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チョートクカメラ塾ブログ

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2008年10月31日 (金)

キエフ3型が3800円ぽっきり!

Rimg0870最初にキエフを飼った、というより買ったのはあれはウイーンであって、前後は失念しているが、まだウイーンのアムホーフで蚤の市があったころで、それもクリスマス前だから1973年の12月だ。
それはキエフ2型でジュピター3の50ミリf1、5が付いていた。このレンズも良いレンズだった。(今でも愛用)
もう一台は、キエフ3型でこれはコンタックス3型のコピーである。この方はウイーンの9区のアルザーストラーセのフォトニーダーマイヤーで買った。この方は28ミリのオリオンレンズとカメラ(50ミリF2付き)をまとめて買った。邦貨1万円ほどだった。この2台のキエフでモノクロでウイーンの街を撮影したのである。

四ッ谷の荒木町のアローカメラのシドニー寄席というのは、もう10年も毎月第四土曜の午後2時からやっているのである。ビール箱の上に乗って、ロンドンはグリーンパークの路上演説のようなものだが、以前は普通に椅子に座って話していたのであるが、それを廃してビール箱の上に乗ると「話題が過激」になるのが良い。
しかも、くわえて、以前は椅子席でやっていた時には居眠りをするじいさんが沢山居たものだが、観客も立っているので、そういう不真面目なやからは最初から排除されている。なにしろ高校生まで来るのだから、「人材」は厚い。

このキエフはこの前、壇上(注 ビール箱の上のこと)で演説を開始したら、普通の目線よりも高いから、お店の品物が良く見える。眼前3メーターほどに、キエフの3型があったので、参加者さんにそれをとってもらった。仔細に検査すると、キエフの一大特徴である、縦走りシャッターが故障というわけでもない。しかもこれは特記すべきだが、セレンメーターが動いている。過去このキエフを検査して、メーターの針の動くのは皆無である。(そのメーターの精度を言うのではない。針が光に反応するだけで奇跡なのだ)

それで日本金3800ルーブリを投じて、キエフは自分の所有となった。
めでたし、めでたし。
帰宅してから、ニッコール50ミリF1、1を付けてみたが、バランスが悪い。この巨大レンズには本体がもっと大きい、キエフ5の方が合う。
ニッコール21ミリのFマウントをSマウントに改装する、こしな製のアダプタがある。それを付けたら良いバランスとなった。

2008年10月30日 (木)

世界を駆け回るフルサイズデジタルRFNIKONのうわさ

モノマガジンで有名なワールドフォトプレスには、カメラ関係のエッセイなどでお世話になった。10年前には写真集「とうきょうさんぽカメラ」が出ているし、1000ページの「ぼくのカメラたち」とか、カメラ雑誌形態の「チョートクカメラ」も、ここから2冊出している。

その編集長だった「お~たさん」(仮名)から久しぶりにメールあり。

田中長徳 様

web でこんな記事を見かけました。

これはホントでしょうか?

Nikon SD digital rangefinder

This is an anonymous rumor I got from Japan - there is no way to verify the credibility of the source, but Nikon has done some limited edition series in the past (non-digital):

Nikon SD:

  • FF (35mm) digital rangefinder
  • Sensor/processing out of the D3
  • Full titanium interior/exterior body
  • Very compact/light - built for low light/discreet/art work
  • Retro styling, think SP meets 28ti meets.. Giugiaro
  • Very limited edition, 10,000 in total, 6.000 for domestic market ONLY. Strictly collector’s item (huge market here)
  • Only available as a kit with 31/1.8, 50/1.5 and 90/1.8
  • Possibly/likely separately a f/1.0/50mm at even more limited numbers and insane price level
  • Prices? mad… this is not a photographic tool, this is luxury. Expected to be close to US $13,000 for the ‘normal’ set but rumored to be a Leica killer in optical performance and handling
  • Same 1/1 viewfinder principle as the SP rangefinder
  • Center weighed or spot metering, manual and Av only
  • NEF RAW and Tiff. Jpg unsure….
  • Same High ISO performance as D3

Allegedly scheduled to be released to coincide with some important Nikon anniversary, though  have no clue what it could be…
------------------------------http://nikonrumors.com/2008/10/24/nikon-sd-digital-rangefinder.aspx

その手の「うわさ」は以前からあったし、ニコンの関係者さんに「なんでSPDを出さないんですか」とたびたび聞いたこともある。

フィルムカメラのニコンS3の復刻判だって出たし、それが出たときには、SPの復刻版は出ませんと言っていたニコン関係者さんであったが、http://www.nikon.co.jp/main/jpn/whatsnew/2005/sp_05.htmそれも出たし、そのニコンSPの復刻版のシャーシなどがまだ「たくさん」あるとしたら、それをもとにしてD3の部品でなにかの記念バージョンとして3本のレンズ付きで1万3千ドルで、限定1万セットというのはなにか現実的でもある。

数年前にエプソンRD2のうわさがドイツから「出火」して、その時は「がせ」であるとすぐに判明したが、国内各メーカーさんは一時、「戦闘状態」になった。
あれはよかった。
これは一時の失火ではなく、それこそ「大火災」になって今の退屈なデジタル一眼レフの街を焼尽してもらいたいものだ。

思うに、エプソンのこの業界の一番乗りのあとに、当然デジカメRF御三家が想定されていたわけだが、どこも名乗りを上げなかった。

ライカはあのような状態だし、キヤノンは「子供むけの商品」の販売に多忙だし、そうなると可能性は日本光学工業しかないという、、、、まあ、これは消去法である。

2008年10月29日 (水)

10,28東京大周遊

快晴の火曜。
その快晴の火曜を眼下に見ながら、終日原稿書きはつらいので、東京大周遊に切り替える。
持参カメラは昨夜には、キエフ3に1948年製のZK50ミリf2を予定していたのだが、出掛けにいきなり、机上のエプソンR-D1sにこしな製の40ミリf1,4付のレンズに持ち替えて出かける。
このレンズは35ミリf1,4ならそのままズミルックスと言ってよいほどの、そっくりさんである。これはRD1sにつけると、まず35ミリ用のファインダーフレームがそのまま使用できる。

東京大周遊時のルートは、言うも野暮ながら最初から決まっていない。
それでなんとなく、有楽町線で月島駅から護国寺の方面に出かけたが、ポケットの「漫歩計」のバッテリーが昨日からなくなっていたのを思い出し有楽町のビックカメラ。リチウムバッテリー2032を一個で220円。それをポイントで支払う。

有楽町線で市ヶ谷で降りて、新宿線に乗り換え、都心とは反対に江戸川区方面を目指す。
一之江で下車。本当はそのひとつ先の駅で降りるつもりが、勘違いにてここで下車したのだけど、本来、目的がないのだからどこに降りようが間違って降りたことにもならない。
快晴の日光に消毒されているような、極東のなぞめいた街が東京都江戸川区である。

一之江駅にもどる。そこから八幡に行こうか、都心に戻ろうかと考えて、古人だとそこで杖の倒れた方向をたどるわけだが、杖の持ち合わせがないので、「のぼりでもくだりでも最初にホームに入ってきた電車」に乗る。

すなわち都心を目指す。住吉で新宿線を捨てて、半蔵門線に乗る。その半蔵門線を神保町で捨てる。つまり最初から新宿線にてそのまま神保町まで行けばよいのだけど、その時点では神保町に行くつもりはなかったのだから、そういう次第になる。

空腹になって、いもやに行こうと思って、神保町のグリューネアレーに出たら、空が開けていた。例のアーケードというやつがきれいに撤去されているのだ。
理由は知らず。

どっかの北欧の中古カメラ屋みたいに、青空の下にたっている、太陽堂でライカなどを見る。それからかどを曲がって、いもや、のとんかつ部門に入ろうとしたら、店は閉まっている。かくなる上はというので、いもやの、天丼の小道をいったら、その屋号は8月1日より「天丼や」にかわったと張り紙あり、いもやで天丼を食うのではなく、天丼屋が正しい命名であるから文句もないが、店には入らずに、その小路の靖国とおりに近いところにある、店の構えはなんとなく西洋骨董めいた古書肆「山猫屋」の店の前の「撒餌」の棚を見ていて、
「俳聖五家八千句」大正13年文武堂定価金壱円弐拾銭を500円にて求める。

その流れで、その書肆の店主、荒木さんとよもやまの話をする。
古書肆の店主と話をするくだりというのは、断腸亭が山谷堀の片側町で古書店の店主と夜ふけに会話する場面があって「柳橋新誌の揃いがあったらほしいのだが」などと断腸亭はいっている。が、まあ、あれにあこがれていたわけである。
還暦すぎて、そういうまねができるようになったのはうれしい。

店主荒木さんは、私家版のゼロックスコピーで、壷中庵の位置を特定した文書を示す。その現在の位置は港区虎ノ門5−8−12なのである。
それをメモしようとしたら、荒木さんは「これは1部しかないのだが、今、コピーしてくるから、ここに座っていてくれ」と店の外に出た。店には椅子はひとつでその店主の椅子に数分座っていた。ジャンボのコックピットとか、スペースシャトルのコックピットには座ったことはあるが、古書肆の店主の椅子とか、風呂やの番台には座った経験がないので、その数分は緊張した。今、客が入ってきたらどうしようかと思った。

それから珈琲を飲みに、ヒルズの49fに来た。
快晴の東京を眺めると、眼下の断腸亭ゆかりの偏奇館も壷中庵もすべては2008年10月28日の東京のカオスの下に葬られている。
ただ天気だけが、昭和のはじめの秋。

Epsn1860 Epsn1872

2008年10月28日 (火)

万聖節

Rimg0871_2 Rimg0872ハロウインよりも、万聖節の方が自分には分りやすい。
ウイーンなら、アラハイリゲンである。日本のお盆とかお彼岸にあたるわけで、ウイーンの中央墓地などは、墓参りの人で満員となる。
何時もはがらがらの市電の71番もこの日はかなり込む。
万聖節は欧州では11月1日である。欧州の11月であるからすでに万物枯れ果ててグレー一色の風景である。

日本のハロウインは自分の知る限り、1985年に最初に体験した。
今はもうないけど、ギャラリーminというのが碑文谷にあった。城田さんという人の経営であって、ギャラリーはモダン建築でレセプションなど、ちゃんとケーテリングを頼む本格派だった。たしかそのグランドオープンの日にはシャンペンを注ぐ黒服さんが大勢いた記憶がある。
その城田さんが、ハロウインをすると言うので、出かけて行った。夜に近所を子供たちが巡回して(無論、城田さんが付き添って)クッキーをもらったりした。
その由来は知らないが、その後にマンハッタンに同じ頃に行って、ニュージャージーのフォートリー(うちでは大鳥居と呼び倣わしている)に行ったら、ちょうど季節なので、例のおばけかぼちゃとか、魔女とか、こうもりの飾りがあって、まだ紅葉は終わっていない時期で、そのコントラストが奇麗であった。

月曜の朝、仕事がたまっているので、早めにヒルズに行くつもりで、家を出たら、タワーのエントランスがこの飾りである。
同時にタワーを出た、通学の女の子のリュックも同じ秋の色だ。

終日ヒルズのワークスペースで朝8時から午後4時まで仕事。枚数30枚。

書いた、書いた。

(カメラはリコーR10)

2008年10月27日 (月)

アルパレフレックスの交換レンズカタログ

Rimg0866

アルパ研究会はすでに解散したわけであるが、アルパの研究に関しては日々おこたりなし。
カナダのトロントからアルパレフレックス関係の資料が届く。
これは交換レンズのカタログである。

当時は地味なレンズのラインナップであるが、これはニコンFがこの世に登場したさらに10年以上前の話しなのである。
カメラのデザインはまだRFファインダーのそれであって、その本体に距離計を無理に突っ込んだ格好だ。
そのクラシック感覚は10年前には、見ていられないほどに古いという風に感じたのであるが、それが今になってみるとなかなかのデザインに見える。それはデザインそのものが変化したのでは無く、デザインを評価する我々の視神経の評価基準に変化があったのは言うまでもない。

このカタログはレンズ編であって、ほかにはアクセサリ遍と、使用説明書がebayのオークションに出たのである。アルパレフレックスの使用説明書というのは、レアアイテムなので、すでにそのリプリントが流布している。著作権が消滅しているから、だれでも製作販売ができるのだ。
一方で各種の取り扱い説明書をオンラインでデータで販売する会社もある。

しかし「正統カメラ人類」の価値観からすれば、やはり資料はオリジナルに限るのである。この場合、なぜか交換レンズのカタログはあまり競争ななく、オークションでゲットできたけど、使用説明書とアクセサリーのカタログはかなり高価になっていた。
しかし、こういうマイナーな資料がオークションで手に入れられるのは有り難い。

10年程前、ボレックス16プロという撮影機のセットがやはりebayに出た。この撮影機は当時(70年代)のもっとも進化したモデルであったが、その製産台数は世界で60台に留まるのである。
その取り扱いマニュアルは貴重なもので(なにしろ60セットしか売れなかったのだから)すでに自分は2セットの同じカメラを持っていたが、マニュアルを持っていなかった。
それでマニュアル付きのプロ16を、もう一台買ったのである。
そういう「無駄」を考慮すると、それぞれをバラバラにして売ってくれるのは実に有り難たい次第である。

画面で見るとお分かりのように、右の上にちょっとひっかき傷がある。
これはこのカタログを送ってくれたカナダ人が几帳面なので、封筒にあまりに「キチキチ」にいれたせいである。当方が開封する時にハサミの先が滑ってこういうことになった。
ライカなら、どれだけ傷がついていようと気にしない自分だが、この過失の傷が気になって仕方ない。

2008年10月26日 (日)

KCチョートクカメラコラム

★銀塩クラシックカメラ

F0、95って大昔のフイルムカメラ用のレンズではなかったか?

昨年に岩波書店から出した「晴れたらライカ 雨ならデジカメ」がまた重版になった。4刷り。
この本は現代のデジカメとクラシックカメラの使い方を伝授した本であるが、カメラメーカーさんの死にものぐるいの新製品開発とその販売合戦は実は当事者だけの戦いであって、目覚めたユーザーは案外に冷静にそれをゲームとして観戦しているのであって、そういう層に発信するつもりで書いたのである。
ともかく、重版は有り難い。

フォトキナでノクチルックスf0、95が登場して、世界中の「ライカ雀」の話題になっている。幾らになるのか、アメリカではもう発売になったのではないかとか、これで暗闇が征服できたなどと諸説が飛行している。
つかのまの時間とは言え、行き先のないデジカメの未来に夢を与えてくれるその効果は大きい。まずその夢自体、高価であるが、、、。
価格が1万ドルと言えばとんでもないと思うけど、急激な円高でこれをゲットしようと考えているライカ人類も少なくないかも知れない。

ノクチルックスf0、95がその広告
効果で損をしているのは「世界で登場したf0、95の2番目のレンズ」である地位に甘んじていることだ。最初の明るいレンズは下の画面のこのレンズである。しかも不幸なのはM8にあっても、世界で二番目のRF式のデジカメであったことだ。ともにライカはナンバー2。

エプソンが「世界最初のRF式デジカメ」を出した時の、ライカ社の狼狽ぶりが思いだされる。株主向けのインフォメーションで「我が社もすぐに出します」の情報がオンラインで出た。それから実際にM8が登場したのはかなり後だった。

1960年代にはこの0、95は必須レンズだった。なにしろフイルムの時代である。その感度には限界があるから、明るいレンズを開放で使用して明るさを稼ぐのが普通だった。このレンズはもとは某新聞社で夜間撮影に使用されていたものだが、最近のデジカメならばレンズの明るさなどf2、8もあれば十分なのである。この前のロシアの撮影でもそれを痛感した。ようするに感度6400でも12800でも思うままなのである。

ライカM8にノクチルックスf0、95をつけるのは、それは趣味の世界ではよかろうが、あまり実用にはならないのではないか。0、95というのはまだフイルムの感度が十分でなかった当時の「置き土産」なのだ。

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★アルファ900のあの三角形のデザインにしびれる

ついに、というか、ようやくと言うか、ソニーのα900が登場した。その三角形のプリズムのデザインがなかなかよい。他のメーカー、ニコンとキヤノンのそのデザインがカメラのロゴを良く見ないといずれのメーカーかすぐには分からないのに対して、α900は一目見ただけで、それがそれだと理解できる。

これはデザインの勝利である。
もっともでザインの勝利とその販売台数は本来関係がないから、発売の翌日に有名カメラ店のオンラインの在庫を見たら、各店とも「在庫が豊富」にあるのは感心してしまった。

是は実は良いことなのである。意識的な販売台数をカメラメーカーがコントロールするなどとは思えないが、他のメーカーのフラッグシップ機は発売当日はまず完売が普通で、それが「火に油を注ぐ」結果となって、購入の欲望だけが沸騰する。

こういう消費のパターンが良いはずはない。その点、α900の在庫が潤沢なのは、ゆとりがあって良い感じだ。

同クラスのデジタル一眼でかなりの高画素数を誇るというのは自分の場合、あまり評価はしていない。あれはカタログおたくさんのスペック上の優劣の床屋話である。
自分のエプソンRーS1sはたかだか650万画素かそこいらだが、一度も不便を感じたことはない。

α900のデザインのあの三角形に自分は惹かれるわけである。32、8万円という価格は寧ろ安いと言わざるを得ない。これが本当のプロ機材なら、ソニーのプロ機材の価格を見れば分かる。ということは32、8万というのはやはり「民生用」なわけだ。その上のクラスの本当のフラッグシップもあの三角のプリズム付きであって欲しい。

フルサイズのデジタル一眼レフの画質は自分には必要はない。つまり仕事で最大の画面の必要性は印刷上でA4サイズなのである。だから本音を言えば、コンパクトデジカメで仕事ができるのだけど、それでは「社会的な信用」が欠けるから「ちゃんとしたデジカメ」を持参するまでのことだ。

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食安

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食が安い。 とは、有楽町のガード下の酒屋の名前だ。 ヒルズに仕事に行くには、佃から六本木までの再短距離を行くだけから、いつも地下鉄の乗り換え通路を直進するのであるが、あるとき寄り道を学習した。 これは帰宅するときに限るのだが、日比谷線の銀座寄りの出口からいったん地上に出てしまう。 眼前はJRのガードである。 その前にモノトーンでほとんど眼に見えないような酒屋がある。酒屋と言っても自販機がずらりと並んでいるだけだ。 最近、そこに3分だけ寄るのである。 缶のちゅーはいが150円。つまみが150円。計300円。 それで3分の停滞だから100円に1分だ。 この立ち飲みがなにか理想のような気もする。 立ち呑み屋で、和気あいあいも悪くないがそれは「田舎の寄り合い」である。ここでは誰も知らない相手だ。だから無言でそのまま立ち去る。この呑み方は悪くない。 サバンナの水場に野生動物が集まって、なんの関係もなく水を呑んでいるあの感じだ。 この作法はどうも20代当時の7年半のウイーン暮らしで身につけたもののような気がする。 要するに、無言で(むろん、その前にドイツ語で注文はするが)1/4リットルのワインを受け取り、wurstの皿を受け取り、その後は自分自身の考えの中に降りて行く、あの感覚だ。

2008年10月25日 (土)

時代を超えてあなたと輝く

Rimg0857_2 Rimg0858_2 通勤経路上には毎日いろいろの発見がある。
今週は日曜から連日で金曜まで6日の出勤である。飽きてしまうけど、仕事の計画があるから、「革命に休み」は許されない。

六本木の日比谷線の構内を出ようとして、この広告に目を引かれた。
最近の楽しみは私服警察官の外国人(主にアジア系の)取締りを傍観する程度であったのだ。
それがこの広告の登場である。

「時代を超えてあなたと輝く」

とある。これはテイファニー・ライカ・ニッコールのトリプルブランドの発売ということであろう。
まさにそのまま、占領下ニッコールとライカ3fをテイファニーが尊敬してこういうオマージュを広告に出したとしか理解できない。
また、そこが面白い。
コシナあたりで、上のようなOEM製品を作ったら、話題になるであろう。

冗談はともかく、有名ブランドが広告で、まったく関係ないカメラをその広告写真の上に掲載するというのは、実は1960年代スタイルなのである。
自分の記憶では、どっかのミネラル水の広告で、ライカM2のブラックが登場した記憶があるし、ライフの広告で、やはりニコンFが登場したページも記憶している。
一種のリバイバルなのだけど、そこで考えるに、まずよくこういう企画が通ったものと思う。多分、駅構内だけの数の少ない広告だから可能になったのかも知れない。

これはすごいステルス広告である。その文脈からすれば

「TIFFANYは銀塩クラシックカメラを応援しています」

と、読めるからだ。

想像するに、この広告写真に登場するライカとニッコールはアートデイレクターさんの私物であろう。そのレンズは通常なら、ツアイスとかライツであるわけだが、そこに占領下日本時代のnikkor 35mm TOKYOを持ってきたところが実に「妙」で面白い。

前日の日記で、「10本で2180円」では、このレンズはM2と組み合わされて、いかにも貧窮カメラマンの機材という感じなのが、ここではテイファニーも一目置く、超高級ブランドになっている。この広告のレンズとあたしのレンズとは同じロットの製造番号である。

なにか、時代遅れの19800円で買った、あたし所有の大昔のニッコールが超有名ブランドのように思えて、得をした気分である。無論、性能は飛び切り優秀な広角レンズだ。

自分自身はMYCのTIFFANY本店には1989年、銀座の支店にはできた当時に入っただけだ。

2008年10月24日 (金)

10本で2180円

Rimg0845Fh010016_2カラーネガなどは、アマチュアさんの使うフィルムだ。

ぼくら、プロは絶対にコダクローム。

これが青春の日々のわれらのフィルム選びのスローガンであった。

モノクロはトライXで、カラーはコダクローム2なのであった。当時はまだ電子製版などというものがなくて、カメラ雑誌の印刷なども、今、これを見ると、その懐古情緒の前に「当時のカラー印刷のリアルさというのは、なんだ、こんなものであったのか」という失望感を感じさせるほどの品質の低さなのである。

それでもコダクロームをアンダー気味に撮影して、画質を「ジリジリ、、、どすん」という感じに印刷するのは流行であった。これはその元祖繰上さんあたりの影響が非常に大きい。

その「僕のコダクローム」も市場からなくなりかなりの時間が経過した。

昨年からは、銀塩写真一新運動でもないが、思いつきで買った、カラーネガをCDに焼いたのが想像以上の面白さなので、もっぱらカラーネガのお世話になっている。

ただし、メーンの実用映像はデジタルで、趣味写真はカラーネガで撮影という分担をさせている。ゆえに、趣味のカラーネガの撮影本数が多くなると、またぞろ、ネガフィルムの保管場所に苦労することになる。だからカラーネガでは必要最低限のカットしか撮影しない。

フィルムは3月に10本くらいの使用ペースが理想だ。それも最近ではこの10本で2180円の、これは元、コニカのフィルムであろう。このフィルムがよいのは、実は「粒状性」が荒い点にある。

デジカメの画像は粒子が見えないから、「ぬるっと」している。フィルムは銀の粒子が見える。それがフィルムらしさを引き立てる魅力であるわけだから、どうせなら、なるべく粒子の粗いほうがよい。

こんなへんてこな価値観は銀塩全盛時代にはまったくなかったのだが、実にデジカメが映像生活のベースを支えてくれているおかげで、変な、というか、新しい価値観が生まれた。

そのフィルムはビックカメラに買いに行く。

以前は眼前に100本のコダクロームが積まれていないと「安心」できなかったものだ。それが今では10本のカラーネガが河岸の買い物かごに入っているだけで、豊かな気分だ。ようするに「銀塩写真の打率」が上昇してきたのであろう。

ビックカメラの売り場であたしより、2周り上の老紳士に遭遇した。

この10本パックのフィルムはどうですか?と、聞かれたので「これは趣味で撮るには最高のフィルムです」と答えた。

それでその老紳士も2180円也のパックを1個買ったのである。

下の画像はモスクワで。フィルムは10本2180円のやつ。カメラはレニングラード。レンズはシュタインハイル35ミリf4,5.

2008年10月23日 (木)

フルシチョフ第一書記のカメラ好き

Rimg0846 たしか、あれは2000年のことだった。ベルリンに取材に行ったのである。ちょうど東西ドイツの統合10年のその日にブランデンブルグ門あたりをライカで撮影した。何の媒体の仕事であったかは忘れた。

その前には、ウイーンにいて、ライカショップの倉庫に入って、めぼしいソ連製カメラを物色していたのである。

ソ連製カメラ愛好癖は、自分の場合、これは生活の必要から生じたものであって、ウイーンの伝説的なシンプルライフ時代に、「安価でちゃんと写るカメラ」が必要になって、それでベートーヴェンの何度目かの引越し先であった(この歴史の重層感がウイーンならではだ)クラシックな建物の一階にある、カメラ店のウインドウでキエフ3型と28ミリのオリオンレンズを買ったのである。キエフには無料でちゃんと50ミリf2のレンズの付いていた。

あわせて1万円ほどの買い物だった。フィルムはほかの映画機材の店で「期限切れ」のイタリア製のモノクロネガの200ft巻きの缶を買った。

こうして7年半にわたるウイーンスナップが営々と継続できたわけだ。その仕事は「ウイーン ニューヨーク 新潟」とか「ウイーンモノクローム70s」などにまとめたわけである。

思えば、経済的必要に迫られた状態でキエフを使っていたのは、今にして思えば、実にまじめなカメラ哲学であったわけで、そのキエフがもともとはコンタックスであったなどという、知識は後年に獲たのである。

それが何であるか知らないで、そのものに接する重要さというのをウイーンに教えられた。

たとえば、毎日の散歩でドナウ運河の脇に打ち捨てられたままになっている、白い2階建てで、波のモチーフが突いているへんてこな建物があった。時にはその中に入って遊んでいたのであるが、後年、その変な建物はちゃんとリストアされて、歴史的記念物のプレートがついた。

これがオットーワグナーのドナウ運河水位監視所である。歴史的に重要な世紀末建築であるが、それが何であるのかわからないでその建築を見ていた当時の方が、自分はその建築と対等な関係にあったと思う。

似たようなことが、最初のキエフが生活の必要で使っていたのにも存在するわけである。一方で上のソ連製の300ミリレンズ付きの「ガンカメラ」などは玩物趣味が目立つかなりの好事家の領域に属する。

話を戻すが、ウイーンのライカショップの倉庫に2台あったカメラの程度のよい方を譲りうけたのである。その値段は忘れたがあまり家人に大きな声で言えるような値段ではなかった記憶がある。

大体、都合の悪いことは忘却するとか、記憶から消してしまうのが一番だ。

このカメラは正式名はFS-1という。命名の理由は不明だ。キリル文字でSはCだから案外、一号写真機ってな意味かも知れない。

伝説によればこれはかのソ連の第一書記の愛機であったそうだ。フルシチョフ第一書記のカメラ好きは当時有名で、ソチかどこかの保養地で八セルブラッドをもって散策している、その姿を西側の通信社が撮影しているのだが、これは実は西側の八セルブラッドでははく、ソ連製のそのコピー、サリュートであった。

300ミリ付きのガンカメラはもともと軍用で少数生産されたのを、政府の高官などにプレゼントされたものである。

すでに10年来、手元にあるFS1であるが、昨年の8月に六本木ヒルズのエントランスのショーウインドウで「チョートククラシックカメラ展」を開催したとき、このガンカメラも展示した。それを撤収するときに、いきなりストラップの皮が切れたのである。

1945年製のカメラ本体はしっかりしているが、そのストラップの年齢による劣化は仕方ない。「チョートク研究家」を自称する、鵠沼のブレッソン(佐佐木潤一)に、そのストラップの修理を依頼した。

当方としてはその皮の部分だけ補修してもらうつもりであったが、鵠沼のブレッソン氏はインターネットはやらない。それで修理品を郵送するときに、走り書きの便箋にしたためたあたしの乱筆を読み違えたようで、修理のあがったストラップは完全に新品となっていた。

なんでもそのストラップの材質を検査して、その本体が「麻」であることを確かめて、わざわざ鵠沼から東京の材料店まで探しにきたのだそうだ。

そのストラップの長さは旧のそれに比較して10センチほど長くなっている。これはご本人がオリジナルのストラップより長いのはわかっているのだけど、手に入れた新品の麻のストラップを10センチ短く切断するのに、忍びなくそれでそのまま製作したそうだ。

でもその長いほうが取り回しがかえってよいのでこれはうれしい。カメラまで新品になったような気分である。

2008年10月22日 (水)

銀座三愛にリコー製ドーナッツRING CUBE登場

Rimg0818 GRD発売3周年を記念して、三愛ビルの8、9fにRING CUBEが10月21日にオープン。その前の日の午後3時からプレビューがあるので、三愛に出かけた。
自分の銀座の記憶としては、この円形ビルはなじみが深い。当時は丸い建物が流行した。
最近はあなり例を見ないが何故であろう。

まず、クラシックなエレベータが懐かしい。自分はクラシックエレベータフェチなので、もっぱら1920年代の蛇腹式の手動エレベータが好みなのだけど、60年代のクラシックエレもすでにその仲間入りであることが分った。
RING CUBEのある9fに着いた。
まず歴代のリコーカメラが並んでいるのを見て、第一印象は「おっ!金属カメラの森であるな」である。
それがなかなかの好印象。

しかし、会場に人影はない。
自分の開始時間の勘違いにて、午後3時からは三原橋のカフェにて、レセプションがあるのだ。
それで晴海通りを走った。
15分遅れであった。
入り口にF森さんがいる。「あ、今、Y浅プレジデントの質疑応答が終わったところです」とF森さんは言う。それが残念というよりも、「ちょうどよかった」というニュアンスなのは微妙であった。
というのはY浅プレジデントとF森さんと、あたしとF田さんとでこの7月に暑い香港と広州を歩き回った遠慮のない仲なのである。

会場に入ったら、まさに新宿駅の朝のラッシュなみで前も見えない。左右にも知らない人がいっぱいいる。
リコーの人気は最近はなまじではない。報道関係山盛り。

Rimg0817 周囲を見ると、御大細江先生、中堅横木先生、同様の宮内君、右に同じのお散歩はな、などスター揃いである。
自分は人間関係が苦手なので、麦酒一杯「ただ呑み」して早々に退散する。
歌舞伎座の前にて、これからレセプションに駆けつける、タカザワケンジさんに遭った。

そういう取り乱し方なので、RING CUBEは9fのカメラコーナーだけを見て、8fのギャラリーゾーンを見る時間がなかった。
RING CUBEの運営体制はドーナッツなのだという。なにか判じ物であるがだんだんにその内容が分るのであろう。
おみやげは本物のドーナッツで、なかなか味がよかった。

2008年10月21日 (火)

朝日新聞記事の「三題噺」

日曜。
終日、ヒルズで仕事。
1週間ぶりであるが、やはりここに来ると落ち着いて仕事ができる。
ホテルの部屋も悪くないが、鏡に向かって座り心地の最悪な椅子で仕事するのだから、効率はもとより上がらない。しかも新潟などは実に飲み食いの誘惑が多いからそぞろ外歩きがしたくなる。

日曜、朝日新聞の朝刊で三題噺あり。
Rimg0802 「犬の車いす」は、1970年代のウイーン時代に朝晩のドナウ運河の散歩で同じモデルのワンちゃんのを見て感心したことがある。

日本ではないのであろうかと思案していたが、あれから30余年経って、その疑問が解けた。もっとも欧米にはすでに存在するのではないか。
ワンちゃんは足が四本だからこれが可能である。人間は2本だからこれがやられると、手でまわすか第三者にお願いするか、はたまた原動機つきのモデルになる。

Rimg0804 Rimg0806 宮本常一の愛用のオリンパスペンSは、数年ごとに宮本の仕事が見なおされて、雑誌などに出ると、そのたびにペンSが中古市場で払底するのである。

今回もそうであろう。しかもこれだけカメラが大きく出て、しかも本文中でちゃんとオリンパスペンと明示してある。
フォーサーズばかりではなく、オリンパスもフィルムカメラのペンを出したら、男前が上がるであろう。

宮本の文章はエッセイなので学術的な収穫はない、などと言うがそこが良いのではないか。

徳間書店の広告である。

リチャード クーさんとはすでに10余年の面識だ。最初はクーさんが独逸出張の時に出会った、東独逸製カメラの全貌という本があり、それを邦訳したのがどこかで出せないであろうか、という電話だった。その本は立派に上梓されたが、その後、驚愕したのは、ナインイレブンのその日にあの現場にいたクーさんは九死に一生を得たのである。
その時の実話は今、思い出しても興奮する。タワーの崩壊するあの音はTVカメラでは絶対に再現できないとクーさんは言った。
Rimg0808 クーさんは終始一貫、コンタックス党だ。相変わらずコンタレクスと各種のツアイスイコンのカメラを愛でているのであろう。
彼の持っている珍品のクリームとマロンのコンビのコンタックス2型は第三帝国時代の超珍品である。その珍品の二台目を手に入れたのだけど、、、、と、クーさんは中古カメラショーでのあたしとの立ち話で、ちょっと口ごもった。
「その2台がね、、、チョートクさん、なんと同じ製造番号なのよ、、多分、どっちかあ偽物、、、どう思う?」と愉快そうに笑った。
この人のカメラへの執着は陽気なのが良い。

2008年10月20日 (月)

KCチョートクカメラコラム

KCチョートクカメラコラム

デジタルカメラ

★画質とサイズ N1260のこと

どうも入門者さんには、ファイルサイズが巨大なほうが万能であるという、デジカメ上の錯覚があるようだ。

それにRAWが万能であるという神話も根深いものがある。まだデジカメがあまり浸透していなかった当時、有名な写真家連中に某カメラ雑誌でデジカメを渡して、撮影してもらう計画があった。その一人の偉い写真家さんは、全部RAWで撮影したそうで、データを渡すとき、「だってRAWっていうのが一番、いいんだろ?」と言ったそうである。これは耳学問というやつだが、われわれ、デジカメのスペックをカタログ上でうんうんしている場合にも同じ間違いをしているわけである。

確かに雑誌で見る限り、終わりのない、ローモードテクニックの特集で雑誌は持っているようなところがあるが、全部、ローで画像を渡された編集者はそれを開くのに苦労したそうだ。

周囲のプロ連中を見ていると、それぞれに画質とフォーマットを使いわけているのは当然の話だ。まず、ポスターなどなら、膨大なRAWデータでもそれを処理してくれる専門家がいて問題ないけど、われわれの日常で撮影して文章かいて、ブログアップして雑誌の仕事してという輩にはJPGの方が実質的だ。それでないと生活時間に食い込んでしまう。

通販のカタログを撮っているプロの話だと、最初から75DPIあれば問題なくシャープだからそれ以上にはファイルのサイズを上げないそうだ。

それでよいのである。

自分の場合、一番お世話になっているのはコンパクトデジカメのN1260っていうサイズである。これは本ブログの画像がほとんどそうである。以前は大きなサイズの画像でも適当に縮小してくれたが、最近では1M以上の画像は最初からけられてしまう。それをこっちで最初からリサイズするのは面倒だし、大きなサイズと小さいサイズを同時に記録しても、たいていは小さいサイズしか使わないし、大きなサイズ(たとえばFモードで3MB以上のファイル)はまず使うことはない。

連載の雑誌の記事の説明カットならその画像(350KB)でも十分に行けるのである。2GBのSDだとこれで4000枚以上撮影できるのはうれしいような、残念なような気分だ。

あ、下の画像はそのN1260で撮影。カメラはR10。

@@@@@@@@@@@@@@@@

Rimg0299 銀塩クラシックカメラ

★レニングラードでシュタインハイルの35ミリを使った

ミュンヘンのシュタインハイル社は戦後はアメリカ向けの安価な交換レンズを提供していたので、その評価は侮られているのであるが、この会社の歴史は古い。フォクトレンダーほどではないが、ツアイスやライツよりも古いと思う。だからダケレオタイプ用のレンズなども生産していた。

1947年に登場した35ミリカメラが、新星カスカであって、これはライカの引力を完全に脱したモダンスタイルのカメラだった。それが翌年にカスカ2になって、レンジファインダーつきのモデルに改良されたら、案外にライカみたいなつまらんデザインになってしまった。

カスカ1の方は、これはシトロエンDSと比較が可能なほどの未来デザインだ。デザイン優先のカメラはそこにデザイナーの横暴と自己満足を感じるから好きである。シトロエンが金属のゴキブリなら、カスカ1の場合は妖怪塗り壁というスタイルである。

カスカ2は普通のレンズ交換式(ただし特殊バヨネット)で35ミリから135ミリまでの交換レンズも揃えた。ただし特殊バヨネットのレンズ交換なので、人気がなくカスカ2は1年ほどで生産が終わっている。その台数は1000台ほど。

その交換レンズである35ミリのオルソチグマートf4,5というのは、うわさでは生産中止のカスカマウントレンズをライカマウントに改造したと言われているが、これはピントリングのノブが2つあって、要するに「くまさんレンズ」なのである。

なかなかシャープなのは明るさがf4,5のせいかも知れない。以前、なぎら健壱さんがヒルズに遊びにきた時、キヤノン6Tかなにかのボデイにこのレンズをつけてきたので、

「おっ!なかなかやるな!」と思ったのである。

今回はレニングラードにレニングラードを持って行ったのであるが、レンズはそのオルソチグマートf4,5を持参した。これはやけに重いレンズなのだが、これをレニングラードにつけたのは理由がある。レニングラードのネックストラップのバランスが悪くて、天井を向いてしまうのだ。だから重いレンズだとちゃんと正面をバランスよく向いてくれるのである。

快晴の東京大周遊

土曜。快晴。

涼風吹き渡る。ウイーンの秋に(これは9月だが)町に似たような風が吹いて、それはドナウのワイン畑の実りの季節であって、ぶどうジュースからワインになる中間のシュトルームという飲み物がありますの札が居酒屋に張り出される。これがウイーンの秋である。

本来は山になっている仕事を片付けにヒルズの49fに行かねばならないのであるが、この好天にじっとしておれず、東京大周遊。

9時すぎには佃を出る。カメラはローライ3,5fとコーワ6。フィルムはエクタクローム100.

本日はデジカメ(R10)は忘れたので、画像はない。

大江戸線にて蔵前。そこからが迷うところで、新東京タワーも見たいし、(どこまで建設されたのか、土台はどうなっているか)一方でその前の土曜に「福田和也とその一味」のあの写真部で踏破した西新井方面にも行きたい。

こういう場合は10円玉の裏表とか、ウイーン時代には1シリング銅貨の裏表で決めていた。

河口彗海がチベットに入るとき、難局になると瞑想に入って、選択肢を自然に聞こえる天の声で決めたそうだ。現代の騒々しい生活では、路上で瞑想などに入っては、老人の行き倒れを間違えられるし、交通渋滞、交通事故の恐れ大であるから、硬貨の裏表で決めた。これは30年来のやりかたであるが、今、自分がこのような「境遇」にあるのは、過去のドイツマルク、ペセタ、エスクード、フラン、シリングの硬貨の裏表の丁半の結果なのである。

ただし。かの彗海も人生の最後では昭和20年だかに、夜間に掘ってあった防空壕かなにかに落下して数日を経ずして落命している。これは自己瞑想の聖者であっても、路上の穴にはかなわないという点で実に教訓的だ。

それで本日の行き先であるが、コインは家にすべて忘れてきたので、都バスの蔵前駅にて3分待つことにした。正3分でバスが来なかったら、そのまま徒歩で最寄の地下鉄から、新東京タワーの押し上げに行くつもり。3分以内にバスが着たら、それを乗り継いで舎人ライナーで「荒野」を目指すのである。果たして、3分以内にバスがきた。

泪橋で日暮里行きに乗り換え、三河島で下車。前から気になっていた街角を撮影。バックがピンクのビルでその前に肉やと牛乳や(だと思うが何やだかわからないくずれかけた店)とその隣には樹木の生い茂った洋食やあり。そこを持参の6x6で写す。ローライは静粛に、コーワ6はばしゃりという音がする。

日暮里駅から舎人ライナー。荒野(本当は高野だが、老人は荒野を目指すほうがなにかとドラマチック)にて下車するつもりが、これも気まぐれにてその次のなんとか駅で降りる。

駅名失念。

その駅ははじめてかと思ったらそうではなく、大石記念病院のあるとおりだから、この6月に降りている。駅前に「コジマ電気」あり。初めて入店する。持参の120フィルムが少ないので、ここに120フィルムがあるとは思わないが、フィルム式の「使い捨てカメラ」(これ禁止用語)を買う。富士の製品で39枚とりで580円。これで一応安心する。この安心度は撮影行にはうれしいことだ。

デジカメを持参すると、その安心がない。なにしろ、R10で普通の画像で2GBで5000枚は撮れてしまう。「豊かすぎると野生がしぼむ」というやつだ。

鍵型小路を道に迷いつつ西新井から北千住に抜けるバス通りにでる。地元の有名キッチン、ラッキーに入る。先週の土曜は福田隊は一行が7名なのでここに入店できなかった。地元の皆さんのカンテイーナの感あり。

ハンバーグサンド。800円。なかなか美味。

かの稲垣足穂は食い物に関して書かない方面の最右翼であって、かのジョイスのユリシーズの中で、腎臓のバタ焼きを作るうまそうな描写だけが、この長長編の中で唯一の食い物の話であるとは、吉田健一が指摘しているが、足穂の場合、「明石」の一冊はあれは郷土のPRのために書いたのだから例外として、それ以外にはやはり食い物の話は出てこない。その中で唯一の例外は、馬込の九十九谷の衣巻省三のところに寄宿していた当時、大森かどこかのカフェで、それは犀星の取り巻きの関係であろうが「ハンバーグサンドイッチはうまかった」とワンフレーズだけあるのだ。

それを思い出してラッキーで同じものを頼む。果たしてうまかった。聞くともなく、地元の人の会話と生活の断片がわかるのはありがたい。「なんとかサンは、フィリピンパブが好き」とかそういう話題なのである。新聞をにぎわしている、ビザの不正発給をあわせて思い当りことあり。

かえりぎわに、合い席で向かいの50代の麦酒でポークチョップをやっていた男性があたしのローライを見て、「カメラが好きなんですか」と声をかけてきた。こういうのはいい。

扇2丁目の農道の跡を歩行。そこらで持参の120フィルムがきれる。2台のカメラが急に重くなる。

かねて用意の、コジマで買った「使い捨てカメラ」(これ禁止用語)で撮影。4年前に通過して、森の中の「よろずや」を苦労せずに発見して、らくらく撮影。土地勘さえまくる。フラッシュまでついているのはたいした機構だ。しかも感度は400。

1年前、福田和也さんとか田中陽子EN-TAXI◎編と田端駅北口で初対面の時、「スピード」の石丸元章さんが持参の3台の「使いすてカメラ」で撮影していて、それが実に粋であったことを思い出した。使い捨てだから、「ちぎっては投げ、撮っては捨て、、、」という豪傑談なのだ。

道に迷いつつ、舎人ライナーの扇大橋駅着。そこから日暮里方面にもどり、熊野前で下車。都電荒川線に乗る。モダンな舎人ライナーから荒川線への乗り換えは、ちょうど、モダンはボーイング777-200から、いきなりアントノフ2に乗り換えたような感じで、その乗り物のギャップ感を楽しむ。

三ノ輪橋で下車。写真館のある古い建物は通り抜け道になっているのだが、その左手の果物屋は1981年に8X10カメラで撮影。その右手手前のくぼ地に老婆が一人入っている新聞スタンドがある。これも30年来の店であるが、前を通ったら老婆がいた。まさか30年前と同じ人ではあるはずがない。ポルトガルのコインブラで、1980年の秋に旧市街のマーケットの真ん中に盲人のアコーデイオン弾きあり。その人を撮影した画像は写真集「ウイーンとライカの日々」に掲載されている。一昨年だかあるコンテストの審査でその同じ場所で同一人物が撮影されていたので吃驚。この場合、かのアコーデイオン弾きは年齢がプラス30歳になっているわけだ。

天才アラーキーの下駄屋跡を散策するが、空き地になっているようだ。

その先に実にクラシックなパン屋あり。それも奥が工場なのである。その機械をつくずく見るに、本物のクラシックなパン焼きがまであって、昔、ウイーンで見たのと似ている。1950年代のライカ製の幻灯機にも似てデザインだ。

印刷機はハイデルベルクスピードマスターがすきなので、わざわざ、写真集の印刷にはそのマシンのおいてある工場を指定したりするのだけど、自分の食べるパンのパン焼き釜もマニュアルマシンを指定するようになったら、その道のプロであろう。

入店して、店主と雑談。

なんでも先代以来、60年の歴史のお店で、立派なパン焼き釜は、先代のころに学校給食を支弁した関係という。「昔の釜は手動で、しかも鋳物が厚いから絶対に壊れません。最近のパン焼き釜は自動だからすぐに壊れます」とは店主のことばだ。なにかそれがマニュアル銀塩カメラとデジタルカメラに言葉を置き換えてもそのまま通用する。

お店では「シベリア」を売っている。@140円。カステラ地で餡をはさんだものだ。昭和30年代にはごくふつうの菓子パンであった。今では「懐かしいシベリアあります」の張り紙が出ている。

なぜ、シベリアというんでしょう?とあたし。

「おやじがシベリアで抑留されてたんです。なにかシベリア鉄道と関係があるみたいなんです」と、店主。

シベリア帰りでそのままパン屋さんになったのは大変な出世であったのだろう。

その先の町角で「なんとかパテイシエ専門学校」という小さいビルの前では女の子が暇そうにしている。食うためのパンと遊びのためのケーキ。時代ですなあ。

ついでにじじいの小言として言わせてもらうなら、日本の結婚式で「余興」として「なんとかパテイシエ専門学校」を出たばかりの女の子が白い仕事着で宴席に出てきて、愛嬌をふりまいてついでに自分で製作した食えないケーキを皆さんに振舞う、あれが嫌いである。

ミシュランの星付きレストランを取材した(ブルゴーニュで)自分の狭い経験でも、シエフはお客様の前に仕事着で出るようなことはめったにない。

泪橋から大林にいたるがまだ2時代にてお店は開いていないので、そのまま徒歩、金太郎すし。お持ち帰り1,5人を2つ買う。

都バスにて蔵前。大江戸線にて佃。

2008年10月19日 (日)

高速バス停留所の謎

金曜日。
新潟ー池袋
ホテルをでる前、近辺、寺町あたりを歩行する。
家人の実家の墓のあるお寺にゆき、墓地を散策。そのお寺へのアプローチの参道の脇には民家がぎっしり建っている。その民家の途中、参道の左側に、あれは何というのかアルプスの救助犬、ああ、セントバーナードの老犬がいる。この犬は界隈の名犬である。

お墓と民家の境が実によい感じだ。つまり家の裏口からおりるとそこが墓地である。尾崎紅葉は横寺の自宅の二階から墓地が見えるのを気にして夭折したが、こういう墓地と生活が一体化しているところには一種の風景の美しさがある。こんば場所に住んでみたい。もっと飽き易いから1月でいい。

本町市場であわびを2個、ぎんなん、それを名前は聞き忘れたが、しめじのような恰好で裏が緑色の野趣のあるきのこを買う。普通のなめことかが300円なのに、これは1000円と高価である。これも野趣があっていい。

12時の池袋行きに乗る。バスセンターからの上客は4名だったが、新潟の高速道路のバスストップぞいに、お客を拾ってゆく。湯沢でほぼ満席になる。新潟は群馬との「国境」まで行くのがなかなか長い。
不思議におもったのは、バスストップでのる人々である。その周囲は完全な「野原」であったり「森林」であったりする。そこに人が乗り降りしているのは不思議だ。
大昔のアメリカ映画で主人公がグレーはうんどバスを降りて、原野の一本道を歩いて行くシーンがあったが、あれは映画の中でしか可能にはならない。

思案して、そうか、軽自動車と携帯のおかげか、、、と思い当たった。高速の脇の駐車場に軽自動車を止めて、バスで池袋のバーゲンに行くなどは粋である。帰りはたんぼのど真ん中でも、家に電話しておかあさんにピップアップしてもらえばよい。
そういう現代生活には程遠い自分を見て、失笑した。

携帯はなし、軽はなし。まるで「かたびらはなし、帯はなし、、、」みたいだ。

関越トンネルをこえると関東である。寄居、長瀞、小川町、川越で、すぐに練馬。この界隈の光景は20年見ない間に変わった。夕暮れのグレーの光景(これは西武バスのスモークガラス越しに一層強調される)の練馬、豊島あたりの路上のシーンは忘れられない。
雑司ヶ谷のあたりで、御会式の万灯を路上にみかける。この明かりのついたのを音羽通りに見て、うちわ太鼓を聞いたのはあきらかに半世紀以上前だ。
御会式はラテン系であるな、と思った。

帰宅。ライカインコたまごが3個に増えていた。Rimg0726
Rimg0720

2008年10月18日 (土)

新潟の木曜も快晴

新潟滞在中に地元の新MIXI友達から、メールをもらう。
以下の通り。

早速のご返事どうもありがとうございます。
きょうは、突然のスコールや竜巻などもあったそうで、珍しい天気の1日でしたが、夕方は澄んだ空にきれいな夕陽が出ました。
新潟は、これからが「食」のシーズンです。
ご滞在中、是非、上大川前通(かみおおかわまえどおり)10番町の「海老屋」(えびや)という、お蕎麦屋さんに行って見てはいかがでしょうか。
オークラからでしたら割と近いです。
ちっちゃな蕎麦屋さんで、お昼しかやってないかもしれませんが、100年来、港町にいがたを見守ってきたという味のあるお店です。
有名な「へぎそば」とはちょっと違う、つなぎに海草を使っていない普通のそばですが、安くておいしいので私もよく会社の人たちと利用してます。
お忙しい中、これだけは、おすすめしたく・・・返信しました。

というわけで、朝から上大川前通り方面を徘徊す。
20年近く前に「ウイーン ニュ−ヨーク 新潟」の写真集(これは新潟放送とミサワホームがスポンサー)の新潟のセクションの撮影にて、1年近く新潟に通ったので、新潟アイランドの土地勘はある。
ただ、今回、発見したのは、20年前はただ漫然と長距離を歩行していただけで、目的地に意思を持って行くということはなかった。
それで初めてそのおすすめのそば屋に行ったのだが、地図を見て新潟旧市街の地番はマンハッタンみたいに分り易いことが判明。
要するに5番街が南から北へ延々と続いていてもその番地で分り易いのと同様に、上大川前通は南北に長いが道に迷うことはない。
その点、欧州の番地表示と似ている。

その前に、ホテルを出て、義弟の40年来贔屓にしている、喫茶店シャモニーにて珈琲を一杯。ここのはかなり深煎りで自分の好みではないが、30年来観察するに、理科系のお客が多いみたいだ。ようするに珈琲の味わいと内容とを定量分析する人類である。ちなみに義弟は東京都公害研究所。

上大川前通を徘徊する。見覚えのある光景は20年前に界隈を写真集の為の撮影で歩き回った時の記憶が浮遊してくるからだ。
Rimg0582 今回は、思いついて「自分の生まれ年のカメラ」を持参。
生まれ年のライカというのを座右に備える人が多いが、団塊の世代の場合、これが損なのだ。1947年というのはライカの質がもっとも低下した年で、まず3Cくらいしかない。
その点、天才カメラ設計家、ボルスキーのアルパは異なる。
アルパフレックスに40ミリのマクロキラー、135ミリのタクマーにて撮影。

天候は快晴で、Tシャツ一枚。まるでリスボンの4月のようだ。

Rimg0546 目的の「海老屋」は11時過ぎなのに、すでにほぼ満員だ。狭い店である。天丼(これは南蛮海老)ともりを食う。はなはだ可なり。これで酒があれば万歳だけど、客席は10もない店なら仕方なし。南蛮海老の頭はそのままみそ汁になっているのがいかにも良い感じだ。

Rimg0565 徒歩、新潟市美術館。
新潟開港140週年というので、「浦潮と呼ばれた街」というウラジオストックの大展覧会。 ウラジー ボストークというロシア語は「東方を征服せよ」の意味で、それがこの地名になったと展覧会のごあいさつにあった。それが日本語で「浦潮」と音写してしまうと、万葉集ではないが、田子の浦の鹽炊く煙りめいていきなり牧歌的になってしまう。もっともウラジオで展開した歴史はちっとも牧歌的ではないが。
大黒屋光太夫の「北槎問略」は早稲田大学の所蔵だがその巻物の展示あり。その中のエカチエリーナ2世の肖像は実物にそっくり(おそらくミニアチュールなどからの模写)であった。それが江戸時代の人相書きのように、顔の特徴が強調されているので、いかにもリアルである。
なにか、先月のサンクトペテルブルクがここまで追跡してきた感あり。

日和山の展望台(というか屯所)に登る。10年前と日本海の光景は大に変わって、海岸の先にアイランドが出来ている。
エメラルドグリーンの日本海らしからぬ海を汽船が行く。
快晴なのに佐渡は一切見えないのも不思議である。曇りがちとか荒天の時に佐渡が見えるのだ。

Rimg0639 砂浜に降りて、ガングウエイと歩いてアイランドの先まで行く。釣り人10人ほど。熱心に魚をつっている。堤防の水たまりに知らない小魚が泳いでいるが、その速度に驚く。
日本海はふだん自分の考えている、日本海とはまったく異なるあるものであるらしい。自分の場合、いつも欧州に行く時の眼下の海岸線のその場所に立っているという実感である。
それ以外にはかなり抽象的な海のことを考えている。一方、釣り人は眼前の海面から魚をつり上げることのみが目的だ。これはスポーツかも知れないがマクロな経済活動である。

突堤の先に高校生の男女が制服姿でデートをしている。これも目的のある行動である。
61歳で1947年製の古カメラを持っている自分はこの場にはもっとも不似合いな行人だが、それをチャラにする免罪符はある。
すなわち「ツーリスト」。

徒歩、信濃川まで行き、転じて古町の市場にて買い物。
おさしみは、あじ、ぶり、いか、南蛮、そしてふなべた。しめて2千円。
ふなべた、は白身の上品な味にて、地の魚であろう。1976年、29歳の時、現代日本写真家展の準備で「来日」した時、新潟、京都、岡山に遊んだ。
本町の市場で「ふねべた、ってなに?」と聞いたら、市場のおっかさんが、越後弁で「ほれ、そこにいるやつ」と示してくれた。
新潟の魚はのどぐろ、と、ふなべたである。

本日は快晴なのに、日本海の落日は拝めず。

2008年10月17日 (金)

海岸をあるく

Rimg0293 Rimg0385 新潟。水曜日。
早朝は雨。それから晴れてくる。
11時ころまで、ホテルの部屋で仕事。
双眼鏡にて青い水平線を観察。

先月も新潟の海岸を大黒屋が訪問したサンクトペテルグルグに行く時、上空1万メーターから行き帰りに観察したわけである。欧州行きなら、何時も最後に見る、最初に見る日本がNIIGATAなわけである。

それは毎度のことであるが、その新潟に着陸することがなかなか困難であったのでそのストレスが今回の新潟行きとなったわけだ。

ホテルの前のバスストップから浜浦町方面のバスに飛び乗り、松波町3丁目で下車。家人の実家の前を通る。

海岸に出る。
海岸線が見えてその手前が普通の道であるという、その視界が自分の大好きなシーンだ。

「ここに地終わり、海始まる」
という感じがする。ただし、800キロ先は沿海州であって、そこから遥か、ポルトガルのサグレス岬まで「地」であるのだがそのことはひとまず置く。

この前、ここに来た時には灰色の日本海であったから、5年前にはどうも冬に来たようだ。「佃日記」を再検索する要あり。

今日の日本海はナポリと言っても良いような陽気な色をしている。
勝間光学の双眼鏡にて、海の家の閉じた前の椅子にて海の様子をじっくり観察。
海岸にて漂流物をさがす。
20世紀後半の日和山海岸では韓国船の船具とか飲み残しの酒の瓶とかが漂着して、それらを観察し、またピックアップするのが好きだったが、新潟の海岸は最近では奇麗になってそういうオブジエは一切なし。ちょっと寂しい。

新しく、海岸の先に砂浜が流失するのを防ぐためのT字型の人工アイランドあり。そこがフィッシングに好適な場と見え、釣り人を見る。
水平線の上を見るに、12時に新潟空港を発したJALのMD90、それから15分後に中国航空の小形機を見る。後で新潟空港のタイムテーブルで調べたらこれもMD90であった。塗装のやり方でこれは小型機に見えたわけである。その後、これはグレーの自衛隊機が飛行。

護国神社に出る。
安吾の碑を見にきたのである。その神社の参道の手前に戊辰戦争で亡くなった兵士の広大な墓所あり。その中の東屋にて休憩。ついでに展墓。

皆、20代で死んでいるのであるが、時代は戊辰戦争だから、今の20歳とはわけがことなる。立派なおとなである。

そこを立って、かなりの距離のある護国神社への参道の途中で、さきほどまで飛行機と水平線を見ていた、勝間光学の6x30を紛失しているのに気がつく。さっきの戊辰戦争のポイントまでまたもどる。くだんの勝間6x30はちゃんと東屋の腰掛けの上のそのまま置かれていた。烏にさらわれなくて良かった。Rimg0404

Rimg0408 勝間の双眼鏡は他には10x40も持っていてこれはヒルズの49fからの観察用だ。もっと大きいのも欲しいのだが、シュタイナーの7x50は、海兵隊用dで砂漠の嵐作戦に使用したやつだが、旅行には重くて持参できない。

旅行は戦争ではないからだ。この6x30は「中近東の某国の軍用」だそうだが、大きな双眼鏡への夢というのは、フルサイズのデジタル一眼レフへの夢と似たようなところがある。理想と現実のギャップだ。

軽量な双眼鏡は高性能なコンパクトデジカメのようなものだ。

これを映画撮影機に例えるなら、仏蘭西のプロ用16ミリ映画撮影機エクレールが、モデルNPRから、エクレールACLに進化したようなものだ。ただし、当初のエクレールACLは200ftマガジン付きの小形な撮影機だったが、だんだんと「改良」されて最後は大きくなってしまった。

不健康なエクレールコレクタ−としてはその最初のモデルから最終モデルまで持っているのだけが、精神は最初機モデルに宿っているのは言うまでもない。

バスにて、新潟駅に出る。
駅南に10年前にローライMXを2、5万で買った中古カメラ店あり。そこに行くつもりが、途中で天候が変わり、スコールになる。緊急避難でそこらの食堂に退避。ラーメン500円を食べ終わっても雨は止まず。

後に記す/これは竜巻であった。以下、木曜の新潟日報にその記事あり。Rimg0482

餃子を頼んで、お酒を冷やで一杯。こういう普通の店でもお酒がちゃんとしているのは文化であると再発見。

雨が止まないので、中古カメラ店訪問は止めにして、駅ビルの中の巨大な「ジュンク堂」に入る。1fとB1が全部書籍棚である。

Rimg0414 ちくま学芸文庫の棚がかなり広い。普通の書店では学芸文庫などはないわけであるが、この売り場面積にして、この数の学芸文庫あり。

前から読もうとおもって忘れていた、柴田宵曲の「奇談異聞辞典」(724頁の厚い文庫)2200円を買う。宵曲はアルス本の「子規全集15巻」の編纂者でもある。

徒歩、万代橋を渡り、本町市場。南蛮えび、ひらめ、いかの刺身。1200円。

本町からホテルに戻ろうとして若いポリスに声をかけられる。ポリスは振込詐欺の注意パンフを示す。全国的にこのキャンペンをしているもよう。

Rimg0481★ 後で記す。15日は年金の支給日だそうだ。新潟日報にその記事あり。

「漂流者」は昨年だかに40代で新宿でさかんに職務質問に遭遇しているが、あたしのように60代にもなると、もう官憲からも見放されて、職質にすら会わないのはちょっと悲しい。

でももっと高齢になってポリスに徘徊老人として保護されるよりはましであろう。

いや、もうすでに徘徊老人である。徘徊青年、徘徊中年、そしてその成果の上に今の徘徊老人があるわけだ。

午後5時過ぎ。ホテルオークラの部屋から快晴の日本海の落日を見る。Rimg0474


2008年10月16日 (木)

鍋茶屋で「孤食」の大満足

Rimg0233 新潟。

家人の父などは、真面目な役人であったのでえらくなってからは、宴会の席によく呼ばれたようである。通勤は公用車が与えられたが、それを固辞して役所に自宅から徒歩で通うような人であった。

新潟の松波町の実家に泊まりがけで遊びに行った時など「さあ、、、今日は宴会だ」と仕事に行く時よりも仕事気分を高揚させているように見えた。宴会は仕事なのである。

その家人の旧姓浅井家はどうも「男どもは酒が飲めない」という伝統があるようで、義理の父のその言葉を聞いたのはすでに30年も前であるが、飲み助の自分なら、毎日宴会なら楽しいと思うが、行けない口だったからそれなりの苦労があったようだ。

その義父母のお通夜が順次、新潟であったのもすでに10年の昔である。その時、義兄は葬儀委員長であったわけで、会場を回ってお酌をして歩いた。
これは銀行の偉い人であった義兄の世慣れた行動でもあろうが、自分から観察するにこれは一種の「先制攻撃」なのである。撃たれる前に撃てではないが、杯を指される前にこっちから攻撃してお酌すれば当方のダメージは最小限になる。
攻撃は最大の防御であるわけだ。

あたしは「堕落」しているから、いくらでも攻撃されて嬉しい方だ。
昔、リコーに北京で開催された当地の報道写真家のフォトコンテストに「審査委員長」としてひっぱり出されたことがあった。
授賞式が済んで、新華社の23階だか最上階で宴会となった。あたしは指される白酒(例の強いやつ)を順次開けていったので、新華社側では「これは立派な人物だ、、、」(単なる酒好きとは見ないのが中国は偉い)ということになったが、リコー側の皆さんはお酒の行けない方が多かった。つまり自分はここで「人間の盾」にされていたわけである。

昨夜鍋茶屋に遊んだ。古町の通りから入ると、長い長い植え込みの通りがあって周囲は深閑としている。
ただし、一人宴会であるから、鍋茶屋の「光琳」のカウンターに座った。正五時に入店。客、一人。
Rimg0234 Rimg0236 Rimg0235 先付け、お造り、のどぐろの焼き物、柱のしんじょ揚げ、湯葉の煮物、このわた。
おかん4本で1、3萬円は安い。

先付けは「菊と舞茸」を三杯酢にしてある。その加減が良かった。しかも量が多く、これだけで最初のおかんが空になった。
おかんは100円だかプラスすると、越の寒梅があるが、自分は寒梅は口に合わないので、飲まない。だからふつうのおかんである。これがバランスのとれた酒だ。

同じカウンターで5年ほど前に家人のリサイタルを新潟で開催した時、伴奏ピアニストを接待した。

3人で似たようなものを食ったが、それが記憶にない。思うにちゃんとした物を食う時には会話は禁物であって、出来れば個食、孤食が理想的だ。宴会はその意味で失格である。

鍋茶屋には二百畳敷きの座敷があるそうだから、他にも厨房は沢山あるのであろう。

バルセロナでは上客の為に、キチンに椅子とテーブルを入れて、そこでサービスする古き良き風習があるそうで、そういう取材をしたことがある。
暑いストーブの前で小さいテーブルで食える権利はそのお店にかなり散財をしたゲストに限られるそうだ。
「光琳」のカウンターがそういう場所なのだと錯覚すると、これは実に豪華である。別に灯火に金屏風の前でなく、蛍光灯の下、冷蔵庫のステンレスの反射の前で食べたい。金屏風なら佃の茅屋で日常である。

この光琳のカウンターは良く出来ていて、着席すると板場の仕事は見えない。ただ仕事しているスタッフの上半身の動きだけが見える。こっちは海原先生ではないのだから、包丁さばきまで見て、憤慨して帰る必要もない。うまい作りだ。

脇にてんぷらのカウンターがあるのに気がついた。
次回はここに座ってみよう。

2008年10月15日 (水)

新潟ではビルの屋上の上に水平線が見える

Rimg0143 朝7時半の池袋の有楽町線のホームにいた。
月島からは地下鉄はがらがらであった。火曜の週始めとは言え、まだ空いている。
ホームに立ったら、向かいの上りの電車はすでに満員だった。

都心一極集中。あたしはその反対に移動。

池袋東口のキンカ堂前から、新潟行のバスに乗る。値段は往復で1萬に行かない。タクシー代で新潟に往復できる不思議。新潟交通で1号車と2号車がある。がらがらなのに、なぜ2台なのかと思ったが、昨日、新潟から池袋への便が混んでいて2台のバスが東京に来たのであろう。

Rimg0154 飛行機と同じで、「機材のやりくり」で、これを新潟に陸送する必要がある。だから、帰り籠とか、帰り馬という感じ。
客は全部で4名。無論、あたしがじいさんの最年長。

東京っぽい感じの女の子は六日町で下車。なるほど、農村が都市を包囲しているわけか、、、。

この路線は初めてだが、(もともとクルマには乗らないから)標高が高くなってくると、「尾瀬」とか「谷川岳」の標識を見る。尾瀬という場所は高校生の当時、林間学校で行ったきりだ。
福島の方にあるものと思っていた。
ショックだ。まさか近年、こっちに「本社が移転」したわけでもあるまい。

どんどん山が屏風のように迫ってきたと思ったら、いきなりトンネルだ。関越トンネルという。その長さは10キロほど。Rimg0176一直線なので眠くなる。こっちは乗客だから寝てもかまわないのだけど、ドライバーさんは激務だから大変だ。オートパイロットはないのか。
そのトンネルを抜けたら雪国のはずだったが、そこはシーズンオフのスキー場で、なにか枯れ葉剤のまかれたベトナムは山岳民族の棲む村という感じがした。
無人。

田んぼの稲はすでに刈り取られ、その先も殺風景。
最前列で居眠りしていたら、バスはすでに新潟市内を走行。

市内は実にシーンとしている。それは悪い感じではなく、良い感じなのだけど、なにか戒厳令でも発布されているのではと思うほどの無人さ加減なのである。

バスセンターで降りて、荷物を持って万代橋を渡ると、眼前はホテルオークラである。
欧州の行き帰りに高度1万メートルから見える唯一の新潟のランドマークだ。つまり爆撃目標である。
この9月で創業30年という。

Rimg0216Rimg0223 12階の部屋から海岸を見てびっくりした。
水平線が周囲の建物の遥か上の方にグレーの絵の具で慌ただしく、背景を作ったような案配に描かれているのである。
それがいかにも作り物なのである。
これは実景であって、作り物ではないのだぞ、と、よくよく持参の双眼鏡(勝間光学の6x30)で屋上の上に横たわるグレ−の水平線を見ると、佐渡汽船の大形船舶がゆっくりと左から右に横切る。

それを観察しても、その光景はやはり非現実的で交通博物館の模型のように見えてならない。
グレーの書き割りの向こうで、ボール紙の水平線の下のスタッフが模型の船を動かしているのだ。

Rimg0227 Rimg0225 5年ぶりの新潟市で、この「模型感覚」が面白く感じられた理由は眼前の日本海最高のタワー、ネクスト21の脇に新しいタワーマンションが出来て、12fのホテルの窓から見ると、その2棟が重なっていることにもあるようだ。

久々の新潟は自分のあらかじめ想像していた、新潟とはかなり異なった様相を呈している。

思うにバスで来たのがその要因のひとつだろう。
月夜野インターあたりで、空中にかけられた山の中腹の高速道路の橋の上から下界を見たら、谷一面に展開する町並みがこれもアリタリア航空のミラノ=ミュンヘンの飛行中に見えた、インスブルックの模型めいて見えたのだ。

理科室にあった、地理学の巨大な紙粘土の模型の中をバスで走っているような錯覚だった。
その錯覚がオークラの12fまで持ち越されているわけである。

Rimg0257 ★一夜、明けて、朝は雨だったが、晴れてきた。

昨日以来、ビルの上の水平線が気になる。勝間光学の6x30に、リコーR10を付けて撮影したのがこれだ。飛行機などで見ていると、どんなに高度が高くても地平線は自分の高さと同じに見える。

それと同じ錯覚なのだけど、やはり「新潟ではビルの屋上の上に水平線が見える」のであり、その上を船が行く怪奇現象があるのだ。

2008年10月14日 (火)

安吾行

Rimg0123この前の週の火曜に岩波の山口さんに京橋の「天七」でお目にかかった時、新刊の文庫をいただいたわけだが、自分にとって安吾というのはほとんど知らない存在で、名前だけは知っているという程度だった。

しかも、安吾は新潟の西大畑生まれというので、逆に近親感ではなく、そこに距離感を感じたのである。西大畑は家人の家族が満州から引き上げてきて最初に家を構えたところだった。そこから今の松波町に移っている。

それが岩波新書で初めて「堕落論」を読んだらこれが面白い。戦後の勢いはこういうものであったのかと感じた。

その「堕落論」は足穂の中に安吾の作物として登場するのだが、その中で、(安吾によれば)「稲垣はふんどしひとつしか持っていない上に籍もない、と書かれてあるが、これは千葉の房総文化協会にぼくが寄宿して居たとき、文学好きの特攻隊くずれの青年の持ち物だった軍用のキャンバス地の折りたたみ式ベッドを僕が占領したので、その青年が安吾に会った時にくやしさのあまり、彼の補足性を足して、酒のつまみの話として提供したものなのである」という意味のことを書いている。

足穂に言わせると、安吾は「昔は矢田津世子さんとやらをおっかけまわすような虚弱な文学青年であったが、戦後に会ったら見違えるほどの、まるで運動選手のような立派な体格になり、新宿のバーの紫の煙の中に悠然と入ってくるような人気男となっていた」とも記している。

人間の突然の変貌というのは元来、そういうものなのであろう。

ところで、「ふんどししか持っていないし、籍もない足穂」が「堕落論」の中に登場するのは誤りで、実はこの文庫に収録の別のセクションにそのフレーズが登場するのだが、それはそれで良い。当時の赤貧の足穂はそのオリジナルの本など読んでいないであろうからだ。

安吾は銀座のルパンで写真家林忠彦と知り合いになり、それで名作「かみくずだらけの室内」の写真が撮られることになった。林はプロだから、安吾を左サイドから撮影したのが有名であって、そのアングルからは紙くずしか見えないのだけど、この文庫の新刊のその表紙の写真を見たら、これは右方向から(安吾から見れば左サイドから)撮っている。

それで初めて判明したのだが、座り机の脇に新潮が落ちているのである。それは昭和22年の2月号で、その雑誌の巻頭には足穂の作品が載っているのだ。

昭和20年代の新潮は何時も自分の佃の寝室のベッドの周囲に散らかっているので、60年の時間差がここで一挙にゼロになった気分である。それが痛快だ。

本日はその意味で、「安吾行」なのだ。

早朝の高速バスと駆って、紅葉の道を新潟に。宿はオークラである。高度1万メートルから見える、新潟のランドマークがこれである。なんでも今年で創業30周年という。それで夕方から鍋茶屋付属の「光琳」で新潟の肴を相手に独酌しようという計画なのだ。

あ、本当は原稿を書きに来たのだからあまり飲むのは止めよう。

と、真面目ぶってみる。

Rimg0124

2008年10月13日 (月)

東京の空、東京の水

Rimg0103 サンクトペテルブルクでは、ネバ川と運河を結ぶ観光船に乗った。

貴族の館のならぶ、ちょうどエルミタージュ宮殿の裏手からボートにのって、運河を周回し、ネバに出てしばらく遡上してからまた運河に入った。

その時間は1時間ほどだったが、新たな感動というか、発見は水路は道路とはまったく別のセオリーでできているから、都会の空間認識がまったくことなるという、いまさらながら当然なことを再確認した。

レニングラードの一番高い建築はペトロハバロフスク要塞の尖塔だという。ほかには高層タワーなどないからまるで、18世紀のそのままのスカイラインである。

東京に戻って、佃の15fからなじみの隅田川を見て安心はしたけど、その川幅はやはり狭いので「迫力に欠ける」などと勝手を思った。

仕事場の関係で、東京の空はよく見ている。今日の午後の雲と空はなかなか見所があった。

Rimg0104 ライブラリでい石塚元太良の「INNER PASSAGE」を発見した。大判の東京の神田川を撮影した写真集である。石塚の仕事は以前、デジカメで撮影したとおぼしき、世界のスナップショットの小さい写真集を見て、記憶に残っている。

神田川とか東京の水系を撮影する写真家は少なくないが、石塚のそれはその視線がいかにも消え入りそうであって、そのゆらめく視点が良い感じである。

しかも神田川でも大川までは出撃していない。視線が非常に水面に近いのと、無限遠にピントがあっているのではなく、至近距離にあって、その水面がリアルに写っている。それが呼吸する感じである。

いつも、隅田川の遊歩道を散歩していて「もう少し低い視点で見られたら面白かろう」と雑然と考えていた自分の視点への誘惑はこの写真集で少しは報われることになった。

巻末の石塚のコメントは楽屋ねたであるが、なんとカヤックを操舵して、そこから撮影しているのだ。石塚の仕事への先入観があって、これもデジカメの撮影でゆらめきが出ていななと勘違いしていたら、カヤック上の石塚はリンホフテヒニカを手にしている。

レンズは135ミリの検討だ。そのポートレートで見る限り、石塚はファインダーは使っていないようだ。なかなかの視線の「猛者」である。

2008年10月12日 (日)

1970年9月8日プラハの澁澤龍彦と藤岡啓介

ヒルズの下の青山ブックセンターで、本を探すのが楽しみだ。
en-taxiの最新号はレジのそばの棚に面刺しになっているのを買ったし、その前にはその同じ棚にあたしの「GRDワークショップ」が置いてあった。

入り口の展示棚は、あれは何というのか、話題作りのコーナーみたいになっていて、パリ関係の書籍が並んでいる。
この前、ロシアに行く直前にはここで、Atgeの写真集を買った。今日はパリのオムニバスの写真集がある。いずれも独のTaschen刊である。その価格が1980円は安い。
Rimg0100 写真集を販売して身を建てている身としては、そういう「ダンピング」は困るといいながら、買う方にしてみると、やはり安い方が良い。これは在庫処分というやつだ。

デザイン雑誌AXISの連載はすでに7年ほどになるが、その最初の連載打ち合わせで、訪問した編集部に行く前に、ストライプハウスミュージアムで、やはりバーゲンの写真集(ウエストンなど)を大量に買って、それから打ち合わせに行ったので、腕が抜けそうであった。
あの当時、まだヒルズは完成していなかったな。

青山ブックセンターのその同じ棚に1990年刊行の澁澤龍彦の欧州日記(文庫)を手にとって、開いたら1970年9月8日の頁だった。
朝、ホテルで朝食していたら、藤岡啓介がくる。13年ぶり。とある。
http://www.books.or.jp/ResultDetail.aspx?IdString=0%2cMAIN%2cNODE%2c5164955&Title=&syuppansya=&showcount=20&startindex=0&writer=%93%a1%89%aa%81%40%8c%5b%89%ee&searchtype=2

こういうのは、奇遇というよりも、古い日記の中にそういう関連人物と出会うのが実に不思議でもあり楽しみである。

最近、お目にかかっていないが藤岡さんがお元気であろうか、と思った。

澁澤はそれから藤岡とプラハ見学をするのだが、プラハに棲んでいる自分にしてみると、その二人の行き先があまりにもツーリスト的なのが、いにしえの感覚がある。
さらに滞在を2日伸ばす為に、外国人警察に出頭している。70年代、その部門は旧市街の今、小さいカメラ屋のある先にあった。赤茶色の巨大な人物のテラコッタのあるファサードの建物がそれである。

思うに1970年というのはまだ欧州に自由に行ける時代ではなかった。
澁澤の作品は嫌いではないし、また北鎌倉のお宅にお邪魔して、ウイスキの供応を受けたのであるが(そのポートレートは東京ニコン日記に収録)1970年代の澁澤のパイプをくわえた観光名所での記念撮影は、どうもあまりに安っぽくて文豪らしさに欠けている。

澁澤はその後、ウイーンに行く。そこでも観光をするのだが、文庫本中の記念写真で「シエーンブルン」とあるスナップはウイーンではなく、プラハのベルベデーレの「歌う噴水」の前である。

パリの写真集が1980円の安価なので、澁澤の欧州日記の値段、1100円はなに高いような気になって買わず。

2008年10月11日 (土)

アパチュアーと黒犬

Rimg0004 [aperture]はアメリカのまじめなカメラ雑誌であった。

これは1970年代の話であって、版形は今のサイズよりもかなり小さい、一種の変形出版物だった。

しかも全部がモノクロ。

似たようなまじめな雑誌にinfinityというのもあった。そういうカメラ雑誌はシリアス雑誌と呼ばれ、あたしのボスのケプラーさんのやっていたのは、メジャー雑誌つまり、ポップとかモダンフォトなどは大衆向けだから、だめという線引きが当時はちゃんと存在したのである。

当時のメジャーなカメラ雑誌にはほかにはスイスのカメラ誌であって、これは英独仏で出ていた。

1971年の12月号に東京のスナップをスイスカメラに発表したとき、数人の写真家のポートフォリオのトップが浜谷浩さんだった。当時、世界の浜谷であったから、巨匠と同じ雑誌に登場できたのは感激だった。

その後、1973年からウイーンにすんで、たしか1979年の年末のスイスカメラ誌に4x5で撮影したウイーンの作品を掲載したので、まずスイスカメラに10年に一度の掲載であるが、これは実は当時の写真家としてはかなりの頻度の高い発表なのである。

その原稿料の額は忘れたけど、1971年のは案外に記憶にあって、NDCの給料が4万円程度であったのに、3万円にちょっと足りない稿料だった。

これはたいした額である。同じころに西ドイツのグラフ誌sternにも見開きのモノクロ2ページを掲載してやはり2万円ほどだった。その高額に驚いた。

思えば、写真雑誌の稿料は過去30余年の据え置きだから、「鶏卵の価格」みたいなものだ。

上のapertureはヒルズに行くとき、青山ブックセンターのぞっき本のコーナーで見かけた。低下の80㌫引きなのである。中を見たが、往年のモノクロ時代とは異なり、その内容はかなりエキセントリックになっている。

ロバートフランクの映画撮影(50年代)の現場のスチールが多く掲載されているのはめっけものである。立ち読みしていたら、脇に wegmann好みの黒犬がこっちを見ている。

「コンポラ写真青年よ、、、、君も年をとったねえ、、、」と、くだんのコスプレ犬はいうのである。ただしwegmannの黒犬のコスプレはフリードランダーを開祖とする「アメリカ路上撮影ライカ35ミリレンズモノクロ横画面」よりは10数年後だから、まず問題なしか。

2008年10月10日 (金)

レニングラード、レニングラードから帰還す

2週間前のロシア行きは実に貴重な体験だった。
一番、目を開かれたのは正教会には夏の教会と冬の教会があること。
中央の鐘つき堂のタワーを挟んで、南北に教会がある。夏の教会は暖房はなく、冬の教会には暖房があるそうだ。

日本的発想で考えれば、1つの教会に暖房入れておいて、夏にそれを使わないので良いのではないか、と思うがそこがロシア正教の偉いところなのであろう。
まあ、土地がふんだんにあるのもその理由であろうか。

モスクワの東、200キロほどにある、スズダリ(自分は下北のすずなりを思い出す)という場所は人口は12000ほどで、その人口は12世紀から変わらないのだそうだ。そういう数字にはなにか感動する。

それで、村の中には何もなく、灌木と茂みと小川が流れて、あちこちに修道院があり、12世紀のユネスコ遺産の古びた教会が点在する。
その一つは、かなり斜めに傾斜している。ピサの斜塔よりもっと傾いている、「スズダリの斜塔」だ。

Rimg0098 東京から持参のレニングラードで、ホテルの部屋から朝晩、窓の外の光景を撮影した。ホテルは4つを転々としたので、都合、それだけの種類の部屋の中と、窓の外が撮影されている。
でも、α200、D700、R10、RD1Sで撮影した画像は沢山あるが、レニングラードで撮影した(サンクトペテルブルグのことではなく、カメラの方)カットは36枚撮りフィルムを全部撮影することもできなかった。

Rimg0038 最新号のエスカイヤでカメラ特集をやっている。頭のはげ上がった、ステファンショアが、ローライ35を構えている表紙の写真は中古のローライの在庫を払底させるであろう。このカメラは諸文化人に好評だから、再生産をお願いしたいほどである。

半世紀を超えた写真人生とは、広告関係者の嫌みなコピーであるが、ショアは12歳のときにライカM2を手にしているから、確かに半世紀超えである。エスカイヤで見る彼の仕事場は思いもかけぬ質素なのが良かった。作業用のテーブルにデイアドルフ、ペンタ67、ローライ35、ライカM2を並べた。M2に付いているズミクロンは近接仕様であった。

そこで考えたのは、35ミリフィルムカメラの美点は「沢山撮影できないこと」にあるということである。これはデジカメ登場以前には考えもつかないことだった。

そのレニングラードは里帰りを果たして、今、東京に居る。もう一台のレニングラードを買ったら(実はすでに1ダースは持っているのに)快適であろうと、銀座のレモンに1台、価格1万円のがあったので買いにいったが、シャッターがすだれになって、向こうから空の★のように光が降り注ぐので見合わせとした。

レニングラードの問題点はその距離計が全部、例外なく狂っている点だ。過去に100台ほどの同機を見た経験ではそうである。
しかもフィルム送りはパーフォレーションではなく、力まかせの巻き上げであって、画面の間隔は長くて、1本で34枚ほどしか撮影できない。
一方で、そのスプリングの巻き上げはライカモーターなどより迅速だ。
当時、ソ連で最高の価格のカメラであったもの納得できる。

Fh0100111 この作例は9月26日。モスクワ空港に向かうクルマから。レニングラード。レンズは独逸製のシュタインハイル35ミリf4、5。

2008年10月 9日 (木)

岩波の山口さん

Epsn0499 8月の始めに岩波書店の山口昭男さんに大森山王のお屋敷であった。

暑い日で山口さんはワイシャツの腕まくりで、広大な敷地に建っている様式と和式の100年住宅を見せてくれた。
そこは2年後にマンションになるので、その最後の日を撮影して欲しいと前から依頼があったのだ。それが壱日延ばしのなって、とうとう、明日は重機が入るという本当の最後に日になってしまった。

広い座敷にすがれたちゃぶ台が置かれ、そこに見学者の数だけの麦茶がおかれた。
撮影の終了した後、お客様の帰った後にちゃぶ台の上の麦茶のコップを逆光で見たら、自分の少年時の記憶、つまり音羽の家でお客さんが帰った後の座敷の深閑としたあの気分が50余年ぶりに思い出された。

あれから60日が経過して、火曜の夕刻に山口さんから京橋の明治20年代から営業の「天七」に招飲を受けた。
岩波の山口さんはただの岩波の山口さんではない。

山口社長である。

昔、菅直人さんが厚生大臣の時、「大臣」という岩波新書が出て、それを手伝ったのが、カメラジャーナル時代の中川右介さんであり、その関係で山口さんを紹介された。当時はまだ社長さんではなかった。それで岩波アクテイブ新書で2冊、本を出してもらった。他に岩波から「東京今昔」という写真集、それと「晴れたらライカ 雨ならデジカメ」というカメラ本も出してもらっている。

この春には「岩波写真文庫」の復刻版でも「田中長徳セレクション」というので、お手伝いした。そのシリーズは赤瀬川原平、川本三郎、森まゆみ、それにシリーズ最終回は山田洋次という豪華キャストである。その中に混ぜてもらったのだから、これは嬉しい。

かなり前のこと、岩波アクテイブ新書の大阪での発表会では、面白いことがあった。あらかじめ用意したおいた、画像を大阪の某ホテルの設備を使用して見せようということであったが、10年前にはまだその方面をホテルでも熟知していなかったので、開始時間になっても、画面がスクリーンに映らない。
結局、当時の大塚社長、山口さん、あたしなどが参会者の皆さんに向かって、ふかぶかとお辞儀してお詫びしたのである。

まあ、大した「不祥事」ではないな。

講演会では、あれ以来、会場の投影装置には習熟を積んだので、あっちこっちの講演会でミスはしなくなった。これは舞台度胸というのであろう。

この5月の大阪ニコンサロンのこけらおとし「基調講演」では、実体投影機もあったので、持参のニコンSPをそれで投影して大迷演説をした。

その後、8月の横浜の氷川丸の「チョートク海を行く」の出版記念の講演会ではちょっと面食らった。会場で使用したPCは日本郵船歴史博物館のを拝借したのであるが、これには画像とファックスのビュワーが付いていないのである。

これは吃驚した。まあ郵船関係ならそういう画像を見るのは必要はないのであろう。さらに厳重な管理ソフトが付いていて、5分ごとにパスを入れないと、スリーンセーバーから復帰しないのだ。それで持参した画像は投影せずに、そのスクリーンセーバーを背景にして90分の講演をした。
そういうのでだんだんと「講演度胸」というものがつくのである。Rimg0040

Rimg0041 招待された「天七」は、かつてのカメラアートのビルの裏手にあった。これは奇遇だ。

1970年代に日本で唯一の英文カメラ雑誌に作品を連載していたのである。
これは1970年から75年ころまで続いた。
それで日の出ビルという「羊羹ビル」の最上階まで階段(エレベータはなし)で登ったのである。最上階のペントハウスで等々力国香さん率いるスタッフが常に英文タイプを鳴らしていた。
その向かいが「天七」であって、無論、そこに入ったのは火曜の夕刻が最初である。前を通っているのが40年後についに入ったという感じだ。

女将はその話を聞いて、あたしの体格からなにか当時、プロレス新聞社がそこにあったので、その関係者と勘違いしたようである。

山口さんと、先週のロシアの土産話をして時が移った。
お店が閑散としたころ、お店の中から当年14歳という茶色の猫が登場した。最初は犬かと思うような巨大なにゃーであった。

てんぶら屋の猫というのはその存在が豪華である。次の命で生まれ変われるものなら、絶対に「我輩はてんぷら屋の猫」である。

安吾賞というのがあって、月曜にはその第三回目の授賞式があったので、そこで受賞者の瀬戸内寂聴さんと会ったとは山口さんの話だが、瀬戸内さんは80数歳のお年にもかかわらず、なかなかの酒豪であるというお話が面白かった。ちょっとここに記載をはばかる逸話もあった。

その安吾賞というのはその人の業績ではなく、その人の生き様に対して贈られる賞なのだそうだ。来週から仕事を進行させる集中週間で、新潟のホテルで「自主トレ」なのだけど、山口さんからいただいた、岩波文庫の新刊の「堕落論ほか」を持参する。この文庫一冊もって、鍋茶屋でカウンターで独酌しようと思う。
その予約はすでにしてあるのだ。

2008年10月 8日 (水)

アルパ研究会、アルけんの頃

Rimg0036 Rimg0037 たしか、1990年頃、銀座の裏通りのバーが昼間だけカフェになるので、そこにカメラ好きが集まってけんけんがくがくとやっていた。
そういうカメラ好きのカフェ(昔はこれをカメキチといったものだが、最近では自主規制で言わない。都内に展開するカレー店、カレキチを見るたびに、70年代の蛮勇を感じるのである)は世界のどこにでもあり、マンハッタンのキャナルストリートのパーキングロットがまだのみの市であった、80年代にはその脇の名前を忘れたカフェで毎週土曜の午前11時ころから、その手の集まりがあった。
当時、世界的なカメラ雑誌であった、モダンフォトの(そして以前はライツの有名なライカのスペシャリストの) ボブ シュワルベルクなどとカメラ談義をした。ボブはその前の週に「アクシデントで手にいれた、リンホフ5x7インチの大型カメラの自慢話をした。自分はその蚤の市で125ドルで手にいれたばかりの、ワイドラックスの話をした。

ちなみにボブは大手術をした後、80年代後半にフォトキナで最後に出会った時、病気で今、したことをすぐに忘れてしまうので、その点、失礼があるといけないが、と謝っていたのが印象的だった。あれはコンタックスG1が登場した時で、ボブはそれまで愛用していたコニカヘキサーを全部売ってG1に変えたのである。

コニカヘキサーと言えば、「あの写真部」のメンバーの田中陽子en-taxi○編の愛機でもある。一般に「あの写真部」でも福田部部長代理も、藤原会計担当も「カメラに淫して」いるのにその限界がある。

その点、女性陣は間取りスト和歌子も、クラフトテープ作家のなかしまも、カメラの欲望からは隔たったスタンスなのが、偉い。これは女性の特質であるから、別に彼らが偉いというのではなく、その属性の偉さを言っているのだ。

アルパ研究会は、その銀座の裏のカフェで長時間開催していたのだけど、お店の迷惑になることは言うまでもないので、その直後からうちのタワーの一階を開放してそこで「無届け集会」を毎週、第二土曜であったと思うが実に10年も開催したのである。自分が仕事で欧州に行っているときにも、アル研はちゃんと開催されていた。
顔ぶれはスイスのジナーの社長が来たりでなかなか国際的であった。

当時はチエコの工房(もとはチエコ共産党の旗を製作していた)に依頼して、アルパ研究会の旗も作ったので、毎年の総会の様子は、どこかの聞いたこともない小国の一党独裁の感じが出ていてよかった。

そのうち、だんだん「だれて」きて、アル研とはアルコール研究会のようになってきた。費用を出し合って、じゃんけんに負けた数人が向かいのスーパーに買出しに行く。日ごろ、ろくなものを食っていない連中の会食だから、早いもの勝ち、焼け石に水。終盤には、食パンに餃子をはさむやつがいたり、大根がそのまま登場したりで、かなりダダイズムめいてきた。

それで4年前、となりのタワーに引っ越すときに、アル研は自然解散。

アルパ研究会が発展的に解消して、その衣鉢はそのまま、コシナ研究会に受け継がれた。最近ではその越し研に行くこともなくなった。

昨日の新宿での思いつきのアルパ買いで、一挙に昔の記憶が芋蔓式にずらずらと思い出されたのだ。

さっそく、家の倉庫を捜索したら、昨日購入したのと同じアルパレフレックスが出てきた。それについている皮ケースは同一モデルだけど、ボルシーフレックスというのであって、これはアルパフレックスよりも珍品なのである。

この皮ケースの購入には逸話があって、例のebayで買ったのだが、そのセラーはアメリカ人であって、国内にしか販売しないという「石頭」なのである。仕方なく、知り合いのSOHO在住の佐々木画伯をわずらわせて、その10ドルだかのケースを「アメリカ国内」に送ってもらった。
それで、笊のマイレージがあったので、その皮ケースをピックアップにわざわざニューヨークに行ったのである。これが3年前のことだ。佐々木画伯からその荷物を郵便で転送してもらえばすむ話なのだけど、それでは面白くないのでピックアップに行ったのだ。

さて、昨日手に入れたアルパだが、本体のみだけど数年前に外神田のぽん工房(主にブガッテイ複数台を車庫に並べるのが趣味の人)に依頼して、アルパフレックスーM42アダプタを旋盤で製作してもらったので、M42のレンズは家に不良在庫が山であるから、それらのレンズが使い放題である。

自分は新ノクチルックスf0、95に血道を挙げるほどの資産家ではないから、千円均一のレンズをとっかえ引っ替え、アルパに装着する方が症にあっている。

2008年10月 7日 (火)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラ

E0135059_1852040 ノクチルックス50ミリf0.95はM8でピント大丈夫か?

フォトキナで話題になっていた、ノクチルックス50ミリf0.95の画像に接した。

まず、ライカの普通の高いレンズの外見である。巷間、その価格が問題になっているようだが、これをレッドあたりに付けて使う向きには1万ドルは「普通のプロ機材のレンズ価格」であるから問題はないのであろう。

それよりも気になるのは、事前のうわさでは、この世界最新鋭の「光の音速を超えるレンズ」が、半世紀前のキヤノンの50ミリf0,95の明るさを踏襲して、「世界で二番目のf0,95レンズ」のタイトルに甘んじてしまったことだ。バリーリンドンのツアイスf0,7とは言わないが、せめてf0,93は欲しかった。

自分はM8は使わないけど、半世紀近く、ライカの肩を持ってきたのだから、それが残念だ。ライカはM8で「世界で二番目に登場したRFデジカメ」の立派なタイトルを獲得しているのである。このレンズはまさか信州中野製ではないであろう。

こういうレンズは絞って優秀というよりも、開放でその「幽玄」な描写に価値を感じる人々のためのレンズである。最初からデジタル用を狙っているのであろうが、開放でしかもM8では1メーター付近でピントあわせが困難であることは、言うまでもない。

そこらのピンボケの苦労をM8のユーザーはいとわないのであろう。何しろ、画面が赤くなっても、専用のマルミのフィルターをライカ社から受け取って満足するような、高等遊民ライカファンなのである。こういう寛大なユーザーをライカ社は大切にせねばならない。

★銀塩クラシックカメラTassy0617img600x4501221367161u4gihi

キヤノン60ミリf0,95は夜間空撮の必須レンズだった

1960年代に、このレンズはキヤノン7と一緒に登場した。

当時のフィルム感度はせいぜいが、感度400とまりであったから、明るいレンズの存在価値は必須であった。

特に、映画の世界では重要であって、ヨーリス・イヴェンスは彼の映画のカメラテストで、カメフレックスにニッコール55ミリf1,2で撮影したフーテージのラッシュを見て「そにはパリの夜のあらゆるシーンが写っていた」と驚愕をもって書いている。

フィルム全盛時代にはまさに大口径レンズは「見えないシーンを撮影するための神の眼」であった。しかし、現今は感度6400の時代である。ニコンD700を感度6400にあげて、ニッコール55ミリf1,2で撮影したら、明るく撮れすぎるので困った。ゲインがいくらでもあげられる時代に、大口径レンズは不要である。

以前、買ったノクチルックス50ミリf1は銀座のレモンで確か15万円だった。それでも高いと感じたものである。今の価格は言うまでもない。

結局、自分のよく使うのはキヤノン50ミリf0,95である。もともとキヤノン7の本体と一緒になっているのを、新宿のカメラのきむらかどこかで、3万円で買ったものだ。その安い理由はかなりレンズに傷がついていたからだ。これも「やれた」キヤノン7の裏には、某新聞社の名前が白いエナメルで書かれたのが、はげかかっていた。

その前歴は言うまでもない。ヘリとかセスナから夜間の航空撮影に使ったのである。これが銀塩時代の正しいf0,95レンズの使い方だ。

日録 月曜日の新宿にアルパ買いに

Rimg0020Rimg0021 Rimg0023 Rimg0025 例の如く、「出社」する。ロシアから戻って、時差がとれたと同時に数年前の生活時間帯に戻ったようである。

すなわち、午前9時半に佃を出る。温かいが雨。モスクワはなんと18度もある、小春日和。一方でマンハッタンは寒い。

日比谷の乗り換えで、やってきたのは9時50分発だかの霞が関行きである。

隣の駅まで行って、中目黒行きを待つのだが、信号の関係で今、乗ってきた電車が出発できない。またたく間にホームは人間のすずなりである。その間に反対方向の電車は7-8台もやってくる。

ホームに待っている女性でスリムなブロンドの人がいて、自分はロシア帰りであるからその人はロシア人であることはすぐに判断できた。今まで、東京で見掛けた「国籍不明のひと」はロシア人であったわけだ。

これは今回のロシア行きで得た成果である。エルミタージュの美術の見学よりも、ロシア人見学。

ヒルズで仕事。

大幅に進行の遅れている、「ローライフレックスワークショップ」の稿を継ぐ。とりあえず、4本原稿書いて、えい出版に送った。清水編集長のメールを見落としていたが、彼は万年筆の取材で10月10日まで向こうに行っていることが判明。

思い立って、新宿まで外出する。

37年前の日本デザインセンター時代は「外出」が楽しみなものであって、常にホワイトボードに外出とか、中古カメラ屋めぐりなどと書いて、行方をくらましていたものだったが、自営になると、能率主義であるから朝に49fのイスに座ったら、根が生えたようになっている。

ランチも下のコンビニで買った190円のサンドイッチのみ。

たまに来客があると、51fのクラブにランチを食べに行くが、そうそう来客が来てくれるわけではなし、第一、あまりのご入来では作業能率が低下するから、かえって迷惑である。

今日は雨の月曜であったが、それも上がったので、新宿に遊びに行くという暴挙に出た。

大江戸線で淀橋経由にて「どんどん」とかで、550円のかつ丼を食べてみる。かつ丼は実に1年ぶりなので、550円を馬鹿にしていたのだが、ともかくうまい。周囲の物音が聞こえなくなるほどうまい。普通の若い人は同じ店で100円安い450円のチキンかつ丼を食べている。これが若い人のスタンダードであって、トラッドなかつ丼はじじいの食いもんであるかのようだ。

銀塩ライカとデジタルライカの違いのようなものか。

悠々と、マップカメラのB1に行く。実は確信犯にて、ここのアルパレフレックスのボデイを買いにきたのである。価格48000円也。1950年の一眼レフである。

こういう銀塩一眼レフは古くならないのが良い。しかもピニオン社のそれは、時計仕掛けであるから、何かスイス製のクラシック時計を操作しているような気分だ。

同じカメラは家にたくさんあるのだが、こういうカメラは長期保存可能なのがよい。5年後のアルパは、やはり古くならない(もう極限まで古いので)一眼レフであろうが、現行のデジタル一眼レフは5年後には話題にもならない。

デジカメはその意味で、セミとかキリギリスのような存在感の哀れが漂っている。

久し振りに銀塩一眼レフを買って満足した。

2008年10月 6日 (月)

仕事カメラとレンズの使い分け

Rimg0758 半月ぶりにヒルズに来て、目下撮影した画像の整理をしている。

大事な画像であるので、撮影後、現地でまずエプソンのp7000にバックアップして、パワーブックの(最近、HDを交換したばかりの)HDにバックアップ。さらにCFカードの32GBにバックアップ。都合、3個のバックアップをとる。

そのうちのCFカードは編集者さんに持ち帰ってもらった。

この前のNHKのハイビジョンの番組撮影では、音声さんの機材はシグマのミキサーだけかと思ったら、ちゃんとケースの一番下に、プロ用icレコーダーが音声のバックアップ用に入っていた。まあ、そんなものだ。

撮影カットは12000ほどあるので、これから撮影のリストに照らして、それをセレクトするのが大変な作業である。

さて、持参した5台のデジカメであるが、メーンはD700とα200であって、12ミリの超広角撮影にはエプソンR−D1Sを使用。リコーR8とR10は、R8は同行のライターさんの資料撮影用に貸し出し、自分はR10を常にポケットにいれていた。

まず、本音からいえば、R10一台で仕事になるのである。媒体はサイズはA4正寸だから、実際にはR10でも性能が高すぎるほどなのである。

しかし、膨大な取材費を使っている撮影であるから、やはり「豪華」に行かないといけない。同行のライターさんも「やはり一眼レフのシャッター音はいかにも撮影したって感じがする」とご満悦だ。

まあ、D700は高価なカメラであるが、α200の方が入門機である。しかし一向にそれは問題ではない。一般に、デジタル一眼レフというのは、超オーバースペックであると思う。

それで初日のエルミタージュでの撮影では、全機材を持参したがだんだんと利口になって、後半は大事な撮影では2台のデジタル一眼レフで同時に撮影し、街角のイメージカット(これも実に不思議な日本語だけど、習慣に従う)の場合には、朝の元気な時には、D700を、午後の疲れた場合には、α200を持って、それ以外はロケバスの中に置いた。

この前のNHKハイビジョンのカメラマンさんの話では、持参のカメラはどこに行くにも1台であるという。まあ、アマチュア用のデジカメに比較して、プロ用のハイビジョンのベタカムはその堅牢さは比較にならないから、1台でよいのであろう。すでに20年のキャリアを持つそのカメラマンさんは、今までカメラのトラブルは一度もないそうだ。

マンハッタンの怪人、チョーせいさんは レッド1台で本編の撮影を開始したらしい。(詳しくは右のリンクをクリック)。彼は黒澤みたいにマルチのカメラで撮影したいと書いているが、これは、レッドが信頼できないという意味ではなく、マルチカメラで撮影したいという意味である。

実際、昔、シュレンドルフ監督の映画を手伝った時、3台のアリフレックス(2台はBLで1台はハイスピード)での撮影は豪華だった。フィルムを湯水のごとく使うわけだ。

それに比較して、現今のデジカメもムービーもCFカードなので、そこらへんが「貧乏くさい」ことになる。

話が戻るが、使用したレンズは全部、ズームである。最近、流行の「サードパーテイ製」の非常に高価な交換レンズは、あれは愛好家が自分を楽しませるためのお道楽レンズであって、走り旅の夜討ち朝駆けの撮影では、実際には高倍率のズームしか使えない。

だから、D700には、10数年前にタムロンからもらった、28−200ミリがメーンで、美術館の内部などの引きのない場所ではニコンの24−70を使った。

α200にはタムロンの18−250を付けて、これは一度もレンズ交換していない。というのは、α200は怖いカメラでやたらとごみがCCDに入るのだ。この3月に買ったα200(つまり○×△号)の場合、ごみがどうしてもとれない。

なんでも、あたしのα200には、CCDに傷があるそうで、それは保証書を持って、近所のサービスセンターで修理を依頼してください、とのことだがその保障書が発見できずに困っている。捨ててしまったらしい。飛行機もすでにペーパーレスなのだから、紙の保証書はもうやめにしても良いのではないか。

だから、なるべく傷が目立たないような構図で撮影をしようと思う。どっかで埃とか傷を消去するようなデジカメのソフトがあればよい。もっとも実際に仕事に使う一枚なら、どんなにほこりがあろうが、「カリスマレタッチヤー」さんが救ってくれるから問題はない。

聞くところでは、ソニーはまだスチルカメラ部門のプロサービスはないようだ。大事なのはカメラの性能よりもプロサービスである。これがちゃんとしていなかったので、京セラコンタックスはだめになった。

以前のE-1時代のオリンパスで世界中の修理網を自慢していたけど、あれは機能したのであろうか。サービスネットが世界中にあっても、南イタリアなどで故障したら、週の半部は休む国だから、即、アウトである。

2008年10月 5日 (日)

三週間ぶりの魚河岸

土曜日。

快晴の朝となる。
3週間ぶりの魚河岸。

世界の魚河岸で、面白いのはマンハッタン、マドリッド、ブリュッセル、それと広州だが、いずれも四半世紀前の話だから今はどうなっているであろうか。

ブリュッセルではプレスツアーにて早朝に見学に行ったのであったが、なかなかよかった。欧州の魚河岸は日本のそれとまったくことなるが、案外、東洋のそれよりも西洋のそれの方が「世界的には認知」されている可能性がある。
もっとも最近の築地の魚河岸に外人客の見学が多いのは、それだけ極東の魚河岸が人気ということであろう。

仕入れたのはこのようなモノ。
インドのコロ。とりがい。それにまつたけ。このまつたけは、小柄ながらすき焼きの後にいれる松茸という役割を持たせるとなかなかよい。ただし実際にすきやきをするのではなく、フライパンで焼いたステーキの後に、これを焼くと良い加減になる。

築地場内で、親父の客。
「なんだなあ、、、今日は思い切って、これを買ってゆくかなあ、、、」

店の経営者とその使用人と思われる総勢4人の男性。
「はい、ありがとうございます」

親父の客。
「いつも、この前を通りかかるたびに気になってるんだけどね、、
今日は買うぞ!」

店の経営者とその使用人と思われる総勢4人の男性。
「はいっ!どうもありがとうございますっ!!」

およそ、サービス業はこのくらいの愛想がないとつとまらない。

その親父が品定めしているのは何だと思います?
伊勢エビでも本間のまぐろでもない。

亀の子たわし。
Rimg0015

2008年10月 4日 (土)

ISO6400

Dsc_6238 今回のロシア撮影で一番、役にたったのはD700の感度6400というやつだ。フィルムを使っていた時代のカメラ旧人類にしてみれば、これは希有な高感度であって、銀粒子ざらざらを覚悟せねばならない。

昭和32年にまだ若干32歳の若さで来日して、写真集「東京」を制作した、かのウイリアムクラインには数々の神話があるが、羽田に到着と同時にタラップを降りる時から、ニコンS3で撮影をしつつ降りてきたのは、これは写真家として当然な反応ながら、彼が感度1000のフィルムで撮影している、という神話の方が説得力があった。
これはモノクロフィルムだが、当時は感度400がせいいっぱいだったから、その神話に拍車がかかったわけだ。そのフィルムは日本のレップの現像師が処理していたのである。

あの時代に比較するのも愚かであるが、いまさらながら、デジタルカメラの高感度設定は実に使えることが今回、明らかになった。

この交差点は10年前に写真集「ロシアからライカ」でも撮影をしている。時期は同じ秋であって、10年前はライカM6にトライXであった。
いずれも、車の中からの撮影だ。

10年前に比較して大バブル経済まっただ中のモスクワでは、郊外の200キロ離れた村からモスクワの街の境にくる時間と、そこからモスクワ市内のホテルに行くのにかかる時間が同じだった。

そのおかげで、大モスクワのくれなずむ光景をゆっくりと撮影することができた。
カメラはD700で、レンズはタムロン28−200。

2008年10月 3日 (金)

en-taxi 23号発売

Rimg0001 en-taxi 23号が発売になった。

連載、「カメラと歩く」では、2年前に亡くなった平カズオさんのことを書いている。彼のライカM3をもって、東京は小石川を徘徊して俳諧したストーリー。

その朝日新聞の広告がこれ。談志家元と角川春樹さんの間に挟まれているのは、実に恐縮であり、同時にうれしい。亡くなった母親とこの4月に昇天した叔母に見せてやりたい気分。

23号のen-taxi で出色のできばえなのは、福田和也さんの巻頭の一連の写真である。広州に7月末に行き(この次第は、発売中のアサヒカメラのあたしの連載でも触れている)その翌月にはリスボンに福田さんは行っている。

現地から「リスボンの見えないカメラ店」が閉店したとの通信をくれたりしたが、この23号も一連の映像は実によい。

視線が記録に準拠した自然主義から、もう一段上の方になって、高みから視線が注がれているという感がある。これを言い出したのは、自分ではなく「家庭内写真評論家」の家人から出た言葉だから、信用できる。

en-taxi の本文用紙にモノクロの一色刷りというのを、田中陽子マル編などは「印刷が悪くてすみません」と恐縮したりしているのだが、とんでもない。

自分は60年代、70年代の東欧の展覧会のカタログの図版のモノクロ一色刷りに恋をしているものである。

60年代のウオーホールの厚い写真集「ファクトリー」もそうだが、あれも1色刷りであった。一部は8x10のニューカラーの大御所ジョエルマイエロウイッツが35ミリのライカのモノクロで撮影しているのも興味深い。

そういう背景もあり、en-taxi 23号の本文用紙の1色刷りが好きだ。

隣のPENの方は以前かかなりのお付き合いがあった。久しぶりにマストヘッドを見たら、編集長以下、全然知らないメンバーになっていた。PENでは何度もクラシックカメラ特集とか、ソ連製ウオッチの特集とか、はたまたデジカメの特集などをやった。この雑誌は研ぎ澄ました物欲最前線ではなく、そこから3歩下がっての入門編という編集スタンスなので、それなりに気を使った記憶がある。

この本の関係で大塚寧々さんと知り合いになったのも過去の思い出だ。

2008年10月 2日 (木)

NYK提供の新番組TBS「風街みなと」の2分50秒

水曜日。
颱風の到来の予定が天候回復す。

午前11時、エプソンの鴨下さん來。打ち合わせ。

午後4時博報堂のM村さん、A部さん來。打ち合わせ。

チョートク海を行く は、今月の日本カメラに1ページ書評が、またアサヒカメラにも新刊紹介で出ているので、その雑誌を示す。
なんでも、NYK提供の番組が本日からスタートするとのことで、6chで、午後10時54分からの5分間である。
「風 街 みなと」という週一の「世界の車窓」的な番組だ。

TVは宗教上の理由で見ないことにしているが、この前の日曜のNHKハイビジョンにちょっと登場した時以来、そのご禁制がゆるみつつあるようだ。

時間に仕事場から出て、家人の部屋で5分だけ見る。この5分というのはコマーシャルもあるので、実際には2分50秒ほどだ。つまり昔の8ミリ映画の1本の上映時間である。こういう超短編はいい。

第一回目はアテネ近郊のピレウス港である。
アテネオリンピックの前年の1月にここに行っている。見覚えのある魚市場が出てくる。
アテネのパルテノン神殿の下のホテルパルテノンという安ホテルのペントハウスに2週間ほど居た。
そのペントハウスのからは、はるかにピレウス港が午後の逆光の中に輝いていた。
木星の衛星を双眼鏡で全部見たのもここである。ゼウス神殿で、ギリシャ時代の陶片を探したりも
した。
アテネとピレウスは想い出の地である。

「風街みなと」は「風待ち港」だと思った。

これなら、かのゲーテのナポリからシシリーに向かう時の「風待ち」が脳裏に浮かぶ。
ただ、このショートプログラムのタイトルの文字はいただけない。
そこらのケーブル局の「区民の皆さんへのお知らせ番組」のそれである。

それよりも、「チョートク 海をゆく」の撮影で、7万5千トンのコンテナ船「ライラ」に便乗したときの、あのNYKの旗の方がダンデイで良い。
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2008年10月 1日 (水)

カフェプーシキンでモスクワからの秘密指令を受け取る

Rimg0753 一介のアマチュアエージエントとして、モスクワからの指令を東京の飲み屋のロシア人から知るというのは、なにやら本格的な感じがあっていい。

月島の越後屋酒店は、この前、日曜にBSで放映された「東京画の10年」で、登場する10名ほどの東京人連中の2番目にあたしも出たのであるが、その「ヒルズ帰りに立ち寄る地元の飲み屋」で遭遇したのが、モスクワから来たビジネスマンだった。見なれないロシア人の客ではじめてだった。

モスクワ風にウオッカと麦酒と行きたいけど、ウオッカと宝焼酎で代用していたのは、逆に通である。

彼に今度、モスクワに行くと云うと、それならカフェプーシキンにゆけ、と云われた。
なにか、昔の活動家がモスクワに潜行して、カフェで上部からの連絡を待て、という感じがそこにあった。
と、言うよりも、そうそう、これは党上部(世界中古カメラ同時革命党)からの大事な指令であったっけ、と思いだした。それでモスクワ滞在の最終日にひそかにそこに往ったのである。

それと云うのも、月島の飲み屋であったロシア人は「自分はKGBだよ」と自己紹介したのである。

本当のKGBはそんなことは云わないと思うのは素人考えなのであって、本物のエージエントはこうして相手を安心させるのは常套手段であることくらいは、スパイ天国のウイーンに1970年代を過ごした自分はよく知っている。

それで、その東京のエージエントは「そこに行ったら、キエフ風カツレツを頼んで、それで指示を待て」と言った。

それでそのようにした。このカフェはモスクワの中心から近い、タス通信社のそばにある。18世紀の古びた建物なのだが、これは数年前に更地からたてられたものだ。まるで映画のセットのようだが、それ以上の出来なのである。地下のガードローブに行く石の階段は磨り減っている、というほどの凝りようだ。

同行に日本人が2名とモスクワ出身の女性のガイドが居たので、自分がダブルエージエントであることをさとられてはまずいので、平静を装っていた。(その直前まで、自分はダブルエージエントであったことをすっかり忘れていたのだ)

キエフ風カツレツの足には、例の白いコック帽みたいな紙細工がついている。ああ、この中に秘密の指令があるのだな、と食べ終わった鳥の足についていた、この白い紙細工をそっとポケットに入れて、東京に戻った。

そこには何も書かれていないが、これを今週、月島の飲み屋で待っているエージエントに渡すと、彼は「見えない文字を見えるようにする眼鏡」か、なにかでその秘密指令を読み取るのであろう。

そんな、重要指令はインターネットですれが良いと思うのは、素人である。
本格的なスパイは渋好みだから、そんな「どんくさい」通信はしないものである。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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