章魚がモロッコ。マツタケもモロッコだったりする。

いまどき、「おこわ」が長崎から届いても誰も驚かない。

大体、1年半周期で、お仏蘭西のライカコピー機、フォカにやられるのである。今年の秋がそれである。前回はそういえば、昨年の春にフォカは猛威を振るった。

戦後に登場して、1960年代までかなりの生産台数があり、仏蘭西海軍などではこれを公式カメラに制定していたのに、仏蘭西の写真家は、ブレッソンもシーフも使っていたわけではない。みな、ライカを使っていたのだ。

フランス人なら、フリッツにパリを占領されたうらみを忘れたのか?と、聞きたいのだけど、それなりのライカを使う理由があったと見える。

フォカは忘れもしない、1980年10月にリスボンで最初のツースターを買ったのが、このカメラとの出会いであった。そのときに撮影した、リスボンの急な坂を上って行く黄色い市電のカットはモノクロのトライxでの撮影だが、あたしに普通の4枚だまの50ミリの魅力を教えてくれることにもなった。

だからすでにフォカに馴染んで30年に近い。このモデルはユニバーサルRというのであって、レバー式の巻上げがついている。もともと、フォカの魅力はその「巻き上げノブがそのままにシャッターダイヤルになっている」という点にあるのだ。

それはこのモデルのひとつ前の、フォカユニバーサルまでである。だから、このモデルはフォカ精神を逸脱した異端児ともいえる。

バヨネットマウントで迅速に28ミリから135ミリまでのレンズ交換が可能だが、これは複雑怪奇な格好のバヨネットマウントであって、フランス人の頭のよさと世界に喧伝してやろうというような、嫌味なマウントだ。

偽ライカ同盟の同盟員黒田慶樹さんが、興味を持ったのは、その中の高速なレンズ、オプラレックス50ミリf19であった。なかなかのよい趣味であって、巷間、ズミクロン8枚玉がすべてなどと言っているレンズグルメとは段が異なる。黒田さんと「オプラレックス愛好会」を結成したのであった。

筑摩新書の原稿を脱稿したので、何か精神的な活力材がほしいと思っていた矢先、 ebayに出ていたのをbuy it nowで買った。

このセラーはギリシャのアテネなのだ。数年前にアテネに行って、毎日、パルテノン神殿見をてすごした。目の前がパルテノン神殿であるから、パルテノン神殿のほかに見るものがないというような、ホテルに暮らした。そのホテルの名前ホテルパルテノン。

アテネからフォカが届くというのは、その語呂が長崎からおこわが届くのとなんとなく、音が似ているのが、気に入っているのである。

2008年11月19日 (水)

ハネダナガサキSNA37便

Dsci0019 19日。水曜。
快晴の東京。これより長崎に向かう。
長崎は今日は雨のようである。

ハウステンボスに2泊3日の見学会である。
同行者は福田和也さん。
ハウステンボスは前から見たいと思っていた場所である。
阿蘭陀にはよく行くのに、ハウステンボスは知らないのは前から、自分の「不条理」であると思っていた。

しかも今回はその後にナガサキもちょっと見学することが出来る。本当はハウステンボスの見学の後に、ナガサキに延泊しようかと思ったが、考えてみたら金曜に東京に戻らないと土曜には仕事がある。

それにしても、阿蘭陀の光とナガサキの光の共通点を見つけるのが、今回の目的である。
フェルメール的な光と影が見えたら、それこそ大収穫。阿蘭陀の光を捕獲するために、ちゃんとアルパレフレックス(1947年製)も持った。それには阿蘭陀製のオールドデルフト50ミリが付いている。

Dsci0018 羽田のラウンジで最後の最後に残った、筑摩新書の新刊(まだタイトル未定)のまえがきを書いているのである。
大体前書きは最初に書くものではないようだが、一番の最後の最後というのもなにか変である。(あとがきの代打はすでに書いた)

今、居るのはHNDのターミナル2のカード会社の4Fのラウンジだ。
なかなか良く出来ているので、ヒルズより快適なくらいだ。まず、CDGのFクラスのラウンジよりよく出来ているのは確かだ。2002年であったか、そのCDGのラウンジで仕事していたら、いきなり兵士が来て「爆弾のアラートが発されたから、移動しろ!」という。

デスクの上にPCやら資料やらを広げていたので困った。まさか移動しないわけには行かない。その兵士はあたしの荷物をまとめるのを手伝ってくれた。兵隊さんになにかサポートしてもらったのはその時が前後一回きりなので、今でも良く思い出す。
国内旅行をするたびに、ここで仕事をすると能率が上がりそうだ。

空港内で、アサヒカメラデスクの某さんにばったり遭遇。空港でばったりというのは自分の場合、よくあることだがCDGとかFRAとがが多い。「空港でばったり王」というわけであるが、NHDでばったりというのは珍しいと思った。これは単純な理由で、国内旅行をあまりしないせいであろう。

ギブン岩佐さんのパノラックスを読み解く

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東京カメラクラブの田村代表が、若い当時、米軍基地を撮影するので、両国の優美堂のレンタル部から当時は実に高価だった、ノボフレックス640ミリを借りてそれで基地のファントムなどを撮影したのである。
優美堂の名前を知ったのはそれが最初だ。
あたしは銀座のライクからハッセルなどの機材を借りていた。これは無論、自分が借りたのではなく、勤務していたNDCの写真部が借りたのである。
レンタル機材に御世話になった70年代初頭のことだが、銀座は地元だから歩行してゆけるけど、優美堂は両国でちょっと遠いので、そこに借りに行かなかったのは、今にして思うと残念だ。

優美堂は知らなかったが、ギブン岩佐さんのお名前は知っていた。日本の広告写真の草分けの方であって、コマーシャルフォトなどで、その作品とか技術のテキストを見る機会も多かった。

毎月、第四土曜に開催されている、四ッ谷は荒木町のアローカメラの集まりには、多種多様な皆さんが来るが、その共通コードは「高度なカメラ人類」なのである。
その中に大柄なちょっと少年みたいな感じの紳士が居て、この人は某製薬会社の偉い人なのであるが、何度かお目にかかって、その紳士がアローカメラで購入したカメラが、例えば、フランス製のfocaの35ミリレンズ付きであったりするので、これはなかなかできるな、と感心していた。

ある時、その紳士と話しをしたら、叔父が写真家でして、、、ということになり、いただいた名刺には、岩佐とあったので、「あ、ギブン岩佐さんの甥ごさんですか」と全体像がすぐに判明したのである。


それから数カ月後のシドニーにくだんの岩佐さんが見えて、重そうな革ケースを携えている。
「優美レンタルで貸し出していた全周パノラマカメラですが、、、」というので、拝見したら、超珍品のパノラックスであった。
その珍品を御好意でしばらく拝借しているのである。自分はパノラマカメラはワイドラックスから、ホリゾント、アルパロトから、グロバスコープまで使っているが、このパノラックスは手にするのははじめてだ。

使用説明書が付いているが、大昔のコピーなので、全部、色が抜けてそのままでは文字も読めない。
作業はまず、説明書をデジカメで撮影して、それをフォトショップでコントラストをあげることから始まった。

それにしてもこのカメラは実に美しい形態をしている。
研究して実際にフイルムを通して撮影するつもりだ。

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2008年11月18日 (火)

沖の稲妻

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寝室のベッドの横に「古書の土石流」がある。
この五年の間に堆積したもので、まず人災であるが、軽々しく片付けるわけにはゆかない。というのはその本の地層が大事なのであって、深い地層を創作すると数年前の読み癖のついていた本が出土し、上の方は最近になって好きな本が存在するわけだから、そこには考古学的秩序が存在する。

それとは別に、これはやや大事な初版本などは、本の背をこっちに見せて積んである。
その中に「沖の稲妻」があるのは数年前から分かっていた。それは内田百鬼園の本であるのは言うまでもないが、今年の7月に出した「チョートク 海をゆく」は横浜の氷川丸のリニューアルを扱った、分厚い1000頁本であるが、その中に内田百鬼園の事暦を書いたので、手もとの参考資料を探したり、また日本郵船と同歴史博物館から貴重な資料を提供してもらったりした。

それで仕事は順調に進んで、その1000頁本が世に出た。
毎日、就寝時と起床時にはこの「沖の稲妻」の本の背を見ているわけだが、そこに資料として氷川丸の話しがあるのではないか、ということを想像もしなかったのは、あたしの落ち度である。

先週のこと、この昭和17年11月20日発行で、刷り数は9000部の本の背が乾燥して、そのタイトルが剥離していることに気が付いた。別に修理するつもりなどないが、バラバラになりかかったその本を手にして、氷川丸関連の事跡が書かれてあるので、しまった! と思った。

もともと「沖の稲妻」は昭和16年夏、7月15日に氷川丸で洋上対談をするので、それに乗船した文化人座談会の司会を内田百鬼園がしたという事実があるのだが、その座談会の話しはまったく出ていなくて、本船は悪天候でかなりの時化で、そこで紫のブリッツを見たという話しなのだ。

もう一遍の「氷川丸座談会覚え書き」は、その前の洋上座談会が開催されるまでの、日本郵船の内田嘱託の社内での業務日記である。その他、「波のうねうね」も氷川丸のことが出ていてこれも面白い。
なんでも逓信省の肝煎りで、17年7月20日を「海の記念日」とするので、横浜神戸間で座談会を開催したいというのは朝日新聞からのリクエストであった。
あたしは、1970年だから、昭和45年に海の記念日関連の写真集の仕事をしたことがある。
だから、一回目の海の記念日と28回目の海の記念日がそこで一本の時間軸になったのを面白く思った。

この海の記念日の航海はは大変な時化であったが、大阪湾上で、海と船にゆかりの「住吉神社」にお賽銭や願文を樽に封じて海に流している。
あたしの住処の側にその「支店」の住吉さまがあるのも愉快だ。

2008年11月17日 (月)

共産党宣言

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共産党宣言を読んだのは、高校生の頃だ。そういう「政治的」であることが一種の流行になっていたのである。内容はさっぱり分らなかった。もともと前世紀の60年代の極東のテインエージャーがすらすら理解しては、元著者に失礼というものである。

共産党宣言は分らなかったが、70年代にベルリンの壁のそばを両側(西と東から)散歩したり、モスクワのグム百貨店で買い物したり、まあ共産主義はこういうものかと思った。
1982年に自力更生の中国に行って、自分が見た「東独逸」の空気とはかなり異なっているように見えたのもおもしろかった。

しばらくして、モスクワから赤旗が降りて、ベルリンの壁が崩壊した。
あたしなどは、西と東の対立は向こう、300年は続くと思っていたので、実に吃驚した。
それかがすでに二昔になろうとしている。

出版社アルファベータの新刊広告に「共産党宣言」の復刻の広告が出ている。
http://www.alphabeta-cj.co.jp/shin_kin/index.html
以前、この会社から「カメラジャーナル」というのを出していた。各種カメラ本も沢山出した。それが大手書店の棚を占拠して、「チョートク本」という名称が生まれた。
この本は半世紀前にαβの先々代が出版した。それが今回、復刻になった。

世の中、「蟹工船」が若者に売れていて、それが映画化されるような「けしからん時代」になったので、唖然としていた矢先のことだ。その意味で共産党宣言の復刻は「思想」が正しいと思う。

今日のあたしがカメラエッセイでなんとか食いつないでいられるのは、実にαβの中川右介氏のおかげである。ありがたいことだ。
大杉栄の獄中記が好きなのは、別に大杉にぞっこんなのではなく、野枝の前の旦那が辻潤で、その親友がむさうあんであるだけの理由である。

大杉は獄中で独房の前を連行されてゆく、幸徳秋水に声をかけている「おい、幸徳、おい!秋水!」
でも、秋水はちょっと耳が遠いので気がつかなかったとある。

2008年11月16日 (日)

形態的工学

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ヒルズから所用で家人に電話。
「けいたいてきこうがく」という立派な本が2冊、えい出版から届いているという。
それで頭をひねった。
えい出版なら、清水編集長である。この人の造る、カメラ本や文具、万年筆本はよく売れるのである。
「けいたいてきこうがく」
ははあ、携帯的好学で、ケータイの豪華本かと思った。あるいは携帯的光学。

帰宅してその著者の名前を見て、いきなり70年代が沸き上がってきた。この一連のシリーズは、70年代のアサヒカメラに掲載の銀一cocoの1頁広告なのである。
1973ー80年までの7年半にウイーンで暮らしていて、その間、何年、この広告があったのか記憶にないけど、毎月のアサヒカメラが楽しみだった。

70年代にこの写真に感心したのは、当時、ニコンの広告の仕事をしていたから、カタログ写真ではこんなにドラマチックな光線はあてることができない。
カタログではごくごく、普通のぬめっとした分かり易いライテイングなのである。だから、これはカメラの姿を撮って、それが表現に突き抜けているので、凄いと思った。

それで70年代の人気カメラの列伝という感じがする。
ハッセル、リンホフ、ライカなどなど、これはもう金属人類学の考古学的な出土品で、ある。
さらにすごいのは、これらのカメラは(ダゲレオタイプを除いて)すべて、現在でもフイルムを入れて
撮影が可能な点にある。

ここにあるカメラは、現在のデジカメが欠落している、カメラの美学の上に立っている。そこが良い。
有名人タレントさんをデジカメの広告に起用というのは、やはり一時しのぎの広告という感がするのが、無惨だ。
まあ、70年代の銘機と今のデジカメでは「無差別級」でその美学を比較するのは土台、無理な話だ。

「形態的工学」では70年代の発表当時のオリジナルのテキストが採録されているようだ。
こまかいことだが、事実誤認とか年代の間違いがある。
それが本書のマイナスにならないのは無論のことだが、あまりに白のスペースに、文字が短いとまるで、ミシュラン日本語判の東京レストラン案内みたいで、ちょっと「変」だ。

それよりも「変」なのはこの本に掲載のカメラのほとんどを所持し、あるいは所持していた自分の物欲のほうが遥かに恐ろしい。


2008年11月15日 (土)

レニングラードから愛をこめて

9月には、ひさしぶりのロシアだった。レニングラード(サンクトペテルブルク)と、モスクワに行ったのである。

レニングラードという1950年代に当時、ソ連で一般市民の買える一番高価な可Mらはレニングラードであった。モロッコ革の内ばりの革ケースに入った立派な写真機だった。

このカメラはそのレニングラードのプロトタイプである。

プロトタイプと言っても、かなり市販モデルとはことなっている。強いて言えばそのロゴが同じというくらいだ。

このカメラはウイーン工科大学のムラデック博士のコレクションだ。撮影したデータを見たら、1999年7月とあった。ムラデックさんのウイーン郊外のご自宅で撮影させてもらった。

このカメラの作りは実に良い。ソ連製のカメラはその一番最初のモデルが最高の工作精度で作られ、後のモデルはその質が低下してくるという「特徴」がある。

この事実は別にソ連のカメラだけは当てはまらないであろう。

こういう仕上げの良いカメラを見ていると、50年代という時代の意味がだんだんに分ってくる。

市販のレニングラードとはかなりその仕様はことなる。市販品はスプリングモーターが入っているが、本機は手巻きである。市販品はライカマウントであるが、本機は特殊バヨネットだ。市販品はジュピター8/50ミリF1、5だが、本機はジュピター3/50ミリF1、5である。

下は「市販品」のレニングラード。箱にはネバ川とペトロハバロフスク要塞のスカイライン。ここでレニングラードで撮影すれば最高の効果ということか。

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2008年11月14日 (金)

ピンクローライで、夕景を撮る

Dsci0265 Dsci0263_2 リクエストのあった、ローライda8535 prego の「実写テスト」
がこれである。
サイズは2M。感度はオートでISO50
ヒルズの49から撮影。

「ピンクローライ」は偽ライカ同盟坂崎同盟員も、本日から使用開始とのメールあり。


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Performanceのアヴェドンとローライ

リチャード アヴェドンは最近なくなったのだと思っていたら、すでにまる4年が経過しているのである。

51rqwv4nbol__ss400_ この前、モスクワに行ったとき、アヴェドン似のおじさんをよく見ることがあった。彼はそっち方面の二世だから別段に不思議はない。どうもソ連とアメリカが人種的に類似しているのは、そういう背景があるのを面白く感じた。

1980年代に東京で出会った、タス通信社の特派員から「今日のソ連邦」をもらったりしたが、ほとんど米語のネーテイブスピーカーである、ロシア人はそのままマンハッタンを歩行していても、アメリカ人になりうる。

アヴェドンと言えば、あれは90年代の初めに、ケルンのルードビッヒミュージアムでの回顧展を忘れられない。

8x10の使い手というので、日本でもアヴェドンに感染した若い衆がデイアドルフを事務所の神棚の位置に鎮座させたりしているが、あたしから見れば、アヴェドンはやはりローライフレックスの使い手である。

ルードビッヒミュージアムでの巨大プリントでご本人が登場しているカットがあって、あたしが興味を魅かれたのは、そのスタジオ用のローライフレックスなのである。当然ながら、そこにストラップはついていない。

これがもう一人のローライの使い手、ウオーカー・エヴァンスなら、彼はフィールドワーカーであるから、そのカメラは必ず、ストラップ付きなのである。

アマゾンで、このブログの書き込みで知った「キャパになれなかったカメラマン」が面白そうなので、アマゾンで上下を注文した。

思うに、アマゾンのデータベースは親切すぎる。4年前のアヴェドンの死のときに、(彼がテキサスのサンアントニオでなくなったのは、象徴的だ。悪魔の辞典のアンブローズ・ビアスがこの方面から失踪しているのである)あわてて、手元にないアヴェドンの写真集をアマゾンに注文した。その時のデータがまだ残っているらしく、オンラインの「おすすめ商品」で。他の最近になって出た写真集の存在を知った。

この「Performance」という写真集で見るアヴェドンとローライフレックス(2,8fか?)は、あたしのケルンで見たアヴェドンのそれよりも、ずっと後のショットである。ケルンのそれは、もっと旧型(モデルMXのようだ)であったからだ。

こういう写真家のかっこいいポートレートを見ると、「ローライの血が騒ぐ」のである。

目下、筑摩書房の新書が脱稿したので、また、えい出版の「ローライフレックスワークショップ」の執筆の残りにパワーをあげているのである。

2008年11月13日 (木)

晴れたらライカ 雨ならデジカメ

Rimg1048 岩波書店から昨年の6月1日、写真の日に出した「晴れたらライカ 雨ならデジカメ」が重版になった。
これは嬉しい。
総計4刷であって、地味ながら着実に売れている。
1年半前に自分が何を考えていたのかを、ぱらぱらめくってみて、痛感したのは、今の時代に有効な映像とのたわむれ方の方向が、この本をはじめにして規定された点だ。
その後、2008年の3月に「カメラは知的な遊びなのだ」(アスキー新書)が出て、そこではさらにはっきりと「ライカとデジカメの二頭立て」に言及している。
その後、今、ほとんど脱稿状態になっている、筑摩新書のカメラ本(これはまだタイトル未定で第一章が「あなたのカメラはブランド品ですか?」というのであるが、その新刊は今までなかったちょっと辛い、カメラブランド論になる予定だ。

「晴れたらライカ 雨ならデジカメ」の見本が到着したので、ライカM2と表紙を並べて撮影した。
撮影したのはコンパクトカメラのリコーR10である。
GRDは作品撮影には好適だけど、なにしろ、日常使いのデジカメではズームが付いていないと、不便だ。

それであたしは、R10を愛用。

グレーのM2の表紙の中の方のは、近接ズミクロン50ミリである。その脇のライカM2の方には、スーパー暗愚論(この変換ミスはいいねえ)21ミリf3、4。

このレンズを付けるとなにか「命が伸びる」ような気分だ。

2008年11月12日 (水)

遍路の荷探し 

築地場内市場で買った、市場かごはすでに10か月ほど使っているので、良い色合いになった。ヒルズの受付などで、褒めてくれるのはお世辞にしても嬉しい次第である。

アメックスの誕生日プレゼントは「奇妙な物品」を送ってくるので、世に有名であるが、このタグなどはその最右翼である。

でも竹製の市場かごにタグを付けると、なかなか戦闘的になる。例の東京散策で、福田和也さんとご一緒した時も「おせじはんぶん」で褒めていただいた。

この籠が便利なのは、飛行機のパイロットバッグと同じで、驚くほどの物品が入ることにある。しかも開口部が広いので、取り出しがしやすい。狭い機内にきっちり収まる。

問題は、小さな物をいったんこの中に入れると、発見が困難である点だ。荷物を引っ掻き回して、なかなか目的物に到達できないのを「遍路の荷探し」というらしい。これは百鬼園が、二畳の小屋に居住して居たときの日記(東京焼尽)で見つけた言葉だ。
常時携帯している、ミノックスなどはこの中に投入したら、もう発見できない。だからそれはGパンの前のポケットに入っている。

一方で、R10はこの籠に入れて移動する時もあるが、撮影の必要で探しても発見できないことがある。

それで、このGR用の皮ケースを流用することにした。これを籠の口に付けておくと、中に落ちることはない。GRD用のケースは「その豪華な作りが唯一の欠点」と言えるケースである。今まではBOSSのサングラスのケースにしていたのが(サングラスのケースを紛失したので)今度は、本来の使い道に戻ったというわけだ。

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2008年11月11日 (火)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラRimg1086
「ピンクパンサーと
ピンクローライ」

ひさしぶりに本ブログのスポンサーである、駒村商会に出かけ、駒村さんと新田さんと歓談。
ローライの新デジカメのテスト機を受け取る。
これはなかなかの性能のカメラである。
デジカメの性能を見るに、自分のやり方は、通りの向かいの建物を撮影する時に、手前を通過する車がいかによけられるかにある。遅いデジカメだと、タイムラグがあって必ず画面に車が入ってしまう。

その点、まず、ローライプレーゴ8535は合格だ。そのまま、人形町からヒルズに戻ろうとしたのだが、テスト撮影をしたくなって、千住方面を徘徊。撮影カット251枚。
ところで、偽ライカ同盟設立会員の坂崎幸之助さんから一昨日、久々にメールがあり、パナソニックのG1はどうですか。という質問だった。自分はTVは見ないので、「一眼あそばせ」を知らなかったのである。
それで、早速、有楽町のビックカメラに現物調査に行った。G1はなかなかだったが、その話は他日に書く。
G1の気に入ったのは、赤いボデイのモデルであって、それなら欲しいと思った。それで翌日に、駒村商会でもっといかした色合いのメタリックなピンクのデジカメを受け取ったのである。

カートンのピンクパンサーは自分がウイーンに滞在中も人気番組だった。ただしうちのウイーンのTVは最後までモノクロTVセットだった。ワールドカップもユーゴのチトー大統領の葬儀もモノクロで見たのだ。ゆえにモノクロのピンクパンサーのTV画面を、「これは本当はピンクなのだ」と思いつつ見ていた。
このローライのコンパクトデジカメは、自分には「ピンクパンサー色」なのである。その価格は1万5千円を切るのが凄い。これは市場に出たばかり。11月10日の発売。

ピンクパンサーと言えば、プラハのビロード革命後に、その前の時代にソ連がプラハを「開放」したというので、その記念のソ連の戦車が長く、モルダウ川の右岸にモニュメントとして居座っていた。それがビロード革命以降には、ピンクに塗られたのである。ピンクのパンサーというのはなかなか優雅である。

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★銀塩(クラシック)カメラDsci0249           これはその名前をFILM WITH LENS というのである。その型番はSIMPLE ACEとある。

大昔、月刊雑誌でまだ8頁だての当時のカメラジャーナルで、レンズ付きフィルムのことを取り上げたことがあって、それがなかなかの映りなのっで感心した。

それ以来、あたしのこの手のカメラに関しての感想は良いのである。メーカーさんはフィルムにレンズが付いているのだと言い張るのであろうが、あたしの眼から見るとやはり、カメラの中にフィルムが装填されているように見える。まあ、見解の相違か。

使い捨てカメラが禁句になって、リサイクルカメラと言い直すようになったようだが、このクラスのカメラの歴史はデジカメよりもずっと古い。

こういうカメラは実にその存在が戦闘的であってかっこいい。その理由はカメラを愛でるという「女々しい文人趣味」はそこに皆無であるからだ。

昨年の今頃だったか、文芸誌en-taxiの最初の取材で、田端駅の南口にメンバーが集合した時、福田和也さんはライカM2のブラックで、田中陽子編集長はコニカヘキサーで、それぞれに「カメラ文人趣味」であったのが、石丸元章さんは、このクラスのカメラを3台持参した。それで界隈を撮影したのだが、石丸さんは瞬く間にその3台のレンズ付きフィルムを撮りきってしまったのだ。

これは江戸火消しの粋につながるとは、論理が飛躍のし過ぎだけど、石丸さんは元に雑司ヶ谷の消防団のメンバーなのだ。今頃は酉の市の警備にて、どっかに詰めているのであろうが、彼の消防団の制服のポケットにはこういうカメラが入っている気がする。

ATOK12

先週は3日間、佃に自主トレにてみっちり原稿書きをした。しかし、佃にあるのは、10年おちのPowerBookで、これはまだシステムは9-2-2なのだ。それでも数台ある中のボロPowerBookの中では、不思議に一度もHDがクラッシュしていない。変にシステムを入れ替えたりすると、変なことになるのはいやなのでそのままそっと使っている。
ことえり、は馬鹿なのでなるべく使わないようにしているのであるが、なにしろ、10年のおつきあいなので、あたしの馬鹿な変換癖を覚えていて実に便利だ。

ところが6−7年前に困ったバグが出るようになった。
ローマ字入力でkiとやると、とたんにシステムクラッシュになるのである。
それで、「き抜き」で原稿を書いていた。
注意すると「き」を抜くのはそんなに困難なことではない。

「天ぬき」で酒を呑むのは好きであるが、「きぬき」で原稿を書くのは好きではない。
この6月に備前岡山に行って、倉敷に行き、そこのクラシックな町並みのそばやでたしか「さくら」と言ったと思うが、そこには「天ぬき」があって、それが500円台なので驚愕した。
天抜きは客の身勝手の結果なのだから、本当は天ぷらそばよりも高くてよいのである。それが天ぷらそばマイナスそば代の価格だったので、これは得をしたというよりも、お店が可哀想になった。

以下は新潮45の編修部の某女史「あさみ」さんとのmixi mailである。
★ATOKに変えた 友人まで公開
2008年11月03日03:01
最近、マイクロソフトのIMEが
アホな変換を繰り返すので、なんでだろー?
と思っていたら、藤井さんがそれはXPのバグだと
教えてくれた。

なるほど。
というわけで早速ATOKに変えた。
快適である。
30日間みっちり使いこなして、有償版を登録しよう・・・
何でもタダってわけにはいかんねえ。

コメント

チョートク | 2008年11月05日 10:57

  • この数日、家で原稿書きです。
    家においてあるPowerBookは10年もので、atokも10年ものの
    atok12です。

    10年來、あたしの雜文癖を覚えているのは便利なのですが、

    「きたない」とか「きたまくら」とか「きちがい」と入力すると
    いきなりフリーズ。
    ki がダメなんです。

    それで、毎日30枚の原稿を「き」ぬき、で書いてます。
    これって、結構、ゲーム性満点です。
    (註 本文はばぐるとまずいので、ことえりで書いておる)
  • あさみ 2008年11月05日 11:47
    >チョートク先生
    つわもの、ですね。
    「き」に飢えてきたら、
    ここにきてことえりで
    「き」ばっかりはいってるコメントを書きまくってください。
    チョートク | 自分のコメントを削除する 2008年11月06日 10:18
    キエフ、きたろう、きむたく、きんきにほんてつどう、きやまち、きんこ、
    きんたま、きんたろうあめ。。

    ああ、すっきりした。
    ちなみに、昨日執筆の30枚(筑摩新書)では、3回、atok12
    で、フリーズ。
    まあ、適当なコーヒーブレーク。
    あさみ 2008年11月06日 16:03
    >チョートク先生

    一日三十枚、すごいですね。
    ストイック生活って感じします。
    お昼はサンドイッチと足穂の本読まれるんですよね。

    私もそういう反復生活をしたいです。
    (ここまで、「き」なしで書けた!
    しかし、近畿日本鉄道って。)

    2008年11月10日 (月)

    4台まとめて800円

    Rimg1029 4台まとめて800円

    これはなかなかよいコピーである。

    この前の、我楽多屋シドニーの時の成果だ。

    四色まとめて800円であって、それはダミーなのだ。

    ダミーカメラというのは、これが銀塩カメラ、とくにライカとかコンタックスなどだと、それ専門のコレクターさんが存在する。

    本物のライカなどより、その数は圧倒的少数であるから、そこに目をつけるわけだが、最初にダミーの魅力を教えられたのは1973年のことだ。当時、世界的なカメラ雑誌「camera」のアラン ポーター氏にスイスのルツエルンに会いに行った。

    編集部から、彼のアパートに行って、欧州の写真界事情など話をしたのであるが、その内容は記憶していない。

    記憶にはっきりしているのは、彼の居間にライツの引き伸ばし機フォコマートが飾ってあった。この引き伸ばし機はその作りが素晴らしいので、無論、暗室で使うことも可能だけど、室内に「飾って」おいてもさまになる。

    話題にしたいのはそのことではない。そのフォコマートのパンダグラフの上、つまり、あと1ミリずれたら、あわや落下という微妙なバランスの所に、クロームし仕上げのライカM4が乗っけてあるのだ。

    あんな場所に置いて、あぶないですよ。

    と、ポーター氏に行ったら、「大丈夫、それ触ってみて」というのだ。

    手にしたらやたらに軽い。それはライカのダミーなのである。外見だけだから中身などない。それで軽いのである。

    そういう遠い記憶が蘇ってきたのだけど、まさに今昔の感がある。70年代にライカのダミーなどはまだちゃんと評価されていなかった。

    それが今では、本物のライカよりも高価である。

    このオリンパスのダミーデジカメの4台セットが将来に価値が出まいとは言えまいのである。

    2008年11月 9日 (日)

    ちょか

    Rimg1027 これが「ちょか」である。

    これを手に入れたのは、10年前か。当時、スキヤカメラがまだマツモトキヨシの8fにあった当時、定期的にオークションがあった。

    価格は忘れたけど、そこで手に入れたのである。

    このオークションは都合、4回ほどあったような記憶がある。

    ちゃんと、専門の美術品のオークショナーがきて、なかなか盛況だった。

    当時の日本はまだオークションなれしていない時代であったから、あれは確か、ミントのワイドローライであったと思うが、ある男性がそのカメラに恋をしてしまい、値段はいくら高価でも自分がゲットするという勢いで、毎日、展示してあるウインドウに通ってくるのだ。それで、ほかの人がそのローライのインスペクションをしようとすると「おれのカメラにさわるな!ウーーッツ!!」てな感じで、当時、これがなかなか話題になったりした。

    そのオークションはビッダーさんは素人さんだから、「引き際」というのを知らない。明治天皇と日露大戦争とか、二百三高地という感じで、大和魂でいくらでも価格が上がってしまうので、傍で見ていると面白かった。

    このチヨカであるが、オークショナーの女性がこういうレアなカメラの名前になれていないので、これを「ちょか」と言ったのである。これが「ちょか」の興りであって、以来、このカメラをそう呼び習わしているのだ。

    仔細にそのちょかを見ると、これはほとんど、ライカスタンダードであって、細かい点は、ファインダーの窓枠がやや厚くなっている点、くらいなものである。これは2型であって、シンクロターミナルがついている。その前のシンクロのない1型はさらにレアである。

    シャッターはしっかりしていてそのまま、ライカ同様に使用できる。ネックストラップはライカの場合にはついていないのもあるが、これはちゃんとついているから、携帯に便利だ。

    英国製のライカコピー、リードに、50ミリの明るいレンズがついたのがある。これは軍用カメラであるのだが。普通は50ミリf3,5がついているのに、そのリードは50ミリf2が正式なのである。それで、レンジファインダーのないライカなら、目測で距離をあわせるのに、明るさf3,5というのが普通なのであるが、このリードには明るいレンズがついているから、距離を目測であわせるのは困難ではないかという、ライカ人類の疑問がある。

    それはなかなかシビアな疑問なのだが、そのあたりの感覚。つまり、距離計のないカメラに明るいレンズというのは、なにか悲壮感があってよい感じだ。

    この「ちょか」の組み合わせはそれをまねたものだ。レンズはこの6月に岡山のぺんたはうすで1,5万で買った、ズミタール50ミリ。

    2008年11月 8日 (土)

    在宅勤務3日の成果について

    在宅勤務3日の成果について.

    このタイトルはわざと使っているのだ。
    「なんとかのかんとか」に、ついて。

    というのは、あまりに退屈なタイトルであるが、会社とか役所の文章などでは今でも普通に使用されている「使い勝手」のよいタイトルであるらしい。その退屈感覚がよい感じだ。

    ゆえに正しく使用するには「在宅勤務3日の成果」である。

    まず成果の一は、佃で休憩時間に窓から隅田川を見るのに、勝間光学の双眼鏡を三脚につけたら、これが非常に見えがよくなったことだ。キヤノンのスタビライザー付の双眼鏡はプラハのアトリエに置いたままになっている。それでスタビライザーなしの双眼鏡を使ってそれになれていたのだが、双眼鏡は室内で使うのなら、三脚に乗せるに限ることがわかった。それも高倍率のやつを乗せるのではなく、6倍程度のを三脚に乗せると、視野と倍率のバランスがよい。これは発見だ。

    ヒルズの仕事場で使うのに、小型の三脚が必要になった。L字型のデスクなのでその窓側の方に小型三脚をすえて、その上に双眼鏡を乗せれば理想的である。

    佃のカメラジャングルには、大昔に宮崎あたりの新婚旅行で二眼レフを乗せて記念撮影をしたはずの「パチパチ10段三脚」が何個もあるはずなのだが、例の法則によって必要な時に必要な品物が発見できないのだ。これは後日の宿題とする。

    木曜の夕刻。久しぶりの板橋大原の浜出屋には、午後5時に入店して、午後9時40分ころまでいたのである。4時間40分滞在とは恐れ入ったが、成田から北京にとっくについて、ホテルに入っている時間だ。

    二代目浜出屋の話では、常用していた、日本シトロンのソーダを作っていた、社長がなくなって、その作り方がわからないので、廃業するとかしないとかいうことで、同じ銘柄はもう入らないのだという。それで冷蔵ケースに残っていた、5本のソーダを財力に任せて全部ゲット。(@150円)

    考えてみれば、ソーダというものは、水と炭酸ガスだからそのシンプルさゆえに秘伝があるのであろう。だからソーダ名人がなくなって、もう作れないというのは実に納得できる。

    Rimg1022 その流通している瓶は、外部が磨り減って、実にものとしてよい感じだ。

    その文字は一種のエングレービングなのである。

    この前のロシアでは、ピュートル大帝の飲んだ、ワインだかコニャックだかの瓶が(しかも中身入りで)発掘されたのが、展示されていた。この摺りガラス状の瓶のそのたぐいに入る。記念に自分の飲んだソーダの王冠を持ち帰る。Rimg1016

    カメラはR10. 最近、こればっかりだ。

    2008年11月 7日 (金)

    KCチョートクカメラコラム

    KCチョートクカメラコラム

    ★デジタルカメラ01_px300

    ソニーα900にシビレタ

    そのデザイン上の賛否両論を巻き起こしている、ソニーのフラッグシップ機である、α900を会社(ヒルズのこと)の戻りに見に行った。

    発売の数日後の夕刻のことである。

    MIXI友の川崎の「ム」さんという人が新橋の量販店でそれにタッチして、そのまま、購入という次第のカメラである。

    デジカメというのは普通はカタログをひっくり返して、データおたくになって、その上で価格ドットコムかなにかで、もっとも安い価格を買う(あたしのα200の購入のやりかたがそうだった)のが普通である。

    それがα900を手にして。むらむらっと購買意欲が爆発するというのは、これはカメラのデザインに物神が宿っているのかどうかは知らないが、ともかくソニーの販売戦略の勝利である。しかもソニーはこのフラッグシップに搭載されている「板」は、他社(ニコンなど)には売らないとステートメントをしているようである。

    そうなると、α900への視線はますます熱くなる。

    その「ム」さんは、手元のM42系の交換レンズを各種テストして、往年の癖玉でいずれもよい結果を得ているのだ。自分などは普段使いのデジカメ一眼レフはα200にタムロンのレンズ付で十分だと思っているが、やはりM42のレンズ資産家であるので、マニュアルフォーカスでこのカメラは使ってみたい。フルサイズのデジタル一眼レフというのは、APS-Cサイズに比較すると、そのファインダー領域は広大だから、これはオートフォーカスではなく、ちゃんとフォーカシングスクリーンでピントを合わせる楽しみがある。

    α900を有楽町の量販店に見に行った。例の三角プリズムは正面から見るとダイナミックでよい感じだが、後ろのフォルムの方はなだらかに処理してある。なにかニコンFのプリズムを想像していたので、ちょっと意外だった。まあ、これが今様のデザインというものか。

    外見を確認して、触ろうとしてカメラ上部に指をかけた瞬間、「パチッ!」と、音がして指に電撃が走った。静電気の攻撃なのである。

    大昔、パリのメトロを撮影中に、あれは真冬であったが、ミノルタCLに装填したモノクロフィルムに静電気の走ったことがあるが、カメラにやられたのは初めてである。

    理由は不明。α900にシビレタわけで、それからやはりあのカメラスタイルが気になって仕方ない。

    @@@@@@@@@@@@@@@@

    ★銀塩クラシックカメラ71302cf12792b65f939b2b423652de5a9fa

    アイボリーカラーのイエナコンタックス

    また、ウイーンのライカショップの主催のカメラオークションの時期になった。

    なんでも今回から、あの有名な豪華カタログの出版は廃止になって、オンラインカタログを充実させることになったと断りがあったが、それはそれでよい。紙に印刷したカタログのようにベッドに横になって、ページをめくる楽しみはないけど、情報量はオンラインの方がはるかに豊富である。しかもライカショップのオンラインカタログはそのカメラの撮影の方法が高度で、いかにも物欲を刺激するのである。www.westlicht-auction.com

    その中でのハイライトはこのアイボリー塗装のコンタックス2型である。ドレスデン製ではなく、イエナ製で、当時のえらい人に贈呈されたと言われるが、そのアイボリーという色彩はちょっとほかに例がないので、非常に目を惹くカメラだ。

    Carl Zeiss Jena Contax Jena 'Ivory Finish' (1947)

    one of very few original Contax Jena in painted ivory finish with matching Sonnar 2/5cm no.3104785, original brown leather covering and ever-ready case in special finish, shutter sticky, we fully guarantee the authenticity of this extremely rare item (Serial no. 27960, Condition: B)

    Starting Price: 4,000 EUR
    Estimate: 7,000-9,000 EUR

    知り合いのカメラ人類、リチャード クーさんは同型機を2台所有されているそうだ。ここらになると、ハイエンドのコレクターズアイテムである。その話は目下執筆中(来週明けには脱稿)の筑摩新書に出てくる。

    今回のオークションはなかなか玉がそろっている。ユーロが100円当時には、オンラインで安いビッドをいれてその中では落札したこともあったが、最近の空前のユーロ高では手も出なかった。ここに至って、ややユーロ安になったので、ビッドの行方だけはワッチしてみたい。

    在宅勤務3日

    家人は所用にて、新潟の「別荘」に行っているので、ライカインコの世話もせねばならぬし、この3日は在宅勤務である。
    我が家は80平米超の普通の間取りであるが、その広い居間をがらくたカメラが占拠している。もっともそのおかげで、事務所として計上させてもらっているので、このカメラのがらくたはそれなりに大事なのである。

    そのがらくたののっている大テーブルのまん中にPowerBookのおけるスペースを造って、そこに10年おちのマシンを置いて仕事している。
    昨日も、かっとばして原稿を書いている、今度出す、筑摩書房の新書の原稿を30枚ほど送った。一日30枚というのは良いペースだ。それだけにかかっているのなら、もっと枚数がかせげるのだけど、他にも書くことが沢山あるので、まあ、そんなものである。

    これも伸びていた、扶桑社の「チョートク佃カメラ日記」(仮題)も編集が始まった。実にありがたい。これは2001年から2007年までの日記である。激動の七年というと大袈裟だが、ナインイレブンあり、デジカメラッシュあり、銀塩の王政復古ありで、多彩な七年のカメラ当用日記。

    在宅執筆だと、ヒルズへの通勤がないからそれで楽かというと、そうでもない。ずっと室内に居るから、一種の独房生活。それでいて、食事は差し入れてくれないからそれは自分で案配する。これが変化が出てよい。

    朝、9時に仕事開始。12時にうどんを造り、ライカインコと一緒に食う。午後1時から4時まで仕事。
    それから隅田川ぞいに散歩して下流にあるスーパーで自炊用の材料を買う。
    それでまた隅田川をたどってもどる。
    夕映えの水面など見ていると、こんな贅沢をしていて良いのか、という気持ちになる。

    ウイーン時代には、ドナウ運河を同様に生活の道をしてよく利用したが、その後は多摩川、イーストリバー、、荒川と縁があり、今、また荒川の下流の佃に住んですでに20年近い。

    あまりに人に会わないで、仕事ばかりもどうかと思っていたら、大原の増山さんから、メールあり。
    それで、思い立って木曜の夕刻は板橋に出かけた。
    ーーーーーーーー
    お久しぶりです。浜出屋です。
    いつもブログを楽しく拝見しています。

    そのブログの11月1日の記事に目がとまりました。
    浜出屋を訪れたいという内容を拝見して、嬉しかったです。
    私達も、長徳さんとお会いしたいと思っています。

    アローカメラのシドニーに行こうかなと思ったりもしているのですが、
    私達だとカメラの話があまりわからないので、ためらっています。
    長徳さんも、浜出屋を訪ねても、父がいないので、
    カメラの話ができないなぁ、
    修ちゃんが亡くなったというのを、
    再確認するのも寂しいなあ、なんて思っているかもしれないね、
    などと話したりもしています。

    いつでも、長徳さんのことは大歓迎ですので、
    こちらにおいでの際は、是非お立ち寄り下さい。
    カキフライは当店でも、人気メニューです。
    お越しの際には、お試し頂けたらと思います。

    お会いできる日を楽しみにしています。

    -- 増山 一成

    Rimg0993

    2008年11月 6日 (木)

    日本路地裏学会秋期大園遊会

    11月3日は文化の日。
    日本路地裏学会秋期大園遊会でもある。
    園遊会とはどこかの真似ながら、園とは何も都心の限られた区域だけではない。日本路地裏学会では、東京は言うに及ばず北京もプラハもパリもアテネもカイロもそのまま「庭」と心得ているから東京も、六郷土手から舎人ライナーの終点の「メキシコ国境」までが、すなわち「園」なのである。ゆえに日本路地裏学会秋期大園遊会とうわけだ。

    12時に桃木会長がヒルズに到着。2008年度の残りの活動方針を再確認ののち、51fで1980円のライスカレー定食。ここのライスにはたまねぎの炒ったのがつく。すなわち日本郵船のカレーと同系である。
    前後して、51fのM美術館。今日を最後の「メッセンジャース」を見る。それからこの4月にリニューアルオープンのスカイデッキから「国見」をする。

    Mタワーの最上階の北東と南西に立っている、グレーの鉄製の構築物はなにか巨大戦艦のブリッジと思わせる。そのままタワーが船体となって進みそうだ。
    会長と、下のM美術館の展示はアートの域を出ることはないが、ここの屋上の構築物は実用という土台の上に立っているから、すでに凡人の美意識など凌駕したている。という議論になる。
    同様なことを安吾が戦後すぐの時代に、取手から東京に出る時に、小菅の拘置所と月島のドライアイス工場の美学は、日本の仏教古寺をすでに超越しているという意味のことを書いていたのを思いだす。


    下に降りて、雑司ヶ谷に行こうとメトロを検索したが、日比谷線から副都心線への乗り換えというのはなかなか困難である。ヒルズから渋谷はすぐ眼の前に見えているのに、世界の果てにある感覚だ。
    それで、霞ヶ関から丸の内線で、茗荷谷で降り、そこから、徒歩雑司ヶ谷に行くという「浦技」(でもないか)を行使する。
    黄昏れの雑司ヶ谷は世界のどこにもない不思議な町である。雑司ヶ谷1ー33にある「世界で一番危険な乱拍子の屈曲階段を訪問。ここは何時来ても凄い。日本路地裏学会指定の「路地裏文化遺産」である。

    暗闇の中を斜歩行して、「雑2ストア」の小沢靴店の看板を観賞。鬼子母神の参道から遠くない、石丸元章邸の巨大な保存樹木を鑑賞。ついでに参詣記念の意味で、名刺を石丸さんの家に投函しておく。

    副都心線の雑司ヶ谷のホームの厚さが1インチあるアクリルで出来た椅子にすわってしばしその椅子と一体になってなごむ。
    東新宿1丁目より大江戸線にて飯田橋。すっかり日が暮れたので、どっかでいっぱいと思ったが、軒並み休み。こういうチャンスはまたとないので、保護者同伴で入れる「さくら水産」に入る意志を決定。しかしなんとなく戸惑いもあり、店の前にて「感自在」の瞑想に入る。すなわち、100円玉を投げて、100の面が出れば入店。裏なら有楽町のガード下の立ち呑み。
    果たして、裏が出る。

    有楽町のガード下にて「大宴会」。

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    2008年11月 5日 (水)

    東京カメラクルーズで、α7000

    11月2日、日曜は野の宮BMWと東京カメラクルーズ。
    自分は交通弱者であって、知り合いに車に乗せてくれるような奇特な人はいない。この世界でただ2人だけ存在するのが、プラハの老写真家パベルと、錦糸町の野の宮なのである。

    その野の宮が、家族旅行のカイロの旅から戻ったので、午前11時に佃でピックアップしてもらい、夕刻6時まで、よもやまのカイロはなしと、カメラ談義をして、ついでにカメラ店のクルージングをしたわけだ。
    これを楽しみにして毎週末やっていると、人間の感覚が貧困になってくる。こういうのは年に何度かやれば良いのである。

    野の宮の地元は錦糸町であって、カイロの旅行中にいきなり携帯がなって、何かと思ったら「錦糸町のヒカリカメラですが、ハッセルSWの修理があがりました]というのであったそうだ。
    これだから携帯は油断ができない。錦糸町からピラミッドまで電話が通じるのは、自然への冒涜ではないのか?

    野の宮BMWは、そのヒカリカメラにて、コンバーチブルホースマンを見て、欲しくなって買いに行ったらすでに売れた後であったという。このカメラはあたしも大好きなのである。まず、もともと古くなる箇所がないので、これ以上は古くならないのがすごい。そこらはライカと共通点がある。
    しかもフイルムホルダーはホースマンは共通である。
    そこらへんが、あたしの好きなもうひとつのカメラ、プラウベルマキナとも似ている。マキナのフイルムホルダーはそのままマキフレックスにも付けられる。コンバーチブルホースマンがそのまま上位機種のカメラに付くのと同様だ。ホースマン980かなにかをつかって、大分前にニコンのカレンダーを撮影したことがあった。これはカメラジャーナル発行のカレンダーなのである。4x5ではないので、ロータリーバックを付けてかなり迅速に撮影が可能だった。

    BMWを南に転じて、大森貝塚のすぐ近所にある、カメラ店クロスポイント(品川区南大井6-13-8 tel03-3766-7122)に行く。ここはJRの線路の東側でちょと綺麗な公園もある。「カイロの朝はこんな感じでさわやかです」と野の宮は言うが、その感覚は理解できる。
    普通の人間なら、なんで東京の大森とカイロが似ているのか、といぶかしく思うであろうが、どちらもこの地上であるから、そういう都市の共通点というのは沢山あるに違いない。

    カメラ店クロスポイントで、この前買ったのは、昭和30年代の高級レンズ、キヤノン400ミリf4、5レフボックス付きであった。これは重いので家に送ってもらった。
    今回は20数年前の銘機ミノルタアルファ7000のダブルズーム(シグマ)とストロボ付き、セットケース付を買った。これは空前絶後、スポーツ新聞などでも取り上げられた、一世風靡カメラである。
    不思議なのは、当時、そのデザインが好きでなかったのが、20年が経過すると、実にモダンなデザインに見えることだ。カメラのトップの操作がまだコマンドダイヤルではなく、ボタンであってその形状も横長なのが、今にして見るとなかなかのデザインなのである。
    これで全部で1000円というのにはびっくりである。さっそく、フイルムを入れて使用開始。Rimg0901

    2008年11月 4日 (火)

    虫の声の鳴き納めか、、、

    たしか、今年に最初に虫の声を聞いたのが、6月3日の夜だった。
    寝室で文庫本を拡げていたら、下の方から虫の声が聞こえた。それも楽器の調子を確かめるような感じで、ちょっと鳴いてからすぐに止めにしたのである。
    今、住んでいるのは40階だての15階だが、まるで自分が平家にいて、その前の庭から鳴いているように聞こえる。それは発声が良いから遠くまで聞こえるのだ、とは家人の説明である。

    家人はクラシックの歌い手だ。クラシックは当然ながら、マイクは使わない。はじめてマイクを使う公演に行ったのは、偽ライカ同盟の坂崎さんに招待されて、ライブインプログレスというのを武道館で聞いた時だ、最近のマイクはこんなに大音響が出るのか、と驚いた。

    この前、東京オペラシテイのコンサートホールで、家人のシュトラウスを聞いた。自分はホールの一番後ろで聞いたのである。家人の「虫はは発声がよいから遠くまで声が届く」とは、「あたしは発声はいいのよ」という自慢に讀み買えることもできる。へえ、、、、、。

    虫がすだく。
    その「すだく」という言葉が好きである。
    気が付けば、下の遊歩道の虫聯はすだきっぱなしであって、そうなるとこれも不思議なのであるが、鳴いているという感じがしない。バロック音楽の通奏低音みたいなもので、その音のソースを注意すれば聞こえるけど、普段は鳴っていないも同じである。

    9月の末にモスクワから戻って、階下から虫が聞こえるので、ああ、ここはまだ極東の秋の盛りだな、と変に安心した。
    その後、10月になって新潟の万代橋の脇のオークラの部屋で、窓を細めにあけるとやはり下から虫の声があがってきた。

    それが10月30日の夜をもって終了になったのは実に寂しい。慣れないうちは音の風景の「地」が見えてしまって、しーーーーーーーん
    という音がするのだ。

    約5か月の虫の時間だった。
    もっとも、何時も不思議に思うのは、少年の当時でも滅多にみられなかった、黒揚羽とか青筋揚羽、それにもっと珍しいあれは何というのか知らないが、一種のまだら蝶のようなのが、東京都内を普通に飛行している。
    その筋の人に聞いたら、そういう幼虫の食う植物があるためだという。そういう「地球温暖化」なら大歓迎だ。

    佃の島には想像する以上の動物がいる。立派なとのさま蛙は雨の夜など、家に戻る途中、「バサっ」と通路に飛び出す。
    はろういん、の主役であったバットも薄暮の中、飛んでいる。
    川鵜、かもめ、すずめにからすは言うまでもなし。
    ライカインコはこれは「家の人」だから勘定には入れない。

    2008年11月 3日 (月)

    日本路地裏学会の「カスカ」な路地

    現在、新しい本を同時に2冊書いている。

    進行がちょっと遅れている「ローライフレックスワークショップ」(えい出版)と、平行して筑摩新書から出すカメラ本を書いているのだ。このほうはまだタイトルが決まっていないのだが、第一章は「あなたのカメラはブランドですか?」というのである。

    全8章で、デジタルカメラとアナログカメラの今の使い方と、それぞれに個人のブランドランキングを再構築しようという本である。

    考えてみれば、過去のカメラの歴史の中で、デジカメに比べればフィルムカメラのブランドは膨大にある。実用主義にはポケットの中のデジカメか、首からぶらぶらのデジタル一眼を使っているのである。

    一方でもっと大切な自分のための写真は、銀塩で撮って、そのカメラの操作感覚を楽しもうというのが、あたしの今のカメラとのお付き合いである。そこらへんのことを書いているその「犯行の動機」は、デジカメには実用の画像処理をしてもらい、フィルムカメラで「写真術のおいしい所」をとことん楽しもうというわけである。

    昨年の春に今はない、東京は新川のギャラリーノットイコールギャラリー内にて、偶然できた日本路地裏学会であるが、最近では桃木会長が就職戦線にて多忙である。

    この前には8月にNHKのハイビジョン番組の取材で、桃木会長を佃を徘徊した。その撮影された「尺」は、残念ながら放送にはいたらなかったけど、日本路地裏学会は考えてみれば、あまりたやすくメデイアに露出するのも考えものなので、これは結果としてよかったと考えなおした。

    それから秋になりその秋も晩秋になり、11月3日は秋季日本路地裏学会連絡会議をヒルズで開催する。それから実地の「行軍」になるわけだ。

    実に文化の日にふさわしい行事である。と自画自賛。

    それで日常の路地裏学会の記録には各種のデジカメを充てているのだが、やはり「路地裏写真の精神の真髄」は銀塩写真にあり、ということで、各種の銀塩カメラを「週代わり」にて、路地裏撮影に活用しているのである。

    107515 この路地裏作例は、ミュンヘンで1947年に作られた、カスカ1型による撮影。このカメラは「妖怪白壁」とでもいいたい、なかなかのバイエルングロテスクデザインで、これは一種ドイツのアールデコなのであるが、特筆すべきは、レンジファインダーがついていないので、撮影者は、ピントあわせに神経を使うので、逆に老人力がセーブされるという、還暦向けカメラでもある。

    cascaの2型も持っているが、こっちは、ライカM3めいたレンジファインダーつまらないカメラ(というよりも、カスカ2の6年後にライカM3が登場)である。

    これがそれだ。

    115988

    カスカとは「幽か」に通じるとは、嫌味な茶人趣味ながら、

    ウラージ ボストーク(当方を征服せよ!)がそのまま都市の名前になり、それが日本では浦塩と音写され、なにやら、塩炊く煙の見える、浦の霞めいた、日本の古典的風景にまで、変換されてしまうのだから、さすがユーラシア大陸の東西は広い。

    その意味で言えば、cascaが「幽か」になっても一向に問題はなし。

    この場所はあたしの毎日の佃の通勤路であって、狭い狭い胎内くぐりから、狭い路地にクロスする瞬間を露光も勘で、ピントも目測で撮影した。

    なにか、その逆光のバランスが小学校の登校の時に見た、音羽の朝の光のようでもある。まず、1950年であれ、2008年であれ、日本の東京を照らす日光の波長が変わっているとも思えないから、こういう光はそのまま、幼年時の視神経の記憶に等しいと言っても文句のくる気遣いはないわけだ。

    カメラはcasca1 レンズはculminar50mmf2,8

    太陽光が左からさしているのは、光線もれのせいであるが、それもまた一興。

    Fh0000301

    2008年11月 2日 (日)

    おさるの駕篭屋だ、ほいさっさ

    http://zacuto.zenfolio.com/p408746338
    を見ていたら、デジタルシネマで、肩乗せ式のアクセサリー一式のサイトがある。
    プラットホームの上に、バッテリーから、液晶ファインダーから、マットボックスから取り付けたもので、こういう「おもちゃ」を作るのはアメリカ人は好きだ。

    ただし、これは高価な製作料を請求するためのプロダクションのトリックというものであろう。
    かつての、ムービーカムとか、パナフレックスとかのマットボックスと、フォローフォーカスと、LED液晶が組まれていて、本体だけが、ニコンとかキヤノンのムービー撮影可能はデジタル一眼レフがその中央にちょこんと乗っているのは、どうもカメラの機械美学からすると落第である。

    Zacuto1 デジタルムービーなら、REDのようなまったく新しいデザイン(その単体はまさに土管である)に、各種のアクセサリーをつけたほうがまだカメラデザインとしては、未来があるように思える。
    このスタイルでは「おさるの駕篭屋だ、ほいさっさ」だな。
    これで朝のラッシュのホームのシーンを撮影するとしたら、どのような混乱が起こるか想像できる。

    上のHPでのプロモーションビデオがまた3流落ちのラブロマンスめいていて、これは見るに値する。
    一般の人が持っている以上のマンハッタンへのステレオタイプでうんざりしてしまう。

    かつて、カメラとか録音機にはかつてはそれぞれの独特のスタイルがあって、それ自体が「尊敬の対象」になっていたものであった。
    ヴェンダースの「リスボン物語」は自分が見た数少ない劇場映画のひとつだけど、その中に登場する「逃走した大監督を探しにベルリンからリスボンまで車を運転しつつ、葡萄牙語を勉強しつつ行くサウンドマン」がいて、彼の使っているのは、業界のおきまりのセンハイザーのツエッペリンと呼ばれるショットガンマイクであったのは良いとして、サウンドレコーダは当時は最新鋭のDATであった。その小さいランチボックスみたいなのが、実に頼りなく、やはりリールの回転するナグラでなければだめだ、と長嘆息したのもすでに昔の思い出だ。

    2008年11月 1日 (土)

    日の出町商店街の「名もなきコロッケ店」から「江戸一」

    10月30日 木曜。

    仕事を放擲して、どっかに呑みに行こうと思う。
    ながい間、板橋は小豆沢の楠と、大原の浜出屋に行っていないので、行きたいのだけど、JR山手線の外側は、一種のバリアになっていて決心を固めないとなかなか出かけることができない。

    それでヒルズの49fで東京の実景を見ながら、どこに行こうかと考えた。
    牡蛎のシーズンなので、魚河岸で牡蛎を買出しに行くアイデアもあるが、それは夕刻だから間に合わない。

    豊島区東池袋、都電荒川線ぞい、かつての王子電車の界隈の大昔は日の出町と呼ばれた商店街は20年ほど前にま大賑わいであったのが、最近では小さなマンションなどになってしまい、商店街は縮小傾向。

    その中で、有楽町線の東池袋から降りて商店街をまっすぐに行って、小公園の対面、つまり進行左にある「名もなきコロッケ店」の牡蠣フライを食おうと思った。
    そういう人生の直接の目標を持っている自分は幸せ者である。

    そう決まったら、すぐに到着したい。
    六本木駅から霞ヶ関駅で乗り換えて、丸の内線で新大塚に出てそこから徒歩「名もなきコロッケ店」に向かうのが良いと思ってそのとおりにした。
    日比谷まで日比谷線で行き、そこから有楽町線に乗り換えて、皇居の東側を迂回して行くのはいかにも遠回りに感じる。

    新大塚から商店街を徒歩、途中の酒屋の自販機で、120円で缶チューハイをゲット。
    走るように「名もなきコロッケ店」に駆け込んで、おやじさんにこの前のロシア行の話をしつつ、目の前で、牡蛎フライを揚げてもらい、揚がったやけどしそうなのを、緑色の包装紙の上に並べる。自分がかけている長いすは縁台めいたやつだが、これは白木であってしかもその材質は磨き上げられて、高級なすし屋のまるでカウンターである。

    満足して(無論、買い物もそこでして)まだ日脚の長い薄暮の大塚界隈を漫歩。
    当然、江戸一の前に足が向く。
    正午後5時開店。
    メジ、白いか、小いか煮。酒は白鷹のおかん。5本。
    四半世紀前にはこの江戸一のカウンターで1本七勺のお銚子を10本並べるのが「男の仕事」のようなつもりになっていた。
    要するに「若気の至り」なのである。

    また、江戸一で顔見知りに遭遇したりする。それがまた楽しい。

    大塚も江戸一までは江戸のうち

    画像はR10で撮影。Rimg0891 Rimg0892

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    ごあいさつ

    • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
    • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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