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ロック ユー

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2008年9月30日 (火)

ロシアの器

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モスクワの最終日。
グム百科店を歩行した。この手のショッピングコンプレックスは、300年前からあるというのだから、驚きである。
1973年5月9日。快晴のモスクワの5月の朝にホテルメトロポールから歩いて1分のここにきて、ソ連製カメラを買おうとしたのは果たせなかった。
その日は大祖国戦争の対独戦勝記念の日だから、お店はお休みだった。26才の自分と27才の配偶者が赤の広場を歩い行くと、あちこちでカメラのシャッターが自分らに向ってきられた。

その前の日の夕方、ぼろぼろのバスで空港からメトロポールに到着した時の感じは一生忘れない。
赤の広場の群集の雑踏をわけて、わがおんぼろバスがホテルの車寄せに到着しようとすると、人民が左右にぱっと散るのである。
まさに昔のソ連映画で見た何かのシーンの再現であった。

あれから35年ぶりにすっかりロシア化した百貨店の3fの民芸品店にはいった。
案内のガイドさんが云うには、この手の食器は日常の雑器として使われているというので、それまでまったく興味のなかったこの品物を買ったのである。

心つもりとしては、昔、金沢では造り酒屋の店頭で立ち飲みをさせていて、その木椀には赤うるしがかけてあったという一事である。この金色のラッカーで内側の塗られた木椀で、日本酒を盛ったらそれこそ桃山時代になれるのではないかと思った。
それで帰国して日本酒はないので、酒のつまみをプラスチックのパックから移し替えたら、それだけで気分は高揚したのである。

良い買い物をした。この器の価格は300ルーブル。邦貨1500円弱。

2008年9月29日 (月)

KCチョートクカメラコラム

★銀塩クラシックカメラ

レニングラードでライカを探す東洋人

仕事では仕事以外の時間はないのは当然のことである。ホテルから撮影ポイントに直行。仕事が終わればホテルに直帰。11日間、仕事のアドレナリンが出ているから、通常のクラシックカメラへの欲望などは消えている。
欲望は食う、呑む、それに眠る。だが、平均睡眠時間は4時間であった。
この方が体調は良いが、まず還暦だから、1週間が限度か。

今回の取材のガイドさんは、レニングラード生まれのスラバさん(これ、ソ連の時計の名前でもある)で、細面のいけめんの40台であって、どう見てもカメラおたくには見えない。それが持参の趣味カメラ、レニングラードを示したら、自分は銀塩カメラファンであるというのでかなり驚いた。聞けば、コンタックス、フォクトレンダーなど持って、撮影は風景しか撮らないという本物なのである。

その本物度を試したわけではないが、「昔、プラハ時代にソ連製のモノクロフイルムをよく使った」と云ったら、「そうそう、ソ連製のあの当時のモノクロフイルムは銀塩がたっぷり入っていたからね」と、当方の云わんとすることをそのまま云うので、信用できることになった。

それで、近所にセコハンカメラ店があるというので、同行のライターさんと編集者さんの許可を得て、そこを見学したのである。
結論を云えば、ライカの価格は世界的にフラットレートになっている。ロシアはそれに1割強のプラスという感じだ。このライカの画像の価格のタグに5をかけると大体の日本円になるので、確認してもらいたい。

ようするに、町中で見かけた旅行者の持っているのは、全員、デジカメであるが、一般市民の中に「隠れ銀塩共産主義者」がまだ存在していることがわかった。


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★デジタルカメラ

デジタル一眼レフの似合うロシア人

赤の広場と云えば、ソ連時代にはソ連各地からレーニン廟詣でに来る、革命の善男善女でにぎわったものだった。彼等の手にしていたカメラはむろん、銀塩カメラであって、KGB初代長官の名前をとった、FEDとか日本で若い衆に大流行のLOMOなどだった。

新しいロシアになって20年近くが経過して、しかも空前の経済発展とくればデジカメの天下になるのは当然の理ではある。赤の広場には15年ほど前であったか、レーニンのそっくりさんがいて、客から2ドルだかとって、レーニン廟の前でポーズをとったものだった。そのレーニンそっくりさんはなんでもアル中になってしまい、今では二代目が活躍しているそうだ。
残念ながら赤の広場を訪問したのは金曜でレーニン廟はお休みだった。革命に休日はない筈だが時代はかわったのだ。

そのレーニン廟で会ったデジカメ人類はEOSにタムロンのズームレンズである。よく見たら今回の取材でα200に付けた、18ー250ミリのズームなのである。つまりお揃いである。

それにしても考えさせられるのは、ロシア人の若い衆にはデジタル一眼がなかなか似合うのに、わが日の本の若い衆は同じカメラを持つと、なんとなく「おたくめいて」しまうのはなぜであろうか。
いや、おたくそのものはすでに世界的なファッションであるから、それは正しいことなのであろうが、そのことを割り引いても、どうも日本人にはデジタル一眼レフが似合わない。
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SU

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「RIMG0007.JPG」をダウンロード

かつてのアエロフロートへの西側世界の認識はかなり政治的な批判とも思われるものであって、70年代には飛行中に窓から与圧の空気がもれ出したら、アテンダントがぞうきんを詰め込んで応急修理したとか、機内には武装したKGBが常務してるとか、理由なき避難中傷が絶えなかった。
今回は実に15年ぶりにSUに搭乗した。SUとはソビエトウニオンの略称であるから、ロシアになったから、RUになったかと思っていたら、こういう識別コードは簡単には変えないものらしい。

今回も、トイレに入ったら水を流すレバーの周囲が、グレーのガムテープで補修してあったり、YとCとの境目のカーテンが切れて垂れ下がっていたり、機内の液晶TVの3つのうちの左側のが壊れていたりで、そこらへんは旧
アエロフロートの「伝統」が脈々と活きついていた。
しかし、アテンダントを開始してすでに半世紀というような赤色労働英雄めいたおばちゃんはもう居ないし、サービスも良好であった。

大昔のSUは東京欧州がたしか往復で20万であってしかも、これはFの価格なのでよく利用した。ちなみに今回の取材旅行のYクラスはフィックスで20万にちょっと欠ける程度である。
それだけ、ルーブルがハードになっているのであろう。
仕事関係とかマイレージでFに搭乗したわずかな経験でいえば、SUは前菜のキャビアの盛りが世界一であって、これは3クラスを飛ばしていた当時のAFやLHのなど競合他社のエアラインのおよぶところではない。さらにキャビアのおかわりが出来たという、奇跡的なエアラインだった。

一方、キャプテンが自分の子供に操縦をまかせて、回復不可能な失速状態になって黒海に墜落したり、ついこの間もモスクワ発で墜落があったが、飛行機に墜落はつきものでああるから、これは心配するに及ばない。

三クラスのサービスがいつで終わったのか知らないが、SUの2クラス制になってからのCクラスのシートピッチは、KEとかJALのリゾッチャと第一位を争う、98センチクラスであるから、魅力はなさそうだ。

今回は予算の関係でYクラスを利用したが、シート列11はYの最前列で、まず欧州の国内線のCクラスのピッチで快適とは云い難いけど、もともとYクラスの狭さは、それ自体、狭い空間内で自己の身体を上手に保管する、一種のジムのようなものと思えばなかなか興がある。
思うにアッパークラスの利点は保安検査とか、パスポート検査の場合の「FAST TRACK]があるのが、付加価値が大きいが、モスクワの空港の出発では、YもCも同じラインであったし、パスポートの優先ゲートもない。つまりあまりメリットがない。

SUはもともと国内路線では1クラス制という、社会主義的な平等が貫かれていたのも懐かしい。
今回、実に久しぶりに搭乗したSUはなかなか気に入ったので、また使おうと思う。

これは些細なことだが、Yクラスのケータリングが想像以上のよさだ。帰りの便で味わった、ステーキの付け合わせのグリーンピースのバター煮が実によかった。ただ、グリーンピースをバターで似たなどというのは料理のうちに入らないけど、欧州ではごくごく普通の食い物であってその反面、うまいのと不味いのでは天と地の開きがある。
高度11000メータで食べているので、そのための錯覚かと思ったが、そうではない。
料理の付け合わせを真剣に味わう。
これは現代ではなかなかの不可能事だから、空の上でしかできない。

大昔にブルゴーニュのどっかの店(それは未酒乱の星付きだった)で、食べたそのつけ合わせのグリーンピースの味わいにやたら感動した、その淡い記憶が頭のどっかに残っていて、今回、それが思いだされたのである。
しかもYの機内食というのが、気が効いている。

ソ連の飛行機は「もうひとつの思想の正しい国」の機材であったから、ツポレフ154の3発機にはあこがれたものだった。当時はモスクワウイーンがそれであって、しかも3クラス制だった。
プラハはそれより一回り小さい、ツポレフ134でこれはウインドウは丸窓であって、なにかプライベート機の風情があった。トイレは天測まどでもなかろうが、空の見える小さいキャビンで、今どき、空を見つつ用を足せる飛行機などはない贅沢さだった。

アエロフロートが西側の飛行機をリースして久しいけど、今回、久しぶりのSUで感心したのは、その機内誌の立派になったことに加えて、懐かしいツポレフ154はまだ就航しているのが分かって嬉しかった。しかも26機が運用されているのである。こういう燃費の悪い機材を平気で飛ばすのは太っ腹である。

1989年の2月に昇天したハリネズミの供養で、SUでモスクワ経由でウイーンに家人と往った時、モスクワを出て到着したのが、ウイーンならぬプラハだった。ウイーンは霧で着陸できなかったのだ。社会主義国の当時だから、何の説明もなかった。それでビザなしで、市内のホテルに一泊した。

翌日、午後になってプラハを離陸した。その時、中東の家族つれがいて、その中によく走り回る7才ほどの男の子がいた。離陸中にその子は皿に注がれた、紅茶を飲みながら通路に立っている時に、ツポレフ154はテイクオフしたのである。
速度がV1になり、VRになってかなりの急角度になるのに、男の子は一向に平気で立ったまま、皿から紅茶を呑んでいるのである。
何か、サーフィンの天才少年を見るの感があった。
当時の悪評高いSUのことだから、アテンダントも誰もとめないのである。

ようするに、実にSUは現代に使う価値のある航空会社だと思う。

2008年9月28日 (日)

赤の広場とNewsweek

東京。
昨日、土曜は佃に荷物をほうり出して、そのまま四ッ谷のあろーカメラのシドニーに駆け付ける。
満員御礼。
時差解消には一番である。ブログねたになりそうな品物を物色する。
野の宮BMWにて、「極東の情緒」を求めて、山谷の大林、。あわもり2はい。ウオッカを呑み慣れた口にはなんともエキゾチックだ。

10年ぶりのモスクワで感じたのは、かつての社会主義国家での、政治プロパガンダのテクニックがうまく活用されていることだ。レーニンの巨大な壁画がそのまま、ロレックスの広告に置き換えられている。
このことは10年前に、レニングラード街道の凱旋道路の両端の旗をたてるポールが、そこに赤旗があってそれが何キロもえんえんと継続した長い長い道に、赤旗がマルボーロの旗に置き換えられていたので、そのことは写真集「ロシアからライカ」で、記載した記憶がある。

実際、この巨大な建物とかまっすぐな道のまわりに見られる広告看板の効果はすばらしい。車ではBMWとかホンダとか、LEXASのも見かけたが、巨大な建物の一部になっている、そのスケールはマンハッタンを超える。
これが10年前のモスクワではその巨大広告の前を走る車はモスクビッチであり、ラーダであり、ボルガであったわけだが、今はそれがロールスロイスであり、メルセデスであり、カイエンであるわけだ。
広告の題材とその結果とがシンクロしているわけである。

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2008年9月27日 (土)

モスクワ東京

Rimg0252 アエロフロートにて、モスクワー成田。
土曜の朝に帰国。
今日は第四土曜なので、月一のシドニー寄席である。
それで成田から佃に荷物を置いて、直行。
時差ぼけなど感じる余裕もなし。
当分はロシアカルチャーショックの日々。

★本当の日記。

レニングラードから、夜行列車の赤い矢号にて、モスクワ入り。

10年ぶりなので、その変貌に驚く暇もなく、モスクワから東南200キロにある、ユネスコ文化遺産のすすだり、というところで取材。

ここには12世紀以来の教会あり。それが農村の中にある。ちょうど、メカスの伝記映画の彼の故郷のリトアニアのような村であって、実に良いところだ。

はつみつ酒を試みる。甘露。

犬や猫がゆったりしている昔ながらの村である。ただし、冬は零下30度という。Rimg0598

画像はすずだり、の「ねか」。

窓がちゃんと「ねか」ように区切ってあると感心したが、どうも換気のためのようだ。

その先には「にわにわにわにわとり」が居てえさを食っている。

それが夕暮れの光に照明されて、そこに一種の永遠感覚がある。

2008年9月26日 (金)

スカイライン

Rimg0420珍しく仕事が早めに終わって、プラハのアトリエを思わせる天窓からスカイラインを見たら、向かいの露台に人影がある。こういう経験は幾多もあるので、これはケーブルTV関係の仕事の人と思っていたが、双眼鏡で仔細に見ると、若い三人の「レニングラード市民」が「月待ち」をしているのである。
まるで京都は銀閣寺の築山で月を待つ格好である。
なにかロシアの室町時代に戻ったという感じがして、非常に奥ゆかしく感じた。
カメラはR10を感度800で使用。

2008年9月25日 (木)

仕事カメラとしてのデジカメ

Rimg0388もう最終段階のロシア取材。

こういう布陣での仕事カメラ。

右からD700。これには24−70ミリのニッコール(重いやつ)か、タムロンの28−200を付ける。常用はタムロンである。軽いのがその理由。

真ん中はエプソンR−d1sで12ミリと21ミリのツアイス。(ともにコシナ製)。それと持参した里帰りのレニングラードの50ミリジュピターをl活用。
左はα200、つまり○×三角号だが、自分のはCCDに傷がついたとかで、これは借り物。埃がl怖いのでタムロンの18−250ミリはレンズ交換はしない。

これを撮影したのはR10。

2008年9月24日 (水)

黄金の環って一体なに?

Rimg0276Rimg0383 レニングラードからモスクワ日記

10年ぶりのモスクワであるが、ここはどこなのか予定稿では分からない。
ミシュランの赤本では調査員が上げてきたぞれぞれの情報を編集者が文字にするのだが、とくに特徴のないレストランとかホテルの評価には、独特の書き方があるそうだ。

すなわち「周囲には歴史的な記念物あり」とか「都会では得られない澄んだ大気」とかやるのである。ホテルとかレストランをぼかして、周囲を描写して読者をけむにまくのである。

類似のことは、我々、カメラライターもよく使う手であるが、あまりに懸け離れたことも書けない。だから、「今後のカメラの方向ずけをさぐるひとつの課題である」とか
「価格はかなり高価ではあるが、自分のさらに高度な作品つくりのために是非ほしいレンズだ」などと
でまかせを書くわけだ。

今回はちゃんとした媒体の取材であって、自分はカメラマン、編集長も同行するし、らつ腕のライターさんは経験をつんでいるから、まったく心配はなかった。

なにが面白いかと云えば、こういうプレスツアーは自分の知らない場所に行くことが可能な一大利点がある。
百鬼園は正月恒例の「まあだ会」の後に、教え子と銀座かどっかのバーで美女の沢山いる場所に往っている。
「自分はこういうところは知らないから、知らない場所に自分がこれるわけはない」と、うそぶいているのであるが、これは正論だ。

プレスツアーの面白さは、カーナビに似たところが有る。普通は知った道をたどってゆくのが、ドライバーの史常識であるが、カーナビにセットするとまるで知らない道も通行できるようになる。

今回の「黄金の環」というのは、まったく知らなかった。一大発見。モスクワ市内から車で4時間かかる「秘境」であるらしい。
しかし、この文は予定稿なので、それをわざわざ、GOOGLEで調べてわざわざ往ったように書くのも気に食わない。
まだ、今の時間は9月15日のお昼なのだ。

★レニングラードのホテルの窓から。

銭湯、じゃなかった、尖塔と、それを真似るウオッカの瓶。カメラはR10。

2008年9月23日 (火)

独逸のカメラ店のドアを手にいれる

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レニングラード日記 そのXX あいかわらずロシア滞在。予想の日記なので、昨日にレニングラードからモスクワに「紅い矢号」で移動の予定であったが、それはスケジュールをよく見ていない、あたしの不注意であって、実はまだレニングラードに居るのである。 ここ、レニングラードから西に3000キロ離れたケルンのオークションでは26日、27日の両日にかけて、この20年来最大のライカのオークションが開催される。 それはともかく、今回、あたしが注目しているのはこのドイツはアーヘン近郊の1925年のカメラ店のドアである。 ウイーン時代にお馴染みの小規模な専門店のドアというものは、凝った木製の彫刻が施され、ガラスはこれも工芸品クラスのエッチングである。 このドアは街路側、つまり手前に開く。AGFAのエンブレムとか、フイルムの投入も完備している。 このドアこそ、天国、あるいは地獄の門である。 そのオークションの価格、スタートは1200ユーロ。予想落札価格1500ー2500ユーロ。これはミシュランノの調査員の月給に相当する。 本日、レニングラードより夜行特急「紅い矢」号にてモスクワ。(予定稿)

Rimg0387 ★レニングラード
夜討ち朝駆け。
深夜1時半に眼前のネバ川の3つの水門が開いて、大形貨物船が通行するのを見る。
一大、景観。
しかも、これは6車線の橋が勝ちどき橋(かつての)のようにせり上がるのだ。

ようするに、昔のソ連と今のロシアの距離感の絶対的違いを確認しにきたようなものだ。
最終日の朝はようやく快晴となる。
これより撮影。
ホテルの窓から。

2008年9月22日 (月)

洗い立ての千円札 洗えないルーブル札

Rimg0788Rimg0264 レニングラード日記 そのXX

今回は三流のアメリカ映画を真似ているような風俗のロシアに来たのだから、せめてこっちも三流アメリカ映画調で行こうと心に決めて、ジーンズの総入れ替えをして、リーバイス501.505、515などを仕入れた。

今度のはポケットがやや大きくなったので、デジカメがいれやすい。

ロシアの撮影では、2台のR8とR10で撮影したいのだが、日本を代表する写真家(どこが?)としてゆくのであるから、あまり国益を損ずることはしなくない。

それでD700とα200をもって、RFのエプソンももって威容を整えよういうことだ。

東京の出発前にそのリーバイスの洗濯あがりをはいて、尻ポケットをさぐったら、洗い立ての1000円札が4枚も出た。その洗いざらしの1000円札は箱崎から成田にくるときに、使ってしまってもうないのだけど、やはりTシャツも1000円もあらいざらしがかっこいい。

この前のロシア、あれは写真集の撮影で来たのは、1997年ころだったが、モスクワに来るたびに、新しいルーブル紙幣になっているのは一国の革新というよりも国情が落ち着かないという印象を受ける。 それで今回も新しいルーブル紙幣を手にしたのであるが、次回にロシアに来たらまたぞろお札が変わっているのではないのか、と心配になってくる。 本日、レニングラードから深夜特急「レッドアロー号」(この音感はなにか西武球場を経由して秩父にゆくようだ)にて、モスクワに向う。(予定稿)

Rimg0298 ★レニングラードの日曜。

終日撮影。
ようやく、ネバ川を中心に据えた地理関係が分かるようになった。
まず1週間の取材なら、普通のパッケージツア−の人よりも土地勘が得られるわけである。
実に10年ぶりのロシアだが、この10年は時間スケールで見ると、半世紀という感じがする。
プーシキンとおりの全容もなんとなく理解できた。

ドストエフスキーの住居は3流アパートでその前で、地元のおばあさん連が野菜を売っている。
一方で、プーシキンのアパートは貴族街にある。このコントラストが面白い。

第一、70年代に見慣れた、一種われわれ世代のノスタルジーになっている、ソ連のシンボルがまったく見当たらない。
だから、駅前にかのレーニンの銅像がそのままに残っていると、そぞろ懐かしいわけだ。

カメラはD700と、α200で毎日2000カット。
撮影のしにくいところでは、R10。動向のライターさんが10年前のオリンパスのクラシックデジカメなのですぐにメモリ切れになる。当時のデジカメはメモリがきれるとワーニングが鳴り響くのである。
まるで、ボーイングである。
それが問題なので、持参のR8を「貸与」した。

2008年9月21日 (日)

ライカ250とそのソ連製コピー

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レニングラード日記 そのxx レニングラードで撮影中。 ライカ260というのは、もっぱらコレクター図アイテムであるが、自分も1台持っている。 これはライカ人類として永年の夢であったのが、その夢の実現したのは15年ほど前であったか。憧れのカメラを手にしてしまうと、夢はしぼんでしまうものだ。 およそ、人間の物欲禁欲食欲性欲などは類似の存在であって、禁欲主義者ではないが「ちょっと手前にとどめておく」のが良い。 ライカ250の場合にはそれに失敗してしまって、手にしたわけだが、このカメラは1930年当時、このライカが現役であった時代には最新鋭のしかも、報道関係には欠かせないライカだった。10メートルのフイルムを装填して250枚が撮影できるのである。 これは戦場写真家には必須のライカだった。だれだってフイルム交換をしている時に「流れ弾」に当たるのはごめんだ。 でも今回持参のCFカードなどはなにしろ、32GBである。つかっても使ってもなくならない。普通の画像なら15000枚は撮影できようという枚数なのだ。 それで長尺ライカの存在価値は消滅したが、なにしろ総計で980台とか云うので、そのレアものの価値は已然として高騰している。 ソ連は西側カメラばかりか、ブラックアンドデッカーの電気ドリルから、コンコルドから、はたはた原子爆弾までコピーしているわけで、ライカ250もその例外ではない。 今まで、何度か、ebayにも登場した。 その度ごとにこの偽ライカ250をゲットしようとするのであるが(注意 この画像の250は真正品)世界に2人ほど「カメラバカ」がいると、その価格がオークションの公認価格、つまり相場になってしまうので、始末が悪い。 レニングラードは珍しく晴れ、ロシア国旗のような青空(予定稿)

Rimg0260 ★レニングラード。

今日より、市内真ん中のインターネットに使えるホテルに移動。
周囲はライトアップされた教会。
行き交う、メルセデスと、BMW。自分の好きなモスクビッチとかラダはマイナーな車である。

埃をかぶった軍用トラックなどは、遠いソ連の夢だ。

ロシアに10年こなかったうちに、どうもアメリカを蒸留したような新世界になってしまった。これを超西欧圏となずけよう。

日曜も仕事(当然)なので、もう寝ます。連日、平均2000カット。

撮影は認識のための方法であることが理解できる。

2008年9月20日 (土)

レニングラードとレニングラードのフィギュア

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レニングラード日記 そのxx

世界の天気を調べるにはuk weatherというところの御世話になっている。ところがレニングラードは20年来昔の名前に戻ってしまい、ST PETERSBURGで知名を検索すると、ずらずらっと世界の同じ名前の都市が15個も出てくる。
そのほとんどは、なんとアメリカにあるのだ。ロシア移民が故郷を懐かしんで付けた歴史的な名前であろう。
面白いのはmoscowだってアメリカにはかなりある。
映画ではparis texasであったわけだが、アメリカのモスクワをテーマにした映画こそ撮影されるべきだ。

ここでは馴染みのある、レニングラードにしておこう。革命の父の名前こそ、硬派であろう。
そのレーニンさんの生誕100年を記念した6x6の一眼レフがキエフ6Cであってこのカメラは60年代のソユーズ宇宙船ないでも使用された。

当時の西側のカメラだと、NASAのハッセルブラッドでも、ローライでもその間に民間企業のワンクッションが置かれるわけだが、ソ連はそれがダイレクトだから、カメラにしても「思想がただしい感じ」がある。

ヒルズのどっかの構内にて、某有名アパレルの製作した、ジュエリーを見た。それは一眼レフの恰好をしているのであるが、そのスタイルはどっかの科学教材屋でうっている9800円のプラスチック製のカメラのスタイルなのだ。ようするにジュエリーデザイナーがカメラ嫌いだと、その程度の発想に貧困を露呈するのだ。

その点、このレニングラードのフィギュアはファーストクラスである。これはカメラ人類でみく友の、きっしーが製作した。実にこの銘機の細かい特徴をうまく掴んでいる。
とくに、本体の右側の迫り出している所などはうまいものだ。

終日、レニングラードの名所旧跡を撮影。(予定稿)

2008年9月19日 (金)

東京の月、レニングラードの月

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レニングラード薩英(これがばかことえりの最初に出る言葉、これって何??」中。
画像は先週末、品川湾に昇った中秋の明月。
おいしそうな月餅のように見える。

坂崎幸之助さんは或フィーの傍ら、浅草十二階の研究に没頭しているとかで、この前に会った時、自慢の写真のコレクションを見せてくれた。
正岡子規が根岸で寝ている時代には凌雲閣はまだ現存した。子規はそれを見ることができないが、手許にある「うちわ」に十二階が画題になっているのをて手にとってそれを子細に評論しているのが面白い。
これは「墨汁一滴」にでてくる。

タワーと明月というのは似合いのものだ。
先週のアサヒ新聞で、明月と国会議事堂とを並べて構図にしたのがあったが、ああいう臭い構図はおつきさまに対して実に失礼である。

レニングラードの東には、ラドガ湖という巨大な湖水がある。
そこから昇るロシアの月の出はまたよかろうと思うが、連日のお城めぐりで「月はどっちに出ている」のか皆目不明だ。
第一、連日、曇りで太陽だって見えない。それにロシアのこの季節独特のmistというやつが風景にベールをかけている。

テレビ塔と明月のコントラストは悪くない。レニングラードのTV塔はソ連で一番最初に立ったのであるが、そのデザインは近未来である。
いつだったか、東京からパリに進行中、高度1萬メートルの夕暮れから眼下にレニングラードを見た。
ちょうど、TV塔の真上を通過するところだった。
あの光景はいまでも視神経に刻まれている。

(以上、予定原稿)

2008年9月18日 (木)

ミール24H 平和24号広角鏡玉

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レニングラード日記 その2

レニングラードの最初の3泊のホテルの2泊目。こういうホテルなので、

通信状態は果たしてどのようなものか、分からないのでこれは事前原稿。

レニングラードの初夏の晴れやかな光りは素晴らしい。(これも創作である。某雑誌の2009年6月号なのである)
今回はニコンD700を持参。例の性能は素晴らしいけど、重くて大きなニッコール24ー70ミリの他に、ミール24Hを持参。平和24号っていう名前がいい。

これはうちに古くからあるレンズだ。たしか、だっくびるが、まだその前身で平井駅から徒歩10分のところにあった頃に、そこで3000円で買ったと思う。こういうレンズはその価格はフレンドリーなのだけど、その性能は抜群である。

ロシア製のレンズは、プロ用の映画機材などで最近ではかなり進出している。
その型番は24Hというから、24ミリかと思うとそうではなく、35ミリF2のレンズであるのも、なにやら「プロっぽい感じ」がする。

終日、レニングラードのお寺巡り。そういう室内薩英(なぜか、馬鹿のことえりはこの言葉が最初にでる。これってどういう意味か?薩摩英国の多国籍軍か)には最適だ。

天候は予想記事なので、はっきり書ける。すなわち、曇り、小雨と氷雨。気温は最高が10度、最低は5度。ホテルでの注意事項。
ウオッカの飲み過ぎに注意。
現ロシアの政治的な批判は御法度。(以上予想原稿)

2008年9月17日 (水)

レニングラードの松茸

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★レニングラード日誌 その1

成田ーモスクワーSTペーターズバーグ、この間、事故ったばかりのSUにて移動中。

今日から、月末までロシアである。目下、SUの飛行機にてモスクワ経由、レニングラード。
ところがWEBで調べたら、最初の3泊のレニングラードのホテルの形勢はよくない。インターネットなどダメは感じである。それで、用心のため、事前の記事を書き込んでおく。

京都のお寺に中学生が来るのは、感心できない。
仏像と云うのは、子供には理解できないのに、それを教育の指導要領に入れるのはどうかと思う。仏さんなどは、還暦すぎてから見てはじめて有り難さがわかる。
彼岸が接近してこないとこういう事情はわからない。

松茸も同様である。
自分の残念なのは、少年時代に神戸かどっかに親戚がいて、秋になると山のような松茸の来襲にあったものだ。
子供向けには松茸ごはんであるが、母親はその方面にはあまり明るくなかったようで、味も忘れてしまった。
自分の好きだったのは、松茸ごはんよりも牡蠣ごはんであって、これは時々に思いだして食いたくなる。

それで松茸が市場に出ても反応は鈍い。自分の狭い経験でも松茸の登場がイベントになるのは、京都の錦小路である。ずらりと並んだ、松茸の篭をそこに並んだ値札は人類の栄耀栄華を思わせる。

この前の土曜に東京は築地の魚河岸に仕入れにいって、家人の誕生日であったことを思いだして、それなら、買ったまぐろの柵に本物のワサビを添えようと思った。予算は1000円である。
ふと見ると、場内の八百屋に松茸が並んでいる。
まず錦市場のにぎわいはなくて、地味に事務的に並んでいるのだが、その実用的並び方が気に入った。24000円、1850円とあって、最安値が1100円で、それが1パックだけ残っている。迷わずそれを買った。

わさびの方は月島駅前のコンビニで、168円のチューブ。

モスクワで乗り換えて、1時間20分。ようやく街が見えてきた。(予想原稿)


2008年9月16日 (火)

ネコの価値 ネカの勝ち

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飯沢耕太郎が大学院を出て暇をしていた当時、シンガポール政府観光局の招きでだれか暇なライターは
いないか、というので、飯沢を呼んであたしはカメラマンで星州に出かけた。
プレスツアーであるから、10日ほどの日程で、朝から晩までスケジュールびっしりである。
これがマーライオンウイークの第一回目だから、確実に四半世紀前だ。
当方は取り壊されつつつある、シンガポールの町並みを記録すべく、4x5のebony wideを持参。
その時の昔はなしはまた書くことがあるであろうが、抱腹絶倒の旅だった。

到着したばかりでホテルでも水着ショーがあって、世界各国からの報道陣であるがその中で中国の取材団は「こんな帝国主義的な堕落が取材できるか!!」というので、全員が椅子を反対側に廻して抗議行動をとった。やはり人民共和国は思想が正しいなあ、、、と感心した記憶がある。

それが、昨今の五輪騒ぎと比較すると、中国も大人になったなあ、と思う。

おっと話しの本題はそれではない。
スケジュールの中に、シンガポール動物園でオランウータンのスターと一緒に朝食をとる、というのがある。スターオランウータン嬢の脇で各人、記念写真を撮影してもらった。

そのカットがなかなか良かったので、あれはfoto japonであったか、作者近影にその画像を載せた。読者が区別がつかないと困るので、右、田中長徳、左はおらんたんのなにちゃん、と断りをいれた。
あの時、おらんたんには許可をもらわなかったが、一体おらんたんの肖像権はどうなっているのか?

家人が「これはすごい!」と、知り合いのコンサートの帰りに持参し示したのが、この「ネコとお嬢さん」である。
最初は世界初のネコのピアニストかと思い、人間とネコの曲弾き連弾かと思い、最後に人間のピアニストのちらしに「友情出演」しているのだということがようやく理解できた。

家内では、昔からネコとは言わない。 佃言葉で「ネカ」である。 ネカカン、マネキネカ、ネカジタ、ネカイラズ、クロネカ、シロネカ、ミケネカ、ネカジャラシである。 この方が軽快で話し言葉としてはよい。ただし家の中だけで通用するものだ。

それで気になるのは最近のネカブームである。漱石先生の「我が輩はネカである」の時代はよかったけど平成の世はなんでも簡単に映画でも写真集でも、パッケージでもネカをもってくれば、それで商売になると思っている。

社会主義は頓挫したけど、ネカ共有主義は跋扈しておる。
ネカに頼りすぎ。
ネカの価値が沸騰。というネカ思想の勝利である。ああ、舐めネカというのもあったな。
それゆえにこの世の中は「ネカの勝ち」という有り様である。

元来のネカ好きであるから、その共和国の人民になることはやぶさかではないが、何でもかでも、ネカを担ぎ出して「かわいいーー」では済まないであろう。

そのうち火星人とネカとハルネズムの逆襲があることを忘れてはならぬ。

2008年9月15日 (月)

TENBA

ロシア行きを前に久しぶりにTENBAの埃をはらった。
そこについているネームタグをみたら、大昔のアドレスである。つまり2000年のハノイ行き以来、このTENBAを使っていなかった。
2000年といえば、最初のデジカメによる写真集「ベトナムデジタル紀行」を出した年である。あの時、使ったリコーのRR30はよく写るカメラだった。
先日、浅田恵理子からメールで「以前貸していただいたRR30がいよいよダメになったが、処分してよいか」とあった。こっちはその事実すら忘れていたのである。デジカメがあしかけ8年使えれば立派なものだが、デジカメメーカーにしてみれば、8年に一度買い替えではたまったものではなかろう。

ロシアではレニングラードでエルミタージュなどなどを取材するのである。昨日、戯れにヒルズのライブラリのレセプションでその話しをしたら、女性聯はうらやましがっていたけど、永年、ウイーンで宮殿を見飽きた眼で、しかもその関係の本を出した身にしてみると、宮殿とか美術館というのは日常の領域にあるから、ほとんど感じないのである。
それよりも街の裏通りに興味がある。

日本路地裏学会レニングラード調査はおそらく、スケジュール満載で無理であろうが、その心掛けだけは持っておこう。

旅行代理店で美術館の取材許可に持参するカメラのリストが必要というので、慣れないエクセルで表を作った。
これは大昔の名残りで、一大劇映画などで、機材を大量に持ち込んだ当時のやりかたが、自由化された後でも「前例主義」で墨守されているのである。

本来なら「パナフレックス35ミリカメラ一式、価格3000萬円、重量40キロ」などと書くはずなのに、「リコーコンパクトデジカメR10 価格3萬円、重さ0、18キロ」などと書き込むのはなにか冗談っぽい。

それで今回は「正式な仕事」なので、まさか魚河岸の市場篭もどうかと思い、10年近く使っていないTENBAに登場してもらうことになった。これなら、一応、還暦カメラマンとしてその方面の尊敬も受けることができそうだ。Rimg8064

2008年9月14日 (日)

金屏風

古い金屏風である。 昔から家に伝わる屏風です、などといって来客を煙にまいているのであるが、それはうそだ。

かなり前、銀座8丁目の俗称銀座八丁庵、正式には中銀カプセルタワーというのだが、そこに入居するときに、なにしろ10平米しかないので、アクセントをつけて和の空間にするので、この屏風を買った。

六曲二双というのであろうか、時代がかった渋い金箔である。バロック教会内部の金泥の像はウイーンやプラハなどで若いころから自分にはなじみであるが、金屏風にはなじむことがなかった。

ウイーン時代に友人から紹介された鎌倉の資産家が、ご自宅では金屏風の前に座っていると聞いて、自分で想像したそのお宅にお邪魔したら、自分の頭脳で考えているイメージの金屏風とはまったくことなった、金屏風なのでちょっと当てが外れた。

ようするに、それは普通の結婚式の時に新郎新婦がする、ご両親に花束贈呈の時のあの後ろに立ててある、きんぴかのやつなのだ。

楽天などで「金屏風」と入力してサーチするとすぐに理解できるけど、ライカと同様に金屏風選びはなかなかな困難事なのである。

自画自賛であるが、この金屏風はまずは75点というところで、及第点ではないかと思う。二双の屏風は立派な桐の箱に入っている。

10平米の銀座八丁庵では、狭いからそのひとつしか部屋には展開できなかった。もうひとつのは、桐の箱に格納して、部屋の隅においてそれを、広げてある金屏風で隠した。

金屏風は日本の光をほの暗い和室の奥で反射させて、物事に幽玄なめりはりをほどこす。ライカインコの陰影がそこに映るのもまた興がある。

これは「鑑識」の調査によれば、先代、つまり三代目のライカインコの影だ。

紀子さまのお宅のマンションに宮内庁のお使いが来た時、その部屋には周囲に金屏風がめぐらしてあった。ああいう屏風の使い方があるのかと思った。

我が家では金屏風が用意されているから、何時何時、高貴なお方が見えても失礼にはあたらないつもりである。

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2008年9月13日 (土)

NHKハイビジョンスペシャル9月28日

Rimg8207_2 ハイビジョン三銃士の制作した番組のご案内です。

あたしも佃のカメラ倉庫、日本路地裏学会津久田調査、ヒルズの49fなどでちょっと顔を出します。

ご高覧。

◇番組名 
「NHKハイビジョン特集〜心の東京画の10年」

◇放送予定日  
2008年9月28日(日)19:00〜20:49

◇番組内容 
東京で暮らす500人の人々が、

自分たちの住む街への想いをはがきにスケッチした「私の東京画」という本が、今から10年前に出版された。あれから10年経った今、あらためて彼等が抱く『東京』への想いとは? 
新たに描かれたはがき絵から紐解く、『東京』という街の移り変わりと、そこで暮らす人々のドキュメンタリー。

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お知らせ。
17日より月末まで、ロシア方面に行っております。
現地から毎日更新しますが、通信事情によりそれが出来ない場合もあります。
ご理解のほど、お願いします。
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スパイカメラノテイバン、ミノックス、フォトキナ デ デジタルカメラ ニ

Rimg0832 ★フォトキナ直前の入電

ミノックスは1939年にラトビアで登場した、9ミリ幅のフィルムを使うスパイカメラである。

第二次世界大戦から、冷戦時代に世界のあらゆる場所で両体制の諜報関係者に使用された。

ソ連などでは、その必要量を諜報関係者に確保するために、ソ連製のコピーを生産した。

ミノックスは現在でも諜報関係に使われており、アメリカのCIAのホームページでは1年前まで、使用機材として、B型のクローム仕上げの画像が掲載されていた。現在ではその姿は見ることができない。おそらく、あまりに型遅れに見える、フィルムを使うミノックスでは北朝鮮の工作員などに「侮られる」という高度に政治的配慮からであろう。

目下、諜報部員はごく普通のコンパクトデジカメの愛用者だが、やはり本物のスパイなら、携帯したいのは、本家のスパイカメラブランド、ミノックスである。

信頼できる筋からの情報によれば、今回のドイツはケルンでのフォトキナ初日に世界各国のその向きの関係者のために、1939年以来、スパイカメラの定番だったミノックスはついに、デジタル化の長年の目標を達成するそうだ。

ロンドンのビッグベンがまだデジタル化を果たしていないのに、ミノックスは一足早く、アナログからデジタル化を達成することになる。

すなわち、スパイカメラミノックスの歴史の中で始めてのデジタル化である。これで指先の不器用なCIAの職員などが、フィルム装填で失敗して、あたら大事なショットを撮り逃すという諜報活動の失敗は回避できることになった。

無論、新型のデジタルミノックスは世界各国の諜報機関だけではなく、従来の銀塩ミノックス同様に、アマチュアのスパイさんにも、スパイにあこがれる普通カメラ人類さんにも、販売される。

性能、画素数などは不明だが、本来のスパイカメラの目的を達成するために、液晶などはいっさいついていない。ここにはワルターザップの飛騨の匠精神(じゃなかった、ラトビアの匠精神)が生きづいている。

撮影結果は付属品の小型ストロボに内蔵された液晶ファインダーを使用する。

世界同時発売の時期、価格は未定。

なお、本物の諜報関係者にはスパイ割引があるが、そのことを証明する正式の書類が必要。そのかわり、量販店で買っても、スパイさんにはカードにはポイントはつかない。やはりシークレットエージエントであることを隠して、一般市民のふりをして秘密に買うのが得策とスパイカメラ人類の間ではとりざたされている。

2008年9月12日 (金)

7年前の今日

ナインイレブン。
7年前の今日は忘れられない。マンハッタンは今朝の東京のような快晴の朝だった。
そのとき、バイエルンからほど近い、フリードリヒスハーフェンの安宿にいたのである。パナソニックのルミックスLc5の広告と雑誌キャンペーンの仕事で、前夜、アフガンはカブール上空を夢うつつに過ぎて、9月11日から2週間の撮影が開始された、その矢先だった。

相棒はミッレミリアの出場経験もある、Pバッハで彼とは長年の付き合いだ。なにしろ、68年のプラハの春を経験しているジャーナリストである。
そのPと10日でドイツの中央部だけを5500キロも走行したのだ。

午後7時にホテルの下のバーで落ち合う約束が、5分前にドアを激しくノックするのがPである。「なんだ、、、まだ5分前じゃないか」と言ったら「チョートク、戦争だ、、、、TVを見ろ!とPが部屋になだれこんできた。

二人とも無言で、TVを見た。ツインタワーが燃えている。
よし!わかった、下に呑みに行こう!
かろうじて、その言葉だけが自分の口から出た。

階下のレストランは混雑していたが、客は誰もその燃えているタワーについて話題にする者はいない。そこから避けて通りたいのである。

翌日から、われわれのツアーの行程は大幅に変更された。老練なジャーナリストPの意見では、次の標的はフランクフルトだから、あそこは行かないほうが良い、というのである。
納得の行く話しであって、帝国主義の牙城はツインタワーの次はフランクフルトの金融街であろう。パリでもローマでもない。

あの時の体験は忘れられない。長い行程の走行で、東京では絶対に行かないマックで休憩することもあった。ジャンクフードを手にテーブルに座ると、眼の前の巨大ポスターはもう存在しないマンハッタンの象徴、ツインタワーの夜景なのだ。
あれはカールマルクスシュタットのことだった。

9月末に東京に戻って一夕、野村総研のリチャード クーさんに会った。カメラの馬鹿話をするつもりが「チョートクさん、それどこじゃないのよ、ぼくはあの時、ツインタワーで会議していたの、、」とのクーさんの話し出しで、彼の死線を越えてきたストーリーが語られることになった。

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2008年9月11日 (木)

火曜日 350と700

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先週の常滑ロケは終始雨だった。
初日の火曜などは、マリオットのガラス箱の中で熟睡していたので分からなかったが、大洪水だったとあとで青山から聞いた。
それでそのあと、金曜まで悪天候にたたられた。

火曜は青空のカイザー晴れ(これはウイーンの言い方だ)であって、連載関係の撮影に出かける。
大昔のフォトエージエントカメラマンさんの欧州の名所旧跡はかならず晴れていなくてはならなかった。それは観光のちらしになるのだから、快晴は必須条件なのだ。

そういう実用的な目的だけで快晴が好まれると思ったら、巨匠フリードランダー先生に向こうで会った時、「やはりモノクロの画面は晴れていない」がただよっている。

それで快晴をねらって撮影に出る。
カメラはD700だ。来週からのロシアレニングラード行の練習のつもりである。間に入っている旅行会社さんのリクエストで機材リストを製作せねばならない。大昔、カルネを1度だけ作ったことがあるが、普通のスチルカメラで機材リストとは大袈裟で結構である。 なにか大撮影という感じがある。ロシアに変わったようなことを言っているが、案外に昔堅気である。ソ連邦は不滅なり。

レンズは名古屋から持参の55ミリf1、2をつける。同じレンズは「チョートクぼくのカメラたち」の中で、フランス製の16ミリ撮影機についているのだがそれを探すのが一大事業なので、1万円で買ってきた。
ぶろぐの書き込みで、非AIレンズはD700には付けにくいにでは、とご指摘があったがちゃんと装着できた。

もともと絞り開放で撮影しようと思っていたのだ。25年前に感度100のフイルムで、ニコンSPとかキヤノン7とかにf1、1やf0、95のレンズを付けて日中の日陰を撮影したらそれが面白かった。その真似であるが、当時はメーターなど持っていないから、勘である。

D700にf1、2で、開放で絞り優先ならオートで使えるのだが、考えてみれば、往年のFのように勘で露光を決定すれば何の問題もない。しかもポラロイドカメラが内蔵されているようなもので、すぐに結果が分かるから気に入らないのなら撮影しなおせばよい。

500カットほど撮影して結果は満足。普通なら感度200で開放で撮影。地下鉄内は感度1600で。

エスカレータを昇る時に、ソニーのα350であろうか、眼の坐った男の子が「もうのぞかなくてもいいんだよね」という広告を見る。
この広告が面白いのは広告を伝達させる強制力の絶大な暴力があることだ。エスカレータ上では視点は周囲しか見ていないのだから、その広告効果は大きい。これが雑誌だとまず1秒も見ていない。
もし東京メトロがこれを駅張りポスターなみの掲載料をとっていたら、問題だ。代理店に騙されているのだ。あと、100倍の請求をしてもいい。
「もうのぞかなくてもいいんだよね」とは後年のカメラ広告の名作あるいは、迷作コピーの代表になることは間違いない。
「もう一眼レフなんていらないんだよね」という意味であるからだ。
そのいずれであるか、2008年の今にはまだ見えていないから、カメラビジネスは困難なわけである。

これまでカメラ人類がつちかった、一眼レフの特徴をこのコピーが一気に払拭してしまう。それなら、最初からコンパクトデジカメでよいじゃないか、というわけだ。
一眼レフの販売ビジネスはかくも「れんごく」の中にあるのだ。
エスカレータのお客さんは「ああ、そうか、一眼レフだけどもうのぞかなくてもいいんだ」てな、わけで、そのままビックカメラの売り場に行くわけだ。

それにしても、「のぞかないといけない」昨年のPMAで話題になった三角頭フルサイズのα900の登場で
戦国時代になればまた面白い。


2008年9月10日 (水)

KCチョートクカメラコラム デジタルカメラ ソニーα900

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラ 三角ペンタプリズムα900の登場

さっき、ヨドバシのメールで知ったのである。
http://www.yodobashi.com/enjoy/more/i/92585180.html
最近の経験では、ヨドバシの「報道解禁」の一報が一番速い。

カメラ画像で見た限りでは、例のペンタプリズムがなかなか精悍であって、往年のニコンFみたいだ。ただしプリズムは交換できないのは時代だから仕方ない。

ソニー最初のフルサイズのデジタル一眼レフだ。
フルサイズでぶれ防止機構、フルサイズのファインダーが売りであろう。
α350みたいに、不要なライブビューを捨てたのはえらい。

これで10月末の発売で33萬というのが、頭痛の種になる人も多かろう。
型番は900番台であったのは700の上位機種というわけで、他にフラッグシップ機が用意されているということなのだろうか。

実は8月末に内覧会があったのだが、その重要メールがジャンクメールに紛れてその機会を逸したのである。
しかし、事前に見せてもらってびっくりするよりも、ヨドバシのメールでびっくりした方が「びっくりのしがい」があるというものだ。

今から出かけるので、後でまた。

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★銀塩クラシックカメラ レニングラードの故郷のサンクトペテルブルク

1950年代後半、冷戦が一番厳しかった当時の、ソ連製カメラの最高峰がレニングラードだった。スプリング式モータードライブで実像式レンジファインダー、当時のモスクワの労働者の給料が180ルーブルくらいであったのに、レニングラードは500ルーブルに近かった。市民が「金を出せば買える最高のカメラ」だった。

金さえ払えば、というのは当時のソ連では金を出しても買えないカメラがあったからで、FSー!と呼ばれる、300ミリf4、5のレンズのついたフェドにミラーボックスを付けた偵察用カメラなどは赤軍のそれ用とか、高級官僚への贈り物だった。ニキタ フルシュチョフはそのFsー1の「誇り高きオーナー」だったが或日、その機材を調整のため、モスクワ近郊のクラスノゴルスクに行き、かのカメラがすでに製産中止になっていたので、急遽、ゼニット一眼レフに300ミリレンズのつけたのを製作させて。これが後のフォトスナイパーである。

話しを戻すと、革命の聖地であるレニングラードのその名前をとった、ソ連最高峰のカメラは1957年のブリュッセルでグランプリを獲得している。レニングラードは今はサンクトペテルブルクになってすでに20年近く経過している。
ソ連がまだレニングラードと云っていた当時のサンクトペテルブルク上空を飛行機で通過している時に、同じ名前のカメラで上空から偵察撮影をしたこともある。大昔のソ連のアエロフロートは飛行中に双眼鏡を取り出しただけで、乗務員が飛んできたし、空港でカメラを取り出したら、私服が寄ってきたりしたものだが、さすがにソ連崩壊後はそういうこともなくなった。

ところが、レニングラード上空を飛行している時には、なぜか天気が悪くて下界を見晴らすことができない。
レニングラードは新しい街である。たかだか300年ちょっとだ。それで、レニングラードの開市300年を記念したレニングラード(これはカメラ)を持っていた。
特別にカメラそのものには刻印などなかったけど、その元箱には立派な装飾がほどこされていた。

一眼レフのフルサイズ問題

デジタル一眼レフはAPS-Cサイズで十分とおもっていた。事実、ソニーα100と200で仕事をして、それで問題なしである。それにレンジファインダー系のエプソンRーD1sを使って、ポケットにはR10が入っている。

自分流の使い方があって、仕事の場合当然だけど、ライカとかニコンSPなどは持参しない。フイルムを入れるカメラ派「楽しみのためにある」のだから、仕事の撮影などには「もったいなくて使えない」わけだ。

この前の常滑トヨタ名古屋金しゃちツアーは、アサヒカメラの11月号と「ローライワークショップ」(えい出版)のための撮影であるが、これは仕事というよりも楽しみの撮影であったから、金色のローライ3、5Fを持参した。銀塩カメラの楽しみの場合、ポケットにコンパクトデジカメがはいるという、フイルムXデジカメコンビである。この場合にはデジタル一眼レフは持参しない。

昨年の1月のアムステルダムのやけに寒い朝に撮影した時には、間違って、ローライフレックスとα100とを同時に持参して撮影した。この二つのカメラは撮影時の空間認識が異なるので、撮影が終わってからやけに疲れた。

大昔の写真家はライカとローライの二眼レフを同時に使用した史実はエバンスでも名取洋ノ助でも見える通りであるが、これは銀塩のサイズの違いという意味で、共通項があるのであって、デジカメの一眼レフとローライというのはどうも「食い合わせ」が悪いのではないが「撮り合せ」が悪いようなところがある。

まあ、一眼レフはAPSサイズで十分と認識していたところに、D700が登場してそこで感じるのは、フルサイズの長所というよりも、前から持っているニッコールの旧レンズが使えるということだ。これは一種のレンズに対するノスタルジーなのである。

それまで眼に馴染んだ28ミリはそのように、50ミリは50ミリの視覚で撮影できるのが単に嬉しいのである。画質に関して云えば、それはAPSよりも定量的には優秀なのではあろうが、自分のような印刷物とかウエブで仕事している人間にはAPSの一眼レフで十分だ。

この前、同級生の青山君ともっぱらその手のデジタル一眼レフカメラサイズ談義になった。
結局、デジタル一眼レフのサイズ闘争は「対社会的な体裁」の問題に貴着するという点で一致した。
駆け出しのカメラマンなら、フルサイズのデジカメで武装していないと、「相手にされない」ところがある。
それだけの問題ではあるのだけど、それゆえにこれは大問題なのだ。

あたしのように、仕事の発注者がGRDの大ファンであったりすると、理解が得易いのだが、普通はα200だって「そんなアマチュア向けの安い一眼レフで大丈夫ですか?」と云われる。そういうクライアントは写真が分かっていないのだ。

作例は文句の出ないように、フルサイズのデジタル一眼での撮影だ。眼前の隅田川。
レンズはコシナレンダー75ミリ。このレンズでリスボンの夕暮れを撮影したのを思いだす。あれはニコンF3での撮影であったが、当然ながら、D700でも立派に使える。

メーン機材のα200はCCDにごみがついた。目下、メンテナンスに出してある。
APSとフルサイズの差異は、フルサイズの方がごみが目立ちにくいということもある。これはフルサイズの利点だが、誰もそんな話しは書かない。

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2008年9月 9日 (火)

五百萬

_mg_0627s MJチョートクカメラ日記から開始して、KCチョートクカメラ日記になって、1年。

カウンターを見たらもうすぐ、500ページビューに達しようとしていることがわかった。

本ブログはもともと、上級カメラ人類とその業界関係者さんのためのウエブマガジンのつもりであるから、初心者さんがいきなり見ても何のことか、わからないと思う。要するにライカM3とMPと書いてあっても、その内容の違いを読者さんは最初からわかっているとこっちが勝手に理解しているので、おの説明はない。そればかりか、かなりわかりずらい表現もあると思う。だからその方面の基礎知識はほかのウエブなり、市販のライカ本で知識を得てもらいたいわけだ。

そういうギョーカイ向けの「狭いブログ」のつもりであったが、最近は上げ潮傾向にて一日で4000ページビューを超えるようになり、それが継続するようになった。

感謝。

KCチョートクカメラ日記の1年を振り返るに、デジタルカメラの進化はさることながら、その先の方向性でかなりの模索が進行しているのが面白い。

今まで、「親の遺言でデジタル一眼レフは使わない」などと勝手を申していたが、時代の関係上、それも使うようになり、それなりの便利さは理解できるようになった。

しかし、今まで、ライカ(この場合はフィルムを使うライカ)に40年なじんできたその経験はやはりライカからデジタル一眼レフに移行するのを躊躇させている。

M8の場合、かなり初期にこれをテストする機会があったし、アサヒカメラの特集でもテストさせてもらったが、あれはデジタルカメラだから「無制限にたくさん撮影可能」なのがどうもよくない。便利に使っているエプソンRD1もそうなのだ。ああいうRFカメラは昔の生態系が自分の身についているから、36枚撮影したところで、いっぷくしてなにかと考えながら(何も考えないのも、その思考のうちだ)フィルムをM3のノブで巻き戻すところに妙味がある。

最近のデジカメの最大の欠落点は「フィルムを巻き戻す楽しみがなくなった」ということに尽きる。

先週のローライフレックスの感傷ツアーでも久々にフィルム装填の妙味を味わった。それに関して印象深かったのは、最近の120フィルムのロールはバックペーパーがあまりにソフトで装填のしにくい点だ。

とくに、ローライフレックスのようなフルオートマチックのカメラだと、2本のローラーの間にフィルムを通すという儀式がある。これがやりにくい。

フィルフィルムの新案アイデアの「舐めなくも」シールが貼れるとう、新システムにもなかなかなじめない。われわれは、120フィルムのシールの糊の味をミシュラン的に評価する者である。思えば、カメラ関係で味覚が関連してくるという方向は実にこの120フィルムのエンドのシール舐めしかない。

常滑に120フィルムのシールを舐めに行った。この重い事実はそれだけで、「げー術」なのではなかろうか。

上の画像(同級生青山撮影)を見るに、常滑街道で時雨て、自分の後姿も時雨れてゆくわけだ。

RED DIGITAL CINEMA のTシャツと金シャチのローライフレックスの不釣合いなことおびただしいが、そういう時代をくぐりぬけてこそ、新時代の到来があるのであろう。

2008年9月 8日 (月)

35年

Rimg0772 久しぶりにヒルズの49fから夕方の雲を見る。

カメラはR10。

常滑から佃にもどる。今回は「二眼レフ郷愁の旅」であった。
メカスのリトアニアへの郷愁の旅は、28年ぶりであったのだけど、こっちはトヨタに行ったのは35年ぶりほどであるから、それなりの郷愁は満足されたわけだ。

名古屋からの帰りは新幹線のグリーンで箱に5人しか乗っていなかった。これが14000円ほどで、行きはきらきらバスで2900円であったから、新幹線の普通の往復よりも安い。しかも興がある。
今回はもと、NDCの同級生に会合したわけであるが、指折り数えて約35年。当時の青年が還暦過ぎになるのは時間経過で当然であるが、大昔のじじいと異なり、最近のじじいはかなり長く使えるというのが分かった。

青山とは数日にわかって市街地を20キロ弱の行軍をしたわけだが、ちゃんとついてくるのである。あの写真部(福田和也とその一味の)の場合、10時間の行程中の酒保休憩が4回は入るのでその方が楽かと思い気や、案外にアルコールの入ったセッションの方がこたえる。
今回は途中にある自販機で水分(ノンアルコール)を補給しつつのゲリラ活動であった。

あれは10年近く前だが、都会写真の巨匠の呑川とそのグループと一緒にモノレールの羽田界隈をたった一駅真夏に歩行しただけなのに、そのセッションに自販機がないので、リビアの砂漠体験をしたことがある。最後は羽田の大鳥居あたりまで行った。すなわち、かの岡村昭彦が羽田闘争を取材して、ライカM3のブラックにズミルックス35ミリf1、4を首からぶらさげ、もう一台はニコンFのモーター付きで、105ミリから200ミリのレンズ交換をしようとしている、石黒健二撮影のカットがあったが、あのM3のブラックに35ミリ付きは、つまり次回のen-taxiに登場の平カズオと同じライカなのである。
そのライカM3などは今でもまったく古い気分ではなく、かえって新鮮なデザインに見えるのがライカのライカたる所以であって、逆にM8などは今度のフォトキナで新製品が登場したら、一挙に古めかしく見えるのではないか。

ニコンD700がなかなか暗い場所で撮影が可能なので、今回の名古屋行きでは、55ミリf1、2を1万円で手にいれた。それを早速D700に装着。このレンズはAI改造ではないが、D700のような高感度で撮影できるカメラなら、f1、2は最初から開放で撮影するつもりであるから、開放しか使用しない。それでよいわけだ。

つまりNDC時代の同僚の若かった時代のニッコール(あの当時のニッコールのブランドの輝きはキヤノンやタクマーやロッコールなどは比較にもならなかった)レンズが今のD700にそのまま使用できるというのは、妙に嬉しいことなのである。云うまでもないが、そのオールドニッコールはわれわれの世代の象徴であってそのクラシックレンズがモダンなカメラについてそれで機能するというのが嬉しい。D700がかんれき世代に人気があるのはそういう心理的背景も無視できない。Rimg0751

2008年9月 7日 (日)

常滑(とこなめ)

Rimg0652Rimg0588Rimg0648 Rimg0590 常滑は雨。

WIKIで常滑を検索したら、こういう有名人が居るそうだ。知らなかった。
人口は5万人ほどであるという。道理で昨夜の夜道の暗さの理由が分かった。それに星も良く見えていた。

この中で、顔見知りはピーナッツだ。4chのしゃぼんだまホリデーという、日曜の夕方の番組は牛乳石鹸の提供だった。モノクロの14インチで見ていたが、当時はカラー放送はあったのか。

半日かけて、12時に東山から来た青山と常滑徘徊開始す。

思い出したのは、ハノイの近郊、バッタンバンだ。あそこも焼き物の街だ。景徳鎮は行ったことがないが、バッタンバンは平坦な土地である。

一方、陶器の欠片が投棄されていて、そこらに散らばっていて、しかも丘が継続しているという意味では、アテネに似ている。

ゼウス神殿の前の空き地を散策すると、古代の陶片が落ちている。それをポケットに入れて持ち帰ったのだが、大事にしすぎて仕舞い無くしてしまった。

常滑もそこらここらが茶碗のかけらと割れ土管で「割レタノン神殿」の丘が形成されている。そこここの郵便ポストの上やら、橋の上などに猫とか狸とかの陶器の彫刻が並んでいるのは、実に目障りだ。作り物の猫に辟易していたら、八百屋の段ボールの上に「生の猫」を見て、視神経がほっとする。

ランチは暴れ川のそばの食堂で、ポークチョップ950萬圓。そのデコラテーブルの下に敷いてある印刷のコピーがいやにモダンである。糸井某Rimg0618のしわザか?

巨大な地図の板があるのだけどそれぞれの珍奇物件の場所が地図上に示されているだけで、あまり役にたたない。そのように地図の役にたっていない看板なので、逆にその存在感は際立っている。

東西ベルリンの国境にあった「YOU ARE LEAVING WEST BERLIN」の巨大警告看板を思い出す。

常滑の窯場のラビリンスはかなりのレベルであって、いきなり想像もしていない箇所に出たりする。ようするに「猫街」状態が楽しめる。

秀逸なテーマパークである。しかも路上はほぼ、無人。

青山とお昼12時から午後6時まで延々、常滑の道に迷う。この日、ローライ3、5Fの撮影本数13本。

Rimg0634 Rimg0638 小学校の塀の前に延々と並んだ児童のてびねりの小品が一番、心にしみた。

ちなみに、上ははりねずみ。下は針千本である。

カメラジャーナル時代のサイン会で事情を知らない人が「先生、おこぜを描いてください」とか「イグアナを描いてください」とリクエストしてきたことがあった。正しくはハリネズミである。

学校帰りの小学校5年生くらいの男の子が「おっ、あのカメラ、かっこいい、金色、、、」と誉めてくれた。あたしの金鯱仕様のローライのことを言っているのだ。

2008年9月 6日 (土)

豊田(トヨタ)

Rimg0475 木曜日。

青山の日産の乗用車にて豊田に行く。

NDC(日本デザインセンター)の同期の高木松寿に会う。高木はトヨタの仕事を長くしていたが、最近では豊田にも住んでいるらしい。

駅前の高木の仕事場の近くに40年前と変わらぬ(その雰囲気の)トヨタ屋食堂あり。そこでランチ。あたしの支払ったのは990萬円。この景気のよいお店のおやじさんのお勘定カウントの言い方は東京でも大昔は良くあったものだが、絶えて聞かなかった。

70年代が戻ってきた。

高木の仕事場にて、青山の日本カメラの今月号に掲載の「夜の犬の散歩の時についでに撮影したスナップ」を見る。青山の愛犬ななチャン号は最近、17歳にて逝去のよしにて、それからは夜の散歩をしなくなったという。

愛犬の散歩に形を借りて、そこで夜間スナップをするのは、闘争的写真家が「官憲」を欺く格好の隠れ蓑である。それでなければ、交番で宿直のポリスなどをスナップできるはずがない。その「夜のおまわりさん」のカットは立て位置で良かった。片岡義男さんの作品が「東京縦画面」なら、青山の作品は「名古屋縦画面」。

これが赤塚不二夫の眼のつながったお巡りなら、「本官の肖像権を蹂躙するのか!」と、即刻、45口径のレボルバーで撃たれてしまう。

横木あらおは最近の夜間撮影で、自転車でジッツオの大形三脚を持参して夜間撮影中、カメラはシグマDP1でなんどか深夜に職務質問にあったとは青山の話だ。
そこにお散歩犬を帯同していれば、そういうことにはならなかったと思う。

高木の「15年前の新作」はパリで男の子のモデル2名を使って撮影した、車と人間の実に不思議な作品だった。そのトーンはモノクロなのに微妙にうねっていて背後の撮影空間が透けて見えるのだ。まず「表現のための仕事」はそのくらいのゆっくりペースが良いのは自明のことだ。

今度出す、「ローライフォトワークショップ」(えい出版)でも、1972年頃とか1980年代の写真が沢山出てくる。あ、それで今回の撮影行はアサヒカメラの11月号の連載と、その本の仕事というわけだ。ローライ1台だけ(と、言いたいがブログ用にR10を持っているのはこれは仕方なし)で、名古屋を徘徊していると、濁った視神経が洗われるような気持ちがする。

高木の作品で、あれはシトロエンの2cvだったか、例の戦前のギャングが映画だとかならず乗っていて、そこから機関銃を乱射する、あのクラシックな車が二台並んだガレージにパリジャンの男の子がただ二人立っている画像あり。

これはイナガキタルホ、というところだ。

高木の案内にて、1970年代のトヨタの仕事の古戦場ランドマークを周遊する。

Rimg0417 そこに2月はかんずめになっていた、外山スタジオの入り口はすでになく、変電設備になっていた。

あの当時、定宿だった矢作川の水源荘もすでになく、ちょうどブルトーザーが地ならしをしているところであった。水源荘のおかみ(水源かあさん)も故人になられたという。

その激戦地だった水源荘の跡にて記念撮影。

まず、太平洋戦争の遺骨収集団というところだな。

左は高木少佐、右、青山軍曹。高木少佐は横木(あらお)中佐の親友である。高木のカメラはGX100。あたしのはR10。高木は横木が最近出した、シグマDP1のムックを示す。NDC時代は「高木に横木」というのは呼びやすいのでもっぱらセットになっていたのを思い出す。

Rimg0439 その宿屋、水源荘はもうないのに、その先のダムの脇にあって掘建て小屋めいた、そこで氷あずきを喰ってモスキートにやられた氷屋だかよろずやだかの小店は立て替えられて(と、言ってもすでにぼろぼろ)まだ存在した。人間と建物の行く末は分からないものである。

そのまま。ドライブ。矢作川を遡上してトラス式の赤い一車線の鉄橋をわたる。数年前に新規に出来た、トヨタスタジアムの前を通る。

豊田駅前は一新されて、どっかの地方駅のようになってしまった。白樺という名前のあたしの著書を沢山置いているカメラ屋さんに行く。社長と歓談。彼もローライスタンダードの愛用者。これが一番良いという。なかなかのカメラ人類だ。

TOYOTA。この田舎町が世界の車世界のトップとはちょっと信じられないような、鄙の里が豊田である。比較するに、デトロイトもシュツットガルトもミュンヘンも総じて大都会であるのに、豊田市は挙母市の当時からあまり変貌していないように見える。

回想に耽り、40年前を想い、年寄りの繰り言を繰り返したので、出発時間遅くなり、新月を眺めながら次の宿営地、常滑に青山の車で向かう。

常滑駅前のホテルに宿泊。青山はそのまま名古屋は東山の家に戻る。

2008年9月 5日 (金)

金山(かなやま)

Rimg0152 Rimg0153 水曜日。
例によって、青山撮影隊長に12時すぎにマリオットで会って、しゃちほこ撮影ツアー。
マリオットから本日の宿営地である、金山のボストン美術館の上にある、ANAホテルにチエックイン。

そこから地下鉄の一日乗車券の助けをかりて名古屋を徘徊。
金山は、昨年10月に中部国際空港からエアフランスでパリ経由、プラハに行った時(その詳しい次第は2007年10月の当ブログ参照)に、マイレージが半分でCクラスに乗れるので、その選択になったのだが、その時は中央高速で名古屋に来てそれでセントレアの空港に一泊した。
こういう変わったルートで欧州に行く東京在住者はあまり居ないかも知れない。

その時、空港行きの電車が停車したのが、金山なのである。
むろん、電車の中から見ただけなのだが、かなり空間が詰まっていて撮影できそうな街に思えてた。
その先の空港駅の手前の、常滑も撮影すると面白そうだと感じていた。そのルートは今年の3月の日本郵船ライラの撮影で、この時には飛島埠頭から深夜、常滑と空港の眺めの景観に接したわけで。あれが今回の撮影行のロケハンと言えないこともない。

青山が大須の観音さまで亡き父上もかよったミソカツ屋に案内してくれたが、定休日。

それならばというので、その界隈の古墳のある近くの中華屋に案内してくれたら、ここも営業しておらず。この前の岡山行きと同じで心当たりの行き先が全部お休みという状況に追い込まれる。

いまさら、そんなことでは驚かないが。

Rimg0159 それで「飛び込み」にて、その近くの角地の平屋のお好み焼き屋にておかあさんに「モダン焼」を焼いてもらいビール。

大須演芸場の前で、通行人のハッセルブラッド人類が声をかけてくれた。そこでローライとハッセルがいかなるものかに付き、路上ワークショップ。

撮影中に青山から借りているローライ3、5Fを約35センチの高度から過って落下させる。業務上過失傷害だな。ローライを落としたのは還暦すぎて初めてである。
撮影には支障なし。
先週にはR10を魚河岸で落下。今回はローライを落下。
老人力のなせる特技だ。

上の画像は青山達雄撮影。カメラはR10。

回想するに三馬鹿アシスタント時代にカメラマンノバック(そういうニックネームの車撮りの名人の先輩がNDCに居たのだ)に笑われていた時代からすでに40年が経過したのだから、じじいになるのは致し方ないが、青山と歩いているとお互いにまだ20代の錯覚が生じて身の程を知らないバカ歩きになるのは、よくない。昨日も20キロ弱の歩行であった。西安の城趾以来のバカ歩き。

駅周辺の界隈を撮影。五条橋の川の風情の味わいよし。反転された京都という感じあり。
駅裏のその先の中古カメラ店にて、ニッコール55ミリF1、2を買う。これは今月後半のロシアにD700用として持参予定。

昨夜は、名古屋地方は大雨であったそうだが、自分は「窓がはめころし」のマリオットに居たのでちっとも気がつかなかった。
その雨の後の夕日が奇麗な西に向かう一本道をどこまでも歩いた。逆光につられて沢山、ローライとR10で撮影をした。
競輪場の脇からなんとか言う巨大な鳥居のある神社の前を斜めに横切り、中村公園に出る。

メトロにてまた中央に戻る。

Rimg0339 トップカメラをひやかす。岡村昭彦の「シャッター以前」を1000円で買う。

あたしの著書がずらりと並んでいる。ライカ少年隊を遭遇してM3のSSの意味を聞かれる。ほう、こういう連中がクラシックカメラに興味を示すのはよい状況だ。日本のライカの未来は明るいなあ。

その前の晩も来た、栄の古びた飲み屋で青山と歓談。
青山はそのまま、遠回りにもかかわらず、また金山まで一緒にきて「世界のやまちゃん」という東京でも流行している、手羽先屋のキンキーな看板を見せてくれた。

2008年9月 4日 (木)

マリオットのバスタオル

Rimg0142 以前、京都に行った時には駅前のグランヴィアに宿泊した。空港のホテルにはトランジット以外に宿泊しないが、鉄道の駅のそばのホテルは便利である。

言うまでもないが、空港は大時計の周辺にある。ちょっとやばいスラムの近くならまだ良い方で、周囲に何もない場所が普通だ。その点、駅は大抵は街のど真ん中にある。

一部、コインブラとか、ブルージュのような古都は最初から街の中に作られていない例外はあるが、大抵は駅は市内の便利なところにある。

だから、駅前のホテルが良い。東京駅のステーションホテルは雑文書きには格好の場所で、ホテルの中にバーカメリアもある。原稿を書いたらあそこに行こう、というのは励みになる。
以前はヒルズで仕事して午後5時になったら50fのライブラリのバーで一杯という楽しみがあった。
しかし50fのライブラリーのバーは3年前になくなったし、ステーションホテルは一昨年に改装になってしまい、当分はだめであろう。

仕事で、名古屋にきた。
駅前の、というよりも駅の中に生えているタワーである、マリオットアソシアに宿泊。
マリオットというと敷居はあまり高くないが、17000円のネット価格は利用価値がある。
22fの角部屋の開口部のやたら長い部屋に落ち着いた。眼の前に名古屋城がミニチュアのように見える。

70年代には名古屋に1月も泊まって、トヨタに仕事に行った。女子大小路というバー界隈には詳しくなったけど、名古屋城がどこにあるのかまるで分からなかった。
その「海老フライ」の象徴に遠景ながら初めて対面できたので感激した。

マリオットの22fのスタンダードダブルは天井の低いのが、ちょうど佃の部屋のようで落ち着ける。
リネンもベッドも快適だが、バスタオルの質がどうも貧弱だ。この前の香港とか広州のホテルのそれよりも薄いし、6月に行った西安の3つ星ホテルの100平米のスイーツは一泊5000円だったけど、そのホテルのタオルの方がずっと上質であった。
ホテルのバスタオルの肌触りはベッドのリネンより気になるものだ。
リネンは寝てしまえばそれに慣れてしまうのに対して、バスタオルは一瞬しか肌に触れないので、逆にその印象が強烈で記憶に残る。

バスタオルの品質の管理はホテルにとって、燃料のサーチャージのような問題なのであろうか。スタンダードルームと高級な部屋ではちゃんと差をつけているのであろうが、タオルの品質の差は、客が最初にマイナスイメージで受け取ってしまうので、戦略上は損である。

駅上のマリオットは眺望は快適だが、バスルームのお湯の出が悪い。これは不可解だ。どの程度にお湯の出方が悪いかと言えば、プラハのアトリエの貧弱なバスルームのシャワーの出の悪いのと同程度なのだから、まず、断水一歩手前というとこか。

Rimg0140 本日より名古屋。持参したのは二眼レフのローライ3、5fである。これはアメリカのカジノで使っていた「金ピカ」バージョンだ。

左の3、5fはクセノタール付き。

これは名古屋の旧友、青山達夫から借りたカメラ。

2008年9月 3日 (水)

KCチョートクカメラコラム

KCチョートクカメラコラムRimg0149

★デジタルカメラ

ローライミニデジ二眼レフで旅にでる

仕事で名古屋からトヨタ、常滑方面に二眼レフを持って旅している。
ローライのミニデジタルカメラは、本来のローライフレックスを実に良くまねている。そのバヨネットマウントの精密な造りの周辺の模倣の仕方は感心するほどであって、考えるに本物のローライのローライらしさを蒸留した感じがする。ポーランド製の95度のウオッカみたいだ。
それで、そこそこの画像でほとんど無限の枚数が撮影できて、しかもバッテリーはリチウムなのである。

本当はこれは二眼レフではなく、CCDの画像を観察しているリアルビューなわけだから一眼レフと呼びたいところであるが、実に二眼レフに見える。こまるのは、長年、ファインダーを覗いていた身にしてみれば、ファインダーの像が左右が正しいのが使いにくい。これで本物志向で左右が逆のファインダー像だともっと楽しめる。

ついでのことに、12枚とか24枚撮影したら「フィルム交換タイム」というのを作って、1分時間を置かないと、継続して撮影が出来ないというのはどうであろう。

かなり前、赤瀬川原平さんが「どうしてデジカメの二眼レフはないのであろう?」と、トマソン的な疑問を呈していた。
まったく同感であって、レンズ交換式のデジタル二眼レフは是非欲しいカメラのひとつだ。
そういうのは宗家のローライで出してもらいたい。むろん、サイズは6x6と言いたいが、それではとんでもない価格になるので、CCDはずっと小型でいい。
その方が携帯にも便利だ。
それで、画面は当然、正方形であって、マミヤフレックスプロみたいに、2本のレンズごと交換ができるのである。

ローライが作らないのなら、往年のミノルタオートコードをデジカメ化した、ミノルタオートコードDというのでもよい。ただしこの場合、ブランドをソニーにしてしまうのは、荷が重すぎる。ソニーが出す、ミノルタブランドのデジタル二眼レフというのがよい。

@@@@@@@@@@@@

★銀塩クラシックカメラ

ローライフレックス3、5が二台

名古屋に金色のローライ3、5を持って、金のしゃちほこを撮影にきた。ただしそれでは機材が1台で寂しいので、旧友の青山達夫の同じモデルを滞在中に借りたのである。
青山くんのローライ、田中君のローライである。

あたしの持参したのは、プラナー付きで青山のはクセノタール付きだ。どちらも世界に冠たるツアイスとシュナイダーの銘玉である。
その写りの良さは甲乙つけがたいのであろが、ちょうど良い機会なのでその両者で使いくらべをすることにした。

世の中のローライ好きのおとうさんはお金持ちだから、プラナーのf2、8付きでないとローライではない、などと申される向きもあるようだが、そんなことはない。
2、8fに対して、3、5fはプロフェッショナルな感覚の機材である。

25年ほど前に、ローライマリンというのを買った。これは3、5f専用の水中ハウジングなのだ。別に水潜りをするわけではないが、部屋のインテリアに手にいれた。
HAASという専門メーカーの制作したもので、実に立派なハウジングだ。最初はこれに水を満たして、その中で金魚を飼おうと真剣に考えたこともあった。
しかし人類の文化遺産である、ローライマリンを破損してはならぬと考え直した。

自分が3、5fの方が好きなのは、2、8fは高価で手が出ないという裏の事情もあったが、レンズの明るさがf2、8とf3、5とでは実にわずかな差である。暗い場所での撮影は2、8がわずかに有利だけど、何ということもない。
6x6サイズの一眼レフで80ミリで」f2というのがある。これはノリタ66というカメラの標準レンズだ。

名古屋からトヨタ、そして常滑方面を2台のローライで旅をしているのだが、撮影済みのロールにはちゃんとPとか、Xとか書いておかないと、区別が出来なくなりそうだ。

リコーR10が魚河岸で落下

「チョートク 海をゆく」は日本郵船の氷川丸の改修とリニューアル、それに七萬五千噸のコンテナ船ライラをテーマにした1000頁の写真集である。
7年前に出した「チョートク ぼくのカメラたち」も同様なサイズの1000頁本であって、それに今度出す予定の「佃日記」も同じ装幀にするのなら、3冊をまとめると枕には高すぎて使えないが、踏み台とかちょっとした腰掛けにはなりそうである。

その「チョートク 海を行く」では、かなりのセクションをリコーR7で撮影したことは、前に触れたが、その理由はもう一台のR8の方が修理に入っていたからだ。
R7の次ぎがR8は分かる。

その次ぎがR9ではなく、R10であってR9は欠番というのはなぜなのか分からない。大昔にオリンパスが画期的な一眼レフM1を出したときに、当時のライツに文句を言われたので、型番をOM-1にしたのは、もはやカメラの古老しか知らない過去の悲話なわけであるが、その伝で邪推すると、ライカ社がリコーにR9はまかりならんと言い出したのであろうか。

いや、そんな時代錯誤の文句を天下のライカ社が言うわけもない。だから、R9が欠けて、R10になったのはその背後になにか秘密がありそうだ。

そのスキップしたR8の次ぎのR10を使用開始した。R8とR10の性能の違いはあまり良く分からない。ただ液晶が大きくなったのと、自分のようなもともと三半規管のずれている人間には人工水平儀は便利だ。何か飛行機を操縦している気分になる。

過日のNHKのハイビジョン番組のロケから使い出した。GRD2はよいカメラであるが、実用主義の観点から見れば、やはり高倍率ズームの方が仕事にも記録にも便利である。ちなみにNHKでロケに持参したソニーのベータカムについていたのは、プライムではなくキヤノンと、フジノンのズームレンズ。
路地裏撮影では最初に広角で全景を撮影して、その後に路地の奥行きを前後に歩行している住民の皆さんを撮影する。だから、ズームレンズでないとまずいわけだ。

この前の土曜日に魚河岸に行った。例によってR10はGパンの尻ポケットに入れた。この前まではR7はちょうどポケットサイズで、R8はやや大きすぎると思ったわけであるが、R10の時代になって、そういう個人的な身勝手も言えないので、ここはGパンのポケットの大きいのを買えば良いということに思い中った。
それで、新たにりーバイスの502を4本買った。むろん、中古品。
ライカもジーンズも中古に限る。これでR8とかR10を入れてもポケットが膨らまなくなった。

魚河岸で買いものをして、両手が塞がっているので、買った魚のショッピングバッグにR10を放り込んだつもりが、するりと抜けて下のコンクリに落ちたのである。
すぐに拾ったけど、別段、壊れることもない。そのままに撮影できた。ライカM3を1、5メーターから落下させたら、まずダメージは10萬円ではきかない。

魚河岸も近々、移動するようだし、R10の角に付いた傷はそのよき思いでになるなどと考えて、自分のその考えの甘さに気がついた。数年後に魚河岸が移転するにせよ、しないにせよ、その時にはR12かR15になっているであろう。でも、R13やR14などは縁起をかついで、欠番になりそうだ。
R1157928

2008年9月 2日 (火)

青酎

青ヶ島と云う所に行ったのは20年近く前である。田中角栄氏がなくなったニュースを青ヶ島の帰りに、大島空港でTVで見た。大島空港からはYS11で戻ってきたのであるから、かなりの昔だ。

それは何時であったのか?こんなことはオンライン検索すればすぐに分かるのだけど、あえてそれはやらないのに意味があると頑固に思っている。何年前か精確に知る必要などはない。20年近く前、それでよいのである。

最初は青ヶ島と聞いて、青島と勘違いした。これは別の島だ。羽田からジエットで八丈島に行き、そこから開通したばかりの東京シテイアイランドヘリでさらに南に40分。アエロスパシアルの8人乗りの高級ヘリであった。

伊豆七島の最南端の絶海の孤島。その先ははるか小笠原である。その時は芥川賞作家の某さんとJTBの旅という雑誌の取材だった。もともとは他の芥川賞作家の某さんとの予定だったが、その某さんの予定がつかず、一緒に行った他の某さんとに変更になった。こういうキャステイングのずれ、というのはよくあることで、それが不思議な人間の出会いというものだ。ちゃめっけのある某さんで、カメラマンのあたしの方がいかにも、作家先生の風貌で、作家の某さんは若いカメラマンという風情なので、「王子と乞食」ではないが、もともと面が割れていないのだから、お互いの立場を逆にしましょう、などと飛行中のヘリで打ち合わせをした。

青ヶ島のヘリポートは断崖絶壁上にあった。
着陸したその日はオンライン開通で郵便局からお金が引き出せるその最初の日であったので、「記念」に郵便局から1万円引き出してみた。島内を走行している軽トラックは全部品川ナンバーなのも珍しかった。

その夜は村長さんの家に泊まって、大歓迎を受けた。今はどうか知らないが、島民数は297名とかで、宿泊施設な当時はなかった。
その晩に呑んだ、焼酎が忘れられない味であった。

翌朝、村を歩行していたら、村民さんに挨拶をされた。怪訝な顔をしたら、「昨日のヘリで着いた方ですよね」と云われた。当時は人口が300人弱であったのだから、そういうわけである。

翌日から、伊豆七島をポップステップジャンプして、御倉島、神津島、新島と数泊して最終日が大島で、そこで田中さんの死去の報に接したわけだ。
御蔵島は鯨観察のメッカで、その天然水が旨いので、それをしばらくは送ってもらったこともあったが、やはり水の味より、酒の味である。

この間、片岡雪子がもときちとヒルズに来た時、片岡の持参したのが、この青酎である。往時が懐かしいというjこともあるが、それ以前にこの焼酎はなかなかいける。
その生産地に東京都青ヶ島村無番地とあるのがよい。
R1157929

2008年9月 1日 (月)

1969年8月31日

Rimg8282 8月31日はなんとか記念日である。

1969年の8月の最後の週に銀座ニコンサロンで「TODAY-TOKYO」というタイトルの写真展をした。
それが日大の在学中に開催した最初の個展だった。あの当時の東京はまだ娯楽がなかったので、ベトナム戦争反対のデモとか、銀座での個展などもまだまだ、魅力的なものであった。

40年マイナス1年、つまり39年前の大昔だ。
それがどれだけ大昔であったのか、簡単に説明するなら、当時はテレビに電子テロップというのがまだ存在しなかった。全部、文字は手書きなのである。それを複写して印画紙にプリントしたのを、TVカメラでイメージおしるこん、じゃなかった、イメージオルシコンというチューブの撮像管のついたカメラで複写する。無論、まだカラー放送なんかちょっとしかないから、その印画紙はモノクロである。

富士フィルムの出していた、テレブロというのがあった。これは「テレビ用ブロマイド紙」の意味である。
非常にトーンの眠い紙だったが、テレビカメラのトーン再現に合わせて作られている。その10x12インチの印画紙を使って、ニコンサロンで100枚ほどを展示した。
自分の写真家のスタート台である。

あれから39年経過して思うに、デジカメはあるにせよ、メーンのライカは相変わらずのライカM2であるし、フィルムだってカラーネガにはなったけどそれをCD化して、そのままモノクロ出力できるし、ライカがシステムの中心になっているのは一向に変わりがない。
この場合、M8など論外である。

こうして、8月の最後の日に思い入れがあるのはなぜなのか?それは自分でもよくわからない。
思うに、当時のニコンサロンの写真展の案内はがきには、数多くの自問が込められていて、「あなたもトライXですか?」とか「ベトナムに行く勇気はありますか?」とか雑多な青臭い質問がべたに小さな文字で白いはがきに印刷されていた。それはカタカナなのである。
それで一番最後の文句が
1969ネン8ガツ ナツハオワリマスカ?
であった。
この擦り込み現象が今、還暦を超えてもトラウマになっているらしい。

ゆえに、こんな東京の上のもくもくした積乱雲を見るにつけ、
2009ネン8ガツ ナツハオワリマスカ?

と、相も変わらず自問してみたくなる。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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